情況への発見 5
主:「面白く読ませていただいてる」というお言葉にお礼を伝えるとともに、まだこれでやらせて
ただきたい。これでないとあんまり調子が出ないというのもあるんですが、この形式というのは
元々吉本が始めたことじゃなく、論敵となった花田清輝が既に50年代初頭にやっていたことでも
あります。例えば全集第5巻冒頭に「ホセの告白」という林達夫批判がありますが、これは対話式
の林達夫批判なわけです。既に花田はここで対話式の批判をやっていました。また、後年、やはり
マルクス研究の大御所廣松渉が著書でやっていたり、最近では吉本主義者の松岡祥男がやってい
ます。というわけで、これは色んな人がやってる。吉本より先に花田もやっている。というわけで、
一つ大目に見ていただきたく存じます。もうしばらくやらせていただきたい。
客:そこでまた始めたいんだけど。そもそもスガ秀実の花田清輝論『砂のペルソナ』(講談社)が
あのとき書かれる背景があったと思う。というのはあの時点は浅田彰をはじめ、西欧現代思想が
翻訳されて、まさに出版されつつある真っ最中で、例えばドウルーズとか、浅田が『構造と力』で紹
介したのより数年遅れて出版された。『アンチ・オイデイプス』が1986年、『千のプラトー』が
1994年、また、ジャック・デリダの場合はそれより早く70年代から日本で出版されていた。で、こ
れらの西欧現代思想というのが、花田清輝再評価に影響したように見えるわけだ。具体的には『
近代日本の批評』で花田を最も高く評価するのが浅田彰なわけで、べた褒めする。他の柄谷、蓮実
に比べてね。
で、どういう関係があるんだろうと不思議だったんだけど、『千のプラトー』とかを
読むと明らかなのが、同一性にたいする批判が原動力として根本にあって、それは確かに人間に
於ける潜在力としてある、というのは頷けるんだが、D=Gの場合、ほとんど人間は何にでも変身で
きるかのような可能が強固な哲学として考えられている。どのようにでもその場その場で変身は
可能、というのは花田清輝の姿勢と共通するし、また、一連の批評に於ける立場の自在な変更を
裏付ける、アリバイに化した疑いがあるわけだ。立場の自在な変更を可能にする哲学としてね。
浅田彰が花田清輝を高評価する背景にはそういうことがあるんじゃないか。
主:浅田と花田の共通項もあるんじゃないかな。博学で読書家である割りには根本で前衛神話を
払拭できない。浅田の場合は共産党神話というより、知的党派の僧侶、て感じだけど。
客:人間の潜在力としていかようにも変身変更可能とする、格好良く言えば同一性の無化、しかし
思想的言明に転用された場合、いかようにも変更の可能、にもなる。最もこれが露骨に出たのが
2000-2002年の例のNAM事件だったんじゃないか。最後は「俺の言うことに同意しない」という
ことだけである知識人を誹謗し続けダメージを負わせる。また、その知識人が受け持っていた
地域通貨グループメンバーに一斉脱会を勧める、という嫌がらせを始める。
主そこでD-Gの哲学的支柱でもあるニーチェの力への意志よろしく、《真理の標識とは権力意識の
上昇のうちにある》(『権力への意志』no.534)を実践しはじめた。ということにな