2chねらーってどんな人たちなの?

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838考える名無しさん
現在時間がディケードという単位でひとつ前の頃、日本には「萌え」というものが再帰的に「芽生え」、成長していた。
それが今では既に「化石」の形でラスコーの壁画の隣に有るのか無いのかといった程度に風化していしまった。
しかし、萌えの息吹が吹き止んで、姿が見えなくなったからといって「伊吹風子」のように消えてしまったわけではない。

萌えが流行り、萌えが定着し、萌えが当たり前となり、
萌えないことが不自然になり、萌えていると演出過剰にすら思える状態になっている。

現在時間でディケードの単位でひとつ戻り、今の時間を見てみると、
「学園祭の出し物は何にする?えー、メイド喫茶は他のクラスがやっている。コスプレ喫茶も沢山ある。他のにしようぜ。」
萌えは初期化の単位として世界のシステムにその身を消していたのだ。

「萌え」を題材に、平面を主張しながら立体を売りつける世界の美術家Mr.Mとかも居たけれど、やはりハゲには出来ない仕事があるらしい。
見えない「それ」に到達したのは、俺の知る限り「まどマギ」でまどかを消した虚淵氏だけだろうか。

海外の地に身を置く身から眺める日本について考えていた昔の時間、
俺が俺ではなくて日本人として認められるには、一体何を差し出せば良いだろうか、と該当する物を探索していた。
俺が俺として認められることの方が簡単であり、俺が日本の人として認められることはとても難しい。
海の向こうに見えもしない小さな日本という資源を持たない貧相な国に、俺は何を見つければ良いのか。

見つかったものが、「アニメ」と「地震」だ。
「観光」というのもある。
観光というものには対象、目的語が必要だ。
寺を見に来る、浅草を見に来る、フィリピン戦直行鮨詰め輸送船的電車を見に来る、アキバを見に来る。地震の揺れを体験してもらう。

こんなことは10年以上も前に考えていたことだ。

今この現在、日本が「アニメ」と「地震」だけの国になっている現実がある。
面白いというか、俺が見るものは当たり前なのだが
日本の現地現場で実際に携わっている人間達が追いかけているものは、それら「括弧」で括ったものではなく、
目先の利益、見た目からわかりやすいどぎつい色の花びら。
そういう虫みたいな生き方を見せつけてくれる腐った人々で現場は溢れていた。
839考える名無しさん:2013/09/29(日) 01:12:21.49 0
丁度良く、ニュース板に関連性のある記事が挙がっていたので組み込んでみよう。

>宮ア 駿「アニメ、夢ではなくビジネスの手段にされた」とチクリ

> 宮ア 駿監督が、過去50年間の本人の作業について振り返った。

> 宮ア監督は、「アニメーションは美しい夢だと思う」と話し、「アニメイターになって50年が過ぎた。私にとって
>アニメーションは夢なのに、今は夢ではないビジネスの手段になる場合が多い」とし、「大部分のアニメーションが
>なくても良いのではないかと思える」と率直に考えを明らかにした。

> 続けて「創造の時間を10年と表現したのは、私の創造的な時間が既に終わったと思うからだ」と告白し視線を集めた。
>監督は、「20〜30代が私の創造的な時間だった」「この世界の秘密が何なのか分かったような気分になった瞬間、
>既に創造的な時間は終わったと思う」と語った。

> 監督は、「写真やレンズではなく目で、神経で、直接何を見て頭の中に記憶して絵を描いてこそ大きな絵を描くことが
>できるようだ」「人々の感覚が便利になったことでどんどん劣悪になるようだ。若いスタッフたちを見てそれをしばしば
>感じる」と打ち明けた。

http://contents.innolife.net/news/list.php?ac_id=4&ai_id=170095

海外の人はとにかくクロサワが好きだ。本当の意味の「ロマン」を感じているのだと思う。サムライ然り。

宮崎氏の作品は、萌えアニメ時代が始まる前に、萌え要素を売りにしていた作家といった認識だ。俺にとっては。
ロリと少女と初恋を取り除いたら、この人の作品には何が残るのか。
故に、自分の魂が「次世代」でビジネス道具にされていることには言いたいことがあるのだろう。

自分の「魂」の重みと重要さ、真剣さ、真摯さ、本当に真面目にそれが大切だと見定めた「もの」が、
追従する空から降ってきた後追い人達によって、「半額シール」みたいな「魅力」で乱用されている。
その悔しさは理解できるが、世界はもっと深い。
そして、嘆くことも無用だ。
悲しむ必要も無いくらいに、正しく文脈を継承してくれる若い魂も、自分の周囲から離れたところには在るのだから。
840考える名無しさん:2013/09/30(月) 22:06:29.11 0
「アニメ」と「地震」だ。そして、「観光」というのもある。
こんなことは10年以上も前に考えていたことだ。ということは既に述べた。

10年くらい前の頃、もっと前かもしれない。911すら頭になかった頃。
同時に俺はそれらに関係するトンデモ理論を考えていた。
初めから成立させるつもりもない。何かの権威に認めてもらう必要もない。
真実としてそれ以外あり得ないだろうと思われることを統一したそれが俺の頭の中では出来上がりかけていた。

如何に日本が敗戦後米国からの多大な援助があろうとも、
そういう人為的、人工的な支援、または自国民のハングリー精神などのみによって、
日本という地が、嘗て栄え、また栄えるのはおかしい。これが超飛躍を好意的に取り入れる受け皿となった。

日本にあって、他にないもの。
前面を海に囲まれた形。つまり、波打つ表面積の量。波に打たれる面の受ける打撃のエネルギー。
あり得ないほどの地震。地震の震動と地中の活動により与えられる「無根拠にみなぎるエネルギー」。
「地震」と「津波」によって、日本は何度でも蘇る無尽蔵のエネルギーを「太陽」以外のものから受け取っていた。
「地震のエネルギー」というと曖昧すぎる。だが、地震からの、どの力が、
日本を各国企業本社の新入り社員の「詰め込み教育スパルタ合宿所」に選定させるまでの影響を直接与えているのかはわからない。

そして、そのエネルギー、力、は、本当にその力そのものが日本に与えられていると考えるべきなのか。
その力はどこにでもある。日本の位置が偶然、混雑時の駅連絡通路を歩くサラリーマンの肩のように、どうしようもなく
行き違う人から人へぶつかりまくっているのかもしれない。肩パットが入ってなかったら打撲している程の連打が行なわれている。

今はもう、今から10年先を考えている。
トンデモ理論は、扱う人を選ぶ我が儘な武器だ。
リアルで使えば相手にされずに貧乏くじを引く。真面目に説けば根拠不足で人の信頼を失う。
刃物として風化することはないので見えない空間に閉まっておく。
いつでも使える状態にはあるが、使い所を決めなくてはならない。
使い所を決断するということは、終わらせ方を選択し終えるということ。
どこで使うか。大きく使うか小さく使うか。いつでも刃物はハラキリの道具だ。