1 :
考える名無しさん :
2011/12/16(金) 08:46:45.40 0 現象学
ここは今日食べたものをひたすら列挙するスレです テンプレ以上
陰毛フッサールかね?
腋毛フッサフサ
フッサールは、フレーゲのアドバイスを聞かないで、 心理的論理学を突き詰めた方が良かったのではないか? と思うことがよくある。
6 :
考える名無しさん :2011/12/17(土) 11:26:06.25 0
えっ? 現象学から心理学批判とったら、 現象学は存在してないでしょ。
心理学への批判は内在的批判でないと意味がないし フッサールが考えるほどカントはたいしたことない ということ
カントもヘーゲルもいうほどの哲学者ではないしな
現代思想のフッサール特集は買いですか? 2009年のやつ
>>9 買えるなら買っておいた方がいいよ
ただ意外と構成が良くないんだよね
2001年の「現代思想 総特集・現象学」の方が面白い
11 :
考える名無しさん :2012/01/04(水) 09:01:09.66 0
ハム速を見て2チャンネラー気取ってます☆(ゝω・)vキャピ
12 :
考える名無しさん :2012/01/05(木) 11:14:23.62 0
13 :
考える名無しさん :2012/02/10(金) 13:04:44.61 0
フッサールはハゲ
14 :
考える名無しさん :2012/04/27(金) 00:48:59.05 0
フットサルに興じるフッサールがふっ、と去る。
講義があんまり単調で同じことを執拗に繰り返すんで、学生が どんどん居なくなった。
初期フッサールって、ブレンターノの影響だろ。 そこら辺からほじくってみんことには。
あとヒュームすきだよね
「指向性」はブレンターノが言い出した。 「目的論」で置き換えた方が良いかも 知らんが。
論理学研究はおもしろい。心理学主義批判しまくってる
20 :
考える名無しさん :2012/08/24(金) 22:28:01.65 0
現象学的認識とは、「現象学的還元」と言うけれど、これはどのような方法でしょうか。
21 :
考える名無しさん :2012/08/26(日) 21:34:29.50 0
>>20 「現象学的還元」とは、一切の先入見を排して、意識に直接に明証的に現れている
現象を直観する方法です。
22 :
考える名無しさん :2012/08/27(月) 19:41:34.54 0
>>21 「一切の先入見」とは、科学的思考のように「命題」とか「定義化」など一切の規定化された
事実を排することであると思うのですが、「意識に直接に明証的に現れる現象を直観する」の、
「直観」とは、どの様な意識体験ですか。
23 :
考える名無しさん :2012/08/28(火) 22:15:28.58 0
>>22 「現象学」の直観には、二通りあります。私達が普段、認識している直観は、
「知覚」「想起」「想像」などの「知覚直観」です。もう一方は、「意味の直観」です。
この「意味の直観」は、「現象学的還元」によって「純粋意識」の状態から直観される。
フッサ−ルが述べている「超越」の存在認識は、内在から「直観」で認識される。
むこうじゃ未だに全集で続けてるってほんとか
25 :
考える名無しさん :2012/08/30(木) 13:38:12.80 0
>>23 「純粋意識(内在)」の状態から「直観」されると、述べていますが、この「純粋意識」と「直観」とは、
どの様に関わっているのでしょうか。
26 :
考える名無しさん :2012/08/30(木) 14:07:30.25 0
>>25 「純粋意識(内在)」とは、普段の私達の意識が、「現象学的還元」によって、一切の先入見(一切の既成概念)のない、
「意識状態」になることです。この「意識状態」の深まりが、「純粋意識」です。そして、「直観」とは、この「純粋意識」の
中で現れる活動する現象が「直観」です。
27 :
考える名無しさん :2012/08/31(金) 13:26:13.14 0
>>26 現象学的還元による「直観」は、哲学の中でどの様な位置づけにあるのでしょうか。
つまり、西洋哲学は、「認識論」「懐疑論」「相対主義」「独断論」「分析哲学」「科学哲学」、
「構造主義」等々、いろいろな主義、主張がありますが、これ等の「哲学」に対して、「直観思考」は
どの様な「役割」を担っているのでしょうか。
28 :
考える名無しさん :2012/08/31(金) 14:02:25.29 0
>>27 デカルトは、「方法序説」の中で、哲学の方法について、「人生に有用であると同時に、確実な認識を求めて、
一歩一歩、順序をふんで歩み進んで行く。」と述べている。そして、「この方法は、理論よりも
実践の中にあり、「この方法」は、実際に試みなければ分からない。」と、デカルトは、書簡に記している。
この「有用」で「確実」な方法を、「方法序説」の中で、「明証的直観」と、これを結合する「必然的演繹法」であると
述べている。 つまり、「明証的直観」とは、現象学的還元による「純粋意識(内在)」からの「直観」です。そして、
「必然的演繹法」とは、「前提−推論−結論」の思考プロセスの方法です。この演繹法は、数学に於ける一連の証明方法が、
その典型です。 この様に、デカルトの「哲学」をする方法(考え方の手順)として、「直観」と「演繹法」との組み合わせによる
思考法が、確実な真理を求めてたどり行く「道」であると述べている。
概念なき直観は盲目だ、とカントが言ってから哲学史的に直観の位置は下位になった。 フッサールの現象学はこの状況を変えるはずだったがフッサールの認識はある時点かあ カントに近づいていき、内容のない思考が横行することになった フレーゲに批判されても心理主義的論理学を捨てるべきではなかったというのが個人的見解。 。
30 :
考える名無しさん :2012/09/01(土) 14:32:30.30 0
>>29 カントが、述べている「概念無き直観」とは、「経験的直観」、又は「純粋直観」のこと
でしょうか。
31 :
考える名無しさん :2012/09/01(土) 14:56:55.00 0
>>29 カントの「直観」に対する概念には、二通りあります。「純粋直観」と「経験的直観」です。
この「純粋直観」とは、経験的直観(感覚的直観)から「実体」とか「力」とか、可分性と言った
一切の既成観念を取り除き、さらに不可分性、堅さ、色などと言った性質を取り払ってみる。
それでも残っている意識としての「直観」がある。それはつまり、「延長」と「形態」、つまり、
一定の大きさ(量)と形である。そして、これを追い求めて行くと「空間性」と言う事になる。
この純粋な「空間性」を「純粋直観」と述べている。 フッサ−ルの述べている「直観」の概念にも
二通りあり、経験的直観(感覚直観)に対して、「意味の直観」が、カントの述べている「純粋直観」と
同義であると解釈している。
>>23 何を意味不明な寝言ほざいているんだ?馬鹿w
フッサールの現象学は始めから破綻している。 おそらく、フッサールは現象学を構想した当初、カントの純粋理性批判をまともに読んでいない。
あーあ
論理学研究とイデーンくらい読んでから書き込め
38 :
考える名無しさん :2012/09/06(木) 18:44:53.57 0
>>37 貴方は、「論理学」と、「現象学」をどの様に捉えているのか。まず持論を展開
して欲しい。そうでないと誰も納得しない。
39 :
考える名無しさん :2012/09/06(木) 18:49:07.21 0
>>33 意味不明ならば、誰しも理解できる様に自分の「理論」を述べなさい。
>>38 フッサールの言う通りに捉えてるよ。読んだの?
フッサールはカントのアプリオリな空間を認めず 現出・現出者・志向体験により空間の認識を語ろうとしたそうだが その現出・現出者が現れる空間はいったい何なんだ?
>>41 発生的現象学で言った生き生きとした現在(lebendige Gegenwart)の領野。
>>42 だから、そこでいう
「生き生きとした現在の領野」
とは、まさにアプリオリな空間だろ?
>>44 何をわけのわからないこと言っているんだ?
馬鹿。
現出・現出者が現れる「空間」なんてものを考えるのはナンセンスだと思う
47 :
考える名無しさん :2012/09/07(金) 21:44:46.12 0
>>43 現象学に於ける「生き生きとした現在の領野」と言うのは、明証的に構成された内在(構成的内在)であり、
時間・空間で構築されている。 従って、カントの述べる「アプリオリな空間」と同義である。
尚、「物自体」の概念は、有限領域(時間・空間で構築された領域)の対極にある無限領域の事であり、
「先験的感性」の及ばない領域であると思う。
>>46 空間でないところに現れることができるものなど
あるわけないだろ、この知恵遅れ(プッ
>>49 イメージの中であれ、眼前の現実であれ
何かが現れて、それを認識するという経験を考えたとき、
そもそも空間が無ければその経験自体が成立しない。
空間とは、経験から抽出されたものではなく、
まさに経験が可能となるアプリオリな条件。
アプリオリな直観の形式であるということ。
詳しくは「純粋理性批判」の超越論的感性論を読むことを勧める。
>>50 わざわざありがとう
このカントとフッサールの違いはやはりフッサールが徹底して現象主義を貫いたゆえんだと思う
いきなりカントを読もうと思ってもキツイと思うのでインターネットでそのことについて調べてみる
いきなり読むほうが良いと思うよ
>>51 いきなり読むほうがいい。
始めの、超越論的感性論は比較的理解しやすい。
フッサールは純粋理性批判を正しく読めていなかったから
大分無駄な努力をしたと思う。
>このカントとフッサールの違いはやはりフッサールが徹底して現象主義を貫いたゆえんだと思う
フッサールは思い違いをしているだけ。
54 :
考える名無しさん :2012/09/08(土) 13:56:27.20 0
現象学的思考と論理思考(論理実証的思考等)とは、思考プロセスが異なる。 この「現象学的思考」とは、西洋哲学にもともとある「直観思考」である。 「直観思考」が、西洋哲学で明確になったのは、デカルトの「我思う我有り」から である。この「直観思考」が、ヘ−ゲルを経て、学問として理論化したものが、「現象学」 です。 従って、カント、ヘ−ゲル、分析哲学、構造主義、科学哲学等を論究する時は、 現象学(直観思考)と、論理思考(演繹法、弁証法)を概念として、明確に分離して考察することが必要である。
ヘーゲルは論理のように見えて直観でしかなくね?
まあバカには何言っても伝わらないから(ry
荒れるからやめて
59 :
考える名無しさん :2012/09/09(日) 13:45:24.42 0
>>56 お前、皆が納得する様に理論を述べてみろ。
フッサールの馬鹿は晩年にはカントに接近したようだな。
61 :
考える名無しさん :2012/09/11(火) 09:39:47.78 0
>>50 空間はアプリオリな直感の形式と述べているが、「時間概念」も入ると思うので、
この、アプリオリな直感とは、どの様な形式なのでしょうか。
>>61 何が理解できないのか、ポイントを絞りなさい。
私には頭の悪い人の考えが理解できないので、くわしく思考過程を書きなさい。
偉そうでワラタ
64 :
考える名無しさん :2012/09/11(火) 16:50:38.16 0
>>62 「アプリオリな直観の形式である。」と、述べていますが、 カントの「直観」は、
「純粋直観」と「経験的直観」があり、このアプリオリ(先験的)な直観とは、どちらに入るのでしょうか。
>>64 「純粋理性批判」 にはっきりと書かれていることを質問するとは
単に 「純粋理性批判」 を読んでいないと告白しているに等しい。
そのような不真面目な怠け者の質問には答えません。
「純粋理性批判」の超越的感性論に答えはそのまま書かれているので
「純粋理性批判」を読みなさい。(命令)
66 :
考える名無しさん :2012/09/11(火) 18:51:05.24 0
>>65 時間は空間と同じ様にアプリオリな直観形式(内的直観)ですが、一方、経験的直観は、
対象によって意識に生じた表象(感覚)の経験を直観と定義している。 そうすると、経験的直観に
於ける時間概念による「空間」の形相は、アプリオリな直観形式と、どの様な違いを生じるのでしょうか。
> 255 : 第三の波平 ◆JXLBbnYqTY : 2011/10/03(月) 19:40:14.99 0 > それは江戸時代にさらに形式化されたときがひどい。 ↑ 『ひどい』を平仮名で書く同一の特徴 ↓ > 321 :ixtlan:2012/09/05(水) 19:05:40.47 0 > 竹田がハイデガーについて書いた本を大昔読んだが、 > あれはひどかった。
>>66 経験的直観の定義を正しく知っていれば、そのような馬鹿な質問ができるはずがない。
いったいお前は、どういう意図で馬鹿な質問を続けているんだ?
69 :
考える名無しさん :2012/09/11(火) 21:45:59.92 0
プッ。ワロタW 偉そうに−お前はカント以上か。
70 :
考える名無しさん :2012/09/11(火) 21:55:44.72 0
ワロタ 偉そうに
71 :
考える名無しさん :2012/09/11(火) 22:05:21.46 0
>>68 「経験的直観」における時間・空間の連関は、同じではないのだから、馬鹿な質問では
ないのでないか。相手が、分からないから質問しているのだからな。そして、ここは、
大学の哲学教室ではないのだ。
>>71 お前の頭では「純粋理性批判」を読破するのに
大げさでも何でもなく、10年〜20年はかかるであろう。
しかし、それでも読破して理解すれば、そのような馬鹿な質問はしなくなるし、
カントが百獣の王ライオンだとすれば、フッサールはそのライオンにたかるハエ程度
の哲学者でしかないことが解るであろう。
73 :
考える名無しさん :2012/09/12(水) 12:09:00.45 0
>>72 この世に完全な思想、理論そして、完全な人間はいない。 カントの純粋理性批判、
実践理性批判の論理も、当然に完全なものではない。 カント哲学の最終的に目指していたものは、
デカルトによって創出した「主観/客観の分離」の再統一にある。従って、カント哲学の中心的な論点と
なるのは、「物自体」の概念の明確化である。 残念ながら「物自体」の概念は、不完全なものであった。
「物自体」の概念が、何故、中心的論点になるかと言うと、純粋理性批判に於いて、主観的存在と客観的存在の
概念が、今一つ明確でないからである。その為に「物自体」の概念が客観的存在であることを、論理的に明確化が、
出来ていないからである。 その点に着目したのが、フッサ−ルの「現象学」である。 「現象学」は直観思考で
あるが、カントに於ける「直観」の概念と異なる、カントの「直観」の概念は、今一歩、前進していない。これも、
主観的存在と客観的存在の概念的位置づけが、明確でないからである。その事が、カント哲学の前進を阻んでいる。
話しは元に戻るが、お前はカント哲学(純粋理性批判)を100%完全で、正しいと言う固定観念に縛られている。
お前の知識(哲学)は、100%、カントの「哲学」にすぎない。 人より少しばかりの頭の良さを鼻にかけて「人を見下す」
その態度は、哲学界、科学界のみならず、すべての「世界」に通じることである。
>>73 いつ、どこで、だれが純粋理性批判が100%完全で正しいなんて言ったんだ?
簡単な日本文すら読解できない知恵遅れ(プッ
お前の書き込みが馬鹿丸出しである理由がよくわかるな(爆笑)
あはははははははははははははははははは
>>73 こんな間抜けなことを言っている馬鹿のお前には
「純粋理性批判」の読解は一生無理だな(嘲笑)
もう構うな馬鹿
>>73 御意。良くまとまってる。
物自体から人間自体への切り替えがフッサールを起点として発生した。
ただ人間もまた物でありうるというところで様々枝分かれしていますね。
>>77 もし純粋理性批判を理解していたら
こういう馬鹿丸出しの書き込みはできないwwwww
>>78 >もし純粋理性批判を理解していたら
ちゃんとしたカント読みはこういう事を言わないということは理解しているw
>>79 どうした?
純粋理性批判が理解できない知恵遅れ(爆笑)
81 :
考える名無しさん :2012/09/12(水) 19:18:28.62 0
自分の考えを、理論的に説明も出来ない連中に、もうかまわないほうが良い。 ただ、意味もなく、揚げ足しかとれないもの達は、無視しょう。時間の無駄である。
>>80 それじゃあカントの言うマニプランダはカント的には純粋理性とどう関連付けられるか
純粋理性批判を「理解」したあなたにうかがいましょう。
できれば2行くらいでまとめてみてください。
>>82 純粋理性批判のどこにマニプランダなどという概念が出てくるんだ?
その箇所を指摘してもらおうか。
>>82 マニプランダ?
ドマイナーな話題に逃げ込むな、クズwwwww
86 :
考える名無しさん :2012/09/25(火) 20:06:34.43 0
どうしてこうも協調性に欠ける人ばかりなの
87 :
考える名無しさん :2012/09/25(火) 21:23:17.94 0
形而上学的領域は、演繹的思考又、論理思考では限界があるので、今後、 現象学の役割は、重要であると思う。カントの「物自体」の概念も形而上学的分野で あるので「客観的存在」との連関を解明する意味においても「現象学」の役割は大きい。
あなたは人を貶すことしかできないの?
90 :
考える名無しさん :2012/11/11(日) 02:55:50.84 0 BE:1721007296-2BP(0)
てすと1
91 :
考える名無しさん :2013/01/06(日) 04:40:21.45 0
竹田は避けていたんだが、完全解読「現象学の理念」を買ってみた。 これから読むんだが、この本、正直どうなの?
竹田は論壇のことしか知らない人で、 フッサール批判は全部日本のデリダ状況の亜流だと思っている。 なんでもかんでも主観的還元ができると思っている心理主義者で、 フッサールの志向性にニーチェの力への意志を足したようなエロス論を振り回すが、 ほとんどメルロ=ポンティの出来損ない。
竹田は自分のお気に入りの学者のパッチワークなんだけど、 所詮批評家なのであんまり繋がってない。 その雑さがいかにもフッサール的でない。
たとえば精神病の一種でも何でもいいですが、「空間」という概念が どうしても理解できなくて、何を見ても聞いても触っても、ただ 平面的な広がりとしか思えない、という人間は想定できないでしょうか?
それはアスペだろ。言語空間の多次元性も理解できないから、 批評をさせると全部同一平面に並べて、白黒だけで判断する。
例えばだ。16世紀の思想家とその現代の扱いについて批評させる。 16世紀の人間の書いていることだから、その当時の事実認識の誤りや トンデモな科学知識がいくらでも出てくる。そうするとそれらの誤り をあげつらって、こいつはトンデモだ、こんなトンデモを重要な 思想家として相手にしている現代の学者もすべて馬鹿だ。自分には それがはっきり分かる、と大得意になって胸を張る。
それと、空間をとらえられないから、当然、空間の規則性も認識できない。 例えば、2次元に投影されていても、天井と3本の柱が見えて、部屋が 立方体であるという事実を知っていれば、4本目の柱の位置は確定する。 ところが、空間認識がないので、その4本目の柱の位置を正確に指摘する 人間に対して、「おまえは何の根拠もなくデタラメを言っている」と 本気で腹を立てて食ってかかる。
これを上司としてまとも相手にしていると精神をやられる。 なにしろ、同一平面に並べる作業以外は「研究」として認めない。 立体的な配置や、まして高次元の構造を示そうものなら、 「デタラメに並べられている」としか認識できないので激怒し、 何度でもやり直しを命じられる。しかも、そうした人間に権威と 権限が与えられているのは、偶然ではない。
波平みたいだな、歴史上の哲学者が孤児院に子供を入れたから 自分はマルクスやルソーより上だって胸張ってたぞwwww
100 :
考える名無しさん :2013/01/07(月) 19:21:14.98 0
>>91 竹田青嗣の完全解読「現象学の理念」を自分も読んでみたが、デカルトの「主/客の分離」が
近代哲学から現代哲学の重要な課題であることを、フッサ−ルの「現象学」を中心として、非常に
分かり易く解説されている。 この本で、デカルトからカントそしてヘ−ゲルまでの、認識論での
「主/客一致」を求めての哲学的な経緯が分かりやすく述べられている。この経緯の中で現象学の
中心となる「現象学的還元」が、「中立性変様(エポケ−)」と、どの様に関わるかも詳しく述べられており、
「現象学」の入門書として最適かと思う。
分析哲学者の「大陸哲学」論難もそんな感じのような気がする
>「空間」という概念がどうしても理解できなくて >平面的な広がりとしか思えない むしろ、欠落しているのは時間の感覚だとは考えられないだろうか。 事物の時間的前後関係がとらえられないので、静止画像のように すべて同一平面でとらえてしまい、空間の概念が生じない。
予測不可能な新たな出来事を極端に忌避し、延々と続けられる 反復行動によって安心感を確保する性向も、自己の行為による 「能動的な時間の否定」のように見える。それを自分でやっている だけならば、傍から見るとその行動が奇異に映るだけだで無害だが、 そういう性向の人間が権力のある地位に意図的に置かれていると、 その下の人間は、無意味な繰り返しを強制されて精神を破壊される。
村上靖彦『自閉症の現象学』
105 :
考える名無しさん :2013/01/09(水) 12:30:02.04 0
>>103 「反復行動」は、現象学的還元の一過程である。論理的思考(前提−推論−結論)に於いても、
思考の一過程としてあらわれる普通の思考活動である。現象学は、一切の既成概念を「中立性変様」をし、
純粋精神より「本質看取」し、一切の価値を「再構築」するが、この再構築の段階で、「反復行動」を行う。
従って、現象学が自閉症的と言うのは、思考の流れの一部分を見ているのである。
自閉症の反復行動は現象学的理解とはかけはなれているし、 誰も現象学が自閉症的だなどとは主張していない。 現象学を少しでも知っている人間なら騙されませんよ。
何このスレ 竹田持ちあげて村上下げてんのかよw
108 :
考える名無しさん :2013/01/10(木) 10:03:24.35 0
>>106 現象学的還元は、論理的思考とは、対極的に異なるけれども、「現象学」は具体的に
どの様なことを述べているのでしょうか?
109 :
考える名無しさん :2013/01/10(木) 10:50:12.69 0
>>102 現象学的還元は、一切の先入見(既成概念)を排して、意識に直接に明証的に現れる現象を
直観認識することであり、まず、時間概念にとらわれないで、中立性変様(エポケ−)を実践
することから始める。そうすることにより、空間概念がしだいにかたちづけられてくる。これは、
直観認識なので、自分の場合も、一定の思考訓練を必要とした記憶がある。
>>109 デタラメを書き込むのは、これを1億回唱えてからにしてください
↓
ΕΠΕΧΩ[Je demeure incertain.]
111 :
考える名無しさん :2013/01/11(金) 13:05:26.18 0
>>110 「現象学」をどの様に解釈しているか、まず自分の「現象学的還元」の捉え方を
述べて欲しい。そうでないと、第三者が彼方の記述をみても、信用されない。
デタラメという根拠を述べて下さい。
>(エポケ−)を実践する
エポケ−を実践する=ΕΠΕΧΩ[Je demeure incertain.] であり、
これは言葉そのままなので異論の余地がない。
まずは、ΕΠΕΧΩからどのように
>>105 や
>>109 が導かれるのか
示すべきだろう。話はそれからだ。
113 :
考える名無しさん :2013/01/11(金) 13:41:22.04 0
>> EΠΕΧΩを、日本語で記してもらいたい。ここを見ている人は「現象学」の初心者か、 現象学をほとんど知らない人が多い。
>>113 「ここを見ている人は」じゃなくて「私は」だろ。
そのあたりをまずエポケーしないとだめだな。
115 :
考える名無しさん :2013/01/19(土) 12:11:25.10 0
いろいろな人が、このスレを見ているのだから、それはそれで良いのでないか。 ここで問題としているのは、「ΕΠΕΧΩ」がどの様な意味なのかを皆が知りたい のだと思う。
117 :
考える名無しさん :2013/01/21(月) 17:54:50.14 0
現象学的還元とは、すべてを、それが(自然的意識=心)現れるがままの、最も原初的な姿(現象学的残余)へと (現れを超えたものとの一切の係わりを宙吊りにしたまま)送り返すことである。この「一切の係わりを宙吊りにしたまま 送り返すこと」が、一切の先入見(既成概念)を排することであり、これを「エポケ−(判断停止)と定義している。
それはΕΠΕΧΩについての思考停止ですか?
懐疑論のエポケーと現象学のエポケーは意味がちがうだろ。 両者は判断を停止するという意味では共通しているが、 現象学的還元では還元しても残る「内在的超越」としての自我の働きが問題になる。
内在的超越じゃなくて現象学的剰余だった。 スマソ
121 :
考える名無しさん :2013/01/21(月) 20:43:35.87 0
デカルトの「方法的懐疑」は、少しでも「疑わしい思えるもの」を斥ける。この「斥ける」の 概念は、「否定し、廃棄する」。この廃棄されたものは「保存」されない。 従って、「方法的懐疑」の 場合は、「判断停止(エポケ−)」はしない。この点は、デカルトの「懐疑」と、フッサ−ルの「還元」との 概念の間違いやすいところです。 現象学の「判断中止(エポケ−)」とは、私達が普段持っている先入見(既成概念)を すべて排して(取り除く)、その取り除いた「既成概念」を、否定し、廃棄するのではなく。この取り除いた「既成概念」を 一旦すべて「括弧にいれる(エポケ−)」のである。そして、すべての「既成概念」をとりのぞいた意識が、「純粋意識(現象学的残余)」 です。そして、この「純粋意識」から改めて再構築する事を「本質看取」と言う。この「本質看取」の状況で「括弧に入れていた既成概念(エポケ−)」 を、保存から解放する。つまり、既成概念が生かされるところが、「方法的懐疑」と「現象学的還元」との異なるところである。
>>121 なぜデカルトの話に?
もしかして「懐疑論」を方法論的懐疑のことだと思ったのか?
メルロ=ポンティが「知覚の現象学」の序文でフッサールの現象学的還元について触れている。 「還元の最も適切ないいまわしは、恐らく、フッサールの助手のオイゲン・フィンクが 世界を前にしての「驚き」について語ったとき、与えた定式であろう。 反省は世界から退いて、世界の根拠としての意識の統一に向かうのではない。 もろもろの超越がほとばしり出るのを見るために、後退するのであり、われわれを 世界に結びつけている志向性の意図を現出させるために、それを緩めるのである。 反省は世界を、異常な逆説的なものとして、顕わにするのだから、反省こそが 世界についての意識なのである。 フッサールの「超越論的なもの」はカントのそれとは違う。 そしてフッサールはカント哲学を、それがわれわれの世界に対する関係を 超越論的演繹の原動力として*利用して*おきながら、世界について「驚く」こともせず、 主観を世界に向かっての超越として理解するかわりに世界を主観に内在せしめている、 という理由で、「世俗的な」(mondaine)哲学だと、非難している。 フッサールとその解釈家との間、また実存主義的「異端者」たちとの間、いやしまいには フッサール自身との間にすら生じた誤解のすべては、次のような事情に由来するのである。 つまり、世界を見届けそれを逆説として把握するためにこそ、かえって世界とわれわれの 馴れ合いを断絶することが是非とも必要なのであり、またこの断絶は、 世界のいわれなき出現以外の何ごとをも、われわれに知らせることはできぬ、ということである。 還元の最も偉大な教えは、完全な還元というものは不可能である、ということである。 だからこそフッサールはいつも繰り返して還元の可能性について自問するのである。」
124 :
考える名無しさん :2013/01/22(火) 18:56:11.41 0
フッサ−ルは、哲学の根本問題の「謎」について次の様に記述している。 「西洋の歴史に於いて、スコラ哲学もその後の哲学も、哲学の根本問題の「謎(主観と客観の一致)」を 解明出来ない為に、構造的にある根本的な袋小路に陥っている。この哲学の困難を切り開く道は一つしかない。 それは、理性の認識能力を本質的な仕方で、批判することで人間の「認識」の本質を解明し、その事によって、 長く続いてきた世界(客観的存在)に、ついての「独断論」と「懐疑論」との不毛な対立を終焉させることである。 又、それまでこの不毛な対立によって隠されてきた哲学の根本問題、つまり、「真善美」の問題を追求する最も 本質的な方法(現象学的還元法)を、哲学は、はじめて手に入れることが出来るはずである。」と述べている。
125 :
考える名無しさん :2013/01/22(火) 19:18:02.14 0
>>123 還元の最も偉大な教えは、「完全な還元」というものは、不可能である、ということである。
メルロ=ポンティは、上記の様に述べているが、この「完全な還元」とは、現象学的還元の
プロセスに於いて、どの部分が不完全と述べているのでしょうか。 例えば、「超越−内在」構図
に於いて、「純粋意識」の状態なのか、又は、「中立性変様」」での主観の位置づけなのか。不完全な
原因をメルロ=ポンティはどの様に記しているのでしょうか。
>>125 不完全な原因は、われわれが「絶対的な精神」ではないし、ハイデガーもフッサールから
述べたようにわれわれは「世界においてある」のだからということです。
そのパラグラフの締めは次のように終わります。
「哲学とは哲学者自身の出発点に立ち帰って、繰り返しこれを体験し直すことである。
哲学のすべてはこの端緒を記述することに存する。
そして結局、根本的な反省とは、非反省的な生に対する、反省自身の依存性を自覚することなのだ。
非反省的な生こそ、反省の出発状況であり、恒常的な状況でもあり、終局の状況でもある。
先のフッサールの言葉は、以上のようなことを意味していたのだ。
一般に考えられたように、現象学的還元は、観念論的哲学の定式であるどころか、
実存主義の定式なのである。
ハイデガーの「世界-内-存在」(In-der-Welt-Sein)は、現象学的還元を基礎として、
初めて出現しえたのである。」と。
Neutralitätsmodifikationから「哲学者自身の出発点に立ち帰る」 ことが欠落すると、工学のフィードバック・システムもどきの 擬似哲学/工学思想「オートポイエーシス」ができ上がる。
128 :
考える名無しさん :2013/01/23(水) 14:04:29.17 0
>>126 >哲学者自身の主発点に立ち帰って、繰り返しこれを体験し直すことである。
>上記の、哲学者自身の「出発点」と、「絶対的精神」とは、どの様な連関にあるのでしょうか。
現象学還元は、中立性変様(エポケ−)から「純粋意識」に至り、そこより本質看取を進めていくが、
この、「純粋意識」の領域を私は、「絶対的な精神」と解釈している。
>中立性変様(エポケ−)から「純粋意識」に至り 至らない
>>128 「中立性変様(エポケ−)から「純粋意識」に至り」などと
寝言を言うのは、これを1億回唱えてからにしてください
↓
ΕΠΕΧΩ[Je demeure incertain.]
>>128 出発点というのは、その後に続く根本的な反省の端緒です。
「絶対的精神」というのは、いわゆるカント的な「神の視点」ですね。
それはフッサールの「純粋意識」とは無縁でしょう。なぜならフッサールの現象学的還元や
本質直観というのは、どこまでも「事象に対する意識の構造」への理解のためのものですから。
>>130 それは訳がよくない。
エポケーはピュロニスムにおいても、
「不明瞭なもの」について判断を保留し、ストア派的なカタレプシスに即して受動的に受け取る「現れ」をそのまま承認するものと説明されている。
不明瞭は状態に留まるなんていう意味はそもそもな初めからエポケーにはない。
133 :
考える名無しさん :2013/01/23(水) 19:55:13.39 0
>>126 不完全な原因は、われわれが「絶対的な精神」ではないし、われわれは「世界においてある」
のだからと言うことです。
>われわれが「絶対的な精神」ではないを、私は、下記のように解釈している。
本質直観により「純粋意識」の領野に入るが、この「純粋意識」の領域は「構成的内在」です。
この「構成的内在」は、「内在−超越」図式での「内在」ことであり、現象学的還元を行うことで、
世界(客観的存在)とその一切の対象は、われわれの意識の内の「意識現象」とみなされる。
だから、「絶対精神」というのは、主観的領野の外にある、「客観的存在」のことであり、カント的な
「物自体」とも考えられる。
懐疑主義はかなり現象学的だな。 少なくとも矛盾するところはほとんどない。
現象学はあからさまな懐疑主義でしょ
そうだよ。メルロ=ポンティは、モンテーニュが座右の銘 としたΕΠΕΧΩ[Je demeure incertain] (仏語訳はプレイヤード版による)を継承しているといえるし、 系統の異なるパースの現象学も懐疑主義といっていい。
>>130 訳がどうであろうと、エポケーを実践することは必然的に
ΕΠΕΧΩとなり、常に再帰点として留まる自己を除外する
ことはできない(これは自己が常に同一であると主張すること
とは異なる)。
139 :
考える名無しさん :2013/01/24(木) 11:28:13.52 0
「懐疑主義」と、「現象学」の概念は根本的に異なる。 「懐疑主義」とは、一切の認識の 根拠は怪しいと疑い、その結果、認識(普遍性、客観性)の「判断停止」に陥り、不可知論と 結びつき伝統的形而上学の保持する、存在や神の確かさを疑うのが懐疑主義である。 ギリシャ哲学(ピュロン主義)からスコレ哲学までの中世の「懐疑主義(懐疑論)」に対して 終止符をしたのが、「絶対的に疑えない要素に出発点」を置いたの、デカルトである。 それが、 「私は考えるゆえに私は存在する」の命題であり、純粋精神である不動の極点としての「私(超越論的主観)」です。 懐疑論に対して、「現象学」とは、一切の認識(客観性、普遍性)を「疑う」のではなく「中立化」するのである。 「疑う」と「中立化」の何が異なるかと言うと「疑う」は、疑ったものを、すべて否定し廃棄して、「保存」をしない。 「中立化」は、疑ったものを否定し、廃棄せずに「一旦保存」するのである。そして、「本質看取(認識の再構築)」の 過程で、「保存」したものを解除するところが根本的に異なるところである。
疑うことと否定することは明確に違う。 「そうであるかもしれないし、そうでないかもしれない」 というのは否定ではない。
懐疑主義とMaurice Merleau-Pontyの両義性はぜんぜん違うw
142 :
考える名無しさん :2013/01/24(木) 16:52:59.58 0
>>140 デカルトは「疑わしきものと思われるもの」に対しては、断固として「斥ける」と述べている。 この「斥ける」の中に、否定と廃棄が含まれている。従って、「方法的懐疑」に於いては、 「斥ける」と「否定と廃棄」は同義となっている。
「ぜんぜん違う」限りにおいて、メルロ=ポンティはモンテーニュから 後退している。
疑い、つまり、「そうであるかもしれないし、 そうでないかもしれない」 ではなく、 否定、つまり、「そうではない」なら、 それは懐疑主義ではなく、否定主義。
例えば、モンテーニュとデカルトの動物の痛みについての 理解を比較してみるといい。デカルトの理解は確信に 満ちたトンデモ。
モンテーニュにしても「懐疑主義者」を批判しているわけで、 ここで「懐疑主義」と呼ぶ場合、特定の学派の説を指して いるわけではなく、「問う」行為そのものを重視する姿勢を 指している。
懐疑や否定じゃなくて両肯定なんだよ。モンテーニュと関係ない。 コギトは懐疑論じゃなくて懐疑的方法だし、フッサールのもまさに否定ではなく「据え置き」。 ハイデガーはフッサールをそのまま引き継いだがメルロ=ポンティはフッサールの探し続けた 現在を正確に言い当てた正当な後継だ。
いや、それはあからさまな政治的な意図からとても狭く 限定されたメルロ=ポンティの見方だろうね。モンテーニュが 哲学でそれほど重視されてこなかった理由も政治的な問題に あると思う。「ヒューマニズムとテロル」の訳者が指摘して いるようにメルロ=ポンティはモンテーニュをとても身近に 感じていたと思う。それほど自身の根幹にかかわる部分で 政治的に辛らつな批判を受けていたから。
149 :
考える名無しさん :2013/01/24(木) 19:09:18.44 0
>>126 ここで述べている「絶対精神」とは、カントの「物自体(客観的存在)」のことと思う。
カントは、「物自体」を人間には、認識できないが、それ自体として存在する「超越的な」客観世界
であると、述べている。この「客観世界」をフォイエルバッハは、「私(主観的存在)」と「汝(客観的存在)」として
現している。「私(個的存在)」そのものが、類的存在化したのが「汝(客観)」と定義している。 そして、私(主観)と
汝(客観)が統一された存在を本質的な哲学と述べている。
フッサ−ルの場合は、「主観」と「客観」の統一を別な視点から述べている。つまり、認識論の立場から主観と客観の統一を
試みている。その方法が「現象学的還元」です。現象学的還元とは、世界がすでに客観的に存在していると言う前提を、
きっぱりと取り払うこと。この方法的な作業が「判断中止(エポケ−)」であり、「主観的内在」から明晰な本質直観として、
その本質構造を抽象するという仕方で、観て取る(本質観取)をする。この観て取る「反復活動」を再構築という。
「物自体」は存在しないよ。
>>148 どうだろう。
シーニュではモンテーニュを終わってるとして嗤ってるが
それこそどうだろう。エセーの繰り返し問い直す モンテーニュの姿勢は、「これがモンテーニュの 主張だ」と一括して終わりを宣言できるようなもの ではないと思うが。哲学をするものは好むと好まざる とにかかわらず、既に政治状況の中に投げ込まれている。 それは政治批評をするとかいった表層的な問題ではない。 哲学をすることそのものが自らの生命を危険にさらす ような状況に置かれているということだ。
個人的な体験から、唯物論、科学客観主義、分析哲学、 社会生物学、合理主義などが教育現場でどのように洗脳の 道具として利用されているかを知っているし、現象学な 立場をとること基本的に許されず、許容される場合 にはその適用範囲を厳格に極めて狭く制限されるか、逆に もはや現象学なとどは呼べないひどくいい加減な利用の 仕方に誘導されることを、長年にわたっていやというほど 思い知らされてきた。そこで用いられている手法は まさに2ちゃんねるの書込みと瓜二つであり、その 洗脳が政治とどう関係しているかは、お花畑の住民で ないかぎり、体験した者には理解できる。
現象学な立場× 現象学の立場○
まず、哲学者だから自由に自分の考えを書いていてるなどと 考えるのは子供じみている。言論を公にしようとするかぎり、 生命の危険を含め、あらゆる制約にさらされる。批判が 擁護の形式をとることを余儀なくされ、擁護が批判の 形式をとることを余儀なくされることも普通のことだ。
156 :
考える名無しさん :2013/01/24(木) 22:01:12.52 0
>>153 現代という時代は、人類がかってない「世界」に突入しているのではないかと思う。
あるそれが正しいという基本から、種々の現場で洗脳の道具として利用しているつもりでも、
実際は、それが正しいとは誰も分からない。いつの間にかすべてが袋小路に迷い込んでいる。
その結果が、今日の地球環境の悪化、国際的な経済混乱、国際的な紛争、核の脅威などとして
現れているのではないだろうか。
こういうのもあった。
「論理学研究3」のページ
ttp://www.msz.co.jp/book/detail/01925.html 「その生涯を一貫してフッサールが企てていたのは論理主義と心理主義のあいだに途を見いだす
ということでした。彼は本当に徹底した反省によって、つまり環境や外的諸条件によって
われわれのうちに作りあげられた先入見を露呈してくれるような反省によって、
この〈負わされた条件づけ〉を〈意識された条件づけ〉に変えようと努めるのですが、
しかし彼は、そうした条件づけが存するということ、それが抜きがたいものだということを、
一度も否定したことはありません。……哲学者は単に存在しようと望むだけではなく、
おのれのなすことを理解しながら存在しようと望むわけですが、それだけのためにも、
生活の事実的与件のうちにひとりでに含まれているすべての断定を一旦停止しなければなりません。
しかしそれは断定の存することを否定することではありませんし、ましてやわれわれを
物理的・社会的・文化的世界に結びつけている鎖を否認することではなく、
逆に結びつきを見ること、意識することです。これが「現象学的還元」というものであり、
それだけが、絶えざる暗黙の断定、各瞬間のわれわれの思考の裏にかくれている「世界の定立」を
露呈してくれるのです。」(M・メルロ=ポンティ)
哲学的な言論を公にしようとするとき、人は批判の対象を直接に 名指しできることはごく稀であり、自らの主張をありのままに 提示することが許されることもない。キリスト教の教義により 制約が科せられていれば、その枠組みを利用し、擁護すること が許されない主張に共感していれば、その主張に対する批判の 形式を利用してでも言論を表そうとする。そのことが分からない うちは哲学を始めているとすら言えない。
触れることすら許されないなら、その不在をあからさまに示すこと によって存在に気づかせるしかない。明らかに欠落していること (書かれていないこと)は、書かれていることと同様に重要である。
160 :
考える名無しさん :2013/01/25(金) 14:26:46.75 0
>>133 現象学的還元を行うことで世界(客観的存在)と、その一切の対象は、われわれの内の「意識現象」と
みなされる。
フッサ−ル的現象学は、「認識論」の立場にたって「現象学的還元」を実践し、その思考過程は以下の
様になる。
世界(客観的存在)が、主観的領野としての自己に内へ「意識現象」として認識される。この「認識」を
本質直観で観て取り(本質観取)、そして、再構築するのが現象学です。 フッサ−ルの現象学は、この様に
認識論の立場から超越(客観的存在)を「意識現象化」して、主観的領野にて本質観取するが、フォイエルバッハは、
私(主観)と汝(客観)の連関を基底として、世界(客観的存在)の中で自己(主観)を捉えている。これは、現象学の
方向性を示しているのではないかと思う。 つまり、「現象学」がフッサ−ル的な「認識論」に限定するのではなく、
現象学が「存在論」をも含めた理論への発展が必要であると思う。
>>160 後期のフッサールは、それまでのフッサールの主張が独我論的だという批判から、
間主観的に成り立つ生活世界にまで現象学的還元の対象を広げている。
これは自我の能動性だけじゃなく、
従来主観で直接とらえられないものが実在することの根拠とされてきた受動性も含んでいる状態として説明されているんだから、
これはあなたのいうような意味での存在論なんじゃないの?
ハイデガーもメルロ=ポンティもフッサールのこの論点から出発して現象学的な存在論を展開してるわけだし。
もちろん両者の存在論はこの枠組みにおさまるようなものではないけど。ハイデガーは特に。
162 :
考える名無しさん :2013/01/25(金) 19:55:50.42 0
つきつめると独我論になるよね。 ちがう?
いや、その「独我」はないな
「私が進んできた道は次のようなものである。観念論は人間をユニークなものとして世界から分離する、 唯我論は私だけを分離する。そして最後に、私が見てとるには、私もまた残余の世界に属するのである。 従って一方には何も残存しなく、他方には世界がユニークなものとして残存する。このようにして観念論は 厳格に考え抜かれると実在論に至るのである。[((論考)5.64を参照]」 1916年10月15日 「草稿」邦訳『ウィトゲンシュタイン全集第一巻』277頁 同じ論理がショーペンハウアー根拠律19節邦訳全集51頁のスピノザに関する言及にある
165 :
考える名無しさん :2013/01/25(金) 23:56:07.30 0
>>165 間主観が措定された後では、ということ。
167 :
考える名無しさん :2013/01/26(土) 14:58:44.22 0
>>161 間主観性(間主観的還元)とは、純粋意識の内在的領域に還元する自我論的な現象学的還元に対して、
他の主観、他人の自我の成立を明らかにするものが「間主観的還元(間主観性)」であるが、それは
自我の「所属圏」に於ける他者の身体の現出を介して、自我が転移・移入される事によって行われる。
こうして獲得された共同的な主観性において「超越的世界」は内在化され、その客観性が、基礎づけ
られる。と、フッサ−ルは述べている。
私自身も、上記の「間主観性(間主観的還元)」は、自我の「所属圏」としての「自己同一性」の概念
を基底として他者へ自我の転移・転入が行われる「ものの流れ(現象)」が、「間主観性」を創出して
いるものと解釈している。
しかし、間主観的還元(間主観性)は、「内在的領野(主観的領野)」に限定されたフッサ−ル的現象学
に留まっている。 それに対して、現象学が「存在論」を含めた理論と言うのは、主観と客観のカベを
取り払い、客観的領野より、主観を捉えていく受動性のある現象学のことです。 一つの例として、
フォイエルバッハの私(主観)と汝(客観)の「類」としての理論的概念がある。私と汝の理論的概念は
「一(自己))は多(客観)であり、多(客観)は一(主観)である」という、主観と客観の「カベ」が
取り除かれた統一理論となっている。この論理を「現象学」に取り入れることが、「現象学」の普遍性と
本質学の発展に繋がるものと思う。
晩年に「自己」についてデリダがとった立場とそう大きく違いがある わけではなく、モンテーニュから別段、思考が深まったわけでもない、 というより、自己を世界とのかかわりで深く考えるという意味では、 20世紀の「哲学」学は大きく後退している。
むしろ、自らの思考に哲学としては明確な形を与えていない 社会(哲)学者のノルベルト・エリアスの方が、20世紀の「哲学者」 より真の意味で現象学を深く理解していたといっていい。
171 :
考える名無しさん :2013/01/26(土) 18:48:42.21 0
西田幾多郎の「純粋経験」に内在する自覚(主観と客観)の展開が、現象学に通じるところもある。
172 :
考える名無しさん :2013/01/26(土) 19:23:40.13 0
>>166 よくわかんねけど
他者なんて「自分みたいだからきっとおなじようなもんだろ」
でしかないんじゃね。
だったらやっぱりつきつめると独我論なんじゃね
ちがう?
ヘーゲル流の主観と客観の統一は、 常識的な意味で言ったら主観主義以外の何もので、pないと思う。
>>172 「反省」においては「自分」のうちにある「他者」の目でしかおのれを振り返れないし、
他者を見てそれをどう認識するかはおのれのうちにしかない。ラカンの言う「小文字の他者」
というのは、ちょっとへたくそだがそれを指していることばだ。
>>174 いずれにしても「自分」とか「おのれ」が
やってることじゃん。
それじゃ独我論の反論になってなくね?
>>175 だからこそコギトの問題になるんだよね。
言うなれば思考のoriginをどこに置くのかということ。
>>175 違うな。自己は始点ではない。最初から再帰点としてしか
現れない。0が始点ではなく、「常に始点/終点」である、
つまり、再帰点であるのと同じこと。
178 :
考える名無しさん :2013/01/27(日) 13:58:20.84 0
>>172 「独我論」とは、主観的観念論の極端な形で意識される私の個我と、その主観的変移
のみが唯一の実在で、ほかの一切の個我(自己)や事物は、私の個我の意識内容から見て
幻想に過ぎないと言う理論です。
「現象学」とは、この世の一切の先入見(既成概念)を排して意識に明証的に現れる現象を
直観認識することである。 この一切の先入見(既成概念)をより具体的に述べると、
意識される私の個我(自己のすべての既成概念)をも排する(判断中止=エポケ−)するので、
エポケ−((判断中止)の状態では、「主観的概念(自己)」そのものをも排する(取り除く)ので、
「独我論」も否定される。
「判断中止」により、自己の主観的概念そして、客観的概念の一切を排した「純粋意識」に到達し、この内在的な
「純粋意識」より、その純粋意識の中に現れる主観的、客観的な種々の事象それ自体を吟味し、考察する「再構築」
を本質観取と述べている。
179 :
考える名無しさん :2013/01/27(日) 22:14:31.92 0
>>176 まぁコギトだぁね
>>177 再帰点でもいいんじゃね。
哲学してなんか見つけるってことはそういうことじゃね?
>>178 よくわかんねけど
「独我論」の「我」が、「主観的概念(自己)」をなくした
意識だとすれば「独我論」でもいいんじゃね。
それから、現象学がほんとにそういったもんなら
ずーっとエポケーしてなきゃなんないんじゃねの?
そんなポケーっとしてたら「吟味」だの「考察」だの
「再構築」だのってできなくね?
なんか考えるったらなんらかの概念を使うしかないんだから
ただただ意識にあらわれる現象をポケーッと感じてるしか
できなくね?
ちがう?
>>179 現象学は、感じたり考えるだけじゃなくて記述するんだよね。
哲学というのは「考える学」ではなくて、「書きしるす学」なんだよね。 そこが分からないと哲学書を読んで「こんなことおれでも考えつく」とか 「こんな理屈いまどき無理」とかになる。 誰でも思いつくし、誰でも読んだら分かるものを「書きしるした」という意味において デカルトやカントやヘーゲルやフッサールや、は偉かったわけよw
ソクラテスは偉くないと
プラトンが頑張らなかったらソクラテスは残らなかった。
184 :
考える名無しさん :2013/01/28(月) 12:49:14.87 0
>>179 思考(考えること)は、二つに大別することが出来る。
前提を必要としない思考と、前提を必要とする思考です。 前提のない思考は、「現象学的還元」と、
「方法的懐疑」であり、前提を必要とする思考が、論理思考(演繹法と帰納法)である。
論理思考の思考プロセス(思考過程)は、「前提→推論→結論」であり、 現象学的還元は、
「判断中止(エポケ−)」→「純粋意識}→「本質観取」と言う思考プロセスとなる。
キミは、「ず−っとエポケ−してなきゃなんないんじゃね?」と、述べているが、エポケ−(判断中止)は、
現象学還元の、一つの「工程」です。どの様な思考も「工程」を進んで結論が導かれる。
たしかに現象学的な発想ってフッサール以前に思いついてたやついるらしいな 19世紀後半のフランスの高校の先生とかにいたらしい
186 :
考える名無しさん :2013/01/28(月) 14:16:39.93 0
>>184 そのふたつの考え方を対比するのがいいのかどうか
よくわかんねけど
そのエポケーしてる意識しかないっていう独我論でいいんじゃね?
エポケーしてる状態をエポケーしてない状態と区別して認識できるなら、 エポケーをエポケーしなきゃならないんじゃね?
188 :
考える名無しさん :2013/01/28(月) 16:17:19.34 0
>>187 そうなん?
エポケーをエポケーする意味あんの?
それじゃ現象学いらねってことになんね?
エポケーっていいたいだけ?
ちがう?
そういうことをウィトゲンシュタインや日常言語学派にさんざん言われて現象学は終わった
190 :
考える名無しさん :2013/01/28(月) 16:39:52.24 0
>>189 マジ?
なんでおわっちまうのよ。
独我論上等でいいじゃん。
なにに遠慮してんの?
191 :
考える名無しさん :2013/01/28(月) 17:32:09.53 0
>>186 独我論と現象学の根本的な違いは、
>>178 に記述している。 独我論は
「実在するのは、わが自我(自分)のみで、他我その他すべては自我(自分)の
観念にすぎないと言う主観的認識論です。 簡潔に言うと、この世のすべては「自分」の
為にあって、「自分」以外は認めない(存在しない)と言う主観的な考え方である。
それに対して、「現象学」とは、既成のすべての事象を「判断中止(エポケ−)」する
状態の時に、独我論の主体である「自我(自己)」も判断中止(エポケ−)をする。つまり、
既成概念としての「自我(自分)」をも、取り除く(判断中止)ので、この状態の時に「独我論」は
完全に否定される。 従って、「エポケ−している意識しかない独我論」ではなく、「エポケ−して
いる意識から、次ぎの工程である“純粋意識”に入る」と言うことです。ここで重要なのは、エポケ−から
「純粋意識(構成的内在)」に入ることを、理解する事が必要です。
192 :
考える名無しさん :2013/01/28(月) 17:45:11.04 0
>>191 まぁ前半はもうちっと弱い意味の独我論でいいけどね。
「確実に実在するといえるのはこの主観的意識のみで
ほかのすべては確実に実在するかどうかはいえない」くらいで。
それを「不可知論」だっていいたきゃそうも言えるけど
それはどうでもいいっしょ。
そんでつぎの段だけどもなんだかわかんね。
エポケーするとなんだって独我論が否定されるの?
既成概念としての「自我」ってなんのこと?
193 :
考える名無しさん :2013/01/28(月) 18:03:24.01 0
>>187 >エポケ−を、エポケ−しなきゃならないんじゃね?
>現象学的還元の思考プロセスは、
「判断中止(エポケ−)→純粋意識→本質観取」という工程を進むので、
上記の工程図で分かるように、エポケ−をエポケ−する必要はない。
エポケ−を進めていくと、自分の心(精神)が、だんだんと純化してくる。
エポケ−を進めていくことによって、もともと在る人間の「純粋意識」が残る
この「残る」現象を、現象学的残余と呼ぶ。
客観的なものは、こまかなところまで誰でも見えるし辿ることができる。 しかし主観的なもの(意識)は細部まで辿りにくい。 フッサールが偉大なのはその主観(自我・主体)を構造し、こまかく見届けようと したところ。
195 :
考える名無しさん :2013/01/28(月) 18:30:37.61 0
>>186 >そのふたつの考え方を対比するのがいいのかどうか。よくわかんないけど。
>西洋哲学では、特にデカルト以後より、前提のない思考(直観思考)と、
前提を必要とする思考(論理思考)を、哲学者又、一般の人が哲学的思索をする時に
「直観思考→論理思考」という形式を活用している。この思考形式は、デカルトが方法序説の
中で、「四つの思考規則」として述べられている。この「直観思考→論理思考」を、一形体
としてより多様性のある解答を得るために、数回フィ−ドバックを繰り返す。この方法は、
哲学的思索では、とくに必要である。
196 :
考える名無しさん :2013/01/28(月) 18:55:04.42 0
>>193 187はおれじゃないけど「純粋意識」だけが存在するっていう独我論じゃだめなの?
>>195 「現象学的還元」にしても「方法的懐疑」にしても
前提は必要だと思うんだよね−。
なんにも前提がなかったら思考できないっしょ。
197 :
考える名無しさん :2013/01/28(月) 19:04:50.62 0
>>192 >既成概念としての「自我」ってなんのこと?
>既成概念とは、普段、私達が接している社会そして、
世界は、「そうあるものだと言う既成事実化」をしている。
「自我」というものも、既成事実化した「自分なりの価値観」を
基底としている。この「自分なりの価値観」が、自我の既成概念である。
現象学的還元は、最初に一切の先入見(主観=自我と、客観)を排する(エポケ−)こと
であり、この判断停止(エポケ−)の中に「既成概念を持つ自我」も含まれるものである。
198 :
考える名無しさん :2013/01/28(月) 19:15:03.94 0
>>196 >なんにも前提がなかったら思考できないっしょ。
>デカルトの命題である「私は考えるゆえに私は存在する」は、デカルトの
四つの規則の、最初に行う「方法的懐疑」によって、明証的な「直観認識」に
よって創出したものです。
199 :
考える名無しさん :2013/01/28(月) 19:38:23.52 0
>>197 自分ってのがどういうものかっていうと
いろいろな要素があるじゃん。「男」とか「日本人」とか
「人間」とか「近眼」とか「ほ乳類」とかさ、
そういうものは全部方法的懐疑にかけちゃって消していくじゃん。
そうすっとさ、「人間」だの「地球人」だの「銀河系の生物」じゃなくてもいいような「主観的意識」が残るじゃん。
それが独我論(不可知論)の根っこじゃん。
ちがう?
>>198 思考するときに前提がなかったら方法的懐疑もできないんじゃね?
だってさ、いまぐぐったらデカルトは
「肉体の与える感覚(外部感覚)は、しばしば間違うので偽とされる。」
なんていってるわけ。ここだけでも「肉体」「感覚」「間違い/正しい」みたいな概念が前提とされていて、それを使って正しいとか間違いだとか論理思考で判断してるわけじゃん。
ちがう?
そもそもデカルトは二元論なんだが
判断中止(エポケ−)してると判断してるんだから、 やっぱりエポケーをエポケーし、そのエポケーをまたエポケーし、 以下同様でなければ、エポケーしてることにならないわ
それは最初の「エポケー」が不十分だからじゃん?
「エポケー」が十分であるか、不十分であるか判断しているのだから、 やはり、エポケーが十分/不十分であるという判断のエポケーが 必要であり、以下同様ですわ。
具体的な例で話をすると、今回のアルジェリアのプラントで起きた 人質拘束事件にエポケーを適用すると、どういう「本質観取」に なりますか?
206 :
考える名無しさん :2013/01/29(火) 11:20:46.81 0
>>199 独我論の主観の概念は、意識される私の個我(主観)のみが唯一の実在である。
他の一切の「個我」(主観)」や事物は、幻想に過ぎないと言う論理です。
ここで、「他の一切の個我(主観)は、幻想にすぎない」と述べている。つまり、
私の個我(主観)以外の他人の個我を否定しているのが「独我論」である。
独我論に対して、「方法的懐疑」による超越的な「主観」は、私の個我以外の、
すべての個我を肯定しれいる。この点が、独我論の「主観」と、超越的主観の根本的に
異なるところです。
207 :
考える名無しさん :2013/01/29(火) 12:48:40.32 0
>>206 >「方法的懐疑」による超越的な「主観」は、私の個我以外の、
すべての個我を肯定しれいる。
まじ?
それどんなりくつなの?
>>172 で書いたけど
他者なんて「自分みたいだからきっとおなじようなもんだろ」
でしかないんじゃね。
208 :
考える名無しさん :2013/01/29(火) 13:04:16.54 0
>>199 >思考するときに前提がなかったら方法的懐疑もできないんじゃね?
「肉体の与える感覚(外部感覚)は、しばしば間違うので偽とされる。」
>方法的懐疑は、絶対に疑えない普遍的認識(超越的根源)を根拠として、
真と偽を振り分けている。つまり、超越的根源(普遍的認識)を根拠として
「少しでも疑わしいと思われるもの」を、偽として、しりぞけている
だから、真と偽とする「前提」は、「方法的懐疑」には、もともとないのである。
従って、超越的根源(普遍的根源)は、超越的到達地点であり、目標であるので
前提ではない。 前提とは、次ぎに進む推論から結論を導き出すための、固定化された
命題(定義化)のことです。
具体的な例で話をすると、今回のアルジェリアのプラントで起きた 人質拘束事件にエポケーを適用すると、どういう「本質観取」に なりますか?
210 :
考える名無しさん :2013/01/29(火) 13:45:58.82 0
>>199 >肉体の与える感覚(外部感覚)は、しばしば間違うので偽とされる。
>方法的懐疑は、「超越的根源(普遍的認識)」を根拠として、肉体の与える感覚(外部感覚)に
対して、不確かなもの、普遍的でないものを、疑わしいものとして、しりぞけている。
つまり、真と偽の振り分けの基準は、「普遍的なもの」、「絶対に確実なもの」以外は、偽とみなしている。
だから、肉体の感覚(外部感覚又、内部感覚)は、常に移り変わり、個々人によって感覚の度合いも異なるので、
この時点で、変わることない「普遍性」がない。それゆえに「偽」とみなし「斥ける」のです。
又、「理論」と言うものも、その「00理論」が、永久に普遍性を持っているかと言うと、やはり完全なものではない。
それゆえに、理論も「斥け」られるのです。
そこで、デカルトの考えは、この様に「超越的根源(普遍的認識)」を根拠として、振り分けて行くと最終的に、すべてが
「疑わしい」と、言う事実に直面したのです。
しかし、デカルトは、この最終局面で、今、疑っている、この自分の「主観的意識」だけは、疑うことの出来ない事実(実体)
であると認識した。 この認識が、「私は考えるゆえに私は存在する」の命題として創出されたのです。
>>204 いや、「充分なエポケー」を判断する必要はないよ。
判断する必要があるならエポケーとは言わないわけだし。
212 :
考える名無しさん :2013/01/29(火) 14:19:07.34 0
>>207 >「方法的懐疑」による超越的な「主観」は、私の個我以外のすべての
個我(他人の個我)を肯定している。
>超越的な「主観」と、日常的な「主観」の違いを説明するのは難しいが、
一つの例として、フォイエルバッハの「類」の概念が超越的主観と同一のものです。
超越的な主観は、通常(日常的)の私達の「認識」から、方法的懐疑によって「認識」を
高めていき、最終的な到達地点(超越的主観)を目指すが、この辺の「認識」の移り変わり
そして、思考過程は、デカルトの方法序説、又、省察の中に詳しく述べられている。
では、いわゆる思考停止とエポケーはだれがどのように区別する のでしょうか?いかなる方法でも区別がつかないものは、同じもの ではないでしょうか。
>>211 具体的に例として、今回のアルジェリアのプラントで起きた人質拘束事件に
エポケーを適用するとどうなるのか、どういう「本質観取」になるのか、
説明をお願いします。
>>212 横だけど
そう言える根拠が疑問だって言ってるんじゃないの、質問してる人は。
明証性を持っていると認められる超越的な主観はどこまでいっても自分の自我でしかないわけで、
その自我二対する他の主観を認めるっていってもそれはあなたも言ってる通り主観的に構成される他者でしょ。
自分の主観と他人の主観の実在性が別な基準で成り立つと言うならそれを明示する必要がある。
まあ、俺はこの手の議論自体不毛だと思うけど。
超越的な主観が根拠を持って言えることは、それが「ある」という事実でしかない。
>>214 まず事件に関する全情報を得てからしか無理。
全情報を得ることなんて神にもできません。
そこがフッサールの限界w
>>216 なんで現象学的還元をする際に対象の全情報を持っている必要があるんだよ。
全情報が明らかなら取り除くべき臆見もないことになるし、エポケーをする必要すらないだろ。
>>219 現象学的還元は「見ることをやめること」ではなくて「すべてを臆見無く見ること」だよ。
聞きかじったものにできることじゃない てかスルーされてるのに同じこと何度も書き込むなよ気持ち悪い
>>222 すくなくともテレビで見たりネットで読んだりしたりしただけの現象について
「すべてを臆見無く見ること」はできないと思うがな。
そんなことを言えば、個人が見るのはすべて科学のスケール からいっても、一瞬見るだけに過ぎず、すべての物事について 現象学的還元は適用できないことになる。
さらに、現場にいた人間もすべて、状況について 「聞きかじった」、「一瞬目にした」だけであり、 何事についても、まったく現象学的還元は適用できない ことになる。
「すべてを臆見無く見ている」と誰がどのように判断するのか? 思考停止とエポケーを区別することはできず、区別することが できない以上、思考停止とエポケーは同じになるのではないか? という疑問にも全く答えていない。
227 :
考える名無しさん :2013/01/29(火) 15:45:36.11 0
>>204 エポケ−が十分であるか、不十分であるか判断しているのだからやはり、「エポケ−」が
十分/不十分であるという判断のエポケ−が必要である。
>現象学的還元で、一番、重要なことは、判断中止(エポケ−)の具体的方法であると思う。
私達は、「一切の先入見を排して(エポケ−)、次ぎに純粋意識に至る。と、云われても、それでは
具体的に、何をどの様な手順でエポケ−するのか、ハッキリと理解している人は、少ないと思う。
私自身の経験を述べると、「エポケ−」するときは、「エポケ−」の既成概念(先入見)を
一つ、一つ、ノ−トに書き写し、出来る限り「視覚化」して、エポケ−(取り除く)をする習慣を、
つけている。 書き写すことにより、ただ、頭の中で、エポケ−をするよりも、スム−ズに進めることが
出来る。 フッサ−ルは、書きながら考えると言う「視覚的思考法」を取り入れている。
エポケ−が十分であるか、不十分であるかの判断は、エポケ−から「純粋意識」に至り、この「純粋意識」
から「本質観取」に入るが、この「本質観取」の段階で、エポケ−が十分なのか、又、不十分なのかを判断
する。 「本質観取」が、不十分であれば、再度、エポケ−を行うこととなる。
私の場合は、本質観取をして、一定の結論が出ても、その結論が不十分で何回も納得が行くまで、
「エポケ−」→「純粋意識」→「本質観取」を繰り返している。
従って、「エポケ−」は、進行する一つの過程なので、「エポケ−」を「エポケ−」することは出来ない。
判断は、「本質観取」の段階で行うのです。
では、自分の「意識」や自分の身体についてエポケーできるのか? 自分の意識について、他人から指摘されないと気付かないこと の方が多く、自分の痛みについてさえ、どこが痛いのかさえ 十分に把握していないのではないか?エポケーしていると何に よってどう保証されるのか?思考停止と違うとどうして確信できるのか?
具体的に何にどうエポケーを適用でき、どのような本質観取が 得られたのか示してもらえないと、単なる自己暗示とまるで区別がつかない。
>>230 エポケーはただ単に判断を保留して自分の意識のありのままの状態に戻るということ。
そして、完全にありのままの状態に戻ることができないのは社会的・生物学的な条件から明らかなので、
完全なエポケーというものを想定すること自体あまり意味がない。
そういうゴマカシはいいよ。 完全であろうと、不完全だろうと、 具体的に何にどうエポケーを適用でき、どのような本質観取が 得られたのか示してもらえないと、単なる自己暗示とまるで区別がつかない。
233 :
考える名無しさん :2013/01/29(火) 16:17:46.80 0
>>213 思考停止(判断中止)と、エポケ−は、同じ意味です。判断中止をギリシャ語で
エポケ−と言う。
>>232 ごまかしって…
今回初めてレスしたのにそんなこと言われても困る。
何にどう適用するもなにも、あらゆるものに対して判断を控えることによって先入観を取り除こうとするのがエポケーの目的。
もともとそういう探究の方法のことを言っているに過ぎないので、どのような本質観取が得られるかということは問題にならない。
フッサールの言う本質直観を得るための方法もあるけど、それ自体はエポケーとは異なる。
>>233 >>234 では、ポケーっとしているだけでエポケーしていると思い込んでいる
思考停止の自己暗示とエポケーは、区別がつかないので、全く同じですね
>>235 何も判断してないならエポケーと言えるだろうけど、
フッサールの場合はそのあとに形相的還元がセットでくるから、
現象学とは違った形のエポケーになるな。
もう本読めよw
238 :
考える名無しさん :2013/01/29(火) 16:40:13.98 0
>>232 現象学で求められているのは、種々の問題(科学、政治、経済、医学、教育、学問等々)の
的確な解答であると思う。現象学に於いて「本質学」の在り方を論究するのも、そこに
あると思う。だから、本質観取の結果得られた結論が完全なものに近づく事は必要だが、
具体的にエポケ−(判断中止)を適用でき、どのような「本質観取」が得られて行くのかが
重要な事であると思う。
「一切の先入見」なしにって、誰に聞いたって、真実を主張する人間は、 先入見があることを否定するだろ。
240 :
考える名無しさん :2013/01/29(火) 19:13:55.25 0
>>215 明証性を持っていると認められる超越的な主観は、どこまでも自分の自我でしかないわけで、
その自我に対する他の主観を認めるっても、それは、あなたも言ってる通り主観的に構成
される他者でしょ。
>主観性と客観性の連関について
>>167 さんも述べてる様に、間主観的還元(間主観性)によって、
他の主観、他の自我の成立を明らかにする。それは、自我の「所属圏」に於ける“他者の身体”の
現出を介して、自我の転移・移入が行われ、同時に、自我から他我(それぞれの人間)に転化する。
つまり、能動的な認識論的な「主観」から、受動的な存在(それぞれの人間)へと転化することにより、
自我(主観)は、客観化される。つまり、ここではフォイエルバッハが述べる「私(主観)と汝(客観)」の
論理によって主観(自己)の「類的」な転化が生じているのである。 ハイデガ−の存在論とは、少し理論的
に異なるが、間主観的還元によって「類的化」することによって、主観(自己)の認識論から、客観化すること
により自己が、「それぞれの人間」として存在論的に位置づけられている。
>>240 >>167 ってあなたのレスじゃないの?
まあいいや。それはともかく、
>しかし、間主観的還元(間主観性)は、「内在的領野(主観的領野)」に限定されたフッサ−ル的現象学
に留まっている。
>間主観的還元(間主観性)によって、
>他の主観、他の自我の成立を明らかにする。それは、自我の「所属圏」に於ける“他者の身体”の
>現出を介して、自我の転移・移入が行われ、同時に、自我から他我(それぞれの人間)に転化する。
この二つの主張は明らかに同じ根拠から異なる主張をしているので、同時に主張するならダブルスタンダードになるよ。
フォイエルバッハのHomo homini deus estは類化された人間の本質が一種の人格的な対象として認められるということ。
これとフッサールのEinfuhlungは主観による人格的な対象の構成という点で共通していて、
どちらもデカルト的な自我の明証性を他者にも同じように保証するというような話では全くない。
少なくとも、あなたがフォイエルバッハとフッサールをどう区別しているのか俺にはわからない。
242 :
考える名無しさん :2013/01/29(火) 20:34:39.83 0
あれ?なんか荒れてね? だいじょぶ? おれには話がむずかしくてよくわかんねから もうよすわ。 みんな仲良くな じゃね
243 :
考える名無しさん :2013/01/30(水) 16:41:08.40 0
>>241 純粋意識の内在的領域に還元する、自我論的な「現象学的還元」と異なる、「間主観的還元」により、
他者の“身体の現出”を介して、自我が転移・移入されることにより、他者が主観的に構成されると言う
ことは、この転移・移入の状態で、自我と他我の「カベ」が消滅したことを意味する。
主観と客観の「カベ」があれば、自我(主観)から他者の身体を介しての、他者(客観)への移転・移入は
不可能であると思う。
主観(自我)が間主観的還元によって、他者へ転移・移入することにより、主観的に構成されている他者となるが、
しかし、この状態を冷静に分析すると、 主観的として構成されている他者(他我)は、転移もとの自我(主観)に
対して独立した存在となっている。 つまり、「形相的還元」を経た本質観取によって、他者としての「自我」
は、転移もとの「自我」と同じ共同的主観性を保持するが、転移もとの「自我」とは、独立したものとして存在している。
表現を変えると、他者としての、それぞれが構成している「自我」が独立した認識から、転移もとの「自我」を逆に他者
として認識している。 ここで、何が起きているかと言うと、他者(他我)としての客観的存在から転移もとの、「自我」
を捉えているのだと考えられる。 反復すると、間主観的還元によって、自我(主観)と他我(客観)の「カベ」が、消滅
することにより、本質観取の段階で、他者(客観)から自我(主観)への転移・移入が、行われていると言う解釈も成り立つ
と思う。
>>243 悪いが反論のためだけに書かれたこねくり回した文章を読み解く気になれない。
この話はこれでおしまいね。
これもうわかんねぇな
246 :
考える名無しさん :2013/02/03(日) 16:36:58.15 0
>>243 現象学的還元は、一切の事象(自己の既成概念と客観)を判断中止(エポケ−)して、
事象そのものへ立ち返る(純粋意識)ことですが、「形相的還元」とはどう違うのですか?
247 :
考える名無しさん :2013/02/03(日) 17:24:06.90 0
246 現象学的還元は、一切の先入見(既成概念)を宙づりにして、判断中止(エポケ−)し、 「純粋意識」に到達することですが、この「現象化」した純粋意識に対して、「形相的還元」を することが、「本質観取」です。だから、>243の、「形相的還元」と「本質観取」は同義なので訂正します。 「形相的還元」を簡略して述べると、「現象学的還元」により、純粋意識という明証的な現象に対して、明晰な 直観で、その本質構造を抽象する仕方で、直接に「観て取る(本質観取)」ことです。
「完全かつ全面的なエポケー」というのは実際はあり得ないし、あったところで役に立たない エポケーが有効なのは言わばスイッチを部分的にオンオフできるから そのオンオフに応じた意識内でのノエマの現れ方の変容を自ら観察、記述する
249 :
考える名無しさん :2013/02/08(金) 15:56:00.90 0
エポケ−から「純粋意識」に至り、この「純粋意識」に対して本質観取を実行し、 「本質記述」に入る。この「本質記述」の段階で、出された結果が不十分であれば、 再度エポケ−を実施する。エポケ−自体が、完全かつ全面的なものか、と言う判断は、 出来ないと思う。本質記述で出された結果でエポケ−の状況を判断するしかないと思う。
エポックエポカーエアポケットエケットエポケーエエプクパケエポックエポッットエケー ↓ エポックエポカーエアポケットエケット「エポケー」エエプクパケエポックエポッットエケー 括弧を付けるとわかり易い カッコつけるために括弧を付けるのではない
もう能書きはいいから、本質記述とやらを披露してもらおう 話はそれからだ
「「「「「「「「「「エポケー」」」」」」」」」」」」 ↓ エポケー 括弧はいつでも とりはずせなければならない
実はみんなよく分かってないんじゃないの?
はいその通りです 全くわかっていません
本質記述まだかよ、待ちくたびれたぞ
256 :
考える名無しさん :2013/02/09(土) 09:39:40.14 0
本質記述と言うのは、「純粋意識」を本質観取(形相的還元)をするが、この「本質観取」の 状態で現れる「現象」をノ−ト等に記述(書き写すこと)することです。 エポケ−で、重要な事は、一切の先入見(既成概念)を排する時に、ノ−ト等に記述(書く)しながら 既成概念を取り除いて(排する)行くと、「純粋意識」へ到達が容易である。
だから能書きはいいから、早く本質記述をここに示せよ
258 :
考える名無しさん :2013/02/09(土) 14:40:07.92 0
現象学還元によって「本質観取」に入るが、この「本質観取」での「抽象した現象」を、 記述(書くこと)することが本質記述です。だから、本質記述とは、自分の意識した事を記述するのだから、 人それぞれによって「純粋意識」に現れる認識(現象)が異なる。例えば、メルロ−=ポンティの 「知覚の優位性の哲学」の場合、現象学還元によって、「純粋意識」にいたり、本質観取の段階で、認識よりも 知覚が先立つものとして「本質観取」している。又、ハイデカ−の場合は人間存在は、認識に先立つものとして 「本質観取」している。従って、本質記述は、人それぞによって現象の捉え方が、異なるので本質記述は、自分で まず、現象学的還元を自分なりに実践する事が理解しやすいと思う。
どうでもいいから、おまえの本質記述をここに出せよ。 話はそれからだ。
私からもお願いします
261 :
考える名無しさん :2013/02/09(土) 16:42:22.44 0
私の本質記述を述べる。一例として、現在の経済の「格差」を現象学的還元すると、 本質観取の段階で、次の様に認識が構築された。 つまり、世界的な経済「格差」の その原因は、一部の巨大企業に利潤が、集中し社会に還元されないからであると、誰しもが そう思っている。−−ここで、「現象学的還元」をし、本質記述として、次の様になる。 「格差」の原因を箪に、経済の問題に限定するのではなく、近代技術と自然科学を中心とした 「合理的機械論」と、人間を含めた「非合理的生命論」のバランスの「歪み」が、今日の世界に 種々の問題を噴出している。そして、「合理的機械論」の盲目的な遂行が、「格差」の現象となって 現れている。−−この様に「本質記述」をする。
なにそれネタですか
よくわからんけど、「本質直観なんていってもしょせんお前の主観だからインチキだ」 という疑問をもってる人がいるのかな
よくわからんけど、「本質直観なんていってもしょせんお前の主観だからインチキだ」 という疑問をもってる人がいるのかな
どうも現象学関連のひとたちはわかりやすく説明をする能力に欠けているようだ。
まあ、
>>261 が何らかの本質を記述しているなんて保証が本人の
主観以外のどこにもないことだけは確かだし、各自が勝手に
本質記述として意図的にでたらめをかきなぐったとしても
検証の手段がどこにもない。
>>261 の反現象学工作が成功しているかどうかエポケーしてみますか?
270 :
考える名無しさん :2013/02/10(日) 15:39:40.78 0
>>266 デカルトの「方法的懐疑」も、一つの思考法だし、方法的懐疑も思考した
その人の能力により、いろいろな結論がでてくる。同じように「現象学的還元」も
能力により、エポケ−での思考作用が異なってくるし、純粋意識での熟成の度合いも
異なってくる。
>>256 (261と同じ人)で、「エポケ−で重要な事は、一切の先入見(既成概念)を
排する時に、ノ−ト、カ−ド等に記入(書く)しながら取り除く、と、具体的に方法を述べているので、
私は、実際に本質記述しているのは、間違いないと思う。
本質を記述しているなんて保証が、本人の主観以外のどこにもないことだけは確か。と、述べているいるけれど、
論理思考又、弁証法も同じ「思考」であり、その結論として創出した記述に対して、本当に本人が考えて記述
しているのかは、本人以外に分からないし、本質記述と同じことが言えくると思う。
272 :
考える名無しさん :2013/02/12(火) 21:55:06.81 0
>>215 >超越的な主観が、根拠を持って言えることは、それが「ある」という事実でしかない。
>上記の「超越的主観」は、「純粋意識」のことと思うが、現象学還元で、一切の先入見を
排して(エポケ−)、「純粋意識」に到達すると言うけれども、実際に多くの人は、「エポケ−」を
行っても、「純粋意識(超越的主観)」という実感が得られない、と言う話しが聞かれる。>215の
超越的主観が、事実で「ある」とは、どの様な思考過程からそう言えるのでしょうか。
273 :
考える名無しさん :2013/02/20(水) 21:26:40.32 0
現象学がどれだけ不毛な学問なのかはわかったわ
274 :
考える名無しさん :2013/02/21(木) 01:31:49.72 0
>>273 それは現象学に限らない。
ヘーゲル以外はみんな不毛。
ここでの課題は、君は、君が対象について知り、そこで (まさに対象についての)君の意識を主観的なもの、 その対象をば客観的なものとして概念的に把握する(begreifen)、 と考慮すべきであるというのではなくして、主観的なものと 客観的なものは「一」であり、一つの交徹[相互通徹]であると いうことを最も親密に把握することである。しかるのちに 初めて、この交徹にしたがって君は両者を区別するもよかろう。
276 :
考える名無しさん :2013/02/21(木) 15:28:53.02 0
>>275 >主観的なもの、客観的なものは「一」であり、一つの交徹[相互通徹]であると
言うことを最も親密に把握することである。
>主観と客観が「一」ということは、主観と客観の合一(融合)を認識し、体験することと
思うが、デカルトに始まる近代哲学に於ける「主観と客観の一致」を目指す為には、まず、
主観と客観の区別を、明確にする必要がある。しかる後に、両者(主観と客観)の統一を
目指すことが正道であると思う。何故かというと、デカルトが方法的懐疑によって、主観と
客観を分離したからである。確かに仏教的に全体的な「純粋経験(一は多の原理)」から入り、
しかるのちに、両者(主観と客観)を区分する方法はあるが、デカルトの「主観と客観の一致」には
適さないものである。
君は、両者をたんに切り離したあとで、あたかも糸(そんな糸は どこでも手に入りはしないが)によって結びつけるように、ふたたび 結びつけようとしてはならない。両者が有機的に相互に融け合って いてこそ初めて両者を分離することができるのだということを、 君は理解しなければならない。
278 :
考える名無しさん :2013/02/21(木) 16:21:35.36 0
>>277 デカルトの超越論的主観としての「私」と、日常的な「私」の概念を明確にすることが、
求められる。確かに、普段の私達の認識は、有機的に物事が結びあっている。この時間・空間
の有機的な世界を、超越論的主観(私)から見た場合に、「日常的な世界」と定義される。
問題は、デカルトの「超越論的主観」の概念にある。この「超越論的主観」は、方法的懐疑に
よって「不動の極点」に上り詰めている。この「超越論的主観」は、すべての事象を「疑い」
疑うことの出来ないものとして「疑っている私」は、不可疑なものとして直観認識されている。
この「超越論的主観」を相手にするには、日常的観念は、次元が異なるので対応出来ない。この
次元の違いを理解するには、「超越論的主観」概念の解釈の難しさがあると思う。
上方に客観が自我として横たわっており、下方に横たわっている客観的な ものはこの自我に対して存在すべきであるが、この客観的なるもの自身 ただかの上方の自我であるにすぎない。直観は上方の客観の中に、存在は 下方の客観なるものの中に横たわり基礎づけられていなければならぬ、が、 しかし両者は結び合わされて同一となっていなければならない。
したがって、いやしくも君が二つのものを考えるならば―君はこれ以外には 考えることができないのだが―君はそのおのおのに直観か存在という述語を つけねばならぬことになる。つまり、本来的には、上方の項と下方の項という 二つの項が一本の線で結びつけられているのではなく、一つの自己自身を 通徹する点があるのである。まさにそれがゆえに、たんに二つの項が一つ であること(Einsein)と[又別に]両校の外にある知(たとえば他の客観的な ものの直観)とがあるのではなくして、両者が自己を一つであると知ること (両者の同一性の直観)があるのである。
283 :
考える名無しさん :2013/02/21(木) 22:03:19.40 0
>>279 デカルトの「超越論的主観(私)」の概念を、どのように捉えているのでしょうか?
たんに二つの項が一つであること(Einsein)と[又別に]両項の外にある 知(たとえば他の客観的なものの直観)とがあるのではなくして、両者が 自己を一つであると知ること(両者の同一性の直観)があるのである。
285 :
考える名無しさん :2013/02/22(金) 19:08:03.87 0
>>284 「両者の同一性の直観」と言うことは、カントの認識論的主観概念を、一切を自己の
絶対的自由の活動性から生ぜしめる絶対的自我へと拡張する観念論と解釈されるが、
カント的な「物自体」の存在を認めず、一般的な客観的なるものを自己へ包摂する一元論と
解釈される。
絶対知の中心点と転換点は、知の存在と非存在との間の揺動(Schweben) であり、まさにそれゆえに存在の非絶対的存在と絶対的存在との間の 揺動である。その理由は、知の存在は存在の絶対性を廃棄し、絶対的 存在は知るの絶対性を廃棄するからである。 フィヒテ「知識学の叙述」金子栄一訳 p.67
知るの× 知の○
288 :
考える名無しさん :2013/02/23(土) 08:09:54.75 0
>>286 知の存在は、存在の絶対性を廃棄し、絶対的存在は、知の絶対性を廃棄するのであれば、
「自己同一性」としての、知の実在性を廃棄することへと、連関して行く。知の非存在
としての「無の領域」に於ける「有」との転換点にて、揺動(schweben)が生じているのであろう。
絶対知は、たんに自由だけでもなく、またたんに存在だけでもなく、 両者である。p.27
思想もしくは知は、絶対的自由をもって自己を把捉する。このことは、 思想が自己をふたたび把捉(客観化)し得んがために自己自身から引離す ことを、すなわち自己自身に対してあらんがために絶対的自由の 空性(Leerheit)を前提とする。実にこのことのみが、自由の二重性 (Duplizitat)であって、これは、知的直観の作用に対し前提とされねば ならないものである。 p.34
したがってこの自由の二重性は、おのずから明らかなように、知の 根源的本質に属するのである。が、ここで注意されることは、まさに 絶対的自由のこの非存在は、自由が存在しそして生成せんがための 非存在であるということである。下方においては(客観化された知 においては)自由も存在も存在する。しかし、今ここでは、両者ともに 存在するのではなく、生成するのである。 p.34
フィヒテの言葉をていねいに追えばすぐに分かるように、 デカルトやフッサールを単純化して理解する現象学の 枠組みでフィヒテを解釈しようとすることにそもそも無理がある。
フィヒテはまずライプニッツ─カントの線で読まないとお話にならない。 デカルトやフッサールと比較対照するのはその後でのこと。
お話にならないのは、哲学をそうした哲学史の系列的な理解のなかに 閉じ込めて、哲学学としてしか理解できないこと。
295 :
考える名無しさん :2013/02/23(土) 17:48:18.16 0
上のような考え方は、 「君たちは、哲学を学ぶのではなく、哲学することを学ぶのだ」 というありがちなご高説と、意気相通ずるものだろう。 しかし私はむしろ、哲学を一通り学ぶのは、哲学(する)病にならないため」だと思っている。 ようするに、あれこれと哲学の本を読んだほうがよい、 というのは、各種予防注射は受けておいたほうが良い、みたいな話しだ。
個々人の予防注射をこのフッサールスレで一般公開する必要はない。
哲学の場合、問題の周辺洗うだけで膨大な時間的コストがかかるので、 色んなものつまみ食いみたいなのは不可能だな。 むしろトピックが幅広いことはトンデモな人のわかりやすい徴。
フィヒテの扱う問題は、知そのものから、国家の正当性や 教会のあり方まで多様だが、自らの哲学に貫かれている。 哲学とそれ以外の事象があって、それ以外の事象に既成の 「哲学を応用する」といったような皮相浅薄なところが まったくない。
>むしろトピックが幅広いことはトンデモな人のわかりやすい徴。 モンテーニュがトンデモな人になるわけですね。そんな考え方 の方が、よほどトンデモだと思いますよ。むろん、モンテーニュ が好んで意図的にトンデモな話を引用したことは否定しませんが。
300 :
考える名無しさん :2013/02/23(土) 18:26:59.54 0
はっきりいえば、哲学の問題、などというものは、ない、と思う。 哲学学の問題ならばある。 これは法律学が、そのじつは法解釈学であるのと同じようなことだ。 哲学科があるかぎりみんなではなくとも教師としてやれるし、本のヘビーユーザーみたいな人が哲学学の本を買っている間は、 哲学者はなんとか文筆家としてやれる。 そして、それは別に、悪いことでも、恥じることでもないのだ、 趣味人相手の仕事などいくらもある。その一つだと思えばいいのである。
301 :
考える名無しさん :2013/02/23(土) 19:32:01.46 0
でも、社会にはまったく役に立たないよね。 教師や著述業としての経済効果以外には。 一定の消費者でもあるニートと変わらないかな?
302 :
考える名無しさん :2013/02/23(土) 20:03:29.83 0
経済効果以外に「役に立つ」ような仕事というのは どういうものがある?
303 :
考える名無しさん :2013/02/23(土) 20:09:01.10 0
>>302 ほとんどすべての生産事業。
人の心を豊かにする芸術。
哲学なんて、近所の爺さん同士が暇つぶしで将棋やってるようなもんだ。
将棋の代わりにくだらない議論やってるだけ、だろ?
304 :
考える名無しさん :2013/02/23(土) 20:20:58.02 0
「人の心を豊かにする」のが「役に立つ」なら、 哲学がエンターテインメントとして 洗練されればいいわけだろう。 ともあれ、お説によれば、哲学にも将棋と同じくらいの需要があるようだから、 「心を豊かにする」役には立っているのじゃないのか。
何が役に立っていて、何が役に立っていないかの判別を 考えること自体、哲学でしょう。哲学が役に立っていない と主張するなら、その哲学的根拠が必要です。
哲学はまず「役立つ」とは何かについて考えるだろうな。
307 :
考える名無しさん :2013/02/23(土) 20:34:19.62 0
>>304 ただ議論が好きなひねくれ者を生み出すだけだよ。
心の豊かさとは正反対。
考えることがいけないって言ってるんじゃないよ。
なにか考えるときは、いつでも社会のことを視野に入れないといけないと言ってるんだよ。
308 :
考える名無しさん :2013/02/23(土) 20:34:58.27 0
上手い切り返しだ。 それから、「哲学するぞ」なんて力まなくても、 どういう分野でも哲学的思考はあるだろう。 居酒屋の「人生哲学談義」から、 素粒子論・宇宙論まで、世間は哲学的思考だらけだと思うね。 そして、それらはだいたいが最悪の部類の哲学だ。 だから、哲学を専門に勉強した人の 哲学批判が有用なことがあるだろう。
哲学が社会から切り離されているように見えるなら、 その「哲学」が哲学ではなく、哲学学だからでしょう。
310 :
考える名無しさん :2013/02/23(土) 20:37:08.45 0
上手い切り返し,という賛辞は、 306さんとcattさんのレスに対するものね。
311 :
考える名無しさん :2013/02/23(土) 20:37:11.71 0
>>305 >>306 そんなことしか考えられないから、哲学なんて無駄以下にしかならないと言ってるんだよ。
哲学教師に払う分の税金(助成金)なんか、なくして欲しいもんだw
フッサールはまず「学問学」について考えたわけだからスレ的に合ってるな
だいたい哲学が社会と関係が薄いなら、哲学をやる人間が あからさまな徹底的な嫌がらせや妨害を受けることも、 命を狙われることもないわけで、執拗に粘着されること 自体、哲学が社会と深く関係していることの証左でしょう。
314 :
考える名無しさん :2013/02/23(土) 20:39:44.46 0
>>310 初めからアンカーつけりゃいいのに。
他人は自分を理解してくれるっていう、甘えがあるんじゃないかい?
哲学好きの大きな欠陥かも知れないよ。
315 :
考える名無しさん :2013/02/23(土) 20:41:20.99 0
316 :
考える名無しさん :2013/02/23(土) 20:45:37.16 0
あまえているのじゃなく、 私は自分勝手なのだ。 したがって、ひじょうにマナーが悪い。
317 :
考える名無しさん :2013/02/23(土) 20:48:49.81 0
それに、私は全然「哲学的」ではないぞ。 だいたい、ものを考えないし、理屈っぽいの嫌いだからな。 アンカーつけりゃいい、とか、変にひとのことを気にする 君が考えすぎの哲学的人間だと思うよ。
思い込みの妄想ではないよ。数学に喩えると、ある一般的な問題を 研究している最中に上の人間から、数学記号の「=」を絶対に使っては いけないというに等しい不可解で無理な要求をつきつけられたし、 問答無用で絶対に反射律を使ってはいけないという要求もされた。 「そのときは何て馬鹿な要求をするんだ、ほんとうに馬鹿なのか?」 としか思わなかったけど、まさに研究を妨害することが目的だったんだ って後ではっきり分かった。
ただね、そのときに相手にしていた上の人間たちを単に馬鹿だと 思うのではなく、その裏の意図に気づいているようだったなら、 今頃命はなかっただろうと思う。
相手を「本物の馬鹿だ」と考えるのは、性善説的な立場をとってるからなんだよ。 「そんな馬鹿なことを考えるはずはないので、不誠実な人間であるに違いない」 とするなら、その時点で相手を、相手にすべきではない悪人と見なすことになる からね。まあ、それでどちらにしても不利な立場に置かれるのは自分であることに 違いはないわけだが。
321 :
考える名無しさん :2013/02/23(土) 21:05:44.82 0
>>317 うん、君の炯眼には脱帽だ。
実はそうなんだ。
だからこんなとこで人の意見にケチをつけてる。
哲学が役に立たない、というのは自戒を込めて言ってるのさ。
322 :
考える名無しさん :2013/02/23(土) 22:22:24.69 0
そンな自戒するよりも、きみは、その絡み症のおっさんみたいな 荒らしをやめたほうがいいな。
323 :
考える名無しさん :2013/02/23(土) 22:29:03.51 0
>>322 なるほど。
君は、絡み症のおっさんみたいじゃない、と?
324 :
考える名無しさん :2013/02/23(土) 22:46:52.16 0
私はいつも絡まれるほうだからな
326 :
御子柴.A 宗光 ◆WalkyrieuQ :2013/02/24(日) 09:12:45.99 O
フッサールが『論研』で試みた哲学のプロジェクトって 正直ヘーゲルが『現象学』から『論理学』に至るまでのプロジェクトと何が違うの?って思うよ フッサールはヘーゲルを読まず嫌いしてしまった割に 皮肉にもヘーゲルの劣化コピーしかできなかったというわけだ
327 :
考える名無しさん :2013/02/24(日) 10:42:16.49 0
それは初期のデリダが言っており、 その前にハイデガーが「存在と時間」で、それとなく(師匠がまだ健在だったから、 あからさま、には言えなかったのだろう) 言っていたことだね。 「ヘーゲルは意識(デカル的コギト)の本質を否定の否定とすることで、 それを命題学的にあらわしうるものとした」 性格ではないかもしれないが、ハイデガーは、だいたい上のようなことを書いていた。
328 :
考える名無しさん :2013/02/24(日) 10:42:48.45 0
性格は正確に訂正
329 :
考える名無しさん :2013/02/24(日) 10:46:15.63 0
>>326 まったく内容を書かずに、自分の思い込みだけ書いてもね。
短文では難しいけど、少しでも根拠を書かないと、説得力もなんにもない。
>>327 確か最初期のデリダは、チャン・デュク・タオに依拠しつつ、
フッサール現象学の弁証法的な思考を暴いていたよね。
現象学者はヘーゲルに無知だけど重要な論点だと思う。
331 :
考える名無しさん :2013/02/24(日) 14:55:27.33 0
>>330 >フッサール現象学の弁証法的な思考を暴いていた
なんだ、それ?
332 :
考える名無しさん :2013/02/24(日) 14:56:13.16 0
>>330 現象学の思考領域は、「本質観取」に於ける再構築と思うが、この「再構築の段階」で、
ヘ−ゲル的弁証法が、どう連関するのでしょうか?私の知識では、「再構築」の状態で、
弁証法の使用はなく、一般的な論理思考を使用すると理解している。そのチャン・デュク・タオは、
現象学のどの箇所に対して弁証法的な思考があると述べているのでしょうか。
横だが タオについては「現象学と弁証法的唯物論」 デリダについては「フッサール哲学における発生の問題」 を読めばオケ
こいつはどっちも読む気なさげ デリダスレで迷惑してる
335 :
考える名無しさん :2013/02/24(日) 20:24:27.91 0
>>334 ここはさすがにフッサールスレだから、デリダを読めという方がちょっとねえ。
初期デリダとタオの関係は重要
337 :
考える名無しさん :2013/02/24(日) 23:13:58.34 0
338 :
考える名無しさん :2013/03/21(木) 20:46:24.10 0
頭がふさふさフッサール
339 :
考える名無しさん :2013/05/31(金) 18:44:49.54 O
全く横レスだが。 フッサールと関係ないのにデリダを延々論じてんのならともかく、 デリダのフッサール論の関係でデリダやタオ論じてんのに、 わけわかんないだろ? フッサールがヘーゲルと同じことやってるって話しなんだから、 読んでやれよ?わけわからん。
340 :
考える名無しさん :2013/06/02(日) 15:25:40.98 0
>332 弁証法は、定立(前提)→反定立→綜合という思考過程とした「論理思考」の 一形式であり、現象学はエポケ−を基底とし、現象学的還元による思考過程である。 従って、現象学は前提のない思考法であり、弁証法とは本質的に異なっている。 この現象学と弁証法の相違点はメルロ=ポンティも、タオに関連して現象学の立場 から相異点を述べている。
そういうレベルじゃなく、現象だけ事実だけを論じていると言っときながら、 いつの間にか歴史や目的を地平だ発生的現象学だとか語っちゃう、 神学になっちゃうのがもろヘーゲルなんじゃない。 何故対象を対象として超越的に把握してしまうのか。 現象を現象そのままにやってたらそもそも超越としての何かとか出てこない。 わざわざ措定すること自体が目的論、神学以外の何物でもない。 目的論じゃないと言いながらこれ以上の目的論はないのが始末に負えない。 発生的現象学自体がヤバイ。劣化ヘーゲル以外の何物でもない。
現象学は前提のない思考法だと言っときながら、 ヘーゲル以上のもろ目的論的配置を前提としちゃうのがな。 フッサールのテキストに当たればそれは自明だし。 フッサール以上にギリシャ以来のヨーロッパ理性の使命とか、 語っちゃう哲学者はいないし。 厳密な学問としての哲学、デカルト的省察、諸学の危機、幾何学の起源。 そのこと自体は単純に悪いことではないと思うし、 批判すれば済むことでもないし、評価さえできると思うけど。 フッサールを弁護するにしても、 前提のない思考と言いつつ全然そうじゃない事実は押さえないと。
これからフッサールを論ずるなら、 せめてデリダのフッサール批判自体は正鵠を射てるのだから、 できそこないのヘーゲルで何が悪い、 ロゴス中心主義、自民族中心主義だから偉いんだ、 デリダだって自民族中心主義で、いろいろ汚い隠蔽してるくせに、 汲々、西洋哲学の権力維持しようと、 一生懸命のくせに小さい小さい小物だくらい言って欲しいもんだ。 それは正しいんだから。
344 :
考える名無しさん :2013/11/05(火) 13:46:43.36 0
この本はどんな感じ? 『数学の現象学: 数学的直観を扱うために生まれたフッサール現象学』(法政大学出版局)
俺は買う。
346 :
考える名無しさん :2013/11/05(火) 21:37:21.77 0
>>342 >現象学は前提のない思考と言いつつ、全然そうじゃない事実は押さえないと。
>フッサ−ルの静態的現象学(純粋現象学)の、「現象学的還元(エポケ−)」により、
一切の客観的存在を排して(エポケ−して)、意識に直接に明証的に現れている現象を直観し、
その本質を記述する。
エポケ−により、「前提」のない、不可疑性の「構成的内在」に至るのが「静態的現象学」です。
この「静態的現象学」は、フッサ−ルの中期の現象学であり、「キネステ−ゼ(運動感覚=身体性)」、
「生活世界」、「地平」等々の哲学的概念は、フッサ−ル後期の「発生的現象学」の分野に入る。
従って、フッサ−ル現象学は、中期の静態的現象学(純粋現象学)と、後期の発生的現象学に於いて、
180度、概念が異なることに注意しなければない。
この発生的現象学が、ハイデガ−、サルトル、メルロ=ポンティに引き継がれていく。
347 :
考える名無しさん :2014/02/27(木) 12:42:55.98 0
>>330 現象学的な思考に弁証法的な契機が内在してるというのは、別にデリダやトランデュクタオだけが指摘してるわけでもないぜ。
例えばヴァルデンフェルスやシュトラッサーなんかも直接的に言ってるし、またフッサール-ヘルトの生き生きした現在の議論も非常に弁証法的ということもできる。
(たとえば新田先生なんかが言ってるが)一般にいって、フッサール現象学の深化とともに、直観主義的な立場から媒介性の立場への転換が起こっている。
地平の現象学や、受動的総合の問題圏だ。この媒介性を、弁証法的に捉えることは十分可能。
ただし、だからと言って(マルクス主義哲学とヘーゲル哲学とが同じではないように、)ヘーゲル哲学とフッサール現象学も同じではない。
理性の目的論的構造にせよ、それをヘーゲルと同一視することはできない。
まずヘーゲルの絶対精神のような形而上学的実体をフッサールが認めていない以上、それは明らかだ。
似ている字面だけ見ていてはいけない。
348 :
考える名無しさん :2014/03/02(日) 17:28:34.63 0
>>347 地平の現象学(発生的現象学)と、フッサ−ル中期の静態的現象学(純粋現象学)の
相異点はどこにあるのでしょうか。
連分数計算が近似して捉えるという数量的理解の本質を最もよく表しているのか
350 :
考える名無しさん :2014/03/03(月) 18:50:03.36 0
>従って、フッサ−ル現象学は、中期の静態的現象学(純粋現象学)と、後期の発生的現象学に於いて、 >180度、概念が異なることに注意しなければならない。 >この発生的現象学が、ハイデガ−、サルトル、メルロ=ポンティの自立に引き継がれていく。
351 :
考える名無しさん :2014/03/17(月) 20:07:39.41 0
お前,フッサールからかよ….先が長過ぎだろ,常識的に考えて
352 :
考える名無しさん :2014/03/17(月) 20:11:53.50 0
「内的時間意識の現象学」みずず書房 これを復刊して欲しいよなあ…。
>>352 波平、本気で買いたきゃ古本屋で売ってるぞw
354 :
考える名無しさん :2014/05/24(土) 13:19:04.50 0
お邪魔します。 フッサールに興味を持ち始めた大学2年生です。質問させてください。 フッサールの生涯について、著作以外の事柄についての資料や伝記はあるのでしょうか? 入門書を読んでいると、フッサールのちょっとしたエピソードがたまに載っていますが、 どんな生涯を送ったのか、どんな人だったのか、もっと知りたいと思いました。 私自身の調べ方が悪いようで、今のところ思うようなものが見つけられません。 それとも、伝記を探すより著作や入門書を読む方が良いでしょうか。 突然の質問でごめんなさい。 もう少し自分でも調べたいと思いますが、アドバイス頂けたら幸いです。 よろしくお願いいたします。
355 :
考える名無しさん :2014/05/26(月) 08:43:23.77 0
フッサ−ルは、デカルトから始まる近代哲学の課題を掘り下げて、その解決策を 現象学として提起している。 だから、伝記を探すより現代社会・現代文明の問題点を、哲学的考察の中から解決策を 述べている著作や入門書を読むことを進めます。
356 :
考える名無しさん :2014/05/26(月) 12:45:34.50 0
騒々しい幽霊
357 :
354 :2014/05/31(土) 15:58:28.63 0
>>355 ありがとうございます。地道に読んでみるようにします。
クリばかり攻める。
359 :
考える名無しさん :2014/12/16(火) 16:37:43.43 0
360 :
考える名無しさん :
2015/02/28(土) 21:49:01.96 0 フッサ−ルは、「デカルト的省察(第42節)」の中で、超越論的主観性(コギト)が、独我論と批評されていることを危惧している。 この点についてフッサ−ルは「省察する自我である私が、現象学的な判断停止(エポケ−)によって、絶対的で超越論的な私へと還元 される時、私は“独我”になってしまうのではないだろうか。現象学という標題のもとで一貫した自己解明を行っている限り、私は 独我(ソルス・イプセ)になってしまうのではないだろうか。」と記述している。 この独我論という批難に対抗して、フッサ−ルは他者経験(発生的現象学)の問題を呈示していく。