1 :
考える名無しさん:
それによると人は死ぬことが出来ない。
続けたまえ
3 :
考える名無しさん:2011/12/17(土) 10:09:59.31 0
仮説は単純で死ぬ直前人は夢を見る。
人はそこで客観的な時間を延々と引き伸ばそうとする
だから死亡時刻に意識は辿り着くことが出来ない。
5 :
考える名無しさん:2011/12/17(土) 11:41:19.73 0
仏教「学」によると、我々の認識は「世俗諦」と言うが、悟ったものの
認識は「勝義諦」と言う。
勝義諦では、生死を越えて「不生不滅」となる。存在は「無」となり、「空」
となり、生死からはなれ死ぬことはナイ。
凡俗の我ら「世俗諦」では、確実に死ぬ。
6 :
考える名無しさん:2011/12/17(土) 12:23:54.36 0
あくまで自分のおぼろげな記憶だし、道元的だけれど、
「悟る」とは現世が関係体で成り立っている実体のない
仮初めの現象だと認識することだったかと思う。
自分の仮説には現世で悟りを得るかはまったく関係がなく
「世俗諦」でも死ぬことはない。
なぜなら意識は客観的な時間性を失い、死亡時刻へ辿り着けないから。
意識は夢を見続ける。睡眠時間と夢の中の時間は同じではない。
7 :
考える名無しさん:2011/12/17(土) 13:28:55.78 0
さとりに至ったものが、「仏、如来」であり、勝義諦である。
世俗諦でも、如来蔵として、仏心として、阿頼耶識として、DNAとして
「さとり」を秘めているが、だからと言って「不生不滅」ではナイ。
現象世界では、明確に「死ぬ」。仮令、仏心が秘められていようとも。
我らは、仏・如来にはなれナイ。
8 :
考える名無しさん:2011/12/17(土) 13:39:03.90 0
「空」の世界、「無」の世界、「仮」の世界とこの世を見極める立場
では、つまり、仏教「学」の立場では、6氏のお説のとうり。
「無記」を守る限り、ここから一歩も出ることは出来ナイ。
9 :
考える名無しさん:2011/12/17(土) 20:54:52.45 0
生きる意味など無いのである
地球が46億年前にでき、30億年前に原始生命が誕生した
多細胞生物→動物→哺乳類→霊長類→ヒト
ナメクジに生きる意味など無いであろう?
人間という種にも別に生きる意味など無いのだよ
気が付いたら「生きる意味」とかアホな世迷い言を考える種になっていた
「意味」とはそもそも、思考する際に考えのよりどころにするもの
だが、ヒトが生きていくために、合理的で生きていきやすい
社会・人生にするために、「意味」を作ることは大切なんだ
「意味」を理解したうえで…
自分の死は恐れるものなのか?
他人の死は悲しむべきものなのか?
その観点で一つ頼む。
>>6 現世は関係性で成り立っているとういうのは同意できるが、
何故「かりそめ」だと断言できるのか?
>>9 意味じゃ不十分、「目的」を考えてみなくっちゃ
人もナメクジも前に進む
12 :
考える名無しさん:2011/12/18(日) 00:39:24.60 0
>>10 丸山圭三郎という人の本に「死が快感であることを神は人間に隠した」
といったような言葉があったよ。
実は死というのは生の絶頂、オルガスムなのだけれど、それに人間が
気づいてしまったら社会の基盤が成り立たなくなってしまう。
そこで社会や宗教は死を悲しむべき、つらいものに位置づけたのかもしれない。
現世は関係性のところは、仏教における「悟り」の意味を思い出して書いた
部分で自分の思想ではないのだけど、
現世はなぜ「かりそめ」なのかと言われれば、
関係性で成り立つというのはその関係が失われれば、その実体と錯視されていた
ものも失われるからだ。
卑近な例を挙げれば貨幣は交換物があってこそ成り立つ。
交換物がなくては1万円も1億円も何の価値のないのと同じかと思う。
病むべく創造られた人間にとって、死は解放
あぼーん
社会の価値を形成しているのは、一時的で不安定な人間同士の
関係性のみであって意味はなく、実は死こそがその価値観を脱却する唯一の
方法であるとする思想は、結果として社会を破壊する。
よって死は人間にとって究極の苦しみだとする洗脳が行われた。
イスラム原理主義の思想では、聖戦によって殉教したものは
後世で真の幸福を手にするとされている。
しかし聖戦の標的となった相手が死んでも、そちらは後世で真の幸福を手にする事はない。
つまり死に方が重要であって、そこでも関係性が価値として登場している。
死を苦しみ悲しみとする洗脳は、社会を形成する関係性を維持したい、
もしくは今以上に発展させたしたいという欲求が動機になるものだが、
その欲求はどこからきたものだろうか?
16 :
考える名無しさん:2011/12/18(日) 15:20:53.65 0
仏教「学」的には、この世の総ては「無自性」で実体がナイ。この
立場では、全ての「関係」つまり「因縁」を極めると、この世は「仮初」で
「空」で、「無」の世界である。
それ故、生死もなく「不生不滅」である。死ヌコトモナイ。
17 :
考える名無しさん:2011/12/18(日) 15:28:09.27 0
生命を 大切に 仏教の真髄は これに尽きる ここから 慈悲の心も生まれる
その意味では、私は仏教「学」に モノタリナイ。やはり、「死」は実在する。
18 :
考える名無しさん:2011/12/18(日) 15:49:43.72 0
本当に親しい人の死のみ、本物の悲しみか。有ると思う。死とは何か?知っている人など人間には居ないだろう。
解らないけど、多きな力は存在していると感じている。例えば、嘘はいつか必ずバレる。
日々の行いを良くするように心掛けて、良いひとになれる様に務めて生活していると、運が開く。
大きな力の事を人は神とよんでいる。偉大過ぎて語るのも畏れ多い。
親しき者の死にのみ悲しみがあるのならば、親しき者が居ない人の死には全く悲しみが伴う事は無い。
人は必ず死ぬと仮定するのであれば、親しき者を作らぬことが悲しみを作らぬことに繋がる。
生きるとは社会の中で生活する事である。
日常に意味を見出せなければ、人は生きて行けないと言う仮設に基づいているのが
現世の人間である。
しかも社会は様々に違った条件を各個人に別々に与えているので、
各個人は自分に与えられた条件の中での活動を通して、
自分への意味づけを行い社会に存在しようとする。
これがいわゆる業である。
では各個人へ条件を与える社会とは何か?
家族であり職場であり国家であり国際関係であり、
また地球であり宇宙である。
社会の構成要素である人間が、社会から条件を強いられた中で、
自分の存在を模索しなければならないというのは、皮肉な話だ。
20 :
考える名無しさん:2011/12/19(月) 23:25:46.82 0
死の直前は意識の変容、時計が刻む時間とは異なった時間の流れが
展開されるのではないだろうか?
我々の中にある意識は死期が目前に迫ったとき、最後の抵抗で
「時間の意識」を変容させることに手を掛ける。
時計の時刻を意識することは社会生活で一番の基盤だろう。
それを変容させてでも死期を延々先へ引き伸ばし、意識を生かすのではないか。
意識は《生》を徹底的に追求する。意識はあくまで生きようとする強い意志を持つ。
古今東西報告される臨死体験、既視感、走馬灯のような回顧は意識の変容の兆候の
片鱗だと考えることは出来ないだろうか。
死後の世界はあるのかないのか。どちらの議論も直線的で定量的な
時間モデルから脱却できていない。
いつから「時間」は「実在」するようになったのか。
人は自分の死を体験することはできない
時間を認識するようになったから、時間は実在すると錯覚してると思う。
そもそも人間は時間をどの様に認識するのだろうか?
23 :
考える名無しさん:2011/12/20(火) 23:43:24.13 0
・実弾兵器、光学兵器が効かない
・能力をコピーできる
・テレポートが可能
・武器をワープさせられる(コクピットにビームを直接発射も可能)
・ビームライフルの最大出力はコロニーレーザーを超える
・自己修復機能がある
・ターンXは外宇宙に旅立った3億人のNTが造ったもの
・DG細胞の技術も取り入れられている
・本当はNT専用機
・星間戦略兵器
・地球の文明を抹消した月光蝶は、20%程度の力だった
・システム∀。胸のマルチパーパスサイロに地球から武器を転送できる
・100%の月光蝶は地球からでも木星圏までの文明を埋葬させる
・テレポート機能の転用でナノマシンの一部さえ残ればパイロットごと修復
・普通のバケツを掴めるマニピュレータ精度
・「人類が造り得た最大の破壊兵器」カイラス・ギリーを弾いている
・月を武器として使用する事も可能
・ターンXのコクピット(頭)はカイラス・ギリーの操作が可能
24 :
ユーサネイジア ダニエル・カール:2011/12/25(日) 00:09:04.36 0
死ぬ
ジョニーデップに会ったら激死ぬ
お〜れ ぜってえ ジョニーデップ 要らねえ〜
25 :
考える名無しさん:2011/12/25(日) 00:40:36.10 0
生きる意味など無いのである
地球が46億年前にでき、30億年前に原始生命が誕生した
多細胞生物→動物→哺乳類→霊長類→ヒト
ナメクジに生きる意味など無いであろう?
人間という種にも別に生きる意味など無いのだよ
気が付いたら「生きる意味」とかアホな世迷い言を考える種になっていた
「意味」とはそもそも、思考する際に考えのよりどころにするもの
だが、ヒトが生きていくために、合理的で生きていきやすい
社会・人生にするために、「意味」を作ることは大切なんだ
「意味」を理解したうえで…
あぼーん
別にいちいち意味付けしなくとも
28 :
考える名無しさん:2012/01/15(日) 21:23:37.05 0
般若心経はこの世は虚しくて当たり前だと説いているのではないか?
とかく人は意味を探りたがる。
何故なら人間がこれまで知ってきた物事には必ず意味が存在してきたからである。
人生に意味があるかどうかはわからないが、もし無いとすれば人間の思考回路はシャットダウンされるであろう。
意味がわからない…、つまりエラーの状態である。
人間の脳は無を理解出来ないのだ。
29 :
考える名無しさん:2012/01/16(月) 14:55:48.73 0
まぁ、ない状態にすら0という記号を与えて無に意味を与えたのが人間だからな。
だが逆に無に意味を与えられたということは無を理解している、ともとれるけど。
それはともかく、死ぬ前の時間を永遠と引き延ばすから人は死なない、って考えは面白いな。
ただ人間の脳の演算能力には当然限界があるだろうから永遠は無理だと思うけどそこらへんはどう考えてるの?
意識は死を体験する前に意識をやめる
31 :
考える名無しさん:2012/01/16(月) 20:05:12.50 0
えーと、意識は死を体験する前に意識をやめるから人間は死を体験しないってこと?
あ、なるほど。あなたにとっては死は意識が永遠に振る舞いをなくす、とかそういうものではなくってもっと別のものなのか。
だから意識自体は消えるけど、それは死などではなくもっと別のものだ、ってこと?
でもそれだったらあなたにとっての死、っていうのはどういう定義なの?
池田晶子は「死はない」って言ったな
あの世とこの世は地続きだ。ただし一方通行の関所がある。
人間は死を知覚することはできないとは思う。が、それは死=感覚の断絶であると思うから、
>>1の意見とは少し違う。
>>1は主観的死についての話をしているようだが、俺は魂肯定派なので賛同し難い。仏教などの宗教には、どれもどんな形であれ冥界=死後の世界が存在している。から、その点から考えれば、死は存在するのだと思う。
まず人も犬猫も牛豚鳥も同じ動物なんだから
今まで飼ってきたり食ってきた動物があの世に行ったと思うかい?
36 :
考える名無しさん:2012/05/12(土) 13:29:07.78 0
まず「死」について考えることと、「死ぬ」ということについて考える
こととは区別すべきでは?
「死ぬ」ということは実際死んだ人にしかわかりませんよ?
それについて考えるということはすでに「死ぬ」という出来事の意味が
問われているのですから、非経験的な考察と混同させてはいけませんよ。
37 :
孤高:2012/05/12(土) 16:31:07.33 0
考えたり、仮説を立てたりできる存在とはなにか?、 考えるとはなに
か?、どのようにして考えることができる存在が生まれたのか?、それ
ら全てに答えられる仮定((存在とは物理学的エネルギー変化パターン
の重ね合わせである))から事象の変化を推定予測できる~~~~について
孤高のブログで展開中。興味があったら見てください。
仮定って言ってもどこかしら、他の自分の信用している概念を持ってきているよね。
素直じゃないよな哲学は
夢の中で死を経験する
そこから人は死について自問するようになったのだろう
40 :
考える名無しさん:2012/05/13(日) 10:52:20.00 O
アキレスと亀みたい
41 :
考える名無しさん:2012/05/13(日) 14:03:56.02 0
死とは至であり始であり止である、
世界にとっての死と、貴方の周りの人にとっての死と、貴方の死と
いろいろな側面がある。
死を理解するならば魂が人に宿ることも知るべきである。
あ
あ
44 :
考える名無しさん:2012/05/16(水) 20:05:33.83 0
睡眠=死と仮定すると、
眠りに入るときと同じように、眠りを意識することなく寝て、気づいたら起きている。
同じように、気づかないうちに死んで、気づかないうちに生まれてる。
>>3 うさぎと亀のはなし?
>>1 大丈夫
本人が死んだことに気づいているかどうかは、その本人じゃないとわからないけど
まわりで見ている分には普通に死んでいるから
マジレスすると気付くための主体が死んでるから本人も気付かない。
主体だけの系でしか物を捉えられないのって(ry
死後の世界があるのかという問はゼロで割った数は幾らかと問うのに等しい。
死や主観や時間に対して物質と同様に有無という属性を想定する事自体が最初の大きな間違いなのではないか?
あぼーん
51 :
名無しさん:2012/12/28(金) 22:41:37.39 0
大阪府三島郡島本町の小学校や中学校は、暴力イジメ学校や。
島本町の学校でいじめ・暴力・脅迫・恐喝などを受け続けて、
心も身体も壊されて廃人同様になってしもうた僕が言うんやから、
まちがいないで。精神病院へ行っても、ちっとも良うならへん。
教師も校長も、暴力やいじめがあっても見て見ぬフリ。
そればかりか、イジメに加担する教師もおった。
誰かがイジメを苦にして自殺しても、「本校にイジメは
なかった」と言うて逃げるんやろうなあ。
僕をイジメた生徒や教師の名前をここで書きたいけど、
そんなことしたら殺されて、天王山に埋められるか、
どこかの家の床下に埋められるか、ドラム缶に詰められて
大阪湾に沈められるかもしれへん。それで誰にも発見され
へんかったら、永久に行方不明のままや。
島本町の学校の関係者は、僕を捜し出して口封じをするな。
http://www.shimamotocho.jp/ikkrwebBrowse/material/files/shimamoto_iti_map.pdf
52 :
考える名無しさん:2013/08/05(月) NY:AN:NY.AN 0
a
53 :
考える名無しさん:2014/01/15(水) 23:48:59.52 0
54 :
考える名無しさん:2014/08/07(木) 04:54:14.59 0
死っていったって、分子結合が変わるだけの話。
55 :
S、イマムラ:2014/08/12(火) 11:15:59.63 0
私は、喜寿近い、田舎の、老内科医です。これまで、愚論「c点による時空論」
を含め14本のサイトを出している、仏教にもある程度の関心のある唯物論者です。
臨床の現場、ターミナル(臨終)、検死ナド も経験して居りますが、やはり、
「死」は、分かりません。現在の感想の様なもの
「いのち」アル限り、この世(宇宙)は、われらのモノ。
「いのち」のナキ所、この世(宇宙)も、ナイ。
別に、良く寝る子供は、 よく学び、よく遊ぶ
蛇足でしたか
56 :
考える名無しさん:2014/08/12(火) 11:35:33.28 0
人は死ぬことは出来ない。
正直いって、「自殺」は恐ろしい。だが、自分は、「うつ」になる性格で
このような時、よく、「楽に死ねたら」と思うが、実現出来ナイ。
心療内科も意を決して、受診したが、改善を信じられず、ニートに近い現状に
罪悪感がツライ。信仰もきが進まない。
死後の世界。時に、考えるが。
57 :
S、イマムラ:2014/09/18(木) 16:41:24.22 0
「仏教哲学」は哲学デハナイ。色(有、現象、存在、ある)は即(すぐに、
ただちに)是(すなわち)空(無、非現象、非存在、ない) つまり、
色即是空 「あるもの」は「ない」
論理、観念としても、ナンセンス。もちろん、「観念連合」など論外。
しかし、これは、宗教。
「ナイものガあるヨウニ身エルガ本当ハ真実」は「ない」
よって、「不生不滅」も、宗教ゆえに、ナンセンスとは言えない。
矛盾を許されるが、これを「信ずる事(信仰)」を強要される。宗教とは
この様なもの。
「仏教」では釈迦、竜樹により「思索に縛り」があり、論理が無視されて
なを、「仏教哲学」と称して、それを強要している。矛盾は肯定されている。
クリばかり攻める。
クリばかり攻める。
60 :
考える名無しさん:2015/02/21(土) 02:06:23.20 0
多くの人が、現実の時間の長さと夢の中の時間の長さが
違うと主観的に感じているとする。
では自分自身が生きている間に感じる時間の長さと
死ぬ直前の時間の長さは一緒か?
A一緒だ
B異なる
C前と後のセンテンスは関連がまるでない
61 :
考える名無しさん:
死が文化的産物であり、
それすらも幻影だと言えるのなら
死について多義的解釈が可能である。
無であろうが空であろうが極楽浄土であろうが時間の引き延ばしであろうが。
どれも正解なのである。