吉本隆明 1924-2012

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106考える名無しさん
あと、廣松後期の哲学についての俺の解釈があるんだけど。廣松が俺の質問に、共同主観性と共同
幻想には重なっているところもあると後から思いました。としているところに、そうかな?て思い
がある。これらのどこが違うのかって答えは一つだけ明瞭にあると思う。吉本の言う共同幻想の
説明で、あらゆる共同幻想は消滅しなくてはならない、というのがあるでしょう。翻って、では
共同主観性にも廣松がそう言うかといえば、違うと思うんだ。マルクス主義にとっての共同主観性
というのは認識論としての土台であって、そのために廣松はあれを考え出した。だからそこに個体
のイマジネーションとか、表出とか、没‐交渉性とかが省かれてしまうのは必然なんだよ。そこで
これが必要とされた経緯を鑑みれば。共同主観性と共同幻想がどこが違うか、はそこに帰着すると
思う。共同主観性の哲学は廣松のマルクス主義にとっては不可欠なんだ。マルクス主義に付随する
哲学なんだから。モチーフからして全然違うでしょ。