◆決定論:脳は物質だから意識は必然に過ぎない189◆

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743抄録
論理は規則(ルール)なのか形式なのか

1年ぐらいまえですかね、Fe氏とゲーム氏が討論してて(何の話だったかな・・)
ゲーム氏は真理の普遍性を駆逐しようとしたのか
「相手は将棋をしようとしており、こちらは囲碁をしようとしているのだ」
とか言ってたわけです。
対してFe氏は、「自分の決めたルールは守るのが大事」とか言い返してたような。。

私に言わせるならですね、将棋だろうが囲碁だろうがオセロだろうが、
それらのルールは確かに違うが、いかにルールが変わろうとも
“どのルールであっても理解できる”ということ(のみ)が重大問題なんです。
これはルールとは理解可能であること、つまり論理的であることを示している。
しかしこの論理の論理たるところはもはやルールとは言えない。
なぜなら、それがもしルールだとして、そのルールの中身は説明できないからです。
数多の説明可能なルールを理解することで、それらが論理的であること、
“規則性そのもの”であること、を直観しているだけ。

では論理とは「形式」なのか。なんですかその「形式」とは?
カント先生も時間を形式と言ったはいいが、形式の中身は説明できないわけです。
「形式とでも言うしかない」ぐらいの意味しかない。この形式は孤立してるんです。
論理は形式か?それはわたしなんかにはなんともw