1 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :
お釈迦さまの開いた悟り。そこへ至るために、各自の経験と論理行使によって、新しい考えを積み重ねていきましょう。
アブサロムはん
何したはるんですか・・・
宗教家かね
うつ病の薬でチンコが立たなくなってからというもの悟れるのなんのって
5 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/10/01(土) 17:07:08.21 0
どうも。
まず頭に浮かんだのが、忘れるという作用について。人は知っていることも知っているとは自覚できないのでは無いだろうか。
自覚の依他者性。リマインダーの必要性。知っていることを知っていると自覚するには、それが行為として出たときの、
少なくとも脳の働いたという、記憶が思い出されるのでなければならない。
6 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/10/01(土) 17:19:33.39 0
それで、悟りについても、同様だ。悟ったことはその瞬間に、悟ったという事実のみを残して、忘れ去れれる知識があるだろう。
したがって、独りだけの悟りは、真の伝達がかなわない。その瞬間に近ければ、書き残したりすることで、漸近的に近づける
だろうが、一者であるという限界を超えて、なぜ悟ったということがいえるのか、釈迦には伝えられなかっただろう。
7 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/10/01(土) 17:28:45.08 0
全一者になったというのが、釈迦の悟りの体験の対外的意味であったと考えてみるテスト。
自分が自分のみで自足しているという境地。
8 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/10/01(土) 17:32:49.71 0
自分が何のリマインダーも必要とせず、思い出すべき事、忘れていることがなく、知る必要もないという境地。
それが少なくともわたしにとってのプチ悟りである様な気がする。
>>4 神様が、日本では老人の姿で描かれることが多いですもんね。
>>2 暇と環境を有意義に使いたいと思って。
>>3 ニートの、宗教、哲学等に興味のある、34です。
11 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/10/01(土) 18:12:58.73 P
才を使い果たすこと、それが悟りに近い。
人間が何才と、自分を数えることの意味もそういったことを含むだろう。
悟りと呼ばれる感覚=
仏教哲学の理解+行による脳内麻薬物質=全能感
麻薬物質が切れるとすぐに凡人感が出てくる。
多くの座禅経験者が体験していることだ。くだらん
13 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/10/01(土) 18:19:20.11 P
人間の行為は、必ず周囲に影響を及ぼす。
悟りという言葉に興味を持った人は、すでにその入り口に立っている。
14 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/10/01(土) 18:20:05.30 0
>>14 実体験じゃないですが大体わかります。
何回悟っても元に戻るって正直に言ってる仏教者もいました。
くだらん
16 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/10/01(土) 18:50:02.90 0
>>15 全能感と麻薬物質というのが、キーワードみたいですが、仏教哲学自体は否定されていないように見受けて、
少し安心したというのが、正直なところ感じました。
17 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/10/01(土) 18:55:21.23 0
人はその存在によって、時間と空間を埋めていく。個人に残された自由は、自然のみだ。
理解を急くことがない。
18 :
考える名無しさん:2011/10/01(土) 19:45:10.73 0
知識や思考の中での悟りは悟りではない。
だが知識や思考にドップリ浸かった人間に対して
その道理を伝える方法がない。
19 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/10/01(土) 19:58:05.25 0
>>18 知識や思考のみで意識は構成されませんよね。
20 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/10/01(土) 20:17:54.50 P
美意識と差別の悟りによる克服。
美意識は序列づける差別。自らの位置を制限することになる。争いも起こる。
21 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/10/01(土) 20:28:56.04 P
頭の良さをはかる指針として、思考の細かさがある。
考えるんじゃない、感じるんだ。
感じ取った後にそれを分析して理解すればいい。
求めなければ感じられない。何を感じればいいか分からないから、見つからない。
最後まで到達してしまえば、演繹法とやらで、大体の事が理解できるようになる。
23 :
考える名無しさん:2011/10/01(土) 21:24:43.00 0
>>22 >考えるんじゃない、感じるんだ。
>感じ取った後にそれを分析して理解すればいい。
ただ感じるだけでイイ、分析や理解はいらない。
感じるだけなら、座禅でもやればいい。何の意味もないことが解る。
釈迦になりたきゃ利用できなきゃ。悟りを。
25 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/10/01(土) 21:38:14.22 P
26 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/10/01(土) 21:40:05.11 P
>>24 悟りを開いて、さらに衆生を救わねばなりませんね。
27 :
考える名無しさん:2011/10/01(土) 21:53:22.14 0
>>24 >釈迦になりたきゃ利用できなきゃ。悟りを。
悟りは利用できるようなモノじゃないよ。
悟った瞬間に自分と同化し、どこかへ行っちゃうもの。
28 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/10/01(土) 21:54:29.70 0
死は生の一部分である。区別は厳然としてあるが、生があるから死があるのである。神が生まれたとき(生命体が誕生
したとき)、宇宙はその営みを知るすべを得た。
座禅でいける方、感じる方法での、"悟り"が欲しいの?
真理を得る"悟り"が欲しいの?
前者は 感覚状態、後者は技術。
後者を得るには前者が要るが、前者を極めると霧散し固定する。死と変わらない。
極端は否定しなきゃいけない。それは執着だから。
"悟り"という執着があっては"悟り"へと至らない。なら"悟り"ってなんだ?
行き着く前に理解し、その執着を断つ。それが技術。よく「悟った!」とか言うでしょ。それと大して差はない。
30 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/10/01(土) 21:58:58.15 0
>>29 物事の理解(悟り)の、技術的な側面にお詳しそうですが、悟りのためにどんな技術が必要なのか、教えていただければ
うれしいです。
やだ、金になりそうだもの。
こんな世じゃ、金がなきゃ生きられないから。生きていないと救えるものも救い難いから。
下手に私を信仰しても、それが執着となって逆に遠ざかりかねない。
むしろ鼻で笑え、恥を知れ!と。
32 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/10/01(土) 22:08:43.54 0
>>31 自分に必要な金、満足するまで稼げばいいですね。死ぬときに誰かに渡さなけりゃいけないものだし。
まぁ、私も元ニートだし。社会に触れないぶん執着少なくて悟り易いと思うよ。
こんなとこで、理解できりゃそれが"悟り"。
出来なかったら
>>22に戻って無限ループしてりゃいいと思う。「輪廻転生の縮図だ」とでも思え。
34 :
考える名無しさん:2011/10/01(土) 22:31:36.66 0
グルジェフがいうには、釈迦は悟りに至ってないらしい。
35 :
考える名無しさん:2011/10/01(土) 23:22:11.06 0
ここまでで悟りについての具体的な話はないね
悟りが具体的なものだと思うことが、"具体性"への執着なんだよね。
実際は三法印だけで余裕なんだがな。"だけ"に至る道や、"だけ"に執着し得ることが難しい秘訣。
さすがに言い過ぎた気もするが、案外大丈夫かな。
特許制の早い者勝ち理論が怖い。
目的は、真理を金に変えて真理を真理足らなくする。そうしてまた更に上の真理へ。
上手く行けば来年か再来年には出せるかな。
今までの発言全部フィクションです。
37 :
ユーサネイジア ダニエル・カール:2011/10/02(日) 00:20:49.84 0
ペン字学習しないで
文字から汚いって思われたくないから
38 :
考える名無しさん:2011/10/02(日) 00:42:45.45 0
>>36 >実際は三法印だけで余裕なんだがな。
涅槃寂静は結果だから、法印は2つで余裕
と言うか、これしかいらない。
39 :
常識だろ:2011/10/02(日) 03:21:05.19 0
悟りを望んだものに、望んだ状態で悟りなど与えられない。
望めば得られるなら、努力した奴は全員に(ry
40 :
哲人:2011/10/02(日) 05:23:13.83 0
Absalomさん
悟りと悟るでは多少、意味合いが異なりますが悟りと悟るを同義とすることも有りますね。
一般的には、全てのまよいを断ち真理を会得することを悟りと言うようです。
しかし、これでは論理的な間違いが有ります。
先ず、@物事の理を悟ること理性を得てA真理を会得し、B道理をさとり知ることができます。
道理をさとり知ることでC物事を理解し、是非・善悪を弁別する心の作用(知性)
Dのはたらき(知能)が目覚めE知識を集めF全てを適切に処理する智恵を産みだします。
つまりFの智恵が全てのまよいを断つのですから、Aの真理を会得する前にまよいを立つと言う
ことは悟りの意味が論理破綻をおこしていますね。
41 :
考える名無しさん:2011/10/02(日) 06:33:31.13 0
真理だの悟りだのに憧れている人って、宗教臭くて
心底気持ち悪いんだけど、俺みたいな悪意をもった人間に対して
悟りを開いた人はどういう風に接するのだろう。
42 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/10/02(日) 06:54:38.04 0
>>40 完全に筋道を付けると、そういう順序になるのでしょうか。本道としてはそれで良いでしょうが、悟りが「完全に」論理的
なものなのか、というのは、わたしには良く分からないところですが。
>>41 一生宗教とや宗教的問題と関わらずにいれる人はまずいないと思いますよ。先入観をただしてあげたいです。
43 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/10/02(日) 07:08:08.50 0
>>40 哲人さんへ
論理的なもののすべてが言葉で語りうるか、論理を超えたものが存在するか、という二つの問題があります。
悟りが論理的で、言葉では表し得ないものだったら、あなたの論理は破綻することになりますし、悟りが論理的で
言葉に表しうるものだったら、あなたの考えは、いっこうに値するものですし、言葉が論理を超えたものだったら、
それは伝達不可能なものです。ウィトゲンシュタインでさえ、「語り得ぬものについては沈黙せねばならない」と、
語り得ぬものが存在することを表明しています。
レス見ながら昨日の補足。
>>38 判断技法として必要なのはその2つです。涅槃と一切はそこから理解へ至る筋道へと誘ってくれる、持っていればいいモノ。
一切は三法印への執着を消すためのモノなんで、ある意味「おいおい、違うだろ」って思えるのがいい。
>>39 望むのは、感覚獲得の為であり、手に入れるには別の手段が必要、故に技術。
>>40 もう見えてるはずなのに見えてないんだろうね。見えてないように見せかけてるのかもしれないけど。
>>41 正直どうでもいい。悪意、つまり反発が強すぎると、説法したところで相手は理解しない。
そういう相手に伝えられなかったことから、仏陀の悟りきれてない部分に気付けるはず。
ワシなら救いを求めてくるまで眺めてニヤニヤしておくよ。
>>42,43
素質あると思うよ。無理せず適当にやったほうが気付ける。
ワシは、悟りよりも実存主義的自我を探してたら、真理っぽいの獲得→分析してたら悟りをある程度理解 な流れ。
45 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/10/02(日) 10:53:47.35 0
>>44 実存主義、本質否定ですか。物理と真っ向から対立するような気がしますが。見方によっていろいろ物事は
変わるけど、本質という概念の存在が、実存によって、新たな高次に高められるわけでもなくて、ただ
正しさのみを追求するという姿勢か。それによって得られた真理というのは、ゼロと無限大の両方に接するような
数学的概念であると、思いますが。
>>44 >望むのは、感覚獲得の為であり、手に入れるには別の手段が必要、故に技術。
手段が技術だけと断言しちゃうと足元をすくわれるぞ。
それは物事を理屈だけで割り切れると信じちゃった信仰にすぎない。
47 :
哲人:2011/10/02(日) 13:23:21.10 0
>>40 仏教ですとAの真理を会得することを目的とし、哲学だとBの道理をさとり知ることを目的としています。
AとBの違いが有れど、仏教と哲学の目的はFの全てを適切に処理する智恵を産みだすことにあります。
先に述べた@〜Fの順番は論理という思考の法則的繋がりを示したものですが@の物事の理を悟ることで
自動的にFまで貫くようにできています。
と、言うことは@を行わぬ限り人は物事を覚えることができてもEの知識を集めることはできません。
つまり、私が伝える法則は皆さんの理解は得られないと言うことです。
皆さんも@を行わなければCの物事を理解し、是非・善悪を弁別する心の作用(知性)のはたらき(知能)
が停止したままですから。
>>45,46
伝えたい事があっても、どうしてもココじゃ手段として文字に頼らなければならない。
会って話す場合も言葉や視覚やその他もろもろに頼らなければならない。
それを観測して認識する為に、文字や視覚やを固定化概念として捉え、そこから推察するしか無い。
アウトプット側とインプット側の変換方式や意味付けが微妙に変わってくるために、完全な理解は互いに修正を続けなければ近づけない。
どちらかが自分か相手かに完全性を持っていると、もうそれだけで不可能になる。
必要以上には考えず、信じず、感じればいいの。
↑ここまで全部フィクション。
49 :
哲人:2011/10/02(日) 16:51:33.36 0
>>43 論理という思考の法則的な繋がりは辞書の中に言葉の語義として記されているのです。
{広辞苑より)【智恵】「物事の理を悟り、適切に処理する能力。」と書かれていますが、
この意味は物事の理を悟ることで適切に処理する能力が備わることを表しています。
先に私が述べた法則の@とFを取りだしたものですが、論理という言葉の法則的な繋がり
を文字で表したものです。
しかし、物事の理を悟らなければ智恵を産みだせない何て誰も気が付きませんよね。
つまり、辞書に記されている言葉の語義を読み覚えることはできても誰も理解はできない
と言うことです。
何故ならば物事の理を悟らず、真理を会得せず、物事の道理に昧い(くらい)為に生じる
必然的な現象です。
>>49 思考遊戯から到達した方なのか、技術を教わるかして覚えた方かな?
能力を高めすぎると、特化された道具に近づきモノと化します。その方が性能が高まり且つ安定するので。
定まってしまうと壁に突き当たります。壁に気付く力を失います。その先にいけなくなります。
自由な自我が残っていますか?内面に反発を感じませんか?
人に戻れますか?
戻る気があれば、内面の声を聞いてあげて下さい。
今の自分を"どうでもいい"と思って下さい。
それで好きな事を探して下さい。
その上で選んで下さい。
杞憂ならいいのですが。
教わることをその通りに実行できれば、同じ行為が可能になります。
技術として"悟る"ことも同じように体得することは可能です。
しかし下手な信仰があると、そのやり方が"絶対"になってしまう。
能力に一方的に信仰するだけになってしまうと、自分をそれだけに使うようになってしまう。
狂信は信仰対象による絶対支配を可能にしてしまいます。
信仰を高めると、信仰対象に命が宿ります。
現在の宗教はその為に道を外して来ました。そして信仰対象に支配されて多くの悲劇が産まれました。
今は宗教に限らず、同じように命を持ったかのように動き出してしまっているものが、既に存在してしまっています。
"悟る"を技術として、それで得られる事象も道具として、自己の主体を失わずに使えなければいけません。
今は、作成者を殺し壊し得る道具も、作成者を操り支配してしまう道具も、作成者を生かしている世界まで自由にする力を持った道具も生まれてきています。
技術を"使う"こと。これが出来て"悟り"の完成です。
使っているうちに、使う技術が発達して、無理をしなくても操れるようになります。
そして、それが及ぼしうる効果をまた(出来れば使う前に)理解し、その上で利益の拡大に繋げるように使って行って下さい。
↑フィクションです。誰がなんと言おうと。
流石に言い過ぎた。下手に漏らし過ぎると、得られる金が減ってしまうね。
52 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/10/02(日) 18:31:06.06 0
>>47,
>>49 なんか、禅とか仏教方面の人、久松真一なんかを思い出しました。ご自分なりに悟っておられるようで、一考に値する
思想だと思います。
>>50,
>>51 おお。これは面白い。本出したら教えて。買うから。
皆さんもっとわかり易い言葉で説明してください。
54 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/10/02(日) 18:43:42.80 0
永遠はつかめるだろうか。そんな集中力って。時間の流れが、速かったり遅かったりして、不安定だけど、
体内時計が存在するのなら、認識は極小なものか、無限大なものを、概念でなく現実として把握することは
可能だろうか。
>>52 そう言って頂けると励みになります。
唯、その過程にまだかなりの距離があるので、まだまだ先になりそうです。
釈迦は悟りを体系化し広めようとしたようですが、他にも同じコトを部分的にも、或いはより具体的に悟っている哲学者は結構居ます。(ように思います)
個人的には、道家の老子荘子なんかは釈迦よりも上の位置に達していると感じられます。
執着の回避にでも、気の向くままに眺めてみるのもいいかと思います。
>>53 分からなければ分からないほうがいいのです。きっと分かることを求めきれていない。
利益だけ求めてしまい、その結果 その力が何なのか解らず、使い方を誤ってしまいます。
故に判る人にだけ、解ってもも大丈夫そうな人にだけ伝わるように言葉を選んでいるつもりです。
56 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/10/02(日) 18:50:27.27 0
時間には常に流れが「あり」、川のようだ。それを感じるわたしは川の中の石のようだ。川上(過去)から、川下(未来)へと
流れる流れを、記憶による認識で、今のここを感じながら、それでも未来へといくわたしのことを考えれば、不動の石
というさっきの比喩は、どこか不味い、不完全なものだ。すると、わたしは川に浮く葉っぱのようなものか。
57 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/10/02(日) 19:01:19.58 0
川のたとえで言いたかったことは、死に対する態度だ。生が死と共に、無限の長さを持って、感じられるという、
死への恐怖は嘘っぱちだ。無限の苦しみなど、決して存在しない。体内時計はいつか相変わらずの速度で
時間を過ぎ去らせ、死は我が身を通り抜けていく。
58 :
41:2011/10/02(日) 19:08:48.44 0
なんだ、結局真理って上から目線で人を諭すのが目的なのか。
そこから新たな差別や悪意が発生してもお構いなしなのね。
その通り。
日本人は内面が幼稚なので、真理というと宗教の罠から抜け出せないのです。
60 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/10/02(日) 19:16:38.03 P
>>58 真理を伝達するという一方行の流れが生じるとき、それのとらえ方が、上から目線
だと映るケースはあり得るでしょう。しかし、人生を上から目線に出会わないで
やっていける人間などいないでしょう。上から目線に関わって、実害を被りそう
だからいやなのか、そういうことが美意識的にいやなのか、というのは分からないけど。
たぶん、過去に嫌なことが多くて人間不信に陥っておられるのじゃないか。
もっと、他人を信頼して、自分に閉じこもっていないことが、素晴らしいんだと
思うけど。自分の態度を変更して、心の働きをつかめば、安楽で、楽しい毎日が
やってきますよ。
啓発的な意図で人を諭したり、広い心で弱者を救済しようという発想が生まれた段階で
それはただの馬鹿宗教です。ここの書き込みを見てると人間を舐め腐ったやつが多くて吐き気がする。
>>60 ほら、これが馬鹿宗教の正体。
ただ諭してるだけ。
>>60 長文をダラダラと綴ることは悟りの典型、お釈迦様の悟りまでの道のりを考えれば離れていくばかりという気がするね。
長文でもいいが最低限読ませるものでなければ。
修辞を尽くして語れば語るほど指間を流れる水の如くでは話にならない。
たとえそれが心理とか悟りとかに近づく内容であったとしても。
一度黙ることも悟りに近づくかもしれないからネットを離れてみては?
64 :
哲人:2011/10/02(日) 19:36:42.63 0
>>50,
>>51 >定まってしまうと壁に突き当たります。壁に気付く力を失います。その先にいけなくなります。
>自由な自我が残っていますか?内面に反発を感じませんか?
言っていることが支離滅裂ですよ。
壁に突き当たるのではなく、上り詰めるのですよ。
己の身勝手な自由を主張することを自我と言います。
その自我は悟性から派生する欲望であり、物事の理を悟り理性を得た者には自我は自然消滅します。
何故、人類は悟性に捉えられ無知に陥るのか、君に理解できますか。
そして自我の連鎖を明かせますか?
君には心を純粋にし、更なる探求が必要ですね。
65 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/10/02(日) 19:38:05.32 P
僕の哀しみは無限大です。
宗教は道具です。知恵も技術も結局は道具に似たモノです。
あなた方はそれを使わない意思を持っている。それでいい。
電卓を毛嫌いし、そろばんを使ってもいい、人によってはそっちのほうが優れた道具であるから。電卓が爆発してケガをするかも知れないから。
でも、様々な利益を得るために、大きな力を得るために道具を改良する。
道具を嫌うのは構いません。ですが道具を作る人、道具を使う人まで嫌ってしまいますか?
貴方はその人の姿が見えていますか?その人の機嫌を損ねることで、結果道具を分けて貰えなくなるかも知れない。
欲した時に、欲する者に、必要な力が使えるように。その力を産む為の悟りです。
67 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/10/02(日) 19:42:39.96 P
ただの「馬」「鹿」でしかない僕。
>>66 銃(道具)を作る人も使う人も好きです。優れた道具を改良してより多くの人が死に、多くの人が生まれました。
私はとても楽しいです。
69 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/10/02(日) 19:48:37.64 P
これから一城の主になりたい。
あまりに多くの風が吹きすぎていったから。
悟りたいと言う欲望は、願望となるだろうか。
祈りの奇跡がこうやって頭をもたげる。
僕は自分以外の他人が好きだ。意味に溢れていて。
冷たい態度で過ごすよりは、暖かい存在を感じていたい。
>>66 古い文献の悟りの使われ方を勉強してきたほうがいい、
それともお前の造語?
欲して得られないものが悟りだよ、悟りは訪れるものであって習得したり
努力したり力となったりするものでもない。
そして悟りという状態がすばらしいものでもない。
何か凄いものやら凄い力とかおもいこんでねぇ?アフォすぎる。
知が満ちたあとどうにもならないときに、最後に勝ち取るもの
宗教的にいえば神が与えてくれるものだ。
強く念じれば念じるほど駄目、努力しようと繰り返すほど無駄、
完全に諦めても無理、ではどうやって?
非常に簡単な例なら、その辺を散歩してリラックスしたときとか
風呂場で無心になった瞬間とか、究極の思考の果てで疲れ果て停止した後とか
瞑想の果てで完全に無心になれたときなど、
そういう瞬間に生まれる形而上の知であって、それは君が重視している
形而下の知ではない。
簡単にいえばどうやっても解けない因数分解の因数が頭にぽっと浮かんできた
そういう答えだ。そこには論理も意志も関係ない。自然淘汰されるという
仕組みで流れるつくってことな。
71 :
哲人:2011/10/02(日) 20:12:48.13 0
>>41 >真理だの悟りだのに憧れている人って、宗教臭くて
>心底気持ち悪いんだけど、俺みたいな悪意をもった人間に対して
>悟りを開いた人はどういう風に接するのだろう。
【理解】の意味は「物事の道理をさとり知ること。」です。
君が悟るとか悟りを嫌えば君は生涯、何も理解できず何も知らずに終わってしまうのです。
それでも、誰もがそうして人生を終えてきたのですから無理にとは言えません。
しかし、今の君はチャンスを逃しさえしなければ、物事の道理をさとり知り全てを理解できる時代に産まれてきたのです。
そう、人類が進化を果たし、真の自由と平等の社会を創る時代に産まれながら君は参加せず横目で眺め済ますのですか?
燻った人生を送っても一生、己が望むことの全てを知り楽しい人生を送っても一生は一生です。
人の知能を育てる物事の理を悟る方法は『命を知る』と言う簡単な方法で叶いますので君もトライしてご覧なさい。
72 :
哲人:2011/10/02(日) 20:22:48.75 0
>>66 悟りの目的は、希望を叶えるためのものであり、欲望を叶えるものでは有りません。
悟りの中身を定義しようとするのは違う。
その人にある哲学が悟りであってそれが悪だろうが2chしてる最中に思いつこうが散歩中に思いつこうが悟りである。
なぜブッダが悟りを得たと思われているかそれは多くの人に彼の悟りが共有されたから。
クズみたいな共感の得られないものは否定され自然淘汰され、そんなもんは悟りじゃねえとなる。
悟りとは極めて私的な個人の宇宙の話である。
だが、現実には(たぶん)われわれの各宇宙は物理空間を伝わってつながっていて哲学をぶつけ合ってどの悟りが正しいか、好きかを争っている。
(反してキリスト教は神という絶対宇宙の中に罪深い人間がいるので悟りなど高尚な真似は生意気にも人間にはできないとされる)
>>72 おそらく貴方は、自分の作った道具と一体化してしまった。
そして、その道具としてその気持ちを、効用を語ります。
定まっているので、変わらない。故に絶対的であり得る。
劣化を防ぎ、揺ぎ無く在り続けられる理由です。
しかし、道具の作り方は一つではありません。作る人も貴方一人ではありません。
別人が似たものを産み、それを改良し、別のことを始めます。
壁ということには語弊がありました。抽象的ですが、世界は球体、もしくは円状に存在します。
進み続けることで世界を見て周ります。
前だけ見て歩くと、元の場所に戻ってきてしまう。所謂"永劫回帰"ですかね?
そこで立ち止まって世界を目に向ける、自分の立っていた足元を。そして世界と一体化を為す事で安定します。
これが多分貴方が言う"上り詰める"行為です。
しかし、ある人は世界を見た後(或いは見ずに)空の果てへと視線を移します。
そして空の果てへと憧れを募らせ続けるうちに、空へ果てへ飛び出す力を見つけ出します。
その果ての先に何があるか解らぬまま、それでも好奇心を抑えきれず飛び立ちます。
この人が何かを見つけられるか、またはそのまま死ぬかは、世界と一体化した貴方には見ることが出来ません。
仮に見つけて、その事を伝えに戻ってきても、貴方は世界と一体化してしまっています。
この時に話に従い試しに付いて行ってみる、という選択が取れなくなっているかもしれない。
大きなものと融合化し、その中で絶対的にあり続けるのもいいかも知れません。
しかし、より大きなものとなった時、例えば自らに小さな傷が入っているかどうか確認できますか?
ひびが走り、亀裂が広がり分裂を始めるのを防ぐことが出来ますか?
一体何がその世界を永遠に保ち続けるのか、本当に永遠に保っていられるのか答えられますか?
出来るならいいのです、きっと私なんかより完成してしまっている。
でも私は、どんな場合でも選ぶ意思を残しておきたいのです。
今の私には観念的に、こういう形でしか伝える力がありません。しかし、こんな在り方が在ってもいいと思います。
認めないものを無いと断じることで、それを見なくなってしまう。
それによって、それが有るという主張が馬鹿らしくなってしまう。
だから全て認めてみた。
認めることで、認めた対象は勝手にやって来るようになった。
いつの間にか私と共にあって、無意識でも手伝ってくれる。
それを経験し習得する。それで成り立たせる。
よく分からないものも近づいてくる。
しかし、それを知っている別のものが私を導いてくれる。間を取り持ってくれる。
得た力、発揮する力は私は最初は自分でもよく分からない。
が使っているうちに覚えていく、力に近づき力を理解する。
この方法でも悟りは成り立つし。私はこれから技術を得る。
否定するなら否定すればいいし、そのそっちに否定されものが流れて私の方へ来てくれる。
触れているうちに近付くものが何なのか気付き、それが何か把握する能力も高まる。
いつか否定された過去のものがどんどん近づいてきて、漠然としながらもそれを捉え技術を磨く。
きっと今の対立は、獲得方法が、その方向性の違いが生んでいる。
そちらがこっちを潰すならこっちはそちらの見つからぬ方向へ避ける。
そのほうが争いがない、争う必要がない。
76 :
ユーサネイジア ダニエル・カール:2011/10/02(日) 21:58:15.98 0
似たものを別の形で手に入れただけならば、独自に伸ばしていけばいい。
完全なのなら、不完全を気にする必要はないはず。
私は貴方の説明を見て、理を突き詰めて達成したことを感じ取りました。
私は、いつの間にか知っていたことに気付いて、そこから理を組み上げます。
経験法と演繹法、結局はそんな関係では?
形ないものを捉える方法だもんなぁ。オカルト扱いされやすいし。証明が難しい。
形を与えたらそれは別物になってしまうし、突き詰めるほどそうなりやすい。
信仰が崩れてしまうと、それぞれが与える形がバラバラになっていき形が保てなくなる。
矯正し固定すれば物に、捉えることをやめると霧散しその存在が失われる。
完全性に囚われ固定化巨大化を目指した挙句、弱者の生を否定する。否定される側になるのをおそれて、疑心暗鬼し闘争する。
そして求めるものに、自己との合一を求め、拒否するものは養分とする。
見えるものに囚われることを止めようとした筈なのに、結局は見えるものと同じ道を行ってしまう。
自ら、自分への信仰を潰してしまう。過去自分が辿ったのと同じ形で。
もうここも信仰が壊れてしまった。あとは崩壊を待つのみ。
79 :
考える名無しさん:2011/10/03(月) 01:26:47.85 0
>>75 認めたものと否定したものについては分かったけど、
「見えるけど実際は存在しない」ものの場合はどうなるの?
80 :
哲人:2011/10/03(月) 05:23:39.86 0
>>73 個人が個々の事象に対し、ただ単に気付いたこと・感づいたことを悟ったと表現する場合が有りますが、今そのような戯れ言を語り合う場では有りません。
仏教で【悟り】とは「まよいが解けて真理を会得すること。」【悟る】とは「心の迷いを去って真理を体得する」とされていますが、君の場合には真理を無視しています。
君は哲学の迷路に陥り、真理を幻想のものと捉える、自分の作った道具と一体化してしまったのですよ。
768 名前: 年金払えよ。 [sage] 投稿日: 2011/09/18(日) 20:20:03.49 0
>>80 ドットコムて何を生業にして暮らしているの?
もしかしてニート君?
82 :
哲人:2011/10/03(月) 05:41:28.63 0
>>74 >私は貴方の説明を見て、理を突き詰めて達成したことを感じ取りました。
>私は、いつの間にか知っていたことに気付いて、そこから理を組み上げます。
では、君が組み上げたと言う「理とは如何なるものか」を説明して下さい。
83 :
哲人:2011/10/03(月) 05:58:52.72 0
>>78 >形ないものを捉える方法だもんなぁ。オカルト扱いされやすいし。証明が難しい。
>形を与えたらそれは別物になってしまうし、突き詰めるほどそうなりやすい。
では、どうしますか?
君が、物事の理を悟ったのであれば、全てを適切に処理する智恵を産みだせます。
その智恵を使い、崩壊せずに方法を聞かせて下さい。
>>79,80
見える、ということはその存在を既に認識しています。それを見ようとし続ければそれはある意味での信仰であり、そのものをよりはっきりと形作ります。
実際に物質として存在することは無くても、その存在が少しづつ強まり、多くの人が捉えていくことになる。
でも、見ることにはある程度それを定める力があります。捉える人が増えるほど、捉え方が少しづつ違っていく。
そのうち、違うということは別のものではないか、となって分裂を始めたり、「そもそもそんなもの必要ない」と、見ることをやめて消えていく。
今私たちが話している対象も同じものです。
その両面を理解した上で、それが持つ性質、特性を見ていけばそれが"何"だったのか少しづつ判ってくるはずです。
>>80 定めることで、不安はある程度消えます。しかしその定まったものを壊す存在を否定できない場合、結局まだ不安を抱えてしまいます。
"定まる"という個体としての局地をやめ、"分散する"というこの否定をやめ、自由にそれを選びつつ自己を変化させてみてください。
必要次第で集め固まり強大化すればいいし、それに危険を感じれば抜け出せばいい。
何事にも対応する手段になりうるために、"心の迷い"になり得る不安は消すことが出来ます。
ある程度使っていくことで、次元の壁とでも言うようなものに突き当たります。
その時気にせず直進していっても、気がつくと元の位置に戻されてしまいます。進むだけではなく、壁を捉えて超える手段を見つけていけばいい。
個体の壁を抜けた所に、現実の物質の様々な性質をもつ世界があり、その壁を超えた所に、見えないものが見えないまま定まらない世界があります。
個体の中にも、ひとつの世界の成り立ちがあり、それらが上手く働いて個体を構成しています。
上の世界を見て新たな力を創りだそうとしてもいい、下の世界からまだ気づいていない力を見つけてきてもいい。
それらを上手く使うことで自由に主体として見る世界を選びとり、自在に自己を駆使していけるはずです。
要旨が意味不明。
86 :
考える名無しさん:2011/10/03(月) 14:24:08.77 0
>>84 >見える、ということはその存在を既に認識しています。
スマン、「見える」というのは網膜に映る画像をただ見るって意味で書いたんだけど・・・
日本語が不自由な長文な人がいるな。
88 :
考える名無しさん:2011/10/03(月) 18:48:38.10 0
今生きてる事がもうすでに悟りなんすよw
>>86 その場合は、貴方がモノと見なしていないだけ。
それが在ってもなくても自分に何の影響もないと感じるから。見る必要がないんですね。
再度見た時になくなっていた場合、それを見間違え、もしくは初めから無かったのだ、と感じる筈。
>>87 恥ずかしい限りです。続けることで、身につけます。
涅槃が目指す状態とありました。また、無我と無常がその手段だとも言っています。
ココからそれらを上手く使うことで、希望通りに物事を流せると感じ、その技術を完成させたのだと見ます。
しかし、それは希望以外を否定する事であり、邪魔するものを無力化する力です。
目指す理想がそれで達成を出来るんでしょう。そして必要ないものを必要ないと切り捨ててしまうのでしょう。
でもそれが効かない対象を意識しなければいけない。
それで否定した対象が、自らの生を保っていた可能性を無視してはいけない。
それでは唯の思考停止です。
そのままでは、いずれ自分が生んだ綻びが自身にまで害を及ぼします。
それを警告しています。
それらを全てうまく成り立たせる術を伝えたい、しかしその本質が"漠然"なのです。
漠然さを表すために、漠然とさせたまま表現します。そこから少しづつ形を読み取って欲しい。
>>88 有る意味正解。一番単純に言えばそれです。その奥の"真人"や、"超人"等の多彩な在り方へ至る道を示したい。
90 :
哲人:2011/10/03(月) 19:49:39.21 0
>>84 君が悟りを会得した、と言うのであればもう少し物事を体系的に捕らえたら如何ですか。
ああでもなければ、こうでもない、こうでもなければ、ああでもない、と君の話は悟った振りをする隠者の如くですよ。
>>80 まよいが解けて真理を会得するといわれて真っ先にイメージするのは死だね。
煩悩もなくただ座して骨と皮の物質となり果てたお釈迦様はすごいね。
仏教では開祖のそういった悟りを目指して結構。
彼よりさらに死の漸近線に近づく戦いは苦しいし、今や殆どの仏教は生活規範に成り下がったけども。
ただ、哲学として広く悟りを捉えてみようかな、と。真理とは死だけでない自然。
本能のまま獲物を追うチーター、馬並みのセックス、人に媚を売る犬、職場の人間関係に悩む人
どれも自然。ただ、自然淘汰され残ったものが言葉でくくられみんなに共有され「悟り」となる。
そういう意味で仏教の悟りは強く、長く残るものではある。
>>90 各個人が別々の世界を形作り、そこで生活をしています。その世界の広さの違いが視点の大きさや、その対象の大小等、多くの認識の差を生みます。
私が貴方に伝えられないのは、貴方の居る世界が見えないでいることが一番大きい。
それを上手く合わせていくことで、深いコミュニケーションが可能となっていきます。
貴方は自分が居る世界を、自分が認識できる範囲に閉じてしまっています。
そしてそこに引きこもっている。その外など触れるに値しないと思い込んでいる。
貴方の真理は貴方の世界の中で絶対的なものです。
しかし、それが別の世界に居る者にも当てはまるとは限りません。それを外に出て試してみてください。
きっと引きこもったまま、人が近づいてくるのを待っているだけ。
自分が相手に近づこうとしなければ、単純な会話すら成り立ちません。
悟りによって得られる考えとかを知ってしまっていると遠のきそうだよね
自分の場合哲学にも宗教にも殆ど前提知識なく
個人的に気になる事があって自分なりに政治思想を体系的にまとめてたら突然開けてマジびびった
でもそのせいで理解されない事が辛すぎて一時期相当精神不安定になったが
>>93 お仲間か先輩のヨカーン
こういうことは自分一人で考えることが多いから
一つ真理に気付いてしまってもそれが自分の世界だけでしか成り立ち得ない場合に気付きにくいね。
それが適用される世界も同時に見ていく必要があった。
私はある程度外に適用できたことで満足していたけど。世界の構成方向の多様性を今日改めて知りました。
悟るとか悟りが最終的な目的、目標なんですか?
96 :
ユーサネイジア ダニエル・カール:2011/10/04(火) 00:11:55.24 0
それでさあ
破壊光線の話だけどさあ
>>95 むしろ悟りを経験してからの人生のが大変だよ
劇的に変わったのに何も変わってないからな
98 :
哲人:2011/10/04(火) 02:30:25.78 0
>>91 >まよいが解けて真理を会得するといわれて真っ先にイメージするのは死だね。
またまたバカなことを、
【悟り】とは「理解すること。知ること。また気づくこと。感づくこと。察知。」を意味します。
〔仏〕で【悟り」とは「まよいが解けて真理を会得すること。」(広辞苑より引用)ですが、
君は何故、悟りで真っ先にイメージするのが死なのですか?
君は言葉の意味が分からなければ先ず辞書を見なさい。
そして、辞書に記されている語義に思惟を巡らすだけの知能を育てることが先決ですね。
>>92 支離滅裂。
99 :
考える名無しさん:2011/10/04(火) 04:03:04.07 0
>>98 おまえバカだろ、悟りを知らないものが悟りを知らない人から聞いて
悟りとは何かを記述したのがその辞書であって。
それの辞書を読んだら悟りが理解できたと思うのはバカの無能さを
証明しているようなもの。
>>98 知覚とはまよいであり会得するとは自然との一体化と知覚したから。
言葉も数字も道具でしかないから真理を完全に表現することはできないけども知覚を捨て縛りを捨てれば真理と一体化できる。
ただ、一体化してしまうとだるまさんのように戻れなくなるけど。
まよいさえも自然に内包されるものだと考えればあなたのように辞書の言葉だけが真理ともおもえないし、くだらないおしゃべりも、戦争も
なんでも真理になってしまう。となると悟りの中身をあーだこーだ言うのは正しくないとは言わないが「好ましくない」。
悟りは筆舌に尽くせない、語るほど遠のくのに無限の修辞を必要とする。
101 :
哲人:2011/10/04(火) 07:24:47.25 0
>>95 >悟るとか悟りが最終的な目的、目標なんですか?
自然界の全ては、摂理という理法に従い時を刻んでいます。
ところが、人類だけは理法に抗う非理という思考に心に大半を委ね生きています。
理法は人の心の中の理性や真理や道理や理解から知性や知能、そして知ることや知識を集め智恵を産みだすはたらきを受け持っています。
理法に対する、非理は悟性や欲望や自我などを主体として人の心を錯覚という思い違いに引き込むはたらきが有ります。
その中で、本当のことを何一つ知ることの出来ない錯覚から抜けだすために、理法の一つである真理や道理を求める行為を悟り、とか悟ると表現します。
自分が望むもの、自分を支える世界を作ることに躍起になっているうちに、それがないと自分を支えられなくなっているんだよ。
その世界がなくても壊れない自分を作るのを忘れてしまっているから。
103 :
考える名無しさん:2011/10/04(火) 07:37:04.96 0
いったん世間の常識を捨てた方がいい。ただ、捨てたままだと戻れなくなるから、捨てたあとで世間の常識がどのようなものであるのかを正しく理解し客観的に評価できるようにする。
そうすればほとんどの悩みは消滅する。僧侶が山にこもって修行するのもこの一環。常に日常生活に追われているとなかなか世間のマインドコントロールから脱却できない。
104 :
哲人:2011/10/04(火) 08:04:46.32 0
>>99 君は
>>98を読み、その内容を理解できますか?
>君は言葉の意味が分からなければ先ず辞書を見なさい。
>そして、辞書に記されている語義に思惟を巡らすだけの知能を育てることが先決ですね。
辞書を読むだけではなく、語義に思惟を巡らすだけの知能を育てることが先決だと書いてあります。
君も私の言葉を読むだけではなく、私の言葉に思惟を巡らすだけの知能を育てなさいね。
え?でもそういうことじゃないんじゃ
106 :
哲人:2011/10/04(火) 08:12:37.89 0
>>100 >悟りは筆舌に尽くせない、語るほど遠のくのに無限の修辞を必要とする。
要するに、君は悟りについて何も知らないので何も語れないと言っているのです。
107 :
考える名無しさん:2011/10/04(火) 08:16:51.23 0
ここでも自分の悟りが1番、他人の悟りは間違いって言う人が多いね。
本当に悟ってたら、こんなところで自分の悟りについての見解は書かないだろうね。
108 :
哲人:2011/10/04(火) 08:46:24.74 0
>>103 修行で常識という煩悩を捨て去り、悟りを開いた者は一人もいません。
人の心を一つの器に例えれば、その器の底に僅かな良識を残し、残りの全ては常識で満たされています。
その常識の全てを、心の器から掻きだすことは不可能なことですし、例え常識の全てを掻きだせたとしても残るは空っぽの心だけです。
最良の方法は、人の心の底で息づく僅かな良識を育てれば、良識より比重の軽い常識は心の器からこぼれ落ち、二度と再び心に戻ることは有りません。
109 :
哲人:2011/10/04(火) 08:59:45.86 0
>>107 悟りに自分も他人も有りません。
【悟り】とは「理解すること。知ること。また気づくこと。感づくこと。察知。」を意味します。
〔仏〕で【悟り」とは「まよいが解けて真理を会得すること。」です。
理解とは、道理で解き明かすことですので、悟りとは道理をさとり知ると言うことです。
つまり、悟りとは道理をさとり知ることで全てを解き明かす脳のはたらきを得ることです。
>>107 悟りを自覚した人と、悟りにあこがれている人の差。
同じ説明を連打する奴ほど自分の思い込み(希望)を試しているだけ。
悟りたければバックパッカーになって海外を一人で歩きまわるのが一番手っ取り早いと思う
沢木耕太郎の本でも読んで旅しようぜ
112 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2011/10/04(火) 12:36:40.13 O
バックパッカーは確かにいろいろ気付かされるよな。
社会構造やら自心の社会性やら。
仏教のいう悟りとは関係ないけど。
悟りを経験すれば全てが解決して人生の目標を達成するわけじゃないからな
むしろそこからが本当の自分を試されるようなもん
せっかく悟りを開いても、「悟った自分」というのを過信し過ぎるあまり
「お前それじゃただの統合失調症患者と大した変わんねえよ」って人も沢山いる
悟り経験が強烈過ぎて無知の知を見失っちゃうんだよね
114 :
考える名無しさん:2011/10/04(火) 16:03:22.12 0
>>113 悟ると自分が無くなるから、自分が試される事はないよ。
「悟った自分」も無いから、過信もしないよ。
>>114 悟った瞬間はそうでも
悟りって大抵すぐに消えて「悟った経験を知ってる自分」だけが残るからね
釈迦だってそうだったし、大体常に悟り状態になってたら生きていけない
116 :
考える名無しさん:2011/10/04(火) 17:09:52.95 0
>>115 それって悟った気になってるだけで
実は悟ってないんじゃないの。
そもそも悟りって完全に本人だけの中だけで起こってる事だから
「悟った」と「悟った気になっている」を明確に区分するのは難しい
本当に完全に悟りきって常時無の状態になってたら
そもそも悟りという概念が世に啓蒙されることもない
ただ傍から見たら廃人が一人完成するだけ
118 :
考える名無しさん:2011/10/04(火) 18:26:28.21 0
>>117 >「悟った」と「悟った気になっている」を明確に区分するのは難しい
ホントそうだよね。
>そもそも悟りという概念が世に啓蒙されることもない
啓蒙される必要ってあると思う?
>ただ傍から見たら廃人が一人完成するだけ
悟ったからって別に廃人にはならないよ。
催眠オナニーまじおすすめ
哲学だけでは足りない部分を補ってくれるよ
>>118 >啓蒙される必要ってあると思う?
無いと思う、っていうか言葉で説明すればするほど遠のきそうな気がする
だからこそ釈迦は説明するんじゃなくて考えさせる為に禅問答を作った
説明されて理解したらそれはただの宗教だし
>悟ったからって別に廃人にはならないよ。
確かに廃人は言いすぎた、けどまともに社会生活送るのも困難になる
とにかく世にいる悟りを説いてるような人達は
みんな「悟った気になっている人」あるいは「悟った経験をした人」だけで
「現在進行形で悟っている人」ってのはいないと思う
基本話される真理は"世界の理"なんだよ、それを知るのが"悟り"だとココで定義する。
けど"世界"を成り立たせているのは"信じる"ことでしかないから、信じるものを突き詰めると"神"に至る。
これで"神(世界)"を知り分析するうちに"神"が見えた!とか、場合によっては神を自分の道具のようにもできる。
その手段として、無我や無常の考え方を使うと便利、だから悟りには三法印、てなった。
でも、人によって信じているものは違う。
誰かによっての真理は他の誰かによっては非常にどうでもいいものだったりする。
けど、"自分の得たものが真理だと信じてしまっている"から、今度は相手の信じるものをそれで否定し、自分のものを植えつけようとする。
相手は自分の信じるものを否定されて怒ってしまう。→喧嘩勃発。
ごく一般的な宗教対立と変わらないんだぜ。
それらを具体的に共有するために存在がはっきりした"物"に信仰が移っていった。
そうこうしているうちに物の成り立ちやらを理解してきて(上の"悟り"に至る手段を応用可)利用する手段が発達しました。科学技術やらの発達は多分こんな感じ。
んで、物への依存が深まっていって・・・関係ないからもうイイや。
てか、そもそも完全に悟り続けてる状態の人っているの?
自己も無くし、何物にも依存さずに社会の中で生きていくなんてあり得ない、っていうか不可能なんじゃないかなぁ
自分にとっては何かが反転したって感じで、あるのは「悟る前」と「悟った後」だけで、
「悟っている状態」は無になっている時に降りてきているだけな気がする
理性で抑えこまれた生活と、堕落しきった生活
この二つを経験してから哲学った方が効果的だよ
悟る為に必要なのは自分の身体で歩いて見て聞いて感じて
それをふまえて自分なりに考える事で物事の成り立ちを探るという本来の哲学であって、
こんな掲示板で言語ゲームしてて悟りが得られると思ったら大間違いだ
>>123 "悟り"を信仰(興味の最上級みたいな)して突き詰めれば上で言ったように、悟り自体を見えるようにも出来ちゃう。
んで"悟り"を悟って自由に使える道具化しちゃう。
成功したらすごい便利だぜ?今は道具化したそれを使いこなす練習してる感じ。ある意味新しい思考法の確立だね。
もう、自由に色々見えてきて超楽しい。
でも私、根本的に人間嫌っているから、人に伝える手段に疎すぎる。
興味の無いものは悟れないぜ・・・
悟りに近い状態で生活したいってだけなら
おそらく八正道の教えに従うだけで事足りる
ただ、この場合自己をしっかり持って主体的に行動しなきゃならんだろうが
128 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/10/04(火) 19:52:29.24 0
>>125 ゲームが何の理由から、人々の間で行われるのか、疑問です。子供は成長のため、なら大人は?
ゲームが論理のあらゆる可能性を汲み尽くすということなら、論理は発見されるために待たれている。
釈迦が得た悟りが、その時代において、個人の到達しうる最高の論理ゲームの経験を含むものであるならば、
ゲームはもう遊ばれる必要がない。論理の絶対零度。あるいは灼熱か。他者は必要ない。バタイユの言う至高の
状態とかに至っている。それをもたらす経験や、思考がわたしは欲しい。
アブサロムさん
メディテーションと組み合わせた「気づき」の境地によって
それを「悟り」とするなら、それは貴方の期待しているだろう
素敵な何ものかとなるのかどうかは怪しいと思います。
世の中が「心の時代」とかなんとか言われて久しい。
いつの時代にも生きる中での枯渇感はあり、それを充足させるための努力は
赦されることではあるでしょう。しかしですね
「瞑想と気づき」はそれ自体は悪いことではない“はず”だが
実際には、現代社会に於いてそれは善人から金をむしり取る道具として機能している。
ある種の確立された技術を用いて悩み多き現代人を“気づき”の快楽に導き
一度その境地に目覚めた者はもうそこから容易には抜けられない。疑わない。
自己啓発セミナーと呼ばれるものは100%この類です。
手段は悪くない。仕掛ける方にも大真面目な言い分があるだろうが
しかし全体として不純を排除することなどできない。
私は彼らの行為を由と認めることは絶対にできない(完全に無私無償でやるなら別ですが。)
賢明な貴方だから心配するには及ばないと思うが
慎重に事に当たられるよう望む次第です。
>>129 わたしも馬鹿じゃないですから、オウム真理教のようなカルトがはらむ問題には、距離を持って、対処していきたい
とは思っています。自分のインスピレーションによって、自己の導きを行っていく、危険と向き合いながら、
財産程度なら、すこしは自分で律せそうな範囲で対処していきます。
131 :
考える名無しさん:2011/10/04(火) 20:25:46.42 0
ここってIDないからコテが無いと
誰がどのコメ書いてるのかよく分からないなあ。
132 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2011/10/04(火) 20:26:10.95 O
>120
(^。^)たまぁ〜に哲も仏閣にも顔出しとうばい。
>>61 こういう人ともっと話してみたいけどもういないかな?
悟った人(自称)、悟りたい人達だけでは
どうもあまり建設的な意見交換が出来ない気がする
実際悟りを宗教的な使い方で広めるのは、もう今の時代にはナンセンスだと思うしね
脳の反応速度、は、一つの物事に集中するなら、かけた時間だけ、反応速度で割った時間が大きくなる。
時間を細かく割っていって、考えた間の時間だけおなじ外界のある出来事が起こった事があったときまでの
過去を振り返るなら、その到来までに生きた時間、いや、少なくとも意識がさかのぼれる限りの遠さにある過去
まで、大きく時間を設定できる。予想は早いほうが良い。同じ事を繰り返すことの意味は、その予想の時間の長さにある。
そして、時間の永遠に近づく。
135 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/10/04(火) 21:20:25.89 0
つまり、量の多寡が左右するのだ、質を。そして量が質に転化し、質によって、並列的処理が可能になるのだと思う。
外から仕入れて、中で吟味する
この繰り返しでより洗練されていく
外だけでも、中だけでもいけない
>>134 もう少し僕のためにわかりやすくお願いします><
時間を設定、同じことを繰り返す、予想とはどういう意味ですか?
CPUの擬似マルチタスクみたいなかんじでしょか?
138 :
考える名無しさん:2011/10/04(火) 22:59:50.99 0
自らの思考に溺れる者は自らの思考で滅びる。
>>137 擬似マルチタスクみたいに、並列処理を行いたいわけではなくて、ある時点に、ある事柄が意識にのぼったとき、
その事柄が過ぎ去った時点は、その事柄が到来した時点より先に、なるわけです。その到来と去る時間の間が、
その事柄に割いた思考の時間であるわけです。その到来の時点は、それより少し前の意識と時間的に連続で
あるので、意識のつながりをたどることができるのです。たどった意識のつながりの中に、その出来事をとらえだした
瞬間の時間だけ、少し戻ることができるわけです。そうすれば、脳の働きは、完全に理解され、その出来事を100%理解した
と言うことになるわけです。そのとき、フィードバック回路が、脳の中で成立し、独立したサイクルの中で、円上に
つながった時間の輪ができるわけです。それは、始まりも終わりもない永遠です。
absalpmって純一だったのか
141 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/10/04(火) 23:29:39.84 0
>>139 しかし、その場合に、成立する永遠によって、永遠という概念に実感を与える事実が脳内の回路として一つ生まれるとしても、
それが現実に革変をもたらすことはあり得ないのでしょう。
142 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/10/04(火) 23:42:44.29 0
同じ事を繰り返すことで、到来の時間はいくらでも、慣れるにつれ早くなる。それが、時間の量が増えるという意味だ。
円状回路の成立を質とすれば、質と量の両方が可変である。
143 :
A:2011/10/04(火) 23:44:20.29 0
1-141
内面生活や社会生活を
豊かにしない技術に何の意味が
あるのでしょうか?
経験を表現している方に
関しては、凄いと感じますし、
尊敬しますが。
人を本質的に豊かにしないものは
必要ないし、永遠に生きて、普通に
そうなるほうが健全な気がしないでもないです。
技術一辺倒でいくと、最も重要な
部分がこぼれ落ちてしまう気がします。
日常経験の話ですが。
144 :
考える名無しさん:2011/10/05(水) 00:35:33.16 0
>>143 悟ると落ち着く場所に落ち着くんで、非常に安定しますよ。
自己の安定感は内面的な豊かさにつながりますから
決して無意味ではありませんよ。
悟りが技術ならば、もっと多くの人が悟っていると思いますよ。
145 :
A:2011/10/05(水) 00:51:12.58 0
>>144 安心しました。
悟りが記号になると何でも悟りに
なりますからね。
そんな概念は不必要で、
芸術的な表現になれば良いのに、
とおもいます。
>>144 >悟ると落ち着く場所に落ち着くんで、非常に安定しますよ。
ちげーよ。落ち着く場所に落ち着き安定すると、悟れるんです。
悟りが先にと思うからこそ悟りをあこがれ悟りを道具や技術のような
ものと思い込むだけ。強請り願い念じれば悟りなど絶対に訪れない、
そんなの悟りを求めた奴が実証した事実でもある。
落ち着き安定する為に念や欲が強いものにそれを求めるのは無理であり
では逆に念や欲、思いを限界まで追求させれば最後に崩壊し安定が
やってくるだけにすぎない。
結局求めるものを求める技術だと悟った。
個人的に悟りを得た思っていたが、自分のは占いや予知に近いな。結局信仰が関わってしまう。
信じる者は救われるで終わってしまうぜ。信じることで保っているんだから。信じることで作り出しているんだから。
相手も信じてしまうから伝わって、相手が信じられないから伝わらない。
自分が信じていない別のものを否定すれば、対象への信仰を極限まで高められる。だから知れる。手に入る。見つかる。
信じていることに気付け。信じることを利用しろ。
信じずに達成するのは経験法だろうが、それは対象を成り立たせている信仰の形を見ている、信仰主体である個物を見ている。
そこから自分の中で同じ物を形成するだけ。対象がバラつくほど、増えるほど上手くいかない。そういうものには悟るほうが達成しやすい。
悟っただけでは信仰が強すぎる。自分が信仰対象に操られかねない。だから悟った対象は上手く分析して道具化してくれ、これが演繹法。
経験で得たものに信仰すると、本末転倒だぜ?まぁ対象がよく見えるようになるだろうが。
経験法&悟り+演繹法、両方使いこなせれば無敵ってこたぁ。
151 :
哲人:2011/10/05(水) 07:40:08.32 0
>>1 >お釈迦さまの開いた悟り。そこへ至るために、各自の経験と論理行使によって、新しい考えを積み重ねていきましょう。
数学ならば1+1=2の基本を覚えることで、理論的に数理の全てを解き明かすことができます。
人の心も同様に論理という、思考の法則的な繋がりの基礎となる心の1+1=2が存在するのです。
この、論理の基礎の存在に気付き会得することを悟りを開いたとか物事の理を悟ると表現するのです。
心の1+1=2を会得すれば人の心が創り上げた(創り上げる)全て(過去・現在・未来)を理解(計算)できます。
>>144は正解です。
>悟りが技術ならば、もっと多くの人が悟っていると思いますよ。
技術的(理論的)に悟れるものでは有りませんが、論理的には非常に簡単に悟る方法が有ります。
「悟りたい」「悟りたい」「悟りたい」「悟りたい」「悟りたい」「悟りたい」「悟りたい」
「悟りたい」「悟りたい」「悟りたい」「悟りたい」「悟りたい」「悟りたい」「悟りたい」
「悟りたい」「悟りたい」「悟りたい」「悟りたい」「悟りたい」「悟りたい」「悟りたい」
「悟りたい」「悟りたい」「悟りたい」「悟りたい」「悟りたい」「悟りたい」「悟りたい」
「悟りたい」「悟りたい」「悟りたい」「悟りたい」「悟りたい」「悟りたい」「悟りたい」
「悟りたい」「悟りたい」「悟りたい」「悟りたい」「悟りたい」「悟りたい」「悟りたい」
悟ればいいだろ>哲人
人間には知覚できない無意識があるけど
入力(刺激)に対しての出力(反応)から無意識を想像で知るしかないのかねえ
>>153 意味になっていない意識を意味に変換した時点で意味になっていな意識
ではなくなる。
>>154 意味になってない意識とは何のこと?無意識の事かな?
わからんからとりあえず意味になってない意識をAとおくと
Aを意味に変換した時点でAではなくなるという文は当然ではあるけど
156 :
考える名無しさん:2011/10/05(水) 13:16:33.89 0
>>154はOSHOの言ってる意識だと思われ。
無意識というのは本来ないから。
>>151 たとえば煩悩に苦しむ人はどのような論理的な過ちをしてるのですか?
>>156 ぐぐったけどOSHO瞑想会というのがでてきたけどこれ?
意識の意味が違うのかな?
とりあえず意識できないところ全般を無意識としてる
自分で自分を完全に見る事ができない感じ。最近そういうのを感じてしまう
完全に悟ってない場合には抜けがある。その不完全な状態で自分を見てもさらに抜けが出る。
完全に悟った状態に偶然に行き着くしか道がないんじゃないかと思って
この辺が最近の行き詰まりです。
159 :
考える名無しさん:2011/10/05(水) 15:39:35.14 0
>>157 >たとえば煩悩に苦しむ人はどのような論理的な過ちをしてるのですか?
論理的な過ちとは違うかもしれませんが
「全ての答えは論理的な思考によって得られる」という過信。
160 :
哲人:2011/10/05(水) 16:21:43.10 0
>>157 >たとえば煩悩に苦しむ人はどのような論理的な過ちをしてるのですか?
人類社会は、理性に反する悟性を主とする思想で賄われています。
人の子は、産まれてから育つ段階に於いて、欲望から派生する自我(〔仏〕煩悩)を社会から植え付けられます。
例えば、親は我が子にこの競争社会で勝ち抜くようにと学力や技力・体力などを付ける教育をします。
そして学校でも勉強(励み強くなる)ことを主として教育を行います。
その結果、人は自他を別ものと考える自己主義を自動的に悟ってしまう所から悟性と名付けたのです。
この悟性が、自己保身のために生じる欲望に変わり、その欲望が自我を育て、人は自我の連鎖の中で終生悩み続けるのです。
つまり、人類全体が心の扱い方を間違っている為に一切の論理に近づけないのです。
日本語の「もったいない」を提唱したアフリカの女性が先日亡くなりましたが、人類が持つ誰でも育てることのできる
知能を誰も育てず焼き捨ててしまうのですから本当に「もったいない」話ですね。
次に自我の連鎖を書き込んで置きます。
161 :
哲人:2011/10/05(水) 16:28:07.06 0
★自我の連鎖
悟性に依り発芽する自我が育てる心の連鎖を一通り列記しておきますが、この中を巡り巡って人は
自我を後世に受け渡し生涯を閉じるのです。
人は幼少の次期を過ぎると他人から負けぬようにと親や社会から★(1)競争心を植え付けられ★
(2)競争社会で勝ち抜くために自己愛(ナルシシズム)が育ち★(3)早々と悟性を会得します。
悟性がやがて★(4)闘争心を育て・★(5)勝ち組は虚栄心に浸ります・★(6)負け組は敗北感を味わい・勝者に対し
★(7)憎しみ・★(8)恨み・★(9)妬み・★(10)嫉妬・★(11)勝者へのあこがれを持ちます。
162 :
哲人:2011/10/05(水) 16:30:48.18 0
★自我の連鎖
そして勝者、敗者ともに自己本位の思い込み(欲望)に囚われ以下のような心の闇に取り込まれます。
★(12)偽善・★(13)思い込みや妄想・★(14)不安感・★(15)恐れ・★(16)悔やみ・★(17)猜疑心・
★(18)虚言・★(19)信仰・★(20)復讐心・★(21)運、★(22)不運・★(23)悲哀感・★(24)支配欲・
★(25)暴力・★(26)依存心・★(27)閉心・★(28)暴飲、暴食・★(29)嫌悪感・★(30)責任転化・
★(31)嫌世感・★(32)虚無感・★(33)生存放棄・
細かく分ければきりがありませんがこれらの自我の全ては命を粗末に扱う性質を備え持っています。
163 :
考える名無しさん:2011/10/05(水) 16:49:08.58 0
164 :
考える名無しさん:2011/10/05(水) 17:56:14.80 0
>>154 形而下の言葉で形而上のそれを語る奴ほど無能といえる。
>>106 君は言葉や数式で語れない真理があることを「理解」できてない。
そもそも有限な個の気づきで無限の真理をつかめない。
0を言葉や数字で定義できますか?
君という個の境界線は面積があるか?
科学はわからないことをわからないと素直に認めることに意義があるんだよ。
>>160 自我によってさまざまな苦しみが生まれるのはわかります。
そして苦しみをなくすには自我をなくせばいい。
自我は植えつけられたもので、植えつけられたものは妄想であり、
それの事実を知ることによって、自我が消滅し、苦しみが消える。
いくつかの疑問があります。
ひとつは、自我は妄想ではなく動物としての本能ではないかという点です。
二つ目は、仮に自我が植えつけられたもので、そのことに気づいたとして、それでその価値観は消滅するのか
という点です。
自我にかかわらず、価値観というものは、本能と、社会から植えつけられたものとが混ざったものだと思います。
価値観の来歴を知ったところで、それが消えるのかということです。
仮に消えるのだとすれば、社会から植えつけられた価値観はすべて消滅するのでしょうか。
単に自我というのは進化の過程で自我をもった個体が生存上有利だったから
今の私達にあるんじゃないかなあ。今となっては結構邪魔な部分もあるかもね。
168 :
考える名無しさん:2011/10/06(木) 01:53:01.59 0
自我には自我の役割があり、常にきちんと活動しているが
自我を「私」だと思い込み、自我に必要以上の力を与えたため
自我に私が振り回されているっていうのが近いかな。
169 :
しんせつな人へ:2011/10/06(木) 06:16:11.35 0
哲人を悟らせる為に教えてあげるスレですageと入れてください。
170 :
哲人:2011/10/06(木) 10:21:37.60 0
>>166 >いくつかの疑問があります。
>ひとつは、自我は妄想ではなく動物としての本能ではないかという点です。
自我や他我、そして悟性や理性は人生に於いて会得する、人類特有のものであり本能には一切含まれていません。
>二つ目は、仮に自我が植えつけられたもので、そのことに気づいたとして、それでその価値観は消滅するのか
>という点です。
自我に気づくときは、悟りを開いた・物事の理を悟った後に成りますので、正しい価値観に入れ変わります。
>自我にかかわらず、価値観というものは、本能と、社会から植えつけられたものとが混ざったものだと思います。
先程、述べたとおりに本能と価値観は何の関わりも有りません。
>価値観の来歴を知ったところで、それが消えるのかということです。
>仮に消えるのだとすれば、社会から植えつけられた価値観はすべて消滅するのでしょうか。
悟りを開いた・物事の理を悟ったと言うことは人生に於いて社会から植え付けられた悟性という誤った意識を理性と
いう正しい意識に切り替わるのですから、当然 価値観も正しいものに入れ替わります。
171 :
哲人:2011/10/06(木) 10:32:04.42 0
>>166 悟りを開いたり、物事の理を悟ると生じる心の流れを順番に記しておきます。
@物事の理を悟ることで派生するA人間愛(ヒューマニティ)と良心が芽生え、B理性が育ちC非の存在と実体が明かされ
C真理を会得しD真理を会得することで、物事の道理を悟り知りEその道理で物事の全てを解き明かし(理解)
Fち【知・智】「物事を理解し、是非・善悪を弁別する心の作用」Gのはたらき(知能)が始まりHその知能で本物の知識を集め
I集められた本物の知識から本物の智恵を産みだしJ産みだされた本物の知恵で全てを解き明かすことで
K探求心が劇的に増幅し、人類は初めて本当の自由・本当の希望・本物の夢・本当の幸福・本物の平和を手にすることができます。
哲人であるなら哲人自身の願望ではなく事実を語るべきだと思いますがどうでしょうか?
自身の願望をもとに論理展開をすると自己を肥大化させてしまうのではないでしょうか?
174 :
哲人:2011/10/06(木) 16:35:47.21 0
>>172 論理に基づく真実を述べていますので、そこに私的な願望は含まれていません。
具象的な事実は、真理を希求する哲学には不用です。
175 :
考える名無しさん:2011/10/06(木) 16:44:35.27 0
【悟り】(さとり)名詞 「自己と世界の一致や融合を体感する『いわゆる悟りなるもの』」は生きているうちに一度は経験しておくのがいいかもしれないね。
ただこれ、条件にもよるけど一般的にはそこに至るまでかなり疲れるよ。
(「あのんの辞典」より引用)
>>174 哲人氏の言う論理とは何ですか?理屈の通った論理であれば皆が納得しているはずです。
それか、哲人氏が完全な理論を持っていると仮定するなら
私達はその理論を持っていないのでそこに達することができないことになりませんか?
177 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/10/06(木) 19:06:36.38 0
狂人にもいろいろ個人差があり、包括的な理屈はつけられない。同じ状態の人間は存在しないといった、ライプニッツの
言うとおりだ。
事実・真理を言葉に変換する際にどうしても不純物や不足分が入るんだなーこれが。
哲学にできるのは近似値をしめすことで完璧な真理はあらわせない。
体験でしか理解できないものを言葉で表しても
近似値にすらなりえない。
180 :
ユーサネイジア ダニエル・カール:2011/10/06(木) 22:36:52.00 0
勉強ばかりしてるって思われたくないから
181 :
哲人:2011/10/07(金) 07:14:33.78 0
>>176 >哲人氏の言う論理とは何ですか?理屈の通った論理であれば皆が納得しているはずです。
論理とは思考の形式・法則を指します。
従って、論理に通ずるには物事の理を悟ると言う行為が不可欠です。
もっと簡単に言えば、物事の理を悟らず理無しの論理も理無しの理解もできないと言うことです。
そして、理解できなければ知識も集められず、智恵を産みだすこともできません。
理無しの皆さんが、私の伝える論理に納得が行かない理由です。
>それか、哲人氏が完全な論理(×理論)を持っていると仮定するなら
>私達はその論理を持っていないのでそこに達することができないことになりませんか?
☆理論は科学に於いての法則的な繋がりを指しますので、人の心に関する事柄・哲学では論理と言う言葉を使いましょう。
君の言う通りです。
ですから、君達に物事の理を悟って戴き、産みだされる本物の智恵を使い、君達が楽しい人生を送ると共に
この陰険な世の中で活躍し、自由と平等を重んじる真の世界平和の確立に一役買って戴きたいのです。
つまり、私は君達に物事の理を悟って戴きたく思い、此処に書き込んでいるのです。
また、物事の理を悟る簡単な方法も解明済みです。
182 :
哲人:2011/10/07(金) 07:45:22.34 0
>>177 哲学を必要とするのは我々大衆です。
そして、哲学を必要とする大衆から哲学を取り上げた者達が、哲学を知らない無知な哲学者達です。
つまり、無知な哲学者達が己の無知を覆い隠すために屁理屈を積み上げた言葉が難解な哲学用語です。
哲学者達の頭が良ければ、大衆の頭を簡単に賢くする方法を探すでしょうね。
>哲学を必要とするのは我々大衆です。
哲人が欲しているのを「我々」と言い換えただけ
>そして、哲学を必要とする大衆から哲学を取り上げた者達が、
>哲学を知らない無知な哲学者達です。
そして我々ということばを他人事のように表現する哲人、哲人こそが無知
>つまり、無知な哲学者達が己の無知を覆い隠すために屁理屈を
>積み上げた言葉が難解な哲学用語です。
哲人そのものの自己紹介にすぎない
>哲学者達の頭が良ければ、大衆の頭を簡単に賢くする方法を
>探すでしょうね。
大衆に理解させる目的とか布教にすぎないから、理解させるのが目的に
すりかわっているいいかげんさ。
184 :
哲人:2011/10/07(金) 10:31:11.72 0
>>183 読解不能な君は、無理して哲学に関わらぬほうが良いと思いますよ。
185 :
考える名無しさん:2011/10/07(金) 11:58:04.28 0
哲人なのに意外とキレやすいんだな
187 :
哲人:2011/10/08(土) 07:46:08.01 0
>>185 相手を奮起させるためには効果的な発言ですよ。
188 :
第四の波平:2011/10/08(土) 08:57:15.04 O
ときの移ろいとは早いものだ。ボーとしてたらすぐ死にますねこれは
189 :
哲人:2011/10/08(土) 11:12:56.47 0
187.184.182
全部偽者です。
190 :
哲人:2011/10/08(土) 14:36:04.96 0
>>41 悟りとは自分で到るもの。
先人の話を聞いて目が覚めることもあるだろうが、それはその準備ができてた人。
悪意があっても、いずれ変わる時は勝手に変わる。
周囲の状況に揉まれつつも真面目に生きて、自分なりに良心に沿って色々考えながら生きれば、
悟れる人は悟るよ。
192 :
哲人:2011/10/08(土) 19:09:48.94 0
>>190 何を言ってるの?
君が偽物でしょう。
そっくりお返しします。
仏教に良心などありません。
すべては空です
194 :
哲人:2011/10/08(土) 21:25:09.85 0
>>192 何を言ってるの?
君が偽物でしょう。
そっくりお返しします。
195 :
哲人:2011/10/09(日) 03:49:14.12 0
>>193 死後、祭られることを望まず己の教えを封印することを弟子に
命じたと言う釈迦、個人については如何でしょうか?
コテをつけて輪郭を強調して悟りを布教するより名を捨てることこそ悟りの境地
エントロピーの法則に抗う勇者がコテハンという俗物。
197 :
考える名無しさん:2011/10/09(日) 09:58:02.48 0
仏教に良心などありません。
すべては空です
たとえば一つの花がある。「花」という本質を私たちは受け取る。しかし、「花」の本質の訴えかけてきた側面以外の
もの、つまり「花」の持つ万有引力とか、は、私たちの通常の意識には開示されない。私たちのつかんだ「本質」
とは、意識に映じた限りの側面である。「本質」や「理」といったものは、物事に内蔵されていて、それに近づく
限り、誤ることはないが、究め尽くす事もできない。
199 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/10/09(日) 13:14:41.17 0
本質は意識の目的に合わせて表れる。たとえば、意見の交換を目的に意識として持った場合、他者の視野に映った
角度は問題にならない。
200 :
哲人:2011/10/09(日) 16:07:53.61 0
>>195 まったく話しになりません。
私に似せた発言すらできないのですね。
自己を主張することに意味を見出し、悟りを説くとはな。
道端の石ころも人も同じ物質であり物理法則の真理に従う冷徹なほど平等な真理があるのに。
自我という幻想に依存し不正義を断罪し居丈高に真理を説き悟りを語る。
矛盾だらけですな。
202 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/10/09(日) 16:54:20.23 0
>>201 自我がなければ仏もないと思うが。なぜ仏は人の形をしているのかな?
うん、そうだね我々の真理はそこにあるんだね。
仏がいきいきとしている。
なぜだかたのしげだしおこってるしかなしそうだし。
204 :
哲人:2011/10/09(日) 19:07:36.76 0
Absalom
自然の全ては摂理という法則に従い時を過ごしていますが、人の心は法に従い知能を育てる理性と、法に反し欲望を育てる悟性の組み合わせで成り立っています。
一つの心の中にある全く異質な二つの心は、力の強い何れかが相手を支配し、支配された心は出番がくるまでじっと待っています。
ところが人類史は、法に反し欲望を育てる悟性に支配され続けていますので、人々も悟性に主導権を持たせた心に成長するのです。
紀元前、五百年近く前にこの事に気付いたプッダは何とか人々の心を真理に近づけ楽しい人生を送らせたい、との思いから生涯を説法に捧げたと聞いています。
>「本質」や「理」といったものは、物事に内蔵されていて、それに近づく
限り、誤ることはないが、究め尽くす事もできない。
私が思うに、八割方極め残りの二割の悟性は遊びに使うのが丁度よいと思います。
205 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/10/09(日) 19:16:57.76 0
>>204 哲人さん
悟性について、ネットで調べてみたらば、
(イ)ヘーゲルでは、具体的普遍の認識に至る理性に対して、物を個別的・固定的にのみ見て統合しえない思考の能力、
非弁証法的な反省的・抽象的認識能力をいう。
普遍の認識に至ろうとするあなたにとっては、理性が気に入るし、悟性は個別的なところが気にくわないんだと想像します。
206 :
哲人:2011/10/09(日) 19:47:30.62 0
>>204 >人の心は法に従い知能を育てる理性と、法に反し欲望を育てる悟性の組み合わせで成り立っています。
わたしは真理を語る際、このような安易な二元論的方法を取りません。
>>171にあるような働きによって理を理解し、善きことを行うことができるのです。
8割の極め2割の悟性といった意味のない「道具」を作ることはしません。
>>205 一応言いますがあなたは理性や悟性の一面しか捉えていないようです。
yesかnoで答えて欲しいのだけれど、君たちは悟っているの?
208 :
哲人:2011/10/09(日) 20:41:09.90 0
イエスかのう。
ブッダがこのスレ見たら言葉遊びはいいから実践しろといいそうだ
210 :
f哲人l:2011/10/10(月) 11:51:11.35 0
いゃ〜参ったな、、
私の偽者が三人はいそうだね。
211 :
考える名無しさん:2011/10/10(月) 12:06:45.81 0
三回抜けばいい
手軽に悟りを開けるよ
シコシコするか
213 :
f哲人l:2011/10/10(月) 12:23:06.89 0
Absalomさん、
カントと比べればヘーゲルの方が数段上ですね。
つまり、ヘーゲルは、悟性とは「対象を固定的にとらえ、他との区別に固執する思考能力」だと言っているのです。
これはナルシシズムと言う自己愛や自我(エゴ)の語義と重なることです。
尤も、自我の解釈は哲学的な難問とされていますが、私は自我を明確に他我の反語として扱っています。
214 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/10/10(月) 13:26:41.04 0
>>213 他人と自分は、物理的、物的にも、はっきりとした区別がありますね。進化論的、生物学的に考えるならば、
自分と他人の区別があることが、理性と悟性の区別を根源的なものにしていると考えられます。
そうすると、自我は理性、他我は悟性の働きの演繹として定義されると思います。まず他我をとらえて、その
対義として自我を認識するという手続きも、そのように理解されると思います。自己愛や自我(エゴ)の語義と
悟性が重なるとおっしゃっておられて、まるで正反対のようにも思えてきますが、浅学なわたしでは、すでにある
哲学に答えを求めようとしても無理な話です。
215 :
f哲人l:2011/10/10(月) 14:21:16.40 0
Absalomさん、
他我は他の全てを我と思い扱う心で、自我は自分は自分、我は我と他との区別を明確に分け隔てる心です。
自我も家族的自我や集団的自我・人種的自我など色々ありますが、これらの自我が差別を産みだす基と成ります。
そして、自我には理性が持つ概念的な思考の能力は無く、感性的欲求の赴くままに思考する自我は悟性から派生したものと言えます。
哲学書は、個々の哲学者達が自分の思いを綴った書物ですので、物事の真偽を見定める心を持ってから読まれた方が良いでしょうね。
そうしなければ、読む哲学書に洗脳される場合が有ります。
辞書には、論理という思考の形式や法則に添って記されている意味が多くありますので哲学書よりも一冊の辞書を持つことがお薦めです。
ブッダでは有りませんが、真理を会得する(悟りを開く)いてから全てが始まりますので物事の理を悟ればベストなのです。
216 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/10/10(月) 14:38:11.10 0
>>215 差別は、一概に悪いとは言い切れないでしょう。友情、家族愛など、は差別抜きには説明がつかないでしょう。
自他の区別がつかないと、生きていけないと、原理的なところについては考えられますが、それを分かった上での
「アイ」と呼ばれる感情を説明する上では、あなたの言う通りかもしれないとは、思います。ひとつ主張したいことが
あるのですが、それは、「理性」と「悟性」の独立性、つまり、思考の二パターンの存在です。わたしの吸収した
哲学の限りでは、それがある、と声が聞こえてきます。
217 :
f哲人l:2011/10/10(月) 19:46:53.20 0
Absalomさん、
>差別は、一概に悪いとは言い切れないでしょう。友情、家族愛など、は差別抜きには説明がつかないでしょう。
ところが大丈夫です。
人間愛とは、それぞれのそれぞれに対し、☆自己の持つ最高の精神にて対峙すること。
両親に対して☆兄弟に対して☆友人に対して☆他の動植物に対して☆自然に対して☆
全てに対し、☆自己の持つ最高の精神にて対峙すること。
これで差別は消滅します。
>ひとつ主張したいことが
>あるのですが、それは、「理性」と「悟性」の独立性、つまり、思考の二パターンの存在です。わたしの吸収した
>哲学の限りでは、それがある、と声が聞こえてきます。
「理性」と「悟性」の何れかが主導権を持てば、主導権を握った何れか一方が独立性を発揮しますよ。
218 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/10/10(月) 20:27:19.33 0
>人間愛とは、それぞれのそれぞれに対し、☆自己の持つ最高の精神にて対峙すること。
>両親に対して☆兄弟に対して☆友人に対して☆他の動植物に対して☆自然に対して☆
>全てに対し、☆自己の持つ最高の精神にて対峙すること。
>これで差別は消滅します。
おお、なるほど、
僕の使う新明解国語辞典にも、【愛】個人の立場や利益にとらわれず、広く身のまわりのものすべての存在価値を
認め、最大限に尊重して行きたいと願う、人間本来の暖かな心情。
とあります。
暖かさは自らも他者も良い気持ちにさせてくれます。
219 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/10/10(月) 20:31:15.96 0
温もりに包まれて、子宮の中にいるような安楽な気持ちを抱く。自足し、すべてを許す。この感情をなんと呼ぶのか。
胎児の記憶はすべての善につながっている。
220 :
l哲人f:2011/10/11(火) 01:36:53.99 0
なんかいった?
221 :
f哲人l:2011/10/11(火) 07:58:59.34 0
222 :
f哲人l:2011/10/11(火) 09:18:18.72 0
Absalomさん、
>温もりに包まれて、子宮の中にいるような安楽な気持ちを抱く。自足し、すべてを許す。この感情をなんと呼ぶのか。
前文の>温もりに包まれて、子宮の中にいるような安楽な気持ちを抱く。という行は私の死に対する感覚と同じですね。
人は皆、この地球に生命が誕生したとされる二十数億年前から面々と命の受け渡しが行われ、そして最後のバトンを受け取り、
人生という時間に花を開きます。
二十数億年間の己の祖先は、自分自身を世に送り出すために命のリレーをしてきた、と言っても決して過言ではありません。
そして命の花が枯れ落ちるとき、命の全てを産み育てて戴いた母なる地球に帰るのです。
そこには、私に命を与えた両親や友人、そして多くの哀しみを背負って短い人生を余儀なくされた子供達や、
愚かな戦争に巻き込まれ命を失った人々など、私の愛した多くの人たちの眠る地球に帰った時のことを想像すると
私が産まれる以前の母の体内にいた胎児の感覚を感じるのです。
>胎児の記憶はすべての善につながっている。
そこに、私は善悪も正邪もなく、心地よき無を感じます。
別に悟ったところでそれを興奮して騒ぐ必要もない。
あの瞬間はおいしいケーキ屋さんを見つけた女子高生みたいにうかれてしまうけれど、
あの感覚を飾り立てるから事がおかしくなる。
もう悟ってんだよとサラッと受け入れればいいだけの事
けどまぁあんたらいいこと言うね。良いインスピレーションをいただきました。
自分の抱いた感情を言葉で飾り始めたらペテンの仲間入りよ
225 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/10/11(火) 18:11:58.36 0
生物の本質とは、生命をいかに取り扱うかだ。偶然に生まれた我々は、必然的に死を迎える。悟性と理性が存在する
理由、その本質を、いかに理解するかが生命の本質に課せられた義務だ。自分一人が生きるために必要な知とは、
母の存在のみによって、十分である。
特別な人々は、死に対する考えの至高によって、他者の尊敬を集める。勇者は経験、すなわち悟性によって死を感じ取って
来た人々であるし、智者は、理性の思考によって死を理解する人々だ。
悟性と理性のクロッシング・ポイントに、いかなる死についての観念を獲得するかが、人間が究極の生命に至る――神
に至る?――進化上の要点だ。
226 :
考える名無しさん:2011/10/11(火) 18:26:23.58 0
見えざるものを見えざるまま扱えないのは愚。
見えるものを見えすぎると見えざるものすら見えるものと錯覚を始める慣れ
227 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/10/11(火) 18:30:14.54 0
>>226 釈迦の「真理の言葉」の中に、目などの感覚器官を使いすぎることに対する戒めが書かれています。
>感覚器官を使いすぎること
比喩の意味すら理解できていない、目とは喩え。
229 :
高校生:2011/10/11(火) 20:18:24.58 0
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230 :
f哲人l:2011/10/12(水) 10:58:19.79 0
>>228 要するに、
見聞きした事実のみに頼らず、心眼を使い物事の真実を捉えなさい、と言う釈迦の教訓ですね。
釈迦とイエスの共通点は、全ての人々の幸福を願う人類愛を主体とし生きたと言うことですね。
この人類愛には、揺るぎがたき自由と平等を重んじる精神が確立されていますが、人は誰でも
人類愛に目覚めれば真理を会得することができるのです。
私は「それぞれのそれぞれに対し、自己の持つ最高の精神にて対峙すること」(哲人語録より)
と言う愛を【人間愛】と命名しています。
三年前、九十二才で比国で亡くなり、マカネィ市で市葬を行った比日文化交流会の創始者であった
友人の三木睦彦氏も生前は人類愛の必要性を訴え続けていました。
他の日本人では命の尊さを唱え続けている、ペシャワール会の会長である中村哲氏は哲学的な
観点からみても人類の鏡とも言える人物ですね。
アインシュタインの予言通り、これからの未来を担う中心的な者達は君達日本に育った若者だと
私も考えます。
231 :
考える名無しさん:2011/10/12(水) 11:11:38.28 0
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232 :
悟りの表情:2011/10/12(水) 16:09:08.91 0
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233 :
宗教なニート:2011/10/12(水) 20:14:27.35 0
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234 :
f哲人l:2011/10/13(木) 06:56:15.32 0
235 :
f哲人l:2011/10/13(木) 08:01:41.01 0
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236 :
考える名無しさん:2011/10/13(木) 08:41:13.45 0
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全然おもしろくない
238 :
哲人:2011/10/14(金) 03:42:28.57 0
さて、
>>226もう気が済んだかな?
NO1
「悟りに近づくために」と言う命題に立ち返り、「悟り」をwikiで見てみました。
悟りは知らなかったことを知ること、気がつくこと、感づくことを言い覚りとも書く。
宗教上の悟りは迷妄を去った真理やその取得を言う。
「悟りは知らなかったことを知ること」と記されていますので「知る」とは如何なることなのか?を知る必要が有ります。
wikiでは「知る」が記されていませんので辞書の広辞苑で「知る」を索引して見ました。
【知る】「ある現象・状態を広く隅々まで自分のものとする意。@物事の内容を理解する。わきまえる。悟る。」
と記されています。
普通は知るって、見たり、聞いたり、臭いを嗅いだり、食べたり、触ったりして記憶することじゃないの?
どうやら、本当の「知る」と言う意味は違うようです。
★では、大学まで通って沢山色々なことを学び覚えたことは知ったと言うことじゃないの?
そう、それは知ることではなく、大学に行って沢山の知識を覚えたと言うことです。
大学に行って沢山の知識を覚えることは、知識を得たと言うことには成りませんね。
何故ならば、知識を得るためには【知る】「ある現象・状態を広く隅々まで自分のものとする意。@物事の内容を理解する。わきまえる。悟る。」
と言う脳のはたらき(知能)が必要だからです。NO2に続く、、
wikiとかいってる時点でお前が大学を出てないことはわかった
240 :
哲人:2011/10/14(金) 10:14:11.83 0
辞書を引くってのは言葉に偏りすぎだろう。
それどころか自論の展開のエサにしてるからタチが悪い。
と思うけどどうか?
242 :
考える名無しさん:2011/10/14(金) 13:34:42.64 0
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243 :
考える名無しさん:2011/10/14(金) 15:00:48.66 0
. ,, -―-、
/ \オエーー!!!! / ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー- ヽ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o ,,-―- 、 | / \ 。 | ,, -―-、‘゚。、` ヽ。、o
,∴ : / \ オエーー!!!!| ∴っ / ヽ゚。、。、o
,。U / /⌒ヽ \/ ̄ ̄\∵ ゚ U  ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| : U オエーー!!!!
U: |/ ヽ \ ヽ(゜) U ヽ。J° (゜)/ / /o 。 U 。
,,-―- 、。゚ ’。o ..、./ U : 。゚ ヽ ト、.,../ ,ー-、。 ,, -―-、
/ \∴ / / 。 : 。ヽ \ \‘゚。、` ヽ/ ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ∵ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー-ヽ ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o // | / \ | \ \‘゚。、` ヽ。、o
o U ° // | / | | \\゚。、。、o
o 。 U:/⌒ヽ | | | /⌒ヽ ヽU o
゚U \ ∵ | | | ∴ / `ヽU ∴l
。 | レ 。ヽ / U :l
, o \ /Jヽ。 |:!
o U ヽ/: ゚ 。ヽ
244 :
考える名無しさん:2011/10/14(金) 19:31:31.31 0
「おしゃかさま」などと静的な言葉遣いをしている奴が悟れるのかよ
日本仏教のノロマな悟りっすか?
245 :
哲人:2011/10/14(金) 20:02:10.58 0
>>241 >辞書を引くってのは言葉に偏りすぎだろう。
>それどころか自論の展開のエサにしてるからタチが悪い。
語義とは、思考の法則的な繋がりを十分に熟慮し創られ、その語義から言葉が産まれます。
例えば、理解の語義は道理や真理、そして理性や人間愛、また良心や知性や知能や智恵などの繋がりを深い思惟を繰り返し創られます。
そうして創られた言葉の語義を、自分勝手に考える何てことは愚の骨頂ですね。
辞書を引いて、その言葉の語義を理解できなければ自分の頭に不具合が生じているのです。
その頭の不具合を直す方法が、物事の理を悟るとか悟りを開いて真理を会得する、と言うことです。
私は思考の法則に添った話はしますが、自論を展開するなど一切しません。
246 :
哲人:2011/10/14(金) 20:16:13.06 0
. ,, -―-、
/ \オエーー!!!! / ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー- ヽ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o ,,-―- 、 | / \ 。 | ,, -―-、‘゚。、` ヽ。、o
,∴ : / \ オエーー!!!!| ∴っ / ヽ゚。、。、o
,。U / /⌒ヽ \/ ̄ ̄\∵ ゚ U  ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| : U オエーー!!!!
U: |/ ヽ \ ヽ(゜) U ヽ。J° (゜)/ / /o 。 U 。
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/ \∴ / / 。 : 。ヽ \ \‘゚。、` ヽ/ ヽ
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o ,rー-ヽ ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
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247 :
哲人:2011/10/15(土) 06:07:44.08 0
/∵∴∵∴\
/∵∴/∴∵\\
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ヽ. ヽ. ⌒⌒ ノ /
ヽ. ヽ、`==´ / /
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,.゙-‐- 、 `二´'/ そういうことですな
┌、. / ヽ ー‐ ヽ.
ヽ.X、- 、 ,ノi ハ
⊂>'">┐ヽノ〃 / ヘ
入 ´// ノ } ,..,.._',.-ァ
/ `ー''"´ ,' c〈〈〈っ<
248 :
哲人:2011/10/15(土) 06:39:31.95 0
>>244 >「おしゃかさま」などと静的な言葉遣いをしている奴が悟れるのかよ
紀元前500年前に誕生した釈迦は、人として全人類の幸福を確立することを使命とした至高善を目的として生きた方です。
従って、釈迦に敬意を込めて「おしゃかさま」と呼んでも違和感は生じません。
>>1は、
お釈迦さまの開いた悟り。そこへ至るために、各自の経験と論理行使によって、新しい考えを積み重ねていきましょう。
と言っているのですよ。
君も君の論理を行使し、会話に参加をして下さい。
>日本仏教のノロマな悟りっすか?
釈迦は己の死後、教祖として奉り立てられることを嫌い弟子達に「我を祭るな」と言う遺言を残した、と聞いています。
つまり、釈迦の教えを仏教の教えとするため、その原型を留めぬほど編纂と肉付けを重ねて創られたのが今の仏教です。
仏教からすれば、釈迦は大切な商売道具ですが、釈迦にすれば私には関係ないよと言いたいところだと思います。
しかし、今から2480年前に妻や子を実家に置き家出して、習い覚えることよりも真理を会得することの大切さを説いて歩いた
と言うのですから、時代は500年早くてもキリストの遙かに先を行く釈迦には私も感服しますよ。
悟りとは真理を会得することですが、真理を会得するためには物事の理を悟らなければ成りません。
「物事の理を悟る」ことで人の知能は爆発的に進化し、人類が抱える問題の全てを「適切に処理する能力」が得られるのです。
この法則は、かなり前から解き明かされており、
辞書の広辞苑で知恵を引くと【知恵】「物事の理を悟り、適切に処理する能力」と記されているのです。
広辞苑で、これを読んだときに私は大変なショックを受けました。
世界平和を願い、静かな場所で毎夜二〜三時間、
五〜六年間考え尽くし全てを知ったと思ってから見た辞書に私の発見したと思った法則が意図も簡単に記されていたのです。
しかし、さすがに広辞苑でも私の発見した「望む者の誰もが、簡単に物事の理を悟る法則」を記した言葉の語義は有りません。
249 :
考える名無しさん:2011/10/15(土) 08:23:12.06 0
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250 :
龍宮:2011/10/15(土) 09:13:00.06 O
悟りというものは特別なものではなく釈尊はもともとみんな悟っている(サティ)ことに
気づくことつまりはもっとシンプルに悟りを考えていたと思います
人には暗い側面があります。ときどきすごく暗い気持ちになる
そうなったときに光を照らすのが仏教でありそれこそが如来なのです
大まかに言えば暗い気持ちになる人間の闇を大きなもののなかに
我があることを知ることで思想のなかで阿頼耶識によって悟ことで
光に照らされ如来が出現するのです。それから菩薩業ですが
人を助ける人類愛に寄与することにこれが発展するわけですが
ある人間にとってはちゃんちゃらおかしいわけです
何故ならもっと強大な力がありそれがある世界の一部を席巻しているからそんな生温いことは
とるに足らないことなのです。もっと悪は強大で卑しく狡猾で
そういった難しい面があるのです。ですからもっと違うのです
結論から言うと如来や仏は剣を持ちます。慈悲だけの菩薩にはそれがないのです
251 :
考える名無しさん:2011/10/15(土) 09:15:51.28 O
公案(笑)などではなく、
現実の矛盾や争いの解決を考えればいいのに
252 :
龍宮:2011/10/15(土) 09:42:47.70 O
アメリカ人はセルフヘルプの精神が強いのに対して日本人はもっと大きなものに巻かれると
言うか仏教で言えば他力の大きなものに身を委ねて生きるところが多いと思います
力に対してアメリカ人はそれにセルフで対抗していくしかないと
いう考え方が強い。他力はもっと大きなもののなかにいる自分を自覚するあるがままの
精神でできています。力に対して悪に対しての自分というものがあります。強大な力と対峙する時の意思と
いうものがありますが他力思想は暴力に対して暴力でという考え方ではない
しかし仏教にも力への憤怒の考え方があります。日本仏教では真言密教特に空海の思想に
行き着くように思います。力への傾倒です。タントリズムが力への意思がある仏教になるのではないかと思います
253 :
考える名無しさん:2011/10/15(土) 14:48:55.69 0
. ,, -―-、
/ \オエーー!!!! / ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー- ヽ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o ,,-―- 、 | / \ 。 | ,, -―-、‘゚。、` ヽ。、o
,∴ : / \ オエーー!!!!| ∴っ / ヽ゚。、。、o
,。U / /⌒ヽ \/ ̄ ̄\∵ ゚ U  ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| : U オエーー!!!!
U: |/ ヽ \ ヽ(゜) U ヽ。J° (゜)/ / /o 。 U 。
,,-―- 、。゚ ’。o ..、./ U : 。゚ ヽ ト、.,../ ,ー-、。 ,, -―-、
/ \∴ / / 。 : 。ヽ \ \‘゚。、` ヽ/ ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ∵ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー-ヽ ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o // | / \ | \ \‘゚。、` ヽ。、o
o U ° // | / | | \\゚。、。、o
254 :
ユーサネイジア ダニエル・カール:2011/10/15(土) 15:06:08.66 0
光なんて遅れてる
世の中結局萌えですよ
256 :
考える名無しさん:2011/10/15(土) 18:38:29.49 0
γ ⌒ ⌒ `ヘ
r―-ー-、 イ "" ⌒ ヾ ヾ
| / ( -=○=- -=○=--ヽ)ヽー一 ー- 、
| \( / ー-' ヽ. ヾ ) / 発狂はまだかね〜?
. ! ヽゞ (. ::.| ト‐=‐ァ' |.:.ノ.ノ-、_/ /
',. `、ゝ、、ゝ .\`二´'/ ノソ / /
'、 ヽ 个:.ゝ、、ゝノ ,, ノ ノ_/ / /
`、 フ `T - イノ ´′ ′ /
`、 ヽ ′/ / /
ヽ \ ` ー ′ ' /
. \ , {
i  ̄` ′ !
', , i
ヽ } ハ
\ ′` \
\ 、 ′ `ー- 、
発狂用意残った
258 :
考える名無しさん:2011/10/16(日) 12:28:25.43 0
γ ⌒ ⌒ `ヘ
r―-ー-、 イ "" ⌒ ヾ ヾ
| / ( -=○=- -=○=--ヽ)ヽー一 ー- 、
| \( / ー-' ヽ. ヾ ) / 発狂はまだかね〜?
. ! ヽゞ (. ::.| ト‐=‐ァ' |.:.ノ.ノ-、_/ /
',. `、ゝ、、ゝ .\`二´'/ ノソ / /
'、 ヽ 个:.ゝ、、ゝノ ,, ノ ノ_/ / /
`、 フ `T - イノ ´′ ′ /
`、 ヽ ′/ / /
ヽ \ ` ー ′ ' /
. \ , {
i  ̄` ′ !
', , i
ヽ } ハ
\ ′` \
\ 、 ′ `ー- 、
259 :
考える名無しさん:2011/10/16(日) 12:51:12.44 0
/.: ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \
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: : : : ::;;( ● )::::ノヽ::::::( ● );;::: |
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: : : : . : : . : : . \
260 :
哲人:2011/10/18(火) 12:25:46.13 0
龍宮さん、
>悟りというものは特別なものではなく釈尊はもともとみんな悟っている(サティ)ことに
>気づくことつまりはもっとシンプルに悟りを考えていたと思います
と言うことですが、これでは性善説に成りませんか?
宗教の場合には、性善説や性悪説・そして死後の世界を唱えなければ商売に成りませんが、道理を
唱える釈迦が性善説を唱えたとは到底、考えられません。
釈迦は私と同様に、誰でも気持さえあれば悟りを開くことができる、と述べたのでは有りませんか?
261 :
考える名無しさん:2011/10/18(火) 13:35:04.11 0
/\___/ヽ
//~ ~\:::::\
. | r=- r=ァ .:|
| ,,ノ(、_, )ヽ、,, .::::| はいはいはいそうですね
. | `-=ニ=- ' .:::::::|
\ `ニニ´ .:::::/
/`ー‐--‐‐―´\
完全なるキチガイ無罪ゲーム
263 :
哲人の自作サイト宣伝:2011/10/18(火) 14:06:01.09 0
264 :
考える名無しさん:2011/10/18(火) 15:33:07.01 0
γ ⌒ ⌒ `ヘ
r―-ー-、 イ "" ⌒ ヾ ヾ
| / ( -=○=- -=○=--ヽ)ヽー一 ー- 、
| \( / ー-' ヽ. ヾ ) / 発狂はまだかね〜?
. ! ヽゞ (. ::.| ト‐=‐ァ' |.:.ノ.ノ-、_/ /
',. `、ゝ、、ゝ .\`二´'/ ノソ / /
'、 ヽ 个:.ゝ、、ゝノ ,, ノ ノ_/ / /
`、 フ `T - イノ ´′ ′ /
`、 ヽ ′/ / /
ヽ \ ` ー ′ ' /
. \ , {
i  ̄` ′ !
', , i
ヽ } ハ
\ ′` \
\ 、 ′ `ー- 、
265 :
考える名無しさん:2011/10/19(水) 15:27:20.54 0
悟りは思考を超えているのに
思考の範囲内に留まっている哲学で
どうこうしようだなんて56億8000万年早いわ。
266 :
考える名無しさん:2011/10/19(水) 17:43:41.71 0
うんこ
うんこ?
悟れないことを悟った
うんこwwwwww
あー
うんこ
272 :
考える名無しさん:2011/10/19(水) 17:46:50.48 O
仏のたかし
273 :
龍宮:2011/10/19(水) 19:12:55.98 O
仏教においては性善説も性悪説もないと思いますよ
特に日本仏教に関しては人間には誰でも仏性があり
それに気づくことが悟りであるというものが基本的なスタンスです
釈迦も大パリニッパーナ経では自然への賛美をこのように言っています
ですからネガティブな部分=カルマから入ってはいるけれど
仏教は性善説に近いと思います。ただそうではなくて仏性(アートマン)を持って
いながら業が深く汚れたマナスをもつのが人間であり
そういった意味では性悪説でしょう。ともあれ輪廻は動物のカルマまで
含むので人間は汚れているのであり普通の人は悪が強いのは確かです
274 :
龍宮:2011/10/19(水) 19:17:34.48 O
275 :
考える名無しさん:2011/10/19(水) 21:15:24.25 O
悟っても何かを発明できるわけでもなし
人生の無駄遣い
小者がwwwwwwww嫉妬しないようにするのにwwwwwwwww必要wwwwwwwwですねw
自分のために悟るんだからいいんじゃないの。
278 :
シャイア・ラブーフ:2011/10/20(木) 09:59:31.94 0
アイン ヴィンダー ?
279 :
考える名無しさん:2011/10/20(木) 12:14:55.28 O
我執を取り去る仏教そのものが我執の塊である
釈迦は我執の塊だったの?
釈迦は知らんが、
人生論や精神論に変容した仏教は自分に酔っている
「哲学や空想、創造的思考に熱中している」人にとって、
現実の見え方は空、現実の行動は中道。
↑これを、現実しか見えてない人が「現実の〜」部分だけを絶対真理と崇めて模倣する。
本人は熱中しているから現実がそう見える(結果)だけである。
崇拝する人は結果を直接マネる
_,,..--――--,,..
/::: \
/:::" ヽ
,i :: -=ニ=- -=ニ=- i
\.. / ー-' ヽ /
\::.| ト‐=‐ァ' |:./ なんですかな?
\\__//
/ ヽノ ⌒\__ .___
/ | \___)⌒\ |\ \
` ̄\ \ -''' ⌒(___) \| ̄ ̄ ̄|
\ /\ \__ .  ̄ ̄ ̄
` ―─―─´ ヽ___)
284 :
龍宮:2011/10/20(木) 22:21:56.59 O
最近は密教関連の本を読んでる
いわゆるクンダリーニについての本だ
身体にあるエネルギーとそれを構成している世界との
境界線を取り払って今までに身体に起こった数々の体験が
どう世の中に通じているかを知りたい
極端に宗教的ではあるが知的好奇心には勝てない
むかし寝ているときある女の顔のことを考えて
悟り(理解)に至ったときスルスルと身体に今まで巻き付いていたものが取れて
極端に身体が解放されてその後体調を崩したことがあった
この時世界(世の中と自分のイマジネーション)でも不思議にマッチングした
事象がありその後身体の変調が戻るまで時間が掛かったことがある
実際にチャクラがどのように世の中に作用し自分に影響を与えたのかを
知りたい
なんのためにウォン安を防ごうと思ってるのかというと
借金が返せなくなるから。
じゃあ借金が何に使われているのかといえば、産業振興ね。
その結果日本のシェアが奪われ、利益は韓国企業に。
で、実質その借金返済のために日本の金が担保にされる。タダでな。
担保があれあ莫大な借金ができる。
。
これは実質、日本政府が韓国企業を支援して、日本企業を潰してるのと同じことね。
借金は韓国企業のためにつかったんだからそっから返済すればいいだけなんだよ。
日韓スワップがいかにひどいことかわかるだろ。
287 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/10/21(金) 16:42:53.79 0
人生において出会う謎の数々。それは解かれるのを待って、蠱惑的な姿を見せる。
解けるはずだから気になる。すべての謎をいかに解くか、それを見せる物事が、いかに解かれるか。
悟ることとなぞなぞの関係やいかに。
288 :
考える名無しさん:2011/10/21(金) 16:56:20.65 0
で悟るとかの「希望」とかバカの1つ覚えで、そんなのに何の意味もないから
悟りえるものは自然に来るものであって念じたり努力したり理解できる
と思いたい背景に見えるものは、その必死さと何も理解できない愚かさだけ。
異端→=≃正統
_______|
↓
神頭
or
真統
?
/
290 :
哲人:2011/10/22(土) 10:27:49.39 0
>>288 >悟りえるものは自然に来るものであって念じたり努力したり理解できる
>と思いたい背景に見えるものは、その必死さと何も理解できない愚かさだけ。
それは、今までの話です。
悟る方法さえ分かれば、多くの人たちが悟れます。
291 :
考える名無しさん:2011/10/22(土) 10:54:12.86 O
チャクラ(性力)が強くても現世で悟りを得るのは難しいそうだぞ
おれは人間の考えることだからまゆつば程度に思うが
現世で如来くらいの悟りに至るにはクンダリーニ覚醒しかない
本当は悟りは何度も輪廻転生を繰り返して何億年も掛けて
到達しないといけない。クンダリーニ覚醒みたいな近道するととんでもい状態に
陥るらしい。チャクラが強いかどうかというのは個我が悟りを得るための
方向性を取れるだけのエネルギーが強いかどうか?人生にくだらないとか
つまんねーとか現代人にはチャクラが弱いといえるが人間を知りたいとか
成長したいとか嘘をつきたくない正直でいたいとかチャクラ(悟りに対するモチベーション)が強い人間もいる
292 :
哲人:2011/10/22(土) 16:42:11.27 0
悟りに至るとか、悟りを開くとは真理を会得することを言います。
何故、人は悟りに固執するのか?との答えは悟りを開かなければ人の知能が育たず、
正しい智恵を産みだせないと言うことを真理を会得した者達が知ったのです。
真理を会得すれば、物事の道理に明るくなることから、道理に明るいことを意味する
哲と言う文字を迎えた哲学という言葉が産まれたのです。
293 :
哲人:2011/10/22(土) 19:02:57.00 0
哲学って西周が中国の書物から引っ張ってきた言葉でしょ。
元のフィロソフィーはソクラテスとかのいわゆる西洋哲学を土台にした学問だからここで武田鉄矢みたいなこと言っても意味ない。
悟りっていうオリエンタルな概念をフィロソフィーできっちり分解、解析することに意味がある。
294 :
哲人:2011/10/23(日) 10:36:26.48 0
>>293 愛智の意とする所も、哲学の意とする所も同じ思考の法則的な繋がりの一部を切り出したものです。
つまり、一本の金太郎飴の何処を切るのかに依って表現が愛智や哲学、そして悟ると言う具合に変わります。
悟りとは、誰もが産まれつき備え持つ「大宇宙を支配する原理・原則の荒玉」に磨き上げた状態を指します。
つまり、思考の法則の源の荒玉を磨き上げれば、誰もが望むことの全てを知ることのできる知能が育つと言うことです。
もう一方の愛智ですが、智恵を愛する意としても愛智を愛知と書いて知るを愛するとしても間違いでは有りません。
人が物事を知り智恵を産みだす為には、物事の理を悟らなければ成りませんが、物事の理を悟ることと荒玉を磨き上げることとは同義なのです。
愛知を別の見方をすれば、本物の愛と言われる人間愛を持てば智恵を産みだせることから愛知と名付けたとも考えられます。
そして、物事の理を悟れば知能の発育の源となる理性と人間愛と良心を獲得できると言うことです。
哲学ですが、哲学の哲と言う文字は物事の道理に明るいことを指し、哲学と並べれば物事の道理に明るくなることを希求する学問の一種だと言うことです。
これも、物事の理を悟ることで真理を会得し物事の道理を悟り知り、知識を集めて智恵を産みだすと言う法則の一部です。
大まかな説明ですが、素を正せば全てが同じ、金太郎飴の一部ですよ。
295 :
考える名無しさん:2011/10/23(日) 11:22:31.96 O
宇宙にはそこに置かれる位置というものがあり
宇宙の法則に合わせて物体はその位置に戻ろうとする
どこにあっても最後にはその位置に戻って
そこにマンダラが出現する。人間にも位置というものがあり
その位置に配置されれば宇宙が統一され極楽のような一体感が
全てのもとにもたらされる。それを体現したのがマンダラになる
「時輪タントラ」は世界の車輪が回転するが如く
すべてが整って配置され
あまねくすべては幸福になる。同じように人間の身体も
宇宙の法則にしたがってできておりタントラバジヤーナによって
身体は幸福に向かっていく。またクンダリーニ覚醒により
これら身体に関する知識と集中力を高めいつでも至高の状態へと
変化する。
296 :
哲人:2011/10/23(日) 11:29:31.82 0
自分の人間愛やら良心をとつとつと述べるのは坊さんの専売特許みたいなもん。
哲学では論理的に証明することが必要なの。
誰もが産まれつき備え持つ「大宇宙を支配する原理・原則の荒玉」とかいろいろ唐突な胡散臭い言葉を並べるのは仮に真理に迫るものだとしても
一般人にはカルトと特別がつかないの。
君の人間愛は多分にロマンチックで比喩、暗喩が多分に含まれた文学に消化しちゃってるから哲学には向かないと思うよ。
僕も君の言うとおり金太郎飴的な世界観を持ってるので別に哲学から悟りに近づく必要はないと思います。文学的なポエムとかから悟りに近づいてください。
297 :
考える名無しさん:2011/10/23(日) 11:33:25.94 O
チャクラの効能
1ムーラーダーラ・チャクラ
このチャクラを覚醒すると、体力が異常に増進して
普通の人の3〜5倍のエネルギーをもつようになる
3日、4日の徹夜くらい平気になる。一切の病気を受け付けず
男女ともに実際の年齢より若くなる
このチャクラの体現者は、80歳の翁にして30歳の壮者をしのぐ精力を持つとされる
そのかわり、強烈な性欲と生殖力を持つようになるので
そのエネルギーを、オージャスという知能のエネルギーに
変える法則をあわせ持つ
精腺・腎臓のあたり
298 :
考える名無しさん:2011/10/23(日) 11:55:20.61 O
>>296 本質的に逸脱したことはやらないみないを
僕も貫いて来ましたよ若いころは。 ただそういうことを言うようでは
まだまだ甘いと思います
299 :
考える名無しさん:2011/10/23(日) 12:23:01.26 0
愛智の意とする所も、哲学の意とする所も同じ思考の法則的な繋がりの一部を切り出したものです。
つまり、一本の金太郎飴の何処を切るのかに依って表現が愛智や哲学、そして悟ると言う具合に変わります。
悟りとは、誰もが産まれつき備え持つ「大宇宙を支配する原理・原則の荒玉」に磨き上げた状態を指します。
つまり、思考の法則の源の荒玉を磨き上げれば、誰もが望むことの全てを知ることのできる知能が育つと言うことです。
もう一方の愛智ですが、智恵を愛する意としても愛智を愛知と書いて知るを愛するとしても間違いでは有りません。
人が物事を知り智恵を産みだす為には、物事の理を悟らなければ成りませんが、物事の理を悟ることと荒玉を磨き上げることとは同義なのです。
愛知を別の見方をすれば、本物の愛と言われる人間愛を持てば智恵を産みだせることから愛知と名付けたとも考えられます。
そして、物事の理を悟れば知能の発育の源となる理性と人間愛と良心を獲得できると言うことです。
哲学ですが、哲学の哲と言う文字は物事の道理に明るいことを指し、哲学と並べれば物事の道理に明るくなることを希求する学問の一種だと言うことです。
これも、物事の理を悟ることで真理を会得し物事の道理を悟り知り、知識を集めて智恵を産みだすと言う法則の一部です。
300 :
哲人:2011/10/23(日) 12:40:35.33 0
意志のOS上でアプリケーションとして動かすものにすぎないんだよね哲学は。
そこが西洋哲学の真骨頂であり限界なんだけど。
君のは宗教。悪いとは言わないがスレチ。
東洋の人間より、西洋の人間の方が東洋思想をよく理解している。
東洋人が東洋思想を語り出すと女々しいったらない
302 :
考える名無しさん:2011/10/23(日) 20:36:40.59 0
>>301 それ哲人のような糖質の語りだろ。知っているものは他人へは語らない。
哲人が必死で他人へ語っている、その行為こそがその理由だ。
303 :
考える名無しさん:2011/10/23(日) 21:55:25.50 O
仏教の仏は屁理屈の屁
304 :
考える名無しさん:2011/10/23(日) 23:05:44.87 0
哲人はすかしっぺが得意である。なにこの臭い。
死にそうに伝染する。、
305 :
考える名無しさん:2011/10/23(日) 23:24:14.32 0
哲人はすかしっぺが得意である。なにこの臭い。
死にそうに伝染する。、
306 :
哲人:2011/10/24(月) 06:34:31.54 0
>>296 >自分の人間愛やら良心をとつとつと述べるのは坊さんの専売特許みたいなもん。
物事の真実を述べるのに自分も他人も宗教も有りません。
>悟りっていうオリエンタルな概念をフィロソフィーできっちり分解、解析することに意味がある。
さて、次は君の質問に君自身が答える番ですよ。
フィロソフィー(愛智)を君の嫌う愛と良心抜きできっちり分解、解析して下さい。
307 :
哲人:2011/10/24(月) 06:40:39.29 0
>>302 >それ哲人のような糖質の語りだろ。知っているものは他人へは語らない。
>哲人が必死で他人へ語っている、その行為こそがその理由だ。
「親心、子不知」
308 :
哲人:2011/10/24(月) 06:44:31.92 0
×哲人=天才
○哲人=驫麤
310 :
哲人:2011/10/24(月) 19:14:09.37 0
>>306 あんまり難しく考えないでね。フィロソフィーは哲学でフィロスっていう語源が愛智とかでしょ。
君の言うとおり、哲学の特殊性はOSをOS上で解析することにある。
windows上でmacのOSエミュレートしたりコード解析したりね。windows上であることで逆にmacの欠点や良い点がわかりやすくなったりもするね。
実際には自分も意志が自然に内包されるものだと感じているけど意志という(仮想)OSを設定してそこで哲学っていうアプリケーションを用いて自然を「客観的に」見るツールが哲学。
こういう0から1を生み出すような概念づくりは西洋人はさすがだよ。
全部金太郎飴なんだからそんなことになんの意味があるのかと思うかも知れないけどま、幾何学の問題で補助線を引くようなもんだと思えばいい。
で、君はwindows使ってる人にmacを無理やりインストールしようとする嫌なやつって感じ。
311 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/10/25(火) 06:53:55.73 0
人間の人生を支えるのは自分だけだ。他人は他人を代わることはできない。人間の生全体は、空中に浮かんだ
球だ。それだけがぽつんとある。それを眺めて、色んな解釈をしたり、色を観察したりする。つまり、宇宙に目的が
無い様に、生にも目的がない。ただ自然の一部である。思考は物質化したりしない。死ねばそれまで。
312 :
哲人:2011/10/25(火) 08:39:55.75 0
>>310 >あんまり難しく考えないでね。フィロソフィーは哲学でフィロスっていう語源が愛智とかでしょ。
私は君の問いに対し、正しく答えているだけですよ。
君の説明では、友愛と智恵との因果関係の説明が抜けています。
加えて、君の嫌いな友愛の意も説明して下さい。
>全部金太郎飴なんだからそんなことになんの意味があるのかと思うかも知れないけどま、幾何学の問題で補助線を引くようなもんだと思えばいい。
本線なしの補助線だらけですか?
>で、君はwindows使ってる人にmacを無理やりインストールしようとする嫌なやつって感じ。
簡単な法則を、わざわざ難しく考える必要は有りませんよ。
313 :
哲人:2011/10/25(火) 09:12:02.28 0
Absalomさん、しばらくぶりですね。
私は釈迦と仏教とは別ものと考えます。
もしも、釈迦が排他的な思想に囚われていたのであれば八十才の生涯を閉じるまで辻説法を行っていたのでしょう。
また、釈迦が生きたと言われる紀元前463年〜 紀元前383年の時代に八十才と言う驚異的な寿命を迎えた理由も、
彼の生き方に深い関わりが有ることでしょう。
これらのことから推測すると、釈迦は生涯、夢と希望に燃えて人生を生き抜いた人だと思います。
人が夢と希望を持ち生きれば、脳内モルヒネが分泌され病にも掛かりにくく寿命を大幅に引き延ばすことは
医学的に証明されています。
哲人=病気
315 :
考える名無しさん:2011/10/26(水) 04:09:34.94 0
哲人=28号。
316 :
考える名無しさん:2011/10/26(水) 04:13:36.23 0
悟人は釈迦と仏教を別物にした理由は
屁理屈を言うためである、そしてその知識もデタラメである。
なんの根拠もないしソースは脳内ソースである。
317 :
考える名無しさん:2011/10/26(水) 12:10:29.33 0
悟りは語ったり書いたりするものではないからな。哲学でも仏教でも釈迦でも脳内ソースでもなんでもいいが、悩みや苦痛がない状態に至れば一種の悟りの状態へ到達したといっていいだろう。
逆に言えば悩みや苦痛から抜け出せなければまだ悟りに至っていないといえる。
バカ達磨みたいになることが悟りならイラネ
ババアはwwwwwwwwwwww周囲からwwwwwwwwwww落としこんでくるのをwwwwwwwwww悟ったwwwwwwwwwww
320 :
哲人:2011/10/27(木) 10:28:36.20 0
>>316 >悟人は釈迦と仏教を別物にした理由は
悟りを開いた(真理を会得した)と言われる釈迦が来世や彼岸などの理に反する思想を支持する訳が有りません。
仏教界の歴史と現状を釈迦が知ったら、さぞ嘆き悲しむことでしょうね。
全ては無常である、来世や彼岸などの無に思いを馳せず、一度限りの人生を大事に生きて下さいと言う教訓ですね。
若かりし頃に大切な家族を残して家出(出家)した後悔の念が感じ取れます。
321 :
哲人:2011/10/27(木) 11:00:57.13 0
>>317 >悟りは語ったり書いたりするものではないからな。
>哲学でも仏教でも釈迦でも脳内ソースでもなんでもいいが、
>悩みや苦痛がない状態に至れば一種の悟りの状態へ到達したといっていいだろう。
解けぬ問題を抱えると、悩みや苦痛に派生すると思いませんか?
悩みや苦痛に派生する問題を、適切に処理するはたらきが智恵です。
そして、その智恵は物事の理を悟ることで産みだせます。
ですから、辞書で【知恵・智慧】を引くと「物事の理を悟り、適切に処理する能力。」と書かれているのですね。
なんと、簡単なことですね。
322 :
考える名無しさん:2011/10/27(木) 12:11:54.84 0
ややこしい説明多いけど悟りの入り口がどこか知りたいなら
朝起きて眠りに落ちるまで一日中祈りでもナンマンダブでもいいからずっと心の中で念じてみろよ
そして悟るまでそれを毎日続けてみろ
それができなきゃデジャヴするだけ
それで悟りの入り口に立ってもう一回ここ来てみろ
みなさんお疲れさまです。頭が下がります
323 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/10/27(木) 16:27:52.49 0
悟りたい。そのために、色んな勉強をしてきた。悟ることへの希求は、人生へのおそれとして発端を持つ。
死ぬのが怖い。今にも死んでしまいそうだ。でなければ気が狂うとか。邪心ばかりの私でもいつかは平静な
時を持てるだろうか。
324 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/10/27(木) 17:11:51.49 0
よこしまな心は簡単に否定できない。しかし否定することも可能だ。否定の末に見える世界が、特別なものでなくてもいい。
否定者としての自分の能力をコントロールする。とりあえずはそれでやってみる。
325 :
ユーサイネイジア ダニエル・カール:2011/10/27(木) 17:13:54.11 0
若い内に世界中を見て回って来たから
326 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/10/27(木) 17:17:23.39 0
否定の否定は肯定ではない。否定するという行為一つとってみても、多様なあり方がある。それは一つにまとめる
普遍化ができないものだ。だから伝達が難しい。
327 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/10/27(木) 17:21:57.65 0
肯定か否定かという二択は、的がはずれている。スルーするという行為について、肯定も否定もない。
328 :
ユーサイネイジア ダニエル・カール:2011/10/27(木) 17:23:53.39 0
真空だか高山だかで伝わる哲学だと思われたくないから
329 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/10/27(木) 17:32:15.07 P
愛が生まれるには、担い手が必要だ。生まれた愛は、概念化され、普遍的に流通する。
しかし、その概念がくたびれ果ててしまって、ゆがんだ形でしか残っていない。
愛は生ものだ。また新たな意味を注ぐことが、ルネッサンスだ。
330 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/10/27(木) 17:57:25.68 P
新しさは追い求めるものではない。人生の行き詰まりを、新しさによって打開しようという
試みは、個人において意味を持つ。人類全体に対する新しさは、限度をわきまえた上で
求められるべきだ。私は新しさを用いることによって、特定の女性の愛を得ようとしたが、
愛は愛として扱われるのが本来だろう。世間的な成功によって、つながりを求めることは、もはや
時代遅れと言うべきだろう。
1
332 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/10/28(金) 08:05:55.89 0
>>321 >物事の理を悟り、適切に処理する能力
まず、悟ることが、大きな事、たとえば愛や死についての悟りを得ることが非常に難しい。頭でだけでは処理できない。
その点について、非常に大きな問題だと思う。解けぬ問題は、解きがたいから問題になるのであって、簡単には
行かないだろう。
笑いたいときに平静な気分で笑えるように。泣きたいときに感情のままに泣けるように。怒りは不条理に対して向けられるように。
哀しみは夕日に向かってたなびくように。名付けようのない感情が、心が、消えていくように。他人を恨まず、ひがまず、
他人を侮蔑したり、侮ったりしないように。すべての暴力的な気持ちが、優しさへと変化するように。
そんなこと、一番苦手なんだけど。
>>332 >まず、悟ることが、大きな事、たとえば愛や死についての悟りを得ることが非常に難しい。頭でだけでは処理できない。
難しくないよ、毎日人類全てが行っていること。
ただそれに誰も気がつかないだけな。単に思いが邪魔しているだけ。
それらは解釈にすぎないってことだ。
335 :
哲人:2011/10/28(金) 13:36:03.05 0
Absalomさん、
【智恵】「物事の理を悟り、適切に処理する能力。」
>まず、悟ることが、大きな事、たとえば愛や死についての悟りを得ることが非常に難しい。頭でだけでは処理できない。
愛や死に対する問題も、物事の理を悟ることで適切に処理する智恵を産みだせます。
順番の@が「物事の理を悟る」A番が「物事を適切に処理する智恵が産みだされる」そしてB番目に「問題を考える」
人類の誰もが同じく、@番とA番を抜かしてB番に取り組みます。
ですから、人類は問題を適当に処理しても適切に処理することはできないのです。
「物事の理を悟る」と言う物事とは全てを指しますので、
一度 物事の理を悟れば全ての問題に適応でき、生涯に渡り使うことができるのです。
336 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/10/28(金) 17:02:07.53 0
>>334 解釈にすぎない、というところが、私には難しすぎて、理解できません。
>>335 物事の理というのは、何種類くらいあるのでしょうか。また、それを悟る方法というのは、難しくないことなのでしょうか。
337 :
考える名無しさん:2011/10/28(金) 17:41:50.17 O
ニートから通信機器を取り上げれば
悟りの境地に辿り着く者も出てくる
338 :
第四の波平:2011/10/28(金) 17:51:56.03 O
最近悟りについて考えているが結局命というものは続くので
あってそれ以外でもそれ以下でもないことがわかった
東京から離れて静寂のなかで悟った
>解釈にすぎない、というところが、私には難しすぎて、理解できません。
理解するものではないものを理解しようとしたとき、誰もが難しすぎると思うでしょう。
原理はそれ以上分解して理解しても原理とそれが及ぼす関係には依存関係が
ないってことです。例えばコンピュータのトランジスタとプログラミング言語は
関係をもっているがプログラミング言語を理解するのに原理である命令語
よりも分解して理解しようとするのは愚にすぎません。
経済を学ぶのに貨幣の素材がどのように考えるなどまったく意味がないのです。
その悟りとは受け入れられるかの問題にすぎません。
悟りはその形而上の類を形而下に誘導する類でしかなく、形而上とは何かを正しく
理解できていないものに説明することは不可能であります。
物事には側面が複数あり同じものであっても捉える尺度によって形而上にでも
形而下にでもなりえます、悟りを理解するを説明するならば悟りという言葉を
使う説明などそれは説明ではありえません。
そして悟りは求めるものでも説明されるものでもなく、求めるものでも
すばらしいもの、正しいものでもありません。物事の捉え方の側面にすぎず
すべてが悟りであり、全てが悟りではないということです。
答えは簡単です、悟りなど完全に無視すればいいだけです。悟りに捉われ
それに依存した哲人がその愚の代表みたいなものです。彼のようになりたくないなら
悟りそのものをまったく考えないことをお勧めします。
物事には理解しないときに得られるものもあるのです。それも
貴方との関係として受け入れてください。貴方にはあなたの何かがあるはずです。
哲人の宗教的な表現に騙されないように。捉えられなくても世界は存在し、
貴方と共にあるわけです。歪んだ理屈で捉えれば取られるほど歪んだ説明が
永遠に繰り返される。哲人の過去の発言を全てみて整理すれば答えた見えてくるはず。
みんな性格がひねくれているから真実が見えないんだ。
341 :
第四の波平:2011/10/28(金) 18:09:19.73 O
>>340 まったくだね。ある種の人間はもっといろいろなこと簡単に
やってきたんだ。簡単にやってこなかった人間がいろいろ落としものを
している
本当いろいろな考えこね繰り返して馬鹿みたいだ
>>339 原理があって、それとの関係があって、原理は分解理解が不能なものである、と理解しました。
悟りという言葉の不思議さを、あなたなりに丁寧にとらえておられること、感動しました。
私には私の何かがある、という言葉に、非常に勇気づけられました。
まだ私の考えが固まるまでには至っていないので、まだ駄弁を相変わらず述べるかもしれませんが、
一つの考えの答えとして、受け入れたいと思います。
たとえば、輪廻転生が何のためにあるかというと、悟りに至るための考えと経験を積むためにある。
悟った存在は、輪廻から解脱する。
>>339 >すべてが悟りであり、全てが悟りではないということです。
そのとおり、悟りとか特別あつかいして説明するというのは
悟りが何か分からないからでしかないな。
盲目な奴に色の鮮やかさを説明するにも馬の耳に念仏、猫に小判だし
色の鮮やかさ、美しさとか感じてなんぼ、近くできないのに理解とかありえない。
感動を伝えたいなら感動させてあげればいいわけで、言葉で説明するとかアフォだろ
論理を極めようとした坊主などが極められずに脱力したとき
悟りがやってきた、いままでの努力、積み重ね、知識には何も意味がなかった
ことを悟った。
輪廻が各個人に与えられることを考えると、悟りとは伝達不可能なものである。
各個人が言葉を越えた経験や理解によって、到達するべきものである。
魔法や幽霊を科学技術(物理)で現すのはアフォ。空気よめていないだけ。
やっと、他者との関係の呪縛から逃れられたような気がする。自分は、自分を生きて良いのだと。なぜそんな呪縛が
生まれたか、と言うことについては、考えてみないといけない。
善意は他者の善意を起源として発生し、それは無限の波及を呼ぶ。しかし、他者起源である善は、伝言ゲームのように、
起源からねじ曲がってしまう。この世に猖獗する惑わし、妄想のたぐいがそれによって引き起こされる。つまり、善は
悪だ。
競争を成り立たせるのは、他者の承認という評価だ。承認ゲームをやめ自然に帰るべきだ。
人間は本来的に、他者に対して悪となる。その理由は、意味の完全な伝達が不可能だから。自己承認においても、
他者の枠組みの中でしか自分の意味づけができないことが、自己承認においては問題とされる。自己実現は、
他者を犠牲にして成り立つ。そこでは本来的に戦いが起きる。コミュニケーションの純化、スリム化、理想化が、
いかに考えられるかが、人間としての正しい道のあり方を決める。
人間はいかにして他者に対して善となれるか。意味自体は善も悪もなく、ただ単なる意味だ。生は善だ。
他者の生を助けること、つまり、労働や生育が善であろう。直接のふれあいが善を生まないことは、
よく考えれば明白なことだ。人間は善だけによって生きるのではなく、人生の浪費という悪を抱えている。
つまり、生育の過程に於ける、教育が、自己が生き延びるという、善かつ悪である考えを植え付ける。
>>352 意味は論理となり、最も妥当性の良いものだけを選ぶ。
もっとも?君は目の前のもっともすばらしいことと、遥か未来のすばらしいことが
完全に一致、等価であると思うのか?
いま最悪でも将来はすばらしくなる、いま最高でも将来は最悪になる。
で貴方はどちらが本当の最善なのか考えたことがあるのか?
いま最高ならばそれは不変であり永遠に続くのだろうか?
意味に合理性を求めたとき、言葉は目の前の見える答えだけを選んでしまう。
そして見えれば見えるほど「見えざる希望」は盲目になる。
見えないものを放棄しなければ見えるものは掴めない。選べない。
なぜなら選ぶとは片側よりもう片側を優先させるということだからだ。
君は意味を通し合理性の道を求めてしまった、それが君が選んだ答えである。
ならばその性質は将来も同じであり、見えざる何かは永遠に放棄するだろう。
354 :
考える名無しさん:2011/10/29(土) 06:26:57.13 O
自分の臆病な心を破壊した者は無限の自由を得る。
この世界が大好きだという者からは愛が溢れ出す。
愛が溢れ出す者は好き勝手やりたい放題すればするほど周りの人達を幸せにしていく。
理性や自制心なんてものは使う必要がなくなる。理性や自制心を使わなければならない者は、心の中に悪意や憎しみ、強欲、不満、嫉妬心などがあるからだ。
幸せとは何か? 今この目の前の現実が好きであるということ。満足しているということ。
常に目の前の現実、この世界が大好きだという者は至福の中に入る。
自分のことなどどうでもいいと思っている者は自分のことで悩むことはない。自分のことにこだわる者は自分のことで悩む。
金がなくても平気な者が金のことで悩むことはない。
死を恐れない者が明日のことを心配したりしない。
世の中がどうなろうが知ったこっちゃないという者は世の中がどうなろうが心をわずらわせることはない。
なるほどな。そうだろうな。臆病だから難しいけどな。
356 :
第四の波平:2011/10/29(土) 08:22:15.07 O
さて今日もきれいなに晴れ渡ってる。希望が涌きますね
357 :
考える名無しさん:2011/10/29(土) 09:30:19.97 O
五蘊皆空なりと照見して一切の苦厄を度したまふ
358 :
考える名無しさん:2011/10/29(土) 09:34:12.79 O
舎利子 色は空に異ならず空は色に異ならず 色是即ち空 空是即ち色 受想行識も亦亦斯くの如し
359 :
考える名無しさん:2011/10/29(土) 09:42:15.27 O
舎利子 是諸法は空想にして 生せず滅せず
360 :
考える名無しさん:2011/10/29(土) 09:46:15.66 O
垢つかず清からず 増さず減らず 是の故に空中には色もなく 受想行識もなく 眼耳鼻舌身意もなく
361 :
考える名無しさん:2011/10/29(土) 10:01:22.28 O
色声香味触法もなく 眼界もなく 乃至(ないし)無意識界もなく 無明もなく 亦無明を尽る(つくる)ところもなく 乃至老死もなく 亦老死を尽ることもなく
362 :
哲人:2011/10/29(土) 10:21:06.18 0
Absalomさん、
>物事の理というのは、何種類くらいあるのでしょうか。また、それを悟る方法というのは、難しくないことなのでしょうか。
物事の理は一つだけです。
そして、物事の理を悟る方法は簡単です。
但し、一つだけ条件が有ります。
それは、物事の理を望む目的が純粋で有ると言うことだけです。
363 :
哲人:2011/10/29(土) 12:29:03.98 0
物事の理は一つだけです。物事の理は一つだけです。
そして、物事の理を悟る方法は簡単です。そして、物事の理を悟る方法は簡単です。
但し、一つだけ条件が有ります。但し、一つだけ条件が有ります。
それは、物事の理を望む目的が純粋で有ると言うことだけです。それは、物事の理を望む目的が純粋で有ると言うことだけです。
364 :
哲人:2011/10/29(土) 14:41:12.46 0
物事の理は一つだけです。物事の理は一つだけです。
そして、物事の理を悟る方法は簡単です。そして、物事の理を悟る方法は簡単です。
但し、一つだけ条件が有ります。但し、一つだけ条件が有ります。
それは、物事の理を望む目的が純粋で有ると言うことだけです。それは、物事の理を望む目的が純粋で有ると言うことだけです。
365 :
哲人:2011/10/29(土) 14:41:23.51 0
物事の理は一つだけです。物事の理は一つだけです。
そして、物事の理を悟る方法は簡単です。そして、物事の理を悟る方法は簡単です。
但し、一つだけ条件が有ります。但し、一つだけ条件が有ります。
それは、物事の理を望む目的が純粋で有ると言うことだけです。それは、物事の理を望む目的が純粋で有ると言うことだけです。
366 :
哲人:2011/10/29(土) 16:15:40.90 0
物事の理は一つだけです。物事の理は一つだけです。
そして、物事の理を悟る方法は簡単です。そして、物事の理を悟る方法は簡単です。
但し、一つだけ条件が有ります。但し、一つだけ条件が有ります。
それは、物事の理を望む目的が純粋で有ると言うことだけです。それは、物事の理を望む目的が純粋で有ると言うことだけです。
367 :
考える名無しさん:2011/10/29(土) 16:46:20.21 0
すこし、ピントが外れますが、真言密教は、どうでしょう。
C点論から、新しい「世界」を見つけました。
HP「曼荼羅とC点論」を、参考にして下さい。
368 :
哲人:2011/10/29(土) 17:30:16.91 0
物事の理は一つだけです。物事の理は一つだけです。
そして、物事の理を悟る方法は簡単です。そして、物事の理を悟る方法は簡単です。
但し、一つだけ条件が有ります。但し、一つだけ条件が有ります。
それは、物事の理を望む目的が純粋で有ると言うことだけです。それは、物事の理を望む目的が純粋で有ると言うことだけです。
369 :
哲人:2011/10/29(土) 18:07:28.29 0
>>345 意味を作るのは人だからねえ。
意味が無いという意味を与えることもくだらないものに意味を付与するのも勝手。
苦集滅道もなく 亦智もなく亦得もなし 所得なきを以ての故に
菩提薩土垂般若波羅多に依るが故に 心にケイゲなし ケイゲ無きが故に 恐怖(くふ)有ることなし 一切の顛倒夢想を遠離して涅槃を究キョウす 三世の諸仏 般若波羅多に依るが故に アノクタラサンミャクサンボダイを得たまえり
う〜む。文字としては分かるんだよね。でも実感がね。難しいね。
>>369 お前の客観性がないのは日常だからどうでもいい
373 :
考える名無しさん:2011/10/30(日) 05:12:56.69 0
367つづき
HP「曼荼羅とC点論」。これは、科学でも、哲学でも、ありません。「矛盾」ギリギリを論じています。
科学的、哲学的、「思考」に変わり、宗教的「瞑想」が、「論」を進める手段であります。
真言密教は、ともかく、現在と言う「瞬間」は「0秒間」です。HP「C点論における矛盾と無限」を参考にして下さい。
これが理解出来ないと、総てが理解出来ない恐れがあります。よろしくお願いします。
374 :
考える名無しさん:2011/10/30(日) 05:25:01.28 0
367つづき
「C点論」はいろいろな問題を含んでいます。HP「C点による時空論」の関連サイトは、10本ほどのHPがあります。
ゆとりのあるお方は、検索して下さい。
私は、「色即是空」つまり「般若心経」の「無自性」は、認めないろんじゃです。
現象は、「空」の「仮」の存在ではなく、「実体」あるものと考えています。
このあたり、皆様はどうお考えでしょうか?
>>353 見えざるものを選び、期待すること、それは理想でしょう。現在より未来にかける。それには、相当の精神的強さ
と、健全さが必要とされるでしょう。僕も、見えざるものに対して盲目であるわけではない。ただ、今という概念を
獲得することが、精神的に健全であるからそうしている。そして、論理だけしか理解できないという頭の弱点
がある。非論理的なものの構築とか、記憶とかいったものには、到達できない。結局私は、論理的に拾ったものと、
そして精神病的苦痛から逃れることだけで、頭がいっぱいになってしまう。いずれ、また。
376 :
哲人:2011/10/30(日) 11:43:22.02 0
>>374 仕事の合間に読ませて戴いて居りますので、その後に感想を話します。
377 :
考える名無しさん:2011/10/30(日) 13:28:51.75 0
376さんへ
374です 是非とも、HP「曼荼羅とC点論」より、真言密教への試論を検討願います。
暴論かも知れませんが、科学的、哲学的、「思考」では無く、宗教的「瞑想」により、「矛盾」
と「無限」を、視座とするものです。難解? かもしれませんが。
老医師の試論です。
>>375 非論理は論理には絶対に勝てない、しかし論理が同等で選びようがない行き詰まった状況では
非論理こそ重要になる。なぜならば論理がどんなに優れようが完璧ではないということ。
その行き詰まった状況は日常的でもないし、安易に非論理に触れるのも異常なのは自明である。
だが非論理を常に否定しながら非論理になれるのは非日常がきたときの備えには重要でもある。
論理を簡単に否定するようなカルト宗教の類には触れないことである。
非論理を頭から否定(完全に)するのは論理を否定するのと等価である。
その非論理を繰り返し信じて見ないか?などと誘導するキチガイを冷静に相手にすることも意味がある。
>>378 非論理自体の理解と、それへの目配りを大切にしながらも、論理を究めることが大切であるということですね。
論理が人間を越えたものであるから、人間や自然には非論理も重要であるのだ、と思います。
論理の影が非論理である、と言ってしまえたら、楽なんですけどね。非論理への目配りを大切にします。
埴谷雄高の「非合理故に我信ず」という、魅力的な本もありますね。
380 :
哲人:2011/10/30(日) 17:07:38.34 0
真理とは自然を一気通貫する道理であって非論理とは人が悟りに至っていないだけのことです。
381 :
考える名無しさん:2011/10/30(日) 17:27:51.31 O
摩可般若波羅多心経はとても美しくよく矛盾なく清らかに
人の意識に入ってくる音だといわれますが日本語にして読んでも
とても美しくまさに蒼空の鮮やかな空が思い浮かびます
イメージとしては坂本龍一の「アンダークールド」がかなりあってる
と思います。凛とした空といった感じでしょうか?
>>379 論理をもって非論理を扱えない、これは自明である。認められない
馬鹿は論理と非論理が正反対の対極にあることの意味すら否定している。
非論理を論理で扱えない故に人は非論理を理解することは不可能に近い
論理性がない仕組みが存在することを論理的に拒否してしまっているからだ。
それはどんなことか?例えば偶然が重なり1つ1つはばらばらであっても
結果的に必然として1つの秩序が発生してしまうことである。
本来ありえないような秩序が自然界には稀に発生することがある、それは論理では
計ることはできない。なぜなら原因となる要素を特定し結果との関係を観測できない
からである、観測が不可能なものは科学技術では扱うことはできない、なぜなら
あるかどうかも不明で捉えることすらできないからである。自明である。
全てが論理で説明できると思いたいからこそ観測しえない物も観測したという偽りを
もって空想することから虚像が生まれ虚像と実像を組み合わせ人々を錯覚させるからこそ
そこに実態のない力が実態へ力を及びすというありえない現象が起こりえる。
例えばそれはオカルトやら宗教の類が呼ぶ現象である。間違った知覚をもってそれを
真実と信じてしまえば実効的に機能しえるということ。
つまり。非論理を論理で計ろうとするべからず。そこに生まれるのは虚像でしかない。
それを悟りだと説明するキチガイに触るべからず。
383 :
考える名無しさん:2011/10/30(日) 18:07:03.58 O
般若心経の「空」は人間の平生のすべてであり「空」≠「無」であり
必ずしも「空」は「無」ではありません。「空」は「有」でもあり「無」でもあります
植物は夢のような美しい花や果実を実らせますがみての通りこれらは「有」
であります。同じように人間の現実は「有」です。人との関係で
この人はこういうことを考えているとか私のことをこのように思って
いるといったことは「空想」ですが本当にその通りであることが「有」で
自分ひとりの取り越し苦労は「無」です。しかし「空」というのは
「無量」であり「有」はその都度実った果実のようにあるものなのです
ですが起こりうること起こってしまったことというのは「空」であり
「空」は次の段階を実らせます。ですから「空」は因果応報であり
次の段階があるということであとには「無」が残るのです
お釈迦様はこの因果応報のなかで「有」は「空想」であり「無」に帰する
だから今の心の持ちよう「方向性」が良ければ次の果実は甘いといっておられるのです
ですから心の作用一挙手一投足から「すべては許される」それこそが「空」である
といいます。すべての人間の現実は「空」なのです
世の中には知らないほうがいいこともあるんだよ。知るということは
それと関係をもつこと。
関係を一度もてば、相手にではなく貴方の中に関係が生まれてしまう。
避けても関係は意味だけで成立するものではない。
一度の関係で遥か異次元に思想ごと奪われたものも多い。
385 :
考える名無しさん:2011/10/30(日) 19:18:28.82 O
「地獄界」に堕ちた人間でもその何生も続く輪廻の輪は原理的には
その時に気づけば自分で断ちきることができるのです
「空」とはその時の心の作用が苦しみからの解脱を可能とするのです
すべての「苦」は「空」のなかにあります。しかし今が過去生にあるように
心が急に変わることはなくそれはやはり果実と同じ実るまでには
時間が掛かります苦しみからの解放も仏教では仏に帰依して
はじめてその方向に向かうのです。人間の業は深く奥底のマナスから
感情が沸き上がります。ですから自浄はその時にできるということはなく
やっと苦しみの連鎖から解放される長い旅の岐路に仏や如来の出現や
菩薩の願力や助けににより人はようやく立てるのです
苦しみからの解脱には「あと38億年」かかるわけです。しかし
それは今一瞬のことでもあり仏教には瞬間を表す時間と
とてつもなく長い時間とは対応しており苦しみはその時に新たに
無くなっているのです「不可思議如来光」
386 :
考える名無しさん:2011/10/30(日) 19:25:46.54 0
この世には、科学的、哲学的、「思考」のみでは解明出来ないこともあり、宗教的「瞑想」でしか解明できないものもある。
宗教を、科学的でない、非論理的であると、否定するのは容易い。
だが、それのみで良いのだろうか?
中国の故事に在るように、「総てを貫く矛で、全ての矛を防ぐ盾を突いたら」と言うナンセンス「矛盾」の原点に戻るが、現在と言う「瞬間」が「0秒間」である時、ギリギリのところで、「矛盾」が成立する。
現在と言う「瞬間」が「0秒間」であることを、再確認する必要があるのではないだろうか?
387 :
哲人:2011/10/30(日) 20:30:24.27 0
宗教の悪いところは言いくるめようとするところ。非論理的であるから受け入れるか否かをどう判断するかは勘のみ。
哲学板なんだから解明できないことがあることを論理的に証明するのがこの板でできるお前の役割。
388 :
考える名無しさん:2011/10/30(日) 22:36:34.18 0
哲学板で宗教を布教したい人って誰?
今北産業
389 :
ユーサイネイジア ダニエル・カール:2011/10/30(日) 22:48:17.78 0
怠けものだったら、友達を作れって言うけど
友達がいないのは勤勉なせいだと思われたくないから
390 :
考える名無しさん:2011/10/31(月) 03:09:35.34 0
解らない? 縁無き衆生はされ
哲人のHOMEPAGEは「心の仕組みドットコム」で検索すれば一発でみつかる。
392 :
考える名無しさん:2011/10/31(月) 03:19:57.14 0
この世には、「空間」のみ。
時間は、物質の「変化・非変化」、つまり、「持続・瞬間」の「同時同位置」存在と言う矛盾の「概念」でしか無い。
この矛盾は「0秒間」と言う「現在の瞬間」に、ギリギリ成立する。
「現在」は「0秒間」である。「瞑想」が必要。以上。
393 :
考える名無しさん:2011/10/31(月) 05:14:19.28 0
391さんへ
392のHPは、「C点による時空論」および関連サイト10本のHPが
あります。
仏教では、HP「C点による仏教的宇宙論」
C点論では、HP「C点論における矛盾と無限」
密教では、HP「曼荼羅とC点論」
に述べてあります。今後、効率よく議論するには、上記3本のHPを
お読みくださることを、お願いいたします。
394 :
哲人:2011/10/31(月) 05:46:50.84 0
>>387 再三、私の名前を騙って可笑しい書き込みをしないように。
宗教は例えであって、大事なのは自分の中にあるのに
哲学に関してもだけど、なんで言葉に重点を置いたりするのかね
396 :
哲人:2011/10/31(月) 07:10:43.30 0
>>393 結論から申しますと、
論理的な事柄を理論的に解き明かそうとするところに思考の歪みが生じています。
私が思うに、貴方の場合には簡単に悟りを開くことができるでしょうね。
397 :
哲人:2011/10/31(月) 09:11:15.65 0
>>395 文字や言葉は思考の表れ、だからですよ。
398 :
考える名無しさん:2011/10/31(月) 15:14:48.90 0
ピントが外れますが
お釈迦様は、華厳経の世界、「一即一切」や「一即多」は悟り、
般若心経の世界、「色即是空」は勿論悟ったと思われます。
しかし、顕教の人達の言う「法華経」や「涅槃経」は、お釈迦様を
慕う人達の「願望」ではないでしょうか。釈迦如来=大日如来とは考えられず、「人間釈迦」
と考えたらと、私は感じます。
是に対して、密教は空海の言う様に、大日如来は「宇宙の総て」であり「この世の微塵の総て」と
考えられると、私は感じます。
人間「釈迦如来」そして概念「大日如来」、と考えたい。
釈迦如来は、自らは「記録」を残しておりません。「生老病死」を悩み、出家した如来で、
深い「慈悲」を感じられますが、どうでしょうか。暴論ですが。
399 :
考える名無しさん:2011/10/31(月) 15:15:26.05 0
都合でいろいろ変化する哲人
400 :
哲人:2011/10/31(月) 16:32:42.31 0
問いが違えば答えも変わる
俺の体験談に過ぎないが、一番大切なのは悟りたいという強い気持ちを持つこと。
それだけでほんの少し悟りに近づける。これは真理。
402 :
哲人:2011/10/31(月) 17:19:47.13 0
一番大切なのは悟りたいという強い気持ちを持つこと。
それだけでほんの少し悟りに近づける。これは真理。
時間と共に問いの解釈を変更する哲人
404 :
第四の波平:2011/10/31(月) 18:43:28.81 O
心を何に例えよう鷹のようなこの心♪
聖徳宗の、恆受快楽は、ありがたいお言葉だな。
406 :
考える名無しさん:2011/10/31(月) 20:19:36.54 0
2ちゃんに書き込みなんかしていて悟るんだろうか?
407 :
哲人:2011/10/31(月) 20:23:18.87 0
>>396 事柄は理論的であって解き明かすのは論理的だとおもわれます。
揚げ足取りのようで申し訳ありませんが真理を説くことによってのみ名前を取り戻せると思った次第。
408 :
考える名無しさん:2011/10/31(月) 20:31:28.58 0
また悟った人がこんなとこに書き込むものなんだろうか?
409 :
哲人:2011/10/31(月) 20:39:09.80 0
悟りと電子掲示板の因果関係とな。
肉体と極めて乖離したイチゼロの連なりから個を超えた意識の集合として1から1000のレスが有機的な1スレッドとして悟りに近づくことはある
410 :
ユーサイネイジア ダニエル・カール:2011/10/31(月) 20:39:52.38 0
しっかり来るんだけど
ちゃんと配ってくれてるんだけど
俺への資料の配布って遅らせてない?
>>409 近づくのと悟るのとはかなり開きがあって
(質的な違い)電子掲示板は悟れないがゆえにどうも来ている人たちのような
印象を否めないが。
412 :
哲人:2011/10/31(月) 20:48:31.15 0
>>411 仮に言語によって悟りに近づくことができるする。
その前提において2chが悟りに近づくツールになる可能性を有する。
仮に言語によって悟りに近づくことができないとする。
その前提において2chが悟りに近づくツールになる可能性はない。
じゃ、言語のあるとこどこでも可能性はあるわけで
結局なにも言っていないのではないか?
まあ、テレビ見ててもいいわけだ。
哲人は自分の言語言説の質に自信がおありなのだろうが。
416 :
考える名無しさん:2011/10/31(月) 22:47:18.70 0
大体、考えを変えようとしても無理な訳で
哲学自体無駄な訳だ
自我を消し去りたい→死
とりあえず幸せになりたい→とりあえず勉強して、いい大学に入れ
この二択に尽きる
417 :
考える名無しさん:2011/10/31(月) 22:50:56.78 0
>>416 >自我を消し去りたい→死
どうして、こうなるのか論理的に説明してくれ。
418 :
哲人:2011/11/01(火) 02:57:38.06 0
>>415さん、
>>402>>407>>409>>412は偽哲人ですよ。
悟り、とは真理(ほんとうのこと。まことの道理。)を会得することを指します。
そして、真理を会得すれば人類社会の全てが明かされるところから、悟りを開くという言い回しが産まれました。
従って、悟りを開けば全てに対し真理を基礎とした正しい答えを導きだせるのです。
419 :
哲人:2011/11/01(火) 03:35:00.02 0
>>417 >自我を消し去りたい→死
とは成りませんが、訳もなく自我を消し去ることはできません。
人の心をコップに例えれば、コップの中の約八割が悟性から派生する自我で占められています。
残りの約二割が理性から派生する他我ですと言いたいのですが、その理性の殆どは悟性に支配され悟理性化しています。
従って、智恵の源である理性はコップの中の僅か2〜3lと言うことになります。
つまり、人が本当のことを知るパワーは心全体のパワーの2〜3lしか発揮できないと言うことになります。
これでは人生が楽しく有りませんので、悟りを開くことを人々に説いて歩いたのが紀元前500年前に誕生した釈迦です。
ところが、釈迦は・・・・
420 :
考える名無しさん:2011/11/01(火) 04:13:40.69 0
>418
>真理を会得すれば人類社会の全てが明かされる
その根拠は?
>>420 >真理を会得したい、人類社会の全てが明かす力だと信じている。
根拠は本人が自爆していますよ。
表現は心の鏡であります。ねぇ心の仕組みさん
ドットコムて誰?
>>419 >悟性から派生する自我
へー、悟性から自我が派生するんだ。
自我なくても悟性はあるんだね。
他者は、区別されずに全体としてとらえられることもある。有限な私と、無限の他者。死が怖いのは、生の無限性
が感じられるからだろう。しかし、他者を、無限定な有として見るのでなく、限られた生しか持たない不完全なもの
であり、私もその一人であると考えた場合、無限定な有という惑わしから、死を受容できるようになる。生と死は
隣り合わせである。表裏である。
425 :
哲人:2011/11/02(水) 12:07:31.04 0
>>423 >へー、悟性から自我が派生するんだ。
>自我なくても悟性はあるんだね。
君は、なかなか良いよ。
人類社会を構成する悟性と欲望、そして自我との相互関係ですね。
人は幼少の頃より社会の総体的自我で育てられます。
この時点では「社会の総体的自我」で有り、本人の自我とは別ものの自我ですね。
「社会の総体的自我」で育てられた幼子は必ず自他を別ものとする悟性に捉えられます。
誰もが「社会の総体的自我」の影響を受け必然の如く悟ってしまう性質を持つ心を悟性と名付けたのです。
自他を別ものとする悟性の特質として、人は自己保身に走り、欲望に捉えられて生涯に渡り自我の連鎖の中を彷徨い続けます。
そして、新しい命に「社会の総体的自我」を植え付け己の命を閉じるのです。
自我を〔仏〕では【煩悩】と称し「衆生(しゅじょう)の心身をわずらし悩ませる一切の妄念。」と大変に巧い表現で収めていますね。
426 :
考える名無しさん:2011/11/02(水) 12:10:33.89 0
>533
533さん回答ありがとう。自分も論理学は論戦で役に立つと思う。
自分の場合、論理学を学び始めた理由は、論理的な文章を書けるようになりたいから。
論理的な文章を書けるようになりたい理由は、文章を書くのが下手だから。
しかし学んでいくうちに、論理学は物事を整理するために存在すると感じるようになった。
そう考えると、自分のおかれた状況において論理学を幅広く役立てることができると思う。
427 :
考える名無しさん:2011/11/02(水) 12:11:39.98 0
ありゃ。レスするスレッド間違った。これは失礼
428 :
哲人:2011/11/02(水) 12:17:03.38 0
>>424 死が怖いのは、限りある命の使い方を知らないからですよ。
429 :
考える名無しさん:2011/11/02(水) 14:12:04.71 O
死が怖いのは自分の命を大切だと思っているからだ。
自分が大切にしているもの(例えば家族とか車や金など)を失うのが嫌だというのと同じことだ。
金や物だけじゃない、自分のこだわりや信念も同じだ。
意見が自分と違っているというだけで相手を否定し、必死になって自己主張するのは、意見や考え方が違うというだけで自分が否定されたと思っているからだ。そしてこれが自我だ。
みんなが同じ考え方なんてつまらないだろ。スレももりがらない。
何も愛さないから何も憎まない。
大事なものがないから大事でないものもない。
何も尊ばないから何も蔑まない。
二元的な物事の見方や考え方をやめれば客観視しているということ。軽く真理を認識している。
ある物体を見て、それを亀だと判断するとき、亀と亀でないものとの違いを見ている。亀と亀でないものを分け隔てている。その物体に亀というレッテルを張り付けている。
動きを見て、歩いていると判断するとき、「歩く」とそれ以外の動きの間に差をつけて見ている。
何の判断もせず、差をつけず、何一つ分別しなければ、全一(全てとは一なり)、真理の認識者だ。
>>429 禅の境地が、全一、分節されざる、未発の意識であるという。分節は言葉と認識が絡み合って起こるが、
何も言う必要が無く、安心でいられること、それが真理というものの与えてくれる安心感だと思います。
何も変える必要のない自分(世界?)を持ちたいと思っています。
欲しかった、変わらない自分の心。コロコロと物事の認識が変わるから、僕は何一つ作り出せない。
未来の予想が立たない。ただ不安で。メガネに感謝を。
432 :
考える名無しさん:2011/11/02(水) 15:10:37.43 O
そうだね、ありのままでいい。でも、ありのままを意識するとありのままの自分を演じてしまう。
「自己を知るとは、自己を忘るることなり」道元
悟りは心身一体、本心と行動が常に一体、心のおもむくままだ。
そして、あるがままの現実を肯定した時、ありのままの自分とあるがままの現実がピッタリと一致する。
真理を言葉にすると真理は壊れる。言葉は真理から人間を切り離す。
他人を他人として認識できることから、他人にはアイデンティティがある。自分とは違った個という存在だ。
一方、私自身を省みると、自分は無限定に広がっていくような不安感がある。自分が自分であるという
アイデンティティを、自分に対して確立することが大切だと思う。
自己に対するアイデンティティとは、変わらない自己であり、信じられる自分の部分だ。
435 :
哲人:2011/11/02(水) 18:05:35.76 0
. , ⌒ '⌒ヽ
/ .::::::::::::::::::::::.、
. /.::::::::::::/ヽ:::::::::.、
ー=彡:::::::::::/ __ _\::::::≧ 欲しかった、変わらない自分の心。
ー=≦:::::rv' (dd |::::ニ=- コロコロと物事の認識が変わるから、僕は何一つ作り出せない。
ー=ニ::::::::ト _′ |辷シ 未来の予想が立たない。
. ´⌒八 ` / `ヽ. ただ不安で。
/\ _ ヘ ハ メガネに感謝を。
. ´ \ | |i
. / ヽ | || _
/ ヽ | || ((__))
/ 、 ー' 「| |: : : : :|
. /\ }/ L!_ __l : : : n
. \ / | / フYYリノ
>イ | __ -┴'′
\ | 「
. \ \ |
. 丶、 \ |
`ゝ ヽ ∠|
. L〕j i l | _ -=ニニ|
|`ー'|ノイ-―=ニニニニニ|
移り行くもの、揺蕩うもの、計らずに計れないもの、計ると壊れるもの
真理とはそういうもの。
無数の側面がある顔の1つを捉えたとしてそれが真理だとか間抜けそのもの
不変の生命、不死の命を得たとして、それが命であるわけがないだろ。
命は常に生きること、生きることは常に生まれてゆく営みの有り様。
元の状態は状況によって変化することで最後には元の真理は消滅し死(止)
を迎える。不死は死と同じだってことだ。
すべてに諾を言おうとするなら、それは、自分に対して諾を言うことと等価だ。世にある憎しみは、他者にもたらされる
不条理と、自分に対する不満ですべて言い表されるだろう。神の存在を信じると言うことは、神と自分に文句を言わない
ということだろう。神は他者であり、自己であり、その両者を含むものだ。つまり、Allだ。
キリスト教的神様は雲の上で人間を監視する存在であり、きっちりと区別されています。
そんなに漠然とした勝手に定義された神を使うのは非常に誤解を招きやすいので
悟りは仏教から生まれた概念ですし、神などと言わずに全てといえば良いのではないでしょうか。
つまり、Allだ。
>>438 キリスト教が、神の存在を解明した形で伝わっているとは思わない。私の体験から、神の存在を
自分で考えたもので、その外にある神の姿はあまりよく知らない。きっちりとした区別をすることは、
日常を過ごすためにあるような気がする。真の救いを求めているのだが、それはかなりの程度
与えられた。どんな妄想も書き残すに足る。それが一つのそしてあらゆる歴史だからだ。
>>439 キリスト教は神をそう、定義したというだけで別にアブさんが神は全てだと定義しても構いません。
むしろいろいろな解釈の余地を残す、もしくは感情的な琴線に触れやすい神という言葉を用いるあなたのその性格の中2具合に苦言を呈したのです。
>>440 中2具合か。永遠の14才ってことでOK?(すまん
442 :
考える名無しさん:2011/11/02(水) 20:55:29.67 O
アブさん
夜、布団の中に入った時、自分のことなどどうでもいい、世の中のことなどどうでもいい、全てどうでもいい、と頭の中で唱えてみればいい。
同時に体の力を抜きながら、腹からため息を吐くんだ。すると、肩や首・全身の力が抜け、安らぎがやってくる。
何日か続けていくと自意識は薄れていき、中論に近づいていく。
自分の劣等感なんてのは、自分自身の差別心だ。
自分の頭が悪いと悩んでいる者は賢愚の差別心を持っている。頭が悪くても自分が大好きと思える時、その差別は消える。
逆に差別心を消せば、劣等感も消える。
コロコロと変わる心、俺は素晴らしいと思う。
中国から修行を終え日本に帰ってきた道元に「お前は何を学んできたんだ」と問うと「私が学んだのは柔軟心だけです。それ以外は何も学ばなかった」と答えたそうだ。
一は全、全は一。そんだけな。
>>425 >人は幼少の頃より社会の総体的自我で育てられます。
へー、人は幼少時は社会の総体的自我で育てられるんだ。
あんた、子供いないでしょ。
総体的自我は駄目な親側の問題では?
445 :
[―{}@{}@{}-] 蝙蝠 ◆MinorKeyQs :2011/11/03(木) 06:31:43.29 P
何をしていようが悟るときは悟るんじゃ
悟るのは超難関試験に合格するようなもの。
少なくとも国連英検の特A級より難しい。
NASAの宇宙飛行士資格、中国の科挙よりも困難と思われる。
なるほど。そーゆーことは超難関試験に受かってか良い魔性ね。
448 :
考える名無しさん:2011/11/03(木) 08:34:04.75 0
キリスト教の「神」は 良く分かりませんが 「総てを支配」する神と 言われると
単純に 否定出来ない 気がする
なぜなら 「有神論」も「無神論」も その神は 総て支配するからである
釈迦如来も 大日如来も 総ての仏教を 支配できることに成る
キリスト教の「神」も 勿論 支配下になる
このような 「全知全能」がおられる?
全てでいいだろ、だから。
支配とかそういう生臭い感情を表に出すなよ。
仏教でなんで神を出してくるかね。
そういう3大宗教に適当に調味料振ふったようなのをカルトっていうんだよ。
450 :
哲人:2011/11/03(木) 15:31:14.09 0
>>444 >総体的自我は駄目な親側の問題では?
総体的自我とは、人類のほぼ全体が捉えられている自我のことです。
451 :
哲人:2011/11/03(木) 15:50:42.10 0
>>448 >「総てを支配」する神とは、総ての人々の心に潜み在る摂理を指します。
一般的に、摂理とは自然界を支配する理法と思われていますが、人も自然の一部ですので
人の心の中にも「すべてをおさめること」のできる【摂理】が有るのです。
このことに気付くには、己の心を悟性に委ねるのではなく、理性に主導権を持たせ知能を
育てなければなければ成りません。
452 :
考える名無しさん:2011/11/03(木) 16:04:43.38 0
たしかに そのような「全知全能」を名乗る「団体」がいれば
「カルト」だ
「支配」は別としても 「決定論」だ 「自由」が無い
だが 歴史は「只一つ」だ 後から 書き換えは出来ない 「自由」が無い
仏教は 因縁による決定論では?
453 :
考える名無しさん:2011/11/03(木) 16:19:56.55 0
日本の「神仏」には 全知全能の「大物」は 確かに居ない
454 :
考える名無しさん:2011/11/03(木) 16:22:24.16 0
日本の「神仏」には 全知全能の「大物」は 確かに居ない
その方が、「となりの神様」みたいな感じで親近感あるけどな。
現代人は感じる力が弱まってる気がするけど。
それは内に対しても外に対しても言えることで、例えば
宇宙や地球の意志と通じ合える人は少ないし、自分の細胞と通じ合える人も少ない。
まずは万物のアニマに対して、感謝する気持ちが大事なんじゃないかと思う。
456 :
蝙蝠 ◆MinorKeyQs :2011/11/03(木) 16:50:01.03 P
自分一人が悟るだけなら難関でもなんでもない
問題なのは悟った後に何をするかだから
457 :
第四の波平:2011/11/03(木) 17:16:11.47 O
冬の枯れ草を見てると多く人が死んでいるんだというセンチとは
違う死生観が湧いてきますね。春にはすっかり忘れてしまいますがね
458 :
第四の波平:2011/11/03(木) 18:01:40.99 O
僕にとっての未来というのは昔から同じでした
ある地点に目的地ができます。しかしそこに
ずっとたどり着かないのです。自分では進んでいるつもり
なのですが目的地はスライドしていきます。それはある種の運命
なのですがそれをどうにか人に教えてもらおうとするのですが
目的地は言葉にすると屈折して出るばかりでからっ空なのです
このまま歳をとりました。100年の孤独なのでしょうか?
459 :
考える名無しさん:2011/11/03(木) 18:11:13.72 0
カルトな折入は、口ばかり達者であった
460 :
考える名無しさん:2011/11/03(木) 18:58:58.72 O
>>458 今日という日は贈り物、インディアンは明日のためにと今日という日を犠牲にしたりはしない。
人々は皆、明日のためにと今日を我慢して生きている。明日になればさらにそのまた明日のためにとその日を犠牲にする。その次の日も次の日も。永遠に来ることのないその日のためにと。
ニーチェはこう言う。「昨日のことを思い出すこともなければ、明日のことを考えることもない。」
このスレでは答えは決まっている。「今、ここに生きる」だな。
あちら側に立った人にすれば、こちら側の人の事など本当はどうでもいい、
興味の対象にすらなり得ない。
なんか同じところでぐるぐる回って、莫迦みたいにああでもない、
こうでもないともがき苦しんでいるように見えるのだろう。
養老孟司氏はその圧倒的認識の差を「莫迦の壁」として表現している。
それでも釈迦が悟りを説いたのは、慈悲心つまり完全なボランティア。
釈迦族が滅亡したのはこちら側の価値観でみると一見悲劇のように見えるが、
彼らにすれば全員が悟りに到達して、もはやこの世界に一族を存続させる必要もなかったわけで。
よーするに、釈迦が最後にいいたかったのは、
「みんなで悟っちゃえば、いいじゃん。はやくこっちにきなよ。」てなわけで。
462 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/11/03(木) 19:58:25.53 0
>>442 差別心と劣等感の関係を鋭くとらえておられますね。
子供の頃など、その二つの両輪に駆られて、果てしなく真実から遠い所に行ってしまったものだ。
地獄にいるのかと、錯覚したほどだ。
>>450 >総体的自我とは、人類のほぼ全体が捉えられている自我のことです。
幼少時は人より上位の位階の存在の導きと3歳ぐらいからうっすら目覚めてくる自我の二つの力が並存してますが、あなたの言う総体的自我、が何をさしているのか定かではない。
また、悟性が目覚めるのも、上位の位階の存在が原因ではなく、子どもの自我の芽生えが原因だと思われ。
上位の位階の存在に導かれている幼児はむしろ、夢の中にいる。
464 :
哲人:2011/11/04(金) 08:31:58.67 0
>>452 >たしかに そのような「全知全能」を名乗る「団体」がいれば
>「カルト」だ
自分が、知りたいと望むことの総てを知る脳のはたらきは誰もが生まれつき備え持っています。
ですが人類社会には、その脳の発育を妨げるはたらきが有り、
その為に人類の殆ど総てに近い人々が何も知らずに人生を終えるのです。
人は己の思惟の届かぬ話を宗教だとか、気が狂っている等と揶揄し、
思考から逃れようとしますが人類の財産である言葉の語義がこのことの事実を証明しているのです。
私の言葉を疑うのでしたら、論理的な言葉の語義を辞書で見て、
その語義が理解できるのかを考えて下さい。
理 真理 道理 知・智 知る 知識 知能 智恵 などです。
>人類社会には、その脳の発育を妨げるはたらきがあり
とは何ぞや
466 :
哲人:2011/11/04(金) 09:09:14.70 0
>>463 >幼少時は人より上位の位階の存在の導きと3歳ぐらいからうっすら目覚めてくる自我の二つの力が並存してますが、
>あなたの言う総体的自我、が何をさしているのか定かではない。
>また、悟性が目覚めるのも、上位の位階の存在が原因ではなく、子どもの自我の芽生えが原因だと思われ。
>上位の位階の存在に導かれている幼児はむしろ、夢の中にいる。
総ては生を受けて外部から与えられる影響ですので、理性も悟性も自然に育つものは何一つありません。
つまり、自我も他我も総て産まれ育つ段階に於いて受けた影響の結果です。
最近では、三歳ぐらいでその子の精神が確定するから胎児教育が大切だ等と言われています。
>>466 >総ては生を受けて外部から与えられる影響です
おいおいw
>最近では、三歳ぐらいでその子の精神が確定するから
おいおいおいw
うん。哲人がんばれ。応援してるw
468 :
考える名無しさん:2011/11/04(金) 12:05:35.57 0
総てが外部からの影響というわけではないな。同じような環境で育った兄弟でも正反対の性格の場合はよくあるからな。
最近では生来の素質と外部からの影響がどちらも影響していると考えるのが一般的。
469 :
考える名無しさん:2011/11/04(金) 15:58:06.78 0
歴史は一つ その一つを 導く 有神論
その一つは 自然の摂理による 無神論
それぞれ総てのケースに 言える
この世界に対して働きかけができて、変革できるということが、倫理の核であり、弱点だ。
可能性が差別を生む。差別することが、可能性を生かす道だ。権力などの実体だ。
悟りって本当に簡単なことだよ。誰でもすぐに悟れるのに。遠回りしてると悟らずに人生が終わるよ。
今日の結論:主観性と客観性の一致が悟りの考えである
つまり、自と他の区別以外の区別をもうけないこと、すべての人の共通部分をすべてとらえて、その人の個性も
受け入れること、そういった、慈悲の心を持つことが、釈迦の至った悟りではないかと考える。
釈迦は、哲学をしたわけではなく、倫理的な問題を新しく発見して、そのために仏陀となったのではないか。
自と他の区別以外の区別をもうけないためには、他の序列に対する考えが大切だ。時間的順序がまず先に来る。
そのあとで、自分の中での序列を設ける。それが、自分に対して嘘でなく、対他においては平等になるように、
と言う順序で価値を決めていけばいいのではないか。
文や思考において、474の序列が確かだ。つまり、自分に分かることが第一で、他人に対する配慮が第二に来る。
日本語でおk
>>476の文は、自らの意見、つまり文が理解できないということをまず表し、他人に分からないと言うことを表明するのが
第二に来る。それが顕れているのが、日本語、とおkという言葉においてだ。日本語は自分に分かるものである、
おkというのは分かりにくい。その二つの結合を選んだ時点で、他者と自分に対する態度が明らかにされている。
倫理の大元は、知ることだ。嘘をつくことは他人に対してのみ可能。赤子の特別さは、自分を理解せず、他人を理解できる
という、あり得ない状態があるからだ。
倫理の大元、二つ。
1、自分を他人に押しつけること(暴力)の否定。
2、他人を騙すことの否定
この二つは、生命が第一に大事であること、生きていくことが第二に大事であること、を映している。
480 :
哲人:2011/11/04(金) 21:32:16.31 0
「主観性と客観性の一致」が「自と他の区別以外の区別をもうけないこと」であるとするには論理の飛躍がある。間をつなぐ論理がない。
そもそも「主観性と客観性の一致」という結論のすぐ後に「自と他の区別以外の区別をもうけないこと」という言い換えをするなら初めから後者を述べると良い。
「〜釈迦の至った悟りではないかと考える」はなぜそう考えたか、根拠がない。
哲学は倫理を内包する学問である。
「時間的順序」と「自分の中での序列」は前者が単なる後先の順序(後と先に優劣はない)なのに対して後者が価値の順序であって同じ「序列」でくくることは適切でない。
倫理の大元はどれなのか。「知ること」、「1、自分を他人に押しつけること(暴力)の否定。
2、他人を騙すことの否定」、「生命が第一に大事であること、生きていくことが第二に大事であること」
せっかくコテハンつけて連投してくれるなら簡潔に論理的に言葉を紡ぐことでわかりやすくなると思います。
481 :
考える名無しさん:2011/11/05(土) 05:04:51.63 0
釈迦如来の「悟り」の原点について、
私は、如来は「実在」の「歴史上の人物」と 考えたい
「法華経」の説く 「無限に近い過去より、無限に遙かな未来」に実在する「仏」とは、考えにくく、如来は生きた「人間」であると考えたい。
如来を、概念の「仏」にしたいのは、如来を慕う人たちの「願望」では、無いだろうか?
この願望から、「法華経」は生まれたと、考えられないだろうか?
「涅槃経」についても、同様では無いだろうか?
生老病死に「悩み」、出家した「人間釈迦」に、深い「慈悲」を感ずるが。如来は、歴史上の「人物」で、「生まれ、そして、死んだ」。これで、よいのではないか?
>>481 そうおもっていればいいじゃないか。それ以上を?
484 :
考える名無しさん:2011/11/05(土) 05:18:46.42 0
481つづき
まず訂正します 「無限に近い過去」は誤り、「無限に遠い過去」です。
如来は、華厳経の「一即一切」や「一即多」は悟り、また般若心経の「色即是空」は、勿論悟ったと思われます。
如来自身は、「記録」を残しませんので、いろいろと「疑問」がうまれます。
485 :
考える名無しさん:2011/11/05(土) 05:26:16.95 0
481つづき
ここで、「密教」と「顕教」の議論をするつもりは、ありません。
ただ、「禅」の人達は、どう考えるのでしょうか?
ご意見を聞きたく存じます。
「禅」を言葉として理解したとき、貴方は禅が何かの関係を
全て否定している。そういうことです。
関係を結びたいなら理解しないことです。
無限に遠い過去とは、関係を考慮しなくても
そこに矛盾は発生しないと切り捨てる考え方です。
貴方は単に理解してはいけないことを理解しようとしている、
誰かが幽霊を科学技術で実現したらそれは貴方にとって幽霊なのかを問いたい。
488 :
哲人:2011/11/05(土) 07:11:44.28 0
>>468 >総てが外部からの影響というわけではないな。同じような環境で育った兄弟でも正反対の性格の場合はよくあるからな。
同じような環境で育った兄弟に見えても、親として兄に対する対応と弟に対する対応に差があります。
そして、観るテレビも違えば外部の人たちの接触も全て異なっています。
従って、同じような環境で育った兄弟だと思う、思い込みに過ぎません。
>最近では生来の素質と外部からの影響がどちらも影響していると考えるのが一般的。
生来の素質とは、受け継いだ遺伝子のことだと思いますが遺伝子は肉体的なものの受け渡しであり、精神的な事柄は一切含まれていません。
つまり、性善説や性悪説は思い込みにすぎない、と言うことです。
生を受けた段階に於いては、人の心は純白な白紙状態ですので、そこに筆を加えるのが親や社会と言う外部からの影響です。
従って、全ての人々の今は過去から受けた総ての影響の結晶だといえるのです。
また、その結晶は次に受ける影響に依り、分単位・秒単位で変体を繰り返すのです。
489 :
第四の波平:2011/11/05(土) 08:04:58.52 O
悟りなんてねえ!
あるのは生まれて死ぬという事実だけだ!!
490 :
哲人:2011/11/05(土) 08:54:51.34 0
>>465 人類社会には、その脳の発育を妨げるはたらきがあり
>とは何ぞや
人の心は理非と言う二つの心で賄われています。
理非を分かりやすい言葉に変えると、正誤となります。
それを更に分かりやすく言えば、正しいと正しいを否定する誤りの二つの心で組まれていると言うことです。
この理非の何れか大きいほう・力の強いほうが相手を支配します。
理は理性・非は人類社会の影響を受け自然的に悟ってしまうことから悟性と呼ばれています。
そこで、お尋ねの答えですが人類社会は悟性から派生する総体的自我に依って賄われていますので、
知能の発育に欠かせない理性のはたらきは乏しく、人類は知能を育てることができないのです。
余談ですが、だから人類は争いを止めることも飢餓や犯罪をなくすこともできないのです。
科学などの理論上では進歩をしても、論理的(思考の法則)には三千年前よりも退化しているのですね。
491 :
考える名無しさん:2011/11/05(土) 09:41:30.96 O
生来の素質とは、受け継いだ遺伝子のことだと思いますが遺伝子は肉体的なものの受け渡しであり、精神的な事柄は一切含まれていません。
つまり、性善説や性悪説は思い込みにすぎない、と言うことです。
生を受けた段階に於いては、人の心は純白な白紙状態ですので、そこに筆を加えるのが親や社会と言う外部からの影響です。
従って、全ての人々の今は過去から受けた総ての影響の結晶だといえるのです。
また、その結晶は次に受ける影響に依り、分単位・秒単位で変体を繰り返すのです。
それだと、悟りというものはないということになるな。
悟りは覚醒とも言われる。何が覚醒する?、真我・プラフマン・アートマン・仏性などと呼ばれているものが目覚めるということだ。
人類がまだ野生時代だった頃、自然の中で生きるには体力も弱く、逃げ足も遅い、そんな彼らが生き抜いたのは仲間を救けようとする本能があったからだ。鈴木大拙はいう。愛は本能だと。
誰かが悲しいミジメな思いをしていると自分のことのように悲しくなったりする。手を差し伸べその人が救われた時、自分が助かったかのように安心する。
人が喜べば自分が嬉しいのだ。
これが、本当の善だ。
理知による善行はただの偽善だ。
人間の本性が外部からの影響によるものだけならば、プログラム通りに動くロボットに過ぎない。
全ての生物はちゃんと自分の生き方を知っている。動物も植物も微生物でさえも。人間だけが知らないなんてことはあるまい。
492 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/11/05(土) 09:45:48.58 0
>>480 自分で書いててヤバイと思ったところにつっこみがきましたね。
まず、主観性と客観性の一致が、自と他の区別以外の区別をもうけないことを可能にする、と言う意味で、また、釈迦の悟り、と考える
という語は、そういう仮定を自分は使う、という宣言みたいなものです。
時間的順序、と、自分の中での順序、の二つには、関連性があるということを言いたかったので、適切な表現を
見つけられない憾みはあるものの、という感じです。
大元については、考えの発展によって、二つのレスが並んだので分かりにくいですが、すべてが大元です。等価で結ばれ
ます。
言葉を重ねれば重ねるほどに理解が遠のく。
494 :
考える名無しさん:2011/11/05(土) 12:38:20.25 O
美を好む者は醜を嫌う。
賢を尊ぶ者は愚を蔑む。
富に集中する者は貧を怖れる。
理を愛するから筋の通らない者を憎む。
正しさを大事にするから誤りを許さない。
美を好まないから醜を嫌ったりしない。
賢を尊ばないから愚を蔑まない。
富などに執着がないから貧を怖れない。
理や正しさにこだわりがないから誤りを許す。
495 :
考える名無しさん:2011/11/05(土) 12:40:49.37 O
あ、ゴメン。
>>494 三行目、富に執着する者は貧を怖れる
496 :
考える名無しさん:2011/11/05(土) 13:44:36.69 O
許すというのは対象に何の不満がないということだ。
本当は心の中に不満があるのに、自分が我慢して相手を許すというのは、許した振りをしているということだ。
497 :
考える名無しさん:2011/11/05(土) 13:45:39.00 0
つましく こころ豊かに
つましく こころ豊かに
念仏↑
思無邪、慈悲大菩薩、人間一生、不可思議太陽光、環境大人、浄土、安楽
500 :
考える名無しさん:2011/11/05(土) 16:28:26.67 0
カー 死ね
501 :
第四の波平:2011/11/05(土) 17:16:17.13 O
夏がくれば思い出す
遥かな尾瀬 遠い空
霧のなかに うかびくる
やさしい影 野の小径
水芭蕉の花が咲いてる
夢みて咲いてる水のほとり♪
悟りなどない!
幸福を求める権利は、すべての人にある。何が幸福かということは、個人に依るし、普遍的なものもある。
いたずらや憎しみ、差別がすべてなくなって欲しい。
>哲人さん
集合的無意識というものが存在します。たとえば、テレビが情報を伝える。悪い情報があってもいいけど、無い情報
は、どこをどう引っ張っても無い。それが存在するようになることが、蒙昧から脱却することでしょう。
>>488 環境という言葉使いの意味の差だろうね。468も488もその意味の差が差を生んでいるだけで意見自体はなかなかいい。
素質に関しては、受け継ぐのは肉体的なものであり精神的なものは含まれないという考察はなかなかいい。
ただ、その肉体的な差が正にその人への周囲の対応や評価、つまり干渉を形成するのであり、また本人自身の他との差異の根源でもあるわけだ。
だから、それを素質というのは妥当だろう。1.8mの長身が1.5mの短身よりバスケの素質に恵まれているのはしかたがない。
>誰かが悲しいミジメな思いをしていると自分のことのように悲しくなったりする。手を差し伸べその人が救われた時、自分が助かったかのように安心する。
>人が喜べば自分が嬉しいのだ。
>これが、本当の善だ。
他人が喜んでじぶんが嬉しいのは、自分の経験を再現しているからでしょう。逆にいえば、自分の経験してない喜びのプロセスで相手が喜んでも自分は喜べない。
たとえば、相手を傷つけたと思ったのに相手がうれしがったとき、自分もうれしがるでしょうか?
つまり、そういうのが本当の善だというのなら、善とは本能ではないということになりますね。
>理知による善行はただの偽善だ。
たしかに、善悪に関しては、理知の存在意義は実に曖昧ですね。上の話のつづきでいえば、体験こそが善の基盤であるということですから。
506 :
考える名無しさん:2011/11/05(土) 19:50:59.23 0
人間の心には、二面性がある。
誰かが悲しんでも、「同情」もすれば、「軽蔑」もする。
誰かが成功で喜んでも、「尊敬」もすれば、「嫉妬」もする。
人間、単純には、割り切れない。
507 :
考える名無しさん:2011/11/05(土) 20:18:58.17 0
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508 :
考える名無しさん:2011/11/05(土) 20:37:02.59 O
他人が喜んでじぶんが嬉しいのは、自分の経験を再現しているからでしょう。逆にいえば、自分の経験してない喜びのプロセスで相手が喜んでも自分は喜べない。
ほぼその通りだ。自分の経験と相手の経験というか、例えば、好きな女の子がいるとする。その人を幸せにしたいだろ、その人が喜べばうれしくないか?
子供がいるとして、我が子が幸せならうれしいはずだ。もし、不幸なら悲しむだろう。
友人に当時三歳の娘がいた。(今は小学生)
友人の家でビールを飲んでいるとその娘が自分の持っていたお菓子を僕の口の中に突っ込んできた。僕が喜ぶとその娘はキャッキャと笑って次々お菓子を僕の口の中に突っ込んでその娘のお菓子は全部僕の腹におさまった。
こういった能力は最初から備わっている。もしなければ個々バラバラだ。
勿論、相手が喜ぶものと自分が喜ぶものは違う。僕はいつも地味な服を着ている。昔の彼女はちょっと派手な服をプレゼントしてくれる。結構困る。でも彼女は僕に喜んで欲しくてやっている。
509 :
シャイア・ラブーフ:2011/11/06(日) 01:06:06.07 0
噛むとフニャフニャの
鼻を使わない言語を喋ってる人は小倉優子かと思ったら佐々木 希だったんだね
押し付けがましくてすぐに争う割りに
結構、最後はどうでも良くって詰めが甘いキャラは
最後まで甘い人になれるよね
510 :
考える名無しさん:2011/11/06(日) 01:07:54.74 0
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人を小馬鹿にしたような絵いつもうまいね。(笑)
512 :
シャイア・ラブーフ:2011/11/06(日) 01:35:26.35 0
道を通る所でいつも気を付けてることあるよ
俺の論文はこの道を歩くのと一緒だ
論文は腕じゃない 腕を見せないように体の内側に入れるようにしよう
論文は頭じゃない 頭を良く見せようとせず、頭の力を抜こう
足元をしっかり見てだ
君 これだよ この境地だよ
513 :
哲人:2011/11/06(日) 06:12:16.64 0
>>491 >それだと、悟りというものはないということになるな。
人生に於いて、悟るための影響が加えられれば誰でも悟ることができる、と言う論理が成り立ちますね。
>悟りは覚醒とも言われる。何が覚醒する?、真我・プラフマン・アートマン・仏性などと呼ばれているものが目覚めるということだ。
悟りとは、真理を会得することを指しますが、真理とはほんとうのこと、またまことの道理のことです。
つまり、悟りとは「ほんとうのこと・まことの道理」に気付く・感づくことを覚醒すると言い替えることも有ります。
514 :
哲人:2011/11/06(日) 06:55:08.42 0
Absalomさん、
>集合的無意識というものが存在します。たとえば、テレビが情報を伝える。悪い情報があってもいいけど、無い情報
>は、どこをどう引っ張っても無い。それが存在するようになることが、蒙昧から脱却することでしょう。
済みません。
言葉の意味合いを理解しがたいのですが、
要するに情報の裏に隠された真実を知ることができれば蒙昧から抜け出たと思って良いのか、と言う問いでしょうか。
真理に近づけば物事の真実が見えてきますが、蒙昧から脱却するには「総てのそれぞれに己の持つ最高の精神で対峙する、
と言うヒューマニティ(人間愛・慈愛)と理性、そして良心」の三点セットが必要です。
515 :
哲人:2011/11/06(日) 08:25:37.94 0
>>504 >だから、それを素質というのは妥当だろう。1.8mの長身が1.5mの短身よりバスケの素質に恵まれているのはしかたがない。
そうですね。
育てることの知能を持ち、人が産まれた理由はゲームで大切な人生を消費するためでは有りませんね。
地球に生命が発祥した時から永遠と受け継がれ、己の命が花開くほんの数十年という僅かな時間をマネーゲールや、
その他のゲームで無駄使いするなんて本当に「勿体ない」話です。
>>514 集合的無意識というものは、みなが何となく意識しないまま知っていることで、それが、知ることの一番小さなあり方です。
そこにさえ存在しないものは、誰もが知らない、つまり、存在しないのと同じ事です。重要なことが存在しなければ、
物事を処理するやり方につながる方策が見つかりませんので、非常に不幸を呼ぶわけです。真実を知ること=物事を
見分ける力をつけることも大切なのですが、不可能な出来事はどうやっても不可能なわけです。
517 :
ユーサネイジア ダニエル・カール:2011/11/06(日) 12:57:43.46 0
こ〜いつ
同和だぜ?
生まれも同和だぜ?
一代で急に大きくなったのは人の物事をかっぱらったからだぜ?
盗まれて平気な顔をしてたら、頭がオカシな奴だと思われるぜ?
駄目だって同和に良い顔をしちゃあ〜
こいつ、同和だぜ〜?
518 :
哲人:2011/11/06(日) 13:27:39.89 0
>>515 バスケやマネーゲームがあなたの考えるまことの人生の意味から離れていたとしても
どちらも真理である。
金や娯楽を無駄と決めつけて蔑むステレオタイプこそ知性のなさ。
悟りを極めて人間的な思考ととらえてるのに地球の生命の発祥から紐解くことはあまりに誇大広告がすぎる。
せいぜいヒトは300万年、あなたの言う知能と呼べるほどのものを持ったのはせいぜい数万年の歴史です。
519 :
哲人:2011/11/06(日) 14:24:13.71 0
Absalomさん、
>集合的無意識というものは、みなが何となく意識しないまま知っていることで、それが、知ることの一番小さなあり方です。
それは知っているのではなくて、知っているつもりと言う錯覚のできごとです。
意識をしなくても他人の行為を学び取ることで知ったつもりになれますが、本当の意味での知ると言うこととはかけ離れたものです。
【知る】の意味は「ある現象・状態を広く隅々まで自分のものとする意。@理解する。わきまえる。」と言うことですので
一般的な知ると言う意味合いは限定的なものです。
>真実を知ること=物事を見分ける力をつけることも大切なのですが、不可能な出来事はどうやっても不可能なわけです。
真理を会得し、己が望むことの凡てを知ることができれば、不可能と思う出来事も可能にすることができます。
520 :
哲人:2011/11/06(日) 15:19:50.92 0
ちなみに知るとは自らの脳にあるデータを素早く参照できる状態です。
意識とはそのデータにアクセスするためにシナプスがつながり生体電流が流れる瞬間のことです。
地面にりんごを落とそうと考えたとき、りんごを持つ手を離すという行為を極めて少ない時間で指令を出します。無意識。
りんごを2秒後に地面に接触させたいと考えるとき、りんごの質量や、地球の重力加速度、許容される誤差を意識しなければならない。意識。
前者は無意識、後者は意識と区別しますが本質的にはどちらも意識しており、その区別は速さや回路の構造に依ります。
アブさんの言う無意識は意識と連続した関係を持っており、知ることの一番小さなあり方という表現は必ずしも間違ってはいません。
521 :
考える名無しさん:2011/11/06(日) 16:09:27.84 0
ひまつぶしとひつまぶしの違いについておしえてくれ
ひつまぶしは美味ひまつぶしは不味い
523 :
考える名無しさん:2011/11/06(日) 17:02:06.87 0
そういう主観的な説明では名得で着ない
哲人が感情論しか発言しないけど、さわると病気が進むから放置して
あげようよ、
主観性と客観性が一致するためには、客観は主観よりも小さくなる運動が必要だし、主観も客観よりも小さくなる運動
が必要だ。集合をイメージすれば、つまり両者は独立していたときより小さいものしか表せない。悟りが、小さな知識である
必要があり、それは、とらえられたときには真理として、集合の小ささを越えた、意味上の質的変化とでも呼ぶべきものを
経験するだろうと思う。
526 :
哲人:2011/11/06(日) 19:45:24.15 0
Absalomさん、
>悟りが、小さな知識である必要があり
小さい大きいというのは比較の問題でありその論理でいけば究極的には無こそが悟りとなるでしょう。
また集合の符合は縮小することだけではありません。
両者が無限大であってもいいし、両者が1であっても2であってもよいはずです。
>意味上の質的変化とでも呼ぶべきものを経験するだろうと思う。
主観と客観がイコールで結ばれる時、その区分すら必要なくなるということで質的変化を生むでしょうね。
>>526 >主観と客観がイコールで結ばれる時、その区分すら必要なくなるということで質的変化を生むでしょうね。
なるほど、論理と非論理を無理やり結ばすとき区分をなくす強制でってことか。
すごい天才さんですね。
528 :
哲人:2011/11/07(月) 02:06:29.66 0
>>518>>520 >>526 偽哲人くん、
>主観と客観がイコールで結ばれる時、その区分すら必要なくなるということで質的変化を生むでしょうね。
支離滅裂、何をバカなことを言っているのですか?
主観は客観に対する語(対義語)ですよ。
対義語って君に分かる?
上下や左右・前後と言うように意味の上で互いに反対の関係にある語のことですよ。
主観と客観がイコールで結ばれる時は、君の気が狂ったときですよ。
529 :
考える名無しさん:2011/11/07(月) 04:44:02.21 0
対義後は、互いに矛盾しているわけでは無いが、絶対ではないが、
この両者の「矛盾的自己同一」と言うことでしょうか?
色即是空、これに近い「悟り」でしょうか?
>>529 対だから同一というのは屁理屈にもなりえませんよ。
色即是空に近い?陰陽が同じだといっているのと同じです。
無と有が同じだから悟り
では区別することを否定し全てが同じだと表現しては?
531 :
考える名無しさん:2011/11/07(月) 06:47:00.45 0
対義語は、主観と客館。
前者は「好みのサングラス」、後者は「レンズのない眼鏡」
但し、後者は「遠視」「近視」「乱視」「色盲」などなどを除く
前者と後者、一致したり相違したり、ケースはいろいろ
532 :
考える名無しさん:2011/11/07(月) 06:52:13.96 0
ごめん
「客館」でなく「客観」
日本語も入力できない意味不明な人は書き込まないでください。
534 :
考える名無しさん:2011/11/07(月) 08:12:21.66 O
悟りというのは主観が客観だ。
物事を何の評価も加えずにあるがままに認識するということだ。
物事に評価を加えた時点で真理は崩壊する。
535 :
哲人:2011/11/07(月) 09:47:45.14 0
>>534 >悟りというのは主観が客観だ。
君の言葉は油が水だ、と言う具合でまるっきり日本語になっていませんよ。
>物事を何の評価も加えずにあるがままに認識するということだ。
>物事に評価を加えた時点で真理は崩壊する。
あるがままを正しく分析するために、真理を会得することを悟りを開くと言います。
536 :
考える名無しさん:2011/11/07(月) 11:00:13.72 O
悟りを開く、真理を開く、真理を悟る、どう言ってもいい。
あんたが分かっていないのは、客観か?、真理か?、その両方か?
価値観というフィルターを持っていない人間は認識する物事はそのまま客観的に認識している。
価値観とは光りだ。見える光に従って人は目的を設定する。新たな価値観は新たな光りだ。光り同士はお互いの
干渉がない。意識とは常に何事かについての意識であるから、その連続によって、目的が設定される。
目的は高度な脳機能だ。目的を達成しようとして常に無意識が向いている。無意識は闇であり、価値観の光り
によって、その影を変える。
538 :
考える名無しさん:2011/11/07(月) 14:48:48.93 0
価値観とは、その人の「好むサングラス」だ。
それで対象を、価値判断する。
それが、主観でもある。どこまでも、個人的なもの。個人の判断基準
である。経験により、基準は変わる。
539 :
ポエム:2011/11/07(月) 16:52:05.08 0
>>536 そうです。
悟りとは求めるものではなく観じ得るもの、論理での説明ではない。
すべての人間、人間というものの最低限に対して、憎しみと怒りを抱いた俺は、それ故に赦すべき対象が
多い。経験しなければ分からないことはある。それに対する執着を捨て去ることが、自分が悟りにいたる
道だ。
主観が自で、客観が他であるとすれば、すべての人間に憾みを持つことは、主観と客観の一致点において、自分に
憾みを持つことと等価だ。二つの道がある。
542 :
[―{}@{}@{}-] 蝙蝠 ◆MinorKeyQs :2011/11/07(月) 19:28:59.72 P
悟ったら主観も客観も無いんじゃないの
543 :
哲人:2011/11/07(月) 19:29:15.29 0
>>539 主観と客観は言葉が存在する以上、完全に一致することはない。限りなく近く重なることはできても。
そして主観または客観がなくなった時、質的変化、つまり別の世界が開ける。
ただ論理を持つ社会において真理に串刺しにされつつ、主観と客観は地続きに存在するものであるから、相手を罵り、名を騙ることの悲しみをしり、西洋的な支配する神とは全く異なる仏に回帰するという概念を悟ったのである。
まよいをすて、主観を縮小させるアブ
主観を真理に広げようとロウ付けされた羽をばたつかせる哲人は両極端のように見えてどちらも真理。
544 :
考える名無しさん:2011/11/07(月) 19:34:22.16 0
哲人は空気が読めない
客体を客体として体験できるのであれば、主観と客観が一つになる体験といえる。
例えば、客体であるAさんになる体験ができれば、という意味で。
その後で、それを主体で消化し、言語化した際は、主体としてそれを語ることになる。
ただ、その体験そのものは、主体と客体が融合したような体験なのではないでしょうか。
そのような体験は可能かどうか、は別の話になりますが。
そもそも主体の定義がころころ変っていることに気がつかない馬鹿って
つける薬がないというか。
状況が変れば主体であり、客体でもある。
これは詭弁にすぎない。
観測者見るものを変更すれば客体であり主体としても見れる。
そんなの言い訳でしかない。
同じ観測方法で見ないなら論理ではない。
ころころ変えてないけど?
観察者と観察対象が同化できなければ、主体と客体が一つになるとはいえない。
主観と客観が一つになるとはそのような状態では、といっているだけ。
ただ、その後に通常の意識状態に戻って客体と主体が一つになった体験である過去を概念化した場合は、その体験は主観化されると言ってるだけ。
だからそのような体験がもしあるとすれば、原理的に語ることはできない。主観的にしか語れないから。示唆できるのみのはず。
気に入らなければ、その体験を主観でもなく客観でもない、といっても良いと思う。
よくわからんが学術的に仏教やって悟れるものなの?
悟ってないから知りません。通常より逸脱した上記のような認識が出来るのであれば、主観と客観の融合に似た体験は可能性としてある、程度しかわかんない。
>>549 観測者がお前の定義なら他者の観測者が成立しえないだろ。
考えが狭すぎる。
なんで?
指摘している内容がよく分からない。
もすこし詳しくおながいします。
554 :
考える名無しさん:2011/11/08(火) 00:31:06.65 0
555 :
[―{}@{}@{}-] 蝙蝠 ◆MinorKeyQs :2011/11/08(火) 01:20:23.60 P
悟ってしまえば観測者も観測対象も無い
556 :
[―{}@{}@{}-] 蝙蝠 ◆MinorKeyQs :2011/11/08(火) 01:21:49.92 P
悟ってしまえば観測者も観測対象も無い
557 :
考える名無しさん:2011/11/08(火) 02:52:18.85 O
美に執着している人は美と醜の間に差ができる。美に執着すればするほど、その差は広がっていく。
美に全く興味がなければ、美と醜の間の差はなくなる。
好きと嫌いの差が激しいと心が狭くなるってこった。
558 :
考える名無しさん:2011/11/08(火) 03:10:26.42 0
>好きと嫌いの差が激しいと心が狭くなるってこった。
それは単純な「好きと嫌い」ならばね。もっと多次元的なものだろwww
もっと深みのある思考をしてみれば?どうして全てを割り切ろうとするのよw
だから悟りとかを特別なものとして求めるんだろうな。
559 :
哲人・本人:2011/11/08(火) 05:08:18.82 0
>>543偽哲人くん、
恥ずかしいから曖昧な書き込みをしないでね。
>>544 >哲人は空気が読めない
ご免なさい。でも、それは私では有りません。
560 :
哲人・本人:2011/11/08(火) 05:35:05.99 0
>>550 >よくわからんが学術的に仏教やって悟れるものなの?
大変、良い疑問ですね。
答えは、
悟れません。
その理由は、
悟る為の方法に間違いが有るのです。
間違いとは、
煩悩を捨て、真理を会得する、と言う方法が間違っています。
悟る為の正しい方法とは、
真理を会得することで、煩悩は自然消滅します。
その理由は、
煩悩とは、欲望から生じる自我の連鎖を一言で纏めた言葉ですが、
その数は百八煩悩とか、もっと小分けした八万四千煩悩と言われ
人の心の約97lを支配しています。
この煩悩が知能の発育を妨げる元凶ですが、この元凶の総元締めを
仕切るのが悟性です。続く、、
561 :
考える名無しさん:2011/11/08(火) 05:52:47.90 O
>>558 ああ、すまん。説明しなくても解ると思ってた。
好き嫌いがなけりゃ、嫌なことや許せないことというものがないだろ。
しかし、激しく嫌いなものはどうなる?
562 :
哲人・本人:2011/11/08(火) 05:54:06.42 0
この煩悩が知能の発育を妨げる元凶ですが、この元凶の総元締めを
仕切るのが悟性です。続く、、
人の心の約97lを支配している煩悩を修行で取り除ける分けが有り
ませんが、万が一煩悩を取り除いたとしても心の空白は埋められず、
廃人に成ってしまいます。
ならば、どうしたら悟れるのか、
残りの3lを占める、一般的には良心と言われる他我が育つ環境に
すれば、他我が育ち自我は心と言う器からこぼれ落ち、二度と心の
中には戻れません。
他我が育つ環境の作り方は、続く、、
563 :
考える名無しさん:2011/11/08(火) 06:42:26.36 O
心の空白を埋める、それが自我を形成していく。
友人に男をとっかえひっかえしている女の子がいる。とにかく悲しむのが嫌なんだそうだ。
で、すぐに別れる。面倒くさそうだから原因とかきいたことないけど。次々と執着先・依存先を探してる。心の隙間を埋めようとしている。
隙間を広げてやれば自我は取り払われる。
564 :
考える名無しさん:2011/11/08(火) 07:18:49.19 0
心とはなんぞや
自我とは何ぞや、
565 :
考える名無しさん:2011/11/08(火) 11:51:10.04 O
>>564 俺の勝手なイメージだが、心も自我も思考の根っこって感じだな。
ここから思考が始まる。
悟りへの道は自分の心への反抗だ。
「もっと嫌な気分にさせてみろ!」
「もっと怖がらせてみろ!」「もっと悲しませてみろ!」
自我が思考の根っこなのは、そう思うが、
心は感情が働く場だから、思考の根ではないのでは?
感情が発生した時にそれを思考することが出来るので、別の働きと言ってよいと思う。
心は個性の根っこだと。
我思う、ゆえに我ありってどっかの偉い人も言ってるね。
567 :
考える名無しさん:2011/11/08(火) 16:11:40.84 O
なるほど、心は感情の方か。
そうかも、俺もそんな気がしてきた。
あまり深く定義付けしたことなかったよ。
568 :
哲人:2011/11/08(火) 18:25:49.86 0
心も感情も思考も物理法則に従う物質の動きやその状態のこと
悟りが理解する思考であるなら科学的に悟りをつかむことができる
心や思考のが物資に結果として現れるからといって、心や思考が物質な訳ではない。
例えば不死身の人間を考えてみよう。彼の記憶とは一体何か。それは、すべてのものより確かなものではないか。
時間の記録。彼の心や思考の絶対性は、何物にも否定されない。物質の移動の軌跡が、すべて記憶されている。
そして永遠にあり続ける。
571 :
哲人:2011/11/08(火) 18:47:34.44 0
光が水蒸気の塊である雲に一定の割合で隠された空の状態を曇りという
お風呂に入るとエンドルフィンが分泌され、「気持ちいい」心持ちになる。
怖い人に怒られるとノルアドレナリンが出て「落ち込む」感情を表す。
精神は実験室で再現できるような単純な物質の働きではない複雑系の作用である。
その複雑さを称してしばしば人間らしさとして言われる。
神秘的な何かが物理法則に従う物質であると不都合なのはその曖昧さに漬け込み相手を言いくるめる生臭坊主である。
572 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/11/08(火) 18:55:34.21 0
死は、心自体のプログラムにそぐわない。外的にしか理解され得ない。不変不滅が心の本質だ。それを魂と言っても
良いかもしれない。
もともと脳の出来が悪い人の悟りはそれなりの悟りしか得られない。
お釈迦様はもともと脳の出来が良い人だったので高度な悟りを得られた。
人間は外見上の見た目が似ているので、誰でも脳は同じだと思われている。
でも、脳は1人1人違う。
やたらと幽霊を見る人がいたり、やたらと数式で世界を解釈する人がいて
脳には人によって違いがある。
みんなはお釈迦さまの脳と違うので、お釈迦様のような悟りには到達しない。
指で丸いゴムの玉を押すと、ゴムの玉はへこむ。そのへこみは指なのでしょうか?
へこみがあるから押した指が生じたというのであれば、原因と結果をはき違えている。
脳内の物質の動きや位相が感情や思考を生む、と仮定しても、感情や思考について、なにも語っていることにはならないし、原因と結果を逆にしただけだと思う。
576 :
哲人:2011/11/08(火) 20:10:00.57 0
嬉しい心(物理法則外)→笑う(物理現象)
物理法則内外のインターフェイスはどうなってるのかな?
嬉しい心はどこからやってきたのかな?
それを「神秘的な何か」とするのが宗教である。
そしてそれを私は否定しないし宗教や神話が私の感情の源である。
なぜ心が物質の作用であると怖いのか、なぜ高度に発達したAIやBMIに背筋が凍るのか、それは個人の拠り所である心が社会的に代替可能であると感じてしまうから。
>>576 個人の尊厳に関わる問題です。他人というものが、高度なAIやBMIと同じであるなら、すでにして他人が自分の代替物
として存在する。人間であることにアイデンティティの核がある場合、AIなどは脅威ですね。
悟った人と評価されたいって哀れw
>>576 >なぜ心が物質の作用であると怖いのか、なぜ高度に発達したAIやBMIに背筋が凍るのか
指摘してることは、私は怖くないし、背筋も凍らないけど、
感情する物質や思考する物質は見たことも聞いたこともない。正しく想像もできない。
それだけ
物事の真理に近づくために考え進めていくと考えが無限発散してく
悟りに近づこうとすればするほど離れてく
結局のところ今の次元では近づくことができない
今宇宙理論でも11次元とか言われてるのもそういうことだろ
円周率を最後の桁まで10進数で表現することが悟りであって真理である。
582 :
哲人・本人:2011/11/09(水) 15:07:49.12 0
>>568 >心も感情も思考も物理法則に従う物質の動きやその状態のこと
>悟りが理解する思考であるなら科学的に悟りをつかむことができる
物質的・科学的な事柄は理論で扱い、悟りや心に関することは論理の範疇です。
従って、論理を理論で説き明かすことなどできないのですよ。
寧ろ、これは逆で、論理的な精神で理論を扱うべきなのです。
これが、哲学とは諸学の源と言われる由縁です。
583 :
哲人・本人:2011/11/09(水) 15:28:02.62 0
>>580 >物事の真理に近づくために考え進めていくと考えが無限発散してく
>悟りに近づこうとすればするほど離れてく
>結局のところ今の次元では近づくことができない
悟性が邪魔しなければ誰でも簡単に真理を会得することができるのです。
真理とは命を知ることで、命に対する畏敬の念が産まれますが、その命に対する畏敬の念を熟成させたもの
が総てを統治する物事の理であり、物事の理を悟ることで会得するのが真理です。
>今宇宙理論でも11次元とか言われてるのもそういうことだろ
ですから、真理とは物事の根本を司る心の一次元ですね。
>>583 なんとなくそれっぽい言葉並べてるだけで真理とは何かまったくわからないんだけどもうちょっとわかりやすいように説明してくれ
真理を会得して何が変わって何ができるようになるの?利点は何?
585 :
哲人:2011/11/09(水) 18:45:23.69 0
>>579 君が悟りを開いてるからでしょ。
AIもヒトも犬も道端の石ころもありのままに受け入れてなんのまよいもない君こそ即身仏に限りなく近づいた存在。
僕みたいに自分の働きを他人に評価されたいとかそういうまよいをもってないから。
別に科学で解析したからといって誰もが悟りを開くわけではないし、なんの手がかりもないのに君のように悟りを開く人もいる。
>>575 実際は脳内の物質の動きや位相と感情、思考が、相即、すなわち原因も結果も後付の解釈にすぎないと考えれば?
その過程において味わった、という結果は原因を持たないんじゃないかな。
>>585 褒めてもらって、とても光栄ですが、
私は悟りは開いていませんし、悟りを
開くことにそこまで興味というか、固執がないです。
世界は本当に良くできており、正しく生きようという意思に十全に答えてくれます。
だから安心して生きることができます。
悟りを開こう、何て思う必要性を感じません。私を含めたみな、いずれ悟るからです。私は私なりに普通に正しく生きるだけです。
上記の態度にかけているのは、責任と使命を受け入れる器の大きさだと思います。私はそれが小さく、それは怠惰から生じていると認識しています。
自らの意思でそれを受け入れる人は背負える責任と使命の重さに準じて特別なものが送り与えられるのだと思います。
本当の意味で悟っている人はありがたいです。
588 :
哲人・本人:2011/11/11(金) 12:46:12.20 0
>>584 >なんとなくそれっぽい言葉並べてるだけで真理とは何かまったくわからないんだけど
もうちょっとわかりやすいように説明してくれ
>真理を会得して何が変わって何ができるようになるの?利点は何?
言葉には「あいうえお、から〜ん」まであり、数学には「1+1=2」と言う
基礎があります。
それと同じで、人の心には「理」と理に反する「非」という二通りの基礎
が有りますが、心の場合には習い覚えることはできず、理・非のいずれか
一方を悟ると言う行為によって会得します。
「理」を悟れば真理という「ほんとうのこと・真実」を観るはたらきを得て
人の知能が育ちますが、「非」を悟れば真実が見えず、総てを思い込みと言う
錯覚に捉えられ知能の発育が妨げられます。
知能が育たなければ智恵を産みだせず、問題や悩みを抱えて人生を送ること
に成ります。
問題や悩みを智恵で解決すれば、希望や夢に生き楽しい人生を送ることが
できます。
利点と言えるのか分かりませんが、生き甲斐に溢れた楽しい人生を送れる
ということでしょうね。
589 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/11/11(金) 16:27:30.40 0
最大多数の幸福ということがまず言われたのはなぜかというと、人間は多数の人間と関わり、それらが幸せの向上
を目的としたからだ。しかし、システムの中で、最大多数の幸福は、最小寡数の不幸と一致するだろうか。
いちどシステム的な考えを会得したなら、人は最大多数の幸福でなく、最小寡数の不幸を目的にしなければ
ならない。
罪を憎んで人を憎まず
許すわけねーよwwwwwwwwwww
許されたいとおもう乞食みたいな根性をなんとかしろとwwwwwwwwwwwwww
許されたいと思う人間の乞食根性に対して、一つの原因を持っていることに、許さざる人間は向上したいと思わないのか。
罪を見るものは、罪を担うことと、ある程度等しい。
594 :
考える名無しさん:2011/11/11(金) 19:55:50.58 0
>言葉には「あいうえお、から〜ん」まであり、数学には「1+1=2」と言う
>基礎があります。
数学を知らない奴が数学を語る、無知をさらしているwwww
595 :
ユーサネイジア ダニエル・カール:2011/11/11(金) 19:59:42.87 0
騙されてます
中学生や小学生の学生グレードで引き下げてる 『ふり』 をしてるけど
ヤツらは古びた中に輝きを見い出す芸術活動をしてるだけなんです
ロリコンなのを隠してます
白けるので傷付けても、汚し切っても正体を見てない
こいつの短いのはロリコンの輝いてるって見所を発見したってことなんです
ロリコン宣言ですよ
絶対、騙されてます
羅切のパイパンかッ!
597 :
ユーサネイジア ダニエル・カール:2011/11/12(土) 06:58:26.66 0
かっこいい名言を残して去るスレ 3
を立てようぜ
哲学板の命の泉じゃない
少年院をwwwwwwwwっw危惧してwwwwwwwwwwwwおるyぞw
599 :
ユーサネイジア ダニエル・カール:2011/11/12(土) 08:38:05.73 0
市橋達也の親類は離散したよね
やっぱり、同じ罪人の家族としては部落に住むのかな
人は強くなければ生きていけない。優しくなければ生きる資格がない。
人生は強く優しくなるための修行だ。
ババ抜き
カールが消えるのがいちばん
603 :
考える名無しさん:2011/11/12(土) 08:51:02.34 0
姉歯の妻も飛び降り自殺して死んだよ
604 :
ユーサネイジア ダニエル・カール:2011/11/12(土) 09:31:30.61 0
>>602 お前、カールの仲間だろ
同じ部落民じゃねえかよ
部落民シール貼って超過速度で飛ばしまくっとるのかね?
606 :
ユーサネイジア ダニエル・カール:2011/11/12(土) 12:50:27.42 0
同和だから
バックは俺に任せておけよな
うるせえなあ同和同和
こんなとこでカミングアウトしてんじゃねえよ
608 :
ユーサネイジア ダニエル・カール:2011/11/12(土) 13:07:16.52 0
同和だけど
カッコつけさせろよおー
同和でカッコつけてる人を見たら
現実に誰でも止めさせる人?
金持ってそうなおっさんの家に車が突っ込んでくという部族習慣だからしょうがない
610 :
哲人・本人:2011/11/14(月) 08:57:02.39 0
>>594 >数学を知らない奴が数学を語る、無知をさらしているwwww
数学は覚え真似てする、無知でもできる学問です。
無知でもできる数学を、哲学が正しく使う為の方向性を担うのです。
これが「哲学とは諸学の源である」と言う言葉の由縁です。
君に、この話は難しすぎるかな?
611 :
第四の波平:2011/11/14(月) 10:20:29.53 O
わしはエリートサラリーマンやから仕事しなくてもいいんや
612 :
考える名無しさん:2011/11/14(月) 17:26:15.13 O
わしの実家はお金もち♪
613 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/11/14(月) 17:34:48.35 0
お釈迦様の死が大悲なら、私のそれは小悲
大仏と小仏
私はお釈迦様に帰依する
助けを求めれば救われる
死は哀しむべからず
生を喜ぶべからず
614 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/11/14(月) 17:44:54.71 0
私と釈迦の死に違いはなぜあるか
念仏の心が足りない
請い願うこと、その心の大きさの違い
念ずれば通ず
念こそ救い
615 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/11/14(月) 17:48:35.58 0
すべてを信じ
とらえ返して念ずること
想いのほかに自分はない
616 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/11/14(月) 17:51:30.86 0
同じ事を大きくとらえ、小さな違いにこだわらないこと
釈迦の慈悲
617 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/11/14(月) 18:15:16.70 0
苦しみの極限が喜びの極限である
秤の両端
支えている物は命か
618 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/11/14(月) 18:25:26.84 0
記憶の限界が現世を映しているとすれば、
永遠に続く記憶のなかにあるものが、
悟りの世界である
619 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/11/14(月) 18:37:19.46 0
前世のいかなる罪がこの苦しみを私に与えているのか
苦しみの果てが喜びでなければ、
私は説明できない。
苦しみの果てが悟りでなければ、
いっぽう、そうであれば、
説明がつかない。
説明できない物が神秘であれば、
何も隠す物がない。
現れた姿に救いが映る。
620 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/11/14(月) 18:41:36.97 0
愛と慈悲の合一、すなわち、送り与える慈悲こそ、尊い。
愛は消え去れども、慈悲は残る、他者の中に。
愛の残した課題を、慈悲が救う。
621 :
考える名無しさん:2011/11/14(月) 18:42:53.19 0
勉強は何のために存在するのかについて書くが、
まず、大昔はここまで科学も発達していなかったし、
文化性を維持するために文学や歴史も発達させる必要があった。(人間は働くためだけに存在するのではない)
そこで、昔は今のようにメディアもTVも全く発達していなかったので
とりあえず皆に学問をやってもらうように学校を作った。
つまり、学校とは、科学や文学を発達させる一部の優秀な人を作り国を発展させるために生まれたものなんだよ。
だから、一個人には勉強など何の役にも立たないのは当たり前だ。
大半の人は勉強をしても全く役に立たないしする必要も全く無い。
ただ、その効率の悪い「学校を作って皆に勉強をさせる」ということによって
優秀な科学者や文学者、経済学者などが生まれ科学が発展し文化が発展したのも事実であり、
効率が悪いにせよ昔のこの行いが全て否定されるべきものでもない。
だが、今はインターネットなどメディアが極めて発達していて、
もはや昔の体制(学校)で優秀な人材を探し出す必要が全く無くなった。
極論を言えば学校なんて全くいらない。一般人には九九や漢字の知識くらいで十分だ。
622 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/11/14(月) 18:45:34.74 0
誰しもが持つべき物が愛であり、
救いは誰かが持たねばならない物で、
区別をもうけない愛によって、
救いを担う人間が生まれる。
「愛」とか「慈悲」という言葉を
そんなに安っぽく使わないでほしいな・・・・
624 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/11/14(月) 18:59:19.89 0
個人の中にあるエゴは見識を狭める。
いっぽう、それを否定することは不可能だ
エゴの末に何が待つかは、つまり自己実現だ
枯れ木に花を咲かせることが、エゴの役割ではないか
世界観の転回は、いつ訪れても良い
たどった道は記憶の中にある
いっぽう、道は比喩として、万人が使いうる
人が絡みあってたどり着く悟りは、尊い
誰にも否定しがたい
慈悲のまなざしに、答えなければならない
詩的に書くことで、内容がないのを誤魔化している感じ。
内容が薄いのでコメントできません。
626 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/11/14(月) 19:08:49.87 0
>>623 だが、誰かがそれについて考えなければ、概念として存在するだけで、究極の姿を現したいという、私の願いは
必然的にトライアルとして存在する。もちろん、概念を振り回すだけが能ではない。
わたしの今日の考えは、苦痛によって色づけられているため、あがめるだけの態度には、私という人間には、
一時的に気が狂わないようにあがめる物だ。私は衆生のひとりである、世界をつかむことは、人間には不可能だ。
私は説教をしているわけではない。ただ、命のゆくべき道を、大きくとらえたい。大悲にすがること、
明晰な考えを突き詰めていくことは、愛も慈悲も相対的にとらえなければならないと思うのです。
627 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/11/14(月) 19:12:06.79 0
じっくりととらえられた時間は、その滋養によって、あらゆる人間の至る道である。
私の考えに恣意的な物が存在することは、謝ります。
今Absalomの書き込みを上からざっと見てみた。
目に付いたところで、おかしいのは、
>つまり、自と他の区別以外の区別をもうけないこと、すべての人の共通部分をすべてとらえて、その人の個性も
>受け入れること、そういった、慈悲の心を持つことが、釈迦の至った悟りではないかと考える。
「自と他の区別」をつけるという立場からは、「慈悲」というものは生じない。
「自と他の区別」がないから慈悲心が生じる。
では本当に「自と他の区別」は「ない」のか?
それに対する仏教の答えは、「ないわけではない」となる。
「ない」にもかかわらず「ないわけではない」。
そこがわからないと、仏教はわからないよ。
629 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/11/14(月) 19:34:30.64 0
>>628 非常に納得できる考えです。しかし、自と他の区別をもうけることは、人間には必然。慈悲とは、釈迦の生前には
たどり着けなかった物ではないか。なんとなれば、その生き様、思考の至ったところ、に、ついに慈悲にたどり着いたと
私は考えるあるわけです。釈迦が多くの門弟を従えていたところは、私のような狭量な人間には達し得ないところです。
しかし、この世のすべて、すなわち宇宙の存在によって、その一致点において世界を一つの人間にとっての
世界に広げているように思うのですが、夜空を見上げれば私にはどうしようもない広さを感じる。
釈迦が外界に囚われていたかは、不勉強のため分からないのですが、人間に寄り添ったポエジーを無視したところに、
人間に対する慈悲を、やはり感じてしまうのです。自他の区別をもうけないこと、自分が特別だとは思わないこと、
いっぽう自分のかけがえなさを、他人との交わりによって自覚すること、こんな風に分析的にとらえてしまうところは、
個人的にじくじたるものがある。生も死も一つの世界であることが、極楽に至る道であると考える。
苦しみは、なにかのジャンプに資するところがあるように思われるのです。
630 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/11/14(月) 19:45:10.24 0
僕は頭がおかしいのです。少しづつまともにちかづいてきていますますが。物事の評価という物が苦手で、
自分がむかついたりすることが大変多い。気苦労も多い。ただ、私も一つの人間であり、
他人を混乱させるような物言いしかできないことには、忸怩たる物があります。
私の狂気体験を、なんとか救われることを祈っているのです。また、その思考の過程において、
真理に至りたいという思いが強いです。
631 :
ユーサネイジア ダニエル・カール:2011/11/14(月) 20:01:50.46 0
カッコいい必殺技にしといてやるか
武装哲学!
キチコテの集会所はここですか?
633 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/11/14(月) 20:39:51.87 0
精神性において、有限の高みにに至ることはある。それはありがたい物で、悟りに至ったったかの陶酔を感じる。だが、それは受動的で
特別な雰囲気に於ける個とだ。誰しも赤子から成長したいと思う。これは物資にはない事だ。非常に狭い世界に閉じこめられていても、出口はないことはない。
仏陀の修行なんかはしらないけど、心の慈悲に至る健全な心がうらやましい。こんなに近いところで、悟りを開く
人がいるのは、非常に勇気づけらる事だ。
634 :
第四の波平:2011/11/14(月) 20:45:47.59 O
現代の日本ではみんなの方を向くということが
重要でした。しかし私はいつもそれに反対してました
オリラジの藤森をみてみんなそれが何であるか
わかって焦るわけですよ。僕も多少は焦る
だけどそれは所詮はひとつのアイデンティティーであるわけです
それでもここまで男が焦るのは関係性というものをうち壊しているから
彼はそれができている。だからじゃないかと思うんですね
635 :
考える名無しさん:2011/11/14(月) 20:48:05.88 0
>>630 >自分がむかついたりすることが大変多い。気苦労も多い。
誰がむかつくのか、むかつきがどこから起こるのかを探りなさい。
思考や言葉を使わず、ただ見なさい。
そこがスタートラインです。
636 :
ユーサネイジア ダニエル・カール:2011/11/14(月) 20:51:28.07 0
>>635 ヤバい人いてる〜
ヤバーい
普通じゃない
>>636 別に普通のことを言っているだけだろ。
色即是空
638 :
ユーサネイジア ダニエル・カール:2011/11/14(月) 21:03:36.10 0
ガタガタ言われないから
こういうことやってるのにぃ〜
アンニュイ
悟りを何たるかを知りたければヴィパッサナー瞑想も学んだ方がいいよ
だけど悟りが何たるか分かった気がしたが結局ニヒリズム(ペシミズムかも)に
舞い戻ってきよ。執着できないことに執着してしまうんだよ結局。
ありのままの状態を見続けるなんてのは、凡人には難しすぎる。
ブッダの晩年が「方便の生き」だとしたら悟りを得るのは自殺するのと何ら変わらない気がした。(宮元啓一のブッダが考えたこと参照)
道元のように永遠の今を生きるというのも今自殺したって何ら変わらない。
空の概念はナーガールジュナが説いたんであって十二縁起と混同されがちだから
釈迦の悟りを目指すならそこを間違えないほうがいい。
釈迦は心の平安を得るために徹底的にプラグマティカルに生きたと今のところ評価している。
慈悲は元々苦行の1つで、心の平安を得るための道具の1つに過ぎないし、受動的なイメージが常につきまとう。能動的になれないのなら仏教の悟りから学ぶことは今のところ失くなった。
大乗仏教みたく人を救うことを目標にすればいいのだろうがそれに意味を見出すのなら広義の意味での「信仰」が必要不可欠になる。
結局は、大衆社会の中で生きていこうとしたらキリスト教やらの「信仰」の方がよっぽど向いている。日本で浄土真宗のような仏教が受け入れられたのにもその容易さがあったんだろうな。
ミャンマーとかに出家して阿羅漢になって一生僧侶として生きようとしたら別だが、今の俺にはそれと今すぐ死ぬのがどう違うのか理解できない。
根本的に一切に意味がないのだからしょうがないのだけど、何かに対して意味があると「信仰」しなければどうしようもないのかもな結局。
此岸で得た知識は彼岸ではクソの役にも立たないんだろうな。
此岸(こちら側)での知識は彼岸(あちら側)の為の知識ではないものな。
643 :
考える名無しさん:2011/11/15(火) 00:35:40.06 0
>>641 意味が無いモノに意味を欲しがるのが自我の働き。
意味の有る無しは実は大した問題じゃない。
悟りは自我にとっての死と同じだから、自殺と同じと考えるのもよく分かる。
でも、それら全ては自我のマジック。
自己は自我じゃないから、自我が無くなっても特に問題はない。
644 :
[―{}@{}@{}-] 蝙蝠 ◆MinorKeyQs :2011/11/15(火) 02:35:56.94 P
与えられた「生」を全力で楽しむことだよ
645 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/11/15(火) 07:08:09.14 0
一晩寝て平静を取り戻しました。錯乱状態においては、非常に短い色んな考えが頭に浮かびますが、
他人に分かるように書かなければならないし(そうか?)自分の文のいみを自分でとれないようでは情けない。
記憶によって、同一性がはかられる。自己が錯乱しているままでは、自分のみのかわいさから抜け出れない。
自分が幸福になることから、他人にもアドバイスができる。功名心でなく、他人が存在することに、たいして、
どのような態度をとれるかで、悟りのレベルがはかれる。当たり前の考えが浮かぶけど、これも大切なこと。
646 :
考える名無しさん:2011/11/15(火) 08:48:46.16 0
>>645 >自分が幸福になることから、他人にもアドバイスができる。功名心でなく、他人が存在することに、たいして、
>どのような態度をとれるかで、悟りのレベルがはかれる。
あなたの言う「他人」がどこにいるのかを先ず調べた方がイイかもね。
存在してると思い込んでるだけで、本当は存在していないかもよ。
自分の中にある幻だったりして・・・・・
647 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/11/15(火) 19:39:04.40 0
>>646 「他人」のすべてを知ることはもちろん不可能だが、幻であろうと、他人が存在することを疑う理由がない。
厳密な意味づけを行うのは意味がないと思える。それをいったら、「自分」でさえ幻と考える事もできる。
648 :
考える名無しさん:2011/11/15(火) 20:44:42.44 0
>>647 >幻であろうと、他人が存在することを疑う理由がない。
理由がないんじゃなくて、そこに意識が向かないように
コントロールされてるんじゃないの?
疑う理由がない所ほど疑いなさい。
あなたの見ている他人は、あなたの世界の外にいますか?
それとも、あなたの世界の中にいますか?
649 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/11/15(火) 20:50:03.62 0
>>648 コントロールは、自分でしているように思うが気のせいだろうか。世界は僕の外にあり、その中に他人がいる。
僕の中の世界は、僕だけしかいない。世界はその二つあると思っているけど。(物理的世界観かな)
【ヤージュニャヴァルキヤの自己】
〔自己は〕見られることがなく見る者であり、聞かれることがなく聞くものであり、思考されることがなく思考する者であり、知られることがなく知る者である。
これより別に見る者はなく、これより別に聞く者はなく、これより別に思考する者はなく、これより別に知る者はない。
これが汝の自己であり、内制者であり、不死なるものである。これより別のものは苦しみに陥っている。
(『ブリハッドアーラニヤカ・ウパニシャッド』三・七・二三)
ヤージュニャヴァルキヤは、自己の本質は認識主体であることにあり、自己は認識主体であるがゆえにけっして認識対象にはなり得ないと看破したのです。
これを言い換えますと、自己は認識対象である世界に属することはなく、世界外存在だということになります。
【初期仏教における自己】
仏教の開祖ゴータマ・ブッダは、すべての妄執の中核を成す我執を払うために、無常である五蘊(要するに身心)のいずれも
常住の自己(パーリ語でアッタン)ではない(五蘊非我)、両者を混同してはならないと説きました。
また、自らの身心を拡大し、自らの実存に関わるすべての事象(諸法)も自己ではない(諸法非我)と説きました。
この考えは、自己を世界外存在と看破したヤージュニャヴァルキヤの発想法と軌を一にしています。
ただし、ゴータマ・ブッダは、自己の存在を暗黙のうちに容認していたのであって、自己の存在を否定したことはありませんでした。
ところが、ゴータマ・ブッダが入滅して三◯◯年ほど経ちますと、ゴータマ・ブッダが自己を主題とする議論を展開しなかったのは、
自己の存在を否定していたからだとして、自己は存在しない(無我)とする説が急速に広まるようになりました。
そのため、これ以後の仏教は、認識主体も因果応報・自業自得の担い手も認めないがために、
他派から猛烈な論難を受け、防戦に暇ない状態となりました。無我説は理論的には無理なのです。
(宮元啓一 『インド人の考えたこと』より参照)
こんな感じの認識?
651 :
考える名無しさん:2011/11/15(火) 22:51:44.13 0
>>649 >世界は僕の外にあり、その中に他人がいる。
>僕の中の世界は、僕だけしかいない。
そこまで分かってて、「どうして他人が存在することを疑う理由はない」
って言えるの?
自分の外の世界が実際に存在してるって言える根拠は何?
652 :
[―{}@{}@{}-] 蝙蝠 ◆MinorKeyQs :2011/11/15(火) 22:56:17.67 P
>>651 「存在していない」証明がされていない以上、
可能性としての存在を否定できないから
653 :
考える名無しさん:2011/11/15(火) 22:57:56.25 0
>>650 大まかに言えば同じような感じ、
細かい所ではところどころ違う。
可能性として両方ありえるから疑う理由はあるんじゃね
655 :
考える名無しさん:2011/11/15(火) 23:03:46.60 0
>>649 >僕の中の世界は、僕だけしかいない。
ゴメン、文章読み間違ってた。
あなたの「中」の世界じゃなくて
「あなたの世界」の「中」に他人がいるのか?
それとも、「あなたの世界」の「外」に他人がいるのか?
って質問したの。
649じゃないけど
俺の認識では表象としての他者(机や絵画と同じように観察する対象)がいるが
他者の認識主体は世界の外にいる
657 :
考える名無しさん:2011/11/16(水) 00:30:40.08 0
>>652 >「存在していない」証明がされていない以上、
>可能性としての存在を否定できないから
だとしたら、「存在している、存在していないは共に証明されていない」じゃないの?
自分というのは関係性の中で成立してるのだから
他を否定する(疑う)ということは自分の瓦解を招くことだから
他を否定・疑うのなら自分も否定疑うことになるから、
とりあえず他を自分から切り離して疑う理由を見出せないってことじゃない?
659 :
考える名無しさん:2011/11/16(水) 00:47:51.75 0
>>658 自分が存在しているならば、その考えも「有り」だと思うが
「自分」はホントに存在してるのでしょうか?
ほんとに存在するっていうよりそのつど再構成して社会的な自我を
保っているんじゃないかな。
消えるわけにもいかないので。
これ以外この世を渡っていく術がない?
コギトを疑うこともできるが疑っているのがそのコギトでもある
662 :
659:2011/11/16(水) 01:39:18.82 0
>>661 >コギトを疑うこともできるが疑っているのがそのコギトでもある
このあたりが「悟り」を哲学で理解する限界のような気がしますね。
哲学抜きで「悟り」を語るには、この我が実際には存在していない
という境地に立つ必要がありますからね。
もちろん、我が実際に存在していない事は証明できませんけど・・・・
663 :
ユーサネイジア ダニエル・カール:2011/11/16(水) 01:42:19.78 0
俺が何考えてるのか知りたい?
いえ
>>662 >哲学抜きで「悟り」を語るには、この我が実際には存在していない
>という境地に立つ必要があります
詭弁だと思います。
存在に階層を設けて、真我があると想定して、それと比べると、物質界の現れである我は霞んでしまう、我は幻想のようだ、と感じたとしても、霞んでしまうだけで我はあると思います。
そもそも我が実際には存在していない、と誰が語るのでしょうか。
存在していないが存在していないを語る何ておかしな話です。
666 :
空即是色:2011/11/16(水) 01:59:54.80 0
そう。「我」はあります。
しかし、「我」はありません。
それが、「色即是空、空即是色」ということよw
「我」が「私は存在する」に昇華するのだと思います。即非で煙に巻いても、そこから生の原動力を沸き立たせることはできないと思います。
668 :
空即是色:2011/11/16(水) 02:05:24.89 0
>そこから生の原動力を沸き立たせることはできないと思います。
生の原動力というものは、誰かが「沸き立たせる」ようなものではない。
もともとあるものだ。
生の原動力が元々あったとしても、個人差もあります。即非の型にはめてそれらしいことを語っても、私や他者を揺さぶって生の肯定的な意思を生みだす力にはなれません。無力でなくてもあってもよいものです。
670 :
hell poemer :2011/11/16(水) 02:11:08.30 0
秩序あるものは混沌と帰す
混沌は秩序あるものになる
って解釈じゃ間違い?
671 :
空即是色:2011/11/16(水) 02:11:51.78 0
ん・・・何が言いたいのかわからないが、
とにかく、「我」が存在するとか、しないとか言っていても無意味。
その「我」とは、どういうことなのか、その内容をよく考えてくださいね。
672 :
659:2011/11/16(水) 02:13:22.83 0
>>665 >存在に階層を設けて、真我があると想定して、それと比べると、物質界の現れである我は霞んでしまう、我は幻想のようだ、と感じたとしても、霞んでしまうだけで我はあると思います。
>そもそも我が実際には存在していない、と誰が語るのでしょうか。
>存在していないが存在していないを語る何ておかしな話です。
理論的に思考する哲学的アプローチでは、その考えでまあまあ合っています。
ですが、悟りを語る上で「我が存在していないと真我が語る」としか言い用がありません。
これ以上は、分かる人には分かるが、分からない人には分からない
という感じになるので、どうにも応えようがありません。
あなたの自分の言葉に対する理解があなたの言葉で、
私の自分の言葉に対する理解が私の言葉です。
それ以上でもそれ以下でもありません
674 :
hell poemer :2011/11/16(水) 02:24:57.77 0
675 :
空即是色:2011/11/16(水) 02:26:19.23 0
>>670 「何か」が「何か」に「なる」というと、二つの種類の存在があるように
なってしまうけど、
「即」だから、本来は「色」と「空」は別のものではないということです。
だから「色」と「空」とを分けて考えること自体が、本来は、誤りです。
しかし人間悟性は、どうしてもそのように分けて見てしまう。
「色即是空」においても「色」と「空」という漢字は、分かれている。
漢字としては分かれているけれども、本来は分かれたものではないんですよ、
というのが、「即」ということです。
676 :
hell poemer :2011/11/16(水) 02:36:27.64 0
有難うございます
眠りの状態を思い起こしなさい。あなたはそのとき何かの出来事に気づいていましたか。
もし息子や世界が実在であれば、それらは眠りの中であなたと一緒に居合わせていたのではないしょうか。
眠りの中であなたの存在を否定することはできませんし、そしてそこであなたが幸福であったことも否定できません。
しかしそれでもあなたは今話をし、疑いを抱いている人と同一人物なのです。
あなたは幸福ではないと言います。しかしあなたは眠りの中で幸福でした。
眠りの中での幸福が壊れたその間にいったい何が生じたのでしょうか。それはエゴです。
しかもそれは目覚めの状態とともに生じたのです。眠りの中でエゴはありませんでした。
エゴの誕生は人生の誕生と呼ばれます。その他の誕生はありません。生まれるものは何でも死ぬはずです。
エゴを殺しなさい! すでに死んだものにとっては死の恐怖はありません。エゴの死の後に真我が残ります。
それは至福――すなわち不滅です。
(『不滅の意識―ラマナ・マハルシとの会話』)
無始の大昔より、愚者たちの多くは認識主体をもって仏性としてきた。そしてそれを本来の人間だとしてきた。
笑止千万である。これ以上、仏性を語るに贅言多言を要しないが、ずばり言えば仏性とはそんじょそこらにある土堀・石膏である。
これ以上に言うとすれば、「そもそもいかなるものか、仏性とは」としか言えない。どうだ、わかったか。
頭が三つに臂が八本。〔そんな化物に出会ったような顔をするんじゃない!〕
(『すらすら読める 正法眼蔵』)
悟りってのはアートマンだけの状態でしょ?
ということは深い眠りの状態で自我が存在していない状態、
道元の言葉からみれば石や木などには自我がないから悟っているということになるのかな?
ブッダはサマタ瞑想などでは一時的にしか悟りの状態を保持できず
普段の活動時には意味がなくなることに気がついてヴィパッサナー瞑想(サティなどで思考を挟まないようにする)を編み出したんでしょ?
678 :
空即是色:2011/11/16(水) 03:00:16.09 0
>>677 >「仏性とはそんじょそこらにある土堀・石膏である」
その道元理解がおかしいのでは・・・?
内山興正によると、道元のいう「仏性」とは、
「仏性とは、決して固定した『あるもの』として名詞的に表現されるものではなくて、
『刻々に自己の人生を畢竟帰運転していく』と、動詞的にいうよりほかはない『行』なのです。」
道元の悟りは、「修証一等」と言われるように、
自己自身の「行」がそのまま悟りであるような悟りであるので、
道元が「そんじょそこらにある土堀・石膏」を「仏性」と考えていたとは考えにくい・・・
>>678 >自己自身の「行」がそのまま悟りであるような悟りであるので、
道元が「そんじょそこらにある土堀・石膏」を「仏性」と考えていたとは考えにくい・・・
「悟るぞ」というのは自我の働きで執着
だから行を行なうことが「悟り」であるとした。(修証一等)
石にはそもそも自我がないので執着がないし「悟るぞ」って執着がない。
680 :
空即是色:2011/11/16(水) 03:15:59.19 0
>>679 たぶん道元は、執着がないという「状態」(名詞的)を「悟り」と考えているのではなくて、
執着から脱していく「行」(動詞的)を「悟り」と考えているんですよ。
だから、完全に執着から脱した状態(それは人間には不可能でしょう)を
「悟り」とするのではないでしょうね。
>>680 行をした瞬間に「悟り」なんで過程という概念はなくなるのでは?
石も水も「永遠の今」(一瞬一瞬を生きる)という行の中にいるんですよ
この解釈はどうなのかわからんが人間に対して言及するなら行と悟りを同時に見ることが大事なんでしょうけど
寝ます。m(_ _)m
この世界は腐っている
>完全に執着から脱した状態
理(意)の境地を超えて然(界)たる領域に達することです。
哲学的には形而下の過程を経て形而上へたどり着くこと。
言葉や意味や論理に縛られている時点でそこへはたどり着けない。
生死の狭間を越えた物に与えられる価値観にすぎません。
修羅場を越える体験なしでそれを知覚することは無理というもの。
知覚したからといって何の意味もないし世界の見え方が違ってくるだけです。
それを凄いもののように思い込み目指す人がおりますが愚かであります。
684 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/11/16(水) 07:03:14.02 0
>>655 「わたし」の世界は存在しない。「世界」とは、私を含まない。したがって、他人は私の内にはない。
「わたし」に従って世界が変化するとも思えない。他人と自分は別の認識を持つが、他人の数だけ
世界があるのではなく、「世界」は、私の観測する限り、一つである。「我思う故に我あり」、とは、
世界が我に従って存在するという意味ではなく、「我」の存在が、思うという行為のみの範囲に
限定されるという意味だと理解する。「我」は、思い思考する存在である。心=我。
それは心であって我かどうかよくわかんないんだよねえ
スマナサーラはこう言ってるよ。
我は思うではなくて我は感じるが正しい。
感覚を概念化することが「思う」ということになる。
だから「思う」ということは後からくる。
だから思うというのは概念が思ってるんであって
「我感じる」が本来なんじゃないの?
社会的自我を持つと言うことは
概念に取りつかれてるからね。どっか自分がよそよそしいんだけど。
だから本来の自分を取り戻すことを悟りというんだろう
本来の自分即ち空であるのかもしれないが。
そういうとこを感じるということだね。
>>686 覚えてたらでいいんでその出典を教えて欲しいです
ルソーも『エミール』の中で同じように言ってるね。
わたしたちにとっては、存在するとは感じることだ。
わたしたちの感性は、疑いもなく、知性よりも先に存在するのであって、わたしたちは観念よりも先に感情をもったのだ。
>>689 「生きる勉強」サンガ新書
香山リカとの対談です。
>>690 わざわざすみませんありがとうございます。m(_ _)m
692 :
考える名無しさん:2011/11/16(水) 09:19:57.30 0
>>684 >「わたし」の世界は存在しない。「世界」とは、私を含まない。したがって、他人は私の内にはない。
あなたから見えている世界は「あなたの認識が作り出した世界」で、あなたしかいない世界なんですよ。
そこを判らないと仏教的な悟りは難しいんじゃないかな。
自己と自我の区別がないもしくはわかりにくい。
わたし=自己
我=自我
と区別してんのかな?
694 :
693:2011/11/16(水) 10:12:14.08 0
695 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/11/16(水) 12:40:35.51 0
>>692 「わたし」の認識を、特別な物とは思わない。「わたし」のアイデンティティをそこに認めない。認識の世界に
働きかける物を他者と呼ぶ。「わたし」の見る石と他者の見る石の、共通点を世界とみとめる。
視点の違いは、もともとすべての認識に限りがある(あらゆる角度からものを見ることはできない)、限られた世界
のみを世界と断ずるのは無理があると考える。想像の世界もまた世界である。
>>693 自我は存在しない方が良い。なるべく小さく持つべき。なぜなら、固執の原因になるから。自己は、したがって
透明に定義するべき。透明とは、自己の色を世界に塗るべきでないと言うこと。
以上が、私の独断による「わたし」、「自己」についてのとりあえずの意見です
696 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/11/16(水) 12:59:59.21 0
>>695 ちょっと論が錯綜するけど、自己表現者としての自己を、重く見るべきだと思う。
世界に対する否定の見方ができる自分という物、つまり、見て見ぬふりができること、
その意見に従って、世界に働きかけができること(例えば移動)、自己の望むことを
達成することができることが、世界と自己についての基本的なあり方ではないか、
要するに、好き嫌いが表明できること。
697 :
692:2011/11/16(水) 13:01:06.56 0
>>695 悟りについて探求するのは止めるの?
今の自分の見地では悟れないのは分かっているんでしょ。
なぜ、自分の見地に固執するの?
698 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/11/16(水) 13:09:50.03 0
>>697 僕なりの悟りに向けての色を付けた、見地だったのですが。自我をどういう風に曲げれば悟りに至るのか
という指針がない(また、あるべきではないかも)ので、私の混乱した特別の見地と、明晰に判断した
世界についての意見によって、自分についての考えを記したんですが。納得できる考えが提示されれば、
従うけど、私なりの病的経験を、何とか形にしたいという思いもつよい物で、それを消化できるまでは、
自分の見地に固執する(セルフヘルプ)ということも、多いかもしれないです。
699 :
考える名無しさん:2011/11/16(水) 13:24:27.54 0
なんか曖昧なんだよな。
>「わたし」の見る石と他者の見る石の、共通点を世界とみとめる。
>限られた世界のみを世界と断ずるのは無理があると考える。想像の世界もまた世界である。
想像する世界は自我の働きだから、自我と想像する世界は同一ってことにならない?
他者との共通点(つまり物理空間のことだと思うけど)と自我の働きの2つの世界があるってことでしょ
想像する世界もまた世界というのは少し無理やりというきがするけどね
自我は存在しない方がいいというのは悟りを目指すならその通りだけど
ここでは世界認識のことについて語っているのに……
自我が何処の世界に存在するのかについて教えて欲しかった。
>世界に働きかけができること(例えば移動)、自己の望むことを
達成することができることが、世界と自己についての基本的なあり方ではないか、
要するに、好き嫌いが表明できること。
これって自我の働きじゃない?
700 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/11/16(水) 13:49:30.43 0
>>699 自我とは、変わらない物ではない。自己の持つ、己についての考え方であって。他人に合わせて変化するのが
自我だと思う。従って、自我は、想像の世界にしか存在しない。
>世界に働きかけができること(例えば移動)、自己の望むことを
達成することができることが、世界と自己についての基本的なあり方ではないか、
要するに、好き嫌いが表明できること。
ここは、まさに自我について述べたところ(論が錯綜すると、
>>696で断りを入れた)で、その積極的あり方について、
考えを述べたところ。
結局、私の結論としては、自我は想像の働きであり(おっしゃるように>想像する世界は自我の働きだから、自我と想像する
世界は同一ってことにならない? )、自己の拡大の働きである。
>結局、私の結論としては、自我は想像の働きであり
想像することが自我ってことでおk?
それとも自己が想像するってこと?
702 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/11/16(水) 14:09:20.23 0
>>701 自己も自我も、想像である、自己も自我も想像の上に成り立つ。
それはそうなんだけど世界認識について語る場合は形而下に置いて考えないといけないでしょ
自己が想像するってことは自己も世界に取り込まれるし
想像することが自我であるならば自己と自我のつながりは消滅するからありえないでしょ
704 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/11/16(水) 14:22:12.80 0
705 :
ユーサネイジア ダニエル・カール:2011/11/16(水) 14:25:19.61 0
ソクラテスかなあ〜
ソクラテスかなあ〜
まだ、それじゃあ、ソクラテス以前の問題かなあ〜
>>704 >世界は僕の外にあり、その中に他人がいる。
僕の中の世界は、僕だけしかいない。世界はその二つあると思っているけど。(物理的世界観かな)
自己が想像する場合自己は世界の中にいることになるし(自己=自我)
想像することが自己であるならばそもそも世界の外にいる僕と世界との繋がりは何ってことにならない?
だから僕は世界の中にいないと駄目になるような気がするんだけど
想像することが自己→想像することが自我
708 :
ユーサネイジア ダニエル・カール:2011/11/16(水) 14:39:52.29 0
大学生にもなって正気でやってるようじゃ
ダ〜メだぁ〜
709 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/11/16(水) 14:41:07.33 0
>>706 うん、猛烈に難しい。
世界と僕のつながりは、無いと言っても過言でないと思う。その二つはなじまない。また、他者主体と世界のつながりも
ない。つまり、世界と言ったとき、人間的存在は、その存在を、世界の中には発見しない。自己とは、世界から
疎外された物であると思う。なぜなら、人間的世界は、自然世界とは別の原理に依っているから。だから、自己は
他人主体を求めるし、他人主体を求める理由が、疎外にある。
>>709 >なぜなら、人間的世界は、自然世界とは別の原理に依っているから。
それなら自我と自己が世界の外にいるならありえるってことになるっぽいかな?
でも間接的?にでも世界との繋がりがないと認識している理由は何ってことになるような
例1
世界の外 僕(自己=自我)
世界の中 物理空間
(こっちだと感覚器官などのフィルターを通して世界を歪められて見ていることで説明可能?)
例2
世界の外 自己
世界の中 自我、物理空間
(こっちだと自己と自我を繋ぐことができないからそもそも認識がないということになる?)
まあ例1ならなんとかなるのかな……
711 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/11/16(水) 15:20:36.81 0
>>710 世界の、中と外に二分する考え方が、そもそもの間違いのような気がするんだけど。中にあってもバリアーのように
侵入不可能な私という物があって、世界に対する働きかけはできるけど、世界の方から私の中に働きかけをする
物はない。世界と私のつながりは、感覚のみによって、自我に対する認識は、当然ながら、世界は持たない。
あらたな意見として、私の意識について考えれば、意識は何事かについての意識であるから、私の意識はつねに
世界に向けられている。そのことをゆがんでとらえれば、世界が意識と等価で結ばれるように思われる。
しかし、意識が自己ではないのであって、自己は意識によってとらえられるとすれば、その序列は、自己>意識
である。自己を作り上げるのが、記憶の中に蓄えられた、自己を思った意識の経験である。
712 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/11/16(水) 15:23:27.33 0
だから、世界は記憶を持たないのに対して、自己は記憶を持つというその違いが大きいのではないか。
>>711 >中にあってもバリアーのように侵入不可能な私という物があって、世界に対する働きかけはできるけど、世界の方から私の中に働きかけをする物はない。
バリアーがあれば別の世界と考える。二分する必要はなくその場合世界を増やしても構わない。
>あらたな意見として、私の意識について考えれば、意識は何事かについての意識であるから、私の意識はつねに世界に向けられている。
意識は向けられていると同時にフィルターを通した世界から情報を得ている。つまり相互的である。(意識もフィルターを通して間接的に向けられている)世界と意識とは直接的に結ばれていない。そのために物理空間と認識の違いが出る。
まあ今のところこんな感じかな。イン哲の本でも読んでもう少し認識論について得るものがあったらまた書き込みますm(_ _)m
まだ途中だけど、井筒俊彦の「意識と本質」は、マジおすすめ。
ああ、頭いたい、気持ち悪いな。
715 :
ユーサネイジア ダニエル・カール:2011/11/16(水) 16:58:52.05 0
同和だから
車なんか大丈夫だって
遅れてる奴のトップを走った所で後ろを向いて見返してやる
徐々に折れ曲がったカーブを真剣に高速で通り抜けるの
遅れてる? 遅れてる?
同和じゃないなんて遅れてる?
716 :
考える名無しさん:2011/11/16(水) 17:48:04.61 0
悟りに「近づく」ってなに?
遠いとか近いとかそういうものなの?
悟りの反対は無明ですよね。
無明:見えてない、わかってない状態。
悟り:見えてなかったものが見えるようになった。わからなかったものがわかるようになった。
ではないのですか?
すべてをあきらめること
719 :
ユーサネイジア ダニエル・カール:2011/11/16(水) 21:57:48.08 0
おれ こんなんだからこれ以上どうしようもねえもん
だけど
ペインクリニックに入院させられたわ
偏頭痛は肩のビルドアップよ
神仏(仏神)・主エル・カンターレの光と一体になった境地。
簡単に言えば顔を隠したコスプレ女装写真を日記等のサイト内に掲載する行為の総称。通常「悟りを開く」「悟りを開いた人」または単に「悟りました」などの形式で言及される。
>>717 見るものではない、観じるもの(×感じる)
この世には計れないものはたくさんある、それを分かるとか
理屈倒れ、ふさわしい「自然的に与えられるもの」ではない。
個を知ることは世界を知ることであるのに個ばかり見るからこそ
世界を軽視し世界が移り行く後でも個に執着する。
現世の金を死後の世界まで持ってゆく価値観がそれだ。
悟りとは現世(うつしよ)を心で知ること。人が計りえた数値や識別名を暗記する
ことではない。
725 :
ユーサネイジア ダニエル・カール:2011/11/17(木) 00:30:12.88 0
ペインクリニックに通わされて
負けたって思われたくな〜い
負けたと思われたくないとかアフォだから
負けか勝ちかは自分が決める問題で他人の評価気にしている時点で完全な
うしろむき
727 :
考える名無しさん:2011/11/17(木) 04:49:15.93 0
生命を 大切に
仏教の真髄は これに尽きる
ここから 慈悲の心も始まる
728 :
考える名無しさん:2011/11/17(木) 04:51:11.13 0
つましく こころ豊かに
729 :
考える名無しさん:2011/11/17(木) 05:21:43.63 0
生命を 大切に
仏教の真髄は これに尽きる
ここから 慈悲の心も生まれる
HP「曼荼羅とC点論」「C点論における矛盾と無限」
参考にして下さい
730 :
考える名無しさん:2011/11/17(木) 06:21:48.09 0
C点論のオリエンテーション「実体有るこの世」
第一の存在 有の世界 現象肯定 世俗諦 自性アリ 科学の世界
第二の存在 無の世界 現象否定 勝義諦 自性ナシ 仏教哲学の世界
第三の存在 有・無合一体の世界 現象再生 C点論 仏教の世界
731 :
考える名無しさん:2011/11/17(木) 06:25:12.14 0
C点論は仏教「学」ではありません。仏教「論」です。
科学、哲学では有りません。宗教です。
悟りに近づくには欲望を必要最低限にすること。
そのためには田舎で大昔の僧侶のような生活をすべき。
都会で働いていれば営業ノルマや部下の管理などで追いつめられ
一日中欲望を高めて暮らすことになる。
そのような生活を継続していては悟りなどとうてい望めない。
そんな都会生活でも悟れるよう人ならば最初から天才であり、
このスレに来る人とは別の種類の生まれながらの生き仏様。
だが、欲望を極めたその先にもそれはある。
734 :
考える名無しさん:2011/11/17(木) 07:55:01.68 0
つましく こころ豊かに
735 :
考える名無しさん:2011/11/17(木) 08:25:10.08 0
生命を 大切に
仏教の真髄は これに尽きる
ここから 慈悲の心も生まれる
HP「曼荼羅とC点論」 参考にして下さい。
736 :
考える名無しさん:2011/11/17(木) 08:34:06.13 0
自殺すれば解決
737 :
考える名無しさん:2011/11/17(木) 09:02:10.74 0
生命を 大切に
738 :
考える名無しさん:2011/11/17(木) 09:05:14.30 0
「自殺」は、心の「おごり」では、無いだろうか?
「つましく」 ありたい。
どうぞ
人生を自分で築き夢を抱いて歩んでいると突然邪悪な人間に因って破壊される事がある
それを運命だと決め付けるのはどうかと
突然は必然
742 :
考える名無しさん:2011/11/17(木) 10:57:37.66 0
人から「陥れられた」のは、辛い。
「憎悪」を抱き、「許容」とは,行かない。「許容」出来るほど
悟れない。「運命」とも思われない。
信仰? それも無理。どうすればよいの。
743 :
考える名無しさん:2011/11/17(木) 11:00:02.40 0
目には目を 歯に歯を
さあ、?
自分だったらまずそういう自分の気持ちや事態を
認めるしかないなあ。
抵抗すればなお苦しいだろう。
745 :
考える名無しさん:2011/11/17(木) 11:11:57.86 0
ノイローゼ? 泣き寝入り?
気分転換で、「旅行」し「痛飲」。
人生は無意味
自暴自棄はいかんだろう
748 :
考える名無しさん:2011/11/17(木) 11:35:24.65 0
つましく こころ豊かに
こんな仏国土は夢か?
HP「C点による仏教論」 参考に
749 :
考える名無しさん:2011/11/17(木) 14:27:52.42 0
悟りに「近づく」って言うけど、「距離」があるわけ?
原宿から天竺くらいの距離
751 :
考える名無しさん:2011/11/17(木) 14:46:32.92 0
悟りを「開く」とも言うヨ。閉じ「籠め」られているわけ?
752 :
考える名無しさん:2011/11/17(木) 15:09:40.59 0
お○なの「からだ」を、開かせるのと、同じくらい「開く」のは
難しい? 固く閉じているヨ。
753 :
考える名無しさん:2011/11/17(木) 16:37:08.54 0
話は変わりますが、仏教「学」によれば、「菩薩」は悟ると、「慈悲行」は、
出来ぬとのことであったが、後にそれでは不都合らしく「悟り即慈悲」と
となった? とのことである。どう言う事か?
「慈悲」の問題は、仏教の生命だが? 「学」も過ぎると問題?
扉を開くかのように悟る
知覚の扉は一度締められれば開くことができる
もちろん、生まれてからずっと開いているのが普通だ
僕の場合は、特殊なケース
もう、悩まない、自分のことでは
これからは、知の道を進みたい
負の経験を、もう迷わないことの証として持って
恐れるな。開放せよ。
内なる自己を解き放て。
757 :
考える名無しさん:2011/11/18(金) 03:56:16.66 0
>>753 それすごい気になる、出典教えてください。
俺の推測だと「慈悲」は心の平安を得るツールに過ぎないんだけど
悟りの境地に達すると常にその状態を維持していることになる。(悟りの状態に慈悲が含まれている)
だから「悟り」という完成形に「行」とするのは不適切だと考えたんじゃないかな。
道元の「行」が悟りである(修証一等)に近いものがあるな。
758 :
考える名無しさん:2011/11/18(金) 04:23:27.38 O
「悟り」は即慈悲ではない
「悟り」ということば自体サティを意味するのかニルバーナを意味するのか
曖昧な部分が多い。日本人が悟りと聞いて明確にこうだと言えない
なら日本語の「悟り」はどちらかというと崇高なあるものという
虚数に過ぎない。密教ではクンダリーニからの覚醒を意味するが
それは上座部仏教のように極度に精神的なものになりえる
そこに梵つまり世界が入るからそこにこそ慈悲が含まれるのではないか
759 :
考える名無しさん:2011/11/18(金) 05:07:04.64 0
某老師の受け売り
慈悲については、最初期の大乗経典である「八千頌般若経」では、
「慈悲行のために、菩薩は悟りにいるな」と、
後の大乗経典では「悟りの内実が慈悲」と説く「真俗双運」が説かれた。
以上。
760 :
考える名無しさん:2011/11/18(金) 05:14:36.26 0
最初は、「如来」は「偉過ぎて」か「慈悲行」はしなかった? つまり、
「悟り」は慈悲とは、無関係? その後、悟り「真如」=「慈悲」となった。
ご都合主義? 「学」も過ぎると、信仰でなくなる。
761 :
考える名無しさん:2011/11/18(金) 05:19:37.00 0
私の信仰
生命を 大切に
仏教の真髄は これに尽きる
ここから 慈悲の心も生まれる
762 :
考える名無しさん:2011/11/18(金) 05:40:55.79 0
悟り「勝義諦」では、現象は実体を失い「無自性」となる。
現象は、「空」となり、俗界は消える。
消えた凡俗の何処に「生命」はあるのか? 消えた凡俗への「慈悲」とは?
我らの俗界は、世俗諦と言われる。俗界に生き、俗界に死ぬ、我らの
「生命」は、「勝義諦」では、無視されるのか?
「学」も過ぎると、空論の遊びか。
メタ的な悟りなど、それは論にすぎない。
お前らは機械式な計算結果を悟りと定義したがっているだけ。
764 :
考える名無しさん:2011/11/18(金) 06:18:03.69 0
悟り、真如、では、我らの「生命」を軽視して、それは単なる俗界
の存在、本質は、「不生不滅」と言う。
俗界に生きる我ら、そこを離れてどこに行けばよいのか?
悟りの人は?
765 :
考える名無しさん:2011/11/18(金) 06:23:12.32 0
メタ的な悟りなど、それは論に過ぎない。
メタを限りなく繰り返すことで開かれる悟りももしかしてあるかもよ。
誰もその域に到達したことがないだけで。
767 :
考える名無しさん:2011/11/18(金) 08:10:42.49 0
話は戻るが
「慈悲」とは、「菩薩の衆生に対する、哀れみの心、慈しみの心」であり、
「慈」は友情で「楽しみをあたえる」事を意味し、「悲」とは「苦しみの
叫び」で、「苦を取り除く」ことをいみする。
つまり、「苦を除き、楽を与える」無償の精神性の高い行為である。
「菩薩」に拘る必要は無いように思うが、仏教「学」は?
768 :
考える名無しさん:2011/11/18(金) 08:16:34.38 0
我ら「在家」は、出家でないので、
つましく こころ豊かに
生きれば、それが「仏国土」となる。難しい理屈はわからぬ。
769 :
考える名無しさん:2011/11/18(金) 09:02:51.71 0
空はあくまでナーガールジュナ以降の大乗じゃないの
それに龍樹は概念の実在性を否定するために相互依存というタームを用いた
上座部の十二縁起は同時発生的ではなく時間差がある。
〜があるから〜が生じるみたいな感じ
770 :
考える名無しさん:2011/11/18(金) 09:42:09.39 0
少し失礼。小生はC点論者。
「無自性」を認めず、「世俗諦」も「勝義諦」も認めずに、仏教を
考えています。仏教「学」は解らず。
HP「C点による仏教論」その他関連サイトを、参考に。スタートから
異なる為、議論にならないと思います。お邪魔しました。
時間論で躓きました。
772 :
考える名無しさん:2011/11/18(金) 10:56:21.01 0
現在と言う「瞬間」は、「0秒間」と考えています。
HP「要約C点による時空論」を参考にして下さい。
だったら0秒間が」続くだけじゃないの?
その時空論で躓いたんだよね。
続くというのもヘンな言い方だが。
0秒間があるだけかな。
物体の動きで時間を知るみたいに言ってたがそこには
計測、(記憶)が入り込んでるからね。
まあ、これについては「時間とはなにか」スレに委ねよう
775 :
考える名無しさん:2011/11/18(金) 11:40:43.77 0
物質の「変化」は「持続」そして、物質の「非変化」は「
瞬間」です。
この持続・瞬間の同時同位置存在が「時間」と言う概念です。
これは「宗教」であり、「矛盾・無限」の視座に立つ「瞑想」を必要
とします。
だから持続という認識が時間を生むのですよ。
それは記憶でしょう。
ついでに言えば空間も似たようなものではと思っています。
それは自己ならざるものの発見です。
すべてが自己であるならば空間はなかったでしょう。
777 :
考える名無しさん:2011/11/18(金) 11:59:40.83 0
科学的、哲学的、「思考」では、C点論は理解出来ません。
宗教的「瞑想」により、
現在と言う「瞬間、0秒間」は、了解されます。「矛盾・無限」
の視座を要します。
だから0秒間が理解できないとは言ってないよ。
悟りとかそういうことは宗教ではないと思うんだけどね。
780 :
考える名無しさん:2011/11/18(金) 12:07:56.16 0
矛盾・無限の視座を必要とします。
科学的・哲学的「思考」とは、異なります。
議論の接点は、ナイ。
それにしては時空論は科学的というか物理的でした。
出だしがね。
議論してるつもりもないんだけど
783 :
考える名無しさん:2011/11/18(金) 14:04:08.75 0
HP「C点論における矛盾と無限」を参考に
784 :
考える名無しさん:2011/11/18(金) 14:07:18.06 0
仏教的な悟りを物質世界の中に見つけようとするところに無理があるんだと思うよ。
誰もそんなこと言ってないぞ
じゃあ哲学スレにかく理由は?
宗教は侵入だからね
哲学という低い次元にいる人を導こうとしてるんだろう。
そういう上からの態度が鼻につく
788 :
考える名無しさん:2011/11/18(金) 14:50:42.75 0
鼻につく
789 :
考える名無しさん:2011/11/18(金) 14:53:48.68 0
哲学って物質的な世界だけじゃないでしょ。
物質世界以外のところからアプローチすればイイんじゃないのって事だよ。
>>789 誰にいってるのかわからん。混乱してきた
C点論が科学に物理学に依ってるだろう
792 :
考える名無しさん:2011/11/18(金) 15:14:21.65 0
「生命と心」に興味ありますが?
そういう人をバカにしたような態度が鼻につく
議論の接点はないと言ってももう少し道筋を整理しなきゃね。
信じるか信じないかになってしまう。
796 :
考える名無しさん:2011/11/18(金) 16:17:06.45 0
「矛盾」と「無限」とを扱っています。
矛盾を認めれば、ナンセンスですが、現在と言う「瞬間0秒間」に
ある種の矛盾「C点」は、実在可能です。
795氏の言う様に、信じるか信じないかになって、しまいます。
道筋の整理も、ムリ。多謝。
思索、瞑想の「限界」に挑戦しているつもり?
797 :
考える名無しさん:2011/11/18(金) 16:23:18.51 0
中国の故事
総てを突き刺す「矛」で、総ての矛を防ぐ「盾」を突くと?
承知しています。C点論者。
798 :
考える名無しさん:2011/11/18(金) 16:32:14.89 0
「無限」も「零」も、計測できない。数量化できない。
統計処理も、出来ない。「真理」を追究できない。
以上。
799 :
考える名無しさん:2011/11/18(金) 17:15:23.79 0
有数に真理があるとしたら?
800 :
考える名無しさん:2011/11/18(金) 17:22:15.09 0
なを、「0秒間」では、現在という「瞬間」では、
物質の「変化・持続」は、殆ど「無」に等しい。
蛇足でした。
今更ぽい
0秒間という言いかたが時間の概念に取り込まれて
不自由な気がする。物理学的な時間概念をどうしても
思い起こす。従属的なニュアンスだね。
803 :
考える名無しさん:2011/11/18(金) 17:51:12.69 0
たまに、キャッチボールでさ
本気球放って、ハハッ♡とれんじゃろ★
やる奴いるよね
804 :
考える名無しさん:2011/11/18(金) 21:27:21.42 0
縁無き衆生でした。失礼。
お、ケツ捲くったな
806 :
トンデモ思想なら許容範囲w:2011/11/18(金) 21:55:36.22 0
0秒間
瞬間
時間
全部、「間」のこと。
それは0秒間は0の如き時間であって同一であったら間と言う
ことは無を有に超越させ飛躍しているだけにすぎない。
最強議論では0秒間行動とか0秒間反応とか0秒間移動って言葉も有るよねー!?♪。
808 :
ぼくらはすでにこの瞬間あるがままの姿で悟っているんです:2011/11/19(土) 03:57:18.35 O
これが生だったのか!ならばもう一度!
byニーチェ
また見つかった、なにが、永遠が。
太陽と溶け合う海が。
byランボー
色即是空空即是色by般若心経
頭空っぽの方が夢詰め込めるby悟空
彼らは悟ってます
809 :
ユーサネイジア ダニエル・カール:2011/11/19(土) 04:41:59.67 0
同和は 哲学教授に向かねえとさあ〜
イモ天 食いてえなあ〜
みんな 行こうぜ
>>1 お釈迦様は、2chをしないで、
まっすぐに生きなさいとおっしゃっています。
811 :
考える名無しさん:2011/11/19(土) 05:26:06.88 0
色即是空 空即是色 「般若心経」
一即一切 一即多 「華厳経」
812 :
考える名無しさん:2011/11/19(土) 05:45:49.81 0
[刹那滅」は間違いである。
813 :
考える名無しさん:2011/11/19(土) 05:49:54.81 0
「唯識」にも疑問アリ。
814 :
考える名無しさん:2011/11/19(土) 05:52:03.52 0
「無自性」はこの世にナイ。
815 :
考える名無しさん:2011/11/19(土) 06:26:04.28 0
つましく こころ豊かに
816 :
考える名無しさん:2011/11/19(土) 06:28:44.44 0
生命を 大切に
仏教の真髄は これに尽きる
ここから 慈悲の心も生まれる
ほんとううるさいなあ
>>816 魚も肉も食わないのですか?野菜も命ではあるでしょう。
もっと具体的に話してください
819 :
哲人:2011/11/19(土) 10:06:46.18 0
>>818 ヒトが農業を営み人の一生を超えた社会というシステムを形成し、その記録をつけ始めた有史以降の
平和や他人への思いやりといったありがちな善を基調とした考えであって、そんなに深く考えなくて良いと思う。
64億年の地球史や宇宙論まで拡張する理論とは違うと思う。
それを繰り返しがなりたてられちゃうようなあほらしさ。
お題目だけだもんね。
命というとき人間に限ると自己満足なんだよね。
なら「自分をたいせつに」のほうがいいんじゃないのか(笑)
ジャイナ教はすげーよなフルータリアンだし
悟ったら餓死して死ぬらしいし
ちょっと興味湧いてきてる
824 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/11/19(土) 16:40:18.87 0
自分に嘘をつくこと。これが他人に嘘をつくことの始まりだ。うまく自分をだませない者は、他者に対する嘘も
ひどいものになる。まず自分の中に考えが生まれ、他人と意見のやりとりをする。どう考えても、その中に
嘘は必要だ。誰が嘘を引き受けるか。嘘のないコミュニケーションが悟りであろうか。
圧倒的外界認知能力に劣りがあるようですね。
自分の自我にしか興味がないのですか?
興味はちょっとあるが、能力がない
827 :
考える名無しさん:2011/11/20(日) 03:07:07.29 0
>>824 >自分に嘘をつく
嘘をつく自分と嘘をつかれる自分
自分が2人いるけど、ホントの自分はどっち?
828 :
考える名無しさん:2011/11/20(日) 04:57:30.63 0
キラワレテいますが、C点論者です
「矛盾・無限」の視座、これが解らないようですネ これが宗教的「瞑想」
の基礎。「時間」も此処が解らないと、哲学的「思考」になります。
また、C点論の原点の一つ「B面」も解っていないようですネ これが解らないと
「C点」も解りません。
「矛盾・無限」の視座、ここが問題?
829 :
考える名無しさん:2011/11/20(日) 05:01:06.71 0
「矛盾」を突き詰めて「瞑想」する。「無限」を突き詰めて「瞑想」する。
これに尽きます。
830 :
考える名無しさん:2011/11/20(日) 05:06:22.49 0
「B面」については、HP「C点による時空論」を、参考に。
「矛盾・無限」の視座を考えてみて下さい。
831 :
考える名無しさん:2011/11/20(日) 05:09:29.59 0
つましく こころ豊かに
832 :
塩なめくじ:2011/11/20(日) 05:47:51.90 0
C点って物理学みたいな用語のくせに仏教用語なのかー こわ(>▽<;
苦しみを滅すること、あるがままに見ること(人間って見える表象などに自分の過去の記憶や感情を結びつけようとするけどそういうことをしないようにする)
C点はちょっと後で読んでみようと思うけど
悟りってこんなもんでしょそれに至るまでの道筋をしっかり考えないといけないと思うけどね
だから瞑想の技術を学ぶことは大事
ヴィパッサナー瞑想と十二縁起などがわかれば全体が見えてくると思ってる
835 :
考える名無しさん:2011/11/20(日) 21:10:42.56 0
>>828 悟った人が見ても分からないと思うよ。
問題点はC点論がウザいって事だな。
まなざしが生きることだ。釈迦の持った視点があくまで人間のものである限り、人は悟りに近づける。
どのようなまなざしを持つかが分岐点だ。
失って分かることがあるだろうか。まなざしのない能面になって、世界の中に視点を持たずただ生きた。
さみしいと思えることの中にはなにか真実がある。得られると言うことは、失いうるということだ。
変わっていくことが悟りだ。運動の一つの様態だ。
メタ的な願望も失ったとしったことによる自覚のない嫉妬をどう解消するのか?
得られた予感と失った予感でまわりから可哀想だとか愚かだとか言われてるばあいは
どうしたらいいですか?
ライフイベントのショックで認知世界が縮まってしまっただけでは?
841 :
考える名無しさん:2011/11/21(月) 04:39:42.84 0
>>828 >「矛盾・無限」の視座、これが解らないようですネ
貴方だけが信仰しているものを理解するのは不可能です。
842 :
考える名無しさん:2011/11/21(月) 04:46:36.06 0
取りあえず、「B面」を検討してみるが、不可能か。
843 :
考える名無しさん:2011/11/21(月) 07:54:24.70 0
不可能。
844 :
考える名無しさん:2011/11/21(月) 07:54:44.62 0
不可能。
845 :
ユーサネイジア ダニエル・カール:2011/11/21(月) 11:35:39.23 0
私の赤ちゃん カッコいいのよ〜
口が三つに分かれてる三口
ミツクチは雄大な動物の証だから〜
口唇口蓋裂を拝むような古代信仰的思考なんですね
847 :
ユーサネイジア ダニエル・カール:2011/11/21(月) 12:20:59.82 0
何だよ
お前ごときでは及びもつかない
俺が消えても残り続ける
伝説という存在に向かってよお
人が大勢いるところに、物事を分解してみる意識の働きが要請される。すべてが動かなければ、一つだ。
また、意識が不動なら、移りゆく物事の一性をとらえることができる。というのが、禅かな。
他者を考える場合、あらかじめモデルがいる。世界についてもモデルがある。それをどう裏切っていくかという
ゲームが行われている、この世では。悟りの人は、そのゲームから自由になった人だ。
>>849 すべてをゲームとしか見えないゲーム脳?
>>850 基本的欲求以外の、ゲームでない行動があれば、指摘していただけると幸いです。
ちょっと考えたのですが、分かりません。
852 :
考える名無しさん:2011/11/21(月) 16:26:23.38 0
>>849 >他者を考える場合、あらかじめモデルがいる。世界についてもモデルがある。
それらのモデルを作り出したのは「あなた」、
>それをどう裏切っていくかというゲームが行われている
ゲームをしているのも「あなた」
あなたの作ったモデルを、あなたが打ち破るゲームをしている
じゃ、最初っからモデルを作らなきゃイイんじゃね
853 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/11/21(月) 16:34:16.04 0
>>852 モデルを作らずに、コミュニケーションを図ることは不可能なのではないでしょうか。言葉の意味を知らずにしゃべることが
不可能であるから。そのモデルの拡大として、世界についての認知が可能になるように思えるのです。
854 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/11/21(月) 16:51:18.92 0
例えば、混沌という言葉の発祥として、陰と陽に分かれると言うことから始まりますが、これは言葉と世界のモデル性
について、示唆的なのではないでしょうか。二つに分けることが、モデル設定の行為であると言うことです。
855 :
考える名無しさん:2011/11/21(月) 16:53:48.54 0
なにを解決して、なにを解決すべきでナイか。
856 :
考える名無しさん:2011/11/21(月) 17:02:59.17 0
>>853 >モデルを作らずに、コミュニケーションを図ることは不可能なのではないでしょうか
これが不可能だったら、どうやってモデルを裏切る気だったの?
言葉はただの道具だから道具として活用できれば
深い意味なんて知らなくてもイイんじゃない。
857 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/11/21(月) 17:03:42.17 0
>>855 ゲームにおいては、その二つは区別されないと思います。すべてのゲームは時間と共に進み、後戻りができません。
解決は、ゲームの進行の結果でしかないでしょう。まったをかけることが、禁じ手である理由ではないでしょうか。
858 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/11/21(月) 17:06:34.80 0
さらに言えば、ゲームには目的がないです。ゲーム性が存在するだけです。受け取る人間の問題が、自然の問題と
一致するところにゲームがあると思います。
859 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/11/21(月) 17:08:17.98 0
>>856 道具を利用するには、すでに道具についての使い方の知識を持っていなければなりません。これはモデル化です。
さまざまなモデル設定によって、他者との違いをぶつけ合うことによって、モデルを裏切るのです。これが、ゲーム
の行為です。
860 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/11/21(月) 17:18:37.87 0
言葉を使用する事の目的の一つである、自己承認ゲームを考えてみます。
あるモデルを自分に設定して、他者による承認を求めるわけです。私は現在その欲求が
かなり強いのですが、他者が自分に対して設定したモデルに満足するのでもなく、まったく
否定するのでもなく、どん欲に取り入れていって、自己を達成するわけです。
861 :
考える名無しさん:2011/11/21(月) 17:22:53.49 0
ゲームの行為と言うけど、メタ的思考ではナイか。目的は、全くナイのか。
862 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/11/21(月) 17:47:01.53 0
>>861 メタ的思考という批判は、当てはまります。モデル設定についても、メタ的思考です。その範囲内の意味しか持たないでしょう。
目的についての考えも、メタ的思考です。その範囲では、目的は存在しないという結論に必然的にたどり着きます。
必然的というのは、メタ的思考のモデルにおいて、私が考えているからで、自縄自縛であるという事にはなります。
863 :
考える名無しさん:2011/11/21(月) 17:47:59.24 0
ゲームまで読んだ。
865 :
ユーサネイジア ダニエル・カール:2011/11/21(月) 18:24:39.69 0
だーいしぜん から 切り離されて
少数民族の誇りを奪われたー
大自然に学校なんてなーい
カールもうすっかり有名人ですね
お母さんはうれしい
868 :
ユーサネイジア ダニエル・カール:2011/11/22(火) 02:42:31.60 0
お母さんって何様ですか
事実の如何に関わらず、お母様待遇をぶち壊します
869 :
考える名無しさん:2011/11/22(火) 04:21:48.57 0
(`・ω・´) n カールの母ちゃん グッジョブ!
⌒`γ´⌒`ヽ( E)
( .人 .人 γ ノ
ミ(こノこノ `ー´
)にノこ(
870 :
考える名無しさん:2011/11/22(火) 04:29:38.85 0
再びのC点論者です。今朝は、気分一新。
議論の前に、セレモニーです。
私は、唯物論者。HP「精神について」を、まず参考にしてください。
871 :
考える名無しさん:2011/11/22(火) 04:36:49.81 0
総て「無」であります。その「無」を、私は、考えています。外は「闇」です。
外界から「刺激」は有りません。
私の内界からの、肉体の、刺激で、私は「意識」が有ります。
外界からの刺激を断ち、「無」を考えています。
872 :
考える名無しさん:2011/11/22(火) 04:43:14.86 0
外界の刺激のない「闇」つまり「無」を、私の「自我」は考えています。
「禅」のことは、私には解りません。「無心」ではありません。
過去から、経験から、自我の「記憶」に蓄えられた「データ」により
私の自我は、活動しています。
873 :
考える名無しさん:2011/11/22(火) 04:52:50.77 0
もう、お分かりのように、認識主体は「我」です。認識対象は「無」です。
認識行為も「実在」です。仏教「学」とは、出発点が本質的に違います。
仏教「論」です。私なりの。
「我思う ゆえに 我あり」
私の出発点は、「デカルト」です。明確にしておきます。
874 :
考える名無しさん:2011/11/22(火) 05:06:02.32 0
「無」です。時間も空間も有ります。私の肉体が、タテ・ヨコ・タカサの
拡がり、つまり、「空間」を知らせ、私の心臓や肺が、時の流れ、つまり、「時間」を
しらせてくれます。
ここでは、「無限」に大きな、又逆に、小さな「空間」が考えられ、
「無限」に、長い、又逆に、短い「時間」が考えられます。
「無限」と言うものを、考えるのでなく、「瞑想」もしてみて下さい。
875 :
考える名無しさん:2011/11/22(火) 05:15:52.93 0
「無」の中に、タテ・ヨコ・タカサのある「物質A」を考えます。
「物質A」は空間を二つに分けます。
つまり、「物質A」と物質Aにあらざる「空間非A」です。
「空間非A」は、無限の「宇宙」の広さを持っています。
876 :
考える名無しさん:2011/11/22(火) 05:24:22.80 0
ここで、「物質A」は「空間非A」と分離されていなければなりません。
ここで、両者を分離するのは、空間に「厚さ」を持たない面で、この面を
「B面」と言います。
この「B面」が、C点論の入り口です。どうしましょう?
877 :
考える名無しさん:2011/11/22(火) 05:45:45.65 0
(`・ω・´) n カールの母ちゃん グッジョブ!
⌒`γ´⌒`ヽ( E)
( .人 .人 γ ノ
ミ(こノこノ `ー´
)にノこ(
出発点であるデカルトが私にはないのでどうにもならんわ(笑)
倍々満
0.05秒しくった。つもれなかった。
881 :
考える名無しさん:2011/11/22(火) 15:50:30.44 0
つましく こころ豊かに
どうぞ
884 :
考える名無しさん:2011/11/22(火) 17:18:39.14 0
↑僻み
言葉は、自分の脳細胞の間でやりとりされるから、その時点でコミュニケーションに向かって
開けている。自分の脳細胞は、コントロールできない面があるから、自分は一つではない。
多数の細胞が集まった自分は、アメーバのように分裂することがある。
何を僻むんだ?
言葉とは一つのバイブレーションである。自分と他人に渡されるとき、それぞれの時に振動する。自分は頭の中で、
他人はくちびるで。振動は暴力でもあるが、愛でもある。暴走した言葉は力がある。
すべての事実は否定できる
否定辞をつけるだけで
だが、世界を否定することは現実的ではない
生と死のルール
だから、世界が僕を否定しても、僕は世界を否定しない
世界もまた自分だからね。
否定しない君を世界は肯定し始めるかもしれない。
自分を否定することは可能だろうか
すべて白か黒に変化してしまう物事ばかりだが、自分の色は変わらない
自分の否定は、世界の否定になってしまう
それを僕はうなずけない
すべて簡単なことばかり
難しく考えることは罪悪だ
>>892 ぎゃははw超自己中w
ゆとりくん、そんな事みなわかってるよ!
だから試行錯誤してるの!
殺すことで無を生むことができる
それ以外には現実的無は存在しない
論理的無が現実として現れたとき、その現実性を初めて知る
手に持った無を、人は記憶してしまう
>>893 そんな事の中身が知りたい。みなが分かっている事なんてあるのか?試行錯誤する必要がどういう物事に対して
存在するのか、はっきりと分からない。
>>895 もうちょっと自分で考えようよ!w
また見て見ぬ振りして愛だとか無を語るの?
ゆとりw
>>896 人を見下して悦に入るような事だけは俺はごめんだ
898 :
考える名無しさん:2011/11/22(火) 19:43:38.20 0
>>897 かっこいー!!参ったよ!
何でもお見通しだね。
謝るよ。俺もごめん。
>>898 俺も謝るよ、ゴメン。許してくださいね。
>>899 わかればいいんだよ。
さっさと窓閉めてオナニーして寝ろ。
現実と妄想の違いが分からない
妄想だと許せないが、現実なら許せる
やはり現実の重みはすごい
902 :
考える名無しさん:2011/11/23(水) 04:36:24.39 0
C点論のつづき
「B面」について、今一度述べます。「無」の空間の中に、具体性のない概念の
「物質A」を考えます。空間はAにより、二つに分けられます。「物質A」と
「空間非A」です。
Aと非Aとは、分離されねばなりません。さもないと、Aと非Aは合一して、存在
出来ません。
903 :
考える名無しさん:2011/11/23(水) 04:48:43.57 0
ここで、Aと非Aとを分けるものは、Aを取り巻く「厚さ」のナイ面で
これを「B面」とします。勿論、B面も概念の存在です。
ここで、B面は「矛盾」として認めないのも、正しい判断です。科学的、
哲学的「思考」では、そのとうりであります。
「矛盾」への、宗教的「瞑想」を拒否する方は、「縁ナキ衆生」ですので
以後、退場し「邪魔」しないで下さい。
904 :
考える名無しさん:2011/11/23(水) 04:59:53.08 0
Aは存在「有」としますと、非Aは非存在「無」であります。
「B面」は、「Aであり同時同位置で非Aである」か「Aにあらず同時同位置で
非Aにあらざる」何れかの存在です。意味するところは同じです。
いずれにせよ、Aと非Aは同時同位置存在です。「矛盾」につき徹底的な「瞑想」を
お願いします。
905 :
考える名無しさん:2011/11/23(水) 05:06:09.23 0
西田哲学から言葉をかります。
有と無という、絶対に相容れない「矛盾」が、同時同位置に存在します。
「絶対矛盾的自己同一」といえるでしょう。
しかし、意味するところは難解です。矛盾に対し「瞑想」して下さい。
906 :
考える名無しさん:2011/11/23(水) 05:17:26.93 0
般若心経の「色即是空」は如何でしょうか。
C点論では、仏教「学」の「無自性」論を取りません。現象「色」は実体が無い
と言う「空」を否定し、「色即是空」は西田的「矛盾」と同様に考えて、
実体有る「矛盾」を考えています。
ここは、仏教「学」でなく、仏教「論」です。異論が多く予想されます。
907 :
考える名無しさん:2011/11/23(水) 05:23:19.82 0
中論から言葉を借ります。
「非有非無」です。言葉の上では、了解可能ですが、ご存知のように
中論は、「無自性」が論の精神です。
拘れば、C点論とは相容れません。
908 :
考える名無しさん:2011/11/23(水) 05:31:06.85 0
華厳経の「一即一切」は、どうなりますか
Aという「有」は有限で小さな存在ですが、非Aは「無」で宇宙の広さもあり、
この相容れない両者の合一は、「一即一切」と言えるようです。
すこしムリか?
909 :
考える名無しさん:2011/11/23(水) 05:37:01.35 0
最後にC点論では、「有・無合一体」として、
有にあらず、無にあらずの、第三の存在として、実体あるものと
考えています。
「B面」は矛盾・無限の「視座」ナシでは、了解出来ません。
910 :
考える名無しさん:2011/11/23(水) 05:41:07.62 0
「B面」と言う「厚さのナイ」ところの「純粋な面」が、難問です。
911 :
考える名無しさん:2011/11/23(水) 07:20:38.23 0
「B面」は、ウラであり、同時に同位置でオモテである。
具体性のない概念って何やねん?
観念のことか?
913 :
考える名無しさん:2011/11/23(水) 14:28:02.51 0
具体性のない概念てなんだろ?
未来の出来事?、これなら具体化させると嘘になるから抽象的な概念でしか
表現できないだろうけど。
914 :
考える名無しさん:2011/11/23(水) 14:37:33.35 0
「B面」は、これまで物質の「非変化」、つまり、空間を、そして、時間的には「瞬間」を、論じてきました。
「持続」という、物質の「変化」、つまり、時間を考えるには、物質の「変化」が
なければ、なりません。
なぜなら、時間とは、物質の「変化・非変化」、つまり、「持続・瞬間」の
同時同位置存在の「概念」であるからです。
915 :
考える名無しさん:2011/11/23(水) 14:48:53.12 0
物質の「変化」は、
Aが非Aとなり、非AがAとなることであります。
話を、変えれば、「空間の変化」により時間はかわります。例えば、異「次元」
とか、空間の物質存在にムラ?があるとか、言う場合であります。
勿論、ビッグバン以前には、物質も無く、空間も有りませんので、当然の
ことながら、時間もありません。
>>915 ビッグバンで、無から宇宙ができたと本気で思っているんですか?
もしそうなら、お釈迦様から破門を言い渡されると思いますよ。
時間は人間のなかにしかないよ。
歴史が人間のなかにしかないようにね。
918 :
考える名無しさん:2011/11/23(水) 14:57:56.49 0
物理学の「時間」とは、一致しないかもしれません。「観測」から
導き出された「時間」では、ありませんので。
C点論のモロサであります。
哲学的に「時間」にツヨイお方も、多いでしょう。暴論多謝。
919 :
考える名無しさん:2011/11/23(水) 15:06:09.03 0
916氏へ
まだ、C点論の「C点」を論じて居ませんが、ビグバン以前から「C点」
の超高密度の存在があったとおもわれます。
HP「C点による仏教的宇宙論」「C点論における矛盾と無限」参考に
920 :
考える名無しさん:2011/11/23(水) 15:12:40.49 0
917氏へ
お説のとうりです。時間の実在は、現在と言う「瞬間0秒間、つまり、
無」にしか有りません。「矛盾・無限」の視座を要しますが。
921 :
考える名無しさん:2011/11/23(水) 15:15:37.58 0
正確には、0秒間は「有・無合一」
922 :
考える名無しさん:2011/11/23(水) 15:18:22.36 0
C点論は矛盾・無限の視座より、論じています。蛇足でした。
C点が何かは知りませんが、
数学の点のイメージに近いと思ってしまいますね。
ウパニシャッドでいうところの梵我一如だな
でも実際問題これで苦しみはなくならんな。
ニルヴァーナに到達するには、しつこくいうがヴィパッサナー瞑想と十二因縁などの諸々の教義、苦行(中道は苦行を全否定したわけではない)が重要
認識論的には議論すべき余地があるんだろうけど自己と自我を同居させこの世の言葉で論じるならこうやってこじつけるしかないわな。
B面はアートマンみたいなもんだろう。個人的な理解では
>>924 そうなんだよな。
彼(c点論)は1+1=0.5+0.5+0.5+0.5=2
と言っているだけで発展性が無い。
c点に期待。
926 :
考える名無しさん:2011/11/23(水) 17:05:40.20 0
923−925氏へ
ご指摘のとうりです。仏教には、「人生の近道」はナイ。私の結論です。
だが、生命を大切に 仏教の真髄はこれに尽きる ここから慈悲の心は生まれる
これが私の「願望」です。在家としては、「つましく こころ豊かに」と考えています。
確かに、新しく「得る」ところは、ありません。暴言多謝。
927 :
考える名無しさん:2011/11/23(水) 17:10:11.05 0
>>926 遠回りこそ近道なら。それは近道があることを意味する。
仏の表現の解釈の1つだけ見ていればいいさ
>>926 そうかもな〜ヴィパッサナー瞑想には多少意味があるかもしれんが
悟りそのもの自体には社会でいきていくつもりの在家には何の意味もないと思う。
(過度に執着しないし恋愛には興味なくなるといういいのか悪いのかわからん副作用はあるが)
それよりマックス・ウェーバーのいうところのエートスの変換を目指したほうがいいな
それを哲学的に結びつけていくのが俺の展望
>>926 え?終わり?
その、命を大切に、
つましく心なんたら、と
c点を結びつけて欲しかったな
930 :
考える名無しさん:2011/11/23(水) 17:32:57.22 0
数学では、無限につづく有理数列から零列を使って、実数を構成します。
HPの「C点論における矛盾と無限」を読みますと、有理数と実数の関係のようなものを感じます。
「−0」と「+0」のくだりは、数学の左極限、右極限にかなり近い印象です。
「B面」というのも、有理数でできた物質に対する無理数の境界という感じではないでしょうか。
ひょっとして、有理数の新しい完備化のイメージをお持ちですか。
932 :
哲人・本人:2011/11/24(木) 08:51:16.90 0
>>926 >ご指摘のとうりです。仏教には、「人生の近道」はナイ。私の結論です。
「悟りを開く=真理を会得する」ことが人生を楽しく歩む方法ですよ。
君は、もう少し釈迦の心に近づいて下さい。
>>932 >君は、もう少し釈迦の心に近づいて下さい。
釈迦の心を勝手に創作しないでください。
釈迦の心を勝手に捜索しないでください。
935 :
考える名無しさん:2011/11/25(金) 03:05:06.41 0
あとがき C点論者です。
私の仏教観は、般若心経、華厳経より、現在は真言密教です。それ故、釈迦如来とは
必ずしも、一致しません。法華経、涅槃経は、釈迦を慕う人々の「願望」と考えています。
禅には経論が、原則として、存在しませんので、自ら参禅してまでの意欲も暇も
私にはありません。
私の医業は菩薩行で、「つましく こころ豊かに」生きています。近況報告も含めて。
いいかげん仏教板に帰れ、
>>935 少なくともそれを悟りとは思わないほうがいい
自分には悟りは無理という態度で謙虚でいたほうが適切
それに密教はゴータマ・ブッダの教えじゃないしあくまで空海の教えと理解すること
ニルヴァーナは人それぞれだが、誰の涅槃なのかは混同してしまわないように
自分も他人も傷つけないで生きることは絶対に不可能だが、
それを最小に近づけようとする道が仏教ではないかな。
まず第一歩は、自分の体を傷つけないこと。次に自分の心を傷つけないこと。
そこから、自分の親しい人を傷つけないこと、というふうに範囲を広げていく道。
それが仏教だと僕は思う。
可能な限り自分を傷つけないこと、そしてなるべく他人を傷つけようとしないことが無我であり空だと
僕は考える。
本質は自分が気持ちよくなるには?だと思うよ。
慈悲とかは道具であって、最終的な目標は苦を滅することだよ。
大乗は慈悲を過大評価しすぎたな
それは仏教というよりヨーガだね。
はあ……。なんか仏教過大評価しすぎじゃね?
元々ヴェーダ思想ってアーリア人の観察によって起こったといわれてるけど
ブッダは苦の観察によってそれをなしたと見る方が適切だと思うけどね
942 :
考える名無しさん:2011/11/26(土) 19:32:19.27 0
>>939 過大評価したんじゃなくて形骸化させた。
本来「慈悲」は必ずしも行動に現れない。
ところで大抵の日本人が「悟り」あるいは悟った人だと感じるものはほとんどの場合
日本特有の「本覚思想」もしくはその体現者であって、必ずしも古代インドの仏教徒の考える「悟り」とは一致しない。
無論だからといって本覚思想が間違っているというわけではなくって、
日本人には一番しっくりくる「悟り」とインド人にしっくりくる「悟り」が違うというだけ。
そして釈迦はあくまでインド人。
じゃ、悟りって自己満足なのね
944 :
考える名無しさん:2011/11/26(土) 20:20:33.22 0
>>943 無論そうです。特に釈迦(及び他の自由思想家たち)の場合はそうです。
そもそも釈迦は師に認められたのではなくて、
自分で弟子に教えを説いて認めさせたんですから、
少なくとも菩提樹の下で悟ってから弟子に説法するまでの間は自己満足以外の何でもありませんし、
たまたま弟子を説得できたから結果的に他人にも認められましたが、
恐らく例え弟子の中に悟る者が誰もいなかったとしても、
釈迦は自分の悟りが間違っているとは思わなかったでしょう。
最初から他人に理解されることをそこまで期待していなかったようですから。
極めつけには、「釈迦族は傲慢である」と釈迦が自分で言っています。
945 :
哲人:2011/11/26(土) 20:22:36.67 0
いや、開祖ってそういうもんじゃね?
いかに自分のウィルスを多くの人に感染させるか。
終了
947 :
考える名無しさん:2011/11/26(土) 22:24:03.96 0
>>945 うーん「開祖」本人が「感染させる」ことを目的としていた宗教は、古代においては
結構少ないと思いますけどね。釈迦の場合も基本姿勢は「耳ある者は聞け」でしたから。
イエスも「私の弟子になるなら、死ぬ覚悟できなさい」って感じですし。
今ある無数の新興宗教を除けば、「開祖」が「開祖」として自ら積極的に布教活動をしたのはイスラームだけじゃないでしょうか。
大抵は「どうやって多くの人に布教するか」に躍起になっていたのはむしろ後代の弟子の方でしょう。
キリスト教ならパウロ、 仏教ならマハーカッサパ、浄土真宗なら蓮如がその中心。
他力本願 終了
949 :
考える名無しさん:2011/11/26(土) 22:42:00.03 0
>>944 >少なくとも菩提樹の下で悟ってから弟子に説法するまでの間は自己満足以外の何でもありませんし、
悟った時点で自我が消えてるから
自己満足は感じないんじゃないかな。
950 :
944:2011/11/26(土) 23:46:16.51 0
>>949 失礼ですが、それはどういう次元での話でしょうか?
もしあなたは「釈迦の悟り」が何たるかを理解しておられるなら、全くもってその通りですが、
そうでないなら、それは間違いです。
(私はそうでない人「も」読むという前提で
>>944を書いています。)
どこが間違いかは、あなたがどう「悟り」を認識しているかに依りますが、
もしあなた自身がBuddhaでないとしたら、
>悟った時点で自我が消えてるから 自己満足は感じないんじゃないかな。
という認識は誤解を含んでいる可能性が高いです。
推するに、恐らく「悟り」を神秘的に捉えすぎている可能性が最も高いです。
悟りは本来全く神秘的要素がなく100%合理的であるというわけではありませんが、
あなたは少し神聖視しすぎているかもしれません。
少なくとも「私」にはそう見えます。
自己満足のレベルが違うんじゃないの。
お釈迦様の自己は僕らの自己とは違うから、僕らの自己満足とは違う種類の自己満足だと思うよ。
もちろん我々と比べるんじゃなく名のある
高僧たちとであるが
中身はどうでもいいんじゃね?
何か表現したところで、
全てを他人に伝えることはできん。なんて事は、
お釈迦様も解り切ってただろうし。
それでも、こんな感じ(´・_・`)て伝えたって事は、
そんなもんとは全く無関係なとこにあるって事だと思うが。
という推測の推測。
954 :
949:2011/11/27(日) 00:57:18.26 0
>>950 「釈迦の悟り」は「諸行無常」と「諸法無我」だろ。
悟りは理解するモノじゃなく、自然に現れてくるモノだよ。
955 :
944:2011/11/27(日) 01:22:31.79 0
>僕らの自己満足とは違う種類の自己満足だと思うよ。
その通り。
でも「自己」が違うというのは、そこに優劣の差をみるならそれは違いますよ。
むしろ人によって性格が違うというくらいに過ぎません。
この世が楽しめるなら、せっかく生まれてきたんですから、めいっぱい楽しんで下さい。
それができるならそれでいいんですよ。
別に悟れない人が悟った人より劣っているなんてことはないんですから。
「悟り」の目的は、一言で言えば「苦を滅すること」です。
つまり既に人生が楽しめている人が「悟る」必要はないんです。
釈迦は大抵の人から見れば羨ましいくらいの境遇にあったのにそういう生活に満足できなかった。
それほど精神の鋭敏な人であった。だから彼には「悟り」が必要であった。ただそれだけ。
故に私は悟りを得るために反って苦悩している人をみると、いたたまれない気持ちになります。
釈尊は、人が
「自分は釈迦に及ばない」と考えて苦悩することを望んだでしょうか。
「釈迦仏を信仰しないと呪われる、地獄に堕ちる」と恐れることを望んだでしょうか。
「私は悟りが得られないから劣った人間なのだ」と落胆することを望んだでしょうか。
そうではない、と思いませんか。
思うのなら、世間の誤解から自分を解放して、もっと幸せになって下さい。
そうして変な似非宗教に騙されないように気をつけて下さい。
956 :
考える名無しさん:2011/11/27(日) 01:37:52.05 0
>>955 >「悟り」の目的は、一言で言えば「苦を滅すること」です。
>つまり既に人生が楽しめている人が「悟る」必要はないんです。
「楽しみ」も苦の1つだよ。
957 :
考える名無しさん:2011/11/27(日) 01:46:47.14 0
ああ、その通りだわなんか日本では神秘的に捉えられてしまっている気がする。
大乗仏教の「空」とか「慈悲」が誤解させてる理由だな特に般若心経が戦犯だわ
楽でもなく苦でもなく、楽と苦の中道が、苦を滅することなんじゃないかな。
959 :
考える名無しさん:2011/11/27(日) 01:54:19.80 0
悟りはエピクロスでいうところのアタラクシアも悟りと通ずるところがある気がするな
苦しみに鈍感であれば悟る必要もないってことだろうな。
悟りきれなかった方が悲惨ってこともあり得るし、そこまで深刻に思わなかったら必要ない気がする
悟りきれなかった時を考えろ欲にとらわれ人生の時間を無駄にし苦しみながら死ぬ
960 :
考える名無しさん:2011/11/27(日) 01:59:37.08 0
中道の捉え方おかしくない?
wikiによると
厳しい苦行やそれと反対の快楽主義に走ることなく、目的にかなった適正な修行方法をとることなどが中道である。
ってあるけど修行についての考えなんじゃないか? それが苦を滅する道ということなような気がするがだれかフォロー頼む
弦の音は 強く締めれば糸は切れ
弦の音は 弱くては音色が悪い
弦の音は 中ほどに締めて音色が良い
音に合わせて歌えや 歌え
歌に合わせて踊れや 踊れ
962 :
考える名無しさん:2011/11/27(日) 07:29:02.82 0
>>960 修行は死ぬまで続くんだよ。
苦にも楽にもどちらにも偏らない中道=修行を死ぬまで続けることが苦を滅することだよ。
964 :
944:2011/11/27(日) 11:48:03.21 0
>>956 勿論釈迦にとってはそうでした。
(私にとってもそうですからそれはよくわかります。)
でもだからといって、
「楽しみ」が「苦」であるとは思わずに「楽しみ」に耽っている人たちを上から見下すのは、
正しくない、と私は思う。
彼らにも教えを説きたいなら、
やっぱり彼らが「楽しみ」が「苦しみ」なんじゃないかと自分で考えだしてからじゃないと意味がないし、
反って有害だと思います。
そういう意味で、セイロン等の小乗仏教国の聖者は、出版されている本を読む限りどうも傲慢というか、
仏教的価値観が常に誰にとっても正しいという考えを広げようとしすぎている気がします。
はっきり言って、こういう傲慢な姿勢が赦されているということが、
間接的にであっても犯罪めいた「新仏教」の成立する原因になっていると思います。
反対に大乗の聖者は「悟り」を遠く及ばないが到達しなければいけない目標としてしまって、
その上で民衆でも「悟り」に簡単に近づける方法を説くという頗る奇怪な姿勢でいるので、
これはこれで「釈迦の教え」を疎外しているように思います。
まあ大乗の場合は「釈迦とは別の教え」という立場なら結構なんですが、
その場合はややこしくなるので仏教の宗派という立場を使わないで頂きたいですね。
使うにしても「日本仏教」みたいな形で使ってほしいです。
例えば、「仏教では、念仏を唱えると阿弥陀如来に救われるとされている。」
みたいな紛らわしい記述が横行してしまうので。
965 :
考える名無しさん:2011/11/27(日) 12:16:47.63 0
966 :
考える名無しさん:2011/11/27(日) 12:23:42.44 0
同じ言葉によって記憶がショートするから人を理解できる。
アイデンティティはほかにない。
968 :
956:2011/11/28(月) 00:46:06.86 0
>>964 >「楽しみ」が「苦」であるとは思わずに「楽しみ」に耽っている人たちを上から見下すのは、
>正しくない、と私は思う。
「上から見下ろす」とか「正しくない」っていう感想は「あなたの世界」での話であって
私のレスとは関係ないですね。
ヨガ行者とか仙人なんかは自己満足の世界だけど、仏教はもっと広い満足の世界。
970 :
考える名無しさん:2011/11/28(月) 05:38:36.56 0
そう、宇宙全体の真理まで知りたい。
971 :
考える名無しさん:2011/11/28(月) 05:40:21.78 0
人間の心の底まで知りたい。
972 :
考える名無しさん:2011/11/28(月) 05:41:55.85 0
そう、宇宙全体の真理まで知りたい。
973 :
考える名無しさん:2011/11/28(月) 05:45:04.74 0
人間の心の底まで知りたい。
974 :
考える名無しさん:2011/11/28(月) 06:26:53.19 0
深淵を覗いたときに見つめ返してきた深淵にあなたは
@目が合って怖くなり動けなかった
A首を絞めて殺した
Bキスをして舌を入れ込んだ
975 :
考える名無しさん:2011/11/28(月) 08:05:34.27 0
さとる? 知る?
観る、見る?
>>970 "色即是空"とかの言葉とか有名だろ、あれ1つだけでも宇宙全体の真理を表している。
知ったところで信じられないとか理解するものだと思うからこそ
関係をもてないし、主観的な意味すら生まれない。
本当に悟ったならば、その無意味さが実感できなんでそんなに悟ろうとおもったかを
反省する。
意識とは、知覚にかんするイマージュ的な意識、社会に関する意識、自分の存在についての意識、罪の意識、
思い出、欲望の意識、などがある(もちろんほかにもある)。存在は、物質的側面、社会に対する働きかけ(労働)の側面、
を対他的に持ち、自己に関する意識を内自的に持つ。意識の自由さが、個人の自由さだが、存在は自由ではない(限られている)。
コミュニケーションは、内的意識と対他的意識の交流だが、それはカオティックに行われるのではなく、あるモデルの範囲で限られた、
論理に従ったゲームである。したがって、コミュニケーションは、内自的意識ほどの豊かさは持たない。
ここのスレで賢明な方達がおっしゃっていたように、仏教では内自的な面を追求するのであって、他者への教化という側面は
大きくない。ウィトゲンシュタインのように、コミュニケーションの自由さの拡大を追求する哲学との反目があるだろう。
もちろん、両者を追求することが、考えを究めることではある。
979 :
考える名無しさん:2011/11/28(月) 18:52:45.37 0
>>977 どっちかって言うと真理は「諸法無我」のほうじゃないかな。
次の3つの考え方をするのが、仏教です。
1)諸行無常
2)諸法無我
3)涅槃寂静
>>979 言葉で真理を表せると思ったのか?
捉え方の1つにすぎない、どちらかというのは主観の1つ。
982 :
考える名無しさん:2011/11/28(月) 23:19:47.77 0
真理は体験するしかない。
外形的に表された言葉も最終的には体験するしかない。
同じ言葉を聞いても、悟った者と悟っていない者とでは、体験内容が異なる。
悟っていない者は真理を体験できない。
あんまり神秘的に思わないほうがいい回り道になる
センセーションは大事だけど仏教は論理的であるという前提をもっていた接したほうがいい
論理と瞑想を究めていけば絶対悟れるとはいわないが、方向は見えてくる
悟りたければ四の五の言わず、修行すれば良いだけのような。
目が見えない人が見える人が言葉で語ってる赤色の内容を学び、それを真似て語ったところで、それ以上の意味はないような。
986 :
考える名無しさん:2011/11/29(火) 01:32:10.55 0
>>985 修行、修行と皆さんよく言われるが、
修行と悟りの関係がイマイチ分からない。
修行は悟りに必要かなあ。
>>986 体験と、その後に皆と共有できる形式である論理に即してその内容を語る場合は、体験が論理に先行している。
その体験を作るのは修行が1番手っ取り早いと思う。
誰もが今すぐに悟れるわけではない。
修行は後の人間が獲得する能力を前倒しで獲得する方法だと思う。
自然に得られる人もいるでしょうが、大半はそうでないでしょうし。
もちろん論理を論理に即してさらに展開することも可能だと思いますが、大概言葉遊びになってしまう気がします。
なにより、自分でその真偽を観察できない。常に誤謬と背中合わせでないといけない。
悟りの定義の大小があろうが、そこは共通して言えることだと思う。
988 :
考える名無しさん:2011/11/29(火) 04:43:52.95 0
まず、座禅する。悟りはいつかついてくる。ついてこない、来ないかもしれない。
しかし、拘らない。座禅するだけで、よい。たどりつく、ところがある。
修行して悟りに到るという考え方はよくないようです。
仏教では、悟りはたどりつくものではないと考えられているようです。
修行するが、悟りに到か到らないかにこだわらないという言い方も、
修行と悟りを分けて認識しているので、その意味ではおかしいでしょう。
少なくとも道元禅師の只管打座はそういう意味ではないでしょう。
修行と悟りの関係については、
道元禅師の本証妙修、修証一等などの考え方が、いいと思います。
>>989の意味は、悟りが最終目的で、
修行は、目的達成のための方法論であると考えてはいけないということです。
その通り。1日24時間死ぬまで修行。夢の中でも修行。
992 :
考える名無しさん:2011/11/29(火) 08:12:59.23 0
禅には、基ずくべき経論はナイ。「無」からの出発と思うが?
>>989 >修行して悟りに到るという考え方はよくないようです。
指摘の「よくない」の部分の説明が足りないようです。
>修行は、目的達成のための方法論であると考えてはいけないということです。
「いけない」の部分の説明がたりないようです。
ちなみに修行の体系は方法論でしょうが、修行は方法だと思います。論ではないです。
ちなみに、私は「悟り」っていう単語は大嫌いです。人により定義がことなり、しばしば人を惑わすからです。
輪廻が存在するならば、修行しなくても人は何れ悟る(前進し続けるので悟りの定義が違おうが間違いなくいつかそこにたどり着く)ってほうがしっくりきます。
その意味では人生は巨視的な意味で修行といえなくはない。
出典は失念したが
たしか天台の智なんかが言ってたと思うが
論理がなければ悟りかどうか判断できず
実践がなければ悟りに到達できない
論理を疎かにする態度はどうかと思うわ
最初から悟りは神秘的なんだとか思って入るのはやめとこう
実践によって神秘的なセンセーションを感じることはあるが光が見えるとかよくいわれるあれは悟りではないからな。
坐禅はヴィパッサナー瞑想が基本だと思うわ
>最初から悟りは神秘的なんだとか思って入るのはやめとこう
憧れなんだから仕方ないだろ、中2病なんだから病院いって治すぐらいしか
>論理がなければ悟りかどうか判断できず
違います、悟ったかと思うかどうかだけです、そこに論理は不要です。
論理的に正しくても納得できなければ悟ったと論理思考では自覚できません。
>実践がなければ悟りに到達できない
悟りというものが到達するものだと表現されたものが有る故に信仰のように
到達すると信じているだけです。全ての思考に悟りはあり自覚ができないだけです。
そしてその悟りに意味を見出せないだけです。
自然をみて必要なものと不要なものを分けるのと同じです。
実践タイプではメタ思考では理解できないと説明しているものが多いこと
すら知りませんか?
なんの根拠も実績も体験もなく信じることなど難しいです、故に悟りを認める
ことなどできないのです。これが悟りですといって誰が信じますか?
>論理を疎かにする態度はどうかと思うわ
論理で悟りを解釈するのならば、既に文献などで記録に残っていなければ
悟りが存在するのは矛盾すると考えないのでしょうか?
そもそも論理で悟りに到達すると表現する文献を信じるのにそれが理解できない
から修行やら体験やら実践と論理を武器に求めるのでしょう。
実に無様です。
996 :
考える名無しさん:2011/11/29(火) 20:53:42.92 0
>>995 995さんは悟っているの?
悟っているんなら言ってる事もなるほどと納得できるけど
悟ってないんだったら994さんの事を無様だって言えないよ。
997 :
ユーサネイジア ダニエル・カール:2011/11/29(火) 21:05:04.50 0
(´∀`(⊃*⊂)
悟りが洗礼のように扱われている。
995さんは□ているの?
□に入る言葉は
悟っ
洗礼を受け
東大合格し
旧司法試験合格し
バブル期体験し
ゼロ年代ひとり勝ちし
いろいろある。
999 :
考える名無しさん:2011/11/29(火) 21:54:49.77 0
1000 :
考える名無しさん:2011/11/29(火) 21:55:26.02 0
1001 :
1001:
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もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。