◇◆pikarrrに哲学思想はあるのか 6◇◆

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457第三の波平 ◆JXLBbnYqTY
■なぜ宋時代は世界史的、日本史的にターニングポイントなのか 

唐と元の間に宋あり

日本人が中国の歴史について知るところでは、初めて中国を統一した始皇帝の秦、漢字などさ
まざまな文化の起源は漢、そして日本との関係からいえば、遣随史、遣唐史などを送り、古代
日本国家のモデルとなった随、唐。さらには日本侵略を企てた元などがあるだろう。しかし唐と
元に挟まれた宋の世界史的、日本史的な重要性はほとんど知られていない。

簡単にいえば世界史的には現代に続く市場経済の先駆けである。さらに日本にもそれまでの
唐モデルの律良性から、初期の民主化、市場経済をもたらした。日本の文化は室町時代に変
革点があり、現代までつづく社会の在り方はそのころにつちかわれたといわれるが、まさに宋
文化の影響が大なのである。
458第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2011/10/08(土) 12:33:26.02 0
唐国と平安の時代

中国史のなかで隋、唐時代は、律令制を完成された。日本は唐を真似て律令制を導入時、皇
帝をまねて天皇を立て、正式に日本国という名のもとに国家を宣言した。日本の平城京、平安
京など碁盤の目に整備された都市設計は唐を真似たものである。貴族制、土地調査による租
税、徴兵を整備する。

しかし中国でもそうだし日本でも、律令制の実施は困難をきわめる。それまで地方を支配し利
益を得ていた人々は簡単になっとくしない。さらに人民もいままでの生活があり、簡単に中央制
度に一律に従えない。さらに柔軟性の低い制度はいつも新たに権力をえる貴族たちの腐敗や
独占が起こる。

そうはいいつつ、改良を加えながら、日本なら奈良、平安時代と数百年の長期政権が維持され
る。長期の政権は周囲を平定し、交通網を整備して、文化を運び地方を豊かにする。さらに海
外との交易を発展させる。唐にはいまでいう外交官が各国常駐して、唐頂点に外交が展開され
ていた。

しかし唐は地方独立のきざしと、中央の弱体化により、分裂し騒乱の時代にはいる。日本は平
安時代だが唐の滅亡と同じくして平将門の乱など、地方での大規模反乱、それは武士の登
場、するのは偶然ではないだろう。日本にも同様に武士を中心とした地方自治の強化が進んでいた。
459第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2011/10/08(土) 12:34:01.57 0
宋と近代

唐の解体、騒乱時代の中から、新たに統一国家として表れたのが宋である。宋がマイナーなの
は、律令制完成させた壮大な唐と、広く中東から欧州まで世界帝国を気付いたモンゴル民族の
元に挟まれて狭間の時代だからだろう。確かに宋は唐の延長線上にある。唐の律令制を改訂
し、皇帝の独裁制を強化しつつ、騒乱時代に衰退した貴族にかわり、科挙制度という受験制を
取り入れ、軍隊や地方権力が分散する改良を取り入れて、比較的な安定した時代を気付いた。

さらに重要なことは、結果的に、商業、工業による市場経済が発展したことである。唐からの交
通網の発展や、多民族との交易などで、市場経済が広がり、新たに多くの富裕層が生まれた。
それまでの儒教による国家主義的な面でなく、人々の自律的な経済活動が発展した。

市場は生産性の向上をもとめて、その後の近代化へつながる、火薬、石炭、鉄の大量生産、
銃、印刷術、造船、航海術が発展した。それは世界史にとっても新たに時代へのテイクオフといえる。
460第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2011/10/08(土) 12:34:45.11 0
宋文化の世界拡散

日本も多大な影響を受ける。宋商人は日本の金銀をもとめ、日本の貴族や地方の富裕層は海
外からのさまざまな文化を求める。その時代、アジアの世界通貨になっていた宋銭が日本でも
流通しはじめ、日本国内の市場経済を活性化した。本来、島国日本は農業以外にも漁業、商
業など多様な産業があったが、律令制は農本主義的に画一的に押しつけていた面があった
が、平安末期の律令制の緩和、地方自治強化とともに、宋からの市場経済の潮流は日本を大
きく変えていく。

宋の交易圏は中東、西洋と世界中へ伸びる。その頃、すでに文化的な発展があったイスラム
圏とは強い関係にあった。宋はやがて、野蛮人モンゴル帝国の元に征服されることになる。騎
馬民族の彼らは、宋の文化や、貿易などへの興味が低く、継承されずに廃れることになるが、
中東から欧州まで勢力圏をのばすことで、文化人、さらに文化は分散していく。その頃まだ、中
国圏、イスラム圏に対して、遅れていた西欧圏の台頭にも影響を及ぼす。

単に西欧がこれらの文化を吸収し発展させたというたけではなく、宋文化で花開いた中国の技
術はその後、世界を先導していくことができなくなることが重要である。
461第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2011/10/08(土) 12:35:45.66 0
西欧と中国の命運


人口増加、市場経済、資本主義、技術進歩など、近代化への流れは、中世末西洋に突然生ま
れたわけではない。主に先導してきたのは、中国であり、中東であって、西洋は後進国だった。
これらの流れは世界のそれぞれの文明の中で「文化的な対話」によって進んだ。

一気に西洋文化が他に比べて飛び抜けて進んだわけではないが、いまから事後的に考
えると、西洋には他の文化に比べて、近代に繋がる重要な傾向が見られた。一つは、中国が
人海を重視したのに対して、機械化を重視した。さらには機械と同期する作業者の組織的な規
律訓練を進めた。人海と機械化には断絶がある。なぜなら必ずしも機械化が効率がよいとは
限らないからだ。安い労働力で人海で製造することの優位は現代でもある。西洋は、機械化と
作業者の組織的な規律訓練によって、生産性を高める技術を進めた。

これについては、中国では人民を集団の一部とする儒教的な考えに対して、西洋では一人ひと
りを重視するキリスト教的な考えのため。中国人は技術重視のトライ&エラーが重視し、西洋
人はキリスト教的な超越論的な傾向から分析的、法則性を見いだす科学性を見いだしたなど
の理屈は考えられる。

もう一つは、軍事技術を重視したことである。火薬、銃は中国が発明したが、大砲は西洋が早
かった。さらに蒸気機関は人海から機械化の流れであるが、この使い勝手の悪いものは、やっ
とより大量の鉄を生産するために応用された。軍事的な優位の重要性は、その後帝国主義とし
て、侵略国に自らに必要な鉱物、農産物産業へシフトさせ、産業の発展を抑圧することができた。