ジョルジュ・バタイユ Georges Bataille2

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221考える名無しさん
それから、バタイユやハイデガーの場合、他者性というのは自然の覆蔵と現成として己の内
部に既にあり、そこからサルトルなどはハイデガーの有 Sein を疎外ー自分でありながら自己の
自己の意のままにならず、むしろ主導権を握る領域ーと呼んでいるくらいだ。柄谷が共感するサル
トルなどからみて、有 Sein とは疎外なのだ。しかしそれはむしろ本質的でもあり、かつ他者性
でもある。バタイユにしても、自己の意のままにならぬ猛威として自然が考えられていることでは
同じだ。有というのはこの意味で自己‐性として有りかつ己を左右してくる覆蔵である。言って
みればそれは自己‐性でありかつ他者性でもある自然である。しかしその領域が介在することで
自己は価値への収束を逃れていく。ハイデガーの場合、しかもこの領域は胚胎する歴史 として考
えられている。〈私ー汝〉の他者性以前に既に自己性の領域として他者性は介在し、よって私とは
自分にさえ透明にはなりえない。一般的にいう他者性はそこでは統制された個性=主体の関係で
あり、そこには人間性の深度への考察はない。