1 :
日時計 :
2012/03/23(金) 23:38:13.22 0 1924.10.25 東京市京橋区月島に生まれる。 1950年代ー詩人として出発。『固有時との対話』(1952)『転位のための十篇』(1953)。花田清輝と の論争。〈マルクス主義→日本ファシズムへの転向→マルクス主義への転向〉の可能の謎を思想。 1960年代ー安保闘争でブントに加担。『言語にとって美とはなにか』(1965)『共同幻想論』(1968) 〈自己表出‐指示表出〉〈個体幻想‐対幻想‐共同幻想〉〈大衆の原像〉のターム。 1970年代ー大学紛争、三島事件への発言。『心的現象論序説』(1971)ターム〈原生的疎外‐純粋疎 外〉。『最後の親鸞』(1976)で世界思想としての親鸞を提起 。フーコーとの対論(1978)。意志 論の意味を提起。 1980年代ー埴谷雄高と論争。大衆の物質的豊かさをどう見るか。高度資本主義論。 1990年代ーボードリャールと対論。高度資本主義への視点。オウム事件への発言で物議を醸す。 《この境地でなければこれだけの「造悪」はできないはずだという評価になると思ってるわけです。 麻原のやった「造悪」と、この人のもってるヨーガの到達した境地と、パラレルだといいますか同じ だと思います。》(『宗教の最後のすがた』1996)オウム事件を機に離れる愛読者(竹田青嗣など) も現れる。『近代日本の批評』などで柄谷行人、浅田彰など、新しい世代に批判をされることが多く なる。《用語が我流で、しかもそれが論理的につながっていない。最悪の意味で「詩的」に理解され ていたとしか思えない。》(浅田彰) 2000年代ー『ひきこもれ』(2006)。『心的現象論』(2007).『50度の講演』(2008)。『現代思想 臨 時増刊号 吉本隆明』で自己の思索を振り返るロング・インタビューを行う(2008)。2011年3月 の原発事故に伴う反原発運動にたいし、同調せず、反原発派からの非難を浴びる。『完本 情況への 発言』(2011.11月) 2012.3.16 肺炎のため逝去。
糞ジジィが煉獄で苦しみますように。 (-人-)
4 :
考える名無しさん :2012/03/24(土) 02:27:07.06 O
AKB48とコラボでコンサート形式で追悼式とかイケる。
5 :
考える名無しさん :2012/03/24(土) 02:54:18.28 O
思い切り恥ずかしくやろう!
7 :
考える名無しさん :2012/03/24(土) 10:47:23.76 O
ステージでAKBのオカズ娘どもをずらーっと並べて真ん中に吉本の遺影。 違和感なさすぎ。
無思想の時代を上手に泳ぎ切った。
溺れてタコ八郎しかけたのは96年か。ひょっとしたら、 ・・・いや言わぬが鼻。
10 :
考える名無しさん :2012/03/24(土) 22:16:05.15 0
ここが吉本読者ゼロの吉本スレか
12 :
考える名無しさん :2012/03/25(日) 02:10:25.38 0
大衆は大衆的なものにしか価値を認めないものか?
13 :
考える名無しさん :2012/03/25(日) 11:31:31.00 0
生き死にに無関係でいられる人間はいない。 吉本も無関心ではなかったけれど、通俗に 安住する傾向があったんでないか?
14 :
↓推奨 :2012/03/25(日) 12:11:12.36 0
【皇室】チャンネル桜の姫?高清水有子【秋篠宮】11
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/mass/1328996716/ >>353-361 353 :(さくらじ) 第24回 吼える!!軍事ジャーナリスト 井上和彦 登場
354 :(拉致問題) 今年が勝負、1000万人署名への戦い
355 :(中国脅威論) 尖閣と南シナ海への野望、軍拡とチベット弾圧
356 :〃
357 :〃
358 :(北朝鮮) 米朝合意無視か、弾道ミサイル発射を表明
359 :(谷田川惣) 女性宮家創設ヒアリングにおける田原総一朗発言
360 :(快刀乱麻) 皇統の危機と占領政策
361 :(魔都見聞録) 韓国の反日中毒症、慰安婦が国政選挙に出馬
>>365-370 365 :(陸山会事件) 公判結審、4月26日に判決
366 :(民主党) 消費増税、普天間、秘密保全法は絶望的
367 :(女性宮家) 有識者ヒアリング、櫻井よしこ氏・百地章教授など
368 :(東日本大震災) 震災から1年、鎮魂の2時46分
369 :(断舌一歩手前) 大阪維新の会は反民主党勢力たり得るか?
370 :(撫子日和) 硫黄島の英霊達への想い
15 :
↓推奨 :2012/03/25(日) 12:11:31.01 0
>>372-381 372 :GHQ焚書図書開封 第10回
373 :(古屋圭司) NHK問題、受信料と公共放送としての責務
374 :(古屋圭司) 少子高齢化社会、日本再生のための住宅政策を
375 :(頑張れ日本) 3月23日は、デモの後にパーティーがあります
376 :(安全保障) 北のミサイルと中国の脅威に対する日米の動き
377 :(中国) 激増する武器輸出と、絶望的な人間性
378 :(変える?変えない?) 武器使用基準、私権制約、消費増税
379 :(ズバリ!文化批評) 吉本隆明氏を偲んで
380 :(東日本大震災) 震災瓦礫と鉄道復旧、矛盾と経済原理の現実
381 :(拉致問題アワー) 1千万署名で政府を動かす!
>>391-400 391 :(西田昌司) 必ず潰す!世紀の悪法「人権侵害救済法案」
392 :(東日本大震災) ふるさと東北を残す写真集
393 :(二千人委員会) 拡大推進委員会発足、マスコットキャラ発表
394 :(草莽崛起) 3.18 沖縄反メディアデモ in 那覇
395 :(中華帝国主義) 中国の尖閣侵略宣言、国後島へも資金投入か
396 :(属国意識) イラン制裁、野田ドクトリン、橋下市長アゲ
397 :(ミサイル問題) 日本の脅威となるのは北も南も変わらない
398 :(消費増税) 経済好転が条件であるが、その定義は無し
399 :(クライン孝子) 言いたい放談・拡大版
400 :(今週の御皇室) 皇后陛下から眞子内親王殿下へのお手紙
16 :
↓推奨 :2012/03/25(日) 12:11:49.02 0
>>406-415 406 :(宮脇淳子) 「南京事件」の虚妄
407 :(歪んだ自由) 新聞が賛美するTPPと日中韓投資協定
408 :(言いたい放談) 日本のジャーナリズムとアフガンの際どい外交
409 :(明るい経済教室) 脱デフレの処方箋は?「投資」の社会的意味
410 :(直言極言) 吉本隆明氏の「言葉」を振り返る
411 :(国民経済) 気にする必要のない消費増税論議と貿易収支
412 :(お知らせ) 3.25 第五回 フジテレビ抗議デモ in浅草
413 :(青山繁晴) 国家再生への歩み、戦争観とインテリジェンス
414 :(日いづる国より) 赤池誠章、震災追悼式と皇室と教育改革
415 :(西田昌司) 3.19 参議院予算委員会、対中ビジネス利権を暴く
>>419 419 :(討論!) 表現者スペシャル「震災一年後の日本を考える」
17 :
13 :2012/03/25(日) 12:15:23.87 0
右翼スイッチ押してしまったな。
18 :
考える名無しさん :2012/03/26(月) 20:05:54.80 0
993 :レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/03/26(月) 19:57:06.87 私も、吉本はアナクロだとずっと思ってきたんですよ。 これは同年代の多分に漏れず、蓮実・柄谷のいうことを鵜呑みにしていたということです。 ところが、五年くらい前、古本屋でたまたま昔の「海燕」を買って、載っていた「ハイイメージ論」を読んでみたら、 なんか、吉本のほうがぜんぜん新しかったんじゃないか、と感じたわけさ。 吉本がヘーゲル的だといわれるのは、同一律なしに論理は成立しない、という当たり前のことを無視してないだけなんですよ。 ハイイメージ論に関して言うと、数物系の知識水準が柄谷とは明らかに違うのね。 ちなみに浅田の本音は、柄谷よりも吉本のほうが正しい、だと思う。 だから、柄谷支持、吉本批判は、党派的なもんでしょう。 似た経験に関して言うと、同世代の多分に漏れず、ハイデガーも、ドゥルーズの批判を鵜呑みにして、 長らくダメだと思い込んでいたんだが、よく読むとドゥルーズよりも明らかに「正しい」のね。 上手く言えなく申し訳ない。
19 :
考える名無しさん :2012/03/26(月) 21:01:32.82 0
重要なのはイメージすることではない。 認識こそが超越の原理なのだ。
20 :
考える名無しさん :2012/03/26(月) 21:11:51.43 0
『週刊ポスト』最新号2012.4.6号に以下の吉本隆明追悼特集が組まれています。 モノクログラビア「吉本隆明 知の素顔」吉田純撮影 記事「さらば、吉本隆明 あなたは我々の英雄だった!」橋爪大三郎、鹿島徹による回想。評伝。吉本隆明 語録。 記事「吉本隆明との「格闘」」・佐野眞一 ・岸田秀 ・ねじめ正一 ・呉智英らによる評価。
21 :
考える名無しさん :2012/03/26(月) 21:17:51.51 0
詩人のランボーみたいなもんかな。
23 :
日時計 :2012/03/27(火) 18:04:11.72 0
吉本隆明追悼記事の追加です。その前に、先に挙げた『週刊ポスト』の記事に書いていた人名で、 鹿島徹としていましたが、誤りで正しい名前は鹿島茂です。では見つけたものを挙げていきます。 『週刊新潮』2012.3.29号 モノクログラビア 吉本隆明が「都はるみ」を歌った「在りし日」 1987.9.12-13にかけて品川の寺田倉庫で行われたイベント「いま、吉本隆明25時」のワンシー ン。中上健次と都はるみの公開対談の最中、中上と都の歌謡ショーが始まり、そこで中上が客席 の吉本を壇上に呼び、都はるみの「大阪しぐれ」を歌わせた。場内深夜に拘わらず爆笑。という名 シーン。《吉本氏、歌は「下手だった」》と結んであるのがおかしい。 記事 「吉本隆明」の遺言 「反原発」で猿になる! 『週刊新潮』2012.1.5&12号掲載された内容を中心に、編集者で文芸評論家の齋藤愼璽、元共同 通信社の石森洋、宗教学者山折哲雄の回想が添えられている。タイトルはスキャンダラスだが、 紹介されている吉本自身の言葉や記者の説明は特に奇想天外ではなく、科学技術の自己更新、 自己刷新によって絶えず危険性や動力を解決してきたのが人間力である。それが人間である証な のであり、これを放棄するのは「人間が猿から別れて発達し、今日まで行ってきた営みを否定する のと同じなんです」「原発の存否を決めるのは、『恐怖心』や『利益』より、技術論と文明論にかかって いると考えるからです」「人間はある技術を開発すると、失敗してもその部分を補って再スタート する。そのうちまた別の危険が出ると継ぎ足しで防御策を講じる。文明とはそういうことの連続 だということを忘れてはいけない。」という吉本の発言がそのまま引用されている。それは吉本の 技術論、人間力の考察が根底にあることを示している。そこまで記事からは汲み取れる。
24 :
日時計 :2012/03/27(火) 18:06:45.37 0
変わったところでは『FLASH』2012.4.10号掲載 田原総一郎の俗流ニッポン伝 第40回 5分でわかる、吉本隆明はここがすごかった! 田原総一郎の吉本論ということで、1頁の記事だが興味深い。今回の反原発運動高揚の中で、ど うも田原総一郎でのテレビでの発言を見てて同調していないことは感じていたが、田原総一郎が 吉本の反原発運動批判をよく読んでいたことはこの記事で初めて知った。田原は吉本の技術論を 、また麻原彰晃読解をも高く評価している。ただ、『共同幻想論』は「僕も読んだけど、難しくて途中 で投げ出してしまった(笑)」と正直な感想を述べている。「日本中のあらゆるところに自称“吉本 隆明の弟子”がいる。じつは僕もその一人だけど、そのこと自体が彼の思想の大きさ、彼のカリス マ性を表しているんだね」(田原)初めて読んだ吉本の本は『擬制の終焉』だそうだ。《田原氏は最初 の“出会い”から叩きのめされたという。》と記事にはある。
25 :
考える名無しさん :2012/03/28(水) 01:29:01.45 O
擬制の何とかって棍棒は使わせて貰ってる。
26 :
考える名無しさん :2012/04/04(水) 07:05:32.75 0
情況からの発言 客:せっかく立てたはいいが立派過ぎて評判の悪いこのスレは、勿体無いので一つ昔別スレでやっ た放言で埋めるってのはどうだ。 主:いいねえ。対話型批評の名手吉本も死んじゃったことだし、弔いの意味でも一つやってみよう か。 客:何から行くかだけど、ここはタイムリーに吉本逝去をめぐる風景をどう見るか、てところから やってはどうだ。 主:いいよ。じゃあ俺から行こう。知ったのは3/18(日)の午前中だった。電車で移動中に吊革に 掴まって前に座ってる方の『東スポ』が見えた。そこに「吉本逝去」の記事があったんで驚いた。電車 降りてすぐ「東スポ」買って、近くのファミレスに入り、目を通した。いつかは来ると思ってたけど 、とうとうこの日が来たか、ていう感じだった。しかし、先日まで雑誌のインタビューで反原発 運動批判をとうとうと行うなど、最後まで吉本は吉本だったと思うよ。 客:愛娘のばななが親父の発言を「当惑」(『週刊新潮』3/29 p.61)して〈私が話したときは基本的 に(原発存続)賛成派ではなく廃炉と管理に人類の英知を使うべきだ的な内容ではないかと察しま す〉とかツイッターで言ったらしいが、むしろこの話の方が変で、吉本が愛娘にどう言ったか知ら ないが、親父の話のウェイトを聞き逃してたんじゃ、て思えるね。 主:そう思うよ。まあ彼女は思想家じゃないし、そういう議論は上手くない。肝心なところが解らな いとしても責める気はない。「父と原発のことを話しましたが、難しくてよく解りませんでした」 というのが本当かもしれないし、所詮思想は素人なんだからね。 客:そこは問題だね。愛娘と親父の考えが異なっていた場合も考えられるから。実は親父と愛娘は この問題では対立してた可能性もある。 主:思想的対立が親子であったとしたら、どうかな。吉本のことだから、たとえ愛娘でも容赦はし なかったと思うが。 客:それがあからさまになるまでに親父が亡くなった、てことかもしれないね。
情況からの発言 2 客:亡くなった有名作家や思想家の作品って、それをどう残すか、ていう、後に残った者の仕事が あるわけだけど。吉本の場合も書かれた作品をどう残すか、ていう仕事があるわけだけど。何しろ 本も多いし、著作集などでの重複を省いても相当数に上るでしょ。大変だよ。 主:実際大変な作業だよ。まず、書かれた文章を全部集めて改めて全集化するのか、ていう編集 方針から難しいんじゃないかね。ただ、やれば面白いとは思うし、ドイツの『ハイデガー全集』や『 マルクス=エンゲルス全集』みたいに、書かれた文章はとにかく残らず集める、年数どれだけかか ってもやる、ていうことには意味があると思うし、どうせならそこまでやってもいいんじゃ、て 気もする。一番ありそうなのはかつての勁草書房や大和書房がやったみたいな部門別に集めて 重要作品を残す、てやり方だけど。でもそこでこぼれてしまうものもあるだろうから。 客:そうなると吉本の本は絶版になり、入手困難になるものも出てくる。入手できるうちに手に 入れておくしかないね。ひとまず。 主:漏れのない完全版全集とかが出るかどうかが分からないからね。 客:あと吉本の場合、現代のテクノロジーにも結構作品化されてて、CD,DVDにも講演や公開座談会 とかが残っている人でもあるんだよね。ほぼ日から出た講演CDもそうだけど。 主:CD,DVDでいうと、講演はかなりCDにはなってるが、対談は昔でた中上健次や宇野邦一との テープぐらいしかないでしょ。吉本の対談てどんな感じで喋っているのか、聴いてみたい気がす る。思うに対論に、吉本の閃きや拘りや、情感や、結構出てると思うんだよね。多分録音テープが 残ってるものもあるだろうから、それも聴いてみたいね。どこか企画して出してくれないか、と 思うんだけど。
>>26 原発は自然な技術の発展で、不都合なことがあれば修正していく、安全にはいくらでも金をかけるべき、って感じだったような。
方向によっては廃炉と管理と言う聞き方になることもあるかもしれない。
>>27 なんで全集が出ると他の本が絶版になるの?
出版会の風習?
それとも他の本が売れなくなるから?
情況からの発言 3 客:上のレスにも書かれてるけど、全集や著作集に収録されると、まず大抵はそれまでの単行本と かは新しく刷られなくなることが多いんじゃないかね。戦後文学の大物だった埴谷雄高は90年代 に既に亡くなって、その後講談社から全19巻の全集が出たんだけど、その後、未来社から出てた 著作集はそれまで刷ったものだけであとは絶版化したと思うし。これは花田清輝だと、生前、やは り未来社から著作集を出してて、没後に講談社から全集を出したんだが、講談社版全17巻の全集 の方が早く品切れ絶版になり、未来社の全6巻著作集の方が売れ残って新刊として棚に置いてあ ったような記憶がある。ただ花田の未来社の著作集ってのは吉本との論争文も入ってないし、ま 、解題もなく、評論の雑誌発表年月日も分からない、「著作集」とか銘打ってはいるものの、当然あ るべき解題もない、読者にとって甚だ読んでて不満の残るものだったと思う。全集版は流石に解 題はちゃんとしてた。ただ、花田の全集にしても、吉本と同席し、その後、二人の論争でも引用され ている座談会がどういうわけか収録されていない。それからやはり論争した埴谷と同席した座談 会があるのに収録されていない。これは埴谷の全集には花田と同席してる座談会が1篇収録され ており、資料としての価値はある。花田の全集の収録対談は60年代以降の武井昭夫とのものが多 く、花田の論敵との対決が外されて、むかし図書館でみてがっかりした覚えがある。重要な座談会 が一切外されているんだから。編集者の考えを疑うよ。 主:花田の全集は評論はよく集めてあるが、座談会関係が駄目だね。論争家花田の個性がよく出て る、座談会はあのキャラクターを知る絶好の素材だけど。外したのは実に勿体ない。 客:吉本の全集を編集する人間にはその辺、論争相手と同席してる座談会を収録から外すような、 センスのないことはしないでほしいねえ。
31 :
考える名無しさん :2012/04/05(木) 00:14:15.42 0
情況への発見 客:あの全集を読むと、どういう思想だったのかは一目瞭然だけどね。今、花田清輝を 持ち上げる 人間があまり言いたがらない特徴が。 主:マルクス主義の問題でしょ。花田のマルクス主義がソビエト社会主義信仰から出られなかっ たこと。そのソビエト信仰ってものと、日本の戦時統制経済の二重化、双面性がこの人の戦争体験 の最大 の問題だからね。 客:そうなんで、その後、80年代になってからの花田再評価で綺麗に抜かされているのもそこ。 一番この問題が如実に出てるのが例の「ユートピアの誕生」で、当時の官僚を皮肉ったのだ、とい う花田の後の弁解をスガなどが鵜呑みにした。この「ユートピアの誕生」ていうのはまず題材にな ってるトマス・モアの『ユートピア』からして閉じられた、密告が支配する、個人というものが集 団に溶け込むことを強制される国家。ソビエトと似て非なる代物で、この疑似ソビエト社会主義 を題材にして花田は自由放任経済にたいする統制経済を対置し、かつトマス・モアの描いた国家 を検討していく。もちろん同一化するわけじゃない。ただどこに自分の関心が向かっていくかは そこに映したとみていいと思う。「集団表象と鉄の規律」などとして。これが戦後の花田によれば、 ‘当時の官僚の発想を皮肉った’もの、となるわけだが、皮肉るためには皮肉る対象以上の理念が 必要だろう。ところがこの時、花田にはそのような理念はない。日本ファシズムにもソビエト社会 主義にもなれる経済思想しかなかったわけ 。皮肉ることそれ自体、無理じゃないかと思える。 主:スガなどが意味ないとしている例の「現代の課題は、資本主義社会の枠内において、まず、いか にしてこの単純再生産の基礎を確立するかにあるのだ」も、これは花田が戦時中接近していた ファシスト団体の戦時経済綱領=統制経済の確立に一致している。つまりマルクス主義から日本 ファシズムへの転向の合理化が、ファシズムとソビエト社会主義との互換性によって保証された ということだ。
>>31 >「現代の課題は、資本主義社会の枠内において、まず、いか
>にしてこの単純再生産の基礎を確立するかにあるのだ」も、これは花田が戦時中接近していた
>ファシスト団体の戦時経済綱領=統制経済の確立に一致している。
国家共産主義だと政府が拡大再生産を推進し剰余価値を分配するわけだから、
花田の言うユートピア=単純再生産とは違うだろう。
単純再生産は生産の場において分配されていることを意味する。
ファシズムとアナキズムは親和性が高いから、(その認識は間違っているが)
花田をファシストと呼ぶことは理解できるにしても、あまりにも認識が浅い。
このあたりの考察は吉本も疎かにした部分だから歴史的にも未検証のままだ。
>国家共産主義だと政府が拡大再生産を推進し剰余価値を分配するわけだから、花田の言うユート ピア=単純再生産とは違うだろう。 客:32レスさんの反論というのはスガの言う、‘花田は資本主義下で不変の規模での単純再生産を 造り出せる訳がない、というアイロニーをあそこで言ったに過ぎない。このアイロニーを吉本は まともに読んでしまった’とする批判の論拠でもある。 主:ここがスガが‘吉本さんは花田を誤読した’とか‘吉本さんはあの時点では『資本論』をまとも に読んでいない’と断定する論拠になってる。まず、スガなどが批判の論拠とする、資本主義と 不変の規模での単純再生産は同居できない、よってこの議論はアイロニー’とする議論と、吉本が あそこで読んだ視点とは、微妙にずれてる、てところを押さえる必要がある。純理論的に考えれば 、スガのような結論になるのは当然なんだが。しかしあそこに吉本が読んだのは純理論的なこと とは異なる。じゃあ何を読んだか。あの花田のセンテンスにはただに単純再生産ではなく、尾ひれ が付いている。正確なセンテンスを今一度抜き出してみよう。 《現代の課題とは、資本制社会の枠内において、まず、いかにしてこの単純再生産の基礎を確立す るかにあるのだ。》
《現代の課題とは、資本制社会の枠内において、まず、いかにしてこの単純再生産の基礎を確立す るかにあるのだ。》 主:ここに尾ひれを、つまり条件付きで言われているものは、単純再生産そのもの実現性 ではない。じゃあ何が書かれているか、といえば、転向マルクス主義者がファシズム体制 の下で、労働現場で労働者へ の指揮・管理・計画を実施している、そのことの合理化だ と読んだ。一言で言えばファシズムへ の転向の合理化ということ。しかも重要なのは、『 資本論』の語彙を用い、それが為されている。言い換えればマルクス主義者のまま、それを 行っている。ファシズム体制にマルクス主義者はかように生き永らえる、とでも言いたげ に。何故なら、ファシズム下に於て、労働者の指揮・管理・労働環境整備まで行っている 、このようにして、ファシズムに協力していると見せながら労働者のために働き、来るべ き恐慌、革命に備える。それがファシズム下の可能なるコミュニズムなの だ。これが 戦時中の花田の立場だった。しかし吉本の見方はそれを一定認めながらも、にもかかわら ず、結局ファシズム協力であることに変わりはない、レジスタンスなどではない、とし た。それが吉本の批判にある《花田の理論はただちにマルクス主義の典型的なファシズム 化である生産力理論に転落した》の意味である。言い換えれば、転向マルクス主義の合理 化に過ぎない、ということ。だから字面だけを追うべきでなく、当時の状況で書かれると どうなるか、という視点で読まなければいけない。吉本の批判は分からない。スガもそれ を読めていない。それがスガの花田=吉本論争の意味なのさ。
主:32レスさんの話に繋げると、国家共産主義で不変な規模での単純再生産はありえない 、という、これもスガの批判と同じ論理を根拠にしていると見なせる。単純再生産云々は、 あのトマス・モア『ユートピア』に付随して書かれたとも取れるわけで、それが実現でき るか、ということよりも、あの状況で『ユートピア』に託して転向マルクス主義者が何を 記したか、ということを読むべき。不変な規模での単純再生産は抽象であり、云々というとこ ろを問題にし続ける限り、吉本の視点、花田のあのエッセイで思わずか意図的か、書いた ことの背景は問題にされない。つまり戦争体験、転向という軸は掴めないでしょう。あの 論争は掴めない。 客:それとあの論争の軸として、花田において共存してた、マルクス主義と日本ファシズ ム、ていう問題もある。互換性という。これは論争後の吉本の思想に重要な問いとして 残り、考え続けられたと思うね。60年代以降のマルクス主義の党派性への批判にね。そ れがファシズムと親近性として捉えられるという問題構成はね。その意味で吉本にとって 重要な論争だったと思うね。
おもしろく読ませてもらってるけど、普通に書いてくれないか? 吉本の真似しないで。
情況への発見 5 主:「面白く読ませていただいてる」というお言葉にお礼を伝えるとともに、まだこれでやらせて ただきたい。これでないとあんまり調子が出ないというのもあるんですが、この形式というのは 元々吉本が始めたことじゃなく、論敵となった花田清輝が既に50年代初頭にやっていたことでも あります。例えば全集第5巻冒頭に「ホセの告白」という林達夫批判がありますが、これは対話式 の林達夫批判なわけです。既に花田はここで対話式の批判をやっていました。また、後年、やはり マルクス研究の大御所廣松渉が著書でやっていたり、最近では吉本主義者の松岡祥男がやってい ます。というわけで、これは色んな人がやってる。吉本より先に花田もやっている。というわけで、 一つ大目に見ていただきたく存じます。もうしばらくやらせていただきたい。 客:そこでまた始めたいんだけど。そもそもスガ秀実の花田清輝論『砂のペルソナ』(講談社)が あのとき書かれる背景があったと思う。というのはあの時点は浅田彰をはじめ、西欧現代思想が 翻訳されて、まさに出版されつつある真っ最中で、例えばドウルーズとか、浅田が『構造と力』で紹 介したのより数年遅れて出版された。『アンチ・オイデイプス』が1986年、『千のプラトー』が 1994年、また、ジャック・デリダの場合はそれより早く70年代から日本で出版されていた。で、こ れらの西欧現代思想というのが、花田清輝再評価に影響したように見えるわけだ。具体的には『 近代日本の批評』で花田を最も高く評価するのが浅田彰なわけで、べた褒めする。他の柄谷、蓮実 に比べてね。
で、どういう関係があるんだろうと不思議だったんだけど、『千のプラトー』とかを 読むと明らかなのが、同一性にたいする批判が原動力として根本にあって、それは確かに人間に 於ける潜在力としてある、というのは頷けるんだが、D=Gの場合、ほとんど人間は何にでも変身で きるかのような可能が強固な哲学として考えられている。どのようにでもその場その場で変身は 可能、というのは花田清輝の姿勢と共通するし、また、一連の批評に於ける立場の自在な変更を 裏付ける、アリバイに化した疑いがあるわけだ。立場の自在な変更を可能にする哲学としてね。 浅田彰が花田清輝を高評価する背景にはそういうことがあるんじゃないか。 主:浅田と花田の共通項もあるんじゃないかな。博学で読書家である割りには根本で前衛神話を 払拭できない。浅田の場合は共産党神話というより、知的党派の僧侶、て感じだけど。 客:人間の潜在力としていかようにも変身変更可能とする、格好良く言えば同一性の無化、しかし 思想的言明に転用された場合、いかようにも変更の可能、にもなる。最もこれが露骨に出たのが 2000-2002年の例のNAM事件だったんじゃないか。最後は「俺の言うことに同意しない」という ことだけである知識人を誹謗し続けダメージを負わせる。また、その知識人が受け持っていた 地域通貨グループメンバーに一斉脱会を勧める、という嫌がらせを始める。 主そこでD-Gの哲学的支柱でもあるニーチェの力への意志よろしく、《真理の標識とは権力意識の 上昇のうちにある》(『権力への意志』no.534)を実践しはじめた。ということにな
情況からの発言 6 客:D-Gの哲学を眺めて言えるのは、この哲学では個体にとって、存在の根拠といえるものなど ない、ということだ。より正確に言えば、存在や現象、有の根拠とは、分子レベルで絶えず動いてお り、そういうミクロなレベルで、これが根拠、といえるものはない。また人間の潜在力も限界はな いと言える。人間にとって、行為や発語にとって、根拠とかそうした深いものなのだ。ミクロなレ ベルでもマクロなレベルでも、また潜在力のレベルでも無限なのだ。そういうことが捉えられな い学や哲学などが、分かったような顔で、根拠を述べるのである。そこからD-Gのフロイト批判も 出てくる。それはD=Gの哲学からすれば全く必然な批判なわけだ。これはそういう哲学を編み出す こと自体はどうということもないわけだけど、単に人間の実相とかけ離れてるというだけでね。 しかしこれが党派から党派へ渡り歩く、或いは転向に転向を重ねる、或いは自己保身的な言動に も根拠を与えるものである。そう機能してしまう可能性を露出させたのが、浅田のような花田 讃歌だと思う。花田には、革命のためになるなら事実と違う嘘など何でもない、むしろ嘘は必要だ とするその場その場の機会主義の肯定がある。真の革命家は人間的感情などに拘ってはならない 、と言いたげに。後の新左翼にも通じる組織哲学。それは政治的であろうとする、そこに至高の 価値を見い出す限り出てくる哲学なんだけど。浅田が花田を讃える仕方には、D=Gにあるreal politicsの哲学が露出しちゃってる。そこで浅田と花田が結託した、と取る。
40 :
考える名無しさん :2012/04/06(金) 09:41:44.40 0
>>26 ちょっと流れを切って申し訳ないが、せっかくだから少し質問させて欲しい。
ただ知識のない自分は質問するだけで、とくに感想とかはレスしない(できない)と思うのでその点は御容赦。
ただ再質問をしつこくするときはあるかもしれないけど、併せて御容赦。
吉本への風説?で一番関心が持たれているのは原発とオウムだと思う。
原発に関する吉本の関心のあり方は
1.技術的な進歩は止められない
2.発展過程での犠牲は大きな意味でやむをえないが、人間はそこからそれを克服する技術を開発していくものだ
3.技術の発達をとめるのは人間を猿に戻そうとするような自然に反する考え方だ
オウムに関しては
1.麻原は非常にすぐれた宗教家だ
2.オウムの若い人たちは真剣に自分と社会を見つめた人たちで、すぐれた宗教家である麻原に帰依した
3.テロ事件は必ずしも麻原が指示したかどうかわからない
こんな風に思ってるんだけど、違ってたり、付け加えたりするところはあるかな?
情況からの発言 7 客:40レスさんから質問が来てるんだけど、原発問題とオウム問題とに関して、この理解で良いの か、という。 主:この方はよくフォローしてると思うし、ごく大雑把にいえばこれでいいんじゃないですか? とも言えるんだけど、折角だからここで俺とかの読み方を重ねていきたいとも思うんだけど。ま ず、オウムというか、麻原の悪について述べる前に、吉本の心的現象論の核となってる特徴につい てやるのがいいんじゃないかと思う。どういうことかというと、これは当初は言われてなくて、 本でいうと『心とは何か 心的現象論入門』ていうのが2001年に出て、これは心的現象論に関連し た講演が本になったもので、俺が心的現象論に関する最終的立場ではないかと注目するのが、そ にある講演「「受け身」の精神病理について」というものだ。これは多分『50度の講演』にも入ってた と思うんだけど。最初読んだとき難しくて解らなかった。ただ、ポイントだけはだんだん解ってき た。それは何だというと、ここで吉本が立っている心的現象の立場では、生誕から乳児、小児、幼 児、児童、思春期、成人、熟年、老年、死、といった、個体の、個人の精神の現成と、共同体の初源、 部族社会、原始国家、様々な時代を経た近代国家、現代国家、高度産業時代の国家、いずれ訪れる 国家の死。つまり個人史としての歴史と、共同体の歴史と、パラレルにあって、それらは一個の 個人に於て、同居し。絡み合っている。『心的現象論 本論』でも、後半の「原了解以前」の中に出てき ますね。で、どういうことになるかというと、個体の精神異常は、受精以降に母親(世界)とのコ ミュニケーションで受けた傷、憎悪や偽りの感受、が何らかの切っ掛けで抑圧から遊離して現成 するもの。であると同時に、未開の共同体で人間が持っていた感覚や精神の現成でもある。となる。
実際の吉本の発言では以下のように言われている。 《だから、精神異常というのは、そうとばかり(異常とばかり)いうと問題なのです。しかし、胎児・ 乳児の間に体験したことのないことをやる精神異常者はいないのです。また歴史的にいえば、 未開・原始の時代に人間が考えたり行動しなかったりしたこと以外の振る舞いを描写することは ありえません。全部昔やったことです。あるいは、自分がやったことでなければ、人間が歴史の 未開・原始の時代にやったことに退化して帰っていると考えたほうが考えやすいのです。》(『吉本 隆明資料集113 p.111) 大雑把に言えば、人間が胎児・乳児期の内コミュニケーションでスムーズに行かず、欠損を負い 、思春期とかにある切っ掛けでその欠損が病態‐妄想、幻覚、解離など‐となって出てきた場合、そ の異常は歴史的に未開の共同体の精神に帰っている、と考えられる、ということだと思う。酒鬼薔 薇に対しても、内コミュニケーションが円滑でなかったことが殺傷の欲望になったわけで、しか しそれはまた、未開の共同体での供犠をも表している。麻原へは個人幻想の問題は問わず、専ら 宗教思想として語るわけだけど、供犠という側面、現在の市民的善悪の先まで行ったのではない か、また、最も精神の最深部に行ったのではないか、という読み方を『宗教の最後の姿』で披露して いる。人類史の未知の段階と、未開の段階との、双方向にまたがる問題をそこに見ていた。
情況からの発言 8 客:ここでついでといっては失礼だけども、スガの『花田清輝 砂のペルソナ』(講談社)でやはり 花田の論争として取り上げられた『近代文学』派との、革命と人間性との対立をめぐる論争、いわ ゆるモラリスト論争でのスガの言い分もちょいと見てみたらどうかと思う。この論争での花田の 言い分は例えば論争で書かれた次のような考えによく表れてる。 《わたしは、科学的に基礎づけられてない「神」の、「人類」の、「自己の良心」の掟を、いささかも信じ ることはできないのである。》(世の中に歎きあり」) こういう考えが『近代文学』派と論争になったというのは頷けるところはある。人間性というの を軽視されてる気がするからね。そこでこの論争の後半で発表されたのが埴谷雄高の有名なエッ セイ「永久革命者の悲哀」だった。これは本来は階級消滅を担うはずの前衛党の内部で、実は敵と は異なるがやはり組織の内部で、また組織の内と外で、階級ヒエラルキーが存在していることを 告発したエッセイだ。《未来の無階級社会からの派遣者として感じている》彼の視点から前衛党や そこでの偶像崇拝を告発している。奇妙なのはこの論へのスガの批判だ。 《矛盾のない統御された「無階級社会」は、革命家が存在として死んだ後もその眼差しによって 支配されることで、矛盾を生み出さぬ統御された社会たりうるのであって、そこにおいてその眼 差しが権力でなくて何であろうか。》(『砂のペルソナ』p.148) と言うんだけど、そういう大義名分を装い内実は全然ちがうような、ソビエト社会主義のような 国家や党をあらゆる階級、権力の消滅した未来の無階級社会という架空から眺め、絶えざる否定 を行い、抗議するのが埴谷のいう永久革命者じゃないか。何でこう読めないでいて、しかもあたか も何でもないかのように批判が書けるのか、わけがわからん。
主:まあ簡単な話で埴谷のあれだけ鮮明に論理的に打ち出した論旨を故意に読まなかったか、あ るいは読めなかったのか。前者なら下らぬ歪曲、政治的意図のもとに為されたね。後者なら文芸 批評家として完全な失格あつかいだ。まあ実際には前者だろうと思うけども。 客:ところがこれがここで終わらないのがまたくだらなさの上塗りで。実は似たり寄ったりの 埴谷批判を今や世界的思想家の柄谷までやっていた。それが以下の文だ。 《昔、埴谷批判をやったときに、考えたことがあって、一つは、永久革命者のように、無限遠点に 完全な社会というものを置いて、そこから現在を見ることへの批判ですね。これはたしかにスター リニズムを批判できるけれど、しかしスターリニズムを生み出すのは、まさに、そういう無限に 先に延ばすということだ、と思うんですよ。今は仕様がない、ということになる。だから、スターリ ニズムの根拠も結局、無限遠点にあると思います。》(『ダイアローグ V』p.84) 吉本のこの頃の用語を使ってたり、論理的なので、気を付けないとなるほど、と頷きそうな感もあ るがw、とんでもない。柄谷が鋭利な頭脳で解釈したのとは違い、まさにここで言われてる、‘今は 前衛党に、また社会主義国家に、階級があっても仕様がない’とするような、正当化を撃つことを 訴えたのが埴谷の先のエッセイの本質さ。こいつも全然読めてなかったんだなあ、と思い、唖然 させられるだろう。これも文芸批評家の端くれなんだからなあ。 主:柄谷は無理やり自分の作った図式に嵌め込む悪癖がある。これも故意か不用意かはわからん けど。どっちにせよひどいもんだよ。
>>41 >>42 ありがとうございます。
でも、難しいですね。
〈主客〉さんの指摘は
1.麻原とかオウムの信者たちにはある種の精神的な異常さがある
2.オウムの行為は市民的善悪の先まで行ったし精神の最深部まで行った結果だ
3.それは人間の原始的な心と現代的な不安に根拠がある
こんなふうに読んでみたのですが、訂正してください。
情況からの発言 9 主:45レスさんの質問の答える意味合いもあるんだけど、40レスに答えた内容を更に補足したい 気もあるので、前に40レスに答えたことをまた言い直すことをやってみたい。その前に、45レス さんの1-3は、これもとてもよく掴んだ理解だと思います。ただ、1で麻原とオウムの信者、ていう ところ。あそこを単に麻原、と言い換えた方が良いだろう。麻原とオウムの信者は修行のレベルも 違うと思えるのと、一連の犯罪は麻原の指令、とひとまず考えていいと思うこと。それがあそこを 単に麻原と言い換えてよいと思える理由です。 で、先に私が書いた、酒鬼薔薇事件、オウム事件への吉本の解釈というのは、心的現象論を基底 にしている、というのを、更に敷延したいと思ったのは、オウム事件への、というより麻原の思想 への吉本の評価というのは、これは二つの領域で捉えている、と思える。一つは最も吉本が語った 、親鸞の造悪論との関連ですね。で、もう一つ実はあって、それがいわゆる心的現象論との関連だ ろう。前者についてはよく言われたので吉本の麻原解釈として知られているが、後者は『だいたい で、いいじゃない。』でそれこそ大体にw言われているので、注目されない。しかし、実はそこでも 捉えられている。それは言えるんじゃないか。言い直せば麻原の個人幻想の問題。何らかの精神 の基層での荒れが、内向した末に未開の層まで後退し、現成した。しかし同時にそれは、歴史にお ける高次の善悪の場所暗喩している。これは酒鬼薔薇事件の評価でもありますが、これを麻原の サリン事件に適用してもよいと考えていたんじゃないか。
俺から見て、そこで酒鬼薔薇事件と、サリン事件が同一の線上で論じられる視点があったんじゃ 、て思えるんですね。で、この場所というのが、現在の凶悪事件について言われるべき、実は最重要 点ではないか。それが吉本の場合、かなり克明なイメージで掴まれていた。この特徴とは、個人幻 想の問題、吉本の語彙でいう心的現象の問題、別の言い方をすれば世界が信じきれない心が社会 システムの中で自閉していき、解消されないまま世界を退化(拒否)していく様相、を掴んでいる。 その意味でやっぱり優れた見識だろうと。酒鬼薔薇にたいしても、根本に母親の誤った育児、否定 を刷り込んで、しかも成長してから厳格な態度で子供に対していた。行き場がなくて当然。母親が 建前の家庭や育児を止めなかったのが根本の原因で、おかしくさせた原因、と『超「20世紀論」』で 言ってますね。そこには紋切り型になるけど、個人幻想、対幻想、共同幻想という違う軸で考察さ れる課題がある、てことだと思うんですね。
情況からの謝罪 客:おい。前のレスで君はこう言っているな。 >言い直せば麻原の個人幻想の問題。何らかの精神の基層での荒れが、内向した末に未開の層ま で後退し、現成した。しかし同時にそれは、歴史における高次の善悪の場所暗喩している。これは 酒鬼薔薇事件の評価でもありますが、これを麻原のサリン事件に適用してもよいと考えていたん じゃないか。 これ、そこまでは麻原については言ってないだろ。吉本の理論を使った君の解釈というなら別だ けどな。当の吉本は実は言ってないぞ。『だいたいで、いいじゃない。』の中でも。訂正しておくの が筋だろう。実際とは違うって。 主:そうか?そんなはずないだろが。ちょっと待て。……言ってないなあw言ってると思ったが、俺の 読み違いだなあ。でも言ってもおかしくないだろ。 客:でも言ってないぞ。まずいぞ。真面目な若者に嘘を伝えちゃあ。 主:そうだ。改めて申し上げます。麻原の個体幻想というところまでは吉本はサリン事件などと 直接関わらせて語ってはおりません。よって、先のレスの話は訂正します。あくまでも私が感じ 取った麻原。ということなので、そのように受け取り下さい。私自身はその可能性は捨てられない 、と考えている、ということです。しかし、吉本の考えではありません。もちろん吉本のような、 麻原の個体幻想と関わりなくサリン事件等を読み解く方法、宗教思想としてのみ捉える思索も、 もちろん可能性は高いし、尊重しております。そのように受け取り下さい。私自身は両方考えて おります。宜しくお願いします。m(__)m
49 :
考える名無しさん :2012/04/08(日) 10:48:29.27 0
>>46-
>>48 本当に丁寧にありがとうございます。
とても勉強になりました。
とくに麻原自身と信者の違いについての指摘は参考になりました。
麻原個人、特定の宗教、宗教一般の問題として考えてみます。
流れを切って申し訳ありませんでした。
本題を楽しみにしています。
情況からの発言 10 客:レス49さんの問いかけから思わぬ展開になった。君の吉本への読み違いも分かった。君から そこで、吉本と君の麻原解釈の違いも浮き彫りになってきた。そこでそこをもうちょっと展開し ようじゃないか。吉本の見解では、麻原の造悪というのは、あくまでもその教義から、ということ がその特徴になる。で、実は麻原の無意識、個体幻想というところも、一応触れてはいる。それは 『超「20世紀論」上』の214-215頁でインタビュアーの田近伸和に答える形で語られている。母親と の関係の失敗、否定を刷り込まれたこととの関連性もインタビュアーが尋ねている。 田近 それにしても、麻原の尊大な振る舞いは、人格を疑わせるのに十分なところがあります。麻 原を見て、「育ちが悪い」と思われることはないですか?母親が自分の子供を育てるにあたって、 胎児のときを含む一歳未満までの時期に悪い育て方をすると、それが子供の無意識の形成に悪い 影響を与え、子供の情緒障害など精神の異常が生じる恐れがあるということを、“酒鬼薔薇事件” などを論じられたときにも指摘されていましたが? 吉本 そう思ったりすることは、あります。麻原を見て、「お前、人相が悪いぜ」って思ったりしまし た。「この野郎!」と思うところは、たくさんありますよ。でも、宗教というのは、この手の性格的 欠陥については、自分を克服するということが修行のうちに入るわけで、その点は麻原も、ある 程度はやってきているんだろうなとは思います。それでも、ときとして、“地肌がむき出しになる” ところが、麻原にはあるんだろうと思います。本当は、宗教的高さと、人格的高さとが一致しない といけないんですけどね。
情況からの発言 10 客:レス49さんの問いかけから思わぬ展開になった。君の吉本への読み違いも分かった。君から そこで、吉本と君の麻原解釈の違いも浮き彫りになってきた。そこでそこをもうちょっと展開し ようじゃないか。吉本の見解では、麻原の造悪というのは、あくまでもその教義から、ということ がその特徴になる。で、実は麻原の無意識、個体幻想というところも、一応触れてはいる。それは 『超「20世紀論」上』の214-215頁でインタビュアーの田近伸和に答える形で語られている。母親と の関係の失敗、否定を刷り込まれたこととの関連性もインタビュアーが尋ねている。 田近 それにしても、麻原の尊大な振る舞いは、人格を疑わせるのに十分なところがあります。麻 原を見て、「育ちが悪い」と思われることはないですか?母親が自分の子供を育てるにあたって、 胎児のときを含む一歳未満までの時期に悪い育て方をすると、それが子供の無意識の形成に悪い 影響を与え、子供の情緒障害など精神の異常が生じる恐れがあるということを、“酒鬼薔薇事件” などを論じられたときにも指摘されていましたが? 吉本 そう思ったりすることは、あります。麻原を見て、「お前、人相が悪いぜ」って思ったりしまし た。「この野郎!」と思うところは、たくさんありますよ。でも、宗教というのは、この手の性格的 欠陥については、自分を克服するということが修行のうちに入るわけで、その点は麻原も、ある 程度はやってきているんだろうなとは思います。それでも、ときとして、“地肌がむき出しになる” ところが、麻原にはあるんだろうと思います。本当は、宗教的高さと、人格的高さとが一致しない といけないんですけどね。
主:それについて考える前に、吉本は同じ『超「20世紀論」上』の中で、麻原の指示によって、地下鉄 サリン事件が起きた、と断定される証拠は今のところ出ていない、と198頁で話しているのけど、 『オウム「教祖」法廷全記録 1』(現代書館)にある1996.12.6の杉本信者の証言によると、杉本は この時、サリン散布実行役を運ぶクルマの運転手だったが、コトが終わった後、麻原に会ったとき 、「これはポアだからな、分かるな」と云われ、マントラを1万回唱えるよう指示されている。また、 1996.11.21法廷では、実行犯の広瀬信者は、やはり実行後に麻原に会い、そこで「偉大なるグル、 シバ大神、すべての真理勝者にポアされてよかったね“」というマントラを1万回唱えるよう指示 されえている。いずれも実行は麻原からの直接でなく村井から指示されて麻原の指示と思った、 とか、ジェスチャーで上からと暗に仄めかされたり、とそこが曖昧といえばそうなんだけど、実行 後の麻原との面談ではいずれも、これはグルや真理勝者に代わってポアしたこと、それを「よか った」と唱えることが指示されている。少なくとも思想的にはサリン散布は麻原のもの、というこ とは出来る。裁判手続きとは別に。
それで、『超「20世紀論」上』での麻原の個人幻想への言及。胎児乳児期に傷や否定を受けたとし ても、その無意識の荒れは修行で克服されるはず、と語っている。確かに麻原のヨーガ教義での 修行とは、自己の内的経歴を遡行し、何が起こったかを見定め、認識し、その業(カルマ)を取り 除くことが重要な段階としてある。そうやってどんどん受精や前世までも遡行する。そうやって 真我(マハーニルヴァーナ)に到達。最終解脱に到り、そこからまた現世の自分に戻ったり、自己 という精神の容器に、一切の業から解放された自己を創造できる、となる。それが絶対自由だと。 それは分かるんだが、そこで、にもかかわらず麻原の後期において、サリン散布の根底に もある図式。そこに、世界に受けた無意識の否定を世界に贈与する、という心性は映って いると見えるんだ。そこで、個人幻想、対幻想、 共同幻想の複合、というのは麻原のの分 析として、除外されずに残ると思える。そこは吉本さんのやっている解釈とは若干違って しまうんだけど。
情況からの発言 11 客:君の話は面白いんだけど、麻原から多くの人が感じる一般社会への敵対心を深読みしてるきら いもあるね。それが少年犯罪のような。母子関係で受けた否定が内向し、云々、というところと接続 するのはどうかと思う。少なくとも以前TVに出演したときの麻原からは、無意識の荒れとかは そんなに感じられなかった。笑顔も明るいよ。自信に満ちてね。吉本の言うようにたとえ母子関係 で受けた否定があったにせよ、修行で克服している筈。と見るのが妥当だと、90年代初頭にTVなど に出てきていたあの姿からは感ずるんだけど。むしろ、関係がありそうだとすれば、数年前に起きて 今裁判で話題になっている、交際相手連続殺人事件、仮にあれが嫌疑の通り、木嶋香苗被告のや ったことだとしたら、あの落ち着きぶり、面倒くさくなると即殺傷する手軽さ、安易さ、あの異様さ が麻原と直結してる気がする。あの底無し感がね。もしも、木嶋や麻原への嫌疑通り、彼らが行為や 指示しての犯罪だとすれば、その場合、無意識を勘定に入れた場合、どんな人間にもある生誕の 病、傷が解消されずに結果、発露したのだと解釈されるし、彼らに固有な現象ではない、特殊な 例ではないことになる。そこで麻原の無意識を、捉えるなら捉えることは可能だと思う。しかし 同時に麻原の行為を特殊と見なさないことにもなる。
主:なるほど。麻原の場合、優れた修行者で、内面の経歴における病を治癒させることが むしろ専門なわけだからそこで少年犯罪のような、無意識の傷をあげることは難しい。そ うなる。だからこそ、そこで宗教的問題、造悪論というのが問われてくる。そういう立論 になるわけだ。だからこそ宗教思想的問題になってくる。それが麻原の特徴だといえる。 また、少年犯罪やその他の凶悪犯罪のようには、内面性の問題が吉本の分析では出てこ ない。そこが特徴になる。内面の問題は麻原の場合にはクリアされていると見ているとい うことだな。難しいな。
麻原に関しては少年期の盲学校における優越感(障害は軽い方だった)と 実社会における劣等感(障害以外に、初期の宗教活動に関して非科学的 だとして取り調べでよくいじめられていた)との二重性が彼を怪物にした という指摘が若手精神科医?からあった。朝生だったかな? ただし障害者への差別を遠慮したのかマスコミでこうした指摘はあまり 展開されなかった。 これらに無理矢理吉本のタームをあてはめるなら、 共同幻想(宗教)とそれに逆立するべき自己幻想(ロボットによる支配を麻原は夢見た) が構造的に癒着したままだと言うことが指摘できるだろう。 そこに対幻想(女弟子との関係)も融合してしまっていた。 『共同幻想論』で活用されたフロイト的無意識の構造とマルクスの社会学的分析 が必要だということで、ここに吉本の活躍する素材であったと思うが、吉本の宗 教観(親鸞には詳しいが密教には疎かった)がかえって邪魔したと思う。 宗教者としての麻原には仏教(脱神秘主義)とチベッツ密教(神秘主義)の混交、 混同を指摘できると思う。
オウム真理教団が一般社会を敵視するつもりは最初はなかったんじゃないか? 彼らは純粋に一般社会が敷いた生活のレールに乗ることをリベラルな選好として拒否した可能性がある。 それに対して敵対心を最初に抱いたのは一般社会のほうだった。そして排除行動に出た。 それが教団と一般社会とが関係として敵対的に、つまり相対的に反社会関係に入った原因だったのでは?
そうだとしてもサリンを撒くことを許容できる理由にはならない。 多かれ少なかれ宗教は「一般社会」と緊張関係にあるでしょう。
「許容されるか」はすでに一方が他方を許容するということであって、 けっきょくのところ、権力をもっている側が許容するという話にしかならない。 つまり、一方が他方の存在を消そうとしたとき、他方は一方の存在を消そうとするだろう。
そりゃそうだ。あくまで日本の法令の範囲内で「許容される」。 それを超えると排除される。 だから、多くの新宗教、新新宗教のように存在したいのであれば世俗の権力と妥協する他ない。
>>60 しかしオウム真理教は日本から国家として独立しようとした。だから排除ではなく潰されたのではないか?
排除だったのなら、彼らを自由にさせてやればよかったのだよ。
独立する事自体が国家存立の罪ですよ。 首謀者は当然死刑で犯罪中の犯罪だと刑法に規定されている。 国家が自由にさせるわけない。
その意味では、たしかに権力争いだったのだし、勝った側が裁いたということかもしれない。
主:同じ凶悪犯罪でも、吉本の手付きというのは、腑分けするよね。行為の構造が違う、という風に 。『だいたいで、いいじゃない。』では、それに止まらず「殺しのperspective(遠近法)としては皆 入ってくる」つまり、宮崎勤も、オウムも、酒鬼薔薇も、皆入ってくる。人類の最も古い精神の層と、 最も未知の層とが両方入ってくる。そう纏めている。それにもう一個、共通点を当てていいんじゃ ないかと思えるのが、これらの凶悪犯罪が、いずれも現在の社会、もっと言えば価値法則と言って もいいと思うけども、そこからの離脱、解放、拒絶を含んでいる。それが結局〈底無し〉を暗喩して いる、とも言い換えられるけど。吉本はそこまでは遠慮して言ってないと思うんだけどね。本当は それは感じてたんじゃないか。つまり〈外部〉というのが、今やそういうところにしかない。それは あれらの犯罪から、漂ってくるものだ。ただ、それは問題発言過ぎるし、言ってないと思うけども 。「麻原は浄土に最も遠いと同時に最も近い」というのも、〈外〉というのを意識した発言だよね。麻 原の思想を造悪論と呼ぶのも。凶悪犯罪の〈底無し〉を〈価値法則の外部〉とするのは公的には言い 難いことだったんだろうが。「オウムによって、かつての左翼は乗り越えられた」と言ったのはその ことだったんじゃ、と思えるんだよ。麻原の凄さを最も吉本が物語るのが造悪論だから。何がそこ で言いたかったか、はそこにしか〈外〉はない場所を暗喩した。異なる犯罪が、収斂する場所がある としたら、〈外〉ということじゃないか。価値の〈外〉、理性の〈外〉という。 ったんだろうが。
65 :
質問人 :2012/04/10(火) 00:43:46.40 0
>>51-
>>55 質問ばかりで申し訳ありません。
ちょっとピント外れかとは思いますが、よろしくお願いします。
「心が荒れている」ことに対して胎児から1歳程度のとくに母親との関係に原因を求めているところがあるようですが、遺伝には求めないのでしょうか?
身体的には遺伝的な要素は非常に大きいと思いますが、精神(脳)的には小さいと考えられているのでしょうか?
双子ですら「心の荒れ方」が同じであることの方がまれな気がするし、母親に責任を押し付けるようで感情的にはしっくりきません。
遺伝の方がゆるい分だけ本人に原因を求めやすいので少し納得しやすい気がします。
情況からの発言 12 主:どうも色んな人が書き込んで、結構なことだけど、ちょっと言いたいこともあるのでここは 65の質問者さんに答えると、遺伝というのは「無意識の荒れ」ということとは無関係だと思います 。少なくとも精神医学の遺伝的発病とかの説には、全く取り上げる価値は認めてなかったと思い ます。遺伝的発病と見えても、無意識の形成期に経験した経歴がその動因になってると思ってい た、と。 それと、麻原についての、吉本さんの説を再確認し、また、君(客)から、無意識の誘因があったと しても、それは誰にも生誕時の傷、神経症としてあるものだろう、という説があった。それらを俯瞰 して、改めて思うのは、やはり何らかの無意識の欠損、それはたしかに誰にも残る生誕の心的外傷 かもしれないし、それは否定しない。しかし、俺の感じからは、そういった心的外傷が麻原にあっ て、それが修行によっても解消されぬまま残像としてあり、底無しの欲望として現成した。という 説を取る。それが自分にとって、最もリアルに見えるんだね。吉本の問題意識‐造悪論‐も視野に 入れているが、それは吉本によって展開されているからね。あと、〈底無しの欲望〉と〈悪〉というの はどこかで重なる気がするんだ。 客:いんじゃねえか。それはそれで。あと、このスレでよく出てるネタで、吉本関連の雑誌特集の 情報、てあるんだけど。『週刊読書人』2012.4.6号に「吉本隆明追悼」と題して大塚英志・宮台真司 対談を3頁にわたって掲載している。この新聞は対談は多いが、3頁にわたってというのは殆んど ない。異例の扱いだと言える。
67 :
質問人 :2012/04/11(水) 01:29:27.28 0
>>66 ありがとうございました。
これで質問は終わりです。
客:この大塚・宮台対談について、何かあるかい? 主:まあ、そんなにない。ただ、80年代以降に吉本思想の限界のように言われてきた、大衆の消滅、 吉本さんの本で論拠としてあった大衆などはもう居ない。というのがこの対談でも既成事実のよ うに持ち出されているので、そこだけは触れておきたい気がするな。この対談での言われ方でもそ うなんだけど、大衆というのをまだ固定的、もしくは観念的に捉え過ぎているきらいがあるんだ。 生活水準も、生活形態も、吉本が提起した60年代とは変わって当然なんだけど。にも拘わらず、知 や価値、システムの空隙としての大衆の原像というのは、有効に思えるんだね。例えば宮台真司が 自分の仕事で大学で講義したり、本書いたり、対談したり、論文書いてたりするでしょ。これが仮 に9-12時間だとして、じゃああとの時間は何をしてるかといえば、簡単な話で。朝起きて顔洗い、 奥さんと世間話し、出かけ、仕事し、昼飯食べてまた仕事。終われば家に帰り、奥さんとまた歓談。 飯食べて、テレビ見て、その間兄弟から祖父の法事の話があったり、家の住宅ローンがあと何年で 終わるかの相談を奥さんとしたり、友達からの電話で今度飲みに行く約束したり、で、明日に備え 準備してからおやすみする。それが15/24時間だとすると、それは何だろうといえば、早い話が 大衆としての自己だろう。それが15/24時がそうなわけだ。。
それって、大衆は消滅した、ていう話 を裏切っているわけよ。自己における大衆がね。ことほどいい加減な、また簡単な話なわけだ。仮 に現代人としての引きこもりとかを例にしても、家から一歩も出ずに生活してる人間が、どこか から生活資金を援助されたり、或いは調達されたりしているのは自明で、でなきゃ生きていけない のだから。また、何も食わずにいるわけはなく、食事もしている。どこかから資金が来てたり、どこ かに貯まってたりして可能な生活だよ。ただ、それを意識せずにひとまず済んでいる、というだけ のことでね。宮台は理知的だし、話も理路整然としてるし、こういう人間を例にとると余計分かり 易いんだが、大衆の原像などもうない、と理路整然と喋っている当人が15/24時間は大衆である。 それを忘れちゃいかんだろうと思うね。ただ、生活水準が上がった。選択の幅が広がった 。文盲がいなくなった。道路工事のおじさんでも若手芸人の話で笑えるようになった。と かね。メディアの浸透による効果もある。しかし、そういう変化をもって、大衆はいなく なった。大衆の原像は無効、というのは実相を外してるし、また思想の有効性をも外してる 議論だと思うね。
宮台とかが吉本存命中から言ってた批判で、成熟社会到来後、隣は何をする人ぞ。ということにな り、近所付き合いもなくなり、大衆的コミュニケーションは崩壊した。というのがある。確かにそ ういう、近所付き合いとかがなくなり、というのは住居は流動化してるし、隣の部屋に住んでる人 がいつの間に居なくなっていた。というのも多い。ただ、大衆のそういった変化をもって、大衆的 前提の消滅、とか言ってしまうのは尚早だ。仕事、生活の関係する範囲でしか知的にならず、また、 動こうともしない、というのが大衆の原像だが、これはいまだに強固に社会性を持ってる。宮台の 挙げてる例とかは大衆の生存の歴史的変遷ではあるけど、大衆の原像は通用しなくなった、とま ではとても言えないんじゃないか。朝晩の通勤電車に宮台は揺られたことがないのかな。そこで 目の前にいる人波、ガヤガヤ話している人間たちを見て感じるのは、大衆だなあ、てことだ。自家 用車でばかり移動してこういう通勤電車の光景とか見てないんじゃないかね。フィールドワーク が専門の筈だが、誰と話してるのか。疑問視するよ。あともう一つ。宮台はフーコーの理論。あらゆ る発話はシステムの産物。を挙げて、吉本がこれをフーコーから読み取らず、衝撃だったと言うが 、対談の中でフーコーさんの方法は言語から意味を抜いていく方法、と纏め、宮台の言うようには 外してはいない。それだけでなく、意志論の重要性をぶつけて、意志論というのは実は幻想論の 言い換えだと思うが、これをぶつけて、応答をさせている。これらはフーコーの方法を纏めた上 で、そこに足りないものを感じて提起したのと同じであり、フーコーとの色んな対論がその後翻訳 されたが、その中に入れても核心的な内容だといまだに思える。宮台の批評には同意できないね。
71 :
考える名無しさん :2012/04/11(水) 21:25:46.42 0
大衆的コミュニケーションというのはむしろ現代のマスメディアや 学校教育の発達による産物ではないだろうか。 それから「近所づきあい」が希薄になったのが本当だとしても、 それはべつの親密性に置き換わってきていて、吉本さんも指摘するように、 むしろ現代ではコミュニケーションが過剰になってきている。 「ひきこもり」を大規模に問題にするほど「引っぱり出し」 コミュニケーション圧力が高まっている時代でもある。
72 :
質問人 :2012/04/13(金) 00:49:48.37 0
オウムのときの思ったのはテロとは何だろうということ。 近年だとイスラム原理主義が、と言われることが多いね。 昔なら革命はもとより、十字軍、魔女狩りなんてのも一種のテロじゃないの? 列強の植民地政策やアメリカの奴隷狩りは政治的じゃないかもしれないな。 アメリカ国内での黒人虐殺は政治的な要素があるだろうね。 ゲリラ戦となったベトナム戦争。 各国の諜報、暗殺、謀略。 日本では古くは一揆、新しいところで帝銀事件、下山事件、赤軍関係事件等なんかもテロかもしれない。 国家間の戦争はどうなんだろうね? テロの本質をどう考えて、オウムをどう位置づけるのかな?
オウムは実質的に内乱罪なんだけど、立証が難しいので見送られた。
客:71レスさんの『引きこもれ』の話に納得しながら続けよう。 主:この大塚との対談で宮台が言ってることでもう一つ印象的なのが、サルトルとフーコーとの 論争、〈サルトル的な主体はシステムの歴史的な産物〉を挙げたり、〈合理性を貫徹させると非合理 性が導き出される〉とったポストモダン哲学を引用し、吉本がポストモダン哲学に詳しくなかった と言ってること箇所がある。詳しくなかったというよりも、そういった学問的知の暢気さには 付き合う余裕も気持ちもなかった、というのが本当だろう。そもそもフーコーとサルトルの論争 として宮台が挙げている主体というのはサルトル的には自己に対し非共犯的にその内実を透視で きる神のような存在だし、全世界で起きることに有責だとする政治的存在。フーコーの方はシス テムが変わればそれも変わる、これも角度は違うが人間性が内実などないことを前提にするよう なものでリアルでないことでは同じ。何でもいが例えば精神病が『存在と無』を読んで回復するか といえばそんなことにはならない。ひたすら焦るだけでね。じゃあフーコーのシステム論では何が 分かるかといえば、精々精神病隔離や病院の歴史が解読されるのが精一杯で、どうしてこんな 病気になったか、何も教えてはくれない。精神病自体については何も教えてはくれない。
結局個体幻想の在り方として、フランス現代思想が、色んな仕事をやりはしたものの、 リアルな存在ではない身軽な存在を人間として前提し続けた。その帰結が浅田であり、 浅田ほど露骨ではないが宮台もその影響が伺える。山本哲士が吉本の提起した人間は 実際存在 pratique で、「かく存在する」に定位していた。と吉本の生前から評価してた が、その通りなんで、いくらでも変更変身可能で、内面的経歴も持たない、幽霊のような、 或はジョン・カーペンターのSFホラー「遊星からの物体X」に出てくる、細胞合体して誰に でも変身してしまう、宇宙生物とも違う、リアリティーを無くさなかった。サルトルも フーコーも晩年は思想的立場を変更するようになるが、少なくとも初期のサルトルや フーコーでは人間存在のリアルさという点で欠陥があるし、少なくともそれを以て生身 の人間など解読はできない。吉本の個体幻想論と存在の深度では問題にならない。話を ポストモダン哲学に戻すと、吉本にとっては最初からまともに格闘するものでは最初か らなかった。フーコーとの対論がフーコーに相手にされなかったとか言ってる人間も いるようだが、吉本の方でも何とか自分と関係つけたのがあの対論で、マルクスの読解や 意志論の提起とは、結局フーコーに描けており、議論のリアルさをなくしてると思える ものに他ならない。吉本から見るとフーコーの思想も、確かに評価はしてたがそこでの 人間存在はリアルさはないと感じてたと思う。フーコーは機能主義とも言っていた。
客:ただフーコーを擁護すると、元々フーコーの思想は存在の内実を詰めるのではなく、存在が 主体化される構造を詰めるところにあった。そこで病院や隔離、監視と処罰、というところに 向いていく必然がある。マルクス主義を始末した手付きもそうだった。その主体化というところ で吉本はフーコーの仕事の重要性を意識してたとも思うよ。ただ、存在や個体幻想の構造とかには タッチはしないので、そこで不満を感じる向きも出てくるかもしれないけども。たしかフーコーの 言う権力の空隙として平民があり、それを吉本は大衆の原像との類似を感じて評価してたことが ある。少なくとも〈主体と権力〉という問題では吉本とも共通点はあったと思う。当然同一の思想で はないにせよね。
77 :
考える名無しさん :2012/04/13(金) 10:02:45.18 0
誰が誰を評価したの評価しないのと、いつまでも飽きないやつだ。 自分の考えはないのかい。情報屋的傍観者だな。
主:ああ、なるほどね。フーコーの主題は元々、ある時代の知によって新たに分割され、 意味されていく人間なわけだから。しかしそれはシステムが人間を生むのとはかなり 違うけど。宮台が引用してるテキストでの言い方が問題だ。それと、フーコーに吉本が、 対談の後で書簡を送ったが話が通じずに文通は成功しなかった、という逸話があるでしょ 。あれ、確か道元のことを吉本が書いたとか。何で道元か誰も分からなかったと思うが、 道元の『正法源蔵』というのはsein und zeitと同じ意味である「有と時」という言葉が ある。もしかしたら、フーコーが権力との関連で書いてる主体とは違う人間、個体という のを提起した可能性がある。だけど翻訳した人間もそこまでは読めなかったろうし、 そこも不運だったと思うよ。その後フーコーはフーコーでパレーシアという新たな主体 の概念を思索しているわけで、新しい主体概念という考えには興味があったはずだ。
79 :
考える名無しさん :2012/04/13(金) 18:53:34.48 0
客:79レスさんが貴重な情報を書き込みしてくれている。『週刊読書人』最新号インタビューで 大西巨人が吉本のことを話しているらしい。いずれ読まなきゃね。で、君はまだフーコーと吉本の ことを話したいみたいだけど? 主:思い出したことがあるんだけどね。1980年に文芸雑誌『海』で吉本は蓮実重彦と一度だけ対談 してるだろ。「批評にとって作品とは何か」。蓮実はここで作品というものを作者に帰属させること を否定する独自な読みを披露し、吉本からの反論を受けながら持論を下げず、吉本から「本気かね 」と言われている。この対談は両者の批評の違いが激しく、蓮実のその吉本のこの時期に発表され た批評『悲劇の解読』への否定が凄いのでそれはそれで対談としては面白くなった、という記憶が ある。この時は蓮実の批評、つまり作品を介してしか世の中と繋がりが持てない悲劇を読む、吉本 の批評への否定の、その背景がよく解らなかったんだけど。ところがこの時の蓮実の批評の根拠、 作品の作者に帰属させることへの否定だけど。これのオリジナルはどうやらフーコーだった、と 解ってきた。フーコーはまさにそうだったからね。とするとこの時吉本が論争していたのは蓮実 でもありまたその批評の元祖であるフーコーだったことが解ってきた。だから今思えば、この時 本当に問題になるべきだったのはフーコーの文学理論だったわけだ。蓮実はそういうところから 影響されたであろうからね。後の吉本のフーコーへの高評価を思い出すと不思議だよ。少なくとも 批評理論としては相当違う。蓮実を介してフーコーと論争したようなもんなんだから。蓮実の理論 にたいし「本気かね」ならフーコーの文学理論自体また「本気かね」にならなきゃおかしい。そういう 批判はフーコーを取り上げてはしてないと思うんだけど。今思えばその批判しなさは不思議に 思えるね。吉本なら読んで異和感抱いたろうからね。
81 :
考える名無しさん :2012/04/14(土) 19:37:53.95 0
フーコーじゃなくてブランショの文学空間1953刊 フーコー自身ブランショになりたい!っていってるんだから。
82 :
考える名無しさん :2012/04/14(土) 19:39:20.94 0
「作品というものを作者に帰属させることを否定する」 まんまブランショの文学空間
83 :
考える名無しさん :2012/04/14(土) 19:45:15.96 0
われわれは、再び、次のように問い始めねばならぬ。既に言ったように、作家 は作品に属しているが、作家に属しているもの、彼が自分ひとりで終わらせる ものは一冊の書物にすぎぬ。「自分ひとりで」に応ずるのは、「すぎぬ」とい う制約だ。作家は、決して、作品の前にはいない、また、作品が存在するとこ ろにいながらそのことを知らぬ。もっと正確に言えば、知らぬということその ことを知らないのだ。それは、読み得ないということによって示されるだけだ、 そしてこの曖昧な体験が、彼を、再び作品にとりかからせるのだ。 (文学空間)-1 偏執的把握 ↑こういうお経みたいな文章がえんえんと続く
84 :
匿名 :2012/04/14(土) 21:40:01.61 0
大阪府三島郡島本町の小学校や中学校は、暴力イジメ学校や。 島本町の学校で暴力やいじめを受け続けて、心も身体も 壊されて廃人同様になってしもうた僕が言うんやから、 まちがいないで。精神病院へ行っても、ちっとも良うならへん。 教師も校長も、暴力やいじめがあっても見て見ぬフリ。 そればかりか、イジメに加担する教師もおった。 誰かがイジメを苦にして自殺しても、「本校にイジメは なかった」と言うて逃げるんやろうなあ。 僕をイジメた生徒や教師の名前をここで書きたいけど、 そんなことしたら殺されて、天王山に埋められるかもしれ へん。それで誰にも発見されへんかったら、永久に行方不明のままや。 島本町の学校の関係者は、僕を捜し出して口封じをするな。
蓮実重彦の作品批評において、作者に作品が帰属することを否定し逃走する。それは蓮実によれば 特に誰の影響下でもないということだが、少なくとも蓮実に確信を与えたものとして、フーコーの 講演「作者とは何か」(『フーコー思考集成V』筑摩書房』)を考えることができる。狙っていることは 同じだからだ。フーコーにしろ蓮実にしろ、或はその末裔としての宮台にせよ、確実に継承してい ると思えるものがある。それが個体の没‐交渉性であり平たく言えば、他者が何言おうと通じない 、その人間における〈信〉の根底といってもいい。フーコーでも宮台でもフロイトの無意識とかを 引用するくせに個体概念のリアルさが最も過酷に現れるこの側面を全く捨象して堂々としてい る。連中の主張というのが悉くどこか軽い、また上滑りしていく原因がそれさ。フーコーの初期の 言説から宮台が引用して「吉本さんは疎かったですね」と講義するとき、苦笑してしまうのがそう いう思想的系譜が見えるからだ。少なくとも吉本の〈大衆の原像〉にはその手のファンタジーや 身軽な人間像は削ぎ落とされている。『心的現象論』でもそうで、個体における〈信〉の没‐交渉性の 起源、自分自身でさえ自覚するのが困難である〈信〉の在りかが考察されている。こういう吉本の 業績の方に、仮に革命を語るにせよ、なくしてはならない前提条件を俺は見るわけだ。
・橋爪大三郎 「私の高校生時代、ませた友人はみんな読んでいた。『共同幻想論』(43年)を読んだ衝撃は大きく、かつ持続的だった。特に『国家は幻想だ』という言い方だ。 当時のマルクス主義者、新左翼は国家を打倒しようとしていた。しかし国家が幻想なら、打倒という作戦は間違いになる。これは決定的転換だ。 ソ連を批判するにはマルクスまでさかのぼって批判し尽さなければならないが、その大変な仕事を独力で成し遂げた。思想のベルリンの壁を崩した、偉大な思想家だと思う」 「偉大な先輩として憧れ、尊敬し、私がいつも背中を見て仕事をしてきた人物。最大の業績は冷戦後を見すえて、 自由主義経済の下で知識人が社会主義を理想とする、日本のねじれた状況を突き崩したことだ。初めて会ったのは1986年。 私が「権力は悪いものではないのでは」と言うと、少しイヤな顔をされたが、いつも気さくで優しいおじさんといった感じだった。」 ・芹沢俊介 「こんな人は今もちろんいないし、これからも出てこないだろうと思えるほど桁違いの思想家だった。日本の学問や思想はヨーロッパに範を取っているので、 足下にはなかなか目に向かない。そんな中、吉本さんは自力で自立した思想をつくってきた。その思想の独自性を認められる人がいなかった意味で孤独な思想家だったと思う。 彼の思想は難解といえば難解だが、それを解きほぐす作業がわれわれに課せられているのではないか」 ・梅原猛 「現代日本において、独創的で稀有(けう)な思想家だった。世間の風潮にこびることなく、従来の常識に冷や水を浴びせ、自分の言葉で語った。 だから若者への影響力が強烈だった。「共同幻想論」には、当時みな夢中になった。幅広く活動したが、どんな話題でもどこかで一面を鋭くえぐっていた。 中沢新一さんと鼎談(ていだん)したときには私の「縄文論」を批判し、彼の主張には全面的に賛成はできない部分もある。 だが、彼の論は晩年まで変わらず光っていて、根本的に尊敬している。(ばななさんら)娘の話になると、いかつい顔が突然、うれしそうな表情になった。」
・内田樹 「1960年代後半、吉本さんの著作を読んでいる高校生はまだ少なく、読んでいると分かれば、友達になれた。初めて買って読んだのが「自立の思想的拠点」以来、 私にとって思想的アイドル。吉本さんの言葉には身体性があった。貧しさや飢餓といった生活者の実感に基づいた思想だ。最後の戦中派の思想家。 吉本さんが亡くなられたことで戦中派の時代は完膚なきまでに終わった。時代は軽くなっていくでしょう。」 ・松浦寿輝 「小林秀雄が原生林から切り開いた近代的批評というジャンルを、ブルドーザーでならして太い道路につくり上げた人だと思う。 批評の方法から言えば、詩人としての詩的な直観と強力な論理とで対象をねじ伏せてしまう剛腕の持ち主だった。 攻撃的な論争もたくさんやったが、そういう中にも下町・佃島育ちの柔らかな少年の感性のような詩心がいつも感じられた。 それが私自身を含め、多くの人々を引きつけたのだと感じる。詩と批評の間を橋渡しした書き手として他に類を見ない存在だった。」 ・浅田彰 「まぁ1950年代、60年代と言うと、ま、ソ連型の社会主義、共産主義が絶対だったと。で、その時に吉本さんは、自前で、大衆の生活の中で考える、ということを始めて それをずっと貫いてこられた、っていう風に思います、と同時に、サブカルチャーを、まぁ、あのぉ、それまではいい加減なものと思ってたものを、 それ自体として価値のあるものとして評価した、その辺はとっても先駆的な、あの、位置にいると言っていいんじゃないでしょうかね。」 「ただ、思想の広がりとともに、本人自身もその思想の中に埋没してしまったように思う」 ・石原慎太郎 「権威に対抗するオピニオンリーダーだったと思うし、ひとつの世代の象徴的な存在だった。残念です」 「彼が海水浴でおぼれたと聞いたときは、身体がへたってるなと思って、いたましい気がした」 「体制派にしろ、反体制派にしろ、なかなか彼を継ぐ論客は現れてこない。これは国力の衰退、社会全体の衰退の現象だと思う。 侃々諤々(かんかんがくがく)の議論がなくなった社会は成長しない。知的な刺激を与え合ってこそ成長がある」
・宮台真司 「大衆なるものがどういう存在なのかということを、社会的文脈の全体を参照しながら徹底して考察して、 その理念的大衆を炙り出した上で、それに即して自分自身それに寄り添って行動するということなんですね。 平たく言えば従来のエリート主義を拒絶し、一般大衆が自立できるための根拠になるような思想を提示しようという意欲がありました。」 「吉本さんには二つ欠点があったと思います。ポストモダン哲学または現代思想に対する知識と造詣とセンスがなかったことです。」 例えばフーコーやボートリヤールとの対話があるんですけど吉本さんのあまりの頓珍漢ぶりに絶句しました。 外国語ができず、論文を読まない、ということがあったのかもしれません。いずれにしてもダメでした。 あともう一つ、コムデギャルソンを着て登場し資本主義否定は阿呆だという立場にたった。 僕は間違っていないと思いましたけど、あまりにも軽薄。欲望の構造を変えなければ資本主義は続かない。 しかし彼はその知恵を出さなかった。だから僕らは彼から離れた。しかし、彼の「転向論」は全く正しかった。」 ・東浩紀 「読んでいますが、とくに影響は感じたことはありません。初期歌謡論とか好き。」 「吉本髢セの影響は、自分でもびっくりするほど希薄なのです。似ているところがあるとはよく言われるので、 むしろこれから読み直すべきなのかもしれません。この年齢になって、はじめてわかるのかも。。」
情況からの発言 13 客:81,82,83レス諸氏が丁寧に「作品を作者に帰属させることの否定」はブランショ。と忠言して くれている。ただ、蓮実はブランショを非常に嫌っていて、ブランショは文壇政治家とか、流行に 敏感とか、清水徹との対談で話していたと思うが。すると蓮実は影響されていながら親殺しのよう に批判し、無関係だと言っていたことになるのかな?よく分からんが。 主:あと話は折れるが大阪で学校でイジメにあい、教師も学校も知らん振り。イジメに加担する 教師もいたと言うじゃないか。まあ何でここに書いてきたか分からんがここは吉本隆明スレなん で、吉本の著書の『引きこもれ‐ひとりの時間をもつということ』(だいわ文庫)をお薦めしたい。 学校というのは偽物の厳粛さで出来てる。だからそこが自分は嫌いだった。偽物の厳粛さ、という のは日本社会からいつまでもなくならないもので、率直な意見や人間をいつも疎外することを 常識、常態としながら続いている。自分自身と対話するときには人間は引きこもることになる。 そういうときの言語こそ重要で、他人と対話するだけの時間よりも重要で本質的だ。吉本はあと、 鮎川信夫との1981年の対談で「あらゆる集団は人間をヤクザにする。これには例外はないと思い ます」と語っている。『引きこもれ』という主張にもこの感じ方は入っている気がする。それから、 吉本の理解者で森山公夫(もりやまきみお)という人がいて、精神病研究で吉本も評価している 。関東で陽和病院の院長をしている。ネットにその病院のHPもある。電話番号や住所も。精神的に 苦しいようならそこに相談してみたらいいんじゃないかな。
91 :
考える名無しさん :2012/04/16(月) 00:21:36.62 0
>>89 せっかくの親切心に水をさすようだが、
>>84 は間違いなく悪意のコピペだよ。
>>89 がまじめだということはわかったけど、そのくらいは読み取れないとまずいんじゃないか?
92 :
考える名無しさん :2012/04/16(月) 00:34:28.14 0
>>90 この宮台って人の書いたものを読んだことがないので軽々しく言うのは何なんだが、ずいぶん見当違いというか、吉本の原理的な考察と情況に対する感想をごちゃごちゃにしてるんだね。
自己顕示欲が強いのはいいとしても、自己顕示を自分の正当性につなげようとする感じ方はひどいね。
こういう人でも一部からは一定の評価を受けてるのかな?
メディアに頻繁にでる思想系文化人ですぐにつかまりそうだったからでただけで 月刊論壇誌にはちゃんと読んでる人が評価とか書いてるんじゃないの
情況からの発言 14 客:吉本逝去からはぼ一ヶ月過ぎて、文芸雑誌や書評新聞での追悼もかなり出揃った感もあるけ ど。目についたところから挙げていくか。まず『週刊読書人』での大西巨人「吉本隆明君のこと」から 行くか。これは特に際立った論評はなかった感があるな。 主:一級品の作品とか評価はするものの、また、自分と大まかに言って立場の違いはなかった、互い に認めあっていた、とかが言えることの殆んどで。あとこのインタビュー読んで分かったんだが、 大西巨人は結局『新日本文学』などから完全に切れてることはなかった。内と外との境界線に位置 してる人だったんだな、て分かった気がする。批判もあるし、喧嘩もするんだけど、でも切れてる わけじゃなく、そのつもりもない。組織に居ながら改善していくことが本当と考えている。そうい うタイプと思うな。ただ本当に境界線上にいるから、関係ないようにも見えるんだろうけど、実は それほど離れているわけでもない。理想の前衛党の在り方をまだ考えている人じゃないか。そうい う意味じゃ晩年の埴谷雄高の立場に近いんじゃ、て思うけども。埴谷も良い論文書いてるけど、 でも理想の前衛党という観念を捨てきることはできなかった。大西巨人のここでの吉本への評価 はだから、いくぶん複雑な心境が混じってるし、苦さが入ってくる。その力量を認めながら、でも どっかで、吉本はやりすぎ。て感じてる。それはこのインタビューから漂ってくる。だから吉本よ りも花田の方に共感もするわけだ。花田も吉本を跳ね返りの反共と見なしていたわけだから。そ こまでは大西は言わないにしてもね。花田に同情してる節があるだろう。ああいうのを相手にして 大変だったな、みたいな(笑)吉本という題材を語らせることで大西の滲み出る本音を出させたと いう意味では面白いインタビューじゃないかね。
客:あと興味深かったのは『文学界』の蓮実重彦だろう。80-90年代は辛辣な批判が多かったとい う印象があったろう。周りに浅田や柄谷がいたせいかもしれないけど。敬意を払う一方で「天皇」 だとか、皮肉が多い。ちょっと引用すると 《浅田 (『言語にとって美とは何か』について)読解不能でしょ。 蓮実 読解不能っていうか、ごく単純に書物であることの必然性が分からなかった。とにかく、読者 の方が著者の気持ちをくんだり、あれこれ配慮を示さないといけないという点で、何とも天皇制 的な抑圧を感じたことはたしかです。そして個人的には、そうした抑圧を倒錯的に愛してみようと 自分にいいきかせてみたんです。》(『近代日本の批評 昭和篇 下』107頁 講談社文芸文庫)
これが今回の追悼『「握力」の人』ではこのようn書いている。 《その本質的ともいえる揺るぎない「批評家」吉本隆明の「保守」性を、いまさら批判する意図などさ らさらない。ある一時期にはまぎれもない現実としてあったそのたぐいまれな「握力」の漂わす「 色気」は、その批評的な著作を読めば、いまなお読む者を甘美に魅了してやまぬからだ。》 《いまはただ、「批評家」吉本隆明の誰にも継承されなかった「握力」に心から惹かれていた自分を、 ある複雑な思いで改めて想起するにとどめたい。》 主:自分が愛着を感じている対象に、屈折した言い方しかできないときってあると思うけど。かつ ての批評がそうで。今は諸々に醒めた分、愛着を素直に出せるようになったかにも見える。 客:ただ、2000年以降のインタビューでは「何で吉本を越える批評家は出ないのか」とか「変わった けどいまだに面白い」と評価していた。むしろ浅田や柄谷との関係が抑圧的に働いていたと言える んじゃないかな。抑圧がなくなってその分自由になったと。
97 :
考える名無しさん :2012/04/17(火) 10:12:03.91 0
客:今蓮実のああいう感情の籠った追悼文を読んで、かつての磯田光一との対談とか読むと、当時 からマメに読んではいたのも分かるよ。ただ把握に苦労してるし、理解がずれてるように見える 箇所もある。吉本さんは何故今頃サブカルチャーを評価しはじめたのか。遅すぎるのではないか。 とか。吉本の場合、カルチャーとサブカルチャーの階級が崩れてきたことの認識があって、それか らだから。何で今頃、と言われても困るところだと思う。 主:ただ、今読み返してみて、浅田や柄谷が80年代以降はもうまともに読まなくなって、しかも 見当外れなことを左翼的偏見から喋り出したのに比べて、実は蓮実の場合には、ちゃんとフォロー はしており、ただ浅田や柄谷との党派的な事柄から大っぴらに喋らなかった可能性がある。今あの 『近代日本の批評』における吉本関連の箇所を読んでて、それは感じるな。今回の蓮実の追悼文は 弔問をしているかのような目線、故人への哀惜が感じられる文体といい、 蓮実にとっての吉本が大きな存在感を持つ、自分にないものを持つ異人であった。そのことがよく 伝わってくる。蓮実からこれほどの密度の高い惜別の言葉が今回書かれたというのはちょっと 意外な感じがした。やっぱりいかなる党派も、個人に遠慮がちにさせたり、周囲に合わすよう 促したり、言いたいことを隠させたり、するもんだという。『批評空間』にもそういう党派的な一体 化はあったんだろう。それも今回の蓮実の追悼文から感じさせられたな。
主:蓮実重彦の、異なる大きな存在を惜しむ追悼文を読んでついでといっちゃ何だけど、昔、廣松 渉の追悼集会が雑誌『情況』の主催であって、そこで近代的認識を廣松さんは批判したという村上 陽一郎に、講演後俺は反論して。それは、本当に共同主観性を批判するなら、共同主観性を批判す る際に用いられる純粋客観性までも批判しなきゃいけなかった。純粋客観性を批判しなかったこ とと、廣松さんが結局古典的マルクス主義組織論を否定しなかったことは関係あるんじゃないか。 そう村上陽一郎に質疑したわけだ。それで村上が早口で反論し、それはよく解らなかったんだけど (笑)で、村上の後に吉本の講演があって。そこで吉本が俺と村上の論争に介入したのだと思った だ、「主観性と客観性のどちらが先か、は鶏が先か卵が先か、と同じで。そう目くじら立てる問題で はないと思います」と言われた。それは俺に言ったのか村上に言ったのかは解らないが。ただ俺の 意図としては学的客観性の基盤には、吉本の言語論でいう自己表出だってあるはずだし、仮に 階級闘争が論理的に正しいとしても、論理的に正しいからといって参加したくはない個体だって あるわけだし、もっと根本的にいえば、ある課題を追究する学的意志の、成立する内的経歴。そこ の基盤を無視しては、共同主観性を批判する際に不徹底でしょうという意図があった。吉本の仕事 でいえば自己表出とかで表されるところ。それを言いたかったかんで、「主観性が先か、客観性が先 か」を言いたかったかわけではない。ただその後に吉本が、個体には固有に共同主観性に還元され ないイメージの出所がある。それは共同主観性に還元されない。それは廣松さんの研究では欠けて いる。とやんわり批判した。それは俺の意図と同じと思った。だから吉本の講演にたいし、質疑は しなかった。そういう思い出がある。蓮実のかつての論争を回顧してる文を読んで思い出したけど ね。
客:ちょっと最初の君の質疑はどういうことかよく解らないんだけど。もう少し。 主:思い出したけど。村上陽一郎が講演の中で「近代的主観‐客観図式にたいし、四肢的構造論によ ってそれを超剋した」と言ったんだな。つまり、実際に起こっている事態と、ある主体がある客体 を認識する、ということとは異なる。自分をAとするaが、相手bをBだと認識してしまう。そこで 実際の〈a-b〉という関係は覆蔵されていく。それを明るみにした。それは一大業績だったと。しか しそこで俺は疑問を感じた。廣松に限らないが、ある学問が客観的に追究され、成果が上がる。そ れはしかし、学者という固有な主体が為すものだ。廣松渉に則せば、他ならぬ廣松渉がある業績を 為した。廣松渉がいなければそれは為されなかったかもしれない。廣松渉という主体とは何だ。そ れと客観的研究との意味は。それを考察しなければ、真に「主観‐客体図式」を批判することにはな らないんではないか。そこで純粋客観性を為す主体「廣松渉」がなければならない。そこが考察され ない限り、マルクス主義において、全体を偽装する倫理が現れることは避けられない。それが俺が 言おうとしたことだった。だから吉本が、「廣松さんの研究で、全ての認識は共同主観性に包括さ れると言うけれど、個体のイマジネーションは共同主観性とは別個にあると思います」と言った とき、それは学者のイマジネーションでもあるわけだから、それは俺が言ってることと同じと 思った。そういう感じだったと思うな。
101 :
質問人 :2012/04/18(水) 10:40:02.01 0
>>100 >自分をAとするaが、相手bをBだと認識してしまう。
>そこで実際の〈a-b〉という関係は覆蔵されていく。
そう言ったとすれば、これはあたりまえのことだとしかいいようがない。
すべての考察の前提に過ぎない。
>廣松渉という主体とは何だ。それと客観的研究との意味は。
>それを考察しなければ、真に「主観‐客体図式」を批判することにはならない
それと
>そこが考察されない限り、マルクス主義において、全体を偽装する倫理が現れることは避けられない。
とのつながりにもうひとつ明確さが欲しい。
これだけでは「言いたいことはわかるが」としか反応のしようがない。
客:しかし、その四肢的構造論なんだけど。a以上のAがb以上のBを認識する。そういった、認識の 本質を提起したという。その構造だけ眺めてると、個体の無意識とかも入ってくるんじゃ、て思え てくるんだけど。そうじゃないと。 主:残念ながらそういうものではない。『存在と意味』という、廣松の後期の主著があるんだけど、 その本で当然無意識が出てくる場面でそれは単に「無」「下地」とされていたり、無意識の力動とか も持論の成立の為に故意に無視している。だからここでの生の捉え方は全く生気はない。個体の 動態が出てくるべきところでその概念を素通りすることで成立する論なんだ。これを評価する 人間がいたらちょっと不思議に思う。あとは「凄い」という先入観で褒めたりする向きもあるか もしれない。多分あれをちゃんと目を通した人間もいないんだよ。凄いという伝説ばかり流通す る。実際にはさほど読まれていない筈だ。敢えて放言させてえもらえば『存在と意味』という本は これもリアルな概念を避けて通ることで成立してるとんでも本。またはマルクス主義の末裔だよ 。岩波書店から最初出たんだけどあそこも物好きだと思うなあ。宮台とかが廣松を恩師として敬 意を払い、色々書いてるみたいだけど、『存在と意味』を所々読むだけでそのイビツな人間理解は 伝わってくるよ。こっちは別に就職や卒業試験で世話になったわけじゃないから存分に感じるま まに言うけどな。おそらくマルクスの伝記とか書いてるうちはまだ良かったんだろうが。オリジ ナルな哲学を構築するようになるとダメだったな。物象化的錯視は廣松の専売特許だけど、『存在 と意味』だって立派なマルクス主義的錯視じゃないの、て思うね。個体を「共同主観性の分肢」以外 ではなくしてしまい、没‐交渉性などなきかのようにしてしてしまう。間違ってるとしか言えない。
客:どうも廣松のスレみたいだけど、吉本と廣松との関わりで何かないの? 主:ちょうどその廣松渉没後一年シンポジウムで『情況』の古賀さんて人が言うには、廣松と吉本 の対談を企画していたらしい。で、もし実現していたら、どんなに凄い対談になったことだろうと 思います、と舞台から挨拶してた。実現するまでに廣松が病で倒れ、実現しなかったらしいけど。 あと廣松と丸山圭三郎、今村仁司の公開座談会が90年7月に池袋西武であって。講談社現代新書 で3人とも出すことになってその記念のだったらしいけど。そこでやっぱり質疑応答があって。 俺は廣松に「やはりマルクス等の研究をしてる方で吉本隆明さんがいらっしゃるけども、吉本さん についてどう評価してるのか、ぜひ聞かせてください」とお尋ねしたところ、こうたしか答えられ た。 「わたくしは吉本さんのことを大変尊敬しております。よく共同主観性と共同幻想とはどう違う ?と聞かれるんですが。最初は違うと考えていました。しかし、今は、重なるところもあると思っ ています。あと吉本さんのマルクス理解で自然哲学者マルクスというのがあるんですが。わたくし はそれは違うと思います。ただ、別にいいではないか、そもそもマルクスをダシにして吉本さんが 自分の思想を語ってるのだから、訓古学的なマルクスよりかよっぽどいい、と思います。こんなと ころでよろしいでしょうか」 で、これで終わりではなかった。最後の最後に廣松はこう言った。 「最近、資本主義にも良いところがあるとか、言っている人がいらっしゃるようですが、わたくし は全く思っておりません」 最後の言葉は、これは吉本のことだろうと俺は思った。歴史の無意識としては、資本主義は最高の 作品である、というのを指しているんだろう。そう思った。
104 :
考える名無しさん :2012/04/19(木) 00:37:43.35 0
>>102 >>103 いくら本を読んでもいつも消化不良おこしてるメンヘラだな。
いい加減に情報屋から足を洗って自分を見つめ直せよ。
客:で、その廣松渉没後1年シンポジウムでの吉本の廣松への評価はどうだったの?まさか酷評で はなかろう。 主:「戦後のいち左翼(吉本自身のこと)からみた廣松渉」というテーマで話していた。その内容は 情況出版から出てる廣松渉論集に掲載されてるから読める筈だよ。マルクス思想の復元に努めた 廣松に敬意を払い、ただ、後期のオリジナルの哲学については先に挙げたような、個体の表出する イマジネーションがそこにない、というのが文学者根性からすると違うと思える、それは控えめ に批判を入れていた。ただ、ここでの吉本はかなり押さえていたことがその後のインタビューで 分かってきたんだけど。『存在と意味』のような著作には疑問視していた。それは酷評だったと思う 。あれには明らかに不満だったはず。機能主義 functionalism で人間を纏めている、と。その 言い方で、関係主義‐廣松の哲学でいう〈関係の一次性〉‐で包括できない幻想、表出、イメージがあ ることを暗に示していたと思う。でも一方、廣松のマルクスへの情熱には敬意を持っていたのも 確かだよ。それだけに後期の哲学には落胆してたんじゃないか。もしも『情況』の古賀さんの言う 吉本=廣松対談が実現してたら、その辺のやり取りは出てきていたろうね。読みたかったけどね。
あと、廣松後期の哲学についての俺の解釈があるんだけど。廣松が俺の質問に、共同主観性と共同 幻想には重なっているところもあると後から思いました。としているところに、そうかな?て思い がある。これらのどこが違うのかって答えは一つだけ明瞭にあると思う。吉本の言う共同幻想の 説明で、あらゆる共同幻想は消滅しなくてはならない、というのがあるでしょう。翻って、では 共同主観性にも廣松がそう言うかといえば、違うと思うんだ。マルクス主義にとっての共同主観性 というのは認識論としての土台であって、そのために廣松はあれを考え出した。だからそこに個体 のイマジネーションとか、表出とか、没‐交渉性とかが省かれてしまうのは必然なんだよ。そこで これが必要とされた経緯を鑑みれば。共同主観性と共同幻想がどこが違うか、はそこに帰着すると 思う。共同主観性の哲学は廣松のマルクス主義にとっては不可欠なんだ。マルクス主義に付随する 哲学なんだから。モチーフからして全然違うでしょ。
あと、質問人さんが尋ねてらしたけど、学の追究のおいても、それが個体としての人間に よ り為される以上、それが個体の本来性に向かう動力と無関係とは言えないんじゃない か。それがある個人によって為されるという事実をどう見るのか、と聞いたわけで、そこ で個人性を無視してはいかんでしょう。そもそも何が自分に切実かが個体の根拠でもあ るのだから。それが蔑ろになれば、どこかの国家の教育のように、人類の真理である哲学 を丸覚えさせ、鸚鵡にする。そうなるのじゃないですか。廣松哲学が近代知を越えた、と されていたので、ならばそういうところまで言いきるのでなければおかしいのでは?と きいたわけです。学校教育が過去の偉人の発見を丸覚えさせ、鸚鵡みたいにし、それを 試験で点数つけ、序列化しますね。何でこれが変なのか。真っ正面から問いかけることは あまりない。でもやっぱりおかしい。そういうこととも絡みます。そういう感じでしたけ どね。説明が足りませんでした。
客:君の話は廣松渉とか全然駄目だと言いたいみたいだけど。少なくとも日本の70年代以降の 哲学にとって無視できる存在ではないだろう。没後に岩波書店から著作集が出たり没後1年に シンポジウムが開かれたり。それに吉本まで出て講演までするわけだから。 主:いや、80-90年代までは廣松渉がマルクス主義への興味を繋いでいたところはあった。やはり 岩波セミナーブックで『資本論を物象化論を視軸にして読む』が廣松編集で出たり、お世話になった のは確かだよ。ただ今にして思えばそれは難解さという鎧に気分的に酔った体験に思えるんだよ 。よくよく考えていくとおかしいところでね。『存在と意味』とか、特にそうだった。その反動だろう ね。マルクスへの興味を繋いでいたのは紛れもない廣松渉だった。それは70-80年代には多くの 人がそうだったんじゃ、て思う。ただ廣松渉の哲学となった場合、少なくとも俺の場合は読むにつ れてこれはマルクス主義を成立されるための人間像の要請から書かれたというのは感じてしまう。
109 :
108 :2012/04/20(金) 21:52:59.07 0
それが面白いと見る人もいるだろうけどね。いや、その情熱は凄いし、でもそれこそ山本哲士に 倣えば実際存在 pratique から遊離しており、そういう哲学を構築することに意義深いと言える んだろうか、という疑問が出てくる。でも、先に挙げた廣松、丸山、今村の公開座談会のテープを 実はいまだに保存してるんだけど、改めて聴いてると、明快で歯切れの良い話しぶりといい、 明るい人柄といい、いろんな人が付いていったのは分かるよ。大きな人だったというのは伝わって くる。
客:『図書新聞』から出ている「追悼 吉本隆明」は凄いぞ。吉本追悼文を22人もの評論家や詩人、 編集者などに書いてもらっている。中でも山城むつみが吉本の根本として提起している《外面は ハードな「大人の論理」でも、内側に包まれているのは「子供たちが感受する異空間の世界」》という のは言い当てている。《吉本氏の「大人の論理」は今後も様々に批判され様々に継承されるだろう。 大いに批判され大いに継承されるべきである。しかし、「子供たちが感受する異空間の世界」への あの感性は、批判することも継承することもできない。》とその唯一無二の本質を提起している。 なかなか良いところを衝いているじゃないかと思った。反対に、これは違うと思えたのが橋爪大 三郎だ。フーコーとの対論で吉本が提起した意志論を取り上げているんだけど、対論で吉本が、 意志の領域を自分なりに突き詰めたのが幻想論だと説明してるのにその意味を受け取りかねて、 《さて意志は、人々めいめいの決断のことで、理性と協働するが、理性そのものではない。理性の 活動に後続して下される決断をいう》としている。これは個体幻想論の意味‐覆蔵される歴史的 経歴と現成‐を全く受け取れていない理性主義で、わざわざフーコーに自分の幻想論のことを 挙げた意味がない。そういうことを個体幻想ということで探ったわけではないと思う。笠井潔も 連合赤軍事件への吉本の評価が《場合によっては自分もたんなる馬鹿になるかもしれないという 想像力が、吉本氏の連合赤軍評価には希薄だった》も、全然読めていないし、《共同存在としての 人間の心的な機制」と「個体としての心的な機制」とは同じようにははかれない、精神病とかいう 問題ではないと他ならぬ吉本が事件直後の「情況への発言」で語っているのを知らないんだろうか?
蓮實重彦の追悼文を読んで思ったのは蓮實も年取ったかなということですね。後期高齢者ですから。
情況からの発言 15 客:111レス氏が「蓮実も年をとったということかな」と解釈している。確かに蓮実も柄谷ももう70 前後だ。そういうところはあるだろうね。そこに全部収斂させることはできないにせよ。蓮実にし ては情愛が感じられる文章で、これをあのダンデイズムが書いたのか、と思う意外性があった。心 からかつての論争相手を哀惜しているものだった。 それで、笠井潔が吉本は連合赤軍事件に馬鹿としか言わない、冷淡、と書いてるのでここで改めて 『情況への発言』を読み返したんだけど、笠井の話と違い、世の精神医学者が精神異常と決めつけて 狂人扱いするのを口を極めてそうではないと反論し、アジア的専制主義に〈家族〉〈個人〉を同化さ せる理論的問題があると主張している。逮捕後の永田洋子が手記で「何故こういうリンチ殺人など になったか、懸命に解明しなければ、14名同志の死は報われない」と書いているのを認め、この 永田を含め連合赤軍事件を精神異常や集団犯罪心理や狂気で始末しようとする精神医学者の方が むしろ〈狂っている〉と言うべきだとまで言っている。これは笠井潔の回顧とは180度違うと言うべ きだ。『完本 情況への発言』p.111-126を読めばすぐに分かる。もうひとつ。大衆の原像について 、《大衆が大衆のまま、至福であることを耐え難いと感じる。たんにハッピーであればいいという 大衆の位相から離脱すると、「知識人」にならざるをえない。この図式を吉本氏は最後まで疑わなか った》とある。これも、生まれ、成長し、働き結婚し、子供を育て、背反され、老いる、といった原像 は価値の収斂する場所としてあるが、同時に人間はこの場所から大なり小なり逸脱することでしか 生きられない。歴史に登場するとかは逸脱の最たるものだ、としている。《人間は求めて平坦を手に 入れることもできないし、求めて波瀾を手に入れることもできない。ただ〈強いられて〉生涯を手に いれるほかない》としている。これも笠井が言うほどに単純な話ではない。笠井が吉本を最早まと もに読んではいなかったろう。
主:ただ、そういうタイプは批評家でもいたし。竹田青嗣なども麻原評価以来離れてしまい、その後 インタビューで吉本の麻原擁護を全く理解できないし、やはり麻原擁護を批判した小浜逸郎への 吉本の反批判を「たわ言」と言い切っていた。これもガラッと変わった一例だと思うけども。だけど 今回の一般紙での追悼ではまた竹田が出てきてるんだな。もう竹田のスタンスは分かると思って 読んでないけど。 客:このsnafkin7の話を読んでると俺達との違いが分かるよ。この人が詰まらないと感じた80 年代後半も決して詰まらないとは感じず、90年代前半の麻原擁護の時も麻原の著書を読んで把握 もしょうと試みた。オウムのショップに行って著書を買ったりね。そのせいか解らんが竹田青嗣 の轍は踏まなかった。麻原の著書はそれなりに読ませるものはあったからね。精神世界や心的世界 への理解として、かなり良いことが分かった。吉本がこれを評価するのが頷けた。人間の精神とい うのを、内的経歴の現成と見る点で『心的現象論』との横断線もあると思った。竹田やsnafkin7の 評価には全然頷けないし、そもそも麻原の著書の一冊でもちゃんと読んだのかも疑問だ。或いは 読んだが最初から色眼鏡でおり、何も把握できなかったのではないか。それなら彼らの言うよう になるしかない。
客:あと、一般紙に掲載される追悼とまた別個に個人のブログで発表されている追悼、評論もある んで、幾つか目を通してみたんだけど。かなり辛口のもある。でもよくよく考えれば、一般紙に出て くる評論と同じで、単純に読み取れない故にそうなるというケース、あと、麻原評価、また原発論 、文学者の反核運動批判などを知って批判しだす、というケース。二つは重なる訳だが、その2ケー スに大別できる気がした。ブログで興味深かったのはHNがsnafkin7であるコピーライターの人 で、この人は俺達(主客)と同世代で、同じ吉本の講演やイベントにも参加していることが分かった 。87年の24時間連続講演『いま、吉本隆明25時』にも来てて、感想文がその後のこのイベントの 単行本にも収録されてる。ブログによると、《菅谷規矩雄さんは私の前で呑んだくれていた》との ことで、その菅谷規矩雄が講演途中で会場入りして、「ここ空いてますか?」と俺に聞いて、目の前 の席に座ったのだから、このsnafkin7と俺はもしかするとかなり近かったかもしれない。ブログ によると、高校時代にZ会のテキストに吉本の文章があってそれから読み始めたとある。多分それ は70年代後半だろう。ずっとフォローしてて、それが80年代後半まで続いた。『相対幻論』の影響 で広告業界に入った。しかし『いま、吉本隆明25時』のころから離れていく、インターネットの 世界の方が面白くなってきた。90年代の麻原擁護や小沢一郎評価で異和感を感じ、95年の水難事故 の頃に決定的な異和感になった。最後まで発言し、しかしそれは迷走、と辛口だ。途中までは俺達 と重なってるんだけど、途中からガラッと評価が変わるんだね。
情況からの発言 16 客:吉本追悼の面々の中で看過するべきではない発言があって。長年対談で相手を努めてきた芹 沢俊介が、「吉本さんとの縁」でこう言っている。芹沢は2007年以降疎遠になったこと、その理由 について、『生涯現役』で吉本が芹沢と米沢慧をホスピス運動家と断じ、本人たちは良いことをし ているつもりだろうが、実はナチスの優生思想と同じで、ナチスはまだ優生思想という自覚があ ったが芹沢と米沢には自覚がないから尚悪い、と断じたことを挙げている。これを芹沢は吉本の 「暴走」「妄想」としている。因みに米沢慧の『往きのいのちと還りのいのち』を読むと、脳死者の臓 器移植が本人の生前の承諾、また家族の承諾があれば可能になったことを指して、「脳死=いのち」 とルビをふるべきであること、脳死患者の臓器移植が可能になったことを指して、生命の概念が 変わったといえること、が主張されている。 俺からみて、ここには現代医学における死の概念がそのまま写されているといえる。それはまた 、現代医学において生の概念が写されているということでもある。現代医学の生の概念とは何か といえば、人格の映現、身体の可視的活動、脳の活動などだ。それらが消失したとき、それを死と 同じとする。吉本の用語でいえば動物性と人間性で、これが消失したことが死とされる。よって、 まだそれらが残存している人間に、臓器を移すことが可能にもなる。この考え方の背景に、臓器を 必要とする人間の存在、そして、脳死患者に臓器を持たせても意味がないとする、考えがある。こ の2つの考え方が横たわっている。。少なくとも医学と患者家族、また文明の水準でその考え方が なければ臓器移植は考えられないはずだ。
米沢慧の考え方の根底、また米沢が肯定的な現代医学には、生命の選別という思想がないかとい えば、そこで臓器を保有するべき人間の選定が為されていく訳だから、そこで一種の優生思想だ と言わせない道理はない。これを米沢は末期患者の看護と込みで展開し、「還りの医療」と名付け ている。患者を治療し、社会復帰させることを「往きの医療」として、まるで親鸞ばりの用語で纏 めている。米沢は三木成男も愛読しており、吉本と思想的接点がないわけではない。しかしそうい う問題ではないと思ったに違いない。 主:長年対話をしてきた芹沢俊介との関係がそうなっていたというのはでも意外だったな。 客:芹沢は吉本の死後に「暴走」とか「妄想」とか言うくらいなら生前に言うべきだ。あれだけ色んな 対話をして、話が自分と吉本との差異になると沈黙するとは戴けない。 主:80年代以降の吉本=芹沢対談は面白かったしずいぶん読んだけどな。最後の最後に小さな汚点 を残したって感じだな。 客:吉本と論争をしたくなかった、と言っている。でもそこで気張らないと。死んでから初めて、と うのはないだろう。
客:ただ、『生涯現役』のあの箇所も、確かに何故米沢慧のホスピス讃歌が「ナチスの優生思想」と 関連づけられるのか、はかりかねるところがある。米沢という人の言論を追っていけば、臓器移植 に生命概念の変更を促す多大な意味付けが為されており、それと脳死患者とが直結する訳だから、 吉本のように優生思想、‘誰を生き延びさせるのか、誰を死なせるのか’の選別を生む、その意味で 問題点が大きいことは読み取れる。ただ、『生涯現役』ではそこまで話されている訳ではなく、あれ はインタビュー本だから聴き手が居るわけで、インタビュアーが突っ込めばいいものをそのまま 流してしまっている。だからあの箇所は曖昧なところが残ってしまっていると思う。一方で芹沢 はといえば、芹沢が共鳴して一緒に講演会もしている米沢慧のことを知らないことはなかろうと は思うが、当然論争となって然るべきところで黙りを決め込み、論争するべき相手が病死してから 初めて反論を始めるというのはどうみても姑息さが目立つ。死んでしまってもう反論も相手ができ なくなってから、というのは卑劣じゃないか。 主:でもまあ、ずっとこの件を、つまり思想的決裂があったことを伏せておくよりはまだ良かった とも言えるでしょう。実は疎遠になっていたことなど俺も知らなかったし。ただ、吉本の論争の解読と かもしていた筈の芹沢が、死んでしまって反論できなくなってから言い始めるという遣り口に、 喧嘩の鉄則からずれてることへの負い目がないとしたら、かなりな墜落ぶりだとは思うけどね。
118 :
主客 :2012/04/29(日) 10:38:01.98 0
情況からの発言 17 客:『現代詩手帖』5月号が追悼総頁特集で出てる。そこに橋爪大三朗=瀬尾育生=水無田気流の鼎 談がある。パラパラ見てると中で吉本思想とハイデガー思想の近縁ということも喋ってる。水無 田という人は木田元のところでハイデガーについて勉強もしたらしい。これは期待できそうだと 思ったが。でも吉本の言う自然がナトウーラじゃなくピュシス、というところを吉本自身に確認 した、というところ以外は全然分かってなかったね。指示表出=自己表出を関連づけるなら、指示 表出は事物を指す。自己表出はハイデガーでいう情態性であることはすぐ関連づけられる。幻想 というのがハイデガーでいう〈ある〉の根拠としての超越論的領域、有=存在であろうことも容易 に分かろうというものだ。せめて幻想=有 Sein というあたりは押さえないと。どこが関連ある のか、てことになり、目も当てられない。実際木田元の弟子の水無田は当てずっぽうなことを言う だけで全然核心的なところは言えてない。やっぱりハイデガー研究者とか、全然当てにならない しセンスもないし、目も当てられない、ということが分かっただけだ。木田元の教えを受けた、と か、如何に当てにはならない目安か、という見本だよ。 主:その鼎談でいうと、瀬尾育生だけが辛うじて独自に読みを進めているのは察知できたね。橋爪 は物知りだけどそれだけだ。『図書新聞』の吉本論でも意志論で見当外れなこと書いてたしな。 客:水無田の話に戻れば、NPOで母親の子育て支援をやってる、てことだけど、それより肝心の吉本 とハイデガーとの関わりを詰めるのが先だろう。親鸞思想における行為の把握が『歎異抄』にある が、業縁というね。これだってハイデガー的だよ。ハイデガー研究者がいるというので期待したけ ど全然核心的な話がでない、センスがないのでのでガッカリしたな。
119 :
主客 :2012/04/29(日) 12:13:41.24 0
主:技術ということでいうと、技術というのもが存在を塞いでしまうのか、開放してしまうのか、 は未決定とする、というところもハイデガーと吉本は共通してると思う。ハイデガーというと、集 ‐立 Ge-stell というような、主体を駆り立てる動力というところもあるけど、一方、放下 Gelassenheit というところで、技術を放置し、それが存在を塞ぐ限りで止める、という付き合 い方も提起してる。そこでは技術への両義的意味付けがされている。そこがハイデガー技術論の 際どい、また命運を言い当てているところでもある。 客:第一、現代の表現作品を見れば、映画にせよ音楽にせよ、高度な制作技術、再生技術を抜きには 考えられない。表現の微細なものまで作成、再生できるようになった、それは明らかに存在の開放 をそこでは実現していることを証してる。やはり現実の技術は両義的だよ。 主:しかし、水無田という人はハイデガーの後期詩人論・芸術論が専門らしいけど? 客:中期・後期は『有と時』からまた主張が発展していく面白いところだからね。だけど、この人の 師だる木田元は実存とハイデガー研究とがどう繋がってるか、度々発言してるし、そこは分かりや すい人だけど、水無田って人からはどういう実存からか、というのが伝わらないね。この人くらい 若い世代なら、『哲学への寄与論稿』とか、物凄いrealityを感じさせるはずだけど。やっているこ とがNPO母親の子育て支援で、とても〈底無しの深淵〉を感じているようには見えない。この鼎談を 見てても、瀬尾がどこかで言ったという、吉本が党派性を無化してしまった後、政治も文化も根無し 草になってしまった、という発言に興味を覚えた、と言っている。行動的大衆とかをどこかで模索 してる人じゃないか、て感じさせるんだけどね。 主:ハイデガーにせよ吉本にせよ、読めば内省を強いる素材なんだけど、どうもそんな感じじゃな いね。残念ながら。
120 :
考える名無しさん :2012/04/30(月) 00:21:06.52 0
>>118 質問人です。
>せめて幻想=有 Sein というあたりは押さえないと
に驚いたんですが、吉本の「幻想」がハイデッガーの「Sein」と同じなんですか?
121 :
主客 :2012/04/30(月) 04:50:43.44 0
主:何だか橋爪の悪口ばかり言ってるけど、良いことも言ってるんじゃないか?コミットする対象 が今、見つからなくなったことを受けて、吉本が方向を変えて、何やらを信じなさい、と言うかと いえば、そういうことは絶対にない。コミット対象がない。それでいいんだ、と吉本なら言うだろう 。《この課題は時計を逆回転させて克服するのではなく、この課題を引き受けていく方向でその先 に進めていく以外にはないと。まっとうなことを言ったと思う。》これは橋爪の言う通りだろう。 客:それを受けて、水無田は、最近「絆」ばかりが流通して、《お題目のように「絆」と言われると、解体 して別な方法を考えないといけないのではないかと思ってしまう。》とこれまた率直に言っている 。 主:二人の発想の根底に、かつての枠組みや組織論がなくなって、じゃあ何に頼るのか、てなるけど 、 客:その辺はどういう方法を使ってもいいというふうに捉えるべきだよ。インターネットでけしか らぬ企業を告発しようが、企業を訴えようが、ゲリラ的に考えればいくらでも資本や国家と戦う 方法は見つけられるはずじゃないか。だけど、大衆というところから見れば、「絆」も嘘っぽいなら 、「新しい市民」も嘘っぽい。「新しい労組」も嘘っぽい。「新しい左翼」だって柄谷みたいで嘘っぽい 。でも、拘束や政党と関係ない抵抗や闘争は、何をやってもいいという前提で考えれば、色んな 方法が見つかると思うけどな。「新しい抵抗」を夢見るなら、ゲリラ的に色んな方向に考えていけば いいと思うけどね。水無田が心配する必要はないよ。この人が本当はかつての左翼のような大規 模な運動や行動を夢見てるならそりゃ大変だろうと思うけどね。何となくそう夢見てるような 節もチラチラ匂ってるから。
122 :
主客 :2012/04/30(月) 12:15:41.15 0
客:質問人さんからまた新しい質問なんだけど 質問人です。 >せめて幻想=有 Sein というあたりは押さえないと に驚いたんですが、吉本 の「幻想」がハイデッガーの「Sein」と同じなんですか? というもの。これにはただ保留があり、というのは、ほとんど同じだけど、ハイデガーの場合は、 共同幻想、対幻想に該当するようなものは論じていないこと。しかし、吉本の用語でいう個体幻想 というところと、現有 Dssein というのはほとんど同じ、とみることは可能ということです。た とえば吉本の個体幻想論では母胎における受精から人間の経験は始まる、とし、母親の経験が胎児 に刷り込みされる時期がある、となっている。これはハイデガーでいう世界の‐内に‐有ること In-der-Welt-sein の発想と同じで、ハイデガーの「根拠の本質について」では 《現有は世界を生起せしめ、世界を形成することで現有自身に或る根源的な見え(形象)を与え、そ の根源的な見えは、殊更に〈対象的に〉把握されてはいないが、それにも拘わらずっまさしく、そ の都度の現有それ自身がその下に属しているところのすべての開示されうる有る有るもののため の先‐像〈すなわち、原‐像〉 Vor-bild として機能している。》(『道標』全集9巻 創文社p.195)
123 :
主客 :2012/04/30(月) 17:27:57.96 0
としている。これ自体、吉本の原了解以前の適切な解説といってもいいものです。また、ハイデ ガーの有名な前期の概念で時熟 Zeitigungというのがありますが、これもまた、心的現象論の 適切な根拠といってもいい。例えばこう書いてあります。『有と時(存在と時間)』の一節です。 《根源的にして本来的な時性は、本来的将来から時熟し、しかもその時性が将来的に既有しつつ 初めて現在を目覚ますという仕方で、時熟する。》(『有と時』創文社全集2巻p.488)) これも原了解以前のとても適切な解説になっている。この時熟にしても、世界の‐内に‐あること にしても、ハイデガーの根本概念になるもので、枢軸となる概念である。それが心的現象論の適切 な解読として読める。元々、吉本自身が幻想という語彙について、共同幻想については良いけども 、個体幻想や対幻想についてはあまr妥当じゃない、と回顧してる箇所があります。 《個人幻想というのは、個々の人間の精神現象とその集まりのことを言っているわけで、共同の 場合や制度的な場合と比較したらまったく違う意味になっちゃいます。だから、本当は違う言葉を 使わないといけないんでしょうね。僕は勝手に使っちゃっているわけです。》(『戦後55年を語る E』p.66) ここでより微細に両者を眺めると、幻想という場合には、〈ある〉にまつわる表象、判断、事物、イ メージと、その根拠となる時間の総称になっているんじゃないか。で、有 Sein の場合には、何 かが〈ある〉、何かで〈ある〉にまつわる心、気分、イメージ、衝動、気がかり、好き嫌い、価値観 、本来性と、それを可能にする根拠、だと思います。その辺での微細な違いはあるけども、両者と も、個体にとっての世界がどこから来るのか、また、如何なる拘束を個体にもたらすか、に多大な重心を見て いる。その内的経歴、時熟ということへの重心が同じで、吉本の言葉でいうと、〈本当のことの起 源〉への視線が非常に似ている。その辺ですかね。。
124 :
主客 :2012/04/30(月) 17:34:07.77 0
主:そういう言い方もあるけど、有 Sein という言葉で、〈ある〉を可能にする超越論的領域を問題 にしようとしたのがハイデガーで、幻想という言葉でも、〈ある〉を成立させる領域が問われていく。 そこは同じだ。また、『心的現象論』自体、そこでの問いかけはそれだったと思う。その問いをめが けて論は進められていくわけだから。問題にされている事柄は同じだったと見ていい。1988年に 弘前で開催された太宰治シンポジウムで吉本は講演してるんだけど、その講演で太宰治にみた 資質‐生と死の境を超え易い‐は、まさに太宰治にたいして原了解以前を見つけ出し提出したわけ で、そこでの取り出し方はまさに太宰治にとっての〈ある〉の成立する磁場とは何か、で。有論とい ってもいいし、心的現象論といってもいいという論だった。ことほど両者の問いは同じ方向を目指 していた、ということ。幻想というターム、有(存在)というタームで狙われていく問いというのが 互いに補い合っていた。といえる。だから互いに互いを解読してるかのように読めてしまう。そこ が謎であり、吉本の読み方としてヒントになるところじゃないか。
125 :
考える名無しさん :2012/05/01(火) 00:31:43.99 0
丁寧にありがとうございます。質問人です。 さて、せっかく説明してもらったんですがハイデッガーの引用部分は私には理解不能です。 あらためて読んでみることにします。 >幻想という場合には、〈ある〉にまつわる表象、判断、事物、イメージと、その根拠となる時間の総称になっている >幻想という言葉でも、〈ある〉を成立させる領域が問われていく この「〈ある〉」あるいは「〈ある〉を成立させる領域」というのは吉本の著作ではどう書いてあるところと対応するんですか? それとも具体的な表現ではなく「心的現象論」全体の方向ということですか? また「吉本の読み方としてヒントになる」というのは、なにか主客さんなりの読み方があって言ってると思うんですが、どういうことを想定しているんでしょうか? いつも質問ばかりで申し訳ありません。
126 :
主客 :2012/05/03(木) 03:41:09.68 0
客:質問人さんからの問い合わせが来ている。 >幻想という場合には、〈ある〉にまつわる表象、判断、事物、イメージと、その根拠となる時間の 総称になっている >幻想という言葉でも、〈ある〉を成立させる領域が問われていく >この「〈ある〉」あるいは「〈ある〉を成立させる領域」というのは吉本の著作ではどう書いてあると ころと対応するんですか?それとも具体的な表現ではなく「心的現象論」全体の方向ということ ですか?また「吉本の読み方としてヒントになる」というのは、なにか主客さんなりの読み方があ って言ってると思うんですが、どういうことを想定しているんでしょうか? まず、〈ある〉或いは〈ある〉を成立させる領域、とは吉本の著作では何 を指すのか、というのは『心的現象論序説』での心的世界、心的現象の分析があります。心的世界を 原性的疎外と純粋疎外の領域に分け、その前提を見い出し、改めて心的現象を分析するのがそこ の思索で、『心的現象論 本論』では妄想の分析、また意識の核、起源の分析が行われます。そうした 辺ですね。
127 :
主客 :2012/05/03(木) 03:41:51.70 0
主:あと、「互いに互いを解読してるかのように読める。そこが吉本の解読にヒントにな る」というのは、吉本の『心的現象論』全体というのは、これは私の感じですが、根本に存在 論的裏付けというか、前提があった方が、入りやすい。実際はあれは、序論で、吉本により 、心的世界の叙述 という項目があって、心的世界をそれ自体として扱えることが論の前 提とあれている。だけどもあれだけじゃなく、実はあれは存在論でもある。単に心的世界の 分析、ではないと思うんです。心的現象論と同時に一級の存在論でもある。で、ここでハイ デガーの『有と時(存在と時間)』を鑑みると、吉本の理論の理論的骨格らしく読めるとこ ろが多く含まれている。現有は既有的に将来する。時熟する。本来性とは没‐交渉的な自 ‐立性である。と、『心的現象論』の理論的骨格と言ってもいいものがある。これが、ヒント になる。更に『有と時』というのは、実は〈自立〉という語彙を重要なところで使ってる。そ れは、自己は自己に、叫ぶ。良心や本来性と同じ意味で使われるわけで、それが吉本の言 論の本質を読む上でとても参考になると思います。例えば《呼び掛けられる者もまさに 現有であり、つまり最も自己的な有り・能うことへ(彼自身に‐先立って…)呼び起こされ ている現有である。そしてその叫び掛けを通して現有は、ひと(配慮された世界のもと に‐既に‐有ること)の内への頽落から、叫び起こされてある。》(『有と時』第57節)と 良心について言われる。それは自己が自己に要求する本来性である良心で、これをハイ デガーが自己性としてまた自立性ともしていく。そこが吉本思想の中枢にもあると思 える。自立思想の理論的土台にも見えるんですね。
128 :
質問人 :2012/05/03(木) 13:14:02.59 0
>>126 >>127 いつも丁寧なレスありがとうございます。
ハイデッガーについて何か言えるほどの知識はないけど、一般的な概説と以前自分が読んだときと同じ印象を持ったことだけで質問したい。
ハイデッガーの「存在」はどうしても人間の中にだけしかないように読めてしまう。
その点はどうなんだろう?
だからハイデッガーは(ナチス的?)優生思想を導き出してしまう。
表面的過ぎるかもしれないし自分の読み違いもあると思うので訂正をお願いします。
129 :
主客 :2012/05/03(木) 14:55:44.33 0
まだあります。『心的現象論』というのは文芸評論の基礎づけであると同時に精神現象や精神 病の基礎づけでもあります。そこで精神病の様々が吉本の心的現象論から分析されていくわけで すが、ただその分析の大枠での理論的根拠がやはり分かりにくいところがあります。吉本は、病気 となった内的経歴が分かれば治るはず、と言うけどもその理論的背景はどこか、というところで、 『有と時』にヒントがある。《(…)覚悟性は、本来的に実存することのその都度の事実的諸可能性を 、その覚悟性が被投的覚悟性として引き受ける遺産、そういう遺産から開示する。覚悟を決めて 被投性へ帰来することはそれ自身の内に、伝来された諸可能性をそれ自身に伝承することを、蔵 している。とはいえその際必ずしも、伝来された諸可能性を伝来された諸可能性として〈明らさま に承知しつつ〉それ自身に伝承するとは限らない。》(『有と時』第74節)つまり、精神病に置き換え るなら、《反復はむしろ、現で既に有った実存の〈内に含まれている〉可能性に応答する。》《今日な お「過去性」として働きを及ぼしているものに反対して》(同)というふうに書かれ、吉本の語彙で いう関係性と了解性の破綻に陥ったその内的経歴を遡行し、解いていき、元々あった筈の内的な 諸可能性に応答することだ、その応答を反復することだ、と述べる。ここなど、吉本の分析の理論 的根拠とも取れる箇所で、『心的現象論』にとって非常に重要だと思えます。
130 :
主客 :2012/05/04(金) 08:46:13.84 0
客:質問人さんからの新たな問い合わせが来ている。こちらのレスに礼を仰っているけども、とん でもないし、まあ、畏まらずまたやってみます。 >ハイデッガーの「存在」はどうしても人間の中にだけしかないように読めてしまう。その点はど うなんだろう?だからハイデッガーは(ナチス的?)優生思想を導き出してしまう。 とのこと。 多分これは東浩紀が作品社の『思想読本 ハイデガー』に書いてた文章から、だと思うんですが。 『形而上学の根本諸概念』で世界形成的(人間)、世界貧乏的(動物)、無世界(石)、と分けて論じる ところがあります。それをデリダがどこかに引用しているとかで、それを東が引用している。たし かそうだったと思います。で、問題は有 Sein とは価値思想ではなく、上記の言い方もまた、価値 で階層化してるわけではない。それは上記の講義録をかじればそう苦労せず解ることなので、そ う色々と言うべきこともないわけです。世界ということを基準に異なりかたを細かく分析している わけで、優生概念とも全然異なる。ちなみにデリダのハイデガー論は私見ですが、換骨奪胎以外で はなく、私はあれをハイデガーだと思うと大間違いである。ハイデガーとは全く別物だと思って おります。また、何よりデリダのハイデガー論はむやみに有を神秘化し、関心しない。デリダの翻 訳者で高橋允昭という人がいますが、この人の翻訳でデリダを読むと、そこにハイデガーが引用 されてあるんだけど、やたら難しく、同じハイデガーの文章を茅野良男の翻訳で読むと、解りやす く、高橋の翻訳は故意に難解にしてるんじゃないか、と疑ったことがある。あれも問題ですよ。
131 :
質問人 :2012/05/07(月) 01:17:41.54 0
>>130 東浩紀という人のものは読んだことはないんですが、知らずに目にしたことがあるのかもしれません。
解説本を読むほど熱心ではないので、哲学史程度のものを一般的な概説と書いています。
ハイデッガーは主観を疑うことからはじめて主観に戻った、という印象を持っています。
漫画のような図式化で笑ってもらうとすれば、フッサール、メルロ=ポンティは主観の中の客観のあり方を、ハイデッガー、サルトルは主観の中の人間の生き方を追求した。
だからサルトルは状況の中での人間の生き方を問題として、ハイデッガーにはすぐれた人間を求めるという優生的な考え方が出てきてしまった。
とまあ、それぞれを専門的に研究してる人からは愚にもつかない落とし話です。
ではあっても自分で読んだ印象がそういうものであったので、どこが変なのか知りたいと思ってるわけです。
まあ、聞かれる方も迷惑でしょうね。
132 :
主客 :2012/05/08(火) 03:31:40.32 0
客:ちょうど吉本でいうと、親鸞が「義なきことを義だと知ってください」と書いているところ、ま た、「善人が浄土へ行くくらいなら尚更悪人は浄土へ行くに違いない」と言うところから、人間性と 道徳との関係を無化していきました。人間性に善だけしか認めないのは間違いというふうに。そ うやって仏教と道徳を切り離していった。存在論としてみれば、宿命や不可避というところに 善悪を収斂させていった。そこはハイデガーと似ています。ハイデガーも『有と時』で宿命という ところでやっぱり公共性に収斂する人間を無化していると思えるからです。親鸞では意識は業縁 に左右されていく。ハイデガーでも意識は存在に浸透されてしまう。主観性はやはりそれ自体で は存立しない、というのが存在論なので、主観に戻ったとも言えない。たぶんナチスだったことか ら優生思想と仰ってるんだろうと思いますが、ナチスよりはハイデガーのほうが思想として狂気 への着目が大きく鋭いし、主観の哲学というには主観の外部ー存在や狂気ーばかり思索しており 、そこ は違うんじゃ、と思いますよ。
133 :
主客 :2012/05/08(火) 15:33:38.33 0
主:しかし色々聴きたいこともおありだろうけど、せっかくだから質問人さんの「吉本隆明への道 」或いは「思想への道」とか、どうやって「吉本隆明とは何か」という問いかけに入っていったか、も その過程やきっかけとか、書いてみたら面白いんじゃないかね。たぶんまだお若いと思うし、若い 世代からの吉本隆明観てメディアや紙媒体にもほとんど出てないんだよね。追悼とか書いてるの はほとんどが60-70年安保闘争、大学闘争の体験者。東浩紀も「あまり読まない」とか、宇野某とか も吉本とは縁がなさそう。80年代以降に生まれた世代からは実は何も出ていない、というのが 事実だろう。そこまで吉本という人は30代前半までの世代にとって、無縁な存在になっている。 これは追悼メディアは言わないが事実だ。60-70年代に若者にとって必読として読み継がれてき たであろう吉本隆明は今や、そのような意味はなく、精々糸井重里や渋谷陽一が師として尊敬す る人物、くらいの意味合いしか持たなくなっていたのではあるまいか。事実確認としては。質問人 さん位のスタンスさえ持たない人が大部分だと思うよ。質問人さんは今何故「吉本隆明」なのか、 という1サンプルになっているんじゃなかろうか。
吉本読んでるオッサンは文章長い長い
135 :
質問人 :2012/05/09(水) 00:58:26.81 0
>>133 質問者の視点がわからないと質問に答えようがない、というのが主客さんの指摘なのでしょう。
そのとおりですよね。
ハイデッガーについての質問はまたにして、私の吉本観(?)を書いておきます。
他の人の吉本評を見るとなぜか情緒的に感じる。
主客さんも例外には思えない。
私は吉本の著作については普通の理論書としてしか読んでいない。
言語表現の理論、国家に至る共同体の理論、個人の精神に関する理論、タイトルそのままです。
それぞれの論考に対する普通の理解を目にしたことがないのです。
全著作集版共同幻想論の序文では、数年たったが理解されたと思える反応はない、とか、言語の文庫版の序文に至っては、後に続いてもらおうと思うのはないものねだりだ、とか本人も匙を投げているように見える。
普通に読まれていないところはマルクスと似ているのかもしれません。
資本論を思想的な書としてではなく普通の経済学の書として読むのと同じように、吉本氏の論考を普通に精神の分野の理論的な書として読みたいし、そうとしか読んでいないのです。
常に情況と戦ってしまう吉本氏の文体から、情況とのかかわりを削り取って読む。
主客さんへの質問によって、吉本氏の理論の具体的な断片を自分なりに確認しようと思ったわけです。
136 :
主客 :2012/05/09(水) 17:48:41.08 0
客:吉本読者が情緒的になることの背景に、吉本の思想にある情緒に読者が感応する、という構造 があるんじゃないかな。元々吉本の思想に、人間は何故かくも不遇でしかないか、という疑惑があ り、そこには人間の知は何故かくも貧しいか、人間はあらゆる意味で何故かくも貧しいか、生きる ことの素直さは何故人間にとって罪や恥のように思わなくてはならないか、それは何に起因する のか、という疑惑、それの解明というモチーフがあると思います。そこは怒りや悔しさが最初から ある。読者がそこに感応するので、情緒的になる。という構造があると。純粋な理論的作品でも、 背景にはその情緒が隠されていると思います。だから吉本の思想には初期の詩が主調低音として 流れている。という言い方は可能だとなる。今の人間が吉本の疑惑を始末したほどになっている かといえばそうは見えないので、そうである以上、問いは生き残るだろうとしか言えないですね。 問いが残ることは吉本の仕事が残ることと等しい。そう思っています。
137 :
主客 :2012/05/09(水) 23:04:19.64 0
主:最近、吉本思想へたしか社会学的な読みをした本が出たと思うけど、書いたのは1970年位の 生まれで。それは読んでないけど、そういう試みを質問人さんがしたいのかもしれない。それはそ れで良いと思うし、これから学的な本が書かれていくことはあるかもしれない。ただ、吉本の場合、 初期の詩や文芸批評との関わりは実は大きいという気はするんだな。あの理論的著作も、文芸批評 での課題に自分自身で応えたものだしね。批評の基準、内的世界を3つの幻想として掴む、といい 。そういえば吉田裕という先生が吉本の理論的著作に限った読解を書いてて『幻想生成論 吉本 隆明三部作解読の試み』(大和書房)という。この人はジョルジュ・バタイユやブランショの翻訳 や批評もしてて、たしか早稲田大学の助教授か教授なはず。1988年6月初版でまだ古書で入手で きると思うから読んでみるのもいいかもしれない。
138 :
質問人 :2012/05/10(木) 01:33:26.95 0
>>136 >>137 毎度のことながら丁寧なレスありがとうございます。
もともとそうした情緒的な感性に惹かれて読み始める人が多いだろうね。
問題は情緒から入って情緒で止まってしまうところにあるんじゃないでしょうか。
吉本氏は自分の感性の根源を追究して、その追求したものを理論として提出している。
理論を提出した人の情緒的な感性に浸っていては、その理論を受け止めることができないんじゃないだろうか?
文学的な作品なら表現者が持っている感性の現れ方の検討も必要だろうが、理論を理論として検討する場合には不要というよりむしろ不純物と考えています。
それが吉本氏自身が熱望していた理論を次の人が検証し、発展させていくということの基礎だと思う。
宇野弘蔵氏が資本論を相手にしたときの姿勢です。
宇野経済学そのものの当否は別にしても、鈴木鴻一郎や岩田強などの次世代を生んだことは間違いない。
吉本氏にはそうした次世代が見当たらないというか、本人がいないと言ってる。
>社会学的な読みをした本
>『幻想生成論 吉本隆明三部作解読の試み』
紹介感謝です。
でも、たぶん読まないと思います。
一番の理由は私が怠け者だからです。
二番目は他人の読み方にはあまり関心がないというか、とくに学校の先生は自分の分野にひきよせて解釈することが多いので。
三番目ぐらいの理由は、吉本氏のものに限らず、今まで目にしたことのある解説本が自分の理解の参考になったことがない、ということでしょうか。
でも図書館でさがして見ます。
139 :
主客 :2012/05/10(木) 21:40:56.96 0
客:なるほどねえ。そこでやっぱり吉本の批評や思想というのが他の哲学書などとは違うニュア ンスで読まれてきた。そのことは重要で、あの膨大な残された書物というのが、初期の詩魂の延長 に位置する。彼は言葉をつむぐことで闘ってるという意識は最期まであったと思うけど、その闘い というのはやっぱり初期の詩が原点だと思うんですよ。あれはまさに人類史への反抗であり闘争 であったし。彼には〈本当のこととは何か〉という問いが最期まであったと思うけど、それ自体、〈 僕が真実を言えば世界は凍る〉という〈真実〉への〈妄想〉の延長ですよね。吉本の批評でも思想でも 、やっぱりその特殊といえば特殊な感性の産物だと思うんです。ただ勿論あの理論的著作の場合、 それは不要といえば不要かもしれない。だとすれば我々にとっては、吉本の文学理論を借りれば、 吉本の理論的著作よりもそれを書いた吉本の方が豊富で巨大。ということになります。だから人 が言うほどは重要視はしてないですね。あれを読まずに吉本は語れないとまでは。追悼文でもど ちらかといえば思想家としての大きさで語られていたような気がするんだけど、あの思想の出発 点はあの膨大な詩であり書き続けた情念だとしか言い様がない。あの詩が解らないとあの思想的 生涯は掴めないと思うけどなあ。でも質問人さんの発想も解るので、それはそれで尊重もしてま す。頑張って読解してほしいですね。
140 :
質問人 :2012/05/11(金) 00:48:57.34 0
>>139 質問人の立場を忘れて自分を語ってしまいました。
失礼しました。
またなにか質問することもあるかもしれませんが、そのときは迷惑じゃない範囲でよろしくです。
>あの詩が解らないと
そうかもしれないですね。
私のような詩音痴には「転位のための十篇」なんかは光太郎と区別がつかなかったりします。
いや、もしかしたら実朝との区別だってあやしいものです。
でも、自分を含めて、一人ひとりの人は皆、誰のどんな著作よりも豊富で巨大だと思っています。
このことは言葉の綾ではない、と思います。
141 :
考える名無しさん :2012/05/11(金) 18:50:00.86 O
ググれカスども。 『極東ブログ』でキチンと継承されてんよ?
142 :
考える名無しさん :2012/05/12(土) 10:46:54.05 0
>>139 〈僕が真実を言えば世界は凍る〉というのは、実はたわいのないこと。
「あのおじさんかつらだね」
「そんなこと言っちゃだめでしょ」
という親子の会話と変わらない。
143 :
考える名無しさん :2012/05/12(土) 23:50:50.15 O
ググれカスども。 極東ブログ読め(笑)
144 :
考える名無しさん :2012/05/13(日) 01:20:48.01 0
>>143 誤爆かと思ったけど、見てみたら死刑や大震災にすごく普通の感想が書いてあった。
なんかお腹一杯。
145 :
考える名無しさん :2012/05/13(日) 09:51:29.13 O
極東ブログ 吉本隆明 でググれカス。
146 :
考える名無しさん :2012/05/13(日) 10:55:23.97 0
>>145 まず、お前は自分がカスだということぐらいは自覚しとけ。
>>145 は「極東ブログ」を書いた本人じゃないだろうから「極東ブログ」そのものに言及しても意味がないだろう。
ひとつだけふれておくとすれば、吉本の追悼文を書くのに、吉本がだれそれを評価したとか、だれそれに評価されたとか、ブログ作者自身とは(たぶん)全く関係のない著作家を引きあいに出すところだ。
いつも自分の周りを気にしてきょろきょろしている人間に対して感じる気持ちの悪さが残る。
誰かの研究をしたら自分がその誰かになってしまったミイラたちに感じるものと同じだ。
ネットで公開している文章なんだから、このくらいの感想を書いてもゆるされるだろう。
「極東ブログ」の本人がもしここを見ていたらとんだとばっちりだとは思うが、
>>145 みたいなカス読者を得てしまった副作用だと思って笑って無視してもらいたい。
147 :
考える名無しさん :2012/05/13(日) 12:54:47.62 O
カス。 その程度しか読めんのか? もちと読んでみ?
148 :
考える名無しさん :2012/05/14(月) 11:24:24.78 0
急に変なやつが現れちゃったな。 2chらしいといえばそのとおりだが。 早くもとに戻るといいね。 ところでスレ立て人の日時計氏はここ見てるのかな? 匿名や別名で書き込んだりしてるのかな? いろいろな人の考えが書き込まれるといいんだけどね。
149 :
考える名無しさん :2012/05/15(火) 03:12:33.08 0
ヤクザ雑誌が吉本を表紙で大きく採り上げているよ。 是非、コンビニで御一読を。
吉本ならサブカル板とかでやれよ
151 :
考える名無しさん :2012/05/15(火) 11:41:39.25 0
吉本は主著で啓蒙的になるのを避けたばかりにエピゴーネンをたくさん生んじゃったな。 大学なんかで講義すればどんな大学でも学生がどれほど理解力がないかすぐわかるから、もう少し丁寧な啓蒙的な説明をしたと思うんだけどね。 理解するために努力しないやつは読んでも無駄だ、なんてうそぶいてたけどね。 教師吉本がどんな課題を出すか妄想しながら著書を読むのも一興だよ。
152 :
主客 :2012/05/16(水) 01:14:17.39 0
客:久しぶりにやるんで何を話そうかと思ったが、ざっくばらんに適当に。が良いと思うんだよね 。思い出したんだけど。4/25に尾崎豊の命日だったんだな。没後20年とかで、NHKで特集を流して いた。余り知られていないが吉本は尾崎の歌詞としてでなく書かれた唯一の詩集『白紙の散乱』を 高評価してた。ちょっと引用すると 《その尾崎さんの言葉の表現というのはどういう風に評価したらいいかというと、これはどう言ったら いいんでしょう。本格的な評価をしないといけないんじゃないかというのが僕の印象です。この 人の作詞と言われているものとか、散文、たとえば『白紙の散乱』なんか掛け値なしに見事な文学 作品としていい作品だと思います。だから単に芸能人としての薄い評価や軽い評価、或いは反感 を持たれたりとかいろいろあるけれども、そういったもの全部を取り払ってしまえば、尾崎豊と いう人は本格的な言葉の人として評価していいんじゃないか。》(『吉本隆明資料集26 p.69)
153 :
主客 :2012/05/16(水) 01:16:51.25 0
吉本が尾崎豊の力量を思いの外認めていたことがたったこれだけの言葉だけからも伝わ ってくるだろ。尾崎豊といえば信者とアンチが極端に分かれたり、また、本格的に論じる 評論も、「尾崎豊現象」についてはあるのに2000年代に入るまでおそらくほとんどなかった だろう。吉本のこの発言は93年10月でこの時期にもう認めていたというのは早いよ。し かも文芸評論家からの評価など皆無だったろう。精々「ロックの人」「若者のアイドル」と いう評価だけでね。文芸評論家からの評価など2012年の今でもあるのか疑わしい。だけ ど吉本はそういう尾崎の唯一のオリジナル詩集を「掛け値なしの見事な文学作品」として いた。実際俺もこれが出た92年の初版を買ってはいたが、優れていることが分かってき たのは最近だ読んでると、吉本の初期の詩にも通ずる人間存在への懐疑や反抗や自らへ の自虐と内省が見られて作風も無関係ではないなと思った。尾崎の歌詞とはまた違う 抽象とテクニックがある。実はこれは相当な気持ちで書いたものだろうというのもね。だ けどたぶんファンにさえあまり読まれていない。曲の歌詞とはかなり雰囲気が違う。それ を高評価している。こういう評価が生前に届いていたら、と考えてしまう。尾崎豊を文芸 評論家が高評価したのは吉本だけだ。未だに。
154 :
主客 :2012/05/16(水) 08:10:35.93 0
主:尾崎豊が自分で「反核ソング」と名付けていた歌があるでしょ。あれは秀作だよね。 客:あれは反核ソングと思いきや歌詞みると“勝つ為に争う人々の渦の中で俺は震えている。 反戦反核といってもこんな俺が何ができるというのか。抱いてくれ。愛してる。”尾崎はこれが自 分なりに突き詰めた反戦反核ソングのつもりだったというが歌われる表現の鋭利さがスローガン を食い破りとんでもない秀作になっちゃった。でも反戦反核ソングなのか(笑) 主:その辺で吉本の資質である単独者性とやっぱり重なるところはあったと思うよ。吉本の場合は あらゆるスローガンには反対するし馴染めない。尾崎もかつて反核コンサートで7mの照明から 飛び降りて複雑骨折したことあったが、観客をみてて異和感をもったのがダイビングの動機らし いから。どこか頽落というか、スローガンに溶け喪った個人を見たんじゃないか。その異和感が 拒絶となったんだと思う。 客:政治ってものに最初は期待したんだろうけど実際来てみるとやっぱり何か違うと感じたん じゃないか。あれもあの時点で無意識の自殺を試みたとも言えるからねえ。政治の頽落に敏感て ところも吉本的だよ。
155 :
主客 :2012/05/16(水) 22:12:05.31 0
客:吉本の尾崎豊関連の発言で気になるのは尾崎健一(実父)の回想本への質問で、《尾崎豊「急死」 という意味は何だったのかということについても何も書かれていない。 》《僕らは報道されたとき これは自殺かな?って印象を持ったというのがあるんですが》と、あの死とは何だったのか、という ところで何かを感じている。俺が思うに、尾崎という人の精神の闇というか、病というか、それも まっとうな病(これは形容矛盾だが)の可能性をみていたんじゃ、て思えるんだな。例えば桜井和 寿とかと比べればいいと思うが。90年代はまだあった屈折や闇の表現がなくなり同時に凡庸その ものと化した桜井の停滞ぶりを横目におくと、尾崎豊という人の作風に病や闇の影が多く、それ は上レスにも挙げた「核(core)」なんか典型だけど、《何かが俺と社会とを不調和にしていく》と か。あれだけ支持者がいても最後まで疎外感に苛まれた、あの感性の尊さがある。吉本からみて 尾崎豊には病があって、しかもそれは〈まっとうな病〉だったと思う。あの「急死」にもそれを感じて たんじゃ、て思えるんだ。ずっと人々の生活感が分からずに、また大衆が怖くて怯えていた太宰治 が、その疎外感が「まっとうな病」だったのと同じように。 主:尾崎豊の場合は最後の場面がまた謎めいているからね。推理小説みたいな話があったり。 客:ただ吉本が興味深く思ったのは推理小説的な話じゃなく、どこか拒絶を剥き出しにしてみせ たところだと思うけどね。その拒絶が価値に細分化される現代を映し出している。そういう興味 だと思うんだよね。
156 :
主客 :2012/05/20(日) 22:16:51.74 0
情況からの発言 18 客:河出書房新社からだったと思うけど『さよなら、吉本隆明』というのが出た。チラと読んだけど よく作ってあるようだった。しかしどこか?という感じがあるのは、池田雄一っていう若手批評家 が連なっていることだ。かつて『小説TRIPPER』で石川忠志と対談を行い、吉本を嘲笑し、暗喩を 実体化してるとか、まともに読む価値などないかのように言っていたのが池田勇一なわけだ。まあ 読めてないことを自己正当化してるだけの男なわけだけど。この池田勇一が『さよなら、吉本隆明 』に書いてるので?と思った。何を言い出すのかとね。あれだけ馬鹿扱いする吉本の追悼など何を 狙って今さらやるのかよく分からんなと思った。というより吉本と仲の悪い朝日新聞から頼まれ れば中傷に周り、吉本と付き合いの古い河出書房新社から頼まれるとそれなりに書く、てことか もしれないが。それってでもさ、池田勇一が「吉本の資本主義論はアイロニーがない」と嘲笑して いた批判からすると、「資本主義べったり」を意味し、「アイロニーがない」どころじゃないぜ。ただ の貧乏性ゆえの主体性の放棄じゃねえか。つくづく笑わせる奴だな。「1969年生まれ。群像新人 文学賞を受賞らしいが。どうせなら追悼本でも「隠喩を実体化する吉本」とかやればまだいいと 思うが。 主:つまり最初から倫理なんてないんだろう。その倫理のない男が何故か他人の倫理を云々してる という不思議な光景がある。こいつに吉本の倫理など云々できることはないはずだけど。 客:出版社によって書き方を変える批評家 池田勇一 はそうだろうね。死んだ吉本に代わって 死ね。気色悪い。追悼本になんか書くんじゃねえ!と言うしかないだろう。
157 :
考える名無しさん :2012/05/21(月) 01:55:28.19 0
>>156 その朝日新聞では結構丁寧な追悼を特集したり姜尚中という人の寄稿をのせてるようですね。
既出だったら申し訳ありません。
姜という人は、吉本氏が「大衆の『欲望自然主義』を無邪気に肯定」したり「原発事故を目撃しても、科学によって科学の限界を超えられると嘯(うそぶ)いた」りしたと書いています。
よければこのあたりの感想を聞かせてください。
158 :
主客 :2012/05/21(月) 07:02:52.55 0
客:朝日新聞ってのは吉本の反・反核運動などに出てくる有名な論争相手なわけだ。中には吉本 シンパ編集者もいて『老いの超え方』とか出したと思うが。全体的には反吉本の人間もかなりいる はずだよ。吉本がオウム事件で大衆の暴走を批判した、と追悼文でも書かれているわけで、大衆を 肯定ばかりはせず対立することも多かった。それは今度の原発騒ぎでも同じことだ。尤も吉本が 批判的だったのは市民化して知的上昇し、運動化した大衆に過ぎないわけだけど。 主:姜とか、とにかく朝日新聞は吉本にケチつけられる人間なら歓迎してるんだよ。姜にこだわっ てるわけでは更々ない。そこが重要なんだよ。党派的であるということだ。池田勇一や姜などの 思想は実はどうでもいい。個人の思想的プロセスはどうでもいいってところが左翼党派の特徴で 、朝日新聞はまさにそれさ。市民運動とか左翼が喜ぶなら文句はないってことなんだよ。姜は夏目 漱石を読み込んでるし、文学的な接点は吉本とあるはずだ。吉本の漱石研究を読んでる可能性もあ る。 客:朝日新聞にかかるとそういうことは全部抜きになるわけだ。党派ってのはそうだ。いつでも スローガンが全てだ。実は吉本のシンパも中にはいるわけだけどね。そういう人が本を作ってい たんだろうが。 主:『小説TRIPPER』など党派性がよく分かる文芸雑誌だからね。 客:党派の作る文芸雑誌なんか誰も読まないわな。物好き以外は。
159 :
考える名無しさん :2012/05/21(月) 10:28:40.46 0
>>158 レスありがとうございます。
途中だと思いますが、ひとつだけ。
朝日新聞が党派的だ、という部分です。
ネット上の「保守(右翼?)」が「アカヒ」などと化石的な言葉を使ったりしていますが、自分には全くそう思えません。
「赤」と「白」の党派的な分類で言えば、朝日新聞が寄って立つのは、むしろ「白」、それも「濁った白」にしか見えません。
つまり完全に小泉・竹中的なアメリカ的な資本主義を軸にした編集方針だと思います。
その一方で、「弱者の味方」といった立場を標榜したいために市民的「大声」に組しているだけではないでしょうか?
党派性と言うほどのしっかりした方向性があるとは思えません。
つまらないことにこだわって申し訳ありません。
あわせてこのあたりの感想もお願いできればと思います。
160 :
考える名無しさん :2012/05/23(水) 20:20:18.82 0
朝日新聞というのは実態上2家による同族支配の会社だろう。 設立当初には国や財閥の援助を受けたという話もある。 そんな会社に一貫した左翼的な主張があると考えるのは無理がある。 別に左翼的な言辞が良いとか悪いとかじゃなくて。
大衆が自分のイデオロギーと合致するときは大衆を肯定し、 自分のイデオロギーに反するときには大衆を批判する、 なんてのはそこいらの評論家がふつうにやっていることだけどね。
その「大衆」を「核」に置き換えれば、「反核異論」の論法と近似する。 核を自分のイデオロギーと合致する国が保有しているときには肯定し、 自分のイデオロギーと合致しない国が保有しているときには批判する。 だから彼らの核批判は間違っている。ダブスタだ。 という論法ね。
163 :
考える名無しさん :2012/05/25(金) 19:30:21.64 0
>>161 だれのこと?
吉本氏のこと?
朝日新聞のこと?
>>162 >「反核異論」の論法と近似する
としたら、なんなの?
>>161 にあてはまる人(社?)が >ダブスタだ と言いたいの?
>>163 > だれのこと?
> 吉本氏のこと?
> 朝日新聞のこと?
もちろん心当たりのある人すべてですよ。
あるときは大衆を持ち出してその大義を盾に他の知識人を批判し、
またあるときは大衆をこきおろして知識人の大衆への迎合を批判する。
大衆をダシに使うのが目的なだけの、そう、これを読んでいるあなた( ¬¬)σ もかもね
165 :
考える名無しさん :2012/05/25(金) 20:44:56.31 0
>>164 ああ、自己批判か・・・
そもそも、そんな人いるのかねえ?
吉本氏にはあてはまらないし、朝日新聞だってさすがに大衆をこき下ろしたことはないんじゃないか?
>>164 は自分の妄想と戦ってるんじゃないの?
吉本さんに関していえば、オウム真理教についての言及で大衆の原像への顧慮 とは相容れないことになるけど、というようなことは認めておっしゃっていた はずだけど、私の記憶違いだったかな。 当時のマスコミ論調を代表していた江川紹子さんあたりへの批判だったと思うけど、 要するに、生活大衆の正義を超越したところにあるのが宗教の本質なのであって、 その本質をふまえないオウム真理教批判論調の類いは、どれも愚かしい、的外れだと いったふうなお話の文脈だったように記憶している。 マスコミの論調では「オウム真理教なんか宗教じゃない、なんちゃって宗教ごっこであって、 その本質は単なる政治的暴力集団にすぎない」というのが圧倒的だったなかでね、 吉本さんがこうやって主張したところは、当たり前のことを言ったにすぎないのだろうけど、 当時においてはラディカルだった。
167 :
考える名無しさん :2012/05/26(土) 03:44:03.51 0
>>166 記憶もいいが、どこに書いてあったかを思い出して、それを引用するのが一番だ。
全体の印象とかだとそれぞれの受け取り方ということだろう。
どちらにしても
>>164 =
>>166 だとすれば
>>166 は吉本氏が都合しだいで大衆の名を利用してると言う主張だろう。
別人だとすれば、
>>166 は
>>164 の見かたとどう関係するかの補足が必要かな?
要するに、なにが言いたいのかは書いたほうがいいと思う。
あとは自分でなにが大切なことかを考えればいいんじゃないか?
たとえばオウムに対しては自分はこう思うという前提の上で、吉本氏の考えを検討する、とか。
しかしかなり長文引用しないと納得しないんだろうねえ。
169 :
考える名無しさん :2012/05/26(土) 11:50:36.59 0
>>166 >>168 視点を変えると評価が違うということは普通にあるし、むしろ無ければそのほうが変かもしれない。
反核問題で吉本氏は同じ核武装でも資本主義国がやることは悪いことだけど、社会主義国のやることはしかたがないという感じがあるんじゃないか、ということを強く指摘していた。
現在だと、イランや北朝鮮の核開発は国際的な経済制裁の対象となるのが当たり前だが、インドやイスラエルの核武装はしかたがないという感じがある知識人がいるんだろうか、ということだろう。
マスコミではほとんどがそういう論調だが。
>あるときは大衆を持ち出してその大義を盾に他の知識人を批判し、
>またあるときは大衆をこきおろして知識人の大衆への迎合を批判する。
吉本氏がオウム事件に関してはそうだった、というのが
>>166 の書いたことなんだろう。
つまり、それまでは「大衆の原像」をを重視しなくちゃいけないと知識人を批判していながら、オウムを批判する大衆に対して宗教がわかっていないと批判した、ということを言いたいんだろう。
吉本氏は「大衆の原像」を思想に繰り込まなくてはいけない、とは言っていたが、大衆の感じ方そのままを思想の根拠としなければいけない、と言っていたわけではない。
そのあたりを
>>166 はどう考えるんだろう?
170 :
考える名無しさん :2012/05/27(日) 00:41:23.91 0
吉本氏が麻原やオウムについてどう言っていたかは別にしても、オウムについて考えるときに宗教一般のあり方は前提にしなきゃいけないだろう。 宗教というのは、まず、内部的には絶対の権力だ。 その内部の規範が国家の法や一般社会の規範と抵触する場合にどう対応するかで方向が分かれる。 抵触する部分を修正して完全に合法的な組織となるか、自己の規範を優先したまま組織を維持していくか。 後者の場合にはカルトと呼ばれる。 前者であっても国家的な権力への志向が強いところもある。 そういう団体は合法的に議会の議席を得ることに注力している。 後者で権力への志向が極端に強かったのがオウムだ。 こうした権力への志向は世界中の宗教の多くが持っている。 実態上宗教国家となっているところも珍しくない。 連合赤軍が政治革命を目指したように、オウムも宗教革命を目指した。 どちらもやったことあるいはやろうとしたことの本質は同じだ。 吉本氏ではないが俺も市民社会の一員として連合赤軍もオウムもその行動を強く否定する。 ただ、思想や宗教は最終的には自分の理念による社会の成立を目指すものだ。 その理念そのものをどう判断するかが大きな問題だと思ってる。
>>166 > 当時のマスコミ論調を代表していた江川紹子さんあたりへの批判だったと思うけど、
> 要するに、生活大衆の正義を超越したところにあるのが宗教の本質なのであって、
> その本質をふまえないオウム真理教批判論調の類いは、どれも愚かしい、的外れだと
> いったふうなお話の文脈だったように記憶している。
しかし江川氏へのこの批判は妥当だったのだろうか。
江川さんらだって、「カルト」という言い方はしていたものの、
「カルト団体というものは生活大衆の正義を超越しているから危険だ」という前提に
立ってオウム真理教を批判していたように見える。
「カルト団体」という言い方は詭弁だ、それを言うのなら「あらゆる宗教団体」を
カルトと言わねばならない。それが吉本氏の真意だったということなのだろうか?
じゃあ、宗教の定義は? 定義を決めることは本質を見定めること。で、その定義は?
というところに話は当然行く。
172 :
考える名無しさん :2012/05/27(日) 16:28:40.88 0
>>171 >あたりへの批判だったと思う
>・・・といったふうなお話の文脈だった
>ように記憶している
程度のことで、それを吉本氏の考えとするのは、相当無理があるんじゃないだろうか?
つまり、仮説(「だったと思う」)に仮説(「文脈」)を重ねて、さらに仮説(「記憶」)を加えたんでは、なにも得られるものはない。
そういうものに対してでは賛成も反論も補足も無意味だ。
誰か(吉本)の考えを批判したいなら、まず対象者(吉本)の言い分(根拠のある概説)をはっきりさせて、それを自分はこのように理解したから、こんなふうに批判するんだ、とならなけりゃいけないだろ?
173 :
考える名無しさん :2012/05/28(月) 21:45:35.09 0
>>166 に書かれている吉本の意見というのは「世紀末ニュースを解読する」(1996.3)のものと同じだと思うので、ネットから孫引きしてみる。
「麻原彰晃が、市民社会における悪をなしたからといって、これが本質的、絶対的な悪とはいえないという宗教的世界観をもっていたとすれば、その根拠がなんであるかが(−略−)明らかにされないと、人間の集団や個人の闇の部分を含めて理解しようとする観点が貫徹できない」
「江川紹子という人は自分が宗教をわかっていないことの自覚がまったくありません」
「市民社会の犯罪とか法律的犯罪でいえばこうだと限定をつけなければこの人(江川)のいうことは成り立たない」
「この人(江川)は宗教について触れずに不当な殺伐者という面だけからいおうとしています」
このあたりが江川に対する批判だろう。
このころの江川の文章は見つからなかったが、本人のサイトにオウム裁判への感想があったのでそれを引用。
「弟子の証言に動揺したり、弟子に責任をなすりつける態度からは、この男が教義を含めた自らの言動に確信を持っているとは、とても思えない」(2006.3.30)
「崇高な活動のためには、現実社会の法を犯すのもやむをない。(−略−)そういう思い上がりが、(−略−)命をも奪う犯罪を犯す」(2008.6.22)
「教団が引き起こした事件のむごさ(−略−)にもかかわらず、未だに教団にしがみついて松本智津夫を崇めている人がいることに憤りを覚えます」(2008.8.5)
時期的には10年以上の開きがあるが、内容は変わらないと思う。
174 :
考える名無しさん :2012/05/28(月) 21:57:04.51 0
>>166 >大衆の原像への顧慮とは相容れないことになる
という趣旨のことは今回は見つからなかったので、さらに調べてみる。
>本質をふまえないオウム真理教批判論調の類いは、どれも愚かしい、的外れ
>>173 の範囲ではそこまでは言っていないと思う。
ただ、宗教的側面を理解しないと「集団や個人の闇の部分」までは理解できないとは言っている。
175 :
考える名無しさん :2012/06/02(土) 09:01:39.50 0
過疎ってるね。 吉本の話題はもう飽きられたのかな?
176 :
考える名無しさん :2012/06/05(火) 10:12:11.62 0
アク禁に巻き込まれてるのかも
177 :
考える名無しさん :2012/06/11(月) 12:30:32.69 0
あげておこう
>>166 みたいなレスはオウムが宗教の着ぐるみをかぶった
政治犯罪集団と解することができない代表ではないか。
左翼系インテリをだまくらかす、そこまで麻原は計算済みだということも分かってなさそう。
連合赤軍の大義名分とは趣きの違う宗教にも関わらず政治に関わる発言もする麻原を
まったく危険視せず対談などしたニューアカタレントと変わらない。
理屈で考える学者ほど抜け落ちた感性はひどくナイーブであることも麻原の計算済み。
180 :
考える名無しさん :2012/06/13(水) 17:10:53.29 0
>>179 「
>>166 みたいなレス」とはどういう意味?
>>166 はそういう考えを吉本氏が主張していたという見解を書いているにすぎない。
で、むしろ、それをもって吉本氏への批判の根拠としている。
>>179 の見解は
>>166 でいうところの江川さんの主張とほぼ同じで、
それに反論したのが吉本氏だという解釈を
>>166 がしているだけ。
181 :
考える名無しさん :2012/06/14(木) 23:46:05.36 0
>>179 とりあえず
>>166 も吉本も別にして
>オウムが宗教の着ぐるみをかぶった政治犯罪集団
という見方はどうなんだろう?
オウムが宗教団体であることは間違いない。
麻原が宗教人であることを否定する根拠もなさそうに見える。
テロを起こしたからというのは宗教人であることの否定にはならないだろう。
宗教テロは、「魔女狩り」を含めるかどうかは別としても、はるか昔から現代に至るまで続いている。
なにをもってテロとよぶかという問題もある。
反体制、反国家の武力行使というだけなら、「アラブの春」を含めてあらゆる国家によらない実力紛争がテロとよばれることになる。
しかし、そのあたりにしかテロの定義はなさそうだ。
麻原は宗教人であり、テロリストである、これが一番的確な把握だろう。
だからその宗教とテロへの思考回路を分析することが必要なんじゃないかと思う。
吉本も麻原も政治革命から経済革命への転換に失敗した それは彼らがプルードン、ガンジーを知らなかったから 柄谷は辛うじて間に合った
183 :
考える名無しさん :2012/06/15(金) 00:11:26.73 0
>>179 さんが「政治犯罪」と言っているところが興味深い。
ところで、あのころ、マスコミでは、
a「宗教団体でありかつ政治結社でもある」とか
b「宗教団体でありながら営利団体でもある」ということを
ぜったいに認めない論調が目立ったように思う。
彼らの宗教の定義、つまり彼らが「許容する宗教」のイメージがそれだった。
とくに、bに対しては絶対的真理のように前提にされていた。
果たしてこれは真だろうか。
書き方がまずかったかな。 bに対しては絶対的真理のように前提にされていた、というのは、 「宗教団体」であることと「営利団体」であることとは絶対に両立しない という宗教観が前提にされていたということ。 たしかにそれも一つの宗教観ではあるが、しかし一つの宗教観でしかないように思った。
麻原はシャーマニズム系だから、自分でも自分が何を考えてるのか分かってないんだし、 色んな切り口で論じることが可能だろうね。 何を考えてるのか分からないものを論じるから色んな角度から論じられる。 a オウムを出汁にして他の社会現象を論じる b オウムそのものを論じる の二つの論じ方に分かれるね。
政治結社の一つの形態が国家であるから、 宗教団体でありかつ国家でもある共同体というのが 当時のマスコミには想像できなかったのか。 想像できていれば、武力をもった宗教団体は宗教団体じゃない なんていう無知をさらさないはず。
マスコミに流れる安易な論調を吉本さんが批判するのはよい。 その批判が不必要に硬直化して極論になるのはよくない。 硬直化してしまったら、安易な論調の裏返しの意味しか持たなくなってしまう。
189 :
考える名無しさん :2012/06/18(月) 15:00:47.97 0
>>188 吉本さんはあえて極論を本質論として追究してきた。極論の彼方までつきつめて考える。
宗教を扱うには、観察者と観察されるもの、客観と主観という記述方法の限界があるね。 オウムを本当に知るには修行して「体験」しないといけないと思う。 内部の信者としての自分の主観を観察して記述する方法論。 でもそうなったら評論家としては終わりだし、学問として全く相手にされない。 吉本さんなんかは対象との距離についてかなり過激に考えてたと思うんだが。
192 :
考える名無しさん :2012/06/19(火) 10:52:27.07 0
>>191 >吉本さんなんかは対象との距離についてかなり過激に考えてた
どこを読んでそう思ったの?
観察対象内部から観察者を見る、逆の視線というかな、そういうのが吉本さんにあるね。
194 :
考える名無しさん :2012/06/19(火) 20:00:52.98 0
>>193 よくわからないなあ・・
ないんじゃない?
よくわからない言う前に、読んだことあるのかよ。
196 :
考える名無しさん :2012/06/19(火) 20:26:18.77 0
>>196 の言うとおりだな。哲学スレなんだから、
二三行でテキトウナコト書き飛ばされても困る。
199 :
考える名無しさん :2012/07/09(月) 11:38:28.74 0
柄谷スレにこんなのがあった
884 自分:考える名無しさん[] 投稿日:2012/07/09(月) 11:09:25.03 0
>>871 「マルクス主義」というくくりでなにを表したいのかが人によってすごく違う。
60年代後半の新左翼にとっては、すでに意味が拡散しすぎて党派(分派)の呼称というだけのものになっていた。
スターリン的な国家社会主義(資本や土地の国家、共同体所有)、レーニンの描いた前衛組織による革命のやり方、エンゲルスの社会経済を大きな柱とした唯物史観、そしてマルクスが想定した資本主義経済の自滅とそれを組み立てなおす人間というもののあり方。
これが正しいかどうかは別にして、このくらいの違いが前提とされていた。
つまり「マルクス主義」という言い方が無意味になっていた。
吉本はそれを踏まえて、スターリンとエンゲルスの欠陥を強く指摘した。
それを「マルクス主義」全体への批判として、あるいは組織に縛られない個人の生き方として読んだ人もいるようだ。
もっとも、1980年代以降の吉本はマルクスの想定した資本主義経済の自滅という考えを否定しはじめて、高度資本主義というとらえ方をもとに、資本主義をさらに純化、拡大させることが人間の解放につながると考えていたかもしれない。
200 :
考える名無しさん :2012/07/09(月) 13:50:46.12 O
この人、講演とかでは言ってること理解できるんだけど 本は読みにくいじゃない!ショックだったわよ
201 :
考える名無しさん :2012/07/09(月) 17:46:10.21 0
>>200 俺にはとてもわかりやすいんだが、わからないという人や変な理解してる人がとても多いから、読みにくいんだろうな。
202 :
考える名無しさん :2012/08/05(日) 00:26:19.49 0
吉本は人気ないんだね。
203 :
考える名無しさん :2012/08/07(火) 19:00:01.13 0
吉本隆明は「往相」「還相」という言葉を使っていた。 仏教用語で、「往相」は往生に至る道、「還相」は往生した人が衆生を救おうとすること、ということのようだ。 吉本はこれを知識人のあり方として取り上げている。 「往相」は人が知識を得て知識人となっていく自然な成長過程。 「還相」はその知識の中に大衆の原像を取り込んで大衆と対峙する。 「啓蒙」の場合は、ある一定の知識の不足するレベルの大衆を想定して、自分の知見をそのレベルに合わせて簡略にして大衆に提示する。 「還相」は、自分の知見に大衆の原像を取り込んだより豊かな知見として大衆に提示する。 図式的に言えばそういうことになる。 そういう意味で「啓蒙」しようとする知識人は多いが「還相」を実現している知識人は非常に少ない。 少しでもそうした人が出てくることを期待している。
アホになれってことですね
205 :
考える名無しさん :2012/08/10(金) 08:00:58.64 0
だいじょうぶ。 君の場合はすでに十分アホだから、それ以上は無理。
言うと思った
208 :
考える名無しさん :2012/08/12(日) 23:44:36.17 0
>>207 ブログ書いてる人の主観も入ってるかもしれないが、そんなに変なこと言ってる?
吉本隆明がいかに偉大な思想家であったかについて力説しているブログを読めば読むほど、 ははあ、吉本以前の日本の論壇ってのは、すさまじくレベルが低かったのだなあ、 という感想しか出てこん。
210 :
考える名無しさん :2012/08/15(水) 20:35:33.98 0
>>209 いまがレベル高いってこともないだろ。
むしろ劣化してるかもしれない。
211 :
考える名無しさん :2012/09/01(土) 20:23:20.84 0
,.-‐/ _.: ,ィ ,.i .∧ , ヽ. ,:' .l .::;',. :::;/_://:: /,':/ ', l、 .i ヽ ,' _::| .::;',' :;:','フ'7フ''7/ ',.ト',_|, , ',.', ,' .::::::!'''l/!:;'/ /'゙ / '! ゙;:|:、.|、| 'l ,'. .:::::::{ l'.l/ 、_ _,. 'l/',|.';| l :::::::::::';、ヾ  ̄ `‐-‐'/! ';. ! :::::::::::/ `‐、 ゝ !'゙ | | ::::::::/ \ 、_, _.,.,_ ノ::: ! |::::/ _.rl`': 、_ ///;ト,゙;:::::/ 天知る地知る子知る我知る `´ /\\ `i;┬:////゙l゙l ヾ/ ,.:く::::::::`:、\ 〉l゙:l / !.| 天網恢恢疎にして漏らさず /:.:.:.:\:.:.:.:.`:、ソ/:.:| | | /.:.:.:.:.:.:.:.:.:\:.:.:.:У:.:;l /./
>>209 昔の方がはるかにレベル高い…
今は知識人と呼べる人自体ほとんどいない
213 :
考える名無しさん :2012/09/01(土) 23:56:02.22 0
214 :
主客 :2012/09/16(日) 21:35:32.91 0
主:以前ハイデガー有論と吉本幻想論の関係について話したけど、改めて考えると、幻想というの はハイデガーでいう「有る」それ自体だったと言えるんじゃ、と思うんだけど。 客:「有る」それ自体、となると、じゃあ吉本における有の領域とは何か、という問いが出てくる。 主:吉本に於いてはそれが一連の原理的著作に該当してた。「有る」の考察はやっぱり問いとして 吉本にずっとあった、と考えられるんじゃ、と思わざるをえない。以前ここに書いたことの補足と して言っておきたいね。 客:あの『資本論』にしても、社会的領域での「有る」の解剖だとも取れる。マルクスの方法を継承し たところでもあるね。
215 :
考える名無しさん :2012/09/17(月) 19:57:51.82 0
>>214 吉本氏がハイデガーに触れているところは少ないと思うけど、もし、ハイデガーの影響が強いと思うならその根拠を示してもらえるとありがたい。
216 :
主客 :2012/09/17(月) 22:40:22.51 0
主:「ハイデガーの影響」とかは実はない。そこがむしろ興味深いところなわけだ。ハイデガーに ついて自分への影響を吉本が論じているわけでは決してない。にもかかわらず思想として見れば その問題領域は同じだろう。そこがこの 問題の特徴だと思う。 客:吉本がハイデガーからの影響を論じているわけではないね。批判はあってもね。純粋に思想的 な類似だろうね。 主:前に指摘したことがあると思うけど、個人幻想については吉本は「幻想」というタームは適切 ではないかもしれない、と述べている。それもヒントではあるね。 客:しかしハイデガーというのは人類の哲学史を総括し、その入口と出口を示した人間だからね。そ の問題領域も吉本とハイデガーは共通してると思うね。吉本の言うアフリカ的段階というのはそ ういう意味合いがあっただろう。
217 :
考える名無しさん :2012/09/18(火) 01:24:38.71 0
>>216 吉本氏の「アフリカ的段階」というのは歴史の段階としての概念だ。
ハイデガーが哲学史ではなく社会の歴史について触れているものがあったら教えて欲しい。
218 :
主客 :2012/09/20(木) 23:57:18.29 0
主:「歴史の段階」がどういう意味でかが重要で、「超近代=前歴史」という意味が込められてる。 それを再度ハイデガーになぞらえれば、遺稿の中でハイデガーもまたその辺を考えていたことが 分かる。むしろハイデガーの方が過激に思索しているかもしれない。吉本がオウム事件で考えた であろう「使い途のない存在や精神」、それが超近代に於て有する意味ね。オウム事件が未だに有 する意味とはそれなんだから。 客:ところで最近出た吉本追悼雑誌で「樹が陣営」のがあるんだけど、竹田青嗣がよく喋ってた 頃に竹田はオウム事件以来吉本批判に回って、その記憶があるんでどうなるか気になったが、予想 したよりよくやっているのがわかった。弓立社の宮下さんや大和書房の小川さんの話なんか、 編集者からみた吉本の姿がいかに凄かったかが解る素晴らしいインタビューだよ。吉本のオウム 事件との関わりを最終的には造悪論の先。幻想論との関わりが重要だったんじゃ、、と書いてる のも良かった。
219 :
考える名無しさん :2012/09/21(金) 00:56:38.89 0
>>218 ずいぶん乱暴なまとめ方だと思う。
吉本氏の論考を無理やりハイデガーの哲学なるものに結び付けようとするのは適切じゃない。
吉本氏の主要な論考は基本的にマルクスとヘーゲルを視野においている。
言ってしまえば、ヘーゲルの膨大な哲学を現実世界へ引き戻すにために、マルクスがやり残したことを吉本氏はやっていた。
「アフリカ的段階について」も「アジア的生産(生活)様式」の前段階に位置づけるものとして、まさに「史観の拡張」として提示している。
>吉本がオウム事件で考えたであろう「使い途のない存在や精神」
というのは吉本氏がどこかで書いているのだろうか?
>オウム事件が未だに有する意味とはそれなんだから
>吉本のオウム事件との関わりを最終的には造悪論の先。幻想論との関わりが重要だったんじゃ、と書いてるのも良かった。
たんに自国内での宗教テロ、つまり宗教の本質である国家にたいする二重権力の解消を目的とした武力行使、として考えて不自然さはない。
吉本氏自身は親鸞から導いた「造悪論」を捨てきれないと書いていたが、それはあくまでも麻原個人の、宗教家としての理念にあったかどうかということで、宗教組織である「オウム」とは別の議論だ。
吉本氏はいつでも現実社会とのかかわりを思想に取り込むことを忘れたことはない。
>>219 > たんに自国内での宗教テロ、つまり宗教の本質である国家にたいする二重権力の解消を目的とした武力行使、として考えて不自然さはない。
横レスだが、ここ、何がおっしゃりたいのかさっぱり分からない。
「宗教の本質である国家」?「二重権力」?
> 吉本氏自身は親鸞から導いた「造悪論」を捨てきれないと書いていたが、それはあくまでも麻原個人の、宗教家としての理念にあったかどうかということで、宗教組織である「オウム」とは別の議論だ。
親鸞の功績が一般に大衆の原像ならぬ現像にまで宗教を世俗化したことにあるとされていて、
その根幹が悪人正機説にあるものの、造悪論のパラドックスをどう解消するかという問題は、
密教を世俗化することに貢献したと吉本氏が麻原を評価できるとしたことと、
その一方で、その麻原がテロを起こしたオウムの組織の長であったこと(造悪論のパラドックス)を
どう理解するかという問題とやはりリンクしているのではないか。別の議論ではなく。
221 :
考える名無しさん :2012/09/21(金) 10:56:42.96 0
>>220 「宗教の本質である国家にたいする二重権力」は「宗教の本質である、(国家にたいする二重権力)」と区切って欲しい。
吉本氏にそって言えば、国家も宗教も共同幻想であり、その本質は同じ。
共同幻想を本質とするものは、また、それぞれ権力機構でもある。
国家の中の宗教は国家の中で二重権力状態とならざるを得ない。
麻原個人が自覚的にか自覚的ではないかは別として、「造悪論」的な感性の中で、教義の中あるいは教義の外で組織としての行動を指示していたかもしれない、というのが吉本氏の悩んだところ。
麻原は権力の執行者として、組織員は麻原教の被権力者として、それぞれ共同幻想の中の自身が至上の価値となり人間のあり方そのものを「逆立」させていた。
ちなみに「造悪論」はパラドックスではなく、現状を支配している社会を破壊する理念として提示したと考えることもできる。
そうした理念としてとらえた面が麻原の行動に結びついているのではないか、という思いから吉本氏はそれをどう否定(肯定)するのかを考えようとしていた。
222 :
考える名無しさん :2012/09/21(金) 11:22:51.24 0
>>220 「別の議論」についての補足をしておけば、麻原個人には仮に「造悪論」的な感性があったにしても、組織としての「オウム」はただの権力闘争としての宗教テロを行った、という意味。
吉本さんは難しく考えすぎ。 麻原が無差別テロを弟子の勝手な暴走とは考えておらず、 無差別テロ行為を命令か支持か肯定かしていたとしても、 それは造悪論とはなんの関係もなさそうに見える。 つまり仏教の思想にもとづいてテロを起こしたというのは 考えにくいと思う。 ただし彼らの宗教生活が世俗を逸脱しすぎていて世俗と衝突 していたことは事実で、信者の家族との間に紛争(裁判沙汰)を いくつも抱えていた。さらにマスコミにもバッシングされて、 世俗との対立意識を深めて行ったというとこまでは事実だと思う。 その結果、テロに走ったとしても、仏教の思想と結びつける必然性は ないように見える。 彼らが仏教となんの関係がない宗教団体でもやはり世俗社会との対立 を抱えていれば、ああなった可能性はあるんじゃないだろうか。
しかし気になったのは、吉本さんは大衆の原像の観点からは オウム真理教の起こした事件はもちろん否定されると言いつつも、 その観点だけでは割り切れないものを宗教の普遍的課題として 考えようとしていた節があること。 つまり、「大衆の原像」ということまでの自身の思想的スタンスとは 一定の距離をとろうとする姿勢が晩年の吉本さんには垣間見えた。 それを宗教の普遍性の問題として、つまり、世俗社会を超越する普遍性が 宗教にはあるのではないかという観点からそれを重く考えていた節がある。 要するに、宗教のそういう側面を思想的に棄てきれないんじゃないかと。
226 :
考える名無しさん :2012/09/22(土) 23:50:38.83 0
>>223 宗派を問わず、国家と対立するのが宗教の本質。
ただ、カルトと呼ばれない宗派は国家の法律の範囲内でその教義と行動を決める。
カルトと呼ばれる宗派は大なり小なり国家の法律をはみ出す。
もちろん、逆の言い方で、カルトとは国家の法律をはみ出した宗派といっても同じ。
227 :
考える名無しさん :2012/09/22(土) 23:56:17.77 0
>>224 「一定の距離を置く」というよりも、その「大衆の原像」の中に宗教的な感性を繰り込んで、なお、その宗教性をのり超えるためにはどういう道筋があるのかを考えていたように思う。
それが吉本氏の親鸞への深入りの根拠だろうし、論及の視点だろう。
228 :
考える名無しさん :2012/09/23(日) 19:04:56.52 O
「マルクス」も「あなた」も、「等価」ですよ、と言ってくれた吉本さん。 そりゃ、誰だって癒されますって。 「全共闘転向者」にとっての「慰安男」、大量の読者を持つ「戦後最大の思想家」、いよっ、「よしもとりゅうめい」。人気だね。
229 :
考える名無しさん :2012/09/25(火) 16:33:45.65 O
「情況とはなにか」における「大衆」の定義。「確かな生活基盤」と「極少な幻想」に生きる「大衆」って、「大衆」に「確かな生活基盤」があれば、「社会」の課題の過半は、解決済みではないですか。
230 :
考える名無しさん :2012/09/25(火) 17:59:37.84 0
>>229 社会的豊かさに実現については、先進資本主義がロシアマルクス主義を超えていることは間違いない。
しかし、より強く共同幻想にとらわれてきている先進資本主義に対するマルクスの思想的価値は減じていない。
吉本氏はこんな感じ。
もちろんロシアマルクス主義はマルクスの思想とは無縁だという、吉本氏の一貫した持論に基づくもの。
231 :
考える名無しさん :2012/09/25(火) 18:22:31.57 0
843 :考える名無しさん:2012/09/12(水) 09:00:37.25 0 イエスの養父ヨセフも吉本隆明の父も大工であったという。 田川建三は、イエスは舟大工でもあったかもしれないと書いていて ますます吉本隆明と共通するのではないか、と思ったら 吉本への言及があり、その記述が吉本に近い感じがした。 吉本隆明はイエスが自分の家と同様、大工であった事を 意識していたのではないだろうか。 また、吉本の柳田国男の南島論への関心と船大工との関係は。 田川建三『イエスという男』(作品社) その直後に渡独し、ゲッチンゲン大学の教員をして食いつなぎながら、 第二回(本書第二章、『歴史と人物』一九七二年十月号)、第三回 (本章第三章及び第四章一―三、『情況』一九七四年三月号)を公表した。 第三回以降の原稿が『歴史と人物』誌に掲載されなかった理由については、 『情況』誌に詳しく公表したので、ここではくり返さない。
232 :
考える名無しさん :2012/09/25(火) 18:30:28.04 O
〉230さん 229です。吉本における「大衆」は、「極少の共同幻想」のなかに生きる、とされているんです。あまりに、図式的に過ぎる「知識人」と「大衆」なんです。 吉本で読めるのは、文学批評だけですよ。
233 :
考える名無しさん :2012/09/25(火) 18:45:57.23 0
>>232 吉本氏の「大衆の原像」というのは今そこにいる大衆ということじゃない。
マルクスのプロレタリアートやブルジョアジーがそれぞれの立場の個人を表わすわけでもないのと同じ。
でも、これを実感的に把握できないなら、吉本氏の著作から何かを読み取るのは無理だと思う。
理解できる範囲で、読みたければ読めばいいと思う。
おまけだけど
>「マルクス」も「あなた」も、「等価」ですよ、と言ってくれた吉本さん。
と書いた人がいたけど、「マルクス」と「あなた」は「等価」じゃない、という人がいたら、お目にかかりたいくらいだよね。
234 :
考える名無しさん :2012/09/25(火) 20:19:32.26 O
〉233さん もちろん、298、299です。 「実感的把握」ですか? そんなもの無力だから、マルクスは経済学批判に命をかけた、というのが、私の理解です。
235 :
考える名無しさん :2012/09/25(火) 20:27:30.12 0
>>234 論点がかみ合ってないな。
でも、自分の好きなように読めばいいんじゃないか?
なにか具体的な疑問があるなら、ここに書けばだれかが答えてくれるかもしれない。
236 :
考える名無しさん :2012/09/26(水) 14:14:05.53 O
〉25さん 「実感的把握」なら、「論点」というよりも、むしろ《涙点》とか《怒点》の共通性、異質性が、問題では。 吉本自身、吉本信者のみなさんは、《奇異なる存在》ですね。
237 :
考える名無しさん :2012/09/26(水) 15:14:29.16 0
>>236 吉本氏の本がわからないなら読まなくてもいいんじゃない?
わからない本の文字を追いかけても時間の無駄だと思う。
なにか具体的な質問があれば答えたいけど、あなたの文章理解は普通と少し違うようだから、もしなにか書くならわかりやすく書いてくれるとありがたい。
「実感的な把握」を感情?に結び付けられてしまったようなので、こちらも、あなたにはかなり配慮した書き方をしたいとは思う。
238 :
考える名無しさん :2012/09/26(水) 18:13:51.35 O
〉237 《奇異なる存在》は、「丸山真男論」の冒頭から借用しました。反応いただけなかったからには、比較的お若い方なのかな。私は、「全著作集」に溺れた若い日をもっています。批判するための読書ということがあるんですよ。おわかりいただけないかな。
239 :
考える名無しさん :2012/09/26(水) 19:01:39.78 0
>>238 たくさん読んだんならそれでいいんじゃない?
「批判」できるほど理解しているとはとても思えないけど、人それぞれだから。
240 :
考える名無しさん :2012/09/26(水) 19:36:44.25 O
『情況』相争う党派間において、真理性の基準とは何か? 関係の客観性(以前には関係の絶対性)=全幻想領域をあきらかにすることによって、こたえられるようにおもえた。 なぜ、事前にそれを知ろうとするのか?問いが、まちがっているとおもう。やってみなければ、わからないことではないか。
241 :
考える名無しさん :2012/09/26(水) 19:59:23.35 0
>>240 >関係の客観性(以前には関係の絶対性)=全幻想領域
というのが間違っているよ。
まったくの見当違い。
こんなレスにはこの程度の指摘で十分。
242 :
考える名無しさん :2012/09/30(日) 00:45:30.83 0
吉本氏の批判者からも、また愛読者からもここまで著作が理解されていなのはなぜだろう? 自身の関心に引き寄せて読むのは誰の著作に対しても同じだし、著者と近い関心をもつからこそ、愛読もするし批判もするはずだ。 そのはずなのに、まったく無関係としか思えないところで反応している人ばかりだ。 理解できないところがあっても問題ではない。 理解できるところだけ、自分の関心にひきつければいい。 あるいは理解できるところだけ批判すればいい。 それが著者を理解するただひとつの方法だと思うのだが。
まず、第一歩として、「実感的に把握」という前代未聞の《方法概念》!?(私は、使用例を知らない)を、親しい仲間内での口頭での議論ではおくとしても、まったく知らぬ他人との文字のみによる議論においては、決して用いないという態度が、必要だろう。
244 :
考える名無しさん :2012/09/30(日) 10:00:24.95 0
>>243 「言語にとって美とはなにか」の序文でも読んでみな。
言葉は違うけど同じ趣旨のことが書いてある。
245 :
考える名無しさん :2012/09/30(日) 10:01:44.06 0
>>244 >同じ趣旨 と言うのは、もちろん「実感的に把握」と同じと言う意味ね。
念のため。
>>110 「連合赤軍事件をめぐって」という講演録しか読んでないが、
当時の新左翼の活動家のどいつもこいつも大変なショックを受けて右往左往してる中、
「ぼくには動揺はないのです」と言い切った吉本が、
笠井の眼には「冷たい侮蔑感」と映ったってことじゃないの。
247 :
考える名無しさん :2012/10/03(水) 18:07:18.83 0
>>246 >当時の新左翼の活動家のどいつもこいつも大変なショックを受けて右往左往
だれのこと?
248 :
考える名無しさん :2012/10/05(金) 00:32:31.61 0
ほぼみんなだろ
249 :
考える名無しさん :2012/10/05(金) 02:17:19.07 0
>>248 ほんとかよ?
大変なショックを受けたなんて話なんか読んだことないけど?
吉本が「新左翼の教祖」などと呼ばれているのは、 当時の全共闘の学生に、「吉本の影響を受けた」と称する奴が多かったからだが、 (『擬制の終焉』とか。特にアンパン屋の話) 吉本はそれをどう思ってたんだろうか。 全共闘に対する何かリアルタイムでの発言はある?
251 :
考える名無しさん :2012/10/06(土) 08:57:54.18 0
>>250 講演集にはいろいろ出てくるけど?
>当時の全共闘の学生に、「吉本の影響を受けた」と称する奴が多かった
それは都市伝説だよ。
最首悟氏なんか吉本氏に「なにもわかってない」と言われて「わかってないところから始めるのが自分たちの存在価値」なんて返してる。
>アンパン屋の話
運動会かなんかの話のこと?
252 :
考える名無しさん :2012/10/08(月) 14:43:46.52 0
>>249 それは貴方が読んだことないだけかもしれないし、まあ、ナマの話を聞く機会もない年代の人だからでしょう
>>251 それこそ、逆都市伝説。圧倒的に読まれていたし、最首悟氏は誤植で吉本批判みたいな正反対の意味になっていたので、当然吉本に批判されたが、
誤植の件についてはずっとそのままにしておいたということを近年、『情況』誌で語っていた。
影響を受けた部分はむしろ政治から離れてバブルの波に乗っていく「団塊世代」になり、
読んでいたけど否定した連中は党派の粛清、内ゲバの闇に落ち込んでいくこととなったんだよ。(世代人口全体からみれば少数派だが)
「吉本の著作を読んでいたならば、吉本を教祖としていた」は果たして論理的に真か? 吉本の論敵たちもおそらく吉本の著作を読んでいたし、負の影響を受けたんだろうが、 だから彼ら吉本批判者たちも、吉本を教祖にしていたことになるのか?
254 :
考える名無しさん :2012/10/08(月) 17:17:43.27 0
>>252 具体的に「大変なショック」を受けた著名人を教えてくれよ。
誤植の件は知らないが、
>>251 の例とは違うみたいだけど?
>影響を受けた部分は
以下、なにが言いたいのか意味不明なんだけど?
全員が吉本読んでたってこと?
それは、いくらなんでも君の妄想だよ。
255 :
考える名無しさん :2012/10/08(月) 17:18:18.37 0
256 :
考える名無しさん :2012/10/08(月) 17:32:51.17 0
253-254のように通常レベルの読解力もなくて哲学板なんかに出入りするのも何だかな
257 :
考える名無しさん :2012/10/08(月) 17:55:36.93 0
>>256 それなら、
>>252 を解説してみてくれ。
>最首悟氏は誤植で吉本批判みたいな正反対の意味になっていた
これが日本語になっていると思うのか?
>影響を受けた部分はむしろ政治から離れてバブルの波に乗っていく「団塊世代」になり
>読んでいたけど否定した連中は党派の粛清、内ゲバの闇に落ち込んでいくこととなった
吉本氏の「影響を受けた」から団塊世代になったり、「読んでいたけど否定した」から「落ち込んで」いったのか?w
これが日本語として通じると思ってるなら、君の「読解力」は日本語に対するものではないよ。
もちろん
>>252 表現力は小学生並みだから、君が本人じゃなければ、小学生同士で他人にはわからない絆で結ばれているからわかるのかもしれないが。
258 :
考える名無しさん :2012/10/08(月) 18:54:36.57 0
>最首悟氏は誤植で吉本批判みたいな正反対の意味になっていた 最首悟の論文が誤植のせいで吉本批判みたいなところがあり、そのために本来の吉本を批判しているつもりのない趣旨とは正反対の意味になっていた。 >影響を受けた部分はむしろ政治から離れてバブルの波に乗っていく「団塊世代」になり 吉本氏の「影響を受けた」から、いわゆる全共闘崩れのくせに「むしろ政治から離れて」「バブルの波に乗っていく」、団塊の世代の典型的なイメージとして語られやすい「団塊世代」になった。 >「読んでいたけど否定した」から「落ち込んで」いったのか? その通りなのだが。 君はいったい普段どのような本を読んでいるのだろうか。
259 :
考える名無しさん :2012/10/08(月) 20:00:57.10 0
>>258 やっと普通の日本語が書けたねw
他人が読むときに補足してもらわなきゃいけないような文章を書くのは、小学生並みに自分の世界と他人の世界の区別がついていないからだよ。
他人は自分のことがわかってるはず、という甘え以下の幼児の心性だね。
君のくだらないおしゃべりが吉本氏や思想一般への無知よるものなのか、「諸悪の根源団塊世代」という若年バカであることによるためかは知らない。
「全共闘崩れ」だろうとノンポリバカだろうと自分の生活は自分で組み立てていかなきゃいけない。
生活に対する視点が決定的にかけてる君は、自活したことがないのか?
マスコミが醸し出す「吉本・全共闘」イメージよりもさらにレベルの低い、パターン化された「全共闘」理解で何かを語れると思うところが幼児性の表れだ。
吉本氏の本を読めとは言わない。
読んでも理解できないだろうから。
「体験者」の「全共闘」話なんか読んでなにかを理解したつもりになる前に、小説でも読んで他人と自分は違う精神世界を持っているんだということを学んだ方がいい。
そうすれば「全共闘」後のそれぞれの「団塊世代」の人々の生き方も、少しずつ理解できるようになるかもしれない。
>>259 自分の書いた文章を、音読してみてください。文中、句読点が必要なところが、何ヵ所かあるとおもいます。文体と言えば、それまでですが、息継ぎが苦しい長文になっているとおもいます。
>>255 >>256 論旨がめちゃくちゃって
>>252 のことだろ?
「吉本を教祖にしていた」根拠は「圧倒的に読まれていたし」くらいしか
提示できないし。
>>259 >>260 ですが、「思想一般」の意味が、よくわかりません。ここは、「思想全般」とでも表現したほうが、と。もう一点、「生活の視点」は、関係ないとおもいます。どんなひとにも、それなりの 生活があるとおもいます。
263 :
考える名無しさん :2012/10/09(火) 00:37:12.18 0
>>260 >>262 なんだかわからないレスだな。
なにを書いてるかはわかるw
なぜ書いてるのかがわからない。
言いたいことを、もう少し整理してくれないか?
264 :
考える名無しさん :2012/10/09(火) 00:43:45.55 0
他スレでも、抽象と捨象と抽出(の異同がわからない)とかいうのがあったがまさに、死せる隆明、生ける電波を引き寄せる、といった感じだな そこが晩年の吉本の包容力の大きさと言えばいえるのかもしれないが…… 吉本は国文学の探究者でもあったのにな
265 :
考える名無しさん :2012/10/09(火) 00:44:00.76 0
>>263 どうもすみません。言語明瞭意味不明と受け取られるとは、おもいませんでした。日本語の使用について、鋭敏な感覚を持ち、 他人のそれについて、手厳しい批判を展開されているあなたの、他ならぬあなたご自身の日本語使用の欠点を、指摘するものです。
267 :
考える名無しさん :2012/10/09(火) 03:28:47.39 0
264は261に云っているわけだろう
268 :
考える名無しさん :2012/10/09(火) 10:10:52.82 0
>>266 そうだったのか、欠点を指摘してくれてたんだ。
感謝しよう。
せっかく指摘してくれたんだから、ひとつだけ。
>>260 は「句読点」というより「読点」だろうが、読点というのは自己表出の度合いという側面を持つよ。
ほかの指摘は君の感じ方ということで受けとめることにする。
これからも気になるところがあったら指摘してもらいたい。
>>268 >>268 です。「句読点」は、ご指摘のとおり「読点」の誤りです。失礼しました。あとは、おっしゃるとおり、好き嫌いの問題であり、論点の提起にいたるものではありません。さすがに、知的に対応していただいて感謝です。以降、沈黙し議論の行方を、注視させていただきます。
271 :
考える名無しさん :2012/10/23(火) 21:12:07.25 0
>>174 そうやって開き直っちゃうのもいいんだけどね。
それだとハイデガーからは、ナチ経験もごまかして、すべては自分だけがわかっている(わかろうとしている)という自己循環の中の姿しか出てこない。
スコラ哲学を復活させようとしただけの現実逃避の姿しか残らない。
言葉だけは迫力あるから、言葉の後追いする人はいるけど哲学を受け継ぐ人は見当たらない。
難解さのベールをかぶせて自己満足に浸ってる人もいるようだ。
ハイデガーが御簾の奥で宣託を垂れて、お付きのものが下々にふれまわる。
これじゃどうしようもない。
読者は御簾を巻き上げて、中にいる哲学者の素顔を晒させる努力をしないといけないと思うよ。
上昇するだけの知識は一度否定されなきゃいけない、ということも忘れてはいけないんじゃないだろうか。
272 :
考える名無しさん :2012/10/23(火) 21:13:06.04 0
273 :
考える名無しさん :2012/10/26(金) 19:48:07.04 0
吉本氏は「言語にとって美とはなにか」では自己表出とか指示表出とかいう言葉にドイツ語を付しているのに、共同幻想論ではやらなかったんだな。 なにか理由があるのかな?
274 :
考える名無しさん :2012/12/09(日) 19:38:55.89 0
「ハイ・イメージ論」は「共同幻想論」を現在に適用したとのことだが、現代思想や近代経済学に振り回されてる感じがする。 超人的な理解力は健在だけど、それを組み立てなおすことができていない。 「心的現象論」(本論)の後半と同じ印象がある。 その頃はまだ60代かと思うが、吉本氏も年齢とともに粘りがなくなった、ということだろうか。
275 :
考える名無しさん :2012/12/10(月) 06:42:24.54 0
ハイ・イメージ論は、まさに吉本が還暦の頃にはじまったんだよな。 六十の手習いで、当時のまったく新しい現代思想と格闘しようとした迫力は凄かったが……。 やはり吉本も人の子で、神がかり的に冴えていたのは40歳前後までだろう。
276 :
考える名無しさん :2012/12/10(月) 18:28:18.83 0
吉本氏の主張で驚くことが二つある。 ひとつは原発で、日本の原発が考えられる最大限の安全対策が施されている、と信じていたこと。 大前研一の原発に関する発言を鵜呑みにして、さしたる根拠もなく安全だと考えてしまった。 日本の原発はアメリカ基準にすら達していないこと、安全性というのは設計だけではなく、施工の良否によっていることなどの常識には目を向けていない。 この軽率さが年齢からくるものなのか、技術系の人間に対する盲信からくるものなのかわからない。 もう一つは、消費者による政権のリコール権という発想だ。 一般国民の選択的消費が消費全体の過半を超えたから、物を買わなければその時の政権は変わらざるを得ない、という考え方だ。 これには唖然とした。 はじめのころは冗談かと思っていたが、本気で「リコール権」を主張していた。 吉本隆明はどうしちゃったんだろう。
277 :
考える名無しさん :2012/12/10(月) 20:31:57.61 0
279 :
考える名無しさん :2012/12/13(木) 21:23:40.73 0
「特殊利益と共同利害とのこの矛盾にもとづいて、共同利害は、個別および全体の現実的な利害からきりはなされて国家として一つの独立なすがたをとる。そしてそれは同時にまた幻想的な共同性としてである。」(マルクス『ドイツ・イデオロギー』) 吉本氏がマルクスから学んだという「国家は幻想である」というとらえ方は、このあたりのことだろう。 「経験的な理由から支配し、経験的な条件のもとに支配し、そして物質的な個人として支配する者たちの思想を、これら支配する者たちからきりはなし、このようにして歴史における思想または幻想の支配をみとめなければならない。」(同) こうしたことを解明しようとしたのが『共同幻想論』だといっていいだろう。
リコール権という発想
>>276 吉本の発想からすれば、自然なのだと思う。
ロックの抵抗権がリバタリアン的な発想とミックス。吉本のリバタリアン的側面が強く出ていると思う。
まだ吉本1冊も読んでないんだけど興味を持って ほぼ日に置いてあったマルコ伝についての講演音声聞いてるんだけど この人メチャクチャ話すの下手だな
282 :
考える名無しさん :2012/12/14(金) 17:34:05.70 0
>>280 >ロックの抵抗権がリバタリアン的な発想とミックス
そうだねえ、リバタリアン的な発想といえばいえるかも知れないね。
吉本氏は(実はマルクスも)アメリカが好きだった。
吉本氏自身がそうであったように、すべての相手とオープンに、逃げ隠れせずに、自分の所在も経歴もすべて明らかにして、直接の接触も当然のこととして立ち向かう、といった単純さとむき出しの人間の強さ、そしてその粘り強さが好きだったのだろう。
だから「リコール権」という直接的な民主主義の発想まで持ち出してしまった。
アメリカ的単純さに対する嗜好は、敗戦体験からなのかどうかはわからないが、最後まで変わらなかったんじゃないだろうか。
後期の吉本氏が、アメリカ的経済のあり方に強く惹かれていたことはだれしも認めるところだろうし、違和感を覚える人が多くなったのもそのせいだろう。
でも、それぞれの論考は力強い。
もともとある思想家が無謬であるなんていう神話はありえない。
あるとすれば、不安定な論究を自身がどこまで我慢できたかというところにある。
時間切れ、で危ないところを論究しないで済む場合もある。
後期の吉本氏には、それが、少しだけ薄れているように感じられる。
283 :
考える名無しさん :2012/12/14(金) 18:39:44.16 0
出版社も悪い、なにかがあるかのようにもったいつけて、日本語になっていない本を 売るのだから。
284 :
考える名無しさん :2012/12/14(金) 20:16:33.92 0
285 :
考える名無しさん :2012/12/14(金) 20:28:32.94 0
参考文献 もっと阿呆になれ吉本 byビートたけし
286 :
考える名無しさん :2012/12/14(金) 20:37:31.63 0
>>285 上手い返しだけど、理解の役には立たないな。
287 :
考える名無しさん :2012/12/14(金) 20:43:05.99 0
いいや、最良の解説になっている。
288 :
考える名無しさん :2012/12/15(土) 15:35:01.41 0
>>287 君には、ちょうどいいんだろう。
不思議なのは、東京生まれの芸人が「阿呆」なんて言葉を使うようになっちゃったのかな、てとこだな。
ビートたけしなんて、漫才も司会も映画も面白いと思ったことないけど、「阿呆」なんて使いだしちゃったのは、関西芸人との交流が深いからなのかね?
そういう軽さが芸人の良さでもあるんだろうし、発言のつまらなさでもあるのかな。
>>288 濫読家だなすごい。俺は読んだことないからわからん。
290 :
考える名無しさん :2012/12/15(土) 19:16:10.01 0
>>289 その文章を読んだわけじゃない。
いつもの発言から判断しただけ。
芸人は芸人。
たまに週刊誌の連載記事で目にしたが、どれもくだらなかった。
291 :
考える名無しさん :2012/12/16(日) 18:32:49.70 0
ボードリヤールは、高度な資本主義経済における商品のあり方を、終わることのない物神化として、その行き着く先が人間の精神そのものの物神化として見る。 つまり人間の精神の死だ。 吉本も、高度な資本主義経済における商品のあり方を、終わることのない物神化として見るのは同じだが、その物神化の中に人間の精神が創造する美を見る。 これは、新たな人間の文化のあり方につながる。 ふたりともマルクスの商品の物神化を論の基礎におきながら、正反対の未来像を描く。 思想家としてのボードリヤールと、思想と文学(美)を同列に見る吉本との違いだろうか。 今の日本では、やや、ボードリヤールの予言が優位にあるといえそうだ。
自民党が大勝したね。さて原発はどうなるかな。 国民にそれほど原発に対しての危機感はなかったと言う事か?
293 :
考える名無しさん :2012/12/18(火) 12:26:05.27 0
>>292 情報操作と思われることを含めて、今のところ放射線被害の報告が少ないからね。
やっぱり10年たたないと実感できないのだろう。
放射線被害報告は福島復興の妨げ、として逆宣伝する原発村の作戦勝ちだね。
吉本氏も、原発は安全の情報操作に乗っちゃってたわけだが。
普通の人はテレビでしかニュースを見ない。 テレビのニュースだけ見ていれば、原発事故は冷温停止して収束して、 放射能は除染によって綺麗に消えたような印象を受ける。 国民の多数は、原発が無くなれば江戸時代の生活レベルになると信じている。 というわけで、前回は民主に入れた馬鹿な国民が、今回は自民に入れる馬鹿な国民になる。
>国民の多数は、原発が無くなれば江戸時代の生活レベルになると信じている。 そんな人いないよ・・ 君、ひきこもりなの?
296 :
↑ :2012/12/18(火) 16:12:22.03 0
ネタにマジレスするバカ
297 :
考える名無しさん :2012/12/18(火) 16:17:10.18 0
298 :
考える名無しさん :2012/12/22(土) 15:24:37.87 0
数学でも勉強した方がましだろう。こんなわけのわからないものに時間と手間をを さくのは馬鹿らしい。おまけにお勉強の成果を発表してもなにそれではないか。
>おまけにお勉強の成果を発表してもなにそれではないか。 スレ違い?
久しぶりに訪問したのだけれど、 誰も名誉回復運動を展開していないんだね。 まずは再度娘さんに、原発礼賛と受けとられる 発言をしたとき、心身がどういう状態であったのか、 今度はもう少し詳しく、述べてもらうしかないのでは?
301 :
考える名無しさん :2012/12/24(月) 00:23:16.76 0
>>300 ぼけてたよ、というのが名誉回復になるのかな?
そもそも、「原発礼賛」は吉本氏の名誉を傷つけることなのか?
吉本氏はずっと前から「原発肯定」だよ。
考え方が一貫していただけだろ?
『吉本隆明という「共同幻想」』ってどう?
いずれ娘のほうがぼけてたなあという評価になる。
304 :
考える名無しさん :2012/12/24(月) 14:46:46.54 0
>>302 呉智英というのは、昔、吉本−谷沢の愚にもつかないやり取りに頓珍漢な評価をした人だね。
この本も頓珍漢じゃなければいいけど。
ちなみに、吉本−谷沢のやり取りでは、谷沢は、はがきの現物(の残り)でも示せばどっちの言い分が正しかったのかすぐわかるのに、それもしないでご託を並べてたんだよね。
はじめから悪意でしか吉本を見ない呉という人が、吉本の評価を落とす(自分の評価をあげる)ためだけに書いた文章じゃなければいいけどね。
もちろん悪意だけで見るのが、すべて悪いわけじゃない。
でも、読解力にも理解力にも疑問がつく人間が、悪意だけで何かを見るんじゃ、ちょっとどうかな?
読んだら感想書いてよ。
「情況への発言」を読んでいたら、ただもうひたすら「馬鹿」だの「死ね」だの、 罵倒の言葉ばっかりが並んでいたので、 この人の人気の秘密が分かったような気がした。
306 :
考える名無しさん :2012/12/24(月) 19:23:28.04 0
>>305 −空文句をかかげた「反体制」運動が、すでに「存在」しないものとして問題をたて直さなければならないということであった。この課題はあまりに尖端的な課題であるために、すべての「反体制」運動が承認しえないものであった。−
こういうところも、読んだ方がいいかもしれない。
吉本さんのことじゃなくて思想や言論の世界を見ていつも感じることなのだが、 この業界って罵倒や揚げ足取りが横行していて良くないと思うんだよなあ。 揚げ足取りを突破口にして相手の可能性を全否定する、という論法が目に余る。 物事に潜んでいる可能性を拾い上げて言葉にする思想と呼ばれるものが、 ガス抜きの価値しか持たない娯楽に落ちぶれている様を見てると悲しく思う。
308 :
考える名無しさん :2012/12/26(水) 16:03:47.09 0
>>307 罵倒や揚げ足取りなんかじゃない。
ガス抜きの価値しか持たない思想擬きを批判してるんだ。
と、さっそく揚げ足を取っておこう。
不毛・・・
310 :
考える名無しさん :2012/12/26(水) 16:16:36.71 0
>>309 そう思うならくだらないこと書くな。
君が一番不毛なこと書きこんでるんだ。
少しは思想や哲学の本でも読めよ。
本を読んで罵倒語や揚げ足取りの手法を覚えることが 思想だと思っているんだね・・・ そんな暇があったら、本なんか投げ捨てて、 なぜ自分が思想に関わっているのか見つめ直すべきだ。 人の揚げ足取りをして喜ぶだけがシソーかい? 立派な思想家さんだこと。やれやれだぜ。
312 :
考える名無しさん :2012/12/26(水) 17:32:45.13 0
>>311 なんだ、ただかまって欲しいだけかw
>立派な思想家さんだこと。やれやれだぜ
これが「罵倒」じゃなくてなんなんだ?
無内容なことばかり書くなよ。
313 :
考える名無しさん :2012/12/29(土) 10:53:42.82 0
客:吉本の久しぶりの新刊なんだけど。 『自著を語る』『時代を語る』(rockin on)2冊同時に刊行。各2500円。 2000年以降、『Sight』に連載された渋谷陽一によるインタビューがまとめて刊行された。前者は 以前刊行された『自著を語る』全編にさらに追加した自著の回顧。後者は2000年以降の社会情況の 批評になっている。これは読み応えありそうだね。 主:ただ、難癖つけると、表紙は何とかならなかったのかな。「日本の夜明け」でもイメージしたの か…。あれなら吉本の肖像で良かったって思うんだけど。表紙が惜しいね。 客:吉本読者の年末年始の読書はこれ読んで逝ってしまった吉本を懐かしみ…みたいなことに なるのかね。 主:いや、いまだに現在形の吉本を再認識することになるんじゃないかね。凶悪犯罪やイジメ や引きこもりの分析を読むといまだに現在形だと解るよ。 客:日本社会が至るところで末期的症状を呈するって現象が出てきてる。厭な社会が。吉本にまだ 居て欲しかったという思いはあるね。この本を読んでいると、益々そう思える。 主:でも多大なヒントを遺していった訳だから。この本を含めてね。まだ居て欲しかった。それは 多くの読者が感じてるところだろうが。ひとまずこの2冊を読もう。 客:尚、我々はrockin on社とはいかなる提携・関係もございません。
314 :
考える名無しさん :2012/12/30(日) 16:32:41.42 0
ご苦労なことだ、5000円も出して時間を費やして頭が朦朧となって。 だけど、推測するに おれはこんな難しいものを読んでいる という 喜びにひたるのだろうな。
客:まずは吉本の新刊タイトル『自著を語る』『時代を語る』と書きましたが正しくは『自著を語る』 と『時代と向き合う』(rockin on)です。また価格は各税込2625円です。以上訂正させてもらい ます。 主:314氏から「難しい本読んで頭もうろうとするんじゃないか?」というツッコミも来てるんだ けど、実は吉本の本の中ではかなり読みやすいものの部類だと思う。理由は渋谷陽一が相手だと いうところにあるんだろうけど。数年前に既刊の『自著を語る』からして吉本の本の中ではかなり 読みやすい本だったし、今回の本はその延長だからね。むしろ長年の読者は物足りない感がする んじゃ、と思うくらいにね。吉本が自分の愛読者以外に向けて「開く」「広場に出る」ことを心掛け ていった、その意味での仕事だと思う。渋谷陽一とか、文芸批評家じゃないというポジションを 逆手にけっこうざっくり斬ってくる。サブカルチャーについては自分の方が詳しいっていう仕事 上の誇りもあるし、その辺で吉本自身、新しさはあったんじゃないかね。 客:いわばロック評論家が吉本隆明をどう読んできたかっていう、その本人前にしての批評でも ある訳だから。この対談で吉本が存命だった場合、色んなサブカルチャーの作品を渋谷が吉本に ぶつけ、批評させる、ような企画もあったんじゃって思うんだけど。それこそ宇多田ヒカル、Mr. Children、尾崎豊、斉藤和義、smapとか。 主:やったら面白かっただろうね。尾崎豊については93年に座談会でかなり高評価して、でもど こか全体が見えない、わからないところがある、て言ってたけど。そういうサブカルチャーの大物 についてももっと聞きたかったっていうのはあるね。
316 :
考える名無しさん :2013/01/01(火) 11:03:50.80 0
− 現在のところ嘗て戦中にそうであったとおなじように、この情況に素直に無意識によろこんで乗っているのは、二十代、三十代の若者だけだが、この地域の空間と時間の無境界化の拡大に対応したり対抗したりする思考や思想もわたしたちはもっていない。 古典的戦後の後進ナショナリズムがはばをきかしてしいるのだ。 (「情況への発言」新書版へのあとがき3) 今年は、この情況を変えていくことができるだろうか。
たしかなんかで見たが 戦争には絶対反対だが最近は諦めのきもちがある 後の世代は多分自分の世代の気持ちがわからないだろう 過去の世代の経験を忘れ、古今東西の例と同じくまた過ちを繰り返すかもしれない。 そういう諦めの気持ちが湧いてきている。 という趣旨の文を見た記憶がある。どこだったか。
吉本を読んでいるなら、極端に行き過ぎる大衆像は想定内
319 :
考える名無しさん :2013/01/01(火) 18:00:03.40 0
労働者が生産力と拡大に反比例してもっとも惨めな商品へ転落する。 競争の結果が少数者の資本の蓄積となり、巨大な独占が姿を現す。 かつて、25歳の青年が直感した資本主義の姿を、いまの青年たちはどう見ているのだろう? 自分は商品などではないと信じているのか、自分は競争の勝者であると思っているのか、自分が惨めな商品であることを諦めているのか。 日々の忙しさ、ささやかな楽しみ、しかし、あたたかい風に包まれた小さな群れの中に住むことができるのだろうか。 どんな夢を見るのだろうか?
吉本はマルクス、ヘーゲルは読んでいたが、プルードンを知らなかった これが致命的だった 政治主義から脱却できなかったのはこれが原因だ
321 :
考える名無しさん :2013/01/04(金) 15:46:37.93 0
>>320 二つ質問。
あなたが把握したプルードンの思想とは、どういうものなの?
政治主義というのは、どういうこと?
ロックという物は全く聞いた事ないんですが。大衆向けの娯楽、商業音楽ですよね? つまり宣伝やテレビや雑誌の広告戦略によって、大衆はロックとやらを「好き」 「いい物だ」と勘違いさせて、大衆にお金を払わせる物ですよね?そんな物をなぜ 論じる必要があるのですか?我々知識人は知識人の世界のみ論じればいいでしょう? ここにいる皆さんもロックとやらなんて聞かないでしょう?
323 :
考える名無しさん :2013/01/05(土) 19:59:52.56 0
ロック rock and roll 要はポップスですよ。日本にメディアに出てくる 知識人なんてほとんどいない。吉本なぞ活字芸人。
324 :
考える名無しさん :2013/01/05(土) 20:16:07.36 0
知識人とは、日本においては理科系を除いて、芸人の一種
我々知識人は 笑
327 :
考える名無しさん :2013/01/05(土) 20:23:36.93 0
知識人、吐き気がするよ。せいぜい動かないですむ数学を勉強しろ、
322ですが、知識人の定義はさておき、検索すれば、ロックとかそういった物は若者に支持 されているようですが、ロックやその他下らない物を「好き」と思い込まされ、 浪費させられている若者をはじめとした大衆を救うにはどうすればいいかな?なんて 考えてしまいます。余計なお世話かもしれませんがね(笑)。高度で文化的な、代わりの 楽しみを与えておくとか…。同じ思いをお持ちの方、どう考えますか?
329 :
考える名無しさん :2013/01/05(土) 20:29:48.81 0
そもそもロックの定義がはっきりしない、 そもそも大衆というあなたはどなたさまなのですか、 非常に疑問なのです、
>>329 失礼しました。ロックだけではありませんよ。私の兄は40年以上オートバイを「好き」という
暗示にかかっています。分解だの修理だのサイクリングだの…挙句はオートバイ会社に入ってしまいました。
テレビやら何やらでオートバイの宣伝広告を見ることを強要され、洗脳されてしまったのでしょう。
それを思いだしてしまったので、つい書き込みしてしまいました。
大衆共通の特徴なのではないかと…。
まずはまあ、サブカルチャーを評価した人間のスレで マスメディアを酷評する意図は良く解からんですね まず人は愛を示そうと思う そして自己実現の手段として音楽を見つける ギターの練習をする、と言った傾向はあると思いますが 高度で文化的な代わりの楽しみって何?
332 :
考える名無しさん :2013/01/05(土) 20:42:58.06 0
人を見下すという楽しみは誰にもある。ない人は尊敬する。 あほだら経を読み込んで人の発言の揚げ足をとる楽しみはわからないでもない。 時々読んで楽しんでいます。
333 :
考える名無しさん :2013/01/05(土) 20:46:46.07 0
大衆とは、
334 :
考える名無しさん :2013/01/05(土) 20:49:40.00 0
頼むから、このスレぐらいは雑談スレにしないでくれ。
335 :
考える名無しさん :2013/01/05(土) 20:52:45.47 0
雑談の定義をいってください
336 :
考える名無しさん :2013/01/05(土) 20:56:39.61 0
まず批評で生計を立てるということはやくざと一緒ではないか、
338 :
考える名無しさん :2013/01/05(土) 21:07:05.35 0
高尚の英訳をいってみろ、 要はやくざ商売のくせにあほだら経をたれながすなということ、 信者の言は面白いがな、
339 :
考える名無しさん :2013/01/05(土) 21:07:22.78 0
「個々の創造家の傾向、時代の文化的な潮流をうみだす必然は、文化そのものの内部だけでは考察しきれない」(「情況への発言」) いまから50年近く前の吉本の考え方だ。 これは最後まで変わっていない。 社会の共同幻想のあり方の現在を考え続けていた。 たんにサブカルをサブカルとして、いいとかダメだとか言ってもしかたがない。 そのサブカルの生み出される根拠となる共同幻想にまで踏み込まなければ、ただの芸能評論家か、良くてサブカルオタクだ。 広告代理店の手のひらで踊っているか、自分の踊りを鏡で見ているかの違いしかない。
340 :
考える名無しさん :2013/01/05(土) 21:08:45.44 0
341 :
考える名無しさん :2013/01/05(土) 21:10:59.94 0
吉本を引用するときは英訳もつけてくれ、 日本語もどきである
342 :
考える名無しさん :2013/01/05(土) 21:13:45.06 0
スペイン語でもいいよ
343 :
考える名無しさん :2013/01/05(土) 21:23:08.51 0
344 :
考える名無しさん :2013/01/05(土) 21:45:09.04 0
ばか、日本語になっていないのだ。
345 :
考える名無しさん :2013/01/05(土) 21:46:34.87 0
ばか、だったらどうしたら翻訳できるのだ
>>330 通りがかり失敬!じゃあ(好き)って何なのよ?俺もハタからみたら下らない物事いっぱい好きだがね。
ロックもポップスもバイクもそれが好きで永く付き合ってる。趣味とか嗜好だね。
仕事もそうかな。それが洗脳だというなら、好き=対象からの洗脳でいいのでは?
広告とかあんまり関係ないでしょ?詳しい人教えて…。
347 :
考える名無しさん :2013/01/05(土) 23:50:28.04 0
>>322 俺も通り掛りだけど、ロックもJ・ポップもよく聞くよ。あのね、例えば小柳ゆきの歌声聴いてごらんよ。音楽つうか表現というものの素晴らしさわかるよ。
しかし、いくら素晴らしいものでも人目に触れる機会が少なければ広まらない。そこに広告の意味はあるんじゃないの。まあヒット狙いの広告戦略は鼻に衝くものだが、同じようにヒットした
ものの中でも真贋優劣は明白だし、例えヒットしなくとも人知れず輝きを放つものは山ほどあるよ。
通りがかりだけど、小柳ゆきはホイットニー・ヒューストンなみに歌がうまいね。
349 :
考える名無しさん :2013/01/06(日) 00:13:09.96 0
スレタイ、電話番号かとおもって一応かけてみたがでなかったな 死がちがったようだ
350 :
考える名無しさん :2013/01/06(日) 01:33:54.38 0
>>347 小柳さんという人の歌を「素晴らしい」と思い込ませる広告技術、そういう事では
ないんですか?
まあ地球は百人の村では無く、 生まれてすぐ60億の基地外があれこれやってるとこに生まれた訳だから その解釈は正しいな 食べている、眠っている、遊んでいる、こう言った解釈に 巧妙に小柳ゆきを仕込んでいる、つまりはそう言う事か
しかし君自身
>>328 に
高度で文化的な、代わりの
楽しみを与えておくとか…。
と書いている
つまり君自身自分が提供する何かが高度で文化的な魅力を持つとそう偽り、
尚且つ君自身それが高度で魅力的であると思い込まされている
違うか?
353 :
考える名無しさん :2013/01/06(日) 01:58:29.19 0
>>352 高度で文化的なもの…つまり哲学者など、先にも述べたいわゆる知識人層が
好んで嗜むものですかね。そういう人達は宣伝やコマーシャルに影響を受けたり
しませんから。そうでない人もいるかもしれませんがね(笑)。
いや、残念ながら君は学習する立場にあるようだ なぜなら君自身に興味が無い ビートルズのイマジンやレットイットビー、 ひいてクリムゾン・キング等に 人は真の哲学を見出す物だよ
まあその知識人層とやらが好んで嗜むものとやらを もっともらしく並べて見給え 間違い無く後悔する
>>355 少なくともスポーツや娯楽的な物は好みませんね。やはりハイカルチャーでしょう。
おやおや、他者の趣味を蔑む事しか出来無いようだね そのハイカルチャーとやらに類推する何かをあげて欲しいと 言ったはずなのだが まあもういいよ、よほど恥ずかしい趣味の持ち主だと言う事がよく解った
>>356 趣味一般て板、ちょっと覗いてごらんよ。いろんな人がいろんな事楽しんでるよ。
「楽しいと思わされているんですね」なんて言わずにさ…。もういいでしょ。
359 :
考える名無しさん :2013/01/06(日) 14:40:05.38 0
>>358 「今日、われわれのまわりにはモノやサーヴィスや物的財の増加によってもたらされた消費と豊かさというあまりにも自明な事実が存在しており、人類の生態系に根本的な変化が生じている。」(「消費社会の神話と構造」)
「リコール権」で吉本とケンカしたボードリヤールの論考だ。
サブカルを論じたければ、せめてこれくらいは「常識」として踏まえておかないといけない。
360 :
考える名無しさん :2013/01/06(日) 16:43:46.76 0
>>348 ああ、俺も小柳ゆきによる「アイ・ウィル・オールウェイズ・ラヴ・ユー」のカヴァー聴いたが、言語的な障壁を乗り越えて本家に迫る迫力だと思ったよ。
あの歌唱力は本物だよ。しかし、実力の割りには不遇だろう。本物が売れるとは限らない実例だな。
>>350 広告によって思い込まされているとは思わんけど。
客:吉本が中島みゆきや清志郎やスターリンを論じたのは『マス・イメージ論』以降だと思うけど、 それ以前から垣根は壊れてきており、文学愛好者がいわゆるJ-pop、60-70年代URCレーベル、 ベルウッド・レーベル、といったマイナー・レーベルの作品を愛好するとか、つげ義春の漫画に 惹かれる、といった現象は若者の間では日常になってたと思うんだね。加えて洋楽のThe Beatles,Bob Dylan,の作品も文学とサブカルチャーの垣根を取っ払うのに追い風をかけた。 主:文学畑からもサブカルチャーとクロスする人間が現れたことがある。谷川俊太郎が小室等と 作ったアルバムは3枚に亘るし、寺山修司が浅川マキと組んだりね。あと武滿徹が井上陽水の 作品に関心を持っていたことも両者の対談で伺える。 客:つまりカルチャーとサブカルチャーとの垣根を越える、といった現象は吉本は実は遅れて 参入したようなもので、もともと吉本の表出理論自体がカルチャーに限定するものではない訳 だから。それだけの拡がりにも堪えられるもだからね。中島みゆきや小椋桂を差別する理由など ある訳がない。吉本理論でいうカルチャーとサブカルチャーの縮合は既に60年代後半から若者の 間では日常になってた。サブカルチャーというだけで差別する人間の方がむしろ今はマイナー。 珍しい。それはもう日常的感性じゃないかな。
客:で、前レスでビートルズ、キング・クリムゾンといった名前を出した人とか、推測だ けど、若くない人だと思うのね。まあわからないけど(笑)それはともかく、60-70年代に 若者だった人にとっては既に垣根はなかったんじゃないかって思うんだ。 主:それでいうと、前レスで「サブカルチャーは認められない」ていう人は多分まだお若い んじゃないか。むしろそういう現象になってるんじゃないのかな。 客:名前は忘れたけど、全盲の若いピアニストの方が居るでしょう。あの人だとそういう 固定観念はないでしょう。自分の好みはあってもサブカルチャーっていうだけで毛嫌いは しないって思うよ。若い世代をひとからげにはできないだろう。誰にも好みはある訳で。 主:柄谷行人は吉本に比べてサブカルチャーを論じたことは少ないと思うんだけど、 浅川マキとかつて対談したことがあって、浅川の書いた私小説を「好きだ」と告げている。 対談もフレンドリーだった。あの世代はサブカルチャーに偏見は少ないと思った。 客:蓮実重彦は凄まじい映画狂で淀川長治と本出してるしね。蓮実にもサブカルチャー というだけでの偏見はないんじゃないかな。柄谷にせよ蓮実にせよ、その辺の偏見は 少ないと思うけどね。大衆蔑視が残っていると言われれば否定はしないけども(笑) 主:吉本の表出理論に戻れば、純文学に限定するものではないし、当然サブカルチャー のアーティストにも適用できた筈で、実際やってほしかった、というのは自然な感想だと 思うんだけどね。
そもそも文系の本なんて、サブカルみたいなもんだろ w
364 :
考える名無しさん :2013/01/06(日) 17:50:08.65 0
吉本隆明、清志朗やザ・スターリンも論じているんだな。
365 :
考える名無しさん :2013/01/06(日) 19:25:28.45 0
>>361 >>362 そうやって君は、吉本の理論を失うだけじゃなくて、現実も捉えられなくなるんだな。
366 :
考える名無しさん :2013/01/06(日) 19:53:44.16 0
「文化の世界から現実が変ることはありえないし、現実か変るから文化か変るのだという契機こそが、逆に文化の創造を想像力として独立させている根拠だ」(「情況への発言」) せっかく吉本に関心を持ったり吉本の本を読んだりするんなら、こういう言い方をどう理解するかも考えた方がいいんじゃないか? ただ、あの歌が好きだの嫌いだの言ってても、まったく現実に触れることができない。 サブカルまみれの社会をそのまま肯定していくのか、それとも自分の生活と社会を見つめ直すのか、立ち止まることも必要だ。
文化から現実への接点 確かに思考まで量産してまたそれを自由と呼んでいる ピンクスパイダー しかしやはり本当に世を動かすのは人に必要な言葉 そんな事は解ってるよ
現実と名の付いた幻想 象られた世界などあっていい筈も無い 動物は天気を把握するほど敏感だが、 人はそうではないのだよ しかし動物程に機敏に世界に順応しなければ生き残れるはずも無い
369 :
考える名無しさん :2013/01/06(日) 20:18:11.49 0
>>367 >人に必要な言葉
が社会を動かすと思うのか?
人に必要な言葉があるとすれば、それはいつでも現実を肯定している。
そうでなければ、人は生活できないからだ。
そういう言葉に動かされる現実は、より、非人間的な現実をもたらす。
サブカルの言葉で動く個人はいるだろうが、それが社会を動かすときは、より徹底した現実肯定になるほかはない。
サブカルとは、現実の支配構造を肯定する感性から生まれるものだからだ。
今現在の民主主義は沢山の革命や戦争を経て成り立っている そんな訳は無いだろう 君の幻想だ
それとも何だ、 一体何を肯定したくて言ってるの?
372 :
考える名無しさん :2013/01/06(日) 21:01:38.44 0
サブカルでない古典文化の方が現実を直接反映することはないじゃないか。古代ギリシャの彫刻が好きだ嫌いだと言ったところで、あの書家の作品が上手い下手だと言ったところで現実に触れることにはならない。 サブカルは昔からある大衆文化の延長ではないのか。大衆演劇とか流行歌の方が現実を反映しているよ。
373 :
考える名無しさん :2013/01/06(日) 21:15:12.17 0
>>370 >>371 アンカーつけないとどのレスへの質問だかわからない。
君のレス単独では、何かの考えが表明されてるとも思えない。
374 :
考える名無しさん :2013/01/06(日) 21:16:19.05 0
>>372 現実を反映しているというのは、現実を肯定しているということ。
ピカソのゲルニカやブルーハーツがか?
まあ肯定にも様々な形があると思うが、 君が思う肯定とはどの様な形の物だろう? 大衆演劇や流行歌は否定派の私が類推してしまったようだが
>>377 否定派であっても「あ、これ好きだな」って思ってしまう事ってない?
それとも大衆演劇だから・流行歌だから。で各々に触れる前に全否定なの?
大衆的な疑問ですまぬがね・・・。
379 :
考える名無しさん :2013/01/06(日) 22:20:06.42 0
>>369 >サブカルの言葉で動く個人はいるだろうが、それが社会を動かすときは、より徹底した現実肯定になるほかはない。
サブカルとは、現実の支配構造を肯定する感性から生まれるものだからだ。
サブカルという言葉で一体何を想定してるんだ?
380 :
考える名無しさん :2013/01/06(日) 22:53:49.25 0
大衆は操られていると決め付けるような(例えばフランクフルト学派)いわゆるエリート主義的理論への広範な批判は既に70年代頃からされてるのに なんと凡庸な議論だろう
まあ確かに、2種類あるね ロックって最高!と音楽自体を賛美する プリンセス・プリンセスのような音楽 そしてトリックオアトリート!と時代の根幹を揺るがす 岡本太郎のような感性
382 :
考える名無しさん :2013/01/06(日) 23:13:09.37 0
>>374 俺は375ではないが、ザ・ブルーハーツの『TrainTrain』が現実肯定の歌とも思えんが。
それとも、戦前の『赤旗の歌』とか『インターナショナル』が現実肯定とでも?
ジャズもラップも黒人の自己実現、 ひいてはレイシズムの打開から来ている やっぱり言っている意味はよく解らんな
384 :
考える名無しさん :2013/01/06(日) 23:31:04.76 0
385 :
考える名無しさん :2013/01/06(日) 23:37:34.46 0
>>382 そうだよ。
現実肯定の裏返し。
いくら反秩序的な言葉を連ねても、じつは裏返した秩序を並べているだけだ。
つまり、現実社会の網の中だ。
現実社会の構造そのものに触れることはできない。
ジャズもロックも、サブカルはその範囲で、社会的に存在することが許されるだけ。
得意げに言うようなことじゃない。
いや、みんな得意げに言うでしょ 何が恥ずかしいの?
387 :
考える名無しさん :2013/01/06(日) 23:43:16.86 0
>>386 アンカーつけなさいね。
現実社会の秩序の手のひらで語っているだけなのに、自分が反体制(反秩序)だと信じている姿は、やっぱり相当恥ずかしい。
存在も何も、現代音楽自体 貴方のいうサブカル自体が ジャズとロック無しに成り立たない ダンスとかもそうだけど 黒人の歴史における功績は大きかった そうではないの?
389 :
考える名無しさん :2013/01/07(月) 00:08:47.20 0
>>385 現実否定と秩序否定が同じものとも思わんけどね。何らかの秩序の中に生きるのは当たり前だよ。
全ての秩序自体を否定してどうすんの?一体何を目指しているんか分からんね。
人間常に何かのまとまりのある表現を求めているんだぜ。その表現自体に秩序があることも当然だし、それまで否定して何したいの?
390 :
考える名無しさん :2013/01/07(月) 00:25:04.65 0
>>388 アンカーつけろって。
今度アンカーなしなら無視する。
自分のレスは誰に対してか当然わかるだろうという、子供やニートのような甘えだ。
本当に甘えられるのは嫌いではないが、すごんだつもりの甘えは醜いから嫌いだ、というようなことを誰かが書いたことがあるが、俺も同じだ。
君は現代音楽をジャズやロックの方向からしか見ていないようだ。
現代音楽の礎は、いわゆるクラシック音楽だ。
ジャズもロックも、音楽的にはクラシックの周回遅れ。
参考にされていることはたしかだが、それは世界中の民族音楽が参考にされているのと同じ意味合いだ。
現代音楽は、新しい音と表現を求めてさまよっている。
現代哲学がそれぞれの言葉と格闘しながらさまよっているのと同じだ。
そうした営為から何かが生れるのかどうかは、まだわからない。
わかっているのは、芸術でも思想でも、現代の最先端の場所からしか次の時代の感性は生れない、ということだ。
だれが最先端なのかはわからないとしても、だ。
どちらにしても、サブカルの中にないことはたしかだ。
サブカルは大衆の感性の位置を知る手がかりにしかならない。
好きでも嫌いでも、それを自覚しておくことは必要だ。
いや、アンカーつけるってのはよっぽど解りづらい時だけでしょ 甘えてるのもあんたなら結局 現代音楽が黒人に頼らざる負えなくなったと自分で言ってるのもあんただな
392 :
考える名無しさん :2013/01/07(月) 00:32:48.31 0
>>389 秩序というのは権力だ。
現在の権力は貨幣を頂点とする、資本主義に基づいた秩序による権力だ。
貨幣は、自分たちが作り出したものであることは確かだ。
自分たちが作り出したものに、自分たちが縛られ支配される。
貧富の問題ではない。
むしろ、富裕者ほど貨幣とその秩序に支配されているかもしれない。
貨幣のない世界が理想かどうかはわからない。
だが、貨幣に支配されない秩序を目指すことはできるだろう。
例えばビートたけしにはとても過酷な下積みと言うような過去がある しかし明石家さんまにはそれがない でもさんまはそれをすごく良く解っている これが何を意味するのか? もともとはだしのゲン、ドラえもん、ヨイトマケの唄等 芸術は常に庶民と共にあった 何故なら戦後とは革命であったため、常軌と言う物が全く通用しない それ故頭の良い貧乏人は金持ちになり、頭の悪い金持ちは貧乏になると言う とても特殊な環境であった だからその様な理不尽を何らかの形で認識する必要があった そう、芸術とは常に大衆に媚びなければならない しかし今はどうだろう? アメリカの軍を賛美する日本のアニメ リアルな現代の海賊を賛美する現代のアニメ 誰かが言う「私はジャイアンでは無い」「私はスネオでは無い」 彼らは帰る場所を捨ててしまった 私は哀れに思う
またアメリカにも黒人がおり、 彼らもまたアパルトヘイトの理不尽を訴え続けた そして音楽が生まれ、また平等は生まれた 今は芸術が富裕層と共にある ただそれだけの世界
>>357 言い方は悪いのかもしれませんが、時には蔑むことも必要なのではないでしょうか?
下らない物を下らないですよという啓蒙。教養人階層が「僕ロックすきですよ」
とか「テレビまんが見たりしますよ」って…そんな物に惹かれる筈無いでしょう?
大衆受けを狙ってるというか、大衆迎合というか、大衆を甘やかし過ぎです。
だからメディアも高学歴も お前みたいなアホばっかりで みんな飽き飽きしてんの
老子 第十八章 大道廃れて仁義有り、 知恵出でて大偽有り。 六親和せずして孝慈有り、 国家昏乱して忠臣有り。 芸術は常に民意と対極にあって意味を成す
398 :
考える名無しさん :2013/01/07(月) 16:29:13.83 0
中国の古典だから正しく無いと言い切るのは難しいだろうな
400 :
考える名無しさん :2013/01/07(月) 16:38:22.23 0
>>399 それであげ足を取ったつもり?
甘ったれるのもいい加減にしな。
>>400 アンカー
甘ったれるもクソも、
中国の古典が正しいか正しく無いか
自分で判断できない奴にグダグダ言われる意味も解らない
揚げ足って何らかのアドバンテージだったのか?それは
402 :
考える名無しさん :2013/01/07(月) 16:49:42.09 0
>>401 引用するなら、それに対する自分の考えを添えないといけない。
なぜこれが正しいと思うか、あるいはおかしいと思うか。
自己の判断を説明もせずに、簡単な人生訓を持ち出して他人に理解を求める。
そういうのが、甘え、というんだ。
芸術は常に民意と対極にあって意味を成す って書いてるが
甘えも何も2chか何かで 粘着気味にいつまでも絡んでるのお前じゃないか 相手する方の身にもなれよ
405 :
考える名無しさん :2013/01/07(月) 17:13:29.09 0
>>403 民意とはなんで、対極とはどういうことだ?
気の利いたことを言おうとしても、底の薄さはすぐばれる。
>>404 相手をしてくれと頼んだ覚えはないよ。
自分の甘さといい加減さぐらいは自覚しろ。
だから他人が自分に対して不遇だと どこから見ても何でも無い状況で言ってるのが 解らないのか?
それが何らかの革命的思想であり、 自分は他人より一歩抜きん出ているとでも 思っているのか?
409 :
考える名無しさん :2013/01/07(月) 17:28:14.77 0
>>408 君は少し勉強してから書き込んだ方がいい。
>>407 大衆がどうのこうのなんて恥ずかしげもなく言ってんだから。100歩くらい抜きん出てるだろ。
411 :
考える名無しさん :2013/01/07(月) 17:34:09.59 0
「自らが存在する現実の実在の運動のなかにしかその思想か生きられないことを知らない少し頭の廿い〈進歩〉的知識人どもは、この〈同伴〉の論理にすぐに対応する」(「情況への発言」) 人と〈同伴〉していないと不安な人間は、社会に抗する思想も理念も生み出すことはできない。 〈同伴〉の裏返しである〈孤独〉もまた、同じだ。 社会というものは本質的に異分子を排除する。 それが権力の根源でもある。 現実として異分子であることはできないが、感性として異分子であることはできる。 感性としてどういう位置にいることが、現実社会からいくらかでも自分を自由にすることができるのか、それを常に問い続けることが必要だ。
客:柄谷行人と浅川マキの対談は浅川の死後編集された『ロング・グッドバイ』(白夜書房)に収録 されてるんだけど、読めば解るが柄谷が浅川を目下に見てはいないということは明らかだ。同格に 見ていることが伝わって来る。別に啓蒙しようともしていない。また迎合してもない。いつもと 同じように率直に話している。あと、坂本龍一って知識人でもあり「君に胸キュン」も歌う。教養番 組にも出ればバラエティーにも出てさんまやたけしとと馬鹿話もする。坂本龍一自体どっちかに 自分を限定する気はないようだし、無理やり限定する必要もない訳だ。坂本龍一だけではない。 サブカルチャーへの偏見で境界がとっくに曖昧化していることが見えない。単なる無知、作品を 知らないだけ、というだけではないか、と見えるんだな。 主:それと作品評価にはいつでも好みっていうのが付きまとう。知的で凝った作品が好きな人間 がいれば楽しいだけの作品しか好まない人間もいる。自分の好みを普遍化すべきでない、という のは吉本が自分の文学理論を作ったモチーフの1つな訳だ。AKB48を下らないって毛嫌いする 人間がいれば熱中する人間がいる。好みであって、また熱中する人間の中にはまた細かい批評を している人間もいる。AKBを「下らない」と言ったところで「じゃあ見なきゃいいじゃん」と言わ れるだけよ。それでも説教すれば「うぜえな」と煙たがれるか、「でも好きなんで」と言われるだけよ 。「あなたの好みじゃないんでしょ」っていうだけよ。 客:AKBが出たついでに言えば、今ありがちな倫理観として、「AKBにつぎ込むカネがあるなら 福島復興支援につぎ込むことを考えろ!」という説教をする心性ってありがちな訳だけど、高橋 みなみよりも福島復興支援につぎ込むことがカネの使い道として正しい、偉い、という説教が全 般的になった世の中を想定すると、それは違って、公共性に対し私性を優先することはそれ自体 何ら罪悪ではない、っていう。そこまで言い切って本当は良いんだって思うね。 主:AKB48って好みじゃないけどね。
413 :
考える名無しさん :2013/01/08(火) 00:43:58.32 0
>>412 音楽で言えば、現代音楽は浅川マキでも坂本龍一でもない。
彼らは周回遅れのトップランナーに過ぎない。
これ以上はサブカル以外の音楽に興味のない人には説明しにくいが、極めて大雑把に言えば、現代音楽はリズムと音列を崩すことが大きな特徴だ。
いわゆるクラシック音楽は100年も前から、リズムや音の配列をどう変えられるかを追求している。
単調なリズムは、人間を酩酊状態に陥れてその思考を休ませる。
規則的な音の配列に不規則な音を加えると、人の記憶に強い衝撃を与える。
どちらも宗教儀式的な人間のあり方につながる。
吉本を引き合いに出すなら、最低限、そのくらいのことは踏まえた上で書き込んで欲しいものだ。
ゆるい音楽知識だな 「思考を休ませる」「強い衝撃を与える」 そんなんだから現代音楽は駄目なの あくまで作る側はニーズに答えるべきだと思う
16:マタイによる福音書 / 11章 16節 今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。 17:マタイによる福音書 / 11章 17節 『笛を吹いたのに、/踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、/悲しんでくれなかった。』 18:マタイによる福音書 / 11章 18節 ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、 19:マタイによる福音書 / 11章 19節 人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。 しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」 と、書いてある
416 :
考える名無しさん :2013/01/08(火) 09:21:45.18 0
>>414 多数の「ニーズ」は、いつの時代もその現実を肯定している感性からでてくるもの。
そこからは社会の変革につながる新しい感性は生れない。
>>412 AKB48なる物を「好き」と言っている人々は単に企業の宣伝戦略に踊らされて、「好き」
だと思わされているというのが私の立場です。よく言われている事ではないですか?
>>330 でも述べたとおり、オートバイ関連企業の宣伝にほぼ一生踊らされている人間もいます。
「好き」と「宣伝により好きという暗示にかかっている」は全く違う物であるという前提が、
412様の議論には欠けていると思うのですが…。
418 :
考える名無しさん :2013/01/08(火) 13:33:00.63 0
俺も色んなサブカル見てきたけど、AKB-萌えオタほど下品で幼稚な存在を見たことがない あれをサブカルと呼ぶのはサブカルに失礼だろう
>>360 私もそのカヴァーを友人の車の中で聴いた。
>>417 東大抗争とか、若者のレジスタンスみたいなのは昔からある
で、その「東大」と言う言葉だけに踊らされてるのが今のオタク共だね
やたらと格調高い様な幻覚を見ながら、
やっているのは黄巾の乱のような山賊ブーム
421 :
考える名無しさん :2013/01/08(火) 19:36:28.36 0
>>392 >自分たちが作り出したものに、自分たち自身が縛られ支配される
それ貨幣に限ったことでないよ。そういうことは人間界の宿命だろ。言語も国家もそうだし、個人的に見ても自らの言葉や表現に自分自身が縛られ支配されて行く。
しかし、そういう事がなければ自分を変えると言うことも考えられないではないか。
人間は、貨幣も一つの手段と考えて自分なりに生きているものだと思うがな。
422 :
考える名無しさん :2013/01/08(火) 19:45:36.45 0
>>421 貨幣も言語も国家も同じ?
人間の心が関わるものはすべて同じ?
>>422 同じなんじゃないか?
貨幣価値なんかルール以外の何物でも無い
まあある種宝くじみたいなもんだよ MONEY 〜鬼畜鬼ごっこ 俺だけは違うと信じて〜
425 :
考える名無しさん :2013/01/08(火) 19:59:54.30 0
>>397 >芸術は常に民意と対極にあって意味をなす
では、民意と共にある芸術は意味無いとでも?大衆に受け入れられた芸術に意味は無いとな。
大衆を何か無個性な平均人間の集まりとでも思っているのか。どんなヒット作品でも、その享受の仕方はその人固有のものがあるはずだと思うが。
創造や制作だけが個性的であるのではなく、享受もまた個性的だと思うぜ。同じ歌を聴いた人の受け取り方は皆異なるだろう。人間は受け取る場合も唯コピーするのではなくて、自分なりに加工しているものではないのか。
あたかも同じ道具を使っても使う人によって使い方が異なるように、消費の仕方もまたそれぞれの個性が現れる。
大衆に受け入れられぬ芸術に意味が無いとは言えないが、その逆もまた意味が無いとは言えない。
大衆とは一つの抽象的な像だろう。その大衆の一人一人は個性的な顔をしている。
426 :
397 :2013/01/08(火) 20:04:13.16 0
まあ確かに幼稚園のお遊戯とかが悪いとは言わんけど やはり真の芸術家がシックスセンスを卑下しだすと 村上隆みたいなのが闊歩しだして そう言うのは気持ち悪いなーというのを言いたかった
427 :
考える名無しさん :2013/01/08(火) 20:18:07.11 0
>>423 貨幣は、社会の生産物の交換から生まれる。
つまり、人間の生活の手段だ。
言語は、人間が自然を客体として意識することから生まれた。
つまり、人間の意識と言語は不離不即のものだ。
国家は社会の支配から生まれる。
つまり、人間の社会生活上の利害を独立した権力としたもの。
もともと、たんなる生活の手段に過ぎない貨幣が、そのもたらす利益が集中することで権力が生まれ、その権力志向自体が人間を支配するようになっていく。
それぞれの違いは、あるよ。
428 :
考える名無しさん :2013/01/08(火) 20:21:21.76 0
>>411 他人と同伴しようとしてヒット作買うのか?他人が見るから映画見るのか?
それ、違うと思うぜ。大衆とか多数者というものを表面的にしか見て無いだろう。
新しいものや社会を変えるものは産み出そうとして産まれるものでは無いと思うがな。もっと自然な営みだろうよ。
>>419 ありがとう。ヴォーカルの真髄とでも言えば言い過ぎかな。
だからその支配ってのが厄介なんだよ 絶対的な服従は無いと言ってるのだ カエサルもブルータスお前もかと言って死んだだろうが
クーデターってのは決して悪いもんでは無い 言うなれば生活の手段 あって当たり前の物 それに属さないってのは人として死んでるのと同じだと言っているのだが 言うなればTVゲームの世界観などそれ無しに成り立たないのに なぜそれが解らない
あまつさえ民主主義国家において何の意見も無い、 俺はお上に従ってればいいなんてのは あまりにも無責任すぎるなぁ 公の場での主導権を主張する人間には せめて確たる革命の意思を持ってもらいたいと思う
432 :
考える名無しさん :2013/01/08(火) 21:05:05.00 0
>>428 意識はなにものかに憑かれている。
そのなにものかの中には、現実の社会とそれを肯定する感性もある。
自分がそうした共同の幻想の中にいることが自覚できなくなってしまっている恐れは、いつでもだれにでもある。
多数が支持する感性は、そうした共同的な現実肯定的な感性だ。
その音楽が好きとか嫌いとかいうことが、本当の自分、であると感じるのも錯覚かも知れない。
昨日まで好きだった、あるいは嫌いだった音楽が、今日は嫌いだったり好きだったりすることも珍しくない。
それでも音楽は非常に感覚的な対象だから、その好き嫌いは共同の幻想より個人的な環境によるだろうが、その環境自体が共同的な幻想によって成り立っている度合いも、また大きい。
「自然な営み」の中から出てくる「新しいものや社会を変えるもの」は常に権力を肯定するものだ。
自分の感性のあり方を自覚しない位置からは、自分たちのための、新しいものや社会を変えるもの、を生み出すことはない。
433 :
考える名無しさん :2013/01/08(火) 23:22:02.36 0
>>425 道行く大衆はみんな同じに見えますけどね…。私の目が悪いのかな?
AKBに夢中な人間の家のテレビに細工して…例えば野球の宣伝を多く流せば、
その人間はたちまち野球を夢中で見に行きますよきっと。AKBなんてその名前も
忘れてしまうでしょう。
434 :
考える名無しさん :2013/01/08(火) 23:48:48.82 0
で、私の兄(大衆です)が40年もオートバイに夢中なのは宣伝を見させられ続けているからなのか、 頭から長期間離れない効果のある巧妙な広告に侵されているのかは分かりません。 今度1輪車の広告でも大量に見せてみようかな?しばらくすれば1輪車に乗っている事でしょうね。
435 :
考える名無しさん :2013/01/09(水) 20:41:24.44 0
>>432 人間、現実を肯定する部分がないと生きられないではないか。全ての現実を否定するなんて不可能。肯定する現実があるからこそ別な現実も否定出来る。
現実肯定だからダメだなんてあり得ん。
それに、感性は身体的なものに負う部分が大きい。身体は個別なものであり、経験や環境も身体と結びついているだろう。
感性もまた共同の幻想に負う部分も無いではないだろうけどね。
権力肯定?そりゃ、何らかの権力は社会には付き物だろう。
436 :
考える名無しさん :2013/01/09(水) 21:06:30.06 0
>>435 見てないと思うが、
>>411 も俺の書き込みだ。
前段部分に対しては答えになっているだろう。
現実の権力を肯定している人が多ければ、その社会が変わるときには、より強い権力があらわれる。
君は権力の下にいることが好きみたいだから、それを望むのかもしれないが。
俺は、有形でも無形でも権力の下にいるのはできるだけ避けたいし、避けられる社会を目指すね。
それが人間の解放に少しでも近づくことだと思ってるから。
企業や政治の勝手な都合で物理的に縛られたり、支配権力の精神的な奴隷であったりするのは、御免だ。
437 :
考える名無しさん :2013/01/09(水) 21:08:30.07 0
>>433 道行く人が皆マネキンのような顔に見えるの?そりゃ、つまらんわな。人間皆、肖像になるべき貌持っているよ。
AKBの大島ナイスだと思うけど、何か(笑)。ま、消費される存在だということは本人もファンも分かっているだろう。
野球人気が低落して行っているのは、宣伝が足りないせいなのかねえ。
438 :
考える名無しさん :2013/01/09(水) 21:16:40.59 0
>>437 なんでそんなに自分の好みを他人に披露したいの?
もしかしたら、孤独で寂しい人なの?
439 :
考える名無しさん :2013/01/09(水) 21:46:53.82 0
>>436 >>411 へのレスである
>>428 は俺の書き込みだ。他人と同伴しようとして何かを楽しんでいる積もりも、ささやかな制作やろうとする積もりも無いけどね。
権力を全て否定するなんて現実的ではないよ。例えば医療保険制度が維持されているのも、何らかの権力の働きによる。あるいはあなたの言い方によれば共同の幻想の産物だろう。
人権も民主主義も皆共同の幻想と言えるし何らかの権力を想定しているものだろうが、それを全部否定しちゃって後どうすんの?だな。
現実に生きているのだから、企業や政治に縛られていることは避けられないね。縛られているからこそ、それを何とかしなければと思うのではないのか。
支配権力の精神的な奴隷に成るのも成らないのも、精神的な問題だから個人の自由だよ。
延々喋りたいなら名前欄に適当に何か書いて 固定の名前で議論してくれそうじゃないと読む気もしない。
441 :
考える名無しさん :2013/01/10(木) 09:22:29.45 0
>>439 君は本当に権力に縛られるのが好きなんだな。
一般には、そういう人が多いんだろう。
だから、資本主義を否定したら、スターリン的、中国的な社会主義が登場してしまった、のかな?
法やそれに基づく制度として確立したものは、権力には違いないが、すでに物理的な強制力となっているものだ。
そういうものを日常的に否定すれば、社会生活はできない。
>>411 に書いたとおりだ。
権力というのは、方向と強弱もまた持っている。
わかりやすく言えば、支配する階級からの権力と、それを薄めようとする力がもたらす権力の否定としての権力だ。
法として確立した制度でも、その方向と強度には差がある。
「医療保険制度」について触れておけば、その制度がない、あるいは不必要な社会を想像することはできないのかな?
アメリカでは、まだ実施されていない。
また、医療自体が無料の国も当然ある。
わずかの保険料で実質的には無料といってもいい国を含めれば、日本的な相互扶助を柱とした医療保険が必要のない国も多いようだ。
あれもこれも権力だ、という言い方を否定はしないが、その方向と強弱を忘れてはいけない。
そして、問題としている社会変革のための「反権力」というのは、そうした法や制度として強制力となっていない、精神的な権力としての未開社会のような共同幻想に対するものだ。
「精神的な問題だから個人の自由」なのではなく、「精神的な問題だから」個人の自由にはならない、ということだ。
自分の中での、現実の貨幣を頂点とする資本主義的な秩序を肯定する感性をどこまで自覚できるかが、精神の自由につながるただひとつの細い道だと言っている。
442 :
考える名無しさん :2013/01/10(木) 09:25:51.62 0
>>440 たしかにそうだろうな。
>>441 だが、気をつけるよ。
と言いながら、相変わらず名無しでゴメン。
つい面倒でね。
客:395さんの話、「下らないものを下らないって教えるのが啓蒙」「ロックもTVも下らない」って いう。これは粗いけど、教養人は言いそうな話なんだ。だけど同じ話になるけど単に無知なだけだ 、或いは先入観で知る気もないのかもしれないが。 主:「ロックや漫画等を好き、という人間は宣伝やイメージを鵜呑みにしているだけ」というのも そういう愛好家にも色々ある、ていうのがわからない。鵜呑みにしている人間も鵜呑みに反発する のも実は似たり寄ったりで、肝心なのは自分の眼と感覚、評価を持つこと、ていう、すごく当たり前 な話になるんだけどね。 客:サブカルチャー、マスカルチャーをすべからく下らない、というのはやっぱり改めた方がいい 。サブカルチャーとされる作品でもどうみても下らないとは言えないものはある。ジョン・レノン のソロ邦題『ジョンの魂』とか、サウンドはシンプル、歌詞は暗く、厭世的、トラウマをさらけ出して 痛ましかったり、単純に評価出来ない凄さがある。 主:ビートルズって史上最もポピュラーなロックバンドだと思うけど、リハーサルとrecording を記録した映画『let it be』とか全体に倦怠感と虚無感がある。あれを商業用映画で公開した のが不思議な映画だ。海賊版dvdで字幕付きが出てるからみるといいよ。 客:あと権力の話が出てるけど、吉本のかつての中上健次との対談で最低綱領と最高綱領っていう のがあった。批評基準「最低限ここまでは」「究極これ以上はない」政治の消滅、階級の消滅、権力の 消滅、非-知ってことにいつでも射程に入っている、開いている、ってのは大事だと思うよ。それ への中間綱領で「まだ避けられない」っていうのはあるとしてもね。「最低限ここまでは」っていう 課題とか分かるにせよね。知も政治も強迫観念に、言い換えれば支配になる必然をいつも孕んで る。そこで思想したのが吉本だった訳で。 主:そこでフーコーの「主体化と権力」の問題とも重なっていた。
>>443 愛好家にも色々なんてどうでも良いこと。愛好家にさせられた。つまり企業宣伝に踊らされた時点で、
ただの奴隷だと思うのですがね。自らを解放し、哲学書や芸術など、本当に素晴らしい物に
出会って欲しい。ロック音楽やオートバイに縛られた兄にも毎日言っています。邪魔者扱いされますが。
せっかくの一度きりの人生。よりよい生き方をして欲しい。
自分で考えることが大事 とか言っている人間が、他の分野ではただ消費してるだけってのは良くあること ハイアートにせよサブカルにせよ 自分で作らずに、ただ消費してるだけの人間がそんなことを言っても 何の説得力もない
446 :
考える名無しさん :2013/01/11(金) 00:59:57.22 0
>>443 君は音楽を語るには、音楽を知らない。
権力を語るには、権力を知らない。
吉本もフーコーも、君の勝手な理解の妄想の中に名前を持ち出されて、あまりにもかわいそうだ。
自分勝手な理解はハイデガーだけにしておけよ。
ということで詩でも読もう
高級料亭の料理より、チェーン店の牛丼の方が 美味しいと感じるのは、宣伝効果かね? フーコーは、マックさえあれば充分だといっている そうじゃないか。 もちろん、フーコーは味の優劣にかかわる議論で、 そのようにいっているわけではないだろうが、 しかし、もし不味ければ、「マック」という固有名が 発せられることは、なかったであろうことは間違いないと 思われる。 例えば大衆音楽についていうと、同時代の楽曲を 好きになった場合、それはマスイメージに騙された のだということもできるだろう。しかし、過去の 大衆音楽の楽曲に魅せられたは場合はどうか。 その場合、楽曲以外の要素である、パッケージや サイドストーリーに惹かれたとはいえないだろう。 いまでは、楽曲(CD)以外には触れ得ないのだから (動画投稿サイトは措く)。 確かにビートルズはいまだにコマーシャリズムの中に いる。しかし、そうではない、いまでは全く宣伝されない、 過去の大衆音楽に熱狂するということは起こり得るのだ。 おニャン子クラブの楽曲が、私にとってのそれである。 彼女らのルックスと音楽とが切り離せないとしても、 失礼ながら、時代を超越するほどの美人はこのグループには いないのだから、容姿に幻惑されているということは、 ないといっていい。やはり、おニャン子クラブの 音楽が素晴らしいのだ。 もっとも、「5分間」の小曲(という形式)を好きになること 自体が、マスメディアによる洗脳の結果だといわれれば、 返す言葉もない。
449 :
考える名無しさん :2013/01/11(金) 10:47:29.95 0
>>448 個人の趣味嗜好を語ってどうするんだ?
多数が好もうと少数が好むだけのものであろうと、それだけで表現の優劣の根拠になるわけがない。
大衆音楽は大衆音楽。
少なくとも、吉本が価値とした、それまでの表現の歴史の軸に自分の感性が突き刺さるようなものがあるわけではない。
吉本個人は美空ひばりや誰それのロックが好きだったらしいが、価値のある音楽としてみていたわけではない。
その職人芸としての上手さや気分を解放させる快感に浸っていたに過ぎない。
ちなみに、音楽と言うのは、単純であるほど、繰り返し「聴かされる」と人の心になじんでしまうと言う特質を持っている。
君が誰に萌えていようとかまわないが、そんなことは社会的にはもとより、君個人になんの精神的な影響を与えるものでもない。
広告代理店に踊らされて、〈金を使うという社会貢献〉をするのが、ただひとつの存在価値だ。
>>449 たとえ価値は感じてなくとも、吉本さんのような人がロックとか美空ひばりを
趣味嗜好として好んでいたという点だけで残念です。
出版社やマスコミが仕掛けた哲学ブームに踊らされたのが、哲学に興味を持ったきっかけ って奴も多いだろうに…。
客:どんな芸術でもそうだろうが宣伝効果とかは限界がある。ビートルズならアルバム1枚まとも に聴くことでしか量れない。ビートルズに限らない。夏目漱石でもそうだ。実際に作品にまともに 当たって真価は初めて解る。そう思わないのかね。たしかに他人の評価が全ての人間もいるだろう 。どの世界にもいるだろう。 主:現在の大衆芸術が企業として宣伝し、利潤を要求される。それは足枷ともいえるが、だから 全て下らないとは言えない。中島みゆきと吉本は一度対談してるがまともに向かってる。余暇など ではない。吉本に大衆芸術だからといった偏見がないからこそ渋谷陽一も信頼した訳だ。それと 埴谷との論争で「貴方の『死霊』第7章と川久保玲の1985年のファッションは芸術性で同格」と 吉本は言い切っている。「早く目を覚まして本当の哲学や芸術を知り、価値ある人生を送って下 さい」とか言ってる人間とは違うよ。このスレでサブカルチャーは芸術性はない、とか言ったり、 吉本は本当は認めてなかった、とか言ってる人間は当時吉本の視点を理解しようとしなかった 多くの同業者、戦後文学者と一緒よ。吉本はその手の同業者と自分とは一線を引いてたと思うし、 吉本にはそういう同業者のカビ臭い固定観念はなかった。 客:渋谷陽一も認めたようにね。444氏の兄がどういう人間か知らないけど、それも生き方だろう。 俺は否定はしないよ。向こうがこっちを否定するなら別だけどね。「こういう楽しみ方だってある んだよ」っていうのを否定する気はないね。
>>452 私は川久保玲という人を知りませんが、そのファッションの宣伝を依頼されての発言ではないという
証拠はありませんよね?
ちなみに私は444です。兄は40年以上もオートバイに(それを売る企業の広告に)洗脳され
若い頃からオートバイに乗ったり修理したり…あげくはオートバイ企業に就職してしまいました。
兄は「オートバイが好き」だと思わされているのではないかと…。そこから
解放してやることは出来ないかと…。ロック音楽に関しても同じような状況です。
主:ただ444の話でポイントはこういうところだと思うのは、その兄の話でポイントがあるとした ら、情報、新しいモノを消費することが一義になってる、それは単にバイク好きやロック好きの 是非ではない。こういうところじゃないか。事情通でしかないってことで、それは単に愛好家が どうのっていうことと違ってくる。消費文化の弊害はたしかにサブカルチャーに出てくる。でも その弊害ってこととサブカルチャーを同一視をすべきではない。資本の法則や公共的道徳観が浸 透しやすいこととサブカルチャーを同一視せず見極めるべきなんだ。サブカルチャーの担い手が 意識的になってる場合もある。再度言うならば資本法則や消費衝動や公共的価値の浸透圧ってこ ととサブカルチャーの場所は当事者でも先鋭的な人間が自覚している問題でもある。そこは見極 める必要がある。そこで全部同一視するとサブカルチャーと資本法則や消費法則を同一視し、 既にそこで批評は止まってしまうでしょう。そこは見極めるべきなんだ。
>449さんは、武満徹がポップ音楽で、大岡昇平が中間小説で、 それぞれあまり成功していないことなど知らないんだろうな。
456 :
考える名無しさん :2013/01/12(土) 20:43:07.61 0
>>454 ご託を並べてないで、自分で「見極め」た内容を書いてみろよ。
「『死霊』第7章と川久保玲の1985年のファッションは芸術性で同格」という意見に賛同するなら、なにがどう「同格」なのか書いてみろよ。
457 :
考える名無しさん :2013/01/12(土) 20:55:43.96 0
>>455 >>449 だが、なんで俺あて?
〈成功〉の意味もよくわからないし、武満や大岡が大衆芸能に手を染めたからって、なにか
>>449 に書いたことと関係があるの?
難しいことをやってる表現者なら、大衆芸能は簡単にできるはず、ということ?
そう考えてるんなら、そんなわけねえだろ、でおしまいなんだが。
>>449 吉本氏は、その音楽はともかく、美空ひばり、綾戸智恵の歌唱を、
発生(発声)史的に価値があるものと考えていたのでは?
今更こんな事言うのも何だが、もし吉本さんが例えば美空ひばりやロックを
プライベートで好きで聴いてたら何か困るのか?
>>450 は何やら絶望してるけどさ。
単に変な階級意識に囚われてるようにしか感じられないわ。貴族と平民みたいな。
460 :
考える名無しさん :2013/01/12(土) 22:13:33.20 0
>>458 さあ?
音楽としてもだが、発声としてだとしても、専門外すぎるとは思う。
言語、思想については間違いなく第1級の専門家だけど、音や声については、とても専門家の知見があるとは思えない。
いくら読書家でも、音や声(歌唱法)についての研究の水準を実際の歌手に当てはめて理解するのは、かなり無理があるんじゃないだろうか。
これに類する専門的な知見の踏み外しは、後期の吉本氏の論考に結構見られる。
途中まで「巨匠のように語る」ことを拒否していて、他人にもそれを求めていたけど、自身が「巨匠のように語る」ようになってしまった感は拭えない。
日本経済の状況、原発の安全性なんかは、論の根拠が一部の統計だけだったり、評論家の受け売りだったりしている。
サブカルについては、自分の取り上げ方が成功したとは言えない、というようなことを書いている。
個人的な好みを無原則に拡大してはいけない。
吉本はそれをいつも自覚していたはずだったが、身体的な、生活的な理由もあったのだろうが、年齢とともに論考が雑になってきたことは否めない。
吉本無謬みたいな受け止め方はありえないし、本人もそんなことは望んでいない。
誰でも批判できるように、正確な根拠を示しながら書き続けることが彼の大きなポリシーだったんだから。
川久保玲作品の芸術的価値は問わず、彼女ら パリコレに出品しているようなデザイナーの 作品が、サブカルでないことだけは確かだろう。 それらがサブカルというのなら、ファッションの ハイカルチャーとは何かね?歌舞伎の衣装や タキシードをデザインしている人たちかね?
80年代には、もはや大衆文化擁護や消費文化擁護に批判的な力などなくなった ただそれだけのこと
463 :
考える名無しさん :2013/01/12(土) 22:28:47.09 0
>>461 ファッション自体がサブカルだということだろ?
定義にもよるが、短期的な社会の要請(または、社会に対する迎合)によって表現され、そのまま消えてしまうもの、というぐらいのことであれば、ファッション自体がサブカルだろ。
サブカルが時代としてどういう意味を持つのか、あるいは時代をどう表現しているのかとは、別な問題だ。
吉本は「マス・イメージ論」でそれを扱おうとした。
どうすれば大衆が喜ぶような文化を無くすことが出来ますか?それが出来るのが知識人だと思うのですが。
465 :
考える名無しさん :2013/01/12(土) 23:15:13.63 0
>>465 大衆と大衆向けの文化との関係についての私の考えは
>>328 に書きました。
もちろんあくまで一例としてですが、でも他の大衆文化も同じような物でしょう。
同じように大衆が喜ぶ(と洗脳されている)趣味嗜好商品もですね。
それは私の周囲の人間を見ての実感です。
467 :
考える名無しさん :2013/01/12(土) 23:34:25.20 0
>>465 つまり464は大雑把にいえば貴族主義者なんだよ。貴族主義者ということは大衆を平民として劣った存在と見ているということ。
あと「おたく」とかいう連中も同様ですね。商売人たちに、そして企業宣伝に 流されるままに消費行動をする。欲しくも無い切手を買い集め、乗りたくもない オートバイを買わされ、見たくもないまんがを買わされる。その「仕掛け人」たる 商売人がいなくなる=大衆向け文化・商品の消滅。そしてその後のハイカルチャーの 復権を願っていますよ。
469 :
考える名無しさん :2013/01/12(土) 23:44:04.94 0
大衆文化は反権力ではないからダメだという人と階級主義者が同調するという奇妙な風景w
>>467 劣っているとかそんな見方はしていません。ただ「そんな物に夢中になるんだったら、
こっちを見てごらん。本当に素晴らしい物があるよ」と、ちょっとしたお節介をしてあげたい
だけです。
吉本さんは、本人もいっているように、 『言語美』を書いて自信を持っちゃったんだよね。 表出理論で芸術諸ジャンルを論評できると。 でも、例えば、吉本理論では、お笑いのいわゆる スベリ芸を高評価できないでしょう。スベリ芸は インターテクスチュアリティーそのものだからね。 吉本さんは、(吉本基準での)完成度の高い作品を 何度も読めば、誰でも高得点をつける筈だと言うんだけど。・・・ 例えばZ級映画を愛好する人たちを、吉本さんは、 美味しいもの(本格派、ストロングスタイル)を 美味しいと言えない可哀想な人たちだと、 あるいは、自分に嘘をついて、シャドーボクシングを 嗜好するスノッブだと言うかもしれないが、 ごく普通の性格のよい人でも、メインストリームから 外れたものを好んで賞味しているという現実があるんだよね。
あと問題なのは「スポーツ」ですね。学生野球や元旦の大学生たちのマラソン で何故か涙を流す学生や指導者たち。あれに不気味なものを感じるのは私だけでしょうか? 色々言うつもりはありません。ただただ「何故!?運動会ごときでそんな感情に陥るのか?」 本当の文化的感動を味わった事が無いから、スポーツしか知らないから、スポーツごときで あんなに涙を流せる。文化的危機とは言えないかと思うのですが。
473 :
考える名無しさん :2013/01/12(土) 23:54:31.54 0
>>466 >>468 なるほど。
大衆文化の消滅、あるいは大変革は、社会そのものの変革によるほかはないでしょう。
知識人に期待するのはお門違いかと。
もっとも、社会変革の旗手を知識人に期待するというのなら、意味があるかもしれないけど。
ここまで画一的に市民社会から大衆文化という方向を見ないとしても、文化的な活動が社会変革につながる道は、かなり細くて険しいと思う。
確かに大衆文化は、社会変革の大きな壁でもあるけど、同時に変革の道を探るよすがでもあるんじゃないかと思う。
474 :
考える名無しさん :2013/01/13(日) 00:02:13.17 0
>>471 いまの流れは、その「メインストリーム」の実態とはなんであるのか、ということだろ?
ついでに指摘しておけば、個人の趣味嗜好は否定されるべきものじゃなくて、その根拠を自覚すべきもの、というのが、吉本の考え方だよ。
まして、人の好みと性格を結びつけるのでは、占いの域を出ないだろ。
哲学は人生訓ではない、というヘーゲルの言葉は今でも生きてると思うよ。
475 :
州蛇亜林 :2013/01/13(日) 00:07:57.90 0
ほんとに「ハイカルチャー」したいなら、毎日たゆまずその道の修練に励まないとモノにはならんだろう。 それは普通の仕事でもそうだし、大衆文化でも「サブカル」の担い手でも全く同じだろうよ。変わりはせん。 「ハイカル」にせよ「サブカル」にせよ知識として客体的に捉えすぎだろう。文化は自らがやって楽しむ見て楽しむという行為抜きには存在しないと思う。 文化を論じるのに知識を重視し過ぎだ。もっと、技とか芸を考えないと本質を見失うだろう。技や芸は表現でも消費でも同様に必要とされる。
476 :
考える名無しさん :2013/01/13(日) 00:16:31.18 0
>>471 >スベリ芸はインターテクスチュアリティーそのもの
どういうのを指しているのかわからないが、しゃれた言葉で言えば何かがわかるの?
具体的に、誰のどういう芸を、どう結び付けたいのか、書いてみて。
書けなければ、スノッブ認定されるよ。
477 :
考える名無しさん :2013/01/13(日) 00:26:56.78 0
>>475 「ハイ」であろうと「サブ」であろうと、「モノに」するためには、それなりの修練が必要なのは確かだが、「毎日たゆまず」であるか、ちゃらんぽらんに練習したものであるかは、その結果に無関係だよ。
日常的な社会生活と、そういう意味で同じ。
「文化は自らがやって楽しむ見て楽し」んだからと言って、その文化を論じることができたり、その社会的な存在価値がわかるものでもない。
自分の表現に対する思い入れが、強すぎるんじゃないかと思う。
>>474 個人の趣味嗜好は否定されるべきものじゃなくて、その根拠を自覚すべきもの。
ちょっと頑張って理解しようとしたが分からない。もうちょっと分かりやすく頼みます。
ああ恥ずかしい俺。
479 :
考える名無しさん :2013/01/13(日) 00:40:45.67 0
>>478 他人にわからないとすれば、書いたこちらが悪い。
個人の趣味嗜好というのは、個人的な環境による影響が強い。
個人的な環境というのは、子供のころからの育ち方や、吉本風に言えば母胎の環境からすでに強い影響を受けて育成されている。
そうした自分の環境や育ち方を自覚することが、どういう環境に対してどう反応するのが自分であるのを理解することにつながる。
自分の物事に対する理解のしかたがわかれば、たとえば自分の好悪の判断が、客観的にどういう意味を持つのかが理解できるようになる。
つまり、自分の精神がなにかにとらわれていることがわかれば、その分だけ自分の心が自由になる。
個人の趣味嗜好はメディアにコントロールされるというのはやっぱ無理あるでよ。
サブリミナル効果で飲み物買いたくなったって話に執着してるんかな?
>>468 氏は?
482 :
州蛇亜林 :2013/01/13(日) 01:11:30.92 0
>>477 >その結果に無関係だよ
実際に意識して修練を重ねれば自ずと「結果」は違って来る。「モノ」になるとか「結果」といったところでその本人がどう感じるかの問題であって、
他者が「結果」について論じることは本来出来ないはずだ。
文化は論じるためにあるのじゃなくて、楽しんだりやるためにあるものだよ。まず自らが行わなければ無意味。
>>482 俺は477氏ではないが、知識人にとっては文化は論じるものでしょ?
俺は楽しむけど。
484 :
考える名無しさん :2013/01/13(日) 01:35:05.74 0
>>482 >意識して修練を重ねれば自ずと「結果」は違って来る
それは確かだが、そうじゃなかったとしたら、というもう一つの「結果」がわからない以上、優れた結果であるのか、劣った結果であるのか、本人にだってわからない。
そんなことは少しでも芸事をかじったことがあればわかることだ。
修練の量と結果は、直接には関係がない。
言ってみれば自己満足の多寡でしかないのだ。
>自らが行わなければ無意味
これは趣味嗜好の世界だ。
表現された結果が作品であり文化だが、だからといって、まさか、平安時代に戻って物語を書かなければ源氏は論じられないなんてことはありえない。
逆に、同時代に、なにかをかじってたり、その道の一流だからと言って、優れた論考が書けるわけでもない。
こういう当たり前のことを忘れているんじゃないだろうか?
あるいは、文化というものに対する視点を、個人に引き寄せすぎているんじゃないだろうか?
個人の表現は、その背景に、歴史と地域性を持っている。
それは、個人の意欲や精神的な努力で動くものではないよ。
>>468 メディアによって「やりたくない事や欲してない物」を「やらされたり買わされる」
その説の根拠が知りたい。その説が本当だとしたら、個人の趣味嗜好という概念が
根本的に変わってしまう。あとハイカルチャーをその説から除外している根拠も教えて欲しい。
名画だってクラシックだって有名な戯曲だって、今は広告を通じて知るだろう?
486 :
州蛇亜林 :2013/01/13(日) 12:19:21.50 0
>>483 論じること自体も文化だよ。そしてその論じることにも「技と芸」の修練が要る。そういう修練をせず、論じることへの技と芸の無い人を知識人とは呼ばないだろうさ。
文化を論じようと思えば、他の評論も読まねばならないし該当するものを鑑賞して何かを判断出来る感性も必要となる。
知識人もまた他の文化におけるのと同じように、享受(消費・鑑賞)と修練をしているわけで非「知識人」と何ら変わるところは無いよ。
487 :
州蛇亜林 :2013/01/13(日) 12:39:59.09 0
>>484 もう一つの結果分かると思うが。少なくともそれをしなかった時期と較べらるし、あるいはそれをしない他の分野と較べれば良い。
修練というものは何かの結果を目指してするというよりは、修練の中で何かを見出して行く過程だろう。結果なんて二次的なものに過ぎんだろう。その意味で言えば自己満足だが、それが悪いのかと思う。
平安時代に戻らなくとも、その時代のものを楽しむ人は楽しんでいるし論じる人は論じているではないか。
そもそも「文化は論じるためにあるのではなくて」と書いてある。何も優れた論考を全ての人がしなければならないなんてことは無い筈だ。
それは論じたい人が論じればよいだけの話だ。書芸をやりたい人はそうすればよいし、絵画をやりたい人はそうすればよいのと同じだろう。
488 :
考える名無しさん :2013/01/13(日) 13:17:03.73 0
>>487 >修練というものは何かの結果を目指してするというよりは、修練の中で何かを見出して行く過程だろう
修練というものをどういうイメージでとらえているかわからないが、スポーツ的、技術的という意味だったら、自己満足以外にはなにもないと断言できる。
そんなことはスポーツ選手を見ればわかる。
その人格、識見と修練とは何の関係もない。
もちろん、〈文化〉的な分野でも同じだ。
なんでもやりたいようにやるのがいいと思うなら、こんなところに書き込んでる暇に、そのやりたいことをやっていればいいだけのことだ。
僕は、こういう2chのような匿名掲示板でも、自分の考えを確認しながら他人の考えを受け止めたり、批判したりすることは大切だと思っている。
ただの他人の個人的な趣味に付き合ってもしかたがないことだ。
その趣味嗜好の中に、自分や社会にとって大切なことを見出そうとしないなら、あるいは自然と湧いて出てくると思うなら、自分一人でその趣味の世界に浸っていればいい。
そんな個人的なことに他人を巻き込まないでくれ。
489 :
州蛇亜林 :2013/01/13(日) 20:07:19.92 0
>>488 人格、識見と文化も関係ないよ、それこそ。人格、識見が仕事と関係ないように。
まさか、人格識見を高めるために芸術やったり楽しんだりするわけもない。
どうやら、何のために芸能や芸術など文化があるのかと言う点で食い違いがあるようだ。
何か腑に落ちないんだよ、あなたの考え。他の人はどう思っているか知らんが。
個人の趣味嗜好の中にこそその人にとっての大切なもの含まれているし、そういう趣味嗜好があることが社会にとっても大切なものではないか。
490 :
考える名無しさん :2013/01/13(日) 21:03:32.19 0
>>489 今度はすべてが人格も識見も関係ない話になっちゃうのか。
繰り返すけど、そこまでどうでもよくて、ただ個人として趣味の世界を大事にしたいというだけなら、他人にどんな意見を求めるんだ?
そうだ、そうだ、って共感して欲しいのか?
僕には理解不能だ。
趣味嗜好がその個人にとって大切であるかどうかなんて、だれにもわからない。
昨日までと今日では違うことに興味を持つなんてことは、日常的な風景だ。
まして社会的には、他人に迷惑がかかることの方が圧倒的に多い。
音楽なんかはいい例だ。
分野によらず、近くの人にとってはうるさいだけだ。
その他の〈文化的〉〈スポーツ的〉な趣味にも、他人にとって愉快なものはなさそうだ。
最低限に見積っても、家族にとってはその分の支出が負担となる。
>そういう趣味嗜好があることが社会にとっても大切なものではないか
存在することができる社会の豊かさと自由な状況は大切だが、その趣味嗜好の対象自体が大切なわけではない。
それを「自らが行」うかどうかも、まったく個人の問題だ。
サブカルは、市民社会と人間の関係の狭間に存在する。
資本主義的なコマーシャリズムから、消費するだけのために提供されるものも少なくない。
〈文化〉や〈趣味嗜好〉の名のもとに、逆に自分自身を失っていく危険を自覚しないといけない。
客:ハイデガーだと〈何かに関心を持つ〉吉本だと〈何かに引き寄せられる〉はその人間の体現する 歴史性の現象を表す。そうでなく、453は「広告に踊らさせるだけ」と断定する。言われた人間が この忠告を無視するのは当然だと思う。多分PTAや教育委員会やは歓迎するだろうが。それと芸術 や表現作品は接する人間に感応させ、「惹き寄せ」の体験によってむしろ解放感をもたらす。自分が 作った人間ではないにもかかわらず自分の代わりに表現してくれた、と錯覚させる解放感をもたら す。芸術作品がもたらす解放感を453が体験してきたように見えない。つまり芸術の体験をこの 人間はしていない。そこで「サブカルチャーって広告に踊らさせるだけですから。滅びてほしい」 とかの発言は根拠のない思い込み、しか感じさせないのは当然だよ。それは違うと言うなら、自分 の芸術体験についてここに具体的にこの作品に接してこういう体験をした、と書いてくれたらいい 。しかしどうも書けないのでは?という感じが強い。芸術の体験って453に具体的にあるように 見えないんだね。 主:それを言うなら具体的にこの作品感銘を受けた、とか言っているのはほとんどいない。つまり 芸術を享受、体験する。それのない人間が芸術について語る。それが何を意味するのか。吉本の ように哲学に接して何か言えることと太宰治、中島みゆきの具体的作品について語ることと なかなか両立しがたいのではないか。吉本のテキスト自体知らないまま言っている人間は453が 代表だろうけど。川久保玲のファッションについて語っているのが埴谷との論争文「重層的な非 決定へ 埴谷雄高の苦言への批判」で、最近装丁が変わり再刊された『重層的な非決定へ』に収録され てることも知らない。川久保玲のファッションについてどういう言い方してるかも知らない。それ で吉本のファッション論について語ることに既に無理がある。
客:アニメや映像やロックで言えば、現代の先端技術を駆使し、言語芸術に比べ、少なくとも自己 表出、内臓型表出については過去100年からすればめざましい変貌を遂げた。吉本が現代アニメを 賞賛していたことにもそのことが関係する。吉本はよく見ていたと思うよ。 主:それと先端技術を駆使、ていうところで単に新しい感性、としか思われない可能性も あるけども、吉本でいう超近代と超古代、既有的に将来する、ていう元々人間に潜在した 感性の採掘、掘削、噴出、ていうところで見ることも必要だ。ジミヘンがアフリカの未開 民族に興味を持ち、−その民族は動物の生け贄の儀式もやっていたが−、曲のタイトルに していた事実がある。マイルス・デイビスも同様に未開の民族の人間の頬に血飛沫が ついたかのようなイラストをジャケットにしている。未開民族の儀式、そこでエクスタシ ーや解離体験が重要なモメントであることに二人は関心を持っていたことを示している 。超近代と未開の関連性は既にジミヘンらが察知していたんじゃないか。
493 :
州蛇亜林 :2013/01/14(月) 00:24:29.22 0
>>490 人間にとって人格や識見がどうでもいいと言っているのではなくて、文化が人格や識見とは関係無いと言うだけのことだ。
例えば、文化人と称される人の人格・識見が高いかどうか全く不明だ。学校教育で言えば、人格を高めるのは道徳科の分野だし造形的・情操的な教育は美術科や音楽科の分野だ。
本来違うものを同じ平面に並べることは無理がある。
>趣味嗜好がその個人にとって大切であるかどうかなんて誰にもわからない
しかし、その個人にとっては分かっている。例えば、辛い仕事や日常の息抜きになっているならばその趣味はその個人にとっては無くてはならないものだろう。
それが他人の迷惑にならない範囲内で行えば良いだけのことだ。
>その趣味嗜好の対象自体が大切なわけではない
趣味嗜好の具体的な対象が無ければ趣味嗜好は成り立たない。その言い方は、趣味嗜好自体が無価値だと言っているのと同じだよ。
>消費するだけのために提供されるものも少なくない
サブカルではないが、缶珈琲も消費されるだけのために提供されている。消費されるものが、それほど価値の無いものか?消費することは受身なことか?
まさか缶珈琲飲んだからと言って、自分を見失うようなことはあるまい。(笑)アイドルグループも消費されるだけと言えるが、それで無価値とは言えない。
サブカルを享受したりする事と自分を見失う事とに特に関連性はないよ。ハイカルでもある種の権力的なものへの迎合は見られる。
権力的なものや共同幻想的なものへの迎合とサブカルとを関連付けるのは無理がある。
494 :
考える名無しさん :2013/01/14(月) 08:38:46.77 0
>>491 >>492 >>456 だけど、くだらないこと書く前に
「『死霊』第7章と川久保玲の1985年のファッションは芸術性で同格」という意見に賛同するなら、なにがどう「同格」なのか書いてみろよ。
これに答えろよ。
495 :
考える名無しさん :2013/01/14(月) 09:04:44.86 0
>>493 ひとつずつ答えていこう。
>学校教育で言えば、人格を高めるのは道徳科の分野だし造形的・情操的な教育は美術科や音楽科の分野だ
そういう画一的な決め付けを否定してるんだよ。
「修練の中で何かを見出して行く過程だ」と書いたのは君だ。
そんなことの中に、何かを見出すことなんかないと指摘したのが僕だ。
人格も識見もその人の生きかた全体の中にしかありえない。
趣味嗜好に夢中になったからといって培われることなんかないし、学校教育で感銘を受けるようなら、もともと従順な子供なんだろう。
別に集団に反抗することが大切だといってるわけじゃない。
人が何かを得るのは、自分が自分の生きかたや自分の状況を見つめて、それを自覚するときだけだ。
無自覚なまま、何かを感じて、何かを考えても、ただの自己満足だ。
>その趣味はその個人にとっては無くてはならないものだろう
そんなことはまったく個人的な問題だから、自分で好きにやればいいと何回も書いてる。
他人に同意や同情を求めることじゃない。
496 :
考える名無しさん :2013/01/14(月) 09:20:14.42 0
>>493 >趣味嗜好自体が無価値だと言っているのと同じだ
そのとおりだ。
趣味嗜好自体に価値があるわけではない。
人間が社会や自然とかかわりながら生きていく中で、自然と、言い換えれば必然的に生れてきたものだ。
その対象(趣味嗜好)と自覚的にかかわるときに、はじめて何らかの〈価値〉が生れる。
趣味嗜好というのは、もともと具体的な対象が決まっているものではない。
自分で見つけ出すものだ。
というより、見つけ出してしまうものだ。
それだけのこと。
>缶珈琲飲んだからと言って、自分を見失うようなことはあるまい。(笑)アイドルグループも消費されるだけと言えるが、それで無価値とは言えない。
自分で「本来違うものを同じ平面に並べることは無理がある」と書いたことぐらいは覚えておいた方がいい。
「缶珈琲」にも「アイドルグループ」にも、人間の生存や精神的な成長に対する〈価値〉などない。
価値があるとすれば〈消費社会〉で消費されることによる、経済活動としてだけだ。
その〈消費社会〉の渦に巻き込まれてしまえば、どちらも「自分を見失う」ことにつながらないとも限らない。
この〈消費社会〉の渦に巻き込まれるということは、自分を失うということだ。
自分が自分であることより、自分が〈消費社会〉の意向、つまり先進的な資本主義の意向に沿って、感じて、考えて、行動してしまう。
これが現代の「共同幻想」の中での、人間が〈逆立〉した姿で存在する、その〈逆立〉のあり方だ。
497 :
洲蛇亜林 :2013/01/14(月) 12:44:40.28 0
>>495 道徳科を持ち出したのは適切でなかったと反省している。もともと道徳主義の押し付けは大嫌いだし、道徳を振りかざす権威主義も感覚的に嫌なんだが。
人格や識見と言うものを道徳的な要素と見て、芸術や芸能の中に道徳を持ち込むモノではないと言うところにあった。誤解されても、しようがない表現だったと思っている。
498 :
洲蛇亜林 :2013/01/14(月) 13:02:51.78 0
>>497 訂正
本意は、人格や識見と言うものを・・・・
499 :
洲蛇亜林 :2013/01/14(月) 13:34:47.14 0
>>496 >趣味嗜好自体に価値があるわけではない
「価値」が何を意味するのか知らないが、人生にとって意味だけは充分にあるね。それも個人の勝手だと言うのなら、
趣味嗜好を否定するのも個人の(好みの)勝手に過ぎないだけだ。
>この消費社会の渦に巻き込まれるということは、自分を失うということ
そんなことあるわけない。自分の限られた使える金を投じて趣味嗜好をするのが、自分を見失うことになる筈もないだろう。
あなたは、先に「自覚的にかかわる」と言う条件をつけている。誰が、その条件を満たしていないのかどうか分かるのか?
趣味嗜好や消費に対する紋切り型の見方にしか見えないけどね。
名前をつけると言葉に責任が生じるね。 昔、郷ひろみを批判する人に、 何千万人に見られる人のレベルは高い 匿名で批判する人より何十ばいも努力してレベルも高いとか 読んだ記憶がある
501 :
考える名無しさん :2013/01/14(月) 16:40:28.60 0
>>499 >自分の限られた使える金を投じて趣味嗜好をするのが、自分を見失うことになる筈もないだろう。
まず、僕は〈価値〉というのを、その個人や社会の自由に寄与できるかどうか、といった意味で使っている。
趣味嗜好を否定してるのではなく、価値はない、と言っている。
個人が勝手に楽しみでやるだけのものに、それ以上に意味づけをしたがることを批判している。
無自覚な趣味の世界である限り、「サブカル」であろうが「高級な哲学」であろうが同じことだ。
だから、わかりやすいようにスポーツの例を持ち出した。
スポーツと同様に、文化的な趣味の世界も、個人の自己満足と、社会経済的な効果以外に、価値はない。
むしろ、その集団性や無自覚な文化志向は、宗教や全体主義につながりやすいという特質すらある。
自分を見つめるのではなく、集団性を優先したり、対象を神格化したりすることによるものだ。
このことは偶然ではなく、無自覚に趣味嗜好の世界に入り込んでいることからくる必然なのだ。
吉本に関して言えば、サブカル自体がそうした存在だということを、いったん棚上げにして、新しい表現について考えようとした。
棚上げにしただけであって、「幇間芸は幇間芸だ」という自らの持論を捨てたわけでもない。
しかし、一方で、吉本自身は先進的な資本主義を肯定的に修正することによる〈新しい社会のあり方〉を捉えようとしたことから、表現史、つまり美学としてのサブカルの位置付けについての、非専門家的な踏み外しにも繋がってしまった。
つまり、床屋政談ならぬ、居酒屋での美学談義になってしまった感が否めない。
このことが、たとえば現代思想家なんかとの対立点にも繋がるし、彼らに真剣に受け止められなかった理由にも繋がっているのだろう。
502 :
洲蛇亜林 :2013/01/14(月) 19:49:31.76 0
>>501 >僕は<価値>というのを、その個人や社会の自由に寄与できるかどうかといった意味で使っている
趣味もスポーツも、それをやることはその個人の可能性を伸ばすものと成り得る場合もあるのではないの?
例えば、一枚の絵画には一つのある世界が構成されているが、それは描き手の能力と内面が反映されていると考えられる。
それを見て何を感じるかは見る側のそれぞれ自由だが、見る側もまたそこで一つの世界を自分なりに再構成していると考えられる。
或いは、一つの歌なり曲を聴いて共感した場合も、聴き手はその世界を自分なりに再構成していると考えられないか?
自由とは、その個人の可能性を開かせることに関係が深いのではないか。また、表現にせよ鑑賞にせよ良く表現する能力、良く鑑賞する能力と切り離せないと思う。
趣味やスポーツが、その個人の可能性を開かせる=自由にする場合もある以上、価値が無いとも言えないと思う。
まあ、確かにコンサートなどでは、そこに宗教性や全体主義につながりかねないものを見ることも出来るけどね。
そこが微妙なところだが、人間の乗せられ易い性質は趣味などに責任があるのではないよね。それは人間の在り方に付きまとうものだし、政治に於けるものの方がもっと危険ではないの?
503 :
考える名無しさん :2013/01/14(月) 21:10:59.73 0
>>502 >趣味もスポーツも、それをやることはその個人の可能性を伸ばすものと成り得る場合もあるのではないの?
趣味もスポーツを、ただやったからといって、なんの可能性が出てくると思ってるの?
一つの可能性の獲得は、ほかの可能性の喪失だ。
良いとか悪いとかではなくて、それが社会の中での人間のあり方だ。
絵画や音楽に共感しようと、感動しようと、それだけでは、その個人の好みの問題に過ぎない。
「良く表現する能力、良く鑑賞する能力」など、あろうがなかろうが同じことだ。
そんなことは周りのスポーツ好きや芸能好きを見てればわかるだろ?
笛や太鼓で応援したり、ライブの追っかけになったりしている人間が、そのことからどんな可能性を開くと言うんだ?
見るのも聴くのも応援するのも、もちろん自由だが、それはただそれだけのこと。
書くのも弾くのも走り回るのも、もちろん自由だが、それもただそれだけのこと。
周りの人間は、自分に迷惑をかけないでくれることだけを期待してる。
なにかに集中するということは、なにかを失うということ、これが避けられない人間の生き方だ。
504 :
考える名無しさん :2013/01/14(月) 21:14:28.88 0
>>502 集団的なスポーツや集団的な趣味の世界に夢中な人間は、命令で動くことがあたりまえになる。
そのスポーツやその趣味の特性、つまりその「趣味などに責任がある」のだ。
そのためにつくられたスポーツも多い、というより、集団スポーツは、そうした目的を起源に持っていることは有名だ。
マスコミ的サブカルもまた、そういう側面がないわけではない。
大衆を集団的に夢の中へ誘い込むことが、もっとも利益を得られる方法なのだから。
無自覚な個人的なスポーツ人や趣味人は、個性を振りまきながら、ある時、ふと権力の言いなりの個性になっている。
吉本が「大衆の原像」と称して期待したのは、そうした浮ついた感性から離れて、自分を見つめ、生活を見つめながら生きている社会の人々だ。
>政治に於けるものの方がもっと危険ではないの?
これはなに言いたいのかわからない。
政治に参加する人間は、全体主義に走りやすく、危険だと言いたいのか?
趣旨がわからないので、答えようがない。
良い議論見せていただいてます。実際趣味に熱中してる方などがこの議論を見たら どんな感想を持たれるかなとも思う。哲学論議に一般人が混ざっても困るかもしれませんが…。
506 :
考える名無しさん :2013/01/15(火) 12:23:27.00 0
あほか、一般人以下のわけのわからん日本語ではないか。 なにが哲学論議だ、新手の漫才台本か、 筒井康隆の ワーストコンタクトという小説を思い出した。
客:サブカルチャーが基本的にたいこもちや芸者でしかない、と吉本が考えていた訳ではないと 思うけどね。幅があることな訳だから。佐野元春、忌野清志郎、岡林信康、浅川マキ、友部正人、 とか、キリがないけど、芸者やたいこもちではくくれないサブカルチャーは60-70年代に観察して いた人間にとって常識な訳だ。浅川マキみたいにキャバレーまわりから発展した人間もいる。 作品で早くから原発をめぐる体制批判をしてた人間もいる。こういう話は幅なのでひとからげに は言えない。だけど「サブカルチャー=芸者・たいこもち」という見方はもう通用しないっていう のは吉本を持ち出すまでもない既成事実だろう。 主:昨夜の月9ドラマの『ビブリア古書堂』でキーワードになっていたことで、「自分の心が反映 されてるって思えた本を大切な人に贈る」っていうのがあった。つまりある文芸作品を語るって ことにはそれによって自分を語るっていう意味が籠められている。平たく言えば表現っていうこ とだ。自己表現っていうこと。「これに惹かれる」っていうことには自己表現の意味合いが含まれ ている。だからそれに惹かれることを表象することには自己解放の意味がある。サポーターとか オタクとかマニアとかいう意味には単に愛好家っていう意味だけでなく自分を語るっていう意味 、自己表現っていう意味がある。吉本的に言えば指示表出-自己表出だよ。前レス読んでてそれだ け言いたくなったな。
508 :
477 :2013/01/15(火) 16:19:36.99 0
>>507 吉本隆明の〈表出〉概念について語りたければ、『言語にとって美とはなにか』ぐらいは読んでからにするべきだ。
君が「オタクとかマニア」を「自分を語るっていう意味、自己表現っていう意味がある」と考えるのも主張するのももちろん自由だけど、『言語にとって美とはなにか』の〈自己表出〉〈指示表出〉概念とは結びつけるのには無理がある。
『言語にとって美とはなにか』は、あくまでも〈言語〉表現の構造を〈書くことにより表現する〉という方向から分析して、その評価基準を確立するための論考だ。
〈自己表出〉も〈指示表出〉もそのために提示した概念だ。
「オタクとかマニア」が「自己表現」だというなら、人間の行動はすべて「自己表現」だ。
「自己表現」と言いたければそう言ってもいいけど、それだとただ、人間は生きている、と言ってるのと同じことだ。
吉本の〈表出〉は確かに〈疎外〉ということだから、それ自体が吉本と無関係とは言わないが、それだけではなんの〈美〉にも繋がらない。
「引き寄せ」云々のときもそうだけど、他人の概念を中途半端な読みかじりで自分の権威づけに使うんじゃなくて、自分の考えは自分の考えとして展開していかないと、そういう無意味な思考に陥ることになる。
これは、たぶん読書好きな君が、自分というものを少しでも確立するために最もとるべき思考の方法だと思う。
客:表出理論というのは作品化されたもの、「作品」と名付けたものに限定するものではない。つま 言語である限り、普遍的に解析方法として使用できるものだ。吉本の表出理論を文学作品にのみ 限定するものとしたなら誤りだよ。そこまで狭い概念ではないし表出という概念から捉えた普遍 的言語論だよ。自己表出を内臓型表出と言っていたことを知らない訳ではなかろう。これは イメージの根源とも関わる。よって例えば日記でも文学作品として読むことが可能になる。優れた ものかは別にね。 主:それと小林秀雄の批評は作品を論じることで自己を語ることだと吉本は分析している。論じる ことが作品となるのは難しいけど小林は可能とも言っていた。批評言語であるから表出理論は使 えない、というのはない。それに「生きていることは表出か」というならそうだ。ただそこで度合い というのはある。拡散でなくて凝縮させるのが作品化ということだろう。何故なら何度も言うが 自己表出とは内臓であり意識ではない。また、心の色を固有にするのも内臓だ。そう文学作品だけ 使える、とか限定する必要はない。
510 :
477 :2013/01/15(火) 21:14:26.17 0
>>509 あまりバカな解説を加えないでくれ。
〈表出〉は〈疎外〉だと教えてあげただろ?
>「表出理論」、「普遍的言語論」、「イメージの根源」
これで何を言ってるつもりになってるんだ?
>小林秀雄の批評は作品を論じることで自己を語ることだと吉本は分析している
自己を語ることを無媒介に〈表出〉とつなぎ合わせて、なんの意味があるんだ?
>自己表出とは内臓であり意識ではない
〈表出〉が〈意識〉と無関係なら、それは幽霊だ。
とにかく『言語にとって美とはなにか』を読みなさい。
『心的現象論(本論)』だけで、なにかがわかったつもりになるな。
もっとも、それすら読んじゃいないだろうが。
対談やインタビューや他人の解説を読んで理解したつもりになるな。
吉本について書くなら、最低限、主要著作を読んでからにしろ。
これが君への忠告だ。
客:中身のない中傷に終始しているのであまり言うこともないが、ただ、「表出が意識と関係ない なら幽霊と同じ」というところだけ、これは一言いうのが良いと思うので言うが、自己表出につい て吉本は「オート表出」と言い換えている。これは内臓が意識と無関係に機能するのとみあってい る。また、心を意識でコントロールしがたいのとみあっている。また山本哲士が吉本の幻想論を、 日本語文法でいう述語領域だ、というのとも対応する。主体からの脱-自の領域を表すハイデガー でいうseinを表す、と言うのと同じだからだ。批評言語でも自己表出が機能する、という意味で 小林秀雄をあげた訳だが、それもちんぷんかんぷんだったようだ。 主:吉本を熟読している人間がこの程度なんだから、「熟読」ってことにどういう意味があるのか 逆に問い直したいね。むしろ熟読していると見えなくなることが多いのか。あるいは吉本の理論 を思想史に置き直し理解している人間など実はいないのではないか?と疑うね。 客:あと吉本熟読者って熟読していることをひたすら誇示している人間だと解ったな。誇示する 割りに根本的なことにちんぷんかんぷん。熟読しているのがこれなら斜め読みは悪くないことが 暗に証明されたのと同じだ。あと他人の批評へのあの陰湿な口調(笑)あれは関わる気が失せるに 十分だ。しかも熟読している割りに疎い、という不思議さ。この人間、何だ?と首を傾げるよ。
ま、死んだら忘れられるね。30代以下でよんでるまともなやつはもういない。
513 :
考える名無しさん :2013/01/16(水) 18:20:01.96 0
>>511 君は主要著作を読みもせず、読んだものは「斜め読み」。
その他は対談、雑文、他人の解説。
>吉本の理論を思想史に置き直し理解している人間など実はいないのではないか
それでいて、こんなことを書いてしまう自分が恥ずかしくないのか?
君が自分の理解を正しいと信じられる根拠が、なにかあるのか?
一つずつ反論するのはたやすいし、そうしてきたが、君の耳にはなにも響いていない。
自分は完璧で、自分の言うこと、思うことはすべて正しい。
そんな自己愛の強い君には、なにを言っても無駄だろう。
君のことをひたすら罵倒する人間がいる理由がわかる気がする。
ある種の病者に接しているときの徒労感と同じだ。
もひとつ、指摘しておく。
>他人の批評へのあの陰湿な口調(笑)
そういうのを、天に向かってつばをする、と言うんだ。
せめて、自分がさんざん他人の意見を、根拠なく、罵倒してきたことぐらいは忘れるな。
最後の忠告だ。
514 :
考える名無しさん :2013/01/17(木) 13:01:37.19 0
保守系やネット右翼の人たちが喧嘩を売りすぎ。 政治までもがむかしの暴走族と同じメンタリティになってきている。
516 :
考える名無しさん :2013/01/18(金) 10:44:11.17 0
>>515 問題は、そうした大声に賛同する人が増えているということだろう。
大声を出す人たちには、それぞれ出す理由があるのだろうが、一般の人たちにも、なんとなく、日本が大きい方がいいとか、日本が強い方がいい、とかいう幼稚な感じ方の人が増えている。
517 :
洲蛇亜林 :2013/01/18(金) 14:28:18.67 0
深夜勤務が続いたので、考える気力がないが。 無責任に旗振る政治家がいるからな。それを諫められない知識人もマスコミもだらしないよな、と515を見ての感想。 権力的なものに迎合するのは人の常だし。
518 :
考える名無しさん :2013/01/18(金) 15:27:16.22 0
ほとんどすべてといっていいくらいの原子力関係の学者が、原発推進派だったことがいい例だろうな。 みんなポストと副収入には、弱いよ。
>>518 原子力に対する思いってのもあるんじゃないかな?私情をはさむにはあまりにも
社会に対する影響が大きい物ではあるけど。
520 :
考える名無しさん :2013/01/18(金) 18:25:52.51 0
>>519 >原子力に対する思い
新しいエネルギー源としての側面に対する思いと、生物に対して非常に強力な悪影響を長期にわたって与える性質の面に対する思いと、個人の中ではともかく、研究者の世界では、両方同じぐらいの重さで研究されていればよかったんだけどね。
補助金がでたり、安定的な副収入になったりするのは、「安全エネルギー」としての側面に限られていたようだ。
自然科学の研究も、結局は、資本主義的な要請に基づくものが優位になって、その成果を否定するような研究は消えていく。
521 :
考える名無しさん :2013/01/18(金) 19:09:56.74 0
たとえば地球の温室効果の問題があると言われている。 自分はその方面はまったくの素人なので、ネット情報ぐらいしか見ていないが、二酸化炭素による温室効果というのはほんとうなんだろうか? 大気中のCO2は0.03〜0.04%といわれている。 極めて簡単な実験では、20%濃度にした空気と、通常の空気で、ほんのわずかの保温差が出る程度らしい。 もちろん、数%以上の濃度であれば、人間は生きていられないから、温暖化どころの話ではないが。 地球の放射熱については、違う測定法があるのかもしれない。 ただ、素人には、0.03%が0.05%になっただけで、温室効果が生まれるという研究には、なかなか納得しにくいものがある。 もちろん人体に有害なCO2が増えていくことに危惧は覚えるが、温室効果と関係があるのか、それを原子力発電と結びつけるべきものなのか、疑問は残る。 温度、ということであれば、人間の社会的な活動だけでも熱は出しているだろうし、まして、原子力は、物質をなくすことで熱を出すのだろうから、熱だけを増やすんじゃないか、といった専門家からは笑われそうな感想がでてくる。 なにか、温暖化防止のための原子力発電、という言われかたには、どうしても違和感を持ってしまう。
522 :
洲蛇亜林 :2013/01/20(日) 20:58:25.67 0
>>517 続き
>政治までもがむかしの暴走族と同じメンタリティになってきている
それは、どうかな。昔の暴走族のアイドルみたいな歌手やバンドが唄っていた『ファンキー・モンキー・ベイビー』や『ぶっちぎりロックン・ロール』なんか底抜けの明るさとおおらかさに溢れている。
昔暴走やってた人何人も知っているけど、今のネット上のヘイト言論とはメンタリティは大きく違うと感じるけどね。
523 :
考える名無しさん :2013/01/20(日) 23:41:13.33 0
>>522 またサブカルチャー擁護ですか…。哲学板で暴走族なんて言葉が出てくるとは…。
524 :
考える名無しさん :2013/01/20(日) 23:44:13.34 0
>>523 それがサブカル擁護のレベル、なんて言うと怒るやつがいるかな?
525 :
洲蛇亜林 :2013/01/20(日) 23:55:45.11 0
526 :
考える名無しさん :2013/01/20(日) 23:58:21.13 0
>>525 大衆文化などを好むのは広告に踊らされた結果。本当は貴方もサブカルチャーなど好きでは
ないのでは?何度も書きますが、これが私のサブカルチャー観です。
テレビまんがとか流行音楽とか。
527 :
考える名無しさん :2013/01/21(月) 00:09:44.93 0
京都くせえな
528 :
考える名無しさん :2013/01/21(月) 00:16:15.50 0
529 :
考える名無しさん :2013/01/21(月) 00:44:46.94 0
>>526 演歌が好きなお爺さんは、ただ演歌が好きなだけ。
その人の育った環境だから。
サブカルに限らず、趣味的なものは、その人の育った環境を表している。
ただ、広告に踊らされて、と見てしまうと、社会のあり方そのものを見逃すことになる。
530 :
考える名無しさん :2013/01/21(月) 00:54:42.56 0
>>529 その演歌好きのお爺さんに「貴方は広告に踊らされているだけだ」と告げれば
そのお爺さんは演歌を聞くのを止めてくれるでしょうか?
531 :
考える名無しさん :2013/01/21(月) 01:11:56.56 0
>>530 やめないだろ。
ただ好きなんだから。
人の迷惑になるような聴き方や歌い方はしないけどね、たぶん。
趣味に関しては、他人の迷惑を気にしながら、そっとやってる人も多いよ。
532 :
考える名無しさん :2013/01/21(月) 10:10:00.75 0
>>530 なぜ君は人の趣味をやめさせたいの?
>「貴方は広告に踊らされているだけだ」
と言っても、広告なんかない昔から、「高級」な趣味も、「通俗的」な趣味もある。
たとえば江戸時代だって、黄表紙や歌舞伎に夢中になる人は多かったようだ。
裕福な商人や旗本の息子たちが放蕩に身をやつした話も多く伝わっている。
それぞれの時代の閉塞感の表れでもあるだろうし、その範囲での精神的な自由の希求でもあるだろう。
結局、現実が変わらなければ、その時代に見合った「通俗的」な趣味に夢中になる人は絶えるはずがない。
ある趣味嗜好が「広告に踊らされた」ことによるとしても、広告がなければ違う「通俗的」な趣味嗜好に走っただけだろう。
「広告」に対して別の「広告」で埋めた極端な例がナチスだろう。
所詮、「広告」でその人の現実を変えることはできないと思う。
533 :
考える名無しさん :2013/01/21(月) 13:27:06.27 0
>>532 多分530氏はバイク好きの兄貴の弟だと思う。兄貴はずっとバイク好きでバイクメーカーで働いてるとか。
それを「兄はずっとバイクの広告に洗脳(?)されてる」と考え、そんな兄貴を助けてやりたいんだとさ。
あと大衆文化に対する憎悪も凄いようだ。
多分、ね。同一人物だと思うよ。申し訳ないがちょっと病的だと思われ。
534 :
考える名無しさん :2013/01/21(月) 16:09:25.53 0
>>533 それだけ「バイク」に悩まされてるんだろう。
他人に迷惑をかける趣味のベスト10ぐらいには入るだろうな。
自分で乗る分にはとても楽しいものだが、車種や運転のしかたによっては音もうるさかったりする。
暴走なんてのは論外。
とはいえ、それがすぐにサブカル全部につながるものなのかな?
そこがわからない。
535 :
考える名無しさん :2013/01/21(月) 20:29:18.26 0
>>534 不良の匂いがするもの全般に対する憎悪かもな。ロックとかもw
536 :
洲蛇亜林 :2013/01/21(月) 20:52:31.69 0
>>526 優しくないんでねぇ、悪いけど同意は出来んのよ。(藁)
広告、基本的には関係無いと思うよ。たまたまTVでやってた『デス・ノート』に惹きこまれて後古本屋で全巻買い揃えたよ。
これ広告と何の関係も無いと思うが。TV番組でも自分が興味湧かなければチャンネル変えるだろうし。
537 :
考える名無しさん :2013/01/21(月) 21:19:57.73 0
>>535 バイク全般とは無関係だが、暴走は、現実的な「悪」を実行することで自分の存在を主張する。
ロック的なものは、現実ではない「悪」、つまり「偽悪」によって他人との違いを主張することで、自分の誇示する。
どちらも「悪」の主張が、自分の存在価値だとしか感じ取れない人たちの「趣味」だ。
自分の存在の主張、というのが、きわめて原始的(動物的)な反応なのか、むしろ、社会の成熟とともに強くなってきているものかは、わからない。
「兄弟のバイクに悩まされている人」は、その「偽悪」に不快なものを感じ取っているような気もする。
暴走やってるような人は、「バイク屋さん」に勤務することはできないし、むしろ、現実的な「悪」からは離れている。
「不良の匂いがするもの全般に対する憎悪」であるとするなら、それは、その人の願望の裏返しであるのかもしれない。
サブカルは全般的に、「自己主張」の匂いがることは確かだ。
538 :
考える名無しさん :2013/01/21(月) 21:26:12.89 0
>>536 サブカルに熱中することは、威張るようなことじゃないと思う。
どの趣味も否定はしないが、「たまたまTVでやってた」から「全巻買い揃えた」んなら、「広告」と関係ありそうだ。
539 :
考える名無しさん :2013/01/21(月) 21:46:55.16 0
>>538 趣味道楽は家族の迷惑にならない様にやるべし。誇らしげにやるもんでは無い。
道楽を許してもらってる家族への感謝を忘れるべからず。ハイだろうがサブだろうが
同様よ。余暇を自分のために使える社会環境にも感謝かもな…。
広告は商品やサービスの存在を知るきっかけのみに利用するのが良いよね。
別に趣味は無くとも、ここの住人なら出版社の新刊情報無きゃ困るっしょ!
/⌒ヽ (>=◎( ^ω^) (´⌒(´⌒;;/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ /_./ 〉⊂_ノ` (´⌒(´≡< ブーン 〈/ )/__,ミ≡≡≡(´⌒;;;≡≡\________ (_/^´ (´⌒(´⌒;;
541 :
考える名無しさん :2013/01/21(月) 22:33:15.97 0
>>539 だけど、もう吉本さん話題に戻してもいいのでは…失礼した。
どうぞっ!
>>541 一応、この話題のもとは、吉本のサブカル観だ。
吉本はサブカルについてたくさん取り上げてはいるが、高く評価したことからなのか、現代の共同幻想を浮き彫りにするためなのか。
そのあたりも関心ごとの一つ。
また、サブカルが社会に与える影響というのが、どの程度の深さで、それは、歓迎すべき影響であるのかどうか、ということも。
これはたぶん、現代の重要な課題だと思う。
その判断を誤ると、日本はファシズムになだれこんでいくかもしれない。
何でも判断を誤ればファシズムになだれ込むかもしれない。
客:513、「反論」とか言ってるけど、単に「何故そう言えるのか分かりませんでした」て言ってる だけだろうが(笑)何が「反論」だ。正直に「何故そう言えるのか分かりません。教えて下さい」と書 いてあればこっちも丁寧に答えたけど、「君(きみ)」って、いつからこいつは教師になったのか、 不審に思う上から目線だろ。会ったこともないアカの他人に対して。もうそっから既に話す気は 失せるんだな。礼儀知らずも甚だしい。因みに我々の場合、がさつに見えるかもしれないが、 レスに対しては極力丁寧語を使うことにしている。感情的になると良い話にならないのでね。 初めから「君」呼ばわりな513の場合は最初から相手する気は失せている。こいつは礼儀知らずだと 文体から解るから。 主:吉本の主要著作を読まなければ吉本は語れない。とか言ってるけど、読まなくて語れるなら それでも良い。そもそも知よりも非知を優勢にするのが吉本だろうが(笑)「〜を読まなければ 語る資格ない」とか、知を特権化する姿勢は既に吉本的ではない。その手の奴ってのは大抵の場合 権威主義者だからね。 客:もっと自由に語っていいよ、とりあえず斜め読みで感じたことでいいよが吉本的だよ。
545 :
考える名無しさん :2013/01/22(火) 16:18:42.35 0
>>544 また出てきたのかよw
「こいつは」を連呼しながら、礼儀を語るw
君には「丁寧語」らしいね。
小学国語からやり直せ。
>正直に「何故そう言えるのか分かりません。教えて下さい」と書いてあればこっちも丁寧に答えたけど
他人の反論の内容は無視して、自分は完璧、と言い張る。
ここまで妄想を呼び起こすのでは、やっぱり君の反応は普通じゃないように見えてしまう。
だいたい、主要著作を読まずに何を語る気なんだ?
自分が自分の思い込みを書いてるだけだ、ということも読まないから理解できないんだよ。
自分の理解が正しいかどうか、普通は、それを確認するために「熟読」するんだ。
まあ、読解力しだいのところもあるから、君が読んでもわかるかどうかは知らないが。
546 :
考える名無しさん :2013/01/22(火) 16:21:04.68 0
>>544 >非知を優勢にする
ここでも、ぼろが出てるw
「知」を極めたところから「非知」に戻る、というなら吉本風だが、非知のまま「知」を語るのでは、ただのバカだ。
その著作を読まずに著作者を語ることが、反「知の特権化」だ、と言うつもりなら、それは、ただのバカにとどまらない、無意味なバカになってしまう。
君がなにを語るのも自由だが、それが正しい理解であるかどうかは、ななめ読みではわからない。
>とりあえず斜め読みで感じたことでいいよが吉本的だよ。
なにを読んでそう思ったのか知らないが、それで何かが理解できるということではまったくない。
「自己の能力にあまるために、本稿のモチーフを把みとることができず、わたしの著作は、衝撃力を失っているという批判にまで、陥こんでいるのもあった。」
「〈無智につける薬はない〉とでもいうよりほかない。どんな過渡的な社会でも、無智が栄えるためしはない、というのは、自他をともに束縛する鉄則である。」
「どうして理解するための労力と研鑽を惜むものに、衝撃を与えることなどできようか。」
読んだかどうか知らないが、こういうところは、なんかいでも読んだ方がいいと思う。
547 :
考える名無しさん :2013/01/26(土) 00:27:55.34 O
あの、なぜか吉本死後意志をつぐかのように「情況への発言」をパロってるのは、 「ハイデガーの人」といって、吉本スレの有名人です。 まとめサイトでも覗いてください。 吉本愛読者なら誰もが知ってる文章を列記したのが恥ずかしくはなるくらいには、 吉本を読み込んでいますよ。 「ハイデガーの人」は。 あと 非知のまま「知」を語る はバカではなく吉本的に到達不可能な理想郷でしょ? 「最後の親鸞」的に。 レトリックで使ったとしても、お里が知れてお粗末様ですな(笑)
548 :
考える名無しさん :2013/01/26(土) 02:15:03.33 0
【石井望】中共の尖閣領有根拠、「皇明実録」で完全崩壊[桜H25/1/23]
http://www.youtube.com/watch?v=EGolgKQhWTY 公開日: 2013/01/23
「明の時代から尖閣は中国が支配していた」と強弁してきた中共である
が、このほど長崎純心大学の石井望准教授が発表した明朝の公式文書
「皇明実録」の中では、尖閣は琉球に­属し「明の領土ではない」ことが
明示されており、さらに「台湾の付属島嶼」でも無いことが証明された。
中共の支離滅裂なプロパガンダを完全に粉砕した石井望准教授と電話で
­繋ぎ、この発見の意義についてお聞きしていきます。
549 :
考える名無しさん :2013/01/26(土) 10:00:07.66 0
>>547 「吉本死後意志をつぐ」つもりの「ハイデガーの人」かよw
だらだらとどうでもいいことを書き連ねて、無視されるか罵倒されるかのどちらかの反応を招く「有名人」だな。
自分で自分をほめ上げてるようにしか見えない書き込みをして「恥ずかしくはな」らないのかな?
>吉本を読み込んでいますよ
斜め読みは、読み込んでいるとは言わない。
文章を知っているだけで、それを理解しないことに「恥ずかしくはなる」ぐらいの神経は持っていたほうがいい。
「非知」のまま「知」を語るのは、なにをどう言い繕おうと、ただのバカであるかスノッブであるかのどちらかだ。
レトリックでもないし、「吉本的に到達不可能な理想郷」でもない。
食後に議論ができるのは、現実社会の理想郷かもしれないが。
やっぱり、君は、小学国語からやり直したほうがいい。
そして、誰の著作であっても、熟読することだ。
客:まあまあ549氏よ、どぎつい中傷言葉は貴方には似合わない。俺はたしかに3部作は読む気に ならないがそれでも数十冊は読んでる。吉本隆明を理解してない訳ではない。と自分では思って いる。「知の頂きを極めて非知にしずかに着地するのが知の願い」というのも読んでる。ただしその 言葉は俺からみると、そんなにうまくいくかい?という気もあるのであまり使わない。知に入って 行く人間はたいてい揚げ足に生き甲斐を見い出したり、気難しくなったり、付き合いにくい人間 が多いように思える。吉本みたいな人間は例外でね。なんであの言葉はあまり使わない。貴方が 3部作を頑張って読破したことを立派とは思うがそれに従う気にはならないな。吉本の凄さは 他の本にも読めるものだ。3部作の成果は他の本や講演でも出てるのではないか?貴方が3部作 でしかない成果があると言うならちょっと教えて戴きたいな。他のスレ住人のためにもなる。そ れを書けるのは3部作読者だけだから貴方向きだ。どうだろうね。ちなみに『心的現象論』の成果 を受けて語られた本としては『ハイ・エデイプス論』『吉本隆明「太宰治」を語る』がある。二つとも 感銘を受けた。
551 :
考える名無しさん :2013/01/26(土) 20:59:25.68 0
>>550 なにを急に猫なで声でぶつぶつ言ってるんだ?
人格を変えたつもりか?
― 自分がさんざん他人の意見を、根拠なく、罵倒してきたことぐらいは忘れるな。
>正直に「何故そう言えるのか分かりません。教えて下さい」と書いてあればこっちも丁寧に答えた
こういう言葉を忘れない。
こういうことを書く人間が、「たいてい揚げ足に生き甲斐を見い出し」ている人間ではないという根拠もない。
ひとつだけ指摘しておく。
3部作という言いかたで括るなら、『心的現象論』(本論)は外した方がいい。
序説までだ。
本論は、本人が照れ隠しにどこでやめても同じ、などと語っているのとは裏腹に、未完であるだけではなく、途中で方向を見失っているからだ。
前半はともかく、後半は他人の説を鵜呑みにしてそれを紹介しているだけ、と言ってもいい。
これは原発の安全性について、他人の安全解説を鵜呑みにしたことと同じだ。
それが肉体的な衰えによるものなのか、精神の衰えによるものなのかは知らない。
老年期の吉本のインタビューや雑文を読んでも、その時々の心象風景は見えるかもしれないが、そのまま吉本の著作の理解に繋げるのは難しい。
これで十分などと思われているのでは、本人も草葉の陰で苦笑しているかもしれない。
客:完読氏よ、イライラは体に毒だ。俺は長生きはしたいって思っている。無意味なイライラは 避けたい。貴方が自分の3部作読破体験を語ることは良いことじゃないか。『心的現象論本論』の 話は渋谷陽一からも言われていたな。「研究的なアプローチ」「終点がない」とか。 主:ただ、それだけじゃなく、「原了解以前」の箇所というのは太宰治や三島由紀夫への批評、或は 講演「内的コミュニケーションについて」でも引用されている。胎児・乳児の経歴の重要性として 。吉本の作家論にとってあそこの研究がもたらした成果は実は大きい。加えてハイデガーが人間 が抱く世界のイメージの根拠として〈原-像〉〈先-像 for-build〉という概念を出している。これ は「根拠の本質について」という論文で指摘する訳だが、それとの繋がりも匂う訳だ。偶然の近接 だと思うが。俺からすると人間性の生成を掘削・検討した部分として重要な部分に思えるけどね 。
>>551 とおりすがりだけど、あなたの具体的に吉本さんについて書いた
文章読みたいんですけどブログでもいいんでリンクでも貼ってもらえませんか。
554 :
考える名無しさん :2013/01/28(月) 08:52:16.89 0
>>552 君が「イライラ」しようが満足しようが、他人には関係がない。
それがわかるようになれば、少しは自分を客観的にみることができるようになるだろう。
自分に礼儀を語る資格があるかどうかも、自問できるだろう。
周りをきょろきょろ見回しながら、誰がどう言っているかなんてことばかり気にすることも、少なくなっていくだろう。
吉本の著作が気になるなら、自分で読めばいい。
誰でも100回読めば著者の意にたどり着くはずだ、と本人が言ってるんだから、それを信じて読めばいい。
僕の理解を知りたいなら、君自身が、自分の理解は完璧だ、という妄想から離れるだけでいい。
もう書いてある。
君がなにをハイデガーの「知」の遊びと結びつけるのも自由だが、君自身もハイデガーとナチスの社会的な関係を、きちんと自分の中で解決しておくべきだ。
本人はただ逃げていただけで、ナチのどこが悪い、と開き直ったわけでも、ナチを分析したわけでも、恥じて沈黙したわけでもない。
吉本が口を極めて非難した自覚のない転向者と同じなのか、違うとすればどこが違うのか、考えるべきだ。
文学を語りたければ、それは必須のことだ。
ちなみに、作家を論じるときに、胎・乳児期に遡って「人間性の生成を掘削・検討」することなどは、ありふれた方法だということぐらいは知っておいたほうがいい。
555 :
考える名無しさん :2013/01/28(月) 08:55:19.27 0
>>553 僕の書き込みに関心を持ってくれたとすれば、感謝しないといけないと思う。
でも、いまはノーコメント。
主:山本哲士との『戦後55年を語るE』で〈幻想〉というタームについて、〈制度〉という意味合いにと れるのは共同幻想だけであり、個体幻想・対幻想に関してはそういう意味合いはない、また、 幻想といっても幻覚・錯覚という意味合いはないとしていた。そう但し書きを加えている。 そこで幻想というタームは〈「有る」の発現〉とも取れるのではないか、根拠の問われる場をも 意味しうるのではないか、という含みと拡がりを感じた。如何せんハイデガーには吉本ほど の思索の具体性に欠けるのだけど。 客:人間を掴む手付きは歴史の地層に注目するところが同じだからね。吉本の場合、幻想論は文芸 批評の拡張でもあるんだけど、ハイデガーの場合も、没-交渉的世界性に向けた超越というところ で、芸術論として読めるところがある。 主:例の造悪論という思想も、〈悪ほど阿弥陀の本願に摂取される〉、つまり神との交渉なわけだけ ど、ハイデガーにも人間と神が己を互いに委譲する、この時人間は〈底なしの深淵〉の発現する場 となる、というテーゼがある。そこも連想させるところだよ。してみると、造悪論でいう悪とは、 阿弥陀の規模まで拡張された悪で、人間から隔たったもの。これを市民社会の規模まで縮小させた のが吉本バッシングの内実だった。あの当時の社会と吉本の落差はそういうことだった、と見て いいんじゃないか。
原発は? スターリン主義との批判もある。 マルクスのいう高度な共産社会の生産性を実現するために いかなる犠牲も厭わない国家総動員体制との批判が。
558 :
考える名無しさん :2013/01/30(水) 16:42:31.20 0
>>556 デタラメもここまで来ると拾いようがないな。
>幻想というタームは〈「有る」の発現〉とも取れる
なんてことはないし
>当時の社会と吉本の落差はそういうこと
ではないよ
口から出まかせも、いい加減にしろよ。
559 :
考える名無しさん :2013/02/01(金) 16:49:58.05 O
おまいら、ちゃんとバナナパパと呼べよ。
560 :
考える名無しさん :2013/02/01(金) 19:15:26.61 O
で麻原は実際のところどうなんですかね?
柔道で体罰を受けてああなってしまったのでは?
>>560 天罰で溺死しかけて目が悪くなりました。
563 :
考える名無しさん :2013/02/03(日) 10:02:17.25 O
昭和天皇が崩御して石原が立ち上がった瞬間に崩壊しました。
564 :
考える名無しさん :2013/02/03(日) 10:30:25.36 0
どうしたの、このスレ。活気無くなったな。 どこの特定人物スレでも同様だが、その人物の著作を読まないと議論する資格無いとか言い出した瞬間につまらなくなる。 その言い草、条件付けて相手を議論から排除しようとするものに他ならんだろう。ある意味で議論忌避の態度だ。
565 :
考える名無しさん :2013/02/03(日) 12:16:25.93 0
>>564 議論する資格がないのではなくて、それを吉本の考えだと断定する資格がない、と言うことだ。
他人の解説や雑文の一部だけ読んで本人の考えを決め付ける、なんてことは誰の著作に対してもありえない。
別に活気など必要ないし、議論をするにはそれぞれの根拠が必要だ。
そうでなければ議論にもならずに、それぞれが勝手な自分の思いを吐き出すだけになる。
そういうものは自分のブログかなんかでやっていればいい。
おもしろいとかつまらないとか、どうでもいい。
このスレぐらいは、真剣に考える姿勢を持っている人だけが参加するスレであってもいいだろう。
それが吉本に対するせめてもの追悼だ。
自己紹介乙
567 :
考える名無しさん :2013/02/03(日) 22:31:13.26 0
2ちゃんとブログの位置づけ方についても十人十色か
客:オウムの教義でいうマハー・ニルヴァーナというのは到達すべき絶対境地だが、現世での美 醜・善悪の越えられた広大無辺、「相対の世界からの離脱」「自己の存在そのものが認知できない」 とか言われている。現世での相対的価値は越えられるべき、なわけで、そこからすると善悪の超脱 を実践させることは教義上はあり得る修行だと言える。それを造悪というなら、言えるだろうね。 吉本があの時反応したように。 主:現世での相対的価値の断念、そこからの逸脱、というのは「拒絶」として、いわば〈あり得ない 意志の発現〉としてハイデガーは語っている。これも造悪の一種に見えるんだけどね。「畏れ」「驚 愕」をもたらす、というのはね。麻原との接点はそこだけじゃなく、人間を内的な経歴の現成と 捉える手法が既に似ていたし、それは人間を歴史として捉えることなわけで、麻原の教義は宗教的 ではあるけどもね。 客:麻原=ハイデガー=吉本、と造悪論をめぐって繋がりはある、と。
570 :
考える名無しさん :2013/02/05(火) 01:13:10.19 0
尊師も目が悪かったか。
客:ついでにヨーガについて一言すると、昔ジョルジュ・バタイユの『内的体験』を捲っていたら、 バタイユがどうもヨーガのことをやたら問題にしている記述があって、当時ヨーガというとインド の健康法的イメージしかなく、あのバタイユが著書で問題にする、ということがピンと来なかった ことがあるんだけど。バタイユにすれば、ヨーガの修行というのも主体性や客体性の彼岸に向かう 方法、バタイユの思想でいう〈不可能なもの〉〈至高性〉に関わる概念だったと今は解ると思う。〈 不可能なもの〉というところでバタイユは〈禁忌の侵犯〉〈悪〉ということも重要概念にするんだけど そういう辺りも今思えばオウムとの接点があると思えるね。 主:「オーム」というのは元々宗教の祭儀で唱えられる聖音・言葉であり、インド思想での絶対者 を意味している。バタイユの『内的体験』の中でも祭儀で唱えられる「オーム」の聖音が引用されて いる。バタイユが1930年代に既にヨーガに興味を示し論じていた、というのは後のオウム事件を 考えると興味深いんじゃないかね。勿論造悪という問題としてもね。 客:何故あのバタイユがヨーガを問題にする?というところで実はオウム真理教の意味がそこで バタイユという視線に探られていたとも思える。
572 :
考える名無しさん :2013/02/09(土) 21:10:59.14 0
吉本が「超資本主義」を設定して、「消費者のリコール権」なんてことを言い出したのは、転向云々じゃなくて、ただぼけただけとしか思えないね。
573 :
考える名無しさん :2013/02/12(火) 11:38:10.80 0
youtube 爆笑問題 怪談を参照。ここでよく出てくる日本語の特徴が わかる。
橋爪大三郎の『永遠の吉本隆明』ってのは変な本だ。 吉本信者というのがいかにクズかというのがよく理解できる本ではあるのだが、 その橋爪自身が吉本信者で、吉本隆明の偉大さを若い人たちに伝えようとして こんな本を出したって言ってるんだよなあ。 この世代の考えてることって本当に理解できん。
575 :
考える名無しさん :2013/02/15(金) 19:45:50.05 0
>>574 吉本信者って、どういう人たちのこと?
具体的には、何を信じて信者になってると思うの?
577 :
考える名無しさん :2013/02/16(土) 21:59:02.74 0
>>576 君が「信者」と書いたんだから、君が説明しないとね。
説明できないなら、君の言葉の使い方がデタラメだと言うだけだよw
578 :
考える名無しさん :2013/02/21(木) 12:27:47.89 0
吉本に対する賛美も批判も、吉本の思想から離れたところでなされてるんじゃないかな? どちらにしても、吉本の思想がよみがえることを期待しよう。
579 :
考える名無しさん :2013/02/25(月) 21:47:16.96 0
「人間の心の世界は幻想だから、レンガのようにつみかさねられるはずがない。現在の心の世界は、ただ現在だけの世界であって、どんな意味でも過去からつみあげられた層状の世界ではない。」 吉本は「共同幻想論」でこう書いていたのに、歳とってからは、心が荒れてるのは胎幼児期の母親との関係のせい、とか平気でいうようになっちゃったな。
580 :
考える名無しさん :2013/02/25(月) 23:56:02.42 O
アグネスもカプセルベビー問題は言って棚
581 :
考える名無しさん :2013/02/26(火) 00:00:35.77 O
最近の流行りは子供は便所で産む、か。
>>579 「消費者のリコール権」も酷かった。
現実に消費社会の拡大によってもたらされたのは、投資家(資本家)の「リコール権」の飛躍的拡大だった。
>>582 もちろん、新自由主義の下では、という意味で。
>>579 遺伝子の研究が進んで完全に思い通りの子供をオーダーする時代になれば、
心についても詳細な設計により作られるんじゃないかな?
原発擁護、リコール権、母原病論、、、、 吉本情況論はたしかに問題が多かった。 本質論こそ吉本思想として生き残っていくものかも。
586 :
考える名無しさん :2013/02/26(火) 19:17:04.73 0
>>584 人間の心は、些細なことでも外界との相互作用として反応するから、無理だろう。
双子が同じ家庭で育っても同じ性格にならないし、違う家庭で育てばほとんど他人。
587 :
考える名無しさん :2013/02/26(火) 19:18:27.85 0
>>585 老いることの怖さでもあるだろうし、生活に追われる怖さでもあるんだろうと思ってる。
本人の印税考えても 娘の印税考えても 生活に追われる怖さなんてなかったんじゃないの?
>>588 よしもとばななが売れるようになったのは、90年前後になってからだろう。
それに、娘の印税は関係ないよ。
家のローンもあったかも知れない。
いまの家は下町じゃなくて、山の手の高級住宅街の一角。
不況が身にしみるなんてことも書いてるし、売れてると言ってもベストセラーとはほど遠い。
生活苦を見かねて?橋爪氏が収入源(特任教授)を紹介したという話もあるようだし。
まあ、他人の生活のことはわからないから、書かれたものでその影響を推測するしかないね。
590 :
考える名無しさん :2013/02/27(水) 01:22:32.41 0
キミからみて誤った情況判断をすると、吉本の収入があがるに違いないという論理がよくわからんのだが?
591 :
考える名無しさん :2013/02/27(水) 02:05:30.59 0
>>590 逆だろ?
衰えと、生活のために濫作となって、緻密な論理展開ができなくなった。
情況判断はそのときどう思ったかというだけで 前提が間違っているのを認識すれば吉本自身も すぐ誤りを認めるようなレベルの話でしょ
「母親原因論」も「母親が悪い」論と一般に受け取られ兼ねない面があったから ウーマンリブ系から批判を受けやすかった。 フェミニズムに批判的だったから仕方ないといえば仕方ないが、 あとであれは「母親の責任論」みたいな受け取り方は間違いだと弁明している。 責任論の水準を超えた無意識の問題だと。 むしろ母親が犠牲者だという点まで話をもっと突っ込んでいたらウーマンリブ系論客 を敵に回す必要はまったくなかったはずなのに、あえてそれはしなったのだろうか。
母原病論と母型論が決定的に違うんだという面は、 芹沢さんあたりにやってもらいたい気がする。
595 :
考える名無しさん :2013/02/27(水) 16:31:58.81 0
>>592 前提が誤りかどうかの問題ではなくて、なんの根拠もなく、一素人の報告を鵜呑みにして原発安全神話を確信して議論を組み立てたことが問題なんだよ。
強いて根拠をあげれば、大衆としての技術者は無条件で技術的な追求をしていくはずだという思い込みだ。
所属する企業や大学の意向、補助金の多寡、自身の地位、その他の世俗的なことで、簡単に技術者は研究、開発、設計の方針を変える。
そうした、特に資本主義社会での人間の生き方を理解していなかったということだ。
>>593 >>594 >母原病論と母型論が決定的に違う
わけではない。
胎教と同じで、どちらも一定の正当性はあるが、それを人間の核として捉えれば、現実の人間のあり方と可能性のほとんどを取り逃がす。
「母型論」も「心的現象論(本論)」も、吉本自身が固定的な古典の思想だとして批判したフロイトよりも、もっと図式的な人間(の心)理解になってしまった。
ここにも、一発生学者の研究を、人間の心を身体感覚にまで拡散させて固定的な人間像を作ってしまう論考に無造作につなげてしまった吉本がいる。
残念ながら、「心的現象論(本論)」に入ってからの吉本は、膨大な人間の心に、論理を押しつぶされてしまったように見える。
老いによる衰えなのか、論理を追求できるだけの生活上の余裕がなかったのかはわからない。
こうしたことが、僕の理解不足であればいいとも思っている。
>>595 それはちがうよ
大衆としてとかの話ではなく歴史的全体的に見れば技術は進歩するしかないから
問題を克服する技術の方向以外は消去法的に無意味て話
安全性を確信してたんじゃなく危険と分かっていても
原発を一時的に止めてもそういう方向しか道は無いって事で擁護ってほどでもない
技術的進歩は止められないは昔から一貫してる立場
598 :
考える名無しさん :2013/02/27(水) 17:08:13.76 0
>>597 「状況への発言」(1989年2月)に原発のことを書いてる。
僕は、その文章を読んで
>>595 を書いた。
それを読んでも、その考えが変わらないかどうか聞いてみたい。
もし読んだ上で、その感想をもつなら、それぞれの受け止めかたということだと思う。
599 :
考える名無しさん :2013/02/27(水) 17:42:02.27 0
>>596 だから「胎教」にしたって母親がストレス過多な状況にいたら
胎児にもよくないだろうという話であって、母親「責任論」とは
問題にしている水準がまったく違う。
単純な対幻想病理論ではなかったところに、吉本思想がある。
対幻想論をそこだけで捉えるとウーマンリブからの批判が妥当になってしまうが、
ちがう。
600 :
考える名無しさん :2013/02/27(水) 18:11:01.63 0
>>599 「胎教」というのは必ずしも母親の精神状態のことだけじゃない。
音楽を聴かせたり、母親が勉強したりすることが胎児に好ましい影響を与えるとする考え方のこと。
それによる極端な天才児誕生の話が「心的現象論(本論)」に引用されている。
吉本は半信半疑ながらも、肯定的に扱っている。
というよりも、反論の糸口も見つけようとしてはいない。
吉本は、胎乳児との親の関係は母親しか見ていない。
吉本の考え方からして当然だ。
「好ましい」影響も「好ましくない」影響もすべてが母親の「責任」となる。
父親は、せいぜい母親への気配り程度の「責任」しか考えられていない。
「ウーマンリブ」からの批判があるのかどうかは知らないが、いつのころからか人間の心を積層的に捉えるようになった吉本の「母型論」と「母原病」的な考え方は、その視点において同じものだ。
601 :
考える名無しさん :2013/03/03(日) 12:53:52.19 0
何が言いたいのかよくわからない、もっとじっくり読んでなんとかして 著者の言わんとすることを理解したい、ひょっとして著者のいわんと することがわかるのは俺だけではないか、ということは俺ってそうとう 頭いいのではないか、
602 :
考える名無しさん :2013/03/03(日) 12:55:01.95 0
t
603 :
考える名無しさん :2013/03/03(日) 13:03:27.57 0
英訳はないのか
604 :
考える名無しさん :2013/03/03(日) 13:05:35.83 0
すばらしい吉本、もっと勉強しよう、そのうちまともな日本語忘れる かもしれないが
605 :
考える名無しさん :2013/03/03(日) 22:19:46.33 0
>>601 そうだね。
読み込んで、理解できるようになるといいと思う。
君だけが理解できる部分もあるだろう。
でも、書くときには、変な書き方しないほうがいいと思う。
>>604 もう、まともな日本語忘れちゃったんだね。
残念なことだ。
608 :
考える名無しさん :2013/04/04(木) 20:57:31.06 0
2酸化炭素が年々増えているのは確かだが、それでも、空気中に0.04 %以下。 その程度で温暖化が加速されるのかねえ。 単純に考えれば、地球上で熱を出せば、そのすべてが熱以外のものに戻るか、宇宙空間に放出されなければ地球の温度はわずかにでも上昇する。 普通の燃料は酸化することで熱になった後、元の物資に戻って熱を吸収する。 ところが原子力による熱だけは、熱を出しっぱなしで元に戻らないから、ただ熱だけが残る。 素人の戯言だけどね。
609 :
考える名無しさん :2013/04/07(日) 12:49:50.75 0
あの独特の日本語の吉本芸人でてこないなあ。
610 :
考える名無しさん :2013/04/21(日) 21:04:51.06 0
すっかり過疎ってるけど、吉本がすごい思想家であることは確かだな。
611 :
考える名無しさん :2013/04/29(月) 15:14:10.16 0
吉本も、ネトウヨ以下の石原慎太郎なんかに誉められて、情けないと思わなかったかな?
612 :
考える名無しさん :2013/05/07(火) 01:37:02.08 0
福島の事故はなにも解決していないどころか、日々放射性物質を大量に放出し続けているのに、もう語る人がとても少なくなってきた。 原発推進だった吉本は、今の状況を見たらどう考えるかな。 技術者の良心が解決するはずだ、と言うのかな。 それとも、人類の進歩にとってしかたのない事故だ、と言い続けるのかな。
613 :
考える名無しさん :2013/05/07(火) 20:10:06.32 0
東浩紀 ‏@hazuma 11月28日 蓮實重彦ってほんと苦手だった。いまも彼の業績がなんなのか、よくわからない。ぼくが東大表象飛び出したのは、ひとつにはあの偉そうな権威主義に耐えられなかったというのがある
614 :
考える名無しさん :2013/05/08(水) 12:22:32.56 O
古事記読んでないと共同幻想論理解出来ない?
615 :
考える名無しさん :2013/05/08(水) 23:59:28.83 0
むしろ西郷信綱の「古事記の世界」
616 :
考える名無しさん :2013/05/08(水) 23:59:29.14 0
>>614 そんなことはないから、気楽に読んでみるといい。
参考にするなら、フロイトの「トーテムとタブー」かな。
617 :
考える名無しさん :2013/05/09(木) 05:03:21.37 O
ありがと、読んでみる フロイトはかじってたからちょうど良かった
618 :
考える名無しさん :2013/05/18(土) 17:53:20.23 0
吉本は「共同幻想論」の文庫版への序文だかに、国家が幻想であるということをマルクスから学んだ、というようなことを書いてたけど、当然、ヘーゲルの「法の哲学」も参考にしているんだろうな。 あれを読むと、ヘーゲルは逆立ちをしている、というマルクスだかエンゲルスだかの言葉はヘーゲルの本質を、たしかに、見事に言い当てていると思える。 「共同幻想論」を読んで、あらためてよくわかった。 吉本の言う個人と共同幻想の「逆立」ということも、ヘーゲルとマルクスの視点の違いから理解することもできる。
森田芳光『失楽園』は本当に傑作なのか?
620 :
考える名無しさん :2013/06/20(木) 11:06:47.16 0
晩年の吉本は、ヘーゲル研究に意欲を示していた。 もちろん、それまでも読んでいたが、やはり人間の心を扱うにはヘーゲルが必要だと思ったのだろう。
621 :
考える名無しさん :2013/07/08(月) 22:34:23.35 0
吉本は、実質的には1971年の「心的現象論序説」が理論的な論考の最後かな? 「本論」の方は、散漫というか、他人の著作の紹介の域を出てないと思う。 71年当時で47歳か。
622 :
考える名無しさん :2013/07/19(金) 00:14:37.65 0
江戸時代の不法入国者?
623 :
考える名無しさん :2013/07/19(金) 15:48:27.55 0
>>622 のようなバカウヨが出てきたのは、吉本の責任が大きい。
ひたすら「左翼」を貶して「右翼」持ち上げた。
埴谷を腐し、江藤を誉める。
かつて最強の敵であったスターリニズムを攻撃することだけに執念を燃やして、左派知識人をことごとく攻撃した。
一方で、無内容な右派知識人には攻撃の対象とはせず、敵の敵は味方、といった程度の右派知識人にたいしてはエールを送った。
スターリニズムが思想的には消滅した後も、吉本はスターリニズムの幽霊を追いかけた。
反核異論はその一例だ。
自らの体調による情報量の極端な減少が、その原因になったのかも知れない。
とはいえ、もともと持っている吉本自身の力への嗜好が、アメリカ的単純さへの傾倒と、人間の生物への回帰ともいえる母型論につながっているのだろう。
理論の追及を閉ざした吉本の発言が、吉本をまったく知らない、理論のまったくないバカウヨの心情的な支柱になってしまった。
624 :
考える名無しさん :2013/07/19(金) 20:37:19.53 0
それはむしろ買いかぶり。 吉本の影響力はそこまで広がってはいない。
625 :
考える名無しさん :2013/07/19(金) 20:55:23.68 0
>>624 それは吉本の知識人に対する影響力を知らないからだよ。
特に左派的な知識人は、反批判が怖くて、吉本を批判する人間がほとんどいなくなった。
せいぜい共産党系の党派的信念を持った連中が批判するぐらい。
理論的な左派知識人たちの沈黙が、無理論な右派知識人の増長を促して、無理論であることを自慢するバカウヨの増殖を招いた。
626 :
考える名無しさん :2013/07/20(土) 00:35:07.23 O
浅田と柄谷がいたし 蓮実が左翼なら彼も
627 :
考える名無しさん :2013/07/20(土) 10:47:41.38 0
>>626 吉本が評するところの3バカだね。
僕の想定する左派知識人というのは、普通の市民が、「弱い人たちを助けたい」、「社会の不公平を解消したい」、と思ったときに、その思いの理論的な根拠を提出することができる知識人のことだ。
あるいは、自分が弱者であったり貧困であったりする人が、その立場を社会として変革したいと思ったときに、理論的な道筋を提出できる人だ。
社会的な弱者や経済格差の発生理由を理論的に根拠づけて、その改革に理論的な寄与ができる人を、左派知識人とよんでいる。
628 :
考える名無しさん :2013/07/20(土) 21:15:11.12 0
左派的な知識人に対する影響力なんぞが、 「バカウヨの心情的な支柱」にまでつながるわけがないだろう。 全く別の起源を持つものを強引に結びつける単純化の手法。 「バカウヨ」の誕生はそもそも吉本なんぞとは何の関係もない。 。
629 :
考える名無しさん :2013/07/21(日) 00:24:21.36 0
>>628 知識人というものへの見かたの違いだな。
僕は、左派知識人の沈黙が無理論の右派知識人を増長させたと思ってる。
理論を軽視して心情に重心を置けば、その心情自体が幼児化していく。
その幼児化した心情の行きつく先が、愛国心だ。
愛国心だの領土だのという幼児のような自己拡張意識が、その心情の中心を占めるようになってしまうのが右翼だ。
その心情を声高に喚くことだけが自分の存在価値となってしまったのが、バカウヨ。
630 :
考える名無しさん :2013/07/22(月) 12:13:52.98 0
君はサヨクを最近気取りはじめたのかも知らないが、まだあまりにもものを知らなすぎる。 理論も歴史も現実も。
631 :
考える名無しさん :2013/07/22(月) 14:50:46.50 0
>>630 じゃあ、その理論と歴史と現実を教えてくれよ。
632 :
考える名無しさん :2013/07/22(月) 17:51:57.30 0
昭和末期から平成の流れの中で、 >>左派知識人の沈黙が無理論の右派知識人を増長させた とかはなかった。左派は残念ながら同じことの劣化繰り返しで聞く耳持たれなくなっただけだ。 そういう左派知識人の無能ぶりが無理論の右派知識人を増長させたというならその通りだろう。 もともと吉本は戦後日本の左派知識人の無能・無内容ぶりを酷評してきたわけだが、 それが日本の左派を衰退させたというのはおかしな話しだ。 吉本は、あれだけ他を罵倒していながら、結局はそれらに変わるべき新しいものを 生み出せたわけではなかったというだけだ。 それから、バカウヨなるものへのステロタイプな認識も、なんというかあまりにも あまりにもステロタイプすぎる。 君が藁人形を叩くのに持って来いのステロタイプなバカウヨが、現実にどれぐらい 生息してくれているのか、それが言論界や一般世論の中でどれぐらいの比重を占め るものなのか、あちこち確かめて回ってみる経験を重ねたほうがよい。
633 :
考える名無しさん :2013/07/22(月) 18:36:10.64 0
>>632 ありがとう。
左派知識人については、違う考えを持っているけど、それはまた別の機会に。
バカウヨというのは、安倍、石原、橋下の右派的言辞に賛同したり、領土だの国旗国歌だのに関する政府の施策を支持する連中のことだ。
>それが言論界や一般世論の中でどれぐらいの比重を占めるものなのか
>確かめて回ってみる
必要もないくらい、一般化していることに気がつかないのかな?
サッカーの応援で日の丸を振り回し、オリンピックで君が代に涙する。
尖閣には領土問題が存在する、と言っただけの元首相を、昨日の同志までが、政府と声をそろえて非難する。
これを右傾化、つまり、一般市民の理論的思考の崩壊、と見る以外にどう見るというのだろう?
そんなことすら見えなくなってること自体が、バカウヨの蔓延、と言うべき状況だよ。
634 :
横レス :2013/07/22(月) 18:52:07.08 0
>安倍、石原、橋下の右派的言辞に賛同したり、領土だの国旗国歌だのに関する政府の施策を支持する連中のことだ。 俺は馬鹿サヨの蔓延がウヨの台頭を招いたように思える。 >サッカーの応援で日の丸を振り回し、オリンピックで君が代に涙する。 参加国全てに該当するんだが。 >これを右傾化、つまり、一般市民の理論的思考の崩壊、と見る以外にどう見るというのだろう? 馬鹿サヨくんは国家を否定するのはいいが、で、そのあとどうするのかを理論的に答えてもらいたいものだ。
635 :
考える名無しさん :2013/07/22(月) 19:08:33.66 0
>>634 ウヨとサヨの区別は
>>629 に書いた。
自分の心情に無反省に価値を置く人を右派、その心情に反省を加えて理論化する人を左派とよんでいる。
>参加国全てに該当するんだが。
>馬鹿サヨくんは国家を否定するのはいいが、
その程度の議論がしたいなら、このスレは不向きだ。
さすがにここは吉本スレだから、この程度の無反省な心情でしかものを見ることができない人間には不向きだと思う。
もともと、吉本の思想の大きな柱の一つは、国家というものに対する理論的な分析とその解体への道筋だ。
できれば君が吉本の著作を少し読んでから、また議論をしよう。
「状況への発言」ぐらいは読んでからのほうが、賛成するかどうかは別として、少しは話しがかみ合ってくると思う。
636 :
考える名無しさん :2013/07/22(月) 19:14:28.02 0
『状況への発言』ね。他にもオススメある?
637 :
考える名無しさん :2013/07/22(月) 19:34:25.73 0
>>636 『共同幻想論』。
国家論としては、これ以上の論考を見たことがない。
逆に、吉本以外に、国家の本質を追及した人がいるなら紹介して欲しいと思ってる。
638 :
考える名無しさん :2013/07/22(月) 19:36:04.08 0
>>636 それから『状況−−』は『情況への発言』の間違いです。
失礼しました。
639 :
考える名無しさん :2013/07/23(火) 00:41:46.97 0
ここにいるみなさんそれぞれ左派の人、右派の人だから。 喧嘩は出来ても客観的な立場にはなれないでしょ?
640 :
考える名無しさん :2013/07/23(火) 10:31:44.36 0
>>639 一般市民の大半は、単に時代の雰囲気の中で流れるだけ。
右派にもなれば左派にもなる。
自分の生活を見ない人は右派になり、自分の生活を振り返る人は左派になる。
自分の生活を振り返るということが、客観性ということ。
>>640 では知識人といわれる人種ではどちらかの立場に腰を据えるという事ですよね。
でも毎日生きていれば、自分の属する立場に疑問を感じる事もあるのでは?
それでも自身の心の事情よりも、自分の属する立場から議論するのが知識人の
役割なのかな…?ある意味「○○派」のスポークスマンみたいなものですかね?
642 :
考える名無しさん :2013/07/23(火) 11:05:36.08 0
>>641 「心の事情」というのは、日々変わる。
社会的な立場、家族の状況、自分の健康状態などによっても変化する。
その中で、自分の感じ方が、どう動き、どういう価値観になって行くのかを自覚、自認するのが知識人。
自分をどれかの心情に固定して、そこに価値を置くのが右派知識人。
自分の感じ方の根拠を追及して、価値の客観性を求めるのが左派知識人。
右派知識人は、自分の状況が変わらなければ、理論的には立場を変えることはない。
左派知識人は、理論上の変化で立場を変える。
右派知識人は、他者の理論的な批判に耳を傾けることはない。
左派知識人は、他者の理論的な批判には理論的に反論するし、反論できないときには沈黙する。
だから、左派同士は議論ができるが、右派と左派では議論にならない。
643 :
考える名無しさん :2013/07/23(火) 12:42:37.55 0
もし若い人が実体験でそう感じているなら、昭和後期とはすっかり逆転したんだろうなあ ひとついえることは、そういう対比は右派、左派ということとは関係ないということだろう
実質のある地盤がないから何をしても虚しい アリバイとしての右、左のポジション取りは虚しい
そういう虚しさに吉本は対抗しようとしたんじゃないかという気がする
吉本はそういう地盤を求めてシステム外部に留まろうとした人なんじゃないか 地盤はシステムの内部にはない そういういみで実存的反体制の人という印象 後年の軽いものしか読んだ事ないけど
647 :
考える名無しさん :2013/07/23(火) 15:01:41.70 0
>>646 印象でものを語ってはいけない。
理論の追及が必要。
>>647 こんなこと言うと怒られてしまうかもしれないが、人文系の学問における
「理論」て、理論というより「屁理屈」だよ。なんて見方は出来ない?…ごめんなさい。
649 :
考える名無しさん :2013/07/23(火) 15:15:38.50 0
>>648 謝るくらいなら書きこまない方がいい。
自分の無知を晒すだけ。
これが呉智英の言う「マウンティング」というやつか。 2013年にもなってまだこんなことやってる奴いるんだな。
651 :
考える名無しさん :2013/07/23(火) 19:06:24.04 0
>>650 いつの時代でも、無知を恥じることはない。
しかし、いつの時代でも、無知は自慢にならない。
自分の不勉強を他人の言葉で糊塗しようとすれば、自分の言葉を失うだけだ。
無知が栄える時代もあるかもしれないが、そのときは人の心が失われている。
虚しい
653 :
考える名無しさん :2013/07/23(火) 20:05:07.31 0
>>652 無知のまま、ため息のような感想を漏らすことしかできないことの方が、虚しいだろう。
呉智英のような「江戸の敵を長崎で」みたいな半端な知識人に寄りかかって吉本を無化したつもりになっても、吉本を理解したことにもならないし、無知が解消されるわけでもない。
吉本を無化するタイプの言論人には恐らく俺は共感できない
人文系の言論人が何故吉本を馬鹿に出来るのか分からない
吉本の言葉を出されたら黙って下を向くしかないような所がある
657 :
考える名無しさん :2013/07/28(日) 17:03:11.90 0
そういう一面もたしかにあるが、 やはり吉本にはどうしようもなく見当違いな一面もあるのでは? (そこが面白いところだが…)
だから下を向かざるを得ない
659 :
考える名無しさん :2013/07/28(日) 18:19:02.84 0
660 :
考える名無しさん :2013/07/30(火) 08:51:25.11 O
共同幻想論の禁制論で 禁制が産み出される条件の一つに入眠状態とあるけど 入眠状態が幻想の条件なのは分かるけど禁制の条件になるかな?
661 :
考える名無しさん :2013/07/30(火) 09:36:25.41 0
>>660 吉本は禁制を生み出す環境の例として、閉じられた集落を想定した。
他の集落との交流がない村人にとって、異質に見える外界との接触が恐怖であり、その恐怖が現実を離れたある幻想状態を生み出すと考えた。
その心の動きを入眠状態とした。
その漠然とした異質なものへの恐怖が人の現実との結びつきを弱めて、あるひとつの幻想を固定化してタブーの心性を生み出した、としている。
これを未開社会に遡らせることで、原初的な共同体の禁制のあり方を想定したといえる。
そして、その禁制が権力となっていく。
662 :
考える名無しさん :2013/08/03(土) 01:21:25.49 O
>>661 ありがとう、理解できた
巫覡論の「心の相互規定性では、一方の個人にとって自分を他者におしやることで、他方の個人と関係付けられる」
って要は過去の記憶の場面における自分を現在の自分が対象化するって事でいいの?
663 :
考える名無しさん :2013/08/03(土) 01:28:46.63 O
って違うぽいな ハイデガーでいうDaか
664 :
考える名無しさん :2013/08/03(土) 15:57:16.29 0
>>662 「心の相互規定性では、一方の個人にとって自分を他者におしやることで、他方の個人と関係付けられる」
というのは、そのあとに続く
「一般にわたしたちが個人として、他の個人を〈知っている〉というとき、わたしたちはまず自身を〈他者〉とすることで、はじめて他の個人に〈知られる〉という水準を獲取する。」
という意味。
たんに、自分を相手から見た自分として仮想する、という程度のことだと思う。
その中には
>過去の記憶の場面における自分を現在の自分が対象化する
こともあるだろうし、現在の自分としての客観的なイメージを想定することもあるだろう。
いずれにしても、自分自身を観念の中で客体化する、ということ。
人間はそこにないものについてしか想像することができない、というサルトルや埴谷の想像力の議論が前提になっているのかも知れない。
665 :
考える名無しさん :2013/08/03(土) 21:08:23.59 O
はたから見ていて悪くないやり取りだった。
667 :
考える名無しさん :2013/08/22(木) 21:50:44.54 O
吉本は西欧とアジアの共同幻想と経済的範疇のあり方を対比させてるけど、それ程大きな差異あるかな? 前大戦のあり方にしても参戦したことにはアジアも西欧も同じだしさ
柄谷の『世界史の構造』の第一部は題材が『共同幻想論』とかぶるので ぜひ批判的にでも読んでほしい 未来にモデルを見出すのが左翼、過去に希望を見出すのが右翼だと思うが こうした批判的な過去の再検証は左翼の仕事だということだろう かつて左翼内部における戦争責任の追及で勝利した吉本は、同じ左翼内の理論的 闘争で柄谷に敗北したというのが自分の印象だ
669 :
考える名無しさん :2013/08/25(日) 11:06:34.21 0
>>668 >『世界史の構造』の第一部は題材が『共同幻想論』とかぶる
>未来にモデルを見出すのが左翼、過去に希望を見出すのが右翼だと思う
>戦争責任の追及で勝利した吉本は、同じ左翼内の理論的闘争で柄谷に敗北した
もう少し具体的に。
670 :
考える名無しさん :2013/08/30(金) 20:59:03.87 0
論争での勝ちとか負けとかいうのも意味のないことかもしれないな。 特に第三者があっちの勝ちだのこっちの負けだの言うのはほとんど意味がない。 谷沢-吉本論争に対する呉智英の谷沢勝利判定など、その最たるものだ。 往復はがきで著者の略歴を本人に求めたのか求めなかったのかという、どうでもいいような話だが、書誌学者としての谷沢の実証に対する姿勢としては、問題があるのだろう。 吉本は、往復はがきで本人に略歴を問い合わせるという安易な方法で著者の経歴を調べようとする姿勢を批判し、谷沢はそんなことはしていないと反論した。 そのハガキの実物を提示すれば終わる話なのだが、吉本は担当編集者に渡したといって実物を提示できなかった。 それが呉智英の谷沢勝利判定の根拠なんだろうが、これはおかしい。 谷沢もはがきを出したことは認めているのだから、そのハガキの実物を提示すればいいのは谷沢の方だ。 他の著者にも同じはがきを出しているのだろうから、印刷した残りぐらいは手元や研究室に残っているだろう。 それを提示しなかったんだから、谷沢には負い目があると見るのが普通の判断だ。 どうでもいいことだけど、同じはがきを受け取ったはずの他の著者がまったくコメントしなかったことの方が不思議だ。 出版社への配慮があったのだろうか。 いまとなっては、藪の中、なんだろうな。
ギャルソン好きの人に、コムデギャルソン論争がさ、って話振ったけど、 全然興味持ってもらえなかったよ。
672 :
考える名無しさん :2013/09/01(日) 16:11:24.03 0
>>671 ファッションにからめたいなら、たしか「ハイイメージ論」かなんかにファッション論が載ってた。
コムデギャルソン論争は、ファッションそのものじゃなくて資本主義的コマーシャリズムへの参加の是非についての論争。
>>671 >>672 コムデギャルソンという物について調べました。最近の若者に流行の洋服ですね?
コムデギャルソン洋服店(?)でもテレビまんがでも何とか48でも何でも結構ですが、
そういった物にお金を使う人々は、巧妙な宣伝戦略によって「自分はそれが好きである」と
思い込まされているだけではないでしょうか?宣伝を意志とは無関係に見せられ、
それによってその対象に自動的に金を使うだけかと思うのですが。
彼らが金を使う対象について私は何も知りませんが…。
671様のご友人も、おそらく一定期間コムデ〜の宣伝を見ることなく、他の物の宣伝を繰り返し
見せられれば、おそらくそちらにお金を使うでしょう。他の娯楽に。
野球の宣伝を繰り返し見れば、次の日から野球に夢中になり消費するかもしれませんね?
あるいは何とか48の公演やらまんがショーやら…。
>>672 ハイイメージ論。聞いた事があるな。他のサイトにあらましが載っていて、ちらっと読んだんだけど…。
たしか、吉本がブラックのギャルソンでめかしこんでいるのを、何とかという文学者が、野暮ったいとか、
言ったのが始まりじゃなかったか。で、実際これにはギャラリーの賛同が未だに多い。
>>673 まあね。ブランドの戦略にのって、洗脳されているとは思う。度々買わないと焦る様に仕向けられるとか。
買い物依存症になる人の大方が、こうやって、ブランドイメージを守る店側の宣伝戦略に乗っているよね。
675 :
考える名無しさん :2013/09/07(土) 11:37:49.03 O
世間の流行から乗り遅れる事への恐怖が流行へ迎合させる
流行が悪い事とも思えないがね。流行とどう向き合っていくかでしょ?
>>673 テレビまんがとか言ってるけど、漫画とアニメは違う物だよ。
それに貴方は何かに夢中になったりはしないの?
677 :
考える名無しさん :2013/09/07(土) 18:04:42.25 O
流行にどう付き合うべきかの答えは分からないけど 個人が現在を肯定し得る程に流行も肯定出来るし 現在を肯定出来ない程に流行を否定し、遠くの価値を肯定するんじゃないかな 時制的に離れる方向が異り、未来なら左翼、過去なら右翼と呼ばれたり、 観念的に離れるなら妄想や逃避と呼ばれる違いはあると思うけど いずれにせよ必然的なものな気がするな
678 :
考える名無しさん :2013/09/08(日) 22:29:04.17 0
いまどき流行とか存在すんの? 90年代で感覚止まってる人多くて驚くわ
679 :
考える名無しさん :2013/09/08(日) 23:07:30.94 O
なんちゃら48とかさ
680 :
考える名無しさん :2013/09/08(日) 23:16:41.39 0
上部構造はすべて幻想なんだよな この人によれば
681 :
考える名無しさん :2013/09/08(日) 23:20:40.52 0
あれを「流行」と呼ぶのは間違いだ。 端的にいって今の日本にはあれ以外選択枝が存在しないんだよ。 90年代までとは状況がまったく違う。
682 :
考える名無しさん :2013/09/08(日) 23:26:37.41 O
真理に徹底しないものは、とにかく眼前の現象世界に束縛せられて泡沫の夢幻を永久の事実と認定したがるものだ と夏目先生も仰っているぜ
683 :
考える名無しさん :2013/09/08(日) 23:35:32.98 O
あれ以外選択肢がないとはまた偏狭な
哲学に興味を持つのも似たようなモンだ。
>>682 真理に束縛されてる人もいるぞ?
685 :
考える名無しさん :2013/09/08(日) 23:51:05.46 0
高度消費社会のシステムでやれる最後のモードがあれとあれの類と言ったほうがよかったかな 既に90年代までの高度消費社会ではなくなってるのに次のシステムが作れてないのが今ということ。
686 :
考える名無しさん :2013/09/09(月) 00:00:23.75 O
90年代との差異はあれど、吉本のいう共同幻想である事に変わりない
687 :
考える名無しさん :2013/09/09(月) 01:49:00.87 0
差異を軽視ないし無視し、既知の図式に還元してしまうなら「自同的なもの=独裁」に至るのだが。
688 :
考える名無しさん :2013/09/09(月) 02:00:28.07 O
共同幻想との関わりを論じる上でその差異がどれ程影響するのか是非教えてくれ
689 :
考える名無しさん :2013/09/09(月) 02:05:16.95 O
共同幻想としての流行の形態の差異が与える関わりへの影響ですよ
690 :
考える名無しさん :2013/09/09(月) 05:17:48.07 0
あなたのいう共同幻想とは?
691 :
考える名無しさん :2013/09/09(月) 09:14:13.80 O
そりゃ個体としての人間の心的な世界と心的な世界がつくりだした以外のすべての観念世界
日本でも昔から、1人、2人、3人という言葉で、それぞれ個人、カップル、社会を象徴させることがあるよね。 それには人間の心のあり方の違いがよく現れていると思う。
693 :
考える名無しさん :2013/10/02(水) 18:44:14.20 0
吉本隆明も流行アイテムだった。流行が去ると、なにも残らない。
694 :
考える名無しさん :2013/10/02(水) 21:32:52.60 0
>>693 きちんと読んで、きちんと理解すれば、いまだに的確な反論がないことに気付くんじゃないか?
695 :
考える名無しさん :2013/10/13(日) 23:21:33.62 O
そもそも共同幻想のアイソレーションの何が悪いのかと
>>695 アイソレーションて、どういう意味で使ってるの?
697 :
考える名無しさん :2013/10/14(月) 02:05:02.26 O
>>696 一定の集団の共同性を作っていた観念(例えば国家)が、二義的なもの(法律や役人、建物)を本質として捉えられていくって意味
698 :
考える名無しさん :2013/10/14(月) 02:15:34.60 O
吉本はそのアイソレーションの帰結として前大戦の悲劇や左翼の総括を捉え、 それを憂い、批判していたのだと勝手に思ってるけど
699 :
考える名無しさん :2013/10/14(月) 02:25:05.85 O
今は、ばななのお父さんとして位置付けられている
700 :
考える名無しさん :2013/10/14(月) 11:42:03.46 0
>>697 >>698 自分はそういう意味での使い方を知らないから、アイソレーションという言葉は使わないでレスするよ。
共同幻想というのは、固定した観念の共同性という意味だけじゃなくて、固定するには至らないただの雰囲気までを含む。
だから、大戦時の熱狂であれ、連合赤軍の処刑であれ、それぞれの大衆や参加者の積極的な意思があり、「共同幻想論」はそうした人間の観念のあり方の根拠を探ろうとしたもの。
大戦時の熱狂も連合赤軍事件もオウム事件も、「共同幻想論」を離れてその本質を理解することは難しいだろう。
個人としての生活や家族から生まれる観念を否定する形での自分自身の中にある共同性としての観念を共同幻想と名付けた。
その共同幻想は個人としての観念に逆立するということを示した。
幻想という言葉にしたのは、そうした雰囲気までを含む概念として提出したかったからだと思う。
>>700 吉本は共同幻想と上部構造はイコールだが手垢がついているから避けたと書いていたと思うけど
いずれにせよその雰囲気も含むだろうね
アイソレーション(析離)は共同幻想論 角川文庫版の序で吉本が使っていた意味で引用したつもりだったんだけどね
702 :
考える名無しさん :2013/10/14(月) 19:22:36.28 0
>>701 ほんとだ。
書いてあるね。
「もとをただせば国家は、一定の集団をつくっていた人間の観念が、しだいに析離(アイソレーション)していった共同性であり、眼にみえる政府機関や、建物や政府機関の人間や法律の条文などではない。」
その前にはこう書いてある。
「政府機関を中心とする政治制度のさまざまな具体的な形、それを動かしている官吏は、ただ国家の機能的な形態であり、国家の本質ではない。」
この部分は、マルクスが指摘したことを書き直したものだ。
「特殊利益と共同利害とのこの矛盾にもとづいて、共同利害は、個別および全体の現実的な利害からきりはなされて国家として一つの独立なすがたをとる。そしてそれは同時にまた幻想的な共同性としてである。」
(『ドイツ・イデオロギー』)
>観念(例えば国家)が、二義的なもの(法律や役人、建物)を本質として捉えられていく
というのは少し違うと思うけど、どうだろう?
ちなみに「析離(アイソレーション)」というのも一般的な「きりはなされた」という意味だと思う。
703 :
考える名無しさん :2013/10/14(月) 19:39:58.83 O
704 :
考える名無しさん :2013/10/14(月) 19:44:34.93 0
<究極の底について少々> 本質と内実は似た様な言葉ですが、実に特別な言葉です。 存在や時間や空間も同様ですね。 もっとスケールの大きな特別な語になると、真理とか全体という言葉があります。
ハイ・イメージ論とか共同幻想論とか色んな上っ面で誤魔化してるけど 吉本思想の根っこにゃ三木の「海・呼吸・古代形象」がある。 全てはこの延長で組み立てたかったはず。 どこかきちがいじみた極左思想もっているんでどうしても吉本に抵抗がある。
三木成夫自身が学会ではあまり認められないタイプの、超短絡思想の持ち主だからなあ 直感タイプというか
707 :
考える名無しさん :2013/10/14(月) 20:00:58.98 0
ポニョの世界を素で行くのが吉本の面白いところじゃないの
708 :
考える名無しさん :2013/10/14(月) 22:36:34.16 0
韓国語は漢字を追放してわけのわからない言葉になったらしい。 日本語には漢字があるから吉本の一見奥深そうに見えて、中には何もないという 文章が成り立つ。淀川長治曰く 頭のいい人の書いた文章はよく分かる。
そうすると、吉本の書いた文章もわかりやすいということだね。 わからないとすれば、読む側の問題なんだろう。
710 :
考える名無しさん :2013/10/15(火) 13:08:49.40 0
スミルノフ著高等数学教程訳文は分かりやすい文章だと思う。ただし、内容が 分かりやすいということではない。読み手の能力により、分かりやすくもあり超 難解でもある。吉本の場合は文章の難解さそのものが売りだから滑稽なのだ。
711 :
考える名無しさん :2013/10/15(火) 19:11:39.76 0
713 :
考える名無しさん :2013/10/18(金) 20:12:35.11 0
「三島由紀夫VS東大全共闘」って動画ありますよね。 あの場に吉本隆明居たら、と想像するんですが。 もし何か想像する人居れば、ちょっと教えてもらえませんか? 吉本と三島の対話が在ったとすれば、どんなものであったか? と言った感じです。
714 :
考える名無しさん :2013/10/18(金) 20:26:12.61 0
>>713 三島が自殺した日は、吉本の誕生日。
三島がそれを意識してたかどうかは知らない。
715 :
考える名無しさん :2013/10/18(金) 23:11:30.81 0
>>714 記憶あいまい乍ら。
関東大震災の前年、九州熊本から隆明の父親(船大工)一家が上京。(隆明、震災後に誕生)かな?
同じころ台湾から埴谷雄高の家族上京。(当時、埴谷何歳なのか知らない。1910年生まれかも)
716 :
考える名無しさん :2013/10/18(金) 23:40:36.91 0
>吉本と三島の対話が在ったとすれば、どんなものであったか? 吉本とフーコーの対談(読んだことないけど)みたいにかみ合わないで終わったんじゃないか
718 :
考える名無しさん :2013/10/19(土) 00:24:17.10 0
>>714 すいません!
wikipediには、
1924年(大正13年)11月25日 - 2012年(平成24年)3月16日
って在りました。
つまり、
>>1 の>1924.10.25 東京市京橋区月島に生まれる。
が間違いかと(指摘あったかもですが)
719 :
考える名無しさん :2013/10/19(土) 00:33:38.95 0
>>717 吉本は「戦前は皇国青年だった」と言ってますよね。
ほぼ同世代として共感出来る部分もあるのかな? と。
>>719 一方は理系の詩人だけど大柄で腕白で腕力に自信がある思想家。
一方はひ弱で小柄な自分を改造することに興味を覚えた文学少年上がりの作家。
一方はひたすら思索を深めて行き、一方は思索をやめて感覚的な思想の鎧を被って見せた。
戦後の歩みはほぼ正反対。
721 :
考える名無しさん :2013/10/19(土) 09:17:09.67 0
>>720 なるほど。
三島は表面にひそむ深み、みたいな事どこかで言っていて
それはギリシア的な美学でもあり非常に判りやすい。
一方、吉本の判りにくさは、どうした事だろう。(「反・反原発」哲学の判りにくさ)
思想深め過ぎ?あるいは「へそまがり」過ぎ? まさかね
晩年、自身の書いたものを反省したかの様なインタビュー動画見た記憶が。
>戦後の歩みはほぼ正反対。
その対立点が何であるのか、在ればどのように対立しているのか、
そこが知りたいと思っています。
三島は、「敵が欲しくて共産主義を敵とした」ようですが。
余談ながら、文化防衛論的には原発どう見るんだろ?
722 :
考える名無しさん :2013/10/19(土) 10:30:40.67 0
念のため書けば、 吉本自身は「反・反原発」と解釈されることを懸念してたそうですね。 私には楽天的な技術屋さんにしか思えなかったけど。
723 :
考える名無しさん :2013/10/19(土) 11:01:47.18 0
>>700 吉本は連合赤軍事件をどう見たんですか、知ってる人います?
>>721 >>722 吉本のどこがわかりにくいのかよくわからないが、原発についてなら、技術の発達が人間の自然な歴史だと捉えているだけだ。
人間の自然な歴史の流れを止めようとするという考えから「反原発運動」に反対していた。
原発の安全性に対する楽天的な態度は、大前研一の原発報告を鵜呑みにしたことが大きいが、吉本の技術者に対する無条件の信頼が加味されている。
三島との対立点というものがあるとすれば、吉本は現実に対して真剣に全力で対峙しようとしたけど、三島は現実を仮想の世界に追いやってその仮想世界で生きようとした、というところだろう。
725 :
考える名無しさん :2013/10/19(土) 17:33:53.26 0
『情況への発言』読めば分かるけどね。
726 :
考える名無しさん :2013/10/19(土) 18:02:36.38 0
ごめんなさい 吉本は読んだ事無くって 呉智英がすきなねんけど 読んだ事ないのに言うなって言われそうやけど マタイ伝をマウチ書 とか イエスをジュジュとか 記載してわざと難しくしているとしか思えへん吉本って やっぱりそれなりに批判されていいと思う。 少なくても何でフランス語なん?って当然の疑問に応える 義務はあると思う
吉本の三島観というのは70-90年代とちょっとずつ変わってくる。自決直後 の時代では『情況への発言』や磯田光一との対談「日本的戦後のジレンマ」 にあるように戦中の皇国青年であった自分とそこからの離脱をはかった 戦後からして、理解不能というところだったけども、80年代の母子関係論 のあたりから、特異な乳児期環境、祖母によって実母と引き離されたことを 加味し、悲惨な原意識と、それを超えようとして一定まではできたが、 結局は失敗した、という見方をしていたと思う。
>>726 一般的に使われない読み方ね…俗な言い方してしまうとマニアックな拘りなんじゃないかな?
自動車評論家に徳大寺さんて人がいてね、その人も…板違いなので省略。
729 :
考える名無しさん :2013/10/19(土) 19:54:37.50 0
>>728 なんかノストラダムスみたいやね
奴もふつうの文書にラテン語混ぜたり、フランス語まぜたり
するから解読すう人によって解釈が異なるし
だからハッタリが効いて偉人化されてるやん
まぁそういう意味では<大衆の原像>を理解してたんやろーね
730 :
考える名無しさん :2013/10/19(土) 20:11:54.22 0
731 :
考える名無しさん :2013/10/19(土) 20:31:57.50 0
>>729 吉本は、日本語訳の「聖書」を使いたくなかったからと書いている。
それが「名訳」であり一般に膾炙した「名訳」であるが故のイメージの固定を避けたかったようだ。
「共同幻想論」で観念と言う言葉を使いたくなかった理由と同じだろう。
自分のイメージを少しでも適切に表すためには、それまでのイメージから切り離した言葉を使いたいという理由で「ハッタリ」を効かせようと思ったわけではない。
このあたりの説明になると、どうしても読んでいない人との会話が難しくなってくる。
読まずに否定するのも疑問を呈するのも構わないと思うが、せめて、先入観は取り除いてからにして欲しいと思う。
732 :
考える名無しさん :2013/10/19(土) 20:43:22.09 0
>>731 ごめん 難しくして申し訳ない
ついでにもう一つ
基本的には難解で分かりにくい訳やん
<大衆の原像>を取りこんで大衆から離れては活動する事に意味はない
戦時中に獄中に入ってる人に対して 大衆から離れたお前らは転向者や
とまで言い放った人がほとんどの大衆に理解できない(同意できないではなく
理解できない 読み取れない)文章を書いてるってのはやっぱり問題じゃない?
<はったり>ってのは言いすぎやったね
呉智英も<はったり>ではなく<天然>やって言ってるから
多分そうなんやろ〜ね
733 :
考える名無しさん :2013/10/19(土) 21:17:22.35 0
>>732 >大衆から離れては活動する事に意味はない
そんなこと書いてたっけ?
>大衆に理解できない
後期の著作はほとんど大衆向けだけど、理解できないのがあるの?
734 :
考える名無しさん :2013/10/19(土) 21:20:31.13 0
>>732 それから個人的な感覚だけど、その変な関西弁みたいのやめてくれないかな。
気持ち悪い。
735 :
考える名無しさん :2013/10/19(土) 22:01:35.61 0
>>733 >>734 関西弁は勘弁して
関西人やからこっちの方がかきやすいねん
さっきから言ってる様によんだ訳やないから申し訳ないけど
<中学生のための社会化>から
<アジア内陸語と似ても似つかぬ大洋州の言葉をクレオール化している日本語
の特徴>とかって文章が解説なしに書かれているって事やから
大衆向け?この文章を普段の生活で必要とする大衆って?
大衆から離れては活動する事に意味はない
については 宮本顕治が獄中にて非転向をつら向いた事をもって
獄中で大衆から離れて思想のサイクルを回した事を非難した事をさしてるねんけど
そもそも<大衆の原像>を取りこむ事による思想活動って事は
大衆の常識とか、思考回路から遠く離れてる活動に対する否定じゃないの?
吉本の思想って基本的には<大衆>は正しい
大衆とタッグを組むことが正しいって思想って思っててんけど
違うんかな?
大衆から離れないで活動すること、大衆に理解される言論を書くこと 、を訴えていた訳ではないよ。知の課題として<大衆の原像>を繰り こむことと、大衆に絶えず同伴すること、は別。思想の基準として 考えられているわけで。文学作品における素材・人物の革命的価値、 作品の革命への貢献性などを問題にしていたことつまりマルクス主義が 邪魔して文学価値に触れていないことひいては人間存在自体にも触れ ない。そのような思考転換、加担であり、このマルクス主義自体が 転向とした。<日本近代の構造を総体のvisionとして捕まえそこなった ための思考変換>が転向なわけで、右翼転向も左翼転向も等価になる。
736に付加すると、『思想の基準をめぐって』(深夜叢書社)ないし 『どこに思想の根拠をおくか』(筑摩書房)に収録のインタビュー 「思想の基準をめぐって」に<大衆の原像>の意味について詳しく 喋ってる。<「党派性の止揚という問題」に関連して、(中略)この 方向をつきつめていったとき、どんな問題が出てくるのでしょうか。 <閉じられた>共同性から、たえず<大衆の原像>を繰りこんだ <開かれた>共同性へ、ということです>とかね。
738 :
考える名無しさん :2013/10/19(土) 23:07:15.16 0
>>736 ごめん 吉本的で俺の能力ではよく理解できへん文章やけど
じゃあそもそも吉本って思想家は
大衆賛美してるけど、それを大衆にわかってもらったり
吉本の考える正しい思想を大衆にわからせようとは考えてないの?
なんか一時期の保守が<多くの愚民(大衆)に保守思想の真髄がわかるわかない>
みたいなもん?
麻原を<重く評価>して大衆からバッシングを受けて、大衆の原像を
上手く取り入れられてないって反省してたけど、あれは麻原を評価した事が
大衆から乖離してたって反省じゃなくて
大衆なんかには理解できない。そんな大衆を評価していた自分が間違ってた
って反省?
まぁ 薬害エイズの際の発言とか、麻原評価(サリン事件以降も評価した発言)
とか脱原発とか 確かに大衆とは距離を置いてるけど
>>738 >大衆賛美してるけど、大衆にわかってもらったり
>吉本の考える正しい思想を大衆にわからせようとは考えてないの?
大衆を賛美なんかしてないよ。
まして、大衆にわかってもらったり、わからせようともしてない。
啓蒙的なスタイルはもっとも軽蔑していた。
ただ、能な限りわかりやすく書き、わかりやすく説明するということは自分の責務であると決めていた。
内容を大衆の嗜好にあわせるなんてことは、まったく考えていなかった。
麻原の評価は麻原が宗教家としての優れた修行者であることに対するもの。
宗教というのは突き詰めると国家権力と対峙することになるから、国家テロ事件があっても、その評価が変わることはない。
原発については、
>>724 に書いた。
薬害エイズについての吉本の意見は知らない。
740 :
考える名無しさん :2013/10/19(土) 23:49:48.68 0
大衆だか大衆の現像だか知りませんが、そんなオオザッパな言葉で、 よく論が成り立つものだと感心いたします。 これは非常に素朴な感想でして、吉本氏への嫌味などではありません。 時代背景が判らな過ぎて、隆明氏には御手上げ状態。
>>740 >よく論が成り立つものだ
大衆の原像というのは理論的な根拠というより、思想家としての姿勢だよ。
理論を知りたければ、とにかく読んでみないとね。
やっぱり、「共同幻想論」、「言語にとって美とはなにか」、「心的現象論序説」は読まないと、吉本を語るのは無意味だと思う。
742 :
考える名無しさん :2013/10/20(日) 00:23:47.37 0
>>741 なるほど、了解しました。
(私、字まちがえてました。w 現像→原像)
740みたいな声は生前からあったよね。何度か目にした記憶が。2ch でも書かれてたんじゃないかね。もっとも長年の愛読者でも途中で 理解を諦めてしまう、離れてしまう人もいたわけだから。でもフーコーは は不思議と吉本と一回論争しただけで凄さが分かっちゃったみたいだよね。 あれを社交辞令とか、言ってる声もあるけど、あれはフーコー自身、 自分の方法について、その有効性について、まともに考えさせられた、 手加減してない対談だし、吉本への対談最後の挨拶と好意は本気だったと 思うんだけどね。
744 :
考える名無しさん :2013/10/20(日) 11:49:27.95 0
検索すると以下の記事があった。 対談後往復書簡をすることとなり、吉本は約50枚の原稿を作成し、原稿は仏訳された。 訳者はベルギー人の自分の妻に読ませた。妻は著者は頭の悪い人とコメントした。 仏訳はフーコーに送られた。フーコーの返信はなかなか来ず、督促の結果、一年後 理解できないのでコメントできないとのフーコーの反応があった。
>>744 そんな話があったね。
道元に関する話を書いたと言われている。
訳者は蓮実だから、まず翻訳できなかったとみるのが妥当。
大学で語学教師かなんかやってた奥さんには全く理解不能なのは当然だが、もしその発言が事実なら、奥さんが自分の能力のなさをさらけ出しただけだね。
こんな私信を、吉本に3バカの一人と罵られた蓮見が苦労してきちんと翻訳するわけもない。
夫婦ともに、道元に関する知識は全くなかったのではないだろうか。
むしろ、信じられないのは、蓮見の誠意を信じた吉本のお人好しさだ。
>吉本の技術者に対する無条件の信頼が加味されている。 ちょっと言ってみるだけだけど政治と無縁に発展あるいは衰退する技術は無いと思いますの
747 :
考える名無しさん :2013/10/20(日) 18:47:01.94 0
吉本が書けたであろう後世に残る本 売文業で生きる秘訣 バカをだませばいいのです。 私のフィールドは自分を賢いと思っているバカです。
石炭の液状化ぎ術とか至上命題(誤)だったけどセンソウ敗けたら要らない技術なった
749 :
考える名無しさん :2013/10/21(月) 08:10:06.45 0
>>724 >原発についてなら、技術の発達が人間の自然な歴史だと捉えているだけだ。
私には原発技術への固執が不自然に思えるけどね。
全般で言えば、人間に対する楽観論が嫌い。
技術信仰の傍迷惑な側面考えてもらいたいもんだ。
フーコー「理性批判をしたい」 吉本「共同幻想批判をしたい」 三島「幻想でええやん」 大江「原爆こわい」 川端「えっ?」
吉本が主張していたのは原子力に影響を被る住民や国民が主体となり、かつ 国家も保障を整備し、その上で進められる事業ということだよね。技術が自己 を更新していくというのは当たり前すぎる論理で、ただ住民や国民が主体と なって決めればいい、という点は以前から言ってましたよね。あと、現在の 文明が危うさの上に成り立っているものであって、その危うさとどう向き合い 、処理するのかが文明の現段階の特徴だ、また文明を維持することの意味を どう取るかも問題、というそれは70 年代の詩に書かれていた。‘原発技術 への固執’は感じなかったけどね。もともと原発問題や反核問題を軸に左翼 が人集めし便乗する傾向は嫌っていたので、左翼や市民運動からいいように まとめられて流布されている。かつての左翼や市民運動との摩擦がいまだに 反吉本みたいな形で続いてるというふうに見えるけど。
決して‘命をかけて原発を稼働させる’的なのはないし、技術の自己更新に よって対立自体が無化される日はくる。それまでの過度的対立にすぎない、 というのも以前から言ってるし、また、住民や自然現象やによって流動的な 課題であることも、ある程度の曲折をたどることも察しがついていたんじゃな いかと思います。そういう流動的な課題に向かってもあまり意味はないこと も。あくまで原則的なことしかこの問題には言ってないと思います。実際には 多様な形をたどることは必至なわけだから。ただ左翼や市民運動は嫌いだから そこからの怨恨が今の吉本ネタをかなり作っていると思う。実際、文学者から 思想家から、サブカルチュアの前線まで、対談し、本質的な対話のできた 人間など吉本しかいなかったし、今でもいないわけで、それはかつての出版物 に一目瞭然であって、魅力がなくなることは俺の場合ないですけどね。
小田実の「義務としての旅」は修辞芸を鑑賞する読み物なので内容が古くなっても読める(読んでないけど) 「知らないことがたくさんあったけど、わからないことはなかった」
そんで吉本はそういうわかりやすさを嫌ったんでしょう
755 :
考える名無しさん :2013/10/23(水) 10:56:23.48 0
>>751 >>752 現在、福島第1原発に於いて
海洋汚染が広がりつつあると思いますが
今後原発は どうしたらいいと思います?
魚を安心して買えなくなり困っています。
どうやったら主体的に問題を解決できるのでしょう
こうやったら良いと思うよ、みたいな事あればよろしく
なければ書かなくていいです。
756 :
考える名無しさん :2013/10/23(水) 11:15:47.05 0
>私には原発技術への固執が不自然に思えるけどね。 問題多過ぎる原発から足洗えばいいじゃん。 原発の技術進展を待つなんて呑気すぎない? てな感じ。 (吉本がどうこうだと言うつもりじゃなくて)
757 :
考える名無しさん :2013/10/23(水) 11:23:18.64 0
>海洋汚染が広がりつつあると思いますが もう取り返しがつかないくらい広まってるよ
758 :
考える名無しさん :2013/10/23(水) 11:28:18.73 0
>>752 >本質的な対話のできた 人間など吉本しかいなかったし、今でもいないわけで、
大丈夫ですか? 周り、ちゃんと見えてますか? 心配させないで下さいね
759 :
考える名無しさん :2013/10/23(水) 11:30:42.75 0
原子力の利用というのは、現代の人間の知恵を超えたものだということははっきりしているだろう。 原発でも、ひとたび枠の外に出てしまえば、まったく制御できないし、使用済み燃料の処分方法さえまったく考えることができない。 ただ埋めるだけというのでは、とても安全で科学的な方法とはいえないだろう。 原子力の利用は、まだまだ実用段階ではなかったということだ。 技術者たちと政治家たちは、まだ実験段階の技術を実用化してしまった。 技術の進歩と、実用化という社会的な要請とを、吉本は混同していたのだろう。 ある術が社会的な位置を占めるかどうかは、確かに政治の力による。 技術の進歩ということを人間としての自然の歩みだと捉えたとしても、それを社会的に位置づけるのは政治だ。 吉本は、文学を政治から切り離して見せたが、技術を政治から切り離すことには失敗している。
>魚を安心して買えなくなり困っています。 中國産冷凍ワカサギ(5百グラム/198円)を安全だと思います。
中國産冷凍イカは冷凍なのにヤバイ香りなのでちょっと食べる気しない 中國産冷凍豆類は食べれる
763 :
考える名無しさん :2013/10/24(木) 00:37:45.38 0
中国の食品が危険そうだというのは日本でも周知のことだろう。 それでも書きたいなら、こういう過疎ってるところじゃなくて、もっと人がたくさんいるところのほうがいいと思う。
は?
いくら吉本が食い意地が張ってたからって、中国の食品問題を取り上げてもねえ・・・
767 :
考える名無しさん :2013/10/24(木) 09:59:11.74 0
予想通りのレスがついて笑える ところで、俺が買って読んでもいいかなと思えるのは『ひきこもれ』かな? でも言われなくてもやってるし、それに何より金使いたくないからね。 最近、ネット上の吉本って字が古本って見えるんですけど、これ単にマジです、メガネ高そ〜。
2000年以降は視力の低下もあってインタヴュー本や対談集が多くなるんだけど 、ざっと挙げても糸井重里との対談、大塚英志との対談、高岡健との対談、 茂木健一郎との対談、森山公夫との対談・・・インタヴュー本としてはアス キーから各上下で出た『超「20世紀論』『超「戦争論」』、『ひきこもれ』 ・・・『ひきこもれ』ではイジメ論の中で‘傷ついた親が傷つく子供をつくる’ ‘子供の自殺は親の代理死である’‘親の心の状態が重要なんです’という 〈刷り込み〉の媒介を指摘して、それはメディアでのイジメ論議には出てこ ない論点だし、やっぱりハッとさせられるものはあったな。
>それはメディアでのイジメ論議には出てこ ない論点だし、 とりあえず健闘を祈っておきたい
吉本の共同幻想を的確に説明している人はいるのかな? あるいは、的確に反論している人でもいい。
771 :
考える名無しさん :2013/10/27(日) 13:03:45.93 0
お前が英語で説明しろ、
772 :
考える名無しさん :2013/10/27(日) 15:05:56.89 0
なんでやねん
773 :
考える名無しさん :2013/10/27(日) 16:01:41.23 0
是非英語で読みたい、私は日本人だが吉本を日本語で読むと理解できないのです。
775 :
考える名無しさん :2013/10/27(日) 18:15:18.23 0
>>774 図の中の空いてる所には、どんな言葉が入るんでしょうか?
対幻想{ ]共同幻想
個人幻想[ ]共同幻想
中心部の[ }
776 :
考える名無しさん :2013/10/27(日) 18:36:20.98 0
文学、芸術って共同幻想ではないの? 単なる図式上の疑問だが。 私自身は幻想とは思わないが。日々の経済行為とは違う活動を共同幻想と定義している のか?
文学、芸術は、個人幻想だよね? なぜ共同幻想だと思うの? 近代以前の社会では、それらが共同幻想として疎外されていたから?
778 :
考える名無しさん :2013/10/27(日) 18:59:12.72 0
文学、芸術って複数の人に鑑賞、批評されるから。 と、書いてみたが、共同幻想の定義をはっきりさせないと話は進まんでしょうね。
779 :
考える名無しさん :2013/10/27(日) 19:31:31.88 0
図でみると個人幻想and対幻想となっている。 近代以前の社会ではそれらは共同幻想として疎外されていた。って、英訳すると どうなります?
>文学、芸術は、個人幻想だよね? 個人幻想の領域を扱うことが多いだけで、厳密には全然違う
781 :
考える名無しさん :2013/10/27(日) 20:16:32.45 0
>>780 「(略)自己幻想という軸を設定すればいい。芸術理論、文学理論、文学分野というものはみんなそういうところにいく。」
(「共同幻想論」序)
本人はこう言っているが。
782 :
考える名無しさん :2013/10/27(日) 20:35:44.34 0
>>779 ”They had been marginalized as a joint fantasy in pre-modern society.”
だってさ。
783 :
考える名無しさん :2013/10/27(日) 20:42:58.38 0
過去完了か、渋いなぁ。だが申し訳ないが英訳見ても意味が分からん。
784 :
考える名無しさん :2013/10/27(日) 21:04:44.40 0
英語圏育ちの人? 日本語圏育ちの人なら、日本語の勉強をつづけた方が理解できるようになると思う。
785 :
考える名無しさん :2013/10/27(日) 21:13:14.31 0
786 :
考える名無しさん :2013/10/27(日) 21:27:16.76 0
解釈 近代以前の社会においては、芸術は民衆に共有される楽しみごとと見なされ、 まれな場合を除き製作者個人の製作物として評価されなかった。
三島「ジョウルリつうのは演技するじゃなくて物語るんですよ」 太宰「モルヒネ下さい」
788 :
考える名無しさん :2013/10/27(日) 22:30:38.98 0
>>778 >共同幻想の定義をはっきりさせないと話は進まんでしょうね。
どこに書いてあったか判らなくなったけど、
「共同幻想とは、マルクスに於ける上部構造」みたいなこと。
ただし下部構造に規定されないと吉本は考え、共同幻想という言葉を使った(らしい)
と記憶したのだけど、果たしてどうなんだろう?
正確に書くなり、詳細に書くなり解説お願いします。
789 :
考える名無しさん :2013/10/27(日) 22:46:57.00 0
a joint fantasy
吉本さんの共同幻想論は、岸田秀のいう共同幻想や丸山圭三郎さんのいう言分け構造とも意味が違うよね? 唯幻論とは違う。むしろ自己関係、対関係、共同関係の関係位相論とでも名づけた方がいいのかもしれない。
土砂を積んだら違反なダンプ型自動車(アオリが高いやつ)に土砂を積んでやがる 隣の土建屋
792 :
考える名無しさん :2013/10/28(月) 13:30:41.88 0
読んだことないが、本の冒頭に共同幻想の定義を書いておけばいいのに。 そうするとありがたみが減るか。ひょっとして最後まで定義もなく、朦朧とした本 じゃないの。
マルクスにおける上部構造のことだと書いてあるよ。
なら、わざわざ共同幻想なんて言葉つかわなきゃいいのに。 そうすると誰も本を買わなくなるか。 幻想っていう言葉は右も左も引き付けることを知ってたんじゃないの。
795 :
考える名無しさん :2013/10/28(月) 18:34:30.20 0
用語が我流で、しかもそれが論理的につながっていない。最悪の意味で「詩的」に理解され ていたとしか思えない
797 :
考える名無しさん :2013/10/29(火) 00:19:41.18 0
>>796 他の哲学者などと比べると吉本の造語というのはとても少ない。
論理的なつながりがないというのは、どこを指しているの?
どちらも具体的に指摘してみて。
「共同幻想」なら、マルクスが使った言葉だけど。
ISBN4061590014 「法について」 。頭悪いからこれより長い文章を読めない
>>794 上部構造というマルクス主義流の名づけ方が気に食わなかったんでしょう。
自分のマルクス理解はマルクス主義者とも構造主義者とも違うぞというのが吉本氏の自負のようでした。
800 :
考える名無しさん :2013/10/29(火) 09:52:17.68 0
>>797 マルクスを読んだことなく、読むつもりもないが、上のほうで
マルクスは 幻想的な共同性 という言葉を使ったとある。
これは、生産手段の私有による階級対立など存在せず、すべて均質の
構成員が構成する共同体のごとき体裁を国家がとるという意味じゃないの。
この 幻想的な共同性 の意味はわかるが、例の共同幻想という
言葉はマルクスは使ってないんじゃないの?
801 :
考える名無しさん :2013/10/29(火) 09:59:16.15 0
流行しているとき、一時は吉本用語辞典が要るといわれていたよ。 論理的なつながりがない: いきあたりバッタリに造語、意味の 読み替えをする ということじゃないの。 筒井康隆は尊敬しているのだが、 異化 という言葉を使うことがある。 あれだけはやめてほしい。
802 :
考える名無しさん :2013/10/29(火) 11:06:13.75 0
>>800 まあ、とにかくドイツイデオロギーを読んでよ。
803 :
考える名無しさん :2013/10/29(火) 11:09:15.26 0
>>801 とにかく具体的に指摘しなよ。
吉本もマルクスも読んでないんじゃ、指摘のしようもないだろうが、それならそれで、なんでそういう感想持ったかを書いてよ。
804 :
考える名無しさん :2013/10/29(火) 11:22:36.64 0
心的現象論読んでないやつはモグリ 共同幻想論はただのこじつけだから。
805 :
考える名無しさん :2013/10/29(火) 11:23:59.06 0
ちなみに、「幻想的な共同性」つまり「共同幻想」というのはヘーゲルの国家観をふまえているんだ。 ヘーゲルのいろいろなところに出てくる考え方だが、「法の哲学」もそれが軸になっている。
806 :
考える名無しさん :2013/10/29(火) 11:28:51.62 0
>>804 序説と本論があるけど、どっちのこと?
両方とも?
本論の方は未完成というか、推敲されないまま単行本になってるから心的現象論ノートの域を出ないとは思うけど。
共同幻想論とどこが違うと思う?
807 :
考える名無しさん :2013/10/29(火) 11:58:20.73 0
吉本、ヘーゲル、マルクス、読むと頭が悪くなりそう。業界漢字用語って、 頭に悪そう。分かってないのにわかったふりする妙な癖がつきそうだ。
>>807 吉本は読む必要ないな
ヘーゲル・マルクスは頭よくなるけど。
吉本だの宇野だの広松だの柄谷だの読む時間があったら
ヘーゲル・マルクスを読むべき
809 :
考える名無しさん :2013/10/29(火) 12:57:50.79 0
マルクスを少ししか読んだことなく読む時間もないが、上のほうで 「マルクスは幻想的な共同性という言葉を使った」とある。 これは、上部構造には階級性が反映されいるから国家の理想とか格好いいこと 唱えても特定の階級にとっては幻想でしかない、とかいう意味じゃないの? いわばマルクス得意の皮肉表現でしかないのであって、本質的な部分 としての意味ではマルクスは使ってないんじゃないの? 初期マルクスの「疎外」とか、交換過程のみの話とか、瑣末な部分を 他の重要な部分から切り離して自己流に論じてみせるパターンじゃないの? あと、「幻想」って翻訳は正しいの?「暴力革命」とか「プロレタリア独裁」 みたいな誤訳の可能性はないの?
>>809 全然違うよ。
原文も翻訳も読まないうちから誤訳であるとするなら、自分で確認してから指摘すればいいと思う。
吉本思想関係なく、いずれにしろ、国家なんてのは物理学的に見れば幻想でしかない対象だろ? この事実は唯物論的に動かしがたい。観念はあくまで観念。それが共同化されているだけ。 遺伝子に組み込まれていると主張したいのかもしれないが・・・
812 :
考える名無しさん :2013/10/29(火) 15:32:01.94 0
810 いい質問だと受けとめて、たっぷり解説する余裕がほしい。
「幻想でしか」などと幻想を甘く見ちゃいけない。幻想もバーチャルも共同化されれば社会的現実になる。
814 :
考える名無しさん :2013/10/29(火) 16:02:55.41 0
上部構造とカブ構造の関係における観念とは観念であって、 幻想とは違うと思う。幻想は観念に含まれるというだけ。 本を売るためのキャッチイな"詩的"用語を選んだ点は上手いと思う。
階級闘争史観でうまくいかないから民俗学を取り入れ、 マルクスでうまく行かないからヘーゲルに遡行したのだろう。 アンダーソン『想像の共同体』あたりとつながるが、 国民は説明出来ても国家は説明出来ていない。 柄谷の吉本と同じ素材を扱った近年の仕事を参照する必要がある。 そこでは表出ではなく交換(マルクスが交通として準備したが展開 しきれなかったターム)がキーワードになる。
>>812 マジレスすれば、
>>809 はいい質問ではないよ。
マルクスを読んでいなくても、ていねいに他の思想や哲学を考えていれば、こういう疑問は出てこない。
>>809 は、ただ左翼が嫌いなネトウヨレベルの人なんだと思う。
感情的に思想を判断する人に、いくら解説しても無駄。
817 :
考える名無しさん :2013/10/29(火) 21:08:17.84 0
吉本は別にマルクスの解説者ではないのだから、 吉本の本を読んでらマルクスを理解できるというものではない。 評論ですよ、評論。
818 :
考える名無しさん :2013/10/30(水) 13:48:42.20 0
最低限著書を読んでから書き込むのが常識だろう。 これは他の作家でも同じ。他の分野でも同じでしょう 映画見ないで批評する、芝居見ないで批評、料理食べずに批評。
819 :
考える名無しさん :2013/10/30(水) 18:38:02.77 0
参加者3人ぐらいになるんじゃないか、
そしてだれもいなくなtt
後期の吉本は還相ということなのか、平易な語り口の本をたくさん出している。 電子書籍になっているものも多いくらいだから、それなりに読者もいるんだろう。 そういう読者がこのスレなんかに来ることは無いのかな?
>>814 観念と幻想とのその分け方は何を基準にしているわけ?
下部構造の反映としての上部構造が観念で、下部構造から自由なのが幻想?
前者ならば、通俗化したマルクス主義唯物史観に換言されてしまう気がするが。
823 :
考える名無しさん :2013/10/31(木) 12:33:57.33 0
>>822 私は814じゃないけど、少し考えてみた。
下部構造の反映としての上部構造が「観念形態(イデオロギー)」。その意味での「観念」。
ところが、教条・通俗化したマルクス主義唯物史観を吉本は避け、
下部構造から疎外された意識総体を「共同幻想」と呼ぶことにした。
(国家・宗教・法などは本質に於いて社会の生産様式発展史とは無関係。と、彼は考えた。と私は思った)
マルクスの下部構造決定論では、戦前における日本の天皇制(天皇主義)は説明出来ないし・・・。
このサイトにある隆明個人史を、じっくり、出来れば止めて読みたいのだが(笑)
http://www.fitweb.or.jp/~taka/ryuweb.html
824 :
考える名無しさん :2013/10/31(木) 14:04:28.31 0
>下部構造から疎外された意識総体を「共同幻想」と呼ぶことにした。 ↓ 下部構造から外化された意識総体を「共同幻想」と呼ぶことにした。 と書いてみたものの、なんだろう気分が乗らない。
>>824 気分が乗らないときは、外国語の本を読むのがいいそうだ。
辞書を片手に、プルードンの「貧困の哲学」でも訳してみたらどうだろう?
英語版からの重訳でもいいよ。
英訳のものなら、ただで読める。
>マルクスの下部構造決定論では、戦前における日本の天皇制(天皇主義)は説明出来ないし・・・。 マルクスを誤解していないだろうか。 下部構造は全てを"決定"するのではなく、"規定的"なだけである。 王様と呼ぶか皇帝と呼ぶか、俺のパンツの柄が縞模様か無地か、 そんなことまで下部構造は決定しないのである。
827 :
考える名無しさん :2013/10/31(木) 15:45:43.82 0
>>826 マルクスに限りませんけどね。ほとんどが誤解。
パンツの柄には、こだわりますね。
ささやかに、あなたへの誤解
東京サマーランド(あきる野市)のプールはイレズミの方お断りだけどマンコピアス可だそうです(行ったことないけど)
マルクスの下部構造決定論では、東京サマーランドにおける イレズミお断りは説明出来ないし・・・。
前は紐状の海パン(オーストラリア製)を着用してウロチョロしてると係員に注意されるらしい 「お客さん、ズレてますよ」 「えっ?」 「紐が」 「えっ?」
中途半端に発達した資本主義と、地主&小作人制度のミックス。 その地主の頂点に天皇。 下部構造的にはそれが戦前の日本。 マルクスの理論でも説明できる。
832 :
考える名無しさん :2013/10/31(木) 21:19:14.27 0
>>831 天皇制は上部構造だろ?
共同幻想そのものじゃない?
833 :
考える名無しさん :2013/11/01(金) 01:47:21.73 0
なぜ吉本が>831のような説明では納得がいかなったのか、 今改めて考えてみると結構わからなくなる。 使われている言語が詩的感性としてしっくりこないということに 還元されてしまうような気がする。 そこでは、共同幻想という詩的言語による納得の過程がどうしても 吉本には必要だったのだろう。 だが、それが私事にすぎないといえるのかどうかだ。
834 :
考える名無しさん :2013/11/01(金) 01:50:06.85 O
上部、下部の二項対立なんて止めてしまえ 天皇陛下だって人間でありながら、国家の共同幻想の象徴でもあるだろう
>>822 次元の違う話がごっちゃになってるところが、"評論"の魅力なのだろう。
観念とは、客観的実在を反映する人間の意識活動に関する話。
上部構造・下部構造の話は、思想や制度と、生産活動・経済活動とでは
後者がより規定的であるという話。
もちろん、観念も上部構造に含まれるといえるが、厳密には上部構造≠観念ではない。
「幻想」とは、人間の意識活動の一環ではあるが、客観的実在における
根拠をもたない「妄想」のようなものであり、文学的表現。
異なる次元の話をごっちゃにすることが吉本には必要だったのだろう。
だが、それが私事にすぎないといえるのかどうかだ。
人間の意識活動は客観的実在を反映する。もちろん意識・観念という
ものは有体物ではない。だが、有体物じゃないからといって次元の
異なる文学的用語「幻想」をもってくるのは、やはり唐突さを感じさせる。
そんな無理やりさ・不自然さを感じさせる用語が吉本には必要だったのだろう。
だが、それが私事にすぎないといえるのかどうかだ。
ところで、「通俗化したマルクス主義唯物史観」って何?
836 :
考える名無しさん :2013/11/01(金) 08:49:11.51 0
>>835 >ところで、「通俗化したマルクス主義唯物史観」って何?
それはですね、
>>822 を書いた人にお願いします。
つい真似して書いてしまいました。
マルクスには興味持つが日共は嫌い、みたいな人の言い草かと思ったもんで
837 :
考える名無しさん :2013/11/01(金) 11:57:24.49 0
−(マルクスは)観念としての人間の集合体のひとつが国家であるという意味で、国家のことを「観念の集合体」と呼んでいるのです。 −日本ではこの「観念」という言葉を「幻想」と訳していますから、「国家は幻想の共同体である」ということになるわけです。 (『日本語のゆくえ』)
>>823 それはけっきょくのところ、ルイ・アルチュセールのマルクス解釈と同じなのかねえ?
>>823 > マルクスの下部構造決定論では、戦前における日本の天皇制(天皇主義)は説明出来ないし・・・。
どういう意味で説明できないのでしょう? イギリスの立憲君主制が説明できないという意味で?
840 :
考える名無しさん :2013/11/01(金) 16:36:58.60 0
ある枠組みの中で自分の理解の正当性を競う。解釈学芸会。
841 :
考える名無しさん :2013/11/01(金) 17:17:28.79 0
>>840 競ってるんじゃなくて、自分の理解が正しいかどうか確認してるんだろ?
だれでも、自分の領域に近づけて自分なりの理解をしようとするんだから、他の領域の人からみれば不満もあるだろう。
同じ「共同幻想論」を読むにしても、たとえばマルクスになじみのある人にとっては、ドイツイデオロギーやヘーゲルとの対比が理解しやすいだろうし、レーニン的なマルクス主義になじんでいる人からは、上部構造と「幻想」の違いを確認することが理解の早道だろう。
もちろん、その他の領域の人たちにも、それぞれの概念との対比が必要となってくるんだろうね。
842 :
考える名無しさん :2013/11/01(金) 17:43:01.00 0
理科系の議論じゃないから検証のしようがないでしょう。
843 :
考える名無しさん :2013/11/01(金) 17:48:27.24 0
かつ、漢字を組み合わせたキーワードを日本語のてにをはでつないだもやもやした 文章で議論するのは無理がある。
845 :
考える名無しさん :2013/11/01(金) 17:54:12.46 0
>>843 自分が理解できないからって、他人にまで普遍化するのは、無理があるだろ?
846 :
考える名無しさん :2013/11/01(金) 17:55:31.91 0
843にも言及してくれ。
847 :
考える名無しさん :2013/11/01(金) 18:00:01.01 0
848 :
考える名無しさん :2013/11/01(金) 18:01:35.55 0
そうか学会は日蓮を理解している。
849 :
考える名無しさん :2013/11/01(金) 18:11:39.36 0
そうか学会は日蓮を理解しているか?
>>822 すまんかった
× 厳密には上部構造≠観念ではない。
○ 厳密には「上部構造=観念」ではない。
852 :
考える名無しさん :2013/11/04(月) 08:56:04.38 0
観念という日本語を幻想という日本語に訳しているのか、誰がいつ?
観念と幻想との違いって何よ? その違いを一般論として、あるいは論理的にちゃんと明記できないかぎり、 観念と幻想とを自由に置き換えてもいっこうに構わないと思うが。 例えば、下部構造からの反映を観念と呼び、下部構造から独立したものを幻想と呼ぶなら、 共同幻想論は、下部構造から独立して上部構造を扱えるというマルクス主義への反論を 含んでいるんだから、共同観念論ではなく共同幻想論と名付けることには意義がある、 つまり読者に訴える力があると思うが。
854 :
考える名無しさん :2013/11/04(月) 13:32:46.10 0
吉本が幻想という言葉を使った理由はあちこちで書いているし、
>>837 の引用も極めて明快だ。
ちなみに、マルクスも英語でいうイリュージョンという言葉を使ってるようだ。
よけいな補足をするとすれば、観念というと、どちらかというと確立された考えとか概念とかに近い印象があるし、意識というと、どちらかといえば感覚まで含んでいるような印象がある。
吉本は観念とか意識という言葉より、柳田国男の少年時代のような、ぼんやりとした、まさに幻想的な心理状態までを含ませた心の動きを表したかったのだと思う。
目の前にリンゴがある。そのリンゴを意識が反映する。 リンゴという観念、それは観念だからリンゴというものは幻想? 違うだろ。 国家というものは、意識から独立して存在する客観的実在。 有体物でないというだけ。 国家という"意識"、まさに意識そのものを扱うなら、商業的な評論の 分野においては「幻想」という文学的表現もありかもしれないが、 有体物でないというだけで、実体のないマボロシ扱いするのは 唯物論的には正しくないだろう。 「幻想」という言葉を使うと、まるで国家は意識から独立した 客観的存在でないと言ってるような感じだ。 おっと、吉本はマルクス主義とは一味違うことを自認してるんだったな。
856 :
考える名無しさん :2013/11/04(月) 17:21:55.09 0
>>855 唯物論的にはそう考えるとすると、マルクスのこの記述をどう読むの?
他の人の訳でも同じ様な表現だったと思う。
「そしてまさに特殊利益と共同利害とのこの矛盾にもとづいて、共同利害は、個別および全体の現実的な利害からきりはなされて国家として一つの独立なすがたをとる。そしてそれは同時にまた幻想的な共同性としてである。」
(『ドイツ・イデオロギー』古在由重訳)
>>855 リンゴは物理学的に検出可能な実在だけど、
国家、たとえば国境は、それを認める意識なし存在する客観的実在じゃないよ。
まさにその実体は法であって、それを承認する人間以外の動物には認識できない。
つまり、それを承認した人たちの脳内にあって、それが客観に投影されたもの。バーチャルな疎外態。
厳密にいうと、経済というのも実は幻想に属していると思う。特に貨幣経済はそうだ。
858 :
考える名無しさん :2013/11/04(月) 20:08:20.15 0
だれかが書いていたが、 幻想の共同性とは、階級的対立の存在を無視した現実からかけ離れた共同性と言う 意味じゃないの。よって、幻想と言う言葉は文字通り幻想と言う意味で使われている と思う。
吉本隆明さんは生前、一億総中流意識というのをよく持ち出していたね。 この意識が7割だか8割だかを超えた日本ではもう共同幻想の水準では 共産社会が実現したようなものなんだみたいな論調だった。ちがうかな?
いまの米国も、もともと先進国の中では格差社会だったんだけど、 そこからさらに倍に格差が拡大しているのにもかかわらず、 意識調査の水準では自分たちを中流だと考える人の数はあまり 減っていないんだって。 そして米国はいまだに世界に誇れる機会均等の国だと勘違いしている。 でもさまざまな統計的データが明らかにするところでは先進国中 もっとも機会均等が損なわれている社会が米国らしい。
861 :
考える名無しさん :2013/11/04(月) 20:36:57.35 0
>>858 『ドイツ・イデオロギー』(古在由重訳)には、こんな言い回しもある。
「国家の内部におけるすべての闘争、民主主義や貴族主義や君主主義のあいだの闘争、選挙権などなどのための闘争は、種々な階級のあいだのたがいの現実的な闘争がおこなわれる時の幻想的な諸形態にほかならない」
「諸個人はただかれらの特殊利害――かれらにとってかれらの共同利害と合致しない利害だけをもとめ、そしておよそ一般的なものは共同性の幻想的な形態である」
しかし「ウォール街を占拠せよ」というデモ運動が湧き起ってから、 米国もやっとのこと夢から醒めつつある兆候が見え始めている。 さすがにここまで格差が広がってくると将来的にみて 多数派を形成する労働者階級が困窮化するというマルクスの 「困窮化仮説」が現実味を帯びてきてしまうからね。
863 :
考える名無しさん :2013/11/04(月) 20:46:38.73 0
翻訳がわるいのか、原文がわるいのか、分からん文章ですな。
864 :
考える名無しさん :2013/11/04(月) 20:46:44.08 0
>>859 >共産社会が実現したようなもの
と言ってたかどうかは知らないけど、中流意識にしても消費者の不買による政権奪取にしても、耄碌してたとしか思えないな。
他の問題については、老境に入ってからも輝くばかりの思考の中で見事に方向を捉えていたけど、こと経済の話が絡むと、子供のような単純さに退化してしまっていた。
視力の衰えが現実の把握に影響したのかもしれない。
865 :
考える名無しさん :2013/11/04(月) 20:57:06.91 0
>>863 吉本は『ドイツ・イデオロギー』のこういう部分の人間の心性の根拠を探り、肉付けしたのが「共同幻想論」。
ていねいに読めばわかるんじゃないかとは思う。
> 耄碌【もうろく】 ずいぶん難しい漢字をお使いになるんですね。初めて見た気がする。
吉本さんは文芸批評家だけど、実は人間の世の中も フィクションが大きく世の中を動かしているんだよ ということなんだと思う。
868 :
考える名無しさん :2013/11/04(月) 21:03:59.63 0
869 :
考える名無しさん :2013/11/04(月) 22:46:24.94 0
翻訳が悪い、あるいは翻訳に限界があるんじゃないか。共同性って言われても 漢字のおかげでなんとなく雰囲気としての意味は分かるが、実際にはなにもはっきりと した意味は分からない。ドイツ語ではもっと日常語で書かれているんじゃないの。
翻訳も原文も悪いんだろう。てか、翻訳が難しい文章なんだろうね。
ドイツイデオロギーって、ドイツのブルジョアジーの観念論的行動を
チクチクと批判する形で書いた著作なんでしょ? マルクス・エンゲルス
の若い頃の著作って、文学的で思弁的で皮肉表現が混じったわかりにくい
文が多いよね。
例えば、マルクスはヘーゲルのEntfremdung(外化)という言葉をそのまま
使ってる。しかし、日本語の翻訳ではマルクスのいうEntfremdungに「疎外」
という日本語を当てている。これはマルクスの皮肉っぽいニュアンスを苦心
して表現したんだろうけど、やっぱり元の原文自体がわかりにくいよね。
>>856 >>861 を読んだ限りでは、いろいろな事柄が詰め込まれてる文章だね。
人間が社会的存在であるという原理(共同性)と、ドイツのブルジョアジー
が「共同性」の理念を掲げて民主主義だの選挙闘争だのやってることに
対する冷めた目と、一方の階級が他方の階級の利益を無視して「一つの
共同の利益」を唱えていることに対する皮肉と…。
マルクス・エンゲルスは、こういう諸々の観念上の事柄(上部構造)に対して、
皮肉ぽく「幻想」という言葉を多用している感じだね。
そして吉本がそんなわかりにくい曖昧な用語を文学的かつ自己流に上手く
拡大して利用している、という仕組みではないのかな。
ちなみに、上にもあったように原語は「Illusion」だそうだけど、
独和辞典をみると「幻想」の他に「思い違い」「錯覚」という意味もあるね。
もし古在先生の翻訳が「幻想」じゃなくて「思い違い」「錯覚」だったら、と
考えてみるのも面白い。
871 :
考える名無しさん :2013/11/05(火) 10:42:12.48 0
なるほど、コメントありがとうございました。
872 :
考える名無しさん :2013/11/05(火) 10:51:07.13 0
丁寧に読み込めばわかるはずと言う指摘を受けるが、朦朧とした訳文を堂々巡りして 袋小路に入り時間を無駄にする気がするのです。
873 :
考える名無しさん :2013/11/05(火) 11:45:52.35 0
>>872 そうだね。
哲学というのは、誰のものでもそういうところがあるよね。
翻訳ということとは別かも知れない。
考えていることを文章にあらわすことも難しいし、それを読み取ることも難しい。
吉本の「幻想」は、本人が十分に説明しているから、特に難しいとか曖昧だとかいうところはないと思う。
曖昧に見えるとすれば、人間の心の曖昧さをそのまま表しているからだろう。
人間の心をあらわすいろいろな言葉の中で、共同的な面を含めた、より幅の広い概念を表すのには一番いい言葉かもしれない。
吉本は「心的現象」という言葉も使うが、その言葉は、「幻想」を含めた、個人から見た個人の心の動きをあらわすために使っている。
「幻想」というのは、いわば、そこにものがあるように人の心の中にある「意識」。
「心的現象」というのは、その「意識」の発生を根拠づける心の動き。
こんな違いがある。
マルクスの「幻想」にも、「錯覚」に近いものから「理念」に近い概念までの幅がある。
言葉も人の心も、幅による曖昧さと抽象による理解の困難さが付きまとうのだろう。
874 :
考える名無しさん :2013/11/05(火) 13:20:50.78 0
そんな読書は時間の無駄だと思う。他にやりたいことがあるのでね。
875 :
考える名無しさん :2013/11/05(火) 17:34:32.08 0
>>874 同意。
少なくとも哲学を理解したいとか、マルクスを理解したいとか
真剣に思ってる人が読むにはどうか、と。
テレビ番組からちょっとした左ぽい話題まで、社会一般を
"知的"に広く語り合う朝ナマみたいなのが好きな人向け。
877 :
考える名無しさん :2013/11/05(火) 21:27:41.14 0
>>876 テレビと吉本というと、野末陳平の吉本評を思い出して微笑ましくなるな。
野末チンペイの吉本評? くあしく!
879 :
考える名無しさん :2013/11/06(水) 12:24:37.50 0
日本は大学が多すぎる。ドイツ語、フランス語教師が多すぎる。こいつら、半分 遊び人みたいなもので、そのくせ自らを知識人と称し哲学談義をするやつらがいる。 下部構造が上部構造を決定するから、実のある哲学談義が生まれて来ないのだ。 遊び人のたわごとなのだ。
880 :
考える名無しさん :2013/11/06(水) 18:28:54.41 0
こいつらの真に恐れていることは働くことだろう。それでマルクスを語るのだから 笑ってしまう。
881 :
考える名無しさん :2013/11/06(水) 18:33:17.47 0
吉本隆明の柄谷による柳田国男論への批判はどうだったか調べようかと
882 :
考える名無しさん :2013/11/06(水) 18:47:06.73 0
日本語は関係代名詞がないからややこすい。
883 :
考える名無しさん :2013/11/06(水) 18:51:34.52 0
あと、 と 留めはやめたほうがいいと思う。 と 思わないと言う余地を残していると勘ぐられる。
884 :
考える名無しさん :2013/11/06(水) 21:15:46.34 0
>>878 昔々あるところに、吉本隆明という、詩人だか文芸評論家だか思想家だか哲学者だかわからない人がいました。
その人は、毎日毎日テレビを見ていたのですが、ある日ふとむなしくなって、テレビに出てくる文化人モドキのランク付けをしてみたのです。
というわけで、いくつかの項目に分けて何人かのテレビ文化人をそれぞれランク付けしたんだ。
ネットで調べてみたら、対象者は、青島幸男・前田武彦・永六輔・野末陳平・大橋巨泉・野坂昭如、の6人だったそうだ。
項目は、「馬鹿さ加減」「つまらなさ加減」「毒性」「芸人的才能」、その他、らしい。
以下、記憶違いもあるので、あらかじめお詫びしておきます。
野末陳平は、各項目で一番でもビリでもないという、はなはだ目立たない位置にランク付けされた。
そして中には「知性」といった項目もあって、陳平は3位に位置付けられてた。
ある週刊誌が、これに取り上げられたテレビ文化人に取材したところ、陳平は吉本を知らないので
「知性で3位とは何事だ。大学で教えられるのは俺だけじゃないか」
と息巻いたそうだ。
その時の陳平の一言を思い出したんだ。
「この吉本という人もテレビに出たくてこんなこと書いたんだろうね。早くテレビに出られるといいね」
おもろい 俺はこの中では前武と陳平が好き
886 :
考える名無しさん :2013/11/07(木) 12:21:52.51 0
ツービートが売れ出した頃、吉本がツービートを批評した。 ビートたけしは吉本の言わんとすることを自分の言葉で要約し、こう付け加えた。 庶民の側に立つ思想家というなら、まず庶民の理解できる日本語を使え、
三島の2倍の時間を生きたわけだから適応がいろいろ大変だったはず
888 :
考える名無しさん :2013/11/07(木) 12:56:46.70 0
>>886 本当にそう言ったとすれば。
自分にわからない言葉は、庶民にもわからない、あるいは自分にはわかるけど、庶民にはわからない、と思ってるんだね。
大学知識人と同じ感覚なんだな。
もっとも大学知識人は、易しい言葉を使うと自分の権威が落ちると思って難しい言葉を使うらしいが。
吉本が最も嫌った啓蒙とは、読者を軽蔑していてその読者に教えてやることで読者を自分の「高さ」に引き上げようとすること。
吉本風に言えば、啓蒙家というのは教養がない、ということになる。
ビートたけしはそんな感じの発言も週刊誌なんかに載せているし、そんなことを思っていても違和感はないな。
そういうところが透けて見えちゃうから、芸も映画もつまらないんだろうね。
889 :
考える名無しさん :2013/11/07(木) 13:17:23.74 0
日本では庶民といわゆる知識人の間に知的レベルの差はない。ただし、理系の専門 分野は別の話。ビートたけしはそんなことはわかっているよ。
890 :
考える名無しさん :2013/11/07(木) 13:24:58.15 0
つまり、吉本の言葉を庶民向けに翻訳したのではなく、吉本の難解芸を茶化したのだ。 こんな言い回しをしているが、普通にいえばこういうことだろ、いいかげんにしろよ、 ということを言ったのさ。
>>890 それが思い上がりというものなんだよ。
自分が理解できなくても、他人は理解してる。
いいかえれば、理解しようとする人間にしか理解できない。
理系であろうと文系であろうと、専門的な論考や発言には読む側に蓄積が必要なのは当然のことだ。
読む側に理解しようとする意思と蓄積がなければ、誰であってもたやすく理解できるということではない。
それは庶民であろうと知識人であろうと同じことだ。
理解しようとする姿勢も、もちろん知的な蓄積もない芸人が、周囲のおだてに乗って自分の思い付きを絶対のものだと思い込む。
それは庶民を自分の知識の「高み」に引き上げようとする啓蒙知識人と同じ姿勢だ。
庶民の立場に立つ、というのは、庶民を自分の位置に「引き上げよう」とすることでも、庶民に理解を求めることでもない。
庶民の幸せの根源を探っていこうとする姿勢のことだ。
892 :
考える名無しさん :2013/11/07(木) 14:34:04.92 0
馬鹿は読書すればするほど馬鹿になるぞ。
吉本の思い描いた大衆の原像というのは、社会も家族もそして自分のこともじっと見つめて、日々の生活にその思いが行動として現われる。 そんな姿だ。 自分の父や塾の教師のほかに元特攻隊員の編集者もその原像の原型だった。 テレビのバラエティを見て笑っている姿は、大衆の一態様ではあっても、大衆の原像というわけではない。 吉本の生活ぶりが家庭的に見えたからといって、家庭的な人間を大衆の原像としたわけでもない。 強さと、他を思い起こすことができる心理的な教養を持った生活者。 それが吉本の原像としての大衆だ。
吉本さんにとっては宗教家と知識人は同じものなんだろうか。 どっちも自分のいる高みに大衆を引き上げようとしている人間じゃないのかね?
895 :
考える名無しさん :2013/11/07(木) 23:05:36.88 0
ビートたけしについては事実無根
896 :
考える名無しさん :2013/11/07(木) 23:59:15.31 0
たけし吠える! 飛鳥新社 102ページを見ろ
897 :
考える名無しさん :2013/11/08(金) 00:55:05.51 0
そんな本、見ろといわれても見られないや まあ事実無根と決めつけたことは撤回しておこう
しかし、大衆から遊離しないような「知」があるだろうか。(柄谷よしお)
宗教家や知識人(専門家)の言葉を有難がるのもまた大衆。 そうした大衆の姿は大衆の現像には含まれないのだろうか。 とすれば、それは知識人の頭の中で選別された大衆像ではないか?
900 :
考える名無しさん :2013/11/08(金) 12:24:04.81 0
895よくいきなり事実無根て言えるな、脳細胞のある領域が幻想的になっているんじゃないか、
901 :
考える名無しさん :2013/11/08(金) 12:42:37.53 0
診断結果 彼の脳は個幻想、対幻想、共同幻想の三領域に分かれています。ただ、それぞれの 領域の座標ははっきりしません。
902 :
考える名無しさん :2013/11/08(金) 14:26:37.40 0
おい、幻想頭欠け野郎、なんとかいえ。
903 :
考える名無しさん :2013/11/08(金) 14:35:32.34 0
馬鹿がいい加減なこといいやがって。895お前のことだよ。恥をしれ。 i give you an advice 馬鹿は読書すればするほどもっと馬鹿になる。
904 :
考える名無しさん :2013/11/08(金) 14:42:16.60 0
知的虚栄心 ああ貧乏くさい、わざわざこんなところに落ち込むとは。だけど、もともと馬鹿なんだろうな。 ソープで吉本隆明を語ってくれ
おまえが新聞を読む雄姿 泣けてくるぜッ
906 :
考える名無しさん :2013/11/08(金) 14:54:19.41 0
おい895なんとか言え、例のインチキ教団幹部クラスの口調で語ってくれ、 分からないと言うのはあなたの読む姿勢に問題があるのですetc
907 :
考える名無しさん :2013/11/08(金) 15:06:49.59 0
おーい、895君には数学を勉強することを勧める。基本がわかるはずだ。
908 :
考える名無しさん :2013/11/08(金) 15:11:08.61 0
895頭を洗え、ぶよぶよの中身もひょっとして改善するかも知れない
909 :
考える名無しさん :2013/11/08(金) 15:22:06.85 0
でも、吉本って出版業界に貢献したと思う。
910 :
考える名無しさん :2013/11/08(金) 15:28:27.05 0
ひょっとして895はまるで数学がわからないの?i am afraid that
911 :
考える名無しさん :2013/11/08(金) 15:38:32.00 0
895なんとかいえ、普通の日本語でいいよ、
912 :
考える名無しさん :2013/11/08(金) 15:52:21.61 0
913 :
考える名無しさん :2013/11/08(金) 15:55:08.69 0
撤回しておこう
914 :
考える名無しさん :2013/11/08(金) 15:57:20.42 0
神聖かまってちゃん の子「吉本ちんぽ」
915 :
考える名無しさん :2013/11/08(金) 16:13:39.35 0
撤回しておこうってみじめったらしい。 撤回するにしても、何故撤回するのか撤回の理由を書かないとなんの意志表示にも なっていない。風が立ったから撤回するのか?
916 :
考える名無しさん :2013/11/08(金) 16:22:10.11 0
>>915 まあ、落ち着け。
また横で悪いんだけど、
>>895 は、自分はビートたけしのことはよく知ってるけど
>>886 のようなことを言うはずがないから
>>886 は事実無根だ、と思い込んでそうレスした。
ところが、
>>896 でソースを出されたので、ビートたけしの普段の言動からは納得しにくいけど言ったのが事実ならしかたがない、と思って
>>897 で
>>895 を撤回した。
それだけのことだろ?
917 :
考える名無しさん :2013/11/08(金) 16:27:45.85 0
思い込みの強い人ですね。
918 :
考える名無しさん :2013/11/08(金) 16:40:00.18 0
是非一読してほしいね。
919 :
考える名無しさん :2013/11/08(金) 16:53:08.65 0
まぁ、落ち着け
920 :
考える名無しさん :2013/11/08(金) 22:33:10.37 0
>895だが、たけしが吉本を論評してた話を雑誌かなにかで読んだ記憶は鮮明にあるが、だいぶ違う話だった。 ただ、それとは別に、たけし吠える! 飛鳥新社 102ページでそういうことを言ってたというなら撤回せざるをえない。 しかし、そんな本、確認するわけにもいかないので、とりあえずとしかいえなかたわけだ。 ただ、記憶の中にあるたけしの発言というのは1983-4年の頃なのだが、アマゾンで「たけし吠える!」の出版年をみたら 1984年で、たぶん同じ発言の可能性が高そうだ。 もし引用できるなら是非引用して示してもらいたいものだ。
921 :
考える名無しさん :2013/11/08(金) 22:53:50.44 0
記述が4ページ位あるので残念だがとても引用できない。なんとかして 読んでほしいものだ。
922 :
考える名無しさん :2013/11/08(金) 23:21:23.69 0
4頁もあるのなら、こちらの記憶にあるものよりも長いものかもしれない。 自分の記憶の中でたけしがそんなこと言ってたっけと思ったのは、 >>ビートたけしは吉本の言わんとすることを自分の言葉で要約し、こう付け加えた。 の部分。むしろたけしは吉本の言っていることは難解だが、簡単にいおうとすると長くなるというなら いくらでも長く書けばいいじゃんと言っていたと思う。だから、そこでは自分の言葉で要約できていななかったように思う。 ただ、 >>庶民の側に立つ思想家というなら、まず庶民の理解できる日本語を使え、 という部分については、たしかにたけしは、長くなってもいいからわかるように書けといっていたわけだから、 こちらの部分まで一緒くたに事実無根みたいに書いたのは明らかに軽率でしたね。
小説は読まれなければならないと書いた三島を嫌いだと書いた45歳の吉本
924 :
考える名無しさん :2013/11/09(土) 21:52:44.99 0
925 :
923 :2013/11/09(土) 23:56:55.97 0
>>925 別人。
吉本が三島を嫌いだったという話を聞いたことがないのと、その年代の吉本は、文学者を好きとか嫌いとか言わなかった気がする。
私はまだ若く、巨匠のように語ることはできない、なんて、どこかに書いてた時代じゃないかな?
927 :
923 :2013/11/10(日) 00:26:45.84 0
「暫定的メモ」1971年2月 〈切り取り〉かれは一度、編集者の求めに応じて、私の評論集に、親切な帯の文章を寄せてくれた。 かれは嫌いながらも文士や芸術家や芸能人たちによくつきあい、わたしは嫌いだからつき あわないので、一度も言葉をかわしたことはなかった。〈/切り取り〉
928 :
923 :2013/11/10(日) 00:40:33.10 0
〈切り取り〉三島は生きているときも大向うをあてにしてずいぶん駄本をかいてサービスしてい る。そして《死》にいたるまで大向うにたいする計量とサービスを忘れなかった。こ れは、充ちたりた分限者か、成り上がった苦学生のつかう方法である。ほかのどこ が似ていても、三島由紀夫と二・二六の青年将校たちとはこの点で似ていない。〈/切り取り〉
929 :
924 :2013/11/10(日) 00:44:24.90 0
>>927 誠実な対応をしてくれてありがとう。
それかな、と思ってたんだけど、それだったら趣旨が違っている。
文壇やその関係者との付き合いが好きか嫌いかという趣旨だから、吉本が三島を嫌いだと書いたわけじゃない。
確かそこでは三島の作品は高く評価していて、行動については、どこまで本気なのかわからない、天才には天才の空虚さがあるのかもしれない、自分にはそれがわからない、といったことを書いてた。
手元にないので引用できないけど、趣旨については、たぶん間違いないと思う。
三島が自殺したときで、吉本が受けた衝撃も良くわかる文だったと思う。
930 :
考える名無しさん :2013/11/10(日) 00:46:49.01 0
そんで将校たちの背後には飢えた百姓たちの現実的な姿があるって話が続くのだがここらへんがのちの「大衆の原像」へのトッカカリかもしれねえ(今写経しながら思いついた)
931 :
923 :2013/11/10(日) 00:52:48.84 0
>吉本が三島を嫌いだと書いたわけじゃない。 は?
無職なのに疲れた。
横からだけど「言語にとって美とはなにか」で 金閣寺を激賞してるね。政治的立場は違っていても 同年代の天才として敬意は持ってたと思う。 吉本の主義として、少なくとも左翼がよくやる「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」 的な政治的立場が違うからすべて嫌うということはしないと思う。
吉本は自称左翼だっただけで、その言論の多くは事実上保守派だろう。 左翼から批判を受けて本人は左翼論壇憎しの人だったよw 左翼知識人を非常に口汚く罵っていた。
著書を読んでるか読んでないかすぐわかるな。
937 :
考える名無しさん :2013/11/10(日) 11:26:22.51 0
吉本の本を読まずに書き込んでも構わないとは思う。
ただの印象を書いてもいいんじゃないかな?
それが誤解なら誤解で、読んだ人が指摘すればいい。
指摘するときはちょっと面倒だけど、引用や著書の題名なんかを添えるのが番いい。
ただ、
>>935 みたいな漠然とした印象に対しては、具体的な指摘が難しいかもしれないな。
やっぱり
>>936 のように、どれでもいいから吉本の本を読んでみてね、ぐらいのことしか答えようがないのはしかたがないかな?
938 :
考える名無しさん :2013/11/10(日) 11:39:46.38 0
>>931 >>932 で読み違いと書いたのは、
>>927 で引用してくれた
>かれは嫌いながらも文士や芸術家や芸能人たちによくつきあい、わたしは嫌いだからつき
>あわないので、一度も言葉をかわしたことはなかった。
というところを、吉本は三島が嫌いだからつきあわない、と読むのは読み違いだ、という意味です。
>>935 が嘘だと書いている人こそ吉本氏の状況論説をまったく読んでいないのでは?
940 :
考える名無しさん :2013/11/10(日) 15:29:36.06 0
>>939 では、具体的に吉本のどの文章がそうなのかを指摘してみてよ。
一応補足しておくと、吉本はスターリニストを左翼とは思っていないから、それは前提にしてほしい。
941 :
考える名無しさん :2013/11/11(月) 13:02:49.92 0
日本共産党はマルクス第一主義を否定しろ。ああいう人もいましたでいいではないか。 つまりマルクスも貧乏人の味方だったのですと言うこと。ここでドイツイデオロギーの 一節を見たがあんなので党員教育をやっていると、人材が逃げていってしまうぞ。
942 :
考える名無しさん :2013/11/11(月) 13:10:07.58 0
つまりあんな翻訳を読んで分かりましたと言う人間は信用できない。
943 :
考える名無しさん :2013/11/11(月) 13:29:57.09 0
筒井康隆がコレラという作品を書いた。これを吉本が批評した。これがとことん馬鹿批評だった。 筒井康隆は反論した。返事はまだない。
945 :
考える名無しさん :2013/11/11(月) 13:42:30.41 0
疎外、止揚馬鹿サイン
>>943 具体的に書いてくれないかな?
「コレラ」のもその批評も知らないから。
948 :
考える名無しさん :2013/11/12(火) 02:23:05.26 O
共同幻想による国民の誘導は衆愚政治よりは良いと思わないか? 関東軍の暴走みたいなのは例外だと思うし.対策は講じれる訳だし
950 :
考える名無しさん :2013/11/13(水) 09:29:29.41 0
唐突で すいませんが,
http://search.yahoo.co.jp/image ここに「赤紙」と入れて検索してもらいたい。
個人と国家の関係は、法を背景とし具体的には
画面にあるような「赤紙」に書かれた指示に多くの者が従う。
「共同幻想」によって個人は現実(幻想)的に拘束される(望む者もいるだろうが)。
私は戦争とは何かを、たまに考える。
>>950 だから、共同幻想は個人の幻想と逆立する、と表現されているわけだ。
共同的な規範はあくまでもその共同的な幻想を作り上げている社会に限られる。
このことは国家中での非合法組織、強固な宗教団体、反国家組織などの存在を想定すればわかる。
それぞれの共同幻想の中で、別の強制力を持って存在する。
国家とそれと異なる共同幻想が対立したときには、多くは強制力の強いほうが勝つが、大衆の共同幻想が国家から離れていれば、逆の結果をもたらすことも珍しくはない。
これが世界中にある内乱でもあるし、革命ということでもある。
952 :
考える名無しさん :2013/11/13(水) 13:53:48.38 0
>>951 >だから、共同幻想は個人の幻想と逆立する、と表現されているわけだ。
なるほど。 以前、「共同幻想は個人の幻想と逆立する」という言葉がピンと来なかったけど、
こういう場合に、その解釈が成立つとは、 意外。
吉本さんの独創的なところは、個人と共同体とが逆立する倫理関係を持つというだけでなく、 対幻想と共同幻想とが逆立する倫理関係を持っているということを強調した点と思われ。
954 :
考える名無しさん :2013/11/13(水) 17:31:54.65 0
955 :
考える名無しさん :2013/11/14(木) 09:08:34.54 0
>>951 に書かれている事は、
吉本著作物からの引用要約? それとも吉本用語による独自な認識?
もし前者ならば、どんな本ですか。
大本、オウム真理教、連合赤軍などなどを連想。
「指原の乱」は国家と対峙するか、てか番組見てない。w
956 :
考える名無しさん :2013/11/14(木) 12:00:57.33 0
>>955 逆立がつかみにくいとすれば、あなたの共同幻想がどういうものなのかを書いてみてください。
どの著作から共同幻想という概念を受けとめたのかにも触れてもらえると説明しやすいかも知れません。
957 :
考える名無しさん :2013/11/14(木) 12:56:48.53 0
>>956 >>951 の
「共同的な規範は」から「革命ということでもある。 」までの文章を面白く感じたので、
こういう事、吉本が書いているのか、
それとも951さんが今回独自に書かれた事なのか、
ちょっと知りたかったのです。
958 :
考える名無しさん :2013/11/14(木) 13:11:40.88 0
動物園
>>957 吉本の文章を引用したわけではありません。
さがせば似たような言い回しはあるかもしれません。
たとえば「革命」については、吉本がレーニンの「国家と革命」について触れているところに近いかも知れません。
960 :
考える名無しさん :2013/11/14(木) 19:25:25.04 0
ぶれない馬鹿
961 :
考える名無しさん :2013/11/14(木) 19:27:23.61 0
図書館にない、なぜだ?
962 :
考える名無しさん :2013/11/14(木) 20:44:30.65 0
963 :
考える名無しさん :2013/11/14(木) 20:54:12.01 0
分かってるくせに、日本語に主語を 主義者の方ですか?
964 :
考える名無しさん :2013/11/14(木) 21:07:11.50 0
>>963 日本語には主語がいらないの?
なに主義者だと思うの?
965 :
考える名無しさん :2013/11/14(木) 21:23:13.04 0
日本語は必要に迫られないかぎり主語を立てなくても意味は通じる。私の経験では 英語では主語を立てないと言いたいことそのものが成立しない。スペイン語は 主語を立てなくても意味が通じる場合が多い。
966 :
考える名無しさん :2013/11/14(木) 21:59:50.28 0
ただし、日本語に主語を 運動というのは私は賛成です。 サラリーマン経験に基づいていうと、会社の文書は日本語の自然な流れを遮っても 高校生の英文和訳みたいなものでいいと思っている。
>>965 >>966 君、バカだろw
図書館にない、だけで何がわかるんだよ?
吉本の本がまったくない、共同幻想論がない、吉本全集がない、その他吉本以外のマルクスや哲学まで広げれば際限なく意味不明だw
968 :
考える名無しさん :2013/11/14(木) 23:19:20.47 0
別に君に話しかけたわけではない。
969 :
考える名無しさん :2013/11/14(木) 23:20:47.13 0
私は君に話しかけたわけではない。
吉本興行の関係者のスレ? お笑いの幻想論か、漫画にしたらおもしろそうだな
>>969 独り言なら、掲示板に書き込むことはないだろ?
さびしくてかまってほしかったんだろうが、かまってもらうためには最低限の意思疎通ができないといけない。
それがわかれば、実社会でも会話ができるようになるよ。
972 :
考える名無しさん :2013/11/14(木) 23:53:09.70 0
図書館に 吉本の本が ない、なぜだ これぐらいわからないか?
973 :
考える名無しさん :2013/11/14(木) 23:54:32.12 0
類推能力に欠ける
>>972 1冊もないのか?
それならそこは、子供図書館なんだろう。
あちこちの図書館に行ったけど、吉本の本がまったくない図書館には出くわしたことがない。
こんなのに吉本関係がそろってるのか、と驚くような街の図書館はあったけど。
「図書館に『共同幻想論』がない」ってことだと思った。
976 :
考える名無しさん :2013/11/15(金) 09:34:53.46 0
977 :
考える名無しさん :2013/11/15(金) 09:51:23.43 0
>>959 レス、どうも。
昨日だったか、レーニン「国家と革命」をネット上で探してみると、
たぶん全文と思われる量で紹介しているサイトが在りました。
ただしなぜか文字化け部分も結構あり、読む気なくしたのでリンクは止めときます。
978 :
考える名無しさん :2013/11/15(金) 13:10:27.11 0
>>977 文字化けしてないサイトもあった記憶がある。
こういうものは、原作は当然著作権がきれてるか初めから放棄されてるかのどちらかだろうから、あとは翻訳者の意向しだいだ。
学術的なものについては、アメリカなどのように翻訳を一般公開するようになるといいと思うけどね。
979 :
考える名無しさん :2013/11/16(土) 10:02:45.50 0
>>1 >1960年代ー安保闘争でブントに加担。
ブントは新左翼と呼ばれてましたよね。
新左翼も様々なんでしょうけど、
日共との主な対立点は何だったんですか?
主には六全協以前の日共武装闘争派の流れでしょうか
戦後民主主義、議会主義を欺瞞と見たわけですか?
いまさら聞けないことを聞いてみました。
>>979 一応ネットで調べてから聞いたほうが、ポイントが絞れていいんじゃないかと思う。
981 :
考える名無しさん :
2013/11/16(土) 15:44:05.16 0 >>979 これ書いた者ですが、
たまたま読んだページに書いてあったので
質問取消します。