吉本隆明 1924-2012

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132主客
客:ちょうど吉本でいうと、親鸞が「義なきことを義だと知ってください」と書いているところ、ま
た、「善人が浄土へ行くくらいなら尚更悪人は浄土へ行くに違いない」と言うところから、人間性と
道徳との関係を無化していきました。人間性に善だけしか認めないのは間違いというふうに。そ
うやって仏教と道徳を切り離していった。存在論としてみれば、宿命や不可避というところに
善悪を収斂させていった。そこはハイデガーと似ています。ハイデガーも『有と時』で宿命という
ところでやっぱり公共性に収斂する人間を無化していると思えるからです。親鸞では意識は業縁
に左右されていく。ハイデガーでも意識は存在に浸透されてしまう。主観性はやはりそれ自体で
は存立しない、というのが存在論なので、主観に戻ったとも言えない。たぶんナチスだったことか
ら優生思想と仰ってるんだろうと思いますが、ナチスよりはハイデガーのほうが思想として狂気
への着目が大きく鋭いし、主観の哲学というには主観の外部ー存在や狂気ーばかり思索しており
、そこ は違うんじゃ、と思いますよ。