情況からの発言 8
客:ここでついでといっては失礼だけども、スガの『花田清輝 砂のペルソナ』(講談社)でやはり
花田の論争として取り上げられた『近代文学』派との、革命と人間性との対立をめぐる論争、いわ
ゆるモラリスト論争でのスガの言い分もちょいと見てみたらどうかと思う。この論争での花田の
言い分は例えば論争で書かれた次のような考えによく表れてる。
《わたしは、科学的に基礎づけられてない「神」の、「人類」の、「自己の良心」の掟を、いささかも信じ
ることはできないのである。》(世の中に歎きあり」)
こういう考えが『近代文学』派と論争になったというのは頷けるところはある。人間性というの
を軽視されてる気がするからね。そこでこの論争の後半で発表されたのが埴谷雄高の有名なエッ
セイ「永久革命者の悲哀」だった。これは本来は階級消滅を担うはずの前衛党の内部で、実は敵と
は異なるがやはり組織の内部で、また組織の内と外で、階級ヒエラルキーが存在していることを
告発したエッセイだ。《未来の無階級社会からの派遣者として感じている》彼の視点から前衛党や
そこでの偶像崇拝を告発している。奇妙なのはこの論へのスガの批判だ。
《矛盾のない統御された「無階級社会」は、革命家が存在として死んだ後もその眼差しによって
支配されることで、矛盾を生み出さぬ統御された社会たりうるのであって、そこにおいてその眼
差しが権力でなくて何であろうか。》(『砂のペルソナ』p.148)
と言うんだけど、そういう大義名分を装い内実は全然ちがうような、ソビエト社会主義のような
国家や党をあらゆる階級、権力の消滅した未来の無階級社会という架空から眺め、絶えざる否定
を行い、抗議するのが埴谷のいう永久革命者じゃないか。何でこう読めないでいて、しかもあたか
も何でもないかのように批判が書けるのか、わけがわからん。