ケーレのあとは人生論とは決別したのでは?決別とまで行かなくても歴史に企投することを断念するわけだから。
あとは待つだけだと。まあ、それも人生論といえば人生論かも。
953 :
考える名無しさん:2011/10/31(月) 18:02:02.99 0
>>950のひとは、
科学と人生、客観的と主観的っていう、じつに素朴なロマン主義的対立図式を保持しているな。
現象学ってそういうのとっくに乗り越えていると思っていた。
>加藤諦三≒ハイデガー
さすがにこれはないわ
>>加藤諦三≒ハイデガー
>さすがにこれはないわ
齋藤孝≒ハイデガー
むしろこっちだな
けっきょくハイデガー人生論の顛末は
自己の行いについては思考対象の外におくということなんだろうね
ナチズムという最大の思考対象があったにもかかわらず
ナチ党員であるという事実があったにもかかわらず
それはスルー
これじゃ人生論は語れない
957 :
考える名無しさん:2011/10/31(月) 23:37:11.08 0
理解できないんだったら無理にハイデガーなんか読まなきゃいい。
958 :
考える名無しさん:2011/10/31(月) 23:57:59.63 0
ハイデッガーは反面教師として、今でも有効だ!
あれだよ
今度はハイデガーを歴史の文脈の中で読むべきだろうな
ナチズムの人生論として
960 :
考える名無しさん:2011/11/01(火) 00:45:39.55 0
だからなんだよ人生論ってw
わかんなかったら無理すんなって。
人生論は人生論だろ
どう生きればいいのか…
ハイデッガーは考えた挙句にナチズムへ
そして人生論の大家・ハイデッガーは『形而上学入門』において
ナチズムを賛美するのであった
ハイル ヒットラーとか何回も言ったんだろうな
全然読んでないなw
考えた挙句ナチズムっていうのは御幣がある。
元々の考えがナチズムと親和性があっただけで、いわゆるドイツの知的階級にあった比較的ありふれた政治的態度の一つ。
963 :
考える名無しさん:2011/11/01(火) 09:26:45.89 0
フライブルク大退官後もナチ党員のままだったし
人生問答家のくせに自分の人生をまったく総括できなかったのは痛過ぎるw
『哲学への寄与』か笑わせる
『失敗しない人生100問答』でも書けばよかったのに
はやく『超訳・ハイデガー 逃げるが勝ちの人生論!』を早く出してくれないかな
965 :
考える名無しさん:2011/11/01(火) 13:34:54.89 0
妙にもったいぶった口ぶりを真似するだけの困った人達を今も排出しているのは
ハイデガーの犯罪だな
超訳ニーチェのヒットは読んでないけど笑わせてくれたからな。
ニーチェなんてその辺のサラリーマン等が近づくようなシロモノじゃなくて、極めて危険な思想家なのにな。
967 :
考える名無しさん:2011/11/01(火) 15:44:14.19 0
哲学コンプって病むといたいね。
嫌なら近づかなきゃいいだけなのにw
哲学に興味があるけど理解できないでくすぶったままの人の溜まり場になってるよね、哲板ってw
〈人生〉というのはその字の通り〈人の生〉なわけだが。ところがハイデガー思想ではその〈人〉とい
うのがどのような存在であるか、が問われていく。例えば人間というのが、理性的動物というとら
えかたが一つあるわけだが、ハイデガー思想に於いては、理性的動物という規定では人間の尊厳
は掴まえ切れないとされる。むしろ人間の中には人間をして絶望させる、底無し性がある、しか
しそのような人間性、知や理性の担い手である己を超えてしまうところに真の尊厳はある。そう
いう考えがあるわけで。一般的に言われるところの〈人間〉は疑問符を附けられていく。人間それ
自体が問われていくわけだから、〈人生論〉の根底、〈人間とは何者か〉がむしろ問われていくのが
ハイデガー思想というべきだろう。そこはニーチェとも問いを分かち持っているというべきだろ
う。
もうひとつ附言すれば、人間をして己の姿に面し絶望させる、底無し性に対面させる、そのもの
がいわゆるハイデガーの言うSeyn、有・とか奥深い存在とか訳されるものである。ハイデガーを
読むと必ず出てくるが、人間の役目はSeinの見守りだとされる。Seinの発現する場として、Sein
に自由を許す、それが人間の役目とされる。人間が何者か、という問いはだからハイデガー思想
におけるSeinと結び付いている。ここまできて〈人生論〉という呼び名があまりに浅いこともまた
分かる。
人生論は来る 人生論は未来
人生論派も人生論じゃない派も
人生論の定義がいいかげんだから何の説得力もないな
人生論は日常語でもある
まあその程度の意味だろ
大して難しい意味ではないよ
974 :
考える名無しさん:2011/11/01(火) 19:50:10.28 0
>>970 はやくハイデガーを論じてるとか言うアドレス教えろや
ネット番長殿
そもそも、古代ギリシアの昔から、自然論以外の哲学が人生論以上の何かだったのか
ということから考えるべき
1889年9月 メスキルヒに生まれる。
1919年 フライブルク大学哲学第一研究室にてフッサールの助手となる。
1920年 フッサール61歳の祝賀会でヤスパースと出会い意気投合。哲学者として認め会う。二人
の書簡は『往復書簡』として遺される。ただ、ハイデガー思想がよく理解できなかったこともヤス
パースの自伝に打ち明けられている。
1927年 『存在と時間(有と時)』刊行。ターム:Dasein 現存在、現有。 In-der-Weit-sein
世界内存在、世界の内に有ること。 Seinsverstandniss 存在了解、有の理解。 Verfallen
頽落。
1933年4月 周囲の推薦でフライブルク大学学長になる。同時にナチス党に入党。
1934年3月 総長を辞任。
1936-1938年 論稿『哲学への寄与』執筆。生前は刊行を禁ずる。ターム:Seyn 有・、奥深い存在。
Ereignis 性起、呼び求める促し。 Ab-grund 底無しの深淵。
1946年 『「ヒューマニズム」に関する書簡』執筆。サルトルの命題《実存は本質に先立つ》を形而上
学の命題と断ずる。《併し、ある一つの形而上学的命題を転倒しても、その転倒は依然としてある
一つの形而上学的命題に留まっている。》
1961年 『ニーチェ』全2巻を刊行。遺稿「力への意志」をニーチェの最終到達点とし、その意義と問
題をみる。
1962年 『技術と転回』刊行。世界をあまねく算定し、役立つよう立たせ、かつ自分をもそれを確保
するよう立たせる対象と化す人間。
1975年ハイデガー全集ドイツで刊行開始。
1976年5月 心臓麻痺で逝去。
影響は現代思想ではサルトル、デリダ、フーコー、現代日本では木田元、福田和也、が有名
茅野良男が1981年に刊行した絶版『ハイデガーにおける世界・時間・真理』(朝日出版社)を
古書店でgetした。定価\4500が古書店では\6300になっててたけえなあと思ったが、amazon
でも同等で、イタミはまあまあ、ケースも破れず付いているというところで決めた。少しずつ
読んでいこうと思う。渡邉二郎といい茅野良男といい、60年代から活動していたハイデガー研究者
が亡くなって、ハイデガー研究も新世代に変わっていってる感じがする。今は渡邉二郎とかの
ゼミナールで教えられていた人たちが中堅で本を出したり頑張っているようだ。
中島何某とかカント研究はいいけど
自分の本なんて人生哲学ばっかなのに
人生哲学ではないとか言うバカがいるから
哲学の真の意味を理解できないバカが増える
ハイデガーがずうっとやってることって人間主観中心主義批判であって
人生論批判じゃないのよね
いわゆる実存哲学が支配した時代の名残とはいえ
そろそろ人生論≠哲学という近視眼的見方は辞めるべき時
訂正します。渡邉二郎は亡くなっているが茅野良男は高齢で本とかは出してないものの、まだ
存命であられるようだ。どうも調べずに思い込みで‘亡くなって’とか書いて失礼しました。茅野
氏と関係者にお詫び致します。
人生論は最も古い哲学の一つだから
人生論も哲学だよ
人生論が無くなることもないだろうし
ハイデガーが人生論だからといって
別に何だというのだ
ただハイデガーは人生論を思考していたというだけのこと
狂人が住み着いているなw
まあ、サルトルまで人生論ではあった。その元ネタのハイデガーも現存在など問うてる時点でね。
歴史に企投するのかしないのか、要するに生き方を問うようなものだったから、人生論ちゃ人生論。
構造主義になってから問われるべきは主体じゃなくて構造じゃね?みたいな、社会の構造を問う科学みたいになった。
ハイデガーの人間中心主義批判も後期に存在と時間の立場を放棄した後の話だからね。
ハイデガーが自分で「存在と時間」の失敗を認めたのがようやく晩年だから
人生論によけいなことをつけ過ぎたということだな
キェルケゴールにニーチェ
これらも人生論の大家だけれど
人生論をクソ難しくしているのが「キリスト教」でしょ
けっきょくは「キリスト教」との相克なんだよ
日本には八百万の神がいるからそういう葛藤は無かった
「キリスト教」なんかろくなもんじゃないということだな
存在と時間の失敗を認めたのは書いた割とすぐ後だよ
正式に「存在と時間」という試み自体が失敗したと表明したのは
もう後期になってからの話だよ
それまでは版に手を加えよとしたり
あれこれ試行錯誤し続けたけれどね
初期サルトル哲学というのはハイデガーの語彙世界内存在の「世界」を、存在者(有るもの)の全
体ととる誤りから生まれたもので、サルトルの有名なターム、アンガージュマンも、そこでサルト
ルがハイデガーの世界内存在を読み違えたという点を顧慮すればその実体は掴める。そこを考慮
して読み直すとサルトル哲学の初期の問題点は容易く浮上する。また、そこでサルトルを判断し
しても不十分だし、サルトルの本領はそこにはない。サルトルの作家論が優れているものであり、
おそらくサルトル以外の誰もあのレベルまでは書けないだろうことも明らかである。ただ、ハイ
デガーは読めてなかった。それも確かなことだ。
「存在者の全体」というより、「存在者の集合」ととった、というべき。ハイデガーのいう「世界」は
そういうものではない。ハイデガー的に言えば、〈世界〉は〈存在の開け〉と同義だとみていい。現
存在の自由が存在によって根底的に将来させられることをも意味し、そこにはサルトル哲学の
命題ー人間は全世界を選びとる、そのような自由として存在するーが意味するような責任観念は
ない。そこがサルトルのハイデガー読解のもたらした、サルトルにおける自由の観念の背景であ
る。
サルトルはトータルで見ると優れた作家だ
現にノーベル文学賞も貰っているし
作家業に哲学思考が収斂したという感じかな
ハイデガーは特にフランス人はかなり読み違えているよね
「人生論」という中心思考があっての哲学だと気づけば
読み難いことは変わらなくともスジは見えてくる
それを言ってしまうと現代日本のハイデガーの扱いはかなり問題があrんだけれども
フランス人が読んでるのはサルトルを除けば、
つまり構造主義者とかポスト構造主義者が読むのは後期のハイデガーだから、人生論には必ずしもならないよ。
存在と時間の場合は歴史に身を投じることを許容するから、むしろナチスそのものといってもいい。
戦後はそれを拒否するわけだから。あとは神のようなものを待つだけだ、と。
保田與重郎もそんな感じなの?
後期は確かにね
フランスは構造主義が強すぎちゃってハイデガーといっても部分借用のような感じだし
記号学、精神分析、ベルクソンの三本柱が中心になった(ちょっと言い過ぎだけれども)
誰一人として真面目にハイデガーを読んでいないスレ
存在神学なんて最終的には人生論でしょ
主体的に行動しようが
存在と言う名の神に身をゆだねようが
人生論には変わりがない
転回以前と以降とか、そこらの入門書に書いてあるような理解ばかりだね。
例えば無差別殺人をやってたり、さしたる理由もないのに同級生の喉にカッターを入れて切り
裂いたり、或いは解離状態で動物を殺して神に捧げたり、よく解らない、一般的には〈狂ってる〉と
か、文明開化してないとか、見なされる人たちがいるわけだけど、そういう人間にたいしてもその
生に価値などないとか決めず、照明を内部から当てられる。それが本当にいう人生論だ、というな
らば、人生論という名前も間違いではないだろうね。そういう存在、いわゆる〈外部〉にたいし、閉
じることなく、開かれている、語る価値などない、とはせず、それもまた人間性だと包括的になり
うるなら、人生論もありでしょう。でなくて、あれは人間じゃない、語る価値などない、となれば
、通俗的ヒューマニズムと同じ、市民社会に寄生する宗教や哲学と同じである。〈外部〉にたいし、
開かれているかがハイデガー的かの岐路になるでしょう。
とか言ってるひとが他人とコミュニケーションとれないんだから笑えるw
ハイデガーと言う名の宗教は
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