1 :
考える名無しさん :
2011/01/21(金) 10:41:20 0 1989年、生前刊行を止められていた『哲学への寄与論稿』が全集65巻としてドイツで刊行さ れ、2005年、日本語版が初めて刊行された。有の忘却が進行した窮迫。有・の指し向ける拒絶の響 き、無尽蔵。最後の神からの合図。有・の全き非尋常性が初めて為す、有るものの計算・操作の包囲 からの奪い‐移し。有・ Seyn とは無が属する歴史の根源。それは人間を愕然とさせる。謎のよう な思索から浮かび上がる終末の風景。 宮台真司・北田暁大『限界の思考』(2005年)にみられるハイデガーからの多大なる影響力。《宗教 が要求される理由ないし必然性を徹底理解することで、むしろ個別の宗教や神に「依存」せずにす むような〈世界〉の根源的未規定性に開かれた「自立」的あり方》(97-98頁) ハイデガーの言葉と問いは「今のもの」である。
2 :
考える名無しさん :2011/01/21(金) 15:20:27 0
「現象学の根本問題」(翻訳:木田元)、読み始めた。
3 :
考える名無しさん :2011/01/21(金) 17:43:29 0
>>2 がんばって読了してくれ
それまでのあいだ読書ノートをきちんと取って
整理したものをここに投下してくれ
それを燃料にしてスレを伸ばして
「ィ」の代わりに「イ」を使った気持ち悪いタイトルを持つ
このスレを早く消化しよう
今。
5 :
考える名無しさん :2011/01/21(金) 23:17:52 0
宮台真司の『interviews』にこう書かれている。《97年、酒鬼薔薇事件の容疑者逮捕の直後 に、この事件はニュータウン化と密接な関係があるのではないかと最初にテレビで述べたのは私 でした。ニュータウン化とは、土俗と近代が混宥するワンダーランドだった団地が、ノッペリした 均質な場所へ閉じることです。私は、ダークサイドが消し去られた均質な空間が拡がれば拡がるほ ど、ダークサイドは見えない裏側へと、最終的には心の中に鬱積するしかないのではないかと述べ ました。もちろんこれは、ニュータウン化を批判するために、ネガティブな意味で言ったことです。 しかし私の心の中には、それと並行して、別の思いがありました。(中略)内容を言うと、ダークサ イドが消滅した均質空間で、子供らが心の中に驚天動地のダークサイドを抱えて生きるのは、クー ルなのではないかというものです。》(315-316頁) 引用にあるように、有・の性‐起と現代日本社会の風景を絡めて考えることが出来ている思想家は ハイデガー研究者には居らず、宮台真司のようなハイデガー研究者でもない人間の方である。ハイ デガー研究者の方は、鈍いのか、或は故意に避けているのか、vividな読み方が、私見だが出来て いない。
ハイデガーと宮台は全然関係ないぞ。
限界の思考100ページのハイデガー談議は、理性的ゆえに本来的な ものへ逸脱するハイデガーをよく捉えている。 ただ宮台はエクスタシスを性的に捉えているので、台無し。
9 :
考える名無しさん :2011/01/22(土) 12:01:16 0
全てが計算・操作・理念の対象となり、人間は回収する主体、として駆り立てられていく。 その涯の窮迫。これが1990年代以降の日本社会だと言えるだろう。その困難、抵抗しようとする 思考もまたこも窮迫の一部となり果てていく。あるのは主体の政治学だけである。それはハイデガ ーの剔抉したことですが、宮台の場合、今の社会を開く鍵を原天皇制にみるのが特徴で。「忘却と融 和の装置」に注意しながら、尚且、〈世界〉の外に開いていく「縦の力」(解離・陶酔への感染)を秘め ていることに着目。《むしろ私達は、この原初的メカニズムに積極的に言及し、歴史学的・社会学的 な位置を計測してリベラリズムと両立可能な、原初的メカニズムの制御された取り込みの可能性を 、設計すべきなのです。》(『interviews』319-320頁)とする。これが宮台のハイデガーで、ただ、 これ自体が実は操作可能性への収斂、対象化への収斂でもあるんですね。そこが宮台の困難でもある 気がします。
ハイデガーのナチス支持は、表彰象、代表制への拒絶だが、 突撃隊、下からの革命だったことも重要。 柄谷はハイデガーにシステム論の臨界を見ている。
11 :
考える名無しさん :2011/01/22(土) 23:03:51 0
ナチスとの関係が出たところで言えば、ハイデガーにとってユダヤ人殲滅は、それが「劣等 な遺伝子の抹消」「国家事業として選別」、言い換えれば〈歴史・文明の操作〉である限りで否定の対 象になるんじゃないか。単に大量殺戮したから、ではなく。何故ハイデガーがヤスパースのような 、戦争=犯罪という観点に与しなかったかといえば、政治的理念として流通する限り、全ては「正義 」の表象の下に、〈駆り立て〉として機能していく。それは〈戦争〉だろうが〈平和〉だろうが同じこと である。〈人類文明への貢献・協力〉という名目への〈駆り立て〉。つまり新しい「総動員」であり、新た なる〈駆り立て〉の形態であるという他はない。それにハイデガーが与しなかったのも不思議ではな い。
ハイデガーにとってナチスは本来的なものの回復で、 科学技術を駆使した総動員ではない。 だが歴史的にはナチスは科学技術を駆使した総動員だった。 この事実が戦後のハイデガーを非転向かつ孤立化させている。
13 :
考える名無しさん :2011/01/25(火) 09:05:09 0
本来性というところで柄谷行人がハイデガーについてよく書いていることがある。ちょっと 引用してみよう。《ハイデガーのいう現存在は同時に本来的に共同存在―彼にとってそれは民族を意 味する―である。ここからは、疑う存在者=単独的な実存は出てくる余地がない。》(『トランス・クリ テイーク』岩波現代文庫144頁) 柄谷の批判はハイデガーのいう本来性への典型的な批判であるが、『哲学への寄与』197節を読む と、以下のように書いている。《自己の躍動の幅は、自性領の根源性に、したがって有・の真理に、向 けられる。(中略)最も危険な姿は、世界喪失的な「自我」が外見の上で自分を放棄し、自分よりも「 もっと偉大な」、そして自分がそこへ断片ないし分肢として配属されている他者へ献身したときの、 姿である。民族としての「生」の内へ「自我」を解体すること、ここには「自我」のひとつの超克の軌道 が、拓かれている。ただしそのような超克の第一条件を断念した上である。その第一条件とは、自己 で‐あることとその本質とを省慮することである。》《自己性はいかなる私や汝やわれわれよりも、 根源的である。》(『哲学への寄与論稿』197節)よって、民族という語彙で言われるのは、自己性を 構成する歴史性であり、そこから指し向けられる共同性である。《しかしながら、この探究する者た ちが、まず 彼ら自身であるのでなければならない。》重要なのは、歴史への帰属というそのことで あり、共同性の超越性や尊厳性ではない。民族はよって、更なる歴史の遡行に止揚され、越えられる ものに過ぎない。重要なのは、自己性へ歴史が指し向けられる、それにより自己という領域が開 かれる、そのことの方で、民族への固執ではない。
http://www.geocities.jp/studia_patristica/exis7.htm 『ドイツ大学の自己主張』――就任記念講演
ハイデガーは、古代ギリシアのプラトンから話を始めた。おそらくプラトンの哲人政治の理想を説いたと思われる。
プラトンはその『国家編』の中で、徹底的な独裁政治を主張した。ハイデガーは、そういう考えから、ドイツ民族の
歴史的な奉仕を自ら背負うと言った。そして学生に対しても、それを要求し、しかも勤労・国防奉仕を要求した。
そういうことをやることによって大学は、ドイツ民族の歴史的な奉仕をする中心となる。「すべての偉大な者は、嵐の中に
立つ!」
15 :
考える名無しさん :2011/01/25(火) 16:53:03 0
ナチスは知識人を「ブルジョアの古狸」呼ばわり してたらいしけど、ハイデッガーのことじゃねえの?
16 :
考える名無しさん :2011/01/25(火) 16:59:48 0
ねらー相手にするようなもん。
17 :
考える名無しさん :2011/01/25(火) 17:19:55 0
上レスに引用されている「ドイツ大学の自己主張」を筆頭に、ハイデガーの思想とナチスの 思想、人種主義等を同一化したり、協力の事実、ナチス党党員だったという事実などからハイデガ ー思想の隠された本質、などと銘打って論ずる傾向は伝統的にあるわけだが、国家の趨勢に抗えず 協力。その過程で自らの思想を支配勢力に合わせ歪曲。という以外、より本質的に語りうる問題が そこにあるのかは疑問で、ナチス党との同伴の史実を以てハイデガー思想の決定的本質、とか決め る論調はそれ自体、一つの思想の読み方を傾向付けるという意味で大変危うい。あの史実はハイデ ガー思想に於ける民族的要素の拡張であるが、戦争協力のための歪曲、という以外の意義は今は 取りにくいとみる。『有と時』における民族的要素の乏しさ、その他の著作も同様。時世への迎合、 として捉えるのが妥当とみる。
18 :
考える名無しさん :2011/01/25(火) 17:20:53 0
ヒトラー宣伝にとって重要なのは、ただ非政治的な人間を 獲得することだけだ。インテリは悪いことをしないように閉じ 込め、彼等を敵として刻印して孤立させる。彼らはアウトサ イダーで役立たずだと軽蔑の言葉を投げかけた。ヒトラー はあざけりながら「いわゆる分別について」話し、感情に 訴えることを強調し、インテリを「ブルジョア的古狸」と呼び、 彼らは「運動には役立たない」と言った。 『武器としての宣伝』
19 :
考える名無しさん :2011/01/25(火) 17:39:19 0
↑ 第二次大戦勃発直前の本だけど、 小泉たちのネタ本かと思っちまう ような中味。
20 :
考える名無しさん :2011/01/25(火) 17:43:39 0
第七章「敵から容赦なく盗用する」とか、 まんまだろ。 これももともと自民党がナチ礼賛本を 出したことがキッカケで翻訳されたん だからなwww
>>17 >『有と時』
この糞タイトル採用してる時点で信用しない
22 :
考える名無しさん :2011/01/25(火) 20:03:40 0
確かになあ。 やはり「存在と時間」だろう。
23 :
考える名無しさん :2011/01/25(火) 21:08:00 0
『シュピーゲル』でのインタビューでも、“あの時代は協力するしかなかった、自分の他に大学 総長をやり、ナチスとやり取りできる人間がいないし、やるしかなかった、警戒されないためには 同調するしかなかった、大学を守るためには仕方なかった”というような弁明に終始している。そ れはだらしがない、とか後世から非難はできますが、ただ、問題は、戦争協力から起因する迎合が、 思想的本質のごとく見なされていくことで、そこは峻別すべきところだと思いますね。また別の 言い方をすれば、迎合的な歪曲を、思想的本質だとみなしてはならない。そこが曖昧なまま経過し て現在まで到っている。そこは峻別すべきところだろう。手軽に斬って捨てられる便利なレッテル なわけで、「本質的な民族主義思想」とかね。読む価値なし、と簡単に断言できてしまう。そのような 切り捨て方も為されているわけで。で、実際過激な要素が含まれてはいるのだけど、それは流布さ れているような通俗的な政治主義・人種主義ではない。ファリアスなどのハイデガー論争を振り返 って、時流への協力的姿勢はよく明らかになったのだろうけど、それ以上発展するものではなかった ことも今は言えるんじゃないか。
[x][i]で[ィ]になるって前スレでも教えてやったのに。 「存在/有」は“seyn”でなくて“sein”ね。
zeitを「時」はまだしもseinを「有」って やっぱりほとんど誤訳に近いよな
道元と無理にでも接点つくろうとする人たちがやったんだろ?
存在も有もハイデガーが籠めた意味が掴めなければ何にもならない。人間が有るものの支配 者の如く振る舞っているが、当の人間は覆蔵せる歴史に拘束されており、そこから指し向けられる 真理を見守ることが人間に与えられた使命である。そこに独自な歴史・自然概念があり、それは 果てしなく力を蓄え支配者であることを欲望する人間の知に対する反命題たりえている。Seinと いうのは〈私〉という場が実は覆蔵せる歴史の場であることを指している。よってハイデガーの問は しばしば歴史の窮迫ということが言われていく。単に存在とか有とか言っても無意味にしかならな いし、どっちでも同じといえば同じ。ハイデガー思想にとりその選択は決める必要はない。
長文レスの人は全部
>>1 なんだろうけど
どんな理由でそんな変な改行の仕方になるの?
29 :
考える名無しさん :2011/01/28(金) 09:54:58 0
>>26 ああ、なるほどね。
「いはゆる有時は、時すでに有なり、有はみな時なり。」
ふーん、背景ヤスパース様が日本の和尚さんに
元ネタをたれ込んだりしたらしいね。
>>25 ドイツ語にゃ「理解」と「了解」の言葉の区別も
ないんだからハイデッガーも苦労してるっつう。
ハイデガーの愛人がシオニストのハンナ・アレントでその夫が プロテスタント出身のシオニストで共産主義のスパイ活動を していたハインリヒ・ブリュッヒャーで、ブリュッヒャーは 米国のC○A前身の諜報機関のエージェントとして反共活動 やってた人間なんだから、世の中複雑だ。
ハイデガーにおける本来性の変遷。『有と時』においてはこう書かれている。《然るに、この覚悟性 の経歴、つまり先駆しつつ諸々の可能性という遺産を自己に伝承するという仕方で反復すること、 そのことを吾々は本来的歴史性として、研究的に解釈した。》(創文社版全集2巻『有と時』574頁) すなわち、歴史に於て、〈有り得た可能性〉を伝承し得ること、《現今をただ現今としてみることから 脱却して》《可能的なものの「回帰」》(同575頁)に開かれることである。対して『哲学への寄与』で は、本来性の問の代わりに性起(ドイツ語で出来事・事件)また有・と言われている。 《性起。これは歴史的人間の最内奥の窮迫という極限的な視圏における、有・の本質現成の確かな 光》(創文社全集65巻37頁)《性起は神の傍過と人間の歴史に関連する〈間〉である。》(同 32頁)《この窮迫を覚醒させることは、人間にとってかの〈間〉への最初の逸脱である。》(同31頁 )すなわち神が人間の自己‐性に己を委ね、人間は神の自己‐性に己を委ねる。その信託の相互性が 性起である。そこで《測り知れない仕方で拒絶が(有・から)贈与される》(同28頁)つまり『哲学 への寄与』では、本来性の問が忘却され困窮した現在に於ける人間の逸脱が主題といえる。
33 :
考える名無しさん :2011/02/08(火) 21:57:56 0
そこで本来性の問の困窮によって人間は逸脱していき、神と人間の相互の信託、それが「測り知れ ない拒絶」となる。というのがハイデガーのイマジネーションによる論理である。これは日本社会 で起きた、動機の不明な謎のような事件に対して、その背景を暗示し得ている。つまり逸脱による 正当防衛として。背景には有の困窮があると。
ヤスパースに「日本の人は道元を余り読んで いないようですね」と言われちまったんだと。 正法眼蔵は、ところどころに全く哲学的な言辞が あるけど、大体は膨大な仏典禅籍を背景にものを 言うんで、今時の日本人がそれだけ読んでいても 辛いところはあるか知らんね。 古書店で見つけた曹洞聖典をカネに困ってウッパラ しちまったのが悔やまれる・・・。
35 :
ヘヴィメタル ダニエル・カール :2011/02/09(水) 13:24:06 0
おーれ、ハイデガーを読むときは死を意識しないといけないって解説してあったからさ、 全部、人間の話で、始めから終わりまで意識するっていう意味じゃなくって、 刺青して蛇のベルトして地獄道の話したの。 そーしたらさあ、ハイデガーに書いてない、悲惨な話ばーっかりしてさあ、 生きてるなんて遅れてるって誤解したら、みんな、惨めで、悲しい顔になっちゃってさあ。 ハイデガーの話から外れちゃって全然、関係ない話になったんだよ。 オシイ。
36 :
考える名無しさん :2011/02/09(水) 19:08:54 O
世間てのは基本的に学問する場所ではないな。
37 :
考える名無しさん :2011/02/09(水) 19:14:05 O
哲学がそもそも学問であるのかと言われると意見は分かれるが、 時間的にも空間的にも広い世界を理解するには学問的にならなきゃ いけないこともある。
38 :
考える名無しさん :2011/02/09(水) 20:40:03 O
「世間」という奴だ。この白痴臭くてだらしない奴らが 威張ってる場所。
39 :
考える名無しさん :2011/02/09(水) 20:43:09 O
我々にとって退屈なあの場所。つまり「世間」。
40 :
考える名無しさん :2011/02/09(水) 20:58:59 O
どんなに威張り散らしても、たかが白痴の世界だ。
相容れなさを死ぬほど味わったわけだが もうでなくていいのだろうか?
42 :
考える名無しさん :2011/02/09(水) 21:39:34 O
喜べ、無学は最早、恥とは見なされない。
43 :
考える名無しさん :2011/02/09(水) 21:44:53 O
>>41 味わってくれたなら俺も満足だ。さっさとB層世界へ帰れwww
44 :
考える名無しさん :2011/02/09(水) 23:02:39 O
バカにはバカでも持ってるような判断力しかないからなwww
45 :
考える名無しさん :2011/02/09(水) 23:10:39 O
学問する側にもそれなりの責任感が必要で、ハイデッガーも ナチスに指導的な立場たらんとしたんだが、如何せん相手が 悪かった。
46 :
考える名無しさん :2011/02/09(水) 23:19:18 O
バカには偉そうなバカと偉そうでないバカがいる。
47 :
考える名無しさん :2011/02/09(水) 23:20:44 0
麻原彰晃の『ハイエスト・ダンマ』という1992年の本を少しずつ読んでいる。それで判っ てきたことは、薄々予想はしていたが、麻原は教義として〈煩悩破壊による好転〉とか云っ てるが、この煩悩というのが前世からの行や識や感覚、又は好みや性癖の回帰を表し、そこ は宗教的に考えられているが、その人間の秘められた歴史性といいかえてもよい。そして その歴史性、前世で蓄積され、今生へ迄伝導されるデータが基になり一人の我が出来上が る。このような、前世から伝導されるデータを取捨することが煩悩破壊の重要な要素であ る。これはハイデガーの思想にとってそう分かりにくいものではない。というのは『Sein und Zeit』でも、今の自己から過去を固定化するのでなく、〈あり得た可能性〉というこ とが最重要視されており、ハイデガーのいう本来的歴史性とは詰まる所やはりそこでの 取捨のことだといってもよい。そうであるならば、この考え方というのは麻原のいう教義 と大きく違うものではない。双方とも、人間に覆蔵された歴史ということを要とし、本来 性を考えている。ただ、片や宗教的、片や哲学的という違いがあるだけだ。
48 :
考える名無しさん :2011/02/09(水) 23:56:40 0
「有と時」表記はマジでやめろってw
別にウでもいいじゃーん 何で駄目なの?
50 :
考える名無しさん :2011/02/10(木) 09:58:53 0
じゃあ有論的差異とか言うんだなw
有るちゃい、有るちゃい!
52 :
考える名無しさん :2011/02/10(木) 12:52:53 0
じゃあ違いはないのかといえば、ハイデガーの場合、現‐有というのは覆蔵された経歴の 現成する場だと考えていい。そこにギリシア哲学の自然観も入ってくるし、また、道元にも 経歴の現成という考え方はある。いずれにせよ、ここにハイデガー有論の特色があり、人間 というものを、自然の現成の場だと考える。一方麻原の場合、逆に、ハイデガーにおいて 自然の現成ということに大きく意味を持たせるところを、そのような現成する自然に対し 、むしろ滅尽することを勧める、それを以て解脱と見なす、そこが麻原の思想の特徴では ないかと思えるし、謂わば現成する自然にたいし、肯定的でない、否定的であるというこ とが言え、この否定性に、麻原の思想が立つ基盤があるのではないか。また、超越神が何を 超越するかといえば、それは自然ではないか、とも思える。そこにこの思想が孕む否定性の 特色がある。また、この時代の人間のもつ自己への否定性を引き寄せた根拠があるとも 思える。
53 :
考える名無しさん :2011/02/10(木) 15:17:26 0
なぜ有と時だと萎えるかというと、辻村公一とか大橋良介系列の、 もっとも糞な東西文明論の路線だから
55 :
考える名無しさん :2011/02/10(木) 15:27:41 0
「自然を滅尽」は抽象的だったかもしれない。この言い方では、自殺を勧めるようでもあり 、麻原は「自殺はしないように」と説法の中で強調してるのだから、自殺を勧めているわけ ではない。ただ麻原の教義では、たしかに滅尽は重要な要素で、これは「自然の滅尽」とのみ するのは誤りで、正確には「経験のデータの滅尽」が正しい。それによって、経験のもたらす 無明から離脱しうるとするのだから、このように言うべきだろう。で、「経験のデータの滅 尽」の上に更なる修行により、仏陀としての内面性を培うのが本来のオウムの教義で、麻原 の教義、そのようにデータの入れ換えをして業の回帰を断つ、それを絶対自由と呼んでい る。オウムの教義で本来的存在とはこのことだ。経歴ということを視野に入れて、その重さ を考慮しながら、それを謂わばデータとして入れ換えてしまう。オウムの教義のいう本来 的歴史性は、そのような絶対自由を意味する。
世の中の殆んどの人はオウムの教義など知る気もないだろうし、どうせメチャクチャだ ろうとバカにしている人も多いだろう。ひとまずここに基本構造と思われるところを抜き 出してみる。オウムの教義はひどく論理的かつ歴史的に人間を捉えていることがわかる。 真我の独存→真我の判断の誤り→落下→コーザル界・アストラル界・現象界、という具合に 捕らわれの世界に堕ちていく。よって、修行によって、これの逆を、先ず経験によって刷り 込まれたデータを落としていくことから遡行していく。そうして内部に溜まった情報を整 理し終わった段階では《浄化が完璧に終わってコーザル・ヨーガが完成した段階でどうな るかというと、その人はカラッポになる。無ではないよ。無というのは何もないことにな ってしまうけれど、ここでは情報を入れる器だけが残っている。器の中には、透明な水が 入っているというイメージです。(中略)そして必要なときに、自由に情報が作れる。》(『マ ハーヤーナスートラ』34頁)この辺りがオウムの教義の基本構造だろう。謂わば歴史的か つ構造的に本来性が考えられている。そこでは本来性の提示が確かに整合的に為されて いる。
オウムは密教、仏教、ヒンズー教あたりの混同を研究者が指摘すべきだった。 科学コンプレックス、 視覚障碍コンプレックスも、 それぞれ社会心理学者が解きほぐすべきだった。 社会不安はビジネスセミナーの流行を生んだが、 現代宗教の課題がなくなったわけではない。 ハイデガーのギリシャ趣味を嗤うのは簡単だが、 日本人ももっと仏教、神道を論理学的にとらえる必要がある。
58 :
考える名無しさん :2011/02/10(木) 22:38:00 O
バブル期の精神の徹底的不在が麻原という魔物を生んでしまった のだと思うよ。
俺も一緒なところはあるなw
サリンの日は、巣鴨のA級戦犯の教戒師だった真宗僧侶の 花山信勝の命日でね。
61 :
考える名無しさん :2011/02/11(金) 02:57:52 O
地下鉄サリンのほぼ一月後、連邦ビル爆発事件があった。 サリンの前の月には阪神淡路大震災。この震災の前年の同じ日の キング牧師記念日には、サンフランシスコ大震災が起きてる。 色々と忙しい時期だったわけだ。
62 :
考える名無しさん :2011/02/12(土) 22:26:33 0
ハイデガーは『哲学への寄与論稿』でSeynというようなことを書いていて、これは有・と訳され たり、真有と訳されたりしている。これはハイデガーの言い方を借りれば〈測り知れない了解をも たらす根源〉と言って良いだろう。『哲学への寄与』は殆んどこの有・の本質現成にたいし書かれて いる。例えば冒頭近くではこう書かれている。《有・それ自体は、この没落する者たちを必要とし、 有るものが現象するときには、すでにこの没落する者たちを自性‐化 ereignung してしまって おり、この者たちを自らへ指し向けてしまっている。それが有・それ自体の本質現成であり、我々 はこれを性起と名付ける。》(『哲学への寄与論稿』創文社全集65巻11頁)因みに自性‐化とは、現‐有 という一個の場に於て、覆蔵された根源(歴史)が事象に対応するように生起することだと言って いい。この本でハイデガーの言う有・の現成として特徴として言われるのが〈拒絶 die verweigerung〉である。〈拒絶〉は「測り知れない仕方で贈与される」(28頁)。つまり、根源として の歴史、否定性、驚愕、がここでは性起 ereignis という概念をめぐって一つに合わさっていく のが分かる。オウムの教義の背景として、現代の困窮があり、オウムの全ての教義はそれへの抵抗 だと考えられる。そこで困窮への拒絶は不可避だとすれば、無差別殺傷という行為の必然性は解か れたことになる。
ちょっと間違えている。「窮迫を拒絶」するのではない。「有・の窮迫」を保持し、かつ抗し ての「拒絶」。謂わば拒絶とは有・の本質現成自体であり、無化であるとされる。無化である から、「測り知れない」と考えるべきだろう。
有は動詞だから訳語として選択されたのだろうが、何でも動詞化してしまう日本語を考慮してもよかった。 存在するでも、有るでも同じだ。 むしろ現代日本語との接点が積極的に考慮されるべきだろう。
65 :
考える名無しさん :2011/02/12(土) 23:53:35 0
Being and Time age
論考のCKO訳みたい。英語ってオブジェクト指向じゃないんだろうか。 ラッセルはアトミストだったけど。
67 :
考える名無しさん :2011/02/13(日) 14:25:40 O
経験論=パロールの言語 観念論=ラングの言語 こういう一般的な傾向はあるか知らん?
68 :
考える名無しさん :2011/02/13(日) 14:31:03 O
日本語は恐らくはもともとはパロールの言語だろう。 漢字文化が上乗せしてあってラングの言語の性質も 併せ持っているけど。
69 :
考える名無しさん :2011/02/13(日) 15:34:20 O
英語はイギリス島の言葉だけど北米の風土が観念論を 醸造するようなところはあるかも。 北米観念論。歴史が浅いんで大した深みもないけどな。
70 :
考える名無しさん :2011/02/13(日) 15:54:07 O
ホワイトヘッド流形而上学、または科学合理主義的観念論な。
71 :
考える名無しさん :2011/02/13(日) 16:11:13 O
第二次大戦後にイギリス島から覇権の譲渡を受けてから、 ヨーロッパに対する思想的従属性が低下してそういう 傾向が一層強くなったと推察出来る。
72 :
考える名無しさん :2011/02/13(日) 16:23:07 O
合理主義の世界では天才は生まれないんで科学理論も進歩しない。 観念論的量子理論をつつき回してるだけで。
超えられない壁は自分自身で作りだしているだけ。 72が超えなければいけないのは科学や理論の壁だ。 問題が見えてもそれを破ることはできない。 人は過去や実績、経験を簡単には捨てることはできない、 それが合理性という縄の持つ縛りだからだ。 それを超えられるのは死線を潜り抜け、それを再現できる人だけ。 極みに立てば立つほどその合理性の縄は人を縛る。 心に病気を持たない健常者なら理性を捨て人でなしになるしかないわけだ。
74 :
考える名無しさん :2011/02/13(日) 17:23:46 O
よっぽど耳の痛い問題らしい。
75 :
考える名無しさん :2011/02/13(日) 17:25:59 O
せいぜい発明家くらいの「天才」しか登場しないのがアメリカだ。
76 :
考える名無しさん :2011/02/13(日) 19:14:24 O
つまり価値観の問題だと。 アメリカ標準が幅を効かし過ぎると下らん世界になる。
77 :
考える名無しさん :2011/02/14(月) 00:51:48 O
ああ、またひとつ小利口になったぜ。 こんなこと何度言っても、みんなすぐ忘れちまうけどなw
78 :
考える名無しさん :2011/02/14(月) 01:08:18 O
イギリスは憲法のない習慣法の国だがアメリカ人は政治理念を 重視する。アメリカ人はイギリス人ほどには経験論者では ないんじゃなかろうか、という話だ。 プラグマティズムは経験論より合理主義だもんな。
アメリカといえばプラグマティズムですよね。 わかりますよ。
80 :
考える名無しさん :2011/02/14(月) 01:25:50 O
習慣がないから合理主義で、合理主義だからプラグマティズムで やらなきゃならないところあるかね。
81 :
考える名無しさん :2011/02/14(月) 14:52:13 O
ジョン・ロックは島国という自然条件に培われた文化風土に 基づいて生得観念を否定する経験論を唱えた。これは正しいと 言えるだろうが、一方で文明はイデアルな秩序を基盤にしない と発達しないものでもある。 日本島で言えば、史上初めて文明人らしい事績を残した聖徳太子が 仏教と論語から憲法を作ったように。
82 :
考える名無しさん :2011/02/14(月) 15:10:31 O
文明発達以前の狩猟採集中心の先史時代なら人々が余り観念論的 ではなかったろうことは、大陸でも同じことだからな。
83 :
考える名無しさん :2011/02/14(月) 16:08:48 O
面倒なのは西洋の歴史的形而上学の由来だ。啓示宗教である キリスト教の基盤の上にギリシャ思想が歪んだ形で導入された ことだ。アリストテレスにとって形而上学は文字通り神学な のであり、つまりは異教の神学であるものを「自然の光」に よる思想として受容してしまった。西洋における「理性」なる ものの混乱した発端がここにある。
84 :
考える名無しさん :2011/02/14(月) 16:20:55 O
このアリストテレスの形而上学を触媒にして観念論的なスコラ主義が 形成され、やがて世俗化してドイツ観念論と呼ばれるものの 元になる。
85 :
考える名無しさん :2011/02/14(月) 16:41:33 O
大体、そういうような経緯で形成された理性への文字通りの 「信仰」を元に近代世界というのは成り立ってる。 一口に「観念」と言っても歴史的な由来を吟味しないと その内容を正しく受け止めることは不可能だ。定義の問題で 論じても観念論の循環論法にしかならない。
86 :
考える名無しさん :2011/02/14(月) 16:45:01 O
西洋近代の理性信仰は額面通りに受け取るのは東洋人な俺には 知的に有害に思われるのでな。
プラグマティズムは経験論だしょうよ。
『存在と時間』は道元だけでなしに、キルケゴールやドストエフスキー的な 影響を考慮しなきゃ駄目だけどね。
89 :
考える名無しさん :2011/02/14(月) 18:00:10 0
言わせろ
あれ、通ったぞw
>>87 経験論はもともと認識論的な議論から生じたもので、
そもそもは生得的な観念を否定するだけだ。
プラグマティズムは理念的なもの一般を否定してしまう。
プラグマティズムとは「目的による手段の正当化」と 考えるなら、これはトロツキズムだなw
余談だけど、トロツキーは「鉄の人」ネチャーエフを 信望してたらしい。レーニンにもこういう面はある。 捕まって獄に放り込まれて、看守たちをオルグして しまって、陰謀を企てたが発覚して壁に鎖に繋がれ たままになってしまったとか、オンライン革命家とは ひと味違う・・・
93 :
考える名無しさん :2011/02/14(月) 19:59:44 0
アメリカ人はプラグマティズムが好きだけど、 合理主義精神の塊とも言われる。これは矛 盾しない。 プラグマティズムにおける経験の重視は、 むしろプラクティカルな要請から来るんだろう。
麻原によれば〈真我の独存〉という状態に〈三グナ〉と呼ぶ異なるエネルギーが干渉し、そ れによって真我の判断の誤りが生じ、真我は落ちていき、楽しみをひたすらより多く 求めるようになり、ついに現象界に至る。そこが我々の人間界だという。「落下」という語彙 から、我々はハイデガーの「頽落」との関わりを感じ取る。ただ、両者は似ているが同一では ない。麻原の場合、「落下」とは現象界への落下そのもの、ハイデガーの場合、頽落とは己の 宿命の没交渉性を忘却すること、そうして公共的解釈性に浸かってしまうことである。麻 原の場合、本来性は解脱にあり、真我にある。ハイデガーの場合、『有と時』では本来性は没 交渉的な可能性(有限性)を引き受け、良心の呼び声に応えることである。そこでは現象界 に於ても本来性は考えられている。ただ、人間が覆蔵する歴史をどのくらいの規模で考え るか、という一点で、実は接近している可能性がある。だからSeynは「神々もそれに属して いる」そのような深度で考えていたこと自体、有の概念に変更を及ぼすし、『哲学への寄与』 はハイデガー論に変更は及ぼさないとする高田珠樹の読み方は誤っていると言わなければ ならない。
アメリカ人は経験論を能動的理念として保持してる。 アメリカ人には固有の文明意識はあるだろ。
ハンチントンの本じゃ日本も文明単位扱いされてたっけな。 戦前ならともかく、今時の感覚では大時代過ぎてどうかとも 思うね。 プラグマティズムは「道具主義」とも訳される。パースの プラグマティズムについての有名だが晦渋なテーゼは ハイデッガーの道具存在論にも通じてるのは言わずと 知れた話かな。
麻原とハイデガーを接近させる要因がもうひとつある。母子関係の失敗、或は家族関係の失敗に よる無意識の外傷、それによる不全感をどう克服するか、という特に80年代以降の日本社会で潜 航していた問題で、両者の思想だけがそれに答え得るものだった。というのは両者とも、人間を歴 史的に、意識の成立以前の地点からの経歴と現成として捉える点で、両者の思想は対症療法たり えたのである。オウム真理教が何故若者を捉えたかの背景にこの問題を外しては見えなくなるだ ろう。根底にある人間観、人間を捉える方法が両者は共通していた。麻原の教義はその問題の克服 として読めるし、実はハイデガーの思想も、失敗した無意識の克服として読まれる余地はあった。 オウムの若者への吸引力を考えるとき、この問題は外してはならない。そこで根底にある歴史概念 が両者は共通していた。
98 :
考える名無しさん :2011/02/15(火) 20:32:42 O
単一文明意識ってのは神話的なバックグラウンドがないと 駄目なもんかね。今更、万世一系の我が国体ってのもなぁ。
Seinというのが〈有る〉を指し向ける超越論的地平として、〈有〉又は〈存在〉として、その ような指し向ける歴史性として、考えられていたけれども、この歴史の規模が変わってき て、その変貌が『哲学への寄与論稿』のポイントである。表記はSeynとされ、指し向ける了 解=性‐起は、《性‐起は根源的な歴史それ自体である。》とまで言われるようになる。どのよ うに根源的かといえば、《すなわち有・Seyn の本質はいま、もはや単なる現前性を意味す るのではなくて、時‐空的な底‐無しの深淵の全き本質現成を意味する。》(38頁)しかも この有・とは《拒絶として本質現成する。》(28頁)そこで のSein→Seynの標的の違いは大きい。ただ、にも拘らず『道の手帖 ハイデガー』(河出 書房新社)で高田珠樹は“見方が劇的に変わることはない”としている。これは全く理解の できないコメントであり、高田珠樹はこの作品については手を出さないこにしたのか、と 思えるような切れの悪いコメントだと思う。もしや、深入りしないという話ではないのか という気さえする。あの作品ほど、現在の日本社会を抉っていく思想はないので、撤退した のだとしたら惜しい話である。
100 :
考える名無しさん :2011/02/15(火) 23:07:17 O
ダーウィニズムが「進化論」を科学として定式化した19世紀の 半ばまでは西洋は単一神話の上に成り立ってたと言えるだろう。
101 :
考える名無しさん :2011/02/15(火) 23:47:28 O
科学と進歩が神話に取って代わる。第一次大戦までな? 日本人もそれまでは自称「西洋人」だった。黒歴史だ。 しかし、こういう前提がある時代には神話の役割は 限定的だったと言える。
背景としての神話と前景としての神話というのがある。 後者はイデオロギーだ。
このスレって自分でも理解してない言葉をこねくり回してる人ばかりって印象
104 :
考える名無しさん :2011/02/16(水) 11:42:50 O
ふん。褒めて貰ったことにさせていただこう。 近代に入ってからの神話を民族主義的イデオロギーとして 利用する体制では背景はダーウィニズムだからな。これは 疑似的神話世界だ。
105 :
考える名無しさん :2011/02/16(水) 11:53:24 O
近代以前の世界では神話は歴史の背景的存在だ。 ダーウィニズムによって歴史から切り離され世界で、人は フィクションとしての神話をイデオロギー として社会に再導入した。
106 :
考える名無しさん :2011/02/16(水) 11:58:15 O
正にフィクションだ。歴史とは何の関係もない。
107 :
考える名無しさん :2011/02/16(水) 12:09:52 O
ハリーポッターくらいな権威だ。
>>107 知人が、ハリー・ポッターはビミョーな設定だな、と言うんです。
血や遺伝によって人間の出来がかなり違うっていう強烈な設定だ、と。
そう言われて、「確かになあ」と思った。
109 :
考える名無しさん :2011/02/16(水) 17:21:05 O
黄禍論で対日移民排斥法が成立して日米関係の悪化が顕著に なったのは第一次大戦終結からしばらくした1924年。原因は いろいろあるが西欧進歩主義の頓挫による世界の多極化の流 れの一部。 ハイデッガーがフッサールに弟子入りしたのは第一次大戦の 終わった1918年、『存在と時間』は1927年。
110 :
考える名無しさん :2011/02/17(木) 11:34:22 O
ローリング・トゥエンティーズと呼ばれたアメリカの黄金期。 禁酒法が施行されたのも第一次大戦の終わった1918年。 内に大きな不安も抱えていた時代。
111 :
考える名無しさん :2011/02/21(月) 08:12:46.07 0
「今日、英訳を通じてはじめて東洋の聖者親鸞の歎異抄を読んだ。 弥陀の五劫思惟の願を案ずるにひとえに親鸞一人がためなりけりとは、何んと透徹した態度だろう。 もし十年前にこんな素晴らしい聖者が東洋にあったことを知ったら、自分はギリシャ・ラテン語の勉強もしなかった。 日本語を学び聖者の話しを聞いて、世界中に拡めることを生きがいにしたであろう。遅かった」 「自分の側には日本の哲学者、思想家だという人が三十名近くも留学して弟子になった。ほかのことではない。 思想・哲学の問題を随分話し合ってきたがそれらの接触を通じて、日本にこんな素晴らしい思想があろうなどという 匂いすらなかった。 日本の人達は何をしているのだろう。日本は戦いに敗けて、今後は文化国家として、世界文化に貢献するといって いるが私をして云わしむれば、立派な建物も美術品もいらない。なんにも要らないから聖人のみ教えの匂いのある 人間になって欲しい。 商売、観光、政治家であっても日本人に触れたら何かそこに深い教えがあるという匂いのある人間になって欲しい。 そしたら世界中の人々が、この教えの存在を知り、フランス人はフランス語を、デンマーク人はデンマーク語を通じて それぞれこの聖者のみ教えをわがものとするであろう。 そのとき世界の平和の問題に対する見通しがはじめてつく。二十一世紀文明の基礎が置かれる」
112 :
考える名無しさん :2011/02/22(火) 02:17:21.07 O
ナチズムこそはポストモダンの一つの理想ではなかろうか。
>>111 ゼンに憧れるヒッピーみたいだな。
坊主に会いたけりゃ寺に行くしかない。
ハイデガーの親鸞への言及。ソースは?
ハイデガーが晩年の日記に書いていると『中外日報』が報じているという実に怪しいネタなんだよねえw ネット上のは孫引きばかり しかも他の言語では一切出てこないw
>>116 ハイデガーの親日ぶりは有名な話だけどね。
「外人に褒めてもらった。万歳!」って思考法のむなしさに気付けない バカなおっさんが多いのは何故か不思議で仕方がない 結局、ただの外国信仰の裏返しなのよね
親鸞はカール・バルトも教会教義学で取り上げてるし、知ってる人は知ってるだろうな。
ハイデガーの『現象学の根本問題』(木田元監訳)をどうにか読み終えた。 ものすごく、面白かった。 ぼくは、ドイツ語がわからないので、和訳に頼るしかない。 和訳全集があるが、これが非常に読みづらい。 木田元教授もいっているが、和訳全集は 存在 → 有 存在者 → 有るもの を使えと言った、思想統制を行っている。恐ろしいことだ。木田元教授も言うように「文化的犯罪」と言うしかない。 和訳全集以外の翻訳は丁寧読むと何となく理解出来るが、和訳全集はとにかく読みづらい。 『現象学の根本問題』の第二部は、存在と時間の関係について論じている。よく理解出来ないのだが、ものすごく恐ろしいことが書かれていると、直感した。 まだ、一回しか読んでないので、その直感の内容を記述することはできないのだが、 何回か読み直して、存在と時間の関係について、この掲示板に書いてみたいと思っている。
ドイツ語の哲学書って原文だとかなり簡単な単語ばかり使ってるらしいな
123 :
考える名無しさん :2011/02/27(日) 10:44:58.70 0
「思想統制」?あの創文社全集訳は確かに異和感をもたらすかもしれないが、ハイデガーの意図が 伝わらないかといえば、そんなことはない。僕は逆に「存在‐存在者」訳の方が掴みにくかったです。 ハイデガーの意図は英語でいうbeのもつ意味を突き詰めることにあったので、〈有る〉をもたらす 〈有〉の地平という捉え方は正しい。It is rainy today.(今日は雨だ。)でいうとisの部分。 そこを敢えて訳せば〈今日は雨天で有る〉における〈有る〉の成立が問われることが分かるし、〈雨天 として存在する〉を成立させる存在、では、先のbeの意味、という問がちょっとぼやけていく。あく まで、beに込められた超越論的地平ということが、『Sein und Zeit』の問なので。そう考えてい くと、〈有る‐有〉訳の意義が分かると思うんです。つまり、ハイデガーの問の意図はこの方がより 伝わるんじゃないか。ただ、統一する必要性はない。色んな訳があっていいし、ただ、創文社版の訳 は僕はあれでいいと思います。
>>123 そうか。。。そんな見方もあるんですね。
ぼくは、仏教の勉強もしているので、Sein = 有のほうが、親しみがあります。
仏教では、存在とは言わず、有といいます。
そのことからすればSein=有もありかなと思います。
ただ、訳語の思想統制はやめるべきだと思います。
なんか、監修者の、わがままを通しているみたいで、いやなのです。
とにかく、レスありがとうございます。
125 :
考える名無しさん :2011/02/27(日) 17:57:26.94 0
しかし、あの分厚い本をよく読み切りましたねえ…。あの木田訳は確か全集の原書だけでな く、かつて留学生経由で輸入され出回った海賊版も参照され、講義の最初にいつも話されていた、 前の講義の纏めまで挿入されているんでしたね。この本のことを徐々に書いていくということで、 どんな話が書かれるのか、は後のお楽しみというところでしょうかw
126 :
とおりすがり :2011/02/28(月) 01:01:35.12 0
訳語を統一しているだけで言論統制とはどういうことか? しかも木田なんか今だに読むのか。木田といえば、晩節を汚すことが趣味のあの木田か。 ハイデガーについてまともな論文書いてないくせに文化人面しているクズだぜ
>>126 馬鹿かおまえ!!
だいたい「有」なんか、ハイデガー学会では使われない述語だぜ!!
それに、木田教授は、論文沢山書いてるぜ!!
おまえ、読んでもいないのにでかいつらして、レスするな馬鹿野郎!!
128 :
考える名無しさん :2011/02/28(月) 09:42:37.03 O
ピチピチギャル
129 :
考える名無しさん :2011/02/28(月) 14:37:42.56 0
辻村公一の末裔が西田派と直結させたくてゴリ押ししたのが「有」
>>111 出典不明のアインシュタインの日本万歳発言みたいなもんか。
ハイデガーの『現象学の根本問題』(木田元監訳)を何とか読んだ。 第二部の時間と存在に関する論述は、実に深い印象を受けた。 前期のハイデガーは、時間を中心に据えている。 後期のハイデガーは、時間を忘れているかのようだ。 ハイデガー自身、本来性に目覚めているから、時間に関する記述をしていないのかもしれない。 『哲学への寄与』が『存在と時間』以来の第二の主著とされていて、後期哲学のエッセンスである。 そのなかに、「性起」という概念があるが、これが、前期の時間の展開なのだろうか? 『哲学への寄与』ものすごく難解で、今のところ歯が立たない。 しばらく、講義集を読んで熟れてきたら挑戦するとしよう。
『現象学の根本諸問題』という創文社版の第一部第一章のタイトルが「カントのテーゼ。有はレアー ルな述語ではない」という。レアールを、ここでは〈事象内実を示す〉という意味としている。ハイデ ガーの問いが何かを知っていると、この不可思議な題名に、実は既に問いの導入が為されているこ とがすぐに分かる。それは言うまでもなく有(ないし存在)の問なわけだが、この導入の題名自体 、実は異常なタイトルである。何故なら、現代人の語る諸命題とは、すべからく有を、つまり〈〜で 有る〉を、事象内実を示す、として用いている。そうでないなら、では一体それは何なのか、という 問いが浮上する。それがハイデガーの問なわけだが、取り敢えず、冒頭のこの否定により、現代人 の日常的な思考を支える前提は、根底から覆されて、前提の問い直しを迫られる。既にこの地点に 於て、〈オントローギッシュな差異〉が言われている。《われわれは、カントの問題を辿ることによ って、オントローギッシュな差異(有と有るものとの間の差異)を問うことへと辿り着いたので ある》(101頁)ここでのカントのテーゼへの問いが、何へ導入するのかがよく出ている。
133 :
考える名無しさん :2011/03/03(木) 22:46:09.25 0
『哲学への寄与』が時間を、例えば1920年代のようには論じていない、というのはそうなんだけど も、なぜかといえば、そこでは人間において、覆蔵された歴史が、経歴が、いつか現成するものであ る、いうことが前提とされているからだということがあると思います。で、しかも、そこでの覆蔵 は、単に個体の生誕からの経歴ではなくて、もっと規模の深化した歴史として考えられている。 性起や、性起を指し向ける有・Seyn が根元の歴史である、とされているのは、そこでの有の理解 がヒューマニズムを越えてしまうことを意味している、と思える。そこがだから既に〈ヒューマニ ズムを越えて〉という問い、ヒューマニズムというのが、人間の尊厳を真に受け取っていないので はないか、という問いを表している。覆蔵された歴史が考えられるとき、より規模の大きなこまで 考えられている、そこが『哲学への寄与』であって、私の感じだと、人間以外の生物体の歴史、或は 無機物の歴史まで、射程に入れていったんじゃないか、と思えるわけです。
134 :
考える名無しさん :2011/03/04(金) 02:21:08.94 O
ヨーロッパが長い時間をかけて培って来たヒューマニズムは、 ダーウィニズムで不良化(超人化)した挙げ句に第一次世界 大戦で丸焼けになってしまった。そこに混乱があるんだが。
135 :
考える名無しさん :2011/03/04(金) 02:23:20.05 O
つまり19世紀半ばからのヒューマニズムは、超人コンプレックス みたいな世界だった。
ハイデガー哲学の進化形がサルトルということか。
137 :
考える名無しさん :2011/03/04(金) 12:05:27.81 0
現象学から出発した同時代人という以上の 共通性はないように思うが。 超人式ヒューマニズムの標本がバーナード・ショーだな。 言わずと知れた『マイ・フェアレディ』の著者だが、現代 から見ると、非常にお目出度い人に見えてしまう。
138 :
考える名無しさん :2011/03/04(金) 12:39:47.78 0
>>133 ダーウィニズムの生物学的世界観は歴史であり得るか、
ということだな。
歴史には精神があるが。
139 :
考える名無しさん :2011/03/04(金) 12:53:59.53 0
ただ歴史だけが精神を培う。 これは全く「人間」的現象だ。他の生き物から 我々を隔てる大きな特徴だ。
140 :
考える名無しさん :2011/03/04(金) 15:10:38.46 O
「覆蔵された歴史」は幻想だ。ハイデッガーは生物学的世界観と 歴史との統合を狙っていたんだろうが、科学は我々の歴史に対する 態度を微妙に修正はしても、それ自身が歴史観を構成することはない。 精神が科学を産むことはあっても、科学が精神を生むことはない。
あの本の中で、元初として二つあげられており、一つは第一の元初。これは形而上学の始 まり。次にそれを越えたものとして、別の元初ということが言われている。形而上学が人間 の知の始まりだとしたら、別の元初はそれにたいし、更に遡行するところにある。しかも 元初なのだから。それは生命体の歴史にとどまらず、むしろ宗教的な世界、超自然的世界を 意味していたかもしれない。で、ハイデガーはこの本の途中で、「これはイマジネーション による」と断っている。ここにある論を実証する方法などないのだから、そう言うしかない。 イマジネーションの産物ではあるが、彼には確信もまたあったと思う。別の元初というこ とで、宇宙的な場所を考えていた可能性もある。そこで宗教的な概念との接点も考えられ る。だから例えばオウムでいう真我ということも関係しているかもしれない。色々当て 嵌められる。ただ単に生命体の進化というところに限定するのはハイデガーの真意では ない。むしろ人間や、生命体が現れる前の宇宙かもしれないのだから。そう考えた方が合 ってると思います。
142 :
考える名無しさん :2011/03/05(土) 07:04:40.17 0
もう一点。この本は、市民的な感覚でいえば不吉な本である。不吉な事象を暗示したがっている 。そして、通常の安定性からかけはなれたことが書かれていることで、例えば「人間の未来」という ような、政治的・未来像的な概念からかけはなれてることは、ハイデガー自身が次のように書いて いるこで、本人も自覚しており、承知のうえで書いているこがわかる。 《あまりに短絡的に思惟する者、つまり決して本来的には思惟しない者、そういう者だけが、語り 拒みと否定とが押し迫る場所に固執しつづけ、そこから絶望の機会を得る。しかしこのことはいつ も、われわれが有・の全面的な転回をまだ測り定めたことがなく、このことにおいて現‐有の尺度 を見い出していない、ということの証拠である。》(446-447頁) むしろ、ヒューマニズムの終わりということが、本来性の始まりとして、語られるという、そこに 気付くことがこの本を理解する鍵であるに違いない。でなければよく分からない、不吉なだけの 本になる。
144 :
考える名無しさん :2011/03/05(土) 10:21:08.26 0
進歩的近代は第一次世界大戦で、二つの方向に枝分かれ した。ロシア社会主義とナチズムだ。前者は既に終わったと 言える。
145 :
考える名無しさん :2011/03/05(土) 10:38:02.33 0
強いて言えば、「覆蔵された歴史」というのは、 ダーウィニズムの合理的世界に塗り込められた 真の歴史空間のことだろう。 近代というのはダーウィンが人間の謎を全て 解き明かしたとでも言うような神話の上に成り 立っている。 ポストモダンもその地平を一歩も出ていない。
146 :
考える名無しさん :2011/03/05(土) 10:51:20.27 0
冷戦時代まではマルクス主義がアンチテーゼとして 解毒作用を発揮していた。 人間の謎を解明したなら、我々はアメリカ人みたいに 社会ダーウィニズムにでも従うより他はなくなってしまう。
ダーウィンが人間の謎を解明したのなら、だ。
歴史のない世界に精神はない。 精神のない世界に霊感は宿る だろうか。
149 :
考える名無しさん :2011/03/06(日) 00:13:33.55 0
この精神と歴史の関係を俺に最初に、しかも 決定的に指摘したのは、アメリカ人のエマソン だったというのは。皮肉な話ではある。 「スフィンクスは自分で自分の謎を解かなければ ならないのだ」(歴史)
ハイデガーがナチに加担した事実は永久に無くならない。
152 :
考える名無しさん :2011/03/06(日) 01:58:14.47 O
そういや、『ヒューマニズムについて』ではハイデッガーは マルクスに理解を見せてたな。 マルクスは歴史に鈍感ではなかったと思うが。
『ヒューマニズムについて』どころか 『ナチズムについて』を講演するか、書くべきだったな けっきょくハイデッゲルは国家権力や宗教、倫理についてはまともに語れなく なったからな。
154 :
考える名無しさん :2011/03/06(日) 02:04:44.26 O
ドイツ風の硬派な発音、ステキですよね!
155 :
考える名無しさん :2011/03/06(日) 02:11:53.15 O
マルクスには歴史精神があったので優生思想などの影響は 受けなかった。これは分かりやすい。
でもマルクスは全体的に観察的とでもいうのかな? そうなんだけれど、腑に落ちないというような感覚とでもいうか これは俺も後に知ったけれど、マルクス自身がほぼ「呑んだくれのダメ親父」で 子供のミルクさえ買えなく餓死させているのに 当のマルクスはその金を酒代に当てていたという事実 だからマルクスの思想の間に挟まっているものは、ルサンチマンのようなものを 何となく感じてしまうけれども。
157 :
考える名無しさん :2011/03/06(日) 02:58:53.51 O
アメリカ人エドマンド・ウィルソンの『フィンランド駅へ』の 一読をお勧めする。
>>142 >むしろ、ヒューマニズムの終わりということが、本来性の始まりとして、語られるという、そこに
>気付くことがこの本を理解する鍵であるに違いない。
素晴らしい。
159 :
考える名無しさん :2011/03/06(日) 16:58:06.95 O
19世紀的ヒューマニズムが極端に走り過ぎたんだろ。 相変わらず、その極端をごり押ししたがる奴らも多いけど。
160 :
考える名無しさん :2011/03/06(日) 17:15:12.86 O
歴史意識のないところにヒューマニズムは成立しないと 考えるべきなんだろう。 「学者は歴史を積極的に読むべきで消極的に読むべきでない。自分自身の 生涯を本文とし、書物はその注釈と見なすべきである。」 エマソン「歴史」
161 :
考える名無しさん :2011/03/06(日) 18:39:29.11 0
マルクスが資本論を著すことで資本の運動に代表される計算・操作の社会を止揚しようとした 、と考えられるなら、マルクスとの横断線もありでしょう。ただ、マルクスが云々、と言ってる人 は、マルクスの語彙を使い、資本とは別の支配体系を作る人間とか、或いは社会運動に寄生しては やはり他人を牛耳ることの快感から逃れられない人ばかりなので、そのいう人とハイデガー有論 とは関係ないと言うしかない。ニーチェの晩年の袋小路、力への意志にすべからく収斂していく 人間たちの群れである。マルクスという人の9割ほどはその手の人間に類している。 『哲学への寄与論稿』は現実の事象と、繋がりをつけられない書物ではない。ただ、それをやるには 、社会やマスコミなどの顰蹙を受けながら、ということになるかもしれず、そこで高田珠樹のよう に、「読んでも期待したほどでなく、どこかで見た話ばかり」とか、取り上げる価値のない本、と決め る、そうやって通過する研究者が一般的となる可能性が高い。アカデミズムは訳の解らない用語で 纏めるか、若しくは「ぴんと来ない本」ということで過ごす、二通りの仕方で換骨奪胎する可能性が 高い。それは今の、時点で予告しておきたい。アカデミズムの研究者でこの本を現実を生き生きと 描く本だと読む人間が現れるか、見ものである。
162 :
考える名無しさん :2011/03/06(日) 19:03:12.08 O
『寄与』は38年か39年頃の作で、本人は出版を禁じたのな。 「マルクスが、ある本質的でまた重要な意味において、ヘーゲルを 継承しながら、人間の疎外として認識した事柄は、その根を辿れば、 近代的人間の故郷喪失のうちにまで遡るのである」 1947『「ヒューマニズム」について』故郷喪失の運命
163 :
考える名無しさん :2011/03/06(日) 19:29:16.43 O
マルクスにはそれ程、多くは語ってない。但し、マルクスは 歴史の本質的次元に達しているが故にマルクス主義的歴史学は、 他のあらゆる歴史学よりも優れているとは言ってる。 ハイデッガーは「ヒューマニズム」という言葉には寄っ掛かり たがってないな。 サルトルが「実存主義はヒューマニズムである」とかペロっと 言い切ってしまえるのは、フランスはドイツよりも人文主義の地盤が 強固だからかも知らん。
ハイデガー、サルトル、マルクスというと、60-80年代の『現代思想』みたいで、新鮮味が ないなあ(笑)もうその繋がり読み飽きた。いや、論じてもいいんだけど。飽きた人、多いん でないかい?こういう感性は不謹慎ですかね(笑)少なくとも、今の10-30歳代からすると 、どうかな。こういうと、ハイデガー自体、全然ピンと来ないという人も多いだろうから、 ハイデガーと日本の2000年代という感じで、このスレッドはみてるんだけど。例えば引き こもり、とか社会と一切関係を遮断する人間の出現。或いはあのS君が犯行声明に書いた 「透明な存在」。日本社会の90年代、2000年以降を論じる土台、というと、いかにもツール っぽくて良くないかもしれないんだが…。サルトル、マルクスとの横断線も分かるんだけど 。
165 :
考える名無しさん :2011/03/06(日) 21:10:56.10 O
ポストモダンの白痴的世界はその意匠の源の一つをハイデッガーと しているが、どんなもんかね?
166 :
考える名無しさん :2011/03/06(日) 21:18:32.33 O
ポストモダンのミッキーマウスは大人になり方が分からないから 引きこもるんだろう。
167 :
考える名無しさん :2011/03/06(日) 21:57:09.16 O
ポストモダンに主体を剥奪されて透明人間になっちゃったボクらさ!
168 :
考える名無しさん :2011/03/06(日) 22:15:08.05 O
『「ヒューマニズム」について』ではサルトル批判も展開 されてんのな。ポスモダがサルトル乗り越えの根拠に ハイデッガーを持ち上げたのは分かるわ。 ポスモダの連中はニヒリズムで物事を相対化するために 「脱構築」の名前だけ不正使用しただけだがな。
>>161 ,164
だからその改行の仕方は何なんだよ
気持ち悪いんだよ
170 :
考える名無しさん :2011/03/06(日) 22:27:38.63 O
『寄与』は単にハイデッガーが覆蔵したがったんで、 何かあるんじゃないかって群がる奴らいるのな。 ナチス時代の著作だし、ハイデッガーも出したくなかったし、 だからこそ有り難がる奴らもいるかも知らない。
171 :
考える名無しさん :2011/03/06(日) 22:30:24.73 O
公開されたのは最近かな。ハイデッガーは開きメクラどもに、 さんざ研究され尽くしてネタ切れだからだろう。
172 :
考える名無しさん :2011/03/06(日) 22:43:10.76 O
デリダはさまよえるユダヤ人なんで歴史意識薄いんだろう。 所詮、他の岬だったっつう
ああ、冷戦崩壊状況でヨーロッパが「アジア大陸の小さな岬」に なってしまうのかって呻いてるのな。 大きなお世話みたいな話。ランボーの『イルミナシオン』の 「岬」かな。
だからハイデガーとか必要性ない、教養の飾りか何かでしかない人種が読んでも何にも ならない。必要を感じない人間にとっては何を読んでも読まなくても同じ。『寄与』がどう だハイデガーがどうだと語っても、読んでも何も感じなかったことはすぐ分かる。
175 :
考える名無しさん :2011/03/07(月) 00:26:28.83 0
デマゴギーは措いといて、Sが自分を透明な存在になった理由としたのは言うまでもなく学校教 育である。学校教育によって棄却された無。それに応答することが〈人間〉の拒絶、恐らく学校教 育から注入され続けた理性や知性、市民性への拒絶を意味した。言い換えれば、透明な存在になった Sが存在を見い出す。そのための、学校から注入された世界への拒絶だったと考えられる。そう考え なければあの殺人の本質は掴めない。言うまでもなく拒絶は、『哲学への寄与論稿』の鍵概念である。 Sの犯罪にも、ハイデガーだけは暗い照明を当て、棄却すべきではないことをわれわれに告げている と思える。
176 :
バモイドオキネ申 :2011/03/07(月) 00:41:32.21 O
さて、汚い野菜よ。 『存在と時間』における生物学の基礎概念問題をやろうか。
177 :
考える名無しさん :2011/03/07(月) 06:37:52.19 0
丁度176がHNで出してくれたので言わせてもらうと、Sは架空の神を信仰し、守護神のように崇 めていた。これが何を意味するか、謎であるが、われわれの問題からすると、ここにも不思議な符号 がある。神が自性を人間に委ね送り、人間が神に自性を委ね渡す。すなわち己の歴史的現成を委ね 渡す。そこに性起が、〈驚愕‐慎み‐畏れ〉を根本気分とするもの、有・によって贈られる。それは〈元 初=無尽蔵〉また〈底無しの深淵〉である。すなわち現代人に象徴される価値、計算や操作の全面化に より棄却された元初である。『哲学への寄与論稿』を貫通する根本気分、根本諸概念はSの事件の本 質を浮上させている。
我は無生物のネ申である…。
オレモオレモ
ああ、なるほど。『ヒューマニズム』で『存在と時間』の 幻の第三編が「時間と存在」になる予定だったんだよーって ハイデッガーが解説しとるわい。これが転回(ケーレ)ね。
一方、サルトルは実存主義宣言で伝統的な形而上学の「本質は 現実存在(実存)に先立つ」をケーレして「実存は本質に先立つ」と やった。 形而上学をひっくり返しても形而上学だよ、俺は違うよっつう 態度。「形而上学的ヒューマニズム」でもサルトル的実存主義 でもなく、存在への問いこそが重要であると。 「形而上学的ヒューマニズム」ってのは19世紀的な超人ヒューマニズムだな。 或いは進化論的ヒューマニズム。
ハイデガーの『現象学の根本問題』をとにかく読了した。 非常に面白かった。 『存在と時間』ハイデガーのとりあえず書いておこうという書物だと感じるが、 『現象学の根本問題』は講義ながら、ハイデガーの本心が書かれている気がする。 『哲学への寄与』はものすごく難解で、歯が立たないが、ハイデガーの赤裸々な 告白が書かれている気がする。 はやく、『哲学への寄与』を読みたい。
ハイデガーは自分のことをちゃんと語れば もっといい哲学者になったろうにw
言葉は存在の家であり、人間はそこに住む。 詩人や思索者がこの家の管理者である。 これが後期ハイデッガーの基本テーゼらしい。 言語が発達しなければ、個々人の記憶の集合 としての歴史空間は成立しない。言葉によって 始めて、記憶は個人を越え出る。 この歴史(=言語)空間が家であり、我々は皆、 その家に生を受ける。 そこまでは良いんだが、ハイデッガーが真の歴史 空間に着地し切れているか、どうなのか。
ナチズム荷担で深傷を負った後のハイデッガーは 『存在と時間』時代のオラ脱構築だドカーン!って 迫力を失って、詩の朗読をしながらトボトボと米ソ 冷戦の狭間のか細い道を歩いている。 近代的地平を完全に踏み割れないまま、その地平は ポストモダンが継承したのか知らん。 俺も危うく潰されそうだったけどなw
同時テロ・ファシズムに巻き込まれてなぁ。 カビの生えた雑な進化論ヒューマニズムを 蒸し返しやがって。
187 :
考える名無しさん :2011/03/07(月) 22:53:06.01 0
元初の歴史と個体の歴史はどこかで応答しあう。この応答を称してハイデガーは性起と呼ぶので あり、それは個体の覆蔵する歴史が開けるそのことを意味する。ハイデガーはここで、根源的な拒絶 ということに重心を置いて有の概念としている。だからこそ、《ある根源的なもの、つまり拒絶の内 で有・を保証することの充溢》(440頁)のような言い方が可能になるのだ。元初との応答により、 初めて自己‐性の取り戻しが可能となる、そのような論理がみえる。2000年、村上龍の小説『共生虫 』が発表された。引きこもり少年がふとしたことから旧日本軍の隠匿していた毒ガスを手に入れ、 ハイテク業界の人間たちをおびき寄せ使用する。村上龍の小説では屡々描かれるが、そこでの殺傷 行為が、人間の姿を歪に奇形にし、それを主人公が体験することで、社会から逸脱していく過程が 描かれていく。村上龍の小説の描く殺傷、それが現代において持つ意義、それがハイデガー的な 開け、無への応答と通じていく感じがある。村上龍の現代性ということを考えさせられた。
ドイツ哲学は ハイデガーで終了したからな 要するに行き詰まって出口のない哲学の終焉だ
189 :
考える名無しさん :2011/03/07(月) 23:05:10.80 0
>>187 >そこでの殺傷 行為が、人間の姿を歪に奇形にし、
>それを主人公が体験することで、社会から逸脱していく過程が
>描かれていく。
そういうのは石原慎太郎が「化石の森」で40年前にやっている。
190 :
考える名無しさん :2011/03/07(月) 23:12:44.67 O
日独は敗戦で尻の毛まで抜かれちまいましたからね。
以下に『共生虫』ストーリー。 体内に謎の「虫」を宿した、引きこもり青年ウエハラ。 彼はネットを通じ、インターバイオと名乗るグループから、 その虫が殺戮と種の絶滅を司る「共生虫」であると教えられる。 選ばれた存在であることを自覚した彼は、 生贄を求めて外の世界に飛び出してゆくのだが…!? 衝撃のインターネット文学、ついに文庫化。 尚、この作品は講談社より出版され、講談社文庫にもなっています。
覆蔵された歴史地平に着地するには近代を脱構築しなきゃ ならないからな。かなり無謀な努力を強いられる。 ドン・キホーテみたいなもんだ。しかし誰かがこの貧乏クジを 引かされる。
さもなきゃ19世紀にロールバック、もしくは1984。
194 :
考える名無しさん :2011/03/08(火) 05:02:31.69 0
S少年の殺傷の特徴というのは、言うまでもなく、それにより、極限の窮迫、有の困窮に抗する。い わゆる有の防衛として、というところにある。ハイデガーはいう。 《本質的な窮迫防衛は、窮迫を取り除くために窮迫に対して防御すべきではない。そうではなくて 、窮迫から身を守りながら、まさしく窮迫を守り、震えを拡がりへ開くことに即して、窮迫を担い 抜きの内へと広げなければならない。》(257頁) そこで先の、神の現成が人間の経歴の現成に応答する、ということがある。それがいわゆる性起で ある。この論理では、有の窮迫を守り、かつ窮迫から守る。ということが考えられている。だから殺 しがすべからく性起とされることはない。そこにやはり意味付けが内蔵される。村上龍の小説がそ うだというのはそこに有の窮迫が内蔵されているからだ。殺しがすべからく性起とされることはな い。そこが勘違いされやすいところである。
《本質的な窮迫防衛は、(…)窮迫から身を守りながら、まさしく窮迫を守り、震えを拡がり へ開くことに即して、窮迫を担い抜きの内へと広げなければならない。》(257頁)という のは分かりにくいが、有・の窮迫を敢えて解消法で消去することが現代では奨励されてい るわけだから、それを考えれば不自然な表現でもない。現代人に於ては、とかく「とにかく 仕事に打ち込むことが先決。他は忘れて。そして、余暇はレジャーとかで発散すればよい。 また、家族サービスでもすればよい」といった言い方で《窮迫を担い抜く》ことなどまず 奨励しないのだから。それは学校から企業から、家族から、現在、生活の場となるところで はすべからくそうなっている。それは言ってしまえば〈窮迫の忘却〉と言える。ハイデガー が注視するのはそういったことが社会の装置として、包囲している。よって窮迫から守り 、だが窮迫を守りながら、ということが言われる。そう私は捉えている。
有・Seyn という概念が解りにくいのは、そこに、無の問題が含まれているからである。 《思索的に問うことは、然りを‐言う力の根源性に、まず到達してしまっていなければならない。そ の力は、あらゆる力自慢の者たちとすべての綱領的な英雄主義の持つ一切の楽観主義を本質的に 越えて存しており、有・・それ自体の内における無化するものを、最も覆蔵された贈り物として 経験する上で、十分強い。この無化するものは、われわれを初めて本来的に有・とその真理の中に 愕‐然という仕方で奪い‐移す。》(285頁) ここには、有・における〈無化するもの〉、ということが、〈然りを‐言う力への根源性〉として明確 に称揚されている。この本では〈拒絶〉は鍵概念としてあるが、〈拒絶〉が、〈無の根源性〉であり、その 出現を意味していることを伝えている。乾いた虚無を噴出させる衝撃を、これらは表している。
有・Seyn という概念が解りにくいのは、Seinの間違いじゃないのかと何度言われても
>>1 が聞く耳を持たないからである。古語?
198 :
考える名無しさん :2011/03/09(水) 13:32:38.99 0
簡単な話で、Seynというのはハイデガー自身による表記である。そこで覆蔵された歴史の拡張を 試みたのではないか、という解釈もまた為される。あれはハイデガー本人の表記である。Seinから Seynに書き換えられたということ。
‘i’と‘y’の使い分けに揺れがあった時代の表記らしいね。 ヘルダーリンの詩からでも拾って来たか。 『存在と時間』が面白いのは、ハイデッガーがアリストテレスを 同時代人的な態度で批判を加えている点だ。 「二千数百年前のアレクサンダー大王の元家庭教師と喧嘩してどうする?」 というのは進歩主義の歴史感覚だ。我々は当たり前に古人の 眠る大地に足を置き、彼らを過去の彼方に眺め、現代よりも 劣った時代の人物としか見ないか、逆に無闇に神格化するか の二律背反の内で揺れ続けている。
歴史性の欠如した世界観というものは、有り得ない。 だから現代社会は宙ぶらりんの不安な空間にしかならない。 イデオロギーとしての歴史は時空を構成しない。
歴史を持たない抽象的個人の寄せ集めだ。
現代の世俗社会的な権威体系というのは、そういうものだ。 俺はコミットしない。
この世の様に付き合いかねて背を向けて二十年、この世界の どこが間違っているのかを一人で考え続けて来た。知ることは 多々あったが、世の中は今でも大して変化はないように見える。 多分、死ぬまでこんな暮らしだろう。
204 :
考える名無しさん :2011/03/09(水) 19:27:23.50 0
有・Seyn て何だ、というのがあれを読む場合の基本的問題である。とすれば、こう考えていくと 良いんではないか、という処を。そもそもハイデガーの『有と時 Sein und zeit』で提起された 有 Sein というのは、あの本の章のタイトルにもある、超越論的地平としての時である。それが、 人間の自己性として、その根底として、生成し、支配する自然としてある。人間が「私は云々」と言う よりもっと根底的な地平としての自己。それがそれであった。よって時から指し向けられる自己。 それこそが真理の本質である。これが『有と時』の基本的命題だったとしましょう。 ではこれが『哲学への寄与』ではどうなったか。SeinからSeynに書き換えられて何が変わったか 。基本的構造としては変わっていない。ただ、自己性として指し向けられる時の幅が、精々個体の 生誕以降からの経歴であったのが、より根源的になり、生誕はおろか、受胎以前、または無の段階。 また、もっと遡行して、人間が種として現れる前、生物が現れる前、物が有るともいえず、無いとも 言えない。それは殆んど宗教の領域であるかもしれない。そのようなスパンで、歴史の覆蔵を設定し た。それがあれだと思える。基本的構造は同じ。しかし、指し向けられる時の規模が変わった。そう 考えれば、有・ Seyn とは何かを考える始点になると思いますけどね。
続けると。じゃあ、初源の時、歴史、それが有・ Seyn を指し向けるとして、その初源の 時と、人間の、個体の歴史とはどういう関係なんだ、となる。それにたいするハイデガーの 答え方がある。 《有・は、本質現成するために人間を必要とし、人間は、現‐有としての極限の使命を遂行す るために、有・に属す。》(468頁)《必要とすることと聴き従い属すこととのこの対抗躍動 が、性起としての有・を成しており、この対抗躍動に含まれる躍動を知の単純性にまで高 め、その真理において基づけることこそ、われわれに思索という仕方で課せられている第 一のことである。》(269頁) ここに分かるように、有・の呼び声に耳を澄まし、聞き取ること、従うこと。有の窮迫、 棄却という段階で、その躍動が現成する。それが〈無の衝撃=拒絶〉ということ、有の困窮か らの逸脱ということである。或いは、そのようにしてのみ、人間は、困窮からの逸脱を可能 にする。そういう論になっていると思う。
内在としての歴史性を欠くと世界はポストモダン空間みたいな 表層イメージだけしか残らないからな。世界観とは言えない。 当たり前のことだ。
ポストモダンは最初にフランスでサルトル的主体を否定する 思想として起こり、フレンチ・セオリーとしてアメリカに 持ち込まれた。 フランスでのもともとの内容がアメリカ中心の科学合理主義 +民主主義の社会を前提にした思想らしいので、何の違和感も なしに消化されて新自由主義の思想的背景になったんだと 理解してる。 80年代以後は日本もずっとこれだ。
現実に設置点を持たない表層イメージをどう塗り替えても壁紙を 取り替えたくらいな意味しかない。奴らが「神話」と呼ぶ、 まあ、政治的ファンタジーだな。
聞く耳のある者は聞きなさい、だ。
格好よく振ってるけど、空振りして、打ち返せてないですね。ボールがよく見えてない。
ポストモダンの表層イメージ世界というのは、マスメディアの プロハガンダによるソフト・ファシズムと実に相性が良いな。 今更、そんな下らない世界に付き合うつもりは毛頭ないがw
>>210 世の中は貴様みたいな精神的ヘレンケラーばかりとも
限らないからなw
30cm位ボールから離れてる。素振りの音はいい。よく風を切ってる。ただ、空振りです。
怒っても駄目なものは駄目で。相手を舐めてないで。ちゃんと構えて。ボールよくみて バット振らないと当たらないぞ。ファウル位は打たないと。当たってないから楽なんだよ。 この程度だって思えるから。
いやいや、君が裁きの日に地獄の火に投げ入れられることに ついて、ボクに遠慮しないでも良いんだよ。 悲しくもないからw
かっこよく打席入って振ってみたら空振りで俺に苦笑いばっかりさせるな。(苦笑)
必死だな。大丈夫、お前以外の人たちのために言うからw
アメリカ中心の世界観なんてライバルのソ連があったから 良く見えただけで、一極化した途端に右往左往だ。 バカ丸出し状態だ。
いいけど、先入観ばかりで処理しないで、ちっとはまともに読書したらどうだい(笑)批判はして も対象にかすらなければ意味ないぞ。頭の中で造り上げた像相手に勝ちを治めてるようなもんで 。誰が読んだって不毛なことに変わりはないよ。
分かる分かる、俺に黙って欲しいのな。 駄目♪
アメリカ合衆国の世界帝国支配のダシになんかならないよ?
今時はディベート技術で他者の思想をやっつけることでしか 自らを証明出来ない相対主義思想ばかりかな。 弁証法の昔からそんなことは言われるような気もするけどな。 主体なき時代、抵抗力もゼロだ。豊かになったからとは 限らないぞ。
野郎はゲイかオタクの草食系ばかりになっちまうしなw
心理的発育不全で社会不適合の引きこもり増えるし。
上の方で展開されてる対立図式があるけど、どうも真の対立とは思えないですね。だからあの 批判する主体性自体、さほど感心しない。あの批判自体、拠っている地盤が、批判してる対象と共 有してるというか。反アメリカ、反ポストモダン、反ソフトファシズム…。それらは一様に、主体性 の思想で、つまり批判する主体性ですね。そこで、やっぱり自己性というものが、歴史性というも のが、後回し、若しくは棄却されると思う。柄谷行人とか、あれはそうで、鋭利で、知性的なんだけ ど、やっぱりあれこそ個体の自己性をかつて、うやむやに纏めて、処理した。そこがまあハイデガ ーと比べると、個体の歴史性を安く見積もる思想の一種に見える。何で安く見積もるかといえば、 より必要な、まあ、世界革命でもいい、課題があるからですね。個体・自己の本来性を問う思想だ と、ああいう、世界革命とかの課題がある人間には面白くない。運動は分解してしまうから。そこ で批判する主体性をいつまでも訴えて確保しなければならない。そこがやっぱり、有の忘却の一 形態ですよね。
226 :
考える名無しさん :2011/03/10(木) 01:12:42.25 O
取り敢えず今の状況の出発点としてポストモダンの特質は マークアップしなけりゃ始まらない。 ある意味、ハイデッガー的な主体も排除されたんだぞ。
もちろん、それだけじゃ済まない。 特殊な切開技術がいる。
228 :
考える名無しさん :2011/03/10(木) 01:35:38.76 O
そもそも、アメリカ中心体制から離れられない奴がハイデッガー 読んでも分からないぞ。
229 :
考える名無しさん :2011/03/10(木) 01:44:16.15 O
おそらく、第二次世界大戦後のようなアメリカ依存体制は 終わる。
ハイデガー的立場からすれば、アメリカ依存も、反アメリカ依存も、同じように有の棄却 であり、互いに反対しながら依存する。そもそもアメリカの政策に賛成かそうでないかで 二分する、政治学そのものである。これに付き合うという発想自体、有の棄却である。つま り、労働者に味方するか、資本家に味方するか、のみで人間を二分し、截断にするのと同じ 。天皇を尊敬するか、しないか、で截断するのも同じ。政治の手法である。この発想に真面 目に付き合うこと自体、政治の領域への移行を意味する。
後期ハイデガーは、<時間性>の探究を放り出したかのようである。
現在の権力の根底には、〈対象化=操作=支配〉という原理が内的に貫通しており、これに反対し、 抗する勢力も同様の原理に貫通されることで、初めて拮抗・対抗しうる力たりえている。もしも 現代国家や体制、支配者に抗するなら、真に問題視すべきなのは、個々の権力への闘争はもう一つ の支配構造を生産する、この循環はどこまでも続いていくという循環であり、この循環を突き詰 めることのない闘争は、結果的に新たな支配構造を生み出すことに貢献することになる。それには 例外は考えられない。あらゆる人道主義や反体制が同じように結果してきた。そこからどのように して外に出られるか、が真に問われている問題になる。徒に危険を煽り、抵抗を促す勢力が何を結果 そてきたか、は歴史として残されている話である。「現実を見ろ」と言い、倫理を提出し、正義の可能 を言い立てる。政治家の常套手段で、人間学としての支配力学以上の何かがあるか、疑問である。
233 :
考える名無しさん :2011/03/12(土) 16:30:25.99 0
>>231 ナチ加担以降は哲学者として語れないことばっかりになったからね。
234 :
考える名無しさん :2011/03/12(土) 16:44:01.80 0
時間性の問題は歴史性の問題に昇華したろ。
>>184 みたいな感じで、ちょっと図式的過ぎるきらいはある。
親米か反米かというが、アメリカ的影響の強さというのは、
事実として無視出来ない。
235 :
考える名無しさん :2011/03/13(日) 10:12:46.53 0
スレ主です。皆さん、ご無事でしょうか。被災された方へ、お見舞い申し上げます。僕は地震のあ った金曜日、14:48、世田谷区代沢という、下北沢と三軒茶屋の中間辺りで仕事で来てて、地震の 影響で切り上げて帰ろうとなり、下北沢から電車に乗ろうとしてストップしてて乗れず、家へも 帰れず、その後、下北沢〜代々木上原〜新宿〜高田馬場と徒歩で移動し、高田馬場の会社事務所で 一泊。それが午前0時頃で、やっよ眠れました。 こういう謂わば限界状況がきてるわけですが、こういう極限状況において、ハイデガーの意義が あるんだろうか。どこがハイデガーだ。という向きもある。確かに住む場所も、食料もない。という 極限状況のもとで、思索の意味はないようみえる。しかし、実際に考える余裕がないにも拘わらず 、人間は有の呼び声を絶えず聴いています。同じ場所と時間で極限状況にある。しかし、そのなか でも、異なる神が個体に呼び掛けている。それが何を意味するか。死も生も、没交渉的だ。単独的だ 。勿論、同じ場所で、時間で災害に遭うのだから、そこでは同じだけど、1m水中に潜れば、事態の本 質がみえてくる。それがハイデガーのいう有の呼び声、問いである。人は何に向かって生きるか、 何を抱いて、夢見て死ぬのか、という問いである。それがその一人が担う生の意味である。それは 孤独であり、没交渉的地平である。
それは大きな災害や歴史の変動の渦中では、聴き取れなくなる場合もある。欲求の波にの まれて、聴こえなくなる場合もある。しかし実は人は己の有と背中合せで生きている。ただ 背中合せだから見えない。震災の中で、多くの死や生が、数で表されていく。いっしょくた にされていく。それは致し方ない力動ではある。しかし、僕はそれだけではないと考える。 下らなくも、尊くも、没交渉的な生。それが人間で、異なる死であり生の意味であり、ここ にハイデガー有論の意味があると思います。
まだ余震が僕の居る部屋でも感じられる。そんな時に何を言ってるのだ、と思われる向き もあるかもしれない。しかし、こんな時だからこそ言っておきたいことがある。こんな瞬間 だから、人は皆が同じように感じていると思う。思いたい。しかし、どうもそうではない。 例えば、あの金曜日、都心にいた誰もが目にした光景がある。都心にいて、交通がストップ した後の人々の浮かれよう。これは覚えている人も多いだろう。明らかに人々は興奮し、 仲間と、めったにない事態を楽しんでいた。日本全国がお通夜のようだとか思っている人 もいるだろうが、真っ赤な嘘で、この状況を興奮して高揚して受け取っている面もある。 おそらく人間には、震災や災害にあった時に、それを異常な瞬間の到来として、日常の破れ として、受け取ってしまうものが内在している。危険な未来予測のできない状況にもかか わらず、そこで高揚していく存在が人間にあるとしか思えない。それを、個我の閾の弛んだ 故の高揚とも言えるかもしれない。実際ありえないと思えるが、現実には都心の人間はそ うだった。交通崩壊という異常事態に、文明のもたらす閾の弛みが訪れ、無政府的な心性が 訪れたように思える。メディアが報道する、お通夜のような、沈んだ心性ばかりが訪れてい るわけではない。
238 :
考える名無しさん :2011/03/13(日) 12:32:36.50 O
エレベーターに閉じ込められたりしたら、開眼したかも知らん…
またがらっと話が変わるが、岩井俊二の2000年の映画で「リリイ・シュシュのすべて」 というのがある。宇宙の始源の物質であるエーテルを湛えた音楽を歌うリリイ。それに 引き寄せられ、陶酔し、ファンサイトに集まる若者たち。そこでの掲示板で交わされる交流 。その中で言葉を発する人間は、実際には同じ中学校でイジメの加害者と被害者だった。 リリイのエーテルを感受する人間は日常の中で、陰惨なイジメを繰り広げていた。ラスト では、渋谷でのリリイのコンサートに出掛けた主人公(ファンサイトの管理人フィリア) は、ファンサイトの「青猫」が実は同じ中学校でイジメに耽る星野と同一だと悟り、コンサ ートの後、人混みの中を星野に近寄り、背中から刺殺する。その後、ファンサイトからは 管理人フィリアと青猫が姿をみせなくなる。この映画は岩井俊二の書いた、小説にもなって おり、小説では、ファンサイトの掲示板の書き込み形式により物語が浮かび上がるように なっており、映画とは違って、リリイ・シュシュのファンサイトが再建された後の賑やか なやり取りから、新しい管理人サティが、先代の管理人フィリアのことを語り始め、どの ようにしてファンサイトに来なくなったかが語られる。実は新しい管理人サティは元の 管理人フィリアだった…。この作品で象徴的なのが、リリイ・シュシュというアーティス トが湛えるとされる宇宙の始源エーテルを感受しながら、日常では陰惨なイジメの加害 者と被害者であるそのギャップが、知らずに進行している不思議さである。エーテルとは それを感受すると涙が流れていくような根源を湛える。つまり、ここには、エーテルのも つ根源の二面性、根源が逸脱へ誘うという二面性が伺われる。エーテルは、『哲学への寄与 』でいう有・Seyn とひどく接近してみえる。或元初を表し、それが善なのか、悪なのかさ え判然としない。判然としないまま、しかし人々はそれに魅せられていく。
上に書いた「リリイ・シュシュのすべて」によって、僕がそこに描かれた中学生について、根性が 曲がっているから叩き直せ、とか思っているわけではない。そこがいつも勘違いされそうなので 釘を打っておきたい。僕はそこに描かれた中学生を、至極まともな人間で、まともな精神の持ち主 がそのような二面性を生きているという物語に興味をそそられたと言っているのである。そこで そのような中学生など叩き直せ、自衛隊にでも入れて鍛え直せ。という論調はあろうし、震災ボラ ンテイアに入れて奉仕させろ、とか言っている人間もあろう。そんなことをしても何も変わらない と思っている。そうではなく、人間の中に、死や暴力に感染し、浄化される心性もあるということの 方が重要だと思っている。言い直せば、このスレッドでの第1命題からして、死や暴力に感染する ような奴は精神異常で、病気であるか、人格的な破綻者で、どうしようもない、捕まえて死刑にす るしかない人間なんで、社会を守るために、その手のバカ共は早く始末するべきである、とする、 そのような風潮に抗うということにある。抗うための根拠はこのスレッドの扉にもある。そのこと をここで明記しておきたい。で、ハイデガーを論じている人間の中にも、私からすれば不思議なこ とに、ハイデガーにはそんな話は関係ないことにしたり、じゃあどういう話が関係あるのか、と逆に 聞いてみたくなるが。やたらと現代思想に詳しいにも拘わらず、社会防衛の心情ばかり優先して、 市民的な正義の言動ばかりする人間もいる。翻れば、本当の意味で、悪の問題、を突き詰めてこな かった人間が正義漢として、振る舞うことになっている。現代思想には悪の意義の追求ということ が伝統的にある。しかし、またそれを真剣に受け止めれる人間は限られている。バタイユの翻訳で 知られる出口裕弘という人がいるが、この人はオウム事件のときに麻原を擁護した人間を一方的 に絶交した、という。それがバタイユの翻訳家なのだから、判らない話だ。それだけ、現代人に巣食 う道徳は根強いということかもしれない。しかし、それはバタイユをどこまで真剣に読んだか、 疑わせるに十分な行動である。
242 :
考える名無しさん :2011/03/15(火) 01:23:41.36 0
『ヤスパース=ハイデガー往復書簡』(名古屋大学出版会)をチラと読んでみた。二人は1920年代 の初頭、知り合って、哲学する者同士、遠慮ない議論の可能な人間として、認め合い、互いの家を往 き来し、家族付き合いするほどに親密となる。が、ハイデガーのナチス加担以後、別の道を歩かざる をえなくなる。妻がユダヤ人のヤスパースには、ナチスはおぞましく、危険な、愚劣な、無知以外で はなかった。戦後、ハイデガーの処遇が問題になった際、ヤスパースはハイデガー自身により指名 され、人格・思想を調べるための客観的コメントを求められる。1936年に最後に書簡を交わして、 その後その書簡の交換は途絶え、再開されたのは戦後だった。興味深いのは、ハイデガーの思想に 全て共感している訳でもなく、しかし、ハイデガーの思索の力を同時代で抜きん出たものとして 認め、そこで牽かれていく心性が現れていくところである。ヤスパースには、ハイデガーの思索は 一体何を目指すのか、思索が何をもたらすのか、はっきりしないものであった。一方ハイデガーに とって、そのようなヤスパースの問いかけはさほど気に留める必要性が認められないものであった 。問とは自分に遣わされ、自分がそれに耳を澄ます。その対向する躍動が何より重要だったからだ 。ハイデガーにとって、他者の疑問が重要視されることはなかった。ただ深く思索することだけが 重要で、ヤスパースさえ、思索の態度を変えることはなかった。ハイデガーの思想に、どこか他者の 入り込めない独白があり、自由主義的でないものを感じながら、しかし引き寄せられる矛盾が、終 生ヤスパースの中にあった。そも分裂がこの往復書簡にもよく現れている。
この変な日記って、どっかから転載してるの?
誰も読みゃしないんだから止めてほしいよな
『ハイデッガー=ヤスパース往復書簡』の後半は、ハイデッガーのナチス加担と失敗を含第2次 大戦戦後、中断されていた二人の往復書簡が再開されるところから始まる。あのようなハイデッガ ーの事実を知りながら、尚もヤスパースはこの思想家への驚異と尊敬の念を、また、1920年代以来 の友情を捨てることができず、それがこの交流を戦後に再開させた、ということが分かる。両者は 、自分の手紙の終わりの行に必ず「あなたのマルテイン・ハイデッガー」または「あなたのカール・ ヤスパース」と添えることを忘れていない。これは二人の心の交流をよく表している。この本のこ とは以前から知ってはいたが、さほど期待はしていなかった。というのは、あまり具体的に二人の 著書の概念について、喋ってはいないのではないかという疑いがあったからだ。結構誤魔化して、 それによって絶交とはならなかったのではないか。しかし、改めて後半を読むと、二人はそれほど 器用ではなく、現代人ほど擦れてもいないので、不可避的に、書簡の上で互いの思想について、検 討しないではおられない。それはやはり思想する人間の良心が、それを必須とさせていたと思える 。よって想像したほど無意味な文面はなく、礼と親愛と、敬意、率直な意見の思想的交換はある。予 想したよりも読み応えのあることが分かった。礼と信頼性、率直さというのが、思想的交流には重要で、二 人はそれを備えている。ヤスパースにとって、全て肯定的ではないにせよ、ハイデッガーの存在は 自分の思索にとって、終生貴重なものだったことも文面から滲みでている。
>>245 ハイデガーは本当にナチ加担で哲学者として大切なものを多く失ってしまった。
第二次対戦や支配者、権力者、ホロコースト・・・というような極めて重要なことが
ハイデガーは語れなくなってしまったからね。
しかしもともとハイデガーは「哲学史家」といった方がいいような学者だから
日本やドイツでは過大評価され過ぎているようにも思う。
フッサールの著作はつまらないけれども有益だ。
だから今でも現象学は、「現象学的精神医学」「現象学的システム論」などと広がりをみせて
進化し続けている。
木田元も言うように、「ハイデガーは面白いけれど、それほど大したことは言っていない」のだと思う。
>>246 「哲学史家」にして「テクスト解釈学者」だから他人の思想に乗っかって思考した人でしょ
フッサールからは肝心なところを学んでないんだよ
文献解釈学者だから日本で受けがいいのも理解できるじゃん
日本は文献解釈学者しかいないし(笑)
>>247 同感。フッサールの遺稿をむさぼりつくしたメルロ=ポンティのが面白い。
超越論的現象学という、思考の枠組みをフッサールから学んだところまでは継承しているけれど も、ハイデガーの関心はあくまで有 Sein の問いであるので、そこではもはやフッサールからは 学ぶものはないと思っていた。学の前提条件としての、理性や悟性に人間性は収斂するものである か、という疑いを持っていたんじゃないか。ハイデガーはフッサールやヤスパースほど、大学を頂 点とする学問機関に、過大な期待を持っていない。何故なら、大学を頂点とする教育機関自体、彼 からすれば、有の忘却の一様相でしかなかった。ハイデガーにとって、有の問い=本来性の 問いほど棄却してはならないことはない。歴史(経歴)の呼び声に耳を澄まし、覆蔵の開けに 聴き従うことの方が学の体系よりも余程尊いと。そこに、つまり理性的動物に収斂されない人間、 というとこに、ハイデガーの〈ヒューマニズムを越えて〉という方向もきざしている。木田もその 辺のことは把握していると思う。哲学史やテキスト読解が何故ハイデガーにとって重要だったか も、それら、哲学者たちが問うてきたのが、有の問いの周辺で、そこが彼等の限界だと言いたかっ た。ひいてはそれは形而上学の限界―有へまで届かない―でもあった。
それからメルロ=ポンテイは最後の遺稿でハイデガーが書いたのではないかとみまごうような 内容物を遺している。いかに生涯の最後の方で、ハイデガーの思索が気になりだしていたかを表し ている。『見えるものと見えないもの』にそれは出ている。
>>249 でもフッサールはフロイトを読んでいたし
メルロ=ポンティはさらにソシュールも取り入れた
フロイトの最初の研究は「失語症」でしょ
ソシュールはそれまでの「言語学」を超えた「構造言語学」
フロイトとソシュールはマルクス同様に天才の仕事をした
フッサールは「人間の基本的思考」に基づいて考える方法を徹底した
ではハイデガーは?
ハイデガーにはソシュール的な考え方もフロイト的な考え方も無いし
読んでさえいなかったろう
だからここ最近の木田元のようにけっこう醒めた発言が出てくる
まあハイデガーは文献解釈学の哲学史研究家だから仕方ないのだろうけれども
〈言葉は存在の家〉という命題がハイデガーにはあり、単に指示機能ではないことを彼なりに言い 当てている。言語が、語る人間の生の歴史的現成でもあることを、彼なりに思想化しえていた。ハイ デガーに惹かれる人間に詩人のパウル・ツエランがあり、ツエランは家族がアウシュビッツで死ん でいるにも拘わらずハイデガーへの心酔を隠さなかった分裂を生きた詩人として知られている。 それからハイデガー愛読者のデリダはフロイトの無意識について、事後的に語られる《理論的虚構 》であり、《かつて決して現在であったことのない、そして今後決して現在であることがないだろう ような「過去」にかかわっている》として、(これがまた日本の知識人に口真似されていたが‥)デ リダお得意の脱‐構築をしてくれていたのと対照的に、ハイデガーの思想は覆蔵された経歴の現成 が主題でもあるので、そこには横断線がある。そこがデリダとハイデガーの明確な違いであって、 歴史というものを、デリダのように、《理論的虚構》というようには纏めたりしていない。デリダに はハイデガー有論の大きな要素である歴史がない。デリダのような、一見斬新な、しかし内実はあら ゆる現実的着地も拒むという神秘主義とはハイデガーは無関係である。よってフロイトはそこで 訳の分からぬ衣装を着せられ、何が言いたいのかさっぱり分からぬ否定神学の仲間入りさせられ てしまうのである。
>ツエランは家族がアウシュビッツで死んでいるにも拘わらず アウシュビッツで死んでいませんが、何か?
俺も小学校のころは、ナチの収容所というのはすべて絶滅収容所で、 アウシュビッツというのは収容所を指す一般名詞だと思っていた それよりアウシュビッツは普通に入力できるのに ツェランがツエランてどういう環境なんだ
まあ、一般に ハイデガー → 悪 レヴィナス → 善 となっているみたいだが、 レヴィナスはイスラエルの建国を哲学的に正義であるなどとほざいている。 パレスチナの民はどうなるのだ!! レヴィナスもハイデガーと同じ穴の狢だ!!
訂正させてもらうと、ツエランの両親は収容所で死んでいるのは確かで、ただ場所がアウシュビ ッツではなく、他の収容所だったということである。アウシュビッツではなかっただけで、収容所 で亡くなったことに変わりはない。どこの収容所で死んだのか、についてはwikipediaに正確な 記載がある。ちなみにハイデガーの大部の評伝『ハイデガーとその時代』(著:ザフランスキー 日 本版法政大学出版局 1996)の記述を引用しておくことにする。 《ハイデガーの沈黙。パウル・ツエラーンとの出会いにおいてこれがもう一度ある役割を果たすこ とになる。1920年に出たチェルノヴィチで生まれた詩人パウル・ツエラーンは、両親が殺された 絶滅収容所からまったく偶然で逃れて、1948年以来パリに住んでいたが、とくにハイデガーの晩 期の哲学に親しんでいた。》(同書615-616頁)
間違いを指摘されて慌ててウィキペ(笑)で調べて しれっと「収容所で亡くなったことに変わりはない」とか 仰々しく「評伝の記述を引用しておくことにする」とか とっくに周知の話を今さら繰り返すのに 何をそんなに一生懸命になってるんだ 長々と書くだけ書いて中身はカラッポ ほんとに邪魔なんすけど
手軽に纏め過ぎてると思う。テキスト解釈が多いのは確かだが、そこに止まることはなかった のも確かなので、哲学史家、文献学者という言い方で止めるなら不十分になる。哲学史というもの が、有の問いの周囲を回ることに止まり、その中へ入りきれなかった。それを証すための哲学史だ った、とそこまで言わなきゃ、言い当てたことにならない。哲学史、テキスト解釈のモチーフがある わけで。そこがハイデガーの核心だった。〈有る〉の問いと哲学史との関係が主題といえばそうだった 。
『存在と時間』の基本構想として最終的にはアリストテレスまでさかのぼって文献解釈するというのは やはり日本人には理解し難いところもある。 誰か忘れたけれど、「現代思想が微分哲学なら、ハイデガーは積分哲学だ」っていうのも 的を射ていると思う。 フッサールの『イデーン3』がようやく出たので読んだがフッサールは本当に読み難くて退屈してしまう ところがあるけれども、過去の哲学には囚われていなかった。 しかしハイデガーはどんどん古びていく(鮮度が落ちる)学者だと思える。
ハイデガーやヘーゲルは批判されても生き残る。 なぜなら彼らを越える哲学史家(哲学者ではない)は出ていないから。 体系づけられた知識に揚げ足取りだけで対抗はできない。 ハイデガーの欠点は移動する視点がないことだが、 一応ドイツ語、ラテン語、ギリシア語をマスターした人間だから 批判する側にもそれなりの知識がいる。
アーレントはハイディガーをどう思ってたんだろうね。 往復書簡の一部を読んでもよく分からない。
>>259 > フッサールの『イデーン3』がようやく出たので読んだがフッサールは本当に読み難くて退屈してしまう
> ところがあるけれども、過去の哲学には囚われていなかった。
というよりフッサールは過去についてあんまり学んでいない。
> しかしハイデガーはどんどん古びていく(鮮度が落ちる)学者だと思える。
「鮮度」などというものは哲学には存在しない。
>>260 ヘーゲルも現代では徹底的な批判の対象としての哲学史家としてしか価値がないし、
ひと昔前はデカルトがその位置にいた。
ハイデガーもそういう存在になりつつあるのは仕方ないのかも。
>>260 批判する側は批判される側に無意識に依存しているのだ。
このことがわかってないから哲学は乗り越えられていない。
265 :
考える名無しさん :2011/03/21(月) 22:53:23.72 0
先日、ネットで以下のような文章を見つけた。執筆者は「鈴村智一郎」というネームになって おり、『感動した本を5冊紹介するスレッド』というタイトルで、自分の感動した本を挙げるスレッ ドに書かれている。この方はここに4冊挙げており、その冒頭に『哲学への寄与論稿』(創文社全集 版65巻)を挙げている。有名無名を問わず、この本に関してはまともに読みきった上での批評が 乏しい現況にあって、この方はまずちゃんと読んだ上での非常に率直な批評をしており、とても 貴重な批評に思えた。同じ執筆者は、この他に、やはりネットで『「最後の神」について』という、やは りこの本への批評を書いている。ブログでも、広範囲な批評を展開している、非常に多彩な才能を 持っている方だと分かった。これは、とても貴重な批評だと思う。 《マルテイン・ハイデッガー『哲学への寄与論稿(性起について)』 これがやはり筆頭にきます。本作は、ハイデジェリアンから熱烈に支持され続けているハイデッ ガー思想の「暗黒面」の総決算です。これは彼がナチスに入党する直前期に、密かに書き留めていた ものの集合体であり、ハイデッガーその人の魂を知る上での必読書といって良いと思います。 『有と時』では顕在化されなかった「底無しの深淵」「最後の神」「大地と天空の戦い」「大いなる火」な どといった、衝撃的な概念が極めて美しく記されており、圧倒的な存在感を持ち続けています。こ れを読む前と、読み込み終えた後では、世界認識が完全に変革します。私の中で本書は革命的な 聖書であり、同時に悪魔の書でもあり、非常に問題的です。》
>>265 別に『哲学への寄与』を読まなくても
ハイデッガーの顔写真を見れば
その人相のあまりの悪さから
彼の人となりは想像できるけれどねw
「哲学への寄与論稿」はニーチェの影響大だと思う。 ハイデガーはかなり感化されていたのではないか。 しかしハイデガーはニーチェではない。 デュオニソス的な記述も極めて表層的で単純過ぎるのではないだろうか。
ヘルダーリン (1770- 1843) ヘーゲル(1770 - 1831) マルティン・ハイデッガー(1889 - 1976)
誰のことと勘違いしたんだ?
274 :
271 :2011/03/25(金) 01:24:17.03 P
>>273 いや、お恥ずかしいが脳内でそう繋がっていた。修正中です。
ヘーゲルとシェリングとヘルダーリンは大学で一緒だった
>>275 ヘーゲルとヘルダーリンは下宿先も同室だよね
どこのトキワ荘だそりゃ
278 :
考える名無しさん :2011/03/28(月) 13:36:59.32 0
前レスで紹介した鈴村智一郎さんの、その他のハイデガー論がネットに掲載されているの
でご紹介する。タイトルは『Martin Heidegger archives』といい、計5つの論文が収録され
ている。鈴村さんという人はまだ若いけどもキリスト教の信者の方なようで、キリスト教の研究も
ずっとやられているようだ。一応upしておく。まだ若い20代の人だと思うが、よくやっていると
思う。『哲学への寄与論稿』の読解など、どの研究者のものよりその意義を精確に掴んでいると思う
。不満がないわけではないが、創文社版全集で読み進めた世代ーつまり、新しい世代ーの纏めたハ
イデガーはハイデガー自体が難物であることもあり、中々読めない。その意味で、若い世代が読ん
だハイデガーがどういうものかを知る良い機会でもあると思える。
星空文庫 Martin Heidegger archives 0-4
http://slib.net/366 http://slib.net/367 http://slib.net/368
ハイデガーの指す存在はプラトンのイデアと近い解釈でOK? 初心者でスマン
>>279 「存在と時間」の中では最初にプラトンが確かに出てくるけれど、プラトンのイデアでは無いよ。
「存在と時間」は未完の書物だから存在をめぐる問題を提起しただけで終わっている。
ハイデガー自身は時間の流れのなかに漂いながら感覚と方向によって意味を与えられるものが存在
だと考えた。
しかし、こういう考え方を突き詰めても限界がある。
「ある(存在する・有)」というのは別の中心に付随する感覚である可能性もあるしね。
けっきょくハイデガーにこれだけ多くの人が惹きつけられたのも、「存在」とは何かという根源的問
だからで、物理学なら「素粒子」は本当に「究極の素粒子」か?宇宙の始まりと終わりは・・・
というように、様々な存在への問の形而上学的思考による限界まで考えたということで評価されているのだろうね。
>>280 レスThank you
要するにハイデガーは存在の道標は示したけど答えは読者自身で追究しろという事ですね。
存在論自体が究極のテーマだから未完なのも必然だったんですね
>>281 専門家は色々と解釈が違うみたいだけれど、とどの詰まりはそういう事です。
だから、そういう意味ではハイデガー自身の手持ちの駒が足りなかったんですね。
師匠のフッサールは(フッサールの本は非常に読み難い上に退屈ですが)フロイトも
当時読んでいたし、他の思想からも影響を受けながら「人間が考えることの基礎」を
作りました。
だからフッサールの現象学は現代でも色々な科学の分野でも応用されています。
ハイデガーは普通に哲学的に考えた結果「どん詰まり状態」になったことを示したんです。
もちろんハイデガーとしてはそういう評価は受け入れないでしょうけれどもね。
283 :
考える名無しさん :2011/03/28(月) 23:34:44.19 0
>「存在と時間」は未完の書物だから存在をめぐる問題を提起しただけで終わっている。 ハイデガー自身は時間の流れのなかに漂いながら感覚と方向によって意味を与えられるものが存在 だと考えた。 自分の覚えもないところで深層に堆積しており、時の成熟とともに生長したり、或は突然変異の ように行動に出てきたりする、その胚みたいなもの、それが歴史であり、覆蔵された歴史の現成と いうのがハイデガーの主題だった。覆蔵され、現成する経歴(歴史)といえば、ハイデガーのいう 有 Sein になると思う。↑にある説明は全然違う。あんな曖昧なことはやってない。神秘的でも ない。よく読め。
↑ 意味不明w
今さらですまないけれど、過去スレの中に『ハイデガー=存在神秘の哲学』古東哲明は つまらなかった、読んで損した、とあったけど。 買った本をそのままにしていて、久しぶりに読み返してみたら 冒頭から飛躍があって、バカバカしくなった。 やっぱこの本ダメダメな感じがする。みんなもそうだよね?
>>283 こそ何かを神秘化するための曖昧なものの言い方の見本のようだ
創文社全集版『有と時』にこう書かれている。 《現有の「聯関」への問は、彼の経歴についてのオントローギッシュな問題である。経歴の構造とそ の構造を実存論的‐時性的に可能にしている諸制約とを露開することは、〈経歴を経歴たらしめて いる〉歴史性のオントローギッシュな理解を獲得することを、意味する。》(554頁) 《歴史の経歴は、世界の‐内に‐有ることの経歴である。現有の歴史性は、本質的に世界の歴史性で あり、世界は、脱自的‐地平的時性を根拠にしてその時性の時熟に属している。》(571頁) 経歴や歴史性という概念が、『有と時』において鍵となる箇所で出てきてるか、ここで解る。あの 本を理解しうるというのは、経歴また歴史性という概念の果たす意義を掴むということだ。それが 解らないならあの本とその人間は関係ないし、本質的に語るところまで到達してもいない。ハイデ ガーのスレッドで書くんだったら、一応は目を通して読んでこい。経歴とか歴史性とか、覆蔵とか 、皆鍵概念であることは一応は読んだ人間なら誰でも解る。そうでないハッタリ君だけだぜ。「意味 不明」「これこそ神秘化するための曖昧化」とか書いてるのは。何回でも言うが。ちゃんと読んでから 書け。ハッタリはやめとけ。ちゃんと読んでこい。
>>287 『存在と時間』の一部をそのまま抜き出したところで特に有意性はない
ハイデガー自身も「文体が悪かった」「説明がこなれていない」などさんざん反省の言を
残している
「コンテクスト」ということばの意味を知っているのかな
全体の流れの中で読み取る以外はない
それから全集版の『有と時』よりは中公Cかちくま学芸Bを読んで
補足的に全集版の『有と時』に目を通す方がいい
学会でもフォーラムでもそういう見解が多数派だ
木田元先生もそう話していたよ
しかし悪いのはドイツの出版社サイドなんだけれどもな
>>287 意味不明w
しかも存在の意味を説明してないし バ〜〜〜〜〜カ ポポポポーン♪
290 :
考える名無しさん :2011/03/30(水) 00:49:36.92 0
どんなジャンルでも終息期にはネオ化 ミニマム化し 自供 反〜で新境地 というものが出てくる 哲学に対して 反哲学も出てくる ハイデカーを過大評価しないほうがいい
>>287 ますます意味不明
神秘化するための曖昧化はやめて
もうちょっと読み込んでからまたおいで
>>285 ダメということはないんじゃないのかな
ハイデガーの完全な解説書ということなら面白くもなんともないだろうし
古東のハイデガーをネタにした考え方ということで読むんなら
それはそれで後半は面白いけれど
でもあとは読者の好き好きの問題かね
あくまでもハイデガーは哲学史・解釈学者だから
他人のフンドシでズッポリ相撲をとってるものをさらに古東がさらにその汚れたフンドシで相撲をとる
ハイデガーは分析哲学では名前すらほとんど出てこない存在だから
そういうことも頭にいれてハイデガーとも解説本ともつきあうべきだろうな
288,290、292とかが書いてるのを見ると、他人の評価がそのまま受け取られて書かれているよ うだが、当人が自分で読み込んだ感想がないが、自分で実際に読み込んだ感想が何故書かれてない のかな。木田や論壇で流通してる評価はいいから。自分で読み込んだ末の評価を書いてみてはどう か。 それから287の引用は無作為に引用されてるわけではない。世界として現成する経歴(歴史)と いうのは『有と時』に重要な概念ではないか。経歴としての歴史性こそ、有の理解を指し向ける、超 越論的地平として位置付けてあるものだろう。君、『有と時』の主題に沿って引用してあるのが分か らなかったのか?これが「全体の中で」の「有意味性」だよ。核心を読むってことだよ。君の方が分か ってない。戯けた中傷である289,291に比べ、まだ教養はあると思うが、世間的風評で済まして書 いてるように見えるが?
>>294 まぁ〜たオマエか
オマエ波平だろ?
>それから287の引用は無作為に引用されてるわけではない。世界として現成する経歴(歴史)と
いうのは『有と時』に重要な概念ではないか。
ハイデガーは哲学史家なんだから当たり前のことだろ、こういう自明って言うんじゃね?
279 :考える名無しさん:2011/03/28(月) 18:57:49.84 O
ハイデガーの指す存在はプラトンのイデアと近い解釈でOK?
初心者でスマン
これ↑が最初の質問だろ、「有と時くん」はその質問に答えてるの?
まあ何にしても
>>294 の他人になりすましは、フェアじゃねえな
負け惜しみはオマエの頭の中だけでやってろクソボケw
それと、こんなところで何書いても作り話だと思われるので書かなかったが、木田さんとはある イベントの質疑応答で話した。木田さんは私の『哲学への寄与論稿』への批評に、‘ハイデガーがあ そこで言いたかったのは、これまでの文明の歴史は限界に来て終わるだろうということ。そこで、 貴方の言うように、今の日本の社会がやはり終末的だから、そこに引き付けて読むということが出 来るんでしょう。’と返してくださった。とても率直に感想を言ってくれて感謝している。あと、ハ イデガーフォーラムの第1回が数年前東大本郷校舎で開かれたが、そこでは或先生と、ハイデガー の立論についてさしで数分間論争し、その後その日の後半で、別の先生から、‘今日、印象に残った 意見’として、挙げてもらった。伝わったか不安だったのでこれは嬉しかった。因みに木田さんと の対話、フォーラムでの論争、とも、内容は私のHPでupしてある。ただ、ここで教える気はない。 。読みたかったら探してみてください(笑)
>>296 木田先生は温厚だし社交的でもあるから、そういう態度に出てくれたこともあるでしょう。
レス285は言葉が汚すぎるからもう少し抑えた方がいいかもしれませんね(他意はないですよ)。
ハイデガーフォーラムは面白いですよね。
この前のフォーラムも面白かったですし。
『哲学への寄与論稿』は「ハイデガー第二の主著」という評判ですが、書いた時期的に言っても
『ニーチェ』に至る下地的要素はかなり強いと私は思います。
文体もかなりニーチェ的ですし、当然ながら当時の心情をが反映されています。
山本英輔さんの本も読んだのですが、ちょっと私とは捉え方が違う点が多かったですね。
あなたと私はたぶん面識がある可能性が高いみたいですが(最低でも名前か顔は知っているようです)、
堂々とここでHPのURLを出せないなら、そういう思わせぶりな嘘はやめるべきだと思います。
295はハイデガーを読んでないな。経歴とか歴史性とかが現成する、というのは哲学史とは関係 ない。ハイデガー有論の中心命題だ。解らないのによくペラペラ言えるな(笑)馬鹿者が。 ハイデガーの言う有は没交渉的と書かれている。経歴としての歴史性は個々別々。イデアとして 理念として纏めるものではない。むしろ入れ替え不可能な単独性の根拠である。だからイデアとは 違う。
297ですが、本文の「レス285」は「レス295」の間違いです。 失礼しました。
297さんもフォーラムに行かれたみたいですね。毎年行かれてるのかな。私は第1回だけなんで、 それ以後はどんなかよく知りません。ただ、参加費1000円は安いですよねー(笑)本で読んだこと ある人も見れるし、聴いてるだけで楽しいです。木田さんは、今は聴力が良くないようであの時は 最初に私が手を挙げて話し始めて、どうも聞こえなかったらしい。で、木田さんの真ん前まで近付 いてほとんど正面から話したのを覚えています。『哲学への寄与論稿』は、私はドイツ語は不得意 なんだけど、今、原書を取り寄せてて、楽しみにしています。どうしても原語で読みたい所がある ので。ただ、到着まで相当かかるって言われて、当分来ないと思いますけどね(笑)
自分と意見が違う人=ハイデガーを読んでない人認定 こんなやつが何言っても誰もまともに取り合わんて
w
303 :
考える名無しさん :2011/04/02(土) 04:06:16.01 0
報告】映画「哲学への権利」@首都大学東京での討論会記録
http://tmufr.blog130.fc2.com/blog-entry-60.html これ面白い。↓
岡本 国際哲学コレージュの関係者たちの哲学観の紋切り型の古さは
如何ともしがたい。こんなことをいま言っていてどうするのだろうか。
彼らは「脱構築」という言葉がお好きのようですが、こういう紋切り
型の思想を脱構築するのが、最初の課題ではないでしょうか。それほ
どあの的外れぶりには正直驚きました。
よくわかりますが、これらはすべて、19世紀的な哲学観としてみても
古いのではないのでしょうか。何がおかしいかというと、彼らが理解
しているようなところにだけ哲学があるわけじゃないし、もっと言う
と、彼らによって哲学は見失われていっているように見えるわけです。
極論します。 ハイデガーは 『存在と時間』、『現象学の根本問題』では、 存在とは時間である。 と言っています。 『ニーチェ』では 存在とは、力への意志・永遠回帰 と言っています。 では、 『哲学への寄与論稿』では、どうなのでしょうか? あまりにも難解で、全体像がつかめないのです。
存在が時間だとすれば始まりがあり終わりがあるということか?
こちらの方が慣れてるので有で書かせてもらう。まず、ハイデガー有論の根本構造を把握してい ることが大切だ。私がくどいほどここで繰り返してるように、覆蔵された経歴の現成。ハイデガー 自身の言葉で言えば、 《(…)すなわち、現有それ自身の或る可能性から自己へと将来する限り、それとともに現有はまた 、現有が既有的にそれで有るところのものへと帰来するのである。》(『現象学の根本諸問題』創文 社全集24巻第二部 第一章 第19節 γ)語り出された時と、実存論的時性から発するその根源。 時性の脱自的かつ地平的な性格) 現有が自己の可能性へ将来させるということは、実は既に(意識されているか否かに関わりなく )、それであった、萌芽していた可能性へと帰ることを意味している。これをまた言い直せば、人間 が生長するということにおいて、将来的な可能性が言われていくが、それは元々胚胎している有が 到来することでもある。元々あったことのない将来的な有などない。そこで 《根源的(実存論的)な意味における将来には、実存論的な意味における既有性が等根源的に属し ている。》(同) と言われる。あと、有というタームで〈有の理解〉〈存在了解〉といった、〈根源的な理解の指し向け〉 ということも言われている。一人の人間の世界性ということである。 《そのような理解として現有は、彼自身に関して、すなわち彼の有り・能うことに関して、何が重要 であるかを、「承知」している。》(『有と時』第31節 理解としての現で‐有ること)
有は〈有の理解を指し向ける地平=歴史〉というところは『哲学への寄与』も継承されているけども 、それまでと違うのは、有の場所が「根源的」とされ、「神的」とされているところで、しかも、その有・ が指し向けるのは「拒絶」なわけである。「拒絶」を指し向ける「根源」というところで、それまでのハ イデガーの有論と違う異様さがある。だからこれを読んだ、私が紹介した鈴村智一郎さんは、自分 のブログで《ハイデガー思想の「暗黒面」》と言っている。鈴村さんという方はちゃんと読んでいる のでそういった感想が出てくるのだと思う。私が感じるのは、『哲学への寄与』には、文明が或る臨 界を越えたときの〈その後〉の段階というのが主題としてあるのじゃないか。 例えば123節でこう言っている。 《有・は、神現の(自分たちの神についての神々の決断の前触れ的響きの)震えである。この震え は、、その内で自らが拒絶として開けの内に到る活動‐時‐空を、拡がりへと開く。こうして有・は、 〈現〉を、つまり、その内で有・それ自体が震える開けを、自性‐化することの性‐起で「ある」。》(『哲 学への寄与論稿』全集65巻256頁) 〈性‐起〉という用語があるけども、これも覆蔵された歴史が現成するということ。有・の指し向け だから、より根源的に開ける、ということを意味している。〈自性‐化〉も、歴史的現成により自己へ 将来する、の意になる。「超絶的存在の震え」としての「拒絶」。それが、根源的歴史の到来として己に 於て開かれる。そういうところが今的に感じさせるところです。
「ハイデガー講義録を読む」木田元(現代思想・総特集ハイデガーの思想)より 全集版の講義録は、いつかキシールが厳しく批判していたが、校訂に問題が多い。我々日本人にさえ簡単に分かるような 校訂ミスが散見される。特にこの全集編纂の中心人物であるはずのフォン・ヘルマンの校訂した巻にそれが目立つ。 その上、創文社から出されているその翻訳も、けっして読みやすいとは言えない。通常〈存在〉と訳しているSeinを〈有〉 と訳さなければならないという規制があるらしく、訳者たちもいかにも役しにくそうにやっている。Seinを〈存在〉と役し たって、分からない人には分からないであろうが、〈存在〉はまだ日本語のなかで現在も使われる生きた言葉である。 〈有〉というのは、ほとんど死語であろう。そんな訳語を強制されては、分かりやく訳そうという気にもならないろいう ことか、とても一度読んでも頭に入ってこない妙な日本語にされているものが少くない。こんなに分かりやすく語られて いるものをもったいない話である。版権を独占しているので、訳し直そうと思ってもどうにもならない。
>>305 時間に始まりと終りがあるということは、自然主義的態度で、言えることである。
時間観念をエポケーして、考察しなければならないと思う。
いや、それにしても、『哲学への寄与論稿』は難解である。 ハイデガーの転回後の主著であるが、きわめて現象学的に考察されていると思う。
ハイデガーは、決して、現象学を捨てなかったと思う。
そうなってくると、 自然主義的な存在はエポケーしないといけない。 実存も「」に入れて、それを思考する意識構造も「」に入れて。 そうでなかったら存在は時間である、とは言えない。
ハイデガーの言う存在の本質が理由もなく原因もない偶然性なら なぜ被投性であると断言している現存在の生き方を本来性とか非本来性というような宗教的な発想で分けるのだろう 本来性とは何を基準に本来だと言い切ってるのだろう?意味や理念も無く投げ出された存在者なはずなのに まずここでハイデガーの矛盾を感じてしまうんですが・・
>>313 その「本来性・非本来性」とはカントの言う「確からしさ」じゃないかなと。
私が306に引用した《》内を読み切れているのらば、313に言われている疑問は出てこないと思う。 >ハイデガーの言う存在の本質が理由もなく原因もない偶然性ならなぜ被投性であると断言して いる現存在の生き方を本来性とか非本来性というような宗教的な発想で分けるのだろう。本来性 とは何を基準に本来だと言い切ってるのだろう?意味や理念も無く投げ出された存在者なはずな のに また引用してみよう。 《現有は自己自身を、現有が予期している最も自己的な有りうることから、理解するのである。 現有がそのようにその最も自己的な有りうることへ関わっている限り、現有は自己自身に先立っ ている。(…)或る一つの可能性を予期しつつこのように自己‐へと‐将来することにおいて、現有は 或る根源的な意味において、将来的に有る。》(『現象学の根本諸問題』第19節) 上の《》内と先に306に引用した箇所を読み合わせると、ハイデガーの言う本来性はかなり明快に なる。予め、胚胎しており、自分の内部でも予期されている、そして、自分にとっても、それが自分に とって、重要であること、無視できない、それを蔑(ないがし)ろにすれば最早自分はもう自分じゃ ない。それは、向こう側から、徐々に自分に決断を迫るように到来する…。 「何を基準に本来だと言いきってるのか」言いきるのは誰でもない。自分に到来する時だ。時熟という 用語がそこで生きるのだよ。だから、言い直せば、この本来性は、徹底的に自己的。他者には理解さ れないかもしれない。だからこそ、孤独に、真の自分に直面させるんだよ。分かりますか。
余りにも理解不能なようなので、ここでとんでも安直な例を出すと、smapの「世界に一つだけの 花」はハイデガーの言う本来性に近い。あの歌詞の根底には人間を自然の一つだとする自然観があ る。自分で意図せずして自己は将来する。まるで植物のように。あれはハイデガーの通俗化といえ るかもしれない。ただ、ハイデガーの場合、到来する自己は、世界に無を現出させる、絶望を呼ぶこ ともある。『哲学への寄与』でハイデガーはそれを注意している。たとえ愕然とさせる無が到来する としても、重要なのは、本来的に思惟することだと。 《あまりに短絡的に思惟するもの、つまり決して本来的には思惟しない者、そういう者だけが、語り 拒みと否定とが押し迫る場所に固執しつづけ、そこから絶望の機会を得る。しかしこのことはいつ も、われわれが有・の全面的な転回をまだ測り定めたことがなく、このことにおいて現‐有の尺度 を見出していない、ということの証拠である。》(『哲学への寄与』創文社版446-447頁)
>>315-316 とどのつまり、ハイデガーにとっての「存在」とは何なの?
できるだけ日常語で頼む。
となると本来性とは有るべき場所へと導く、帰るべき場所へと帰るという意味ですかね 萌芽や種には善と悪の概念も無いとすると 世界劇場の中で偉人としてだけではなくて、悪役として何らかの歴史的な役割を果たす、教訓を残すことも本来性としての務めを果たしているといえますよね。ヒトラー等も含めて。極論ですが。
日常語は難しい。敢えて無理やり言ってしまえば、〈(「有る」を指し向ける)内なる時の地層=堆積〉
と言えるかもしれない。日常語では言い難い、言えれば論者はそうしているだろう。ハイデガーの
問自体、日常的には誰にも教えてもらえないことで、教えてもらえないというのは、学者とか、色
んな知識人によってさえ、触れられないことなわけだ。だからハイデガー本人も自分のやっている
問は「忘却」されている、とする。それから、何度も名前を出す人で、ブログにハイデガー論をやって
いる鈴村智一郎さん。あのブログを読むと彼は書いてるけども、ハイデガー思想へのキリスト教
神学の影響ということで、色々書いてる。一度読んでみたらいいでしょう。ただ、私の見たところ
、誤読もしている。誤読だけど、誤読であれだけ書ければ立派、ていう感じの人です(笑)
Martin Heidegger Archives3
http://slib.net/368
>>319 日常語というのは、そういう意味ではなくて、
>>319 自身の解釈(読み)ということ。
誰だって自分の解釈があるはずでしょ。
あなたの「存在」についての解釈は、わかりやくいうとどうなるかということであって、
ハイデガー全集から意地になって言葉をひろってこいという意味ではない。
そういうことも理解できないのかねえ、あなたは。
318さんの言い方で良いと思うけれど、敢えて言い直すと >となると本来性とは有るべき場所へと導く、帰るべき場所へと帰るという意味ですかね を使えば 〈有るべき場所へ将来する〉が良いんじゃないか。書いているように、確かにそこには一般的‐公共 的な意味での善も悪もない。世界にたいし、無尽蔵の無化を為す。それは確かにその現有の聴従し た本来性なんだろう。麻原もそうであるかもしれない。
私の解釈とか中々言えないんじゃないかな。木田元さんもそう言ってるでしょう。あのタームで しか言えないことになりやすいと。まあ、私の読み方でいえば、吉本隆明のいう幻想は、ハイデガー の有と、私は同一だと見ている。ただあくまでも私の読み方になる。私の長年気になるのはその辺 ですよ。それから、ここのレスを見てても、分かりやすくいうとどうなるか、とかいうより、本物の テキスト読解からやった方がいい、という感じがある。本物のテキストを読んでください。それを やらないで分かろうとか、楽をしないほうがいい。
「本来性」というのは極めて簡単にいうと ・非本来性:人間(現存在)は大抵の場合は日常的に生きていて、日常の雑事に埋れているしまっている状態のこと。 ・本来性:こうした非本来性の状態から、単独者として状況を受け止めて考え、行動する状態のこと。 こういうことででしょうね。
ハイデガーの「存在」について これは俺にも分からないな。 「現存在」は人間のことだけれど、ハイデガーも基本はこの「現存在ありき」ということで思考していると思う。 それで、「現存在(人間)」が存在することを「実存」といっていて、これはキルケゴールの使用法に基づいて そうしたらしい。 あと「存在了解」やら「世界内存在」、「存在論的差異」・・・・など存在がついている用語がけっこうあるんだけれど おおもとの「存在」ということについてはなんせ「現存在」ありきだからちゃんと説明はされていない。 俺は、ハイデガーの誤謬はこの「存在の使い回し」にあったと思っている。 「存在」が混沌としたまま「存在」について説明していっても、トートロジーになるだけだ。 このあたりはの問題は、フッサールが「存在と時間」の原稿を読んでいち早く気づいていたところらしいよ。
323の言い方で異論はないですね。上の事柄に、〈有るべき場所へ将来する〉という力動を接ぐこ とで、より妥当するでしょう。つまり、時性の問題を接ぎ木するということ。大体見えてきてる と思うけども、人間は歴史から、逃れられない。徹底的に歴史的である。という命題が強固として ある。本来性の捉え方も、〈帰来=将来〉の概念を抜かしてあり得ない。で、何故現代文明にたいし、 否定的かというのも、その意味での本来性にたいし、社会の強いる在り方が違う、というところに ある。’‘マルクスは疎外を経験することに於て、歴史の或る本質的次元の内へと到達している’と 『「ヒューマニズム」に関する書簡」』でしていたのも、そこだと思う。そこで歴史の喪失ということを 主題にしていった。
326 :
ルシフェル ダニエル・カール :2011/04/06(水) 16:40:03.73 0
東日本大地震の驚異に恐れおののく、人間信仰たるヒューマニズム、 ほの暗くゆらめく炎、手元内存在よ (地震の停電で暗いから、誰か見つけてレンジしてくれない?)
日本語wikiに歎異抄云々書いたの誰だよwww
328 :
考える名無しさん :2011/04/09(土) 03:41:18.13 0
晩年は、日本の歎異抄に多大な影響を受けており、若い頃に出会っていたら、 日本語を学び、世界に布教していたとも語っている(本人の日記より)。 ↑これか。この日記は出版されてるのかな。
それは本当だろ 色々な解説書でも引用されているし
『中外日報』(昭和38年)か それならそれでいいじゃないか 一次資料だろ ちなみにその会はインチキ宗教だぞ
332 :
考える名無しさん :2011/04/10(日) 08:46:51.28 0
その色々な解説書を数冊挙げてくれ
このネタって『中外日報』以外ソースないんだよねwww
竹田青嗣が最新刊の最後にハイデガーを30pほどに纏めて論じているのであまり期待せずに読 んでみた。前半後半に分かれており、色々と述べてはいるのだが、総じてこの人は、ハイデガーに 於ける後半(1930年代後半以降)について、やたらと難解なだけで理解する価値がないとみなし ていることが分かった。そこでハイデガーは人間に於て、理性で制御しがたい力動があること、か ならずしも理性主義で人間は纏められるものではなく、人間の尊厳ということを考えるとすれば 、知や理性を逸脱してしまう瞬間を人間が覆蔵させている地点にこそ、尊厳は考えられなければ ならない、とした。市民性や理性主義で制御しうるとすることは、人間を卑小に纏めてしまうであ ろうし、人間の尊厳はそこにはない、としている。そこがハイデガーの重要な命題で、「〈ヒューマ ニズム〉に関する書簡」にもその論点は中心命題として出てきている。これを‘難解’で片付けては ハイデガーへの理解は生半可なものになる。精々括弧付きの「人間」存在の哲学にしかならない。そ れはハイデガー理解として流通し続け、木田元なども‘ハイデガーの主題は単に実存ではなく有 Sein にこそある(有の理解、存在了解をもたらす地平としての時)’と言っていたのも実存哲学 という名称ではハイデガーの意図が断たれる恐れがあると考えたからである。どうみても後期 ハイデガーは、軽視するこはできない。そこで「有り難がられる対象となり、理解できないことが 尊敬の理由になった」として棄却することは、その指摘が仮に正しいとしても、根幹としての欠陥を 生む。近代社会をどう捉えるか、がハイデガーの中枢問題であったはずだが、計算・操作の主体へ 駆り‐立てる社会への眼差し、それに対峙する思想としての側面が出てこなくなる。よって後期の ハイデガーを顧みない竹田のハイデガーは実存哲学のハイデガーに留まる。「人間」を越えた地点 という、重要な論点は顧みられない。そこが生半可で読むに耐えない生半可性である。
君らは、文章の起承転結を構成するのが下手だな
竹田青嗣という人のハイデガー論は色んな所で書かれているし、ハイデガーの諸概念ー気がかり 、世界内存在、ーのような、『有と時』の用語解説としてはよくやっている。ところが、竹田にはそう いった諸概念の、ひいては『有と時』の書かれた背景としての歴史、自然といった、根本思想が、必 要ないかのように無視されていく。これは竹田が論じるハイデガーのどれをとってもそうである。 ということは、実存範疇として論じた有。肝心な思想まで辿り着かなかったハイデガー、予兆とし てのハイデガーしかない。ハイデガーに於ける歴史 geschichte は彼の思想の根幹というべき 重要極まりないものだが、そうplatoまで入ってこないことを意味する。歴史、自然の概念の意義 が排除されたら精々気の利いた人間学にしかならない。そして竹田青諸のハイデガーは実際その ようなものになっている。
337 :
考える名無しさん :2011/04/11(月) 20:38:33.94 0
「存在と時間」読み始めた。 存在という物を追及することが、それほど哲学的価値があるとは思えんし 結局本人の中でも一貫した体系化ができてないように思える、大哲学者達の著作に比べると 中身が詰まってない感じ、まあ間違ったことは言ってないと思うが なんというか隙間産業的な印象かな 結局、その哲学をもって古の哲学者を論破する予定だった第2部は書いてないみたいだし ナチスとの件についても、まあ小物という感じ ニーチェみたいにキチガイでもいいから「これが俺の真理だ!」みたいなのが見たかった
鈴村さんのブログで話されているように、『哲学への寄与』の重要語である〈底無しの深淵〉は新約 聖書で出てくる。籠められた意味は「地獄」である。『寄与』ではこれが重要語として用いられている。 《底‐無しの深淵 Ab-grund は、根拠 Grund の根源的な本質現成である。》(409頁) しかも、有・の全面的転回は「語り拒みと否定とが押し迫る」事態を呼ぶ。それは「短絡的に思惟」 する者に「絶望の機会」をもたらす。(446頁)明らかにここには〈悪の現成〉という問題がある。悪 を何らかの歴史からの否定的な合図、そう捉えることがみられるべきで、それがこの『寄与』の特異 性なのである。竹田青嗣がやっている読解では、ハイデガーにおける最も際どい、しかし近代とい う時代にたいして語りかけている部分は決して聞き取れない。ハイデガーが今、読まれるべきであ るその部分で、決して読まれないということになる。これは読み方として致命的欠陥をもつ。
>>338 >ハイデガーが今、読まれるべきであ るその部分で、決して読まれないということになる。
これは読み方として致命的欠陥をもつ。
竹田批判をしている意味は分かるが、『哲学への寄与』はそこまで中心的なものではないと思う。
これは多くのハイデガー研究者が指摘していることだが、ハイデガーにとっての着想を論理的矛盾
を無視して書き留めたメモ的な性格が強いと思うのだけれど。
全集のドイツ人は「第二の主著」と言っているが、この人自身があてにならない学者だといおうこともある。
それから竹田は現象学が好きな人だから、当然ながらフッサールと対したハイデガーには嚴しい論調
になるのもうなずける。
フッサールは速記の技術を身につけていたから、ハイデガー全集を超える膨大な未発表原稿があるので
そちらの刊行も期待したいところだね。
悪はここでは、己という存在、その交換不可能性を棄却することを強いる主体性、それに 対抗するようにして歴史が贈与するものとして、考えられている。そのような悪を、「地獄 」を、我々を絶望させるものとして、しかし、それが我々の存在の深部として、現成すると している。そこが特異なわけだ。〈悪の意義〉というのは形容矛盾だか、ハイデガーがここで 問うているのはそれである。それは哲学が市民社会の原理を提供するものだと思い込んで いる竹田青嗣の期待には添えない。むしろ『寄与』が現れさせるのは市民社会の裂け目であ る。
>竹田批判をしている意味は分かるが、『哲学への寄与』はそこまで中心的なものではないと思う。 これは多くのハイデガー研究者が指摘していることだが、ハイデガーにとっての着想を論理的矛 盾を無視して書き留めたメモ的な性格が強いと思うのだけれど。全集のドイツ人は「第二の主著」 と言っているが、この人自身があてにならない学者だといおうこともある。 うん。その‘多くのハイデガー研究者’も、こと『哲学への寄与論稿』に関しては殆んど宛にはなら ないと思うんだな。貴方が仰っているのは例えば『道の手帖 ハイデガー』で登場して『哲学への寄 与』について、‘どこかで見た話ばかり。着想を書き留めた、くらいの作品。前評判が高かった割に は拍子抜けしました’大体こんなことを喋っている高田珠樹みたいな人だと思うんだけど、私は あそこでの高田珠樹の発言を読んで正直、それこそ拍子抜けした。あれは高田が言うような本では ないし、高田はあの本にある不穏な色彩に気付き、逃げたというのが私の感想です。あまりに不吉 で、あれこれと尤もな理由を出して関わるのを避けた。と私には見える。それから、論じている人も 居るには居るが、あの本の主題を掴み損ねて、訳が分からなくなっている人も居る。実は主題は単 純で、それは何回か読めば分かってくる。ただ、それを言うと、差し障りがあるので言わないかもし れない。それは下らない処世訓の話です。あの本に関してはハイデガー研究者は宛にはしない方が いいと思う。
>うん。その‘多くのハイデガー研究者’も、こと『哲学への寄与論稿』に関しては殆んど宛にはなら ないと思うんだな。 まあ、確かにその通りですね。 そもそもハイデガー哲学の根幹には「対キリスト教」というものが非常に大きな壁として立ちはだかっていて こればかりは「ゆるやかな仏教国・なんでも成り立ってしまう都合のいい宗教観の国日本」では理解しにくい でしょう。 木田元ですら「性起の意味がわからない」「『寄与』はよくわかりません」と言っているくらいだから。 それはそうで、ハイデガーは哲学の話を『寄与』でしているわけではないですからね。 ハイデガー研究者はそのままハイデガー崇拝者だから、意外と見通しの悪いことしか論文にも書けない。 高田珠樹もそうです(木田元は年々批判的なことを言うようにはなったけれども)。
自演どうも〜
344 :
ヘヴィメタル ダニエル・カール :2011/04/13(水) 11:50:35.47 0
リスペクトって言われたら、 人間性の地盤の内に勝手に入って来られて、 自分は立派だよなんて言ったら、失敗した時に逆恨みされそうで、操られてるような感じしませんかね 大した決意も無いし 何だか、勝手に服を脱いで無防備になった猥褻さを感じるんだよな 要するに、リスペクトなら、ヒューマニズムを大いに侵害すると思うんですよ 勝手にリスペクトされたら、思い違いと同じ目に合わせてやりたいなって気持ちが沸かないかな
竹田って西といっしょにヘーゲルの本も書いてるよね。 この2人は長谷川宏とか加藤尚武なんかとどういう位置? ハイデガーだと京大の仲原孝が突出してると思うけどね。
『哲学への寄与』が丸っきり分からないということは私はないね。そもそもあそこでの有・ Seyn 自体、その概念としては、「有る」を、言い換えれば認識命題を、〈私〉に於て成立させる、〈元初=歴史 〉である。それがSein と同じで、ただそこで指し向ける元初がより根源的で、個体の精神に覆蔵 された歴史の深化を試みている。そこは読み手が想像力を働かせる必要がある。私の感じだと、こ こでハイデガーはnirvanaを、人間の精神の遡行した果てとして捉えている気がする。あくまで 勘だけどね。それでなければここでの有・は読めないと思う。それから、用語も現実的だよ。〈拒絶 〉は現代日本の引きこもりを連想させる。そういう照合が悉く可能な部分も多々ある。現代社会、 現代文明に、拒絶を突きつける歴史 geschichte といえば、この本を形容したことにはなる。 あと、もう一点は、ここでの有・の開けの場としての人間は、自我同一性を喪う。有・を担うこと で初めて現れる人格、存在に見舞われる。これもそう考える方が読みやすいからそう言っている 。それが有・ Seyn の意味であり、〈神〉も、精神に覆蔵され、根源から現れる超絶者と読んでいる 。因みに《神は有・を必需とする》も頻出する。そうすると、現代日本に特徴的な解離に見合ってい ることも分かる。学者にどこまでも依存すると多分この本は訳が分からないか、読む価値ないこと になる。自分で読み込むことだよ。
今日もキモいです
何かを説明しているようで実はなにも説明できていない馬鹿→
>>346
『哲学への寄与論稿』は1936‐38年の草稿。
研究者には自明だが、
>>268 にあるようにヘルダーリンに向き合った成果だ。
ヘルダーリンへの耽溺を簡単に説明するならば、ドイツからギリシャへの架け橋をこの詩人に
見出したということだ。
その耽溺は終生続くことになるが、ロマン主義的退行と考えられないこともない。
後期ハイデガーは老子をドイツ語訳し、言葉の円環のなかに住まおうとした。 それは以下の図式を持ち、古代ギリシアを理想化するものだった。 天 神々 人間たち 大地 大地の隣にシュヴァルツヴァルト(黒い森)、トートナウベルクの位置する森が付け加えられてもよいだろう。 トートナウベルクには日本人留学生に教えた謝礼金で造った山小屋があったのだ。 以下、年譜におけるハイデガーの葬儀(=1976年5月28日、死去は26日)の記述より。 <死の少し前、ヘリングラード編のヘルダーリンの詩句を、「私の墓へ告別の挨拶としてゆっくりと単純に朗読 する」ことを望み、ヘルダーリンの讃歌では「ドイツ人に寄す」、「宥和する者」、「巨人たち」から、悲歌で は「パンと葡萄酒」から選ぶことを望んだ。(略)ヘルマン・ハイデッガーは父の意志通りにヘルダーリンを朗 読した。その結びは「パンと葡萄酒」第三節のものであった。> (人類の知的遺産75『ハイデガー』芽野良男、講談社p313より)
どうしたら句点を先頭にしたいという精神状態になるのかな
上記に挙げられた詩はすべて全集第2巻に所収されている。以下、その一節を引用する。
童児を嘲ってはいけない、鞭を手に 拍車をつけて
かれが木馬にまたがり 自分を雄々しい偉大なものと思っているときも。
なぜならドイツ人諸君よ、君たちも
思想に富んで行為に貧しい者なのだから。(以下略)
「ドイツ人に寄せる」 ヘルダーリン(手塚富雄訳)
(『ヘルダーリン全集2』河出書房p10より)
Spottet nimmer des Kinds, wenn noch das alberne
Auf dem Rosse von Holz herrlich und viel sich d?nkt,
O ihr Guten! auch wir sind
Thatenarm und gedankenvoll!
"An die Deutschen" H?lderlin
http://www.hoelderlin-gesellschaft.de/index.php?id=137 (ドイツ、ヘルダーリン協会サイトより)
なるほど ハイデッガー後期思想はポエムだったわけか(納得)
355 :
考える名無しさん :2011/04/13(水) 22:45:44.28 0
ダニさんは水商売でしょ
>『哲学への寄与論稿』は1936‐38年の草稿。
研究者には自明だが、
>>268 にあるようにヘルダーリンに向き合った成果だ。ヘルダーリンへの
耽溺を簡単に説明するならば、ドイツからギリシャへの架け橋をこの詩人に 見出したということ
だ。その耽溺は終生続くことになるが、ロマン主義的退行と考えられないこと
もない。
それは研究者でなくとも知られた話だ。。しかし、ヘルダーリンの詩句、また、その解釈より、『寄
与』の記述は遥かに長大であり、概念も多用で、込み入っている。あれをヘルダーリンだけで読み
込むのは不可能である。例えば次のような文がある。
《性起は人間の自性を神に委ね送ることによって、神の自性を人間に委ね渡す。このように自性を
委ね渡しつつ委ね送ることが性起である。》(32頁)
たったこれだけの文章がある。これがヘルダーリンへの傾倒で全て解かれるのならば、また、上
の図式で解かれるならば、《》内の文章もその関連で解かれるのだろう。実際、上の文章はどういう
ことなのか。一寸説明してほしい。本当にヘルダーリンへの傾倒だけで説明できるのか。これで解
る。
>>356 人間の思考は何か一つのことに集約されるようなものではないでしょう。
当然ながらハイデガーもヘルダーリンから影響を受けたし、ニーチェなどからも多大な影響を受けている。
「テクストの読み」というのはみんなそれぞれ読みに影響する「考え方」が複数あるわけだから、
そこまでむきになって根拠を問うのもどうかと思う。
そういう意味では、ハイデガーに限らず、他者の思考の再現などできるはずもないし、再現だけが目的ならば
それはまことに貧困な行為と言わざるをえない。
あなたには「尊師」の「御言葉」なのかもしれないが、あなたのレスはいつも「あなたの読み」が見られない。
他者の読みを批判する前に、自身の読みを提示する努力のほうが実りある行為であるといえないだろうか。
幾つか補足していきたいんだが。有・とは精神の深層としてのnirvanaではないか、と書いたこ とで、面食らった人も居るかもしれない。要点は、『寄与』での〈有・の理解〉というのが、形而上学の 超剋を表している点にある。すなわち〈有るもの〉の超剋である。その展開の上に描かれる〈有・の 理解〉なのだから、それ自体が〈有るもの〉の次元を超えている。そういう点を鑑みれば、nirvana を持ち出す私の想像は、全くの的外れではないと思う。 もう一つ。仲原孝という研究者がいいと書いていたので、書店でハイデガー論を読んでみた。一 部分だけなので、実は私の読み違いの可能性もあることを御断りしておく。その上で気になった ところを言わせてもらえば、〈拒絶 Verweigerung〉という用語が、『寄与』では鍵概念としてある が、その用法を掴み損ねているのではという感想を持った。〈拒絶〉とは、文明の総体とその力の原 理、操作・計量の浸透、その究極へのへ有・の展開、を指す。そこには二義的な意味合いがあり、 〈有・の裂け開け〉として、自己を無化し、かつ否定を無尽蔵として指し向けるということだ。この 本での論理構造として、〈拒絶〉は初め表象からの脱去として無化し、然る後に今度は指し向ける 力として現成する。その修辞が多用されている。何より、この本での〈拒絶〉は〈贈与〉として考え られている。《慎ましさ、それは贈与としての拒絶に対する用意の先行‐気分である。》(20頁)こ の本では有・の脱去がその究極で合図を送る、という論理が多用されている。そこが仲原さんの 本では《存在はその根源的真理を「与えない」という拒絶的な仕方で与えられ、》という記述をみる と、〈論理的矛盾の合一〉として称揚しているかにみえた。それは読み違いだと思う。
357さんに異論はない。但、‘『寄与』はヘルダーリンの読解である’という“研究者の常識”が書かれ ていたので、ならばこの一文は神と人間が出てきてるが、これはヘルダーリン読解からすればどうな のか、読めるのか、と聞いただけだよ。「ヘルダーリンへの傾倒」だけで読めるのか、そんなこはない 、と言いたかっただけです。自分の読みがない、と貴方が言うべきなのはあっちの人ではないか(笑)
>>359 『寄与』は確かにヘルダーリンの読解でもあるし、時期的に考えてもニーチェの読解(というようりも感化)が強く伺えます。
さすがに私もひとまとめ「こうだ」というような解釈は出来ないが、やはり「ニーチェ講義」の裏構造として
読み捉えていることが多いです。
確かに「あっちの人」にいうべきことばなのは承知していますが、彼はあなたを挑発しているだけでしょう。
読者の「読み」というのはそれほど自由であり、またそうならざるをい得ない類のものなのだと思うわけです。
ハイデガー研究者は日本には非常に多いので、つい最近翻訳されたばかりの『寄与』ですらかなりの研究論文がありますよね。
私があえてあなたに「自分の読みがない」と指摘するのは、「〈論理的矛盾の合一〉として称揚しているかにみえた。
それは読み違いだと思う。」というように「ではどう読むのか」ということがいつも抜けているからです。
ここは論文発表の場ではないし、名前も出ないのだから、もう少し簡明な意見くらいは書いてもいいのではないでしょうか。
ヘルダーリンは全集の詩だけ2巻は持ってるがなかなか読めない。 なんとなくいいというのは分かるんだが。 ところでハイデガーが存在は時間だと書いたのは本当か? 一応カントに対して答えを出したことになるのか。 だとしたらビッグバンはあったということになるね。
362 :
考える名無しさん :2011/04/15(金) 21:12:31.87 0
『存在と時間』読了 まあなんというか「難解だがつまらない」という感想 存在という定義が定まってないのに断定口調、哲学者批判をするので話が難しくなる そして最初の部分で「存在」という物に重要さがあるとか言って大風呂敷を広げておきながら 結局「存在」を完全には解明していない、そして「解明はしてないけど追求し続ける事に意義がある」 とかいう事になってる、「ガンダムの足」だけ作ったみたいな感じ そんで第2篇では何か仕掛けがあるかと思いきや、未完成な存在を普通の時間概念で動かしただけ その程度で「存在論」を何か凄い権威みたいに言われても・・・ 全体を通して「名言」と言えるようなものは一切ない、これである。 論理として語ってる部分は辻褄が合っていい感じだが現実のたとえ話みたいな事を 語ると、なんだか格好悪いというか、みっともないというか それにしても実際ハイデガーの何かを批判するのは難しい、隙が無いというか 間違った部分は無いと思う、ただつまらないだけで カント的に言えば厳重な命綱を付けて理性界から英知界へ侵入しては戻り侵入しては戻りの 繰返しをしている感じかな 結局ハイデガー的現象学存在論は現実に答えに辿り着かないと思うけどね
時間は存在しない これが正しい ハイデガーはスピノザを無視することでしか 存在できない
ちなみにヘルダーリンはスピノザから多大な影響を受けている ハイデガーはそれを無視することで長大な論考を現実化した
《吾々は行為の本質を長い間未だに十分決定的には熟思してはいない。》というのが「『ヒューマニ ズム』に関する書簡」の冒頭である。また、「根拠の本質について」では、〈概念以前の先理解 Vorverstandnis=有・の・理解 Seinsverstandnis〉ということが問われていく。こうした 問いでもって初めて、道徳や常識やはたまた大人らしさ、としてしか大抵は把握されることのない 諸々が問われていく。それが〈歴史的〉の意味であり、歴史から贈られる有の意味である。これらの 論点がなければ流通する価値によってしか行為の意味ははかられないことになる。そのようにし かあり得ない人間の尊厳の下落を、ー一般にいうhumanismとは違う意味でー支えている、という 気がする。自分の今、有ること、の意味が、他でそのように知らされることはない。‘あり得た可能性に 還っていく’としての本来性は、自然としての人間観に基づいた、言い換えれば学校教育で何となく 言われることしかない自分らしさについて、その見つけ方について、やはり的確に書かれている。 それはやはり偉大なことだと言うしかない。それは私の受け取ったことだけどね。
しかし、〈ナチス〉という歴史は葬り去ってしまうわけなんだな。 〈ナチス〉に関与し、〈ナチス〉の支配した国に生きたのに、この極めて重大な問題については 一切語ろうとはしなかったハイデガー。 〈ナチス〉には全ての問題が含まれている。 「歴史」「存在」「時間」「ヒューマニズム」・・・・・・ 今こそ、ハイデガーを断罪せよ。 墓から掘り出して、その骨を獣がくわえていくかどうかを見定めねばならない。
367 :
考える名無しさん :2011/04/16(土) 11:52:43.86 0
>>363 岡本太郎の瞬間は永遠だ!ですね、わかります。
>>367 それとかヤスパースとのやつとか思考しているうちにはいらんだろ?
よく読んでなくて気が付かなかったんだが、『現代思想1979年9月号 臨時増刊 総特集=ハイデ ガー』巻末に茅野良男作成の年譜があって。その終わりの方、1974年の記録に面白い事実が書かれ ている。 《全集計画直後、九月、フライブルク・カソリック・アカデミー招待の午餐会にハイデガー夫妻と 弟出席し、ロッツも同席す。ロッツ、ハイデガー夫妻の老衰に驚く。『存在と時間』〈後半〉の原稿は あるが全集には入らぬと聞く。》(352頁) 後半の原稿は書いた後、気に入らなくて燃やしてしまった、というのをどこかで読んだと思って いたが、それとは違う談話が晩年にされていたと知り驚いた。これなら、もしや、全集とは別で『存 在と時間(後半)』として将来、親族の許可をとって発表される可能性もあるということだと思う。
現代思想の「ハイデガー」持ってたのに古本屋に売ってしまった。 木田元さんが誰かと対談してて『存在と時間』は未完成、 それだけ覚えている。
『哲学への寄与論稿』を読もうとしているが、全く歯が立たない。 『存在と時間」は、注意深くゆっくり読めば理解できるし、 趣旨は「存在とは時間である」ということがわかる。 しかし、『寄与論稿』は、ゆっくり読んでも、注意深くよんでも、歯が立たないのである。 どなたか、どのように読めばいいのか、教えてください。 それと、結局ハイデガーは『哲学への寄与論稿』で何が言いたいのか、 も教えてください。
『有と時』を読んでるのなら、〈有の理解 Seinsverstandnis〉または〈存在了解〉という概念が あったでしょう。人間にとり、認識の根幹である世界理解・了解。それはどこまでも人間にとり、 〈有るもの〉また〈存在者〉としてしか、言い換えれば現前するものでしかない。これがハイデガーに とり、桎梏であった。文明にもたらす、存在の操作という人間の傲慢、神格化を超えるには、〈有の 理解〉として、〈有るもの〉に回収される‐のではない〈有の理解〉はどのように可能か、が問題だっ た。これはハイデガー思想の中心であるといってもいい。『有と時』もその問題に向けて書かれた。 最終的に、この問題は、〈有・の理解〉となる。ただ、『寄与』ではむしろ、〈性起 ereignis〉として あるのがそれだ、と考えればよいか、と思います、又は〈有・の企投 des Entwurfs des Seyns〉ですね。それは〈有るもの〉に回収されない了解のことである。その別名は、あの本では、 〈断念‐拒絶〉として提示されている。〈有るもの〉の世界は、〈断念‐拒絶〉される。そして、そこで、人 間の認識では計りしれない、絶望を喚起するような〈無‐否定〉、〈無尽蔵〉が、了解として、それを担 うもの(=現‐有)によって生起する…。鍵はやはり〈有・の企投〉で、これが有の忘却の果てとして、 窮迫として到来する。〈有るもの〉に回収される有 Sein。それをどのように超えるのか、という問 、が根底にあり、よく知られた言い方でいえば、形而上学の超剋、ということへ最も徹底的に焦点 を合わせた論稿、ともいえるでしょう。
まず最初に読むのは『寄与』では、「U響き」が良いのではと思います。ハイデガーの見定めた近代 の壁がどんなだったかがあそこに詳細に書かれてますから。まあ、専門家も持て余す難物なので。 ただ、よく言われてるように、論理が破綻してるので理解する価値はない、とか、どこかで出た話 ばかりで、新鮮味はない、とか、それは感じないですけどね。体系はあそこにもありますしね。ただ 纏められていないだけで。それは何度か読めば見えてきます。
>>372 私も本当のところは『寄与』で何が言いたかったのかは分かりません。
ただ、「テクストの自立性」ということがありますが、ハイデガーも書き終えた時は
それと同時に手元を離れて、「他者の言説」と化したのでは無いでしょうか。
そういうと、全てのテクストがそういうことになってしまいますが、実際にテクストとは
そういうものであると思います。
特に断章形式で書かれた『寄与』においては、書いたその瞬間、瞬間が「現在」であり
たぶんに心情の吐露的な要素も大きいように感じられます。
第二の主著として持ち上げられているようですが、『存在と時間』のような論文とは手法も
目的も全く違いますから、主著という表現に対しては抵抗があります。
ハイデガーとウィトゲンシュタインは完全な同学年だけれどウィトゲンシュタインはハイデガーに共感していたらしい。 ウィトゲンシュタインはフロイトにはその思想に対して大変大きな評価はしているが、そこにあるフロイトの思想的細部が 大いに気に入らなかった。 ハイデガーはそういう意味ではカント→ヘーゲル→ハイデガーというようなドイツ哲学思想の中に自分を位置づけようとし てたのかもしれない。
377 :
考える名無しさん :2011/04/18(月) 20:15:01.96 0
学会でいい位置を保ちたかっただけかもよ 論文としては完璧、新しくて難しくて間違ったところがない ただし何か文化に影響を与えるとか人生訓とかがない
『哲学への寄与論稿』の孕む問は、根本で、人間に孕まれてる、覆蔽されてる、精神の地層、 その問いかけになると思うわけです。人間に孕まれてる精神の地層。それは〈深‐淵 Ab-grund〉と「根拠の本質について」では呼ばれていて。精神の地層というのは、様々な切 っ掛けで意識の表面に表れてくる。で、大抵は深層に沈んでいる、それはでも、覆蔵された 精神として、人間の内部の、無視できない一部である。或はむしろ、そっちの方が本当の人 間なんだ、と考えていたかもしれない。例えば小学生や中学生が、惨殺事件を起こすと、大 人はすぐに、メディアの情報のせいだ、躾のせいだ、と言いたがる。しかし、実はさほど 驚くほどのことではない。何故なら、元々人間の深層に沈澱してる歴史的な性質が現れて いたに過ぎない…そう捉えることも出来る。実際、「根拠の本質について」後半で、《自由は、 現有の深‐淵〈脱‐底〉である。》(『道標』213頁)とハイデガーは残している。人間の流布し ているよりも遥かに超えたものが、人間に、その精神にはあるのだ、何が人間的だとか、 容易くは判断できないのだ。そう言いたがっていたと思うわけです。その辺りが『寄与』に も、入ってきてると思います。そこが現代を見る場合には絶えざる参照点になると思う。
で、『寄与』の場合には、神が、有・Seyn を必需とする、とされる。有・というのは、有る ものの世界に拒絶を贈る〈有る=有・の理解〉である。そのような有・を必需とする神が主 題の一つでもある。どういうことかといえば、もはや、人間の〈有の理解 Seins-verstandnis〉ではなく、主題は神と人間の,バタイユ的にいえば交感 communication なわけである。そういう、バタイユ的な領域が、ここでは主題 として入ってきている。バタイユも、人間の精神に於ける至高性ー使い途のない無 rien の感染ーということを、人間の条件として重要視したが、非常にバタイユ的なところに 近付いていった、という気がする。バタイユの〈至高性〉に通じている方にとっては、理解 しやすい論理なのではないか。ただ、バタイユに比べて、歴史 geschichte ということ を重要視する。自分のやっているのは覆蔵される歴史の開けである、その意識が強い。そ こがバタイユと違う。しかし根本で接近していたことは言えるんではないか。
ライプニッツの『二十四の命題』(ハイデガーが『ニーチェ3』で命名) Godefridus Guilielmus Leibnitius 24 th?ses m?taphysiques 一 なぜ無ではなく、なにかが実在するのか、という根拠が自然のなかにある。これは、 根拠なしにはないものも生じない(Nihil fit sine ratione )という大原理の帰結である。同様 にまた、なぜなにか他のものではなく、むしろこのものが実在するかという根拠がなけれ ばならない。 1. Ratio est in Natura, cur aliquid potius existat quam nihil. Id consequens est magni illius principii, quod nihil fit sine ratione quemadmodum etiam cur hoc potius existat quam aliud rationem esse oportet. (以下略) デリダは日本での講演でハイデガーのライプニッツの命題ヘの言及を重視している(邦訳 『他者の言語』)。根拠律は大学=近代の根拠でさえあると言っている。 ちなみにこの命題の冒頭は「世界の中に奇跡があるのではない。この世界があることが奇跡 なのだ」(ヴィトゲンシュタイン)を連想させる。
>>378 そこは重要ですよね。
そう考えていくとハイデガー自身の自己弁護にも聞こえる。
「歴史的にずっとこうなんから・・・」というのはハイデガーの決定的な限界でもあります。
現代ならばそうした犯罪などは精神医学や脳科学などの導入によって考えられることですが
ハイデガーのとった方法は「歴史性の重視」ですからもう「過去の流れ」で終了してしまうわけです。
そういう点がフッサールにとって大いなる不満でもあったことでしょう。
ハイデガーはよく、「現成」という言葉を使用するが、何を表わしているのであろうか? 現前はわかるが、現成は今ひとつわからん
ハイデガーとキリスト教はどんな関係にあるのか?
ハイデガーの考える歴史性.《自由は現有の深‐淵である。》といった命題は、意味が伝わってない 気がする。というのは行為というものが、絶えず制御されているものだ、統制されているものだ、 という、理性による制御、ということを、万全なものとして皆、考えたがる。しかし、それがそうい うものではないのではないか、というのがハイデガーにはあった。例えば、人を殺めることへの抵 抗が低い、そういう精神、また、殺傷への欲求に駆られるという場合。深‐淵 Ab-grund というの は、酒鬼薔薇も自身で書いていたけども、まさに自分の内部の分からない部分、暗がりですね。そ れが、時熟 Zeitigung の意味であって、植物の種子が成長するように、それは、開花するわけで す。で、どのような花が咲くのかは、実は判断はつきにくい。フッサールとの差異でいえば、そこが 絶えず悟性として、自分でcheckされうるのだ、とは必ずしもならない。そこにフッサールのいう 超越論的主観に、歴史が畳み込まれていない、という批判となってハイデガーに出てきた。そこで 両者の岐路が現れたと考えられる。フッサールは、自我というものを、イデアとして考え過ぎてい る、と思えた。両者の差異はそこだと思う。で、行為の本質という場合、歴史を折り畳まれている、 として考えるべきで、それがないのは欠陥だと思える。ここが分かりにくいわけで、どうもハイデ ガーを語っている中でも理解されてないですね。しかしハイデガーに限らず、自我論を究める場合 、避けられないところで、精神医学がここを素通りするなら、そんなものはいい加減な学問だとい うしかない。そんな精神医学に人間のことが解るわけがないし、そんな精神医学者に患者を任せら れはしない。それは当然の話です。何故なら、人間の成り立ち方を解っていないのに、任せられる わけがない。こう言っても判ってないのだろうな(笑)と思えるので、絶望的に感じる訳だけどね 。しかし、ここが解る人間しか、人間の精神など、扱うべきではない。
>>384 「人間の精神」について「解る人間」などどこにいるんでしょうか?
「人間の成り立ち方を解っていない」といっても、それをいまそれぞれの分野で研究して
いるわけであって、そういう稚拙な暴論はどうかと思う(笑)。
それはそうだが、各々にこれこそ、という見方もあるはずなので。少なくとも歴史としての生を ちゃんと見据えているかはリトマス紙にはなる。私はそういうところに来ているのでね。‘色んな 考え方があるのだから’は別にいい。その上でこちらは言っている。じゃあどれがどういう基準で 優れた、といえるのか。それがいえればいいけども、それさえなく雑多に並べてられているのが 多くのインテリジェントの様相でしょう。私ははっきり見た上で加担してるので。
>>386 >私ははっきり見た上で加担してるので。
具体的にあげるとすればどういう領域まで「見ている」んですか?
>具体的にあげるとすればどういう領域まで「見ている」んですか? (笑)いや、この質問が出ること自体おかしい。というのは私は延々と自分の読み方をここに書き 続けている。そこで↑の質問。ということは、結局‘あなたのの話は悉く分からなかった’と言って るようなものです。あれだけ延々と自分の解釈をやって。そこでこの質問でしょう。笑うか怒るか 、もしくは徒労で黙るか、するのがオチでしょう。今までのところで、‘何が読めたか’は書いてる 。「何が具体的に見えたか」冗談でしょう。ちゃんともう書いてるよ(苦笑)何を言ってるのか。俺 でも怒るぞ(ため息)ただ、貴方みたいな人もいると思うしね。〜のどこがいいのか、と首を捻る 人もね。よく読みもせず、理解もせず、しかも世間に流通する批判だけ覚えてきて言う人間もね。 そういう人間も身近にいたからね。ここに書いてる人が幾つか知らないけど、私がハイデガーを 気になって読み出したのは35才だから、20才位であれが分かる、て人がいたら凄いと思うよ。で も分からないとしてもどうしようもないですね。それこそ時を待つかない。
>>388 >(笑)いや、この質問が出ること自体おかしい。というのは私は延々と自分の読み方をここに書き
続けている。
そういう意味ではないですよ。
それは誰だってテクストの読みというのは存在するわけです。もちろん私程度の低レベルでも。
私が質問しているのは、「ここが解る人間しか、人間の精神など、扱うべきではない。」とまでいっているのだから
どこの(学問)領域までカヴァーしているのかと訪ねているわけです。
ハイデガーだけが唯一「解る」人なんんでしょうか?
それとも他の学問分野(科学なども含む)は無駄だということでしょうか?
>>384 のコンテクストでは判断しきれないんですよね。
390 :
考える名無しさん :2011/04/19(火) 19:13:14.58 0
「>「歴史的にずっとこうなんから・・・」というのはハイデガーの決定的な限界でもあります。 現代ならばそうした犯罪などは精神医学や脳科学などの導入によって考えられることですが、ハ イデガーのとった方法は「歴史性の重視」ですからもう「過去の流れ」で終了してしまうわけです。 「歴史的にずっとこうなんだから」「歴史性の重視」「過去の流れ」これらの語彙を眺めていると、こ れを書いた方は、歴史性というのを、‘偶々ある行為を繰り返していた。そこで、そういう行為をす る人間だという評価が定着した’ということを、歴史性と思っているのでは、と思われる。だとす ると、ハイデガーの歴史概念の何にも把握してないことになる。ある経歴、経験、それが因として、 胚胎として、精神の地層に埋もれ、それが時熟として成長し現成する。前にも例えたように、その 自然観を抜きにハイデガーの歴史概念はない。「ずっとこうなんだから」「過去の流れだから」とい うのは、似てるようで、歴史性の人間存在への食い込み方を無視しており、近代法で前提条件であ る主体性、自律性を貼り付けた人間が俎上に上がって評価されている。その意味で全く別物である 。ハイデガーの歴史性を鑑みると、上記で前提条件となっている理性や悟性は万能でなく、有に食 い破られる。有の時熟ということが、その人間の内実を造り上げる。そこが無視されているのだか ら、引用された書き手のものはハイデガーの歴史概念と全然ちがう。どっちの人間観がより realityを保有するか、言わずもがなだと思う。
>>390 文章というのは文脈の中でこそその意味があるんです。
あなたの不思議なところはまず「自分が“真”である」という傲慢な前提がある。
だからあなたが延々と書いてきたハイデガーについてのレスをみても他者に伝える態度がない。
そして自分のハイデガー理解こそ「真」であると言っているのと同等のことを今度は言い出す。
私の質問はあなたのレスの比べれば極めて簡潔です。
>>399 へのこたえを書いてみてください。書ければですけれどもね(笑)。
いやあ、ハイデガーだけが唯一解る、なんて思っていないですよ。変わったところでは漫画家の 樹村みのり。彼女の作品に、幼児期に受けたトラウマを生涯引き摺って生きる女性が出てきてる のを読んでて、それはハイデガーを読む前でしたけどね。こんなに鋭い人が居るんだ、と衝撃を受 けたことがあります。あと、北欧の映画監督でイングマール・ベルイマンて人が居ますけど、彼。 勿論吉本隆明もそうです。人間存在をよく考えている、捉えていると思う人は居ますよ。ただ、概 して日本や海外の現代思想は、あまり感心しなかったですね。
>>393 レスありがとうです。
「>ハイデガーだけが唯一解る・・・」この文章がおかしいと思いませんか?
一般的にはこういう解釈が出来ます、「私はハイデガーについてはちゃんと理解している」。
「>概して日本や海外の現代思想は、あまり感心しなかったですね。」
これではハイデガー以外の比較対象がないではありませんか。
例えば、フッサールも分析哲学も精神医学もシステム論も具体的な知識はないということですよね?
(笑)ああ。あまりここでの書き込みには頓着してないのでね。所詮は名無しの掲示板で す。正確には、ハイデガーだけが、人間把握において、唯一見込みのある人間、とかは思わ ないということですね。 あと、色々人名やら学問分野が挙げてありましたが、フッサールは『イデーン』や『危機』 など、かじってますよ。分析哲学はそんなに知りませんね。Wittgensteinは読んで感銘 を受けてます。あと、システム論は知らないですね。精神医学はサリヴァン位ですね。感心 したのは。概してそんなには知らないですね。読んで下らないと思ったのはデリダ。あれ を感心する人間が分からない。デリダが何と言ってるか。皆ちゃんと読んでるのかな。最も 呆れたのがフロイトの批判で、無意識について、‘どうとでも事後的に言える’‘決して一 度もその存在を顕にしたことはない。あるのかないのか何とも言えない’大体そのような ことを言うわけで、これは人間存在を論理で玩ぶ、秀才に過ぎない。と見なしました。あれ に影響されて口真似してる馬鹿もいるのが分かり、また呆れましたねえ。私はハイデガー は、自分の精神疾患の治療のために読んでたようなものなので、実際に自己を分析した、そ の効力ではかってるところがあります。人間の精神構造が分かっていると思ったのはその ためです。394さんの方が普通の意味の読書家なんでしょう。
>394さんの方が普通の意味の読書家なんでしょう。 そりゃそうですよ。 ここでは全てがが「名無し」ですしね。 ある、あなたも知っているであろう有名な哲学者が数年前に哲学板に書きこんでまともに相手にすらされなかったことがありました。 その哲学者「中々手厳しいね。おそこにはあそこのやり方があるんでしょうな。」と笑いながら言っいました。 それからデリダについては私も同感です。 ただ、安易に「>馬鹿もいる」というような表現をあなたはするんですね。驚きです…。 優越感と劣等感は表裏の構造ですから、せっかくあなたがここまでハイデガーについてレスしてきたことも低次元の表現を用いること によって台なしになってしまいますよ。 思想というものはそれを読む(理解しようとする)人が「対抗思想」を持たない限り、何が書いてあるのかさえ把握出来ません。 あまりに若年であると知識も経験もないために、哲学書の意味が分からないというのはそういうことでもあります。 「他者への侮蔑は自らの無知と知れ」とでもいった言葉をあなたに送りましょう、「特別な読書家」さん。
ダライ・ラマによると仏教で有は臨月の妊婦のことらしい 十二支縁起では、有のあとに存在としての生がくる だからハイデガーの存在と時間を仏教流に記述する場合、有と時よりは生と時の方が妥当
駄文ばかりなり
>あなたの不思議なところはまず「自分が“真”である」という傲慢な前提がある。だからあなたが 延々と書いてきたハイデガーについてのレスをみても他者に伝える態度がない。 >思想というものはそれを読む(理解しようとする)人が「対抗思想」を持たない限り、何が書い てあるのかさえ把握出来ません。あまりに若年であると知識も経験もないために、哲学書の意味 が分からないというのはそういうことでもあります。 私は自分のハイデガー読解は真である、と思っており、そのことを精一杯伝えようともしていた。 しかし如何せん、『有と時』でさえが実は丸っきり読めていない。そういう人間で占められているこ とが分かってきた。『哲学への寄与』が解らないというのはまだ救いがある。しかし、どうもそんな 生易しいレベルではないことが分かってきた。ここのスレッドがそうなのか、ちゃんと読んで把握 している読者層はいるのか。実際は居ると思う。しかし、そういう人はここには書いてこないよう だ。 対抗思想がなければ理解にならないだろうという点はわかる。しかし、私のみたところ、それも それほど生易しいものじゃない(笑)なんとか他の言説に置き換えたい。言い換えたい。誰々の考え と同じにしたい。誰か他の先生が言ったことを当て嵌めたい。そういう読み方が多い。それはこの 板の読者全般的に言える。ハイデガーは、ろくな読まれ方してない、としか言えない。対抗思想でも 、ひとまずは相手の土俵に上がって取り組むことは必要だろう。ところがそれが出来ない。となる と、ただの無理解だけ。そこで定住してしまう。そういう人が99%なように思える。それは確かに ここに来る人が若い人ばかりなせいかもしれない。ハイデガーの場合、特に他の思想に比べて、 年輪は必要な気はしているので。それにしても…(^_^;)
400 :
考える名無しさん :2011/04/24(日) 16:48:12.33 0
存在論―なぜ無ではなく世界が存在するのか 相沢 義男 (単行本 - 2011/4) 新品: ¥ 3,150 内容説明 なぜ〈無〉ではなく、世界が〈存在〉するのか!? 大学までの「数学」への想いを脱し、フランス文学へ転向した著者。東大・仏文 では徹底的にモーリス・ブランショの「レシ(物語)」を読んだ。〈無為〉の 作家といわれたブランショから〈存在〉の哲学者ハイデガーへ。そして約30 年、〈存在〉をめぐるノートを書きつづけることになった。在野の哲学者として、 「常識」「一般了解」「予断」をカッコに入れ、考察を継続する。ハイデガーを 軸に、〈存在〉〈時間〉を考えた思想家たち(カント、デカルト、ベルクソン、 サルトル、レヴィナス、ヴィトゲンシュタイン、マクタガード)の論文を徹底 的に読み込み、〈存在〉そのものへ深く鋭利なメスを入れ、切り込んだ瞠目の論攷。 著者について 相沢 義男 (アイザワ ヨシオ) 1953年新潟県村上市八日市生まれ。早稲田大学理工学部数学科中退。東京大学文学部フランス文学科卒業。現在、塾講師。
>私は自分のハイデガー読解は真である、と思っており、そのことを精一杯伝えようともしていた。 年輪を重ねている人が自分のことを「真である」なんていったらそれこそお笑いでしょう なにか精神を病んでいるそうですが無理は禁物 パラノイアの傾向があるようですが こういう時に読書はあまりいい結果は出しません 日常生活をきちんと送ることが大切 精神病が少しでもよくなるといいですね
うーん(笑)精神疾患を抱えていると自覚していた思想家は著名な人ではアルチュセール、バタ イユがいます。〈精神疾患、を抱えている=読む価値はない〉と等号でもあるのかね。驚いたなあ (笑)少なくとも思想として何かを提出する人間が来てるので、〈これは真である〉として考えを公 開することは、珍しくも何でもない。本当に変なことを気にする人だなあ。苦笑ばかりさせてくれ る。要らない世話なんだけどね。どうでもいいことを書いてきてるね。肝心のハイデガーはそっち のけで(苦笑)よくわからんな。(笑)
うーん(笑)精神疾患を抱えていると自覚していた思想家は著名な人ではアルチュセール、バタ イユがいます。〈精神疾患、を抱えている=読む価値はない〉と等号でもあるのかね。驚いたなあ (笑)少なくとも思想として何かを提出する人間が来てるので、〈これは真である〉として考えを公 開することは、珍しくも何でもない。本当に変なことを気にする人だなあ。苦笑ばかりさせてくれ る。要らない世話なんだけどね。どうでもいいことを書いてきてるね。肝心のハイデガーはそっち のけで(苦笑)よくわからんな。(笑)
それと401は自分では一つもこれといった持論も出してはおらず、それでいて余計なお世話をし てくるという…妨害か?そうとしか見えないが?それならもう来ないでいいけどね。 口直しにある先生とハイデガーをめぐって交わした対話を公開する。 私:大学とは関係ない人間でJといいます。えーとですね、あの、理性的動物ではなぜ駄目なのか、 というような、問題が今、討議されてたと思うんですが、この、まあニーチェにしても、ハイデガー にしても、或いは両者を読んだと思われるバタイユとかですね、或いはミシェル・フーコーとかで すね、やはりこう、人間には理性もあれば、狂気もある、その両方のようなものだ、というような問 題意識が、あるんじゃないかというような、気がしてしようがないんですね。それで、もともとハ イデガーが世界内存在という場合に、世界性というのは、僕の、もしかしたら誤解かもしれません けど、こう、共約不可能、共通化不可能、個体と個体の共通化不可能っていう、可能性っていいま すか、領域っていいますか、これを含めた考え方じゃないか、世界内存在っていうふうに、見てる んですね。人間と人間の間には、絶対的に共約できないものが含まれている、それを共約できると いうふうに、断定するのが理性とか、だというふうに考えていたんじゃないか。恐らく考えていた んじゃないだろうか。そこからすると、理性的動物という規定が閉じるのも当然ですし、理性的動 物どころか或いは下手すると、死を望む存在であったり、自分の死だとか他者の死だとかを、欲望 する存在であったり、それは狂気だと思いますけども、狂気を含んだ存在であるということを、ま あ、ハイデガーがそれをどこで言ってるということは言えないんですけども、僕の読み方として、 そういう意識が非常に強くあったんではないだろうか。そこがハイデガー、ニーチェ、バタイユ、 フーコー辺りをつなぐ一本のラインになるんじゃないかと思うんですけども。まあそういうふう に、なぜ理性的動物っていうような規定ではとうてい駄目だとハイデガーが考えたのか、という ふうに僕は考えるんですが。その点はどうでしょうか。
基地外がなにほざいているんだい はやくしねよぉ
K先生:えー、何ていうんですかね、啓蒙時代に、人間は理性を鍛えて理性的に行動しなければな らないという話になって、当然そこに、逆にそこで理性を鍛えてちゃんとしなければいけないとい う、そこで狂気…狂気とはちょっと違いますけども、まあ、思いついたように行動してはいかんと か、そういう話になるんですが。あのーそれと世界内存在の世界性というと、物凄く大きな話にな るんですが、答えられるかまた恐いんですが。 あのー、そのところの人間の協調する可能性とか、でも世界内存在というのはまさにその共通性 が高い、かなり広い意味でのコミュニケーションを主題とした世界、諸性質という意味の、 Weltlichkeit(世界性)という意味のWelt(世界)ですよ。そっちにつく。だから、別にそれ は、それをやるのが理性なのか、でもそれは動物だって同じ言葉をもってると云われるわけで、あ んまり、えーと、何もその、まあ人間は勿論コミュニケーションをするっていう定義に…そういう 話になる。で、またそれについての多様な話が出て、頭が混乱するんですが。 あのー、狂気の話になると、そのテーマだと当然…ただハイデガーがそんな狂気のことを…勿論云 われりゃ大丈夫でしょうけど…。 私:例えばですね、『根拠の本質について』という講演というか論文の中で、《人間は先ー像、原ー像 に支配される》というような、一文があると思うんですよね。それから、《世界から現有に到る、時 熟する》であるとか、それをこう見ますと、あのー、原ー像、先ー像、先なる像、原的な像、原、原点の 原ですよね。それに支配されてゆく、てことはやはり人間と人間の中にやはり共約されないものが あるというふうに考えていた、としか思えないんですよね。勿論それだけではなくて、今、先生と 私が話しているように、色々話し合って共約できるところもあると思うんですけども。にも拘らず 、例えば理解できない人間というのはどうしても居るんですよね。居ると思います。
私?:例えば母親を殺す子供、幼児を惨殺する子供、色んな、まあそれ自体狂気とみなしていいと 思うんですけども、人間と人間がこの、…理解困難なもの、それはやっばりこのどこか自分の先な る像、その人の中の先なる像、原なる、原なるっていいますか、そういう言い方をさせてもらいま すと、原なる像に向ってゆく、支配されてゆく、というようなものを、そういう要素をハイデガー は考えていた、と思います。勿論世界という言葉の中には共約されるものもあると思うんですけど も、僕は共約されないものの方に、まあ他者性という言葉を使いますと、他者性と言いますかね、 絶対的他者といいますか、そういう要素があったんじゃないかと思うんですよ。だからこそ理性っ ていうのが、理性的動物っていう規定に対する否定が強かったんじゃないかと思うんですけども。 K先生:何ていうか、逆にその、人間が人間を、他人を理解できるというのも、考えてみたら変な話 なんですよ。理解だと思っているだけで。 私:その通りですね。そう思います。 K先生:だから親を殺す少年といったって、いや別にそれを理解できないことと友人を理解できな いこととの差っていうのは、そんなにたいした変わりはないような気が私にはするんですが。まあ 別にそれがハイデガーとどうなのかっていうのは全然考えたことはないんですが(笑)あのー、 それは理性が…何ていいますか媒介するっていうことはそれは多分、何か…ハイデガーの中では別 に問題ではないような気が私にはします。それよりもハイデガーにとってはやっぱり存在という 、共約するとかそういうところではないところで…存在を共約する、ということになってしまうか もしれないんですけども、それよりも存在者の存在を受けて(…)それをすることとして、まあ、こ れまではRatio(合理性)系の理性的な思考が行われてきたけどもそれでは駄目なんで(…)を理 性的な思考で出来るんじゃないのか、と言ってるのではないか、と私は思ってるんですけども。
自分のブログでやってればいいじゃんか マジ基地外は本当にヤバイっしょ まあsageてるだけましだけけどな 基地外オジサンの過去レスらしいものを読んでみたけれど 文章がベタッとしているよな 基地外によく見られる文章表現の典型的な特徴wwwwしね
私:例えば『存在と時間』の後半部分で歴史性っていうことを非常にしつこくやっていると思うん ですけども、なぜ歴史性が問題になるのかというと、やはり…。 司会者:あの、できるだけ手短に…。 私:(笑)あーすみません。そうですね。じゃあ最後に。なぜ歴史性が問題になるのかというと、 個体の歴史性というのをやっぱりひどく意識してたと思うんですね。なぜ個体の歴史性が問題に なるのかというと、そこで、あのー共約できないものが、歴史的に醸成されているから、というふ うにとらえていたんではないか、というふうに一応考えていますけども。 K先生:えーまさに先程竹内さんに云われたように、非ー理性というのと、ニーチェと運命愛、さら にハイデガーにとっての芸術、それと…ちょっともう(笑)、ちゃんと答えないと(笑)ここでい い加減なことを喋ってしまうと…喋ることもできない状態なので(笑) 私:(笑) ー以上ハイデガーフォーラムより
410 :
考える名無しさん :2011/04/24(日) 22:51:12.09 0
以上 基地外オジサンがお送り致しましたw
ここで私とK先生との理性 ratio と有 Sein をめぐる対話は、決着のないまま終わったが、 私の提示した有の読み方ー有とは共約しえないものーは的外れではないことは例えば次のような 言説からも伺われると思う。 《有限性とは単にわれわれに付着しているにすぎない一時性などではなくて、われわれの有の根本 様式である。もしわれわれが、われわれがあるところのものになろうと欲するならば、われわれは この有限性を離れたり、これについて思い違いをしたりすることはできないのであって、われわれ はこの有限性を保護しなければならないのである。有限性を保存するというこのことがわれわれ の有限有の最も内的なプロセスである。すなわちそれはわれわれの最も内的な有限化である。有限 性は真の有限化においてのみある。しかしこの有限化において、最終的に、人間を彼の現有へと単 独化する或る単独化が遂行される。単独化―それは決して、人間がやせぎすな小さな自我へと硬直 して、この自我が自分が世界とみなしているその場その場でもったいぶる、などということを意味 するのではない。ここで言う単独化とはむしろ、どんな人間でもそこで初めてすべての事物の本質 的なるものへの近処、すなわち世界への近処へと達するようなそのような孤独化なのである。そこ において人間がめいめい一個の唯一者のごとくあるようになるこの孤独とは何であるか? 単独化―それは何であるか?》(『形而上学の根本諸概念』創文社版全集29/30巻13-14頁) すなわちハイデガーにおいては、一個の人間は真の有限性、真の単独性として考えられ、深めら れる時にのみ、それが誰なのか、何なのか初めて把握されると言い得るのである。そしてそれは、 実存の内的可能性が無限ではなく、絶えず有限であることと深いつながりをもっている。少なくと もハイデガーがそのように考えていたであろうことは様々なテクストから論証しうる。
ホントに馬鹿ばっかりだなあ(笑)中傷以外書けないという(笑)貧困。
本当の基地外だと こういうことになっちゃうのね 自分が迷惑をかけているという意識がないからできるんだろうなあ 基地外オジサンのオナニーを見せられても 反応のしようがないだろ わかるか?池沼中高年よY(>_<、)Y
何でいきなりスルー出来なくなったんだ、この人
>>414 よくは分からないけれど、彼の中で何かが起きたんでしょう。
精神疾患だって自分でレスしていましたが、その影響はあるかと思いますよ。
何でもそうですが、我々健常者でも鬱積したものが溜まっていくと、その捌け口が必要になってきますよね。
精神疾患(たぶん統合失調症)だと、ストレートに出すことを選択しがちです。
それで楽になるわけですから、または快楽を得るということです。
ただここで重要なことは、彼は本来出すべき「鬱積物」を出したわけではないんです。
つまり、「代理表象」と言いまして、脳内で様々な事物や感情・経験などと複雑に絡み合ってできた「代理表象」
としての「擬似鬱積物」をこのスレッドに一気に放出したのでしょう。
彼の中の「感情」と、我々健常者の「感情」が同一の働きをしていない点にも注視すべきです。
>彼の中の「感情」と、我々健常者の「感情」が同一の働きをしていない点にも注視すべき です。 どう「同一でないのかな」参考に教えて欲しいものだね。説明できない、てことはないだ ろうね。それと、「鬱積物」「疑似鬱積物」というのは、如何なる人間にもあると思うが、だと すれば別にどうということもないのではないか。(笑)それと、精神分裂病で黙り込む、無 反応というのがあると思うが、必ずしも症状はストレートとは限らないだろう。いい加減 だねえ(笑)「代理表象」云々も誰でもそうだろう。それで何か言ったつもりなのかなあ。 うろ覚えみたいなの理論を書いてるけど。差別心ばかり前面に出ておぞましいねえ。
>>416 まずはお医者さんにかかっているのなら、病名を教えて欲しいのですけれども。
もちろん教える義務は全くないですから、あなたの自由ですが。
誰しも、何が気に入らないか自分で分からず、しかし鬱積し、勝手に攻撃の対象を作り上げ 、攻撃するということはある。ただ、それが現に目の前に居ない、その人にしか見えない、 または聴こえない、ということになると、病気ということになる。真実には何が気に入ら ないかは、不快かは、中々解らなかったりする。そこで私の引用した、〈先‐像 Vor-bild 〉の理論が生きてくる。そういうふうに言っている。ハイデガーに関連つければそういう ことになる。とうにハイデガーが普遍的に言ってることだ。特に病気には限らない。
人間は誰しも病気、というのは正しい ただ、誰しもが病気だからこそ、その治療の優先順位が必要になってくる みんな同じにしてしまっては駄目 原発以降の有害物質に関する議論でもそうでしょう
>>418 レス
>>395 より
>精神医学はサリヴァン位ですね。感心 したのは。概してそんなには知らないですね。
素人レベルの人に精神医学なり心理学関係の専門的な話をしても仕方ないでしょう。
あなたが、ハイデガーをちゃんと読んでいない人にハイデガーが解るはずがない、というのと同様の理です。
この程度のアナロジーは理解出来ますよね?
>みんな同じにしてしまっては駄目 それも読み違えてる。私が言いたいのは、精神構造の理論があるなら、病気、非‐病気の 双方をその理論が一つの地平で論じられなければならない。という意味なんだ。あと、精 神医学の分野でもハイデガーを読み込むという人が出てきた。それは、ハイデガー有論が 、それまでの精神医学よりもより精神構造を総体的に探りあてている、と思えたから。こ れは想像だけどね。単に症状を類型化してる精神医学など比較にならないことをそれはや っていたのだから、そう見えて当然ともいえる。精神医学の人がハイデガーに講義をお願 いした記録があって、1960年代メダルト・ボスという人が自分たちの集まりにハイデガ ーを呼んで開いたゼミナールが『ツオリコーン・ゼミナール』という題名でみすず書房か ら出ている。あれは企画したメダルト・ボスは精神医学の人です。精神医学をやるなら余 計のことハイデガー有論は知っておいた方がいい。あなたはやたらと私に対抗意識を燃 やしているようだけど、もうちょっとおおらかに構えてもらいたいね(笑)
>>421 レスをするなら、面倒でもその相手を示して下さいね。
あなたに対して複数の人がレスをしているようです。
それは全くかまわないのですが、あなたに執着してわけでは無いと思いますよ。
ちなみに私は
>>420 であって、
>>419 は別の方です。
文体とコンテクストで判りそうなものですけれども…。
…そんなことくらい知っていますよ。大体、いまどき現存在分析なんてやっている医者はまずいません。
それから私は、いちいちあなたのように名前は出しませんが、ハイデガー関連の学会にもいくつか所属しています。
「ハイデガーを理解している」とは、とても私には言えませんが、そういう状態での勉強はやってきています。
もっとも、全集102巻まで付き合うかどうかは疑問ですけれども…。
>…そんなことくらい知っていますよ。大体、いまどき現存在分析なんてやっている医者はまずい ません。 そうですか。しかし、『Zollikoner seminare』にビンスワンガーへの批判がかなり含まれて いるんですが、それによれば、ビンスワンガーはハイデガー有論を主観性の理論に還元し、そこで 閉じてしまっている。現有は有の開けとして捉えられるときにその意義を掴まれる。有との関連 が乏しいなら、それは自分の有論とは別物だとしている。そしてビンスワンガーでは主観性を構成 する諸要素にされてしまっている。有の理解 Seinsverstandnis も、慮 Sorge ということ の意義、それこそが現有として考えられなければならないそのものは、軽視されている。 《ビンスヴァンガーが見落としているもの、それは、本来的に基盤となり、規定しているもの、存在 理解、開示性、存在の空き地の中に立つこと、したがってまた「存在の純粋な問題性」である。》(『 Zollikoner Seminare』261頁) 引用部分に簡潔に書いてありますが、ようするに、私がよくハイデガーの根幹といっている歴史 性の問、経歴と現成、その世界性への超越の問がない、よって有の理解 Seinsverstandnis の 意味は掴めない。ハイデガーの思想を継承してるとされているビンスワンガーにしてそう。ハイデ ガーの問を継承したとハイデガーが認めた医学者とか、実はいなかった、というのが実状でしょう 。つまり元々核心的継承などされてなく、その表層だけ受け取って、精神分析にあてていた、とい うことでしょう。それももはや過ぎてしまった、というのが今の段階でしょう。なのでハイデガー 有論を精神分析などに応用するなら、全貌が明らかになってきたこれからだと思いますけどね。
もう一つ、あらゆる精神科学=理論の前提として、社会生活へ送り返す、勤労者へ送り返す、とい 役割が暗黙に前提されていると思える。ハイデガー有論と最も断層・亀裂が生じる、のがそこで あり、これはハイデガー愛読者や研究者は無論、より広範囲に考えて、愛書家や文学愛好家、一般 に偏見から遠いとされている人間の中に根強くある考え方である。それがハイデガー読解にも実 は影響してると思える。その影響が、ハイデガー思想における、〈有の開け〉という考え方にたいし 、それ以前に様々に前提条件ー道徳観、公共性、社会性etc.ーを貼付し、そこにハイデガー思想が 入っていく余地を奪う気がする。それは私が前から書いてる『哲学への寄与』への研究者の読み方 の制約にもなっている。『Zollikoner seminare』でも、その辺りに有論を阻む背景を考えてい るところがある。それは以下のように書かれている。 《存在者を、それが自らを示すがままに「させること(Lassen)」、つまり「許すこと(Zulassen) 」は、あらかじめ、そして不断にこの存在が、つまり現にあることが見て取られているときにのみ、 ということは探求者自身が自らを現にあることとして、「〔現へと〕出で立つもの (Ex-sistierender)」として経験ずみであり、そして今もそのように経験しており、あらゆる 人間的現実がそこから規定されるときにのみ、「あらしめる(Sein-lassen)」としてふさわしい ものとなる。》(『Zollikoner seminare』307頁) 探求において、如何に予め余計な表象を排除しておくことが困難か、ハイデガー思想を受けとる ことが、社会生活や勤労生活を持続させるための知的養分ととられ、そこで公共性に回収されて いく、ということがハイデガー自身に分析されていることが分かる。
ww
誰か、何か書き込んでくれ〜〜〜
何故、フッサールとハイデガーは袂を分かったのか? どちらの哲学も同じ現象学を基盤としているのに。 だれか、納得のいく解答を与えてください。
木田元でおk
429 :
考える名無しさん :2011/05/15(日) 12:26:58.16 0
急接近 ハイデガー→親鸞 ウィトゲンシュタイン→道元
ハイデガーやヴィトゲンシュタインが宗教的なのはその論理学に 倫理学が折り畳まれて内包されているから。 ただ、東洋と接続する前に、キリスト教神学、ポールロワイヤルといった構造を歴史的に捉える必要がある。 仏教もヒンズー教との論理学的論争を押さえる必要がある。
432 :
考える名無しさん :2011/06/05(日) 12:32:15.59 0
そういうこというと分析哲学者が嘲笑するんじゃないの あいつらへの対応も考えておくべき
ハイデガーの時間論は秀逸
竹田青嗣が以前『ハイデガー入門』を出し、最近また哲学講座を本にし、そこでもハイデガーに頁 を割いている。どんなことを言っているのかと思ったら、まずこの人にはハイデガーの肝(きも) ともいえる以下のような概念を把握できていない。ここが把握されないということは、当然ハイデガ ーの本来性論も分かる訳がなく、また案の定わかってはいない。ハイデガーの肝とは何かといえば 例えば次のような箇所である。 《根源的にして本来的な時性は、本来的将来から時熟し、然もその時性が将来的に既有しつつ初め て現在を目覚ますという仕方で、時熟する。》(『有と時』第65節) 読めば一目瞭然なごとく、ハイデガーにおいては本来性は《既有的に将来する》。これは己の非表 明的な可能性として内部に成熟する「善」が、同じ己に気付かれていく。そして伝承されていく、そ のとき、既に支配的である己の過去‐現在は、非本来的として破壊されていく。。いずれにせよここ で逃されてはならないのは、先にあげたテーゼ、〈本来性は既有的に将来する〉である。これを竹田 青嗣は超越的観念として断罪し、こういう〈本来的‐非本来的〉のイデアがナチスへの加担を可能に するのだ、というような批判をする。しかし、ハイデガーのナチスへの加担が『有と時』のテーゼか ら為されたとする論証は難しい。〈民族精神や共同体は先験的な本来性で〉というような話はない 。各々の実存が運命として本来的であることで、何らかの共同体が既にそれらを導いている。とす る記述はある。が、先験的な共同体に全てを委ねることを奨励するような箇所はない。また、本来 性は絶えず実存の運命として、単独性として考えられている。しかもそれは自己の歴史性に根差 したものと考えられる。必ずしも根拠のないイデアへの同一化を訴えているわけではない。
そもそも、自己の歴史性に根差した本来性こそ、『有と時』が〈有と時〉を存在論として展開する理 由である。その〈有と時〉の関聨が掴めないならば、『有と時』前半が分かったところで、それで『有と 時』が掴めたとは言えない。『有と時』の本来性の問題意識を、その構造を掴めないならば、それで はこの本を本質的に語れる段階にも至っていないと少なくともこの点に限れば言える。実際、よ く読み解いているところもあるわけだが、肝心要な上記の箇所は取り逃がしている。それが『ハイ デガー入門』という本で、その取り逃がしの不味さは致命的とも言える深度でこの本にある。少な くとも本来性にかんするハイデガーをめぐっては、そこでの〈有と時〉の聨関を逃している点で、 誤読しかしていないし、ここを真に受ける人間に悪影響をもたらす恐れを含んでいる。
437 :
考える名無しさん :2011/06/16(木) 12:39:51.17 0
<有>の訳語使ってる時点でドグマティックな京都学派厨とわかるから萎える どうでもいい 竹田青嗣を倒すような入門書で勝負しろや
ハイデガーはちょっと言葉にとらわれすぎちゃった人だね。
439 :
考える名無しさん :2011/06/16(木) 21:03:57.50 0
あのころドイツで起こったことは、わたしの人生観を根底から変えてしまった。わたしは悲観的になっ てしまったし、人間に対して疑り深くなってしまった。ナチスが政権をとった次の日の朝、わたしが使 っていた俳優の半数がボタン穴にナチス党員章をつけて劇場を駆け回ったんですよ。わたしは、ひとに 対してひどく警戒するようになった。おぞましいことも起こりましたよ....。わたしの友だちや一緒に仕 事をした仲間も含めて左翼だった多くの人間が、ナチになってしまったんです。基本的にはユダヤ系で はなかったドイツ・インテリゲンチャの大半が、ヒトラーと足並みをそろえたり、親ヒトラー派になっ たり、ごりごりのナチになってしまったんです。ハイデガーのようにね。ハイデガーはナチでしたよ。 「サーク・オン・サーク」(映画監督ダグラス・サークのインタヴュー)より引用
ハイデガーはナチスが無くなるまでずっとナチスの党員だったもんな 筋金入りのナチだ そのくせヤスパースなんかには「あの頃は仕方なかった…」とかシャアシャアと言っていた 人柄は最悪で哲学も古臭いしどうにもならん
うまい飯とあたたかな寝床を欲しがっても責めてはなるまい。
442 :
考える名無しさん :2011/06/17(金) 16:14:16.90 0
いま中央公論新社の「存在と時間」を読んでるんだが、文章がとても分かりにくい。 以前、ちくま文庫で読んだ時はもっと分かりやすかったと思うんだが。 中公の訳って直訳調なのか?
ちくま学芸文庫の方がこなれた日本語になってると思うよ
ちくまのほうが、こなれていて日本語になってる。 でも訳語の選択や語感が古くさくなっていて、 改訂してほしいと思う。というか、 中公とちくまの間をいくような決定版の訳が 文庫で出れば一番いいと思う。
時熟はやめてほしいよな 己を時間化するに直して欲しい
存在と時間って変な文学だろ
449 :
考える名無しさん :2011/06/18(土) 12:58:12.75 O
存在と時間は原文に取り組む価値があると思うけどな。 だからこうゆう逐語訳だせよ↓ 基本的に学生に勉強にもなるアルバイトとしてやらせればいいんだし。 何を/我々は/一体/本当のところ/で/この語/存在(Sein)/考えているのか
電子版対訳バージョンでいいと思う
452 :
考える名無しさん :2011/06/18(土) 15:12:26.26 O
人(Dasein)は/である/一/存在者/、/これは/ではない/だけ/の下に/ほかの/存在者/生ずる/。 これは/いる/も/何かの為に/存在的に/際立って/、/つまり/これは/この/存在者に/の中で/その/存在/をめぐって/この/存在/自体/向かっている/。
岩波が超訳なのはわかった。
/に/この/存在の状態/の/人/属するわけだ/無論/よって/、/つまりあれだ/それは/の中に/その/存在/への/その/存在/一つの/存在の関係を/持っている/。
そういうのって学生じゃなくても機械翻訳でじゅうぶんできそう
える/しって/いるか/しにがみ/は/りんご/しか/たべない
457 :
考える名無しさん :2011/06/18(土) 16:20:57.29 O
そして/これは/さらに/意味する/次のことを/人は/理解する/自分自身を/により/何らかの/仕方/と/自発性/の中で/その/存在/。 この/存在者に/固有であるのは/、/ということだ/により/そして/を通して/その/存在/これは/それに/自身を/打ち明ける/。 存在理解は/なのである/そのもの/一つの/存在規定/の/人/。 というものは/存在的な/特質/の/人/ある/ここに/、/ということ/それは/存在論的/である/。
人が存在論的(ontrologisch)であるとはどういうわけか? これは哲学の存在論にはあまり関係していないことに注意すべきだね。 これは人間が内部で自己分裂していて自意識があり、 自分の中に他者がいて、モノローグしたりしている存在者だという意味らすい。
>>455 辞書を引くの機械にやらせればいいけどな。それいこうの作業は機械では厳しい。
税金で生きてる奴は存在と時間の全逐語訳ぐらいやってくれよ?
>>459 ハイデッガーの言葉遊びだな。
ハイデッガー自身、存在論を展開しているんだし、
既存の存在論という語を自分勝手な意味で使って、過去の存在論を小馬鹿にしつつ、
自分の前言を纏めてやったんだ。
ハイデッガーは裏でこうも主張しているのだ。
「私の存在的な優秀さは、私が今やっていることが存在論的であるというところにあるのだ」
「存在論的存在はここでは未だ存在論を仕上げることを意味してはいない。 だから我々は存在論という呼称を明示的/顕現的に存在者の存在に向けた理論的な問いのために温存しておくならば、 人/現存在の存在論的存在は前存在論的なものと名付けられるべきである。 これは単純にも存在的である何かではなくて、むしろ一つの存在の理解の仕方であることを意味する。 」 ようわからんが悪口だろ。 「彼らの存在論的存在はまだ存在論を仕上げるには程遠い。 まったく存在論という語は私のためにあるからには、 彼らのは前存在論的なものと呼ばれて然るべきである。 彼らは単細胞にも存在を知ったつもりでいるのだから。 」
ハイデガーは人格にかなり問題があったようだな。 人相も悪すぎるし。 その割には「存在と時間」はグダグダだ。
ハイデッガーはナチと関わる前からナチ気味であったに違いないな。
しらんが、「存在と時間」は人間に対するガリバー旅行記みたいな悪口かもしれんよ。※ただしハイデガーを除いた人間に限る おまいらはこんなにもダメだと悪口をいって鬱憤を晴らすのが執筆動機であって、真の存在論を展開する自信と余裕はあったが、当初はまだ考えてもなかったんじゃね? んで、意外と出来なかったとw
なんだこの低レベルなレスは
考えながら書いたっぽいしね。 遺憾にもゲーデルと同種の洞察に達したのかもね。 なにこれ出来ないじゃん?みたいな。
ハイデガー総長はナチスを内部から潰すために ナチスにコミットメントしたんだ!!!!!!!!
逐語訳見るくらいなら原文見ればいいだけじゃね?
「現存在(人)がこれこれの態度をとることができ、いつも何らかの態度をとっている存在自体を、我々(俺)は実存(人の存在自体≒物自体)と名付ける。 そしてこの存在者の本質規定が何らかの事象からは導き出され得ず、 その本質はむしろ、それが何時でもその存在をそいつのものとして存在させねばばならないということにあるので、 現存在という名称が、この存在者の純粋な存在表現が特徴づけられるために選ばれたのだ。 」
>>470 いやいや、ハイデガーならナチス支配の世界の方が暮らしやすいし、爽快だろ。
>>471 いや、辞書ひく時間がない。哲学やドイツ語のプロじゃないんだから。
俺は役に立つことに多くの時間をさかないと死んじゃうんだよ。 働いたり働くために努力しなきゃいけないのに、しょっちゅう辞書なんてひいてたら自殺行為になるんだよ。 それでも原文を理解したいんだ。 そこんとこに配慮してもらいたいね。
人間の存在自体なんていってるんだから、カントを踏襲して、 初めから、存在論など無理だと思っていて、 皮肉にも存在論的に「存在論的」な人間の存在の規定/表現/表出を分析しつつ、 前存在論的として人を小馬鹿にするのが 目的だったんじゃね。
>>475 なんで? 辞書引く手間が省けるじゃん。
>>476 違うな。
フッサールの愛弟子として、現前の原認識を捉えようとしているところは
評価できる。それが間違っていたとしてもだ。
>>477 逐語訳なんか読んでも理解できないよ。
もはや日本語じゃなくて日本語らしき記号の列だし。
よくしらんがサルトルは人が存在論的であるということを皮肉をこめて自由なのだと解釈したのかもしれんな。 自由な存在が人間の存在すなわち実存なのだと。※存在と無の逐語訳も頼んだ。 だがハイデガーはそうは思ってないし書いたつもりもないからこそ、ナチスに同意しえたんだ。 人が自由なら民族浄化は不用じゃないか 。
>>479 逐語訳片手に原文に取り組むんだよ。
こなれた邦訳より有用。
>>478 存在自体、物自体は知りえないということを先生に教えてさしあげるつもりもあったかもな
483 :
考える名無しさん :2011/06/19(日) 05:46:58.14 O
「存在理解そのものが現存在(人)の一つの自己規定である」という文だけを取り出して読めば、 人は自由なんだと解釈しても不思議じゃないというか当たり前じゃね。 存在自体が知り得ない以上は、存在理解は存在解釈になるしかないのだから、 俺は自由に自己規定できるんだぜ!と思いたくもなる。 でも、そのすぐ後に「現存在の存在的な特長は存在論的であることにある」という妙な文が続いていて、 この本の最後まで現存在の自己分析のお手本が続いていくようだから、全然自由だとは思ってないだろ。 自由なら一般的には語れないんだからね。 「存在論的」という語に文字通りの意味をもたせて自省する存在という文脈に合わせた意味をもたせると同時に、 存在論的に無反省的な人間を小馬鹿にしているんだとおも。 小馬鹿にしているばかりではなく反省的であるからこその人なのだから、 そうじゃない奴は人でなしだという意味さえ暗示されてもいる気がするね。 まあこんな陰険なことをいうのもナチだからなんだがw
思うに「存在理解そのものが現存在の一つの自己規定である」ってのは、 自由に存在理解することによって自由に自己規定出来ることを意味しているのではなく、 むしろ、存在理解は規定されてしまっているし、しかも規定の一つに過ぎないということなのだな。 さらにそれを認識するところが考える葦の惨めさであり、特長なのだ。 残念ながらヒャッハーな話ではないのだ。 ヒャッハーしたいならサルトルでも読んだほうがいいだろう。
>>481 独語で読むのなら独語で考えなきゃ駄目だよ。
翻訳しながら読むというのは言語学的にも妙な話。
>>429
>lethal_notion 國分功一郎 @ これすごいです@hisaotakeuchi @lethal_notion ほんとなんですか?
→『歎異抄』に驚嘆した哲学者ハイデガーの言葉
http://www.shinrankai.or.jp/s/movie/heidegger/index.htm 國分功一郎なる者が誰ぞや知りませんが、この「ハイデガーが歎異抄に驚嘆した」という動画は、
親鸞会の捏造です。
WIKIにも、以前は、この動画を素にしたと思われる同様の記述がありましたが、
「ハイデガーの日記」などはないという事実を突きつけられて、最近、その記述は削除されていて、今はありません。
>>486の続き。 「ハイデガーが歎異抄に驚嘆した」というのは、親鸞会の誰かが勝手に作り上げた話を、 また親鸞会の誰かが、動画に仕上げたそうです。その人は、「出典」を問われて答えられなかったそうです。 親鸞会は、知る人ぞ知る「危ない組織」。こんな捏造をして、WIKIまで、騙していたのですね。 以上は、Yahoo掲示板「西洋哲学」カテゴリー「西洋哲学とアドヴァイタ」を参照しました。
>>485 おまいね、ドイツ語がよくわからんから、辞書を使うのだし、辞書を引く手間を肩代わりしてくれと言ってるんだよ。
素人の役に立たない奴はプロとは認めないぞ!
ウィキペディアがどうたらなんてどうでもいいしw 親鸞会なんか知らねえよ まったくオマエら暇人だなww
なんか長文になると、各邦訳者が互いにダメ出しするような状況だよねw だからこそ逐語訳を出してDIY派を支援すべきだ。 逐語訳なら欠陥があってもどこに欠陥があるかわかりやすくなるし。
496 :
考える名無しさん :2011/06/19(日) 20:31:57.02 O
自由に自己規定をしようとしたからサルトルはヒャッハー顔になったの?
書いてるハイデガー自身が文法的に変だとか文章になっていないとか言っていたんだから 逐語訳とか意味ないと思うよ。 内容じたいもアレだし。
フッサールって、過去に哲学者がいたというのは先入観に過ぎないとでもいいたげだな。
まあフッサールは分析哲学の流れに一役かっているからな
500 :
考える名無しさん :2011/06/21(火) 04:57:32.17 0
ハイデガー的には原発ドッカーンってのは喜ぶべき事態なのか?
>>500 なにかの資料で、ハイデガーが戦後に取り組んだ唯一の政治活動として、 「反原発署名運動」があたっとか、読んだ記憶があるのだが、誰か、 その出典なんか、知らないか?
502 :
考える名無しさん :2011/06/21(火) 22:54:39.82 i
【東京】新宿駅前反パチンコ街宣 & パチンカーへの呼びかけ 【日時】6月25日(土) 9:00集合 【場所】JR新宿駅東南口階段下 【活動予定】 9:00〜9:30東南口階段下にて反パチンコ街宣 9:30〜10:00駅近辺のパチンコホールに並ぶパチンカーへ直接呼びかけ 10:00〜11:00東南口階段下にて反パチンコ街宣
サルトルってロマンチストだよな? 殆ど全ての男(女には初めからない)が失ってしまう思春期的な心の若葉を失わずに済んだようだように思われるね。
そうかもなあ。見た目が10割という考えではね。 見た目が本質だということならサルトルは見た目どおりヒャッハーだけどな。 それが、りらてぃぶあぶそるーと
506 :
考える名無しさん :2011/06/25(土) 07:32:15.97 O
世界は私の表像であると確信している天才ショーペンハウアー様に真っ向から反逆しているつもりなのかね?
507 :
考える名無しさん :2011/06/27(月) 03:21:16.83 0
ハイデガーのニーチェ読み始めたけど、面白いし読みやすい。 どうせ理解できないとおもって敬遠してたのを後悔
508 :
考える名無しさん :2011/07/08(金) 03:58:47.80 0
内閣総理大臣夫人・菅伸子さんからの手紙を読んで
http://wakeari-book.jp/?p=1637 「とにかく、総理は覚悟を決めていますよ。昨日、菅さんは国会で、刀折れ、
矢尽きるまで、と言っていましたが、あれははったりでもなんでもありません。
本当にそういう覚悟で臨んでいる。」
「とにかくマスコミは、権力欲だとか功名心だとかいろいろ言っているけど、
あんなのは全部ウソ。全部デマです。菅さんはそんなものはとっくに捨てています。
命も捨てている。」
「行間から、暗殺されたほうが楽だ、という総理の声が聞こえてくるようでした。」
「わが国は、ほんとうに崖っぷちに立たされているんですよ。とにかく、
菅さんは人柱になる覚悟です。自分のことなんて何にも考えてない。」
菅死ぬな!でも死ぬ気でがんばれ!!
509 :
考える名無しさん :2011/07/10(日) 17:20:06.27 0
原発事故ほ存在の性起
510 :
考える名無しさん :2011/07/10(日) 22:27:19.11 0
iwakamiyasumi 岩上安身 lethal_notionがリツイート これがTPPの正体の一部。 RT@9drops_com: 日本農業新聞にウィキリークスが暴露したアメリカの公電。 ニュージーランドのTPP首席交渉官がアメリカ国務省の担当者に、 TPPは日本や韓国などを押しつぶすことが長期的な目標 だと語った 6時間前
511 :
ダニエル さん :2011/07/15(金) 22:42:49.92 0
ハイデガーの使ってた 「ペン箱」 手仕事感 バッチリ出てるんですよ あなた、幾らから買いますか
分析哲学の立場からハイデガー読んでるのって何かある?
ドレイファスだろ。 バーンスタインやローティも一つの時代を築いたと言うべきだな。
515 :
考える名無しさん :2011/07/21(木) 02:32:36.68 0
そういう昔の人じゃなくて最近の動き
516 :
考える名無しさん :2011/08/04(木) 19:03:03.20 0
竹田青嗣の最新刊でのハイデガー講義で竹田は大体に以下のようなことを喋っている。 《後期ハイデガーにおいて、存在の真理ということがよく出てくる。しかし、研究者でもそれが何か は言えてない。そのようなところに、後期ハイデガーの“難解故に我信ず”とも言える、宗教的性格 が表れている。》 真理というのはハイデガーにおいては非‐覆蔵態、すなわち覆蔵態が否定され、現成する、という 意味、しかし、また覆蔵態に帰る、という意味が籠められている。また、そういった存在の真理とは 、歴史的な現成であり、よく言われるが、〈既有的に‐将来する〉ということもその現成のありかた として重要となる。それは『有と時』から言われていることである。存在の真理という用語が曖昧模 糊としている、ということはない。それは重要な概念で、普通に著作を辿れば見えること、ハイデ ガー思想における重要概念であることは分かるものである。ただ、時期によって、そこに籠められ た歴史の深度に違いがあるだけである。それが曖昧模糊として読んでも分からない、分からないこ とで余計に有り難みが増している、しかし意味が分かっている人間などいない…、というのはそれ こそ読解の不足である。竹田の最新刊では講義での学生との対話も収録されているが、学生を指導 する立場にあるのなら、もう少し勉強すべきだろう。でなきゃ危なっかしくて講義などさせられな い。ハイデガーの中期後期というのはより拡がりや深度を増していき、私などは読んでて感心する ことも多い。竹田教授は読めていない。
後期ハイデガーは後退しつつ深化している。 後退というのは、存在と時間の観点から見た場合ね。
ハイデガーの場合は単なる方法論の行き詰まり
所詮「存在と時間」が完了できなかった程度の男だよ。
ハイデガーは歴史しか見ていなかったからな だからナチ党員にもなったし やっぱり前を向かないと駄目だ
歴史を見ないのは不可能だがな。
522 :
考える名無しさん :2011/08/05(金) 12:56:32.68 0
懐古厨
ガダマ―のことかぁああああああああああ
ガダマーはわりかし冷静にハイデガーを観察してますね。
レヴィナスとかアドルノは発狂しすぎなんだよ。
ハイデッガーなんぞ還暦以上の世代が哲学の原体験として持ってしまっただけ ハイデッガーにのめり込んでる学者は分析哲学とかソシュールなんかは全く読んでいないしね 研究会とかフォーラムはほとんどカルト団体の集会だ
あっここは住民がいる!
528 :
考える名無しさん :2011/08/07(日) 11:51:41.91 0
ハイデガー研究というのは、最初からある難問を抱えていた。ハイデガー思想というのは、彼自身 が学問であることを自己否定していったように、その究極を存在の開け、或いは存在の到来に見い 出すもので、それはハイデガーを読んでいれば気が付くところだ。それは学者としてハイデガーに ついて論文を発表することとはまた違うレベルにある。ハイデガー思想は上記のように、存在の開 け、到来を見守る者として、或いは人間を開けや到来の場とするところに本領がある。それは所謂 「ハイデガー研究」ということ、とは違う。むしろ、研究という名目に留まり、自分を超越的な場所に 措定することは、ハイデガー思想からは有り得ない。学者もまた、人間である以上、歴史的現有であ ることから逃れられない。ハイデガー思想は学問という衣装を被せ、距離をとることで事足れりと しうるようなものではない。己という場に覆蔵され、また現成する歴史がその主題だからだ。言い 換えれば、ハイデガー研究の共同体がハイデガー読みとして妥当しているという保証はない。『哲 学への寄与』ひとつ取っても、このスレの1や5程度の読み方さえ出てきていない。それは読み方 として巨匠である故渡辺二郎のものでさえそうだ。それはいまだに同じ。vividな読みをあの本 は求めている。ところがアカデミズムはそれを拒んでいるとしか見えない。従って、これからハイ デガーはむしろアカデミズムの外で、真に読まれていく可能性を持っていると思う。読まずに偏見 だけで喋る馬鹿は論外だが。
529 :
考える名無しさん :2011/08/07(日) 18:18:13.85 0
farposting Noriyuki Tamori shinichiroinabaがリツイート
アメリカがとうとう、全米主要都市の放射線量をリアルタイムでネット
で流し始めました。
http://goo.gl/iKlpF 記事によると日本政府、東
電の隠蔽がひどすぎる事と実際に全米各地で放射線量が過去最大、基準
値を超える量を計測したことがその理由のようだ。日本ののん気さは異常。
22時間前
>>529 そんなもん、もともと国内で漏れてて隠蔽していたのを
福島にかこつけて発表しはじめたに決まってるだろw
どう考えてもフランスドイツって日本の惨状を具体的なデータも抽出して 観察対象として自国の政策決めてるみたいじゃん
532 :
考える名無しさん :2011/08/10(水) 23:56:22.02 0
>>526 ハイデガーって分哲を嫌ってたみたいだね
「アメリカには論理学しかない」とか言ってたしw
逆に英米の分哲の人はハイデガーの著作を「文学」と見做して馬鹿にしてる
ローティさん以後もそんな感じなのかね?
丸ちゃん、もっと分かりやすく話しなさい。
まあ、後期ハイデガーは文学なんだけどね。 言葉の中に存在は住まう、とか
「二四の命題(Die 24 Sätze)」と命名し注目したのはハイデッガーである。 ライプニッツ『二十四の命題』 Godefridus Guilielmus Leibnitius 24 thèses métaphysiques 一 なぜ無ではなく、なにかが実在するのか、という根拠が自然のなかにある。
後期はヘルダーリン学者だ。
>>531 自国内で起きてたら観察どころじゃないからな
ここぞとばかりに政策転換するんでしょ
「賢者は歴史から学び・・・」ってヤツだ
ハイデガーの手 ハイデガーの耳 ハイデガーの鼻 ハイデガーの口 ハイデガーの目
毎年開催されるハイデガーフォーラムが今年も、たしか今年は龍谷大学で開催されるとかで、そ れは結構なことで、盛況することと思うけども、ただ、あれはハイデガー研究の集いだと思うけど も、ハイデガー思想の主題というのは、言うまでもなく、存在の開けであり、人間の担う役割とは、 存在にたいし、自由にさせる、言い換えれば自由に開けさせる、開けに案内する、誘うことにこそ ある。ハイデガー研究こそそうだよ、という見方もあろうが、ただ同じではない。研究という地平 に於ては、人間は研究者という役割を担う。研究者とは、ハイデガーが終生問題にした、有るもの として物事や人間を集め‐立てる。ハイデガーであれば、その思索の経緯、他の思想との連関、等を 立てていく。それはそれで意義深いことではあろうが、あくまでも研究という枠内の営みである。 哲学研究という枠内から出ることはない。そして、ハイデガーが後半、研究者的姿勢を抜けて、思 索そのものへ向かっていったその背景は、顧みられることはない。そのときハイデガーが採った のは最早哲学(史)研究ではない。文字通り、存在の開けという主題、そこへの固執、そしてそれを 阻むものへの対峙の意味を前面に出していった。戦後のハイデガーが採った道はそうだった。それ は哲学研究では最早ない。そのことの意味は、実はハイデガー研究では問われることはない。つま り言い換えれば、ハイデガー研究とは、ハイデガーとの距離を保つこと、研究者に徹することで ある。実はハイデガーの思索に於ては、それらは、有の問とは関係はない。学的姿勢として、あらゆ る対象に目配せし、均等化し、そこで論文を立てる。そのことはハイデガー的ではない。ハイデガ ー研究とはだからハイデガー的ではない。ハイデガー的とは、ハイデガーの意図を汲み取った上で 、読み取った上で、その意義を知り、己という運命に向かうことだ。それは哲学に携わることに限定 されない。研究者とは、その在り方自体が問題にされ、歴史的に問われるものだ。研究者という在り 方そのものが、ハイデガー的に問われるものだ。それは思想家であることとも違う。
>>540 貴殿は有の開けのためになにをしているのか?
ハイデガーを教祖のように崇めても免罪符にはならないぞ
具体的になにを実践しているのか云い給え
とりあえず同じ文章の中で「存在」という言葉と「有」という言葉を両方使うなよ
ぶっちゃけ現存在の分析で終わるからつまらん
544 :
考える名無しさん :2011/08/19(金) 18:16:47.94 0
筑摩から渡邊二郎氏の全集が出ているけど、渡邊氏のハイデッガー研究って使えるのか? 『ハイデッガーの実存思想』も『存在思想』も戦争直後に書かれたものなわけだが。
545 :
考える名無しさん :2011/08/20(土) 07:38:32.81 0
>その研究者の人は私に、「それは貴方が研究すればいいんじゃないですか?」 >と言っていた。何言ってる、と思ったが、結果的には私はその後自分のHPで >現代の社会と現代思想ーハイデガー、バタイユ等ーとの関連を掘り下げる >ことになった。 このサイトってどこだ
>ハイデガー的とは、ハイデガーの意図を汲み取った上で、読み取った上で、その意義を知り、己 という運命に向かうことだ。それは哲学に携わることに限定されない。 そこで己という運命と、研究者としての業とが重なる地点があるとすれば、それはそれで有の開 けなのだ、とは言えないだろうか。つまり研究者における有の開け、を見ることが出来るのではな いか。問題は、研究者にたいし、それらを均等化し、現有としてのSorgeを捉えない学的視線の方 がそうではないか、とも思える。
>>544 それ以上に読みこなせてる著作も少ないから渡邉でおけ
549 :
考える名無しさん :2011/08/21(日) 06:16:52.92 0
>>547 君にとって原発事故は存在の性起で良い出来事?
笠井潔の哲学者の密室ってあるじゃないですか あれはハイデガーの理論そのものなの?
>>528 >ハイデガーはむしろアカデミズムの外で、真に読まれていく可能性を
>持っていると思う。
その通りですよね。
哲学とか学問とかいっちゃいけない。
良くとも人生エッセイでしょう。
「哲学者の密室」は読んでないけど、 「オイディプス症候群」を読んだ限り、笠井潔は解説書(入門書)を読んだだけで、物語にしている印象があった。 つまり、間違ってないけど、薄い。かなり紋切り型の新書的な理解だと思う。 そういうわけで、「哲学者の密室」は読む気にならず放置した。
渡辺二郎ってちょっと前までボクサー崩れのヤクザとしてしか知らなかったw あとヴィトゲンシュタインもWW2のドイツ軍のエースパイロットとしてしか知らなかった
554 :
考える名無しさん :2011/08/23(火) 23:58:43.18 0
先頃発生した声優による里子殺人もまた、その突発性と不可解が性起を連想させる。価値 に際限なく収束・回収され、駆り立てられていくことにより、存在に打ち棄てられ、その窮乏が 有 Seyn からの拒絶の贈与となる。その不鮮明な衝動は今回の事件にもみられる。今回も相変わ らずハイデガー 学者は無反応だろうが、この事件はハイデガーの描く性起にやはり当てはまるも のを含有している。多くの事例と同じく、この事件も、ハイデガー思想を参照しなければ解けない 殺傷の衝動が残る。その不鮮明な衝動こそ、有り損ないの状態からの逸脱である。その不可解な 衝動に、有の、存在の根源からの贈与が籠められている。そのようにその暗い衝動によってのみ、 窮乏からの逸脱はおそらく可能だった。これもまた、性起の事例とすべきである。
童貞が「性起」ってことば使いたいだけなんじゃないかと小一時間(ry
556 :
考える名無しさん :2011/08/24(水) 01:21:36.09 0
フルチンハイデガー
先頃発生した声優による里子殺人もまた、その突発性と不可解が性起を連想させる。価値 に際限なく収束・回収され、駆り立てられていくことにより、存在に打ち棄てられ、その窮乏が 拒絶として開く。その特有の破壊衝動は今回の事件にもみられる。今回も相変わらずハイデガー 学者は無反応だろうが、この事件はハイデガーの描く性起にやはり当てはまるものを含有してい るとみていい。破壊や殺傷の衝動が、有り損ないの状態からの逸脱である。そのあり方が、性起を 連想させるのである。
>>557 コテハン付けてよ。「有乃★性起(ありの★せいき)」とかはどう?
559 :
考える名無しさん :2011/08/24(水) 09:21:44.39 O
この事件にみられるような暴力の衝動、発現、周到な隠滅というのは動機を確定するのも 困難、また、加害者が正常か異常かを確定するのも困難。その不可解さ、みえなさにこの事件のも つ本質がある。加害者は劇団主宰するほどの実力者。常識は弁えている。しかし事件の前にブログ で自身の内面に暗い衝動が湧いていることを告白している。このような謎を解けるのはハイデガ ーだけではないかと思える。社会に役立つこと、計算すること、大人であること、主体的であるこ と、へ集め‐立てられていく人間が窮乏の末に発現させ、初めて逸脱しうる拒絶、があること。慈善 という奉仕の美談。それと裏腹な、里子の殺害。その不可解にこの事件の本質があると思える。
560 :
考える名無しさん :2011/08/24(水) 09:45:12.83 0
「有野★性起乙★亀頭」でいいと思う
561 :
考える名無しさん :2011/08/24(水) 13:09:32.81 O
真性が生起するの意味で性起なんだよね? 性器が勃起するの意味なの?
皆分ってからかってんでしょ 性起(しょうき)って京都系の人が好む仏教用語なんだっけ? 教養無いんで、有と時(うとじ)も最初読めなかったわ
性起とか正気の沙汰じゃないですよね〜
存在の開けゴマ!
最後の神ってもしハイデガアの言うような存在なら、我々には理解や認識できないよね。 別の始まり以後の人にしかわかりえない。
566 :
考える名無しさん :2011/08/25(木) 16:28:17.12 O
最後の神の根本動向とは脱去と合図にある。脱去とは文字通り立ち去ること。しかし今度は 同じように己を知らせる無尽蔵を贈ってくる。有・の覆蔵と開けも同様。ちゃんと読めば書いて ある。
567 :
考える名無しさん :2011/08/25(木) 19:32:30.02 0
ドイツ語も読めないでそこまで読み込めるってある意味尊敬できるわ 童貞なのにセックスのことあれこれ言える奴並みに尊敬できる
理論と実践は別なだけだろ。 理論だけの人をバカにする人は多いけど、それはきっと理論を構築できない人。 現代社会は実践に重きを置きすぎている。 理論はないけど、とりあえず、やってみせよう。と言って民主党政権になったわけだ。
木田元が10年間10時間勉強してなんとか読み説いたハイデガー。 30歳のサルトルが「難しすぎる。私には勉強が足りない」と挫折したハイデガー。 なぜか「ハイデガーくらい基本だろw」と知った口でぺらぺら話す2ちゃんねらーたち。
俺はハイデガーが簡単とも基本とも思わないけど、 時代が違うというのはあるだろうね。 解説書が氾濫していて、それを読んで分かった気になる。国内外の優れた研究書も日本語で読める。 もちろん議論はあるだろうけど、少なくとも基本的な理解と言うものは今は確立されているはずでしょ。 知り合いの女性で、ハイデガーですら読みとくのに苦労したシェリング自由論を簡単じゃんと言う人がいたよ。 色んな人がいる。
しかしさぁ、ハイデッガーのドイツ語を苦心して読みこんだすえに あれこれ言われるならば納得も行くが、 明らかに誰か(学者)が翻訳して呉れた日本語だけを読み、 ハイデガーの思想の本質はこれだ、どうして学者は気付かないんだと 御高説たまわれてもね… これこそ理論への軽視ではなかろうか
ドイツ語わからない竹田さんが入門書書いたりするわけでしょ。 そして後期は糞と決めつける。
573 :
考える名無しさん :2011/08/26(金) 21:58:25.40 0
ドレイファスも似たようなものじゃん で、分析系のやつはあれしか読まない
ハイデガーの問題はハイデガーだけのものではではないからな ハイデガーはソシュールには残念ながら立ち入れなかった 言語の問題を抜きにして存在も時間も論じることは今日難しいよ
ドレイファスってそんなに哲学詳しくなさそうだよな
576 :
考える名無しさん :2011/08/26(金) 22:27:54.37 0
でも分析哲学ってああいうのを「明晰」として褒めないと先に進まないんだぜ
分哲はパスだな。
>>574 ソシュールと関連して、存在や時間を論じているのってどのあたりなの?
存在論とうたっているのに、存在者論に陥っている人多いよね。
579 :
考える名無しさん :2011/08/27(土) 18:21:34.99 0
僕とツンデレとハイデガー 堀田 純司 (単行本 - 2011/9/15) 新品: ¥ 1,575 近日発売 予約可。 この商品は2011/9/15に発売予定です。 通常配送無料
>>578 多すぎて書けないくらいだろ
メルロ=ポンティしかりラカンしかり…
ラカンwww存在論でも時間論でもないだろwww
582 :
考える名無しさん :2011/08/27(土) 20:01:32.85 0
馬鹿が苦心惨憺して原書読んでも誤読だらけだから アタマいい奴が翻訳した本を読んだ方がまだまし
下手糞な日本語・誤読ブームも死んだようだな
584 :
考える名無しさん :2011/08/27(土) 20:03:54.27 0
とは言ったもののカントやハイデガーって ドイツ語で読んだほうが理解しやすいらしいねw
ドイツ人でも、難しいと言うけど・・・ 日本語よりはマシだろうね。
ハイデガーは、そんなに難しくないよ カントの方が、語彙は限られてるけど、ドイツ語が壊れているので難しい
寄与読んだことないんだろうなぁ・・・
ドイツ語で原著読んでも良いけど、 そう言う人は絶対に韓国語で韓流ドラマを観てから 正確に批判したりしたりしないからな〜 あくまで日本語の翻訳で韓流ドラマを観て判断する。 この両者の違いは韓国語がアジア人でドイツ語が白人という 人種的な優劣を前提にして考えているからだ。
純一はしばらく見ない間に かなり衰えたのお…
そうじゃなくて、長文独白嵐は、研究者の仕事に世話になっておきながら、 俺は研究者風情よりハイデッガーを理解していると上から目線だから、 非難されてるんだろうが 文句言うんなら原著で読めというはなし
例えば、東大の豚(蓮實重彦)をここに呼んでみたとしましょう〜 で、豚(蓮實重彦)が、 『君達、対象を正しく理解するには 原語で対象に接近しなければならない、当然の事だよ? でなければ韓流ドラマにハマる主婦の様に馬鹿になってしまうw』 と言ったところで、『先生は原語の韓国語でドラマを観たのですか?』 と生徒が質問すると、あら、不思議蓮實先生はどこかは行ってしまいました。
で、何故蓮實がここで立ち去るのかと言うと、 原語で対象を理解せよ、と言ったのに、 何故韓国語を学ぼうとしないのか?という話だが、 要するに、蓮實はフランス語だから原語で読めって言うのであって、 対象を正確に理解する為に原語って言ってる訳じゃないんだよね〜 要するに、蓮實やら大抵の学者が言う語学ってのは、 基本的に白人の原語のみを意味すると考えて良い。
だから、本来ならば、韓流ドラマ一つをとっても、 『正確に』意味を読み取るというのならば、 韓国語をマスターした上でどうこうという言い方が 初めてできるのだが、ドイツ語やフランス語を学べという人間は、 まず韓国語が分からないのに韓流ドラマを無意識的に批判する場合が 多い、と考えて良い。んで、何故そういう矛盾が起きるのかというと、 最初から人種の優劣で物事を判断してるから、独、仏は白人言語だからOK、 しかし、韓国語はアジアだから日本人より人種が劣っているので、 わざわざ原語で読む必要性は無い、と無意識に考えているからだ。
だから、
>>571-572 なんて嘘臭ぇと思うけどね〜
どうせ、ドイツ語で正確で読めと言っても、
韓国語知らんでも韓流ドラマを理解した気になってるんだろうに、
と思ってしまう訳だ。
的外れ過ぎる。 よくコテつけて主張できるなw
いやいや、的外れではないよ。 大体、ドイツ語とかフランス語とか英語とか、 生まれた状態では知らなかった訳だ。 それを何故『学ぼう』と思ったのか?って事が問題だ。 それは簡単な事で、白人の原語が先進的『っぽい』と思い、 アジア圏の原語が遅れてる『っぽい』と思ったからだろうね。
例えば、学校の授業で英語や数学が出来ると、 『格好良い』が、国語や社会が出来ても あまり『格好良くは無い』のは、英語や数学が 西洋人の学問というイメージが付いてるからだ。
要するに、日本人の精神に元々搭載されてる感覚が、 白人の学問 =先進的、格好良い アジアの学問=遅れている、格好悪い という選別が予め働いていて、蓮實も↑の日本人らしい 人種の優劣的感覚によってフランス語を選んで 白人になったつもりでフランス人の嫁を娶る訳だ。
仮に、蓮實が韓国人の嫁を娶るとなれば、 蓮實は我慢がならない。 何故なら、蓮實はフランス語が出来る事によって、 蓮實の容姿が如何に駄目でも白人になったつもりでいるからであり、 アジア人という(日本人含めた)劣等人種と白人になった私(=蓮實)では 到底釣り合うものではないわ!等と考えているからである。
即ち、蓮實をはじめとして、 特に独、仏、英語圏の言語を学ぼうとするものは、 その動機として根本的に白人をイデアとする感覚を 元々持っている訳だ。 これは日本のファッションブランドを見ても良く分かる。
なんとなく言いたいことはわかるけど、今の論点と違うでしょ。 「Xの言いたいことを、なるべく正しく理解したければ、Xが書いた言語で読むべき」って主張しているだけ。 偶々、今回の場合それがハイデガーで、ハイデガーがドイツ語を使っていただけの話。 道元を理解する場合は現代語訳で良いのか? そんなわけないよね。 そういうことだよ。
それ故、例えば、国際的な外部への進出を 提示する蓮實に、 『じゃあ、隣国の外部に出る為に韓国語を学びましょうか』 等と言って韓国語のテキストを2〜3冊程度、豚(蓮實重彦)の 机に置いたとしましょう、すると2分後くらいには蓮實は 姿を消している筈です。
> 道元を理解する場合は現代語訳で良いのか? > そんなわけないよね。 じゃあ、韓流ドラマの場合は 韓国語で観なければ理解した事にはならん訳ですな。 僕の言ってる事と別に矛盾しませんが。
ところが、
>>602 は口ではそう言っても、
実際には韓流ドラマを翻訳で観ているのに、
馬鹿にする、という現象が起きる。
何故なら、アジアは白人よりも人種的に劣っているからだ、
という暗黙の前提があるからですな〜
で、蓮實の場合、対象を正確に理解する為に、 じゃあ、蓮實さん、韓国語を学びましょうか?と聞くと、 まず、蓮實は韓国語を覚えようとはしないでしょう〜 何故なら、蓮實は韓国語はダサいと思っているからで、 何故ダサいと思うのかと韓国語がアジア圏の言語だからですな。 だが、フランス語ならば白人の言語なので喜んで学ぶ。 ここに選別が働いている訳ですな。
矛盾はしないが、あなたのその他の主張が今の論点と関係ないのでは?と言いたい。
ごめん。変なの相手にした。 スルーします。
蓮實の本当の狙いってのは、
対象の正確な理解なんかではなくて、
白人というイデアに蓮實に同化する事が真の狙いなので、
逆に言えば、学んでも白人と同化できない言語である、
アジア圏の言語というのは、対象を正確に理解する為であっても
学ばない、何故なら蓮實や
>>602 にとっては語学ってのは、
白人と同化する為に必要なものであって、対象を正確に理解する為に
やっている訳では『ない』からですな〜
>>607 関係あるのでは?とボクは言いたい。(←波平風)
>>608 さようなら、逃げる相手はボクも必要としていません。
従って、
>>571-572 の様に、
『対象を正確に理解する為には原語で理解しなければならない』
と言ったとしても、大抵の場合、
そこにアジア圏の言語は前提として含まれていない、と言えるでしょう〜
何故なら、具体的には独、仏、英語圏という白人の言語だけを
前提して言ってるからですな〜
従って、その帰結として、
『対象を正確に理解する為には原語で理解しなければならない』
と
>>571-572 で言ってるのに、
『韓流ドラマで韓国語で観なくても理解した気になって喋る』
という矛盾が起こる。
つまり、
>>571-572 を正確に言い表すと、
『対象を正確に理解する為には原語で理解しなければならないが、
自分が学びたくない言語に関しては原語で理解していなくても
理解したつもりになって喋って良い』
というのが
>>571-572 の正確な帰結となる。
『対象を正確に理解する為には原語で理解しなければならないが、
自分が学びたくない言語に関しては原語で理解していなくても
理解したつもりになって喋って良い』
で、一旦これ↑を
>>571-572 がやってしまうと、
あとはドイツ語に関してもこれ↑が当て嵌まる事になる。
つまり、
>>571-572 の場合は、
『ハイデガーを正確に理解する為にはドイツ語で理解しなければならないが、
自分が学びたくない韓流ドラマに関しては韓国語で理解していなくても
理解したつもりになって喋って良い』
というご都合主義になっている事が分かる。
で、
>>615 を許すとするなら、
当然、逆も許さなければならなくなる↓
『韓流ドラマを正確に理解する為には韓国語で理解しなければならないが、
自分が学びたくないハイデガーに関してはドイツ語で理解していなくても
理解したつもりになって喋って良い』
これ↑によって、やっと
>>615 と同条件で語る事が出来る。
617 :
考える名無しさん :2011/08/28(日) 00:38:29.23 0
γ ⌒ ⌒ `ヘ イ "" ⌒ ヾ ヾ / ( -=ニ=- -=ニ=-ヽ)ヽ ( / ー-' ヽ. ヾ ) ゞ ( ::.| ト‐=‐ァ' |.:.ノ.ノ ゝ、、ゝ \`二´'/ ノソ ヘッヘッヘッ ____/⌒``ヽ ,,ー‐,, "⌒ヽ____ |____し'⌒/ . . /"⌒し′__|::| |____( /_______|::| |____/⌒ ヽ、 /______|::| |____しイ"i ゛` ,,/.______|::| l二二二二二二 l |二二二二二二二二l__:| | |::| | |::| し′ | |::| | |::| |_|;;| |_|;;| |_|;;| |_|;;|
これ↓は2つセットで初めてフェアな条件で語っている事になる。 『ハイデガーを正確に理解する為にはドイツ語で理解しなければならないが、 自分が学びたくない韓流ドラマに関しては韓国語で理解していなくても 理解したつもりになって喋って良い』 『韓流ドラマを正確に理解する為には韓国語で理解しなければならないが、 自分が学びたくないハイデガーに関してはドイツ語で理解していなくても 理解したつもりになって喋って良い』
仮に、
>>571-572 が、
ハイデガーを原語で読め、と言うのに、
韓流ドラマを翻訳で観ているのならばそれは許されない。
しかし、実際には翻訳で理解し、それを馬鹿にしている。
じゃあ、お前のやってる事は一体なんなんのか?というと、
自分の興味があるコンテンツに関して『だけ』異常な正確さを
要求して人を困らせているだけ、要するに単なる我侭という事になる。
要するに、語学の能力を求める人間の動機なんて、 不純だって事だ、語学の正確さを求めるのならば、 自分の興味で選別せずにあらゆる外国語を原語で読まなければ その対象について語ってはいけない、それが韓国語であってもね。
まあ、要は語学を強調する奴なんて 皆、根がいい加減って事ですよ。 自分が好きな言語しか学ばない癖にね。
フランス語・ドイツ語の読み書きできない奴がフランス語・ドイツ語の文化について語れるわけがない。
で、その好きな言語っていう選別基準が、 要するに、白人の言語はアジア人より優勢な言語だ、 最新の言語だ、格好良い言語だ、という日本人の 人種史観が反映されて→初めて学ぼうという気になった、 という順番であって、要するに最初の人種史観が 根本的にそのベースとなっている訳でそこは変わってない訳です。
フランス語・ドイツ語の読み書きできない奴がフランス語・ドイツ語の文化について語れるわけがない。 ↓変換 韓国語・ハングルの読み書きができない奴が韓流ドラマ・K-POPを理解できる訳が無い
大抵の語学を強調する人間は、Aは認めるがBは絶対に認めない。 しかし、論理の構造自体は比べてみても同じである↓ Aフランス語・ドイツ語の読み書きできない奴がフランス語・ドイツ語の文化について語れるわけがない。 ↓変換 B韓国語・ハングルの読み書きができない奴が韓流ドラマ・K-POP等の文化を語れるわけがない。
Aは『その通りだ』と語学野郎は頷くが、 Bは『そんな訳ないだろうw』と笑う。 だが、AとBの論理構造は同じである。 要するに、ここに差異を生み出すのは、 『白人が優勢人種である』という我々日本人の勝手な 思い込みである。
「誰かの翻訳」というフィルター越しにしか到達できない「意味」は、かならずぼやける。
そのバイアスがかかる為に、 Aは認めるがBは認めない、という矛盾が起こる。 まずはその辺を語学野郎は解除してから喋ろうや〜
ぼやけた意味で了解され得るのはドラマや音楽などのもともとぼやけたものだけ。哲学という厳密なテキストが読めるというのは全然別。
悪あがきはやめようよ〜
純一氏の語る批判でだいたい合ってる。そういうことだ。ちなみに私は『哲学への寄与論稿』の原 著(ハイデガー全集65巻 ヴィットリオ・クロスターマン社)は取り寄せて手元にはある。どうし てもこれは持っていた方が良いと思えたのでね。値段は日本版よりやや高くて¥9775だった。大 型書店で注文して3週間で届いた。ただ実際上は持ってるだけね(笑)ただ、あれは用語が皆独特 なので、基本的用語については原語は割合辞書でいったん調べることはあった。本来はどういう 言葉か知っておきたいこともあったし。あれは巻末の索引に原語も附けてあるので調べ易いとい うのもある。基本的には純一氏の批判で合ってると思う。原語で読まない奴は語れないとかバカな 言い草だ。あと私は翻訳者には敬意は表している。あれがあるから日本語で読めるのだと思うか らね。分かっているのは原語で読んだ人間だけとも思わないけどね。
俺も純一に同意だな そりゃその国の言葉を理解できる方が理解は深まるだろう しかし翻訳だからダメということはない 中途半端の語学力で専門書を読むよりも 翻訳書を読んだ方が断然いいし cattは自国語でさえ個人ごとによって解釈が異なるという事実を知らんようだな
ドイツ語のマスターがめんどかったら英語で読むのがいい とにかく日本語だとさっぱりビジュアルイメージが掴めない
てか ハイデガーは原書、韓ドラは翻訳で全く問題ないじゃん 別に朝鮮性理学学ぼうって訳じゃないんだからさw
同じようにハイデガーを翻訳で読んで、韓ドラを原語で楽しんでも、まったく問題はないわな。 ある意味、そっちのほうがかっこいいかもw
ついでに創文社版全集65巻『哲学への寄与論稿』翻訳について一言言うと、あの本の表紙の裏の 辺りに次のような言葉が日本語とドイツ語で書かれてる。 《日本版ハイデッガー全集のドイツ側代表編者ハルトムート・ブフナー博士へ 心からの追悼と 深い感謝の意をこめて この訳書を献ずる 訳者》 これがどういう意味かというのが巻末の訳者後記の末尾562頁にある。それによると、『哲学への 寄与論稿』翻訳は《数年にわたる読み合わせ》のあと、《1997年秋に》開始された。日本側翻訳者は 大橋良介、秋富克哉。《2001年の暮れに、いちおう全体を訳し終えた》。その後、《ふたり別々に全体 を原文と照合し、その結果を交換して、訳語・訳文の統一をはかった。この作業には1年余りを 費やした。》そのような共同作業が進み、《本書の第3校の校正中の2004年7月30日に、》《日本版 ハイデッガー全集の編者のひとりであり本巻のドイツ側の協力者でもあるハルトムート・ブフナ ー氏は》急逝された。享年77歳だった。元々大橋と秋富はドイツで別々にミュンヘン大学でブフナ ー博士の演習と指導を受けていた。《本書の翻訳作業においても、ブフナー氏には、マルテイン・ ハイデッガーの直筆原稿との照合を初めとし、重要な訳語の決定や難解な個所について、絶えず 有益な助言をいただいてきた。訳業がほぼ終わった時点での氏の急逝に、驚きと悲しみを覚える とともに、また深い感謝の念を改めて抱く次第である。》 足掛け7年半の作業の末完成。その間翻訳チームの一人は完成間近に急逝。という経緯に、この本 の日本版完成にむけての翻訳者の苦労と執念を感じずにいられなかった
大橋良介って柄谷公人に馬鹿にされてたな
>>636 原著の単語ひとつの解釈で何年も研究している人も多いようですね。
翻訳本はもはやひとつの「別の著作物」と言って良いと思う。
>>636 大体、全集は『存在と時間』が『有と時』だよ
全集の翻訳は問題ありすぎ
詩や小説の方が翻訳より原著を読むべきだろう
書いてる(語ってる)ハイデガー自身だってちゃんと頭の中の意味内容を言語化でいて
いるわけではないだろう
確かに原著は重要だと思うがそれはまた違う次元のはなし
いい翻訳本というのは必要だよ
>>636 「寄与」訳者でさえ、若い娘のおま○こよりどりみどりというのに、
お前さんときたら…(失笑
分析哲学じゃドレイファスとハイデガーはプラトンとソクラテスの関係だからな
分析とハイデガーって水と油みたいなイメージだったけど、 心の哲学を中心に取り入れすすんでるらしいな。
643 :
考える名無しさん :2011/08/29(月) 11:45:21.50 0
一昔前のハイデガー好き=アメリカ嫌いだっらからな しかも実際にナチ好き(というか枢軸国の大義を今なお信じる馬鹿)も多い
日本でも、西田や京都学派の研究者は大東亜共栄圏を信じている人多いよね
645 :
考える名無しさん :2011/08/29(月) 13:18:24.08 0
その一方、フランスのハイデガー好きには左翼が多いというねじれが生まれた
ハイデガーって哲学はギリシャ語かドイツ語でしかできないとか言ってたよね。 それをそのまま他国が輸入して単純な右翼でありうるはずがない。
647 :
考える名無しさん :2011/08/29(月) 17:22:56.90 0
ところが京都の連中はそれが可能だと信じた
若い世代でもコテコテのハイデガー教信者は育ってるの?
そりゃあいるでしょ なんせ日本はドイツよりカントやハイデガーの研究者が 多いという奇妙な国だからw
戦前はドイツが文化的に進んでいて日本は遅れているっていう圧倒的な劣等感があったじゃない? 向こうの学説なら医学でも法学でも哲学でも何でも有難がって頂戴する、みたいな。 今は、そういう気風もないし、ドイツ文学科は閑古鳥らしいしw、独逸の権威も下がってるだろうけどなあ。 ハイデガーに若い人が関心を持つとしてもデリダとかそっち方面からの関心なんじゃないの?
651 :
考える名無しさん :2011/08/29(月) 23:59:22.60 0
結局ナチスが大規模な人材流出を引き起こして「ドイツ文化」を破壊したからなw
>韓流ドラマを正確に理解する為には韓国語で理解しなければならない それはそうでしょ。字幕で見てるけど、韓国語と字幕の表現の違いに いつも注目している。英語、フランス語、ドイツ語、その他 の言語でも同じ。無論、数多くの言語に精通することはできないから、 すべていい加減だけど、それでも翻訳に頼りきるよりはるかにマシ。
でも法学だと強制はされないものの今だに第2外国語でドイツ語を取るように誘導されるし、 ドイツの学説や判例を読んで学術論文を書くような世界なんだよね。 大学に入った時、最初、とても奇妙に思ってしまった。 高等学校まではアメリカ文化の影響はあってもドイツなんて全く知らないも同然でしょう? 何でドイツなんだろうって。
ちっちゃいとき近所のお医者さんがカルテをドイツ語で書いていて てっきりそれが普通だと思っていたわ
ドイツ哲学はほとんどハイデガーで終了したようなものだかからな 実際はフッサールの方が後世に繋がる足跡を残したんだけれどね しかもフッサールは分析哲学の流れの源流の一つにおもなっているし
ドイツは先進国だが後発の後進国だった。 イギリスやフランスに差をつけられていて、 英仏に対するコンプレックスは普仏戦争で勝利するまで強かったようだ。 そういう気分は多分に文学や哲学にも反映されていて、 日本人は共感できたんじゃなかろうか。 イギリスなんて意識的に近代化したことがない先進国よりも、 ロシアやドイツの劣等感まみれの思想の方が近代日本人には合った。 そういう事情は確実にあったと俺は思っている。
657 :
考える名無しさん :2011/08/30(火) 11:41:28.80 0
長い目で見ればイギリスの方が劣等感あるけどな
>>655 ハイデガーはフランス現代思想の源流になってますね。
戦後はフッサールよりもはるかに影響力ありますよ。
659 :
考える名無しさん :2011/08/30(火) 11:59:41.11 0
>>656 カントの純理もフランスの理性万能主義に反対する
ドイツ人としてのナショナリスティックな意図が入っていそうだね
フランスは基本的に現象学の国だよ。 ラカンもドゥルーズもデリダもアカデミズムで現象学の存在が大きすぎて、 出てきたわけなんだけど、そういう現実が見えてない人が多いね。
661 :
考える名無しさん :2011/08/30(火) 12:03:16.58 0
>>660 おまえさんみたいにアカデミズムがすべてって人は少ないからね
>>656 日本がドイツの後進性に共感したというよりも、
共和国のフランスよりも立憲君主国のドイツのほうが日本の事情(=國體)に合ったというだけでしょ。
イギリスは君主がいたけど、既に権力は名目化していたし。
663 :
考える名無しさん :2011/08/30(火) 13:45:53.89 0
今の日本は英国モデルにしたがっているけどな ワイマール期を経たナチスは帝政を復活したわけでもないので、二次大戦についてはその分析は当てはまらないけども だから今の保守はドイツに倣おうというやつがいない ゆえにハイデガー右派は行き場を失った
おっとReichを名乗ってはいたかw しかし実質上はポピュリズムだからな
>>658 フランス現代思想の源流はカント、ヘーゲル、マルクス、ソシュール
ハイデガーはあくまでもその付属品に過ぎないw
フランスの戦後の思想は全部ハイデガーに注釈を付けてきたようなもんじゃん。 サルトルしかり、フーコーしかり、デリダしかり。
フランスはベルクソンとソシュールが基本だろう フッサールはともかくハイデガーは中心人物ではない
それは仕方ないんじゃないの だって当時は現象学が中心的存在だったんだから ハイデガーは単なる哲学史家 批判される対象としてなら意味がある
いや、ソシュールが基本とかいってしまう「フランス思想音痴」っぷりを問題にしている
ソシュールなんて実質60年代以降でしょう、問題になったのは。 それ以前はフッサールとハイデガーでやってたし、それ以降もハイデガーだ。 フーコーの「言葉と物」にはほとんどハイデガーと同じことが書いてあるわけだし。
バルトの批評経由で誤用されてきた面も大きいからな
>>670 >ハイデガーは単なる哲学史家
こういう認識ってどうせ木田元あたりからの密輸入だろ
哲学史家として褒めるってのは、評価が出揃ったあとの半ば皮肉込みでのものだろ
>>665 フランスの源流はパスカルでありデカルトであり、アリストテレスであり(略
ハイデガーは極めて優秀な哲学史家なのは事実で、 プラトンに注釈をつけ、アリストテレスに注釈をつけ、カント、ニーチェに注釈を付けた。 ただ、それはドゥルーズが哲学史家なのと同じ意味での哲学史家なわけですね。
そもそもフランスにフッサールが導入されたのは30年代に遡るでしょう。 ヘーゲルもコジェーヴ講義でその頃導入されたわけだし、戦後も影響力は維持したとしても、 いわゆる戦後、サルトルより若い世代のフランス現代思想の人たちの源泉は後期ハイデガーであることは常識じゃないですか?
>>677 なんでw
フランスにもドイツ語読める人はいただろうw
現象学が中心っていうよりも、みんな、 分析哲学の基礎付けをしてくれるであろう理論としての フッサール現象学を中心にものを考えすぎだと思うね〜 で、問題はフッサール現象学と分析哲学が 本当に関係のあるものかって事だ。俺は関係ないと思うがね。
殆どのフッサール現象学支持者ってのは、 分析哲学者であって、分析哲学者は 論理学の基礎を求めてフッサールにそれをなんとか やってもらおうとする。 でも、結論から言ってそれは無理だった。 それは元来中二病が非常に多い分析哲学徒の 中二病を如何にフッサール理論によって基礎付けるのか、 という事とほぼ同義だったからだ。
分析哲学者と現象学者はコミュニケーションがないと野家啓一が言ってたんだが
で、何でこのスレでハイデガーが ボロボロに言われるのかと言うと、 分析哲学者にとっては、論理学の基礎付けをしてくれるかもしれない フッサールは分析哲学者にとって有用だが、 その逆を行くハイデガーは不用な存在でしか無い。 そういう訳でハッキリ言って、ハイデガーをボロボロに言う 人ってのは分析哲学者で、ハイデガーが論理学の基礎付けを やってくれないから、フッサールの様に読み込めないって事が 原因で、決してハイデガーが悪い訳じゃない。
問題はフレーゲとかウィトとかの形式論理学を 果たしてフッサール現象学で論理学の基礎付けを達成したら 一体何が起こるのか?という事だが、 これは中二病の人間が論理学が好きだとして、 その論理学を完璧にフッサール現象学で基礎付けしたと考えてみよう〜 その人は形式論理学の基礎付けにフッサール現象学を用いて成功したのだから、 結論としては、一生中二病が治らない訳だ。
分析哲学者は、フレーゲとかウィトの形式論理学の成果と、 フッサールの受動的綜合とかの現象学の理論が、 いつか一致するだろう〜という見込みで話を進めている為、 『〜だろう』という基礎付けの予測が余計に中二病を進めてしまう。
A フレーゲやウィトの形式論理学 ↑ 基礎付け B フッサールの受動的綜合等の現象学 要するに↑の様なものが『分析哲学者の夢』である。 まあ、それが夢でしかないって証明したのが ハイデガーなんですけどね。
要するに、最初に『分析哲学を基礎付けする為に〜』という 色眼鏡で見るからハイデガーが不用に見え、 フッサールが有用に分析哲学者には見えるのだが、 そういうドクサそのものが憶見であって、まずそこを解除しないと どうにもならない部分がある。
フッサールもウィトゲンシュタインもマッハの刺激からスタートしたんだよね。 だから、ある種の共通的な問題意識はあるんだろうけど、現実的には分析哲学者と現象学者は交流はないんじゃないの。
実際に
>>685 のAとBを『繋げた』、あるいは
『繋げている最中だ』と思ってる人は俺が言うのも何だが、
頭がおかしい奴が多い。
例えば、この板の古参の太郎、彼も分析であり、
現象学好きであるし、社会学板の電波と呼ばれる酒井泰斗なんかも
フッサール現象学好きである。
要するにいい歳した中二病が多い。
純一はドレイファスや近年の分析哲学における"metaphysics"の扱いを知らないので色々古い
あと、
>>1 の説明も
ハッキリ言っておかしい。
ハイデガーと宮台・北田は全くと言って良い程関係が無い。
思想的にも全然関連性無し、ただしハイデガーの権威を用いて
彼らが意図的に近い様に偽装している可能性はかなり高い。
>>689 というか、人工知能の科学者と哲学史家を並べるのがおかしい。
遺伝子学者が哲学者をみれば、全てを遺伝で説明するかも
しれないが、そういうのは変り種としては良いが、
哲学としては全くの畑違いと言って良い。
科学と哲学には見た目以上に大きな開きがある。 そりゃ、科学哲学とかから入ってくるから、 科哲のカテゴリーに入らないハイデガーが理解できないんだろうが、 哲学を普通にやってりゃ理解できる。 英米の分析哲学は見た目は大陸哲学を採りいれた風を装うが、 内実は全く別のものなのであんまりアテにならない。
木田元なんかはウィトとハイデガーが関連ありそうだって 言ってるけど、俺から言わせれば関係無いと思うね。 ウィトは『言語の限界にぶつかって〜世界があるという不思議』とか 言ってたけど、これは結構な誤読だな。 ハイデガーはそんな事言ってないし。 まあ、ハイデガーがウィトは私と関連が強いって言ってれば別だけど、 そんなん聞いた事ないしな。
ウィトゲンシュタインはハイデガーを読んで共感を寄せているのは確かだ。
ドレイファスは人工知能の科学者じゃねえよw
696 :
考える名無しさん :2011/08/30(火) 20:08:49.57 0
>>677 フランスって啓蒙思想が出尽くして
哲学研究のヘゲモニーがドイツに移ってからは
哲学は停滞して社会学ばっかり発達させたよね
ハイデガーはフロイトすら読んでいなかった ウィトゲンシュタインは読んでいる ハイデガーの考え方の手法は古過ぎる
699 :
考える名無しさん :2011/08/30(火) 20:29:00.49 0
ハイデガーって20世紀の有名哲学者の中で 唯一労働者階級を親に持つ人だよね? 他はインテリ、エリート、名門、資産家の家の生まれだ
>>699 その割りには権力志向が強かったな
ハイデガーの場合はそういう生育環境が裏目に出て
ナチの党員になってしまったんだろうねw
>>695 いや、科学者でも何でも良いんだよ。
とにかく科学哲学の視点からはハイデガーは理解できないよ。
しかし、君らは科学哲学しか知らない割に
結構ハイデガー理解してますみたいな雰囲気で語るねぇ〜
例えば、ハイデガーの遺伝子は塩基的に ○○のタンパク質の生成が多いので、その結果、 カルシウムが足りなくなって、勢いでナチに入党した、 という説明でハイデガーを理解するくらい、 分析哲学からのハイデガー理解は大雑把である。
分析哲学から来たハイデガー語る人って、 俺も何人か知ってるけど、皆おかしかったけどね。 太郎とか泰斗とか、皆この辺は分析哲学から ハイデガーを理解しようとして失敗した人だね。
一応、ちょっとドレイファスのハイデガー論調べてみたけど、 やっぱ人工知能とハイデガーって明らかに関係無いけどね。 いや、百歩譲って関係あっても良いけど、 それは寺で禅僧やってる坊さんが遺伝子工学やってるくらいおかしいよ。
俺はドレイファスってちくまのあの註解書いてる人かと思ったね。 だけど、調べてみるとそれはマイケル・ゲルヴェンって人だね。 まあ、ハッキリ言ってドレイファスもゲルヴェンも読まない方が 良いと思うね。いや、内容知らんけど、アメリカとかイギリスとかの 研究者って、自国の風土から来る思考形式を解除しないまま 対象を研究するからおかしな事になってるものが多いんだよね〜
例えば、フロイトとかアメリカでは 幸福論になってるらしいから、ハイデガーも 人工知能論になってるとかありがちだね〜 いや、知らんけどね。 要するに、アメリカバイアスみたいなものが絶対かかってくるから、 英米の研究者のハイデガー解説なんて信用できないよ。
まあ、実際に勘違いのハイデガー理解を 二例程語るとだね〜 まず、太郎って分析哲学者が10年前くらいに スレッド立ててね、『後期フッサールの発生的現象学を語ろう』とかいう スレタイだったかな?
要する、何故太郎がこの、
『後期フッサールの発生的現象学を語ろう』みたいなスレタイにしたのか
というと、俺が
>>685 で言った様に、
A フレーゲやウィトの形式論理学
↑ 基礎付け
B フッサールの受動的綜合等の現象学
の、Bの部分が太郎はどうしても欲しかった訳だ。
つまり、論理学の基礎付けとしての フッサール現象学である。 で、まあ、ここまでは勝手にやれば良いんだけど、 面白いのは分析哲学者の太郎のハイデガー理解の 勘違いっぷりだ。
で、太郎は分析哲学者ですから、
論理学の基礎付けとしての
>>685 のBが欲しい訳です。
で、発生的現象学について皆に教えてもらおうとした訳だ。
ところが、面白いのは太郎のハイデガーの誤った理解で、
たしか太郎は『言葉が生成している訳だからね』みたいな事
言ってたんだけど、それってチョムスキーでハイデガーじゃないんだよね。
要するに、分析哲学者の太郎の中では、 ハイデガーの存在と時間って、 チョムスキーの生成文法の一種になっちゃってる訳だ。 これがアメリカバイアスって感じだね。 ハイデガーを安易に分析哲学に接続しようとして失敗する。 分析哲学しか知らないのなら、 分析哲学だけやってりゃ良かったのに、無理に ハイデガーをやろうとして結局チョムスキーと同じ類型で 理解してしまうという。
まあ、そりゃあ、存在と時間って、 時間って書いてあるから、生成文法に近いだろう、 みたいに太郎が考えるのはわかるけど、 基本的にそこにはアメリカの言語哲学がベースになってる訳で、 そういう科学哲学をベースにして大陸哲学ってのは 安易に繋げられるもんじゃない訳だ。 だから、ウィトとハイデガーを一緒に並べてる人を見ると、 おかしいな〜と思うんだけどね。
で、ケース2は酒井泰斗でね〜
これもまたハイデガーを誤解している分析哲学者の一人だ。
泰斗の場合も太郎と同じく、
>>685 のBが欲しいのは一緒だが、
泰斗の場合は、フッサールの超越論的主観性と、
何故か哲学史に全く関係の無いニコラス・ルーマンを持ってくる。
この辺は自分で探したっていうよりも単純に宮台信者であるから
だと思われる。ちなみにこの泰斗は創価学会員です。
で、泰斗の場合のハイデガーってのは、 (存在と)時間っていう生成文法っぽいものを、 ルーマンのオートポイエーシス(←いかにも自動で動きそうだね?)で 解決する。
という訳で、太郎と泰斗ともにハイデガー理解への
勘違いが激しい。
ところが、
>>1 で宮台とか北田とかハイデガーとまるで
関係無い者の名前が出てくる事から見ても、こういう
太郎や泰斗のアメリカバイアスがかかったハイデガーの誤解は
割と一般的なものらしい。
そりゃあ、ドイツ観念論とかを一通り押えて、 それからハイデガー読めば間違わないよ? でも、英米の言語論やって、その後 無理矢理ハイデガー繋げようとしても、 精々、太郎の様にチョムスキーの生成文法と一緒にしてしまうか、 あるいは泰斗の様にオートポイエーシスこそハイデガーなのだ、 とかあらぬ方向に言ってしまうか、というどっちにしても アメリカっぽい感じに歪められてしまう訳だ。
でも、ハッキリ言って、 生成文法もルーマンもハイデガーには一切関係無いからね? 哲学史の本開いてご覧よ? ハイデガーの関連にはフッサールとかはあるだろう。 しかし、チョムスキーやルーマンの名前がハイデガーの 影響関係に名前があるか?そんなもんないだろう?
>>698 とか
>>700 とか中身は一緒の人なんだろうけど、
明らかに分析系なんだよね〜
強引なところから言ってもさ。
まず、700とかは分析哲学しか信奉していない、
ところが、
>>685 のBが欲しい、そこでハイデガーを
読もうとするが、難しくて読めない。
で、
>>700 の様に馬鹿にするって順番だろうね〜
分析系の人(
>>700 等)ってのは、
チョムスキーとかあるいはルーマン等の
アメリカっぽい言語系は得意なんだろうけど、
大陸哲学はからきし駄目って人が多い。
現代哲学の前にドイツ観念論くらい押えてるのか?と
聞いても、ヘーゲルも読んでない場合が多い。
普通、ベースとなるその前提理論であるドイツ観念論とかを知らずに、
何故、英米系分析哲学からいきなりハイデガーが接続できると思うのか、
そこがまた、おかしいところなんだよね〜
大陸哲学を知らずに、分析哲学からいきなり ハイデガーに接続しようとすると無理が出て、 太郎の様にハイデガーを実質的にチョムスキーと一緒にしてしまったり、 あるいは泰斗の様に、ルーマンとハイデガーを一緒にしてしまったりする訳だ。 ちゃんと基礎からドイツ観念論を理解してからやろうよ。
どれもこれも中途半端理解な純一がいうと 全く説得力がないな 泰斗(?)とかポール(?)とか誰? 全く知らんしw
おっ、出た。
中途半端なハイデガー理解の分析哲学徒
>>721 ですな。
まあ、要するに一般的なハイデガー理解なんて、 全部アメリカバイアスがかかってるって事ですよ〜
724 :
考える名無しさん :2011/08/30(火) 23:13:54.06 0
ということは・・・ やっぱり ________ /:.'`:::: :::::\ /:: \ /::. ⌒''ヽ,,,)ii(,,,r'''''' ::: ヽ |:: ン -==-∴-==- < | ,;';;;;;_-=・=- ;;;;; -=・=-;;;;;ヽ、 .. -=ニ=- 苧疾壺玖嵯夷於饅壺雅簾喜軟蛇絽?
俺は分析哲学徒じゃねえよ
>>724 何語ですか?
>>725 君達は『自分が分析だと思っていない実質分析哲学徒』
っていうカテゴリだと思う。波平だってそうだし。
自演するときは敬語になります。
純一は相変わらず症状が改善していないな 自己分析でもした方がいいぞw
ハイデガーってのはね、フッサールの弟子として見たら アカン訳よ。 むしろ、フッサールの強力な批判者、というか、 フッサールの根本的な間違い(それは分析の間違い含む)を 指摘した人って感じ。 だから、分析信奉を捨てない限りはハイデガーは理解できないのよ。
ところが、太郎とか泰斗とかは 分析哲学への信奉を頑なに維持しようとする。 そこで、ハイデガーをチョムスキーと同列にしたり、 ルーマンのオートポイエーシスと一緒にしたりと、 誤解中の誤解の道を行ってしまう。 本来は分析信奉を捨てた後に見える地平なのだが。
純一はハイデガーの何なんだ? 何も知らんオマエが語ることこそ間違いだ オマエの漫談は本当につまらん
俺はハイデガーを完璧に理解してるよ? 何ページに何が書かれてるかとか暗記モノは知らんが、 内容とその本質を理解してる。 だから、何故、フッサールとハイデガーが 袂を別ったのかという事は良く分かるわ〜
連投お疲れ様。宮台とハイデガーについては1だけでなく5、9にも書いた。宮台と北田の『限界 の思考』で宮台の主たる論拠としてハイデガーは咀嚼されながら度々引用されてる。明らかに論 拠としている。読めば分かると思うが無関係ではない。あとは純一氏のは面白かった。
フッサールってのはユダヤ人なんですよ。 で、フッサールは数学基礎論を求めて、 確実なものを求めた。 しかし、フッサールは神経質過ぎて、 逆に疑い過ぎて、確実なものをどんどん壊していってしまった。 ハイデガーは逆にこの壊していく働きを逆に逆手にとって、 破壊をやったって事。 フッサールは最後まで確実なものがあると思ってた。 ハイデガーはそうは思ってなかったって感じだね。
>>733 そりゃあ、宮台は関係あると思ってるけど、
ハイデガーから言わせれば関係は無いね。
まあ純一は元気のようだから安心はしたよw
それはまるで、首相をテレビで見ている 一視聴者である宮台が、ハイデガー首相から 私は甚大な影響を受けてます!と言うのと同じで、 普通はお前はテレビでハイデガー見てただけで、 勝手に関連してると思ってるだけだろって思うだろうがね。
そりゃ、ハイデガーとかその弟子とかが、 宮台氏はハイデガーの甚大な影響を受けておられますね〜 とかお世辞抜きで言ってれば関係あるけど、 宮台が勝手に言ってるだけなら、テレビの前で叫ぶ 視聴者と変わらんよ。
大体、宮台がそう言ってる関連ってのがまた、 誤解されたハイデガー像に基づいてるのは 容易に予想できる。 つまり、ハイデガーは後期で神を見出したから(誤解@)、 我々日本人も神っぽいのを見出して超越論的な宗教っぽい 超越項を持とうではないか、みたいな論だろ?どうせ。
大体、その後期理解ってのが、 そもそも分析哲学用にのアメリカバイアスがかかってるからな? 普通、初期実存でそんなに簡単に分析に鞍替えする訳ないだろ? バイアスがかかって勝手に解釈を操作されてると考えるのが妥当だ。
純一、最近おすすめのAV教えてくれ
いや、今やハイデガーもその弟子も他界してるし、そんなお墨付きは誰もくれないよ(笑)我々が 読んでて判断するしかない。宮台は先の本での中心《すなわち〈世界〉の根源的未規定性にそのまま 開かれることで、〈世界〉を規定可能にしてくれる超越論的特異点に依存せずともすむ、自立した 存在様式》(97頁)というのを問う。《繰り返すと、僕はこうした思想史(ニーチェやハイデガーの 根底にある初期ギリシア)を踏まえたうえで、〈世界〉の根源的未規定性の身をさらす主意主義的 な行為態度を「(真正)右翼的」と呼び、そうした行為態度を支える社会的文脈を再帰的に護持しよ うとする営みを「(真正)保守的」と呼びます。》(98頁)とし、自己の思想的位置の根底として説明 していく。これは宮台なりの語彙で咀嚼したハイデガー思想の要で、これで絶大な影響を認められ ないと言う方がむしろ無理がある。宮台の場合やはり現代的で、読み方にも2000年以降の日本 社会でどう生きる、という問題意識で取り上げる。その問題意識は悪くないし、『哲学への寄与』の 読み方としてこうした読み方はここにしかまだ出ていないと思うので、取り上げる価値はあると 判断した。ただあれは今の知識人なので、背景にはハイデガーと違う色んな要素があるのは分か る。それは当然ですよ。
743 :
考える名無しさん :2011/08/31(水) 06:42:09.56 0
15年くらい前だけどNHKで ハイデガーとヤスパースの特集番組が2晩続けてやってたの覚えてる人いる? そこで95歳のガダマーが出演していて 「ハイデガーの真価は300年経たないとわからん」みたいなこと言ってたのが 印象に残ってる
ハイデガー思想の眼目は有の開けの場として、またその見守りとして、時熟としての人 間へ、理性的支配者、計算=操縦への集め‐立てからシフトさせることにある。『哲学への 寄与』でいえば根源的に将来することを見守ること。その根本性格からいえば、〈世界〉の 根源的未規定性に開かれることを推奨する思想はハイデガー的だと言える。 >15年くらい前だけどNHKでハイデガーとヤスパースの特集番組が2晩続けてやって たの覚えてる人いる? 覚えている。主にハイデガーとヤスパースの戦前から戦後の友情の行方を描いていた。 ハンス・ザーナー、ヴィクトリア・ファリアスも出ていたね。
>ハイデガーの真価は300年経たないとわからん ガダマーごときが何を言ってるw ハイデガー信者は自己批判能力が皆無だから 全く進歩しないんだよ あほくさw
このスレッドを立てた背景とも宮台は関わっている。何故このタイトルか、という動機があった 。ハイデガーが今読まれるとしたら、現代すなわち2000年以降、更に変貌しつつある日本社会の 深部をどう考えるか、不可解な社会の風景をどう捉えるか、存在に打ち棄てられる人間をどう捉 えるか、という問しかないと私は思った。従来のハイデガースレッドで出てきていた議論という のがあり、哲学史にハイデガーを位置付け論じる、というのが多かった。未だにやってる(笑)別 にやっててもいいんだけど、それは今最もvividに読む読み方ではなかろう、というのがあった 。もう今までのハイデガースレッドで十分やってるんだし、今ハイデガーを論ずるなら別の視点、 2000年以降に生きる我々に、食い込んでくるハイデガー、というところから見ていくべきだろう というのがあった。2005年に日本版が刊行された『哲学への寄与』はこの感想を強めた。従来の 哲学研究者にはこれと2000年以降の日本との関わりまでは論じれないだろう。直感的に分かる のは若い、哲学などと縁のない人間だろうという気がした。哲学研究とかと無縁な若い世代の方 が感じ取ることはできるのでは、と思えた。今引きこもりとかしている人間に最も読まれるべき ではないか。ハイデガーにも哲学にも縁のない人間こそこれを読むべきだ。そう思えた。宮台は 哲学研究者ではない分、より自由に読めるところがあったと思う。2000年以降の日本社会との 関連でハイデガーを論じれる人間としてはこの人以外には知らない。他にも知っているならここ に書いて教えてほしい。宮台はそういう理由で引用している。
宮台って90年代までろくすっぽ哲学知らなかっただろ 哲学に頻繁に言及するようになったのは00年代以降
半端に哲学的な大澤真幸よりは、よっぽどシステム論の適用がうまいけどな
宮台とか言ってる時点でダメw
そりゃ宮台用語で読めば宮台考えた社会の中で位置づけられるだろう こういう詐欺に釣られるやつって馬鹿なんだろうなぁ
詐欺とか単純に言ってしまうならば、 分析哲学者がよく言うように、ハイデガーも詐欺になるけどそれでいいの? 安易な罵倒はあまりよくない
まあ、良いけど、少なくとも俺純一は、 ハイデガーと宮台には関連性は見られないね〜 そこを説明しよう〜宮台は最初は左翼側だった。 でもそれは宮台が好き勝手に性的に放蕩に耽った状態を これはフェミニズムなんだ!と勝手に己の勝手さを言い訳したから、 たまたま左翼のフェミニズムに身を寄せた訳だ。 しかし、宮台は別の事情に直面した。宮台の家系は一説によると 宮司の家系であり、天皇家とも関係があると言われているらしい。 つまり、左翼という立場を採っていたのに、天皇に対しては敬語、 という意味不明な立場になってしまった訳だ。
要するに、宮台を構成する事情は以下の2つ @犯罪者として問われる性的放蕩をフェミニズムによって如何に言い訳するか Aしかし、宮司の家系からくる天皇支持を↑とどう両立させるか この2つを両立させようとして、苦し紛れにハイデガーを持ち出してきた、 と考えられる。
宮台のハイデガー理解は単純で、 後期になって神を見出したハイデガー(誤解@)と同じ様に、 超越的でなくても超越論的、即ち、実際の神でなくても 神っぽい超越項を信じる事によって、秩序を取り戻そうというものだが、 問題はこの日本に於ける超越項で宮台が念頭に置いているのは、 間違いなく天皇であるという事だろう〜 つまり、宮台のハイデガー誤解に従えば、 我々は天皇支持になってしまうのだ。
始まったよ 純一漫談が… ┐(´へ`)┌
しかし、よくよく考えてみると、 結局宮台がハイデガーを持ち出して言いたいのは、 我々は天皇支持になるべきだ、という事で、 それはとりもなおさず宮台の家系を保存せよ、という事でもある。 つまり、宮台の個人的事情によるところが一番大きい訳だ。
ただ、宮台が宮司の家系かどうかは知らんが、 少なくとも個人的な事情で何らかの形で 天皇支持をせざるを得ない状態になってるのは確かで、 血縁者かなんかに天皇か宮内庁の人間が居るんじゃないか?って思われる。 ちょっとソースを適当に探してくるわ〜
うーん、宮台の家系はわからんな〜 まあ、可能性としては宮司の説は捨てきれない。 もう一個確実なソースとしては宮台の師匠の小室直樹が 天皇支持者って事が挙げられる。 まあ、ある意味血縁者だな。 本来ならは、左翼的言説とこれらの天皇支持は矛盾する。 しかし、そこをどう言い訳するのか?という点にハイデガーが 言い訳として使われている訳だ。
んで、宮台のハイデガー理解だが、 つまり、これは『後期によって神を見出すハイデガー』という説が 正しい場合に当て嵌まるのだが、 俺が見た限りでは、これはハイデガーではなくてウィトゲンシュタインだ。 ウィトは前期で個人的、後期で共同体的になった。 これを無理矢理ハイデガーに転写すると、 『後期によって神を見出すハイデガー』というウィトの転写物が出来上がる。
>>758 /: : : : : __: :/: : ::/: : ://: : :/l::|: : :i: :l: : :ヽ: : :丶: : 丶ヾ ___
/;,, : : : //::/: : 7l,;:≠-::/: : / .l::|: : :l: :|;,,;!: : :!l: : :i: : : :|: : ::、 / ヽ
/ヽヽ: ://: :!:,X~::|: /;,,;,/: :/ リ!: ::/ノ l`ヽl !: : |: : : :l: :l: リ / そ そ お \
/: : ヽヾ/: : l/::l |/|||llllヾ,、 / |: :/ , -==、 l\:::|: : : :|i: | / う う 前 |
. /: : : //ヾ ; :|!: イ、||ll|||||::|| ノノ イ|||||||ヾ、 |: ::|!: : イ: ::|/ な 思 が
/: : ://: : :ヽソ::ヽl |{ i||ll"ン ´ i| l|||l"l `|: /|: : /'!/l ん う
∠: : : ~: : : : : : : :丶ゝ-―- , ー=z_ソ |/ ハメ;, :: ::|. だ ん
i|::ハ: : : : : : : : : : : 、ヘヘヘヘ 、 ヘヘヘヘヘ /: : : : : \,|. ろ な
|!l |: : : : : : : : :、: ::\ 、-―-, / : : :丶;,,;,:ミヽ う ら
丶: :ハ、lヽ: :ヽ: : ::\__ `~ " /: : ト; lヽ) ゝ
レ `| `、l`、>=ニ´ , _´ : :} ` /
,,、r"^~´"''''"t-`r、 _ -、 ´ヽノ \ノ / お ・
,;'~ _r-- 、__ ~f、_>'、_ | で 前 ・
f~ ,;" ~"t___ ミ、 ^'t | は ん ・
," ,~ ヾ~'-、__ ミ_ξ丶 | な 中 ・
;' ,イ .. ヽ_ ヾ、0ヽ丶 l /
( ;":: |: :: .. .`, ヾ 丶 ! \____/
;;;; :: 入:: :: :: l`ー-、 )l ヾ 丶
"~、ソ:: :い:: : \_ ノ , ヾ 丶
で、問題はケーレ(転回)があったかって事なんだが、 ハイデガーは実はケーレなんてものはない訳だ。 語り口が変わってるだけで、言ってる内容は同じである。 すると、『後期によって神を見出すハイデガー』という 前期後期を分ける考えた自体が間違いだという事が分かる。
じゃあ、『後期によって神を見出すハイデガー』の虚像は どっから来たのか?と言うと?そう、それはウィトの 前期後期の転写によるものなのである。 そういう訳で、実際には宮台の言うハイデガー論なんて、 要するに宮台の家系の中で天皇支持者がいるから、 それを宮台が批判せずに済まそうとしてハイデガーを持ち出して なんとか身内の争いを避けようとしてハイデガーを持ち出してくる訳で、 宮台の思想的にはそれは矛盾している訳だ。
そもそも、宮台が左翼的言説を持ち出してきたのは、 宮台が左翼だというよりも、宮台が屑な犯罪者であるから、 そこを言い訳しようとして左翼的言説に身を寄せた、という言い方が正しい。 何故なら、普通誰でも男はハーレム状態を望む訳だ。 しかし、倫理的な理性が働くのでそれをする人は犯罪者ぐらいしかいない。 宮台は実際に性犯罪的な事をやってしまったのだが、これを犯罪とは 認めたくはない、そこでフェミニズムに身を寄せてこれは性の解放なんだ、 と己の勝手さからくる犯罪を言い訳してしまったので、左翼に身を寄せた訳だ。
岡山の人間は優秀なはずなんだがなあ?
ところが、別の事情が出てくる。 左翼陣営のフェミニズムに身を寄せて、なんとか宮台自身の 性犯罪を正統化したものの、今度は身内に天皇支持者がいる事から、 どうしても保身の為に右翼的言説をとらざるを得なくなる。 そこで、都合の良い言い訳として使えそうなハイデガーの登場となる訳です。
結果、言い訳として左翼言説に身を寄せたのに、 身内に右翼がいるので、どっちつかずになり、 結局は一貫性のない言い訳の多い屑という具合に 宮台の状態はなってしまっている訳です。 あとはこれをハイデガーでどう言い訳するか、 という点に尽きる、と言えます。
で、宮台のハイデガー解釈は、 要するに、超越論的○○という項目によって、 超越自体(神)ではなく、超越論的(神っぽいもの)によって、 超越項(神の項)を確保して秩序を取り戻すという事だが、 日本人ではこれは天皇である、という事が暗黙に含まれている。 要するに、天皇自体は神ではないが、シラケつつもノルという事で、 そういうものとして信奉しろ、という事だが、 これはとりもなおさず宮台の個人的事情によるもので、 身内に天皇支持者がいるので一貫性を無視して都合の良い言い訳を 言ってしまい、左翼陣営の一貫性を手前勝手な個人的事情で言い訳して しまった結果だと言える。
今はそんな奴ばかりだろう。 佐藤優もキリスト教と宇野経済学を接合させた上で上に天皇を戴くみたいな、ほとんど戦前ファシズム同然のことを主張している。 西部進とその一派も似たようなもんだ。 超越性は空位で空位の座を確保するとか、ほとんど政治的ロマン主義丸出しのことを言ってる奴もいる。
ハイデガーが総統に期待してしまったのもその論理だな
ハイデガーはもっと単純なような ヘーゲルみたいに国家哲学者あるいは 民族の導師になりたいという出世願望だけ
771 :
考える名無しさん :2011/08/31(水) 19:40:43.21 0
>>746 みたいな今この時代に○○を読むのだ
って厨ニ病はせいぜい卒論で卒業して欲しい
私女だけど、童貞臭過ぎるのは勘弁
>>768 佐藤優は思考が変
巷間言われているほどの輩ではない
いやいや(笑)純一氏の長い話は面白かったし楽しませてもらった。なんと言うか、芸ですね、 流石です。2ch。の有名人だけのことはある。面白かった。ただ、これに真面目に取り組むことは 出来ない。まともに論争するものじゃない、面白過ぎて(笑)これは一つの芸だと思うので、尊重し て才能として、置いておきたい気がする。まあお達者で、という位で止めときたいね。期待してま す、かな。そんなところ(笑)楽しませてもらった。上の宮台批判は私の論への応答なんだけど、た だ反批判する作業には及ばない気がするので一旦スルーします。やれと言われたら、いやあ(笑) 持論は変更することはない、取り敢えず。
人物の話はいいから存在論について語ってくれよ 結局説明がつきませんってことだよな
言語の外にあるものを説明が付くわけがない。
776 :
考える名無しさん :2011/09/02(金) 06:03:30.37 0
「焼き殺そう」とガソリン…渋谷ライブハウス
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110831-OYT1T01164.htm 31日午後8時30分頃、東京都渋谷区宇田川町のビル地下1階のライブハウス
「チェルシーホテル」で、男が突然、「殺してやる」と叫びながら店内にスプレーを
噴射し、持ってきたバケツからガソリンとみられる液体をまいた。
この事件にみられるような暴力の衝動、発現というのは動機を確定するのも
困難、また、加害者が正常か異常かを確定するのも困難。その不可解さ、みえなさに
この事件のもつ本質がある。このような謎を解けるのはハイデガーだけではないかと
思える。社会に役立つこと、計算すること、大人であること、主体的であること、
へ集め‐立てられていく人間が窮乏の末に発現させ、初めて逸脱しうる拒絶、があること。
その不可解にこの事件の本質があると思える。
僕は無を超える方法手段が有るよねー!?♪。
純一氏がハイデガーが後期になって神を見い出したのは間違い。一貫しており転回はない、とし ており、私も異論はないが、しかし実際例として『哲学への寄与』と『有と時』は変化はないかという とそれは指摘はできる。有・Seyn は神の必需、というのが有・Seyn の説明であるように、『有と 時』が言っていた有の地平を、これは有を贈る歴史の地平に他ならないが、これを、すなわち歴史 をより深部へ、深化させた。そこで神の必需としての有・Seyn という言い方になった。有を贈る 歴史の地平が拡大された。『有と時』では既有的に将来する、という言い方だったがそれに倣えば、 根源的に将来する、という言い方になる。人間に於ける不可解、驚愕、不幸、というのがそこで論じ られる。有の窮乏が起こす事態としてそれが考えられていった。神という語彙はそこで考えられる べきで、有の窮乏、という段階に伴っている。でなければ掴めない。そこでの有の衝撃というのが 私の提起する力点にあった。考えられる歴史の規模としての変化はあると思う。補足するとそう なる。
↑ 完全に統失だね
最近は荒畑靖宏の評価が高いみたいだな。 ハイデガーをオカルト詐欺師にしないためにも門脇と荒畑には頑張って欲しいな。
ベルクソン>ハイデガー だろうな。
782 :
考える名無しさん :2011/09/02(金) 20:03:07.19 0
アガンベンの『思考の潜勢力』 La Potenza del pensiero のラストに紹介されている哲学史見取り図。 超越 内在 カント スピノザ | | フッサール ニーチェ \ / | ハイデガー | / \ | レヴィナス、デリダ フーコー、ドゥルーズ
スピノザとニーチェをつなげてるあたり、優秀。
スピノザ-ニーチェはヨベルも繋げていたけど・・・
スピノザとニーチェの名前を挙げておけば現代思想っぽくなる時代があった
ハイデガーやデリダがスピノザ嫌いなのがポイントな
ハイデガーってシェリング講義と根本問題以外でスピノザに言及してる?
たぶん言及しているだろう 全集ではね♪
この人哲学以外には一切興味を持たない人かと思ってたけど サッカーが大好きだったらしいな
へー。 どこの本(雑誌)にその情報書かれてるの?
風行社から出た「ハイデガーの哲学と政治」ひどいなw 意図的に「寄与」を抹消しようとしている。 ハイデガーにおける民族は存在の現れる空間である。という解釈を提示する。 と言うのだけど、そんなの「寄与」で将来的な者たちとして、より発展的な形で述べられている。 それに「ヘルダーリンの讃歌『ゲルマーニエン』と『ライン』」にまで言及しているのに、著者が「寄与」を無視する意味がわからない。 ほとんど先行研究の整理と踏襲でオリジナルな要素は少ないし、これで名大の博士論文かよ。
今のハイデガー研究者は寄与を無視するか それとも寄与ばかりに目が行くかの両極端しかいない ちなみに木田元は「寄与は正直よくわかりません」と言っているが
木田先生に『哲学への寄与』について質問したことがある。参考のためあげておきます。2009年、 ジュンク堂書店のイベントでのこと。私が『哲学への寄与』を読んでて、1990年代以降の日本社会 の不可解な事件を連想したこと、『寄与』にある〈拒絶〉という概念はまさにその読み方を可能にす るのではないか、と尋ねたとき。以下にそれへの木田先生の話を紹介する。因みにその場には他の 聴衆も居り、先生と私の話を聴いた筈である 木田 うん。まあ、あの、ハイデガーはとにかく、あれですね。あの、これまでの文化形成みたいな ものが多分どっかで、アレするだろう、あの、限界になって、終わっちゃうだろう、というイメー ジをもって、書いていたに違いない、と思うんですけどもね。だから、それが、あの、まあ、今の日 本とか、時代がそういう時代に差し掛かってきた、ていう、いずれにしても、(貴方が言う読み方 が)割りに不思議じゃないような。 人力 存在の忘却の忘却という状況が今だと思うんですけども。まさにハイデガーの言う通りの 状況になってきた…。 木田 ように読めるということはあるような気はしますけどね。 別に本になってるわけでもなくイベントでの質疑応答のやり取りに過ぎないが、確かにこのよう に答えてくれていた。参考のためあげておきます。
>>795 別に過大評価しろとは言わないけど、かつてのように幻の本ではなくて、
今は全集に収録されている著作なんだから、言及されていてもいいと思うんだよね。
門脇俊介って死んだのか 知らなかった 木田元よりはやく死んでしまうなんて…
『破壊と構築』が遺著ですな
古東って、電波?
ハイデガーフォーラムとかの発表者は 研究者以外から質問されたら こいつが796かと疑心暗鬼になるだろうな 質問はワンパターンだろうが
>>794 参考になった。確かにそれは酷いな。
著者は、政治学出自の人みたいだけど
そもそも小野紀明あたりのハイデガー解釈って
無意味なほどペダンチックなだけで
中味がスカスカ、読解としてはなにもないな
と思ってたので、
そっち系のハイデガー研究ってやっぱり駄目なんだな
と妙に納得した。
>>802 正にその小野の議論を下敷きにしてる。
それに、この本はハイデガーの政治参加つまりナチ関与をほぼ無視して、
ハイデガーの政治について語る。
自分の主張を正しくみせるため、都合のいいものだけ集めるのは当たり前だけど、
こうもあからさまだとね…
804 :
考える名無しさん :2011/09/06(火) 06:56:01.06 0
1999年5月『現代思想臨時増刊 ハイデガーの思想』44頁でDeleuze研究者宇野邦一は次のよう に述べている。閉鎖性の指摘として貴重な要素と思われる。 《一方でハイデガーは、著作も多いし翻訳するのに時間がかかるし、当分ハイデガーで哲学教師の 暮らしが成り立つという、そういう対象になっている。あるいは哲学の学会が存在するための、あ たかも口実になっている…。しかしハイデガーもDeleuzeも、現在の私たちの「存在論的襞」にどう 分けいっていくかという問題にてらして読まれなければ意味がないのです。Deleuzeの思想はと っくに大学の外に出ていますが、ハイデガーはまだまだ大学の外に出てきません。ほんとうは大 学が問題ではなくて、思想にとっての〈外〉が問題なんですが。》 ここで宇野はハイデガーの衝撃、底知れない思索を専門のDeleuzeの問題系に掛けながら論じ 、その最後に上記の問題点を挙げている。宇野がこう述べた後、ハイデガーフォーラムが毎年開催 。これは一般参加可能で、決して閉鎖的なものではない。研究者側での開かれた姿勢も現れてきて いる。(今年は龍谷大学で間もなく開かれる。)しかし、宇野の言葉を借りるなら、ほんとうの問題 は思想はどう開かれるか、にある。《思想にとっての〈外〉》へ。《私たちの「存在論的襞」に、どう分け いっていけるのか》にある。
深刻な顔して〜が問題だーと言い続けるのは サルにでも出来るよ
日本のハイデガー研究は欧米のそれを凌いでいる。 と言うのは、本当なの? ヴェーバーと同じく、ハイデガーも日本では長らく重要視されてきた。 そのせいか欧米で研究されてないことまで、研究しているとか 枝葉末節の可能性もあるけど
枝葉末節だな ドイツの人口がそんなに多くないのも一因
ドイツ語圏より 英語圏やフランス語圏の方がレベル高いというのは かなり当たっている。 日本語での研究水準はまだまだだな。
マルクス「資本論」の初版の過半数が日本にあるらしいし、妙なところで日本は熱心だよな。 一方、哲学科は今や大学の中で最も人気がない学科でもあるのに。
>>794 以下のような嫌味なツッコミ、
こういうのって日本ならではの解釈共同体のあり方。
正しいけど、ぶっちゃけ他の国ではもっと荒っぽい解釈者が多いだろう
ドレイファスから門脇俊介のラインも、一応「ハイデガーの後継」を自認していたわけだろう?
>>810 794の書き込みを見ると解釈が荒いと言うよりも、
寄与を無視したことへの批判なんじゃないか?
解釈がおかしいという主張はないようだけど
荒いというか、変な本ならハイデガーと地球がありますね。
門脇のかわりに竹田だの宮台だのが死ねばよかったのにな
ハイデガーの正当な後継者なんていないんじゃないか 哲学史家ハイデガー読解学者なら日本にはたくさんいるが
814 :
考える名無しさん :2011/09/07(水) 02:55:10.45 0
ハイデガーは存在と時間が出る前に日本に来る話あったんだよな。 東大で教えていたかもしれない。
時間って現存在のありかたのことなのかな それって彼が批判する主観的時間とどう違うの? 客観的通俗的時間との違いはわかるんだけど…
816 :
考える名無しさん :2011/09/07(水) 19:08:31.23 0
そもそも現存在が主観(主体)ではないっていうのがハイデガーの考え方の出発点 そして主観とは、現存在の時間性の歴史的(形而上学的)な現れ方のひとつ。
そんな事言ってたっけ? 共存在ってのは聞いた事あるけど…
言ってるw
俺の理解と違うな〜
たぶん、
>>816 の解釈は多分に分析哲学のバイアスがかかってるな〜
(cattもロクに知りもしないのに知ったかぶりである)
ハイデガーの時間論は主観(主体)が無いのではなくて、 むしろ、客観的な物理的時間等を主観的時間に還元する事によって、 実存としての立場から時間を再考する事にある。 フッサール : 客観的時間(論理的、物理的) ↓ ハイデガー : 主観的時間(実存、詩的文学的)
で、ハイデガーは客観的時間を還元した後で、 これを逆流させてフッサール等の一般的な時間観を 主観的(実存的)立場から逆に破壊する。 フッサール : 客観的時間(論理的、物理的) ↓ 還元 ハイデガー : 主観的時間(実存、詩的文学的) フッサール : 客観的時間(論理的、物理的) ↑ 破壊 ハイデガー : 主観的時間(実存、詩的文学的)
一般的に人は共存在であり、自分が主体ではなく、 客体ないし客観的(ダスマン)だと思っているが、 ハイデガーは死を契機として、主観的(実存的)に 還元できると言う訳だ。 ここで、人は客観から脱却できて主観的(実存)的 立場を手に入れる事が出来、これが存在と時間の 最初の考察の基本的立場となる訳だ。
で、当然このフッサールの客観的時間の中には、 分析哲学も含まれる(フッサールはそういう論理の基礎を求めてた)、 で、下のハイデガーには影響関係からニーチェが入る訳です。 フッサール : 客観的時間(論理的、物理的) =分析哲学 ↑ 破壊 ハイデガー : 主観的時間(実存、詩的文学的)=ニーチェ
要するに、ハイデガーの思想では、 ニーチェが分析哲学を殺すって事ね。 だから、門脇とか言ってる人を見ると ああ、理解してねーなーと思う訳だ。
で、デカルト的主体ってのは、 フッサールの超越論的主観性の初期バージョンなので、 フッサール : 客観的時間(論理的、物理的) =デカルト的主体=分析哲学 ↑ 破壊 ハイデガー : 主観的時間(実存、詩的文学的)=ニーチェ と、こう↑なる訳ですな。
826 :
考える名無しさん :2011/09/07(水) 20:51:55.00 0
そもそも私にとって、存在の覆蔵と開けの場としての現存在はそれが歴史的に有り、将 来する限り、絶えざる脱自の場としてのみ有るものである。よってそこでは、何故私が… という問いかけにおいて、私は何処までも明晰であるとは限らない。間違えやすいのがそ こで、むしろ自己にどこまでも責任を負わせる主体概念にとって、ハイデガー的存在は敵 対していると思える。それでいうなら存在とは自己‐領域でありながら同時に他者であっ て、自己責任主体の〈外〉と捉えるべきものである。ハイデガー的時間の要点は例えば『存 在と時間』第65、80節にみられる。たしかに「現存在のあり方」ともいえるけど、もっと言 えば根源的時間というのがハイデガー的存在、と考えればいいと思う。 《だからわれわれは、到来、既在性、現在という、すでに性格づけられた諸現象を、時間性の 脱自態と名づける。》《時間性の本質は、諸脱自態の統一における時熟なのである。通俗的 な了解内容にとって近づきうる「時間」の特性的な点は、とりわけ、始めもなければ終りも ない純然たる今の連続としてのそうした時間のうちで、根源的な時間性の脱自的な性格 が水平化されてしまっているということのうちにこそある。》(『Sein und Zeit』329 頁)《しかし、世界時間(世界内部的存在者の出会われる時間)はあらゆる可能的な主観 よりも「いっそう主観的」である。》(『Sein und Zeit』419頁)
純一さん相変わらず読めてないねw
共存在とダスマンは別じゃないか?
830 :
考える名無しさん :2011/09/08(木) 01:14:59.20 0
>>827 実存概念は無責任な自己を肯定しているわけでない。
ハイデガーは自己に「責任を負うshuldig」ありかたを本来的とみなしていたことにかわりない。
その点ハイデガーはカントを肯定している。
ただ自己の意味、責任の意味を捉え直そうとした。
それが(カント的な法廷モデルの)責任主体における現在中心の非本来的時間性から、
実存の「死に臨む存在」における将来中心の本来的時間性への移行としてかたられた。
簡単にいえば、
現存在の自己はおのれの死の運命にたいして「脱自的」に責任を負うかぎりで、本来的自己であると考えた。
で、それが祖国のために死ぬ兵士に重ね合わされてしまったと その限りにおいて、母語に基づく国民国家縛りは否めない
832 :
考える名無しさん :2011/09/08(木) 01:22:04.25 0
「\ .「\ 〉 .> 〉 〉 / / / / / | / | / / / / ( 〈 . / /. \ `\ |ヽ | \ \ / | ヽ `´ ノ / ノ / l`、 ノ ノ ,...-‐''" _.l::::`ー,=-'( / ´ ,.!_;;;:r''.. ` 、 ,...-‐' _,....-‐'" `'-、:: ` 、 /.. ,....―'" `ー、__ `l /_;::::-'" /::::::::::::::::ノ ,.../._r'" ヽ`''「 ̄ ̄ (__ノ' \_\ 糞ウヨ必死だなw
833 :
考える名無しさん :2011/09/08(木) 01:24:32.76 0
>>831 それを読み解く鍵が「存在と時間」においては、
「歴史性」と「民族」という概念になるわけだ。
にしてもあそこあたりの議論は雑。
日本のハイデガー好きにもそういうやつ多いからな… 京都の連中とかな
835 :
考える名無しさん :2011/09/08(木) 01:51:13.80 0
サルトル的な実存主義者とハイデガーがちがうのはそこだ。 ハイデガーにはあきらかに民族保守主義者の面影がある。 しかしサルトルの実存主義(マルクス主義)にとどまらず、 現代フランス思想の政治的リベラリズムの源流に、 このハイデガーの民族保守主義があったってのはおもしろい。
836 :
考える名無しさん :2011/09/08(木) 01:54:05.04 0
しかし民族保守主義がラディカリズムに親和性あることは、 戦前の日本でもみられたこと。
ユンガーあたりが鍵になりそうだ
〈責を負う=負い目がある schuidig〉ということでこれも一般的な語彙と違うのが、ハ イデガーの場合、これは最も固有な存在であることから言われるので、現代人が言う場合 のように、社会道徳や法律の遵守というような要請とは関係はない。それを830の人も 言おうとしてると思うんだけども。そこがハイデガーの場合、一般的な意味合いと違う。 社会性の配慮ではない。そこで〈自己に責任を負う〉という場合、一般的な意味合いとまる で違う。そこは現代人に理解しがたいと思う。逆にそこが把握されるかがハイデガー理解 の要になる。責任という場合、法律の遵守や社会奉仕やが一般的なわけで、ハイデガーの 場合そこではない。どうそこではないか、がハイデガーの意味だと思う。それともう一点、 そこも社会道徳や法律の遵守とかに於ける〈責〉と異なるところだけども、その場合の〈負 い目がある schuidig〉は、それ自体がむしろ現存在の本来性の前提条件で、人間は大抵 の場合〈ひと〉としてあるとすれば、《現存在は、ただ「責めあり」ーそのようなものとして 現存在は存在しているのだがーで本来的にあるべきである。》(『存在と時間』第58節 呼 びかけの了解と責め)とされる。もうひとつ。本来性は現存在の時熟と関わっている。よ ってそれは根源的時間の開示と同じで、既有的=到来的である。人間は支配的ではない。
てか、日本的な思考で考えるから珍しく見えるだけで それただのキリスト教的原罪と何ら変わらないから
結局、要所要所でドイツ語圏でお馴染みの論法に訴えているわけだよね 「時熟」の人がやたらと道元その他との類推に訴えて悦に入るのと一緒だ
839のあっけない一言で、838はキリスト教信者になるのだった… 果てしない自分探しの旅は、哲学板から別の板に移った。 The End
原罪が何で基督教になるんだ? そこはむしろヒトラーが言ったようにユダヤ教だよね。 旧約も知らないのかね
この程度の知識の人間がハイデガーを語るw キリスト教の旧約=ユダヤ教じゃないよ キリスト教的原罪の概念は、多くのユダヤ教の宗派で、存在しないか、重要ではない その発言は、かなり恥ずかしいっす
844 :
考える名無しさん :2011/09/08(木) 14:08:19.59 0
まあ存在と時間は、 キリスト教というか、キルケゴールとアリストテレスを無理やり結びつけたようなところがある。 だから単なる学説史的な影響関係とか研究してもつまらないことになる。
839レスの人はおそらく『創世記』に記されている、知恵の実を食したことの楽園の追放のことを 言っているのか、若しくは『新約聖書』にあるような、〈信仰によってのみ人は正しい者とされる〉〈 人は皆、足を踏み外している〉といった教えのことを言っているのだと思う。しかしどちらにせよ 良心の呼び声にしても、帰来し将来する歴史性によるので、そういう意味では〈万人の命題〉には ならない。宗教の場合には、万人に共通する命題を布教し、信仰しなくてはならない。ハイデガーの場合、 良心の呼び声は〈最も固有な自己をその存在しうることへ呼び開く〉訳だから、永遠でもなく万人 共通でもない。その意味で先のような宗教的ではない。もしもハイデガーの思索を名付けるなら、 「歴史的実存の思想」(歴史性を根底にした実存思想)とでも呼ぶのが妥当と考える。
しかもハイデガーの単独性とは没交渉的で、しかも柄谷行人がかつて著したような、〈そ うでなかった可能性〉(可能世界論)とかを引き摺らない有限的な可能性として考えら れている。柄谷の場合、そこで上手い具合に現存在の歴史性は顧みられない。かつ命題の 束としては言い表せない。そこで歴史性が顧みられないことが、柄谷の単独性が〈偶々そ うだった現実性〉しか持たず、よって絶えず〈もうひとつの可能性〉を可能にする根拠とな る。ハイデガーでは単独性はより根底的で、〈可能性の有限〉が単独性の内実として包括さ れていく。そこが柄谷とかに比べ、同じように単独性を論じながら徹底的なものを感じさ せる。
…などと意味不明な供述をしており
スレ立てた人がニーチェ・スレで宣伝してたから来てみたが、初心者には敷居が高いとこですね。 解説本の『言葉の二十世紀』くらいしか読んでない俺は目が眩む。
ああ…848はもしや?ニーチェ・スレで興味深い書き込みしてるあの人かな?だとしたら、十分に 『哲学への寄与』の世界は理解してることになると思います。ニーチェ・スレでの展開は面白いし 期待しています。また立ち寄って下さい。
田辺 元は、ハイデガーと交流のあった日本の哲学者として有名ですが、 ハイデガーの哲学の理解は、どの程度のものだったのでしょうか? 当時お互い、帝国主義的な思想に傾いていたと言うことはありますが。。。
田辺元、最近岩波文庫で数冊出ましたよね。ただよくは知らないんだなあ‥。戦前の日本人哲学者 で九鬼周造だったか、もドイツ留学時代にハイデガーの講義に出てたらしいね。トートナウベルク の有名な山荘は当時の日本人留学生から贈られた感謝の礼金で立てられた、と聞いています。ただ 、読んでないんだなあ‥。 ところで先日の龍谷大学のハイデガーフォーラムに行かれた人は居ますか?どんな感じだったか 書いていただけると有難いんですが。
田辺のハイデガー理解は古いよ。 田辺哲学に当たるなら、読むこともあるかもしれないが、ハイデガー関連ならなしだな。
ハイデガーの講義って 想像したらちょっと笑っちゃった。
854 :
考える名無しさん :2011/09/22(木) 23:56:22.84 0
ハイデガーは教授時代、信奉者を作るような磁力を持ち、口真似する学生がよく見かけられた 、とガダマーが語ってるね。日本人でやはり講義を受けたにも影響は与えて、だから自分の視点で ハイデガー哲学というのをまとめてみる気になるんじゃないかな。全集の構成みても、生前発行 した著作より講義記録や覚書の方が遥かに多い、というのも、この人とフッサールくらいだろう。 講義で自分の本にある理論を更に展開させたりする、本にまだ書いてないことを発表する、とい うのも、日本人の大学教授ではあまりいないのではないか。本にした方が印税は入るだろうし、本 になるわけでもない講義で出すのはもったいないという事情か。フーコーもそういうところはハ イデガーに似てるみたいだね。フーコーの講義集成も著作の焼直しとは違うわけでしょう。
>>854 その一生懸命さから学ぶべきところは多いよね。
今考えてることを今授業で話してそのうちそれが纏められて本に発展するのは普通じゃないのか?
>>856 そうだね
極めて普通
今でもフランスなんかだとそういう人が多いけど
授業用に原稿を大量に書くから
それを元に本を作る事がしやすい、というだけの話
日本も昔は原稿に書く人も多かったんだけど
>>854 その、口真似する学生を、他の教授はガチョウの鳴き声になぞらえて、
「ハイデガーガー」と呼んでいた、とガダマーが笑いながらテレビで話していたなー。
フーコーが最後に近いインタビューで、ハイデガーに甚大な影響を受けてきたことを語 って、しかもハイデガーについて纏まっては書かなかったのも〈フーコー=ハイデガー〉と いう横断線が死の間際に初めて本人によって語られたということで、未だに問題点とし て残っている。二人とも巨匠で、一時代を象徴した、しかも死後も影響力を放射している ような人だから。フーコーが生前纏まってはハイデガーについて書かなかったのは、実は その背景には、影響力はずっと続いて、あの研究自体、ハイデガー思想のあるべき展開と 見なしていた可能性も感じる。ハイデガー思想というのは〈生‐歴史〉を確立することだっ たわけだけど、ハイデガーが掘削した〈生‐歴史〉がいかに忘却されていったか、その〈忘却 ‐史〉なようにも見える。そうだとすれば二つの思想は補足し合う関係にあったとも言える 。一般にはデリダがハイデガーに影響されたと言われるが、仕事そのものには手をつけず 、しかも〈存在‐忘却‐史〉を書いたとすれば、最も並べられるべきなのはフーコーなような 気がする。
ハイデガーとは生涯戦ってきたが、本当に自分が影響を受けているというのはニーチェの方だ と言ってるのを無視して自分に良いように引き寄せる、いつもの手口w
「言葉と物」の第9章「経験的なものと先験的なもの」の節ははハイデガーの注釈と言うか、 ハイデガーが言ってたことの繰り返しであることはあまりにも有名ではないのか? フーコーへのハイデガーの影響は本人の言を待つまでもなく余りにも明らかだ。
862 :
考える名無しさん :2011/09/23(金) 19:13:15.09 0
ハイデガー「存在と時間」入門 渡邊二郎:著・編/ 岡本宏正:著/ 寺邑昭信:著/ 三冨明:著/ 細川亮一:著 未定 11/10 学術文庫
863 :
考える名無しさん :2011/09/23(金) 19:28:54.94 0
859は「ハイデガーガー」ってコテハンにしてよ
『言葉と物』でいうと、〈人間〉という人文科学の主体=客体がある時歴史に上った、という問題点 の指摘はやはりハイデガー的だと思う。あの問題設定それ自体がそう言える。あの辺はハイデガー の問題設定を継承してる感じが強い。
ハイデガー信者ならフーコーの作る歴史区分にいちゃもんをつけるイメージしかない 世界像の時代がどうのとかいって フーコーはそれがウザイから一定以上近づかない
>「言葉と物」の第9章「経験的なものと先験的なもの」の節ははハイデガーの注釈と言うか、 ハイ デガーが言ってたことの繰り返しであることはあまりにも有名ではないのか? その章に〈経験的=先験的二重性〉としてこう書いてある。 《ひとつは、肉体の空間に宿り、知覚や感覚器官のメカニズムや運動神経の図式や物と有機体に 共通する分節などの研究をつうじて、いわば先験的美学とでもいえるようなものとして機能して きた諸分析だ。そこで発見されたものは、認識は、解剖学的=生理学的諸条件をそなえ、肉体の脈網 のうちでしだいに形成され、おそらくはそこに特権的拠点を維持し、ともかく認識の諸形式が 肉体の働きの独異性から分離されえないこと、》 《もうひとつは、おおかれすくなかれ古く、おおかれすくなかれ克服しがたい、人類の諸幻想の研究 をつうじて、いわば先験的弁証論とでもいえるようなものとして機能してきた諸分析である。した がって、そこで示されるのは、認識は歴史的、社会的、もしくは経済的諸条件をもち、人間相互の あいだに織り成される諸関係の内部で形成され、人間がそこここでとりうる個々の形象から独立 してはいない、すなわち一言でいえば、経験的知にあたえられると同時にその諸形式を規制するこ とのできる、人間認識の〈歴史〉があるということだ。》(いずれも『言葉と物』339頁〉 ここを辿ると、前者は身体という先験的領域を指しているわけで、メルローポンテイ的、といえる。 と思われる。後者は認識における歴史的、社会的、経済的諸条件、そこで人間認識の《歴史》を問うわけだから マルクス的と思える。ハイデガーが端的に喩えられているわけではない。これが「ハイデガー の注釈」で「あまりにも有名」というのは、首をかしげる話である。
だからなんだよ、イて。 ィの打ち方くらい知っとけよ。
お前何怒ってる(笑)ハイデガーでもフーコーでも読んでも分からなかった、とか、元々興味もな いのに知ったかぶりして書いていく学生が居るみたいだが、呆れるね。せめて読んで理解するく らいの下準備してくりゃあいいものを。発想が自己顕示欲しかなく中学生並みの低さだな(笑)ア ホらしい。
厳密なハイデガー信者ならフーコーの本は全部糞だろ しかし狂人や監獄・同性愛に対する偏見はハイデガー哲学の範囲ではどうにもならなかった
一マスアケラーみたいなタイプは、大抵自己言及する文章をつぶやきながら切れるw
871 :
考える名無しさん :2011/09/25(日) 16:27:36.40 0
自己顕示欲しかないのは《ハイデガーガー》のオマエだろうw
警備員を刺し殺した男、支離滅裂な言動を 1 :名無しさん@涙目です。(秋田県):2011/09/25(日) 18:21:11.67 ID:73Ikn6hD0 ?PLT(12217) ポイント特典 25日午前11時35分ごろ、東京都八王子市大横町のスーパー「エコス」で、「人が刺されている」と店員から110番があった。 警視庁八王子署員が駆け付けたところ、60代の男性警備員が胸などから血を流して倒れており、病院に運ばれたが間もなく死亡した。 同署は、約200メートル離れた駐車場で包丁を持っていた住所不定、無職の男(55)を殺人未遂容疑で現行犯逮捕。 「俺の話が分かるだろ」などと支離滅裂な供述をしているといい、同署は刑事責任能力を調べる。(2011/09/25-18:02) ハイデガーの存在とは自己‐領域でありながら同時に他者であっ て、自己責任主体の〈外〉と捉えるべきものである。 この警備員は有の呼び声に応じたのではないか。ハイデガーフォー ラムに集うような研究者のごときには窺い知れないこの深遠に こそハイデガーの「今のもの」である問いが潜んでいるのだ
迷える子羊が集うスレか。w
874 :
考える名無しさん :2011/09/28(水) 16:42:00.69 0
http://zaitsu.blog137.fc2.com/blog-entry-63.html ラカンSLV翻訳と注釈9:ハイデガーのes、再開
『存在と時間』のいくつもの邦訳はそれぞれ長所をもっているが、特に称える
べきは戦前に出された本邦初訳である寺島實仁訳と戦後に出た松尾啓吉訳であ
ると私は考えている。この難解な原書を最初に訳した寺島の苦労はいかばかり
であっただろうか。初めての翻訳でここまで仕上げることができたのは、たと
えそこに瑕疵(かし)があったとしても、称えられるべきである。実際、その
後に『存在と時間』を訳した者たちは寺島訳を常に参照して作業を進めたはず
である。
松尾訳は、すさまじい執念を感じさせる業績である。専門家以外には近づきが
たい翻訳ではあるが、日本のハイデガー研究者たちは、今後も松雄訳のとりわ
け「事項索引兼訳語対照表」の恩恵をこうむるはずである。「市井の一無名詩
人」松尾は、アカデミズムに納得のいかないものを感じているだろうが、すで
に報われていると言ってよい。私もハイデガーを論じるときは常に松尾訳を手
許に置いている。
875 :
考える名無しさん :2011/09/28(水) 16:49:16.47 O
ラカンなんて電波以外のナニモノでもない。 自分でも、自分の言ってることが意味不明と言ってるわけで。 裸であることを自覚している裸の王様。
876 :
考える名無しさん :2011/09/29(木) 21:43:28.77 0
「被告は前日の夜、てんかんの薬を服用しなかったのに、発作が起こることはないと軽く考えていた」(検察側) 冒頭陳述でこう述べた検察側は、柴田被告がこれまでにてんかんの発作などで、12件の交通事故を起こしていたことを指摘しました。 これに対し弁護側は、「てんかん患者に対する社会の無理解への不安があるなか、被告は人並みの生活をしたかった」などと情状面を訴えました。 その後、遺族の「未来を絶たれた子どもの無念さを思うと悔しくてたまらない」といった供述調書が読まれると、 被害者参加制度を利用して出廷していた遺族たちは涙を流しながら聞き入りました。 てんかん患者の運転免許の取得や更新手続きのあり方に影響を与えた今回の事故。 裁判は年内に判決が言い渡される見通しです。(28日16:47) ハイデガーの存在とは自己‐領域でありながら同時に他者であっ て、自己責任主体の〈外〉と捉えるべきものである。 このてんかん運転手は有の呼び声に応じたのではないか。ハイデガーフォー ラムに集うような研究者のごときには窺い知れないこの深遠に こそハイデガーの「今のもの」である問いが潜んでいるのだ
877 :
考える名無しさん :2011/10/03(月) 15:46:16.07 0
てんかんはてんかんだよ。 胃痛やら喘息と同じく身体の病気。存在だのなんだの関係ないわ。 身体を持つことそれ自体が存在の病だっていうならアリだけど。
意識になんらかの影響を与えるとか自己規定を破壊する侵入感があるなら存在の定義への疑問とつながるのでは
ハイデガーガさんが言っている事(念仏)は、何にでも適用出来るので、 しょせん何も云ってい無いに等しいって事でしょう 日本語で読んで妄想に浸るのは自由だけど、それは研究と関係の無い、 人生訓、青年の主張 ハイデガーを持ち出す必要は無いんじゃないの? じっさい、ガガはバタイユスレでも同じような事言ってる訳だし
>>876 親戚の同僚で、交通事故で二人も死なせてるのに懲役にならず普通に会社勤めしてる人がいます。
もちろん健常者のようですが、詳しい話を聞こうとすると嫌な顔をされるのでよくは知りません。
872,876の人が私の理論を適用してくれているみたいだけど、ハイデガー的な性‐起だと、拒絶 が開ける際に、有の窮迫があって、すなわち主体化と、そこから有に棄却されていることがあって 、そこから為される正当防衛として、神的な有の理解が到来する、ということになる。そこが先の レスの方は私の理論と違う。 たしか明治や大正の凶悪事件の記録を発掘して、「社会は何も変わっていない」と主張する学者 がいるはずで。確かに凶悪事件は明治、大正からあるんだけど、私が言ってるような意味合いで起 こってくるのはやはり最近なんだ。そこでその学者さんの理論は通用しないと思う。凶悪事件な らば確かに昔から起こっている。しかしハイデガー的な有の問題が背景に見い出せるのは1980年 代以降くらいなので。そこを見なきゃいけない。でなければその学者の言うように、「凶悪事件は 100年前から日本社会で起きている。そこで最近の日本社会を特殊化などできない」となる。そこ で犯罪の深層に何があるのかが問題になる。
>>881 なんか論理の空転だよ。
時代社会によって価値観も状況も違うから同一空間論として語れないということでしょつまりは。
確かに価値(ここでは犯罪の重さ異常さ)というのはそういうものだと思う。
ハイデガーが歴史性を終始重視してきたこともそういうことがあるからなのだろうがこうしたことにおいて
通時的・共時的の区別はともかく「言語を獲得した人間」という「線引き」で判断することの重要性の方が本質的かつ
根源的な考察にいたるものだと思う。
ハイデガーにはそういう意識は希薄というかほとんど無いからナチズムの問題についても当人はあっけらかんとしていたし
ヤスパースとの間でのズレを大きく感じる。
私からするとハイデガー哲学は根本的なことが欠けているということ。
それは「言語獲得」の問題だ。
(
>>882 の続き)
ハイデガーがヤスパースに「ナチ加担問題」を問い詰められて言った言葉は
「あの“当時”は仕方なかったんだ…」
この「あの当時…仕方なかった」という哲学者とは思えない反省なき弁はハイデガーの
大変都合のいい「歴史観」とそれによる「価値付け」の時間差性を伺わせる。
要するにハイデガーは確かに面白いが「大きな穴」がボコンと開いているということだ。
∧ ∧ ┌─────── ( ´ー`) < シラネーヨ \ < └───/|─── \.\______// \ / ∪∪ ̄∪∪
私が思うに、ハイデガー的な性‐起では、そこでの出来事は、神的な有の理解ということとも関連 するが、因果論を脱している、因果論で捉えられないことがある。それがいわゆる〈動機なき〉とも される理由になる。そこが現代的なわけで、それと、有の窮迫が関わってる、その辺だと思う。そう いう事例があるならまた書いて欲しいですね。病気というのは因果論になるわけで、そこが違う。
因果論や目的論に沿って解釈できない、ということがハイデガー的な性‐起。例えば恨み、嫉妬、 金銭、腹いせ、それと病気も行為の因果論をつくるでしょう。それらに沿って解釈できないものが あるのか否か、というのがハイデガー的な有・Seyn になる…。それが私が気になっているところ なわけで。で、私が知り得た範囲内でいえば、酒鬼薔薇聖斗と麻原彰晃が起こした犯罪の中にそれ があるんじゃないか、ということなんだ。それであの二つを例証としてあげている。
>>885-886 それらは(酒鬼薔薇など)「社会の中の人間」と「個体としての人間」から考えられるわけで
人事つまり他人ごとなどではなくて誰もが彼らになり得る可能性を持っているのが人間というものなのだと思います。
人間はもともと「幻想を生きている」のであって他の生物たちとは違う。
だから大脳や脳内物質の話までいかざるをえないわけで。
麻原にハイデガーの差し入れでもしたら?
前にも一度紹介しましたが、再度ご紹介します。若いキリスト教信者の方で、現代思想にも通暁
しているようです。以下のサイトで『哲学への寄与論稿』についてspiritualismからみた考察を
展開しています。若い世代からの『哲学への寄与論稿』読解として、興味深いものがあります。私も
読ませて戴いて、有・Seyn の動態として〈語り拒み‐語り与え〉の動き、また〈覆蔵‐開け〉のとこ
ろで、〈有・の覆蔵するための空け透き〉という言い方は頻出する言い方だけども、その場合、それ
は文字通り〈開ける〉ので、何処までも有・は覆蔵に留まる、決して現前しない、という論理とは違
う、とそこは読まなければならない。〈拒絶〉にしても、〈脱去‐到来〉の両方で捉えなくては読めない
。そこがsuzumura氏はデリダ的な神秘化に引き付けているため、読み取れていかない。そこが違
うのではないか、と思えます。
そういう私との違いはあるものの、若い才能のある読み手による『哲学への寄与論稿』読解として
、一読の価値はあるものと考えます。宜しければ以下のサイトにどうぞ。
タイトル:『martin heidegger archives5』tomoichiro suzumura作ー星空文庫
URL:
http://slib.net/1565
例えば三島由紀夫の死でも、憲法改正のためのクーデターを呼び掛け、失敗して自決、とされる わけだけども、それにしては杜撰な計画で、拡声器もなくバルコニーから叫んでいたため、何を叫 んでいるのか分からなかったという後日談があったり、いかにも突発的な行動で、あれでは賛同 者が居るのか居ないのか、あの場面では判断できないんじゃないか、とか、色んな大きな疑問があ る。つまり、論理の糸が途中でどうしても断たれてしまうんじゃないか。それは覆えない感覚では ないかと思われる。そこに至る論理が断たれてしまう死のように思えるわけです。そういうとこ ろが、あの死は既にあの時点での性‐起だったのではないかとも思えるんですね。
言い換えれば、三島の死も、有の窮迫への正当防衛ではないか。そこがあの死にあったと言える んじゃないか。そう考えると見えてくることあるように思える。
三島由紀夫といえば、彼の『絹と明察』(1964)に出て来るハイデガーと 日本の古典を重ねて論じた研究書にはモデルはあるのでしょうか?
『絹と明察』はよく知らないのですが、死の前に三好行雄とやった対談では三島はハイデガーの理 論をとてもよく消化してることを匂わせています。やはり理解力は並みではないですね。
>>890 > いかにも突発的な行動
100%計画的な行動だよ。いくら三島由紀夫が著名人だからって、
一般人がいきなりポン刀ぶらさげて自衛隊の総監室に入って行けると思う?
「所蔵の名刀をご覧に入れる」っていう名目でアポを取ってあったんだよ。
最後の小説『天人五衰』の自筆原稿の最後のページには
昭和45年11月25日と擱筆の日付が書いてあって、これが自決した日。
小説ってのは一度書き上げてから推敲を重ねるものだから
実際には自決する日の朝に書き上げたわけじゃなく、ずっと前にできていた。
(同年の夏ごろには形になっていたという澁澤龍彦の証言あり)
じゃあなぜその日付を前もって選んで書き入れたのかといえば、
その日自分が死ぬことを知っていたから。
「三島由紀夫」という作品の結末にはそれしかないという脚本ができていたから。
つまり、なぜ切腹したかというと、ただ純粋に「切腹したかったから」。
そういう美学(と本人が思っていたもの)だったから。
性‐起とか有の窮迫への正当防衛とかはたぶん関係ない。
成る程。そう考えると突発的とは言えない。徹頭徹尾計画的に為されたのだから。徹頭徹尾計画 的に為された割腹。理由は、自分の死は割腹しかないと決めていた。そうしたかったのだ。でも、そ れだと時代性は一切関係ないことになる。彼が発した批判も一切関係ない…。そうとは思えない。 そこに自己性の深淵をさらけ出すことによる批判の完成が為された、そう考えるべきだろう。だか らそこで割腹に意味付けが為された。やはり社会性からの逸脱。逸脱というところで供儀の実行、 神的な有の理解というのが為されている。そこが批判の完成ー逸脱ーなわけだよ。三島由紀夫ク ラスだと色んな解釈が為されており、それらを当て嵌めることが常態化している。しかし、そこに 敢えて止まるべきじゃない。『絹と明察』でもハイデガー解釈としてイクスターズ 恍惚 というこ とに脱‐自の重心を置いている。あれは当時としては傑出した解釈だと思う。そこにバタイユの思 想とも重なるのが解る。
>>896 「ハイデガーで読む三島由紀夫」としては、それはそれで面白いとは思う。
しかし、三島の自害に至る過程はそういうことが中心問題ではないだろう。
三島は幼少時から病床で寝たきりの祖母のもとで育てられた。
それは三島にとっての生育に多大な影響を与えた。
もうすぐ亡くなるような人のそばにいつもいなければならなかったのだから。
結果として、成長した三島は「老醜」ということに非常な嫌悪を抱き、愛するべき存在である
病床の祖母を実際には拒絶する心境になり、独特の生死観を持つようになった。
三島の中にあったのは常に「逸脱」であり、「逸脱」することでしか自分の存在を、人生を感じることができなかった。
ボディービルディングもそうした空虚な肉体に実在感を得ようとする行為であったとも考えられる。
ホモ・セクシャルも「逸脱した性」で現実感を得ようとしていたのだろう。
「豊饒の海」では老醜漂う妖婆の描写が一変して生きること、生きたことの結果としての肉体の老化として三島には受け入れられている。
たぶん、それまでずっと闘ってきた「祖母」との葛藤を三島は素直に受け入れた瞬間だったののかもしれない。
そして三島は最後の大逸脱行為を行う、そう自衛隊での自決だ。
三島の心は引き裂かれていたのだろう、かろうじて生き、かろうじて書いてはいたが、心の虚しさは消えなかった。
そして自らの命を大仰に絶つことによって、祖母との一体を為す最後の行為を完遂した。
可哀想な人であったと思うよ。
なるほど。897のように読めるのも確かだよね。そこは意味合いは複合してる、その複合が、なお のこと論議を呼び、解釈を呼んだ、とも言えるでしょうね。つまり、内的でもあり、思想的でもあり 、批判的でもあり…それらがあの死に向けて、一点に導いていった…そう取れる。死に近いころ、対 談があり、「破裂のために集中する」というタイトルだった。それも象徴的だね。
>>898 だから、内的要因つまり生育時に形成された特殊な人格は非常に不安定で、三島は常にその拠り所のない現実感に悩まされていた。
そういう人は強靭な知力と行動力がなければ精神病になってしまう。
三島にはその強靭な知力と行動力が備わっていたから、様々なことをしていたし、勉強もしていた。
その中にハイデガーもあって、彼の危うい人格を理屈づけて補強するパーツの一つにはなっていたんだろう。
三島は決して演劇的に自決したわけではないと思う。
やることはやり尽くして、もう彼自身を「生」へと向かわせるエネルギーが枯渇しそうになっていたんだと思う。
そしてその過程で、とってつけたような大義名分の事件をおこして、自決いや自殺した。
精神的にはもう自殺するしかなかったほどに、生きる意欲も目標も楽しみも内面には存在してはいなかったんだ。
そこは彼のパフォーマティヴな面にばかり注目してしまうと、三島の苦悩の本質が見えなくなってしまう。
豊饒の海がしょぼいから深読みされるんだよな
1970年の時点でクーデターが可能だと思うほど三島は馬鹿じゃなかったと思うよ。 三島の「知性」を最大限に尊重するとあれはただの美学的パフォーマンスだったという結論しか出てこない。
三島は「革命哲学としての陽明学」でも陽明学のデモーニッシュな面をハイデガー的脱自に結びつけてたな。 神人への進化を説いていた北一輝の超人思想めいたものとはかなり印象が違う。三島は北を評価してはいたけど。 「肉体の外へは一ミリも出ることができない」って意識と自分の保守思想の関連性を言っていた三島は(『美と共同体と東大闘争』)、 その鍛えあげた肉体を自ら切り裂く事で、「時間」に抗して「死」という輪郭を与えたかったんじゃないのかね。
2000年に出た本で、『三島由紀夫vs東大全共闘1969-2000』(藤原書店)というのがあり、そこ でかつて1969年の討論で三島と対峙した芥正彦が三島の死を要約しているところがある。 《三島さん、我が友ヒットラーって言ってたけど、やってたことは本当はハイデガー的な問題で、 念頭に芸術作品があって、それはポリスの喪失っていうことは彼なりに考えていて、それに対して の真意もある程度あり、脱我の裡に存在の呼び声を聞く、至高者との一致点への自己実現、これが 天皇で、皇室じゃないよ。マッカーサー支配下に入った天皇ではなく、マッカーサーを超えるもの、 真意の供犠、その自己犠牲としての自己実現。(中略)彼は反革命の前衛として、逆照射すべき記憶 の再生装置を欲動化する役割をしたんです。》(同書131頁) ここではこのように《脱我のうちに存在の呼び声を聞く》という〈ereignis 呼び求める促し(= 渡辺二郎訳〉が前面に出されている。で、その場合、存在というのも、己の深部からの呼び求め、と いうことになり、そこで内面性と存在の分裂はクリアされていく。何故なら己の深淵なのだから。 つまり有・Seyn もまた自性‐領であるから。そう言えるんじゃないかな。
>>903 それは表層的な解釈だと思えるけれどね。
自死というものはそういう理屈からひねり出してきて結論が出るものではないよ。
極めて単純にいえば「情動」によって引き起こされるもの。
理屈など後付のものに過ぎない。
単純な情動で解釈しきれない「計画的」なものを否定できないから、死んで何十年も経つのにその真意が議論になりうるんだろう。 そうじゃなければ単なる「狂人」として忘れ去られてる。
>>905 「死に至る病とは絶望のことである」セーレン・キェルケゴール
突き詰めていけばそういうことになるから情動がベースなんだよ。
死に至る病とは絶望のことである すなわち、絶望によって人が死に至るとこはない。
>>906 確かに絶望は自殺動機で一番多い理由だからな
武士道がどうの言ってたんだから、絶望からではない死がありうることは当然じゃないのか?
てか 絶望で死ぬとか言ってるやつ せめて キルケゴールくらい読もうか
>>908 将来を悲観したり、著しく落ち込んだり、
絶望は総てを持って行ってしまうよね。
全てを持っていって欲しいときがあるんだよ 絶望でも希望でも死でも何でもいい
>>911 だから三島由紀夫はハイデガーに興味を持っていたんだろ
そのハイデガーはキルケゴールとニーチェの影響が大きいしさ
この綺麗な並びはある意味つながるべくしてつながっているんだろう
>>911 絶望すると免疫力が著しく落ちて癌とかになる確率が高くなるらしいよ
キルケゴールの言った絶望って 将来への悲観とか そういう意味じゃないだろ
917 :
考える名無しさん :2011/10/29(土) 06:58:34.97 0
先日クロスターマン社のハイデガー全集第2巻『Sein und Zeit』をさる大型書店で注文した ところ、「ご注文できません」との返答。不審に思い、ドイツ輸入本取次店に電話したところ、「クロ スターマン社のハイデガー全集の場合、第1部門の既刊著作は、バラ売りはしてないようです。 将来的に、全巻揃ったときはまた変わるかもしれません。今のところ、既刊著作部門のバラ売りは してないので、2巻『有と時』もバラ売りしてないということです。」という返答だった。これには 驚いた。大学研究者などはどうしているのだろう。これは普通なんですかね。また、こういう場合 、どうしようもないのかな。ご存知の方居ませんか?
Niemeyer版ではなく悪評高い全集版を買おうというのはマゾなんですか? それとも、どうせドイツ語読めなくて記念に買うだけだから全集版がいいんですか?
919 :
考える名無しさん :2011/10/29(土) 11:38:18.54 0
結局ハイデガーが道元に影響を受けたってのは本当なのか? なんかネトウヨのデマっぽいんだけどw
全巻版にはハイデガー自身による書き込みが収録されています。そこが原語で読みたい わけですが。どうも名案はなさそうですね。
つか「有と時」とか書いてる時点でアレ
>>920 それなら図書館に行けばいいだけのはなし
コピー取ってくれば?
図書館で読むという発想がない点でどういうレベルの人間か分かるでしょ
そうか(笑)だけどドイツ語版ハイデガー全集が、○○市立図書館とか○○県立図書館にありますか ?その辺はどうなんでしょう。図書館でも例えば足立区立図書館にあるとは思えないし国会図書 館とか?もう少し教えてください。
このスレに書き込んでるのに、近くの図書館のDBで検索かけないとか そもそもVittorio Klostermannの全集ページ見れば注文の条件なんて全部書いてあるのに それも読まないとか、バカなの?
国士舘大学図書館にだってあるというのに…。
929 :
考える名無しさん :2011/10/30(日) 02:05:43.20 0
研究者でも存在と時間だけは仕方なくニーマイヤーをつかう。 欄外書き込みなんてたいしたものでないよ。 落書きみたいなものだ。
いや、渡辺二郎が生前書いたものの中で、これからの『存在と時間』研究は欄外書き込み の参照は必至としてるけども?例えばこうある。 《最初に言っておきたいのだが、今日、「存在と時間」を研究しようと志すものは、ハイデッ ガー自身によって付け加えられた種々の欄外注記、ならびにハイデッガー自身によって 施された本文の微妙な修正を絶対に考慮に入れなければならない。このことを怠るなら ば、ハイデッガーの最終的な思想の歩みを真に理解することは、まったくおぼつかないで あろう。》《ハイデッガー自身によって書き入れられた欄外注記のほとんどは、主として、 基礎的存在論としての現存在のもともとの実存論的分析論が、いかにして、さらにいっそ う存在の真理の開明へと向けて施策され、また展開されなければならなかったかという こと、こうしたことをまさに示すためであったように思われる。それらの欄外注記がおお よそのところ暗示しているのは、存在の問いが、いかにしてさらにいっそう先へと進めら れねばならなかあったか、である。こうした意味で、『存在と時間』という著作については 、今日、これらの欄外注記を共にあわせて研究することは避けられないのであり、またこ の著作が目指していた究極の狙いを誤解してはならないのである。》(『渡邉二郎著作集第 3巻 ハイデッガーV』 404-405頁 筑摩書房)
他人の意見は全く耳に入らないのに、実用的な情報だけクレクレするかまってちゃん
932 :
考える名無しさん :2011/10/30(日) 04:37:35.01 0
>>930 要するにこれがいいたいことは、
ハイデガーのその後の思想展開を展望したかたちで存在と時間を読みなおせってこと。
断片的な欄外注記なんか頼らなくても、
膨大な講義録やら「寄与」があるわけだしね。
この論文の中で渡邉が延々と強調しているのは、『存在と時間』の中での存在は、欄外注記 の中で「奥深い存在 Seyn」に改められ、論じ直されていく、ということである。例えば渡邉 はこう書いている。 《以上のことに応じて、現存在は、さまざまに欄外注記において、いまやはっきりと「奥深い 存在(Seyn)を宿した無のなかへと差しかけられているというありさま、つまりは、そう したかかわり合いのありさま」(GA2.10 Randbemerkung)として、また「そのうちで こそ、人間が生き生きとあり続けるところの現‐存在という存在の開けた場所であること 」(GA2.117 Randbemerkung)として規定されるのである。》 渡邉によれば、そこで『存在と時間』は新たに「奥深い存在 Seyn」との関わりで論じ直さ れていく。そこで欄外注記との照合は必至であるとしている。この論文「『存在と時間』を 訳した私の経験から」で渡邉はそのことを延々と論じている。よって渡邉二郎によれば 『存在と時間』研究には欄外注記の参照は必至である。しかも、どうも創文社版ハイデッガ ー全集第2巻『有と時』における辻村公一の欄外注記と、中央公論社から渡邉が新しく翻 訳して付けた欄外注記とで、訳文がかなり異なる箇所があることがわかった。なのでそこ は原著にあたるしかない。
まあ、ハイデッガーを殊更に研究する価値も見い出せない、苦労して読む理解する気もない人た ちに何言っても何とかに真珠なので(笑)意味ないんだけどね。存在とかいってもどうでもよさそ うだし(笑)わざわざ苦労して理解する価値も見い出せないのだろうしね。
「僕に文句を言うやつは全員バカなんだー」という人に研究は向かない
936 :
考える名無しさん :2011/10/30(日) 05:38:39.25 0
存在と時間を研究註釈したいのか、 それともハイデガー思想を理解したいのかで、スタンスはちがうだろうけど。
ハイデガーで等質から救われた過去があるんだってさ しかしそんなに病的にこだわるなら独語の勉強した方がいいかもな
938 :
考える名無しさん :2011/10/30(日) 19:56:43.63 0
>>934 まずはゲーテに通って美人でも見つけて
惨めな自分を磨いたらどうですか?
躁鬱の躁のときに書き込まれているようですが
下らないなあ(笑)結局からかいと中傷止まりと(笑)どうもまともに相手にするべき程度には なさそうなんで無視しよう。ハイデガーに興味もなさそうだし理解もしてなさそうだし、何しに きてるか不明なようだし。中身が中学生程度のが多そうだ(笑) 渡邉二郎の著作集を読んでみたが、大分この人も創文社版全集の翻訳には不満そうで、あちこち に良くない翻訳として「仏教を援用した翻訳」が挙げられている。それは言ってることは理解でき るが、とはいえ、全集の翻訳でハイデガーのものを読み進んだ人間も、相当いるだろうし、私にし てもそう。『有と時』が馴染んでいるし、ここで以前紹介した若いクリスチャンの方もそうのよう だ。元々ハイデガーのsein自体、「〜がある/〜である」の両方で使われるもので、英語でいえば be動詞に妥当するものだと思われる。「there is 名詞」と「it is 形容詞」の両方で使われる 、その場合のisがそうである。そのisを成立させる地平としてハイデガーのseinは考えられて いる。「存在する」といった自動詞的にのみ使われるわけではない。非人称の状態にも使われる。 それが「である」といういわゆる繋辞ー主語と述語を連結する語ーということである。ハイデガー のいうseinにはその繋辞 copula の意味がありそれは「存在する」という自動詞には変換され ない。自動詞と繋辞という二つの用法がseinに含まれている。それを成立させる地平がseinな わけで、日本語にする場合、仮に「存在」としても、そこに込められた意味ー超越論的地平ーを考慮 せずに理解できるものではない。それなら最初から哲学用語とすぐ分かる「有」の方が、特殊な用 語だと即座に分かる分、意図が汲み取り易いだろう。結局日本人が『Sein und Zeit』を読む場 合、日本語に翻訳しにくいことを念頭にして読んでいくしかない。そこが重要なので、『有と時』を 目の敵にしても、結局下らぬ学閥争いを拡げるのに与するだけだろう。
いいかげんブログでやるかコテつければいいのに NGにいれて、今後一切コメントしないで上げるから
941 :
考える名無しさん :2011/10/30(日) 23:50:36.05 0
ちなみに創文社の翻訳では、 「存在論的差異」とか「存在と存在者の区別」とか「存在論的」とか「存在者的」ってどう訳しているんだろ?
Ontologie 有論 Seiende 有るもの のようだ
うろんなりろん
ハイデガーは誤解されているよね 基本的には「人生論」を論じている人なのだが
945 :
考える名無しさん :2011/10/31(月) 01:47:51.62 0
だから939のような下らないのが引っかかるんだろうね 早くハイデッガーを社会とからめて論じてるとか言う自分の ホームページとやらを紹介しろよ(笑)
人生論の範疇での「存在」やら「時間」という付録なんだから そりゃヘルダーリンと合体したって不思議でも何でもない だって「人生論」だもの
>>946 人生論しか理解できないから人生論
にしかみえないだけだろ。『ヒューマニズム書館』
読めよ。人生論と言っている馬鹿どもを一掃してるから。
それにしたところでもとどのつまり「人生論」には変わりない そしてそれは「良い悪い」の問題でもない ただハイデガーの主題は「人生論」であるという事実を述べているだけさ 加藤諦三≒ハイデガー みたいなもんだよ
わかってねえなw 一掃することで人生論として完成したw 読者を罵倒するのも人生論の基本
だいたい「人生論」以外を主題として見出そうとすると ハイデガーの著作と講義はかなり無理がある 存在も時間も気遣いも出てくるがそれらは主題とは言い難い ハイデガーが「人生論」の学者でるあというのは俺だけが言っていることではない 専門家だってはっきりと言っていることだ 一部にはそうでなくひたすら「存在論」オンリーで押しまくっている学者もいるが 本当に「存在論」が主題ならばフッサールと決別はしていないはずだ 「現象学」は極めて科学的考察だがハイデガーは「詩的」であり「私的」な「人生論」だよ
つうかそれだと人生論の意味が広すぎるだろ。 文学とか芸術とか論じたらみんな人生論なのかよ。
ケーレのあとは人生論とは決別したのでは?決別とまで行かなくても歴史に企投することを断念するわけだから。 あとは待つだけだと。まあ、それも人生論といえば人生論かも。
953 :
考える名無しさん :2011/10/31(月) 18:02:02.99 0
>>950 のひとは、
科学と人生、客観的と主観的っていう、じつに素朴なロマン主義的対立図式を保持しているな。
現象学ってそういうのとっくに乗り越えていると思っていた。
>加藤諦三≒ハイデガー さすがにこれはないわ
>>加藤諦三≒ハイデガー >さすがにこれはないわ 齋藤孝≒ハイデガー むしろこっちだな
けっきょくハイデガー人生論の顛末は 自己の行いについては思考対象の外におくということなんだろうね ナチズムという最大の思考対象があったにもかかわらず ナチ党員であるという事実があったにもかかわらず それはスルー これじゃ人生論は語れない
957 :
考える名無しさん :2011/10/31(月) 23:37:11.08 0
理解できないんだったら無理にハイデガーなんか読まなきゃいい。
958 :
考える名無しさん :2011/10/31(月) 23:57:59.63 0
ハイデッガーは反面教師として、今でも有効だ!
あれだよ 今度はハイデガーを歴史の文脈の中で読むべきだろうな ナチズムの人生論として
960 :
考える名無しさん :2011/11/01(火) 00:45:39.55 0
だからなんだよ人生論ってw わかんなかったら無理すんなって。
人生論は人生論だろ どう生きればいいのか… ハイデッガーは考えた挙句にナチズムへ そして人生論の大家・ハイデッガーは『形而上学入門』において ナチズムを賛美するのであった ハイル ヒットラーとか何回も言ったんだろうな
全然読んでないなw 考えた挙句ナチズムっていうのは御幣がある。 元々の考えがナチズムと親和性があっただけで、いわゆるドイツの知的階級にあった比較的ありふれた政治的態度の一つ。
963 :
考える名無しさん :2011/11/01(火) 09:26:45.89 0
フライブルク大退官後もナチ党員のままだったし 人生問答家のくせに自分の人生をまったく総括できなかったのは痛過ぎるw 『哲学への寄与』か笑わせる 『失敗しない人生100問答』でも書けばよかったのに はやく『超訳・ハイデガー 逃げるが勝ちの人生論!』を早く出してくれないかな
965 :
考える名無しさん :2011/11/01(火) 13:34:54.89 0
妙にもったいぶった口ぶりを真似するだけの困った人達を今も排出しているのは ハイデガーの犯罪だな
超訳ニーチェのヒットは読んでないけど笑わせてくれたからな。 ニーチェなんてその辺のサラリーマン等が近づくようなシロモノじゃなくて、極めて危険な思想家なのにな。
967 :
考える名無しさん :2011/11/01(火) 15:44:14.19 0
哲学コンプって病むといたいね。 嫌なら近づかなきゃいいだけなのにw
哲学に興味があるけど理解できないでくすぶったままの人の溜まり場になってるよね、哲板ってw
〈人生〉というのはその字の通り〈人の生〉なわけだが。ところがハイデガー思想ではその〈人〉とい うのがどのような存在であるか、が問われていく。例えば人間というのが、理性的動物というとら えかたが一つあるわけだが、ハイデガー思想に於いては、理性的動物という規定では人間の尊厳 は掴まえ切れないとされる。むしろ人間の中には人間をして絶望させる、底無し性がある、しか しそのような人間性、知や理性の担い手である己を超えてしまうところに真の尊厳はある。そう いう考えがあるわけで。一般的に言われるところの〈人間〉は疑問符を附けられていく。人間それ 自体が問われていくわけだから、〈人生論〉の根底、〈人間とは何者か〉がむしろ問われていくのが ハイデガー思想というべきだろう。そこはニーチェとも問いを分かち持っているというべきだろ う。
もうひとつ附言すれば、人間をして己の姿に面し絶望させる、底無し性に対面させる、そのもの がいわゆるハイデガーの言うSeyn、有・とか奥深い存在とか訳されるものである。ハイデガーを 読むと必ず出てくるが、人間の役目はSeinの見守りだとされる。Seinの発現する場として、Sein に自由を許す、それが人間の役目とされる。人間が何者か、という問いはだからハイデガー思想 におけるSeinと結び付いている。ここまできて〈人生論〉という呼び名があまりに浅いこともまた 分かる。
人生論は来る 人生論は未来
人生論派も人生論じゃない派も 人生論の定義がいいかげんだから何の説得力もないな
人生論は日常語でもある まあその程度の意味だろ 大して難しい意味ではないよ
974 :
考える名無しさん :2011/11/01(火) 19:50:10.28 0
>>970 はやくハイデガーを論じてるとか言うアドレス教えろや
ネット番長殿
そもそも、古代ギリシアの昔から、自然論以外の哲学が人生論以上の何かだったのか ということから考えるべき
1889年9月 メスキルヒに生まれる。 1919年 フライブルク大学哲学第一研究室にてフッサールの助手となる。 1920年 フッサール61歳の祝賀会でヤスパースと出会い意気投合。哲学者として認め会う。二人 の書簡は『往復書簡』として遺される。ただ、ハイデガー思想がよく理解できなかったこともヤス パースの自伝に打ち明けられている。 1927年 『存在と時間(有と時)』刊行。ターム:Dasein 現存在、現有。 In-der-Weit-sein 世界内存在、世界の内に有ること。 Seinsverstandniss 存在了解、有の理解。 Verfallen 頽落。 1933年4月 周囲の推薦でフライブルク大学学長になる。同時にナチス党に入党。 1934年3月 総長を辞任。 1936-1938年 論稿『哲学への寄与』執筆。生前は刊行を禁ずる。ターム:Seyn 有・、奥深い存在。 Ereignis 性起、呼び求める促し。 Ab-grund 底無しの深淵。 1946年 『「ヒューマニズム」に関する書簡』執筆。サルトルの命題《実存は本質に先立つ》を形而上 学の命題と断ずる。《併し、ある一つの形而上学的命題を転倒しても、その転倒は依然としてある 一つの形而上学的命題に留まっている。》 1961年 『ニーチェ』全2巻を刊行。遺稿「力への意志」をニーチェの最終到達点とし、その意義と問 題をみる。 1962年 『技術と転回』刊行。世界をあまねく算定し、役立つよう立たせ、かつ自分をもそれを確保 するよう立たせる対象と化す人間。 1975年ハイデガー全集ドイツで刊行開始。 1976年5月 心臓麻痺で逝去。 影響は現代思想ではサルトル、デリダ、フーコー、現代日本では木田元、福田和也、が有名
茅野良男が1981年に刊行した絶版『ハイデガーにおける世界・時間・真理』(朝日出版社)を 古書店でgetした。定価\4500が古書店では\6300になっててたけえなあと思ったが、amazon でも同等で、イタミはまあまあ、ケースも破れず付いているというところで決めた。少しずつ 読んでいこうと思う。渡邉二郎といい茅野良男といい、60年代から活動していたハイデガー研究者 が亡くなって、ハイデガー研究も新世代に変わっていってる感じがする。今は渡邉二郎とかの ゼミナールで教えられていた人たちが中堅で本を出したり頑張っているようだ。
中島何某とかカント研究はいいけど 自分の本なんて人生哲学ばっかなのに 人生哲学ではないとか言うバカがいるから 哲学の真の意味を理解できないバカが増える
ハイデガーがずうっとやってることって人間主観中心主義批判であって 人生論批判じゃないのよね
いわゆる実存哲学が支配した時代の名残とはいえ そろそろ人生論≠哲学という近視眼的見方は辞めるべき時
訂正します。渡邉二郎は亡くなっているが茅野良男は高齢で本とかは出してないものの、まだ 存命であられるようだ。どうも調べずに思い込みで‘亡くなって’とか書いて失礼しました。茅野 氏と関係者にお詫び致します。
人生論は最も古い哲学の一つだから 人生論も哲学だよ 人生論が無くなることもないだろうし ハイデガーが人生論だからといって 別に何だというのだ ただハイデガーは人生論を思考していたというだけのこと
狂人が住み着いているなw
まあ、サルトルまで人生論ではあった。その元ネタのハイデガーも現存在など問うてる時点でね。 歴史に企投するのかしないのか、要するに生き方を問うようなものだったから、人生論ちゃ人生論。 構造主義になってから問われるべきは主体じゃなくて構造じゃね?みたいな、社会の構造を問う科学みたいになった。 ハイデガーの人間中心主義批判も後期に存在と時間の立場を放棄した後の話だからね。
ハイデガーが自分で「存在と時間」の失敗を認めたのがようやく晩年だから 人生論によけいなことをつけ過ぎたということだな キェルケゴールにニーチェ これらも人生論の大家だけれど 人生論をクソ難しくしているのが「キリスト教」でしょ けっきょくは「キリスト教」との相克なんだよ 日本には八百万の神がいるからそういう葛藤は無かった 「キリスト教」なんかろくなもんじゃないということだな
存在と時間の失敗を認めたのは書いた割とすぐ後だよ
正式に「存在と時間」という試み自体が失敗したと表明したのは もう後期になってからの話だよ それまでは版に手を加えよとしたり あれこれ試行錯誤し続けたけれどね
初期サルトル哲学というのはハイデガーの語彙世界内存在の「世界」を、存在者(有るもの)の全 体ととる誤りから生まれたもので、サルトルの有名なターム、アンガージュマンも、そこでサルト ルがハイデガーの世界内存在を読み違えたという点を顧慮すればその実体は掴める。そこを考慮 して読み直すとサルトル哲学の初期の問題点は容易く浮上する。また、そこでサルトルを判断し しても不十分だし、サルトルの本領はそこにはない。サルトルの作家論が優れているものであり、 おそらくサルトル以外の誰もあのレベルまでは書けないだろうことも明らかである。ただ、ハイ デガーは読めてなかった。それも確かなことだ。
「存在者の全体」というより、「存在者の集合」ととった、というべき。ハイデガーのいう「世界」は そういうものではない。ハイデガー的に言えば、〈世界〉は〈存在の開け〉と同義だとみていい。現 存在の自由が存在によって根底的に将来させられることをも意味し、そこにはサルトル哲学の 命題ー人間は全世界を選びとる、そのような自由として存在するーが意味するような責任観念は ない。そこがサルトルのハイデガー読解のもたらした、サルトルにおける自由の観念の背景であ る。
サルトルはトータルで見ると優れた作家だ 現にノーベル文学賞も貰っているし 作家業に哲学思考が収斂したという感じかな ハイデガーは特にフランス人はかなり読み違えているよね 「人生論」という中心思考があっての哲学だと気づけば 読み難いことは変わらなくともスジは見えてくる それを言ってしまうと現代日本のハイデガーの扱いはかなり問題があrんだけれども
フランス人が読んでるのはサルトルを除けば、 つまり構造主義者とかポスト構造主義者が読むのは後期のハイデガーだから、人生論には必ずしもならないよ。 存在と時間の場合は歴史に身を投じることを許容するから、むしろナチスそのものといってもいい。 戦後はそれを拒否するわけだから。あとは神のようなものを待つだけだ、と。
保田與重郎もそんな感じなの?
後期は確かにね フランスは構造主義が強すぎちゃってハイデガーといっても部分借用のような感じだし 記号学、精神分析、ベルクソンの三本柱が中心になった(ちょっと言い過ぎだけれども)
誰一人として真面目にハイデガーを読んでいないスレ
存在神学なんて最終的には人生論でしょ 主体的に行動しようが 存在と言う名の神に身をゆだねようが 人生論には変わりがない
転回以前と以降とか、そこらの入門書に書いてあるような理解ばかりだね。
例えば無差別殺人をやってたり、さしたる理由もないのに同級生の喉にカッターを入れて切り 裂いたり、或いは解離状態で動物を殺して神に捧げたり、よく解らない、一般的には〈狂ってる〉と か、文明開化してないとか、見なされる人たちがいるわけだけど、そういう人間にたいしてもその 生に価値などないとか決めず、照明を内部から当てられる。それが本当にいう人生論だ、というな らば、人生論という名前も間違いではないだろうね。そういう存在、いわゆる〈外部〉にたいし、閉 じることなく、開かれている、語る価値などない、とはせず、それもまた人間性だと包括的になり うるなら、人生論もありでしょう。でなくて、あれは人間じゃない、語る価値などない、となれば 、通俗的ヒューマニズムと同じ、市民社会に寄生する宗教や哲学と同じである。〈外部〉にたいし、 開かれているかがハイデガー的かの岐路になるでしょう。
とか言ってるひとが他人とコミュニケーションとれないんだから笑えるw
ハイデガーと言う名の宗教は
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