吉本隆明 1924-2012

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100考える名無しさん
客:ちょっと最初の君の質疑はどういうことかよく解らないんだけど。もう少し。
主:思い出したけど。村上陽一郎が講演の中で「近代的主観‐客観図式にたいし、四肢的構造論によ
ってそれを超剋した」と言ったんだな。つまり、実際に起こっている事態と、ある主体がある客体
を認識する、ということとは異なる。自分をAとするaが、相手bをBだと認識してしまう。そこで
実際の〈a-b〉という関係は覆蔵されていく。それを明るみにした。それは一大業績だったと。しか
しそこで俺は疑問を感じた。廣松に限らないが、ある学問が客観的に追究され、成果が上がる。そ
れはしかし、学者という固有な主体が為すものだ。廣松渉に則せば、他ならぬ廣松渉がある業績を
為した。廣松渉がいなければそれは為されなかったかもしれない。廣松渉という主体とは何だ。そ
れと客観的研究との意味は。それを考察しなければ、真に「主観‐客体図式」を批判することにはな
らないんではないか。そこで純粋客観性を為す主体「廣松渉」がなければならない。そこが考察され
ない限り、マルクス主義において、全体を偽装する倫理が現れることは避けられない。それが俺が
言おうとしたことだった。だから吉本が、「廣松さんの研究で、全ての認識は共同主観性に包括さ
れると言うけれど、個体のイマジネーションは共同主観性とは別個にあると思います」と言った
とき、それは学者のイマジネーションでもあるわけだから、それは俺が言ってることと同じと
思った。そういう感じだったと思うな。