◇◆pikarrrに哲学思想はあるのか 5◇◆

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81第三の波平 ◆JXLBbnYqTY
■なぜセックスとAVは別腹なのか


セックスを楽しむ練習

たとえば野球大ファンの少年がいる。彼は毎日野球を見て興奮している。しかし自分では一度
も野球をやったことがない。まともにボールを投げたことも打ったこともない。彼はいつか野球を
やってみたくてしょうがない。

そしてあるとき彼が野球をするチャンスが訪れた。はたして彼は野球を楽しめるだろうか。実際
にやるのと見るのとは大違いである。ボールを遠くに投げる体の使いから、ボールを打つタイミ
ングなど。おそらく1度野球をやったからって楽しめるものではないだろう。彼は練習を繰り返
し、試合を経験して、野球をやる楽しさを覚えていくのだろう。

セックスも同様ではないだろうか。

多くにおいてセックス未経験者は一度セックスすることに重きをおく傾向がある。童貞と経験者
には大きな差があり、セックスの経験はめくるめくものであるという幻想。

しかしそんな単純なものではない。実際、みるとやるのとは大違いだ。セックスで気持ちよくなる
にも、多くの経験が必要である。セックスの技を覚えると言うこと以前にも、快感を感じる体を作
るところから必要なのである。
82第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2011/09/17(土) 10:46:37.97 0
経験論的快感と超越論的快感


といったことは大いに理があると思う。しかしまた野球とセックスは違う。セックスは野球よりも
神学的である。まさに1回するということに大きな価値が持たれるが、その価値は経験的なもの
ではなく、神学的なものである。童貞を卒業すれば人生変わる、やっと一人前になる。あるいは
女性を理解不可能な神学的な存在と考える。

これらは妄想といえば妄想であるが、社会全体の価値観として定着した現実的な妄想である。
だからそこに実際に大きな快感が生まれる可能性が高い。たとえば快感を単純に、経験論的
快感と超越論的快感に分ければ、一般的にセックスは野球よりも、超越論的快感の割合が高
いと言うことができる。

よく女性はセックスにムードを求め、男性は快感を求めると言うが、本当だろうか。最近は逆転
しているように思う。それよりも、セックスの経験が少ない人は超越論的快感を求めて、セック
ス経験が多い人は経験論的快感を求めるのではないか。セックス経験が少ない人はセックス
へ幻想を求め、幻想から快感がえる。いわば、セックスしている自分に酔うというようなことだ。

それに対して、セックス経験が多い人は幻想をみることが減り、経験によって身体的な快感が
開発されて、性行為そのものに快感を覚えるのではないだろうか。あるいはセックス経験が多く
なればAVを見なくなるということもないので、ある意味で経験論的快感と超越論的快感は別物
ということもできる。
83第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2011/09/17(土) 10:47:10.45 0
セックスは神学的故に心と体の快感の分離が大きい


たとえばセックスの相手は往々にして特定の人物に限られる傾向がある。すると最初は超越論
的快感が先行して、やがて幻想が薄れるとともに互いに慣れてきて、経験論的快感が大きくな
る。しかし超越論的快感が不十分になると、AVで補填するか、他の相手を探すか。浮気に走
る、というようなこともある。

再度、野球とセックスは違うことにもどれば、セックスは野球よりも超越論的快感の比重が大き
いというよりも、経験論的快感と超越論的快感の分離が大きいと言えるだろう。経験論的快感
と超越論的快感の単純な二項対立は、より単純に言えば、体と心である。セックスは野球より
心と体の快感の分離が大きい。それはセックスの方がより神学的だから。
84第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2011/09/17(土) 10:55:01.81 0
経験論的快感 と超越論的快感の単純な二項対立は、より単純に言えば、体と心である。
セックスは野球より心と体の快感の分離が大きい。そして心で快感を感じる傾向が強い。
それはセックスの方がより神学的だから。

ここにフロイトが精神分析を「性的なもの」を核に開発した一つの理由があるだろう。
性関係は心と体が分離しやすい領域である。そのために体から離れた心が
不安定になりやすい。さらには動物にはなく人間のみが心をもつ。その本質がここにある。