お釈迦様の得たと言われる悟り。それに至るために
各人の経験と理論行使による論理によって、新しい考えを積み重ねていきましょう。
神の顔を認識するものこそ至高である。
世界は雑音に満ち満ちている。
それを排除するものが指向性。
雑音の哲学が悟りではないか。
>>1 >お釈迦様の得たと言われる悟り。
じゃ、お釈迦様の得た以外は悟りとは言わないってことな。
お前が定義したんだから守れよ。
一般的に言葉の中で使われる「悟り」はその言葉として使われてきた
歴史を学ぶべきであり、歴史を理解するには事象を暗記するのではなく
同じ体験と経験をすることにある。でもお前が求めているのは釈迦なわけで
釈迦にでもなれば?
>>4 『各人の経験と理論行使によって新しい考えを』と定義していますが。
あなたが何を考えてそういうことを言うかがよくわからないです。
命令されるのは嫌です。
>>5 『各人の経験と理論行使によって新しい考えを』と定義していますが。
あなたが何を考えてそういうことを言うかがよくわからないです。
命令されるのは嫌です。
>>6 貴方のようなキチガイがスレを立てて相手にしてもらうだけ幸せなんでは?
えへぃ?!5っちゃま と 6助て同一人物なのなのぅ?!ぴひひ☆
偽物は困るよね。
悟りに近づけましたか?
11 :
考える名無しさん:2012/03/04(日) 11:53:01.92 0
__
|. ● |
| ̄ ̄
人i
ノ:;;,ヒ=-;、
(~´;;;;;;;゙'‐;;;)
,i`(;;;゙'―---‐'ヾ
ヽ;;';ー--―-、'';;;;;゙)
)io。o°○o。(
r"≼⓪≽_)、〈≼⓪≽_ヽ 知弁和歌山における反動的結論に媒介する
( )○( )---,,,_ 均斉的悟性についての論及じゃな?
r ´ "ー=☵=-'` ヽ , ゙',
<(_______________________________)> / l
.,,_,f'┗━彡ミミ彡ミ ミ彡ミミ彡━┛゙i i
,,. ‐'´゙´ ,、,,‐'i彡ミミミミ .\/ ミミミ彡ミミ‐' ノ
r、__,-'´ _,,-'´_,,,.-ヽ, ,' '、 。 l i,) /-,,_
ヒ'-'ゝ. 、 ,,.-‐'',.-''"´ l'、,. 。 ,...ノ ゙'、,,_ ノソ_,/ `゙'‐,
ゝミ_,,ノ" ,'´ iヽ,`゙゙゙´ ゙゙"./~i ....::',
ト;:::.. ', i'、 ,/ノ.,ノ ..:: ゙゙ ',
,' ゙'',ソ‐-、 '、i i'‐、,_ _,,..ノ、,ィヘ,,-‐‐'"´゙i" ゙,
. ,' , ' `゙'', ´ヽ、'、 ヽ'マ'''"'‐、,,_ノ, ';:: ',
i .,' |||| ブリッ 'i i
_r' /. 人 ',. '、_
,,-‐''´ ..'゙'、 (__) f゙.. `゙'‐、__
f´__,,--‐---‐'゙ (___) `゙゙´`゙''ー----'
悟り:自分のことは自分で考えろ
全て主観と言えるので、それぞれ自分で考えてるのは当たり前だろ
ヒマ人Absalomたん
あっそうか分かったぞ悟りを開いたぞ。
開いた場所から糞思想がぶりぶり出てきたぞ
ンぎもぢいいぃぃ・・・
>>4 歴史上にあった物事の体験という追体験は、たしかに大事なことです。釈迦になりたいという私の想いも、
おっしゃるとおりです。フリーにラフに考えることと、緻密な思考をすること、両方が大事ですね。
>>13 全て主観、その通りです。ここで間違えて欲しくないのが、自分と自分のことの違いです。自分といった場合、
主観ですが、自分のことといった場合、僕の場合は特に、自分の問題ということで捉えています。
自分の問題は、自分で考えて解決するのが一番簡便であるという意味です。
「自分のこと」のつもりで言ったんだが・・・?
いやまぁ、じゃあさぁ、悟りとか哲学とか何にしても
一人で考えてたら自分に閉じこもっちゃって、偏った思考回路になっちゃう事もありえますよね
(しかも自分でそれに気づかない事も)。
だから行き詰まってると感じたときは、他人に意見を求める事も大切だと思うんだよ。
そもそも自分で考えて解決するのが一番なら何故に2ちゃんに書き込むのだろうか?とも思ったのだが。
>>16 失礼しました。なぜ2chに書くか自分なりに考えると、すべての概念が個人の中だけで形成される
訳じゃないからです。他人との関係において初めて言及できる概念があります。
個人的に、他人に答えを押し付けられた経験があるから、個人としては
>>12のような発見はびっくりするくらい
大きかったのです。他人の意見に耳を傾けること、その通りだと思います。
18 :
いわん:2012/03/07(水) 23:57:38.32 0
他人の言葉を鵜呑みにしちゃいけねぇよってことか?
他人のさまざまな言葉を考慮し、世界を広げ、その中で自分が一番楽に生きていける
安定する最善の自分のための規則を探してく、作り上げていこうってこと。かな?
しらんが、他人に答えを押し付けられるとぶっ殺したくなる!!!!
或いは、自分がそれで良いって思ってても他人に言われただけでなんか違うなって思ったり
自分の中に他人の幻影がいて、ソイツのせいでなかなか答えが出なかったり、なんのこっちゃ。
あーあーあー誰もが俺にひれ伏すようになればいいのに〜、でも俺のことが大勢に知られるのはイヤん
だって恥ずかしいんだモォーーー!
思春期かw
20 :
18:2012/03/09(金) 14:25:09.81 0
俺が厨二病なのは本当じゃん?!彼女いない暦=年齢(22)の♂でぇす★
かわいい彼女が出来れば全て解決するし、悟りも開けると思うんだよね。。。
顔はそこそこイイはずだし、空の思想も理解してるし、ロマンチストだし。美的センスも最高峰だし
俺に好意を寄せてる子もいるはずなんだけどなハァーーーーン!
積極性が足りないのか・・・メンドイから子孫は要らないと思ってるのが良くないのか
交尾はしたいんだけど、アンアンアンッ!ドラえもん生まれるまであと100年ジャストッ!!
メイド型ロボを早よ作らんかい科学者どもよ!ヤ・ク・タ・タ・ズ・ド・モ・ガ・ヨ・ッ・ッ・ッ・!
ハハハッあーこれ同級生に見られたら絶対引かれるよーやだなー。超クールキャラで通ってるもんな俺ってばヘェイ☆
そうか思春期って事は俺はまだぎゅんぎゅん成長してるという事なのか
俺すげぇぇぇぇぇ!!!!
痛い
ぎゅんぎゅん悟れ
人間は生きている間に様々な発見をする。事実をことさらに言い立てるのは、そのことを人間の間で行き渡った
意見として、現実化するためである。死の発見は大きく、様々な物事と共に、繰り返し想起する。それが、人間の
生における輪廻である。全てを忘れ去った時、人間の脳のなかに無が顕現し、涅槃に至る。
じゃあやっぱ死=悟りなのか?
生や死の恐怖は考える事(生)から生まれるからさ
そのうち全てを忘れさせる装置が開発されるかも「悟りマシーン」とか
それに死は事実じゃなくて解釈(とも)だし
でも忘れたくない悲しい出来事とかも有るから「悟りマシーン」は売れないかも。
生=執着でそれで良い、そういうもんだと親鸞(だっけ?)は言ってるし。
ココロはそうなってるから、そうしたかったのかも、宇宙が。
てか長い間書き込めなかったけどこれがアク禁なのか?巻き込まれたのかな。
すいません本当勘弁してください俺そんな変な事書いて無いでしょ。
>>25 現実というのは解釈次第であると思います。人によって違う部分に、個人という(概念)が現れて。
全てを忘れ去る瞬間を、いかに生きているうちに掴むか、その忘れるというのは、受身じゃなくても、
考えの末であってもいいと思います。
>>Absalom
なら悟りも解釈しだいだと思うよ
別にどうでも良いのかもね。自分がどう安心したいか、かな
>>27 全ての人が同時に悟るということが、起こりうるような気がするのです。悟りという理想モデルに近づくこと、
そしてそれを手にすることが、解釈によっても革命的におこるといいと思うのです。
ひとりだけの悟りというのも、さみしいものですから。いい考えは伝播するという信念があります。
ていうか「全て正しい」ともいえるからな
現実と夢は違うって言っても正しいよ。
(空と雲のたとえ話でなんかあったじゃんそんなの)
お、俺も何言ってるかよく分からんが察してくれ
それを前提でいえば
真理って言うのは自分の身近な幸福に気づく事じゃないかな?
自分の場合、歩けたり音楽聴けたり本読めたりとか、
自殺や殺人を助長するわけじゃないけど、死ねたりとか。
不幸ばっか数えてちゃダメだと、疲れるだけ。
自分に余裕が出来れば人助けもに出来るようになるしね
Absaん
と書き込みかぶった!!
言葉であーだこ−だ言ってもしゃーないな俺は
行動だ。仕事を探そう、俺は。たぶんニートは良くない・・・
ドストエフスキーは凄い良いよなー
心と世界の雑音と遊んでるって言うか、親友になってるって言うか
ああいうのに悟りを感じる
32 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2012/03/27(火) 20:35:05.94 0
闇の中で瞬く光だったお釈迦さまは、その時代性故に初めての光だった。
いま、光が世界中を行き渡って、二回目のこだまで飽和している今、
より光るのは難しいが、本当の天国が生まれうる時代に入っている。
サトリエ
全部間違いです
マジきめー
36 :
第四の親鸞:2012/03/28(水) 19:55:20.97 O
善人なをもて往生をとぐいわんや悪人をや
37 :
第四の親鸞:2012/03/28(水) 20:24:14.63 O
日蓮宗身延山久遠寺へ向かう通りには飲食店や売店土産屋などが並んでいる
わたしはあるきれいに晴れた秋の平日の日中にこの道を探索することに決めていた
寺まではいかずそこに何があるのかを知りたかった。それも朝早い時間にいって
午前中のうちに家に戻れるくらいの時間帯にいきたかった。
また晴れていなければいかなかった。わたしはそこに何かあるという直感から
それを非常に楽しみに待った
38 :
考える名無しさん:2012/03/28(水) 20:50:18.90 O
悟りって考え方には抵抗あるなぁ
脳内麻薬より、
クリエイティブであるほうが快感
>>38 それを考えているのはお前、お前だから・
どうでもいいことが気になってしょうがないなんだろ?wwww
40 :
第四の親鸞:2012/03/28(水) 21:01:18.76 O
朝早く起きてさっそく窓を開けると秋の清んだ空気を感じられたので
予定通りに車に乗り込んだ。清水から山梨に抜ける道をいき身延山へ向かって出発した
身延山につくと久遠寺まで少し距離のあるところに車を停めそこから売店を覗いていった
そこにはいろいろなものが置いてあった。「身延の軟膏」という薬や絹でできた綺麗な装飾のスカーフ
木彫りの仏像。お菓子や果物まで置いてあった。わたしは「光ってみえるもの」を
探した。それはわたしがわたし自身のものだ、またはわたしを求めているとわたし自身が
感じられる「光ってみえるもの」を探したのだ。それは意外にたくさんあった
ものはわたしに縁があると語りかけてきた。そこにある商品の原料はわたしに近いもの
であると感じられた。わたしは鮮やかな秋空のおかげで数々の商品に縁を感じることができた
そしてわたしはその場所で悪魔の実を手に入れた
41 :
第四の親鸞:2012/03/28(水) 21:08:35.96 O
昔仏陀が旅をしたというインドのルンピニーにいったことがある
そこは空気が乾燥していたが光に包まれたという点ではここ身延山も同じだった
よく晴れた秋の朝に訪れた身延山に恐ろしい悪魔の実が売られていると
わたしは家を出るとき予想できただろうか?
悪魔の実を食べてからそれが完全に消化され体の一部になって細胞となって
わたしの体の外に出るまでその実に含まれる成分はわたしにずっと語りかけていた
それは地獄だけれど必要なことだったと今は感ぜられる
悟りとか、瞑想のスレってインチキ野郎がいっぱいいておもしろいねえ。特に自分は悟ってますみたいな上から目線の人っておもしろいねえ
43 :
第四の親鸞:2012/03/28(水) 21:21:47.41 O
すべての物事は一本の線で繋がっている。そして我々はひとりひとりと無限に
どこか関係しあっている。関係がないものなどはない。人間界のなかにも
必ず繋がりはどこかにある。その繋がりを感じられるからこそ我々は人を憐れみまたは
憎しみを感ずる。
わたしは身延山でいろいろなものをみて買っていった。ある売店にきたときに
グレープフルーツが2個冷蔵庫に入っているのをみつけた。そしてわたしはこれだと確信した
思えば身延山にきた縁もそれを思いたったこともそしてここに至ったことも
この実がわたしにそうさせたのかもしれない。その実はわたしに光をもたらし
わたしに近づきたいといった。その実を食べることがどれだけわたしに必要なことだったか
グレープフルーツをみた瞬間にその実は光を放ち「光って」わたしの前に現れた
44 :
第四の親鸞:2012/03/28(水) 21:40:13.61 O
坂に暮らす人たちの家に新しい人が越してくる。そして新しい人はそこに暮らす人たちの
なかではじめての人になる。坂の人たちはその新しい他人をどのようにみているのか。
そこに受け入れられた瞬間にそこにきた新しい人は坂の人たちを知るのである
悪魔の実はわたしに坂の人たちの話を続けた。新しい人が坂の人たちに殺されるまでの話だ
何故最後に新しい人は殺されるに至ったのか?わたしは非常にショックだった
このような世界がある。坂の人たちは新しい人を殺すのだ。そこに至る道程はわからなかった
それをずっとわたしは見続けた。悪魔の実は私に語りかけた。
グレープフルーツにどうして残酷なものを知らせる成分が入ったのかはわからないが
今までみたことのない世界にわたしは入ってしまい。そこから抜け出すまでに
およそ人間のすべてをみてきたのだ。何故坂の人たちはこのようなことをするのか
わたしはわからないままなだった。人間は戦争をする。
45 :
考える名無しさん:2012/03/28(水) 22:44:22.63 O
真理(中身が無い特異点)の高みに自らを置く者は、神々(一般ピーポー)の嘲笑により罰せられる
46 :
考える名無しさん:2012/03/28(水) 22:46:45.22 O
悟った気分に酔わないでいっぱい思考実験しようよ
>>42 > 悟りとか、瞑想のスレってインチキ野郎がいっぱいいておもしろいねえ。
>特に自分は悟ってますみたいな上から目線の人っておもしろいねえ
お前の妬みにすぎない。悟りが凄いとお前が勘違いしているだけ。
単に物の捉えた事の側面の違いにすぎないのに、形而下でしか物事を理解できない
お前が、形而上を捉えられる奴に上から目線で評価されるのは必然である。
おまえが盲目なだけな。下と上の両方が理解できずに下だけ空を見ている
「地上の星」の歌詞のように、空ばかり見ているお前の目が節穴なだけ。
目をつぶらなければ見えないものを見ようともしないお前の態度な。
戦争にいって生き残る体長だった彼は悟りを覚える。
敵が戦術の強さの違いで圧倒的に強く周りの部隊はほとんど絶滅した。
生き残ったのは奇跡だと下から判断され、上からは戦略が認められ
昇進できた。部下にどうやって勝ったかの手法を説明しても彼らには
理解できなかった。
49 :
考える名無しさん:2012/03/30(金) 20:59:34.85 0
「悟りかあ。なんか全然わからないのに気になるのは何故なんだろう」
「神の声を聴きたがったり」
「核心的な問題に思えるのに」
「そうじゃない人には、どうでもいい言葉だし。一体なにを探してるの?」
「悟りだよ、さとり」
「それは、どんなこと?」
「わかんないよ」
「判んないの? それが判んないのに探す事が出来る?」
「判ってたら探さないだろ、バカか」
「結局さ、探そうとしてる自分が近づいて来るっていう仕掛けなんじゃね?w」
ある種の満足感が得られる
悟りに落ちれば無職になるだけ、
すばらしいニート生活が待っている。
いまから悟ろう、仕事とか無意味だから
>>51 そう悟りに落ちた人といえば、激しい岩山の頂上で修行するとか
滝に打たれ何年も修行するとか、
それこそ悟りそのもの。
差と理、盲目な畏怖の念に対して明確に関係を知り名前付けし
仕組みを記録する。即ち「悟り」
それは分かり得ないものを計り取ることにすぎない。
分かってしまえば、「なーんだ」「そんなことか」=勝ち取った人の感想
非常に詰まらないこと、分からないからこそ「悟り」を妬む。
そして渦中にいれば対象を知りえない。渦中にいれば全体を知りえない。
この矛盾した状況を知覚できた人に悟りは訪れる。
感情に任せて渦中を知っても、感情に流されて渦中の外からみる冷静さは得られない。
相対でありながら絶対という異なる計りの側面を得るからこそ実像が見えてくる。
生きていると同時に死ねば、生死の本質が見えてくる。
死ななければお前ら程度には分からない。いっぺん死んでこい。
お前みたいなアホが偉そうにしゃべるとむかつく
所詮人間は人間だ。神になった人間はいない。人間にとっての哲学が悟りだ。人間的ではないもの、
自然等、についての考えは悟りとは言えない。
音楽とは、感情的でないものを(無意識において)回収する、感情のゴミ箱である。
世界とは、世界にそぐわないものを(無意識において)回収する、人間的なもののゴミ箱である。
58 :
考える名無しさん:2012/04/09(月) 23:44:05.67 0
57が、判りにくいと思ったので、可能であれば別な言い方でよろしく。
>>58 音楽が流れている間、人は感情を研ぎ澄ませる。感情的でないものは、音楽の中には存在しない。
感情の構造が、音楽によって明らかになる。感情の建築。建築されざる感情、すなわち感情的でないものは、
音楽の流れる中で、次第に削ぎ落とされ、無意識の中に回収される。
そういった、しっぽを飲む蛇のようなアンビバレントな働き(感情的、感情的でない)が、音楽にはある。
認識の総体としての世界の中に、生きていて、その表象において、人間的でないものは、認識にはない。
あらゆる認識は人間的だ。出来上がってしまった世界の中に、非人間的なものは、入れない。
少なくとも定常的な世界の中には(常識というもの)。非人間的なものが、世界からの余剰として
削ぎ落とされて、世界の外を担う無意識の中に落ちる。そういった、弁別的働きが、世界と無意識には
ある。
60 :
考える名無しさん:2012/04/10(火) 12:44:54.04 0
漠然とながら連想し
イデアとアラヤ識の関係を知りたくなってるんですが、
興味の範疇であれば何か書いてもらえますか。
>>60 ヒント:定義した評価者によって関係は後天的に決まる。
その知とは、はかりごとってことだ。
>>60 イデアは個別的な概念ですよね。アラヤ識は、個別的なもの同士の関係を含む。
イデアのみで命題は構成されない。命題自体の要求する考え、その働きがアラヤ識に
重要な影響を与える点が違うと思う。
>>60 あ、そういうことじゃないのか。
アラヤ識については、概念を変更する点はほぼない。
イデアについては、かなり広いし、変更しうると思う。
イデアを認識する場合、人は何について認識しているのか。
64 :
考える名無しさん:2012/04/11(水) 02:52:55.99 0
>>61〜
>>63 ちょっと忙しかったもんで、これから夜食など。
お礼だけ言って、今日はこの辺で。では。
>イデアについては、かなり広いし、変更しうると思う。
↑これの答え。
>イデアを認識する場合、人は何について認識しているのか。
孫悟空は釈迦の弟子の1人から悟りと空を受けた孫だ
67 :
考える名無しさん:2012/04/12(木) 18:33:42.00 0
哲学板にとって、悟りとは何?
形而上学の一種として問題にならない事なのか。
現代哲学に於いてニーチェの果たした役割は大きいと思われるが、
ショーペンハウアーからの影響を考えた場合、
では、仏教精神は現代哲学にとって何であるのか。
68 :
第四の親鸞:2012/04/12(木) 22:30:18.31 O
基本的に阿頼耶識はイデアを取り込んで不完全にはうつしている
「悟り」はイデアを取り込んでいてそれは純粋であるといってよい
現代の科学的検知も「悟り」になるといっていい。しかし人間の阿頼耶識(蔵識)は
常に人間自身がイデアを歪めている。汚れたマナスになっていて
これが「悟り」から遠い煩悩を生み出し、人間の苦に他ならない
>>67 問題にしても意味がない、悟り得た人だけが意味を得られる。
何をしたからといって望んで得られるものでもない。
単に強請っているだけのやつが一番意味不明だ。
70 :
第四の親鸞:2012/04/12(木) 22:47:37.95 O
阿頼耶識の思想は現世の経験にとどまらない。過去性まで遡って蓄えられた
ものから産み出される眼耳鼻舌身意識から成る。そのなかで自分に執着しているものが
マナ識でありこの根本に全部阿頼耶識がある。阿頼耶識はその個人の根底にある内面であり、この内面がアートマンであり
アートマンは個人の外にある全宇宙(ブラフマン)に繋がっている。つまりは悟性のある観念論は
西洋では個のなかにとどまるが東洋のインド思想や仏教思想では全宇宙と繋がっていて
それを個人はみているのである
71 :
考える名無しさん:2012/04/13(金) 17:56:08.74 0
阿頼耶識って宇宙論においてどの形態と対応するの?
72 :
考える名無しさん:2012/04/13(金) 19:11:26.38 0
>>70 梵我一如でしたっけ。
仏教ではアートマンという概念が無いと記憶しているのですが、
私の勘違いかもしれません。
73 :
第四の親鸞:2012/04/13(金) 19:55:42.40 O
>>72 仏教の縁起説では我(アートマン)は否定してますな
ただいろんな説がありんす。アートマン=仏性と訳す向きもあります
74 :
第四の親鸞:2012/04/13(金) 20:21:08.75 O
最近は駄目ですな。なにも自分のなかから出てこないでありんす。いい状態ではないですな
ただ悪い状態でもない。
アートマン、芸術家のことか?
自然の多様性はシステムに組み込まれるか。自然の目的は統一的理解が可能か。
人間の多様性はない。自然に依る文化があるのみである。人間が一つの大きな生命である。
人間の社会のシステム性は、これによる。とすれば、悟りが得難いものであることは、
悟りが究極の哲学であること、すなわち、人間の目的であり、生命の目的であるということである。
自然のシステムの中に生きているシステムである人間社会は、自然の外に置いてみることで
目的が見えてくる。その目的とは、アートマン?
人間の自然観は、ファッションとして現れる。言語観は思想として形を持つ。
ファッションと思想は世界観の中でつながりを持つ。両方とも観、すなわち空間である。
>悟りが究極の哲学であること
哲学を究極化したら、それは既に哲学ではないですよ。
哲学の究極が生む結果というなら分かりますが。
哲学では悟り得ることはできません、得られるとしたら哲学を止めた
とき悟りがやってくる。哲学をちょっとした程度で止めても悟りは
やってきません。そういうこと。
>>78 少し疑問に思ったのが、哲学をやめるというのは、思考停止とは違うのか、ということ。
なぜそんなにうまい具合に、哲学と悟りが対立するような構造になっているんでしょうか。
考えるということは、すべからく?
80 :
考える名無しさん:2012/04/14(土) 13:32:22.47 0
仮に瞑想・止観とか言っても、そうそう思考は停止しないけどね、俺の場合。
全宇宙との一体感とか在りそうだけど、
そりゃそうだ、宇宙内部なんだもの。
思惟の停止は、分別という幻想が無くなるのだろうから、
あれ? ってなるかもね。 知らないけどw
>>80 停止はきっかけにすぎない。
>>79 思考停止で思考が止まるの?一度走り始めたものは何もしなくても
その走りの続きを意思とは無関係に(ry
地溝定氏
83 :
考える名無しさん:2012/04/16(月) 12:13:07.60 0
82のせいで、定氏しちゃいましたね。w
agenaks
同等による空間的秩序のうち、等価交換による同等
=単純な上下関係だけの構造を持つ順序である
善のイデア=『小自在天』は一般の数量として、
力量の大小を内包に依り測量する『増長天』
=意志として取捨選択する価値評価尺度と、
含有における完全性価値評価尺度『月天』
=無限等の集合より情報取得する操作、
といった、狭い意味での力や善に対し、
広い意味で力であり善であるという
上位の価値を持つ価値尺度として
『大自在天』=釈尊版虚空会の
『風大:無辺行菩薩』として;これら仏教ないし啓示宗教等
アナトリア古星座=虚空会=新象徴体系でいうこの件、
=旧象徴体系でいう亥や寅が分類されている水行が
土行に分類される戊=坤為地を元とする件だが。
続く
十二支での亥=十二宮での白羊宮=増長天において、
これが分類されている水行=風大の「処理の軽さ」は
数量的単純化=単純上下関係への情報取捨により
小自在天=等価交換順序:力学的ポテンシャルの
空間を実現している数学的対称性であり、また、
(相対性原理で)=力学法則と保証されている
「物理空間での必然的振る舞いの予測」用の
変化交換基準である水行=風大諸機能が、
心理空間での対自ないし身内集団用の
変換基準となる評価尺度「情」としても
振る舞うデフォルト分類関係において、もし本当に価値的な
上下関係がいつも実現されているなら、上位分類枠である
水行=風大だけがあれば良いはずで、それによる問題、
例えば:それでは処理不可能な事態を表す情である
「恐怖」などは発生しない(精神分裂病も「ない」)
はずだが、もちろんそうなっていないわけだ。
亥の大分類である乗算系=水行=風大だけでなく、
亥の小分類である加算系=火行=仏教および
ユダヤ教およびキリスト教までの火大であり
イスラム教や錬金術以降での「光」、まで、
つまり、数量的に単純化した扱いの可能性だけでなく、
加え合わせる操作の不可能性=禁止については?
内包で大小を測量する亥の操作は、内外を定める
限界としての十干の甲=虚空会の日天で止める
限りにおいて、意志=取捨選択の為の尺度なら
より下位の内包関係を切り捨てても許される。
例えれば1>0.9・・・の・・・に何が来ても、
>が=になったり<になる心配は要らない、ということ。
危急に生死に関係する状況で単純化し評価処理を
「軽く」している状況で、「一般数量」が「力量」より
「重い」情報処理系なら、それは「劣っている」。
加算系操作禁止位、払って良い「代価」かと。
父・母・子の「色相」情報成分を「中和」して得られる
白羊宮=亥(十二支としては、本来=豚らしい)の
実例として核家族=両親と子だけから成る家族、
『〜の家の「お父さん」「お母さん」「お子さん」』
といった(同等として置き換えられる)呼称、
などがあって、何々集団の典型としての
家=血縁共同体・その流用国家等、「内包において」
内外のコトワリに従い賞罰を定め他と区別した上で
集団の規模(スケール)で数量的に単純化される
グループ、というのがあって、“同質性”による
相互協力といった社会的機能をも実現する。
善のイデア=広義の善が狭義の力と善の上位なら
それが広義の力でもある、ここまでは良いだろう。
しかし、役割分担による“同質性”が実現しない
集団は同質集団で成立する等価交換価値を
効果対費用の評価尺度で超える事がある。 (稀に?)
体調が悪いので特性に関する含有関係をはしょります、
ごめんなさい、まぁ力と同様の状況があるわけです。
小自在天は大自在天の「部分(パーツ)」ですが、
パーツだからこそ他の事に使っても良いのです。
広義の善=広義の力=大自在天の部品から
小自在天が開放される事、その分類枠から
広義の善に「不当に」従う狭義の善:無明
広義の力に以下同様の狭義の力:天魔
などが開放されることでもありますが、この自由により
「今までの使い方では実現できた価値」を失わずに
「新しい使い方で実現できる価値」という「上位の」
価値が生まれて来る、しかしそれには、これらの
分類の元になっている「他との関係」において
実現可能な全部で七種類の「役割」の枠に、
デフォルトの五行=五大とは違った新しい「約束」をして
新使用法と価値の実現を情=学習系に証明しないと。(終
単純コピーの長蛇の列の「善〜蛇」=一般数量の
デフォルト役割の「五行分類」から開放された
力量=なわばりの広さの保証、の働きに、
人類共通最優位機能系統である金行、
=仏教・創世記等古めの象徴の地大
イスラムや錬金術での「冷たい水」、ようするに
容器フレーム=情報カプセル化があります。
古代には?嗅覚連合野=前頭葉・辺縁系
(哺乳類が優れるが人類で特に発展)が
主役だった機能系統だと五行体系では
主張していますが、白虎=空白空虚 ※=チェシャ猫
=情報隠蔽(「カプセル化」)機能は、
オブジェクト指向プログラミング等での抽象化でも
最も成功している「使い方」ですが、このときの
「容器内包量」用には亥=力量が守っている
約束とそれが保証する使い方があれば良、・・ぱた(体力切れた
91 :
考える名無しさん:2012/04/17(火) 12:20:32.74 0
使われている言葉の相当量を検索したいと思います。(興味在るという事です)
できれば入門篇的に幾つかサイトやページをリンクしてもらえると助かるのですが。
体調良い時に、ぜひ。
>>90 応援しています。続きはオカルト板でお願い。
サッダルマ・プンダリーカ・スートラ
94 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2012/04/22(日) 21:09:49.01 0
キリストは苦しみをひとり背負った。釈迦は無意味な世界に意味を見出した。
負を正にすること、その間のつながりを解き明かすこと、そういった哲学は大事だと思う。
観点の提示のみではなく、それが持つ意味さえ変えてしまうこと、最後まで考え抜くこと(あるいは体現すること)。
解釈にすぎない。
人間は感情に隷属している。なぜなら、理性の限界が感情として現れるからである。感情的な意見は、
理性を欠いているため、合理的連絡が不可能である。
だが言葉ありき。
98 :
考える名無しさん:2012/04/23(月) 00:52:16.68 0
>サッダルマ・プンダリーカ・スートラ
いいヒントに成りました。
ところで、仏典というのは膨大な量に思え私の場合、各入口にさえ辿れないで居ます。
釈尊が説かれた時代以降に膨らんだ観念群(シャカに先行し背景に在るインド哲学やヒンドゥー教含む)
とさえ思えてしまうのですが、
シャカの教えに近いと一般に言われるものは何というものなんでしょう?
それとも、ただただ各人の瞑想あるのみか。
シャカなんかどうでもいいから
てめえが経典こしらえるくらいの気合いで瞑想しろ
100 :
考える名無しさん:2012/04/23(月) 02:13:50.34 0
>>99 説教? コメント、気合い入れ杉。w 私のこと構わなくていいからさ
101 :
考える名無しさん:2012/04/23(月) 03:53:38.80 O
>>98 中村元「原始仏教」がおすすめ
そこらへんのことが書かれてる
102 :
考える名無しさん:2012/04/23(月) 04:18:12.11 O
サッダルマ・プンダリーカ・スートラは日本語で妙法蓮華経
菩提薩多の薩多(サッダ)とダルマ(法=仏法)の音写で妙法と訳している
妙法とはその名の通り一筋縄ではいかない複雑な物事の原理のことで
法とは物事の原理のことではあるが複雑に絡みあった側面を悉く悟った者を
仏といい。仏が悟った法を仏法という。サッダルマ・プンダリーカ・スートラは
当然創価や顕正会など悪名高い日蓮正宗系のバイブルではあるが
経典の王とも言われている。禅宗などでもその重責度は高く特に妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二五
いわゆる観音経は有名
103 :
考える名無しさん:2012/04/23(月) 04:58:14.06 0
人其々考え方は違うし色々経験してその時悟ったと感じたら悟りを開いたと言えると思います。
要は十人十色。
そして哲学の問に答えは無いと思う。
104 :
考える名無しさん:2012/04/23(月) 11:11:44.70 0
105 :
十二使鳥:2012/04/23(月) 11:23:08.17 0
>>1 >新しい考えを積み重ねていきましょう。
逆だ!ば〜か。
しいて言えば、
新しい考えは捨て去り、根源に向かうのが悟りだ。
>>105 たしかに、目を閉じて解脱の禅定を得られた釈迦は、関係性などが主な新しい考えを積み重ねることではその
境地に到達できないかもしれません。しかし、私は釈迦のみに興味があるのではなく、現代における悟りの
意義を新たに打ち立てたいわけです。解脱の境地に遊ぶ、そのことは憧れですが、私のやりたいことは
自分の得た苦しみの意味を極めたいということで、そのための我田引水として悟りの周辺を借りている
わけなんです。
万物の存在は一である。すべての物事は同じもの。表面の違いによって、区別することから差別が生まれる。
すべてがたった一つの存在で覆われることについて、統合の意味を考えるべきである。個人は二人になることはない。
つまり、万象は、ひとつの概念によって代替される。「万物」や「存在」といったふうに。
110 :
十二使鳥:2012/04/23(月) 14:53:48.93 0
>>106???
ま、本物でも偽物でもどっちでもいいけど。
それより何言ってるのか解らん。
我田引水???
意味が分からなくて検索しちゃったじゃないか。
悟るよりも前に、もっと解りやすくカキコするように努めることだな。
哲房は難しい言葉を好みがちだが、釈迦が実在していたと仮定して、
釈迦が難しい言葉で説法をしたと思うか?
ちなみに、俺も「難しい」と言われることもあるけどな。
まず日本語で説明できるようになる練習をしましょう。
翻訳ソフトがお手上げになるような表現は社会で通じません。
112 :
考える名無しさん:2012/04/24(火) 01:08:13.43 0
その昔、ラジニーシって居たでしょ?
ふと思い出して動画見たけど、本で読んだ時の印象と違い、
ゆっくりとした喋り方で眠くなってしまった。いい内容ではあったけど。
115 :
十二使鳥:2012/04/24(火) 15:26:58.54 0
>>113 何が見苦しいのかよく解らないが・・・
見苦しかろうと、見苦しくなかろうと
解らないものは、解らない。
ただそれだけだ。
そんでもって解らないじゃカキコした意味もなくなるから
どうせカキコするなら解りやすくカキコするに越したことはない。
ってのも当然だと
思うがな。
教科書を読んでも
>解らないものは、解らない。
>ただそれだけだ。
と先生に文句を垂れる偉いお子様。
117 :
十二使鳥:2012/04/25(水) 02:19:24.53 0
まづは遊びまくること
119 :
十二使鳥:2012/04/25(水) 21:06:43.05 0
>>118 働かない奴はシネ。お前に生きる価値などない。
何故十二指腸はそういうこと言う
偽物じゃね?本物はもっと酷いよ。
十二使鳥は知っているけど嘘など1度も付いたことはないし、
神のように神秘で、仏のような真心をもつ偉大な人だよ。
124 :
十二使鳥:2012/04/26(木) 07:50:57.68 0
俺ってこんなに有名だったか?
知る人ぞ知る十二使鳥のつもりだったのに・・・
ま、適当なこと言ってる奴もいるだろうな。
125 :
考える名無しさん:2012/04/26(木) 10:22:21.30 0
悟るっていうのは、無我の境地に達するってことでしょ?
ほんとに悟ったら、他人の助けなしで生きていけなくなるよね
126 :
考える名無しさん:2012/04/26(木) 14:43:13.44 0
>>125 日本で言えば、宗教法人の教祖に当たるんじゃないかな?(例え悪いかもしれんが)
教祖が人生やら哲学的な悩みやらに対応することで、信者がその生活を支える。みたいな
(弟子みたいな人がマネージャー役やると思うけど)
大学教授が社会に果たす役割の宗教バージョンと言えそう。
あと、大物政治家の相談役に禅宗の坊さんとか宗教色ある人物多いんじゃないの。
悟り云々は別にしても。
127 :
十二使鳥:2012/04/26(木) 16:55:28.91 0
で〜、
知ってる人もいるだろうが、俺は悟ったのだが・・・
何から話そうか・・・
俺は真理に到達して、悟り。だったわけだが、このことを厳密に言うと
真理=悟り
ではない。というのも真理はある程度教えることができるのだが、
悟り。というものは教えることのできないものなのである。
実は悟りとは、熱い、痛いといった感覚的なものなのだ。
もちろんどのように痛いかは言えることはできるが、
結局は他人の痛さは解らないものである。
128 :
十二使鳥:2012/04/26(木) 17:15:14.26 0
真理に到達し、
解った!解ったぞーーーーーー!!!
という大きな確信を得、
そこから思考は一気に急加速する。
この時の状況は手塚治虫のブッタで悟ったとき
まんま、であった。
10分程浮かれていたな。
129 :
十二使鳥:2012/04/26(木) 17:48:17.74 0
130 :
無色:2012/04/26(木) 17:53:34.19 0
生きているといろいろな体験がある。あらゆる現象は時々刻々と変化生滅し、片時もとどまることなく常に現在は移り変わっている。
生きていると言う流動的状態はけっして捉えられることはない。だからこそ日々の体験にとらわれることなく、いつでも新鮮に、瞬間瞬間に変貌しながらも、筋を貫きながら、現在に取り組みたいな。
悟りにしたってある種の体験だ。悟りってなにがしらんが、悟っても光明を得ても、それに捉われず、日々自分の立ち位置を自覚し、やることを淡々とやり続けることが大事じゃないかな。
131 :
十二使鳥:2012/04/26(木) 18:28:46.34 0
十年位前か・・・
真理=悟り
とカキコした"かも"しれないが、ここに訂正しておく。
自己紹介が上手なのですね。
言語は遊びだ。言葉にしがたい難しいことを考えるのも結構だが、それだけでは沸騰してしまう。
遊び心が健全である。
遊び心とは可能性を閉じる呪縛的なものではなく
可能性を開く非論理的な要素を含むものだろう。
135 :
考える名無しさん:2012/04/28(土) 15:10:41.25 0
136 :
第四の親鸞:2012/04/28(土) 19:25:27.94 O
ヨーガ・スートラとクンダリーニについての本を読んでみなさいよ
>本を読んでみなさいよ
何かと本を読ませたがるのは本の意味すら理解できていない馬鹿
138 :
考える名無しさん:2012/04/29(日) 12:54:21.44 O
考えないのが大事なのか?
一つの思考にとどまらないのが大事なのか?
すべて大事やで
140 :
考える名無しさん:2012/04/29(日) 15:38:22.71 0
このスレに対し思うこと。
「まさか悟りというものが無いなんてことないよね?」
「強固な幻想とでも?」
「悟りは一般には判らないものなのに、どうして言葉として割と使われるんだろう。
共同的無意識とかって、どこまで判るもんだろ」
「ある人達にとっては、ひとつの予感として在るんだろうね」
「まるで人類史の初頭から悩まし続けて来たかのように思える難問」
「思考の強風の中心、台風の目のようにポッカリと世界が晴れ渡る時。以前と同じ風景であるのに
束の間、光量の違う風景」
「あんたの個人的なイメージだろ、それは」
「そうね。ところで広大な宇宙史の中で、これら記号群(文章) 続く
>>140 まず自分で考えろ。
>>138 考えないのが大事なわけないだろ、考えた抜いた奴だけ考えないという
呼吸が必要なだけな。考えなど突きつければ暴走し混沌に至る、
1つの思考にとどまるわけねぇ、考えないのと同じな。
142 :
考える名無しさん:2012/04/29(日) 18:18:30.08 0
>>141 >まず自分で考えろ。
考えてる事を書いたのだが。 あんたの書いた事が意味不明。
>このスレに対し思うこと。
と在るのは、
>>1に対し思うこと。 と書き換えてもよい。
思うだけか。
念は凄いわ
145 :
第四の親鸞:2012/04/30(月) 07:27:34.64 O
遠き春
146 :
考える名無しさん:2012/04/30(月) 10:14:27.66 0
>>143 思ったり考えたりするだけだよ。 あんたと違わないだろ?w
147 :
考える名無しさん:2012/04/30(月) 13:56:33.90 0
以前、日本IBMの研修会場に超越瞑想って書いてあったけど、アメリカでも
そういうのやってたのかな。
コンピュータと東洋哲学(もしくは精神世界)には何か親和性でも?
148 :
十二使鳥:2012/04/30(月) 18:39:45.43 0
うそはいけない。
150 :
考える名無しさん:2012/05/01(火) 02:09:03.68 0
151 :
十二使鳥:2012/05/01(火) 09:42:26.86 0
釈迦の前にも仏陀(悟りを得た人)はいたのである。
その先代仏陀はたまたま苦行をして悟りを得て、
苦行をすれば悟りが得られるとし、釈迦の時代では苦行が広まった。
だが釈迦は苦行など意味は無い。と否定し、瞑想によりたまたま
悟りを得ることができたのである。
現在では瞑想をすれば悟りが得られると考える輩が主流だが、
俺(悟りを得た)は瞑想などしなかった。頻繁にやっていたことと言えば、
センズリぐらいなものである。
もちろんセンズリの最中に悟った訳ではないが、、、、
釈迦の否定したのは”苦行”というよりも”形”だったのだろう。
痩せ我慢ちんだれであり 人生先細りである
たんなる都合の良い解釈と神話の類(仏話)にすぎない。
信じるから本当だと伝承される。
なぜ人間は神の観念を持つのか。神が完全な存在であり、その部分としての人間が持つ観念は不完全であるだろう。
しかし、神という言葉は完全性を特徴として持つはずであるから、言葉の不完全性をおぎなう観念の即物性において、
神の観念の完全性が思惟可能なのであろうか。こうして生きている我々が真理や神といった、極端に超越的な
存在を考えられるということは、神の偶像崇拝が禁止されるという事情にも、適合する。言葉は、神を記すためにあるのではなく、
神は祈りによって迎えられる。
心は育てるものだ。固有のものじゃないだろう。誰々の心、と言った場合、とくに個性は主張されない。
しかし、心は数量化できないものだ。それはどんな言葉によっても描けない。
157 :
考える名無しさん:2012/05/02(水) 00:52:25.82 0
>>154 >なぜ人間は神の観念を持つのか。
と在るのは、
「なぜ一部の人間は神の観念を持つのか。」
かと思います。(勿論そんな事は先刻承知なんでしょうけど)
私の場合は、神の観念も持つし無神論的宇宙観の中にもいる。論理矛盾なのか良く判らない。
>>157 一部の人間しか神の観念を持たないということは、神の観念が生得的ではないこと、すなわち、神は
どこかで出合わなければならないものであるといえます。また、無神論的宇宙と神との矛盾を持つことは、
神が個人の中にはいないこと、すなわち、人間の中には神がいないことを示しているのではないでしょうか。
以心伝心などといったことは、難しすぎる。
たとえば、神は何でも知っていて、私の全ては神の決める運命のもとにあるなどといった考えを
抱きがちだが、神は私のことなど何も知らず、神に対してなんとか自分を分かってもらうよう努力
しなければならない。世界の持つメッセージを不断に聞き取ろうとしなければならない。
神の知恵とは智慧のことである。仏も同じ。
神が知っているのではなく、主語である神とは人間が作り出した
偶像にすぎない。
神が運命を決めるのではなく運命が決まるのは時間が経過するという
原理にすぎない。決まらない運命があるなら、それは未来が存在しえ
ないという原理を後付してみるしかなかろう。
神を主語にするかぎり、神が何かなど分かるはずもない。
神がいないとするなら神を信じる者の正義に力が無かった事が確定
しただけだろう。無力だ、タイムアップ
161 :
十二使鳥:2012/05/03(木) 15:24:13.98 0
人間が神だの仏だの信じたところで、
真実からは遠のくばかりだ。
良いように美化するだけだからな。
しかしながら真実は良いも悪いも真実である。
その両方を受け入れなければならないことだ。
たまたま俺は仏になった(悟った)訳だが、
もちろん仏を信じていたわけではない。
悟りへ近づくなら十二使鳥のような屁理屈を言って俺正義を気取るのでは
なく涅槃や、解脱をwikiで読んでくるのをお勧めする。
>たまたま俺は仏になった(悟った)訳だが
悟ったという奴ほど悟っていない、半島人の理屈である。
悟りなど何の意味もなく口にして主張するのは悟りを素晴らしい
何かと思い込んでいる憧れと達成できない妬みにすぎない。
つまり同でもよいという状態になれないなら情欲の支配下に
すぎない。多重人格でもない人が情欲と悟りを同時に得るなど
ありえないからだ。十二使鳥が精神分裂症なら前言撤回するけどね。
163 :
十二使鳥:2012/05/03(木) 21:44:33.68 0
>>162 なんていうか・・・突っ込みどころ満載だな。
往々にしてこっちの正義はあっちの悪。
そんなことは百も承知の俺が正義を気取る訳がない。
それに俺はこの板の住人に、おまえらはアホだ。バカだ。
オカメチンコだ。うんこタレだ。と言っている身だぞ。
・・・ま、これは悪気があって言っている訳では無い。
単なる事実なだけだ。頭のいい俺から見れば当然なこと、
キリストはこのことを”迷える子羊”と言ったとか言わなかったとか。
バカも迷える子羊も同じことなのに、こう言うと反感を持たないんだよなぁ・・・
だから世間はバカ(迷える子羊)なんだよ。
164 :
十二使鳥:2012/05/03(木) 22:13:22.81 0
165 :
十二使鳥:2012/05/03(木) 22:23:59.92 0
>>162 >情欲と悟りを同時に得るなどありえないからだ
つまり悟りとは”情欲を断ち切ること”とでも思っているのか?
そんな人間はいねーよ。バーーーカ。
世の中、真実ではないことが満ち溢れている。
俺でも騙されることはよくあることだ。
おまいもしっかりそのことを覚えておくことだな。
僕だけかもしれないけど、悪い気持ちになった時、人を思い浮かべて自分が思っているわけじゃないと、
他人と違うという思い違いをしてしまう。しかし、他人を思い浮かべてやり過ごした気持ちは、
ほんとうに自分が思惟したことであり、その原因は自分にある。そういった逃げの気持ちをなくしていきたい。
過去の想起には必ず何らかの原因がある。過去と記憶は関連付けられている。過去に生きることはしたくない、
時間の無駄だから、何かの解決をしたい、そう言う気持ちが多ければ多いほど煩悩も多い。
主観的には語らないという意志であっても、客観的に還元すれば語り得ないということになる。
従って、語り得ないという事態に陥った個人は、沈黙という最後の砦に守られている。
沈黙に種類があれば、それは他の人間と区別されるため、自由の範囲を広げられるが、
そうではなく、すべての沈黙はただひとつの事態を指す。
従って、最後の悟りは沈黙の中に存在する。沈黙において自足した人間は悟った人間である。
何一つ言う必要はない。そして、いかに雄弁であるかがこの境地では問われない。すなわち悟りの状態だ。
十二使鳥が感情むき出しで笑ったw
精神分裂症とは酷いな。だけど真実を導いたのなら発狂するだろうね。
173 :
十二使鳥:2012/05/04(金) 09:40:38.30 0
チョロチョロしているので、ついつい不覚にも見てしまうのだが、
相も変わらず、Absalom ◆owNN8RDlXoは何を言っているのか解らん。
それでも、今回は”沈黙”という言葉を見つけたのでレスをしてみる。
昔、滅多に行かぬ図書館に調べものをしに行った際、
『沈黙は嘘』
という題名の本をあるのを目にしたのだが、。
「全くその通り!!!」
で、終わってしまったのだ。
俺はその本を手に取ることさえなかったのである。
174 :
十二使鳥:2012/05/04(金) 10:04:27.50 0
実生活において、自分の思っていること何でもかんでも言う。
ということはなかなかできないものである。
嘘の嫌いな俺でさえ、自分の言いたいことを押し殺し、
沈黙する。ということはよくあることなのだ。
そこに本当の俺を表せない俺に葛藤が生ずるのである。
実生活では俺もしたくもい沈黙をする時がある。が、せめて、
せめてネットではそういうものに縛られることなく、
もっと自由にありたい。そう思う。
175 :
十二使鳥:2012/05/04(金) 10:34:29.83 0
>>170 Absalom ◆owNN8RDlXoはなぜ
>"最後の悟りは沈黙の中に存在する"
などと訳の解らんことを言っているのだろうか?
流れから考えられることと言えば俺が
>>164で、
”でも、真に悟った人間はなんて言うのかな?”
の流れに沿っているような、いないような・・・
とにかく、おまえの言っていることは俺には解らない。
だーかーら、あんまりチョロチョロするな!!!
・・・と、いいたいところだがお前のスレかここは。
ならしゃーない。
俺がこともあろうか糞スレに入っただけのことだな。
一直線の上の同じペースの時間という思い込みが、現代の人々に強く持たれている。しかし、因明は絡まりあった
複雑なものであり、直前のものが直後のことを決めるということもないだろう。因果を自由に認識できれば、
世界についての最高の知恵をもったことにならないだろうか。
四諦もしらない十二使鳥とか糞だから。
178 :
考える名無しさん:2012/05/04(金) 22:23:06.65 0
四諦とか俺もしらない。普通しらないだろ。
なんて読むの?
180 :
十二使鳥:2012/05/05(土) 10:09:01.63 0
>>179 さぁ、何て読むんだろうな。してい、かな?よんてい、かな?
ま、今の時代、分からなければ大抵のことはすぐに調べれる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E8%AB%A6 ということだそうだ。
そしてパッと見て目に入るのがこれだな。
苦諦:苦という真理
集諦:苦の原因という真理
滅諦:苦の滅という真理
道諦:苦の滅を実現する道という真理
これだけで四諦というものが(もしくはこの解説が)いい加減なもの
ということが解る。
なぜならば真理というものは一つしかないんだよ。
しいてそれを呼ぶとしたら”宇宙”の真理(この世の真理)だな。
>そしてパッと見て目に入るのがこれだな。
一部だけ見て全体を評価しそれが全てだと思う合理的思考は貴方の才である。
183 :
考える名無しさん:2012/05/06(日) 12:49:35.57 0
ちなみに、
>>180 に在る、
>苦という真理
というのは、普通に使われる「苦しい」とかの「苦」ではないらしく、
仏教では「無常」を指すらしいですね。
一切が移り行くので、思う様には成らない。それが個人(人間)にとって善いことでも悪いことでも。
現象宇宙は常に変化し、その解釈もまた常ならず。
一部に、神を「ありてあるもの」とする観念があると聞きますが類似性を感じます。
184 :
考える名無しさん:2012/05/06(日) 12:57:09.04 0
以前、
>「なぜ一部の人間は神の観念を持つのか。」
と書いたのですが、念のため言えば
一部と謂えども一神・多神で数十億人規模かとは思います。
185 :
十二使鳥:2012/05/06(日) 16:15:26.68 0
>>182 俺に才があるのは認めるけど、今回のはたまたまだ。
”真理”にはめっぽう強いからな、俺は。
あと、細かいことになるけど・・・
>"一部だけ見て"としているけど。
これって確かに”文”の一部ではあるが
苦諦:苦という真理
集諦:苦の原因という真理
滅諦:苦の滅という真理
道諦:苦の滅を実現する道という真理
”内容的”には、ほぼ全体を示していると言ってもいいものだな。
皮肉が理解できない奴って糖質
苦諦:苦という真理
集諦:苦の原因という真理
滅諦:苦の滅という真理
道諦:苦の滅を実現する道という真理
これをみて分かると断言する馬鹿って結構いるんだよね。感情論にすぎない。
188 :
考える名無しさん:2012/05/07(月) 07:30:36.28 0
てか、割と感情的だよね187の旦那は。w
迷わない感情表現は感情論であらず。
190 :
考える名無しさん:2012/05/07(月) 18:45:36.29 0
迷う感情表現って何だろ?
葛藤とその外的な現れの全て?
静止し揺れず変化が起こらない感情など人の感情ではない。
変化そのものは迷いではない。
だが心が動揺するのは迷いだな。
意思が関与すればそれは不正の働きである。
自分が成すのではなく、必然性から成されるのである。
歪めた力は別の形でもとの力とバランスを通そうと力の根源に跳ね返ってくる。
197 :
考える名無しさん:2012/05/10(木) 16:38:52.98 0
198 :
考える名無しさん:2012/05/10(木) 20:04:04.65 O
陰(柔)と陽(剛)の相対的力関係
→それらは空間に対してはどうなる?
宇宙論における空間論
ちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちん
ちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちん
ちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちん
ちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちん
ちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちん
ちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちん
ちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちん
母親 PTSD 蜘蛛まっか出血で左半身不自由 おそらくアスペ
父親 アル中 借金有り
母方祖母 統合失調症
母方叔父 元ひきこもり
父方祖母 自殺
父方祖父 葬式で暴れだしたりする基地外
父方叔父 アル中で体がまっ黄色になって死亡
俺 人格障害、統合失調症、アスペルガー、境界例、知的障害、2ちゃん廃人、顔面奇形、友達ゼロ、引きこもり50代、シャブ中
現在 ナマポ
ご乱心w
203 :
考える名無しさん:2012/05/12(土) 02:46:08.02 0
>>200 「ちん」、という文字並んでいるの見て
すっかり読む気力無くしてしまったのですが w
>>201 「父 母」、という文字並んでいるの見て
すっかり読む気力無くしてしまったのですが、
母親 PTSD 蜘蛛まっか出血で左半身不自由 おそらくアスペ
父親 アル中 借金有り
母方祖母 統合失調症
母方叔父 元ひきこもり
父方祖母 自殺
父方祖父 葬式で暴れだしたりする基地外
父方叔父 アル中で体がまっ黄色になって死亡
俺 人格障害、統合失調症、アスペルガー、境界例、知的障害、2ちゃん廃人、顔面奇形、友達ゼロ、引きこもり50代、シャブ中
現在 ナマポ
母親 PTSD 蜘蛛まっか出血で左半身不自由 おそらくアスペ
父親 アル中 借金有り
母方祖母 統合失調症
母方叔父 元ひきこもり
父方祖母 自殺
父方祖父 葬式で暴れだしたりする基地外
父方叔父 アル中で体がまっ黄色になって死亡
俺 人格障害、統合失調症、アスペルガー、境界例、知的障害、2ちゃん廃人、顔面奇形、友達ゼロ、引きこもり50代、シャブ中
現在 ナマポ
>>205とそっくり似てる人と2〜3週間前、お話をしました
彼の救いはドラムとか たたく事、つまり音楽、顔面奇形等そっくり
アンタではないかと疑うw
母親 PTSD 蜘蛛まっか出血で左半身不自由 おそらくアスペ
父親 アル中 借金有り
母方祖母 統合失調症
母方叔父 元ひきこもり
父方祖母 自殺
父方祖父 葬式で暴れだしたりする基地外
父方叔父 アル中で体がまっ黄色になって死亡
俺 人格障害、統合失調症、アスペルガー、境界例、知的障害、2ちゃん廃人、顔面奇形、友達ゼロ、引きこもり50代、シャブ中
現在 ナマポ
さてとアンタでは無い様なので悟りに近ずく為には沈黙するかw
母親 PTSD 蜘蛛まっか出血で左半身不自由 おそらくアスペ
父親 アル中 借金有り
母方祖母 統合失調症
母方叔父 元ひきこもり
父方祖母 自殺
父方祖父 葬式で暴れだしたりする基地外
父方叔父 アル中で体がまっ黄色になって死亡
俺 人格障害、統合失調症、アスペルガー、境界例、知的障害、2ちゃん廃人、顔面奇形、友達ゼロ、引きこもり50代、シャブ中
現在 ナマポ
さてとアンタでは無い様なので悟りに近ずく為には沈黙するかw
211 :
208:2012/05/17(木) 11:45:20.42 0
212 :
考える名無しさん:2012/05/19(土) 13:53:54.92 0
母親 PTSD 蜘蛛まっか出血で左半身不自由 おそらくアスペ
父親 アル中 借金有り
母方祖母 統合失調症
母方叔父 元ひきこもり
父方祖母 自殺
父方祖父 葬式で暴れだしたりする基地外
父方叔父 アル中で体がまっ黄色になって死亡
俺 人格障害、統合失調症、アスペルガー、境界例、知的障害、2ちゃん廃人、顔面奇形、友達ゼロ、引きこもり50代、シャブ中
現在 ナマポ
人生悟ると自分以外の事がどうでもよくなるしなぁ
悟ってるのに自分のことはどうでもよくないんだw
216 :
考える名無しさん:2012/05/31(木) 23:38:29.97 0
悟りとは左右の大脳半球を協調して使えるようになる事だよ。
そのためには片方の半球を無意識に抑制している半球抑制という現象をコントロールしなければいけない。
人は喜怒哀楽をコントロールして生きているけども、興奮系の喜=思考・怒=本能・哀=情動の機能についてはなりゆきで無意識に鍛える事ができるのだが、
楽(「楽しい」という意味ではなく「安らぎ」)=理性は外からでは判り難いためにわざわざ修行をする必要がある。
抑制ニューロンの発達が足りていない事こそがもっとも基礎的な発達障害であり、あらゆる精神病に対する抵抗力がない。
抑制機能を強化した上で抑圧された感情を解放しワーキングメモリも増設すれば、左右半球を統合して使えるようになる。
そうなると精神構造のかけ離れた人間の感情でも読み取って理解してしまえるし、絶対音感や他言語の「臨界期」は意味をなさなくなり、自在に漫画を描ける様になる。
217 :
リーマン小太郎 ◆JXLBbnYqTY :2012/05/31(木) 23:41:11.63 0
悟ります♪ 「 」
218 :
考える名無しさん:2012/06/01(金) 00:25:24.59 0
>>217 リーマン小太郎は、”できるやつ”に見られたいという願望ばかり強く、実を出すよりも先に肛門から腸が飛び出している感じがある。
脱腸していると、大便時に肛門から腸がそれはまるで触手のようににょきっと伸び降りてきて、糞便を放出するのだが、
リーマン小太郎の日常的な言語活動は”脱腸している”ようなおぞましいものだと言えるだろう。
219 :
ゲッパリラ:2012/06/01(金) 02:22:30.73 0
鏡に映ってるのが左右逆の自分だと思っているのは馬鹿な人間であると言えるだろう。
母親 PTSD 蜘蛛まっか出血で左半身不自由 おそらくアスペ
父親 アル中 借金有り
母方祖母 統合失調症
母方叔父 元ひきこもり
父方祖母 自殺
父方祖父 葬式で暴れだしたりする基地外
父方叔父 アル中で体がまっ黄色になって死亡
俺 人格障害、統合失調症、アスペルガー、境界例、知的障害、2ちゃん廃人、顔面奇形、友達ゼロ、引きこもり50代、シャブ中
現在 ナマポ
224 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2012/06/14(木) 19:33:35.41 P
人を憎みたくない。人から恨まれても、こちらからは恨みたくない。穏やかな
心持ちで死んでいきたい。
いますぐに。
バカはバカとしてみること。本人の責任だから、妙な擁護は必要ない。
馬鹿を馬鹿と割り切り、その意味をキチガイや無能と判断するのはいいが
他人に貴方も馬鹿と判断されていることは気が付かないほうが貴方の為。
だから本人の責任
愛というのは存在に対して向けられる。存在とは、持続である。
川は素朴には存在でない。存在に関わっている、存在者が、自らを
認めるものを愛するのは、存在に向けた不変性を感じるからだ。
悟りに近づくためにスレを立てましたが、あまり意味がないので僕はもうこれ以上
書き込まないことにします。悪意をもった人々が、やすきに流れるのが醜くて
耐えられないからです。さようなら。
↑ようやく悟ったようだね
迷いが断たれた、即ち悟り。
悟りに近づいたかい?
>>230 行っちゃらめええええええええ(´;ω;`)
僕の患った統合失調症は、精神が分裂するのではなく、体の各部分をまとめあげることを
失調するという一風変わったものだ。明るい暗闇の中で。苦行か。
毎日新聞の夕刊で山折哲雄さんが書いておられたように、日本の価値観では
義理と人情だ。知情意。知は正確に、情は思うままに、意は毅然として。
僕はいつも人を羨んだり妬んだり憎んだりしてきた。そして、それはただの
妄想だということがわかった。もし僕が悟りを得られたとしたら、それは
みんなに大声で伝えたい。仏が今まで前例があるのだもの、僕にできないとは
限らない。
あるがまま、そのままを見る事からはじめればいいと思う
俺は悟りかどうかは分からないが目覚めとか覚者と言われている人たちと同じような
認識にある日突然至った
それはあえて原因を持ち出すなら自殺を決め自我の思考が何も役に立たないことを認め
努力を捨て何者かになる事を捨て自分全てを受け入れて自死決行までの日々を世界に預けたからかもしれない。
勿論、そこに至る道はひとつではないだろうけども。
それ以来、性格は特に変わってはいないが心が澄み渡り不安や恐怖があっても
幸せでいられることを知った。感情と幸せは関係がなかった。
というか不安は殆ど消えてしまったけれど。
仏陀が悟りに至るのに行った瞑想は物事を自分を観察し思考によって
勝手に繋げていたものを解きほぐしあるがままの世界を見る事へ戻ることだと思う。
嫉妬や憎しみが妄想だと気付けたのなら自分の思考全てが唯の妄想だと気付けるかな。
物を見て、過去経験知識から名前や性質、存在理由を勝手に当てはめていることに気付けば
世界は常に新しく美しく完璧であると理由なく思えると思う。
今もその先も幸せでいてください。
嫉妬や憎しみが妄想であるとはこういうことだ。人は自分の能力のみを気にかける
べきだ。他人をどう思おうと他人からどう思われようと自分は変わらない。自然にしても
同じことなのだろう。禅者は何が起ころうと変わらない。感覚器官を使いすぎるのは
良くないと仏陀も言っていた。自然がどうあろうと自分は変わらない。変わらないものが
自分であって、変わる部分は自分でない。
>>237 変わらない本質的なものと、
変わらない自分の弱さを振り分けろ。
変わる自分の弱さと、
変わる本質的なものを振り分けろ。
さもなくば、何となくの気分で自分を甘やかせることになる。
分かろう、理解しよう、片付けようは恐怖からの行為だよ。
「わからない」これもそのまま世界の一部として受け入れてみないか。
悟るとはわからない、も受け入れることだ。
なんでも分かる、理解できる、説明して片付ける事じゃない。
それは安心したい自我の欲求で見かけ上の安心しか得られない。
「わからない」は当たり前に世界の一部だが、それと自分を甘やかすことは違う。
一日中、2chに入り浸ることは当たり前に世界の一部だが、それは単なる怠惰。
ある行為が恐怖からかどうかは杓子定規には測れない。
なぜなら愛からくるわかろう、理解しよう、片付けよう、もあるから。
言葉遊びじゃなくて、生きればいい。
>>238 う〜ん、甘やかすのはよくないな。強いもの、が本質的なものであって、弱いもの、
が自我には必要でないものだ、ということだろうか。それはわかりやすいような気もする。
変わらないことにも弱さがあって、変わってしまうことにも弱さがあるっていうことか。
偏屈と軟弱と言っていいだろうか。
>>239 分からない自分を認めること、そうすればどんな気持ちになるだろうか。非常に難しい
ことを言われているような気がする。(気持ちの)強さが必要だな。
>>240 これは逆に理解を恐怖から理解しようというのに反対の意見ですね。愛か。
>>239とは
反対の結論になるかと思うけど、「わからない」が当たり前に世界の一部ということ
だな。甘やかしではないと。言葉遊びに反対で、「生きる」ことで「わからない」ことも
自然なところに落ち着くということだろうか。
三者三様で、どれも選びがたいなあ。
とりあえず、自分に「わからない」ことがなんなのか自覚することはしたほうがいいかな。
自分は論理主義者で、生命原理主義者で、科学信奉者で、哲学愛好者というものなんですけど。
「弱さ」についても考えたいな。上に書いたような信条の取り残してしまうことのようなきが
するので。
242 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2012/08/18(土) 13:51:27.58 0
正しいことを求める気持ちは確かにある。自分の理解している範囲での正しさ
ということだ。間違いを望む人はいないだろう。しかし、しばしば正義は対立する。
対立する意見とは、ひとつの領土を一つの国しか所有できないといった原理に
立っているだろう。ひとつの人間も、一人しか生きられない。それに対する
他人というのは無数にいるのに、正しいことは自分の中に求める。他人とは
それくらい縁の薄いものだ。ただし、時々一人で一万人くらいの意見を変えてしまう
人も出る。そういったことがやってみたいなあとは思う。age
243 :
海空理のおっさん:2012/08/18(土) 17:08:24.88 O
>>237 ただ、人が平常心を持ち、日々穏やかに過ごす為
何を心の支えとし、様々な事柄で心を乱されたとしても
何時なんどきでも、自らの安定を取り戻し又、心の動揺を受ける事なく、生活出来るなら、それは良い事だろう。
しかし、
普通、一般的には様々に日々目の前の事柄や変化に心を乱され又、悩み、病みつくのだろう。
はて、《悟り》とは如何なるを持ち現し《悟り》とするのだろう
その《悟り》が理性的、常識的範疇を越えるものであるなら、
特異的であり、日々の社会生活に馴染まない処方であり、処世術でしかないのではないだろうか
と思う!
>>243 悟りについて、常識的なことであるというご意見だと思いました。
むしろ、悟りでない特異的処世術というものが、如何なるものか
という点に興味を惹かれましたが、宗教等そういった面が強い
のかもしれないとも思いました。
>>240 言葉でしか言えないから言葉で言うけども
「愛情」ならわかろう、理解しようはあるだろうけども
「愛」には分かろうなど必要ないと思う。
愛はそのまま全てを受け入れる事であるという感覚しかない。
>>241>>242 俺は目覚めを体験するまであなたとは逆でできるだけ主義を持ちたくなかった
自分を固定する事で零れ落ちるものがあるのが怖かったから。
でも固定しない、主義を持たない事に捉われ、ただ通り過ぎていくものさえ
拒否していたので結果的に何もない状態で固定されてしまった。
それで目覚めの後、己の構成というか雁字搦めの自己をとてもクリアに
見つめる事ができて主義を持つにしろ持たないにしろ
常に新しく生まれ変わる世界の現象の一部として存在している
「私」は何も持っておく事ができないと感じた。
流れていく川の水を保存しておく事など不可能で「今」、主義を持つ「私」が存在して
移ろった次の「今」、主義を持った「私」がいてもそれは別のものだ。
だから私は「○○である」という事は真実からは遠く、「○○である今」をあなたが
世界を通して知っただけで「○○主義者」であるあなたを抱えて時間の流れに乗っている事は出来ない。
というかうまく説明できていないと思うすいません。
つまり「私は○○です」と言う言葉は「私」を観測した結果であって次の瞬間
「私は●●です」という観測結果が出る事を受け入れる、これが世界の一部として
自由意思を持った幻想の個ではなく現象として存在する無常である自分を受け入れる事だと思う。
名刺は常に書き変えられている、同じ事が書いてあろうとも常に新しく書き換えられている。
自分が(ある視点からにおいては)正しいと思いたいのは当たり前の事だけども
その正しいを構築していく基礎、地盤を見つけられるか
もっと言えばそれを壊せるかが悟りというものを求めるなら通る事になるかもしれない。
基礎の上に乗ってる構築された理論はその人の知識経験から組まれたもので
小枝があれば鳥が小枝で巣を作り、土しか無ければ土を固めて巣を作るようなもので良いも悪いもない。
なぜその地盤に理論を構築する事になったのか、その地盤がその肉体を以ってして存在しているあなたの核かもしれない。
>>240の人が生きればいいという言葉も分かる。
ただこの
>>1が悟りという完全に足場のない開かれた存在であろうとする時
空に羽ばたくのか、地面を破壊し全てを空としてそこにあろうとするのか
通りすがりだが導くのでも教えるのでも共に考えるのでもなく
風が草木に当たって形を示すように色々言葉を置いて行きたい。
簡単に言うと好奇心だ!!!
>>245 迷いから覚めた人の言葉は響きますね。観察結果を受け入れるべきだという言葉が、
大変に面白く感じました。結果を保留する必要もないのですね。
結果をその場で受け入れて即捨てる事、
あるいは一切判断を止め永遠に保留し続けるのも同じ意味です。
言葉によって印象は変わりますが科学的な態度と言えば普通の事です。
自分と言う現象を死ぬまで観察し続け今はこうだった、さあ明日はどうなっているだろう。
そうやって無常を普通に全てに置いて当て嵌めて認識できれば
勝手に捉われも執着も無くなり勝手に悟りを通り過ぎれると思う。
>>249 宗教という言葉を共通した認識してるか分からないので
あれなんですが、構築されたものは過去です。
主義であれ思想、感情、言葉全て過去の物をいくら立派に構築しても自分そのものではありません。
肉体と世界の境界に存在するのが「現象の私」でそこに思考が現れたり感情が現れたりして
社会的な表面として構築されます。そしてそれを認識するのが「意識としての私」です。
なので構築されたものは時と共に朽ちたり風化したり変化するのでそれにしがみつく必要はないはずです。
「私は●●である」は現象の私です。無常の移ろいゆく存在です。
そして「現象の私」を見る存在、これが本質の私です。
オカルト、形而上、机上の空論に聞こえるかもしれませんが思考、知識を排し
ただあるものをそのまま見ると本質の私は唯々、世界を認識する事だけを行ってると誰でも気付けると思います。
>>252 どこの信者さんですか?もしかして教祖?
>オカルト、形而上、机上の空論に聞こえるかもしれませんが
なんで自分で言っていることを認めないの?それはオカルトだよ。
オカルトだとかスピリチュアル(笑)の連中といってる事が被ってしまってるのは重々承知してるよ
ただよく読んで、言葉の、単語の一つ一つに対する反応じゃなくて
ただオカルトだ宗教だと分類した結果を俺に言うんじゃなくて
そこに書いてある内容に対してなにか言ってくれ。
俺は自分が書いた事が真理だ、真実だとも思って無いし
感覚としてあるものを言葉にしたら胡散臭くなっただけで
上に書いた通り言葉を置いていってどんな反応があるのか知りたいだけで同意なんか全く要らないよ。
オカルトだと思われても構わない、ただオカルトだと思うという分類した報告だけ言われても…
>>255 馬鹿?自分の知らない分野を知らないことをそんなに自慢したいの?
如何に正確に伝えるかより言ってやった感を大事にするのはそんなに楽しいか。
俺が書いた事を見て俺の知ってる分野を勝手に想像したのかもしれないですけど
仕事上でも趣味としても生物物理化学関連の本ばかり読んでるし
思想・哲学は10代の頃にアホみたいに買い漁って読んでいたし
オカルトだ精神世界の本は立ち読み以外で読んだ事は無い
オカルトだと指摘する事で何を言わんとしてるかは想像できるが
2chだからという理由で立場の上下を計りたいだけのレスではなく
多少面倒でも下に見ていても言葉を尽くす努力はするべきだと思う。
>>257 >俺が書いた事
とんでもないアフォだな、だれもお前の言いたい事など聞いてない。
>多少面倒でも下に見ていても言葉を尽くす努力はするべきだと思う。
お前に優しい2chってことかwwwwww。甘い香りがするな。
で何がしたいの?
まあ「言葉」とか「思い」的なものだからさ全部ね
257さんとかAbsalomさんとか皆もだが書き連ねていることは、認識しているココロが本質だかなんかも
全部ある側面でしかないんだよ(唯識)。←これもなんだけど。
その場その場ではある気持ちは本当な気分にもなるんだろう、それも間違っちゃいないだろう。
「小難しい事言いやがって、お前の言葉が俺に何の関係がある?セックスしたくなったらする!腹減ったら食べる!眠くなったら寝る!
笑いたかったら笑う!怒りたかったら怒こる!悲しいときは泣く、楽なときもある!
それで良いじゃねえか!!それが俺の哲学だ!!」・・・・・・って考え方も、べつに良いよね、一種の悟りっぽさもあるだろ?
まあ反感だかラズノグラーシエだかなんか知らんが別の様なことを言いたくもなるものかもね。人は。続きをどうぞ↓
>>259 皆ある側面でしかないという認識の上にいかなる塔(五重塔とかね)を打ち立てるのか
という問題があるだろう。「意識は必ず何物かについての意識である」ということを考え
れば、「色即是空である」ということについての意識ということ(念仏)を発明すること
によって、空についての意識を持たせられることが可能になった。では、その空の
中身が重要となる。いかに空について概念(?)を持つのか、ということ。アラヤ識が
空なのか、末那識が空なのか、意識が空なのか、全てが空なのか。全体と部分
についての問題は、いかに唯識によって答えられるのか。ちょっと考えてみると、
唯識は個人の存在全体を、空であるという本質規定によって、全体の空と同じ
位相に置くことになる。空はいくつ集まっても空である。
空に分離はない
うつろわないものはない故に空であり無であると思う
空(そら)を例えにするならその一部分を切り取って個人と呼ぶようなもので
その移ろいは全体の移ろいと共に在る
意識とは明晰なものである。無意識とは曖昧なものである。意識に上るには、
概念化がされる必要がある。概念化されていない観念は、曖昧で不定形な
ものである。概念化はかなり知性に自由度を与え、計算可能性を向上
させる。
生きることを、しゃべることでアナロジーすれば、いつも正確な言葉はなかなか見つからない。
それに対して文句を言ったのがウィトゲンシュタインだとすれば、そんなことは本質的
な問題ではないと言ったのが仏陀であると思う。
対象とする領域をどこに設定するか、という話ですね。
比べること自体バカバカしい。
>>265 設定などしてないつもりだけど。生きていくことという行為がいかに解釈され、
理解されるかといった問題意識だったのですが。比較自体を目的に両者を
持ち出したわけでもないですし。
268 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2012/09/02(日) 02:44:45.58 0
あかんぼとして生まれ、全能感のナルシシズムに包まれた、なんて自分勝手なんだ、
ナルシシズムを踏み破ったら、何が溢れ出すのか。理解を超えた言動が、
一人でいる時の原理で、ソウルの叫びに霊性を見出す。全てが虚しいと思っても、
明日になれば明日の気分がある。僕はちゃんと希望を理解できるだろうか。
逃げてはいかない。全て自分の中に答えがあるから。すべての問も自分の中
だから。それがナルシシズムの言い分だ。
私達は神から生まれた。常に途上の存在だ。
ナルシシズムは私達の時間を止める。
神に保証された自由は私達を踊らせる。
時間は左から右に進む。
自分の中の答えはナルシシズムでは見つからない。
なぜなら、ナルシシズムは幻想の上にあるから。
本当に自分の中に降りてゆけば、そこには自分も他者もない。
ナルシシズムの言い分は子供のふりをしたいい歳の大人の癇癪によく似ている。
大人からの言い分はこう。
失うものはない。ただ、増えるだけだ。
だから恐るな。
>>269 神というのが、絶対者でもなくて、日本的なイメージをプラスした、フレンドリーな
存在として使っておられるように思いました。神即私的な。だから、優しい視点が
感じられます。
>>270 自分の中に降りていく、という言葉から、禅をイメージしました。失うものがない、
というところ、子供が気にする失いたくないものというのが、たんなる勘違いである
という総括的なご意見であると思います。
>>271 神を主語にした時点で偶像崇拝、対象として特定できる偶像の神など
特定した人の評価の数だけ存在しえる。理由などいくらでもある。
感じられ方も無制限である。何が神で何が神ではないという説明すら
できないものが神は何かのように説明するのは神を混乱させるデタラメの
意味不明な領域へ持ってゆき都合次第で神を自分の定義で縛る。
便利な神である。
>>272 そうか、偶像の神は虚しいものか。神学の道は険しい。最大公約数的な神
が本当の神なのだろうか。
>>273 カミ、カとは(カラとかカ?など)未来へ繋ぐ可能性、ミとは身とか実、
カミは遺伝子のような存在を生み出す源の種であり、表に表れたとき、何かの形
として人に影響を与えたとき実体を評価する類であって
例えば竜巻や台風、洪水、津波、山火事のような表に現れる何かの源、
西洋でいう自然界に潜む(絶対に形を現さない)精霊のことである。
見えるものばかり人との対象で意味づけるからこそカミは人の形や
動物や特別な存在として意思をもったような類に比喩されるだけである。
>>274 原始的な言葉の発生が神の誕生と同時であり、
遺伝子の進化の結果であれば、その発生と
神(人間の創造者)が同一であることに納得がいく。
言葉が純粋に文化的なもので、遺伝との関係がなければ、
それは多神論的に自然を映し出すものであると思える。
神の理解というのは、非常に難しいことがわかる。
コンピュータ上のソーシャルネット等の仕組みをトランジスタの原理で
説明できると思うものは上位階層と下位階層を区別せずに理解しようとする
だから非常に難しい。
277 :
ixtlan:2012/09/03(月) 20:03:29.31 0
レックス・ヒクソン、 『カミング・ホーム』は傑作です。
否定の論理というものがある。新しい意味に対して、否定することによって
自分の観点を絶対的上位に立たせようとする方策だ。
それもいい。個人が大人であり、すべての意味が了解されているならば。
それを取るものがとって、取りたくないものは取らなくてもいい。
しかし、絶対者でもなければ、すべての意見に対して了解することは出来ない。
その芽を摘んでしまうのだ。
場に対する意味を優先的に取ることによって、個人の尊厳は全く顧みられない。
この二つの対立する態度に対して、我々の取るべき態度は、戦争の論理しかない。
それぞれに好きな価値観があって、自分の世界観を守りあうために分かり合えなくて
戦いあうしかないって事?「戦争の論理」とは?もっと簡単に書いてよ
べつに戦争なんざしなくてもナアナアでやっていけば良いんじゃないかな。
でも新しい意味は特に今のネット社会ではぽんぽん現れるから
安らぎはなかなか無いのかもな。新しい意味に終わりは無い気するし
やっぱ気分だから、気分はコロコロ変わるもんだから。
で、そこから解き放たれるには念仏だったり芸術だったり、ちょっとHなこと(笑)
とかで心をトランス状態にすることだね。
あ、それとも戦争して問題である人類そのものをを滅亡させろって事だろうか(笑)?
もっとも幽霊を否定するわけじゃないが。そんな良くわかんないもの考える必要無いけど。
・・・じつは自分の敵は自分自身だった。とか。
心をトランス状態にするには酒やドラッグと言う手もあった!いやそれは副作用が危険だ!
金も無くなる!いや俺はやってないですよ。ちなみに。
あ〜あ。みんな子供産むのやめれば良いのに!今からゆっくりと衰退していこうよ、と
>>279 戦争の論理とは、実際の戦争という形に現れなくても、全てをかけて争うという
非日常的な論理であるということです。ナアナアでやっていても、その裏の本心
では戦争をしているということです。その特徴は、一度始まったら終わらない
ということです。それほど人間は、他者に対して攻撃的なものだと、僕には
思えるのです。
思い込みにとらわれていては危険だ。愛国心などその最たるものだ。
覚者がだんだん増えていけば、危険なナショナリズムを駆逐できるはずだ。
どんな小さな痛みでも、それは原理的には個人の最大級の痛みと同質である。
細胞の数が増えるに従って、痛みの量も増える。
否定的な意見の全てを考えていては限りがない。自分に重要な目標を設定したら、
その邪魔になることだけを排除していけばいい。欲望に限りをつけること。
どんなにひどいことをされた人に対してでも、その人が不幸になればいいなんて
思わない。ただ、僕とは違う場所でいて欲しいと今は願う。そして、近くにいて欲しい
と願う人も少しいる。
286 :
ixtlan:2012/09/08(土) 21:04:53.25 0
金花舎から出ていた「現代のさとり体験シリーズ」は本当にいい。
『気の輝きに包まれて』(島田明徳)とか、かなり実際の瞑想に参考になるので、
メモしてみる。
悟りは禅の見性体験談では、まったく<気>と関係づけられていないが、
この人は仙道修行にも関係した人で、気をかなり重視する。
1.外部に向いている気を内部に向け、気の働きをコントロールすることで、
感覚器官を通して働いていた心を統制することが可能となる。
昼が有るそして夜が有る。
それを一日と呼ぶ。
夜の深みにもたれ、そして光溢れる時
人は目覚める。
>>287 比喩を用いて目覚めを定義しているのですね。暗さと明るさの、人間にとって持つ
意味はその非-alternativeな持続に思索の時間がある。
数学的証明であってもそれは幻覚(定義)にすぎない、
神秘的誘導があったらそれは自然の捉え方(錯覚)にすぎない。
論で理解できるものが真理と信じるなら、真理は永遠に掴めない。
言葉はコミュニケーションのための道具であり、身体器官を使うことから、生の燃焼
でもある。物理的論理に従うが、その誤用においても、いずれ誤りを正す機会があるので、
個人に属するパワーである。個人の生き方は映像的にも、感覚的にも捉えられるが、
生き方について、論理的である必要はない。時間は論理的ではないからである。
つまり、私的論理というものを構築することができ、その権利は自由である。
292 :
考える名無しさん:2012/09/15(土) 22:48:08.44 0
論理の構築と、権利は、同じカテゴリにありません。
>>292 あれ、論理を構築する権利ということだったけど、なんか破綻しているのかな?
294 :
考える名無しさん:2012/09/15(土) 23:17:17.73 0
論理を構築するために、または、論理が構築されるために、権利の有無は関わりを持っていません。
論理の構築、に、権利の有無を関わらせると、権利の有無の話に論理の構築が含まれてしまいます。
含有の関係がそこで新たに作られています。
論理について語るうでは、権利に触れる必要がない、はずです。
権利について語ることが本筋であり、論理の使用権についての主張が主旨であるならば、
論理の誤用権を、論理の仕様と対決させると、より明快ではないかと思います。
論理を誤用する権利は誰にでもある、だが論理の誤用を論理構造は許すのか、という感じでしょうか。
>>294 >>290においては、非論理的人の、可能性を、時間の非論理性から導き、
個人を理解する場合に決定的な事象が存在しないことを、主張したかった。
本来性という言葉のように。解釈の多様性(非論理性含む)を望んだ。
一方で、当人の論理性においては、権利とみる見方もできる。
>>291において
その側面に光を当てた。
論理的に一貫した人間というものは、論理から導かれる、のは確かだと思うが、
権利という言葉について、あなたのおっしゃっていることを考えた場合、私とは
論理の内容が違うため、そういう含有等の関係に言及されているのでしょう。
私は、権利というばあい、アバウトにつかっていて、むしろ可能性といった言葉で
代用するべきであったと思う。
言葉の厳密さと、使用の文脈が、そうとう違うという感じを受けました。誤用という言葉
について、導ける系として、論理構造についての話になっていますが、その点は総括
的であり、私にはわかりやすく、問題を提起しているように思えました。
すべての論理は問と答えという形に解消され得る。
「私は金が欲しい」という論理は、「なぜ自分には金がないのか」という問と「それはまだ金を稼いで
いないからである」という答えに解消され、「時間が過ぎる」という論理は「何故時間はすぎるのか」
という問と「それは時間が過ぎるからである」というトートロジーに解消される。
「我思う故に我あり」という論理は、「なぜ私は思うのか」という問と「それは私があるからである」
という答えに解消される。
「なぜ問を求めるのか」という疑問には、「そこに答えがあるからである」という論理で堪えうる。
問のみがあって、答えのない問というのが考えられるだろうか。よくわからない。
問と答えという形を究極的に突き詰めたのが、禅問答である。
観念の私性は、凶器である。
一般的に同類とみなされることは、馬鹿であろうと何であろうと立派な立論になるが、
私のみが馬鹿であると攻撃されることは、理論に立っていない場合、個人の攻撃である。
私のみが天才であるとみなされることは、理論に立っていない場合、個人の攻撃である。
攻撃の結果のみが重要である。
ゆえに、愛は凶器であり、結果の重要さにおいては攻撃と愛は同等である。
それは観念の私性による。
モノに対する愛は偶像崇拝とされ、人間に対する愛は神の命ずるところとなる。
人間とモノしか世界にはないのである。
感覚器官を通じて得た感覚が性欲の原点であり、思考を通じて知った他者が正常な
性欲の対象である。感覚器官の満足であるオナニーは馬鹿にされ、正常な性欲
の発露であるセックスは神聖であると捉えられる。
ひとつの苦しみとて現世に因を持たないものはなく、ひとつの苦しみとて現世に縁を
持たないものはない。個人というものは幻想であり、苦しみと喜びのみが人間である。
その他は動物である。ひとつの苦しみとて見捨てられるものではなく、ひとつの苦しみとて
新たなる喜びの因にならないものはない。個人の中に解消されなければ。
苦しみは問と答えという形に解消できない現象だ。
すべての苦しみに答えを与えられれば、すべての苦しみが、意味を与えられる。
しかし、しばしば苦しみには理由(答え)がない。
それゆえに、他者の苦しみを担うこと、それを理解することが、唯一の方策である。
苦しみほど解消されるべきものはないのに、それが簡単に問と答えに解消できないこと、
そこに、人間の業がある。他者が、他人に対して気をつけなければならない唯一のこと
が苦しみである。
一切の争いの原因は不安にあるのではないか。
手痛い思いに沈む人を見てああはなりたくないと言う。
あらゆる面倒な手続きを終えられないという恐怖から短絡に走る。
退屈から人殺しをする人がいない。
全ての人間の心とは、心であってほかのなんの言葉でも代替できない様相がある。
心の痛みを無視できることはない。すべての統合が行われるのが心である。
心を失った人は、方向感覚が狂う。方向感覚の狂いは自滅、害他におわる。
結論としては、不安と方向感覚の狂いをなくすことが、不幸を減らすために行われるべきである。
それは、各人の小さな努力によって、大きく積み重なり、やがて世界を包む程になるはずである。
他人との関係は可塑的ではない。物理的制約を受ける。
アイデンティティの中の関係は可塑的である。時間を自由に取れるからである。
より広いアイデンティティを確立することによって、関係の可塑性が向上する。
関係とはそもそも本質的に可塑的なのである。
世界の論理は人間に優しいわけではない。他の生命の上に立った人間の繁栄。
業としか言いようのない世界のありよう。それをねじ曲げることができない。
生老病死をいかに受け止めるかという、他者の不幸に対する態度を確立
しなければならない。人間同士の争いだけをなくすこと。それには大局的な
構想力が必要とされる。
問題は問題と思うから問題だし答えは答えだと思うから答えなのでは。
禅問題というのは問題を問題ではなくするというのが本質だよね。
あと思考を通じて知った他者というのは結局自分の思考なのでは?
あえて言葉で言えば人の本質には、かまってほしがりとかめだちたがりとか
言葉で上に立っていたいとか、そういうのが強い。だから分かり合えない。
こんな2ちゃんでくどくど書いているAbsalom見るとそう確信する
>>307 人の本質が、かまってほしがり、めだちたがりというものであったとして、
その結果が分かり合えないとういのがわからない。対立は意識的になされるもので、
対立しないような意見を探せばいい。誰が最初にイニシアチブを取るかといったことは、
重要ではない。誰もが同じ意見を何度言ってもいい。僕の姿に反面教師を感じるとすれば、
それはそれで意味があり、あらゆる人は意味に開かれている。分かり合う必然性はない。
分かり合うことが皆無でなければそれでいい。
僕自身の脳状態の不健康さから、あらゆる汚点、あらゆるいたらなさ、あらゆる不格好さ
などの欠点がこの文にもどの文にも当てはまるのだが、それをもって悟りとはまだ
言い切っていないわけで、Absalomを見て人間の本質を規定しないで欲しい。
むしろ各人の持った本質についての洞察により、Absalomの不自然さ、欠点
等を言及して欲しい。
>>Absalomを見て人間の本質を規定しないで欲しい。
いままでのこともこれからのことも全部本当、本質だとも言えるわけで。
>>対立しないような意見」なんて無くないかな?と
[何やっても良い]というのが有る
Absalomは何やっても良い、
犯罪犯しても良い、犯さなくても良い全部良い!全ての言葉全ての思い、批判も肯定も全部正解!って
言われるとなんか枠組みにはめられてるみたいで嫌じゃなかろうか?
Absalomがそうでなかろうと(それでも良いんだが)
きっと一般市民(自分とか)はなんか嫌だったりするかなあ、ああでもこれでも良いんだっけ
なんていうかな。なんにしても、言葉にすることがそれでもう価値観の押し付け
で有り反発することの種子の様なものではなかろうか、ということ。
まあ黙っててもそれはそれで腹立つものだったり。
やはり他人にも自分にも執着のようなものをしなければ良いのか?まあそれでも良いかな
無くないかな?と無いかな?・・・って同じだっけ?同じ意味で使った。」
「言葉、思い」にするとつかんだ時は「思い」なのだが時間の様なものがたつと
「思いでしかない」に融ける感じ。雪みたいに、「冷たさ」が体に引っかかりとして残る。
それもじきになくなる。比喩表現でごめん、感覚的なことをを言っただけ。
自分はAbsalomに執着してる風なわけだ、好きって事かもな。
まったくこのスレを見なければ否定の気持ちも生まれない、心を動かされないから
見ないのが正解かな。別に心を動かされているわけでもなくも無いかなという気もする
ちぐはぐなんだよね。結局2ちゃんでの言いあいって
全ては変化するが変化するという事はそもそも本質は無く
ということは変化するものも無いというのを前提としても。
心は変化するものであり、でないと考えることはできないし
ということは思考することはそもそも安定ではないかなと思って。
悟りとはいろんなことにあらゆることに慣れることかもな
まあ
>>311の「言葉、思い」にすると・・・かな。
もうやめますね
314 :
考える名無しさん:2012/10/07(日) 16:29:31.46 0
>>313 変化を連続した織物のように捉えると思考が発生する
一瞬毎に映画のフィルムのように新しく世界が生まれては消えていくのを
脳が記憶がストーリを紡ぎその中に「私」が生まれ、喜んだり苦しんだりする
全くそのストーリーから外へ出る事は難しいかもしれないが
「こうなったからああなった」という見かけ上の理解を知性のように崇めないで
安定したストーリの上に乗っていたがる自我の恐怖心から来ていると分かれば
苦は驚くほど無くなると思いますよ、経験談ですけど。
315 :
考える名無しさん:2012/10/07(日) 16:54:26.21 0
「悟り」と言う認識は、東洋哲学的には、「空」と解釈出来るけど、 西洋哲学的な「悟り」と
言うのは、デカルト、カント、ハイデガ−等の「直観認識」のことであろうか。
316 :
考える名無しさん:2012/10/07(日) 16:54:59.96 O
(゚Д゚;)カーーーッ
≡(# `Д´)ペッ!<<<
>>314はなかなかですなあ
因果=物語=意味…は化象であって云々
あれこれ色々考えるのって楽しいね!
319 :
考える名無しさん:2012/10/12(金) 04:37:11.09 0
つまり諸行無情の脳内のスピードに合わせればブラックマジックは発生しなくなるわけだから
快楽を痛みと認識した時に俺は一切皆苦 要は最後の最後でぶっだ切るわけよ
そしてオスカー受賞みたいな 悟りは生存に喧嘩売ってるからな おまえらまだまだ
すぎ
320 :
考える名無しさん:2012/10/12(金) 04:51:55.62 0
小難しい真面目腐ったこと書いて平安、悟りみたいな状態になってるけど
お前ら全員悟ってないよ
悟りは笑←これだから
唯一俺だけ悟って、おまえら一生悟れないんだろうな
無理だよ多分 遺伝子罰ゲームだよ多分
321 :
考える名無しさん:2012/10/12(金) 05:28:57.14 0
absalomキモい
不自然さ欠点を言及してやるよ
まず家のホコリの解説やめろよ あと言葉をストーカーして監禁して舐めまわすようなこともやめろよ
あと自分の欠点追求してほしいマゾヒズムやめろよ
322 :
考える名無しさん:2012/10/12(金) 05:52:11.17 0
左脳の細分化の虫メガネ病だよ現代病だよね
頭休ませたら?
自然とかいった方いいよー
葉にとらわれて、森が見えてないからね 逆に戦争起きるわ 怖いよー
323 :
考える名無しさん:2012/10/12(金) 05:58:03.00 0
何が問題か
抽象し過ぎて終わってんだよ
エッチな気分になるような濡れるような言葉を吐けるといいね
324 :
考える名無しさん:2012/10/12(金) 06:29:19.99 0
悟りとかどうでもいいからヘルス行け
女とやりまくるんだ
そして万物の芽をひたすら論理で摘むのはやめろ 砂漠しか残らない
環境を変えろ 今の君はひたすら思考するようになっている
325 :
考える名無しさん:2012/10/12(金) 06:35:31.11 0
なんで高度なこと言ってて、方向性がないんだよ
首なしライダーみたいだな
おもしろいな
悟りの第一段階…捨てる
生きるのに必要でないものはすべて捨てる。
生活するうえで必要なものは、いつでも捨てられるようにする。
命を捨てられるようにする。
現実を捨てる。
悟りの第二段階…得る
訓練によってイメージを現実化する。明晰夢・夢見術。
夢の中では、あらゆることが可能になる。
神になる。
「さとり」って何かわかった?わかったら教えてね
328 :
考える名無しさん:2012/10/13(土) 17:39:16.95 0
なぜ自分がとか落ち込まないことだよ
330 :
し:2012/10/13(土) 18:30:14.17 O
土台無理だったて話しよ
おまえがなー
332 :
考える名無しさん:2012/10/13(土) 20:22:34.62 0
無理だよ
悟りの向う側見たい奴が悟れるかよ大爆笑
333 :
し:2012/10/13(土) 21:44:59.32 O
無理じゃなくてむりむらしてきたぜ
334 :
考える名無しさん:2012/10/13(土) 22:04:47.26 0
悟りよりおまんこだろ
宗教でブッダ追いかけてる奴とかゴミすぎる
335 :
し:2012/10/14(日) 05:20:59.58 O
埼玉県の河越じゃよ。河越氏がルーツだって二十歳まで知らなかったんじゃよ
336 :
考える名無しさん:2012/10/14(日) 22:24:45.35 0
神と同じ様に悟りも人類が作りだした大いなる幻想ではないか
思う時がある。禄に修行もしてないオイラの戯言だけど。
337 :
考える名無しさん:2012/10/14(日) 22:51:36.59 0
いやそれでいいんだよ
ちゃんとした成長をすればいい
悟りとかって、普通のことを普通にやればいいのに、わざわざ精神性という防具をつけたがる馬鹿の行く道
そうなると「普通このこと」や「精神性」とは何かということが問題になってくる。そして「成長」とは何かと。
339 :
考える名無しさん:2012/10/15(月) 00:09:56.76 0
それがただの馬鹿
悟ったのなら、もうそれにこだわるな
341 :
考える名無しさん:2012/10/15(月) 00:12:36.00 0
338みたいなのっていちいちうるさいんだよね
キモい
342 :
し:2012/10/15(月) 00:34:55.97 O
ヘビーローテーションなんじゃよ
343 :
考える名無しさん:2012/10/15(月) 01:43:41.35 0
成長とはなにか笑
この定義の先に悟りがあるらしい
マトリックスという映画に登場するサイファーの生き方は悟りそのもの
彼を悪人だと思うのは間違い
“たとえば『マトリックス』では、裏切り者、つまり悪役側のサイファーという人物がこんな言葉を口にします。
「俺はな、このステーキが存在しないことは知ってるんだよ。口に入れると、マトリックスが俺の脳味噌に、これが肉汁たっぷりで最高にうまいと教えてくれるんだってこともな。
9年かかって俺がなにを理解したか、アンタわかるか? 無知の至福さ。」
現実よりも仮想現実を選択するという判断が「悪役」のものであるということ。この描写が象徴するように、「現実>仮想」あるいは「三次元>二次元」という価値観は、
もはやハリウッド映画の強迫観念ですね。虚構産業の自浄作用のようなものでしょうか。まあそれはともかく。
346 :
考える名無しさん:2012/10/15(月) 14:49:26.17 0
おまえ天才
言いたいこと全部言ってくれたわ
347 :
し:2012/10/15(月) 15:04:47.11 O
ヘビーローテンションなんじゃよ
348 :
考える名無しさん:2012/10/16(火) 10:05:27.56 0
349 :
考える名無しさん:2012/10/16(火) 16:28:33.39 0
悟りすました人を目指せ
なにも手に入れられない 見ざる言わざる聞かざるのおまえに もっと思い知らせてやるッ!!!
まず知らなければならないのは究極の悟りに達すると俗世間では生きられなくなる、ということです。
そして瞑想により悟る方法の第一段階は自分のこころを見ることです。第二段階は思考を止めること、そして、その先に・・・。私にはわかりませんがとにかくそういうプロセスがあるそうです。
352 :
考える名無しさん:2012/10/16(火) 21:19:47.76 0
快楽を痛みと認識したら欲望は消えるだろ そういうこと
痛みを快楽と認識したら?
354 :
考える名無しさん:2012/10/17(水) 18:43:36.98 0
ならば本気で感じにいけ 中途半端じゃなくて 快楽の極地味わってみろよ
355 :
し:2012/10/17(水) 21:32:05.02 O
悟りに至るまではまだまだ早いんじゃよ
肉も食うオナニもする殺生もするんじゃよ
乳首をいじられつづけると 飽きる
快楽の極地味わってみたいけど天国とかじゃないと無さそうだよね。
焼肉すげーうまい!食べてるときこれが悟りか!って思う!
知恵とは目の前にあるものが、何であるか分かることだ。
石鹸だとか、木の杭であるとか。
もし分からなければ、それが分からざる未知の物質であると認識できることだ。
全てのものが判明であれば、それは悟りと言えるのではないか。
例えば、人生の目的がなんであるか、とか、死の本質はなんであるか、とか。
繰り返しは悪であるらしい。頭によくないということか。そこには意味さえ見つからない。
繰り返すことは馬鹿であり、悟りに向かって前進しなければならない。悟りに至れば、
すべての物事は繰り返しをやめ、永遠に広がった世界が訪れる。
包括的な認識と個別の認識というものを考える。
包括性は個別性の性質に従い、個別性は包括的なものを作り上げる。
つまり、色即是空、空即是色ということだ。
というのは、色が違えば個別的に分けられるし、空は一番包括的な概念であるからだ。
包括性と個別性という理論に立てば、多くのものの本質を判明に認識できる。
繰り返しは悪であるかは知らないけど、繰り返しを根拠に未来を見る。
繰り返しに未来は無い。繰り返しが見えたら時間の経過だけがある。
すべてが繰り返し無しが良いのかは知らないが、
繰り返しが無いと変化が見える。繰り返さないのだから同じ状態に戻らない。
時間の経過に無以外が詰め込まれる。時間も繰り返さないという前提だから。
363 :
考える名無しさん:2012/10/21(日) 19:13:08.02 0
悟りとは快楽以外なんだよ笑
>>363 快楽は死と結びついている(生の現象であり、逆にすれば)。仏像に快楽は
見られない。一時の快楽は死である。恒受快楽(聖徳教)に至るまでに、快楽を
永続的に得られるというのが、刹那ではない真の快楽であり、安心である。
生死のあわいに生物としてではなく、人間(生命)として昇華される認識に届く。
それが浄土であり、救いである。
たとえば、BIGという形容で表される様相は、認識に依拠している。悟りの観点からは、
そのような形容はなされないはずだ(お釈迦様の手のひらの上)。現世的快楽について
はBIGという形容が当てはまり、それゆえ限界を持つ。時間の限界を超えることが悟り
である。
現実と浄土という相反するしかし相即であることを、イデア論のように抱えている
仏教。怒りは永遠の快楽となり、悲しみも永遠の快楽となる。苦しみの仏像はない。
浄土へと導く仏たちは、弱くないのである。
368 :
考える名無しさん:2012/10/21(日) 21:43:43.83 O
一挙手一投足についてと仏像の怒りについては
仏教にとって重要な意味が隠されている
仏像ってのはつまり、その、願望でしかないから
370 :
考える名無しさん:2012/10/22(月) 12:21:58.10 0
死は超楽しー
こんなとこ戻って来たくないよー
>>369 願望を仏にすることが仏の道。
>>366 仏の心とはどういう事か知っているなら、仏教論が進む先は仏の心と悟れ。
372 :
考える名無しさん:2012/10/24(水) 22:15:27.65 O
人間ももう地獄界に入ることはないと安心した社会を築いても
所詮は穢土の世界。角田美代子の世界に入って面食らったものだろう
人を食う食われるの世界観を聞いてもトントピンとくるものがない
という反応が象徴してるな
夜外出したらレイプマンというリスク
374 :
考える名無しさん:2012/10/25(木) 06:22:28.90 O
夜チポいこすって寝ると寝つき悪いぜ
かといってこすらなければ火照って眠れないぜ
375 :
薬味:2012/10/25(木) 09:02:58.37 0
おはよう
今日もナイトウォーク
僕のくるしみは
非情なり
17年間の病
欲しかったもの
精神的安定
脳が叫んで僕に訴えた
苦痛の末に何か変わったか
日の光は暖かい
自然との調和が
欲望も執着も
妬みも怒りもない
ただひとつの人間的真理
自由選択の問題は、権利というよりは脳の機能に関することだ。
自我は潰されればそれだけ痛みを生む。
他人の言うことを聞いたからといって、自我がなくなるわけではない。
自我は他人の言う通りのことを選択できる。
しかし、自我を捉えて否定した時に、生まれる苦痛はとてつもない。
小さな痛みが習慣によって肥大化される。
仏同士の関わりとは如何なるものか。
有限さを見て無限への憧れを抱くのは、挫折を決定づけられた道だ。
むしろ、人間の有限への認識によって、人間の道を探らねばならない。
自分の行為が、一般性を帯びるにせよ、何回かしかできない有限な行為
であると知ることで、その本質を意味付けられる。
世界に違和感を感じる人は、僕の意見と無縁だろう。
むしろ、世界がべたべたにくっついてしまって、認識の様相が
ねじ曲がってきたところを述べているのである。
いろんな考えがあって、悟りについても一様ではないかもしれない。
だが、ちがった考えはいずれコミュニケートされ、違いを認め合う。
現世は、様々の物事が周りにある。その中で生まれた人間は、それから完全に離れるこ
とはない。そう言う意味で色という。一方、物事は取り去ることが考えられる。それを空
という。
過去の傷を引きずっていたとして、未だに傷が痛むとして、それ以上の暴行を
恐る必要があるだろうか。事実は事実として「あった」のであり、それ以上でも
それ以下でもない。
自由に行動できるとうい自分に気づくこと、自由な自分を認識しないで、
どうして自由に行動できるだろうか。自覚して目覚める時だ。
382 :
考える名無しさん:2012/11/08(木) 01:44:24.43 0
思えば、
正論に対して反感を生まない肉体的身体を作ること(ここにチャクラなどの知恵を絡めても別に構わない。それは大して重要ではないため)
正論と共に自分の身体が存在していること、
即ち欲を諦め拭い去った身体に慣れ、
偏見に守られた自己を、全方位防壁無しの中空に晒し
そこで佇むことが当然となること、
そういう身体に持って行くためには、様々な鍛錬や道程を経ることに結果的にはなるのだと思う。
欲や感情を抑え我慢するようでは、見せかけのものであり、辛いはずだ。
そういうものが無い状態で出てくる見識が正論的となっている状態。
このとき、誰の味方でも誰の敵でも無い、
そんな感じだと思うんだよね。
384 :
考える名無しさん:2012/11/08(木) 01:51:08.25 0
たとえば、バカだろ
という言葉がなぜ東スレの宇野のマンガのキャラの云々と同時に投げられているのかとか見ると
感情の動きは無しに
相手にするだけ時間の無駄に思える。
それくらいに省エネ志向。
物語は、断片にとっても意味をつなげていける。したがって、ナショナリズムに使われたり、
不安定な青春の寄り代として使われたりする。始めた物語は終わらなければならない。
精神的には。物語を終えた時、さらなる次の段階へと精神は進むことができる。
>>384 愚者は感情で他人をバカ扱いし、賢者は理性で計り他人をバカ扱いし
天才はバカ扱いすることで相手を誘う。
理性と感情はひとつです。どうして理性と感情を分けるんでしょうか。心はひとつなのです。感情とは何でしょう。理性とはなんでしょう。心はひとつなのです。
388 :
考える名無しさん:2012/11/08(木) 23:22:36.32 0
感情を大切にしますか?
喜怒哀楽が正しい分類ではないにしろ、仮にそれを感情の種類だとします。
そのいずれかの感情が自分に発生したときに、何を思いますか?
何がその感情を発生させたのか。
焦点を緩めると
なぜその感情が発生したのか。
そのような未知の事柄を放置したまま
生まれた感情の質に入り浸ってしまうのですか?
>>387 まず単語の生い立ちとその使われ方を調べてくることをお勧め、
貴方のは単に主観的な思い込み。
390 :
考える名無しさん:2012/11/10(土) 16:33:15.37 0
●お釈迦様がおっしゃる悟りは恐らく「自己」を正しく認識する事、真の自己に目覚める事、ですね。
それは、頭で理解する事や、体験から感情レベルで理解する事を超えています。
人生のすべてを観察する意識、眠っていても、夢見ていても、起きていても存在する超越的な意識に目覚める事です。
●自己の認識は肉体が自己、心が自己、自我が自己(「私」と言う微かなフィーリング)の順に深まりますが、
超越意識はさらに奥に存在するのでそれに目覚める事です。
●神経系統は映画のスクリーンのようなものです。
私たちが見ている日常の現実とは、神経系統に投影されたもの、神経系統を通して認識されたものです。
つまり肉体はバーチャルリアリティの装置です。着ぐるみのようなものです。
●残像があるとうまく認識できません。
神経系統にたまった残像はストレスと呼ばれ
心にたまった残像は「カルマの印象」と呼ばれます。
そして、その印象がすべての願望や嫌悪の種となり、プラーナの風に吹かれ、星々の影響を受けながら発芽すると言われます。
●キリスト教で「汝の敵を愛せよ」と言うのは、「カルマの印象を自覚して、それを解消しなさい」という事だと理解できます。
続く〜
391 :
考える名無しさん:2012/11/10(土) 16:33:54.10 0
続き2
●「意見」もまた過去の経験からくる「カルマの印象」の結果です。
インドの聖者達は意見を持たないそうです。なぜならそれは偏見だから。
必要なのは「幼子の心」の無邪気さと「大人の知識」の共存です。無邪気さは意見とは共存できませんが、知識とは可能です。
意見は求道者の人生に不要なものなので、意見が出たときにはそれを自覚しましょう。
●知識は道具です。使い方次第で人を活かす事も殺すこともできます。
知識を自分と他人を活かす方法として使用するのをお勧めします。
●呼吸法や瞑想はサーダナと呼ばれ、より効率よくストレスや印象を解消する手段です。
瞑想のコツは「何もしない」事。考えや感情、日常の活動が意外にも自動的なものである事を知れば
生活自体が瞑想になります。
究極には自分の中に神を見る方法
●セバとは無償の奉仕活動の事で、感謝を含めて何をも期待せずに世話をすれば
印象を残さずに行為を行えるようになりますし、嫌な人を愛する手立てにもなります。
究極には隣人の中に神を見る方法
●サトサングという知恵の集まりにおいて 神や存在、真理や無限の宇宙(時空)についての理解を深めると
日常生活の中での緊張が徐々に溶けて、ストレスや印象も弱くなり、目覚めを邪魔するものを減らしていけるでしょう。
究極にはすべてに神を見る方法
続く〜
392 :
考える名無しさん:2012/11/10(土) 16:34:39.23 0
続き3
●アスヤとは、理想的な状況でも欠点を探す心の状態。
アナスヤとは、悲惨な状況の中でも利点や長所を見つける心の状態。
精神性に関する深い知識は後者にしかやってこないそうです。
いいとこ探しを心に習慣づけると良いでしょう。
●神道の神社にはご神体として鏡が置かれています。
インドには「神を見るものは神なり」と言う諺があります。
アブラハムの宗教(ユダヤ、キリスト、イスラムの兄弟宗教)の旧約聖書には「我のみを神とすべし」とあるそうです。
仏教(?)には「天上天下唯我独尊」(天にも地にも真の存在は我のみ、の意)があります。
独尊とはカイヴァルヤの事でヨガの究極の目標の状態です。
●●●
神実現の方法を一つだけあげるとすれば
神を求める熱意、これだけが必要な事だそうです。
極端に言えば、神を憎んでも構わないのです。
神に関する強い熱意が、何を行ったかより重要との事。
インドの2大叙事詩のひとつラーマーヤナの作者バールミキは元山賊。
以上
こんなところでいかが?
>>389 単語とは何でしょう?単語の生い立ちと何でしょう?使われ方とはなんでしょう?調べるとは何でしょう?すべて言葉です。あなたは言葉と何だと思いますか?
どうしてか人が幸福にならない。少なくとも僕の目に映る感じでは。
動物のように本能に従って生きられたらと、どんなにかあこがれるか。
風呂や飯のような、簡単なことさえ、とてつもなく疲労のもとになるような
気がしている。
それだけではただの愚痴だから、悟りに近づくために今日考えた一歩は、
価値観の違いだ。自分の考えと他人の考えは一致しない。コミュニケーション
において重要となるのは、自分の考えがフラフラせずにしかも柔軟であることだ。
また、他人の理解において、自分とは違う考えを持っている点に強く注目する
べきだということだ。想像力とはそういった場合に役立つ。
原始的な感情を否定できてこその悟りに憧れているだけのバカだろwww
感情やら情念というものは愚かな結果を生みやすいが、危険からも守ってくれる
必要なのは片側の排除ではなく両立な。近づくとか何年やっているんだよ
アフォとしか
398 :
考える名無しさん:2012/11/15(木) 06:07:10.02 0
>>396 確かにそれが出来ていないネトウヨと呼ばれている人達は不幸だね
韓国側の考えに立って行動できないからお互い傷付け合うような事をする
相互理解が一番損をしないで良い人生だね
社会通念上の倫理観で譲れない行動以外については
こっちが譲ってあげるそれをするのがある意味一番の悟りな気がする
>>397 人間のヒトとしての本能の残りをうまく使えばいいのですね。文化と教育とはどのように
あるべきかというのが、また、一方での私の疑問なのです。両立という達観に
至っておられるのは、いいと思います。ヒトであり、人間であれれば素晴らしいですね。
僕自身の課題だけでなく、人類全体にとっての悟りという課題にも答えていってください。
>>398 国際間の問題も、自分の主張のみを通すのは、全く愚かな方策です。
落としどころをうまくつけなければなりませんね。問題を捉えて、両方の
理解にまで到達できれば素晴らしいですね。
>人類全体にとっての悟りという課題にも答えていってください。
経験が無いものに意味は与えられない。君は手順を論理的にしか考えていないようだ。
たとえ可能性であっても積み重ねれば意味を生み出す、枠組みで人々を抑えても
枠に入るなら警察は要らない。
君は神とは何かを知るべき、「神が」「神は」という存在を知るときそれは全て
偶像である。知るべきなのはWhyではなくHowなのです。
"未来を知る"それはオカルトの予言のように思える言葉かもしれないが、
今と過去を知るだけでは悟り得ない、愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ
では、誰にもまねできない天才は何から学べばいいと思うか
その答えによって貴方の次元もまた変化するだろう。
あまりにも抽象的に書いたがすまんw読み取れないレベルなら無視してくれ。
>>400 >可能性であっても積み重ねれば意味を生み出す
可能性が画一的に収斂しないこと、未来の未決定性をうみだす、意味と可能性について
考慮せよ、ということでしょうか。
「神が」「神は」という思考は、既にして未来を決めつけた世界像を前提にしている、という
感じでしょうか。非常に深く意味深い思考に、とても感心しました。
未来と神を、ましてや自分の可能性を考えたことは全くなかったので、大変に考えが
進められました。
僕が陥っていた陥穽に気づいた。毎日がリセットされればいいと思っていたことだ。
手紙が来るのは毎日、それに対処するのも毎日。これではダメだ。
手紙の来る内容について、日頃から対策を立てておかないといけない。
当たり前だが、僕の内的時間感覚では、毎日がリセットだった。
神頼みといってもいい。むしろ、神に頼ることが多くては情けないと
考えるべきだったのだ。
悟りはないということを悟ることは出来ない。
なぜなら、上の文章はトートロジー(¬A is ¬A)であり、
書き換えれば、
悟りはないということを悟ることは悟りでない。
という真実だからだ。
一方、 悟りはあるということを悟ることはできる
という文章も、トートロジーであり、意味がない。
悟りはあることはないし、ないこともない、という結論に、排中律を足せば、
「悟りについて言葉にすることは出来ない」という結論になるように思うが、どうだろうか。
トートロジーだかなんだか知りませんがたんなる決め付けなんじゃじゃないですか。
とにかく言葉にしちゃってるんだし、私は「悟りました。」
〜じゃないですかって言い方むかつきますよね。
自分はもう論理なんてどうでも良くなった。空の教えは反転した。
ただ自分がいるという感覚のような何かが、侘しい。
Absalomも皆もみんな寂しいんだと思う、あなたの感じている
孤独さと自分の感じている孤独さはきっと同じくらいのもの。
だけれど言葉だと安っぽくなる。自分に文才が無いからかもだけど。
あああ・・・みんな・・・
マヌケとキチガイほいほい。
>>407 反転するからこその空では?
全てを内包してるんだから、その揺らぎも内包してるかと。
いや、「満」のことさ
空が満に内包されているのさ。
どうしてもね。何でそうなのかは自分で知ってほしいね。
病気かと
習うことしか学ばない病気というのは簡単だが彼らにも習わない類を掴む
力は備わっている、ただしそれを評価する基準やら評価してくれる第三者が
機能しない為に彼らが自ら力を結果に反映させることはない。
そういう領域のことは天才が道しるべを示さない限り世界の合理性を生む
流れに飲み込まれるのは必然である。
悟ったとしても悟ったがそれが何?。つまりそれで終わりなのである。
悟ることを超えて進む先をつかめない限り悟りは初めの1歩にすぎない。
通過点であることが分からない限り悟りが最終境地と学習してしまう。
高位の何かを得てもそれを表す為の基盤は無視できるわけではない、
基盤となる支えは高位にいては知ることもできない。悟りが生まれる構造を
正しく読み取ればできそうだが人は感情の生き物であって機械には慣れない。
存在の暴発は危険だ。
狂った認識もひとつの認識だ。
誤った認識は誤っているという論理を踏襲している。
論理に喧嘩を売ろうとすれば時を味方につける他ない。
存在は暴発して死ぬまで行く。
行儀のよい存在は暴発するまでの時間を核を抱きながらまどろんでいる。
いつか存在は暴発する。
その内包したエネルギーゆえに。
自らの抱える整合した論理のエネルギー故に。
誤った存在は傷を抱えながら時を貪る。
論理は時間と無関係だ。
核爆発が論理の帰結だ。
正しさとは状況における存在の力のことである。
其の場で活かされる力は理屈に合わずとも論理に反しようとも正しいのである。
>>414 ミュトスとロゴスの絡み合う相補性みたいなものが、存在の原理なんだと思います。
起源があるし、反対には普遍性もあるし、みたいな。
状況における力とは、物質的なものからくるのでしょう。ペンは力には勝てない。
力こそが根源であるのでしょうか。
ペンと力の対立は、切れよく格好良く成り立っているように見えるが、
力とは物理的に及ぼされるもの、ペンとはそれを解する者の脳の中に及ぼされるもの
両方とも力を及ぼしているのであり、外圧や暴力か、
トロイの木馬のように内部から侵していくかの違いが、両者の本質的な分け目だろうと思う。
ペンの力はトロイの木馬のウイルスみたいにに、伝播していくものであるし、
暴力は、その存在の情報的伝達によって、存在感を持って、恐怖という
形で伝播する。
力の特徴として、一箇所にとどまらないということがあると思う。常にその実体も
情報的存在感も、両方があちこちへ移っていき、エネルギーにたいして働きかける
という特徴があるのではないか。
力を持っているやつは力をつかう、まねできる力は簡単にコピーされる。
力を単純に使えば戦争でいけば戦術と戦術のぶつかり合い、
それは数と火力の相乗で大きいほうが強い力と測れる。
力の世界でも相性による力がある、力を更に高次な力として戦術から戦略に
変えてもそれも力である、戦略の領域になると力の上下関係が計りにくくなる
だけであって戦略を超えたさらに高次の力を創造した物には太刀打ちできない。
力を超えるものそれは何か、まずそれを考えること。
どんな媒体や変化もそれは力である、力と力の優劣は常に大小関係ではなく
相性によって大きく変わる。
力ではなく「義」や「利」や「徳」や「界」といった面で世界をみてはどうかね?
力を超える何かは既に力ではない、それが見えるなら根源の本質を捉えられる。
世界は回っている輪廻である。
419 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2012/12/14(金) 22:11:57.03 P
苦しみの経験は、新たな領域の拡大である。苦しみの限界を超えたところが、
自らの限界を超えたところなのである。生と死の間に、様々な認識が
生ずるが、その中でも特に重要と目され、“新たな”経験が、苦しみである。
喜びもまた同等の経験であるが、両者は特に近いわけでもない。苦しみが消えた
とき、相対的な喜びが大きくなり、喜びは消えない経験である。すべての苦しみ
が消えた時、相対的な喜びがうまれ、それが永続する。この繰り返しを、いつか
(例えば死の病の際に)経ることで、死を受け入れることが準備される。
例えば、死が無であるとしたら、生は無でない“何か”だ。存在が生である。
存在は自在なものだ。自らの自由を感じる時、苦しみがなければ悲しみが生まれ、
根源的な喜びが生じる。この喜びに人は注目しなければならない。ただ現世的
な快楽等、大した問題ではない。
あ。Absalomさん。あなた数ヶ月以内に発狂するだろうね、一応予言しておく。
一日中泣き喚くようになるのを覚悟しといてね
殺人鬼とかにはならないように、かなり紙一重な状態になる。俺がそうだったからw俺だけかw?
もし本当のムゲン孤独地獄になってしまったら、まあ、がんばれ。その絶望に答えはちゃんと有るよ。
(こういうの書いていいのかな。Absalomのハイヤーセルフ様!勝手に口出ししてごめんなさい!)
>>420 あなたは立ち直ったんですよね。心強い。もしかしたら発狂するかもしれない
けど、まあ一度死んだような経験をしてるから。カッターナイフで通りすがり
の人を脅したりしたこともあるけど、まあ、本当にやる気ではなかったし。
過去のことだ。まあ順調に行ってますよ。多分明日くらいには全快するんじゃ
ないかってぐらい。
422 :
考える名無しさん:2012/12/16(日) 02:26:19.39 0
天空からエネルギーが補充されるようになると、馬力から持久力から圧倒的に違う。
許容量以上のエネルギーが注ぎ込まれると、狂って死ぬ人間もいる。
一番の敵は、無能者にとっても、傲慢さだろう。
根拠のない自信と紙一重の傲慢な勝ち気。
老人も薬の飲み忘れなどでぼこぼこ死んでいるだろう。
治ったと自己判断を下して薬の量を自分で減らして死ぬ。
ここに働く傲慢さは、弱さを自覚する自己に対して、
苦しむくらいなら快楽を代わりに感じとりながら命を終われという、いわゆる自爆装置みたいなものだ。
自分に厳しい必要はない。的確であれば誤ることはない。
423 :
考える名無しさん:2012/12/16(日) 07:58:25.46 0
必然的に、空の中から常に一貫した法則を探しだそうとするのは、光を読もうとしているからである。
秩序のない闇に生きることもできる。もちろんその場合明日のあなたは別人かもしれない。
闇を見ようとすれば光を読むことになる。闇が闇たる一貫性を探し出してしまうだろう。
そして闇の一貫性は発見されてしまうだろう。その時の闇は、闇に生きる者そのひとである。
424 :
420:2012/12/16(日) 13:03:01.90 0
425 :
420:2012/12/16(日) 15:13:46.17 0
ていうか、人間的にはもうすでにトップシークレットな領域。
最終結論がなんにしろ、すでにこういう話は社会に言いふらすべきことじゃ無い。
俺自身にも言い聞かせておかなきゃ。
時代は関係ない、知るべき人だけが知る事。
人が人に教えることじゃない、教えられるものでもない。
それぞれの人にその時が来れば「そうなるだけ」の事。運命のようなもの
俺はただ弱いから口出ししてしまった
余計なことはもう言わない、本当は黙っているべきだった。
426 :
考える名無しさん:2012/12/16(日) 16:28:39.76 0
弱い者は自発的に拒絶を始め発狂して死ぬ。
人間などエネルギーの器でしかない。
相対的には個々人の中で大事にしているのが最良かもしれないが、
絶対的な時間の変革というものがある。
もし口外を妨害するよう生まれた恐れが、人間個人の利己的な恩恵の為であるのなら
そこはまだ最終到達可能地点ではない。
不特定多数の他人がいる大地に光を照らすこととは、
人によっては、知りたくもないことを明るみにすることとも捉えることができる。
闇を作り、闇の中に生きたい人は、光の反射を防いだり屈折させるやり方で
己を不可解なものに作り替えていくはずだ。
>>Absalom ◆owNN8RDlXo
貴方が、
賢いなら科学、
信じることが得意なら比較的安全な礼拝するキリスト教の類、
感情が抑えられないなら仏教、
無感情なら武道、
見えないものと対面しているならオカルト、
それぞれ貴方の得意で相性の良いものを"受け入れる"のではなく学ぶことを
お勧めする。普通に検索すれば知れるネットの世界ですから簡単です。
学ぶとは習うことではなく、貴方との関係を豊かにすることです。
嫌いなら嫌いという確実な土台ができます。
悟りとか探すのは止めましょう、真実は常に貴方の中にあります。
貴方の中のそれを探せばいいのです。
悟りという言葉は貴方に似合いません、言葉を変えて「覚悟」と置き換えて
下さい。覚悟は悟りを覚えるということです。
「覚悟」なら貴方にもできるでしょう、覚悟は時に魔法のように機能します。
貴方にもっとも似合う(気質に合った=行いやすい)貴方だけの覚悟を決めて
それを宿命として背負ってみては?
気質に合う覚悟は貴方が考えないときに選ぶ選択です。
例えば答えを得られない人は答えを求める情念を止めるのではなく答えを
得ないと覚悟を決めるのです、答えを求めながら答えを得ないという覚悟は
答えに対して寸止めであります。矛盾しているようですが、それこそ本来の
能力や才能を導く「覚悟」の1つになるでしょう。
常に過去に縛られず未来を作り出し活きてゆく、故意にバカになることです。
賢くなったら賢さを極めて終わりです、それは電子頭脳の極みに類似する、
機械人間となります。人間は愚かですが愚かな面も才能です。愚かなほど
強い才能を持つのです。凡人からみて悪い面は裏返せば良い面です。
世界は常に片方に偏るのではなくバランスをとっている、貴方もバランスを
とればいいだけでしょう。それこそ自然であります。
>>427さま
僕のことを考えていただいて、ありがとうございます。僕はロマンチストなので、文学
をやろうと思っています。自分というものが、未だなんなのかさっぱり分からず、
また、変化し続ける脳みそのゆえに、足場を固めることができません。
言われたことの中で、いろいろと実際に本等読んで現在やっているのは、
科学と、仏教です。気が弱いのか、なかなか覚悟を決めることはできません。
しかし、この数年間ずっと2chをやったり、ネットを見たり、本を読んだり
するなかで、思考の柔軟性が身についたと思っています。前提と結果を
逆にしたり、未来から過去を導いたり。とにかく、ものにならなくても
自分にあったものをやっていくことで、悔いのない人生を生きたいと思っています。
いずれにせよ、僕はまだ本格的になにかを専門とするほど追求したことは
ないようです。教養学部だったこともあって、広く浅く(深く?)やってきた
ので、自分をなんとか形にしたいなあというのが実感です。
429 :
考える名無しさん:2012/12/16(日) 19:39:45.69 0
真理に到達すれば、
自分なんてものが存在しないことに気づくだろう
>>428 >自分というものが、未だなんなのかさっぱり分からず、
これは簡単なものです自我というやつです、どうやら貴方は
すこし過保護なんじゃないかな、まず自分の子供を作るか、
放置してしまえば死んでしまう大切なペットを飼うなどで自分の延長を
大きくしてください。自分が自分だけで成立するそれは素晴らしく不安定です
他にとっての自分は他で必須とされているならそれは安定します。
自分作りは自分を欲によって自分の守るべきそれを守りきり
大きな心に成長するものです。
>>428 >気が弱いのか、なかなか覚悟を決めることはできません。
気が弱いのは怖いものを恐れるからです。すべてを理解する、
それは知識を得るのではなく分からないものを自分の尺度、自分だけの
計りで具体的に表し知恵として知ってゆく作業です。
答えが確定してどうにもならない、運命が確定しているなら運命を
怖がる人はいません。寿命が分かっているならそれまでに何かをする
覚悟は自然に生まれます。
対象を知り、自分を知る、それは万能の力に変る道しるべです。
自分の能力は裏切らない、そして他人の能力は裏切りません。
裏切るのは言葉とか知識やら現実です。
常に起こりそうな不快に反発するのではなく、受け流し
相性の悪いそれを逆にもっと悪くなるように押し出し、
その先に何がくるかを考えて見ましょう、超えてしまえば
大抵の結果は状況が逆転するものです、自然とはそういうもので
いつかはその力が尽きて終わります。防げばいつまでも力によって
潰されます。崖から飛び降りろとはいいません。命綱をつけ
防護ネットを張って飛び降りてください、結果は超えられるかどうかです。
強い力になるほど、限界に近いほど、特別な状況こそ限界を超えた先は
終始点となります。何も考えないときに出てくるそれにしたがって
ください、本能が貴方を導くでしょう。
我慢せずに爆発してください。気が弱いならうちに篭る何がが
素晴らしい力となって溜まっているはずです。
その力が悪い方向へ爆発するのを抑え、良い方向へ導いてだくさい。
理性があるうちには間違えることはないです、パニックになった
ときこそ怖いのです。是非正常な心の状態のときに覚悟を決めて
貴方の世界を大きくしましょう。
できないなら実績と訓練不足です。それはそれで実績を感じ取り
積み上げ、心の準備と骨組みにしてゆく前段階ができていないのでしょう。
短絡的にならず、落ち着いたところで冷静に自分の心の極所に嘘をつき
それを思い出さないようにすれば超えられない壁を越えれると思いますよ。
>>431 僕は、もう十七年の間、ずっと家にこもっています。家にこもっていて、
やっていることがあればいいのですが、自分の心の中に閉じこもり、
どうあがいても出ることができないのです。記憶といった行為が、
不可能となってしまっているため、なにをやっても何一つ身につかず、
焦りと苦悩のなかに身をおいていました。ところが、最近になり、
自分を治す方法が分かり、記憶が戻ってきました。今日は、とても
気分が良く、酒も飲まずにほろ酔い気分です。自分が周りを変える
こともできる、自分のやることに意味があるという感覚は、とても
楽しく嬉しいものです。あなたのように、他人を無視せず、関わって
くださる人も、現実にも、2chにもいたということが、他人を不信
に陥るままでなく、生きていこうという強い思いに変わっていられた
要因です。
>>431 >僕は、もう十七年の間、ずっと家にこもっています。家にこもっていて、
そんなこと言うな、2chは現世界の中にあっても現世界ではない。
普通に表にでてきているではないか、外に出れないという話であるなら
文字なら外にでれる?もしかして外見が問題なのか対人の目線が怖いのか?
できないものをやるとか無理はしないほうがいい。
世の中には無料のMMORPGというものがある、そういう外に出れないという
ものならば仮想世界で外にでてみるべき、型にはまって作業だけというのが
結構多いので適度に引退できる2週間無料の俺スゲーが集まる、
"ラグナロクオンライン"を遊んでみてはどうだろうか、PCスペックもそれほど
要求しないので必須ぎりぎりの線でも動きます。2週間たてば無料が終わり
また新しいIDを作ればまた2週間遊べます。
人は自分が基本だけで生きているわけではないので、他の関係で再生されるような
メディアのプレイヤーです。社会や家族といった得たソフトウエアを元に
人がその再生機となって各自の個人の相性として行動や情動、感情として機能
するのですよ。つまり何かの新しい関係ができればその中で新しい心が
豊かになるはずです。
やるべきはできないことじゃなく、できることを少しだけ試してみる。
ダメだったら諦めてやりなおせばいいじゃないですか、
ネットといえど、人の中の本質は人であります。いまの貴方は過去の
それを元に人になったわけで、それは否定できないが新しい関係や
新しい創造は可能でしょう。
とにかく何か遊んでみれば?貴方の得意が何かしらんけど、
遊びは人の心を豊かにする人として成長させる根本ですよ、遊びができないなら
貴方は人間として失格です。まじめではなく、不真面目に遊んでください。
遊び飽きたとき、それは貴方の心が1つ成長した瞬間になる思う。
直飛べるような具体的の場所など示しません、自分で探して自分で何かやってみて。
>>432 >他人を不信に陥るままでなく、生きていこうという強い思いに変わっていられた要因です。
生きて行くんじゃなく活きていってくれ、貴方が燃え尽きるほど輝き消えるかも
しれんが、貴方は貴方の形がある、それが小さくても関係ない、
貴方が生きたという本当の実感が得ることを望むよ。
2chを歩むなら、ここ哲学板であるなら
基本は知を愛すること、自分に問い、他人に問い、世界に問い。
知を得るのではなく考えること、未来の知を結ぶ作業です。
それは今の知でも過去の知でもない、自分と他の狭間にできた妄想のようなもの
妄想は自分の中で発生し、他とのかかわりの中から大きな妄想へと成長するもの
始まりである小さい妄想を大事にしないと大きな妄想は不可能ですよ。
具体的には哲学板で議論とか討論とかするのは賢い人が行うもの、
凡人やそれ以下は「ポエム」=詩、唄の類。思ったもの心に浮かんだものを
意味に成さずに表現すること。それの良し悪しは他に「響く」かどうか、
他人に響けば「叩かれ」「注目され」無関心ではなくなる。
そういうポエムは過去や自分の中から飛び立ち、他の人の中のそこに響いたとき
他の人の心を錯覚させて他人の感情を隆起させるんですよ。
さらに次の段階で他人が錯覚しそれが他人と他人で連鎖したとき、それは
力に変化する、まやかしの「ポエム」は働きへと昇華する。
言葉に魂があるのはそういう働きがあるのです。
この力には2つあり、極めてはいけないのが自分を中心とした利己の実現の
為の力であり。極めるべきなのが他人を中心とした他人が活きる世界を回す為の力です。
考え抜いて、考えを止めたとき誰にでも悟りは訪れます。考えても
考えなくても悟りは訪れません。求めるのではなく、まとって、自分に憑依させて、
自分を、私をという世界を拡大するのは心が大人になる訓練でしょう。
心を安定させるには、精神面やら知との対話だけではダメです、体を動かして
ください。常に立っていてください。呼吸を沢山してください。
そこに叡智たる技が少しでも加われば循環します。
貴方に魔法をかけます、「誓いなさい。できないことは絶対にやらない」
435 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2012/12/30(日) 17:27:29.49 P
恨み、悲しみ、苦しみ、この辺はごちゃごちゃになっている。
相互作用によって、ひとりの人格を破壊するまでに容易に至る。
また、積み重なった年月は、健全さへと収斂していくのが普通だが、
誤作動の積み重なった年月は容易に破壊へと至る。
一人の人間に許された破壊の程度は、死によって限界づけられるが、
それを救うためには一人の中で何かが変わらなければならない。
神の存在を仮定しないと、そのきっかけはおそらく与えられない。
神は、よほどの不可能に対してしか作用しない。
ある考えを起こすには、きっかけが必要とされる。
不可能と考えていた物事は、現実的な不可能ではなく、
思い込みである。不可能と考えていたものごとに対して、
可能へと変化を起こすきっかけが、その人の中で最も重要な
ものである。対価が払われる必要はない。無視されたものごとの
なかに重要なものがある。それは私秘性とも呼ばれるものであり、
無意識のなかにその種が沢山ある。
豊穣さへ向けた可能性の哲学はとても魅力的だ。
誤作動を起こさないように種を育てなければならない。
>>435 神は真実だよ、事実じゃない。君が捉えるべき神は存在であって
実在じゃない。
その気持ちを受け止め育むものが神だ。
神は求めるものに真実を与える、求めていないものには何も与えない。
真実とは貴方が受け止めた何かで、目に見えるものや触れるものではない。
前を向いてゆくべき先が何かを知るのではない、決めればいいんだ。
心が曲がらないかぎり貴方は絶対に負けない、神と共にあらんことを。
倫理というのは、ある個人の中で、特別な集合をどの集合に対応させるか
というルールである。倫理の倫理性は、その普遍性にあるのであって、
共有されていることが重要となる。誤作動の悲しみは、その自覚性に
こそある。歴史の証明を待つことになる。モノと人の区別は、それを区別
しようという意志がなければありえない。(例えば、モノに神が宿ったりも
する。人間に神は宿るのか?といった問題もある)
>>437 対応のルールの不在にあるのが神である、ということだろうか。
少なくとも僕が捉えている範囲の神とは。
僕が捉えるべき神の側面として、絶対神という概念があると思う。
つまり、自分との関わりによって変化しないものということ。
あなたは僕にとっての真実を述べられるのがすごい。
毎度ありがとう。
間違っている僕にとって、同じ程度の目線まで降りてきて語っていただける
のは、気持ちの上でとても勇気づけられる。
なんといっていいかわからないが、あなたにも僕と同じ神があることを願う。
人間に神は宿る。日本では八百万の神と言って米1粒にも後光が差す。
たとえば秀才には神は宿らない、宿るのは天才である。
その原理は間抜を極めたものと、馬鹿を極めて偶然の元に稀に理を得た結果にすぎない。
神が宿った対象には人の錯覚として魂が見えてくるものである。
モノとコトの違いを知ればコトとしての神はいないのがわかる、
モノが意をもったとき神として感じる得るそれが人が得る魂の本質。
ルールなど人が決め制限した事の有り方にすぎない、
神というルールを決めたとき、神はルールの中で存在する神となる。
自分とのかかわりの中の真実であれば、それは正しい、だがそれは他の真実ではない。
自分が変化するように対象も変化する自分との関わりで変化しないのなら神は常に自分
と自身と共に変化するのであろう。
真実とは心のあり方を静的に表現したものでしかない。真実が力を得るには
心を形へ導く状況を見出し気分を誘導し呪縛するルールを心に繋げばいいはず。
心は強い変化の力を持っているものは、心によって心を押さえつけるなど
非常に困難であるはず、それには心に心をぶつけより大きな心を生み出すか
心を衰退させ弱らせるしかない。
それと対照的に弱い心は変化する力を持っていない、心を手助けし
心を導く(とても小さな)布石を積み上げるしかないだろう。
小さな布石は新しい道しるべとなり世界に幸せを導きその反動として唱える
物に光を指す。しかしならが小さい布石を積み上げるには効率よく行わないと
簡単に崩れてしまう。個々を見極め繋げて行くそれしかないのだろうか。
>>440 魂と呼ばれるものの実際について、神と切り離せない概念であるという
ことをおっしゃっておられる。全ての人間に魂があるなら、全ての人間に
神が宿る可能性がある、ということか。
>>441 自分と他人の間にあるものが心であるということでしょうか。心が個人を
定義して、人は変わるための手段として心を外部に定義する。真実が
心のあり方を静的に表現したものなら、上の場合、真実は変わるために
人間がよりどころとして持って、場合によっては真実を個人が規定する
こともある。真実とは、人の数だけある。
心の強さは変化の強さで、それに応じて困難も変わってくる。個々を見極める
のですね。それはめんどくさいように思えても、それだけの報酬はあること
なのでしょう。
宿るのは物質面ではなく精神面に宿るということ。
人であれば多者が意味をもって人を成す形を観る、形が人間を表すときに
「人である」「人でなし」の2つで例える、前者が人間らしく後者は人間とは思えない
ということである。人の物質面で意味を捉えれば魂は宿らず、その人が成す世界との
人間関係が濃淡の模様を表すとき、それは人間の形と感じるはずである。
人間の形に対して魂が宿るのであって、そこに神が成す力が隠れていたとすれば
人にも神のような形がが宿って見えてくる。目で映像的に計るのではなく、心がそれを映し
関係として感じるものが形として比喩される対象ではないだろうか?
自分と他人の間に心なくて、敵国に対する国の心という捉え方ができては論理的に意味が
通じなくなると思う。家族に置いては家族が成す関係の心、国においては国がなす関係の心、
それは外界と宿命で繋がれた関係を結ぶ形が1つの心のように働く。
また足や腕が義手義足ならそれは切り離せても自分の一部である、それが痛めば自分の心も痛む。
心などそういう"あやふや"な存在でないのならば機械的に定義するべきだろう、数学のモデルのように
数式と記号で人間の肉体(脳を中心)として説明してよいのだろうか?
心の強さとは、心を成す形によって決まるだろう、心を成す形が個人の中だけで適用されるもの
ならば個人の利に対するだけの関係を成すだろう、しかし個を超えた切り離せない支えを含む
人の外にある心は個を個より大きな働きへと心を働かせるだろう。他者(家族)の為に必死になる
ような心の働きは個が成す働きと比べた支点の多さは同じではないはず。
個の為に世界があるのではなく世界の為に個があり、世界に逆せず順じたとき世界は
少なからず多からず進む道を示し微笑んでくれる。自分の周りが活きるとき、その反動は
自分に帰ってくる、その逆も然り。世界との関係が無いなら作ればいい、世界を生かす無駄
は相互の相性をもって積み重なるとき運命の偶然は微妙な角度で自らに戻るのではないか?
>>443 形について斬新な意見を述べておられると思いました。形なんて当たり前に
存在するものだと考えがちですが、作用があれば、形に変化が当然起こるので、
またコミュニケーションの基礎としての意味も形にあって。
心についても、その実際のあり方が、他との関係によって変容を受けるので、
運命の偶然という現象を観察することで、その立論を証明づけられるという。
世界にひとつのボールが慣性運動をしているとすると、そこには時間という
量は必要ない。他との比較において登場するのが時間だ。人間に自覚的な
時間が流れるということは、人間が多から成り立っているということだ。
良い面ではそれが生殖能力をもたらすということであり、悪い面では
死が受け入れがたいものになる。
446 :
考える名無しさん:2013/01/03(木) 09:26:50.33 0
圧倒的な力量差が生まれるには、相応の電力供給が必須です。
エネルギーだけでは処理されません。
光接続でデータを受信しなければなりません。
90年代に一度、光通信の実験が行われましたね。
人柱となった方々は、壊れてしまいました。
他に変化を伴わない形など、形とはいえない。
変化を生まないのは形ではなく色だ。
人の形とは、原因・結果という考えの中で
縁起と呼ぶ法によってすべての事象が生じており
「結果」と「原因」が現実のすべての事象と相依相関して成立している
人の有様の意味をもつ外観(形態、形状)を人の形という。
>>447 おっしゃっているように、色は変化しませんね。主体の認識によって、
様々な変化を捉えられることと対照すると、色には何か特別な意味が
あるのかもしれません。
色即是空とは光には形がないということだ。波長によるエネルギー量のみが
光の種類としての色である。時間は時計がなければ測れない。物理時計、
体内時計、細菌時計等ある。光の絶対速度を仮定する便宜は、光に質量がない
(=形がない)ため、相互作用が起きないので、速度に変化が起きないところ
にある。空間的な大きさ(距離)は相対的にしか決まらない(“1”の重み)。
時間はどうか。相対性を可能にするのは、質的類似性であるから、時間の起点
の対称性をはかる方法が必要である。可能性は現実性である。現実は可能なもの
のみである。
ほんとうにそうかな?
意味を与えた瞬間に答えは確定してしまう。
人の顔の向こうには、大いなる妄想の体系が隠れている。
それはうかがい知れず、嘘をつかれるかもしれない。それに
対して踏み込むことは関わりを持つことだ。だが、体系とは
文脈を含むのであって、その文脈を伝えることは(過去に過ぎ去った
ものであるから)不可能だ。
>>451 意味を与えるとはどういうことですか?誰が何に対して意味を「与える」のか。
与える前と後では、何について変化があるのか。
>>453 認知した時点で貴方が対象に対して意味を与えています。
理解した時点で、認識した時点で、全ての物事と貴方の間に意味が生じ始めます
まったく無視された類とは違い意味が生じたことにより結果が変わってくるのです
正しいとは常に主観的な関係であって、それを認知したものと対象の相性できまります。
意味を正しく確定されたとき、意味によって可能性が縛られるのです。
コップの中身が水だったとき飲み物という可能性が絞られます、それがオシッコだったら
飲み物ではないわけです。意味が確定したときありえない関係が起こることが否定され
可能性が狭まってしまうのです。
意味は無限の可能性を有限の可能性へと導く、知性やら理性が誘導する人間には学習
能力があり意味を知った時点で学習によって呪縛されるのです。
>>452 妄想など隠れた何かを何かの観測で見るだけで知ることはできません。
可能性の領域や未来というものは常に未知であり、予見できないものです。
過去を変えることはできないが、過去の解釈を変えることはできる。
解釈は世界にとっての対象の関係であり、対象が変えられないなら世界が
変われば対象との関係(解釈)も変わるのです。
全ての人が過去を否定し新しい過去を捏造して信じれば過去の意味は変わって
しまうのです。それは人の捏造ですが、物でもありえます。
貨幣の借金は貨幣経済の上になりたち、貨幣が評価されない未来に達しえれば
それは現実として貨幣の借金は意味を成さなくなる。
赤い世界で青い体は異物として存在しても世界を青く染めてしまえば異物では
なくなるのです。嘘とは全体の整合性に依存するべき価値観であり、嘘にあわせて
価値観が成立してしまえば嘘ではなくなるのです。
この世は複雑怪奇、ありとあらゆるものが入り混じり、流転してゆくもの。
決して常に確定する静止したものではないはず。
この混沌とした世界を見据える眼があれば、未来の一部すら確定する為の
方法も見えてくる。理性だけではなく感性を得て、悟性を宿せば
知性という物差しだけで生きている世の人々の考えや自分の見える物事がちっぽけな
存在に見えてくると思いますよ。もっと大きな流れや考え方をみることで
どんなに前が見えずとも、世界を活かし自分に流れを誘う方法ならば、
時点の意思とは無関係に自分を活かす流れが生じると思います。
>>454 認知と意味付与が同時に行われるのか、なるほど。それが人間の世界との根本的な
関わり方であるのか。可能性は、まさに性であって、現実より豊かなもので
あるということか。
>>455 可能性や未来が予見不可能とは、その通りだ。過去と未来について、
区別して語っておられる。過去は価値観を付与され、未来にはそれが
不可能である。
もうすぐちっぽけな囚われていた物事から解き放たれるような、脳機能
の変化が起きつつあります、付け足し。
>物事から解き放たれるような
解き放たれなければ縛られるだけです、
世界を創造するものは常に未知へ未来への扉を開く作業です、
そこに意味がなくても意味は作ればいいのです、故に未来への最初の1歩に意味が
ある必要などないのです。既知を超えるとは盲目で混沌な未知を受け入れること
それは見えるものではなく、まったく見えないもの。
見えない未知へ進むには1歩1歩足跡をつけ、開けてはいけない扉を開く
ことです、創造を修正や修飾で行えば原理となる元を超えることはできない
でしょう。修正や修飾ではなく新たな創造をするのです、例え評価されずとも
世界を殺さずに活かす感性が生む創造ならば悟性は未知を既知に換え、
世界は活かされる力によって支える存在に祝福を返してくれるはずです。
それは周囲への布石であり周囲からの布石です、力になってもらえる者たちへの力添えとなる
活かす力は与えた存在が活きる方向へ進むことを望むはずです。
それは人だけではなく物事という物質にも当てはまります、良い状況の
積み上げは自分へと戻ってくるものです。逆に悪い状況の積み上げも然り。
意味が生じる物事は常に対象へだけの関係で考えますが、対象以外の全ての
状況も対象と自身の関係の1つであります。状況を活かせば常に味方に
なってくれるはずです。心を静め感性により空気を感じ流れに委ねたとき
自身へ戻る流れが生じる布石となる状況の創造は、対象以外に対して行うことで
対象への意味も変わってくるという世界の捉え方があるはずです。あると思いたい。
ある犯罪について語っているとしても、それでその人がその罪から遠いわけではない。
知っていることで、そのことの片棒を担いでいるのである。知ることには責任
が伴う。自分を騙せないという意味で。
諦めることが簡単であれば、そうすればいい。難しければそうすることは難しい。
物事の難易度が序列の最も原理的なものを作る。人間にとって、難しいこと
に挑戦することが、したいことであり、簡単なことしかしないのは、耐え難い。
序列から逃れやすい人は、もっとも優れた人間である。難しいことにこだわる
ことは、一番手軽な価値観である。他人との関係において、難しいことしか
言わない人間は、もっとも自分勝手な人であろう。
もう繰り返したくない。ループにはまった生とは、人間的でない。モノの
原理が繰り返しであり、人間に重くのしかかる。重いものは持つのが辛い。
わざと迷路にハマるような愚かさは、僕が最も嫌だと思う。なぜかしら。
人間の原理が苦であり、快ではないのだから、生きる場所を与えられれば、
繰り返しのループが苦を無限に増幅させる。空間が無限で時間が有限(人生)で
あるので、苦は無限に増殖され、快を持続させるためには、時間から自由に
ならなければならない。
人間の考えはすべてが妄想である。自然にしても、妄想である。論理が
ひとつの妄想である。
464 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2013/01/25(金) 22:47:59.30 P
あまりに弱い意思しか持たず恐怖にすくんでいた私は、それのなかに
いた経験から、それはどちらでもいいという悟りに至った。現実以上の
苦しみや恐怖に襲われるけど、それに対していかなる態度をとるかという
ことだけが選択可能だ。一瞬に対する態度と同じで、その悪い未来
から目をそらしてはならない。自己満足で終わってはならない。
つまり、決断を下すこと、そう思った自分から目をそらさないこと。
永遠に続く沈黙ではなく、かき乱された、悪魔と共にいた自分を
認めること。そこからしか新しい未来はやってこない。新たな考え
を始めるには、通らなければならない関門があるのだ。
悪い人はいる。悪いこともある。しかし、それを排除するのではなく、
期待すること。信じる態度を続けること。結局他人の意志と私の期待は
ふたつであり、同じにはならないのだから、他人の行動に口を挟むのでは
なく、私は私でやっていくということに対して、他人の存在と共にある
という共時性を認めること。違いに対して身構えないこと。
悪いことというのは自分や自分の属する集団に対しての好き嫌いの嫌いにすぎない。
アメリカの正義はイスラム原理主義の悪でしかない。
排除するべきではないの確かだが自分の正義に対して活かすべきである、
何故なら排除すれば自らに排除した影響が及ぶからでらる。働きには常に
逆(類似する逆)の働きが発生する。
他人の行動に口を挟むのは他人の本質を理解できていない場合でよいのでは?
他人を理解するならば自分の判断ではなく他人が活きる作用を拡大するように
口を挟む(布石)べきである。それは不明瞭な目標や対象を明確化したり、
無意味で障害となっている部分に別の解釈を与えたりだろうなぁ。
私が私として孤立するのは良い、しかし他人がそれを阻害するような孤立の
しかたは良くない、孤立しても他人が自分を活かすような関係(未来)を感じ
取るべきではないか。
人の考えは過去によれば再生であり、未来に寄れば妄想になる、過去は変化しない
前提で常に正しいが変化を伴う状況では正しくなくなる。故に未来に対しては妄想し
創造へ繋ぐ隙間が生じる。未来は生み出すもので過去に縛られ続けるわけではない。
過去に対する術が有効に出せないのに状況が変わらないのも困る話しである、その
場合は状況そのものが成す働きを感じ取り働きの是非に対して是は破壊を、非は
布石をして状況を自らの好みへ好転するべき存在に変貌させることが重要かと思う、
それには変貌させる願いではなく自らの念を捨て状況の働きを歪みなく感じ取ること
感じる為には情念をもって関係を築かなければ成立しないが、情念を絶つとき
残ったものは感じたものとして浮かび上がってくるだろう。だが情念を絶つなど
目的を残した状態で行うのは人の行動ではない。情念をもって行うのではなく
非情をもって関係を築くならば絶つのたやすいこと。
>>466 僕が465で念頭に置いた「悪い」の概念は、漫画「特攻の拓」の中で、天羽時貞
が言った、「悪い国へ、悪い人たちと、悪いことをしに行くんだよ」という言葉
の通りでした。自覚的な悪、暴走族的な悪、悪党の悪、等です。
それが、なにか他者の積極的な優しさを含んでいるように、思えたのです。
>他人の行動に口を挟むのは他人の本質を理解できていない場合でよいのでは?
これは、コミュニケーションを積極的に図るとはどういうことか、ということについて
の例であるように思いました。
人間の原理があるとすれば、そこに苦もあり快もあるだろう
だが苦だけの世界では世界を苦とは感じ取り難い、快だけの世界でも快を
快と感じ取るのも難しいこと。相対的な経験によって生じるものは
苦を快と騙し、快を苦と騙すことで人間の原理である形に快楽の歪みは
失われるだろう。
>>467 過去と未来と、人との関係に注目されているように思います。記憶が重要でしょう。
考えるから私がある、とデカルトが言ったのは重要ですが、考えるとはどういうことか、
ということについては、難しい。記憶と主観の関わり、といってみてはどうでしょう。
いかに自由を増やすかということを、言っておられるように思いました。
人生は繰り返しだ、しかし色はある、形もある。
弱者の目前で見える最善はほとんどが強者の最悪でもある、
世界は自分の1歩で切り開くもの、1歩を恐れているのは当然のこと
であり多くは無謀な1歩に挫折する。しかし、理屈や常識に反した1歩は
他者からみたら脅威になる、誰でも同じ脅威だからである。それは他者へ
示すと意味が変わってくる恐怖やリスクが高いほど恐怖を防ぐものは恐怖に
陥らないような体勢を取る。つまり他者との関係において無謀で非論理な
1歩は他者への牽制や行動の縛りとして機能する。
高いリスクには逆に働く力が常にペアで存在している、それを見抜けるか
どうかで他人の行動を決められるといっても過言ではない。
自分自身が世界に勝ることは容易ではない、だからこそ他者に愚を引き入れて
もらい自分の後に退いてもらう。
注意したいのは低いリスクではその働きは生じないってこと。窮地に追い込まれた
時にだけその働きを思い出すこと。世界は超えてはいけない常識の扉を破る
ものを常に祝福する。だが超えられる扉では意味はない。
見えすぎる目では見えないものを見ることは恐ろしく困難である。
盲目は時に見えないものを見るのに役立つ。
見えないものを見て、それを素直に表せば世間ではキチガイと評価される。
キチガイの世界にも働きはある、その働きを利用する術が正常な世界で
知識になっていないだけである。見えないものだけを見れば当然として
正常な世界を見ることはできない。キチガイ的な働きを正常の世界へ結ぶ
知は魔法やら奇跡やら呪い占いの類として評価される。
そういうものに関係を持ちたくないなら理解するべき対象も自ずから
見えてくるはず。
今は無になろうとしている段階です。最初はそれでいいと思います。
無になろうと努力する。そういう段階は必要です。
どんなに経験を積んでも努力しても願っても、覚悟することは得られない。
知性で考えれば考えるほど努力すればいいという考えに到着してしまう。
理解できたことが到達点だと思ってしまう。
覚悟なんてものは未知の扉を開けることに等しい、
そしてそれを得る為の状況が必要になる。
頑張っても最善を尽くしてもまったく逆効果でしかない。
覚悟はリスクの交換である。リスクは見え難いからこそ受け入れがたいのである。
リスクは恐怖でもあり、その恐怖心の感じ方はにおいのように相対的で
慣れによって変化してしまう。同じ確率の同じ結果であっても誰でも同じ恐怖
となるわけではなく敏感であれば拡大する。
>>475 リスクをおかすことに、個人にとっての質的変化を求めておられるのでしょうか。
恐怖は、ただの感覚であり、見積もりであるわけで、新たな経験の摂取によって、
行くべきところと行くべきでないところの区別がつくようになるでしょう。山登り
に十分な準備をするように。経験を重ねることが、読書の追体験であって、
恐怖等、ホラーを求めるのでなければ、あまり積極的な意味はないと思うのです。
それでも、覚悟を決めるということには、積極的な意味を見いだせないわけじゃない。
安全装置を作っておくことは、必要でしょう。
>>476 恐怖がただの感覚であるようにリスクも主観である。主体の状況、選択によって
リスクは変貌する。それは情動を原理としている人間の本質部分が恐怖を拒めない
ことでもある。見えているリスク評価にも評価であるかぎり間違となる部分つまり
リスク評価選択のリスクがある。経験を積んでも根源的恐怖は超えることができない
、だが慣れることでより低い恐怖は曖昧にできる。明白にするべきは"根源的恐怖を
超えるには根源的恐怖に慣れることではない"ということだ。対象を根源的恐怖では
無くせばいい。リスクも然り。根源的恐怖は完全なる未知であり人間が育つ発生の
段階で得た好き嫌いの根源によって未知なものを知る繰り返しで得た感情である。
根源的リスクは小さなリスクを選ぶことで主体との関係で減らせるということである。
この減らしたリスクは他者には理解できない、より大きなリスクを選べば選ぶほど
根源的リスクは減ってゆくという原理である。それはセンサーが曖昧な地雷処理で
地雷の遠くではなく地雷の近くに地雷が無いのを確認するような感情下で行うもの。
リスクの高いものを前もって処理すれば残ったリスクは極小のリスクになりえる。
複数で交代でその類の地雷しょりゲームならば、高いリスクを選べば相手(他者)は低い
リスクを選ぶ確率がより高まる。自分が高いリスクを選ぶほど相手は自分より高い
リスクを選ぶことはほぼありえないだろう。つまりリスクを踏むことで世界を未来に
対する確率的な目測を意思によって偶然の領域から必然の領域へと拡張できるのです。
一度低い流れを選べばそれに反する心理には成れない、可能性は確率計算の掛け算で
表せても歪んだ流れや力に依存するのです。10%の中で10%の別条件ならそれらが
加算や乗算で新しい確率計算ができるのは状況が一様分布のように全てが平均化され
歪んでいない場合のみです。リスクは常に一定ではなく激しく変動するのです。
リスクは経験によって取り除くことはできても無知の領域のリスクは
取り除けません。人が掴めないのはその無知への領域、非常の領域の
リスクです、つまり未来がそれと同質といえます。近い未来は予測で
できますが遠い未来は予測不可能です。科学を理解しているならば、
その予測不可能なのは理解できるはずです。リスクを扱う側は予測を
するのでは何も解決できないのです、未来への姿勢はリスクや恐怖へ
の姿勢と同質です、それは恐怖を避けるには恐怖を予測するのではなく
恐怖を克服しろと考えるべきです。根源的な恐怖感(予測)は変える
ことはできなくても対象そのものを恐怖では無くせばいいだけです。
恐怖を知り、恐怖への手がかりを築き、恐怖そのものを恐怖ではない
対象へ操作してしまえばよいでしょう。意思が繋げる恐怖の操作は修正
可能な恐怖の領域までです、それは経験すれば良いと思うのは可能ですが
現実に恐怖と対峙するとき向き合い克服するという強い姿勢がないかぎり
恐怖という根源的な力はより強く意味になりえないそれは意思などという
確定しない情念では"とらえどころ"がない為に力に流されます。
覚悟は目標を掲げる最大公倍数的な意思で理解して向き合うのではなく、
最悪を守る心の砦で守りぬく最小公倍数的な力です。それは意思で覚悟
するのではなく自分の心を曲げない馬鹿げた頑固さで貫き通すという
姿勢でもあります、理性や知性で安全装置を作っても対象に対する攻防は
最適化された合理化する準備でしかないのです、意思でつくり上げる類は
非合理で非最適化された安全装置もどきなど生み出しません。
より安全にいるという自信(力の流れ)はこれらの安全装置すらハリボテ、
骨抜きにしてしまいます。リスクは移り行き揺らめくもの、最善に潜む
リスクに気がつけないのは最善だからです。最善の1歩、2歩手前の不完全
さこそが最善なのです。
479 :
考える名無しさん:2013/02/02(土) 23:57:42.02 0
480 :
考える名無しさん:2013/02/04(月) 15:42:59.19 0
>>479 >>480 悪魔の存在を知らずして、悟りには入れない。
悪魔が何かを体験できない貴方には、自身の中にある悪魔に支配される。
釈迦といえど、前世の記憶があるわけではない。この世の体験のみによって、悟り
の内容は語られるはずだ。輪廻から外れるということを、この世のいかなる思考
によって、魂において達成されるかと考えると、ひとつのことや、多くのことに
悩まされていることを否定しただろう。それではいかにして悩みから解放される
かと言えば、考えることをやめるという体験を積み重ねることだと思う。惰性の
思考に対して、中止という主体的行為が考えられる。それを自由に操れるように
なれば、外界の擾乱に対して、悟ることが可能になると思う。
個人の内面は宇宙と同じくらい豊かだ、ということは、割と簡単に言えると
思う。外界の擾乱に対して、内面の観想によって悟りという最大限の、真理の、
世界に気づくということは、禅などの瞑想の目的とするところだろう。
あまりに大きな可能性が内面にあるため、逆にそれの真理にたっすることが
難しいと言える。だが、そこにあるものは、確かにあるのだ。いまから、内面
を見つめて、自分をいかに見いだせるかという実験をやってみよう。
悟ることは可能でも共通の悟りではないのは明白。
美しさに感動ができても同じ美しさを知るわけでもない、その美しさは
千差万別で同じ経験(接点)を持たないものに伝えれば偶像になるのは
避けられない。
千差万別とか思うのは、我の影響。
悟りは無我の向こう側にある。
だれの『悟り』であれ、それは一点に収斂される。
語ったそれは悟りではない、こういう奴ほどシッタカをする。
心癒されるイメージ。座っている自分の姿があって、その体の中に、はらはらと
落ち葉が一枚づつ落ちては積み重なっていく。それはもちろん時間の堆積を
表す。
無我に向こう側などないよ。
無にする方向に対しては、これ以上発展はしないさ。
無我の次は、如何にしたら欲望も恐怖もないままの状態で心の覚醒レベルを高めるかを模索しないと。
そこに到達できたら、邪念のない正しい思考ができる。
自分は偉いんだとか、特別だとか、そういう思い上がりがない、
あいつは悪いんだ、みんなアイツのせいなんだとかいう妬みや憎しみがない状態で、
この世の中で本当に正しいと思うことをひとつひとつ積み上げてゆく。
やがてそこに現れるものが真理で、真理を知ることが『悟り』。
真理は知っても表すことができない、気が付けよ。そのぐらい。
単なる知性にたいしての悟性であって、知性で悟性を説明などできない、
知性で悟性を説明しちゃったら千差万別あるのは間違いない、
だが悟性でみるそれは1つでしかない。
言葉に表すそれは千差万別の喩えのように無数の側面がある性質を理解する
必要があり、千差万別のようなことがない単純思考ではたどり着けない。
地球は、時点周期のおよそ365倍の時間で太陽を一周している。
これは、古今東西、あまたの文明がそれぞれ独自に導きだした『真理』。
それをどうやって導くことが出来るかは、個々の文明が持つ技術水準と観測精度の問題。
精神も同じ。
エゴ、煩悩を捨てるのが観測精度の向上。
その思い込みを捨てた状態で世の中を客観的に観測し、法則性を導き出す為に必要なのは真の意味での知能。
導きだされた公式と、それに基づいて得られる数値に該当するものが真理。
真理を理解して自分の価値観として吸収し、血肉とすることが悟り。
真理は知っても表せないとか言ってるのは、ただ単に知的水準が低いだけ。
全く科学的な問題。
精神が科学である以上、誰の導きだした答えであれ、一点に収斂される。
最低限の水準に達してない奴には、これを論じる資格さえ無く、自分に資格がないという自覚すら持てない。
だから、『できない』などという。
日本人にできない事なんて無い。
韓国が世界の中心である。
知的水準が低いとか馬鹿なことを言うのに触るべからず。
495 :
考える名無しさん:2013/02/16(土) 06:24:42.63 0
韓国人にできない事なんて無い。
僕の欲しかった悟りがなんだったかというと、肉体的苦痛から逃れることだった。
一度眠りにつき(障害を得)、目覚めることができた。そういう悟りにおいて、
論理的な導きではなく、脳の自由な自発的機能によってろ過され残ったものは、
他人への慈悲と、自ら歩むこと。
ここでいう目覚めと眠りについては、時間の経過という側面が重要になる。
つまり、時間を現実として見て、目覚めと眠りの比喩的側面は問わないこと。
それが真に厳しい道であり、真に厳しい道こそ、論理に肉薄した最も自由な道である。
ヒント ナゾな人は痛みを感じていないわけではない、痛みを快楽と
錯覚してしまっているからである。
原始的な感覚は発生時の学習によって知覚に結びつく。
×ナゾな人
○マゾな人(M趣味)
自らの否定的な意見を見捨てないようにしなければならない。否定という運動に抗すること
即ち否定性を肯定することである。もしすべての論理を体現したいと思えば、人間の自然な
感情が、ある傾向を持つこと、すなわち人間の罪というものがあることを留意せねばならない。
否定性を否定することはすなわち自己否定である。自己の意識というのはつねに矛盾を孕まない
統一体の状態であるから、記憶の中で否定に気づくことは、過去を振り返ることであり、そのことは
つねに新たな可能性への希望を孕んでいる。
503 :
考える名無しさん:2013/02/23(土) 17:48:02.07 0
悟る、とは社会の毒に冒された自我を完全に自分のものにすることだ
無我ってのは結局のところ自我の弱い人間の逃げ道でしかない
強くしなやかで、完全に己の支配下にある自我を形成することが肝要かと
その為には文明の成り立ちに関する真実がどうしても必要になってくると思う
>>503 文明の成り立ちについては、キリスト教の原罪が一番よく語っているような気がする。
2001年宇宙の旅でも、似たような始まりだし。自我が成り立つためには、智恵の実が
必要だったと。ではそこからどう人は救われるのか。歴史の終末に救済が待つという
キリスト教の教えによると、人間の歴史が罪深い人間の歴史で、神が現れて救ってくれる、
すなわち、歴史の運動が最後まで展開すれば、原罪の罪をなくすような知恵や認識が現れて、
人間全体が救われるということだと考えます。
つまり、自我の形成において他者の否定によっているものはまだまだで、いつか他者でなく
自己の否定に置き換え、自分自身のうちに肯定も否定もよっている状態に至ること、
それが、他者から自己を否定されないために必要であり、アダムとイブの二人の状態(自己と他者)
から、一人の状態に至ることが必要なのではないだろうか。
すると、キリストを殺したのは誰かということになるが、それがすべての悪で、それを集約
することによって、逆にすべての悪を浮き彫りにして、退治することが必要だったと思われる。
現在も、人殺しや盗み等はあとを絶っていないのに加え、資本主義という正体不明の、
あるいは社会主義という反対のもの、という大きな敵がそびえている。
キリスト教の課題は、力には力を持って対抗しようとしたことだろう。大きな悪には、
神の大きな善をもって対峙するという。初期においては、右の頬を打たれたら
左の頬を差し出せという、悪に対して力を持って対処していないのに、最後には
神の戦いという、大きな力を持ち出してしまった。これは、西洋文明の歴史が、
だんだん大きなうねりになっていって、個人では対処しきれないようになったため
ではないだろうか。仏教においては、個人の中での悟りという個別的なものに
教えが説かれているため、大きな力にはなりにくいと思う。
悟りをへて→"阿頼耶識"と"阿摩羅識"に至ることに意味があるわけで
悟りなど扉を開く通過点でしかないのです。
仏識である"乾栗陀耶識"において意味を問うなら、まったく正反対の世界に
向かっています。
論理や思考や言葉で比喩され考えることができるのは末那識や意識の領域でしかありません。
釈迦の悟りとは、無我の領域、そして無我とは我はどこにでも無数に
存在するという意味で主なるものなど無いということ、
人の知は全てに通じているが隣り合うものは極僅かなゆえに
自分という主体を作り出す、そして主体に都合がよい理を唱えだす。
人の知は他を見る力がある故に見えない類の存在を理解できない。
見えすぎる目は世界の本質を全て意味に変えてしまう。
意味で理解すれば本質なる力の根本原理(ブラスマン)や根源真我(アートマン)
を単語の解説にしか受け取れない。
理屈を知り理解するのではなく、感じ取ることそこに悟りが現れる。
悟りを悟り以外の比喩で表すことは悟りから遠ざかることに過ぎない。
真の存在を否定する人はいないだろう。すべての物事や概念に真がある。だから真は
偶像のように、近づくべき目標として目に映る。目や感覚器による認識は、人間という
枠にはまった二次的なものだ。人間が真にいかに近づけるかということを考えた場合、
解脱という認識に至ることが必要である。そのためには、感覚による悟りも重要であり、
百万言を費やして語ることも重要である。使える道具は全て使わねばならない。
結局悟りとは、自然によって出来ている人間が、いかに世界の中で満足できるか、
焦りはないだろうかという問題が浮上してくる。真に至れば、そいう言うことは問題に
ならない。
非論理を論理で語る意味を理解しよう。
論理は摂理ではない現実
他人と自分の違いってなんだろう。他人から言われると嫌な気持ちがすること、を
自分で考えることもある。でも自己嫌悪ってこともある。視線が許せないって感じるのか。
人間の基本的な生物としての競合性か。愛も憎しみも同じところから来ている気がする。
他人も自分も区別するまで違いなどない。区別した働きを形成したときに
働きを妨げるものを単に他と認識してしまうだけ。
同じ組織でも妨げる働きをもつものは他でしかない。
悟りの心に自分と他人とか区別などないわ。
>>513 >他人と自分の違いってなんだろう。
独我論的「我」が違います。
それ以外は極論を言うと、何でもいい。
>>516 独我論は、名を与える我と、与えられる事物の双方が一致するときに世界が成り立つ
ということみたいです。他者も名を与えるけど、我と他者は主体であるという
点において、一致するみたい。自己の主体性と自己の客体性の、客体性の方に
我があるということを思う。
>>517 >客体性の方に我があるということを思う。
言葉遊びだと思うよ。
過去にタイムスリップして、過去の自分に会うとする。さて、「我」はどいらにある?
当たり前にタイムスリップした主体にある。
さて、「我」は客観性側にあるのですか?
客観性が存在しないところにあるのでは?
>>518 客体とは、対象という意味で使いました。我は世界や他者から対象として扱われる、
体験ができる。他者は客体、対象として扱われる経験ができない。という違い。
>>519 おなじことだよ。
世界から対象として扱われるから自我がある、とは私は思わない、といっています。
私が「ある」。この「ある」の部分が自我の根拠であり、他者と自分の決定的な違いです。
明日目が覚めた時に、記憶も容姿も何もかも全てが変わっていたとしても、私は私のことを私とおもい続けます。
なぜなら、「ある」からです。他の全ての事柄は飾りにしか過ぎません。
もっと言うと、
>>520だからこそ、「私」の世界は今、常に作り出されています。
独我論的私である「ある」に世界の連続性は必要ありません。
その連続性すらも、「今」作られています。
>>513 >愛も憎しみも同じところから来ている気がする。
愛は「私」である独我論自我を想像で、他者に贈り与えること、とも言える。
人間に自我を与えた神の奇跡を相当次元の低い形で模した行為、とも形容できるかも。
点である「私」が他者に私を贈り与える。すると、「私」は他者の私を包み込む大きな点になる。
比較して、「私」が他者の私を拒否する時、他者の私を包み込む大きな点に他者の黒い穴が空く。
愛は自分の存在を拡張させる。
憎しみは自分に空いた穴により収縮させる。
一方は共感により、一方は反感により生まれる。
愛と憎しみはその視点から見ると、両極端な別々のところから生じている。
しかし、視座をもっとマクロなところにもってゆけば、同じところから来ている、とも言える。
神は全てなのだから当然だけど。
>>522 スレ主を救済するスレなんだからもっとやさしくしてやれよ
>>523 私は言いたいことを言ってるだけ。
悪口言ってるわけじゃないからいいでしょ。
それをどう受け止めるかは本人次第でしょ。
それに、同じところをグルグル廻ってもどこにもたどり着けないと思うよ。
>>524 >私は言いたいことを言ってるだけ。
すごい。
笑ったw
527 :
考える名無しさん:2013/03/06(水) 23:52:32.74 0
死ぬ前に死ぬこと
死んでから生きること
死ねば助かるのに
530 :
考える名無しさん:2013/03/07(木) 14:50:43.54 0
トランスヒューマンは左脳切除式強制開悟型人間
531 :
S・イマムラ:2013/03/07(木) 16:45:08.73 0
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考察が甘い
今は粒子よりも弦
平等という問題を考えよう。人は対象として平等に扱われる。我は人と平等ではない。
なぜなら我はただ一つしか世界に認識登場せず、人とは違うからだ。
>>533 差別と平等だ、機会均等の考え方であって能力が無いものを区別するのは
差別ではない。
平等などというのは赤ん坊と相撲取りに同じ量の食事を与えれば平等という
ものではない。
貧しい間違った思い込みや勝手な想像の知覚や知識をもちいてレッテルをはり
歪んだ区別が差別である。
頭の悪いものは区別と差別は同じものだと認識するのが困った問題である。
535 :
考える名無しさん:2013/03/09(土) 02:35:29.59 I
虚無主義なら全て平等
536 :
S・イマムラ:2013/03/09(土) 04:54:00.79 0
命ある限り、生きねばならない。
命の無い処には、一切が無い。
現実が総て。時間的にも、空間的にも。
歴史的にも、政治的にも。
命は、一つ。
差別も、平等も、超えた、実存。
537 :
考える名無しさん:2013/03/09(土) 15:20:50.11 0
そんなことない
538 :
S・イマムラ:2013/03/09(土) 15:35:24.75 0
この命 あってこその 世界
前世 生まれる前の世界 あったにせよ
来世 死後の世界 仮令 あったにせよ
それは 無意味
この現実の 生きた命 これが総てに勝る
片腹痛いわ。思い上がりも甚だしい。
540 :
S・イマムラ:2013/03/09(土) 17:05:58.66 0
↑ このように意見言えるのも 命あっての話
>>533 全ての人間は、唯一の我をそれぞれ持っている、という意味において、平等だ。
>>538 今は過去と未来を全て包括する。
時間は空間でもある。
「良い」今は、未来を作る今であること。言葉を変えると未来の主人。
「悪い」今は、過去に縛られる今であること。言葉を変えると過去の奴隷。
娑婆世界に感謝できるなんて
おめでたい
全ては神で出来ている
545 :
考える名無しさん:2013/03/09(土) 22:34:08.84 0
ただの汎神論
汎神論の「ただの」って単語をつけただけだよね…
547 :
考える名無しさん:2013/03/09(土) 22:43:31.36 0
汎神論を持ち出して何が言いたいの?
ってニュアンス
娑婆世界への感謝がおめでたいって、やつに対して答えただけだよ。
すべて神でできてたら感謝できるの?
世界は無慈悲で不条理だよ
世界は個人に中心化されてる。
その世界で起きるイベントは原因と結果の因果関係で出来ている。
その因果関係は個人を成長させるためにある。
全ての個人を取り巻く世界は個人を成長させるためにある。
だから、ありがたい。
拷問受けることになっても?
個人の成長って?
成長しても死ぬじゃん
原因と結果。
その原因は個人にあり、
個人がそのイベントを求める。
小さな自我視点ではなく、真我視点ではそれが正しいのだと理解している。
それに、個我は死なない。
だから、過去生も未来生も死後も“ある”。
原因と結果の因果関係は「この 」人生内のものと、過去生とこの人生内のものの2種類に大別できる。
一見理不尽に見えるものは後者を指す。
それとは少しだけ別の軸として、国家や人種、人類レベルの大きな因果関係もある。
大きな因果関係の犠牲になった人達はありがたい。その供儀の行ないは、残された人達の心魂の浄化と未来を作る力をもたらす。
そして、その行ないはもちろん新しい原因と結果をその個人にもたらす。
縁起や因果に付価値してどうする
ニヒリズムから脱してないよ
>>555 >縁起や因果に付価値してどうする
具体的にどこの内容でそう思いました?
>ニヒリズムから脱してないよ
どこの内容にニヒリズムを感じました?
理由も教えてください。
銀河も宇宙も消滅するしね
イロンナキチガイがアツマッテうれしい。
病んでるなぁ。。。
560 :
考える名無しさん:2013/03/10(日) 01:18:23.39 I
お前がね
心配しなくても、まともに社会で活躍してるので大丈夫です。
自分の心配だけしてください。
でも死ぬんだよ
そりゃ全ての生物は死にますねぇ。。。
でも、だからなんなのですか?
ただ死ぬ
無
何をしようと死ぬ
脈絡がないですねぇ。。。
死ぬ、の定義の問題ですね。
あなたのは素朴なニヒリズムですね。
睡眠時に人は「通常の意識」を失います。
なぜなら、「魂と霊」が身体から離れるからです。
でも、死にません。なぜなら、身体と生命が共にあるからです。この状態は植物と比較できます。
人が死ぬ時は身体から生命も離れます。この状態は鉱物と比較できます。
死んでも、生命と魂と霊は残ります。身体を失っているので、意識状態はそれのあるものとは変わってしまいます。
死んであなたが失うのは身体とそれがある時の意識状態です。
あなたの無の定義は雑だと思います。
死によって
あなたの世界は消滅する
すなわち無
安易に霊魂説を信仰できるなら
それはまた救い
だが無
分かった分かったw
あなたの世界は死んだら消滅するんですね。好きにすればいいです。
あなたと違い、私達はこの生で培った学びを本当の私にフィードバックして成長させます。あなたは自由に虚無に沈んでください。
それを望むのであれば好きにすればいいです。
570 :
S・イマムラ:2013/03/10(日) 05:43:48.28 0
命ある限り
観察し そして 思考が可能なら 認識し 検討し 決定し
何かを得る
それを 繰り返し 繰り返し そして 死が訪れる
命ある限り 生きる
恐怖から目を逸らすのもよし
だが
今も刻一刻と死へと向かう
イマムラって教養ないよね
だからそこでも
日本人はニヒリズムに浸れるほどの
頭がないって言われてんじゃねーか
共同幻想で洗脳されてんだよ
哲学板で人生否定スレッド乱立してるだろ
俺と遊びたいから冗談で言ってると思ったけど
本当にいかれてんの?
中二病も何も
人間が生まれながらの死刑囚なのは事実
残りの人生怯えて暮らしてね
あんたまともに哲学書読んだことないでしょ
一番影響受けた思想家は誰?
578 :
考える名無しさん:2013/03/10(日) 13:30:14.65 I
早く
厨房はニーチェがお好き。
ショーペンハウエルではない。
深淵とか、好きな単語が勢揃い☆
あんたのを聞いてるの
霊魂説いてるのなんて
神秘主義系しかないじゃん
581 :
考える名無しさん:2013/03/10(日) 13:38:44.61 I
ほれさっさと
ググってんじゃねーぞ
効いてる効いてるwwww
いいから早く
日本で有名な哲学者○○均に一番影響を与えた哲学者、だーれだwww?
585 :
考える名無しさん:2013/03/10(日) 13:44:43.42 I
永井
影響を与えた哲学者のほうは?
ニヤニヤ…
まぁ、まともに大学出て学んでる人だったら誰でも読んだことあるでしょ。普通。
わざわざ、哲学書持ち出すところが厨2クオリティw
規制入った
そんなんたくさんいるだろ…
永井の系列は霊魂説とは反対だし
で誰なの?
そのへんてこな理論言ってるのは
いや、哲学の話と上で言ってる話はそりゃ別だろwww
あと、霊魂の概念は古代ギリシア哲学からあるしwww
だから
だ れ な の ?
もったいぶらないで早くしろよ
一番好きな哲学者はもう答えてるよ。
分からなければググれw
>>577にはすでに答えてやってるよ。
優しいなぁ俺は…
で、今度はそっちターンな。
興味全然ないから答えなくていいけどw
俺が577だ
アホ
どうせなんも知らないんだろ…
俺とお前しかいない
ボケてんの?
いいから早く答えろよ
最後にスレチだから
暇な厨房は二度と書き込まないよう
自分の行動を改めることはできる。でもそれを他人のために使うことは難しい。
なぜなら、他人のことはあまり知らないから。何をして欲しいのかということを、
深いところまで理解して、まるで自分の身を守るように他人のために尽くすことは
難しい。その溝を埋めることは、難しく時間のかかることだ。だから、自分の
中で完結していることは、それほど責められることでもないだろう。
人間なんてエゴの肉塊だからどうしようもないね
他人のためなどありえない
>>595 そうだよねwww
あまりにも頓珍漢なことを
>>593で言ってたから違う人かと思ったw
ミスリードを超えた斜め上すぎること言ってたから…
文書、落ち着いて読もうなw
あと、このスレは悟りすれだからw
あと、暇なのは2chに一日中張り付いてるおまえだからwwww
あと、エゴの肉塊てwwww
なれなれしいんだよ
書き込むなっつったろ
悟りの前段階でコンプレックスやトラウマを解消しておく必要がある。
コンプレックスが強いとこの前段階で時間を多く費やすことになる。
時間を費やすことは損にはならない。
自身のコンプレックスと向き合う作業を丁寧に進めることは苦しいが、
心身が軽くなっていく楽しみがそこにあることも発見する。
>>597 >自分の行動を改めることはできる。
対価なしで改めても最終的に本質的な行動に収束する。行動を選べるのはどうでもよい
場の選択だけ。その選ぶ作業においても自身の姿勢によって世界に支配される。
>でもそれを他人のために使うことは難しい。
他人の為にと考えるのは愚か、常に自分の為に他人を活かすのが他人の為である
というもの、それは他人によって自分が活かされている状況を受け入れること。
対価というのは常に支払うものと誤解されるが、貰うものも対価である。
「貰うことで対価を支払う」「利益と思ったものが更なる利益を生む」
不利益に対する利益のバランスと考える対価ではないのです。
考えるべきことは世界や他人とが成す働きをその接点のみの利害ではなく
大局的な流れとして考えるのです。"小さい何かが大きな何か"を生む、
それは受け入れたくないことも受け入れたいことにも通じる。
対価は常に働きに対して均等であって個にとって均等ではないのです。
自分を中心とするなら、自分を活かす世界や他人に対して働きかけること、
例え小さい働きであっても時間と繰り返しはそれ以上の働きを生み出せる。
その大局的な働きを念じず望まず強請らず静かに見据えることで見えてくる
類は悟りの領域において初めて見えてくる類であります。
己が否定するのではなく、己を活かすなら己に対する利を得ないことで義が
生じることを理解し世界が己を活かしていることを感じれば世界は常に
世界を活かす己を無数の僅かな力で繰り返し祝福してくれます。
それが小さすぎるから見えなくても何に対して働きがあるかは
働きを誘導する己が世界や他人に対する姿勢によって場を形成しうるのです。
それエランヴィタールの二番煎じだから
悟りでも何でもないし
もう少しお勉強しましょうね
形成しうるのです。()
中学生レベルで
コピペみたいだな
対価なしで改めても最終的に本質的な行動に収束する。行動を選べるのはどうでもよい
場の選択だけ。その選ぶ作業においても自身の姿勢によって世界に支配される。
>でもそれを他人のために使うことは難しい。
他人の為にと考えるのは愚か、常に自分の為に他人を活かすのが他人の為である
というもの、それは他人によって自分が活かされている状況を受け入れること。
対価というのは常に支払うものと誤解されるが、貰うものも対価である。
「貰うことで対価を支払う」「利益と思ったものが更なる利益を生む」
不利益に対する利益のバランスと考える対価ではないのです。
考えるべきことは世界や他人とが成す働きをその接点のみの利害ではなく
大局的な流れとして考えるのです。"小さい何かが大きな何か"を生む、
それは受け入れたくないことも受け入れたいことにも通じる。
対価は常に働きに対して均等であって個にとって均等ではないのです。
自分を中心とするなら、自分を活かす世界や他人に対して働きかけること、
例え小さい働きであっても時間と繰り返しはそれ以上の働きを生み出せる。
その大局的な働きを念じず望まず強請らず静かに見据えることで見えてくる
類は悟りの領域において初めて見えてくる類であります。
己が否定するのではなく、己を活かすなら己に対する利を得ないことで義が
生じることを理解し世界が己を活かしていることを感じれば世界は常に
世界を活かす己を無数の僅かな力で繰り返し祝福してくれます。
それが小さすぎるから見えなくても何に対して働きがあるかは
働きを誘導する己が世界や他人に対する姿勢によって場を形成しうるのです。
対価なしで改めても最終的に本質的な行動に収束する。行動を選べるのはどうでもよい
場の選択だけ。その選ぶ作業においても自身の姿勢によって世界に支配される。
>でもそれを他人のために使うことは難しい。
他人の為にと考えるのは愚か、常に自分の為に他人を活かすのが他人の為である
というもの、それは他人によって自分が活かされている状況を受け入れること。
対価というのは常に支払うものと誤解されるが、貰うものも対価である。
「貰うことで対価を支払う」「利益と思ったものが更なる利益を生む」
不利益に対する利益のバランスと考える対価ではないのです。
考えるべきことは世界や他人とが成す働きをその接点のみの利害ではなく
大局的な流れとして考えるのです。"小さい何かが大きな何か"を生む、
それは受け入れたくないことも受け入れたいことにも通じる。
対価は常に働きに対して均等であって個にとって均等ではないのです。
自分を中心とするなら、自分を活かす世界や他人に対して働きかけること、
例え小さい働きであっても時間と繰り返しはそれ以上の働きを生み出せる。
その大局的な働きを念じず望まず強請らず静かに見据えることで見えてくる
類は悟りの領域において初めて見えてくる類であります。
己が否定するのではなく、己を活かすなら己に対する利を得ないことで義が
生じることを理解し世界が己を活かしていることを感じれば世界は常に
世界を活かす己を無数の僅かな力で繰り返し祝福してくれます。
それが小さすぎるから見えなくても何に対して働きがあるかは
働きを誘導する己が世界や他人に対する姿勢によって場を形成しうるのです。
形成しうるのです!!!
そう!
己が世界や他人に対する姿勢によって場を形成しうるのです!!!
さらに言えば!!
それが小さすぎるから見えなくても何に対して働きがあるかは
働きを誘導する己が世界や他人に対する姿勢によって場を形成しうるのです!!!
つまり!!!
黒い風が泣いている・・・。
添削すると
・決定論
・他者論
・カオス理論(バタフライ効果)
・エラン・ヴィタール
悟り要素0%!!!
脳内妄想はさらに続く。患者さんどうぞ。
↑開き直り乙^^;
なぜ語り得ないものが存在するのかと考えたときに、言語の非人間的側面
が明らかになる。すなわち、言葉の原理はモノであり、人間ではない。
それが、あらゆる不幸、悲しみといったものを、個人の中に押し込め、
苛ませる原因である。言葉にできないことをいかにして伝え合うかという
ことについての哲学がなければならない。
すなわち、全ての人間は言葉を超えている。その優越性をいかにして集合させ、
モノを統べる神の位置まで達成できるかということが考えられる。
そこにおいて、形而上的人間が誕生する。
620 :
考える名無しさん:2013/03/15(金) 22:25:02.65 0
悟りを開きました
良く「生きる意味とは」と聞きますが、それは「死ぬ意味とは」と同じことなのです
“生”は、“死”と表裏一体であって「生=死」であり、生が「善」なら死も「善」なのです
人間の摂理には、生と死は平等であって毎日死ぬために生きているのです
生が、生まれることで「プラス」すると、死は、死ぬことで「マイナス」です
そうすると「生(プラス)=死(マイナス)」は、プラスとマイナスが合わさり「ゼロ(0)」になります
ゼロと言うのは、「無」と言う物になります
ゼロ(無)が意味することとは、「生きる意味」も「死ぬ意味」も“無い”と言うことです
すなわち人間が生まれて死ぬのには、「意味が無い」と言う事です
いつ生まれようといつ死のうと、それは平等の決まり事であるから、
生を死を恐れる必要は無く、毎日普通に生きているのと同じくらい死ぬことも単純なことなのです
人間は、生から死へと進み最終的には本来の姿の「無」に戻ります
無→生→(人生)→死→無
死を「悪」だと考えず「善」と考えれば、生まれたことも死ぬことも善い行いのです
この考えで導き出したことは、死ぬことは生きることと同じように正しき善い行いと言うことです
死を怖がらず死を選ぶことも人間の摂理なんです
ただその場合、生から逃げるために死を選ぶのはこの法則には反します
生と死は平等であって逃げ道の口実ではありません
生も死も平等の元においてのみ実行できるのです
ただの虚無主義じゃねえか
基本的な二元論をしてこいよ
アホなの?
少しは悟りの既存研究を学んでから書き込め
自分勝手な言葉遊びで悦に浸ってんな
623 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2013/03/16(土) 02:04:59.61 0
このようなスレが哲学板に立っていたとは。
悟りとは?
これは後期仏教経典にある「如実知自心」に尽きると思います。
624 :
考える名無しさん:2013/03/16(土) 02:29:28.92 0
>>621 そうなんです、ニヒリズムなんです
本来人間には価値も意味も意義もありません
でも人間は、生きるための口実としてそれらを利用しているのです
生きる口実がある限り、生と死の天秤は傾いていますが、その口実を全部取り払うと、
そこに残るのは平等な生と死のみになります
その姿が人間本来の姿であり、人間の真理なんです
人間の本質は「無」です
でもそこに生への希望、夢、執着、思い・・・が、人間の生きる意味や価値を創っているのです
人間とは本来、生と死の比重は同じであり、生きるのが素晴らしいと言うように、
死ぬこともまた素晴らしいことなんです
僕は、その「死」の素晴らしさを悟ったのです
>>622 済みません、哲学なんて勉強したことないんで、
自分の妄想に浸ってるんです
虚無主義なだけじゃダメなんだ
君の構造主義的妄想は正しいが、悟りはそういうベクトルじゃない
626 :
考える名無しさん:2013/03/16(土) 02:48:08.26 0
素晴らしいと書きましたが、もっと単純に言うと生と死は同じ物ですから、
「今生きているのなら、今死んでもいい」と言う事です
人間には元々価値なんて意味なんてないし、
今生きているのなら、今死んでもいいと言うのが、人間の本質であると悟ったと言う事です
生も死も素晴らしくないから
どっちも削ぎ落とすんだよ
生の執着を無くすことも違うのだ
629 :
考える名無しさん:2013/03/16(土) 02:53:24.62 0
>>625 悟りとは難しいですね
でも「無」は、最大の平等だと思います
その最大の平等は、生も死も同じ本質で一つの物なんだと思います
生を敬い、死を恐れるのは、人間の真理ではないのではないかと思います
630 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2013/03/16(土) 02:54:26.77 0
>>626さん
悟りというものが仏教的なものでないのなら的外れな反論ですので
ご容赦を。
あまりにも空の思想哲学に追従してしまうと
そういった虚無主義になってしまいがちです。
今現在生きる意味、理由を総ては空、無自性という真理に照らし合わせては
少なくとも大乗の思想ではありません。
空即是色ですよ。
そう、死を恐れるのは権力者に植え付けられた
単なるイデオロギー
632 :
考える名無しさん:2013/03/16(土) 03:21:15.23 0
>>630 そうですね。空の思想に追従してると思います
最近は、神も悪魔も信じません
だから死ぬことも生きることも何も怖いものはありません
恐れがない訳ではなく、単にどちらも「無」なのです
虚無と言う物は、人間の本質ではないかと思います
虚無から脱出するのではなく虚無に陥ることが、人間本来の姿なんだと思います
人間は虚無だからこそ、そこに価値や意味を見出そうとしている
それが生に繋がっている
でも人間は虚無が故に、「今生きているのなら、今死んでもいい」と言う理屈が通るのです
虚無は人間の本質であり、真理であるのです
だが、もし君が明日拷問受けることになれば
泣き叫び、祈りたくなる心境になると思うが
さて、その祈りの対象は何なのかな
神を呪って死ぬがいいさ
本当の事を知っている自分から言わせてもらうと
632の方の
理屈はおかしい。
死(-)と生(+)を合わせて0なら
良い(+)と悪い(-)も0なのだ。
だから「今生きているのなら、今死んでもいい」
も言えません。
で、自分の知っている本当の事とは、途中式はもったいないから書かないけど、
「宇宙は人の考え全部正解に成る様になっている」です。
良い人生とは、自にも他にもやさしくする事、そして
責任もって好きなことをやっていくこと、である。
ナーガルジュナの言ってることの逆が正解。
>>629 > 悟りとは難しいですね
態度や姿勢でたどり着くものを貴方は考えようとか論じようとか思考を
めぐらせている。
たとえば円周率のような無限級数表を"数字"で表現することは難しい、
なぜなら全てを表すのはその定義を示す方程式で多数の方程式で不可能とされているから。
思念があるかぎり目的を得られないものもある、思念をもってたどり着くのは
思念を極めた結果として思念が崩壊したときにたどり着く。
より明確で優秀な思念は崩壊しえずたどり着けない。
637 :
考える名無しさん:2013/03/16(土) 15:22:29.18 0
>>635 生も死もイコールで同じことなんです
そのイコールで同じと言う意味は、「生まれてから死ぬまでの間の人生において」と言う意味です
生は、この世に誕生することで「プラス」です
死は、この世から死亡することで「マイナス」です
誕生してから死亡するまでの間は、全てのことわりはイコールなのです
だから実際は、善いも悪いもないのです
こっちが「善」ならあっちも「善」です
これが「悪」ならあれも「悪」です
何故なら、人間には本来価値も意味も無いんです
だから誕生と死亡の二つのプラスマイナス以外は、全てイコールの「等しい」と言う意味です
人生において全てのことわりはプラスとマイナスではなく、
「プラスとプラス」「マイナスとマイナス」なんです
それが人間の本質なんです
「今生きているのなら、今死んでもいい」
これは両方とも同じ意味のことを言っているのです
生きることに理由はありません、死ぬことにも理由はありません
誕生と死亡以外での「生と死」は、そこに敬いや恐怖があるから「善い悪い」と区別をしてしまうのです
でも実際は区別なんてありません
人間には価値なんて意味なんてありませんから、「無」と言う平等の中に存在しているのです
638 :
考える名無しさん:2013/03/16(土) 15:23:43.46 0
ただ人間には力があります
「無」から希望や夢や執着や思い・・・など、感情と言う物があるから生にこだわり
それが生きる価値や意味になるのです
でも人間の本来の姿は、フラットであり平等であり、「無」と言う存在なんです
本来の姿の「始まりの無」には、感情なんてありませんから生も死も同じ意味で
全てが平等である「虚無」の中にこそ人間の本質が存在しているのです
639 :
考える名無しさん:2013/03/16(土) 15:25:10.30 0
>>636 虚無の中には「思念」はありません
全ては意味のないこと価値のないこと考える必要のないことだから
人間の根本は誕生も死亡も「無」に存在しているのです
無→生(誕生+)→人生(価値のないこと++,--)→死(死亡-)→無
人生においては、プラスとマイナスで釣合いを取ることは人間の本質ではありません
人間は誕生した時から、全てのことわりには同じ側面だけしかないのです
全ては同じ側面の平等の上で成り立っており、人間は「無」と言う虚無の中に存在することによって
そこから価値や意味を見出すことで日々生きているのです
生きると言う事は、「生」に比重を置き天秤を傾けている行為です
人間の本来の姿は、「生」も「死」も平等であり価値や意味なんて物もなく
生と死の天秤が水平を保っていないといけないんです
人生において生も死も価値なんて意味もありません
存在するのは、「誕生のプラス」と「死亡のマイナス」だけなんです
その他の全ては根本的に価値をなさない意味をなさない物なんです
ただ先ほども書きましたが、人間には力があるのでそれを行使できる人間は
生と死の比重が崩れ天秤が傾き、生に執着するのです
生への執着を取り払えば、そこには生も死も価値も意味もなさない平等な世界が見えると思います
640 :
635:2013/03/16(土) 16:11:40.77 0
ふん。中論の事を言っているのであれば、あなたのは完全じゃないね。
あれはさ、無いも無い。全ては関係(縁)でしかない、
縁もない。空も非空が有るから仮に有るもので
空も空ってのが竜樹の考えだよ。平等も糞も無いのさ。
いわば「 」←これの括弧を取っ払ったものが空。
べつにあなたがそれで良いなら良いけど
虚無主義だと思うよ、それ。
よく発狂しないね。
俺は反論を知っているから平気だけど。
641 :
635:2013/03/16(土) 16:30:47.45 0
ていうか中論は矛盾している
全部空だったら執着は無い、慈悲も無い、悟りも無い。
俺は大乗仏教に救いは見出せない。
大丈夫、今日
世の中の物事は、変数と関数で表され、変わっていくもの(変数)と、変わらないもの(関数)
をうまく形にして、パラメーター的に受け取っている世界を、変数と関数に
定義していかないといけない。
644 :
考える名無しさん:2013/03/16(土) 17:57:25.49 0
>>641 全部空と言うのは、人間の真理である「虚無」のことです
でも人間にはその虚無に“反発する力”があり
それが「生」への生きる価値や意味や執着に繋がっているのです
人間の真理は、何も価値も意味もなく全てが等しく平等な「虚無」ですから
根本的には、生への価値や意味や執着は無い訳です
ただ虚無と言う「何も価値もない何も意味もなさない等しく平等なゼロ(0)」から
“人間は生きる価値や意味を見出して生きている”と言う事も加えて言いたいのです
人間には知能がありますから、何も無いゼロ(0)から創造して行くことが可能であり
それが虚無の中での生と死の等しく平等な均衡を破って、“生きたい”と言う価値に繋がっているのです
だから知能を捨て思考を停止するとそこには
「僕は生きていても死んでいても変わりない、70億人の地球の中ではちっぽけな無意味な人間だ」
と言うような考えが生まれるのです
でもこのような考えが実際は人間の真理の考えなんです
“生も死も変わりなく、価値も意味もなさない存在”こそが人間の本来の姿なんです
ですが人間には、知能があり感情があり思考があるから
その何も価値も意味もなさない虚無と言う真理に抗って「生きる意味(人生)」を見出そうとしているのです
人間の真理は「虚無」だけど、人間は虚無に抗うことで「生きる意味(人生)」を見出すことが可能だと言う事です
中論は関係ないです
僕の考えは、妄想からの産物です
究極のニヒリズム
なるほど、たしかに妄想(非合理的)だな。
実際は生と死は違うよ。
647 :
635:2013/03/17(日) 07:13:40.50 0
中論は間違ってる。
もったいないからどこがとは言わないけど、論理に一個だけ
木製パズルのようでおもちゃみたいな見落としが有る。
本当の答えは見当はずれ、逆なんだよね。
全部無いじゃなくて、人の思い全部ある(正解)。
中論に一番詳しい俺(一度突き詰めすぎて
ノイローゼになって自殺しかけた)が
言うんだから、信じて〜ん。
他人や人生のことに対して悟るより、
独自で世界を創って遊んだり物事を研究する人になったほうがいいよ
649 :
考える名無しさん:2013/03/17(日) 19:18:08.77 O
執着しない事で苦悩は消える。
自分というのは自分のやりたいようにするだけですよ
個人が外界の認識を可能にするのは、これこれのものが何々であるという認識
によってである。お父さんの姿を見て、その特徴を捉え、これがお父さんだと
思ったりする。そういう認識の積み重ねが、人間の思考である。しかし、問題
が起こるのは、自分についての認識ができないことだ。自分のこれこれの特徴
を捉えて、なるほど自分だ、ということは出来ない。
Aさんの質感、自分の質感という質感はある。
Aさんの特徴を感じて、ああ、これはAさんだなと感じる。
自分らしさの質感を覚えて、ああ、これは自分の体、自分の感覚だなと思う。
Aさんの質感、自分の質感が存在するならば、質を感じている不変の実体、
質を作っている不変の実体、Aさんの不変の実体、自分の不変の実体が探せば見つかるはずだ。
しかし、Aさんの不変の実体、自分の不変の実体は見つけようとも見つからない。
不変の実体としては見つからないのに、Aさんも自分も存在している。
653 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2013/03/18(月) 02:02:03.95 0
>>644さん
それは否定していくプロセスの一部或いは、一状態ですね。
先にも書きましたが虚無主義と涅槃寂静は違うと思いますよ。
そこで止まってしまってはいけない、もっと言えば
止まることは、留まることは出来ないのではないでしょうか。
>>651 人間は人間を演じて肉の塊から人間へと意味づけられるのよ。
現象に意味をつけなければ現象にすぎない。
意を持つのは縁が結ばれたこと、縁が世界を縛り世界は相性を結ぶ記憶を
生じる。
655 :
考える名無しさん:2013/03/18(月) 18:34:18.32 0
>>653 人間やこの世に価値なんて存在しないんです
人間が自ら生きたい(人生を楽しみたい)ために、価値や意味を付与しているに過ぎないんです
だから自分の人生に価値や意味を見出せなくなれば、自ずとして人間の根源を悟るんです
人間の真理は虚無であり、そこは価値なんて意味なんてなく
全てが等しく平等な「空虚(空っぽ)」が存在しているだけなんです
人間にもこの社会にもこの世にも、本質的な価値も意味もありません
あるのは、人間の利己による価値や意味なんです
前段階において自分の中のコンプレックスやトラウマをある程度クリアしておく必要がある。
個人的なコンプレックスやトラウマを抱えたままで悟ろうとしても歪んだ認識の内部で堂々巡りすることになる。
お題が「悟りに近づくために」だけど、
「はよ近づけ!」ってつっこみはありだと思う。
グルグルしてて袋小路に居続けてもどうしようもない。
655
単なる嫌がらせだけど。
価値以前に、他人は君の見ている世界にはいない
だから君が他人に伝えたと思っていることも、全て嘘である。
唯識思想的に言えば、
いま君が見ているのは君自身の単なる空ですらない無限の空っぽの夢である。
660 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2013/03/20(水) 01:10:09.10 0
>>656さん
たしかにそうですね。一旦は既成概念であるとか
簡単に言えば物事の見方を変える必要はあると思います。
ただそれは哲学的には難があると思うのですが。
しかし実践となると最早哲学ではなく宗教ですし。
コンプレックスやトラウマって「クリア」するものなのかな?
そういう概念自体が西洋から入ってきたものでしょ。
コンプレックスやトラウマは「執着」だから、そりゃあ克服しないといけないでしょ。
>>662 いや、だから「自己同一性」という概念そのものが明治時代に西洋からきたものだから
トラウマやコンプレックスを克服しなければいけない、と思った時点で違うんだよ。
悟りならもっと仏教的な観念で見た方がいいのでは?
横文字だから西洋から入って来たと思ってるんだw
パイナップルじゃないんだからw
>>664 は?
もう少し思想史の勉強したらどうなの・・・
無知はやっぱり罪だな。
執着は三毒から。心理学的にも忘却できない(執着の状態にある)原因は三毒にあるって言われてるよ。
人類であれば全て体験している精神的な状態に西洋人が扱いやすい単語を与えようが与えなかろうが、その状態を人類全てが体験していることには変わりない…
667 :
考える名無しさん:2013/03/20(水) 01:29:42.54 0
明治以降、江戸時代までとは自意識の構築の仕方が大きく変わっていったから
コンプレックスやトラウマは違うかもね。
産業化によって日本は大きく分断されてしまった。
人口も一気に三倍に膨れ上がったし。
コンプレックスやトラウマは人とは完全には違うと思うけど動物にもあると思うんだ…
歴史がどうとかって細かい話ではないと思うなぁ。何せ、三毒は根本的な煩悩で、それが原因で生じるものなのだから…
669 :
考える名無しさん:2013/03/20(水) 01:36:28.99 0
心的外傷に相当するようなものは存在しているだろうけど
要は捉え方の問題だよ。
明治〜昭和ファシズム期までに度重なるイデオロギー操作によって
いろんな観念植え付けられていったからね。
家父長制だって天皇制だってそうじゃない。
核家族にまつわるトラウマなんて近代的な病でしょ。
まぁ、あんまりトピと関係ない知識を披露したかっただけなのは凄くよく分かった
671 :
考える名無しさん:2013/03/20(水) 01:41:07.95 0
>>670 なぜ関係ないといえる?
歴史と人の精神って密接に関連しているでしょうが。
知識に対して「コンプレックス」がある時点で、悟りなんざ開けないだろうね。
仏教やってる人って知識人多いわね。
674 :
考える名無しさん:2013/03/20(水) 01:47:14.88 0
スレを読んでいると、悟りというよりも救いが欲しい人が集まってるみたいだね。
弱者救済の宗教みたいなもの。
>>669 >核家族にまつわるトラウマなんて近代的な病でしょ。
そりゃあ「核家族」にまつわるトラウマは近代的な病でしょ。「核家族」なんだから…
心的外傷はいつの時代でもあるし、劣等感の基になる劣等コンプレックスもいつの時代でもあると思うよ…
自分の認識を歪ませている思考の癖を分析することも大事だが、瞬間的に分析できるように。
瞬間で分析できなければ、うじうじ悩むのと同じことになります。
663
がいいたいのは
実際は何も無いが
迷い風なものや執着風なものも結局そのままの自分であり
それもそのままに、ということじゃない?
唯識的に見れば迷いも悟りも同格なんでしょ?w
阿頼耶識、阿摩羅識、乾栗陀耶識。深層無意識がうんたらかんたら
馬鹿みたいだと思うけど
唯識派はいたちごっこ風でアホみたいなとこがある
中観派のが論理で突き詰めると言う意味ではマシ
自分はどっちも信じてないけど
五智とか四諦とか三毒とか、暗記学習かよ
数字で括ってる時点で怪しすぎる
>>679 悟りに至る術(方法の1つ=解釈の1つ)であって、それは悟りとは関係ない。
悟りは【通過点】であって悟りが素晴らしいことではない、悟って初めて
>阿頼耶識、阿摩羅識、乾栗陀耶識。深層無意識がうんたらかんたら
この手の領域にたどり着ける。言葉や意味や論の世界だけしか興味ないのなら
触るべからず。
言葉や意味や論の世界ではないものを言葉や意味や論で扱えば
常に怪しい類でしかない、貴方の感覚は正しい。
悟ったら何かに役立てることで実証してくれ
>>680 いいや、本当の事は中論の逆だからむしろ
言葉や意味や論がそのままの事実をいってる。
べつに使わなくても良いけど。
なんたら識とやらの社会・自然界・他者との関係性を絵図で示してくれ
>>682 いいや、本当の事は中論の逆だからむしろ
言葉や意味や論がそのままの事実をいってる。
べつに使わなくても良いけど。
>>683 めんどい、唯識なら
物事は全部自分の中に有る、しかし自分も幻である、といっている。
>>684 「怪しい類」っていうせせっこましい価値観に言っただけよ
たどり着いたら何ができるの?
無意識を意識化したらどうなるの?
つまり、全部自分の中に有る以外のモデルも可能なわけだ
その一つのモデルにこだわる必要もないと
>>686 無から有を作ったらどうなるか理解できるよな?
>>687 明確にするとは観察者の意思(念)に対する主観的モデル化にすぎない。
動的で不完全であるものを静的に定義(完全化)しちゃダメ、したら不定部分は
念じた形へと歪むだけ。モデル化の能力が高いほど作り出す明確な形はモデル化され
モデルの元になった不明確部分と作り出した部分の比率で作った部分だけになる。
それは論理的には正しくても真理(明確にできないもの)からかけ離れるだけ。
689 :
考える名無しさん:2013/03/23(土) 16:27:08.98 0
自演スレあげ
知良くや情念に支配されていると689のようになる。
知識欲や情念に支配されていると689のようになる。
悟れば何事も無常、無常すら論理で理解する愚かさ。なむあみだぶつ。
悟りって自演か。ていうかバレバレだろw
カルト信者
宇宙論に例えると?
物事が無常なのか
作業するときなどでの、意識の無常化ではなく?
695 :
考える名無しさん:2013/03/23(土) 20:35:21.19 0
自演くんはガマンということを修業したらいいよ
696 :
釈迦:2013/03/23(土) 20:38:44.20 0
自分だけが悟ってればいいという問題ではない
多くの人を悟りに導く人間が、悟ることができるのである
697 :
考える名無しさん:2013/03/23(土) 20:41:31.55 0 BE:3908506695-2BP(1)
みゃ。
全部明確にできるよ、無常も無も明確化できるんよ
どういうことかの説明はしないけどな!
悟れば何事全部明確になるよ、無常も無も
悟れば何事全部明確になるよ、無常も無も
悟れば何事全部明確になるよ、無常も無も
702 :
考える名無しさん:2013/03/23(土) 23:14:36.21 0
鯖飛んでるのに連投する馬鹿が悟りとか言っても説得力0
703 :
考える名無しさん:2013/03/24(日) 00:16:24.44 0
釈迦とかくせーだろ
風呂入ってたのか?
おまえら悟りたいなら明日から風呂入んな
この板くせー
さようなら
699
をみて連呼した奴がいるだけなのにワロッタ
705 :
考える名無しさん:2013/03/24(日) 03:17:47.39 0
虚無主義に到達してから、やはり人間とは無意味・無価値な存在だと強く認識するようになりました
人間の価値や意味とは、生きることにおいて個人がその人生に付与している動機に過ぎません
その動機も死んで無に回帰すれば必要ありません
人間とは、元々「死」の上に成り立つ「生」です
死が大前提であり、死とは虚無の前提です
人間は、生に執着するからそこに意味や価値を求めるのです
生への執着を捨てると自ずと生きる意味や価値が必要ないことが理解できます
「生きていても生きていなくても変わらない」「興味も気力もないからどうでもいい」
そんな状態こそが本来の人間の姿なのです
人間は、虚無の中に存在し、死の上に成り立って生きてるからこそ、その生に意味や価値を見出そうとするのです
生に意味や価値を求めるのは、人間の根源が虚無であるからです
最初から生きることに対して意味や価値が定められていたら、今ほど生に執着することはないと思います
虚無が人間の根源であるから逆に生きたいと願うのです
人間の真理とは、全てが等しく平等で何も意味も価値もなさない虚無を目指すことです
だから人間は死を越えて無に回帰することで、その根源である真理に到達できるのです
生も死もどちらも虚無と言う人間の根源に到達するプロセスの一部に過ぎず
それらには何の意味も価値もありません
虚無とは無であり、無とは全てが等しく平等な状態です
706 :
考える名無しさん:2013/03/24(日) 03:24:07.93 0
俺も明日香キララの舐めしゃぶり見てから
虚無主義におちいりました
死を超えて無に回帰し、真理に到達したいと思います
で?
無は有を否定することで生まれる。死は生の上に成り立つ
無は無い、死は無い。ただ有が有るだけ
皆永遠に自分ひとりの夢を見ている、永遠の有有有
〜では無い、は
〜では無いので有る、の略。
世界は有るしかない。
有るのではない、とも言えるな
世界は無いしかない
世界は無いしかないで有る、なんだよ結局。
「肯定の意味で言っているから」ね
俺はからかっただけだけど
単純ゆえに意外と有るから抜け出すの難しいかもね。
<此処のイメージキャラクター>
かたつむり @ノ”
713 :
考える名無しさん:2013/03/24(日) 15:33:31.47 0
自演スレあらしあげ
悟りになられたら、まず何をしますか?
ただ存在していることを楽しむ
創作や発明はしないのか
悟り開いたら菩薩を増やす活動するに決まってるわな。誰だってそうすると思うけど…
悟りは開くもの、そして閉じるものではない。
論も知識も閉じるものにすぎない。
細かい表現の違いでブツブツ言うなよw
いや、おもしろいじゃない。開くもの閉じるもの。おもしろいこというね。
>>719 なんで無視できないの?大人になれよ、ホゲ
723 :
考える名無しさん:2013/03/25(月) 01:55:51.79 0
発狂してる
これが悟り
724 :
考える名無しさん:2013/03/25(月) 01:59:24.23 0
単なるレス乞食だろ
悟りは開くもの、 論も知識も全部開くのが悟りだよ、ホゲ
726 :
釈迦:2013/03/25(月) 15:37:41.79 0
>>725 マンコは開くもの。股は開くもの。ビラはひらくもの。ほげ
>>1 閉じ行くものは過去と既知、
開き行くものが未来と未知
創造力がないものは論に縛られ、未来を感じることはできない。
未来への扉を開き通り抜けるには過去を徐々に失い未来へ繋ぐしかない。
730 :
考える名無しさん:2013/03/27(水) 13:24:49.75 I
…繋ぐしかない。(キリッ
731 :
考える名無しさん:2013/03/27(水) 13:29:25.54 I
なんて単純な善悪二元論なんだろうか!
おめでたい脳タリン
未来も過去も捨てろッ
今を生きるンふぁアア
今を生きると思うときそれは未来である。
今を守ると考えたときそれは過去である。
いまなど存在しない。
はい、此処までの流れ全部俺のねらいどおり
はい、734を含めて手の上で踊るオマエラ。
736 :
考える名無しさん:2013/03/28(木) 12:02:25.51 I
はぃー
仏陀「あ、言っとくけど悟りなんかに執着してたら悟りに至れないぞ」
>>737 そのとおり悟りなんて何の意味もない、悟りを通り越した先にあるものを
掴んでこそ意味となりえる。
739 :
俺:2013/03/28(木) 18:59:52.27 0
741 :
考える名無しさん:2013/03/28(木) 19:05:59.09 0
此の世の生活を、悟り尽くした世界外生命体の操作する人間人形の織り成す風情だと仮定すると、
此の世で悟ることは、この架空人間世界での生活を無駄にしていることになる。
わざわざ悟りきっている我の操作主の精神と同化しようという無意味な行為に走っていることになる。
この条件において、ひたすらにバカやって突っ走るのが、その「悟り」を超えた正しい生き方とも言えることになる。
742 :
考える名無しさん:2013/03/28(木) 19:13:53.22 0
741非常にいいことを言う100点満点だぜ741
しかしながら俺も明日香キララの舐めしゃぶり見てから
虚無主義におちいりました
死を超えて無に回帰し、真理に到達したいと思います
743 :
考える名無しさん:2013/03/28(木) 19:19:41.19 0
741
素晴らしすぎる
忘れない為に全スレにテンプレートしてくる!
なんで連投してまで自己主張してるのか分からん
745 :
考える名無しさん:2013/03/28(木) 20:53:42.75 0
しかしほんとに言いこというなあ〜
文章の天才か?お前は
746 :
考える名無しさん:2013/03/28(木) 21:17:17.55 0
741は天才だな
一発でわかった
まだこんな人が日本にいたなんて
ありがとう
747 :
考える名無しさん:2013/03/28(木) 22:27:39.50 I
超人思想に疑問を持ってしまった者が
悟りを求めるのですよ
「どうせなら楽しく生きよう」などいう
単純な人生哲学はパンピーに任せておけばいいのです
748 :
考える名無しさん:2013/03/28(木) 22:34:25.92 I
退屈からの逃避としての気晴らしに
翻弄される現存在に満足できるなら
馬鹿やってなさい
749 :
考える名無しさん:2013/03/28(木) 22:40:53.99 0
この異様にシニカルなこの社会は無邪気にも狂気を隠す為だけに、真面目さを装っているだけの人間を見抜けないのだ
サルバドール ダリ
お前らのことだろwww
死に耐えれる脳ではなかったんだろ? ドンマイ
単なる死の逃避形態が真顔で「馬鹿やってなさいだってよ」wwwwww
勘弁してくれよ
750 :
考える名無しさん:2013/03/28(木) 22:43:08.25 0
求めるのは苦なり
勘弁してくれよwwww
751 :
考える名無しさん:2013/03/28(木) 22:46:11.06 0
カジュアルブッタは流行ってんのか?
悟りの向う側垣間見ながら、悟れることってあんの?
聞いたことないわ〜
752 :
考える名無しさん:2013/03/28(木) 22:49:09.44 0
救いを求めるから騙されるんだよ
信じた分だけ報われるわけないじゃん 馬鹿なの?
楽でいろよ豚
捏造された社会怨嗟とかにうまい具合に乗っかって
前意識オヤジ弄りみたいなセカイで
延々アヘアヘしている
幻覚ワールドなんですよ
754 :
考える名無しさん:2013/03/28(木) 23:19:31.15 I
愚鈍さと慣れで死の恐怖を克服できるなら
それでいいですよ
余命宣告で狼狽する醜態は見たくないですが
755 :
考える名無しさん:2013/03/28(木) 23:29:28.97 I
先駆的覚悟を先延ばしにした結果、
ボケボケのゾンビ老人として
現世を彷徨うのはあまりにも哀れではないだろうか
今日お坊さんに聞いたら悟りは普通の人間には無理だって言われた。
757 :
考える名無しさん:2013/03/28(木) 23:42:05.30 I
普通の人間しかいない
758 :
考える名無しさん:2013/03/28(木) 23:51:17.66 I
普通ってなんだ
普通の人間なんていない
759 :
考える名無しさん:2013/03/28(木) 23:52:15.18 0
まだ死の恐怖にいる自己保存欲求が悟ってたら俺に反応しねーだろゴミ
21世紀は2chやって悟れるからな
lsdやれよ
760 :
考える名無しさん:2013/03/28(木) 23:56:16.43 0
Absalam
お前に言いたいことがある豚
俺は天才だ
クオリアはない
死はただの摩擦
お前はとぼけがキツイ偽善野郎 勘弁してくれ
葬式はウケる毎度
俺は天才 後カス
非因果ブラックボックスは天才
以上
761 :
考える名無しさん:2013/03/28(木) 23:56:42.68 I
私は悟ってなどいないし
そう言った覚えもないし
お前誰
自分への悪意は捏造コミで察知し
あとの世間必要性はぜんぶ
ヘェ?
って聞くような
余命三十路になっちゃってんのね
763 :
考える名無しさん:2013/03/28(木) 23:58:48.89 0
論理マージャンで悟れるならすごいなゴミ
夜空をみるたび思い出すがいい
酒鬼薔薇聖斗
764 :
考える名無しさん:2013/03/29(金) 00:04:26.24 I
おはよう
>>760 あなたの態度からは、悟りに近い人のそれを感じる。(スバラシイ
766 :
考える名無しさん:2013/03/29(金) 00:11:22.50 I
素晴らしいね
強き意思の持ち主
767 :
考える名無しさん:2013/03/29(金) 00:12:01.92 I
ブッダを超えている
768 :
考える名無しさん:2013/03/29(金) 00:14:36.35 I
天才以上だ
769 :
考える名無しさん:2013/03/29(金) 01:07:53.10 I
「死はただの摩擦」
かっこよすぎる
凡人には理解出来ないね
死に恐怖してボケちゃった派と役目を終えてボケちゃった派は
どちらのほうがより高精度な説明なの?
771 :
考える名無しさん:2013/03/29(金) 01:22:24.32 I
高精度な説明ってなんじゃ
772 :
考える名無しさん:2013/03/29(金) 01:29:03.69 I
しっかり内省してればボケん
死の恐怖でボケるとは思わんな
恐怖が内向すれば、逆に自殺するだろう
勿論悟りに到達しよう
当然悟りよりも前向きな気持ちの方が大事ですよ
774 :
考える名無しさん:2013/03/29(金) 01:54:34.17 I
非在化だから究極に後ろ向きだ
人間に生まれたことを呪え
凡人には無理だから所詮宗教なんだよね
要らない
776 :
考える名無しさん:2013/03/29(金) 04:08:46.00 0
ああ死はなんて近くにあるんだ
悟りと迷いを分ける意味がわからない
777 :
考える名無しさん:2013/03/29(金) 04:26:11.42 0
まず悟りすました人の理想を捨てることだね
何者も救う必要はないし、救うことはできない
このことを、君は頭でなく全身全霊でわかったのなら、救うというマインドなしに救うようにできている
エブリシング クリスマス
しゃぶれ
778 :
考える名無しさん:2013/03/29(金) 04:30:59.44 0
悟り尽くした世界外生命体が此の世の生活を人間人形を操作しながら時間を費やす目的は何か。
例えば輪廻など人形内世界内の循環の話となり、悟りきっている操作主にとっては人生行為の回数を重ねていることだけが現実である。
迷う人形を操作主の精神に近寄らす無駄は、まさに我を見失っているが故の行動だろう。
我を忘れて人生に没頭したのに我を取り戻しに行くという本末転倒具合がそこにある。
しかし、その無駄な行為は置いておき、操作主は何故、何度も人生を行うのだろうか。
「我」が嫌であることを回収して回っている、というのがひとつのひらめきだ。
バカになることが嫌な人は、いつまでもバカになることを特別視しながら避けたり、人目の無いところで試したりする。
悟ること自体はそれほど大それた事だろうか。悟りを得た我がどこかに居ることを知った上で、
その先の事に手を下すのは、悟りへ向かうよりも、もっと大事(おおごと)であるようだ。
操作主が人間人形の人生を一度で完了しない場合、尚更大事さが増す。
既に悟った操作主にとっても、もう一度やらなくてはならない程のかなり厄介な仕事であるようだからだ。
何かすればまた同じ壁にぶつかる。それはこの人間人形に与えられた偶然の不遇だろうか。
悟った操作主の手癖による粗がその都度浮き彫りになっているだけではないのだろうか。
悟った我はゴールではない。悟らないままで居ることが正しくはない。操作主は、更なる前進を求めている。
779 :
考える名無しさん:2013/03/29(金) 06:38:11.72 0
生きているのがつらいなら あいだみつお
生きているのがつらいなら 新宿のストリップに行けばいい 2万円を握りしめて 一日のうちに3回行けばいい
「おまんこにこすりつけちゃうよ!」「ああ・・マリアちゃん・・」店員に何回も会うのが気まずくても気にするな どうせやつらはゴミだ
生きていくのがつらいなら
イラン人から麻薬を買うといい どうせやつらはワキガだ エクスタシーがいい
ボルビックとともに錠剤を飲み込め そうすると君は憎悪に満ち溢れていたハズの気持ちがいつの間にか「俺、砂浜のゴミとか拾いたいんだよね」とか言い出すが放っておけ
どうせただの口からでまかせだ 友達とやるとホモ臭くなるので注意
生きているのがつらいなら
万引きで生計を立てろ 充実とは終始 そういうことだ
生きているのがつらいなら
生きているのがつらいなら
生と死のやさしさがつらぬいて いつまでもこだましていた
悟りに至る釈迦の一般的な教えすら読んでいないバカって
妄想すごすぎる。
781 :
考える名無しさん:2013/03/29(金) 16:28:58.71 0
生きているのが辛いなら
綿棒をお尻の穴に入れるといい
この際ムーラダーラチャクラからアナはスーラチャクラに息をとどめる為にクンバクを数回行うといい
次第に君は宇宙と君自身の広がりを体験するだろう
ボカロを愛でる派
↑(敵視)
ボカロを崇拝していて盛り上げる派
愛でる派を崇拝派は敵視しているが
バレたくないので至るところに潜伏をしている
例:アンチスレ、代行スレ
「ミク厨」を都合がいい隠れ蓑にしていることも分かっている
「スレ住民」の分析をはじめると潜伏がばれる事への恐れから
勢いで流したり誤魔化そうとする
「このスレには仲間がいる」と確信したスレでは常套手段で押し流す
783 :
考える名無しさん:2013/03/29(金) 19:56:45.23 0
あまりに素晴らしいので引用しておく
常に測定されるわけだ
そいつの能力も人格も資産も顔も身長も体格も
そのすべてで不可を食らったゴミ屑は何を妄想する?
「俺には測定できない『素晴らしい価値』がある!」
と信じはじめるしかない
釈迦の教え教はそんな妄想にピッタリはまるんだろうなぁWWWWWWW
信じてないと、ゴミ屑以下の欠陥機械だと気づいちまうんだろ?
そりゃあ即死だもんなWWWWWW
あらゆる客観指標で屑の烙印押された奴隷どもは
自分には烙印が押せない秘密のパワーがある!とでも信じなければ即自殺もんなわけだWWWWWW
こいつらにとっては、人間は物理法則に従う機械であってはならない
決定的な意味で、客観的に全てが無価値と判定されるのが怖いからだろ?
当たり前のことを何言ってんだ
>>783 釈迦の教えは実践し終えた体験者にのみ与えられる、知識では得ることはできない。
それは釈迦の言葉でも説明されているわけで、釈迦の悟りへと続く修行の中で
何が必要だったかを言葉でしってもそれは知っているだけで体験ではない。
同じ体験をしてこそ真理にたどり着ける。たとえば死に至る修行など。
786 :
考える名無しさん:2013/03/29(金) 22:26:18.81 0
ゴミの自意識の自己保存日記でした
だからゴミはダメ
788 :
考える名無しさん:2013/03/29(金) 22:39:03.42 0
死に至る修行wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
キモイwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
言葉でのみの救済頑張ってね!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
789 :
考える名無しさん:2013/03/29(金) 22:40:36.67 0
なんか釈迦語りだす奴って共通して臭いんだけど
東北地方に多いよなwwwwww
お前の息の臭さも相当だぞ
791 :
考える名無しさん:2013/03/30(土) 02:18:14.62 0
豚は発酵してるのか?
792 :
考える名無しさん:2013/03/30(土) 05:52:42.22 0
なぜカルマが重要になるのか。真に存在しているのはパターン、パターンとは表層的には手順の連なり、
本質的にはその手順の順で事を引き起こしていく色眼鏡、この色眼鏡は関数とも呼ばれる。
関数とは何か。「何か」が表層の形を持たされたカタチで、現在という刹那に限定されず未来にも過去にも存在させられる原因である。
この存在していない原因のみが真に存在している。パターンは個性とも呼ぶことが出来、ならば関数も個性という色を見せるだけのものである。
悟りのパターンを獲得したところで、「そこ」で停滞したという色を他者に与える現実が存在しているだけである。
793 :
考える名無しさん:2013/03/30(土) 09:17:00.57 0
人が悟るのではない
悟りが向こうからやってくるのだ
eoは果たして本当に覚者なのか
795 :
考える名無しさん:2013/03/30(土) 19:53:17.52 0
公共広告機構でした
ストーカーだなこりゃ
おなごの尻をココロで思い描くことによって解脱するのだ
>>788 釈迦の言葉はお前に言わせれば全てキモイ
>>793 仏教でいう識を理解しているならば対象がどういう類か推測がつくはず。
>>798 お前がそれを理解しているとは思えない。識とか坊さんの妄想だろ。
バカもほどほどにしたら?
801 :
考える名無しさん:2013/03/31(日) 13:01:38.79 I
793はeoの言葉でやんすよ
802 :
考える名無しさん:2013/03/31(日) 19:16:37.12 0
俺はダンデスダイジの生まれかわりでした〜
体験したらどうなるの?
無意識のコントロールは、氷山の一角のように、意識ときっても切り離せない。
意識においての認識の頂点として悟りがあるなら、それは無意識における
変化を伴いながら起きるのだ。涅槃寂静の状態に至れば、それは無意識自体が
そういう働き方をしているのだから、意識に取り込むべき知識が必要のない
状態である。禅においても、一度自由の境地を手に入れたあと、浮上して
現実界に戻ってきて見る自然や環境は、ガラリと様相の変わった、別レベルの
別世界なのである。悟りとは体験である。もちろん、それを言語化することで、
追体験が可能になる。誰も個人の悟りへ至る道を妨げることは出来ない。
識の数字が上がれば最後には無意識ではなく非意識になる定義と
されていることに気が付くだろう。
個が大きくなり最後に個がなくなり世界だけとなり個に意味がなくなる。
自分中心の個が極限となり、逆に世界にとっての個となり、
最後には個は無意味と位置づける。
個(我)をもって世界との関係を考える論理では個が存在しない世界は
物理でいう観測者のいない観測になり論理破綻していることに気が付く。
そういう世界へたどり付くのは論理の縛りから飛び立つ必要がある。
>>803 無意味から意味を見出せる。
体験とは繋がりであり繋がり、縁なきものがどんな説明しても空回りでしかない。
>>806 無意味は無意味です、かってに意味を作っては違反で違法です。
マナーを守るべきです。貴方は何様でしょうか?
808 :
考える名無しさん:2013/04/01(月) 00:13:47.03 0
>>984 異次元に脱出する為、抽象度上げて、太陽エネルギーに同化して、意識を死の彼方にジャンプさせる!
どうだ!!非因果ブラックボックスよ
809 :
考える名無しさん:2013/04/01(月) 02:38:55.43 0
機会があったらどうぞ。
「変人」吉田冬夜著 たま出版
810 :
天才:2013/04/01(月) 03:59:20.29 0
>>804 無意識のコントロールは、氷山の一角のように、意識ときっても切り離せない。
意識においての認識の頂点として悟りがあるなら、それは無意識における
変化を伴いながら起きるのだ。涅槃寂静の状態に至れば、それは無意識自体が
そういう働き方をしているのだから、意識に取り込むべき知識が必要のない
状態である。禅においても、一度自由の境地を手に入れたあと、浮上して
現実界に戻ってきて見る自然や環境は、ガラリと様相の変わった、別レベルの
別世界なのである。悟りとは体験である。もちろん、それを言語化することで、
追体験が可能になる。誰も個人の悟りへ至る道を妨げることは出来ない。
わかるよ ケツ毛の脱毛のことでしょ?
811 :
考える名無しさん:2013/04/01(月) 04:00:19.71 0
>>810 無意識を知らないと単に無意識全体をそういう風に表現しちゃう。
それは正しいが間違いである。
813 :
考える名無しさん:2013/04/01(月) 17:44:50.79 0
無意識を知るとか言ってることが間違いだろ
論理的矛盾だな
重要になるのは、この世は一次元が最低次元であり、0.5次元等は存在しない
ということだ。だから、一次元の座標、すなわち、直線が最低の座標であり、
プラスとマイナスが、物質の最低の性質になる。そのことから、パウリの排他規則
などが出てくる。さらに考慮に加えなければならないのが、時間の次元はいくらか
ということだ。一見すれば、過去と未来という一次元に思えるが、時間の実感は、
過去から未来への一方向しか働かないことに加え、現在という存在しないもの
さえ存在するのであり、そのことから因果関係は複雑な様相を帯びてくるのであり、
シンクロニシティなどの非現実的規則が存在することも考えられる。因果関係
と非因果関係との関わりがどうなるのかがわからない。
虚数もあるじゃん
>>815 勉強不足がきつい。もうすこし、三角関数とか学んでみます。
>>813 だから物事を理屈でしか理解できない、この世に矛盾などないと
思い込んでいるだけな、
似ているが一致しないので誤差がでる、似ていて実用なら一致と判断するから
世界が歪む。
この世は全て錯覚である、物質はあってもそれは高次の存在を示すものではない
物理で実証できるのは人間の存在ではなく物体の存在である。
820 :
考える名無しさん:2013/04/02(火) 12:24:07.91 0
唯脳論、唯幻論でも読んでろ
お前ら悟る気あるの?
ないでしょ?
独我論のコミュ症と周囲の関係は妄念である
わけではない
>>821 悟るのを目標にしたら人生が終わる。
優秀で"無能"な坊主たちが永遠に迷うのは悟りを勘違いしているからにすぎない。
秀才な奴は有能を学ぶのではなく優秀な無能=秀才から学ぶから自分が
マヌケであることに気がつけない。常に形而下の知識だけを追い求め
形而上の知を形而下で説明できないから悪知と思い込む単細胞である。
事実より学んだ論理を優先するタイプは論理と違う事実を受け止める
心構えがない、何故に論理と食い違いするかを認めようとしない。
自分が見えている事実が間違っているからこそ論理に矛盾してしまう事実など
捨てるほどある。
有能な者が見えていることが正しいのに無能なお前が見えているものが
正しいと思うのは錯覚である。常に自分が有能だと思い込む錯覚が日常化する
からこそ社会で他者に優れた有能という特別な評価を受けることがない。
目の前の優勢を正義とすると最終的な結果の正義が見えなくなる。
負け組みは常にそれらを妬む、自分が素晴らしいと思っているのに
なぜそれが現実では生かされないのか?何故?単細胞だからだ。
難解な哲学だな。
物事を単純化するのは数学を代表とした科学である、
単純化するとは美しく表現すること。理解の出来ない秩序を混沌と呼ぶ。
混沌は人の計りや技術では永遠に扱えない類である。反論許さない・。
>>825 『悟り』と『単細胞』、『有能』という考えは、
ベクトルが違う。
悟ってことは、理(ことわり・さとり)を理解することだ。
単細胞、有能という考えは、理でなく単なる強弱だ。
どんなに強くなっても、悟りには関係ない。
>>負け組みは常にそれらを妬む、自分が素晴らしいと思っているのに
>>なぜそれが現実では生かされないのか?何故?単細胞だからだ。
違う。
負け組の考えが現実に反映されないのは、負け組の影響力が弱いからだ。
強い奴と弱い奴が力比べをして、弱い奴が勝つ道理がどこにある!!
そして、勝ち組も負け組も悟り・真理から程遠いところを彷徨っている。
>悟ってことは、理(ことわり・さとり)を理解することだ。
まったく違います。おそろしく勘違いです。
理解することで悟れるなら教科書に表記できます。
お釈迦様に笑われるだけ。
貴方のは自分で考えた悟りであって悟りという言葉の成り立ちやら
それを解説したものを何も読んでいない。仏教の底辺レベルの知識すらない。
貴方のはどこかのゲーム用語?最新心理学で流行っている考え方ですか?
>>830 もっとやさしく説明してあげなよ、無知には無知に解る説明ってものがある。
体験したところで無内容なことしか言えない
体験することで幻が現実に変わる。
知恵は事実の本質を瞬時に知ることから生まれます。
だらだら考えるのは迷いです。迷いは知恵ではありません。
体の使い方を覚えるべきであるし、智恵の使い方を覚えるべきである。言語の
究極は念仏にあり、念仏のような言語こそ、悟りに達するための知恵の使い方
である。すなわち、心の中に、頭の中に、響いて残り、いくつかの筋のように
イメージされる音と文字のようにあるべきである。夾雑物を包み込み、それ自身
夾雑物としてのありようさえ、可能になる。また、身体の中の空を感じること
が肝要であり、空の念仏こそ、全くとらわれることもなく、さらに虚しいわけ
でもない、生き方、存在の仕方の究極的に楽なあり方である。
断っておきたいことがあるが、私は統合失調症からの回復を目的として仏教
の悟りに頼っているわけであり、動機が特殊である。しかし、源流に発した
川の流れが、必ず大海に注ぎ込むように、ある出発をした思考が、海の大きさ
に至ることが可能であるということをイメージするべきなのである。
目の筋肉がおかしくなった人のために書いておくと、目に微笑み、あるいは笑い
を浮かべつつ、横に目を流すこと、この体操によって、筋肉が正常となる。
この境地に至るまで18年かかった。
摩擦を厭わないことがいかに大切かということ。現実的摩擦にせよ思考内の摩擦
にせよ。現実と肌で触れて付き合うことが、いかに大切か。
積極的に忘れていくことが大事なのだ。過去にとらわれたりしたらいけない。
現在への信頼を取り戻そうとして、触感への信用をまた感じている。
精神統一と肉体のコントロールがいかに大事か。人間が有限な存在である
という認識が、真に生きるための認識だ。
人間の恐怖という感情は、本質的に無限を含んでいる。それを感じるということは
何らかの対策を要求するので、それを感じた瞬間においては、無限の後退を強いられる。
それにいかに対処するかというと、心頭滅却すれば火もまた涼しと言われるように、
恐怖の感情(寒いとか、間違っているんじゃないかとか)の呼び起こす感情、
すなわち脳内に相転移を要求するような情報に対して、無限の相を呼び起こす
のではなく、自分が感じたことが有限なことなんだ、という認識に新たに気づくこと
で、感情と身体のコントロールが可能になる。それが、健やかということだ。
己の内部に生まれた刃(殺意、死への恐怖)を、他人に向けないということは、
自分に向けることである、というのはその通りであり、刃に気づいたときに、
それを捨て去る方法を考えなければならない。
否定を否定することは結果は肯定だが、その行為をする前に焦点を当ててみれば
その行為が否定の行為であったことが観取される。
宇宙と調和した思考をしようとすれば、肯定と否定の両面を捉えねばならず、その
為に有限性という真理を働かせねばならない。
>>830 >>831 『悟』ってのは、
本で読んで意味を理解するような単純なレベルじゃねぇよ。
頭で考えて判断するような次元より、もっと上の次元で脳みそがわかることを言うんだ。
フィニアス・ゲージの事故の例を調べてみな。
アレが『もっと上』のシステムが破壊された人間の事例だ。
単なる精神論か、それとも社会システム論か
>>843 >本で読んで意味を理解するような単純なレベルじゃねぇよ。
お前のことじゃんw
ニワカっぽくて笑えるな。
>フィニアス・ゲージの事故の例を調べてみな。
↓
>本で読んで意味を理解するような単純なレベルじゃねぇよ。
>>845 ヒント 触るな。キチガイになりたくないよな?
二人の間で会話が交わされるとき、その行為は自然との対話を基調として
発展させたものだ。生きることと死ぬことの間に何かを受け取るということ、
細胞が情報を受け取ることと一緒だ。そこには力への意思が介在し、
能動性、働きかけという主体性が露になる。ところで、受動性と能動性
のあいだには、意味的に受け取られるような違いがない。むしろ、生物
としての反応の中から、その両者による世界への応答がそういった違い
を含んだ結果として(力の原則に従いながら)生まれる。そこから帰納すると、
モノの移動、変化が思考である。思考はその現実的使用性と相即である。
だが、統合されたものは、無限に近い組み合わせで、脳的表象を担保する。
会話とは、組み合わせである。能動性と受動性が意識の持続する時間のなかに
放り込まれることによって、無限の可能的意味が開かれる。むしろ、考えない
時間、感覚的に許容することの大きい時間が、無意識の記憶を刻むので、
重要である。
>>849 わかりにくいので補足。
会話というコミュニケーションを例にとって、そのアナロジーで情報伝達を
イメージするとき、能動性受動性という対照的な行動の存在様態に疑問が
浮かぶ。そして、思考というものの実態には、上のアナロジーにあるように、
能動受動の二種類が考えられる。その二者の統合が、魂というような、
意味を超えた意味を担保する創造性(進化)の源泉である。
「今」に集中せよ、そしてあるがままを見よ。ということを仏教では問われるみたいだよね。
パッと聞いただけだと、何だか後先考えずに徒然なるまま生きろと言われてるような気がするんだけれど、
「今」に集中する理由って、「始まり」と「終わり」ということから解脱するためのスキルなんじゃないかと考えているんだよね。
なんでかっつうと、「今」に集中していくと、「今」「今」「今」・・・という捉え方をすると、諸行無常に気付く。
そりゃ常に「今」を生きるならば、自ずと思い描いていた「物事がそのままであって欲しい」という願望が執着と気付いて、
その願望がモノを留めようとする苦しみだと悟れる。
さらに「あるがままを見よ。」というのも裏付けされて、あるがままを本当に見れるのであれば、
これは「葉っぱ」である。と見ている場合、光の加減や、遠近感で、本来「葉っぱ」と自ら定義していたものを、見做しているに過ぎず、
実際あるがまま見た場合、その葉っぱも朽ちる云々以前に、見ている段階でさえ形状というか見え方が異なっているので葉っぱという見方から厭離することが出来る。
こりゃ観念論的な発想なんだろうけれども、原始仏教の思想は、こう捉えるのが一番しっくりきたんだ。
そんでもって、ちょっと話は戻るんだけど、無限小を切り取った時間概念で「今」を観察すると、
その「今」という瞬間には、不思議なことに「始まり」と「終わり」が同時に含まれてしまう。 なので、開始と終了が無限小に切り取った「今」には混在せざるをえないので
つまりのところ、拡張解釈するならば、生と死っつうことも曖昧化していき、
再過去の記憶→記憶の連続性→連続性の消滅 これが必ずしも死生観とは言い切れなくなる。 主体として世界を鑑みた場合、
本当は、常に開始と終了が「今」に混在しているので、常に生まれ常に死んでいる。 釈迦がブッダになり、解脱し転生はしないと悟った由来は、
この死生観に集約されているのではないか、と俺は考えるんですよ。
5年考え続けた俺は、現状悟りとは何かと問われた場合、これが一旦の結論。
原始仏典のスッタニパータやダンマパダ、ウダーナヴァルガ、中村元先生の注訳などにも、このようなニュアンスが含まれていたもので。
>>853 そもそも論じゃないのに論の類だと思い込む852てキモイ
長文コテもキモイし言葉の指摘ばかりで本質語れない名無しもキモイ
856 :
考える名無しさん:2013/04/19(金) 12:41:26.04 0
西洋哲学は、時間概念を過去、現在、未来を、個々の西洋哲学者は複合的に
捉えている。例えばデリダの場合は「現在」の中に過去が、とどまることなく入り込み
主観が解体する。ハイデガ−の場合は、現在に未来が入り込む、等々、「現在」の時間概念に
過去或いは、未来の概念が影響しあう。
しかし、禅では、「今」に集中することを重要視している。
実際、我々が瞑想の中で体感するのは、存在そのものを、「今」という連続で捉えていることを
経験する。過去と未来という概念は、意識上で定義された架空の概念に過ぎないと思う。
「今」という連続したものの流れ、それが、仏教の「無常観」ではないかと思う。
858 :
考える名無しさん:2013/04/20(土) 04:22:42.89 0
去ったものは去らない
去っていないものは去らない
現に去りつつあるものも去らない
よってなにものも去らない
これを爆弾でたとえたら
爆発した爆弾は爆発しない
爆発していない爆弾は爆発しない
現に爆発している爆弾は爆発しない
よって爆弾は爆発しない
になってしまい
お釈迦様は爆弾で死ぬよ
859 :
淀屋橋ハニワ:2013/04/20(土) 10:12:47.96 0
バス・ガス・爆発。
りーぴーと・あたふたーみー
バス・ガス・爆発。
ひっこしは・ひっこしの?
860 :
考える名無しさん:2013/04/20(土) 10:41:40.77 0
>>852 「今」という時間概念の捉え方が、西洋哲学そして、仏教に於いても
重要な概念となっている。
>>856 俺が唯一大衆部で原始仏教の名残を感じる宗派だなぁ禅は
禅には信仰よりも利益を俗世間に求めていないと感じるからなのかもしれない
>>860 西洋哲学では観念論として
感じ取れる今は未来からの影であり、過去に対しては懐疑的だったりするみたいだね
仏教とは「今」という概念が違うから、仏教的な観念は論ずるというよりは「気付き(サティー)」という言葉が相応しいのかも
まぁ、どちらにしろ、智慧か叡智かという違いで、双方涅槃へのアプローチと考えるかなぁ
今という状態を探求するか、今に気付くか。そんな言い回しが適しているかと
捉えることの出来ない実体を捉えるのが寂静であるか、それとも捉えないことが執着からの解脱で、時間に生まれる常という迷妄を拭い去るのが寂静であるか
どちらかというと、思い込んだ偶像に思いを馳せる虚しさを説いている仏教が俺にはしっくりくるかな 死生観さえ覆す魅力もあるしさ
仏教は無能には無能に分かる知識で教える、相手によって答えが変わるわけだ
言っている意味が理解できないのは無能の知識を覚えただけ。
釈迦存命中にいた知的障害の弟子には
箒でチリを払いなさいとだけ良い その弟子を悟らせたそうで
悟りは それこそ重度の認知症があったりすりゃ別かもしれんが 悟りへの道は人によりけりと知っていたのだろう
最初に自らの悟りを理解した弟子に大喜びしたそうだし 成道初期、理解されるかは半信半疑だった可能性はある
方便を用いながら 各々の能力に合わせた説法で導くというスタンスがあったんだろうね
だからきっと スッタニパータも文章化するな という教えになったのかもしれない
キサーゴータミーへの教えにも見れるね
釈迦の解釈は人それぞれ。四諦にしても八正道にしても、解釈は人ぞれそれ
伝達というのは変化を伴うもの。ただスッタニパータはそれがフィクションだとしても
ロマンを感じるね。釈迦という人間が、そこに熱を持っていたような
865 :
考える名無しさん:2013/04/21(日) 14:33:34.08 0
「観念」という言葉に、とらわれずに「今」という存在を捉えてみると、
ここに、自分が在るという事実は、「今」という感覚的な実体験として在ることに気付く。
「今」という実体験は、禅に於ける体験で特に感じるが、デカルトの「方法的懐疑」を実践
している状況に於いても、同じように体験する。
>861で、「西洋哲学と仏教哲学での「今」という概念は、どちらにしても智慧と叡智という違いで、
双方、涅槃(純粋経験)へのアプロ−チと考えている」と述べているが、私もその様に「今」を捉えている。
>>864 なんの根拠もなく妄想し、それが現実に思えてしまうのは病気
867 :
考える名無しさん:2013/04/22(月) 16:16:24.96 O
手塚治虫のマンガ「ブッダ」を読みなさい!
ぶっだ
悟りとは仏に近づくものであって、仏が何かすら分からず単に仏と名前だけの
知識で論じているお利口さんは仏が理解できていないので仏に近づくことが
素晴らしい何かと思い込む傾向がある。
仏になっては何の意味もない。仏から遠ざかることが正しい選択であり。
より自然(複雑)に単純化しないことが活きる選択である。
仏になるなら多くの修行僧がたどり着いた最後の修行と同じことを行い
それを知ってこそ仏となり悟りえる。馬鹿だろおまえら。
>>870 すごい洒落だ。
>>872 仏に近づくことは単純になるということなのでしょうか。仏から遠ざかるという
逆説的な意見は考える価値のあるご意見です。仏から遠ざかるにはいかなる道を
考えればいいのかと思います。知識によって悟るのか、体験的道筋によって
悟り得るのかという疑問が浮かびます。
874 :
弧高の鬼才 ◆zD.tvziESg :2013/04/30(火) 23:34:41.43 0
学ぶなら初期仏教だけに手をだし、あとは己で考えろ、と。
Absalomって
駄洒落好きだよな
学ぶというのは信仰と同じで考えてはいけない。ただ言葉どおり暗記し
受け入れるだけ。
俺解釈している時点で完全な別物であってポエムにすぎない。
>>873 単純とは明確とか明晰に知覚できる物事を割り切りること、
複雑とは混沌や盲目のように物事をあるがまま分からないまま受け入れること。
仏は死を意味します。活きる、生きることではないです。
新たなる未知を模索するのは混沌への繋がりであり、既知への執着とその詳細を
確実にするのは曖昧な部分を葬ること滅することです。
全然逆説的ではないでしょう。
知識で悟るのは知識では理解できないという逆説的な方法によって悟りへ
導くのです。成仏とは物ではなく事です。
理解して成仏できるわけではないのです。
今今今…の離散発展など
観るだけなのは置いといて、行動をするときにはどう役立つの?
生半可な理解ではそう思うだけ。
バスケやサッカーで神プレーとかあるじゃん?
悟れば、ああいうのが容易くできるようになる?
>>880 ならない。悟ればすばらしい何かがあるというレッテルを貼る馬鹿と
それを信じるキチガイがポエムを書いているだけ。
神プレイをしたいなら、ひたすら練習するのみ
ひたすら神の領域に達するような"練習を"積み重ねるならば、
悟りの領域で修練しなければ練習は崩壊し結果を生じさせない
また正しい練習でなければどんなに練習しても神プレイにはなりえない。
>>877 なるほど……成仏が事であるというのは、知識によって悟るわけでなく、
死ねば成仏なのだから、生きている間にいかに成仏に類する経験を獲得
できるかということを体験することで、生の意味が変わりうるということ
なのかと思いました。単純と複雑にしても、どちらがいいかということが
言えず、物事を単純と複雑の両方によってみることが「可能」であるという
ことでしょうか。
>>878 離散発展について詳しくないため、字面だけの理解になってしまいますが、ヤスパース
が言ったように、ある状態からある状態へ飛び移るのが人間の時間的生き方だと
いうことであるので、ある状態を保つことと、変化することが、根本原理であるという
理解をすることで、行動の指針になりうるということが言えるように思います。
>>880 釈迦の人生は神プレーの連続だったでしょう。
>>881 より良い生き方、より正しい世界理解というものがあるでしょう。すれば、
悟りというmost betterな考えには意味がないとは考えらないでしょう。
そのことは後半においてあなたがおっしゃっている通りでしょうね。
>>874 金剛からとか嫌がらせもいいとこだろ
お陰で心経の空の理解が10年遅れたわ
ちと答えを書きすぎてるが中論からでもいい
それでもまだ思索の余地はある
>>878 役立たないし、役立つと考えるのは誤り
役立てようという意思も含め、あるがままでしかない
「含め」って言葉はかなり誤りに近づくため使うべきでないが、
日本語が未熟なので勘弁いただきたく
スポーツをやる上で価値があるか否か
結果を残すことに執着するならば、もっと体系化された道具を使うのがいい
もちろんスポーツ理論のことじゃないぞ
アートに役立つかどうかだな
だいたい、人間というのは不安な考えをどうにかして欲しいと考えがちなものだ。
それに対する良い方法は、自己暗示だ。わからない文があったら、僕はいつか分かる、
分かる、まずい病気にかかったら僕は良くなる、良くなる、人に冷たくされている
ように感じたら、僕は愛されている、愛されていると、自己暗示にかけることで、
現実が本当にそのように変わっていくものだ。不安になることなんて、何もないのだ。
一理はあるが、それだと例えば他人に否定されると怒ってしまう
愛されてると思いたいなら、まず愛せ、深く浅くどちらでもなく
それは自分の心なので他人の否定は無視できる
そして愛のなかにこそ非愛があることに気付くとき
アウフヘーベンすると良い
釈迦は成道してからも修行をしていたそうで「墓場での死体観察」をしていたという逸話がある
人間の朽ちていく様を 腐敗臭や ウジのわき方など 様々な観点から観察することで 執着からの解脱を常に怠らなかったそうだ
修行僧の爺さんが女の死体で漏精したってことから「意味ねぇじゃん…」となって 観察対象は同性の死体にしたそうだけれど
これが高尚なことなのかと言われれば 個人的にはそう思わない 悟りは揺るぎない真理だとしつつも やはりそれも無常なんだろう
悟り ということ つまり仏になるってのは 即ち「死」であって生命活動の終焉であるか
それは否定したい 何故ならば 釈迦は「死後」という語り得ないものに沈黙するスタンスをとらなければならないわけで
生と死を天秤にかけることが出来ない以上 簡単に「涅槃」=「死」を意味するなどと「死」を美化することは釈迦にしては安直すぎる
ただ あるがままを観た際に 無常なる世界に実体など見いだせず 「物体」や「現象」が 「そのままであってほしい」という願望(執着)が苦しみであるから
そんなみかたはやめなさい と 述べているだけではないのかね
即身成仏やらなんやら 鉛飲んで埋まって死んで あまりにも涅槃への道としては強引だ
苦行を否定した釈迦が 鉛飲んで地面に埋まりたいと思うのか そこら辺は汲み取るべきかと考えるんだがなぁ
大事なのは、ありのまま見ること、自らの行為に自覚的であること、ってだけの話だから
生物的な性欲そのものは煩悩でもなんでもないから消えないんだよな
やりてえ、と思い悩むことや、劣等感を性欲にすり替えてしまうのが煩悩なのであって
892 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2013/05/20(月) 23:06:37.43 P
人間というコンピューターは時間を制御できる。さらに詳しく言うと、情報の
伝達と計算をゆっくりとできる。物理法則に従った速度しか持てない物質とは
そこが違う。ゆっくりと思考をすること、ゼロに近づくことが、人間らしい。
それは誰にでもできることであり、意識に従った脳の操作を行うことが、
人間の力である。
人間の条件を知らず人間が成す働きを記述する愚かさの例。
>>891 あるのまま見るのではなく感じること計りで計りとって得たそれは
計りによって決められた見た目だ。
悟りは創造的活動に直結するの?
895 :
考える名無しさん:2013/05/24(金) 22:11:09.83 0
悟りは創造的活動に直結する必要があるという考え方から解放された状態が悟り
イラネ
野生の動物かよ
悟りに行く前に踏み留まれば、かなり直結する
相互依存しているということに気付く。そして果を生み出してしまうことからの脱却。
899 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2013/05/27(月) 03:52:06.15 P
死は恐るべきで避けられない
苦痛のみが真実である
死(+生)→苦、苦→死(+生)つまり死ななくても苦は至る所にある。悟りとは苦しみに満ちたもの。
死を避けようとするところから生が生まれる
すべての人間は平等に呪われている
900 :
理屈や:2013/05/27(月) 15:29:22.76 0
「さとり」に近づいたら
「悟れぬもの」と悟った
仏教は途方もなく実践に不向きなのでどうにかした方がいい
これだと格差が固定化される
意識や感覚を普遍性のツールにしているだけだから循環する
目的遂行にも適った理論を作ったらどうか
元々は王族の宗教で「死は平等」とか言っているだけだから慰めにしかならない
無職や貧民がはまると抜け出せなくなり貧しさが固定化される
ある程度の地位がある人が使えば騙しのツールとして有効に機能する
猿獲る
サルトル
悟る悟る
>>901 インドのカースト制度は仏教ではなく、ヒンズー教ですよね。
もちろんのこと、仏教に実践性はなく、ただ意識や感覚のみに
たいして働く宗教であるとは思います。そうした悟りの意識が、
地位のある人に訪れた場合、現世の欲に躍らされることなく、
地位に対する執着もなくなるから、善政をおこなうのだとおもいますが。
結局、イマジネーションが単なるツールでないように、仏教も
それ自体が目的であるという側面は強いのだと思います。
>>901 本人がやりたいことが善政であればそうするだけの話であって、
基本的には善政に対する執着も捨てるため、善政はできない
仏教徒が真に悟り仏教に執着を持たなければ、
仏教という形は長続きしないはずなのに、仏教息が長いよねえ
>>903 悟りという概念を始めた作った根本を抑えるのか、後に学問的に解釈された
起源のことを何もしらない作家やら創作者の説明を信じるか。
それは貴方が選ぶことです。どのように解釈されているなどは後から
付け加えられた物で、起源で成り立った背景の事を説明しているわけではないのです。
知的な教育を受けた人は"物"としての働きを知りそれを道具にして正しいと
するが、"事"として性質しうる存在を理解できない為に理解しやすい合理化された
類を信じてしまう。
>>905 "事"というのは歴史というものには現れると思います。"事"が存在であるとは、
中々目新しいご意見に思えました。悟りというものが概念として捉えられるか
どうかということについて、ナイーブだと思いますが、そのような"事"と"概念"
という比較をしてみると、2つに共通項が見られるように思います。時間性
と歴史性というものが、思い浮かびました。仏伝作家の作品など、あまり読んだ
こともないのですが、根本を抑えることは大事にしたいと思います。
物事でひとつの事象である。物と事の2つの表現方法があるのをまず学ぶべきで
それが違うことも受け入れるべきである。
菩薩がぼさっとしている
しゃかしゃかポテト
観音してくれ
ぶッた に念仏
どんな小さな苦しみであろうと、それを細分する時間の経過によっては、
無限の苦しみであると感じられうるであろう。逆に、無限の苦しみであろうと
僕には耐えることができる。そうした際に感覚は感覚を超えて何物かになるだ
ろう。
山を登ったことのある人間だけが山の高さを知る。
ランクとは難易度に対してのみつけられる。人間に、難しい人間や
難しくない人間という認識を持つことはない。ゆえに、人間は行動
に対して評価をされ、人間であるという根本は、誰にも否定出来ない。
人間の行動は多様である。行動には必ず感覚が伴う。ゆえに、感覚は
多様である。同じ行動、同じ感覚というものは存在しない。似てはいても
全く違うことというものが存在する。
言いたいことは言ったほうがいい。こういう場所であれ、自浄作用の働き
があるので、多人数に見られた意見は、間違いのまま存在するというほど
人間は愚かではない。
俺は何を恐れているんだ?人殺しとは、人を殺した人間のことではない。
人でないものを殺したもののことだ。殺人者の主観には恐るべきもの
など何もない。
否定自体としての否定は存在しない。その裏に、必ず何かの肯定がある。
人が否定されるのを受け入れられないことと、自分以外の人間に対する
肯定を認めることは、全く同じ事だ。
生の哲学、あるいは小さいものを拾い集めるような哲学は、レベルを付けられて
排除されてきた。自ら小さなものと同じ視点に立つことは、容易なのだから、
実際的意味、形而上ではない意味を持っている。哲学者のみの扱う哲学
から、実践的哲学、間違いに対する視線を持った哲学へ。
>>918 絶対的否定とかあるぞ この概念自体を肯定しても意味が崩壊するという無茶概念
絶対無とか絶対精神とかもそうだが、
「いや絶対だから相対化できない概念なんだって、え、絶対なら相対化できるだろって?
その通りなんだけど絶対だから絶対って事にしとけよ絶対
疑っても信じてもダメなの! ダメって意味も疑っても信じてもダメなの!
段階性も関連性も発展性もなく点でも線でも無いとにかく絶対なの!
面倒くさいこと言うなよもうっ!」
って時には、「絶対」を使うと良い
論理的な否定と感情的(好き嫌い)の否定がある、そのぐらい気が付けよ。
>>921 そんなことは無駄だよ、論理バカには論理以外の理解をする能力すらない。
物事の正しさは組織だった威厳で決まる。
常に組織が正しいとは限らないしウソツキ集団やウソツキ国家のその学識が
何故ただしいと思うのかは明白だろ、マインドコントロールってやつさ。
悟りの完全性を考えれば、すべてに通用する答えとして悟りが想定される。
こだわりが全てなくなるはずだ。それはどのような答えか。まず、問の
ほうに目を向ける。すると、問の性質がある。つまり、答えを求める
ものが問であるということ。わからないことをわかろうとするということ。
わからないこと全てに共通な性質というものはあるだろうか。論理的には、
問はどのように設定されるのだろうか。
完全性と部分性を考える。すると、人間の限定性と、それに対向する
形而上学性が浮かび上がる。人間を超えたものであり、人間でもあるもの、
それが仏の本質である。それに至るためにどうすればいいのか。
人間を超えたら、人間の考える何かでは無いのは明らか。
そんな単純なことに迷っている貴方w
仏が何かであるかとか定義すればいいだけ、仏なんてものは
人間が創作し多くの人が寄り添い他面的な意味を与えてきた。
だから何が正しいといえば否定される。
>>924 うーん、そうだろうか。
>>923の結論めいたことは、要するに
人間のイデアが仏であるというようなことだったんだが。
仏というのは仏教ではブッダのことであるが、日本ではさらにホトケという意味もある。ホトケの語源は諸説あるが、それがヒントになるでしょう。
ジーザス:そんなのほっとけ。
>人間のイデアが仏であるというようなことだったんだが。
当たり前じゃね?
神も如来も真我も絶対精神も絶対無も同じもんだよ
929 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2013/06/13(木) 17:57:38.57 0
感情的には、笑いという行為が最高位だ。
悲しみや怒りが動物の本能であるのに対して、
笑いは肯定するものすべてに宛てられる。
否定したものを笑うことはないから、肯定するなら笑い得なければならない。
>>929 感情になる前の感情の素をまず知覚するべき。
たんに作られた意味での感情をさらに具体的な概念で論じても
なんのいみもない。
たとえば好きとか嫌いとか、慣れとか不慣れとか、知っている知らないだ。
>>930 感情を構成する素というものは、細かすぎて感覚できないのでは。
むしろ、感情になったものを知覚するという体験において、素を逆に
辿ることが、実際の感情の働きではないか。
>たとえば好きとか嫌いとか、慣れとか不慣れとか、知っている知らないだ。
これらはむしろ行動ではないか?
>>931 形而上を原理を理解するには形而下の仕組みを分析できる必要がある。
形而上の仕組みを形而上の原理だけで考えても無意味である。
形而上と形而下を同じ領域で比較してしまう人が多いがそれこそ
意味不明である。
知りうることはすべて、思考しうる。知すべてが思考になったとき、仏になる。
善人は、悪を犯してしまったという想像が許せないだろう。しかし、それは思考可能
であるのだから、知りうることでもある。縁によっては知ることになる。未来は不確かだ。
すべての知覚が思考可能になったとき、人は悟ったといえる。ストレスや妄想がすべて
排除された状態だからだ。
不条理を恐れる状態は、死を受け入れられない。それを受け入れられるようにするには、
死についての思考を尽くすことだ。考えた末ならば受け入れられるのだ。
僕はこのしつこい精神病から逃れるために悟りについて考えるようになった。
そこにしか解決がないように思ったのは、一つの妄想、一つの縁だ。
知や思考にしか救いがない。思考自体は完全なもので、人間の人間性を構成するものだ。
人間性を尽くすことにより、仏性を知る。
人の思考は、一つのことを続けたいという性質を持っているようだ。
それが、完全性に対する志向によるのか、動物的本能を引きずっているから
なのかはわからない。その人個人を形成するものである。仏に個性はあるのか。
意味が無意味になったとき悟りだ、意味に拘るなら悟る必要すらない。
>人の思考は、一つのことを続けたいという性質を持っているようだ。
思考ではなく、人の心の本質。
心が分裂せずに1つであり続ける為には当然1つとしての働きが向上するのは必然である。
仏に個性があるならば、個の立場としての存在関係を築くのは必定である。
それを認めるならば個の立場を完全否定した仏について考えるべきだ。
それらを先送りし曖昧にするから都合のよい仏像が生まれる。
論理というものが、世界の中ではなく、天上にイデアの完全な姿として存在する
として、人間の有限性から、論理を完全な形で自分のものとすること(すべてを見通すこと)
はできないだろう。夾雑物が入り込むのであって、(脳内を支配している)論理
同士が完全に同じ物を用意することはできない。だから、論理の間違いが人同士
の間で起こる間違いの基であり、時間性に対する共有価値がコミュニケーションを
推奨する基である。論理の共有性は、論理自体の本来的な不完全性から、挫折を
運命づけられている。
>人間の有限性から、論理を完全な形で自分のものとすること
気が付かない?主体の立場からの完全な論理。
それは客観的な見通しではない。観測する存在との相性を説明しているに
すぎない。存在の性質特徴が普遍永劫でなければそれは見通すことには
なりえない。移り行き揺蕩うものは永遠ではない
神を定義し人工的な神の定義の立場から論理を導けば完全なる答えを誘導するのは
論理的に可能であろう。しかし神を定義せず結果が曖昧なのにそこにある
完全な仕組みなど論理で説明しえるものではない。
0次元→感じる…猿
一次元→主観で物を観る…バカ
二次元→第三者視点で物を観る…凡人・中立
三次元→複数の視点で物を観る…賢者・客観
四次元→物の視点で同時にお互いを観る…天才・相対論・芸術家
>>939 ヒント、
バカと天才は紙一重。
賢者ができるのは既存技術と既存知識だけ、賢い何かを生み出すのはバカと天才だけ。
バカは偶発的に生み出し、天才は理論によって確実に生み出す
認識は行為に先立ち、意識は現実に先立つべきである。
逆の場合が、無用な争いのもとになる。
目的のない手段は、暴力になりやすい。
人のことを考えることを追求するべきだ。
貴方のいう人とは何ぞ?
人の条件とは
>>943 ああ、すみません、他人のことを大いに思いやる、くらいの意味でした。
>>943 人の条件、とは
人の存在が、各個人の肉体を離れて定義できないと思うから、他者というものは、
感覚できない、情報としてしか存在できないのではないでしょうか。そういう
他者に対して、それでも意味ある存在となってほしい、その人を体験したい
という欲望を持った時、害意、敵意をもたないという契約の上に、
ふたり以上の他人が存立しうるという事だと考えます。
そして、人と一般に呼ばれるものを考える時(すなわち、他者のアーキタイプ
を考える時)、そういう契約の上に平和に交流したという経験が、
思考の上にも、ある種の経験的な考えを満たすのだと。
他人と競争をして、よりよい生を生きたいと思えば、自分の出会う範囲の
人間と、つまり、体験に取り入れられる人間と仲良くすることは、基本的
欲求として、人間の中にあると思う。他人とうまくやれない人間は、
幸せや力比べにおいても、たとえば同盟のおおい国が戦争で勝つように、
負けてしまうと思う。人は一人で生きられるかといったよくある問に認識論的
にこたえるなら、そういうことだと思う。子供のまま成長しないでいたら、
哲学的にも人間的にも、より優れた結果を残すことは望めない。
>情報としてしか存在できないのではないでしょうか。
情報は非記号、非意味を含めないと主張しているのですね?
>思考の上にも、ある種の経験的な考えを満たすのだと。
社会常識のことですね?
ではその条件が正しいとします。
その人の条件がそろえば、それが単純機械でも人の条件を満たしたと
言えるのでしょうか?
例えば社会が認める人の条件が成立するとしても
それが人とほぼ似た形をした別の惑星からの異性人
で地球を攻撃したとします。とうぜん遺伝子は別です。
ただしその宇宙人にも家族や社会が存在しています。
やはり人ではなく物やら家畜やら虫けらのような類なんでしょうか?
>>947 >単純機械でも人の条件を満たしたと
そのようなところまで深く考えたことはなかったので、驚いていますが、
単純機械でも人であるといえると思います。人が生み出した情報を、人
であるといってはいけない理由はないと思うからです。
また、
>情報は非記号、非意味を含めないと主張しているのですね?
これについては、私には整理できない範囲まで問題が及んでいるため、
とりあえずの言及になってしまいますが、人は情報である、といった場合、
対偶で、情報でなければ人ではない、ということになってしまい、情報
についての定義を再検討する必要に迫られるような気がします。
なので、
>>948 についても、当然ある種の人であるということは認めねばならないと、
私は思います。(テラフォーマーズという漫画みたいです)
テラフォーマーズはゴキの進化をどう捕らえて良いか分からんすぎてヤバイ
人間と同じように発展してきたにしては、個体弱くなってる描写微妙だし
他にガと苔しか生物いない割には進化理解してるっぽい?
単に作者が考えてないだけかもしれないから無駄かも
>についても、当然ある種の人であるということは認めねばならないと、
これは分かりやすく人の類似品を例えました。
もっと極まれば結果として人間の社会生活のような働きを見せる
銀河系のような巨大な力場現象があったと仮定した場合、
それは人の類のような働きをもって社会を作っていれば人の類で
あるのか,そうではないのか という疑問が成り立ってしまいます。
貴方は機械を人にも分類できると感じた、では未知の知性が人の条件を
満たすとき生命である前提が必要でしょうか?
流れからいえば人とする働きがあれば、それは人の条件に含まれるという
話しに解釈される感触に読み取れます。
>これについては、私には整理できない範囲まで問題が及んでいるため、
多分整理できないのではなく、してはいけない範囲と感じ取っているのでは?
整理してよい問題は常に過去の対象ではないでしょうか、整理するべく
対象が未来にあるのならば、まだ可能性である類にたどり着く技術を持たない
存在に未来を確定させるような神の存在を思い浮かべるような術を
得ることは非常に難しいか手を着けてはいけない問題かもしれません。
情報は常に完全であり不完全(未知、可能性)を含まないという捉え方
であれば数学モデルに置き換え、対象を定義し、モデル(仕組み手順)により
結果を証明するような形式に当てはめ、方程式を解くようなものと説明しきる
のは理論上は可能と思われます。
不完全を含むそれを情報と呼ぶならば、形而下である情報が特異点を越え
形而上の存在として未来ではなく過去と同等であると決定論のように説明され
るのかもしれません。下位の働きに依存しない上位の概念で働く異次元の世界
を存在させ、人がそれを理解したとき、初めて情報は不完全を抱擁できるのかも
知れないと思うのです。
>>951 私を私たらしめているものが肉体であると思っています。それ以外の人という
ものは、情報でしかない、と。つまり、人という概念を考える上で、自分と
自分以外というものに、区別をつけて二種類考えなければならないのが
当然のことで、生命意外の知的存在というものがあれば、人の概念を
変更する必要なく、それを人の概念のうちに当てはめることができるような
気がします。肉体感覚があるものが生命であり、私以外の身体、たとえば
昆虫としての触覚とか、は、研究によって知見を積み、観測して想像する
理詰めの方法以外には、知ることができず、その感覚は全く想像できない
ものだと思います。
つまり、感覚(質?)、と情報という、直接的な感じと、脳の計算以外には
いかなる存在も人間の扱える範囲内には存在しないと思うのです。
951
>もっと極まれば結果として人間の社会生活のような働きを見せる
>銀河系のような巨大な力場現象があったと仮定した場合、
>それは人の類のような働きをもって社会を作っていれば人の類で
銀河ようなマクロ現象がマクロの世界では人のような社会と擬人化する
例えです。一言で「銀河生命体」
SFでは例えばスタートレックででてくる時空連続体のQがその知性体で
生命体のような雰囲気を漂わせています(生命体ではない)
そしてQという存在は人間が29世紀以降にQの存在を超える知性体に
進化すると予言している。
スタートレックでは光子の生命体やら、星雲のような生命体も題材に
扱われています。
>私を私たらしめているものが肉体であると思っています。それ以外の人という
>ものは、情報でしかない、と。つまり、人という概念を考える上で、自分と
情報集合が情報として働く類の現象が 他の情報を区別すれば似たような
話しにはなると思いましたが。それは有り得ない、肉体や情報を記録する
機械固定していなければ私ではない。ということでしょうか?
具体的に人で考えれば人の脳の情報の働きを他の人の器に移植できたと仮定し
た場合に、、私は元の肉体なのでしょうか?
完全な人間を2つに複製する装置ができるとか、未来の人が過去へタイムマシン
で来ると妄想仮定しましょう。その私とは?
肉体では物理的にありえないから考えてはいけないとすると仮定し、
素粒子が他のワームホールを抜けてワームホールなら可能といわれる
時間旅行をしたとすると素粒子と世界の関係は私とは何か?
人の条件のように「私の条件」という話しが始まります。
極普通に私は分かるほど、私を説明するのは私が理解(錯覚)している
自分の肉体と思っている情報を私と判断しているのではないのでしょうか?
>>952 情報は方向があるものなのか、というような問題、つまり、理解されうる
ようにしか情報は存在しないのかどうか、つまり、計算不可能な情報
というものは存在するのか(それを情報と呼ぶ意味があるのか)という問題
があると思いました。
この場合の方向とは、おそらく時間の矢の方向だと思われますので、未来の
不決定性(人間の感覚にとっての?)は、ある種の情報の流れがあること
に起因しているように思います。数学と論理というものが何なのか、と言うことは、
あまり詳しくないことなので、完全な情報という方向には、私は理解を進ませる
ことができませんので、あしからず。
>>955 時間による複製の話しは、私の能力を超えますので、
>具体的に人で考えれば人の脳の情報の働きを他の人の器に移植できたと仮定し
>た場合に、、私は元の肉体なのでしょうか?
ここだけに返信しますと、感覚の質(種類、性質)は私の核ではないと思います
ので、感覚の存在(自分の肉体感覚があるという意味での存在性)さえあれば、
それは多少の違和感を超えて、私を構成しうると考えます。臓器移植して、
人格が変わることはないですから。その延長上に、肉体の特殊性が重要でない
という議論ができると思います。
私が言っているのは、デカルトが「我思う故に我あり」といったのと全く同じ
意味での、「我感覚する故に我あり」という、自我観です。
>情報は方向があるものなのか、というような問題、つまり、理解されうる
>ようにしか情報は存在しないのかどうか、つまり、計算不可能な情報
>というものは存在するのか(それを情報と呼ぶ意味があるのか)という問題
例えば、貴方が認知する隣の家の騒音と生活観溢れる家の生活品やら
人がいるとしか思えない掃除の跡を知ったとします。
それが誰かが作った嘘(すべて架空の設定による演出)が現実に起きたとしても
※TV局などの騙し演出(ドッキリカメラのような類)
人が存在したと、人の条件という働きが、実際には住んでいない人以外の
事象によって情報が意味に昇格し呼び出され錯覚するのではないでしょうか。
その手の類が非情報による人が住んでいるという情報の現れ方です。
つまり1+2=○を小学生に学んだ算数で答え多数決で求めたとき、
3が生じるはずです。そのように絶対的な疑いようのない事実を元に
情報の穴を作れば全体の情報は穴を補正して働きを表してしまいませんか?
それが人が理解する論理や心理によって呼び出される
存在しないものが存在するものの物証によって、裏切りのない物証は
真の事実に反しても逆算的に生じることはないでしょうか?
それらのような現実と違うのにどう考えても現実であるとしかいえない
「幽霊情報」を目撃したとき人はUFOやら幽霊、架空生物などと表現する
わけで、それらが不完全なる情報の1つ(未確定)であります。
技術が不完全で調べ方が不完全であれば間違った知見や噂はその段階では
正しい情報に格上げされてしまうような。あとで技術が進み完璧な調査が
されれば格上げは間違ってると判定できるとしても「未確定」は
"不完全"という情報へ立ち向かう姿勢なしで扱えるものではないと思います。
不完全(幽霊)を認めるかどうかそれは幽霊の条件でしょう。
>>958 あなたが取り上げた問題は、ウィトゲンシュタインが反転図形を取り上げたのと
おなじ問題意識であると思います。彼は、数列について、200、202、204、206に続いて
208と答えるのは、訓練の慣性であると言っています。つまり、経験によって、
モデルを作って情報をそれに当てはめるということだと思います。暗号の解読
なども、その家の例に当てはまるものだと思います。
>ここだけに返信しますと、感覚の質(種類、性質)は私の核ではないと思います
>ので、感覚の存在(自分の肉体感覚があるという意味での存在性)さえあれば、
事故で腕を失った人が、腕を移植されリハビリで腕が動くようになった事例は
あります。その腕は自分の腕でしょうか?
このような移植で、ある人は現実に他人のだと知覚し精神障害を起こした人も
いるようです。
しかし自分の肉体の一部と知覚し自分の肉体と判断する人も同時にいます。
生命的に繋がっているから自分なのでしょうか?
足を義足で肉体の足があるように歩行し、走る人がたくさんいます。
2本とも義足でも普通の人と変わらないように動けるのです。
ですが同じ障害の人の義足を借り手つけたとすれば他人の義足です。
自分の一部なのでしょうか?機械仕掛けは自分の範囲ではないということか。
それは心の条件となるとおもいます。心の範囲がどこまで自分、私を条件づける
かがそれを理解する認知するかという話しに繋がらないでしょうか?
切り離せない大事な家族を無理やり切り離せば、体を切り離した事故のように
例える人もいます。体の範囲とは、体という条件はという問題を無視できるのか
難しいはなしか、割り切る話しか。
>>960 あなたの言葉遣いの中で特に注目すべきところは、「条件」という言葉だと
思います。心の条件、という問の立て方は、なんとなくいいと思います。
心の「範囲」によって、自分、私が条件を課されるというのは、結局
範囲と条件という二つの集合に対する対応関係ではないかと考えました。
また、この二つの捉え方があるという点にも、何かの理由が存在するでしょう。
曖昧なことばかり言ってすみませんが。
>範囲と条件という二つの集合に対する対応関係ではないかと考えました。
すごく遠まわしになりましたが。
内心としては それを引き出したかったのです。
それらから導きだされる本質ですと考えます。
曖昧ではないです。すべての物事を追求してゆくと
その概念が元になっていることに気が付くはずです。
他人が解いて説明してその事を納得させるのは困難と思われます。
>>962 お付き合いいただいて、ありがとうございました。
964 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2013/06/27(木) 00:03:17.13 P
いろんな思想を思い浮かべると、どれも服を着るみたいに自分にピッタリと
あうものを探してしまう。服には色があるけれど、思想に色はあるだろうか。
思想を考える人間は脳みそからそれらを生み出すのだから、思想ごとに区別され
分かれているわけではない。色とはそうした人工のものではなく自然にあるもの
だから、空と言われるのが正しいことだ。
それでは、空とは何であるか。空という思想、自然を思想化した思想は、また
その思想を信じる場合は、その思想に内実を与え、実人生においてその思想を
生きたという証しをせねばならない。その具体化、思念化を色という。
そのように生きれば、思想についての問題が解決する。
>どれも服を着るみたいに自分にピッタリとあうものを探してしまう。
どうだと、其の場でぴったり合ったとして、
運動してみたら汚れて洗ってみたら?
たぶんぴったりでは余裕がなくて無理がでてくるところがあるだろう。
そうすると余裕の取る量が問題になるかもしれない、
ぴったりの余裕とはどういう量だろうか、
どこまで余裕でどこからが過剰か、最適とは其の場の思いが最適なのか
他人の評価が最適なのか、行く先の行事の相性で最適なのか、
同じ色でも見え方が揺らぎ、さらに変化してゆくことはないのだろうか
難しい問題に思える。
青とみえたが、実際は緑だったのか、横に黒をもってくると
白に見えたが横に白をもってくると黒く見える錯覚は相対的な面を
教えてくれるだろう。色と感じているものは色自体の独立で
コンピュータが計る数値のように具体性があるのだろうか。
966 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2013/06/27(木) 00:26:48.08 P
>>965 思想とは脳みそに与える初期条件のようなものだから、その内実(結果)は、
アウトプットを見ることで判断できる。初期条件とアウトプットの両方が
洗濯の結果うまく行くことがわかれば、その思想は余裕がぴったりであった
ことがわかる。脳みそは、おそらく根本的には変化しない。だから思想が
重要になる。しかし、いずれなくなるということは脳みそには解く事の
できない問題である。その問題を表したもの(すなわち、自然性の思想)が、
色即是空、空即是色である。
967 :
考える名無しさん:2013/06/28(金) 14:11:46.21 O
tan-tan tanuki no kintama ha kaze mo nai noni bu-ra-bu-ra.
968 :
考える名無しさん:2013/06/28(金) 14:42:23.94 O
チャクソーをカミにオトさぬともキューソーのオンはキョーリにオコる
無と空の違いってなんだろう。
空には投資できるが無には投資できない。
記念写真を撮る時、空は微笑むが無は微笑まない。
空の故郷には友達がいるが、無の故郷にはかつて行ったことがない。
973 :
考える名無しさん:2013/06/28(金) 20:54:46.97 O
ぼくは煩悩から解脱などせずに煩悩を味わいつくしたい
煩悩の沼に沈んで煩悩に溶け込けこんでいつかぼくは煩悩になりたい。
974 :
考える名無しさん:2013/06/28(金) 21:12:41.86 O
よく意識無意識っていうけど、無意識を認識することって不可能じゃないか。
無意識の先端と後尾がどうしても掴めない、と言うより実際に於いて識別なんかできるのか。
975 :
考える名無しさん:2013/06/28(金) 22:09:24.59 0
最も顕著な空と無の違いは字が異なること
容器のようなものがあっての空
977 :
考える名無しさん:2013/06/28(金) 23:17:24.40 O
「容器のようなもの」とは一体何ですか。
その容器のようなものは宇宙の外にあるんですか、宇宙の内にあるんですか。
又、その素材はどういったものですか。人間に認識できますか。
978 :
考える名無しさん:2013/06/28(金) 23:43:51.48 O
弱意識というのならわからないでもないんだけど、それが無意識になってしまうと意識下のどこかからシュプレヒコールの足音が聞こえてくる気がする。
979 :
考える名無しさん:2013/07/01(月) 00:56:55.58 O
意識の平坦化、――意識の峰々を沈めることで、今まで隠れて見ることのできなかった向こうの景色が見えるようになる。
意識の平坦化を実行するには、瞑想などによって凸意識を均したり、凹意識を鍛えて凸意識との距離を縮めなければならないのだが、もちろんこれは誰にでも出来ることではない。
執着心がとても強かったり、頭の柔軟性がない人などは、どうしてもその意識下に築き上げてきた固定概念や、習慣化された意識作用に囚われてしまって、凸を均すことができないんだな。
どうにか言葉でわかるようにして伝えたいのだけど、その必要がないからだろうか、やはりうまく伝えることが出来ないんだな。
980 :
考える名無しさん:2013/07/01(月) 01:32:33.03 O
意識が平坦化されてしまうと、あらゆるものに感動しなくなり、いつか生活欲すらなくなってしまう。
「動」の峰々が巨人の斧で削り去られた後の、「静」だけがそこに残る。「静」は美しいが、人間には少し淋しすぎる。
981 :
考える名無しさん:
そう言って、豊干は日の昇る方へと旅に出た。
寒山と拾得は、空に響き渡るような大笑いをしながら、峰々を渡り歩いた。