主:32レスさんの話に繋げると、国家共産主義で不変な規模での単純再生産はありえない
、という、これもスガの批判と同じ論理を根拠にしていると見なせる。単純再生産云々は、
あのトマス・モア『ユートピア』に付随して書かれたとも取れるわけで、それが実現でき
るか、ということよりも、あの状況で『ユートピア』に託して転向マルクス主義者が何を
記したか、ということを読むべき。不変な規模での単純再生産は抽象であり、云々というとこ
ろを問題にし続ける限り、吉本の視点、花田のあのエッセイで思わずか意図的か、書いた
ことの背景は問題にされない。つまり戦争体験、転向という軸は掴めないでしょう。あの
論争は掴めない。
客:それとあの論争の軸として、花田において共存してた、マルクス主義と日本ファシズ
ム、ていう問題もある。互換性という。これは論争後の吉本の思想に重要な問いとして
残り、考え続けられたと思うね。60年代以降のマルクス主義の党派性への批判にね。そ
れがファシズムと親近性として捉えられるという問題構成はね。その意味で吉本にとって
重要な論争だったと思うね。