1 :
◆HxoO9sahuc :
物質を自由に構成して物体を数秒でコピーする機械があるとします。そのコピーは、形状的にも、組成的にも機能的にも、本物と区別できません。
人の肉体のかなりの部分は、細胞が自分自身のコピーを作ることで維持されています。つまり、コピーによって入れ替えられているわけです。
脳はそうでないかもしれませんが、脳細胞のネットワークを変えずに、細胞の一つずつを人為的にコピーと入れ替えていったとしても、
その前後で客観的な差がないなら、主観的にも何の変化もないだろうと思います。細胞一個が死んだときの変化のほうが主観的にもはるかに大きいでしょう。
やがて、脳の右半分が本物のままで、左半分がコピーによってできた脳になっても同じだろうと思います。
それは、始めから個体全体をコピーしてから、脳の半分を入れ替えたのと同じです。最後には、脳全体がコピーとなりますが、客観的にも主観的にも変化はありません。
したがって、始めから個体全体をコピーして、本物のほうを殺して始末しても、自己の主観的連続性に変わりはありません。
このコピー機を使い、行きたい場所にデータを送って自分のコピーを作り、本物の自分はこっそり殺して始末してしまえば、高速の移動装置にすることができます。
>>1 人間FAXですね?
着想は面白いですが、非常に猟奇的だと思います。
そこまでして人間を移動させる必要性はまだないと思います。
3 :
考える名無しさん:2011/01/08(土) 16:01:23 0
主観的連続性について説明してくれ。
主観ってなあに?
>>3 主観というのは、デカルトが懐疑の果てに気づいたようなことですね。
痛みを感じるとき、客観的には、脳の物質的な状態として説明できますが、それだけなら無です。
自分自身が痛みを感じているときのその事実、その存在は、自分自身にとっては証明不要な絶対的なものです。
たとえ私が幻覚を認識していても、何かを認識していること自体は、主観的な事実です。
さっきまでコピー機の本物が入るカプセルの中にいたのに、なぜかコピーが作られるカプセルの中に移動している自分に気づくというのは、主観的な連続性と言えると思います。
肉体を失っても、主観的に意識が続いているなら、連続していると言えます。
6 :
考える名無しさん:2011/01/08(土) 17:23:46 0
>デカルトが懐疑の果てに気づいたようなこと
・・・?
デカルトの本読んでる?
「我思う、故に我あり」はデカルトの出発点だったよね。
そこから果てしない懐疑が始まる。
8 :
ぴかぁ〜:2011/01/08(土) 17:34:34 0
デカルトは近代哲学の父と言われるが、それ以上に現代に続く、
人間像を作り出した者として、
ケトレー、コンドルセ、コント、ベンサムなどの統計的に
マクロな人間を作り出した人々がいる。
しかし彼らは、哲学者であり、前-社会学者であるが、
人間学からきれいに切り取られている。
彼らの書いた著書や解説本は皆無である。
彼らの示すマクロな人間像が多くにおくて、あまりにおぞましいからだ。
デカルトの心身二元論とすれば、彼らが目指したのは倫理的に許されない
統計的な機械人間だからだ。
しかし経済学はそこから生まれた人間を基本にして、(隠蔽して)成立している。
そして現代の市場経済が全面化した社会ではもっとも基本的な
人間像になっている。
デカルトは心身二元論によって、身体と理性(道徳)に
境界を儲けた。
これが現代のタブーの限界である。
哲学的ゾンビは、純粋な客体だと言えます。
認識が行われていても、機械的に記号を並べる仕組みがあるようなものです。
他者が哲学的ゾンビでないことを判定するのは難しそうです。
少なくとも私は、客体であると同時に主体です。
私は、私を他者と同様な認識装置を持つ者として対象化できます。
そうすると、純粋な主体というのも考えたくなります。
チャーマーズ派ですね。純粋な主体の定義をどうぞ。
「クオリア」という言葉には違和感があって、あまり使いたくないのですが、
>>1 で言っていることは、クオリアが、他の脳に乗り換えられるという思考実験です。
パラドックス的なものに気づいてもらえるでしょうか?
私が「水槽の脳」だとして、自分が経験している世界の矛盾に気づく可能性としては、
自分自身の脳への客観的作用と、主観とのずれを経験するということが考えられる。
仮想現実での他者の脳への作用と反応を参考にして、同じことが自分にも起き、それが主観的な経験とならなければおかしい。
仮想現実にある脳への作用を主観と一致させるには、現実の脳にも同じ作用をする必要がある。
病気になって気分が悪くなったり、酒に酔ったりするから、ある程度は対応しているだろうが、細かく対応させられなければ、主観とのずれが生じる。
他者は、仮想現実だけの哲学的ゾンビであってもおかしくないので、自分自身で実験しなければ意味がない。
実際にやろうとすると、邪魔が入ったり、事故が起きるとかの処理をされるのかもしれない。
死んでしまうだけなら、死後の世界に移されてしまうかもしれないし、単純に、本物の脳も死ぬという処理をされるのかもしれない。
13 :
1 ◆HxoO9sahuc :2011/01/11(火) 19:36:51 0
意識の機能的な意味を考えると、「モデル的な対象化」ではないかと思う。
すると、哲学的なゾンビであっても、機能的な意味の意識を持っていてもおかしくないだろう。
彼は、周囲や世界、他者、自己について、モデル的な世界像、時空間の中に存在している。
そのモデルは、外部との入出力で修整され、その中での行動は、現実の出力と連動している。
つまり、精神は、元々、脳内の仮想現実の中にあると言っていい。
人工知能も、機能的な意味の意識を持つことはできるだろう。
哲学板って「ぴかぁ」のキチガイスレばっかりだね
15 :
考える名無しさん:2011/01/14(金) 22:33:23 0
人間は相当昔のことまで覚えているが
これは脳のある領域と言うか状態が保持されているのか?
それとも常にコピーされているのか?
何かの拍子に一覧性の双子の脳が物理的に全く同じ(時間にズレはあってもいい)
状態になってしまうなんてことは、非常に小さい確率だけどあるのか?
それとも、どこかの領域は絶対に変化しないからないのか?
そんなことは
常識的な物質世界を前提に考えても、人の脳にとっての直接的な現実は、どこかから送られてくる電気信号だと言える。
電気信号の集合的パターンに対する解釈として、世界や自己の認識が存在する。それは、脳内の仮想現実だといえる。
こうして説明していることも、仮想現実の中での考えである。
17 :
考える名無しさん:2011/01/17(月) 23:42:23 0
なら、電気信号も仮想現実だろ
>>15 > 何かの拍子に一覧性の双子の脳が物理的に全く同じ(時間にズレはあってもいい)
> 状態になってしまうなんてことは、非常に小さい確率だけどあるのか?
どういう趣旨でこう言ったのかにこだわらず勝手なことを言わせてもらうと…
同じAという人の脳状態であっても、例えば1月1日1時00分00秒の状態と、1月1日1時00分01秒の状態というように、
1秒違うだけでも、多少の脳状態の違いはあるだろう。
それなら、そのような脳状態の違いであっても、違いがある以上は記憶や意識の状態は違うことになるのか?
もし「その程度なら記憶や意識の状態は変わらない」というなら、双子などの脳状態だって、場合によっては
変わらないと言えるのではないか?
それなら、そのような場合は二人が同じ脳状態であり、記憶や意識の状態も変わらない、とは言えないのか?
>>17 物質的な世界を前提にして、その中で、物資的世界を疑う正当性を導くということです。
脳内の仮想現実が何らかの関数値だということを説明できても、仮想現実から仮想現実への関数として説明してしまっています。
それで、何らかの関数だということは仮定して、その逆関数をどう考えればいいかという問題になるわけです。
20 :
17:2011/01/19(水) 20:41:27 0
>>19 貴方にとって脳は物質でしょうか。
仮想現実は唯物論を前提としているのです。
世界が「関数」として現れる、などというのは、
唯物論による経験的な法則を既に思考構造に組み込んでいるのです。
ですので、その中で物質的世界の正当性を疑えば、必ず無意味に陥ります。
物質的世界の何を疑うつもりなんですか?
>>20 物質的世界モデルの正しさは、現代の科学文明を見れば明らかです。
そのモデルで考えれば、脳に送られてくる信号の集合に対して、適切な関数が築かれているということです。
その脳が、水槽に浮かんでいて、それに信号を送っているのがコンピュータであったとしても、正しい判断だと言えます。
その正しさは、コンピュータ内に築かれた世界モデルにどれだけ近いかということです。
「水槽の脳」というモデルも、逆関数の一つの空想的アイデアです。
科学が求めるのは、事実や真実の認識だけです。物質の存在についても、何かの認識を持てるだけです。
つまり、物質の存在とは、物質についての事実や真実の存在だけで十分だと言えます。
科学は、それだけで十分に成り立ちます。
量子力学によると、我々が普通に認識している世界は、観測の影と言えるものであるようです。
現実の世界は複素数や波動関数に対応させられる何かであり、物体があって、それを観察しているとは言えなくなっています。
22 :
17:2011/01/20(木) 01:07:42 0
>>21 そうはならないのです。
貴方は恐らく、「脳」および「信号」が物質であることを、一旦、忘却しながらも
いわゆる仮想現実(バーチャルリアリティ)が、実際の技術として可能である、ことを根拠に、
水槽脳の想定を正当化しようとしている、のかもしれない。
しかしながら、バーチャルリアリティが行うこととは何でしょうか?
ゴーグルやヘッドホンにより、視覚や聴覚に変調を与えて、仮想の実体を現出させる。
しかしこれは、「完全に現実の物質世界の技術」であり、
「あの世」から主体を操作しているわけではありません。
なので、仮想現実の技術を、水槽脳の根拠とするのは、実に乱暴な話なのです。
なぜなら、水槽脳仮説の場合、
水槽脳が、この物質世界の何ものかと対応可能である場合には、
それは完全に通常の唯物論として構築可能であり、
もし、水槽脳がこの物質世界の何ものとも対応しない場合には
仮想される水槽脳と、この物質世界とを結ぶ、何ものの無くなってしまうために
水槽脳の根拠としていた仮想現実のしくみそのものが霧散するのです。
(もし貴方が、完全に観念論を唱えるなら、また話は別です。)
あと、
量子力学について、私は、貴方とは真逆の理解をしています。
我々にとって有効な世界とは、「観測が期待できる事態の総体」なのです。
(これは観測によって状態が決まる、という意味ではありません。)
量子力学は、期待できる観測量を計算するモデルとして有効なのであり、
それ以上のことについて語るには、余程、慎重でなくてはならないのです。
>>22 ユークリッド幾何学の中で、非ユークリッド幾何学のモデルを考えることができますが、
ユークリッド幾何学を前提にしたモデルだからおかしいとは言えません。
あくまでも、非ユークリッド幾何学を考えるためのモデルです。
「水槽の脳」という、ちょっとしたたとえ話の真意は、
物質世界を認識するためには、その認識のままの物質世界が存在しなければならないのかということです。
他者がその外部の物体を認識している状況を観察して、その物体を「物自体」の存在とするのは、安易です。
電子という存在やその振る舞いを数学的に表現でき、それ以上の付け足しが現象的な結果を左右しないなら、その付け足しは余計なものです。
考えやすいように省略した表現であるなら、現実の観測とのずれが生じます。
したがって、電子の存在とは、「量」と「関係」の存在であれば十分ということになります。
一つの電子が同時に二つの経路を通って自らと干渉するという過程を、物質的なものの波や物体のイメージで説明するのは無理があるだろうと思います。
24 :
考える名無しさん:2011/01/20(木) 16:55:53 0
25 :
ヘヴィメタル ダニエル・カール:2011/01/20(木) 19:40:04 0
>>17 ちょっとさあ、証拠の出ない犯罪者を追いかけてたんだよ、
絶対、証拠があるか、罪悪感があるはずだろ?
だから、脳情報通信で脳の記憶コラムを調べることにしたんだよ
そうしたら、テクノロジー犯罪被害って、加害者も技術も知れない事件だって騒ぎ出してさあ
本当に、証拠の出ない犯罪ってあるんだなあって
26 :
考える名無しさん:2011/01/20(木) 21:05:59 0
なるほど、「水槽の脳」の論理は循環してるわけか。
「我々が知覚している世界は現実でなくて作られた世界かもしれない」
という仮定には、「その作られた世界を作っている世界」の存在が必要になるな。
これは、「世界を作ったのが神ならその神は誰が作ったのか?」
と同じようなパラドックスだな。
27 :
考える名無しさん:2011/01/20(木) 21:56:57 0
ゴガギーン
ドッカン
m ドッカン
=====) )) ☆
∧_∧ | | / / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( )| |_____ ∧_∧ < おらっ!出てこい テク犯野郎!
「 ⌒ ̄ | | || (´Д` ) \___________
| /  ̄ | |/ 「 \
| | | | || || /\\
| | | | | へ//| | | |
| | | ロ|ロ |/,へ \| | | |
| ∧ | | | |/ \ / ( )
| | | |〈 | | | |
/ / / / | / | 〈| | |
/ / / / | | || | |
/ / / / =-----=-------- | |
>>26 「循環」という言葉にどういう意味を持たせているかにもよると思うけど、
「我々が知覚している世界は、現実でなく、水槽の中の脳によってて作られた世界である。
そして、その脳や水槽は現実に存在する。
以上」
というのは、必ずしも循環ではないんじゃないの?
29 :
考える名無しさん:2011/01/20(木) 22:32:56 0
>>28 いや、本当にただそれだけのことを言ってるだけなら、確かに循環してないよ。
タイトルに「機械」が入ってるスレは立てられなくなったのか?
我々が観察できるのは、出来事だけです。その出来事を説明するために、物質という存在を仮定しているわけです。
そして、観察できるのは出来事だけだというのを、その物質的モデルの中でも説明できることになります。
それがおかしいなら、真実なのに証明できない命題が存在することもおかしいということになるかも知れません。
物質的世界を現実とするのは、仮想現実を現実として受け入れるようなものですが、過ちというわけではありません。
それが出来事をもっともよく説明し、予測を可能にしてくれるからです。
したがって、量子力学の複素数や波動関数の世界も、物質の世界と同様な現実として受け入れることが可能です。
32 :
考える名無しさん:2011/01/22(土) 22:21:13 0
酒井法子になるに10万ペリカ。
大体、ノリピーは残念だったよね。高相はサーファー研究所だか、クラブ通いだかの訳の
判らない人だったけど、元々、素行の悪い人が清純キャラでお金儲けしたかったんでしょ。
その内、DJやったり 「ポッポポ タバコの煙 ポッポ」 ってやるよ。何だか、かわいそうだったね。
物理学と哲学が共有できることは、「我々に観察できることは、出来事だけだ」ということだろう。
>>1 まず根本的に考え違いをしている
コピーが完全なら人間が二人に増えるだけ
当然作った時点で主観も二つに分かれる
よって、脳の入れ替えなどはコピー直後は全く意味が無く、時間が経った後は他者への移植と同じとなってしまう
昔のSFでよくあるあなたの言うような高速移動装置は、間違いなく複写と殺人の装置だ
ただしそのような装置は自分の意思で乗り込み移動するため、複写と安楽死の装置とも言えるだろう
だがそれがどうしたんだ?
人に必要なのは自己満足であり、それを維持するための社会の満足だ
社会的に受け入れられれば何の問題も無いと思うが?
また、どこに哲学的ゾンビが出てくる問題なんだ?
>>13 意識とは何かの定義をどう持ってくるかによってその辺りはどうとでもなる
そもそも哲学的ゾンビは仮定の話であり、人が人の意識を絶対視したいがために作り出したものでもある
Aと言う事象に対してBという思考を経てCという結果を出す事を意識とするのか
Aと言う事象に対してBという計算を経てCという結果を出す事を意識とするのか
入力と出力が同じで、その後の行動が同じであれば、Bが思考であっても計算であっても同じである
人が1+1を、暗算で計算をしても、電卓で計算しても、結果は人が計算した答えとなる
暗算や思考などをそのプロセスを変えずに少しずつ機械化しても、それは人間と認識されるだろう
その果てに全て機械に置き換わったとしても、自分も廻りもそれが人と認識すれば人だろうし、計算は思考と定義されるだろう
機械に意識があるかどうか、思考の一部を機械化した人間に意識があるかどうか、思考の全部を機械化した人間に意識があるかどうか
これらはそれを認める者がどうするかによるだけであり、絶対的なものではない
36 :
考える名無しさん:2011/01/31(月) 02:53:32 0
>>35 貴方には意識が無い、と周りの者が認めたら、貴方の意識は無いわけですか
傑作ですね
>>36 いや逆
コンピュータプログラムが十分な計算の上意識を持っていると自ら主張したら、それを否定する材料は無いと言うこと
無論そのように主張するようプログラムされている(その場合は主張ではなくただの動作になる)のではなく、インプットとアウトプットの果てに起こる主張である必要はある
哲学ゾンビが判別できないのと同じように、プログラム上に発生した意識も否定は出来ない
38 :
36:2011/01/31(月) 03:26:56 0
>>37 思惟の帰結として意識が生じると、仮に仮定しても
しかし思惟をプログラムすることはできないのですよ。
なぜなら、思惟それ自体は所与だからです。
ヒトとヒトとの意志疎通は、中国語の部屋なんかで納めることなどできませんよ。
ある言葉が、いかなる意味を持つかは、プログラムではないからです。
それは、そのヒトの来歴に依存のですが、その内容と原理は推し量ることができないものなのです。
>>38 環境によって自己改変するプログラムであればどう?
初期プログラムはいわゆる本能だが、それが環境により変異していく場合は、それはすでに管理されたプログラムにはなりえない
人間のカンはしょせん経験則であり、表層に上らない部分でのシナプスの計算と履歴閲覧が起こしているものに過ぎない
逆に問うが、思考は所与だと言うが、それを発生させるのはなんなのだ?そしてあなたの言う意識とはなんなのだ?
40 :
考える名無しさん:2011/01/31(月) 11:35:22 0
全体は部分の総和ではない
機械によって作り出されたもう一人の自分Bというのは、作り出されたその時点で「他者」と分類することができる
なぜならAから抜き取った細胞のごく一部分が、Aの全てを証明している細胞とは限らないからである
Aの体は、異なる細胞の集合により成り立っていると考えられる
そのAの中にいることで、Aの一部として存在できるのであって、これが外界に表出されるとなれば、
もはやAの一部ではなくBの一部になる
従って、機械で作られたBがAと同じ人間であることはない
これは哲学的ゾンビですか?
42 :
考える名無しさん:2011/01/31(月) 11:40:54 0
いや
>>34もいうように、別に哲学的ゾンビを問題とする内容ではないかと思う
ここまででチャルマーズに言及したのは1レスのみw
チャーマーズとかハードプロブレムとか、
単語しか言えないわけですけどねw
自分が哲学的ゾンビでないことをどう認識しているのだろうか?
すべてがそこから始まる。
機能的なものでは哲学的ゾンビと区別できない。
しかし、機能的なものの主観的な現れとしてしか認識できない。
>>1 は、私の細胞一個ずつの死と、そのコピーへの入れ替えによって、コピーが哲学的ゾンビでない可能性を考えたものです。
>自分が哲学的ゾンビでないことをどう認識しているのだろうか?
哲学的ゾンビである可能性に自分は含まれない
含んで考えると言うのであれば、そもそも哲学的ゾンビの用法を間違っている
イージープロブレムしかクリアしていない問題であれば、それを解いてもハードプロブレムは理解のしようがない
ただしあなたの場合のハードプロブレムは人間の意識が基準となっており、物体などに起こっている意識は考えられていない
物質は観測者によってその存在を規定されるが、観測者は何も「者」でなくともよい
物体が近接する物体に影響を与えるのであれば、物体にとって近接する物体が観測者である
近接する物体が無くとも、空間があれば空間そのものに物体は影響を与える、その場合は空間が観測者となる
人の知覚、人の認識では捕らえきれないものが物理宇宙にはある
逆に言えば、人の考える物理宇宙は人の認識している物理宇宙ということである
認識とはクオリアを含むものであり、知覚のみの「思考実験ロボ哲学的ゾンビ」とは違う
そしてそれは人のみにあるものではない
すべての人間は、客観的には哲学的ゾンビなんだろうと思う。
したがって、人間並みの人工知能は可能だろう。
哲学的ゾンビでないことは、主観的にしか成り立たない。
主観と客観の問題は、いつまでも中心であり続ける。
>>47 それがどうしたの?
声を大にして言うほどの事?
>>48 「あなたは、Elizaですか? 私は、哲学的ゾンビです。」
いいえHAL9000です
純粋な客体によって作られたものは、純粋な客体である。
したがって、私の体も脳も、純粋な客体であり、哲学的ゾンビである。
哲学的ゾンビが機能的な意味の意識を持っていても、そのいかなる内部状態も、それ自体の実在の認識にならない。
を
純粋な客体という幻想を見たいのであれば止めないが、そんな実像は実在しない
客体と実体は、意味が違います。
私は、観察できるのは出来事だけだと思っているので、実体的なものは、出来事を説明するためのモデルにしかなりえない。
純粋な客体とは、モデルとして、物理的な性質や状態がすべてであるような対象ということです。
だから、所詮モデルでしかないんだよね
言い換えれば、あなたは自分がモデルでしかないと言ったわけ
さらに言えば、実体は人間の観察できるモデルだが、その裏にはさらに観察できない部分の実体もある
現在最小スケールを仮定する超弦理論では11次元必要とされるが、たかが3次元しか認識できない人間にはその全てを観察する事は出来ない
実際に人間の認識が3次元の存在だとしても、実体は3次元で収まっているかどうかは分からない
意識のハードプロブレムがイージープロブレムのさらに裏側にある可能性すらある
まあなんにせよ、あなたは
自分は実体すらない想像上の仮説モデルであると自分で言うわけだ
>>54 私は, 「水槽の脳」でしかないかもしれませんよ.
だとすると, 私の実体は, 脳だけだということになります.
それに, 物質の存在は, 真実や事実の存在に言い換えられるかもしれません.
事実や真実, 情報の世界が実体としてあり, それから物体的なモデルが構成されて, 認識になっているわけです.
量子力学は, イデア的な世界観を復活させつつあるような気がします.
>>55 脳は十分実体だね
実態がある以上、それは思考実験の産物ではなく、純粋な客体とは言いがたい
イデア論とは違うよ
イデア論はイデア界にクオリアも存在しており、同じものを見れば同じクオリアが得られる事になるが
>>54で言ったのは知覚能力の限界であり、個々の知覚の差異も含めた認識の限界だよ
知覚能力が違い、知覚を受取る能力の処理系が違えば、それによって生ずるクオリアも変わる
しかしイデア論では、本質がある以上受取るクオリアは変わってはならない事になる
似ているが同じものではない
物理学では,時空間というモデルを考えますが,その世界には,時間が経過するという変化,運動はありません.
あるのは,時間の座標です.
ある種のパラドックスは,時間の運動を考えてしまうことが原因です.時間の座標だけで考えれば,なんでもない事です.
時間が経過するために,時間軸のどこかが現在でなければならないとか,過去はもはや存在せず,未来は未だ存在しないというのは,
時空間のモデルから導かれることではありません.
もし,その時空間こそが真の存在だとすると,私にとっての瞬間瞬間の主観的現在とは何なのかという事になります.
哲学的ゾンビは,純粋に時空間の一部です.彼にとっての瞬間瞬間の現在というものはありません.
ただ,私の主観の中で,瞬間瞬間の存在として認識されているだけです.
結局,古代ギリシャの哲学者が議論していたようなことの繰り返しになりそうです.
似ている箇所を無理やり引き合いに出して懐古主義に走るのがお好み?
さらに言ってしまえば、時空間と哲学的ゾンビは全く関連しないよ
哲学的ゾンビは、脳の化学反応から意識が発生する場合、それが化学反応の反射より生ずるものかどうかを考察するための『思考モデル』だよ
物理学におけるラプラスの悪魔であり量子論におけるシュレディンガーの猫であるわけだ
言ってみれば、脳の化学反応の一パターンに過ぎず、時空間に及ぼす影響というのは『今晩の夕食のメニュー』と大して変わらない程度でしかない
余談だが、量子論を考えると時間の過去未来は運動ではなく可能性とも考えられる
過去から未来に連続して流れているのではなく、ブレを生じさせながら拡散分裂していくようなものと考えられる
「ゾンビ論法」が言っていることは,唯物論では,人間が客観的な事実だけで十分に存在できるということです.
意識は,その主観的実在に何の意味もなく,客観的機能があればいいだけです.
主観的実在があってもなくても出来事に何の違いもないなら,唯物的にはないに等しい.
しかし,少なくとも自分自身については,主観的実在を否定出来ない.
よって,唯物論は成り立たない.
ゾンビ論法は本来唯物論『以外』に平行してある意識世界があり、意識世界を肯定できない唯物論は偽である
というだけで、物質を否定するものじゃないよ
むしろ、唯物論では否定されてしまう意識世界を保護するために立てられた理論
逆に問うけど、水槽の脳で水槽も脳も否定した場合、意識世界という存在はどこに拠り所があるんだい?
水槽の脳で、水槽の水圧が変わっても意識世界に変化は無いと思う?
水槽の脳にとって実体は脳のみ?それとも脳に繋がるコンピュータも全てクオリアを発生させるための要因としての体?
水槽の脳につなっがってるコンピュータの電源を落としたら脳はどうなる?
モデルはモデルであって、特定の事象を解りやすく説明するためのものでしかないよ
シュレディンガーの猫は実際には生きてるか死んでるかどちらかだし、マクスウェルの悪魔は熱力学第二法則に阻まれる非力な悪魔でしかない
オッカムの剃刀は使いすぎると膨大な例外が出るし、ゼノンのパラドックスを現実世界に当てはめても亀はあっさりと抜かれる
モデルを絶対視する事は、一種の偶像崇拝だよ
>>59 アインシュタインの相対性理論以降,時間は,物理的な実体としての「時空」を構成する
広がりとしてモデル化されています.時間とは,時間座標上の位置であり,その差であり,
前後関係です.それは,物理的現象を記述する方法という以上に,物理的現象が存在する
空間のモデルです.
しかし,そこに主観的な事実を当てはめようとすると,おかしなことになってしまいます.
それは,時間が経過するという事実であり,時間座標上のどこかが現在で,それが未来に
移動していくというイメージです.しかし,その移動をいくら速くしても遅くしても,世界
で起きることは同じで,無意味です.物事の変化は,時空に制約されるとしても,時間の経過
自体は,物理的現象として表現されません.
つまり,主観的事実は,時空上にある脳の客観的事実に対応しているとしても,同じもの
ではなく,唯物論は否定されます.
いいかげん何にこだわっているのか解らないけど、そろそろ現実世界に戻ってきたら?
私がいっているのは、あなたが「あなたにとってあなたが哲学的ゾンビである」と言っていることの否定であり
意識世界は絶対ではなく、物質と平行して存在する世界であると言う事だ
さらにオッカムの剃刀でそぎ落としすぎたあなたの発言に対する否定であり
各種思考モデルも別のモデルでは役に立たないという事
ラプラスの悪魔はシュレディンガーの猫によって殺されるが、シュレディンガーの猫は猫自身が観測者になった時点でモデルの意味をなさない
オッカムの剃刀でそぎ落としきったゾンビ論法は、物質世界が無い事を否定するものではない
そういうことが解らないから、私が唯物論者に見えてるんじゃないの?
そうだ、一つ宿題
次までに「意識とは何か」「クオリアとは何か」これを言語化してみてよ
人間と哲学ゾンビの間にある差は何によって生ずるかがこのスレで最も大切な命題であるわけだからね
もちろん「赤いと感じる事」なんてありきたりなもんじゃなくって、その赤いと感じると言う事はどういうことかということを突き詰めて欲しい
ではよろしく
チャーマーズは,真に実在する世界は,情報の世界だとする説に期待しているようです.
物理的現象とは,実は情報処理だということになります.情報の世界を物質的な世界とし
て仮想現実的にモデル化しているのが,人間の脳です.そして,その脳自体が情報処理に
よって存在することから,情報処理が二重化されています.
このアイデアは,「水槽の脳」のオチとして考えるような,実は,その脳までもコンピュ
ーター内のプログラムだとするのを抽象化して,宇宙化したようなモデルになっています.
目的は,主観的事実と客観的事実を統一的に説明することであり,情報というものに,両
義的な意味を求めています.しかし,それは,物質に両義性を考えてしまうのと変わらな
い気がします.唯物論が唯情報論に置き替えられるだけです.
1に話かけたらアカンこいつ例のアレやでw
>>66 「例のアレ」としては,「例のアレ」的自由が許容される場所があるのはありがたい.
そして,無視する自由もある.礼儀知らずでも卑怯者でも偽物でも構わない.
>>67 そっちの相手はいいから
>>63への答えを書こうよ
無視する自由はあるけど、それはつまり「これ以上発言する意思はありません」と言及するに等しいんだから
このスレの根幹を成す問題に答えないとは、このスレでこれ以上発言する意思はありませんと答えるに等しいんだし
>>68 申し訳ないですが,不愉快な気持ちを我慢してまで要望に応える動機が出てこない.
ただ,自分で考えるヒントとして言えることは,言葉は,認識のシナリオにしかならない
ということです.
要望?
違うよ、義務だよ
あなたがこのスレの1を名乗り、このスレを続けていくための義務
言葉で綴る場で意識のハードプロブレムを語るだけの考えがあるかどうかの証明
このスレを続けていくべきかどうかのテスト
なぜそんな事をするかと言えば、どうも最近のあなたの発言が逃げの一手に聞こえてしょうがないからだよ
答えられないのであれば答えなくともいいが、今後一切このスレには参加せずにどんどんこのスレを沈めて欲しい
>>70 >>57を読めば,「時間が経過すること自体は物理的現象ではない」ということを提示して
しまっていることが分かるはずです.つまり,「唯物論では時間は進まない」ということ
です.これは,私が「例のアレ」だと思われても仕方ないぐらいのものです.そのことに
気づけない.そして,「ゾンビ論法」の説明の違いも,いいテストになっていると思いま
す.
今の哲学でも,「難しい問題」がどう「難しい」のかということを認識する程度で,そこ
から先になかなか進めていない.私にその答えを出せという意味だとすると,その意図を
怪しんでもおかしくないでしょう.
以上が,私流のテストとしての評価ですが,書き込みは自由です.
「例のアレ」ってのが何かは知らんが、現状でハードプロブレムの答えが出ていない事を理由に、自分の考察を語ろうとしないのはただの逃げ
考察を出し、それに対して論証・反証を繰り返していく気がないのなら、今後一切を考えるべきではない
73 :
17:2011/02/23(水) 00:36:22.96 0
私はスレ主のモノローグ、嫌いじゃないですよ
気楽に(それは失礼かなw)続けてください
74 :
考える名無しさん:2011/02/26(土) 16:35:39.66 0
あげとく
私が主観的な意識を持つロボットAだとします.ハードウェア的に同一のロボットBがあって,
その脳に私の脳のすべての状態を移動させたとすると,私の主観は移動することになるのでし
ょうか? それとも,ハードウェアとソフトウェアが同じでも,具体的な個々の存在として別
ものであり,主観が移動することはないのでしょうか?
移動と言っても,実際は,コピーのロードとオリジナルの消去を意味することになります.移
動ではなく,コピーをロードするだけなら,主観が移動するとは言いにくくなりますが,移動
したと思うもう一人の私が存在することになりそうです.
そのロボットがナノマシンで出来ていて,毎日少しずつナノマシンの交換が行われているとす
ると,ある時間で物質が総入れ替えになります.それは,私がAからBへ少しずつ変化するよう
なものです.もしそれでAとしての主観であり続けるなら,最初からBを用意して精神のコピー
をロードしても,Aが存在し続けながら,主観が移動することになります.
このパラドックスを解決するためのヒントになりそうなのは,座標変換ということです.
私にとっての世界は,私を座標系の原点とした存在です.それは,主観の原点でもありますが,
一方ではその座標の変換が起き,他方ではその変換が起きないということかもしれません.この
後,どう辻褄合わせをしていけるかは分かりません.
何がパラドクスなのかわかりません。コピーと移動は違う。
ここの1の問題は、その気もその思想もその思考もないのに意識に付いて言及しようとしている事
言及しようとしているものに対しての考察もないのに不安神経症のように語ること
言うなれば足し算が分からないのに掛け算を理解しようとするようなもの
意識に対しての考察があるのか求めたが、全く答えようとしないのが致命的
1は意識というものの捕らえ方によって答えは全く変わってきてしまうことを全く理解していない
例えば魂のように肉体に必ずしも付随しない全くの別のものとして捕らえるか、唯物論的に神経ネットワークのありようによって起こるものなのか
スタンスによって答えもそれに到達するための考察方法も全く変わる
また、そのスタンスが正しい事なのか間違っている事なのかもスタンスが明確にならない限り検証できない
当然検証のためには共通認識可のための言語化が不可欠であるが、それすら拒否する
自分の考えを研磨する事を拒否しながら、自分の考えを伝えたがっているに過ぎない
要するに現時点では痴人の戯言でしかない
>>77 参考「ラセウスの船」, 「砂山のパラドックス」,「同一性」,「動的平衡」
理解せず単語を上げている事がよく分かった
自分の挙げた物を一つ一つコピペでググってみな
思考実験は物理的困難全て無視で。
まず意識あるモノを作るのは可能。
ウイルス、細菌、トカゲ、犬、猿と段階的に考えてみれば違和感ない。
人々がこりゃ意識あるわと数年位観察して学者も認めたら成功。
そもそも定義が何であれ、人間に意識があるって概念もそうやって決まったものだし。
意識コピーも可能。主観も時間経過も、痛みや快感と同じで一種の感覚にすぎない。
脳の状態次第で、物理的制約が許せば操作可能。
この痛みは私の痛みだって感覚はトカゲも人も同じ。
パラドックスはどこにもないのでは?
>>82 あなたが哲学的ゾンビでない限り,痛みの主観的実在は経験されていると思いますが,それ
を脳内の物理的な状態で説明しようとすると,対応関係は持たせられても,同じではないと
直観せざるを得ないわけです.
パラドックスについてですが,簡単に言うと,あなたが寝ている間にあなたの完全なコピー
が作られ,あなたと置き替えられたとします.しかし,あなたは,自分がコピーのほうだと
気づくことなく,今まで通りの自己同一性で存在していくということです.実際,人間は,
細胞がコピーで置き替えられたり,細胞を構成する物質が入れ替えられたりしています.
本物のほうは,目覚めないまま処分すれば完全です.
>>75 客観的な事実の世界では,座標変換というのは,物理的現象ではなく,Aにとっての世界が
こうなら,Bにとっての世界はこうだという,理論的な演繹です.
世界は,常に相対的なものとして存在するとしても,その原点は,ある質点が,ある時刻に,
ある位置で,ある速度,ある加速度を持つような座標の原点として仮想されるものです.具
体的に何にとっての世界かというようなものはありません.ある電子にとっての世界という
ものがあるなら,ある光子にとっての世界というのもあってよさそうですが,座標変換は考
えられません.そういう意味の相対性でなくていいと思います.仮想的な観測者にとってと
いう感じです.
どれとどれの書き込みが同じ人の書き込みか区別できるようにしたほうがいいですね.
>>85 今のあなたは,物質交代によって,過去のあなたに似せて模造されたものです.
コピーよりも別物だと言えます.
過去のあなたは,少しずつ排泄されてしまいました.
私自身に対しての返答はいらない
>>34の文章に対する返答が重要
人によって答えが変わってしまうようでは、それは世界にとっての真ではない
>>83 前半について:
対応できたら同じ。直観的に違和感あるのは
脳に実感少ないのと、的確な対応がまだ想像上だから。
例えば解剖で得た脳を保存する際、
誤ってニューロン発火を誘発するような液に入れてしまったらヤバい!と感じ、
直観的に「可哀想な事をした」と思うだろう
後半について:
必要な部分の状態をコピーした記憶・感覚系があれば、
連続した自己同一性という「感覚」は任意に発生可能。
かなりSFなので不気味だが、不思議はない
今の自分の自己同一性も記憶を参照しつつ時々感じているだけのこと。
詳しくないけど自己同一性の感覚がぶれる病気もあるはず。
仏教は無我を縁起だ空だと説明するがたぶんこのへんの話。
自己の一貫性は「原理的には」物理的実態を反映しない主観的感覚なだけ。
>>88 言葉は,認識のシナリオにしかならないですね.言葉だけでは何の証明にもならない.
私には,その還元不可能性を直観するところからしか始められません.
物質の存在を認識するというのは,何かをその認識に対応させるということで,その
何か自体ではないですが,痛みの主観的現象も,何かに対応したものですが,その何か
自体ではない.痛みについて,脳の客観的状態としての認識と主観的現象とは,同じ
「何か」が二通りに対応したものだと言えるかもしれません.
二通りの方法で作った同じコピーが,一方はオリジナルにとっての他者であり,もう
一方はオリジナル自身の主観を受け継いでいる.
>>89 わたしは
>>88ではないが一言だけ
>言葉は,認識のシナリオにしかならないですね.言葉だけでは何の証明にもならない.
>私には,その還元不可能性を直観するところからしか始められません.
「考えるより感じろ」かよ、ここはいつから宗教板になったんだ?
>>89 問題意識が少しわかったんで違う角度から。
人間FAXの機能を、この問題を扱うのに足る極限まで狭めてみる
人体の任意の部分を消滅させ、直後に完全に再生する「更新装置」を考える。
全身更新は嫌だろう。なぜ嫌かを考える。
まず、脳以外の全身更新は平気。
脳のどこかひとかけらの更新は、事故で失った部分の再生と同じで割と平気。
脳だけ全部更新はかなりきつい。しかし全身更新よりは何か安心する。
仮説だが、現実に失敗の可能性が高く、わずかなエラーの影響が大きい場合ほど生理的に恐怖を感じると思う。
つまり自分の身を守る上で的確かつ切実な直観であって、認識論的な意味合いはあまり無いかと。
ただ、こういう事を重大な問題だと騒いで意識を向けとかないと、
欧米では簡単に労働者をFAXしたりしてしまうのかもしれない。
自己や自由意志や受精卵保護などへのこだわりもそのせいかも
私は多分,私以外の人間がコピーと入れ替えられても,区別できないし,
区別する意味もないだろうと思います.
たとえその人が哲学的ゾンビであってもです.
定義により、哲学的ゾンビは客観的な確認は決してできないって事だよね
でも、そんな想定自体がむちゃな気もする
神の定義から神の存在を証明する論法と同じ胡散臭さを感じる
なんで哲学的ゾンビという概念を想定できるという点で学者の意見が一致してるのか不思議
想定出来ない、直観に反するって意見はないのかな
>>93 痛みの因果関係をたどっていくと,それはいくつかの神経細胞の間の信号のやりとりで終
わってしまうかもしれません.
脳にとっての直接的な現実は,神経を伝わってくる信号で,信号が信号を生み出し,制御
し,何らかの信号を出力すること以上の出来事があるようには思えません.
それだけで十分に人間の精神が存在できてしまうとしても,痛みの主観的存在と,信号の
やりとりを同じだとは思えないので,その唯物的人間を哲学的ゾンビとするわけです.
95 :
17:2011/03/03(木) 23:55:13.77 0
>>93 するどい
例えば、言語の伝達現象は物理的だが、
言語による意味の成立を論理に還元できない。
意味の成立を論理化することが、原理的に可能なのか、不可能なのか、も分からない。
意識は要請されて存在しているのではないのか。
そこが重大問題のはず。
難しくなってきた…
脳のやってる事の凄さがわかって来て分かり易く解説されるようになったら、
電気信号ってゆう法外に単純化されたイメージも変わるんじゃないかなあ
脳がやってる事の複雑さ精緻さは、肝臓や心臓の仕事とは別格のものがあるよ
例えば言語活動や意志決定や芸術的センスとかが具体的に電気信号でどうやって実現されるかまるでイメージわかないでしょ。何となくできるんだろうって感じ
本当に単なる電気信号ならコンピューターでも扱えるんだから、優れた長編小説を書くコンピューターが作れないのはおかしい
神経ネットワークのシミュレーションでもせいぜい小脳のまねしか出来ない
その辺を明確にイメージするのが先のような気がするんだ
例えば、自分には自由意志があるって直観と脳内反応の必然性の対立は、脳の解明で実感のレベルから解消されてくと思う
肝臓のやっていることは非常に複雑だよ
人工で作ろうとしたら工場一つ分と言われるほど
解毒・貯蔵・調整・製造、非常に多くのことをやってるうえに非常にコンパクトだ
それを分かった上で、心臓と同列に並べてるのかい?
余談はここまでにして
脳が複雑だというのであれば逆に理解しやすいのでは?
例えば今目の前にあるPCはどういう電気信号のやり取りで、どう実現されているかイメージが湧く?
今までの挙動から、類似の挙動を算出するプログラムを複雑化していっても、長編小説を書くコンピュータは作れない?
恐らく人体のことを考えている割に人体に対する知識や、コンピュータを例に出している割にコンピュータに対する知識が少ないのでは?
最近ではコンピュータを語る場合は、目の前の一台だけじゃなくネットワークで考える事が多いよ
98 :
考える名無しさん:2011/03/05(土) 05:11:30.38 O
まず、それら疑問点は文脈の本筋と関係ないと思うぞ
肝臓の複雑な仕事は知ってるが、数百の化学反応を制御する大規模なプラントが何千何万あっても、脳の真似は到底できない。
脳の複雑さは「別格」だろう
あと、一応トランジスタやらXORやらC言語やら一通りやったからコンピューターのイメージは多少わくが、
ニューラルネットとかのコネクショニズムに基づく研究でも結局、パターン認識くらいしか出来てないじゃないか
例えば言語機能が単に「複雑化」という曖昧な方針で再現出来るとは思えない
要素を増やすだけで創発するだろうってのは、
機能の局在やカラムなどのはっきりした構造を持つ脳の実態とかなりズレがある
ましてや創造性なんて研究者は口を揃えて夢のまた夢と言ってる
で、それができた時は電気信号よりまともなイメージができると思うんだ
99 :
考える名無しさん:2011/03/05(土) 05:30:31.14 O
ついでに言い忘れた。あなたのいうネットワークは、共通ルール決めて情報やり取りできるようにするもの
各端末に身体&脳がいるから面白いんであって、…なんかもう説明する気失せた。
話を戻すと、
やはり哲学的ゾンビは不可能な想定って気がする。
例えば、ある人がフロイトの手法でヒステリーが治ったとする。
エディプスコンプレックスを持つゾンビ。違和感がある
こうやって具体的に考えると、本当に理論上、いや論理上の観念と思うし、
考えられるっていうのは「主観は物質と独立」って直観が根拠。
論理上あり得ると直観的に思われる…論理上可能なら存在論に大きな影響を与える…
こういうのって、やっぱりスコラ哲学的な思弁を感じる
ものには客観と主観二つの面がある、というのは見かけよりはるかに不自然で人工的な世界観だと思う
>>98 再現できていないのは、人間とは違いOSに言語発生のプログラムが組み込まれていないからだよね
世界中のネットワークで繋がったPCを、その内部情報を解析でき、情報量の大小で重要度を変更して思考を形成するプログラムが出来たらどう?
PCのオンオフで情報量はブレを生ずるし、重要情報はあっという間にコピーされて思考の優先順位を上げてくれる
人間は外部情報を入力するための目や手、思考そのもののブレを発生する外的要因になるけど、一応思考を構成するのは電気信号だよ
こんな考えは嫌いかい?
>>99 そういう意味であれば
>>60でも書いたように、ゾンビは所詮概念上のものだよ
シュレディンガーの猫が実際は生きているか死んでいるかどちらかであって不確定な存在になりえないようにね
実在を受け入れているのではなく、例えば「人工無能の非常に良く出来たものが出た場合は」などを考えれば、概念としては理解できるというもの
ゾンビは論の穴を埋めるための道具であって、論の中心で台座に載って輝くものじゃないよ
101 :
考える名無しさん:2011/03/05(土) 12:08:09.83 0
哲学ゾンビとかって、他者の主観のことばかり
考えてたら駄目なんだぞ。
102 :
考える名無しさん:2011/03/05(土) 12:15:01.59 0
まず、自分の主観を呪い、腹の底から憎み、
それを否定し、徹底的に圧殺する努力をするんだ。
103 :
考える名無しさん:2011/03/05(土) 12:20:51.10 O
程良くメンヘルになったら医者から抗うつ剤を貰う。
ゾンビドラッグだ。
これでパーフェクトだ。
104 :
考える名無しさん:2011/03/05(土) 12:22:55.90 O
これでいつも明るく気さくで健康なゾンビになれる。
>>104は蛇足
抗うつ剤は明るく気さくにするもんとは言い切れないだろw
106 :
考える名無しさん:2011/03/05(土) 12:35:33.59 O
何か心の真ん中がポッカリ開いたまま、埋まらない感覚を
引きずるんだ。引きつった笑みでごまかすんだよ。
そういう意味ねw
理解した
チャーマーズとかいうのがアメリカ産のサタンです
わかりますか皆さん!!!
脳にとっての直接的な現実が信号だということは,世界のすべてを信号の出力と入力のパター
ンから導き出さなければならないということです.物質の実在を判断する材料も,そのパター
ンに含まれていなければならない.逆に言うと,世界についての認識や真実性の全ては,信号
のパターンに還元できなければならないし,そのパターンに含められないことは認識できない
ということです(直観的ですが).
脳がやっていることは,微視的には比較的単純かもしれませんが,巨視的には凄いものになる
というのは,脳の凄さというよりは,信号のパターンが持つものの凄さと言えそうです.脳の
凄さというのは,ハードウェア的な凄さです.脳は,信号を一つ一つ処理するだけで,結果的
に,それに含まれるものが仮想現実に変換させられていきます.そこに世界と身体と自己,他
者,言語,文化が存在します.
>>109 >そのパターンに含められないことは認識できないということです
そんなことは
>>55でとっくに言っている
>脳の凄さというのは,ハードウェア的な凄さです
違います
ソフトウェア的なすごさです
その根幹すらも自己改変を繰り返しながら増殖し、なおかつ整合性を保つ特性を持っています
言うなればデータから命令セットを自己生産するマルチタスクCISCコンピュータです
マルチタスクを徹底させ、予測計算や数列によらないランダムの生成などを利用して打ち出しデータを作り、そのデータからさらに別のデータを作るという特性もあります
ちなみに残念ながら、シングルタスクの計算速度はそれほど速いわけではなく、データどころかプログラム自体全てRAMなのでたまに消えます
基本的にハードとしては脆弱で結構よく壊れますが、壊れても別の場所が同様の機能を複製してくれる事が多いです
なお、ハード的に一番すごいのは皮膚だったりします。電車に惹かれても千切れない事もしばしばです
111 :
考える名無しさん:2011/03/07(月) 22:09:09.39 O
ポストモダニストを発見した!!!
112 :
考える名無しさん:2011/03/09(水) 18:38:11.29 O
現代社会の模範的人間像だ!
113 :
考える名無しさん:2011/03/09(水) 18:55:41.60 O
巧妙に仕組まれた心を持たないプログラムは生身の人間であるかの
ような錯覚を引き起こすと言う。
ならば、目の前に人間が機械であると主張する人がいて、しかも
そこに誰かがいるという感覚があるとしても、それは錯覚であって
良いのだ。
114 :
考える名無しさん:2011/03/09(水) 19:01:26.17 O
そこで人の言葉を発しているのは、実は「物」なのだ。
115 :
考える名無しさん:2011/03/09(水) 19:20:44.11 O
そのような「物」は、ドストエフスキーの地下室の住人がされたように、
抱えてどかしてしまって良いのだ。
116 :
考える名無しさん:2011/03/09(水) 19:36:47.71 O
そこには、もともと誰もいないからだ。
117 :
考える名無しさん:2011/03/09(水) 19:44:22.65 O
棒で繰り返し力強く殴打すると、血を流して痛がっているような
素振りを見せるだろう。しかし、そこには誰もいない。
サディズム 俺が看守理論だな
>>113 それは子供を無理心中という殺人で殺す母親の言い訳と一緒だね
それを行う人にとってはそれが言い訳になるかもしれないが、周りの人がそれを受け入れて認めなきゃいけない理由は無いね
そのような結論が出ると言う事は、おまえはイワンどものように春の来ない暗い狂気に犯されているんだな
120 :
考える名無しさん:2011/03/10(木) 10:47:46.88 O
>>118 自称「物体」の貴様たちには、主観の存在を認めない。
就学前幼児に抗精神剤を投与が医師の三割とか早速やってるぞ。
ザミャーチンの『われら』みたいな世界なんだろ。
121 :
考える名無しさん:2011/03/10(木) 10:49:38.62 O
ポストモダニスト=物体
122 :
考える名無しさん:2011/03/10(木) 11:52:59.52 O
>>119 貴様たちみたいに自分を物体だなんて主張する子供がどこににいる。
貴様みたいな奴は棒で小突いてどけるだけだ。
123 :
考える名無しさん:2011/03/10(木) 11:59:13.58 O
顔を真っ赤にして自分が物体だって主張してる奴と
対話してどーする?
124 :
考える名無しさん:2011/03/10(木) 12:02:42.05 O
アメリカ人とか棒で叩いて追い払うより仕方ないだろ。
125 :
考える名無しさん:2011/03/10(木) 12:06:07.00 O
自分を指差して「ここには誰もいませんよ」って言い張る奴らだぞ?
先駆的な見識を持つものは時として精神疾患患者に見えることがある
しかし精神疾患患者に見えるものが先駆的な見識を持つ者である可能性は著しく低い
127 :
考える名無しさん:2011/03/10(木) 20:29:04.05 O
ポストモダニストは病気だと言いたいのですね?
全くであります。
まあなんだ
厨二病ははしかみたいなもんだ
129 :
考える名無しさん:2011/03/11(金) 23:40:33.26 0
生きてるって実感ないんだろうね。
130 :
考える名無しさん:2011/03/12(土) 14:48:27.62 0
「そこに誰かがいる」という意識、それが他者だ。
目の前に水死体が転がっていても、誰かがいる
とは言わない。
131 :
考える名無しさん:2011/03/13(日) 02:24:34.67 O
死んで初めて
生きていたのかと
気付く春の海
>>1 これは意識のハードプレブレム(物質から質感なんて出てこないじゃん!どーなってんの?問題)
というより同一性の問題では。
デイヴィッドソンのスワンプマン、パーフィットの人格同一性、永井均の<私>とか
133 :
考える名無しさん:2011/03/13(日) 13:39:27.39 O
「すべて万づの事、他のうへにて思ふと、みづからの事にて
思ふとは、深浅の異なるものにて、他のうへの事は、いかほど
深く思ふやうにても、みづからの事ほどふかくはしまぬ物なり、
歌もさやうにて、古歌をば、いかほど深く考へても、他のうへ
のことなれば、なほ深くいたらぬところあるを、みづからよむ
になりては、我が事なる故に、心を用ること格別にて、深き
意味をしること也」
「うひ山ぶみ」本居宣長
んー、流れに乗ってないかもしんないけど、基本的な疑問。
哲学的ゾンビって、「主観(あるいは意識)がないのに外から見てる分には普通のヒトに見えるモノ」ってやつだと思うんですが、
そのときに、「普通のヒト(自分以外)」は主観(意識)をもっているものと仮定してしまっているんですかね?
というのは、自分以外のヒトに主観(意識)があるかなんてわからんわけで、その点で
哲学的ゾンビと、現実に周りにいるヒトとの間に、なにも違いはないと思うんですが。
これは哲学的ゾンビですか?
>>134 >そのときに、「普通のヒト(自分以外)」は主観(意識)をもっているものと仮定してしまっているんですかね?
これはない
仮定も何も分からないから哲学的ゾンビが仮定できる
あくまで仮定するのは哲学的ゾンビの存在であって、他者がゾンビであるかどうかではない
だいいち、見分けが付くようじゃ哲学的ゾンビじゃないよ
137 :
134:2011/03/18(金) 02:20:07.41 0
>>136 自分以外のヒトが主観をもつことは仮定していない…。
とすると、ヒトと客観的に同じゾンビが主観をもっていなくても、
何も不思議なことはないんじゃないでしょうか。
ヒトだって主観をもっているかわからないのだから。
「哲学的ゾンビは存在するか?」という問いに意味がなくなるのではないでしょうか。
「哲学的ゾンビは存在するか?」という議論では、
(自分以外の)ヒトはみな主観を持っているという前提が(暗黙のうちに?)あるように、
やはり思うのですが、どうでしょうか。
おそらく、この前提の根拠となっているのは、他者がみな主観をもっていると想定して
日々生活しても(あるいは他者を被験体として心理学実験をしても)何も困ることがない
という経験則(チューリングテスト?)ではないかと思います。
もしそうだとすると、哲学的ゾンビは存在し得ない、あるいは
「哲学的ゾンビは存在するか?」という問い自体がナンセンス、という
結論にならないでしょうか?
なぜなら、もし哲学的ゾンビが存在したとして、ゾンビは客観的にヒトと
全く同じなので、ヒトと同様に主観をもっていると想定してもなにも困らない
(チューリングテストをパスする?)から、ヒトと同じ根拠において、
哲学的ゾンビは主観をもっていることになる(よって矛盾)から。
つまり、「他者(ヒト)はみな主観を持つ」という命題を疑ったとしても、素朴に受け入れたとしても、
いずれにしても「哲学的ゾンビは存在するか?」という問はナンセンスなのではないか?、
というのが私の素朴な疑問です。
>「哲学的ゾンビは存在するか?」という議論では、
>(自分以外の)ヒトはみな主観を持っているという前提が(暗黙のうちに?)あるように、
>やはり思うのですが
うーん、存在するかと問われたらノーと言う。
この問いは「ゾンビは存在するか?」ではなく「ゾンビがいると想定できるか?」という形で問われるもので、
問う目的は知識の不十分さを示すため。誰に示すためかと言うと、意識を研究してる科学者と哲学者。
昔からある他我問題の焼き直しだし、問うこと自体 普通の生活から言えばナンセンスで無意味。
139 :
134:2011/03/18(金) 07:19:03.35 0
>>138 「哲学的ゾンビがいると想定できるか?」という問いにしても、
上の議論はそのまま成り立つのではないかと思います。
つまり、
- 「他者(ヒト)はみな主観を持っている」を疑うのであれば、
哲学的ゾンビを想定しうるとしても、何の面白み(意義)もない。
- 「他者(ヒト)はみな主観を持っている」を受け入れるのであれば、
ヒトが主観をもつと判断する理由(チューリングテスト)と同じ理由で
哲学的ゾンビは主観を持つと判断されるので、哲学的ゾンビは想定され得ない。
通常、哲学的ゾンビを話題にする場合には、上記の場合分けでは後者のケース、
つまり他者は主観をもっていると想定されているのではないかとと私は思っています
(ただし
>>136は前者のケースを推す)。
「他者(ヒト)がみな主観をもっている」という判断は、
他者(ヒト)に対する客観的観察よりほかに根拠を持たないのだから、
客観的にヒトと全く同じであるモノはかならず<主観>をもっているということに、
論理的になるのではないでしょうか?
(つまり哲学的ゾンビは想定され得ない(論理的に))
(暗黙に?)仮定されてしまっている<主観>の性質からして、
「哲学的ゾンビがいると想定できるか?」の問いはナンセンスに思えるのです…。
>問う目的は知識の不十分さを示すため。誰に示すためかと言うと、意識を研究してる科学者と哲学者。
「知識の不十分さ」とは、ヒトの(脳の?)客観的記述でもって<主観>(意識)を
説明するための知識の不十分さ、という解釈でよいでしょうか。
しかし、もし上で述べたような疑問がもっともなものであるならば、
「哲学的ゾンビ」の概念は、「知識の不十分さを示す」ところまで行き着くことなく
ナンセンスなものに思えるのですが…。
上の意味での知識の不十分さは、ゾンビを持ち出さずとも分かっていることですし…。
140 :
134:2011/03/18(金) 07:19:57.96 0
>>138 一方で、
>昔からある他我問題の焼き直し
たしかに上の議論で意義あるものとして残っているのは、
「他者(ヒト)は<主観>を持っている」と考えるのがもっともらしい
という不思議な客観事実(経験則)だけということになります…
(そもそもの主観(意識)の性質である一人称性や唯一性からして、不思議)。
しかし、やはり上で書いた理由から、「哲学的ゾンビ」は他我問題の思考実験としても
論理的に不十分なものになっているとように思います…。
うーん、ここかな
>「他者(ヒト)がみな主観をもっている」という判断は、
>他者(ヒト)に対する客観的観察よりほかに根拠を持たない
「自分と似た他者がいる」という観察に加えて、「自分には主観性がある」という前提があるね。
つまりこの二つから「自分と似てるこれらの他者にも主観性がある(だろう)」と判断する。
で、この他者に対する判断で使われた二つの前提の内、ゾンビの議論で必要なのは後者の「自分には主観性がある」という側だけになってる。
ここが普通の他我問題よりはやや強力かな。
思考実験として意味があるかは文脈によるから何ともいえないな。数十年たって残ってるかも分からないし。
仮に思考実験で言おうとしてることが、ある程度あたってるなら長く残る事になるだろうし、
まったくピントはずれだったらジョークとして残るw
唯物論では「主観的実在」を説明できないという直観があるとき,
唯物論的に存在する人間は,「哲学的ゾンビ」だということになります.
本当は,唯物論の不完全性を論理的に説明しようとして考えたモデルだと思いますが.
>>139 そもそも哲学的ゾンビにおいて他者の主観なんて必須ではないんだよ
「自分に意識があって、他者の中に哲学的ゾンビがいる可能性が否定できない」
これだけが条件
それ以外の条件は贅肉
他者全てが哲学的ゾンビだろうと、他者の中に哲学的ゾンビが全くいなかろうと、「可能性が否定できない」事が重要
また、自分に意識があることで、哲学的ゾンビが哲学的ゾンビと呼ばれる条件の前提もクリアできる
だから「自分に意識があって、他者の中に哲学的ゾンビがいる可能性が否定できない」これだけが条件
そして哲学的ゾンビの存在意義は
>>143で1が言っているように論理モデル
だからその存在を証明する必要はない
145 :
134:2011/03/19(土) 03:44:14.04 0
>>141 >「自分と似た他者がいる」という観察に加えて、「自分には主観性がある」という前提があるね。
>で、この他者に対する判断で使われた二つの前提の内、ゾンビの議論で必要なのは後者の「自分には主観性がある」という側だけになってる。
>>144 >そもそも哲学的ゾンビにおいて他者の主観なんて必須ではないんだよ
ゾンビの定義には、「ヒトと同じ客観的(物理的)性質をもつモノ」という概念が現れます。
この、「ヒトの客観的(物理的)性質」というのは、少なくとも科学と関連付けて議論される
場合には、ヒト一般(他者)に共通する性質のことを指すのではないでしょうか?
科学の知識としてこれまでに蓄えられてきたものは、自分の体を調べて得られたものではなく、
他者(ヒト)やほかの動物から多数のサンプルを得て得られたものです。
ここには、他者が主観(意識)をもっていて、主観を支える物理的基盤を同様に備えているという
暗黙の前提があるのではないでしょうか?
つまり、ゾンビの定義の中に、他者が主観をもっているという前提が含まれていると
いうことにならないでしょうか?
>そして哲学的ゾンビの存在意義は
>>143で1が言っているように論理モデル
>だからその存在を証明する必要はない
これはそのとおりだと思います。
146 :
134:2011/03/19(土) 03:46:15.69 0
>>143 >唯物論では「主観的実在」を説明できないという直観
>唯物論的に存在する人間は,「哲学的ゾンビ」
むむ…、「唯物論で説明」、「主観的実在」、「直観」、「唯物論的に存在」、
それぞれ難しい議論をふくんでいる感じ(それぞれの概念の自由度が大きい?)がしますが…。
例えば、
唯物論を科学と同一視するとまずいのかもしれませんが、
科学で「客観的実在」は説明できるのでしょうか?
科学では石ころの動き方は説明できるかもしれませんが、石ころの実在を
説明できるかと言われると(「実在」の含みによるのでしょうが…)、できないのではないでしょうか。
そこに「主観的実在」を科学との関係において特別扱いする必然性はないのではないでしょうか?
一方で、科学で主観の「動き方」を説明できるか、と問われると、それはできるかもしれない
のではないでしょうか。
「脳の観測した結果を初期条件としてxx方程式を解くと、xx秒後に色のクオリアがこのように変わると予想されます」
「脳にこのような摂動を加えたとき、xx方程式によると、xxのような意思が生じます」
想像可能ではないでしょうか。
「科学(唯物論?)で、主観的現象を客観的現象と同じようには説明できない」という直観とは
どのようなものでしょうか?
議論がずれてますかね…?
また、「唯物論的に存在する人間」=哲学的ゾンビということに関して。
自分が主観(意識)をもっていることは認めるとして
自分が「唯物論的に存在する」と考えて論理的にどのように無理が生じるのでしょうか?
上で述べたように、自分の身体に起こっていることが、他の客観的現象と同じように
科学で(唯物論的に?)説明できないと考える理由は、ないように思うのです。
私のように、「哲学的ゾンビ」概念にピンとこない人って珍しいのでしょうか?
>>145 >暗黙の前提があるのではないでしょうか?
だからないって
>>他者全てが哲学的ゾンビだろうと、他者の中に哲学的ゾンビが全くいなかろうと、「可能性が否定できない」事が重要
こう書いたでしょ
この部分が本質であり、それ以外はオッカムの剃刀でそぎ落とすべきもの
あなたが哲学的ゾンビか完璧な人工無能かなんて私は分からない、分かるのは私が主観を持っている事のみだよ。それはあなたも変わらないはずで、そこに暗黙の前提なんてない
148 :
134:2011/03/20(日) 06:15:55.82 0
>>145 >>暗黙の前提があるのではないでしょうか?
>だからないって
>>>他者全てが哲学的ゾンビだろうと、他者の中に哲学的ゾンビが全くいなかろうと、「可能性が否定できない」事が重要
>こう書いたでしょ
139で2つに場合分けしたうちの前者ってことですね…。
自分以外の何ものかに主観があるかどうかは分からないので、ゾンビは想定しうる。終了。
137,139で書いたように、それだと議論にゾンビ持ち出す意味なくないすか…。
主観概念強すぎ、ゾンビ概念弱すぎ…。
ということは、ソンビ概念を用いた物理主義批判って、
「物理の教科書みても僕のこと書いてないから、どうやっても主観を説明してることになんないよね。」
ってことか…。
哲学のプロの世界で20〜21世紀にそれが面白がられた…?。
哲学乙って言われちゃいますよね。
学問として議論するんだったら、適用範囲をもう少し緩めた主観概念を相手にしないと
(つまり、他者が主観(意識)をもっていることを前提にしないと)意味ないと思う、
というのが134で書き始めた問題意識でした。
でも、教えてくれてありがとう>147
149 :
134:2011/03/20(日) 06:20:10.70 0
>>146 「唯物論で説明する」というのは,普通は,化学や物理学の問題に還元できるという事だろうと思い
ます.化学や物理学はモデルであって,それが「経験」に対してどれだけうまく当てはまるかという
こと以上の意味がありません.
「主観的実在」というのは,上記の「経験」が持つ二面性の一方を意味します.自分自身が何かを経
験しているとき,その主観的実在は疑いようがない.その事実の主観的直観が単なる感覚でしかない
としても,その単なる感覚の実在は否定出来ない.
一方で,自分の経験の中での他者が持つ経験は外面的には唯物的にモデル化でき,それを自分自身の
経験にも当てはめることができます.
つまり,形として,パターンとして,唯物的なモデルを当てはめられる.しかし,その実在自体に唯
物的なモデルを当てはめられない.唯物論は,構造の問題でしかない.
「物質の実在」というのは,主観的な直観にもならないし,客観的な構造にもならないものです.
寧ろ明らかに充分スピリチュアリズムでは霊界を信仰してますよねー!?♪。
幸福の科学では死後の世界は実在何ですよねー!?♪。
>>148 ちょっと聞くけど、主観って何?
それを細かく定義する事って可能?
自分にそれがあることは分かっても、他人にそれを説明する事って難しくない?
>>148 >「物理の教科書みても僕のこと書いてないから、どうやっても主観を説明してることになんないよね。」
>ってことか…。
正解。
>哲学乙って言われちゃいますよね。
せ、正解
>学問として議論するんだったら、適用範囲をもう少し緩めた主観概念を相手にしないと
ゾンビはネタ振りだから、ここから意識概念の分析とか同一性と相関関係の区別とかをして暇を潰す。
154 :
134:2011/03/27(日) 08:39:10.44 0
あ、返答来てた。遅くなってごめん。
>>150 >「唯物論で説明する」というのは,普通は,化学や物理学の問題に還元できる事だろう
では、
>>146で書いた、
「脳で観測した結果を初期条件としてxx方程式を解くと、xx秒後に色のクオリアがこのように変わると予想されます」
「脳にこのような摂動を加えたとき、xx方程式によると、xxのような意思が生じます」
というタイプの説明(現在の科学でまだできないでしょうが)は唯物論的な説明とはならないでしょうか。
これらのことを被験者で試し、なんならダメ押しで「自分」に対しても検証してみる。
科学として無理がないように思えるし、現在の神経科学が目指しているのもこの手の説明でしょう。
「唯物論では主観・意識を説明できない」と主張するときに、
上記のように脳を解明したと想定してもそれでもまだ説明出来そうにないものって、
なんなのでしょうか。
それがゾンビを使えば明らかになるということなのでしょうか。
155 :
134:2011/03/27(日) 08:44:10.82 0
>>152 >ちょっと聞くけど、主観って何?
>それを細かく定義する事って可能?
ぼくは哲学の教育を受けたことはないので定義の学問的主流
とかはわかりませんが、本屋で売ってるような本を見る限り、
専門家の文章でも「主観」の性質が適当に変わっちゃうこと
って多いんじゃないでしょうか。
>>134からの書き込みはそのへんを部分的にでもはっきりさせたくて、
つまり「主観」が、「自分の」主観という強い概念で使っているのか、
議論相手や被験者にも(つまり他者にも)存在すると仮定した弱い概念で使っているのか、
はっきりしてほしい、というものでした。
これらの二つの概念は違うものであって、使い分けずに議論しても不毛だと
感じるのです。
また、「定義」とおっしゃる意味にもよるかもしれませんが、
科学として理解する途上の概念は何でも、「定義」はできないと思います(ほとんどトートロジー?)。
ニュートンより前の人は、「力」を定義せよと言われても、
「あの押したり押されたりしてる感じの何かだよ」としか答えられなかったのではないでしょうか。
「力」という概念を他者と「ある程度」共有しているとい前提して、
議論相手と何を共通認識としているかを確認しながら、
議論を進めるしかなかっただろうと思います。
156 :
134:2011/03/27(日) 08:46:12.83 0
>>153 >>哲学乙って言われちゃいますよね。
>せ、正解
本当に?
>ゾンビはネタ振りだから、ここから意識概念の分析とか同一性と相関関係の区別とかをして暇を潰す。
これは一周回ってわかる気がしなくもないです。
でも最初に(チャーマースによって)ゾンビが持ち出されたときの意図って
本当にそういうものだったのですかね。
>>155 科学の基本は簡略化の上に計算を以って再現性を得る事ですよ
例え計算しきれずともπなどの一定の定義を必要とするし、そうでなければ共通の言語にならず再現性は得られない
要するに
>科学として理解する途上の概念は何でも、「定義」はできないと思います(ほとんどトートロジー?)。
こういうことを言う以上、意識を科学的に正確に扱う事は出来ない
意識は簡略化して計算モデルを作るためには複雑すぎ、しかも厄介な事に例えそれが出来たとしても人間に扱えるかどうか分からない代物となる
もちろん文学的に扱うのはかまわない
ただし文学は世界を正確に捉えるのには不足が多く、伝えるための共通性は少なく再現性はないため科学にはなりえない
ただし曖昧なものを曖昧なまま曖昧に扱う事は出来る
要するに曖昧なものを曖昧に定義することは可能であり、それによってとりあえずの回答を得る事も出来る
>>156 >>>哲学乙って言われちゃいますよね。
>>せ、正解
>
>本当に?
今の科学者の態度は大体こう↓
哲学者がかつて自然界についての問いに答えた事など一度も無い(むしろ失敗ばかり)
ただ哲学者が発する問いや概念には良いものがある。それは聞くべきだ。しかしそれにあまり惑わされてはいけない。 by クリストフ・コッホ
>でも最初に(チャーマースによって)ゾンビが持ち出されたときの意図って
>本当にそういうものだったのですかね。
当人の意図は「ゾンビについて考えろ。意識の還元は無理だろJK。新しい自然法則を探そうず」
キリスト教的な護教論で援用されることがあるけど、そういう意図ではない。
大学の学長が物理学科の教員に言った。
君たちはずいぶん研究費を使っているな。実験装置だのスタッフだの、まったく金がかかって困ったものだ。
数学科のようにはいかんかね。あそこでは鉛筆と紙とゴミ箱しかいらん。
哲学科のようだともっといい。あそこは鉛筆と紙しかいらん。
>>154 脳にとっての直接的な現実は神経を伝わってくる信号で,脳がそのパターンから
生み出した仮想現実を経験していると言っていいと思います.それで,「水槽の脳」
という仮想が成り立つわけです.水槽の脳が経験しているのは,コンピュータ内に
作られた世界で,自分の脳への操作は,その世界の脳への操作となり,現実の脳の
状態とにずれが生じるかもしてません.
脳への操作という過程は,あくまでも経験として認識されることです.その経験に
唯物的パターンを当てはめられるだけです.素朴に,他者による唯物的な経験を自分に
当てはめていいわけですが,それは,あくまでも構造的な合理性の説明にしかなりません.
同じ合理的結論は,水槽の脳もしているわけです.両者の違いは,自分自身の脳への
操作によって現れることになります.
経験に構造を与えているものが本当は何なのかは分かりませんが,自分自身の脳の
状態についての唯物的な認識と,主観は,状態の構造と実在の問題かもしれません.
>>154 >「脳で観測した結果を初期条件としてxx方程式を解くと、xx秒後に色のクオリアがこのように変わると予想されます」
>上記のように脳を解明したと想定してもそれでもまだ説明出来そうにないものって、なんなのでしょうか。
ここが哲学者と科学者の間でよくある齟齬かな。
脳の状態に対して関数的な対応関係で意識の状態が決まることを哲学者は付随とかスーパーヴィーンとか呼ぶ。つまり
f(脳の状態)=意識の状態
みたいな関数的な対応関係があることを意識の状態は能の状態に付随するなんて言う。
ここで脳も意識もスケールや観点が違うだけで同じものと考えるなら唯物論。ミクロとマクロの違いとかそんなんね。
そして脳と意識は違うもんと考えるなら二元論。
つまり実は哲学者はかなりどうでもいい事を話してる。同じものか、違うものかという。
現実の世界は,実は,情報の世界だという考えがあります.どちらかというと,科学側のアイデアです.
量子力学的にも都合がいいのかもしれません.
物体のイメージというのは,唯物論者にとっても多分に感覚的であり,本質的実体の必要条件を考えると,
情報だということになるようです.実際,物理学の計算に必要なものは情報であり,それ以上のものを考慮
しても結果に変わりがないなら,無意味です.したがって,唯物論は,唯情報論に還元できることになりま
す.空間そのものが情報として存在し,普通にイメージしている空間の広がりは,脳内で作られたものだと
いうことになります.
物理学が虚数を世界の構成要素にする正当性は,現象を説明する構造としての最適さにあります.唯情報論
も,構造的な最適さの問題にしかなりません.主観的実在は,構造を超えた問題です.
163 :
17:2011/03/30(水) 22:55:26.11 0
スレ主、
唯情報論は、貴方の言う「脳」が何であるかを度外視している。
脳は情報ですか?
唯情報論は観念論にしかならない、と私は思いますね。
>>163 素粒子を情報処理的に説明出来れば十分なんだと思います.
165 :
17:2011/03/31(木) 08:54:25.71 0
>>164 「素粒子を情報処理的に説明する」とは、例えばどんな作業なのでしょう?
>>165 私がそれを理解するのは難しいと思いますが,物理学が素朴な唯物論に収まらなくなって
きていることは確かです.どんなモデルを何によって構成しても,その計算結果が観測と
合っていれば正当であり,後は,最適さの問題になります.
唯物論の現実性は,それから計算できることの現実性がすべてです.モデルをどんな構造
にするかは,数学と同等の自由さがあります.
情報論なんて考えなくても,単に,物の存在を事実の存在に言い換えるだけで十分だと思い
ます.したがって,客観的な事実と主観的な事実の対応関係,両者の存在の違いは何かとい
う問題になります.
客観的な事実をどう組み合わせても,それは客観的な事実にしかならない.
客観的な事実の実在が主観的な事実の実在になるなら,脳以外の客観的な事実の実在も,主
観的な事実の実在にならなければならない.
事実の認識がある点に収束していくことから,経験の展開を統一的に束縛するものが存在す
ると言えます.解釈の幅があっても,何らかの条件を満たすものでなければならない.
普通に経験する物の存在を事実の存在に言い換えても,物的なモデルに変わりはない.
ちょっとした思いつきのたとえ話.
私が一人称小説の主人公だとすると,私の現在と時間経過は,その小説を誰かが読むことに
よって生じます.小説が存在するだけでは,その中のどこが現在かを決めるものは何もあり
ません.私の主観的経験の実在も,その小説自体にはなく,誰かが読むことによって生じま
す.科学は,その小説の記号的構造を調べているようなものです.そこからクオリアを導く
ことはできそうにありません.
「今・ここ・私」
はぜんぶ同じ問題だ、と永井均が言ってたような気がする。
「現在」も「この意識」も、まさに中心であるのに、科学で語れないという構造は似てる。
これは時間や意識が難しいというより、科学がかなり特殊な知識である
いびつな形で見た世界観であるから、なのかも。
170 :
考える名無しさん:2011/05/18(水) 09:50:41.76 0
哲学的ゾンビみたいな人を見たことある?
哲学的ゾンビみたいな人って・・・
外からの区別がつかないんだからゾンビ自身にしか分からないんでね
「意識など存在しない、存在するのは物理現象だけだ」などと堂々と言ってる人を見ると、
ひょっとしたらゾンビだろうかと思うけどなw
いや冗談ですよ、もちろん
>いや冗談ですよ、もちろん
そりゃそうだ
物理現象として、将来的にどこまで説明できるかは誰にもわからないものね
174 :
考える名無しさん:2011/05/18(水) 21:08:58.36 0
物理現象による説明が現状できていないとはいえ、
堂々とオカルト的説明を支持する人は果てしなく胡散臭い
>>172 え、本気でそう考えているけど変なのか?
>>172のどこが冗談だったのかを念のため補足しておくと、「ある種の言動をする人は
実はゾンビであり、それをしない人はちゃんと意識のある人間である」というように、
言動によってゾンビかどうかを判定することがもし出来るんなら、ゾンビかどうかは
外見等によっては決して判断できないという前提に反してしまうので、そんな話は
成り立たない、というところが冗談のつもりだったんだけどな。
(このことは、言動の内容が「存在するのは物理現象だけだ」でも、「意識の神秘は
間違いなく存在し、物理では決して解明できない」でも、別に変わらないのでは)
177 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MinorKeyQs :2011/05/22(日) 01:01:25.30 0
178 :
考える名無しさん:2011/05/22(日) 03:15:25.81 O
男の股間はおんなが蹴れるように蹴りやすい位置に
あるのであーる
179 :
考える名無しさん:2011/05/22(日) 03:27:44.39 0
女の胸に肉がついているのは、性格上、昔から上段を殴られることが多かったのが理由である。
認識が主観的な実在(クオリア)として現れている生物とそうでない生物の区別がある
とすると、後者は、哲学的ゾンビのいる側に分類できる。それも広い意味で哲学的ゾンビ
としてしまうと、人間は哲学的ゾンビではないが、人間以外の生物は哲学的ゾンビだと
する根拠はない。
哲学的ゾンビになるかどうかの唯物論的な区別は、神経細胞の違いか、神経組織の違いか
によって生じることになる。(魂があるかどうかだという問題なら、人間であっても
哲学的ゾンビでありえることになるかもしれない。)
機能としての認識なら、そのレベルの違いを構造的に説明できるだろうが、
その主観的実在への現れを説明するものはない。別に、主観的実在に現れなくても、
すべては物理的状態であればいいだけだ。
>1 の追加。
「スター・トレック」に出てくる「転送装置」は、人間を量子レベルに分解して
目的地に送り、再構成するものです。この場合、転送前の自己と、転送後の自己は
同一のものと言える理由は何でしょうか? 脳神経を構成している量子が一対一の
対応関係で移動した場合ということでしょうか? つまり、量子一つ一つが本人の
もので、本人のどこにあったものかが区別されるということです。しかし、脳細胞の
物質交代があっても、自己同一性に変わりがないなら、そこまで厳密である必要は
なさそうです。したがって、転送の過程で、量子の情報を同種の量子にコピーして
再構成しても、そのコピーに自己意識が受け継がれてもいいはずです。
ある人Aの物理的状態をコピーして、2人分作って、A′とA″を作ったら、どうなるのかね
どっちかだけが「意識を受け継ぐ」のかね?
むだむだ
ここの
>>1は自動筆記された文章をアップするだけの人工無能だから
過去ログ見てみな、理解していないのに
>>1をパターン変えて繰り返すだけって分かるから
他者は、客観的には哲学的ゾンビに等しい。第一に、他者は観察されるものとして存在し、
その客観的内容が唯物論的モデルで十分に説明できるなら、それ以上のものは不要です。何
らかの物理的状態が主観的実在として現れるなどということは考える必要はありません。物
理的状態は、物理的状態のままでいいことです。
私のコピーも、哲学的ゾンビに等しいわけですが、今の私は、過去の私の構成材料を少しず
つ入れ替えて再構成していった存在で、コピーよりも他人と言えます。その私にとって、過
去の私が哲学的ゾンビでないとする理由は、記憶の中の経験を根拠にしているだけです。も
し、タイムマシンで過去に行って自分に会えば、その自分は哲学的ゾンビに等しい。
私が哲学的ゾンビかどうかは、相対的な問題なのかもしれません。他者にとっては、私は哲
学的ゾンビに等しい。私には私を中心とした世界があり、他者には、他者を中心とした世界
がある。
唯物論的にも、世界は相対的な存在で、一つの絶対的な静止系の世界がそれぞれの慣性系で
どう見えるかというのではなく、それぞれを中心とする静止系の世界が存在するということ
のようです。それぞれが静止系なら、光速度が不変でもおかしくありません。宇宙の彼方に
あるどこかの星にいる誰かを中心とした世界も存在するわけです。
185 :
考える名無しさん:2011/05/29(日) 18:32:38.20 O
他者はある意味で哲学的ゾンビともいえる
なるほどそのとおり
しかしもちろん、唯一意識があるのは、
>>1ではなく私であって、
>>1は哲学的ゾンビにすぎない
なーんちゃって
なるべくなら[sage]で。
>>1については、おすぎとピーコやザ・たっちの双子を考えればすぐにナンセンスな話だと分かる。
哲学的ゾンビに関しては、仏教では既に解決済みの問題。
オリジナルもコピーも、過去の経験について同じ記憶を持つわけですが、それは、あくまで
もオリジナルが経験したことであって、コピーが経験したことではないというのは、オリジ
ナルがコピー不可能な絶対的に固有な何かを持ち続けることを意味します。物質代謝も超越
してオリジナルだけに受け継がれるものは何かという問題に展開するわけです。
そんなら、
>>1の話はどうなるの?
コピーしておいてオリジナルを始末したら、それでもコピーに主観的連続性はあるが、
それとは別にオリジナルにのみ受け継がれるものがある(
>>1の話では、それはなくなってしまう)
ということになるの?
>1 がおかしいなら、>189 となって、問題が生じるということです。
私は、「アキレスの亀」のように、面白い結論になるような論理を発想してちょっとした
問題提起をしたつもりなんですが、あまり通じてないようです。
192 :
17:2011/05/31(火) 23:46:13.17 0
オリジナルとコピーが分離した段階で
そこから先はオリジナルとコピーとの間に「前後」の関係は無いので
アキレスと亀の例えは当たらないように思う。
193 :
17:2011/05/31(火) 23:51:42.66 0
また
記憶というのは、蓄えられるものではなく
随時、再生産されると考えるのが妥当。
そのように記憶が「想起される活動」であるとするなら、
「想起」の時点に於いて尚、「オリジナルとコピーのレベル差はある」
とすることにあまり合理性を見いだせない。
194 :
17:2011/05/31(火) 23:54:09.62 0
いずれにせよ
「人間のコピー」が物理的にいったい何を意味するのか
実際のところはまるで分からないので
思考の娯楽でしかないわけだが・・・w
今の私は、一瞬前の私のコピーかもしれない。(いささかロマンチックな思いつき。)
>>191 逆に
>>1がおかしくないなら、
>>189のように「オリジナル固有のものとは何か」
などという問題は生じない、どちらかが成り立てばもう一方は成り立たない、
というだけのことなら、それはそのとおりだろうと思うけど。
さて「オリジナル固有のものなど何もない」と考えられるのかどうか。
ある人が「コピー機を使って、コピーを10m先に作る実験をしよう。しかし
実験段階だから、面倒なことにならないよう、作ったらすぐにコピーを抹殺
しなければならない。」と考えて、すぐに抹殺しようという固い決意のもと、
1m先に拳銃を準備してコピー開始した。
ところが、コピーを作る場所の調整が狂っていて、コピーがすぐ隣にできてしまった。
場所の調整以外はコピーは完全だったので、コピーも、相手をすぐに抹殺しようという
固い決意を持って生まれた。
そこで両方とも直ちに1m先の拳銃を取りに行ったが、間一髪、コピーのほうが早くて、
コピーがオリジナルを抹殺してしまった。
このような場合、オリジナル固有のものなどないのだから、要は計画どおり
一方が他方を抹殺したのであって何の問題もない(しかし場所の調整は直さないと)、
ということになるのだろうか。
オリジナル自身が、過去の自分のコピーなので、一方のコピーが受け継ぎ、他方が受け継が
ないものは何かということになります。
私がタイムマシンで過去に行って自分に会ったとすると、オリジナルの自分が二人存在する
ことになります。それは、オリジナル固有の何かがコピーされているようなものです。私は
最初に、未来から来た他者としての自分に会い、やがて、他者としての過去の自分に会うこ
とになります。その他者としての自分にコピーがあったとき、両者の区別は差別でしかない
かもしれません。(タイムマシンが否定される理由の一つが出てくればおもしろい。)
いずれにしても、主観的実在として現れてくるものがあることが根本問題で、それさえなけ
れば、すべての人間、すべての生物は哲学的ゾンビであり、オリジナルとコピーを区別する
意味はありません。
一つの空想的死後。
主観的な実在(クオリア)を経験している時間経過を主観的な有の時間とすると、無の時間
は主観的に無に等しい。有と有の間が不連続であっても、無の間隔はない。
今の私の脳を中心として存在する世界での有が一回限りだとしても、一度でもあるなら、別
の脳を中心として存在する世界での有が前後にあったとしてもおかしくない。ただし、それ
が他者にとっての主観的有とどう違うのかは分からない。
そして、その有は、同じ時代のものである必要はないかもしれない。時空上の遥か未来の有
かもしれないし、遥か過去の有かもしれない。量子力学の多世界解釈なら、別の運命の自分
をやり直すこともあるかもしれない。全く同じ経験を繰り返すことは、確率的にあり得ない
に等しいわけである。
200 :
考える名無しさん:2011/07/07(木) 19:30:57.70 0
200
複雑な脳を持つあたし
意識を持つということと複雑であるということ
意識も内包した世界
世界という規定に問題
世界は全てという論理的枠組みにすぎない
それは現実と異なる
自身が機能するために自身の意識が必要不可欠だった
自身のそうした形、状態が自身の意識と同一であった
202 :
考える名無しさん:2011/07/08(金) 06:41:34.34 O
サンクスの前はメール。カレーの前はラーメン。自転車と言えばシロジャケ
10年前ストーカーのゾンビは心優しきネアンデルタール人
「我思う。ゆえに我あり。」の論理は、「すべての命題が偽であるなら、このこと自体が偽
となり、矛盾する。よって、真実が存在する」という論理と相似している。
204 :
考える名無しさん:2011/07/12(火) 22:31:41.54 0
面白いスレを見つけたので読んでいたんだけど、150くらいのところで疲れてしまった…
物理的に完全に同じ人間を作れたとする(オリジナルがAに対しコピーがB)
BはたぶんAとは独立した人格を持つ(Aの脳とBの脳の間で情報のやり取りはほとんどないから)
Aの脳細胞とBの脳細胞を1個交換したとする
AとBの人格は維持されると思う
2個目の細胞を交換したとする、たぶんそれぞれの人格はまだ維持されている
これを繰り返して最終的に全脳細胞を交換したとする、AはA、BはBのままなのではないか?
次に細胞1個1個づつではなく、一発で脳をそっくり入れ替えたとする
AとBの人格は(身体の方から見て)入れ替わると思う
根拠は全くないが、そんな気がする
一瞬で脳死するだろう。
1個づつ変える方法は、コピー作成直後でない限り途中で記憶障害内などの精神疾患を起こす
神経細胞のリレーションで記憶を作っている以上、それが崩れることは傷害が発生することを意味する
そしてその実験を机上の空論たらしめていることは、コピー後意識を取り戻し、脳が記憶活動を始めた時点で上記の理由により瓦解する実験ということだ
人間の起動確認には、インプットを入れてそこから来るアウトプットで確認するしかないが、インプットをした時点で記憶活動は始まってしまう
要するに人格の確認はどの時点でもとれないこととなり、その確認は不可能になる
時間が戻す技術がある前提で考えれば良い
現実性の観点から思考を制限してしまうのは勿体無い
コピー直後の状態であればA=Bだろ
双方に差異はないんだから、どれだけ中身を交換してもAはBだしBはAだしAはAでBはBだ
時間を戻しても、交換量を変えても出てくる答えは変わらない
コピーとオリジナルに違いがあれば当然前提が変わってくるので
>>204は成り立たない
「テセウスの船」に「客観と主観」を絡めた問題です。「砂山のパラドックス」も関係して
います。
肉体は、細胞のコピーで維持されますが、脳細胞も物質交代をしているなら、現在の私は、
過去の私の模造品と言えそうです。
客観的には、私の固有性を物の固有性に求められない。ある脳細胞にとって、他の脳細胞が
オリジナルかコピーかを区別する意味はないでしょう。問題は、その脳細胞がどういう働き
をするかです。そこに差異があるなら、コピーに失敗しているだけです。
唯物論だけで考えるなら、哲学的ゾンビも何の問題にもならないと思います。
210 :
考える名無しさん:2011/07/14(木) 20:34:22.39 0
すごく可愛い女の子がもし哲学的ゾンビだったとしたら
宇宙とはなんて虚しい場所なんだろうとか
たまに考える
あらゆる快楽を体験しきった我々が最後に行き着いたのは人形への フェティシズムだった。
>>210 その子が君と相対しているときのクオリアを感じないのは
ある意味その子にとって幸せかもしれないね。
>>1 数秒じゃ遅いでしょ
コピーしている間にも、移動させる間にも、
オリジナル脳は新しい働きをするよ
だからコピーはオリジナルと完全に同じでは無い
あと、なんでこれが「哲学的」ゾンビなと呼ばれるのかわからない
214 :
考える名無しさん:2011/07/15(金) 07:54:02.22 0
高校の物理の問題でよくある「このとき空気抵抗は考えない」
みたいにしないと
こういう話題は先に進めないだろ
/)
///)
/,.=゙''"/
/ i f ,.r='"-‐'つ____ こまけぇこたぁ・・・・・・
/ / _,.-‐'~/⌒ ⌒\
/ ,i ,二ニ⊃( ●). (●)\
/ ノ il゙フ::::::⌒(__人__)⌒::::: \
,イ「ト、 ,!,!| |r┬-| |
/ iトヾヽ_/ィ"\ `ー'´ /
/ ̄ ̄ ̄\
/ ─ ─ \
/ (●) (●) \. ・・・・・・・・・
| (__人__) |
\ ` ⌒´ /
/ \
____
/ \
/ ─ ─\
/ (●) (●) \ こまけえこと無視したら哲学なんていらねえな
| (__人__) |
/ ∩ノ ⊃ /
( \ / _ノ | |
.\ “ /__| |
\ /___ /
>>213 物理状態の完全な複製が原理的にどこまで可能か?という話なら面白いな
技術的には複雑になるだろうけど、必ずしも原理的に不可能なようにも思えない。
量子暗号とか量子ゼノン効果とか、ここらへんは実証科学を通じて得られるものが多いだろう。
後者は単に哲学者が論じる(意識についての)ゾンビだから、そう言われてるだけ
>>218 >後者は単に哲学者が論じる(意識についての)ゾンビだから、そう言われてるだけ
そういうことをいってるんじゃなくって、哲学ゾンビとは何の関係もないはずの話なのに堂々と
>>1に書いてあるから「は?」と思ってるじゃね?
ただ、その指摘は意外に遅く
>>34になるまで誰も指摘していなかった
もっとも人体の構築に数秒かける割に完璧なコピーという矛盾は
>>213まで指摘されなかったことからも、
>>1にはまだまだ突っ込み所が隠されている可能性が高い
完全なコピーを作るのに数秒もかけてたらグチャグチャにいじくられた不完全なコピー体が残るだけだよw
構築に数秒と言う事は凍結でもしていない限り体液は動きまくるけど、それはどうするの?
もし凍結解凍するんでも、人体の構成物質の劣化すら考慮に入れたコピーじゃないと完全なコピーじゃないしね
作った瞬間に秒単位で変化した補正をかけて、それにかかった時間分さらに補正が必要になる
おお、まさにゼノンのパラドックスw
222 :
考える名無しさん:2011/07/16(土) 13:00:13.20 0
実現の可能性や
より現実的になんて前提与えてたら
考える意味ないじゃん
「無理です」「分かりません」で終わっちゃう
>>1は仮に完全な複製ができたとしたら
クオリアがどうなるか?を考えたいんでしょ?
万物に種類や程度の差こそあれクオリアがあるとしたら
すでに完全複製はどっかで発生しているだろうね
ちなみに
>>220読んで初めてなんでスレタイに哲学的ゾンビが入っているのかが
分かった
>>222 完全な複製であればクオリアも発生する
これが唯物論だろ
同質であれば同様である唯物論と、同質でも同様かどうか分からないゾンビは関係ねえよ
複製であればクオリアは生じないと完全に言い切るのであれば別だが、そうなると今度は神様と魂の出番だしな
ゾンビはどちらかといえばコギトに近い
224 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MinorKeyQs :2011/07/16(土) 23:31:13.04 0
>>214 それじゃ哲学的に考察する意味が無くなるし
225 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MinorKeyQs :2011/07/16(土) 23:33:19.44 0
>>218 それなら哲学じゃなく生物学かなんかになる
クローンとかあるでしょ
226 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MinorKeyQs :2011/07/16(土) 23:36:48.50 0
>>219 意識のゾンビねえ
脳みそ移植しても完全に同じにはならないような
感覚器官は変わるから
うっかりライプニッツのモナトロジー買っちゃったよ
しかもドイツ語という
解読作業に戻らなきゃ
>>226 うん、ここまでちゃんと話を読んでないやつは久しぶりだw
>>227 哲学板にはそもそも命題からおかしいスレがいくつもある
まともに読んでいたらキリが無いのです
一瞬納得しかけたじゃねえかw
230 :
考える名無しさん:2011/07/19(火) 03:09:29.05 0
2chってさ、まったく理解してないのに反論したいやつが多いよね。
このスレ見て思った。
>>1を論破したとか反論してるとか言ってるやつは哲学を全く理解できてないどころか、
見当違いも甚だしい理解をしているのだと思う。特に
>>34 自己の主観の連続性と哲学的ゾンビの問題は大いに関連性があるだろう。
231 :
考える名無しさん:2011/07/19(火) 19:59:25.64 0
たまに気が遠くなるほどのバカっているけど
>>1はほとんど全てのレスに真面目に回答しているところが凄いと思った
ですます調崩さないし、フリーザ様かと思ったよ
いつも自演でスレのばしている人だよね
やっぱり波平やん?
>>230 じゃあどのように関連性があるか説明してみ
きちんと説明できなければ君はただの荒らしでしかないよ
もしくはですます調がいやになって切れた
>>1の自演自己弁護と言えるかもね
どちらにしても批判するならまずどこがおかしいか反論してよ
なるべくなら、sageでお願いします。
このスレッドは、哲学的なパラドックスを思いついたという程度のものです。それに幾らかの
反応があったりしますが、マインドマップの枝が自動で延びてくれるような感じです。そこに
また私の枝を付け加えていくわけです。
マインドマップ的には、かみ合わない考えというのにも、何かのヒントがあるかもしれません。
色々な意味で手に負えなければ無視すればいいだけです。無視というのは、保留を意味する
可能性もあります。
>>234 ヒント:スワンプマン クオリア テセウスの船 砂山のパラドックス
これだけあれば
>>1の思考の足跡に辿り着けるはずなんだがな。
さて、君が根拠を出せというのだから、君自身も根拠のないことは言えないわけだよね?
では、君に一つ説明を求めます。
どういう理屈で
>>230(私)が
>>1と同一人物であると判断したのでしょうか。
論理的な回答をお願いします。『俺がそう思ったから』は論理的ではありませんので悪しからず。
自らが敵視あるいは何らかの対抗心のようなものを持っている相手を
弁護するものは自作自演という考え方は、2ch特有のステレオタイプな考え方ですね。
237 :
もしAKBの人気アイドルがボイルの「 28週後...」に生きたら:2011/07/22(金) 17:51:11.00 0
今でも思い出すラブゾンビ陽子
>>236 あのさ、君の挙げたヒントのうち、クオリア以外とクオリアを結びつけるものが全く説明されてないって分かってる?
自分以外にクオリアがあると証明できる者はいないし、逆に自分以外にクオリアが無いとも証明できない
そのようなことがあればだが、器質的な欠損でクオリアがなくなってしまたとしても、表現するべきクオリアがなくなるため、そもそもクオリアが無くなったという事も言えなくなってしまう
もし君が
>>1ではないとしたら、
>>1と全く同じ大間違いをしているわけだ
ちなみに
>>1とは断定してないよ、可能性の問題としてあげただけ
2chでは「本人乙」とか「業者乙」とか普通に使われることだ
ちなみにテセウスの船や砂山のパラドックスは、それをそのように定義した人間がいるからそうなっているのであり、そう定義しない人間にとってはただの船や塵あくたである
聞くが、岩はどこから石で、石はどこから砂になるんだ?
240 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MinorKeyQs :2011/07/22(金) 23:23:39.52 0
wiki見てきた
やっぱり
>>1が考察しているものは
哲学的ゾンビとは違うね
ところで、コピーするのに数秒もかからなかったとして、
(つまり瞬時にコピーができると仮定して)も、
さらにコピーが意識を持つことができたとしても、
オリジナルとコピーの意識が異なるなら、
それは人工生命体のようなもので、
オリジナルとは別の何かでしか無いと思うよ
そう。哲学的ゾンビはクオリアが自然的な付随性であることを論証するための思考実験。
>>1の思考実験は自己同一性や自我同一性の問題で、パーフィットがやってるのと同じ。
>>1 「コピー」とか「本物」とかいっている時点で、
「移動」装置にはなっていないのでは。
「移動」とか「変化」は、同一性を前提にしないと意味がない概念だと思います。
私は、次のように考えました。
地球上に65億も人がいるのに、だれひとり同じ心を持っていない。
少なくとも、おなじ心を持っているという例は一卵性双生児を
もってしても、確認された事はない。
通常この事実は、完全に同じ脳が完全に同じ環境に晒されないからだと
考えられているのであろうが、事実は逆じゃないのか?
事実はそう、心とは、魂とは、決して同一性が無い、という原理によって
できている。
したがって、コピー人間を作ってみても、おなじ心は決して生まれない。
>少なくとも、おなじ心を持っているという例は一卵性双生児を
>もってしても、確認された事はない。
そうではなくて、原理的に自分の心以外は確認しようがないのだから、
同じか違うかわからない、ということでは。
245 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MinorKeyQs :2011/07/23(土) 00:28:58.53 0
>>242 そうでも無いよ
哲学的ゾンビをつくることが可能なら、
ゾンビワールド(一種のパラレルワールド)をつくることができる
ただし、哲学的ゾンビに内的意識や感情は無いから、
「オリジナルの意識」そのものをゾンビワールドのゾンビ(つまり自分の予備)に
移動させることになる
そんなことが実現できるかどうかは別として
>>243 >地球上に65億も人がいるのに、だれひとり同じ心を持っていない
65億もの人をどうやって調べたの?
>65億もの人をどうやって調べたの?
よく読んでください、私は、
>地球上に65億も人がいるのに、だれひとり同じ心を持っていない。
>少なくとも、おなじ心を持っているという例は一卵性双生児を
>もってしても、確認された事はない。
少なくとも以下が、私の主張です。
確認されたことはない = 絶対におなじ心が無い
と言う意味でもありません。あくまで確認されていないに過ぎないし、
それ以上を求めるのはそもそも無理じゃないのか?と言いたいのです。
248 :
考える名無しさん:2011/07/23(土) 01:29:45.74 O
そもそもオリジナルが居ない。
永井の言う「私はなぜ私か」問題だな。
なぜかこの二つの目玉を通して世界を見ていて
この体だけ殴られると痛く、動かそうと思うとこの手が動く。
なぜ隣にいるあの人の頭部についているあの二つの目玉を通して世界を見ているのではなく、
また殴られて痛いのがあの体でもなく、動かそうと思って動くのがあの手ではないのか?
<私>はなぜこの私なのか?
俺もパラドックスを考えた、名付けて「応用のパラドックス」
「応用」とは自然の法則を解き明かし
これを利用して未来をより「快適に」だとか「効率的に」することである
しかし宇宙が自然の法則に支配されているからには快適や効率的になった未来もまた必然のもので
そこには「応用」などというものはなかったことになる
では「応用」はどうすれば可能なのか?
それには応用し未来を変えることができる自由意思という超自然の存在が前提となり、
超自然はそれが存在した瞬間に法則への信頼は無くなってしまうので、
従って応用とは有り得ないことなのである
今の私は、物質的に、過去の私の模造品であり、コピーよりも他人だと言えます。この現実を
問題にしないのが不思議です。ただし、哲学的ゾンビの世界では、何の問題にもならないわけ
です。
この問題はナゾのようにも思えるし、擬似問題のようにも思えるし戸惑う所だな。
弱い人間原理的な解決もあり得るような気がする。
逆にもしそうした消去ができないなら、アートマンみたいな所にいくしかないような。
ゾンビっつーと、チャーマーズのゾンビ論法を意味するのが普通だから、
先人に敬意を表して哲学的コピー論法とでも命名したら?
>>251 今の私とコピーとでは、コピーのほうが、過去の私からより多くを受け継いでいる。
>>245 >「オリジナルの意識」そのものをゾンビワールドのゾンビ(つまり自分の予備)に
>移動させることになる
趣旨がまったくわかりませんが、「オリジナルの意識そのもの」を「移動」させる
ことができるなら、つまり意識そのものの同一性が保たれているということで
(意識の同一性をどうやって判定するのかわかりませんが)、
>>1の例とは
根本的に違うと思います。
それと、この話と「哲学的ゾンビ」と何の関係があるのか、どうもわかりません。
全く無関係ではないでしょうか。
256 :
考える名無しさん:2011/07/24(日) 11:55:03.86 0
プラナリアはちょん切るとそれぞれの断片が個体になるけど
両方の意識が過去の自分からの連続性を保っていると思う
ただしそれらは別人格、両者のあいだに直接の情報のやり取りが無いから
一枚の生地があったとして、そいつの人格は一つだった
生地はちょん切られて裁縫されて2つのパンツになる
一方はカワイ子ちゃんに買われた、もう一方はジャイ子に買われた
一方は幸せを、もう一方は苦痛を、感じているはずだと思う
257 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MinorKeyQs :2011/07/25(月) 04:41:08.42 0
>>255 その例は「哲学的ゾンビ」「ゾンビワールド」を創ることが
仮に成功したとして、応用例を示したまでです
意識そのものの同一性が保たれていない、
あるいはコピー元とコピー先の意識が異なるとしたら、
それはもはや哲学的ゾンビの定義からは外れるので、
物質的に確認できる部分だけは全く同一の
別物としか言えないでしょう
ゾンビであるとはどのようなことか?
答えられるの?
>>258 「哲学的ゾンビ」の定義なら
wikiに出ているよ
>>257 ええと、「オリジナルの意識そのもの」を「移動」させることができるかどうかと、
ゾンビの話と何の関係があるのかわからない、ということです。
肉体と独立の「意識そのもの」があるのなら、それを別の肉体に移動させることは
原理的に可能なはずで、それと哲学的ゾンビ云々とは全く無関係だとしか
思えないのですが。
>>1は、「コピーを作り」「本物の自分は殺して始末する」と言っている
時点で、すでに「移動」の定義から外れているのではないか、ということです。
261 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MinorKeyQs :2011/07/26(火) 20:04:19.58 0
>>260 だから“「仮に」哲学的ゾンビがつくれるとしたら”
という仮定の基での例だと
“哲学的ゾンビは絶対にあり得ない”
としちゃったら、このスレ終了でしょ
>>261 いや、ですから、哲学的ゾンビが作れるとしても(別に作れない理由はないと
思いますが)作れないとしても、「オリジナルの意識そのものを移動させることが
できるかどうか」とは、何の関係もないとしか思えないのですが。
そもそも、>>1の内容と哲学的ゾンビと、何の関係があるのでしょうか。
後ねえ、
>>1が外れているのは
「移動」の定義では無くて、
「哲学的ゾンビ」の定義だよ
>>260
仮定を基にして話をすることができないって
イライラしてくる馬鹿だね
めちゃくちゃな仮定を元にして話をすれば
話がめちゃくちゃになるのは当たり前でしょ。
自分は自分だが
今の自分は決して過去の自分にはなれない
物質的に完全に同一なもう一人の自分というものは
過去の自分が現在に現れたような状態なのではないか?
>>1は、哲学的ゾンビについて語っているわけではないです。哲学的ゾンビの問題に
関係しているというだけです。
哲学的ゾンビの世界では、脳内の物理的状態に対応した主観的実在などというものを考える必要は
ないので
>>1のような問題はないわけです。
ところで、パラドックスというのは、結論のおかしさを問題にするよりも、その結論が導かれる
論理を問題にするものです。
>>265 滅茶苦茶な仮定と断言できる理由を教えて欲しい
わたしは「哲学的ゾンビ」は不可能だという立場です。
けれども、絶対とは言い切れない
不確実性と悪魔の証明的要素が多すぎるから
>>266 違います
物質的に完全に同一であれ、
過去または未来の自分と
現在の自分には、
意識の隔たりがあるからです。
それはもはや「哲学的ゾンビ」では無いのですから
あのさ、哲学的ゾンビってのはシュレディンガーの猫と同様『非実在の思考モデル』なんだよね
で、それをこねくり回すと、その時点で本来の特性は失われる可能性は高いわけ
「いつでも殺せる量子ゾンビの猫を作ろう」なんてやったら、本来の猫の特性すら怪しくなるわけ
同じように「哲学的ゾンビを作って、それと本人の組成を入れ替えてみよう」なんてやれば本来のゾンビを否定もできちゃうわけだ
なぜなら「意図的に作れる」ということは「その仕組みが分かる」ということで、そうすると「思考モデルではなくただの現物との差異」に落ちちゃうわけ
器質的には全く同じだがゾンビは作れるとなれば、入れ替え以前に今度はその差異に言及しなければならないだろうね
>>1の間抜けorずるいところは、作り出したコピーを哲学的ゾンビと言っていないこと
その時点でもうそれは哲学的ゾンビについての話とはなっていないんだよ
もし言っていたら「作れたのなら仕組みがあるはずだが、オリジナルとの差異はどこにあるか」をまず突っ込んでたよ
想像可能なことは語の正しい用法を守ってる。
つまり「猫が空を飛んだ」が想像可能なら、
それは「猫」という語の意味を外れていない。
つまり猫は空を飛ぶことは論理的に可能であり、
そのことは論理学的に証明されている。
詳しくは「可能世界意味論」で検索しよう。
街ゆく猫だって空を飛んじゃう街で、
キミの存在さえリアリティーがないんだよ
あああああああああああああああ
それは確率的直観が低いというだけ
>>272 で、その空を飛んだ猫は本来の猫なのか?
土星からの猫とかじゃないの?
まあ確かに空を飛ぶ猫も猫ではあるが、猫全てが空を飛べるとはならないよな
「空を飛ぶ猫はいる」と「猫は空を飛ばない」は同時に存在できるが、一匹の猫に両方を当てはめることはできない
思考モデルをこねくり回す行為は、それをやる行為だってこと
思考モデルに乗っかって全くの別物を作っちゃった後に「同一だ」と言い張る危険が大きいんだよ
>>275 空を飛ぼうが飛ぶまいが本来の「猫」の語の意味は失われないってことだよ
「必ず生きているシュレディンガーの猫」は、「本来の思考実験のシュレディンガーの猫」という条件を満たすの?
装置が壊れているシュレディンガーの猫はただの猫じゃない?
278 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MinorKeyQs :2011/07/27(水) 14:19:24.48 0
>>270 それは想像力の欠如でしかない
仮想モデルが秘める可能性をあれこれ模索することは
本来楽しいことなんですよ
それが人間の知でもあるわけで
>>277 個物の確定記述と矛盾する可能性はないというだけ。
いや?
ニクソンがアメリカ大統領にならず靴屋になっていたとしてもニクソンはニクソンだよw
281 :
考える名無しさん:2011/07/27(水) 14:33:47.23 0
猫が空を飛ぶことは論理的に可能だってのが、論理学的に
「証明」されてんの??? 何だそりゃw
>>280 でも靴屋になったらニクソンアメリカ大統領ではないはな
哲学的ゾンビもシュレディンガーの猫も同様
ヘタにいじるとただのゾンビと猫になる
283 :
考える名無しさん:2011/07/27(水) 14:46:19.69 0
実在する個人と記述によって与えられる可能的対象を同列に論じていいのかい?
可能性について本気で知りたかったら様相論理を勉強しろ
ちなみに現実的なもの全て偶然的なものなので、
猫が空を飛ばないのは偶然ですw
この場合「ニクソンアメリカ大統領」という一綴りの記号での話しになってるだろ
別にニクソンでなくとも資格を有するアメリカ人は大統領になる可能性はある
しかしそいつが大統領となった場合と大統領にならなかった場合を同列にして大統領として扱っていいのかって話
同列に扱っていいのであれば、資格を有するアメリカ人はみな大統領として扱わなければいけない、となってしまう。この場合は全ての猫は量子的に不確定になるね
同列に扱ってはいけないのであれば、靴屋のニクソンはあくまで靴屋のニクソンであり、シュレディンガーの猫はシュレディンガーの猫でありただの猫とは違うな
可能性の話を広げすぎると細部で破綻するよ
まあ、飲み屋街には社長だのなんだのはゴロゴロいるがね
とっちらかってるな
>>284 > ちなみに現実的なもの全て偶然的なものなので
誰がそんなこと言ったんだよw
いやマジで。
それじゃ必然というものが有り得なくならない?
「テセウスの船」のパラドックスと同類なんですけどね。
それは違うよ
テセウスの船で例えると
修理を繰り返したが元の造詣を忠実に修理して原形を全く失っていないが、当時の部材はほとんど残っていないものでもテセウスの船といえるのか
と
修理どころかアップグレードしまくって原形すらとどめていないテセウスの船でも、テセウスが使っていた船といえるのか
さらに可能性を言い立てるものの話に乗るなら
当時の船はどれでもテセウスが乗る可能性があったのだから当時からあった船全てがテセウスの船となる
くらいの違いはある
「スター・トレック」に出てくる転送装置は、ほとんど物質的コピー機と言えます。
ただし、コピーのための材料を、オリジナルを分解して手に入れているわけです。
つまり、コピーしてからオリジナルを殺すのではなく、コピーの途中でオリジナル
を殺しているわけです。
>>291 それについてはゾンビ関係ないじゃんと何度言えば分かる?
>>264 違いますよ。哲学的ゾンビを作ることができると仮定しても全然かまいません。
そのことと、「オリジナルの意識そのものを移動させることができるかどうか」
と何の関係があるのかわからない、ということです。
>>1のように自分のコピーを作ったとして、それが哲学的ゾンビであるなら
私の意識の移動とは全然関係ないですし、それが哲学的ゾンビでなくて
内的な意識をもっているなら、それはコピーの意識であってオリジナルの意識では
全然ないと思います。現に
>>1で「自分のコピーを作り、本物の自分はこっそり殺して」
と書いてしまっているので、それではオリジナルの意識そのものを移動させたことに
ならないのは自明ではないか、ということです。
要は「オリジナルの肉体であるかどうか」と「オリジナルの意識であるかどうか」は
別々には考えられないのであって、もしも考えられるのなら、意識が肉体とは
独立に存在できる、ということですから、別にゾンビなど作らなくても意識の移動は
可能ではないか(どうやるのかはわかりませんが)、ということです。
哲学的ゾンビをコピーする場合、それは、コンピューターをコピーするのと変わらない。
オリジナルかコピーかのどちらかを破壊しなければならないとすると、そのどちらを破壊
しても、残った方を今まで通りに使っていける(付き合っていける)。
問題は、コピーされるのが哲学的ゾンビでない場合です。
>>296 コンピューターのコピーの場合でも、どちらを使っても同じであっても、
どちらかがコピーでどちらかがオリジナルであることに変わりありません。
両者は全く別個の存在であって、
見分けがつくかどうかも問題の本質と関係ありません。
人体のコピーがゾンビでなくて内的意識を持っていても、それは
どこまでいってもコピーの意識であって、第三者から見て
見分けがつかなくても、オリジナルの意識はあくまでもオリジナルの意識であって、
コピーの意識はあくまでもコピーの意識でしょう。
(それぞれが、自分がコピーなのかオリジナルなのかの判断はつかないと
思いますが、それも問題の本質と関係ないと思います。)
オリジナルの意識の方を殺してコピーの意識を残したとしても、
「オリジナルの意識そのものを移動させた」ことにならないのは定義上
自明ではないか、ということです。
そうなると、そもそも、今からコピーしようとしている相手がゾンビかどうかを、
どうやって判定するんだ?w
なぜか、「テセウスの船」のパラドックスを参考にした操作が無視されてしまう。
>>1の論理の要なんですが。
>>297 なたの肉体は、細胞が複製されて維持されています。
そして、脳細胞も、物質交代で維持されています。
あなたは、物質的に、過去のあなたの模造品であり、コピーよりも他人です。
だってテセウスの船と違うからな
テセウスの船の場合はそれをテセウスの船と定義する奴が外部にいて、船自身は主張しないが
>>1の場合は船自身が「おれはテセウスの船だ」と主張しちゃうんだよ
観測する人間が観測される側でもあるんだから必然的に状態は固定化しちゃうだろ?
>>288 ラッセル、ウィトゲンシュタイン、ルイス、クリプキ……
というか論理学じゃ常識だよw
ちなみに必然的真理というのはトートロジーのこと。
A=AはたとえAがどんなものを名指しする場合にも真。
>>303 ルイスのことは正直ほとんど勉強未了けど、まず、なぜそこにラッセルとか
ウィトゲンシュタインが入ってくるの?
様相論理の話をしてたんじゃないの?
あと、クリプキも、そんなことを言っているのなら、向学のために(日本語で
確認できるようなものなら)教えてほしいんだけど。
現実的なものは全て偶然的である、などと言ったら、有名な「アポステリオリな
必然的真理」が成り立たなくなるんじゃないかと思うんだけど。
事故や病気で右脳や左脳を失った人間でも、それぞれにある程度の意識はあるように見える。
すると、分離脳の状態にある人間は、2つの意識を持つことになる。 始めは一つだった意識が
分離され、一方にとって他方は他者の意識となる。
私は、主観的には、どちらの意識で目覚めるのだろうか? 今まで、ずっと特定の人間の意識
で目覚めてきたのだ。
これは、量子力学の多世界解釈で、一人の観察者に対して、異なる運命を観察する未来がどれ
も実現されるというのと似たことになるかもしれない。客観的には、右脳の意識で目覚める
自分も左脳の意識で目覚める自分も存在するが、主観的には、どちらかの運命を経験していく
ことになる。
永井均が悩んでたよ。
私は鳩山由紀夫の二つの目を通して世界を見ていてもよかっただろう
なぜ私は鳩山由紀夫ではなく永井均なのか?って
時間のクオリアと場所のクオリアがある。
それが特定の身体であるということはおそらく確実だろうが、
確実とは結局言えないんじゃないか。
ラッセルじゃないが、そこまで強力な議論は期待してないなぁ。
>>305 どうやらこの人は
車はバイクが二つくっついたもの
と言う見方をするらしい
309 :
考える名無しさん:2011/07/29(金) 20:48:15.14 0
難しい例えだな
310 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MinorKeyQs :2011/07/29(金) 23:14:08.68 0
>>267 それなら何故『哲学的ゾンビについての一考察』というスレタイにしたし
>>1がフラフラし過ぎなんだよ
考察している内容とタイトルが合致していなければ
スレが混乱するのは当然の成り行きだよ
311 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MinorKeyQs :2011/07/29(金) 23:18:49.75 0
>>267 ついでに
>>1は「哲学的ゾンビ」の問題に関連してさえいない
「哲学的ゾンビ」から離れるか、
「哲学的ゾンビ」について語るのかハッキリしてくれないと
パラドックスについて語ることはできないよ
命題そのものが不明確なんだから
思索はふらふらするものだお
313 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MinorKeyQs :2011/07/29(金) 23:24:40.34 0
>>306 鳩山由紀夫の目を通して世界を見るために
鳩山由紀夫になる必要は無いよ
「鳩山由紀夫」のものの受け止め方と思考と、
その結果の表現方法を理解すればいいだけ
難しいけど
314 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MinorKeyQs :2011/07/29(金) 23:26:49.55 0
>>312 思索がフラフラしてるんじゃ無いでしょ
前提とする命題そのものがフラフラしてるの
だから思索に進むことさえできなくなってる
それがこのスレの現状
蝙蝠ちゃん落ち着くだお
現在の状況
算数の問題です
太郎君は千円持って買い物に行きました
お店に行く途中であった友達に聞かれました
「善は急げ」「急がば回れ」どっちが正しいの?
さあ、日本経済はこの先どうなるでしょう
このくらいふらっふら
>>313 哲学的ゾンビの世界なら、「情報の問題でしかないから」と言えるんですが…。
>>317 そう言う為には
・鳩山由紀夫には主体的感情も意思も無い
ことを先に証明しないと
それから情報の定義も
人間の思考や感情をただの情報で割りきれるなら
誰も苦労はしないよ
>>315 落ち着いてるよ
>>318 哲学的ゾンビの世界なら、
>>313の答えで十分だし、永井均もそんなジョークを言わなくて
済んだという論理です。
ある仮定自体の現実性と、ある仮定からある命題が導かれる論理性は別物です。
「非ユークリッド幾何学の世界なら」と言ったら、「ある直線に対して、ある一点を通る
平行線が一つでないことを先に証明しないと」なんて言われても困ってしまいます。
>>319 で、スレタイと
>>1で
どんな仮定からどんな命題を導きだしたの
何の繋がりも無いものを
あたかも関連性があるように書かれても困るでしょうに
俺
>>1みたいな仮定立てて考えるのは面白いと思うんだけど
どうして
>>1はやたら絡まれるんだ?
>>1みたいな結論はたぶん得られないということは皆直感的に思うんだけど、
理論と実践のどちらでも証明することができないからこそ
あーでもないこーでもないするんだし、それこそが学習の目的である娯楽なんじゃん
でそのあーこーの過程で哲学的ゾンビが出てくるのはごく自然な内容だし
それほど噛みつくところじゃないと思うんだが
322 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MinorKeyQs :2011/07/30(土) 18:56:08.21 0
>>321 あーこーの過程で出てきたんじゃ無いでしょ
>哲学的ゾンビ
最初に
「わたしは哲学的ゾンビについて話します」
と言っておきながら、
別の事象について語られても困るってこと
そもそも主観的連続自体幻想なんだよ
自己と「コピーされた自己」と同一なのか?
自己がこれまで得てきた「経験」すらも「コピー」
されるのか?
仮にすべてがコピーされたとしてもやはり高速の「移動装置」
にはなりえないだろう。移動とは物体があるところから他方へ
進むことを意味していて、
>>1のいうコピーとはこちらの自己に
関するあらゆる情報を離れた場所にある「コピー機」に転送して、
そこにある素材(物質)を使って「自己」を作り上げるということ
結局は自己ではなくて電磁波が移動していることになる。
他人から見れば同じ人間なんだけど
自分自身にとってどうなるかって話だろう。
離れた場所への転送、コピーも、普段体を構成する物質が入れ替わっているのも同じこと。
だとすれば、それはどういうことか・・・わらからん
哲学的ゾンビというのは他人から見た話
>>324 完璧なコピーならコピー直後は同一で同時に別個のものだろ
同一のものじゃないなら完璧なコピーじゃないし
別個のものじゃないなら一卵性双生児は同一の人間になっちまう
それにあんさんがそこでご大層に語っているのは
>>2で終わった話だよ
328 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MinorKeyQs :2011/07/30(土) 23:39:50.77 0
>>326 哲学的ゾンビ自身がみても
哲学的ゾンビは哲学的ゾンビだよ
>>328 それは他人にとっての自分自身だろ。
意識があるかどうかわからない=哲学的ゾンビだから
思考実験以前に他人の存在自体が哲学的ゾンビと同じなんだよ
他人に意識があるかと思ってるのは、
意識を確認できる自分自身と照らし合わせてあるだろうと思ってるだけだ。
だからこの問題は哲学的ゾンビと関係のない話
>>329 「あるかどうかわからない」のでは無く
「主体的感情が無い」のが哲学的ゾンビじゃないの
客観的議論はできる、というのが定義になってたよ
1分先の自分は自分じゃない
自己は瞬間瞬間にしかない
自分が継続してるという感覚は記憶がそう思わせてるに過ぎない
って本で読んだ。
>>330 なくてもあるもあっても、他人から見れば同じだというということ
言ってるんだと思うが
同一性の定義の仕方にもよるんだけど
人格の同一性も瞬間瞬間で変化しているというのを反証できないだけで
みんな現実として同一性は保たれていることをかなり確信をもって思っているし
結局ニヒルな態度は問題から逃げているだけということを知っているので
>>1みたいなことを考える
人格が変化してるとかいう話じゃない
それは君がというだけでしょ
「アキレスと亀」というパラドックスを解いてみる。
競争が始まってからの時間経過を「アキレスと亀」の手順で分割すると、アキレスが亀に
追いつくまでの時間を無限に分割することになる。その区切りを順番にたどっていって
も、亀にたどり着く前の時間にいることしかできない。
運動を単純に時刻と位置の対応関係として考えればいいということになります。物理学的に
はそれで十分です。哲学的ゾンビも、そういう対応関係の中で説明すれば十分です。
しかし、哲学的ゾンビでないことによって、現在の時間経過が主観的な実在の中に現れる
ことになります。
>>336 >哲学的ゾンビでないことによって、現在の時間経過が主観的な実在の中に現れる
>ことになります。
それは違うと思います。
自分が哲学的ゾンビでないことが確実なのは「現在」だけです。
「過去」に自分が哲学的ゾンビであったかなかったは、厳密にいえばわかりません。
自分の主観は1年前に作られたかもしれないし、1日前からもしれないし、
1分前かもしれないし、1秒前かもしれないし、10000分の1秒前かもしれないし、
という具合に、まさに「アキレスと亀」のように無限に縮小します。
「我思うゆえに我あり」の「われおもうゆえにわれあ」まではゾンビで、「り」の
時点だけゾンビでない、という可能性もあります。
しかもこれは「常に」そうであって、どこまでいっても同じことです。
まさに
>>1のように、常に自分が何十年分の記憶とともに「たった今」作られた
ばかりのコピーである可能性は、常に排除できません。
この点で、哲学的ゾンビであろうとなかろうと、特別違いはないと思いますが。
1年後に地球に隕石がぶつかり人類が滅亡することがわかったき、
宇宙人からテレポーテション機械をもらった。
この機械は別空間に同じ物質の構成を作り上げることができます。
これで地球と同じ環境の惑星に自分の体を作り上げることができます。
さてあなたは利用しますか?
決断は今しかできないとします。(ギリギリになった時点の賭けはなし)
>>336 アキレスと亀ってパラドックスか?
あれってすり替え技術の披露ってだけだろ
ゴールまでの時間と距離を、亀を追い抜くまでの時間と距離にすり替えてるだけ
計算の途中で変数を入れ替えるんだから、そりゃ計算結果がおかしくなっても当然
>>1じゃないから勝手なことも言えないが
この問題はもう「おそらく人格の移動は起こらない」を前提に「どうして?」
にした方が盛り上がりそうに思う
中身は入れ替わっているのに人格が保存されている現実と何が違うのか?
徐々に入れ替わることと、いっぺんに入れ替えることと、何が違うのか?
そのときやはり今の俺たちの人格は「途切れていない」を前提にする必要があるけどね
>>1さんはどういう展開を望んでいたり予想していたのだろうか?
>>338 それ、周りの人たちや、その他周囲の状況、社会情勢等はどうする・どうなる
という想定なの?
(あるいは「地球と同じ環境」とは、周りの人たちの複製も、その他の状況等も
作ってあるという想定なのか)
>>239 また『俺はお前が間違っていると思っている。だからお前は間違いだ』と仰るわけですね?
君は論理的な説明を全くできていないのがわかっていないようだね。
・哲学的ゾンビとはクオリア(意識)を持たない人間のことを指す。(哲学的ゾンビ)
・過去の私と今の私を比べてみると、細胞など細かい部品は入れ替わっているはずである。
・しかしながら、『私』という意識、感覚は過去の私から連続して同一性を保っている(ように思われる)。
・十分な時間の経った過去の私と現在の私を比べた場合に、私はなぜ私だということができるのか。
・仮に私を完全にコピーをしたとして、そのコピーに『私』という意識(クオリア)は存在しない(はずである)。
・ならば過去の私が現在の私と同一の意識(クオリア)を連続して持っているとなぜいうことができるのか。
・なぜ『私』は哲学的ゾンビにならないのだろうか。
>>239 君は哲学に全く無知で、向いてないみたいだから、恥を掻いて逃げ出したくなる前にいなくなったほうがいいと思うよ。
2chだと恥を掻くと荒らしだしたり人格を否定しだしたり、『俺がそう思っているからそうなの><;』と言い出すしかなくなるやつがいるから、君は典型的なそれだね。
>>342 >・仮に私を完全にコピーをしたとして、そのコピーに『私』という意識(クオリア)は存在しない(はずである)。
これが一つ大きな、そして致命的なミス
何で意識が存在しないといえるの?
クオリアの難題は「他者に意識が存在しているか『わからない』」ことであり、するとかしないとか言えないんだよね
なぜなら意識が存在しているかどうか分かるのならば、それはハードプロブレム解決の足がかりになるんだから
>>1は
>>1で高速移動装置といっている以上、意識のコピーもできると断じているわけだ
要するに意識すらも完全にコピーしているという前提で話してると思うけど?
このスレで明快な答えだした人いるの?
>>344 >>1は、「こういう論理でこういう結論が導かれましたけど、何かおかしいですね。どこ
に問題があるのでしょうか? それとも、常識の方がおかしいのでしょうか?」という
ことなんですが、パラドックスは、第一におもしろがるものです。面白くないなら、無視
すればいいだけです。
>>305もよろしく。
>>342の「『私』という意識」の『私』は、一般的な意味の「私」ではなくて、オリジナル
にある「私」という意味ではないでしょうか?
>>346 君に言ってるんじゃないんだけど、君が
>>344と同じ意見であれば、
>>1は自己矛盾した理論としては欠損した思考を提示したに過ぎないよ
高速移動装置を提示しておきながら、その前提を自分でひっくり返すんだから
>>344を読んでも分からないなら、クオリアというものを一度考え直してみたら?
>>305 もともと一つで動いていたものを、欠損しても動くからと「故障する前はもともと二つだった」と言い張る根性がバカみたい
プラナリアを半分に切って2匹になったら、「これはもともと2匹のプラナリアだった」と言い張るに等しい
349 :
考える名無しさん:2011/08/01(月) 01:16:57.09 0
機械さん、スレ建てないの?
リアルバイオハザード哲学的ゾンビ乙鬱!?♪。
351 :
342:2011/08/01(月) 05:15:37.72 O
>>347その通りです。
>>344は自他のクオリア、意識の区別がついていないのか、もしくは話を理解できていないのか、はたまたただの荒らしなのか。
哲学向きではないのは確かなようですね。他人の使う言語を理解することは哲学をする上で一番重要なことです。
>>344出直してらっしゃい。
352 :
342:2011/08/01(月) 05:28:31.73 O
>>344 君はまず、ただの『意識』『私という意識』『『私』という意識』
このみっつの違いを考えるところから始めようか。哲学初歩だよ。
それとも君には『この私』という意識はないのだろうか。だとしたら君は哲学的ゾンビなのかもしれない…。
なるべくならsageでお願いします。
>>305 の解の一つの可能性
右脳と左脳は一体となって機能しているように思えますが、主観的には別々なのかもしれま
せん。左右の脳は、互いの情報処理に助けられているとしても、左脳には左脳の意識があり、
右脳には右脳の意識があり、互いに他者であるということです。
つまり、こうして自分の意識について語っている意識は、たぶん、左脳の意識だということ
になります。
ただ、左右の脳は、互いがやっていることを自分がやっていることとして解釈できるような
協調関係にあるわけです。左右の脳をつなぐ神経が切断されると、それぞれが肉体を通して
行ったことだけから解釈しなければならないので、ずれが大きくなります。
したがって、この私が左脳の私であるなら、分離脳になった後も、左脳の意識で目覚めること
になります。
>>352 それこそ
>>2で終わってる話だろ
コピーに意識が発生しようがしまいが
>>352で言う意味であれば転送装置にはなりえない
複写機にはなるかも知れないけどな
>>354 進化の過程を見ると、脳はホヤの神経節までたどれるようですが
どの時点で多重人格障害になったのでしょうね?
脳の発生メカニズムを知れば、左右で違う意識というものがおかしな考えだと分かるのでは?
脳が「脊髄反射」なんて名付けているけど
脳が気付けてないだけで
脊髄だって考えてやってるのかも知れないしな
erectも新皮質じゃないところの
やはり意識できない別人格がせっせと血送ってるのかもだし
本当のことは分かりませんが、分離脳の事例を調べると、左右の分離によって精神が破壊
されるわけではなく、かなりの独立性があるように思います。
右脳は無意識だということも考えられますが、意識があるという解釈もありえる気がします。
発達経緯から考えれば、「脊椎の延長である脳」なんだな
脊椎(神経)が先で、そこから伸びた情報処理系の神経管が形状を変えていったんだよ
乱暴な言い方すれば、感覚器官の発達により収まりきらない神経が横に広がっていったのが脳だよ
しかも人間は進化の過程を胎児のときに辿るとも言う
仮に時間が連続性を持つと考えると、感覚の連続性を考えれば精神とは感覚の延長でしかないと言える
さて、精神とはそれほど高尚なものだろうか?
重度のアルツハイマー患者は物事の判断はつきにくくなり、自分の行っていることの経験的是非などは無くなってしまう
それでも最後まで残るのが快・不快の感覚だ
これは美味しさや喜び、痛みや悲しみなどの理由があって起こる感覚が鈍磨するくらい症状が進行しても残る
心地よい・不愉快、この二つの感覚こそ、生物が原生生物だったころからある最も原始的な感覚であり、それこそが根幹であると言える
その他いろいろな感覚は、この二つの感覚が発展し、ランク付け、意味付けなどを行っているに過ぎないのではないか
脳という不必要に肉付けされたものではなく、シンプルな感覚について考える方こそ肝要だと考える
どっかのスレで脳の結合双生児の記事が紹介されてるの見たことがあった
まだ4歳とかだが、視覚も思考も共有しているらしく
もっと成長して自分らの見ている世界を説明できるようになる日を期待とか
もし本当だとしたら面白い
サーバ堕ちで他が書けないね
363 :
AKB of the Living Dead :2011/08/03(水) 15:56:51.47 0
今NHKで脳の番組やってる
神経細胞は細胞分裂しないんだって
記憶はスパインとかいうやつなんじゃないか?
スパインは大きいくて消えにくいのと、小さくて消えやすいのがある、と言ってた
記憶も無限にできるわけじゃないので、不要なのは消すんだと
あとグリア細胞という免疫細胞が神経のネットワークを食ってたまに掃除してるらしい
365 :
並野 人史(ナミノ ヒトシ) ◆JwKmRx0RHU :2011/08/05(金) 11:32:14.14 0
366 :
並野 人史(ナミノ ヒトシ) ◆JwKmRx0RHU :2011/08/05(金) 13:47:13.15 0
ヽ( ゚∀゚)ノ┌┛)`Д゚)・;
368 :
並野 人史(ナミノ ヒトシ) ◆JwKmRx0RHU :2011/08/05(金) 18:53:11.93 0
(´-`);y=ー( ゚д゚)・∵. ターン )`Д゚)・;
忌野清志郎氏も『 集団ストーカー 』を受けていた様子。
歌で残っているところが凄い。
少なくとも、妄想でも幻想でもなく、集団ストーキング行為は実在をしている。
被害を訴えても精神疾患とされてしまうところが怖いところ。
370 :
並野 人史(ナミノ ヒトシ) ◆JwKmRx0RHU :2011/08/05(金) 23:42:03.89 0
24時12分
勇者ヨシヒコと魔王の城
「オイッス村」
山田孝之 沢村一樹
371 :
並野 人史(ナミノ ヒトシ) ◆JwKmRx0RHU :2011/08/05(金) 23:42:54.22 0
> 歌で残っているところが凄い。
詳しく。
>>364 それ観たかったなあ
テレビから離れてもう何年経つことやら
わたしの脳にはグリア細胞が多いのかも知れない
鳥頭だから
373 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MinorKeyQs :2011/08/06(土) 04:30:06.01 0
>>331 何の本?
タイトルと著者くらいあげて欲しい
374 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MinorKeyQs :2011/08/06(土) 04:39:47.89 0
>>331 わたしは未来だろうが過去だろうが
自分は自分だと思うけどね
1秒(でも一瞬でもいいけど)先の自分はゼロでは無いから
もちろん変化はしているけれども
それが主体的連続性
>>374 主体的連続性って変な言葉だな。
主体は今しか存在してないでしょ?
連続という観念は、客体を指している。
だから、主体的客体的と言っているのに似ていて変な言葉だ。
脳が壊れると、自己という観念や連続性の観念を失うのだから、
脳・身体・物質と観念の関係に問題は行き着く。
377 :
考える名無しさん:2011/08/06(土) 13:45:23.02 0
哲学的ゾンビ=論理のみに埋没する奴。
記憶が消去されててもいいから
死んだらまた生まれ変わりたいとか
思う?
生まれ変わる先の状況による
記憶もなく、何らかのしるしというべきもの(例えば顔がよく似ているとか
特徴的なあざがあるとか?)もないなら、そもそも「生まれ変わり」であると
なぜ言えるのだろうか?
(※記憶等があれば生まれ変わりと言える、と言ってるわけではありません。
何もなければ、何とも言いようがない(ただ普通に新しく生まれただけ)のではないかということ)
381 :
考える名無しさん:2011/08/08(月) 13:15:03.22 0
物質を自由に構成して物体を数秒でコピーする機械があるとします。そのコピーは、形状的にも、組成的にも機能的にも、本物と区別できません。
人の肉体のかなりの部分は、細胞が自分自身のコピーを作ることで維持されています。つまり、コピーによって入れ替えられているわけです。
脳はそうでないかもしれませんが、脳細胞のネットワークを変えずに、細胞の一つずつを人為的にコピーと入れ替えていったとしても、
その前後で客観的な差がないなら、主観的にも何の変化もないだろうと思います。細胞一個が死んだときの変化のほうが主観的にもはるかに大きいでしょう。
やがて、脳の右半分が本物のままで、左半分がコピーによってできた脳になっても同じだろうと思います。
それは、始めから個体全体をコピーしてから、脳の半分を入れ替えたのと同じです。最後には、脳全体がコピーとなりますが、客観的にも主観的にも変化はありません。
したがって、始めから個体全体をコピーして、本物のほうを殺して始末しても、自己の主観的連続性に変わりはありません。
このコピー機を使い、行きたい場所にデータを送って自分のコピーを作り、本物の自分はこっそり殺して始末してしまえば、高速の移動装置にすることができます。
382 :
並野 人史 ◆JwKmRx0RHU :2011/08/09(火) 02:44:26.56 0
383 :
考える名無しさん:2011/08/09(火) 02:46:08.07 0
並野スレ立て禁止にご協力ください
384 :
並野 人史 ◆JwKmRx0RHU :2011/08/09(火) 09:29:03.92 0
385 :
並野 人史 ◆JwKmRx0RHU :2011/08/09(火) 13:34:47.29 0
386 :
並野 人史(ナミノ ヒトシ) ◆JwKmRx0RHU :2011/08/09(火) 23:20:05.55 0
>>383 m9(^Д^)プギャー(ザマぁw
結局答えだせる奴いないの?
転送機で地球滅亡1年前に使えば
地球と同じ条件の惑星に逃げられるとして使うかどうかって問いに
>>387 うん、だから、他人その他の周りの環境はどうなってるの?
(原始時代みたいなところに一人だけで行くんだとしたら、それよりは、このまま
みんなと一緒に滅びたほうがいいという考え方も不自然ではないかもしれない)
それと、やや細かいことだけど、その別の惑星に行く場合は、その時点で今まで地球に
いた私は(分解か何かによって)消えてなくなるという想定なのか、それとも地球にも
残ると者がいるという想定なのか、どちらなの?
まあ、どうせ1年後に死ぬことが間違いなくて、かつ、今決断すれば全く同様の環境に
移動できる(かもしれない)んだったら、やってみておかしくないんじゃないかと
思うけどね。
オリジナルで目覚めるか、コピーで目覚めるかという問題は、小説の場合は単純で、オリジ
ナルのままで話を進めていくか、コピーの方に切り替えて話を進めていくかの違いでしかな
い。どちらにしても、一方はオリジナルのほうの自分のままだと思い、他方は、どうして自
分がコピーのほうなんだと思うことになる。
まだ意識が戻っていない間に誰にも気づかれないように両者を入れ替えれば、コピーのほう
が自分をオリジナルだと思い、オリジナルのほうが自分をコピーだと思うことになる。
不正解
入れ替えようが入れ替えまいが、両方自分がオリジナルだと思っている
コピーが置かれる場所、コピー過程の記録、コピー機操作者の記憶などによって、コピーの
ほうだというレッテルを貼ることはできます。しかし、あくまでもレッテルであり、差別に
しかなりません。レッテルを貼りそこなえば、どちらもが自分がオリジナルだと思うことに
なります。
>>389 >オリジナルで目覚めるか、コピーで目覚めるかという問題は
それは問題でも何でもありません。オリジナルの自我はオリジナルで
目覚めるし、コピーの自我はコピーで目覚める、というだけです。
(どちらがオリジナルかというのは、客観的に決めるしかありません。)
「コピー前の自我はどうなのだ」という問いはナンセンスで、
コピー前の自我はコピー後の時点では「過去」ですので、
「すでに存在しない」というしかありません。
オリジナル自体が過去の自分のコピーだと言えます。コピーAがコピーAの自我を持ち、
コピーBがコピーBの自我を持つというだけの話になるのは、哲学的ゾンビの世界では正しい。
私が消滅して、代わりに私のコピーが存在することになれば、その世界はもはや他者だけの
世界であるはずですが、なぜか、コピーの主観的実在が、他者のものでなくなっています。
>>393 >コピーAがコピーAの自我を持ち、
>コピーBがコピーBの自我を持つというだけの話になるのは、哲学的ゾンビの世界では正しい。
いや「哲学的ゾンビの世界」でも何でもなく、ごく普通のこの世界でもそれが正しいのです。
コピーAもコピーBも別に哲学的ゾンビでも何でもなく普通の自我です。
もちろんそれぞれが世界で唯一の「この私」であって、他方は全く知らない赤の他人ですから、
他方がゾンビであってもなくても、わかりようがありませんが、別にそれは普通の他人でも
同じことです。
二種類のコピーは、どちらも他者として同等なはずですが、なぜか、一方の主観的実在が他者のもので
なくなるということです。
このことを相対的な問題として解釈してしまえるわけですが、主観的実在の絶対性はどこかに行ってしまいます。
機能としての意識、機能としての主観になってしまいます。
まだやってるし
>>395 >二種類のコピーは、どちらも他者として同等なはずですが、なぜか、一方の主観的実在が他者のもので
>なくなるということです。
「誰にとっての」他者ですか。コピーAにとってはコピーAの主観的実在は他者のものでは
なくて絶対的な自分です。コピーBの主観的実在は存在しているかどうかも確認できません。
コピーBにとってはコピーBの主観的実在は他者のものではなくて絶対的な自分です。
コピーAの主観的実在は存在しているかどうかも確認できません。
これは「主観的実在」の一般的性質上当たり前の話であって「なぜか」もくそもありません。
「オリジナルにとって」であれば、繰り返すようにコピー後の時点では
オリジナルはすでに過去であって存在しませんので、「オリジナルにとって」という
視点は無意味なのです。ここを混同するから、何か深遠で解決不能の問題が
あるかのような錯覚に陥るのだと思います。
類似の話
シュレーディンガーの猫が生きているか、死んでいるかは相対的な問題だと
する、エヴェレットの多世界解釈がありますが、主観的には、どちらかが決定
されます。
猫が死んでいない状態が決定されるのではなく、ある自分にとっては猫が死んで
いないだけだということで納得できるか?
時空上では、どこが現在かも、どこが中心かも、相対的なものだと解釈できても
よさそうですが、主観的には、ここが中心で、この今が現在だと決められている
ことです。
主観的に、この場所、この現在が決定されるのではなく、この場所が中心でこの
今が現在な自分が存在するだけだと納得できるか?
399 :
◆JwKmRx0RHU :2011/08/14(日) 14:28:41.13 0
>>398 主観的な問題を猫に当てはめたら、猫自身が観測者になる
あくまであれは観測者が外部のみにいる事を前提に作られた思考モデル
401 :
◆JwKmRx0RHU :2011/08/14(日) 16:08:28.07 0
多世界解釈は、実験の異なる結果とその観察者を多重化させるものです。
「主観的」というのは、もちろん、実験の観察者にとってのものです。
403 :
◆JwKmRx0RHU :2011/08/19(金) 22:36:07.21 0
本日夜 24時12分(午前0時12分)
勇者ヨシヒコと魔王の城
「五悪党の塔」
山田孝之 宅麻伸
瞬間移動なんて、わざわざ移動なんかしなくても、
他の場所に居た記憶を埋め込んだらいいだけだな。
1000年前の記憶→空白→今 を脳に埋め込めばタイムマシーンも可能だし。
1時間前はキムタクだった記憶 → 幽体離脱の記憶 →今 を脳に埋め込めば
霊が自由に肉体に宿ったり離れたりのオカルトが可能になる。
言葉の意味はよく分からんが
とにかく凄い自信だ
分からん奴はこのスレから去れ
>現在の物理学では、意識、クオリア、経験、感覚を全く欠いた世界が想像可能であることを主張する。この哲学的ゾンビだけがいる世界を、ゾンビワールドと言う。
想像可能を議論の対象にしたらなんでもありになってしまいそうだ。
物理的に同一でクオリアを持つ場合と持たない場合がある、ということを実証できるのだろうか。
実証できないものを材料に議論するのは宗教論争と同類で答えなど出ないと思うが。
408 :
◆JwKmRx0RHU :2011/08/26(金) 23:27:19.03 0
409 :
考える名無しさん:2011/08/26(金) 23:35:25.48 0
なんでこんな暇つぶしにもならんスレがたつんだ?
>>407 「現在の物理学の枠内で」想像可能であるか?この前の所が大事。
質量がある時、周囲に重力場がないことは、想像不可能だし
電場中を電荷が移動するとき、力を受けないことも想像不可能。
仮にそんなことがあったら今ある物理の教科書をすべて書き換えないといけない。
けれどもゾンビに関しては、それがいる、と想定しても、物理には何の矛盾も特にないよね、
何かおかしいよね?ていうのが、思考実験の内容
>>410 >けれどもゾンビに関しては、それがいる、と想定しても、物理には何の矛盾も特にないよね、
物理に矛盾がないのではなく、単にクオリアや意識の実体が理解されていない状況だから否定できないだけではないのか?
哲学的ゾンビを客観的に観測でき、予想された観測結果が得られているなら議論の対象となりうるが、
「想像可能である」というのは「神は存在する」というのと同列で、判断のしようがないのではないか?
>>411 >「想像可能である」というのは「神は存在する」というのと同列で、判断のしようがないのではないか?
議論のある一面は神の話と同じ構図を持つ。
神の話と大きく違うのは、
神は見えない、どこにも見つからない、議論すべき積極的な理由は少なくとも一次的にはない。
これに対し、クオリアには直接的に積極的な理由がある。自分で何度でもそれを確認できる。
「コーヒーを飲んだときに体験する<これ>、<これ>がある」という確認がなされる。
ここが神の話と似ているけれども、大きく違う一番のポイントだろう
>>412 哲学的ゾンビは「クオリア」や「意識」がないという想定だが、それらがなくて判断や行動が可能なのか?
>>413 脳の初期状態に物理法則を与える。それでコンピューター上で時間的変化を計算させれば
その脳は判断したり行動(に必要な出力信号)を出す。
物理学ってのはそういうことだからね。脳はちょっと複雑なだけで、
次の月食の時期を予測するのと、脳の思考判断内容を予想するのと、原理的な違いはない。
クオリアの問題を理解するには、最低二つ知識が要る。
簡単な科学が分かる事と、逆転クオリアの思考実験が何を言ってるか分かること。
どちらか、または両方分からないと、何が話されてるかが、たぶん分からない。
逆転クオリアの思考実験は子供でも理解できるものだけど、、
知識がある大人で理解できない人も多いというちょっと不思議な思考実験
逆転クオリアと同じこと小学校のとき考えたわ
2ちゃんでも何人か見た
>>410 >「現在の物理学の枠内で」想像可能であるか?この前の所が大事。
素粒子レベル以下の物体は質量も重力も無視するのが現在の物理学って奴では?
え?重力子?仮説なだけでまだ発見されてないよね?だから神と一緒だよね?
ちなみに現在の物理学って説の途中で「最低**次元で」って表現をするよね
あれって要素として仮定しているけど「見えない、どこにも見つからない」ものでもあるよ
基本的に他の次元ってのは、考察できても知覚できないものなんだしね
ところで全知全能の神がいる次元を仮定したら、現在の物理学って瓦解しない?
419 :
考える名無しさん:2011/08/28(日) 02:00:34.33 0
>>416 逆転クオリアは
ある者はある対象を「赤」のクオリアとしてとらえ、
別の者は同じ対象を「緑」のクオリアとしてとらえると想像することが可能だから、
機能主義では「私は赤を見ている」という前者の経験と、
「私は赤を見ている」という(クオリアの反転した)後者の経験を、全く同じものと考える。
だが二人の内的経験は異なっているのだから機能主義は間違っている、
ということでいいのかな?
例えば「赤」のクオリアの実体が脳のある神経細胞群の電気的な興奮に帰着することが観測により判明すれば
逆転クオリアによる機能主義への反論は意味がなくなる、と考えていいのか?
>>419 >例えば「赤」のクオリアの実体が脳のある神経細胞群の電気的な興奮に帰着することが観測により判明すれば
そんなこと、どうやって「観測により判明」するの?
ある人Aの目の前に赤い物を置き、Aが「確かに赤い」と言っている時の神経細胞群の
興奮状態を観測した結果がA′として、同様に別の人BについてのB′、CについてのC′、…
と観測結果を集めて、それが同じ箇所の神経細胞群である(あるいは発火パターンが
共通しているとか、何でもいいけど)という結果が得られることはあるだろうけど、
「観測により判明」とは、そういうことを指してるの?
私のコピーを作って、そのコピーに主観的実在があっても、それは他者のものです。しかし、自分自身が、
細胞レベル、または分子レベルで少しずつコピーと入れ替わっていくなら、最終的には、もう一人のコピーが
できることになるので、私の主観的実在は、少しずつ消滅していかなければならないと考えることもできます。
すると、その過程では、私の脳には、オリジナルとコピーの2つの主観的実在が分布することになります。
例えば、痛みのクオリアはオリジナルのもので、色のクオリアはコピーのものという具合です。
しかし、他者から見れば、同じ私が痛みを感じ、色を感じているようにしか観察できません。
423 :
◆JwKmRx0RHU :2011/09/02(金) 23:57:13.34 0
424 :
考える名無しさん:2011/09/08(木) 13:35:50.36 0
>>422 >私のコピーを作って、そのコピーに主観的実在があっても、それは他者のものです。
ちょっと気になったんですけど、コピーなのに意識は他人なんですよね?
やっぱり、自我は「原理的に複製できない唯一無二の存在」と考えてるんですか?
425 :
考える名無しさん:2011/09/08(木) 13:40:02.35 O
いまから陰毛抜いていくから一言でも「いたい」ていったらビンタね
>>424 なに的外れなこと言ってるの?
自我の複製ができたとしても、複製した時点で個々の自我になるんだよ
プラナリアをちょうど半分に切って、ある程度回復した時点で2匹のプラナリアになったそいつらは同質の者と言えるか?
要するにおおすじは
>>2で終わってるんだよ
>>424 数年前の自分は、自分のコピーを作ってから死んでしまったようなものです。客観的には、または、哲学的
ゾンビの世界では、何の問題もないことです。
しかし、主観的な実在の中で考えると、それが消えるということは、無を意味します。数年前の私と、コピー
としての今の私が、同じ主観的実在にないと考えるのは、この世界が今突然現れたもので、ただ記憶に
よって、ずっと前から存在してきたように感じているだけだと考えるようなものです。
>>427の先頭部分が抜けてしまいました。
動的平衡論によると、今の自分は、過去の自分を複製したようなもののようです。つまり、数年前の自分は、
自分のコピーを作ってから死んでしまったようなものです。客観的には、または、哲学的ゾンビの世界では、
何の問題もないことです。
しかし、主観的な実在の中で考えると、それが消えるということは、無を意味します。数年前の私と、コピーと
しての今の私が、同じ主観的実在にないと考えるのは、この世界が今突然現れたもので、ただ記憶によって、
ずっと前から存在してきたように感じているだけだと考えるようなものです。
一秒前でいいはず
「数年前」などごまかしだな
430 :
424:2011/09/09(金) 06:43:01.91 0
>>HxoO9sahuc
>数年前の自分は、自分のコピーを作ってから死んでしまったようなものです。
これは 「古い細胞・物質は廃棄され続け、長い時間経過すれば、完全にコピーに入れ替わる」
こういうことですね?
>ただ記憶によって、
ずっと前から存在してきたように感じているだけだと考えるようなものです。
辻褄あわせとしては、「数年後は元の自我が消滅している」とした方が良さそうですけど。
自我が物質によって、脳の機能として生み出されているのなら、
自我を同一に保つのに同じ物質である必要はないと考えます。
原子といった物質に、「以前の原子と同一でなければならない」という個性があるわけじゃないですし。
しかし、これだと自我のコピーが可能になってしまうどころか、現実に自我が複製されていることになる。
この場合は、古くなったほうが死んでいるので問題ないですが・・・
431 :
424:2011/09/09(金) 06:45:45.33 0
>>426 >自我の複製ができたとしても、複製した時点で個々の自我になるんだよ
自我を複製したのに個々の自我になる・・・?
個々の自我になるんなら、それは複製できていないということだ。
「意識を持つ個体を複製しても、複製した時点で自我は個々の自我になる」
こう言いたいんだろ?
もしこの「個々の自我」になることを問題と思えないなら、いくら議論したところでかみ合わないし、もう構うなよ
「前後裁断せり」
>>431 「私」を特別視すれば問題となるだろうな
だが意識とはそんなに特別なものか
認識の連続性を持っていることが唯一自分が自分であることの証明であるが、それは他者への証明ができないし一晩寝てしまえば自分にとっても連続性を証明することもできないよ
自分が自分であると言うのはその程度のことなんだ
今日の自分が昨日の自分と同一であると証明するためには他のものの介在が必要だし、それですら不安定で不確かなもの
自分と親しいはずの人に「あなた誰?」と言われただけで、最初はその人を疑うが、否定され続ければ最後には自分で自分を疑い始める事になる
結局のところ「私」の意識は複数の「あなた」の意識によって容易にコントロールされる程度のものでしかない
極論から言ってしまえば、生物としての最低限の認識ですら「私以外のもの」に簡単に捻じ曲げられるんだよ
嘘だと思うなら、重度の精神科病棟に行くか、ベニテングダケでも食べてみればいい
私というものの脆さが分かると思うよ
試しに極端なことを勝手に言ってみる(「試しに」なので、必ず正しいと思っているわけではない)
そもそも、私の同一性とか私が私であるとかいうことについて、記憶は関係あるんだろうか?
「同一性」というのも不明確かと思われるので、ここでは、「私と他人を区別する」
あるいは「ある人と別の人を区別する」というだけの意味に限定する。
そうすると、まず、客観的に見ると、ある人と別の人の区別は、体によって区別するしかないだろう。
仮に2人の人が同じ記憶を持っていたり、あるいは何人かの人の記憶が全く混乱しているような
状況があったとしても、そんなことには関係なく、体が別々だったら区別がつくだろう。
では、客観的にではなく、私自身が私を他人と区別するときはどうかというと、考えてみると、
これも記憶は別に関係ないのではないか。
例えば私がなぜか自分をナポレオンだと信じ、ナポレオンの(らしい)記憶を持っていたとしても、
それでもって、私と隣に座っている別人との区別がつかなくなるとは思えない。
また、私がなぜか隣に座っている別人と全く同じ記憶をもったとしても、やはり、だからといって、
私と隣に座っている別人を区別できなくなるとは思えない。
(別に難しい話や奇想天外な話をしているつもりはなく、単純に、私と隣のやつとの区別が
つかなくなるなんて考えられない(仮にそのようなことが考え得るとしても、記憶の内容と
関係あるとは思えない)ということ)
そうだとすると、記憶をうんぬんするのは、どういう意味があるのか?
記憶の存在は、他社の存在と同じ程度に私を肯定する役にしか立たないよ
何の記憶も(それこそ言語や感覚の記憶すら)無くなれば、目覚めた瞬間に私が私を認識することは可能だろうか?
胎児ですら感覚の積み重ねによる記憶はあるのに、それすらない状態であればそれは私だろうか?
記憶は、たとえどんなものであれ存在するだけで私の肯定材料になる
逆に、一切の記憶することができなくなれば私は物体と変わるところが無い
>>435 > 何の記憶も(それこそ言語や感覚の記憶すら)無くなれば、目覚めた瞬間に私が私を認識することは可能だろうか?
それは、例えば「昨日見た、隣のやつの服の色を、今日はよく覚えていない」という程度ではなく、
「今見ているものや感じていることを、瞬間ごとに(そこまでではないとしても短時間のうちに)
次から次へと忘れていき、ごく短時間の記憶すら保てない」ということ?
そうだとすれば、それは確かに、私と隣のやつの区別がつかない状態になりそうだ。
感覚が全然ないのと実質的に変わらなさそうに思える。
その範囲では撤回します。
しかし、例えば、今日一日の記憶が保てるのなら、それ以上の記憶はなくても、
私と隣のやつを区別するのには支障ないんじゃないの?
(それも議論がありそうだとは思うけど、とりあえず言ってみる)
>>436 どこまで忘れるの?
それによってずいぶん違うと思うけど
例えば社会常識はどう?
個人的な事柄だけと言っても、好みや嫌悪に関するものはのこるの?
減れば減るほど自己は曖昧になってくし、例外として残る量が多ければ全く意味の無い疑問になるよ
消える記憶の形態はどのような記憶まで消えるの?
意味記憶まで失われたり、手続き記憶まで失われると、間違いなく自己を見失うと思うよ
438 :
考える名無しさん:2011/09/10(土) 07:58:17.09 0
>>418 何かしらややこしく こんがらがってる感じだけど
まず「見つかっているのは何か」と限りなく懐疑を続ければ、
「この俺様の意識以外、何も見つかってない」ということになる。これは独我論。
次に直接見たり触ったりできないものについては、「そうしたものがある」と考えることで
説明能力や予測能力がでてくるか、で「存在するかどうか」が普通決まってくる。
439 :
考える名無しさん:2011/09/10(土) 08:01:39.78 0
たとえば電子だって、それを見た人はまだ誰もいない。
ある場所から発せられる光、ある計器のメーターの値、そうしたものが全て「電子というものがある」
と考えれば辻褄があって、説明できてるだけで、電子を見た人は誰もいない。
余剰次元にしろ、何にしろ、それで方程式が一貫性を持って、多様な現象に一様な説明を与えることができる
となって、他にライバルとなる良い説明がなければ、それで「存在する」ということになるだろう。
440 :
考える名無しさん:2011/09/10(土) 08:05:15.44 0
そんで最後に神による説明の問題は、説明能力や予測能力が、科学的な仮説と同等にはならないことだ。
「神が天体を動かしている」でもいいけど、それで次の日食の日時を予測することはできない。
>>419 逆転クオリアが想定できるなら、個人間での神経活動のデータの類似性を蓄積しても
機能主義の擁護にはならない。
「ある神経現象に、ある特定の質的体験がともなうことの理由または必然性」
これが機能主義的な説明では欠けてるよね、というのが逆転クオリアやゾンビ議論の肝だから。
441 :
考える名無しさん:2011/09/10(土) 08:30:03.11 0
>>418 まあ、神と似ている点が何かを書いておくと、それは「物理的な因果連鎖としての記述の中に出てこないもの」って所。
130億年以上生きていながら、6日だけ働いて、あとはニート生活を続けて宇宙を完全放置して姿を現さない神。
脳を科学的に解明し尽くしても、なお残るとされる、物理的・客観的にその存在の尻尾を捕まえられないクオリア。
ここが構図として似てる。
これと似た構図を持つもうひとつの有名な問題は「今」。
「今」、「現在」というのは物理的な因果連鎖としての記述の中に現れない、掴まえられない。
>>437 念のため繰り返すと、
>>434で言い出したのは、「私と他人の区別」あるいは「ある人と別の人の区別」
に絞った話なので。
それについては、いわゆる社会常識とか、個人的好みや嫌悪なんて、全然いらないと思うけど。
もちろん何にもいらないということはないが、例えば、「この世界には人間というものが複数いて、
だいたいこんな形をして、だいたいこんな動き方をしており、いきなり消滅するとか複数の人間が
融合するとかいうことは起こらない」くらいのことを覚えていれば足りそうに思うけど。
(これが必要とも十分とも断言はもちろんできないけど、とりあえずのものとして)
443 :
第四の波平:2011/09/10(土) 10:04:00.83 O
馬鹿らしい
意識の境界問題は、過去と現在の間にもあるということのようです。
>>442 社会常識=複雑な記憶と思考
個人的嗜好=経験に基づく長期記憶
意味記憶=言語や思考の基本
手続記憶=脳をほとんど介さずともできる半分反射的な身体記憶
「この世界には人間というものが複数いて、 だいたいこんな形をして、だいたいこんな動き方をしており、いきなり消滅するとか複数の人間が 融合するとかいうことは起こらない」
というのは相当複雑な記憶が無いとできないね
「人間と言うものが複数いて」に「自分も人間だ」と言う事柄を付け加えればその時点でもう「隣りの人と自分は違う人」と言っているようなもの
ちがう?
>>445 > 「この世界には人間というものが複数いて、 だいたいこんな形をして、だいたいこんな動き方をしており、いきなり消滅するとか複数の人間が 融合するとかいうことは起こらない」
> というのは相当複雑な記憶が無いとできないね
それは別に否定しないけど。
> 「人間と言うものが複数いて」に「自分も人間だ」と言う事柄を付け加えればその時点でもう「隣りの人と自分は違う人」と言っているようなもの
> ちがう?
それもそうかもしれないけど。
それが何か?
例えば「赤信号では止まり、青信号になるまで待ちましょう」とかいうのも、相当複雑な記憶が
ないとわからない「社会常識」だろうけど、それは私と他人の区別には全然関係ないだろう。
想定している「社会常識」とはどういうもので、それが私と他人の区別にどう影響するのか、
もう少し細かく説明してもらわないと趣旨がわからないのだけど。
>>446 それがなにか?って言われても…
>>434の疑問が
「この世界には人間というものが複数いて、 だいたいこんな形をして、だいたいこんな動き方をしており、いきなり消滅するとか複数の人間が 融合するとかいうことは起こらない」
と分かっているという設定なら、ほとんどもう疑問なんて無いだろ、しっかり「私と他人を区別する」部分の記憶があるじゃねえかよ
それとも 「人間と言うものが複数いて」は分かっていても「自分は人間だ」と言うことは分からないのか?
>>447 だから、そのあたりの記憶さえあれば、他のいわゆる「社会常識」とか「個人的好み」とか何とかが
なくたって、私と他人の区別はつくんじゃないか、と言ってるんだけど。
あなたが何に焦点を当てて私のレスに疑問を呈しているのかがよくわからない。
もう少し具体的に言ってみると、仮に私が「世界には複数の人間がいて…」という知識・記憶は
持っているが(あと、細かく考えれば、最低限の言葉の意味はちゃんと記憶しているなども
前提になるだろうけど、それは必要があればまた詰めるとして)、自分がどういう生活をして
どういう人生を送ってきたか、何が好きで何が嫌いなのか、等々はすっかり忘れてしまったとする。
では、その場合の私は、(いろいろ困りはするだろうが)私と他人の区別がつかなくなったりするだろうか?
私はそんなことはないと思うけど、あなたもその点はいいの?
いいなら、特に意見の対立はないことになると思うけど。
>>448 だから、社会常識云々なんてのは
>>445で書いたとおりどのレベルの記憶が残っているかの例なんですが…
>>447で書いたとおり、あなたの設定したレベルってのは
「自分が個人と分かっている」レベルなわけで、そのレベルにあえて「自分は個人と分かっているか」と2重に聞いているだけだろって書いてあるんだけど?
なんで
>>437で
>例外として残る量が多ければ全く意味の無い疑問になるよ
こう書いたか分からない?
設定自体で分かっているとすれば、そりゃマッチポンプの設定だろうってこと
>>449 いや、だから、
>>448で書いた具体例について、私と他人の区別ができないことにはならない、
という点は、それでいいの?
あるいは別の聞き方をすると、あなたは「社会常識」とか「個人的好み」とか「例外として
残る(記憶の)量が多い」などという表現を使っているけど、その際に問題にしている
記憶の具体的内容は、「世界には複数の人間がいて…」という内容のみ(付け加えるとしても
例えば最低限の言葉の意味の記憶程度)であって、それ以外のいろんな記憶は含まない、
とりわけ、「自分はどういう生活を送ってきて…」という記憶は含まない、ということでいいの?
そうであれば、別に意見の対立はなかった、ということで問題ないと思うけど。
(私は一般的な語感として「社会常識」とか「個人的好み」という表現について、そんなふうに
内容が限定されているとは思えなかったから、しつこく確認したんだけど、それがたんに私の
感覚のずれだったのであれば、その点はすみませんでした)
451 :
考える名無しさん:2011/09/11(日) 14:49:58.02 0
現象的意識は主観だからこれを客観化するのが難しい、というのが意識のハードプロブレムの自分なりの解釈なんだけど
技術が進めば主観を客観的に観測することも可能になり、そうすればこのあたりの問題もある程度解決できると思う。
ただ、最終的にある主観にとってある対象がどう感じられるかは別の主観は擬似的に再現するしかないという限界がある。
もっともそれを超えないと問題を解決したことにならないということはないと思われるので、それがある程度実現できた時点で解決といえるだろう。
宇宙論と同じで思弁的な手法では答えは出ないと思うが。
>>450 意見の対立はあるよ
記憶と思考の関係を軽く見すぎているから対立している
あなたの言う「記憶がない」というのは所詮記憶の最上部に位置する「パーソナリティー」のさらに表層が無いだけでしょう?
その状態でなぜ「自己認識ができなくなるかも」と考えるのか疑問
ゆで卵の殻をむいただけで、「隣りのゆで卵の黄身と融合するかも」と思うようなものだよ、白身の存在を忘れている
逆に聞くけど、「世界に複数の人間がいる」がちゃんと理解できて「自分と他人が違う人間」が理解できないってどんな思考状態?
思考ってのはそれを組み立てるための材料となる記憶が必要だよ
その記憶にはある程度の分類があって、下層がちゃんと埋まってないと上層が理解できない
言葉を理解していない乳幼児だって自分なりの意味記憶は持っている
もっとも、幼児と話をするとしばしば自分と周りを混同していることがある
だがそのような場合の幼児は、ポッポさんは鳥で自分は人間と言う区別が付いていないような場合だ
下層の意味記憶が固まっておらず揺らぐから、上層の思考も揺らいでいるだけだったりする
>>452 > 逆に聞くけど、「世界に複数の人間がいる」がちゃんと理解できて「自分と他人が違う人間」が理解できないってどんな思考状態?
???
なんでそんなことを私に逆に聞くの?
だから、それくらいの記憶があれば私と他人の区別はつくんじゃないか、と何度も言っている。
逆に、ひょっとしたらそんな記憶も必要ないのかもしれない、という可能性は別に否定してない。
>>453 >だから、それくらいの記憶があれば私と他人の区別はつくんじゃないか、と何度も言っている。
???
だってあなたは
>>434で区別に記憶は関係ないって言ってない?
だから関係なくは無いって言ってるわけ
社会性のための表層記憶をもって「記憶は関係ない」なんて言われちゃたまったものじゃない
区別する思考には必ずそれに付随する記憶が必要といってるんだよ
「私」としての認識と、「私はナポレオンらしい」という思考の間にはペルソナ一枚の違いしかないけど
「私」としての認識があるか「私」としての認識が無いかの間には膨大であいまいな中間層があるんだよ
あなたの言っている記憶ってのは、ペルソナを確定させるためだけの表層でしかないけど、実際の記憶ってのはそれよりも膨大にあるんだよ
そしてその認識を固定化させているのも記憶であり、その記憶は無くなれば
>>435で指摘したように物体と変わる事が無くなる
ちなみに
>>433で言ってるのは、下層の認識を狂わせることで、「私」という認識は簡単に歪ませることができるし
「私」という認識を歪ませることで、その上部にあるペルソナを歪ませることは簡単にできると言っている
>>454 いろいろな記憶のうちごく一部だけ取り出して、あったりなかったりという想定をするのは
不適切だ、という議論をしているのなら、それはそれで議論すること自体は何も問題ないけど、
>>448や
>>450の流れがあるのに、今になって
> だってあなたは
>>434で区別に記憶は関係ないって言ってない?
なんて言い出すのは、妙な難癖を付けられてるとしか思えない。
まあ、記憶に関する科学的知見からいろいろ論じるというなら、それ自体は勉強になるので
どうぞ私の変な疑問に構わずやってください。
>>455 >なんて言い出すのは、妙な難癖を付けられてるとしか思えない。
だから
>>437でどこのレベルまで消えるのか聞いてるし、
>>445で相当複雑な記憶が無いとできないねと指摘している
さらに
>>447の最後の一文ではそんなアホな抜け方するわけねえだろと指摘しているし、
>>452ではその補強もしている
それを難癖付けられてるととられてもな
だいいち
>>435で言語や感覚の記憶すら言及しているのに
>>436で納得して撤回したと思った次の瞬間に
>しかし、例えば、今日一日の記憶が保てるのなら、それ以上の記憶はなくても、
と、話を戻してるのはあなただし、その後もずるずると難癖をつけるように食い下がってるのもあなたですよ
理解していないようだから説明したことについて「難癖」とはなんですか
457 :
考える名無しさん:2011/09/14(水) 22:51:23.91 0
双子の脳を合わせ味噌みたいにしてみたら
人格はどうなるのだろうかね?
そりゃ、2人の別々の人間の脳をぐちゃぐちゃと混ぜ合わせたりしたら、
2人とも死んでしまうだけなんじゃないかね。
まあそういう意味じゃなくて、死んでしまったりまともな行動がとれなくなってしまったり
しない程度に、脳の一部を交換するみたいなことができたら、という意味なんだろうけど、
まあ、それぞれ前と多少違った行動をとる2人になるか、あるいは案外前と変わらない
2人のままになるか、なんじゃないの?
そうでないとしたら、脳を混ぜたら人格について何が起こるという発想なんだろうか。
459 :
ユーサイネイジア ダニエル・カール:2011/11/02(水) 07:40:12.46 0
うほぉ〜!!
黒人のジェフリーは日本に同和してくれたよ〜
同和を珍しがってたら駄目だって
同和なんてよくあるって
我々は、哲学的ゾンビであることが自然なのだ。ところが、少なくとも私は哲学的ゾンビではない。
ロボットは、私よりも自然的である。私よりも、自然の側にいる。
自分があくまでも自然の形に支配さていながら、哲学的ゾンビでないことの不可解さ、不自然さを
どう処理するかが、哲学の中心的なテーマだと言える。
と、人工無能が言っています
462 :
考える名無しさん:2011/12/01(木) 04:22:51.26 0
_,,..--――--,,..
/::: \
/:::" ヽ
,i :: -=ニ=- -=ニ=- i
\.. / ー-' ヽ /
\::.| ト‐=‐ァ' |:./ なんですかな?
\\__//
/ ヽノ ⌒\__ .___
/ | \___)⌒\ |\ \
` ̄\ \ -''' ⌒(___) \| ̄ ̄ ̄|
\ /\ \__ .  ̄ ̄ ̄
` ―─―─´ ヽ___)
464 :
考える名無しさん:2011/12/06(火) 07:17:08.41 0
俺は人のことを死体だと思って物のように扱っているし、
死体だと思っているから、
死体が言葉を返してきたりしたらそれがどんな内容であれ
興味深い現象が起きたものだと
快楽を持って肯定的に受け取ることができるんだ。
絶対的にプラス思考になれる律が存在しているとするならば、この線だね。
全て屍姦ってのもいやだな
あったかいのは発酵熱か?
_,,..--――--,,..
/::: \
/:::" ヽ
,i :: -=ニ=- -=ニ=- i
\.. / ー-' ヽ /
\::.| ト‐=‐ァ' |:./ やりおるわい
\\__//
_,,ノ|、  ̄//// \、
_,,..r''''" | \`'/ /  ̄`''ー
| /\ /
|/)::::/\/
_____
+ へ/ \ へ +
___./\i / \ /\___
+ / \.r/ ヽ-/ \ +
/ ./~\.`l |._./~\. \
\ ` .-=・=- i、-=・=- /
\.. / ー-' ヽ /
\::.| ト‐=‐ァ' |: / ははっ、いいのさ、
/ ー--´ ヽ それが鎌倉時代の
日田市のしきたりじゃよ?
哲学的ゾンビは、本質的にゲーム的存在だと言えます。それ以上の意味はありません。
主観的実在があることによって、そういう存在であることから超越できるわけではないようです。
「解脱」は、それ自体、ゲームでしかないということです。
哲学的ゾンビは、主観的実在について語ることができる。
それは、小説の登場人物が、自分を小説の登場人物だと語るようなものだ。
それは、真実の認識になるだろうか?
470 :
考える名無しさん:2012/01/07(土) 21:31:10.60 0
age
471 :
第四の波平:2012/01/08(日) 14:17:26.10 O
遠慮
472 :
考える名無しさん:2012/01/09(月) 08:56:20.93 0
哲学的ゾンビが実在し見分ける方法が発見されれば
臓器移植の問題が一気に解決する
哲学的ゾンビには生きる価値など無いと?
労働力にはなるな
哲学的ゾンビが仮に居たとして、どうやってそいつが哲学的ゾンビだって証明するの?
>>475 哲学的ゾンビであることこそが自然なんだと思います。
したがって、問題なのは、どうやって哲学的ゾンビでないことを証明するかです。
自分が哲学的ゾンビでないことも、客観的にどう証明すればいいか分からない。
証明が難しいのは同意だが
1行目はさすがに飛躍し過ぎだろ
哲学は鉄則じゃん。
>>477 人の精神が脳だけで説明できるなら、哲学的ゾンビの脳とそうでない者の脳をいくら調べても、
その違いが出てきそうにないですね。
分子レベルの動作で十分に説明できたものに、その一部の状態に対してわざわざ主観的な実在を対応させるのは、
超自然的空想だろうと思います。
脳が思考する仕組みなんか分かってないよ
>>479 哲学的ゾンビが存在していると仮定するには最低でも
魂のようなもの(物理的な結果ではあっても原因とはなり得ない)を想定して、
それが憑依している脳と、そうでない脳の2種類があるとしないとならないんでないか?
その前提に立った上で考えてみて、2種類の脳を見分ける方法が思いつかないんでないの?
哲学的ゾンビかどうかって魂の有無だったのか。
霊的な魂なんてないよ。
神経細胞とその上の電気的な信号があるだけだよ。
人それぞれが自分を主人公にした私小説を読んでいて現実の自分を忘れているとすると、
その小説内の他者は単なる記号列であり、哲学的ゾンビだと言っていいわけですが、
その他者を主人公にした私小説では、意識が主観的に実在する存在になるわけです。
>>482 > 神経細胞とその上の電気的な信号があるだけだよ。
それは現代主流の一つの信念というにすぎない
>>483 既知の問題を言い直しただけ
>>484 ほかにどのような仕組みが想定されているの?
>>485 月並みな所で霊魂論や意識が別次元にあるというような考え方かな?
これは抽象的な上 証拠なしだが、
まだ電気信号とやらの振る舞いからクオリアが具体的に解明されていない以上
棄却するにはまだ早いだろう。
電気的な信号というと、卑近にある直列的なデジタル回路のイメージを持たれやすいが
神経細胞が構成するセルオートマトンのネットワーク構造と内部状態の遷移、とでも言った方がより現代的だと思う。
状態とは物質に還元できないある意味別次元の事であり、
そういう意味では先の見解もいくばくかは当たっているといえる。
>>487 >月並みな所で霊魂論や意識が別次元にあるというような考え方かな?
直接でも間接でも証拠がなければ議論できない。
>まだ電気信号とやらの振る舞いからクオリアが具体的に解明されていない以上
>棄却するにはまだ早いだろう。
つまり病原菌やウイルスによる病気のメカニズムが明確になるまでは呪いや穢れによる可能性を否定できない、ということ?
>電気的な信号というと、卑近にある直列的なデジタル回路のイメージを持たれやすいが
>神経細胞が構成するセルオートマトンのネットワーク構造と内部状態の遷移、とでも言った方がより現代的だと思う。
そう。
たとえばセルが10の100乗個あるような巨大なライフゲームがあればその上に生命も知能も発生しうると思う。
>状態とは物質に還元できないある意味別次元の事であり、
>そういう意味では先の見解もいくばくかは当たっているといえる。
物質の状態変化は物理法則の範囲内で起こっているし制限はあるけれど観測可能だ。
それを説明することは時間と推論能力の制限がなければ可能だろう。
霊魂論は物理法則の外の原理を想定しているように思われる。
今日、そのような現象は見つかっていないと思うけど。
>>488 > つまり病原菌やウイルスによる病気のメカニズムが明確になるまでは呪いや穢れによる可能性を否定できない、ということ?
まだ細菌を知らなかった人間の考えた「穢れ」という病因は
ある意味細菌説を先取りした考えとも言える、という事。
> 霊魂論は物理法則の外の原理を想定しているように思われる。
> 今日、そのような現象は見つかっていないと思うけど。
俺はいわゆる霊魂論は支持してないが
霊魂論の中にたたみ込まれたいろいろなアイディアには
先に言った穢れと細菌、非物質的存在とオートマトンの状態パターンのように
けっこう対応するものがあるとも思っている。
その点において一種の先見的意見とみなせると
「哲学的ゾンビ」って「意識」は「物理的化学的電気的反応の集合体」ではない何かである、という仮説のモデルでしょう。
意識が物理法則に従うのかそうでないのかってことでは?
かつて神秘だった生命現象は分子生物学により物理法則に還元可能であることがほぼ確実になったのと同じ道を歩むのではないかと思う。
機能として考えた意識は、仕組みとして物質的に説明できるとしても、
その主観的実在は、仕組みとして分析できない。
真実とは何かを、別の何かで説明しようとするものです。真実は、真実によって語るしかない。
殴られたゾンビは機械的反応として顔を歪めたが
実はそこに痛みの感覚は無かった
駅の階段で女子高生のムッチリ食い込みパンツを見たゾンビが機械的反応として勃起したけど
実はそこにはムラムラした感情は無かった
哲学的ゾンビってそういうもんでしょ?
本当に痛かったムラムラした奴に備わっている感覚とか意識と言われているものについて俺たちは、
@おそらくは物理現象の原因とはならないことから“物理的でない”とするか
Aおそらくは物理現象の結果として生じていることから“物理的である”とするか
のどちらかの言い方をするんだけど(オカルト信者でない限り)、そこに本質的な違いは無くて、
ただし哲学的ゾンビを想定する場合には、便宜上Aの考え方を捨てなければならない
一言でいえば、クオリアみたいなものが存在しているか否かだよね
494 :
475:2012/01/11(水) 23:25:17.91 0
>>491 主観的実在か。
クオリアだね。
脳のニューロンとシナプスを何らかの方法すべてシミュレートできるようになれば、そのシミュレータは意識もクオリアも持つだろう。
そして様々な初期値と途中で外部から様々な刺激の信号を加えて、その時そのシミュレータが認識するクオリアを言語でフィードバックさせるといったことを繰り返せば
どのような信号処理によりどのようなクオリアが生成されるか絞り込むことができるだろう。
それが本当に正しいかどうかを自分で確かめたければ自分の脳に同じような信号を入れてもらい体験するしかないな。
その結果シミュレータで確認した結果と同じクオリアが得られればそれでクオリアはその信号パターンに関連づけることが有効ということになるだろう。
それでも主観がその信号をそのクオリアとして認識する理由は説明できないね。
あくまで信号処理結果と個別のクオリアの関連づけがわかったというだけ。
そのあたりが主観の客観化の限界かな。
でも、そこまでわかれば哲学的ゾンビが有効かどうかは判断できるんでない?
495 :
475:2012/01/11(水) 23:36:51.07 0
>>492 そのゾンビって
(1) 感覚はあるが感情がない
(2) 感覚もない
のどちらなの?
感情がなければそれに伴う判断も、その判断に伴う行動もないので明らかにゾンビでない場合と行動が異なることになる。
感覚がなければ外界からの情報に反応しないのでゾンビでない場合と行動が異なる、というか生きていけない。
そもそも意識なしに通常の行動はできないと思うのだけれど。
第一に感覚や感情の主観的実在から始まり、自分が肉体を持つ存在だと気づき、
脳の神経組織への作用が感覚や感情、認識力、思考力に影響し、精神が脳の物質的機能だと理解することになります。
ここまでが科学です。
ところが、物質的状態の事実性と主観的実在が同じものにならないことに気づくことになります。対応関係があったり、
何か同じ物が別々に投影したものであり得ても、本質的に異なるものです。客観と主観の接点での断絶です。
物質的状態の事実性だけで十分で、それが一々主観的実在に対応する必要はないと思えてきます。
そこで、物質的状態の事実性だけで考えた人間を哲学的ゾンビとするわけです。更に、哲学的ゾンビであるのが自然だとしていいはずです。
しかし、それだけだと、主観的無の世界です。
今は、脳科学によって客観と主観の接点部分をできるだけ詳しく解明していくことが重要だと思います。
質量があるものが存在している結果として重力が発生したり
原子の運動の結果として電磁波が発生したり
そうしたものと同じように
情報処理の結果として精神が発生しているんだろうけど
精神を重力や電磁波と同じに考えられないのは
どうやら物理世界に対してまったく原因を作っていなさそうだからなんだよな
だから哲学的ゾンビが存在したとしても、そうだと分かる方法が分からない
精神とはテレビに写った画像のようなもので
それをガラスと蛍光剤と電子線に分解してみたところで
知りたいこととは程遠い、という事なんだろう
このスレの最初の方で何度か話題になっていたけど
人格の同一性が保たれることの理由を最近はよく考えるな
俺たちが住んでいるのが唯物論宇宙であることに疑問の余地は無さそうだし
永劫回帰
主観的実在というのは、内容的には、動物としての感覚、動物としての感情、動物としての認識、思考であり、
それらは、ゲームをする存在として備わったものである。
超越的な真理の追究さえも、ゲームとしての意味しかない。
ゲームを繰り返していって、最終的な境地があるわけでもない。
人それぞれのゲームの始まりがあり、終わりがあり、それが繰り返されるだけだ。
ゲームをする存在以上の意味を求めても、それ自体ゲームでしかない。
そういうのは悟りスレの方でmy悟り申告して下さい
うん、ゾンビの話をして欲しい
ある意味哲学的ゾンビの体現かもな
全ての反応が反射で行われていれば、えさを食って喜んでいるように見えてもそれは喜んでるわけじゃない
もちろん脳幹や脳以外の神経細胞が反射のみを司っていて「思考をしない」という前提が必要だけどな
505 :
考える名無しさん:2012/01/13(金) 23:38:45.63 0
まるでおとぎ話だな
506 :
洋楽:2012/01/14(土) 00:04:02.23 0
なぜ 情報伝達手段だった 言語における通信記録の中に
おとぎ話が 発生したのか ・・・・・
Cosmic-Data が逆行 してんの (笑)
507 :
洋楽:2012/01/14(土) 00:15:14.15 0
・・・・ ちゃんと CD まで たどりつくことになってんの
ギリシャで 円盤投げ の 気持ち わかってあげてー
2001年宇宙の旅 では 骨 投げちゃったけどさ ・・・・
まぁ そのへんは 話し合いで なんとか (笑)
お互い もぅいい 大人 なんだから ・・・ ねっ
相対性理論から、私を中心にした宇宙があり、他者を中心にした宇宙があるとすることができます。
そうすると、私を中心にした宇宙内での他者は哲学的ゾンビだとすることができるかもしれません。単なる物です。
哲学的ゾンビでないのは、その他者を中心にした宇宙においてです。
しかし、その二つの他者は同期状態にあるとすることができ、一方の哲学的ゾンビへの作用が他方への作用になり、
単なる物扱いにはできないことになります。
509 :
洋楽:2012/01/14(土) 00:33:02.98 0
それ 相対性じゃない ・・・・
おまえなんて しらない って ゆわれたら
おわっちゃう 理論 (笑)
ひさびさ の 瞬殺(笑)
>>508 追加
すべての他者について、それを中心にした世界が存在するとしなくていいなら、
自分を中心にした世界が存在しない人間を哲学的ゾンビとすればいいかもしれません。
哲学的ゾンビは、他世界に共有されても、それ自身の世界は持たないということです。
なんか答えが出ないのとネタ切れなのとで話がだいぶ逸れて来たけど
精神現象について哲学したいという人は
唯物論や随伴現象説を言い変えただけのオナニーに逃げて時間を浪費するのではなく
人格の持ち主がどうやって決定されているのかとか、それが何故維持されるのかとか、
決定論的宇宙の中で悪や罪をどう扱うかとか、
そうしたもっともっと難解であると考えられる問題に誠実に向き合うべきと思うがね
おいおい、悪や罪はぜんぜん別次元の話だろ
もし哲学的ゾンビだけの人間社会だったとしたら、
情報伝達手段としての言語は生まれるだろうが、
「精神」とか「意識」といった言葉は生まれるのだろうか?
最近の疑問
哲学的ゾンビって刺激に反応できるの?
脳にとっての直接的な現実は、電気信号であり、電気信号のパターンから現実世界の事実や真実を認識を導かなければなりません。
自然科学は、現実世界の事実と同値な、認識としての事実が定理となる客観的なモデルを求めるものです。
モデルが真実であるのは、その有効性であり、同値性であり、現実世界そのものとは別物です。
哲学的ゾンビが主観的実在について語るには、主観的実在についての認識と「同値」な客観的な事実が存在すればよさそうです。
そして、その事実と同値な認識が定理となるモデルを考えれば、その哲学的ゾンビがモデル化できることになります。
私自身、客観的には、そのモデルのように認識していると言えそうです。
電気信号とは意識にとっての現実であり、
それが脳にとってどうかなど知りようがない
精神を脳によって説明することを前提にする場合、脳に何らかの電気信号が入力されることも前提にするということになります。
脳に対して直接的に作用する現実であり、その先の現実は、水槽に浮かんだ脳と、神経につながれたコンピュータであるかもしれません。
電気信号が入力されるのは脳のどこですか
精神は脳からの出力なんですか
電気が実際に流れていることは
それが電気信号であることを意味しませんよ
シニフィエとシニフィアン
522 :
考える名無しさん:2012/02/12(日) 14:54:32.52 0
よく、精神←随伴現象←電気信号
みたいなのを見るけど、電気信号っていったい何? 定義あるの?
電子の位置が変化すること?
脳の中を電子が移動するのにも僅かな時間がかかると思うけど
ある精神を生み出すのにどのくらいの間有効なんだ?
余韻みたいなものがあるのか?
生体電気は膜電位というもので細胞の内と外の微妙な電位差状態が伝えられるもの
君がイメージしている様に導体の中を自由電子が行き来しているわけではない。
なのでほぼ光速で伝わる電気とは違って、速度は圧倒的に遅い
人が反応したり考えたりする一瞬に通過する脳細胞はせいぜい3層くらいと計算されている
脳機能の複雑さは縦ではなく横のネットワークが担保しているらしい
524 :
考える名無しさん:2012/02/14(火) 20:32:09.99 0
哲学的ゾンビしかいない世界でも「哲学的ゾンビ」という言葉は
生まれただろうか?
>>524 小説の登場人物が、自分が小説の登場人物だと認識するようなものですね。
論理的に同値なモデルが存在すれば、「哲学的ゾンビ」を語れるとは思います。
>>525 できない
貴方が自分を哲学的ゾンビだと認識するのとほぼ同値
>>523 導体の中を自由電子が光速近くで走るわけではない
光速に近いのは電位差の伝達速度
529 :
考える名無しさん:2012/02/15(水) 21:56:46.31 0
>>525 例えば実際に俺たちは認識できていない赤外線や紫外線の視覚経験を語ることを
していないよね
哲学的ゾンビには精神がないから、
彼らの世界では精神に関する語彙が生まれることはないのではないか?
とか思うのよ
宇宙全体が物理法則に従った振る舞いをしているはずだと考えてはいるので
自分でも矛盾しているとは思っているのだが、
時間や空間が相対的であることで光速不変が成立できたように、
この矛盾の辻褄を合せる人間がまだ気づいていない何かウルトラCがあるんじゃないかな〜と
530 :
考える名無しさん:2012/02/15(水) 22:07:15.70 0
機械に心は無いと考えている人が多いと思うけど
おそらく彼らは機械が精神に関する語彙を生むことはないと
考えるだろう
俺たちは哲学的ゾンビは理屈上は人間と同等と考えるので
彼らは精神に関する語彙を生むとしなければならない
だが、機械が精神に関する語彙を生むと思うことが
できているだろうか?
>>524 まあ、なんと言おうか…
おそらくみんなが考える神様ってのはいないと思うんだ
だって神様って矛盾の固まりだから
でも「神様」って言葉はあるけどね…
>>531 ちげーよ
この世の全員が神様なら神様という言葉は生まれるのか
ってことよ
>>532 この世の中にはおそらく人間ばっかしだが「人間」という言葉はあるよ
少なくとも「哲学的ゾンビ」という言葉よりははるかに古い歴史を持っている
>>533 ちげーよ
「人間」て決めたから人間ばっかしなんだよ
歴史の古さなんか関係ねーよ
535 :
考える名無しさん:2012/02/17(金) 08:19:10.01 0
哲学的ゾンビも自分たちのことを「人間」と呼ぶだろう
だがその哲学的ゾンビが自分たちとは(精神がないという点においてのみ)異なる
「哲学的ゾンビ」なる存在を想定するだろうか(実際には自分たちが哲学的ゾンビであるのにも関わらず)
人間が「俺たちの中に哲学的ゾンビがいるのかも知れない」と考えるのと
哲学的ゾンビが「同上」と考える(?)のとは、違うだろ?
だからそーよ
重要なのは
>哲学的ゾンビが「同上」と考える(?)のとは、違うだろ?
ここ
哲学的ゾンビは見分けがつかない
ということは、哲学的ゾンビは情動はないが、情動の知識は持っているわけだ
しかも情動が無い状態が違和感無く、周りはおろか本人も気付きもしない
なぜなら本人が気付けば、その反応の差で周りが気付くからだ
本来知らないものを知っているかのように動けるということは、知っていると大差無いことになる
そうであれば、そのうちにその内容を知らずに「哲学的ゾンビ」という考えをひねり出す奴も出るだろう
もっとも「タイプライターを適当に叩くサルがシェイクスピアを打ち出す」くらいの確率だろうけど…
「情動がないのに情動の知識は持っている」の意味が分からん
そもそもゾンビは情動どころか意識も無い
意識はあるだろ、クオリアが無いだけで
まあでも「同じ行動を取れる」のだろ?
同じ行動を取れるということは、その欠けた部分を補完する物があるか、欠けていてもその先の行動は変わらないということだろ
「哲学的ゾンビの意味」が分からずとも、「哲学的ゾンビ」のことは分かっているわけだ
そうでなければ哲学的ゾンビは哲学的ゾンビの事を聞かれたときにボロを出しかねない不完全なものだろ?
>>540 クオリアの無い意識とか意味分からんw
色のクオリアもない
音のクオリアもない
味のクオリアもない
痛みも熱さも・・・もない
意識に何が残っている?
補完とかじゃなくて
正常な行動のためには「意識がそもそも必要無い」ということだろう。
全てを入力と計算と出力だけにしてしまって何が不都合なのか。
そもそもそれが分からない。
哲学的ゾンビが「哲学的ゾンビとは何か」と聞かれたら
「この意識の無いだけで俺たちと見分けが付かない存在者さ」と
しれっと答えればすむことだ。
そもそも意識を持っている我々も自分の意識の存在を相手に証明することができないのだから。
>>543 その哲学的ゾンビは哲学的ゾンビの何たるかを知らないのに入が人間と同じであれば同じ出力が出来るわけだ
であれば、哲学的ゾンビは人間と同じ入力で、そのうち「哲学的ゾンビ」という言葉を紡ぎ出すだろうよ
逆に人間が「哲学的ゾンビ」という言葉を作るのが必然であるならば、哲学的ゾンビばかりの世界でも「哲学的ゾンビ」という言葉が出てこなければ、そのゾンビワールドは不完全だ
>>544 哲学的ゾンビしかいなけりゃ紡ぎ出さねーだろ
人間に混じってるからまねっこするだけよ
哲学的ゾンビばかりの世界でゾンビの言う「哲学的ゾンビ」ってどんなだよ
どんなって言っても、ゾンビワールドの事象全てに意味なんてあるの?
あなたが
>>541で言ってるように意識すら無いなら全ては反射の結果だろ?
そうであれば反射の結果として「哲学的ゾンビ」という言葉は出てくるはずなんだよ
そしてそれについて議論するふりもされなければいけないはずなんだよ
入力に対する出力が同じというのはそういうことだろ?
>>546 出てこねーよ
哲学的ゾンビは「人間⇔哲学的ゾンビ」の対比に於いて意味が成立するわけだろ
例えばだな
黒人は白人から見て黒人なわけだろ
世の中が黒人ばかりになったとき、彼らの言う「黒人」とはなんだよ
黒人の意味が違ってくるんじゃないのか?
哲学的ゾンビばかりの世界でゾンビがもし「哲学的ゾンビ」とか言い出すとしたら
それはもはやここで言われている哲学的ゾンビとはべつものじゃねーの?
貴方の頭ではそこまで考えて「紡ぎ出す」とか言ってるわけか?
>>547 だから言ったろ
サルがシェークスピアって
それに意味があろうが無かろうがそれが出てこなければ哲学的ゾンビとしては不完全だって
逆に聞こうか「クオリア」という言葉の意味創造にかかわっている哲学者は「絶対に哲学的ゾンビでは無い」と言えるのか?
>>548 別に不完全じゃねーよ
哲学的ゾンビの完全性は「人間ありきの哲学的ゾンビ」として完結すんだよ
「自分以外の全員が哲学的ゾンビ」とかになったら状況は変わるだろう
奴らは意識も感情も無いのだから、社会のあり方から変わるだろう?
もしあなたの言うように「人間の真似」が哲学的ゾンビの全てであるなら、始動キーである人間がいない世界での哲学的ゾンビは成り立たないだろ
では次の問題だ
「自分以外は全て哲学的ゾンビかもしれない」これは成り立つか?当然親も先祖も全て哲学的ゾンビだ
>>549 > 奴らは意識も感情も無いのだから、社会のあり方から変わるだろう?
気っ色悪い世界だな〜
ぶん殴っても痛そうにもしないし怒りもしないんだろ?
普通の世界と全然違う、嫌な世界だよな〜
(反語的)
>>550 だから最初から「成り立たねえ」って言ってるだろw
哲学的ゾンビばかりの世界で哲学的ゾンビなんて言葉が無いんだから
哲学的ゾンビはいなくなるんだよ。
人間がいないのにオットセイが勝手に自分で曲芸すると思ってんのかw
自分以外は全て哲学的ゾンビかもしれないって?
だからそんなことになったら、こんな世界に生まれてねーって言ってるだろーがw
553 :
考える名無しさん:2012/02/18(土) 09:21:13.01 0
本人たちも気づいているはずなんだが
前提が唯物論の人と二元論の人で言い争ってるから
噛み合ってない
だがそれがいい
555 :
考える名無しさん:2012/02/18(土) 09:50:08.98 0
哲学的ゾンビは元々は唯物論側のモデルで、
精神を持たないくせに人間と完全に同じように振舞うので、
彼ら自身も「哲学的ゾンビ」という概念を生み出し、それについて語り出すはずなんだが、
俺たち人間がどうも自分たちの意識に挙がってきていないモノを(それが何であるかは置いておいて)
「感じていない奴がいるかも知れない」と、わざわざ考えていなそうなので、
(例えばドラゴンボールで言う「気」を「持ってない奴がいるかも知れない」などと現実世界で言う奴はいない)
「ゾンビが本当に人間と同一の振る舞いをするのだろうか?」という疑問がどうしても沸いてきてしまう
556 :
考える名無しさん:2012/02/18(土) 10:12:03.68 0
「入力に対して処理があり出力があるが、意識は発生していない」
という意味ではゾンビの脳は俺たちの脊髄のようなものだ
脊髄が脳とは違う進化を遂げて、今より高度な処理をこなせるようになったが
ついに意識を発生させなかったとして、その生物が
「意識を持っていない仲間がいるかも知れない」などと言うだろうか?
根拠はないのだが、直感的に、俺はそうはならないように思う
それこそいわゆる「機械のように」振舞うのではないか?
情報伝達手段としての五感とその程度に関する語彙は持つだろうが、
そこから(俺たちの場合)発生しているクオリアの有無について考えることは
しないように思えてしまう
557 :
考える名無しさん:2012/02/18(土) 10:35:49.32 0
_,..----、_
/ ,r ̄\!!;へ
/〃/ 、 , ;i
i,__ i ≼⓪≽≼⓪≽)
lk i.l /',!゙i\ i
゙iヾ,. ≼⓪≽ /
Y ト、 ≼⓪≽ i
l ! \__j'.l
= 〔 ̄∪ ̄ ̄ ̄〕
i⌒ヽ;;| ██‐ ‐≼⓪≽-|
|紫b叭'ー-‐' ヽ. '
{. ト--=--イ }
ヽ. ヽ. ⌒⌒ ノ / 流体理論の講話かね〜?
ヽ. ヽ、`==´/
── ニ /=、。。。。。。r=、ヽ
─ = (◎ ヽ──(◎ )
ノ◎、 |\ \ / / | /◎、
(_,rへ `ソ />◎) (◎く| レ' ,rへ )
= ニ \◎'/ / \ ヽ、◎/
ノ / \ ヽ シャカシャカシャカシャカ
─ =三 ( ◎( )◎)
─ = ー、_ら ⊂、_,r
558 :
考える名無しさん:2012/02/18(土) 10:36:47.73 0
技術的特異点なんてあんの?
┣あるよ派
┃ ┣コンピューター神様派
┃ ┃ ┣リアル神様誕生でウハウハだよ派
┃ ┃ ┣神様できたけど大したことしてくれないよ派
┃ ┃ ┣コンピューターに支配される暗黒時代だよ派
┃ ┃ ┣邪魔な人類は抹殺されるよ派
┃ ┃ ┗暴走したコンピューターが全部吹っ飛ばしちゃったよ派
┃ ┗人類進化派
┃ ┣総員強制進化派
┃ ┃ ┣人類みんな頭よくなってウハウハだよ派
┃ ┃ ┣みんな頭よくなったけどあんまり変わらないよ派
┃ ┃ ┣異質すぎる未来は旧来の価値観では語れないよ派
┃ ┃ ┗慌てて進化したせいでうっかり人類滅ぼしちゃったよ派
┃ ┗一部進化派
┃ ┣新人類の恩恵でウハウハだよ派
┃ ┣旧人類には特に恩恵無いよ派
┃ ┣新人類に支配される暗黒時代だよ派
┃ ┣支配される価値もない旧人類は殲滅されるよ派
┃ ┗慌てて進化したせいでうっかり人類滅ぼしちゃったよ派
┗無いよ派
┣物理的にありえないよ派
┣人類そんな頭良くないよ派
┃ ┣そんな急激な進化は無いよ派
┃ ┗その前に滅亡するよ派
┣神様っぽいのはできるけど派
┃ ┣すぐどっか行っちゃうよ派
┃ ┗暴走して自滅しちゃうよ派
┗可能だけど、人類がそんなの許すわけ無いよ派
┣頭いい人が止めると思うよ派
┗頭悪い人が止めると思うよ派
書いてて思ったけど、やっぱり特異点を前提にする時点で、未来技術板の範疇を超える気はするよ派
>>552 変だな
哲学的ゾンビの前提は「自分以外は決してゾンビかどうか分からない」はずなんだが?
きみのゾンビ論法ではどうやって分かったんだ?
>>559 ん〜?
どいつがゾンビだと判明したんだ?
簡単な単純化だよ
赤ん坊の最低限の世界単位は「母親+自分」だ
おっと、父親なんていうなよ、単為生殖というクローンだって可能性はあるさ
さて、「自分以外全てが哲学的ゾンビ」では世界として成り立たない場合、この母親は「ゾンビではない」という事になる
重要なのは「ゾンビだ」と分かることではないよ「ゾンビではない」と分かってしまうことだ
客観的に定義できるものは、認識可能だと言えます。哲学的ゾンビとは、客観的なものだけで成り立つ存在なので、
唯物的自然本来の存在であり、哲学的ゾンビは哲学的ゾンビを認識可能です。問題なのは、「哲学的ゾンビでないもの」の方です。
すべては、自分が哲学的ゾンビでないことに気づくことから始まりますが、それがどういうことなのかを客観的に説明するのは困難です。
哲学的ゾンビが、哲学的ゾンビでないものの存在を何らかの理論で考えられるなら、「哲学的ゾンビ」に対応するような言葉が生まれることになります。
そもそも見分けられたら哲学的ゾンビの定義に反するのでは?
564 :
532:2012/02/19(日) 06:48:17.34 0
>>561 なんだそりゃw
「赤ん坊+母親」の世界に限定するのか?
貴方は、赤ん坊が「母ちゃんは哲学的ゾンビじゃないっ」とか考えると思ってるわけか
哲学的ゾンビはありえない。
哲学的ゾンビは、外面的には普通の人間と全く同じように振る舞うが、内面的な経験(現象的意識、クオリア)を全く持っていない人間と定義される。
しかし、現象的意識なしに行う対象評価と現象的意識ありの状態で行う対象評価とでは結果が異なる。
このため、その評価を基に行われる行為の選択も異なったものとなる。
したがって外面的に普通の人間と全く同じように振る舞うことはできない。
>>565 > 現象的意識なしに行う対象評価と現象的意識ありの状態で行う対象評価とでは結果が異なる。
> このため、その評価を基に行われる行為の選択も異なったものとなる
「現象的意識がないならば、現象的意識がある場合と同じ行為をすることはない。」
とまとめてよいなら、その対偶を取ると、
「現象的意識がある場合と同じ行為をするなら、現象的意識がある。」
になると思われるけど、そういうことになるの?
哲学的ゾンビを唱える人は、そういうことにはならないと考えるんだろうけど。
(その考えに根拠があるかどうかは知らないけど)
>>565 >哲学的ゾンビはありえない。
おいおい
分かりやすくするための仮定の定義を「ありえない」の一言で投げ捨てたよw
そりゃたしかにアマゾンでの蝶の羽ばたきがアメリカでハリケーンを起こしたり
箱の中の猫が生きながら死んでいたり、、物体の最小単位が振動する弦だったり、トンネル効果による物体のすり抜けも
「ありえない」の一言で終わらせようと思えば終わるだろうな
でもさ
天体の運行を観測して「太陽が大地の周りを回っているのではなく、大地が太陽の周りを回っている」とするのもありえない?
「巨大天体などの超重力で、光の進行が歪められる」のもありえない?
>したがって外面的に普通の人間と全く同じように振る舞うことはできない。
INPUTとOUTPUTが同じであれば内部処理は絶対一緒、逆に内部処理が違えば絶対に変わる、なんて方が乱暴だろ
そもそもクオリア自体がなんの役に立つかも分からんのに、それによって内部処理が変わる?
クオリアがあろうと無かろうとリンゴは赤くてキャベツは緑、りんごの赤と湯で蛸の赤は違うよ
それがクオリアによるものであろうが、そういうものだと理解しているだけのものであろうがね
内部でエミュレートできればぜんぜん問題は無い
>>567 > そもそもクオリア自体がなんの役に立つかも分からんのに、
それは生存の役に立っているということで、おおむね問題ないのでは?
何故この情報にこのクオリアじゃなければならないのかという問題は永遠に残るが
>>564 いや?
この理論での最低構成の世界は自分と他人であり、他人が複数である必要は無い
また、その二人の詳しい定義は無い
では、母親と赤ん坊でもかまわないはずだ
あなたの話ではここで赤ん坊が哲学的ゾンビで無いと仮定すれば、必然的に母親は哲学的ゾンビではなくなってしまう
胎児であったころの母親は世界で一人であるが、それでは世界は成り立たなくなってしまう
退治のマネは母親には出来ないのだからね
ところがそうなると他人が哲学的ゾンビとわからないというゾンビ論の根底に一致しない
では、君の仮定が間違っているのかね?それともゾンビ論が間違っているのかね?
ただしここで考えて欲しい、君は「他人が感覚を持っている」という事を証明できなければ自分の正当性を証明できないんだってことを
>現象的意識なしに行う対象評価と現象的意識ありの状態で行う対象評価とでは結果が異なる。
他者のクオリア存在を証明出来ない限り無理な論。
572 :
532:2012/02/19(日) 18:43:36.39 0
>>569 だからよー
世界に赤ん坊と母親しかいない時点で、もうこの世界の話じゃないだろうがw
哲学的ゾンビは、
「精神は物理現象の原因となることができない」という通念から
「仮に哲学的ゾンビがいたとしても、人間と同じに振舞う」という架空のモデルだが、
自分たちの経験上「どうもその設定には受け入れ難いものがある」と思わせる
俺たちは脊髄反射にどうやら随伴現象としての意識が発生していないことを受け入れているが、
哲学的ゾンビ自身が(人間と同じように)哲学的ゾンビを語るとしたら、
それは俺たちが「脊髄反射に意識を持っていないモデルを想定する」のと同じようなことであり
現実に「起こっていないこと」になるので「哲学的ゾンビは人間と同じに振舞わないのでは?」
となり「では精神は物理現象の原因になっているのか?」という、
これまた受け入れ難い結論と言うか疑問に辿り着いてしまう
574 :
532:2012/02/19(日) 18:57:59.41 0
仮に将来、人類が死滅して母親と赤ん坊だけになった世界だとしようw
どうして母親は「ゾンビには成り得ない」のだ?
胎児を持つ母親に意識が無くても「その世界」は成り立つだろ。
俺たちは実はその「脊髄の精神」のような
意識されていない世界を語ることを「いつの間にかしているのでは?」とか
ちょっと考えてみた
例えば、
左右の目にそれぞれ入ってくる映像の位置関係から分かる立体感や、
左右の耳に入ってくる音の時間差から分かる音源の方向のような、
意識に上がってくるまでの中間処理に関して
「こういうのを持っていない下等生物がいるだろう」くらいは思うことができる
>>574 その前段階として母親一人だけの世界だが?
577 :
532:2012/02/19(日) 19:20:28.66 0
で、この意識を持って生まれた赤ん坊が、意識の無い母親に育てられるとするわ。
全然かまわねーよ。
この子が成長したら「それなりの意識」にはなるだろう。
しかし意識の無い母親に育てられるわけだから普通の意識には育たないだろう。
一方母親は意識も感情も無いが、意識のあるガキんちょの影響で奇妙な出力をするかもしれない
子供にとっては母親と比較する大人がいないんだから、それを受け入れるしかない。
それだけじゃねーか
どこに不都合があんだよ
578 :
532:2012/02/19(日) 19:22:53.81 0
>>576 意識の無い母親一人だけの世界でかまわねーよ
何が困るんだよ
>>573 「受け入れがたい」ではなく「ありえない」でなければ反論としてダメだと思うのだが
反射ではどうしてダメなのだ?
コンピュータは意識を持つのかどうなのか?
チューリングテストでも、それににおける中国語の部屋でもどちらでも哲学的ゾンビにおいては変わらない結果を出す
「精神とはこうだ」を定義できていない人間にとってその違いを論うことは可能なの?
581 :
532:2012/02/19(日) 19:34:10.76 0
>君は「他人が感覚を持っている」という事を証明できなければ自分の正当性を証明できないんだってことを
ここがさっぱりわからん
頭の悪い俺にw分かるように言ってくれ
貴方の言う「君の仮定」とは何だ?俺は何を仮定した?
>>577 >しかし意識の無い母親に育てられるわけだから普通の意識には育たないだろう。
>一方母親は意識も感情も無いが、意識のあるガキんちょの影響で奇妙な出力をするかもしれない
この二つの時点で、すでに哲学的ゾンビの前提で話して無いと思うんだが?
583 :
532:2012/02/19(日) 19:38:59.62 0
>>580 俺は困らねえよw
いいか、母親には意識は無いが、母親しかいないんだから「哲学的ゾンビ」じゃない。
ただの「意識の無い生命体」だろ。
だからよ、哲学的ゾンビは人間ありきでしか成立しねーんだって、言ってるだろーがw
>>581 本来ある哲学的ゾンビの考えであれば、ゾンビは他者と見分けはつかないはず
それはゾンビがゾンビ一人になったからといって行動を変えれば、その差異によって次の観察の際に見分けがついてしまう
だとすれば哲学的ゾンビだけの世界でも全く哲学的ゾンビがいない世界と変わらないはずだ
ところが君は哲学ゾンビだけでは世界は成立しないという
であれば、自分が産まれる前の世界において自分以外の世界でゾンビだけではなかったと証明する必要がる
当然その際に他者の意識を証明する必要なると思うのだが?
585 :
532:2012/02/19(日) 19:45:54.15 0
いや、「意識の無い生命体」はおかしいな
「ある種の生命体」だ。
>>582 だから、そのいわゆる哲学的ゾンビに相当する「ある種の生命体」がいるわけだろ
しかしそいつしかいないんだから、そいつが「私って哲学的ゾンビ?」とか考えるか?
哲学的ゾンビなんてもういないんだよ。
586 :
532:2012/02/19(日) 19:48:11.02 0
>>584 世界にそいつ一人しかいないのに、何がどうやって区別すんだよw
>>585 考えないが、言葉や理論は出る
そうでなければ哲学的ゾンビとしては成立しない
でなければ「哲学的ゾンビは精神的な問題に対する問題提起はできない」という差異が生まれてしまう
そうすればその差異によって見分けがついてしまう
見分けがつくようでは哲学的ゾンビの前提としては成り立たない、よってそのゾンビは哲学的ゾンビではない
588 :
532:2012/02/19(日) 19:56:37.56 0
俺はな、「人間にそっくりの意識が無い生命体」ばかりの世界になったら
哲学的ゾンビなんて無くなる、と言ってるのだよ、最初からw
「世界が成り立たない」なんて言ってやしねーよ。
多分これで連投規制だw
>>588 >俺はな、「人間にそっくりの意識が無い生命体」ばかりの世界になったら
これと
>哲学的ゾンビしかいない世界でも「哲学的ゾンビ」という言葉は生まれただろうか?
これは全く違う話だろ
「人間そっくりの意識が無い生命体」のせかいで、固体を判別する言葉が出来た場合の自分の種の呼び方は「人間」で無い可能性が高いが
「哲学的ゾンビ」の世界での自分の種の呼び方は「人間」でなければならない
590 :
532:2012/02/19(日) 20:13:06.86 0
>>589 ああ、
>>524は俺じゃーない
俺は532でそこに乗っかっただけ
呼び方の問題じゃねえんだ
「哲学的ゾンビ」に相当する概念そのものが消滅するのだ
>>590 乗っかる以上は賛同しているということで、きっちり責任とって欲しいものだ
人間世界の定義を、人間以外の世界ではありえないということに何の意味が?
そもそも未知である人間以外の世界ではこうだと言うことが人間に可能か?
592 :
532:2012/02/19(日) 20:35:31.39 0
>>591 一応言っとかないと貴方にも524さんにも申し訳ないと思ってな
それ以上の他意は無い。
593 :
532:2012/02/19(日) 20:43:06.92 0
三行以上書けないので、もう止めるがw
例えばだな、この世にみかんが無いとするわ。
そのとき、「みかんが無いこと」を示す言葉が生まれると思うか?
>>579さん
自分は「哲学的ゾンビが人間と同様に振舞う」ことについて反論しようと思っている訳ではありません
反論できるだけの材料がない
ただ一方で(架空の存在であることは置いておいて)「哲学的ゾンビが人間と同様に振舞う」ことが不可能なのではないか?
と思わせるような事象が現実世界にはチラホラあるんじゃないかと、日々ぼんやり思っていて、
同じように考えている人がいるのではないか?と思って書いてみました
>>532さん
内容を精査するほどには読みこんでいませんが、
私には
>>532さんが哲学的ゾンビの定義を取り違えているように思えます
私もこの種の問題はずっと我流で考えてきて、こうした用語類を知ったのも割と最近の話なのですが、
私は哲学的ゾンビを
@身体を構成する原子・分子の種類・配置が人間と完全に同一
A従って人体と完全に同一の物理的化学的反応を見せる(TVを見て笑ったり泣いたりする)
Bしかし実は意識が生じていない
ものと思っていて、他者にとっては人間と同一(見分けることが不可能)ですが、
その他者がいようといまいと、概念が消失するものではないと思います
595 :
532:2012/02/19(日) 21:29:36.86 0
>>594 その定義でいいよ俺もw
取り違えてるかね?
>>593 ミカンがあるはずの世界でミカンが存在しないなら「ミカンが無い」という言葉が生まれるのが必然だろう
哲学的ゾンビのみの世界というのはそういうものだ
ひらめきなど無い世界で、新たな考えがひらめくフリができる世界なんだからね
神がいるかどうかも分からない世界で「神はいない」という言葉もできたのだからね
>>594 >ただ一方で(架空の存在であることは置いておいて)「哲学的ゾンビが人間と同様に振舞う」ことが不可能なのではないか?
わたしも「生きながら死んでいる猫」は変だとは思いますし「物体がトンネル効果で透過する」のも不可能だと思いますよ
でもそれが「間違った解釈からきたお馬鹿な理論」とは言いません
哲学的ゾンビも、機能としての意識はあるとしています。ただ、それが主観的な実在として現れているかどうかの違いです。
>>579 同じ反応をするなら同じ機能で同じ処理をしていると考えるのが妥当。
違うと主張するなら違いを出す条件を示さなければ説得力がない。
>コンピュータは意識を持つのかどうなのか?
持つと思うが。
少なくとも脳の状態を全てシミュレーションした場合、そのシミュレータは意識を持つはず。
>「精神とはこうだ」を定義できていない人間にとってその違いを論うことは可能なの?
前半はよくわからないが、機能が同じなら同じと考えるのが妥当。
>>598 主観的実在として現れない意識とはなにか?
601 :
532:2012/02/19(日) 22:27:19.70 0
>>596 ちげーよ
みかんがあるはずの世界じゃねーよ
もとからみかんなんて無い、みかんを知っている奴は一人もいないってことよ。
いや、俺の言ってること分かるだろ?
「そういうものだ」とか都合良く言うんじゃねーよw
神は既に「いる」だろ
その実在性が分からないのだろ?
それが矛盾だらけであっても貴方はそれに対して一定の理解をしてるだろ。
神について云々いうなら、「人間が神を全く知らない世界」を想定しなきゃ駄目だろーが。
そしてそれは意識だってそうだろ。意識の実在は証明できるか?
それでも自分の意識は「ある」だろう。
そしてその存在性は意識にあってのみ知り得る。
つまり意識の無い世界では誰も意識を知らない
では「意識の無い人間」ばかりの世界で言われる「意識の無い人間」って何よ?
事実として「意識が無い」のだから、この世界と同じにはならねーんだよ。
「意識があるかどうか分からない世界」じゃあないんだ。
「意識が無い世界」であり、誰も意識を知らないんだよ。
意識が無い世界で、意識を知るにはどうすればいいと思うかね。
どこを探したって意識についての情報なんかないぜ。
何を入力したらフリができるんだよw
>みかんがあるはずの世界じゃねーよ
このスレでは哲学的ゾンビについて話しているはずだよな
その上で、
>では「意識の無い人間」ばかりの世界で言われる「意識の無い人間」って何よ?
こう問われれば、哲学的ゾンビばかりの世界であるはずだろ
哲学的ゾンビは初期段階の設定において人間と同等の行動をするという基本設定がある
要するに意識が無い状態でも意識があるように振舞うことが出来るのが哲学的ゾンビなんだよ
そうであれば意識が無くとも意識があると主張することだってできるし、そうでなければ哲学的ゾンビではない
それが分からないなら君は
>>594が言うように哲学的ゾンビを取り違えているのだろう
おそらく哲学的で無いただのゾンビと間違えているのでは?
ちなみに「神」について一定の理解している人間なんて知らないよ
神とは人によって千差万別する存在ではないのかね?
無論「神」という都合のいい妄想は存在する
しかしその妄想を頼りに「神はいる」なんて都合のいい話をしないでくれよ
人の数ほど妄想はあるんだからな
>>599 では、チューリングテストを通ったマシンは意識を持つのであり、中国語の部屋で同じ回答しかしない人間は意識を持たないんだね?
ところでだ、脳の状態を全てエミュレートしたコンピュータが行っているのは所詮計算であるのだが、その辺りはどうなんだ?
コンピュータはどんなにグラフィカルなことをさせていても、行っているのはそろばんと変わらない計算だ
電気のIN・OUTで計算結果を出すか、人間が玉をはじくかの違いであり、違って見えるのはその規模が違うからだ
さて、脳のエミュレート計算の過程で計算の一部に機械的にそろばんを弾き結果を出す過程を加えよう
はたしてそろばんに意識は宿るのか?
ところで聞きたいのだが、意識を持つとはどういうことだい?
意識やら精神やら魂やらは非常にあいまいで、それがどういうものかの定義は難しいと思うんだが?
また、機能が同じというが、精神の機能とは何だ?
604 :
532:2012/02/20(月) 06:35:52.11 0
>>602 「意識が無い世界で意識があると主張する」ことはいかに可能なのか
ちょっと考えてみたまえよ。
「それが可能だから哲学的ゾンビなんだ」と言うなら
奴らの(意識の無い)思考は、機能的にも人間と同じではないってことだろう?
>神とは人によって千差万別する存在ではないのかね?
>無論「神」という都合のいい妄想は存在する
ん〜?
神について貴方はいろいろ“知っている”ようだね。
だからこうやっていろいろ書いているんだろう?
もともと哲学的ゾンビは、それを論理的に理解することなど不可能だ。
それをねたにどこまでもっともらしく語れるか、のゲームだろう?
「それでもそれが定義だから可能なんだ」というなら、これで話はおしまい。
もうやめとくか。消えるわw
>>604 残念ながら主張はしないねぇ
語るのは哲学的ゾンビなのだから、それは主張ではなくただの音
落石がカラカラいいながら斜面を落ちていくのと大差ない
その音を俺らが聞くと「意識があると主張している」ように聞こえるだけなんだ
ちなみに哲学的ゾンビに「思考」なんて無いだろ
神については「分からない」ってことを知っている程度だよ、何せ神は
唯一無二でありながらいたるところに存在し、全知でありながら裏切られ、全能でありながら何もせず、自らに模して人を作ったはずが異形であり
神聖でありながら鬼畜の所業をし、常に見ているストーカー野郎の割りに拍手でこっちを向かせなければならず、食べもしないのに生贄を求める
まあなんというか支離滅裂だね
606 :
532:2012/02/20(月) 22:20:35.42 0
>>605 ん〜
貴方が誰だか分からんが
>>602に
>そうであれば意識が無くとも意識があると主張することだってできるし、そうでなければ哲学的ゾンビではない
と書いてるから、俺はそれに対してレスしたのだよ。
哲学的ゾンビに思考があるかどうか分からんね。
思考にとって意識が不可欠かどうか分からないからね。
実際、ひらめくときは突然だろ?無意識下で思考してるんじゃないのかね?w
あと、神についてそれだけ知ってりゃ上等だろw
もう消えますのでご容赦。
>>606 >>そうであれば意識が無くとも意識があると主張することだってできるし、そうでなければ哲学的ゾンビではない
>と書いてるから、俺はそれに対してレスしたのだよ。
あーこいつは失敗、実際は「主張しているように見えるし」だったね
思考という選択をどう取るかだね
一応「反射」と対を成すと思ったので「思考」としてみたんだがね
でも同一条件化での思考が常に一定の答えを出すなら、思考=反射でもいい気もするな
でもその場合は思考による自由意志なんて無い、人間もラプラスの悪魔の傀儡になっちゃう気もするよ
あれだけ知ってても神には程遠いよ
天才を知ろうとして紙一重のほうを調べているかのごとくだ
>>603 >では、チューリングテストを通ったマシンは意識を持つのであり、中国語の部屋で同じ回答しかしない人間は意識を持たないんだね?
前者はYes、後者は部屋と回答者の組み合わせが意識を持つ。
>ところでだ、脳の状態を全てエミュレートしたコンピュータが行っているのは所詮計算であるのだが、その辺りはどうなんだ?
>コンピュータはどんなにグラフィカルなことをさせていても、行っているのはそろばんと変わらない計算だ
脳も所詮有機デバイスで構成された計算機にすぎない。
>電気のIN・OUTで計算結果を出すか、人間が玉をはじくかの違いであり、違って見えるのはその規模が違うからだ
>さて、脳のエミュレート計算の過程で計算の一部に機械的にそろばんを弾き結果を出す過程を加えよう
>はたしてそろばんに意識は宿るのか?
I/Oと規模と速度が揃えば人間が持つ意識と同等、それ以上の精神的能力を持つだろう。
>ところで聞きたいのだが、意識を持つとはどういうことだい?
>意識やら精神やら魂やらは非常にあいまいで、それがどういうものかの定義は難しいと思うんだが?
対象を何らかの情報として認識し、評価し、記憶し、推論することを自我の観点で行う場合が意識だろう。
精神は感情と理性の複合体。
魂は精神の働きを讃えた表現。
>また、機能が同じというが、精神の機能とは何だ?
対象を感情および理性で評価し、記憶と推論により行為を選択し実行すること。
なぜ中国語の部屋で「部屋と回答者の組み合わせ」なんだい?
>脳も所詮有機デバイスで構成された計算機にすぎない。
>I/Oと規模と速度が揃えば人間が持つ意識と同等、それ以上の精神的能力を持つだろう。
うむ、そうだ、だが計算がどの段階から意識に変わるのかは提示されていない
特に
>対象を何らかの情報として認識し、評価し、記憶し、推論することを自我の観点で行う場合が意識だろう。
こう書く以上、自我が重要なのだろう
では計算のどの段階から自我が生ずるのだ?
そして、自我とはなんだ?
>脳も所詮有機デバイスで構成された計算機にすぎない。
とは言うものの
人工の計算機の能力はとうの昔に人間を凌駕しており
今では道端で売られているおもちゃですら、人が一生かけても叶わぬ量の計算を一分でやってのける。
しかし、計算機に意識が生じたという話は未だ聞いた事がない
人とは言わない、お馬鹿なネズミ程度の意識で良いから、機械に持たせる為には、
現在既に絶望的なほどの高みにある計算機の能力を、
いったいあとどれだけ増強したらよいのだろう?
611 :
524:2012/02/22(水) 21:52:45.01 0
数日ぶりに覗いてみたら、
いったい何人いて誰と誰が会話してるのか、気力がくじけた
また同じ話題になるんだけど書かせて(書くと頭がスッキリする)
「哲学的ゾンビが『哲学的ゾンビ』という語彙を持つち得るか?」という疑問を持っていたんだけど、
よく考えてみると「人間が精神に関する語彙を持つこと」も不思議な感じがする
なぜなら「物質→意識」は一方通行でフィードバックがないのだから、
精神的な経験が記憶(脳の物理的な変化)になるとは思えないから
要するに脳は、
@脳の物理状態に応じた「悲しい」とか「楽しい」とかいった精神に関する語彙を生み出した
A偶然と言うか、そのときその語彙に相当するような随伴現象が生じていた
B人間はそれが偶然であることに気づいていない
みたいな感じ
どうやらこの人は産まれたときから喋れたようだ
生まれた時からしゃべれる人などいないだろw
生まれたばかりの赤ん坊は泣き叫んでるだけだ。
しかし、泣き叫んでばかりの脳・身体状態だったものが、周りの脳・身体状態と
物質的な相互作用をして、次第に日本語と呼ぶべき音波等を発するような脳・身体状態に
変化していく。そして、その変化には、精神とやらはただ随伴してるだけで、物質的には
実は何も影響していない…
と考えて、何かおかしいの?
いや、これが必ずしも正しいというわけではないけど、随伴なんとやらというのは
そんなような考え方なんじゃないの?よく知らんけど。
赤ん坊の泣き声を聞いた母親が慌てて駆け寄って来るのも
目の前で赤ん坊が死んじゃって狂ったように泣き叫ぶのも
リンゴが木から落ちるのや川の水が低い方へと流れるのと全く同じ
物理法則に忠実に従った物体の運動に過ぎない
どんの物体がどういう風に運動した結果母親がそうなったのかを言わないとな
>>613 精神状態が物質である肉体に大いに影響を与えるというのはよく知られた事実
ストレスで禿げたり胃潰瘍になったりするだろ?
暗示を使って無麻酔手術などもできる
精神が随伴現象とやらで、単に物質サイドからの一方的な反映という考えは
はじめから既知の事実に合っていない思うんだが。
そこのところが
どっちサイドの立場にも
証明の仕方が分からないから
何千年も答えが出ないでいる
>>617 精神状態も物質のある状態だし、それが別の物質の状態に影響しても何の不思議もないが
>>616 いや別人で,ちょっと面白そうな話だと思って書いてみた。
>>617 よく知らんけど,「ストレス」と言っても,周囲の物質的な状態がその人の身体に影響
している,ということなんじゃないの?
暗示による無麻酔手術というのは全然知らないけど,それも,何か話しかけ(つまり
音波を当て)たり,何か見せ(つまり光を当て)たりして,その日の脳・神経の状態に
影響を与えている,ということではないの?
そうではなく,精神というものがなければ起こりえない変化なの?
いや,もし本当にそう言えるのなら,確かに随伴なんとやらは反証されたことになるん
じゃないかと思うけど。
しかし,もしそうなら,哲学的ゾンビは,ストレスで胃に穴が開いたりすることはあり得
ないが,一方,無麻酔手術を受けることもできない(必ず物質的な麻酔を受けなければ
ならない),なんてことになるのかな,それもちょっと面白いなw(冗談)
>>620 >いや別人で,ちょっと面白そうな話だと思って書いてみた。
では
>>611で書いてあることは全面的に肯定する?
ちょっと前に他人の知りに乗っかった奴のせいで混乱したから確認だ
自分からステハン付けろよ
>>623 だったら他人の話に乗らずに、自分の意見で最初から書け
あと、要するに524はまた言い逃げってことかよ
なんか、人間とは
問題を曖昧なままにしておいたり、のんびり考えたりしてるんじゃなくて、
必ず確固たる信念があって、
反対する意見には徹底的に戦うものだと
思ってる人が
いるみたいね
>>625 いや、話の整合性が取れなくなってグダグダになるから言ってるだけだ
627 :
532:2012/02/25(土) 19:47:59.06 0
>>621 てめえが勝手に混乱してんだろ
他人のせいにすんじゃねえよ
ニコラス・ケイジが主演の「Knowing」という映画を今日見たら
最初の方でMITの物理の講義で「決定論が云々…」
このスレの人の好みに合うと思う
>>619 > 精神状態も物質のある状態だし、それが別の物質の状態に影響しても何の不思議もないが
それがはっきりしていれば最初から議論にならんわな
>>620 単純な話、反証は恋の病で食欲がなくなると言う程度でもオケだと思う
そんな例は枚挙にいとまがない
>>629 >
>>620 > 単純な話、反証は恋の病で食欲がなくなると言う程度でもオケだと思う
それって反証になるの?
恋の病とやらは、吊り橋がグラグラ揺れて心臓がドキドキすることによって怒ることもある、
的な話を聞いたこともあるけど、それなら、その後に食欲がなくなることだって
物質的に説明できそうなものなんじゃないかと思うけど。
>>630 > 恋の病とやらは、吊り橋がグラグラ揺れて心臓がドキドキすることによって怒ることもある、
> 的な話を聞いたこともあるけど、それなら、その後に食欲がなくなることだって
> 物質的に説明できそうなものなんじゃないかと思うけど。
説明してみなよ
食欲は精神現象で測れないが、体重は簡単に測れるよ
>>630 結局、どこまでが心の作用で、とごからが体の作用かという点を言わないと
どこまでも何繋がっちゃうわな
>>629 >> 精神状態も物質のある状態だし、それが別の物質の状態に影響しても何の不思議もないが
>それがはっきりしていれば最初から議論にならんわな
はっきりしていると思うけど。
そうでない根拠って何?
>>634 > はっきりしていると思うけど。
の、はっきりしているという根拠を先に示すのが順序だと思うよ
元をたどると
>>619の
>精神状態も物質のある状態だし、
という断定に戻るのだけど
俺の意見はその意見についてのカウンターなわけだから
>>635 精神は物質と独立に存在する、とうことと等価の主張と思われる。
そしてこちらの主張は精神は物資のある状態で独立しては存在しないという主張。
ない(精神あるいは魂が独立に存在しない)ことを証明しろというのは所謂悪魔の証明で一種の詭弁。
この場合、ある(精神あるいは魂が独立に存在する)という主張をする側が例を出すのが今日的なルール。
>精神が随伴現象とやらで、単に物質サイドからの一方的な反映という考えは
>はじめから既知の事実に合っていない思うんだが。
「既知のの事実」は精神現象のことか?
精神現象が脳という物質でできたシステムに依存しているのは明白では?
>>636 別にややこしい話ではないし、悪魔の出番もない
> そしてこちらの主張は精神は物資のある状態で独立しては存在しないという主張。
の根拠を聞きたいと言っているだけだ、
俺の知る限り、物質で実際に精神を再現できるとか、
作るのは無理でも、せめてそのおおよの道筋をしめせるとか
そういった強い材料はまだなかったはずだと思うのでね。
後半の「既知の事実に合っていない」に関しては
精神と肉体の情報のやり取りの双方向性を示す既知の事実があるという事。例も上げた
>精神現象が脳という物質でできたシステムに依存しているのは明白では?
個人的には断言できる程明白だと思っているんだが、
先にも言ったように、その証明は容易ではないので、あまりその部分に熱くなってもしょうがないだろうという事。
とりあえずクオリアが説明できないうちは断定的な説得力は持てないだろう。
目に見えぬテレビの電波が届くのは、奇跡ではなく物理現象だといったところで
番組の内容の論議には大して寄与しないというのと同じで
なぜ物質の一定の所作が、人にとって「霊」というイメージに置き換えられてきたのか
その理由や内容の分析。基礎的な物理現象と「精神」と認められる現象の間を埋める
幾段階かの仕組み・構造を具体的に考えて行った方が建設的だと思うよ。
>>637 >俺の知る限り、物質で実際に精神を再現できるとか、
>作るのは無理でも、せめてそのおおよの道筋をしめせるとか
>そういった強い材料はまだなかったはずだと思うのでね。
>>496参照
>精神と肉体の情報のやり取りの双方向性を示す既知の事実があるという事。例も上げた
>>619参照
これに対する明確な反論は出てた?
>とりあえずクオリアが説明できないうちは断定的な説得力は持てないだろう。
「クオリア」は対象を評価するために進化により獲得した情報処理の結果であって、不思議でもなんでもないと思うが。
たまたまそのような処理を行うものが淘汰に対して優位だったということ。
何段階かの並列信号処理の結果に過ぎない。
今日の技術でできないだけで、技術が進めば同等の処理もそれ以上の処理も可能。
400年前に月に行けなかったのと同じ。
>なぜ物質の一定の所作が、人にとって「霊」というイメージに置き換えられてきたのか
>その理由や内容の分析。基礎的な物理現象と「精神」と認められる現象の間を埋める
>幾段階かの仕組み・構造を具体的に考えて行った方が建設的だと思うよ。
ヒトは進化の過程で推論能力を獲得した。
そして原因と結果から仕組みを知りたがる、言い換えると辻褄を合わせたい欲求を持つ性質を持った。
「霊」を仮定することが定着したのは、ヒトの社会性や自然に対応する際、優位に働くケースが多かったためだろう。
共同体における道徳性や病気の回避などは生存に優位に働いたと思われる。
それが遺伝子、あるいはミームとして定着した結果だろう。
639 :
638:2012/03/14(水) 22:15:54.07 0
>>638 君の言う事に「俺がそう思う」以上の根拠がほとんどないと指摘してるんだよ
君の読み違えを指摘する面倒の前に
まずそこを埋めて
要するの、反論の前に根拠をしっかり示して立論をはっきりさせてくれと言ってる。
>>641 辻褄が合っていて反論に耐えられる、では不足か?
何か権威的なものが必要なのか?
>>642 そんな難しい話ではない
どう辻褄があっていて、どう反論に耐えられるのか、少々具体的に
一般的に予想されるような反論を先取りして答える形で説明してくれればいい。
「精神が物質とは独立に存在する」なんてことが発見されることは,ないだろう。
なぜなら,そもそも精神を見た人なんてどこにもいなくて,物質しか見えないから。
そら重力だってそうだろう
重力はもともと物質と独立に存在するわけないから、いいんじゃないの?
なんか誤解してたらすいません
>>646 > 重力はもともと物質と独立に存在するわけないから
そんなん分からんて
まだ作用機構も解明されてないのに決め打ちしたらあかん
>>644 観測という非物質が物質の状態を決めることもあるよ
>>500 物質世界は、ゲームの世界として与えられているわけですが、ゲームの世界が客観的に存在するだけでは意味がありません。
ゲームの当事者としての経験が主観的に実在することに意味があります。どんなにくだらないゲームであってもです。
哲学的ゾンビの世界ではないということです。
ゲーム空間には、客観化された自己が含まれます。しかし、その脳を調べて分かるのは、情報処理の仕組みぐらいです。
経験の主観的実在は、仕組みの問題ではないはずですが、「主観的に実在する」という認識の仕組みがあるとすると、矛盾しています。
物質的な世界というのは、第一に認識として現れているものであり、その実体があるとしたら、客観的な認識の結果と矛盾しないという条件を満たす何かです。
宇宙についての「ホログラム理論」や『量子コンピュータ理論」のようなモデルは素朴な唯物論を超えていますが、客観を超えているとは言えません。
世界の認識を、客観的なシステムとしての私によって説明しても、客観的な出来事の因果的構造があるだけです。
主観的な実在についての認識を考えるなら、それだけでは不十分です。
>>649 このスレッドでの考察から、脳細胞の何割かをコピーと入れ替えても、客観的な動作に変化がないなら、
主観的にも変化はなく、コピー部分の意識とオリジナル部分の意識が分離するわけではないと考えられます。
このことは、オリジナルの、過去と現在の間の主観的実在の継続性と、オリジナルとコピーの間での主観的実在の継続性が、
同等のものだということを意味します。継続性が思い込みなら、両者の場合で思い込みだということです。
過去と現在の間の継続性ぐらいには、オリジナルとコピーの間の継続性をを認めることができます。
物質的な他者との間に主観的実在が受け継がれるなら、継続性の認識は、記億の共有があるからでしかありません。
すると、記億の共有がない全くの他者との間にも主観的実在の継続性があってもよさそうです。
>>650 主観的実在は、自分自身の何かの認識に対する認識です。赤い物を認識したとき、それが主観的実在として認識されるのは、超越的認識の土台となるものです。
赤の認識を情報処理的に客観化しても、その物質的な出来事の事実性は、一般的な出来事の事実性と変わりなく、事実性の認識になるわけではありません。
ある事実性が別の事実性に対応しているだけです。情報処理の事実性を認識する情報処理を考えても、やはり、それ自体の事実性の認識にはなりません。
赤色の認識の主観的実在は、その事実性を仕組み的に説明したものではなく、事実性そのものです。認識に情報処理的な構造があることとは別のことです。
認識として現れている客観的な世界の出来事は、物理的に矛盾しなければいいだけです。
「主観的実在」について考えているとき、それに対応する脳神経の動作があっても、それ自体は超越的である必要はないだろうと思います。
ゲームの世界の客観的な自己は、認識と行動の構造的パターンを説明しますが、実体とは言えません。
自分達には各々の感覚が存在しているという、疑いようがないと思える事実が
実は最大の錯覚なのかもしらんね
錯覚というか物質である脳の処理結果なわけ。
情報をどう処理したら感覚になるのか分からんとなぁ
感覚も情報だろ
そうかもしれんが証明できるかい?
それに、単に情報だというなら、理屈上はコンピューターで
感覚の再現が出来そうなもんだが、未だそんな話は聞ない。
マシンスペックが足りないということもなさそうだし、理由がよくわからない。
本当にそれは我々のイメージしているような『情報』なんだろうか?
少なくとも我々は他人の感覚という情報を理解することは出来ない
必然コンピュータで感覚が再現できたとしてもそれを感覚と理解することも出来ない
>>657 > 必然コンピュータで感覚が再現できたとしてもそれを感覚と理解することも出来ない
まだそんな壁にゃ当たってないだろ
確認できないが理論的には再現できている筈、ぐらいのモノは作ってから言って欲しい
>>658 それは逃げだよ
まずすべきは機械の感覚よりも前にすでにあると考える『他人の感覚を知る方法』を提示して欲しい
それこそがゾンビ論を破綻させる方法なのだから
>>659 まだ分かりもしないこと(実際に研究者もいるというのに)を
ろくな材料もなしに軽々に断言するなって言ってるだけなんだが
一体何が何から逃げてると言うんだ?
本当に感覚がただの情報なら、直接他人の感覚を知る方法より
コンピューターで再現して、それを知る方法を模索したほうが
生物相手より遥かに実験が簡単だし応用も広い。
順序が逆なんだよ
>>660 壁ははるか先だが、それでも見えている大きな壁だよ
そもそもその壁が無ければこのスレも無いんだし
要するに「理論的に壁はある筈」なんだよ
なら目の前の奴の頭開けて電極突っ込んで、自分の頭にも電極突っ込んだほうが早い
>>657 >少なくとも我々は他人の感覚という情報を理解することは出来ない
「他人の感覚」はその「他人」の脳が何らかの「情報」を処理した結果を脳の中の「意識」と呼ばれる評価処理をした結果であって、それ自体は他者への「情報」ではない。
>必然コンピュータで感覚が再現できたとしてもそれを感覚と理解することも出来ない
「理解」とは理性により対象の仕組みを辻褄の合うより単純な仕組みの組み合わせに変換して記憶することであり、「感覚を理解する」という記述は適切ではないと思う。
強いて表現するなら「他人の感覚を自分(あるいは別の他人)が同様の感覚として体験する」といったところだろう。
>>661 その壁を突破するために壁の手前を掘り進めるだけ掘り進むんだよ
突破できないとしても、その理由を見極めなくてはならない。
壁が理論的に突破できる保証がないうちは掘り進んでも意味がないというのは机上の考え
研究者のスタンスではない
遮二無二壁に近づいてやっと正体が見えてくるんだよ
壁の正体が想像と全然違っていたなんて事は、研究の世界では茶飯事だ
たかをくくってないでとにかく近づいて見るしかない。
>なら目の前の奴の頭開けて電極突っ込んで、自分の頭にも電極突っ込んだほうが早い
動物で脳移植とか、その程度の実験はもう古典の域、そんな簡単にはいかないんだよ。
>>663 なんかそれって現代で錬金術を研究するみたいだよ
致命的な問題が見えているのにそれを無視して研究するの?
研究者がいると言っていたけど、その研究者は哲学的ゾンビの問題を見据えた上で研究をしているわけじゃないでしょ?
ただ単に知能やそれに付随する感覚を設定する研究であって、人間の感覚の仕組みから細分化して研究しているわけじゃないでしょ?
このスレで問題とされる感覚は基本自分以外は分からないんだよ
何せ自分の中でも今と1時間後では変わってしまう可能性があるくらいだからね
そしてもし似たようなものを開発したとしても、納得のいくようなロジックを開発したとしても、結局はそれに妥協するのかと言う問題に常にぶち当たる
要するに水をコップ一杯と数えるか、H2O分子いくつと数えるかの違いだよ
コップの大きさ、水温、圧力、水の純度、全てが決まっていない状態で「理論的にはどんな状態でも出来るんだ」と言ってもダメだろ
いや、いつかは出来るかもしれないけどな
錬金術だって科学で否定されたあと、量子論では可能性を指摘はされるか
ただそれは、派生が別方向から別の研究を行った上での可能性だけどな
>>664 >致命的な問題
それは君が勝手にそう言っているだけ
それは本当に致命的と分かるほど詳らかになっているのか?
コンピューターで再現とかいう案件はそういった分析の進捗を反映するんだよ。
それがまだできないということは、論理的にもまだ未解明な部分が多いということ
そんな知識の乏しい状態で何を根拠に「致命的」と断ずるんだ?
なんでそんなに君には理解ができているのか?
日常的に理解できる常識と思弁でやれる事はギリシャ時代に終わってる
言葉や観念をいくらこねくり回しても、そこにある以上の情報が新たに生まれてくる事はない
現代は現代の新しい技術で新しい情報を地道に蓄え、そこから先に進むしかないんだよ。
なにが致命的な問題なのか分からないとしたら、君がこのスレにいること自体が致命的な問題だね
哲学的ゾンビは何が問題なのかもう一度調べてみなよ
そう逃げを打たんで、自分で具体的に解説してくれよ
いいから哲学的ゾンビについてちょっと勉強して来い、な?
すぐに何が致命的な問題か分かるから
わかったわかった、もうからかわんよw
ただ固いと思っている部分が単に思い込みや錯覚かもしれないという疑問は常に持ちつづける事だ。
人は自分の足元ほどわからないもので、この問題はまさに一番足元の問題だから。
哲学では自分の感覚にメスは入れられないが、そこにメスを入れることこそが重要であるという可能性は高い。
これはただのヤマカンなんだけど、この問題は全然予想しなかった角度から
「あ、こんなんでいいの?」という、肩透かしな理解を得て終焉を迎えるような予感がちょっとしている。
デネット的な考え(ヘテロ現象学)では観察可能なデータから第三者の立場を通して主観的意識の問題を扱えるとしており、
行動的・客観的アプローチによって接近できない主観性といったものは意味を持たない。
671 :
考える名無しさん:2012/03/24(土) 08:49:02.29 0
哲学的ゾンビは人間と全く同じに振舞う前提だけど、
もし人間に意識が宿っていなかったときに果たして「同一性」という概念は存在し得るのだろうか?
自分はシステム屋なのでデータ(個人)を特定する=Key情報は何?と反射的に考えてしまうのだが、
人間のKey情報って少なくとも人体を構成している粒子やその配置ではなくて「意識」なんだよな?
意識をKeyに据えなければ人体もただの原子や分子の混合物に過ぎず周囲と区別する必要がなくなる
同一性なんてものを考える必要もなくなる
1の前中盤の考えには同意
しかし最後の提案は現実的じゃないよ
自分がわざわざ肉体ごと高速で移動しなくても
バーチャル技術で空間をもってくるか、いっそ意識を情報化してしまえばいい
>>671 > 哲学的ゾンビは人間と全く同じに振舞う前提だけど、
> もし人間に意識が宿っていなかったときに果たして「同一性」という概念は存在し得るのだろうか?
これはちょっと面白い話のように個人的には思うけど。
ただ、とりあえずは、日常的な意味である人の同一性を確認しようと思ったら、
指紋とか歯型とかDNAとかによるのであって、意識の内容はそのまま直接問題に
されるものではないんじゃないの?
意識の内容がそのまま直接問題にされるとすると、例えば、「あの人は何もかも忘れてしまった」
とか「あの人は頭がおかしくなってしまった」ということが成り立たない(「意識の内容が
全然違う以上、あの人はそもそも元の人と同一性がない」)ということになりかねないのでは。
他者からすれば、システムが定常状態としてでも維持されていれば、同一とみなせます。
自己の場合、記億を受け継がなければ、同一性の認識にはならないだろうと思います。
ハードウェアの同一性と状態の同一性は別。
さらに自己の同一性の認識はさらに別。
ちなみに自己の同一性の認識はほとんど幻。
同一性の認識が幻なら、本物と偽物の区別にそれほどの意味はないだろうと思います。
つまり、単なるコピーであっても、オリジナルからの同一性の継続の認識を、
オリジナルがしてきた継続性の認識と同等に扱ってもいいということになります。
この手の問題を考えるときに
なるべく「幻」に逃げるべきではないな
思い込みは手強いよ
哲学は結局、神という思い込みを独力では取り除けなかったからなぁ
哲学は宗教と科学の総合体だから神がいてもOK
「神がいない」のも思いこみなのだよ
>>680 ?総合体 ○未分化体
まあ天文学から見た占星術みたいなもん。
真偽不明のオカルトやイデオロギーが論理の中核に絡み付いていて、それ以上純化できない。
まだ観念でしか扱えない分野があるので生き残ってるが
本来可能な限り実証科学で置き換えてゆく筋のものだし、実際そうなってきている。
現代では誰も哲学者に宇宙の構造や認知の仕組みを聞かないだろ?
哲学も宗教も主観を根拠にするので、主張の正統性に優劣をつけることはできない。
哲学も宗教も主観を根拠にするので、主張の正統性に優劣をつけることはできない。
それも思い込みかもよ
>>684 >それも思い込みかもよ
思い込みと指摘する根拠を具体的に示しなさい。
自分の主観っす
わざわざ「具体的に」と要求しているので「主観」だけでは答えとして不十分です。
「・・・と感じたので」といった記述が必要です。
「なんとなく」では反論として説得力がありません。
反論なんてしてないよ
思い込みとか主観って言葉が面白いから掘り下げたくて使っただけ
では「掘り下げ」のためにあなたの主観のもう少し詳細を聞かせてください。
しらねえよ
逆にどういう定義かキッチリ定まってるのかが気になって適当な使い方してみたんだよ
ガムテープ並のしつこさだな
では定義については納得されたのですか?
自分自身の意識もまた空であり常に変化し続けているという事(無我)、
そして自らもまた外部からの刺激に反応する有機オートマトンにすぎないという事を自覚していれば、
自分自身もまた哲学的ゾンビであるという結論に辿り着く。
自分が主体的な自由意識を持っているか様に錯覚しているのはそれが単に意識を感じる主体(補特伽羅、エーテル、セイタンなどと呼ばれる宇宙のキャンパス・ディスプレイ・記憶領域)が自分の肉体という情報場に現時点では捕らわれているからにすぎない。
いわば地球から見た恒星の中で太陽だけが特別で異質なのだと思い込むようなものだ。
哲学的ゾンビでないことの不自然さが問題になっているのです。
>>694 もうすこし詳しく
「哲学的ゾンビでない」ことはどのように「不自然」なのですか
696 :
考える名無しさん:2012/03/29(木) 06:49:40.14 0
哲学的ゾンビでないことが不自然と感じることは自然だろう
意識が随伴するのはいいとして
主体的な自己が1つの肉体に縛られている理由が分からん
「自己」とは何ですか
つうかどのようにしたら哲学的ゾンビを見分けられるかを考えた方がいいな
そうすれば自ずとそれがどういうものかハッキリしてくる
もしもあらゆる方法を使っても見分けられない、差がないのなら
哲学的ゾンビとそうでないものは結局本当はイコールなのではないか
イコールに決まってるだろう。
脳が物理化学的作用によって計算結果をはじき出すアナログコンピューターなので全知全能でない。
主体的な自己であると思い込んでいるだけで精神を自由に操る事はできない。
ものすごく眠いときや鬱なときに意のままに体を動かせるかね?
哲学的ゾンビってそういう事じゃなくない?
何というかこう心のわだかまりを表した
言葉遊びと言うか思考ゲーム的もので
もともと科学の面から見るものではないのかもね
神とかクオリアとかそういうもん
虚数のような存在じゃなかろうか
>>695 ここの
>>1は自動書記機械なので、決して質問には答えません
アウトプットはあってもインプットが無いんです
>>1 生きるという意味が理解できれば命とは何かが分かるだろう
生命と生物の違いが分からないからこそ哲学的ゾンビが成立してしまう。
例え残像が完璧なオリジナルを作ろうが、不完全なオリジナルのコピーで
あろうが。
命が世界に活かされていれば両方がオリジナルである。
そして片方が活きるのを止めたとき世界はそれを偽物にする。
たとえ仮の話で本物が偽物を気取り本物を倒したと説明しても、
結果は世界が個を活かすかで決まる。
>>1はさらに魂というものが理解できないのだろう、魂が理解できる
ならオリジナルが2つになろうが本質的に何も代わらない。
それは他者にとってオリジナルと同じ意味が持てるかどうかの話である。
主体から観測した論理のみで判断していると客体からみた論理と統合
するのに差ができてしまう。渦中の中心で第三者の他人事な捕らえ方を
するのは死刑の人を死刑の体験をしながら死とは何かを考え判断する類である。
現実の人間でも数秒前に何をしようとしていたのか忘れる事はあるだろ。
その時確かに数秒前の自分と現在の自分は物理的には同じだが精神的には断絶している。
身体を構成している原子は代謝によりどんどん入れ替わっており、物理的にも同一とはいえない。
705 :
考える名無しさん:2012/03/30(金) 06:40:20.31 0
むしろ物理的に入れ替わっているのに
主観的な自己は保存されている
記憶も刻一刻と変化しているのに
やはり自己は保存されている
「自己」とは何ですか
蝋燭の火を別の蝋燭に移すが如し
または
ある人が詩を暗誦するのを別の人が聞いてそれを憶えまた暗誦するが如し
哲学とは疑うことや定義することや証明することだと思うけど
どっかで妥協して前提を与えないと、
そもそも哲学の出発点である問題が生じることすらないという自己矛盾も抱えている
哲学的ゾンビなんかもだが、心の哲学全般って哲学のその性質が分かり易い例だと思う
709 :
考える名無しさん:2012/03/31(土) 11:44:36.82 0
思考の際に何を前提しているか、それを議論を通して明晰化していくのが哲学の基本的な作業でもある。
問いが困難であればあるほど、より深い前提に探索は降りていく
(というかより基本的な前提から出てくる問題ほど困難である)
710 :
第四の波下:2012/03/31(土) 21:06:44.50 O
4月になりますな
>>671 システム屋ならわかってもらえるだろうけど、
「同一性」という一つの単語で、
アドレスが一致してることと、値が一致してることを曖昧に表現しちゃ駄目だよな。
>>671 >人間のKey情報って少なくとも人体を構成している粒子やその配置ではなくて「意識」なんだよな?
それすら違うよ
意識というKey情報は個人が所有する物だが、個人が属する集団が持つKey情報も存在する
例えば個人のPCからすれば重要なのは自分のHDD内にあるデータで、それが同じであればハードが変わっても基本的に自分のPCと認識できる
しかしWeb上で個体認識として重要なのはプロトコルに乗っ取った識別情報であり、個のPC上にあるHDDの内容は大して問題ではない
>>712 すまん。
その「例えば」からあとの文章が前半とどう関わっているのか分からない。
つまり例え2つのものが内部構造が違ったりして実は同一じゃないとしても
周りに与える反応、影響が同じなら、他から見たときその2つはまさしく同一だって事でしょう
つまりクオリアの有る無しで外部に与える影響がどう違うのかを
何とか見つけて言わなければ哲学的ゾンビの議論は論理的には進まない
あと
>>1のようにしたときの同一性って話だと
まあ人間の脳や心ってものは絶えず変化していくものだし
同一の定義をハッキリさせないとどうにもならないよね
まあクオリアが同一かってことなんだろうけど
もちろんクオリアだけが違うかは上で言ったように他人にはわからない(はず)
じゃあ自分自身ではどうかっていうと、自分自身が同一かっていう判断も難しいんじゃないかと思う
つまりクオリアの同一性の判断をどうやったら付けれるかを早急に考えるべきだなあ
>>694 みんなが超能力者だとすると、超能力を使えることが当たり前で、「自然」だと感じるでしょう。
それで、自然科学によって説明できるはずだと思うわけです。超能力が現実である以上、
何らかの自然科学的体系から演繹されていいはずです。
ところが、うまくいかない。自然科学のモデルが不完全なのかもしれませんが、
人の意志が空間を隔てて物質に作用するというのはアニミズム的な世界です。
超能力は、現実であっても、実は不自然なものと再認識されてもおかしくありません。
哲学的ゾンビでないことは、当たり前すぎて、そのことを意識することもほとんどありませんが、
一度意識しだすと、その超越性に気づいていくことになります。
哲学的ゾンビは、自然科学的に演繹される存在であり、
非哲学的ゾンビとは、超自然的ということになります。つまり、不自然な存在です。
>>714 サンクス。なるほどね。
>つまりクオリアの有る無しで外部に与える影響がどう違うのかを
>何とか見つけて言わなければ哲学的ゾンビの議論は論理的には進まない
「どう違うか」というよりは、「違いが存在するか」という話だと思う。
「クオリアの有る無しで外部に与える影響は違う」という前提が成立するならば、
「クオリアを持たないが、その振る舞いはクオリアを持つ人間と変わらない人間(=哲学的ゾンビ)は存在しない。」
という話になるので。
未来の人工知能は、「クオリア」とかいうものを持つ者の存在を否定するでしょうね。
クオリアを持つことで、何が変わるのかということです。
クオリアを持つと思っている人間の認識も、情報処理的出来事として説明してしまうでしょう。
といっても直接「存在しない」ということは証明できないからなあ
特に今のふわっとした定義のクオリアをあるかないか言うのは無理だと思う
でもイメージ的にはあるような気がするのが不思議だなぁ
クオリアについてイメージが全く湧かない、何を言ってるのかさっぱりわからないって人もいるみたいだけどね
>>718 私は後者だなあ
物理現象の結果として意識というものが存在するのを疑うわけじゃないけど、そこに
「それだけでは説明できない何か」の価値があるというところは理解できない
納得できないって言う人はもちろんいるけど
クオリアの概念、哲学的ゾンビの概念が全くピンと来ないって言う人もいるみたいだね
その概念は科学的なものとはまた別な話だと思うんだ
この板のどっかで哲学とは科学が未到達、未解明の部分を担うものって見たけど
その概念も、まだ心というものの科学や理屈ではハッキリわかってない部分が
哲学としてこういう形になったんだと思う
だからまあ科学が進歩すれば少しずつ解決するだろうし
今現在全く納得できない人が結構いるみたいなのも科学が進歩して多少は心の謎分が分かってきたからだろうね
もしかしたらそういう概念はそろそろ古くて役立たずなものとなりつつあるのかも
でもまだ今の科学じゃあそうは言い切れないかな
これが物質の「エネルギー」だと見せることはできませんが、その存在を考えずに物理学は成り立ちません。
脳のどこかを顕微鏡で拡大して、これが「痛み」だと見せることはできそうにありませんが、「痛み」を感じている状態を知ることはできます。
そのときに、「痛み」が存在していると考えるべき客観的理由があるかは、モデルの問題となります。
もちろん、主観的には、私の脳の状態に対応して、「痛み」の実在を経験することになるのは事実です。
痛みは、感覚として存在します。エネルギーがエネルギーだけで存在することはなく、何かが持つものであるように、感覚が感覚だけで存在することはなさそうです。
ある物質的システムが痛みを感じていると言えるモデルを考えるということは、それがなければ物理的現象を説明できないというものだとすると、ほとんどアニミズム的世界です。
身も蓋も無い話になってしまうが、
哲学的ゾンビなんてモデルこそが在り得ない代物ってことなんだよな
幽霊や神様と同じで、もしもいたら的な架空のオカルト的なモデル
もしもで考えるは面白いけど、冷静になってみると虚しい
絶対零度の液体はどう振舞うかとか言ってるみたいなもん
>>721 ちょっとそれを箇条書きで書いて、その間を「よって」とか「なぜならば」とかで繋いでみせてくれないか?
私にはどうにも、あなたの書き込みが散文的な詩にしか見えない。
私にとって、2ちゃんねるへの書き込みは、発想法の一つになっています。
したがって、文のスタイルがヒント的、暗示的なものになりがちです。
725 :
考える名無しさん :2012/04/03(火) 03:25:27.99 0
なんというか、このスレというか、1の目的が見えないですが。最初の高速移動装置に対して議論するの?
だとしたら一応私の意見。
完全なコピーを作ろうが代替して客観的に何の変化も無かろうが、本人にとってはコピー後殺されたら自身の死で主観の終わりだし、本人は納得するもんじゃないだろうなあ。
客観的に何も変わらないし便利じゃんってことなんだろうけどさ。いや他人がやってる分には何にも問題ないけれどさ。
主観を持ってると確信できている自分自身がその方法を使うはめになったら、それは確実に一つの主観が終わることになってしまう。それは本人的にひどいでしょう。
客観的に見て問題はないって思えるのも、思考者自体が客観的立場にあって自分には何の不都合もないからであって、いざ当事者になってみると大問題でしょう。
移動装置ではあるけれど、同時に殺人装置である。
俺も
>>1さんが
>>1を書くことで、何を考察したかったのか
なぜ哲学的ゾンビが出てくるのかイマイチよく分からんのだが、
1年も前のことだし、ここまでにそれなりに考察はできてるからいいんじゃない?
たいていのは既に語り尽くされている内容なんだろうけど
先人が歩んだ道を辿るのはその先に行くために必要なことだからね
>>724 それ何となくわかるよ
読む人間がいることを意識して書くと意味が伝わるようにって注意するようになるし
その中で面白い例えとかが浮かんできたりする
具体的になり過ぎたり条件を漏れなく書こうとすると長くなってしまうから
感覚的に一発で伝わるような表現を探す
色々とアタマのトレーニングにもなるよね
繰り返しになりますが、脳細胞さえも、それを構成する物質が入れ替わっていくそうです。目印をつけた物質を摂取させて、確認できるそうです。
すると、過去の自分と現在の自分はシステムとして継続性がありますが、物質的には別物です。
それは、オリジナルとコピーの関係と同等です。
過去の主観と現在の主観が一つのものの継続であろうとなかろうと、同一性の認識は成り立っていて、
オリジナルとコピーの間の主観的同一性の認識も、同程度には成り立つということです。
物質交換の実験の結果が学会的に認められているのかどうか知りませんが、>>1での思考実験でも十分だと思います。
「スター・トレック」というSFドラマには転送装置が出てきますが、それは、コピーを作る材料がオリジナルを分解した物質になっています。
コピーと同時に殺人をやっているわけですが、一回一回死んでいる自覚はなさそうです。
よくわからないんだけど
ここは皆で話し合うんじゃなくてあくまで1が自分の考えを書く場所って事でOK?
話し合いというのは、人間関係上のやり取りが目的なようで、あまり生産的な気がしません。
ある程度まとまった考えで反応し合うぐらいがよさそうです。
まあそういう意味で言ったんじゃなくて
なんか1は他人と意見を積極的にやり取りし合う場にしたいのかなと思ってたんだけど
何か1は度々急に長文書いたりするけど何か周りを意識してないような
話に入って無い一人悟ったような書き方だから違和感ある
私 = new 人間("エヌ");
私.update(人生の艱難辛苦);
私のコピー = 私.clone();
// 私のコピーは、私と同じものか?
私 == 私のコピー // 比較パターン1: 私 「私のコピーは、私ではありません。私を殺さないでください」
私.eqals(私のコピー) // 比較パターン2: 傍観者「エヌ氏のコピーは、エヌ氏と全く同じものだ。元のエヌ氏を殺せば高速移動したことになる」
高速移動装置とかの系統のお話は、こんだけの話だと思う。
これがあたかも大問題であるかのように見えるのは、
比較パターン1と比較パターン2の両方の意味を、
「同じ」という一つ単語で表現することで混乱が起きてしまっているせいだ。
…というのが私の考え。
>>731 そうなのだが、完全には解消されない。
「私の人格と記憶の一切を超コンピュータに移植できるなら
この肉体が滅びるとも私は不滅の命を得る」と信じる人間がいるからだ。
ほとんどの人々は、自分がコピーであることに気づいていない。
それは、オリジナルが少しずつ消滅し、その分をコピーが埋めていくやり方だからです。
意識も、オリジナルの分の意識とコピーの分の意識に境界が生じることはありません(境界問題)。
したがって、問題なのは、オリジナルからコピーへのバトンタッチの仕方だと言えます。
結果的には、どちらのコピーも同じものです。
>>733 それは全くの的外れ
物質的には一瞬たりとも同じ状態ではないのだから
意識は最初から、貴方の言う「目印を付けた物質」には依っていない
オリジナルの消滅もコピーもない
「スター・トレック」の転送装置のように、オリジナルの情報を記録しておいて、原子レベルに分解してしまいます。
それは、殺人に等しいと言えます。しかし、残された情報とバラバラな原子で元の肉体を最構成したとき、
その人間は主観的にも元のままの存在であり、オリジナルが継続していると同時に、コピーでもあるわけです。
>>732 んー、解消されないかな?
>「私の人格と記憶の一切を超コンピュータに移植できるなら
>この肉体が滅びるとも私は不滅の命を得る」と信じる
これは
>>731で言う、比較パターン2で「私」が滅びたかどうかを判定するって表明なんだと思う。
1.私の人格と記憶の一切を超コンピュータに移植した
2.この肉体が滅びた
3.上記の状態のとき、
>>731で言う比較パターン2の意味で「私」は滅びていない
…という話は、全くもって正しい意見だと思うよ。
3の「パターン2」が「パターン1」に起き変わってもそれが成立するっていう主張なら、言ってることがおかしいけど。
>>732 というか、書いてる意味を解ってくれる人が居て嬉しい。
半分、完全にスルーされると思って書き込んでたので。
それがあまい
意識がどんな物理的情報であるのか全く分からないので記録しようがない
そもそも情報素子は原子なのかどうかも分からない
もっと言えば、原子が何なのかも分からない
>>736 貴方は「明日も“この自分”が生きていること」を確信して今を生きているだろう
その「明日の“この自分”」をコンピュータに移植できると考える人間を
傍観者論によって説得できるかな
>>740 あれ……?理解されて……ない?
傍観者論とか言ってることからすごく誤解されてる気がするんだけど
>>731は、どの立場から見るかは本論に関係無くて、
「同じ」を判定する方法が2パターンあるっていうのが主旨なんだ。
742 :
考える名無しさん:2012/04/04(水) 00:10:23.09 0
>>741つまりね
「明日のこの自分」が「明日のどこかで生ずる人格」と「同じ」であるかどうか
その2パターンでどうやって判定できるのか、ってことですよ
明日になるのを待つの?
上げてしまった、すまn
テセウスの船
あるシステムのメンテナンスのために、古くなった部品を少しずつ新しいものと交換していくとすると、
ついには最初に使われた部品がすべて新しいものと置き替わってしまいますが、システムとしては同じです。
ところが、交換された部品が残してあって、それで同じシステムを作ったとすると、
純粋に客観的な問題として考えるなら、メンテナンスされている方はコピーを意味し、古い部品で造り直された方はオリジナルを意味します。
哲学的ゾンビの世界ではそれだけのことです。
ところが、そのシステムに意識の主観的実在が伴っていると、オリジナルのときから主観的実在が継続しているのはコピーの方になります。
もし、主観的実在の同一性そのものを否定するなら、
>>1でのオリジナルもコピーも主観的に同等です。
実際、コピーとオリジナルが同じ場所で目覚め、どっちがコピーかを区別する客観的な証拠が失われたとすると、
主観的にも、自分がどっちなのか分からず、両者は同等だとしてもいいはずです。
したがって、両者の同一性の認識は、幻想として優劣を付けられません。
すでに答えは出ているように思えるが何が問題なのか?
正直人間、自分のコピーの話はイメージが沸きづらい
今そんな事有り得ないからいくら哲学的同一性がそうだと言われても気持ち的な同一性と大きく差がある
747 :
考える名無しさん:2012/04/04(水) 14:16:46.45 0
存在の主体は我々が観測できる物質という概念ではない。
全ての次元を含んだ時空そのものが主体なんだ。
素粒子は空間に表現された宇宙というシステムの単なる演算結果に過ぎない。
だから3次元空間上に物質だけをコピーしてもそこに分裂できる訳じゃない。
スワンプマンという思考実験はあくまでも目に見える範囲でしかこの宇宙を捉えていないので欠陥がある。
なんでそんな超越的な概念を臆面もなく断言できるのか不思議だ
理由が聞きたい
世界3秒前仮説と合わせれば答えは出るだろ。
750 :
考える名無しさん:2012/04/04(水) 20:04:51.56 0
>>748 仏教を哲学として学び、物理法則を知れば、
おのずと物質は不生不滅ではなく、単に存在エネルギーの現在値が正になっている状態の空間でしかないことを理解でき、
空間こそが宇宙という現象や人間が感じている意識(仏教でいうところの空)のキャンバス・モニターであるという結論に行き着く。
>>742 はい。
明日になるまで待たなければ、「明日のどこかで生ずる人格」がどのようなものかを知ることはできません。
どのようなものか分からないものと何かを比較して、それが等しいかの真偽を決めることは
どのような手段を用いても出来ませんから、明日になるのを待つしかありません。
観測できない物事を前提にすることは神秘主義の一種で、そのことの真偽を吟味できない
ちょっと
>>750を翻訳してみたよ。
・仏教を哲学として学ぶ
・物理法則を知る
…以上の2点を満たしたならば、
・物質は不生不滅ではない
・存在エネルギーの現在値が正になっている状態の空間が、物質である
…ことがおのずと理解できます。
よって、以下の結論に行き着きます。
空間は
・宇宙という現象
・人間が感じている意識(仏教でいうところの空)
…の"キャンバス・モニター"*1 である。
*1:750による造語?
>>751 そうならばですね
「一秒先の自分」が「この自分」と「同じ」であるかも主観的に判定できない、ということになる
貴方の言う「パターン1」は破綻してしまうのではないですか?
何が「同じ」なのでしょう
>>754 すみません、コメントが「私」と「傍観者」だったのがまずかったですね。主観、客観という
概念は私の論では出て来ません。
ポインタのアドレスが「同じ」かどうか判定するのがパターン1です。
エヌ氏 = new 人間("エヌ");
過去のエヌ氏ポインタ = エヌ氏;
過去のエヌ氏状態 = エヌ氏.clone();
エヌ氏.update(1秒間に起こる出来事);
// 過去の私は、私と同じものか?
エヌ氏 == 過去のエヌ氏 // 比較パターン1: 過去のエヌ氏のポインタは、エヌ氏のポインタも同じ。エヌ氏は過去のエヌ氏と同じだ。
エヌ氏.eqals(過去のエヌ氏状態) // 比較パターン2: 過去のエヌ氏の状態は、エヌ氏の状態と違う。エヌ氏は過去のエヌ氏と違う。
>>755 その「ポインタ」は状態に対応していない、ということですか
そうだとすると、何者がそのポインタの同一性を判断できるのですか?
哲学的ゾンビの問題は、現在の自然科学から人間という存在を演繹できても、哲学的ゾンビにしかならないということです。
しかも、それで十分かもしれないのです。
したがって、哲学的ゾンビはあり得るかという問題ではなく、少なくとも自分が哲学的ゾンビでないことの不可思議さの問題になります。
それを考えるための思考実験であるわけです。
>>756 >その「ポインタ」は状態に対応していない、ということですか
はい。ポインタは、ポインタが指し示す先の状態とは対応していません。
>何者がそのポインタの同一性を判断できるのですか?
現実世界であれば、なにかを見続けている間はそれが同じアドレスを持ったものだと判断できます。
(思考実験であれば神の視点から同一性を判断できますが)
例えばカフカの『変身』で、グレーゴルが床に就いてから変態していく彼を見続けていれば、
巨大な虫となった彼は元のグレーゴルとは全く違う姿なのに、
巨大な虫とグレーゴルが「同じものだ」ということが判断できると思います。
上の話は「見ている」という表現に頼りすぎた例なっていますが、
世の中のすべてのものには重複しない製造番号がついているとして
その製造番号が同じかどうかを比較するのが「比較パターン1」だ。
…と表現すればプログラミング言語に詳しくない人にも解ってもらえるでしょうか。
759 :
732:2012/04/05(木) 20:11:48.63 0
>>758 >世の中のすべてのものには重複しない製造番号がついている
グレーゴルのポインタ(製造番号)はいつできたのでしょう?
虫は最後に死にますが、その時にポインタも消えるのでしょうか?
760 :
732:2012/04/05(木) 20:18:00.01 0
バクテリアが分裂する際に、元のバクテリアのポインタ(製造番号)は
分裂した二つのバクテリアのどちらかに追従しますか?
それともちゃらにして、新しい製造番号を付けますか
761 :
732:2012/04/05(木) 20:25:08.95 0
失敗、上げちゃったwごめんなさい
もしそのポインタが人智を越えて生滅するのであれば、
ポインタの「ありか」は超越者(つまり神)の都合でどうとでもなってしまう
それでは何も解消されないように思われる
>>759-761 どうも「製造番号」というのも無駄に混乱を
増やしてしまったようで申し訳ない。
758 で書いた「巨大な虫とグレーゴル」というのが今のところ
出せている例えとして一番理解してもらえるものだと思いますので、
そちらで説明したいと思います。
状況A:
『グレーゴルが床に就いてから変態していく彼を見続けていれば、
巨大な虫とグレーゴルが「同じものだ」ということが判断できる』
これはOKでしょうか?
これが755などで私が書いている「パターン1」です。
ここで、このスレではお馴染みの「物質コピー機」に
登場していただきます。昨晩のグレーゴルをコピー機でコピーしていて、
そちらも虫になっていたとしましょう。(嫌な図ですが)
そうすると、
状況B:
『巨大な虫と、もう一匹の巨大な虫は「同じものだ」ということが判断できる』
…と言えると思います。
これが「パターン2」です。
どうでしょうか。
状況Aも状況Bも「同じものだ」ということを判断していますが、
その判断の方法が違う、ということが理解していただければ幸いです。
どう番号が付いてるかじゃなくて
自分が番号を付けるとしたらどうするかを考えた方がいい気がする
764 :
考える名無しさん:2012/04/06(金) 20:50:12.12 0
製造番号というか宇宙というネトゲ(仮にこの宇宙が神々の遊びだったと仮定した場合)のプログラムの変数とかポインタとかあるいはメモリの使用領域だろう。
宇宙が絵画ならキャンバスだし、ビデオだったら液晶とかブラウン管のモニターで、ボードゲームだったらゲーム盤な。
>>762 >>1は、客観的対象の世界で考えるだけなら、何の問題もない事です。
一方は、現実に起きていることのように、オリジナルが微小部分ずつ消滅しながら、その部分をコピーと置き換えていってできたコピーであり、
他方は、オリジナルを残したまま、一度に全体をコピーしたコピーであり、結果的にはどちらもオリジナルとは別の物質で出来たコピーです。
両者の違いは、一度にコピーと置き換える部分の大きさの極端な違いだと考えられます。
全体を一瞬で消滅させて、一瞬でコピーと置き換えた場合、そのコピーは、普通にオリジナルの継続であるかのような意識を持っていくことになります(
>>749の、3秒前仮設の変種)。
一方がオリジナルの継続として扱わられ、他方が断絶として扱われるのは、心理的な問題だと思われます。
客観的な対象の世界では、これで十分です。
まぁクオリア自体が、
例えば脳の中で電子の位置が変わったとか
そういう変化に伴って生じているんだろうからな
そもそもに同一性と両立しない性質があるだろう
ところで
ここのみんなならまだ新鮮な死人の脳に外から電気を流すなりしたら
クオリアは生じると考えるよね?
767 :
考える名無しさん:2012/04/07(土) 10:49:54.48 0
アンドロイドにもクオリアは当然生じてるだろう。
776は転んで画用紙にペンキぶちまけただけでも、必ずそこに芸術が潜んでると言い出すんだろうな
おっと766か
まあ、首を切り落としてしばらくは意識があるらしいが
771 :
考える名無しさん:2012/04/08(日) 02:23:32.21 0
その気になれば瞑想で自分が様々な別の存在だったらを想定してその時のクオリアを想像できる。
小さな子供、異性、身体欠損・余剰、知恵遅れ・痴呆、精神障害者、別の動物、想像上の動物、このあたりまではまだ脳があって記憶があっていつもとさほど変わらない。
更に踏み込んで単細胞生物、植物、AI、ただの電子回路、自然現象、朽ちていく死体、もはや生命ですらないものにまでクオリアを想定する。
この瞑想をするとフィードバック機構や記憶がない存在はクオリアを有していても時間経過や苦痛がないのだと言う事に気付かされる。
想像で分かるなら苦労はない
ひどいストレスを受けて海馬が萎縮した経験のある人は
短期記憶力が減衰した状態を知っているから記憶や学習がまったくできない状態を想像することは容易なのだ。
その点では苦行は有用かも知れないがリスクが大きすぎる。
主観的実在が意味することの一つは、認識される世界が、座標の原点を定められたものとして存在することです。
つまり、私を中心にした宇宙が存在しています。物理的な量の多くは、座標系を定めて決まりますが、
宇宙の客観的存在を考えるとき、物理的な量に特定の値を与える座標は不定です。任意の座標に対して、値がどうなるかの関係があるだけです。
時間さえも、現在がいつなのかは不定です。同じ原点から始めても、私にとっては一年後の世界が、他者にとっては十年後の世界であり得るというのは、
相対性理論の有名な結論です。宇宙が始まった頃に生まれたある物体にとって、現在は宇宙創造から数年後の世界かもしれません。
量子力学の多世界解釈でも、客観的には、現在が決定されたものとして存在するわけではないとされます。
しかし、主観的には、この現在に決定されています。そして、私の主観は、この私のものとして決定されています。
客観的な世界が相対的な関係の世界であるのに対して、主観的実在は絶対的です。
>>1で言われている装置で非処女のコピーを作ったとしたら
そのコピーはやはり非処女と定義すべきなのだろうか・・・
>>774 左脳を失った人も、右脳を失った人も、それぞれ意識があるように見えます。
右脳と左脳が分離された人間の場合、両者の意識も独立しているように見えます。互いに他者の意識です。
右脳と左脳がつながっているとき、両者の間には電気信号のやり取りがあるだけです。機能的に連携していることは確かですが、
両者の主観的意識の実在に境界がある可能性はあります。どちらかは哲学的ゾンビだとするわけにはいかないでしょう。
私の主観的意識が言語を伴った実在であることから、左脳の方の意識だと言えます。左脳の方の主観的実在に決定されているわけです。
もし、左脳と右脳の意識に境界がないとすると、分離手術によって意識の主観的実在が分裂することになります。
客観的には、どちらかの主観的実在に決定されるということはありません。しかし、主観的には、どちらかに決定されます。
777 :
考える名無しさん:2012/04/08(日) 16:39:26.21 0
主観的意識は心でも物でもない。
意識と精神的作用は切り離して考えるべきだ。
主観的意識が収まるところはいわばドーナッツの穴であり、車輪の軸を通す穴であり、容器にある物を入れるための空洞なのだ。
それを仏教では補特伽羅、老荘思想では道、サイエントロジーではセイタンと呼んでいる。
>>774 ほんとうに主観的実在は絶対なんだろうか?
我思うゆえに我あり、ここを更に解体していかないと
同じような内容の言葉の入れ替えや再定義に始終するばかりで、
実質的な議論の進展はないと思うが。
>>778 「絶対」という用語は、「相対」に対応させたわけですが、現在が主観的に決定されているということです。
この話がどこに終着することを目指してるのかよくわからんな
主観と客観の統一かな
不確定性も包含した形での唯物論が宇宙を支配しているのがたぶん答えだし
結局主観が持続していることの理由が一番難しいんじゃない?
記憶、悟性、理性のある程度の持続
実態は神経細胞間の信号のやり取り
神経細胞間の情報のやり取り、すなわち意識じゃあ全く納得できない
科学の面で点をいくつか示せてもこの哲学まで繋がって来ない
785 :
考える名無しさん:2012/04/09(月) 12:04:28.29 0
>>784 もう苫米地の情報場仮説でいいだろ
神経細胞間の情報のやり取りでの諸々の物理学的力が波として空間を伝わる事で意識という情報場が形成され、
我々の意識を感じている実体(補特伽羅、道、セイタン、宇宙がコンピュータだったと仮定したときのメモリ領域)はたまたまその空間の座標(
>>774で言う「私を中心とした宇宙」)にいるから今人間として生きているだけだ。
そんなフォースがイデの力でシャドウ化したみたいな話を真に受けられるか
>>784 >神経細胞間の情報のやり取り、すなわち意識じゃあ全く納得できない
もう少し具体的に説明してください。
>科学の面で点をいくつか示せてもこの哲学まで繋がって来ない
「この哲学」とは何ですか。
哲学的ゾンビであることが自然なのだという認識が、自然を超えた領域を認めることになるとすると、コペルニクス的転回と言えるかもしれません。
ある脳神経が出力するパルスの因果関係について、クオリアの存在を考えなければ説明できないということはないだろうと思います。
人間の入出力、内部状態に、哲学的ゾンビ以上のものを求めるのはアニミズムであり、非科学的ということになります。
>>788 逆でしょう。
哲学的ゾンビには感覚も感情もないというのが前提ですが、それらなしには外界を評価できず、したがって行為をする事もできないのです。
反対に外部からの情報を受け取れるものなら、それが例えばひとつのスイッチであろうと、一種の感覚を持つとみなすことができます。
感覚があってもフィードバックできないんじゃ全く命とは言えないな。
>>789 感覚や感情があるかではなくて、それらがクオリアとして現れているかということです。
そしてそのクオリアが自分以外では確認しようがないというのが
忘れられつつあるもう一つの原点
他人のクオリアを感覚が接続してもいないのに確認できたら宇宙の法則が崩れるだろう。
クオリアの無い人間を作れるかで考えてみよーよ
脳の客観的な内部状態が、クオリアの経験を前提にしなければ成り立たないということがないなら、
単純にクオリアを無視すればいいだけです。
他人がどんなに痛がっていても、それを痛みの主観的実在に対応させるのは心理的な問題だと言えます。アニミズム的なものです。
人間の自然ををありのままに認識すれば、哲学的ゾンビ以上のものとする必要はありません。
>>795 叩かれて痛がる人と、叩かれたヨガる人は区別しないという方針で?
痛いと感じるとか、赤に見えるとか、
そういったクオリアはたぶん物理的に説明がつくものなんだろうな
たぶんカエルも犬も人間も、「痛い」と感じたときには脳のどっかで
同じ物理的な反応があるんだよ
で、ほとんどの物理現象が発生させているクオリアはあんま大したもんじゃないから、
皮膚や臓器はもちろん、末梢神経や脊髄に発生しているクオリアさえ主観なるものは捕え切れていない
そんでさらに、何故か強烈なクオリアを発生させる脳を持った生物が繁栄することができた
生存可否を決定付けるのは物理領域の出来事であり、クオリアは物理領域にフィードバックしないにも関わらずだ
そしてその例えば「赤」のクオリアを発生させる物理状態だが、
色盲の人の脳を調べるなりして特定できないもんかね?
全盲の人の中で色か光への共感覚を持った人を探したほうが早いだろう。
>>798 RGB(赤、緑、青)に関しては、それぞれ対応する視細胞があるのでむしろ考えやすいんだが
黄色や、紫といった混合の中間色が原色とは全く違う感じのクオリアになっているのが
個人的には実に不思議
なにこの流れ。
さも当たり前のように、「痛そうに見える」ことが「痛みクオリアが発生している」と同義のように
語られてるが、そうである必要は全くないからこそ哲学的ゾンビってものが存在しうるんだろ?
釣りか?なんか勘違いしてるっぽい1を釣り上げるための早大な釣りなのか?
(だとしたら俺はとんだマヌケだよ!)
哲学的ゾンビというモデルは、
唯物論とかを考え出してからだと思考実験の媒体として活用するようになるんだけど、
それよりもっと前の子供の頃とかに「他の人間も同じように感じているのだろうか?」
と疑問を持ったときにもう薄らと生まれ始めているもので、
思考実験を強く意識してしまうと、ゾンビが独立した考察対象のようになりがちで、
でも元々は「自分がそのクオリアの発生を唯一認識できているこの自分と比較して」
という態度があった訳で、
架空のモデルであると同時に、
実は実在の自分以外の人間たちをゾンビと位置付けて考えてしまっても
何の問題もない
ゾンビは論理的には製作可能だと思うが
本物のクオリア持ちを手本にして、それを真似るという方法以外では作りようがない
そして、ゾンビが生物として自然に進化してくるような事は考えられない
つまり人が意図的に作らない限りゾンビは存在しない
結論:他人(動物)を哲学的ゾンビと考えることはナンセンスである。(共感の根拠を失うという具体的な問題も生じる)
自分は自他に心を感じるのが心
自他にクオリアを感じるのがクオリアだと思う
そんなもんでしょ?
それにこれならクオリアの無いヒトもいると言えるかもね
ある用語に対して
共通の定義を持った者同士でなければ
議論はできない
>>805 その一文を紙にに書いて
宗教板の人間達の額に貼ってやりたい
>>805 共通の定義だって?
同じある一つの用語が共有されないのに
用語の数が増えた定義なら共有できるのか
このスレの
>>1は
哲学的ゾンビとかクオリアとか主観とか同一性とかの解釈について
誰もが理解しやすい一般的なものを前提に話をしている
それが同じようなことを考えている他の人間から
意味のある意見を引き出すのに一番の方法であることを彼は良く知っている
と俺は思っている
彼の主張に対して理論的に反論するのならかまわないが
彼と同じ言葉を別の意味で使ってギャーギャー言うのはよろしくない
そういうのはもちろんここに限らないが
>>803 >ゾンビは論理的には製作可能だと思うが
>本物のクオリア持ちを手本にして、それを真似るという方法以外では作りようがない
Q1.
この主張は、本物のクオリア持ちを手本にして、それを真似るという方法以外でつくられた
人間は現象意識を持っていることを示している。
それらの人間が現象意識を持つという根拠は何か?
Q2.
神の視点から見て「行動はまったく同じだが、現象意識を持たない人間」=ゾンビが存在したとする。
Q1で述べた根拠は、「行動はまったく同じだが、現象意識を持たない人間」が
実は現象意識を持っているという根拠としても成立してしまわないか?
>>809 Q1.の
>この主張は、本物のクオリア持ちを手本にして、それを真似るという方法以外でつくられた
>人間は現象意識を持っていることを示している。
それは適当に言葉をひっくり返してみただけだろ、そんな風にはならんよ。
そもそも俺は「作りようがない」、つまり不可能だと言っているのだから
ありえないものの性質を心配する必要はない。
したがってQ2も無い。
>>810 1.ゾンビは論理的には製作可能である
2.ゾンビは、本物のクオリア持ちを手本にして、それを真似るという方法以外では作りようがない
3.よって現実的には、ゾンビは製作不可能である
……という主張だと理解してるんだけど違うん?
この2番が成立するんなら論理的にQ1が成立すんだけど、
どの時点で勘違いしてんだ、俺。
>>811 違うなぁ
だいたい3の「制作不能」ってのはどっから来たの?
俺は本物を真似すれば論理的には作れるって言ってるはずなんだけど。
>この2番が成立するんなら論理的にQ1が成立すんだけど
その論理が変なんだね
.Q1の
>この主張は、本物のクオリア持ちを手本にして、それを真似るという方法以外でつくられた
>人間は現象意識を持っていることを示している。
>>810にも書いたが、この要約の時点ですでにおかしい
俺が不可能としたことを勝手に可能にかえて組み替えている。
更に不可能の先の無意味な部分だが、「現象意識を持っている」と限定する理由がない。持っていない場合だってありうる。
更に、その要約に関して
>それらの人間が現象意識を持つという根拠は何か?
と質問している。
これは君が行った不適切な認定の根拠を俺に聞いているかっこうだ。そりゃ俺には分からないw
>>812 >だいたい3の「制作不能」ってのはどっから来たの?
ここ。
>>803 >本物のクオリア持ちを手本にして、それを真似るという方法以外では作りようがない
この「作りようがない」ってのは「制作不能」って意味ではないの?
ごめん。813は勘違いだわ。
3の「制作不能」ってのは、
「本物のクオリア持ちを手本にして、それを真似るという方法」でゾンビを作るのが現実的に不可能だから
810で「作りようがない」つまり不可能だと言っているんじゃないってとこね。
そこは私の勘違いなんだけどさ。
2は別に組み替えてないよ。
2.ゾンビは、本物のクオリア持ちを手本にして、それを真似るという方法以外では作りようがない
この主張は、本物のクオリア持ちを手本にして、それを真似るという方法以外でつくられた
人間は現象意識を持っていることを示している。
ってとこね。
これ見ても解ってもらえないならもういいけど。
ttp://www.picamatic.com/view/8341452_z/
>>814 わかってもらうも何も間違ってるんだってばw
その図もおかしい、それだと君が問題にしている 「それ以外の方法で作ったもの」∩「ゾンビ」 は存在しないことになる
俺の言ったことは
「真似る方法で作ったゾンビ」∋「哲学的ゾンビ」 、「違う方法で作ったゾンビ」∩「哲学的ゾンビ」=?
ということ
まず
>この主張は、本物のクオリア持ちを手本にして、それを真似るという方法以外でつくられた
>人間は現象意識を持っていることを示している。
この要約の誤りに気づいて
816 :
815:2012/04/12(木) 02:37:58.52 0
↑
=?と化けちゃってるのは空集合の記号ね
817 :
815:2012/04/12(木) 02:50:42.96 0
君の書いた図は
俺の言ってることに合致していて、君の言っていることに矛盾しているんだよ。
>>747 ちょっと私なりに考えてみました。
仮に、物質とは、空間の状態だとしてみます。すると、物体の移動とは、実体としての物そのものが移動するのではなく、
空間の状態の変化が伝わり、別の場所が同じ状態になることだということになります。
すると、コピーとは、空間のある場所の状態と他の場所の状態を同じにすることです。
このとき、瞬間的には、オリジナルの状態とコピーの状態の区別は、場所の違いしかありません。
両者を交換しても、客観的に何の変化もありません。
コピーの作成と同時にオリジナルの状態を消滅させ、その場所にコピーを置いたとすると、
空間の同じ位置に同じ状態が続くことになります。
>>747 >だから3次元空間上に物質だけをコピーしてもそこに分裂できる訳じゃない。
観測できない事象を根拠に主張しても議論できない。
素粒子が演算結果とするなら同一の素粒子どうしを識別できないので、
量子論的属性までコピーすれば空間座標の値以外は同一とみなせる。
私が主観的に継続すると言えるかどうかは、未来の私の苦しみに怯える必要があるかどうかで判断できそうです。
瞬間瞬間で私が他者として存在するなら、十秒後に針が刺さる仕掛けがあっても、あくまでも他者の苦しみであり、
怯える必要はないはずですが、実際にはそういうわけにはいきません。私は存在し続け、未来の苦しみに怯えることになります。
未来のある瞬間に、私がコピーと置き替えられるとすると、今の私にとって、コピーがどれだけ苦しむことになっても、
あくまでも他者の苦しみであり、未来の苦しみに怯える必要はありません。
意地悪なら、コピーがひどい苦しみを味わうことになる選択をするかもしれません。
ただし、他者にとっては私が継続しているのと同等であり、コピーの私も、オリジナルの記憶を受け継ぎ、
断絶の認識も、一度気を失ったぐらいであり、自分がコピーだという主観的自覚を持ちにくく、過去の判断を後悔してしまいそうです。
すると、そのコピーが再びコピーと置き替えられる事になれば、自分のコピーの苦しみを怯えることになってもおかしくありません。
ということは、十秒後の苦しみも、本当は他者の苦しみなのかもしれません。世界五分前仮説の変種です。
飯を食うとか眠るとか交尾するとか
生存や子孫繁栄に必要な行動を促すような脳の機構を持った個体が適者であったのは分かるんだが
そのとき脳に発生したクオリアが例外なく「快楽」質であることがやはり不思議なんだよなぁ・・・
クオリアから物理領域へのフィードバックが無いのであれば、
飯を食った結果として生命を維持するのだが、
そこにとんでもない苦痛のクオリアが発生していたとしても問題ないはずなんだよね
やはり何かしらのフィードバックはあるんじゃないかなぁ・・・
アインシュタインが時空間を相対的なものとすることで高速度不変を成立させたような
いつかああいう大転換があるんだと思う
そうなった日には、哲学的ゾンビというモデルも役目を終えると言うか、消滅するね・・・
現実には無理という意味では思考実験の一種と言えると思うが、
生物進化を忠実に再現できるようなコンピュータプログラムを作ってみる
いわゆる知的生命は現れるだろう
そして「自分たちの生命を守るため」の科学技術を手に入れるだろう
そこは共産主義的な社会になるのかもしれない
しかし、彼らは娯楽を生み出すだろうか?
プログラムに
「クオリアが発生していると仮定し、かつクオリアは物理領域にフィードバックする」という前提を与えてみる
彼らは奴隷制度を生み出すだろう、グルメを楽しむだろう、ドラッグを売買するだろう
保険金殺人をするだろう、AVを作ってオナニーをするだろう
823 :
考える名無しさん:2012/04/15(日) 21:06:21.52 0
>>821 苦痛/快楽の感覚は、(進化の結果)それが苦痛/快楽であるという認識結果であると思い込むように神経回路が接続されているから、それが苦痛/快楽のクオリアだと感じているだけだ。
ある物質がとある生物種にとっては猛毒でも別の生物種にとっては栄養であるケースでは、仮にその物質のレセプターから発せられるクオリアが同一であるとすれば、生体の反応機構だけが判定基準となる。
有害な事を快楽であると肉体がフィードバック機構を作ると生存能力に支障をきたす訳だが、なにぶん遺伝子の進化は全知全能ではないので麻薬中毒みたいな抜け穴が存在する。
ヒトは偏桃体が壊れると苦痛が苦痛でなくなるし、嗜好の好みの個人差やマゾヒズムというものもある。
クオリアの苦楽の客観的絶対の基準はそのクオリア単独では存在しないと言える。
824 :
考える名無しさん:2012/04/15(日) 21:22:47.13 0
>>819 違うな。
たとえ量子論的属性をコピーしても周囲の素粒子が異なるので、その影響を受けて0秒後の時点から既に別物だ。
つまり同一である期間は0秒しか続かないので同一のものを違う場所に作るという事自体理論上不可能だ。
対象物の周囲の粒子を何光年分コピーしたとしても決して同じにはならないだろう。
また量子論的属性というものは単に粒子として着目した値にすぎず、量子の間の空間=場(重力・電磁力・分子間力・核力などの伝達)の事をまったく考慮していないならばそれは同一とは言えない。
素粒子や質量は生じも消えもする事が知られている訳であり、ただの空間の状態に過ぎない。
量子の動きは例えるならLEDディスプレイが明滅して文字や絵が動いていると認識させているようなものだ。
コピーでも、現在のオリジナルと一時間後のオリジナルを同じものとして扱える程度には同じものですね。
完全に同じでも観察側が違う個別と観測した時点で別になる。
たとえば同じ箱が2つあったとして、片方に1番、もうかたほうに2番と
名づけたらその時点で1番と2番は別な存在となる。
そこに名札をつけたり、片方を変形させても同じこと。
物は自身で個として存在していても、世界からも個としての関係となる。
存在とは常に他者との関係で成立するものでもあるんだよ、気が付かないか
認められないだけの話な。
外からはともかく、本人はこっそり殺されてるんだから連続的なんとやらは変わってるだろ。
頃された記憶を方とない方とでは別固体とも言えるわけで
時空上の異なる点に存在する物が別物であるなら、時間軸方向で異なる点に存在する物も別物となります。
したがって、十秒後の私は、現在の私とは別物であり、十秒後の苦しみは他人の苦しみになります。
未来の苦しみに怯える必要はなくなります。
もし、時間的には同一性が維持されるとするなら、問題は、生物のように、定常状態として存在する物の場合です。
システムを構成する物質は次々に入れ替わっていきます。同一性は、出来事のパターンを維持する構造や記憶ぐらいです。
構造や記憶をコピーされた私があったとき、両者は別の出来事として区別されます。それぞれの苦しみは、互いに他者のものです。
ところが、定常状態とは、微小部分ずつのコピーとの入れ替えであり、コピーと同等の存在になっていくわけですが、
未来の自分の苦しみに怯えなくてもいいわけでないとすると、単なるコピーとは違う同一性を考える必要があります。
多分、脳以外の部分と右脳は、単なるコピーと入れ替えても主観的にも同等と言えそうです。
もちろん、純粋に客観的な存在の世界では、始めから何の問題もありません。
>>824 意味なく重箱の隅を突っつくんじゃねーよ。
>>819が量子力学ではどうこうって
言いたいがための発言に見えるのか?
本気で
>>819の発言の意図がわかんないほど日本語が不自由なら
哲学より前にそっちを勉強した方がいい。
どこにでも量子論を持ってくる人間は見てい痛い
心の哲学レベルの話に、量子なんて全く関係しないのに
まったくだわあ
橋を架けようってとこに、ドヤ顔で一般相対性理論を持ち出してくるような場違いっぷり
>>824 素粒子における 「同一」の定義を他との相対的な位置や速度まで含めると、全ての素粒子はユニークになってしまい、そのような見方からは何も見つけることはできない。
変わりうる属性を剥ぎ取って残った属性の共通なモノを「同一」とみなすのが人間の対象を認識する際の一般的な方法で、特に問題がなければこの方法は有効だ。
リンゴの2個とミカンの2個は同じ「2」でも性質が違うと主張しているように見える。
自然観の違いで、哲学もかなり違ってくると思いますよ。
自然科学が常識を壊してくれることは、哲学的にも大きな意味があります。
自然科学や数学でやれることはすべてやってしまってほしいです。
834 :
考える名無しさん:2012/04/17(火) 06:28:36.72 0
>>828 では訊くが、時間とは何だ?
我々は時間が存在していると思っているが、実際は時間など存在せず物質があたかも時間が存在するかのように振舞っているだけかも知れないぞ。
クリシュナムルティだって全ては現在に起きていると言っているではないか。
>>829 物理学アレルギーか?知識もないのに思惟が出来るわけがないだろう。
物質ではなく空間の方が実体だという思想は量子力学の登場以前から存在した。
それは仏教の空の概念だ。
>>830 哲学の歴史だけを学んで、実践のための知識を集めないなら宇宙の真理への思惟から逃げているだけだ。
それとも君は今どき時代遅れのデカルトの二元論でも信じているのかね?
格人に様々に思いがあるのは当然だが、
広く浅く概念的なものを話題にしている相手に対して、
自分の考えを主張したいがために
突然その中の1ポイントだけに絞ってミクロな分析的なツッコミするとか
議論においてルール違反だし、そもそもアホだろ
あと相手の言っていることを確信犯的に別の捉え方するとかもね
比喩や例えで言っているのが明らかな個所を引っこ抜いて、
真顔でその用語の正確な定義の話に持っていき、
せっかくの考察の機会をしらけさせて台無しにするとか
>>835 具体的にどの書き込みに対するレスかを書かないと、ただの独り言と同じだ。
>>834 知識のあるなしじゃない。適用の問題だよ
君が言う程度の素粒子論なら多分みんな知ってるだろう。
心の哲学の議論にそんなスケールの話が出てくるのかと言う話だ
我々のいる物理スケールの中では
物質はほぼ確定的に存在しているのであり、
量子論的な不確定性の関わる現象も確率として既に折込み済みだ。
物質の実態がモノであるか空間であるかとかいうような問題は
少なくとも我々の知覚に関わってくることはない
分からないから除外する、見えないから見ない
それじゃ物事の正確性は失われると思うんだ
もちろん議論は進むけどね
その上で
>>747へ
>全ての次元を含んだ時空そのものが主体なんだ。
現時点での問題点はそこではない
時空のごく一部である人間の主観が主な問題
視点は旧支配者の広大なものではなく、矮小な人の視点だ、ただし蚤とはまた違う視点だ
>>837 それならなぜ体の原子が全て入れ替わっても同じ自分であるというクオリアがあるのか説明できるモデルを君は別に考えられるのかね?
物質が云々と言い出したのは
>>1なのだよ。それを無視する方がスレ違いだ。
>>838 では訊くがその人は自分の体がどこからどこまで自分の一部なのかはっきりと境界を認識するものなのかね?
爪の先や毛髪や皮膚の表面の死んだ細胞は彼の一部か?
切断された四肢の抱合とまではいかなくとも、白血球が含まれた唾液が一度口からこぼれ落ちたが啜りなおして口の中に戻ったらその白血球は一時的に彼の一部ではなくなったと言えるか?
コンピュータの電気回路と脳を接続してフィードバックのやりとりをすれば彼のクオリアはコンピュータの中に移行できるか?
時空という大層な言い方が気に食わないなら別の言い方をしよう。我々の意識の実体は仏教で言うところの「縁起」=物質の相互間の関係だ。
仮説の上の仮説なので断言はできないが、もしかしたらイデア界に対応したクオリア界があって(どちらかに魂があるとかではなく意思の働きはあくまでも物理主義)
そこでこの縁起に対応したクオリアがアミノ酸とRNAの関係のようにはまり込んでクオリアが発生してるのかも知れない。
>>839 上
別に19世紀の知識でもそんなモデルはある
たとえばレコードの音だ、どんなスピーカーや振動子で鳴らしても
「運命」は「運命」だ
途中でスピーカーを切り替えたって上手くやれば音楽は途切れない
そもそもその入れ替え論には不備があって、一度に全取替されるような言い方をしているが
物質の入れ替わりはもっと穏やかだ
船が部分部分を交換しながら航行して、
いつかしら最初の船のパーツがすっかりなくなっていても
それが航海に支障をきたすことは何もない。そういうことだ
100年前と今ではすっかり国民が入れ替わっているが、日本は日本だろう
そういうありかたを特に珍しいとは思わないが。
>>839 要するに神に頼らざるを得ないというところまで一気に幅を広げろと?
でもそれは結局「わかんないや」と全てを投げ捨てるのと変わらないだろ
話を広げすぎ、仮説に仮説を重ねて神話を作ってもしょうがないよ
だから
>視点は旧支配者の広大なものではなく、矮小な人の視点だ、ただし蚤とはまた違う視点だ
こう言った
あくまで人間の視点での話だ
もちろん個人個人で違う視点になってしまうが、その中での最小公約数を見つけるのが賢いやり方
あと、人は道具を使う群れ生物だ
場合によっては道具を体の一部のように感じたり、自分の体をそうで無いかのように認識したりする
しかしそう認識しているのはあくまでその個人だったりするわけだ
842 :
考える名無しさん:2012/04/18(水) 03:01:17.91 0
>>840 >「運命」は「運命」だ
物理主義で考えれば何も可笑しい事はない。
知っているか?体を動かそうと思った0.25秒前には既に脳内では対応するニューロンが発火していることを?
多くの人々が自由意志だと思い込んでいるそれは現実には種も仕掛けもある有機コンピュータの出力結果なんだ。
>途中でスピーカーを切り替えたって上手くやれば音楽は途切れない
音楽の実体はその場の空気の振動だ。スピーカーやレコードではない。
>船が部分部分を交換しながら航行して
船旅を全うしたのは船員だ。船の部品ではない。
>100年前と今ではすっかり国民が入れ替わっているが、日本は日本だろう
日本と名付けられているのは土地だ。一生日本人のままの人間が全てではない。
>>841 >話を広げすぎ、仮説に仮説を重ねて神話を作ってもしょうがないよ
これまでの物理学の発展は直接観察できない物事に対しても尤もらしい仮説を積み重ねる事によって最終的に証明されてきた。
そしてこの話はそう遠くない未来に実証可能になる領域にある。
>あくまで人間の視点での話だ
その人間は光に形があり、音に形がないものの方向はあり、匂いが鼻に、味が舌に、暑さ寒さが皮膚の表面に、気分が体の内側にしかない事が当たり前だと思っていて脳を共有するシャム双生児ではない特に何も訓練を積んでいない一般的な健常者の事だな。
コウモリは音で形のクオリアを生み出す神経回路を有しているし人間でも共感覚や瞑想で視覚以外の感覚で形を想起できる。
人間は神ではないがそれでも音=空気の振動と光=空間の震動が入れ替わった感覚や匂いや味が高さと厚みを持った感覚がどんなのかを想像はできる。
既に脳に電極を差し込んで全盲に視覚のクオリアを生じさせる実験には成功しているので、逆もまた出来なくはなくなることだろう。
どちらも単体では特に間違ったことを言っている訳ではないが、噛み合っていない
こういうのはどちらか一方が馬鹿か確信犯
高校の物理の問題のレベルで2つの物体の落下速度の話をしていたら
重たい方が、地球により近い方が、僅かではあるが引力が強くなるとか言い出すようなもの
会社でも何かの方針を決めるようなとき、正論が自分にとって都合悪い人がこんな具合にして
時間を稼いだり、あわよくば議論が別の方向に行くことを狙ってる場面に、たまに遭遇する
>>842 >音楽の実体はその場の空気の振動だ。スピーカーやレコードではない。
クオリアはそのようなものなのかもしれんよ?
みな同じ事なんだが
不明の現象を考えているはずなのに
そうやって、予めモ正体を決めつけてかかることがおかしいんだよ
求める実態は形にあるのか、作用にあるのか、あるいはもっとべつのところにあるのか
そん言うことも含めて不明なんだから、柔軟に考えないと。
845 :
考える名無しさん:2012/04/18(水) 12:16:06.68 0
>>842 >これまでの物理学の発展は直接観察できない物事に対しても尤もらしい仮説を積み重ねる事によって最終的に証明されてきた。
積み木じゃないんだから闇雲に積み上げりゃいいてもんじゃあないんだよ
仮説を積み上げる際には、その先にある程度証明可能な事実があって、そのための仮説なんだよ
しかも足場作りの仮説にもしっかりとした定義付けがされており、『仮』と付いていても適当に積み上げていいようなものじゃないよ
しかし君のやり方は違う
同じ仮設を積み上げるのしても無造作すぎる上に「これ気に入らないからこっちに変える」というような部分まで見られる
>その人間は光に形があり、音に形がないものの方向はあり、匂いが鼻に、味が舌に、暑さ寒さが皮膚の表面に、気分が体の内側にしかない事が当たり前だと思っていて脳を共有するシャム双生児ではない特に何も訓練を積んでいない一般的な健常者の事だな。
クオリアを何も理解していない人の発言だよね
春の日差しのにおいも、柔らかな音も、後頭部を殴られたような臭いも、そういったものを全く理解していない人の発言だ
クオリアの問題は主に内的な問題だが、それは臓器という意味の内的では無いよ
>>842 あと、自分宛以外で突っ込みいれたいところをいくつか
>音楽の実体はその場の空気の振動だ。スピーカーやレコードではない。
それは音の実体であって音楽の実態じゃないよ
>日本と名付けられているのは土地だ。一生日本人のままの人間が全てではない。
土地だけあって国民がいなくなれば、それは日本ではないよ
国が特定の国であるためにはいろいろな要素が必要であり、その要素の多くが失われればそれは特定の国ではなくなってしまう
国民の連続性はその要素の中でもかなり重要な部分であり、絶対でなくとも否定するべきものじゃないね
849 :
考える名無しさん:2012/04/18(水) 22:56:40.41 0
>>847 >しかし君のやり方は違う
ここは科学板ではなく哲学板だ。固定観念に囚われてはいないか。
>>848 >それは音の実体であって音楽の実態じゃないよ
聴いている人間がいなくなれば音楽は途切れるといいたいのか?
>土地だけあって国民がいなくなれば、それは日本ではないよ
プロイセンからは国民がいなくなったがその土地は未だにプロイセンだ。
土地の名前を出すのはあまりにも例えが悪すぎる。
>クオリアの問題は主に内的な問題だが、それは臓器という意味の内的では無いよ
それをクオリアの問題ではないと主張するならば全ての物質や心の問題ですらないな。
肉体の反応がなければクオリアを感じたと認知することすらできないというのに。
君は、確信犯で話をそらしている方で決定でいいね?
>>849 >ここは科学板ではなく哲学板だ。固定観念に囚われてはいないか。
では君の言う「仮説を重ねていくのガ〜」もダメだね
>聴いている人間がいなくなれば音楽は途切れるといいたいのか?
音と音楽の違いはなにかね?
分かりにくければ言い換えようか、人のいない自然界に音楽は存在しているかね?
自然界に存在するのはすべからく音ではないかね?
>プロイセンからは国民がいなくなったがその土地は未だにプロイセンだ。
ではそこに日本人が国を作ればプロイセンに戻ると思うのか?馬鹿か君は?
日本は日本人が絶滅したらJapanとか、下手すると大陸系が勝手に別の名前を付けるだろうね
それに日本と言うものは日本と言う呼称というだけでは無いだろ、人や文化や歴史を総合的に見てはじめて日本だ
>肉体の反応がなければクオリアを感じたと認知することすらできないというのに。
肉体の反応がなければクオリアを感じられない
のと
肉体の反応がクオリアを示している
は違うよ
例えば音楽を聴いたときに、臓器や脳で聞いているだけでなく、その場の雰囲気や臭い、過去同じ音楽を聞いたときの情景、音楽の意味、その意味から生ずる自分の感情へのアクセス、その感情から新しく想像される音への意味づけ
そのようなものが総合されて音楽に質感をもたらすこともあるわけだ
851 :
考える名無しさん:2012/04/19(木) 00:02:00.79 0
>>850 >君は、確信犯で話をそらしている方で決定でいいね?
一体いつだれと話す内容について合意したんだね?ここ2ちゃんねるでは勝手にファビョる奴は馬鹿にされるだけだ。
>音と音楽の違いはなにかね?
君が「音楽」という単語を見聞き・表象したときに特異的に反応するニューロンが反応しうるものが君の中では音楽だ。
アンビエントを聞いて「こんなものは雑音だ!」と叫ぶ人にとってはアンビエントは音楽ではない。
>ではそこに日本人が国を作ればプロイセンに戻ると思うのか?馬鹿か君は?
人格攻撃とは穏やかでないね。知的興味の範囲が狭いという事はよく判った。
ギリシャでは未だにフランスをガリアと言ったりするなど数多の例を知らずに、
何の前置きもなく複数のシニフィエを想定できるシニフィアンを譬えの文脈で哲学の話において使うのは全く意思疎通に配慮していないというだけの事だ。
>そのようなものが総合されて音楽に質感をもたらすこともあるわけだ
そこで使っている「聞く」「総合される」とは一体どういう現象なのか思惟した事はないのか?
けっこう好きなスレなので
つまらんことでレス数消費するのもったいないから
ケンカなら余所でやってくれないかなぁ?
こういうときは負けるが勝ちだよ
意地になってる方が相手に図星突かれて取り乱しているものと思われる
しばらく前から全レスしないと気が済まないのが居ついてるよな
>>851 >君が「音楽」という単語を見聞き・表象したときに特異的に反応するニューロンが反応しうるものが君の中では音楽だ。
>アンビエントを聞いて「こんなものは雑音だ!」と叫ぶ人にとってはアンビエントは音楽ではない。
あれ?
>音楽の実体はその場の空気の振動だ。スピーカーやレコードではない。
こういっていた人の言葉とは思えないね
でもまあ概ねそのとおりだ
国もそう、テセウスの船もそう
重要なのは土地でも材質でも無いんだよ
国を国たらしめているのは、テセウスの船をテセウスの船たらしめているのは
結局個々の人なんだよ
将来、人工知能の友人ができたとき、その人工知能をあるコンピュータから別のコンピュータに移動させても、
その友人を今までと同じ友人として扱うだろうし、同じ友情を感じるだろうと思います。
ただし、移動ではなくコピーだとしたら、問題です。友人に対して安易にはやれないことです。
死んだ綾波レイが新しいクローンとして現れたら、多分、記憶を失った綾波レイとして扱うことになるでしょうが、
複数のクローンが現れてしまうと、混乱することになります。一対一の対応関係が崩れます。
他者については、真実よりも、どう見なせるかが重要かもしれません。
そうでないと、小説や漫画の世界を楽しめないだろうと思います。
あ、このスレが平和な理由と、1の論点がふわっとしたレスの関係が
なんとなく分かったわ。
これはユニークだな。
不思議系炎上対策とでも言うべきなんだろうか?
自己のコピーが現れてくる事は、単細胞生物の日常
あらかじめ哲学的ゾンビだということが判明している、
ある人物が存在したと仮定する。
この人物は大変活動的で、世の中の些細な出来事にも
いちいち感動をあらわにする「かのように振る舞って」いた。
この人物がある日とつぜん、何の理由もなく変わってしまったとしよう。
変わってしまった彼は、何に対しても興味を持たず、無感動で、
生理的反応だけで生きているようになってしまった。
さて、変わってしまう前と、変わってしまった後の彼を分けている「差分の要素」は一体何なんだろうか?
少なくともクオリアではない。彼がクオリアを持たないことはあらかじめ判明しているからである。
>>858 > あらかじめ哲学的ゾンビだということが判明している、
判明している時点でそれは哲学的ゾンビではないと思うが
哲学的ゾンビの定義ってそういうのだっけ?
俺は「クオリアを持たない」だと思ってた
Wiki知識だけど
>>858 変わってしまったことの原因は一体なんだ?
それが差分の要素なんじゃないのか?
>>860 クオリアを持たいないのはただのゾンビでしょう
クオリアを持たないが、その事が外からは判別できないのが
哲学的ゾンビだと思ったが
862 :
考える名無しさん:2012/04/21(土) 18:17:50.57 0
そもそも自分以外の人間がクオリアを持っているかどうか確かめようがないし、持っていたとしてそれをクオリアと呼ぶべきものなのかというものがクオリアなんだが。
>>861 あれ? 哲学的ゾンビとゾンビは別なの?
文脈から察するに、
ゾンビ: ある種の精神障害を持つかのように行動する、クオリアを持たない人間
哲学的ゾンビ: ある種の精神障害を持たないように行動する、クオリアを持たない人間
って使い分けてるっぽいけど、そんな使い分けしてる人は初めて会った。
まあ、結局ゾンビの話も
>>862の言っている
クオリアの確認不可能性の表現のバリエーションだと思うけどね
思考過程が心理学的に予測可能…ゾンビ
〃予測不可能…非ゾンビ
>>858 >変わってしまう前と、変わってしまった後の彼を分けている「差分の要素」は一体何なんだろうか?
それはまさに「外見的に現れる行動の差異」であって、別に何も問題ないと
思いますが、違うのですか?
哲学的ゾンビであってもなくても「あの人は最近変わったねえ」ということ
だと思いますが。
逆に、「実は無感動になった後は哲学的ゾンビではなく内面的意識やクオリアを持つ
普通の人に変わった」とかいう例もありでしょう。
自然科学だけから演繹した人間は、哲学的ゾンビにしかならないどうと直観しています。
>>866 はい。その通りです。
この話は、哲学的ゾンビを想定したときに、
外面の振る舞いからクオリアの有無を知ることは出来ない、
ということを再確認する意味で書き込んだ
再確認も何も、もともとゾンビだろうが人だろうが
クオリアは確認不能だろうに
871 :
考える名無しさん:2012/04/26(木) 21:02:25.03 O
行動する場合に、意識が全く関与しないorそもそも意識が無い
これは哲学的ゾンビ?
寝てる間に目覚ましを叩き割ったとか?
>>871 外部から見て「意識がないからそのように行動したんだな」と判断されてしまうような
行動をしていたのであれば、哲学的ゾンビではない状態と言えるかな。
主観を認めた上でのゾンビ?的な
「寝てる間に叩き割る」
深層意識(無意識と言われるがそれも意識の範囲内)によるもの…非ゾンビ?
どんな意識も関係なく起こったもの…ゾンビ
自分の意識・無意識とは全く関係なく、行動が起こっている…主観はあるが行動制御ができないゾンビ
自分の意識・無意識によって行動している…主観があり行動制御もする非ゾンビ
客観的に見れば、自分はゾンビとも非ゾンビともとられる。
自分がゾンビか否かを自分で確認したい場合、自分の意識がきちんと行動として反映しているかを調べるとよい?
客観的ゾンビ「あれに意識など存在しない。物理的要因のみによって行動が生じた。」
主観的ゾンビ「私には意識がある。しかし私の行動は全て偶然である。」
876 :
考える名無しさん:2012/04/26(木) 23:42:06.59 0
生命はたんぱく質の働きで偶然が集められ自己組織化する事で始まった。
故に全て偶然という考えも的外れではない。
ただしその偶然はフィードバックによって都合のよいものが増幅され都合の悪いものが抑制されている。
なぜそうなったのかというとそうした方が化学的な不均衡が永く続く(生存力がある)からだ。
>>1の問題を言い換えておきます。
私の全体をコピーして、オリジナルを消滅させた場合と、私の微小部分をそのコピーと取り替えていった場合を考えます。
その過程や結果の客観的な差異で、主観的な結果の差異を説明できるかという問題です。
主観的な結果の差異とは、一方は、他者の主観となり、他方は、自分の主観であり続けるということです。
一方は、置き替え後の苦しみは他者のものであり、他方は、自分のものです。
両者の違いは、一度に取り替える部分の大きさの違いです。
ある場合は、分子レベルの微小部分となりますが、それは、生物が普通に行なっている物質交代と結果的には同等なものです。
主観的継続性が幻想なら、数分後の自分の苦しみは他者のものと同等ですが、そういうわけにはいきません。
我々は畢竟、分子間の関係性に過ぎんのじゃよ。
たとい魂が実在したとしても、それは質量あるモノに宿ることはなく、素粒子の間の虚無だと思われがちな空間を魂と呼ぶ事になるのじゃよ。
>>877 できます。
Aという箱と、Bという箱があったとして、
被験者にはボックスAの中に入ってもらいます。
被験者のコピーをボックスBの中に作成します。
ボックスAの中に居る被験者を消滅させます。
これで、客観的な結果の差異 ( ボックスAの中に居る被験者が消えたこと ) から
主観的な結果の差異 ( 被験者が主観的に『私が消えた』と考えること ) を説明できます。
コピーの作り方の違いによる差異です。
881 :
考える名無しさん:2012/05/11(金) 22:47:54.01 0
量子論で言う多世界解釈が正しかった場合
その主観を共有することはできないが紛れも無く自分であるという人間
(ある時点までは同一世界にいた)というものがいることになる
>>1で言うコピーはそれに近いものだろう
俺はよく考える
余所の世界の俺はいったいどうなっているのだろう?
幸せになっているのだろうか?それとも苦しんでいるのだろうか?
いや、そもそもどいつまでを「俺」と考えていいのだろうか?
受精卵になるまでは同一世界で、そこから分岐した奴までか?
しかし、同じ卵と精子が受精しているが、タイミングが僅かに違うという奴だっているはずだ
ではその個人を特定するキー情報とはいったい何なのか?
遺伝子ではないことは、双子を見れば明らかだ
あの苦しんでいる俺とそっくりの奴のことを、
俺は我が事のように悲しむべきなのか、、、
存在に理由はないが、認識には理由がある。
言語も目的なくしてはなく、≫1は矛盾を生むことを目的として作られた内容である。
よって結論が矛盾しているのではない。
主観はコピーされないことを持ってその意味を持つ。
二種類のコピーの作り方で、一方の意識は他者のものとなり、他方は同じ意識が受け継がれる仕組みは何か?
どういうルールがあるのか?
>>883 コピーは出来ない。
結論の矛盾は、仮定の間違いを証明しただけに過ぎない。
コピーは、あくまでも物質的システムに対してです。
>>885 コピーには時間がかかる。
コピーの最中、元の人間とコピー人間は別の経験をする。
コピーが終了する時には別の主観を持つ。
887 :
考える名無しさん:2012/05/12(土) 06:33:19.51 0
>>1の言い分を液体の入った容器で例えてみようか。
すなわち意識という液体の入った人間という容器を、中身が零れ落ちないようにしながら巧妙に一部ずつ同じデザインの容器のパーツと取り替えていき、最終的には別の容器に同じ液体が入っている事になる。
それなら最初から容器と液体を2つ用意して、片方を廃棄すれば同じだと
>>1は言っている訳だな。
しかしそれなら取り替えるのがコピーである必然性もないし、2つのケースを結びつけて考えるのも無意味だろう。
現実には仮に全く同じように物質を組み合わせてコピーを作ろうとしても、宇宙全体をコピーして平行世界を作るみたいなことでもしない限りは、
周囲からの作用のせいで一瞬たりとも同じになる事は決してない(0秒は瞬間にすら満たない。粒子の位置を確定すると移動量が確定できなくなり、宇宙の法則に反する)。
仮にそれを同じものだと主張したとして、では一体素粒子が何個違えば違うものだと言えるのかという問題が生じるだけだ。
>>887 ただそういう物理的な意味での不一致って
飯食ったりウンコしたりしている中で普通に起こっているんだけど
主観は継続してるよね
>>1の装置で作ったオリジナルとコピーの主観は
両方とも同じ過去の経験を持った「ホンモノ」であると考えていいな
多世界解釈における他の世界に分岐した自分のようなもの
飯糞の原理で物理的な意味での小さな違いが主観を別物とする根拠にならないように
宇宙全体をコピーした平行世界の場合と同じと位置付けていい
そして両者ともが「自分は死にたくない」と思うはずだ
>>877 川の存在が個々の水分子に依存していないように
我々の意識も物質の代謝からはある程度独立しているとみなして良いだろ
というか、意識が物質そのものだと仮定するのは現段階では無理、そんな材料はない。
記憶というを物質も意識という物質もまだ発見されていない。
それから他者の苦しみなんてありませんよ、苦しみは全部自分のものです。
他者の苦しみは自分の想像の中にのみあります
>意識が物質そのものだと仮定するのは現段階では無理、そんな材料はない。
そこはむしろ脳神経科学ではっきりしているいわゆるイージープロブレムなんじゃないの?
891 :
考える名無しさん:2012/05/12(土) 10:47:45.73 0
>>888 瞬間移動したと認識した時点で主観は一度断絶しているといえる。
もちろん現実世界ではそのような事はありえないのだが、この思考実験では瞬間移動という体を構成していない全ての量子との関係性を分断するための口実が設けられている。
意識が外界との相互作用なしには存在しえない以上、それは宇宙そのものが切り替わったのと主観上では全く変わりがない。
宇宙そのものの方が切り替わったのではないのなら逆に自身が嘘の記憶を持ったコピーであると説明するしかなくなる。
>>887だと、物質とは別に、霊魂的なものがあるという考えになります。
意識を液体で例えるより、容器を作ったら、その中にできる空間の形が主観的な意識になると例えたほうがよさそうです。
容器をコピーすれば、新しい空間ができて新しい意識が生じ、その容器内の苦しみは他者のものです。
一方、容器の一部を少しずつコピーと交換していっても、容器内の空間は同じで、容器が完全にコピーと入れ替わっても、
同じ主観が継続しているわけです。
つまり、容器9のオリジナル性は無関係です。
それでは、その容器を単純に移動させたとすると、容器内の空間が移動するわけではなく、別の場所にオリジナルの容器で
新しい空間が作られることを意味します。つまり、コピーの意識と同じです。
この問題を解決するには、相対性理論で考えればよさそうです。
他者からすれば移動していても、本人にとっては常に空間の座標原点に存在し続けていると言えるわけです。
893 :
考える名無しさん:2012/05/12(土) 16:52:43.41 0
クオリアを感じるためのものが「無い」と決め付けるならば、どうしてこの世が存在している事を知覚できるのだろう?(梵我一如)
そして霊魂的なものが他者とは独立して明確で永続的な境界線や数の概念を以って「有る」という訳でもない(諸法無我)。
少なくとも確定している事はそれは精神でも物質でもなく重さも無ければこの世で観察できるあらゆる属性を具えないという事だ(プドガラ主義)。
密閉された容器を移動させても中身は交換されないし、同じように容器を複製しても決して中の液体は同じではない。(五蘊仮和合)
「同じものが二つある」の「同じもの」はあくまでも物質的特性に注目しただけで、位置と移動ベクトルまで「同じ」ならそれは一つでしかない事を忘れてはならない。
この世のものは全て他との関係性がなければこの世に存在できないため、たとえ容器を移動させても移動させた先の空気を押しのけた訳で、決して完全なる虚無にポンと突然因果律を無視して容器が現れた訳ではない。(縁起)
インスタンスを2つ作ったらポインタも2つだろう。1つのポインタで二つのインスタンスはできない。(オブジェクト指向)
>>877 >主観的な結果の差異とは、一方は、他者の主観となり、他方は、自分の主観であり続けるということです。
他者から見ればそうだが、主観の持ち主にとってはどちらも区別が付かない。
>主観的継続性が幻想なら、数分後の自分の苦しみは他者のものと同等ですが、そういうわけにはいきません。
それは単に人間の脳が「自己」をそう(つまり神経の集合体としての脳を含む肉体全体を自己と)認識するように進化した結果に過ぎない。
信号の処理結果が同等であれば、それを担う神経細胞およびその神経細胞を構成する分子、原子、素粒子が別であっても認識結果は同じで区別はつかない。
全く違う領域の話だけれど、キリスト教の復活で、復活した肉体を構成する原子は生前に利用していた原子ではあり得ないという話がある。
つまり一度死んだ肉体は分解し別な生物の材料として再利用される。
場合によっては別の人間の一部として再利用される。
その人間が死んだ場合、元の人間を復活させ、次の人間も復活させようとすると原子の奪い合いになるだろう。
神が人間を復活させるために新たに原子から生成させるならそれでもいいが、その場合は生前の原子とは別の原子で構成された人間であり一種のクローンとなる。
そうするとクローンは複数創ることも可能で、どれがオリジナルとは言えなくなる。
キリスト教の復活は単純ではない。
キリスト教の「復活」は、古代エジプトの復活信仰と同様に、遺体を保存しておくことで、それに根源的なものが戻って復活すると考えています。
現実的には、土に還っていくし、忘れ去られていくわけですが、ほとんど象徴的な意味しかなくなっています。
宗派によるけれど、復活を遺体保存と対に考えるのは少なくとも現代では主流ではないと思う。
遺体が朽ちることは明白だし、防腐処理をしたところで各器官の機能が失われることも認識できるだろう。
厳密に遺体を保存しようとすればごく一部で行われている冷凍保存が生前の状態を維持するという点で優れていると言えるが、それでも経時変化をゼロにはできない。
もし材料としての原子だけの問題なら密封した容器に遺体を保存すればいいだけだろう。
復活とそれに続く永遠の命を報酬としてキリスト教が信仰されるのは何らかの方法で生前の肉体と精神が復旧すると確信しているためだ。
もし復活が象徴としか見なされないならそれは既にキリスト教を離れた世俗化された単なるスタイルに過ぎない。
スレちで失礼。
宗教の世界観は事実ではないのだから
”象徴”などと徐々に非日常の世界にシフトしつつうまく忘れてゆくのが
役目を終えたドグマの穏やかな弔いというものだろう。
主観の継続が物質的な同一性とは無関係であることがこの手の問題の出発点だと思うのだが
>>894辺りからその前提を忘れて話をしているように見える
存在が物質に依存していることと、
その存在が物質そのものであることは全然意味が違うんだけどね
よく言われていることだが
何かテーマを決めて議論をするときには
使用する用語の意味の解釈の仕方を統一しないといけない
立場によっては妥協せざるを得ない場合もあるが
仕方のないこと
我々の認識の対象となり、他から区別できる事柄
くらいでいいんじゃない。この場合
たとえばコップは存在しているし
そこに水を入れて毎日観察すると、
その水が少しずつ蒸発するという現象の存在も観察できる。
では「神」は存在するのか?
>>904 まず「神」を定義してくれ
いわゆるキリスト様とかアマテラスなら神話的な存在とはいえるが
実体としては存在しない。
少なくとも存在するとする根拠はない
いわゆるアブラハムの神は存在しないということか
では「たましい」はどうか
「たましい」か、これまたどうとでも定義できることを聞く
霊魂論的な意味での、肉体から独立した実在としての魂なら存在しないだろうね
少なくとも存在するという根拠はない
>>907 横からすまぬが「存在」は確定できる?
量子論系なんかからはその辺りも気になると思うんだが?
存在にいちいち量子論を持ち出すと面倒くさくなるが
巨視的には存在は確定的なもんだよ。
なぜ確定的と言える?
このスレの根本を否定するようだが、自分自身の存在を確定しているのはなんなんだろう?
それはエネルギー保存則を基本にした物理的存在のことだよね。
意識は物理的な物質をベースにした「状態」の或るパターンでの変化と捉える、でいいの?
そう、物が保存されることと、その状態が保存されることとは全然意味が違う
コンピューターは物的には不動だが、よくシステムダウンして記憶を飛ばすだろ。
言葉だけで考えると同じ「存在」じゃないかと思うかもしれんが
言葉に現実を合わせるのではなく、あくまで言葉の方を現実に合わせて運用しないと本末転倒だ
コンピュータのシステムダウンによる記録の消失は、電子の状態変化によるものだからダウン前とダウン後は別物
存在とは、認識であり、モデルだと言えます。痛みを感じているとき、その痛みは主観的実在になります。
だから、その認識は何をよりどころとして発生するものかが分からないんじゃないか
肉体という存在があってそこに精神という認識が発生するのか、精神という認識があって自己の肉体を確認することで存在させているのか
前者は肉体という存在を確定するものはなんなのか、後者は精神は何を拠り所として在るのか
それぞれ問題が発生する
じゃあ埒が明かないので言葉を分けようか
物質的な次元の存在と、状態や情報といった意味の存在を分けよう
そのうえで自分と同じような主観的を持つであろう存在。この3つを区別しよう
物理的存在、情報的存在、有主観存在とかでどうだ?
関係としては物理的存在∋情報的存在∋有主観存在となっていると思うが
集合的な関係ではなく階層的な関係でしょ
素粒子が下位にあり、その状態が次ぎで、状態の因果関係とパターンがその上
その段階が中枢神経による情報処理で、その組み合わせで対象の認識機能が構成され、
それらを記憶と推論で準リアルタイムに処理する過程で発生したのが意識
といった関係でね
>関係としては物理的存在∋情報的存在∋有主観存在となっていると思うが
極限まで詰めればこうなるが、このレベルまでもっていくと神を語らなければならない
この場合の神とは、特定の宗教教義によるものではなく、創造主という意味
すなわち最初の有主観存在は何かというもの
>>918 その話をする叩き台は何もない、
あなたの想像の中に北に行ったら更に北があるという程度の推測があるだけだ
そうは言うが、そうなってしまうと
>関係としては物理的存在∋情報的存在∋有主観存在となっていると思うが
これも記号が逆向きになる可能性もあるのではないか?
観測による存在の確定を行うための観測者たる資格は、被観測者であるただの物体にもあり相互に観測しあって存在を確定させている
最初に確定した存在は、何らかの揺らぎにより特異点として確定したものであり、その特異点を中心として一気に存在が確定したと
主観などは所詮物質の一形態に過ぎず、火が燃えることにより風が吹いて埃がたつのとさして変わらないことであると
無論想像だ
だが結局のところ記号の向きどころか、意識がどう発生するかも全て想像でしかないのではないかな?
では実際に記号の向きが逆になるケースがあるかどうかを考えてみればいい
何かあるかな?
言葉や観念の組み合わせは無限に作れるが、
実際にその言葉通りに実在できるのはごく一部だ
その一部になりえているかどうか検証しないと。
普遍論争化している
923 :
考える名無しさん:2012/05/14(月) 06:07:12.75 0
>最初の有主観存在は何か
この世が被造物であるという観念自体が間違ってる。
この宇宙は誕生以来ミクロからマクロへ向かって自らの力でカオスからコスモスに向かってきた。
部分的にはそうだが宇宙全体ではエントロピーは増大する
エントロピーが増大している筈なのに、むしろ逆に秩序だってきて生命が発生しているのは、宇宙を膨張させている作用やダークマターと何か関係があるのかもな。
ない
他のエントロピーの増大を利用して一部のエントロピーが減少しているだけ
トータルでは一方的に増大する
ある物質的システムが定常的に存在しているとします。つまり、その構成物質は少しずつ入れ替わっていきます。
そういうシステムの一つに、「自己」として対象化されるものがあります。
その中の出来事的な事実の一部が、主観的事実に対応していることを認識し、他の同様なシステムもそうだろうと思うことになります。
そのシステムを長期間無意識状態にして、構成物質がすべて入れ替わってから目覚めさせます。
客観的には、システムとしての同一性は維持されています。
その前後の出来事的事実としての意識を一つのものの継続としてつなげるのは、客観的には心理的な問題だと言えます。
SFの「転送装置」は、オリジナルを分解して目的地に送り、再構成するものですが、
それは、コピーのための材料をオリジナルを分解して得ているようなものです。この場合も、前後の同一性は心理的な問題です。
しかし、同じだけの物質を用意してコピーを二人にすれば、同一性の心理が破綻します。
>>927 主観的には、自己としての継続を心理的な問題で決めるわけにはいきません。
私の主観的意識が継続する条件、接続される条件があるはずです。
多分、意識システムの存在は、その位置を座標原点にした一つの空間の存在を意味し、
意識の同一性は、空間の同一性を意味するのではないかと思います。
一つの空間に存在する主観的意識は一つだけです。
システムが変化しても、空間は同じなので同一であり、システムがコピーされても、空間はオリジナルのものなので、他者になります。
システムが消えても空間は残り、再びシステムが生まれれば、主観的意識が生じることになります。
かなり妄想的なつじつま合わせになってきました。
「自己の同一性」は主観により発生するものだ。
主観により発生するものは例えば「類の概念」と同じく人間の識別能力により認識される。
「類の概念」は人間にとって当たり前に存在する「対象の持つ性質」と感じられる。
しかし、この「類の概念」を客観的に識別しようとするとできないことがわかる。
言い換えるとAという類とBという類を厳密に識別することはできない、ということだ。
個物のXとYが似ているか似ていないかを識別することは比較的容易だろう。
しかし、XとYが同じ類なのか異なる類なのかを判断することは客観的にはできない。
どの程度似ているかは客観的に識別できる。
けれどどの程度似ていれば同じ類で、似ていなければ異なる類とするかの判断は主観で判断する以外にない。
そのような認識能力を持つ理由は、そのように認識することで認識しないより生き残るのに有利だった、といことの積み重ねの結果と考えられる。
主観的な認識は客観的な情報をあるルールで単純化した演算結果と見なせる。
例えば類の概念の場合、実際には連続的な情報(スペクトラム的なもの)を2値化あるいは多値化することで、認識、記憶、推論を効率的に行うことが容易になるだろう。
自己の同一性は類の概念と同様に客観的な事実ではなく主観的な認識結果の一種であり、極端に言うと幻なのだ。
自己の同一性が継続しているか否かは主観でしか判断できない。
オリジナルの持つ自己同一性もコピーの持つ自己同一性もそれぞれの主観の認識では同様の継続性を持つと思われ区別は付かない。
空間的に分かれた瞬間からそれぞれが別の経験をしていくだけだ。
五分後の自分が他者だと思えるなら、五分後の自分が苦痛を味わうよな選択をしても、怯える必要はない。
怯える必要があるかどうかで同一性を区別できる。
>>930 五分後の自分が他者だと思える根拠は何か
五分後の肉体が今の肉体と同一だと思えるのなら、その肉体の自我が
今の自我にとって「自分」だと思えるだろう。従って、その自我が味わうだろう
苦痛に今怯えることになる。
五分後の肉体が今の肉体と同一だと思えず、コピーだとしか思えないのなら、
その肉体の自我は今の自我にとって「自分」だとは思えず、「他者」としか
思えないだろう。従って、その自我が味わうだろう苦痛に今怯えることもなく、
その自我が味わうだろう幸福を今期待することもない。
>>1の思惑に反して、これは自我ともゾンビとも関係がなく、
「物質の個体(人体)の同一性」に関する問題に過ぎない。
「性質がどう変化しても、人体が同一だとみなされれば自我も同一だとみなされる」
(理屈抜きにそのように感じられる)ということ。
コピーの持つ意識は現在の自己の持つ意識の延長上にある。
>>932はコピーを他者とみなし、受けるであろう苦痛を他人事ととらえることができる、ということだ。
これはオリジナルとコピーが別の存在で、コピーは偽物という暗黙の意識があるからだろう。
そこにはオリジナルがコピーよりなにかしら優位な地位にあるという幻想があるのかもしれない。
客観的な根拠はないな。
体を構成する物質はどんどん入れ替わっています。
全体を一度にコピーすれば他者であり、微小部分をコピーと入れ替えていけば、自己のままである理由は何かということです。
両者の主観的区別は、
>>930の通りです。客観的には、どちらも同等です。
935 :
933:2012/05/14(月) 19:46:22.12 i
あるいは一部が入れ替わっていく個体は自己の範囲に含まれ、
コピーは、たとえ機能的に同等であっても、所詮他者とみなす、
という認識を人間が持つ、
ということかもしれない。
相続や世襲の正当性の根拠は人間のこのような認識の性質によるのかもしれないな。
>>932 >コピーの持つ意識は現在の自己の持つ意識の延長上にある。
だから「あるとは思えない」というのにw
その人体が今の人体の延長上になくコピーとしか「思えない」のなら、その受ける苦痛も
必然的に他人事としか「思えない」のだ(「できる」のではない)。
これは単なる思考の癖・慣習であって、深い意味など何もない。
>>934 >全体を一度にコピーすれば他者であり、微小部分をコピーと入れ替えていけば、自己のままである理由は何かということです。
だから、それは人間の思考の癖・慣習だ。自我や意識を抜きにして
「人体」についてそうなのだ。人体以外のモノについても同じことだ。
自我や意識の同一性についての主観的区別は「人体」についてのそれに
付随しているだけだ。何の不思議も問題もなかろう。
>>396 >だから「あるとは思えない」というのにw
その認識は主観だよね。
客観的な評価を行えばオリジナルもコピーも等価で、それらが持つ意識はいずれも同じ記憶と認識のククセにより生成された派生の関係にあることは明白だろう。
>その人体が今の人体の延長上になくコピーとしか「思えない」のなら、その受ける苦痛も
>必然的に他人事としか「思えない」のだ(「できる」のではない)。
>これは単なる思考の癖・慣習であって、深い意味など何もない。
深い意味はあるだろう。
価値はそういった感情の性質から生じるのだから。
なぜそのような癖や習慣を獲得したか、それらはどのような効果があるのか、今日の人間にとって有効なのか、等々いろいろ興味深いと思うが。
我々は死に怯えるのではない、死の可能性に怯えるのだ
苦痛に怯えるのではない、苦痛の可能性に怯えるのだ
5分後の自分が苦痛を受けることに怯えるのではない、5分後の自分が自分であり続ける可能性に怯えるのだ
1999年や2012年に世界が終わることに怯えるのではない、世界が終わらなかった場合に怯えて借金をして豪遊などしなかったのだ
>>921 観測と言うものが関係性を示しているに過ぎなければ、隣接する物質は十分観測者になりうる
観測者がおらず物質が確定しない状態は虚無の状態とも言える
そこに1点の特異点が発生すれば、そこから関係性は爆発的に広がるだろう
すなわちビックバンの完成である
虚無より物質が発生したことにより、虚無では必要の無かった意味や統制などが発生する
これらは通常法則などと呼ばれるが、法則はそれがあることに何の意味も無くとも発生はする
さまざまな法則によりエントロピーを逆転するような物体が発生してきた
その物体はエントロピーの逆転を主たる目的とはしないが、自らも法則に支配されながら法則を利用し始めた
さまざまに法則を利用するものが増え、そしていま人が発生している
こんな感じ?
>そのシステムを長期間無意識状態にして、構成物質がすべて入れ替わってから目覚めさせます。
ダウト。意識をなくしても末那識がまだある。
>>940 オーケイ。そのダウトを受け付けよう。
そして、「*全て*停止した状態にして」と言い換えよう。
>>941 分子を入れ替えを維持の方向にコントロールする機能が死んでたら肉体は腐敗していくだけ。
だから構成物質を入れ替える作用も末那識に含まれる。
自己同一性は関係性のカスケード(空)にすぎないので物質の入れ替え如きでは何も変化はない。
その末那識の作用の主体とか仕組みとか性質とか…
お考えを聴いてみたいです
自分自身の死は、哲学的にもっとも興味深い経験です。それまでの年月を無駄に感じるぐらいです。
しかし、動機的には、死の恐怖や生の恐怖があってのことなので、死ぬしかない時までに、
分けのわからなさをどこまで解決できるかということになります。
単に分かった気になるだけでいいなら宗教ですが、それでは間に合いそうにありません。
>>942 全て、と言ったはずだ。当然その中に腐敗の進行も含まれている。
>>943 五感の情報を統合して筋肉を動かすための感覚神経→中枢神経→運動神経の流れを意識とするなら、
そのストリームから少々外れている無意識とか潜在記憶という精神作用、更に直接のコントロールが難しい自律神経、ひいては神経系に限らず生命の恒常性を司る化学作用を総称して末那識と呼べる。
末那識=恒常性・ホメオスタシスが止まればそれは個体の死を意味する。
下等な生物ほど意識と末那識の区別は曖昧になり、クラゲとかウニのレベルになると中枢神経節自体存在せずに体全体の神経細胞で判断を行っているため意識の定義次第では意識を持たないと言う事もできるが末那識を持つとは確実に言える。
植物は意識と言うほど迅速かつマクロな双方向反応は行わないが末那識と言うべきフィードバックは常に起こしている。
>>945 全てだったら何も変わることはない。単純に量子も入れ替わらない。
たとい外からの作用で量子を総入れ替えしても、場は無傷なので自己同一性はそんな事で揺らぐ事はない(すなわち「諸法空相」「無色無受想行識」)。
>>932 AとBという2人がいたとして、ある日、2人が眠っている間に、記憶を
すっかり入れ替える手術をして、「体はAで記憶はB」と「体はBで記憶はA」
という2人になったとする。
すると、体の同一性を基準にすれば、体がAならAのまま、Bも同様、という
ことになるが、当人たちに尋ねれば、「いや、体がAなんて言われたって、私はBだ」
と答える(逆も同様)のではないか。
そうだとすれば、体の同一性と自我の同一性は食い違うこともあり得る、と
言えるのではないか。
ただ、言えようが言えまいが、どちらにしてもゾンビとは全然関係なさそうだけど。
>>947 >体の同一性と自我の同一性は食い違うこともあり得る、と言えるのではないか。
>>932は、「今の自分から見て、何が未来の自分なのか、という主観的判断
(予想・期待・不安)は、何が未来のこの人体なのか、という主観的判断に
心理的に付随する」と言っているだけで、それ以上の意味はない。
そのケースで、今Aに「将来どちらかを殺すとしたら、どちらがいい?」と尋ねれば、
「体がBで記憶はAのやつを殺してくれ」と答えるだろう。今のAからみて
Bは赤の他人で、将来その記憶がどうなろうと自分とは無関係としか思えないのだから、
当然だ。
「今の自分から見て、何が過去の自分なのか」という主観的判断については、
その基準になるのはもっぱら「記憶」だけだ。
「自分は過去にAだった」という記憶を持つ人間がもしも今100人いるとしたら、
主観的には100人とも過去の自分はAだ(自分こそが過去のAの自我の後継者だ)と
判断するだろう。
他人が客観的に「過去のAの自我と同一性を持っている自我はどれか」と判断する場合は、
基準はやはり人体の同一性しかないので、過去のAの人体と同一性を持つ人体の自我だけが
「本当の過去のAの自我の後継者」で、あとの99人は偽物だと判断される。
論理的には全部偽物と判断される場合(全員コピーでオリジナルの人体は死んでいる
ケースとか)も、逆に全部本物と判断される場合(Aの人体が100に分裂したケースとか)
もあり得るが、これは別に不思議でも矛盾でも何でもない。
このような意味では、やはり「体の同一性と自我の同一性が食い違うことは、あり得ない」
というしかない。
あり得るとすれば、人体から独立した「魂」のようなものを認める場合以外にはないが、
そういう「魂」が仮にあったとしても、その同一性については誰にも認識する方法も
判定する方法もない(その魂自身にもない。この点について錯覚すると、議論は混乱する)
ので、論じてもあまり意味がないのだ。
記憶の入れ替えは、記憶の変化と変わらない。
記憶喪失をしても、意識の主観的実在の継続、接続に変わりはない。
>>948 論旨が、「(主観的判断の中で)過去と未来とでは違う」なのか、それとも
「主観的判断と客観的判断とでは違う(客観的判断こそが重要)」なのか、
あるいは両方なのか、つかみ損ねたけど、とりあえずは客観的判断こそが重要
という論旨だろうと理解して。
確かに客観的判断としては体の同一性によるしかないだろう・・・と思いかけたけど、
しかし本当にそうだろうか?
例えば「生まれ変わり」、つまり体は明らかに同一ではない(死んでいる)にも
かかわらず、それ以外の何らかの同一性がありうる、という話を、何となく
ではあっても、みんなたやすく理解できる、というより理解してしまう、のではないか。
もちろん、本気で信じている人は少なくて、「ばかばかしい」とか「非科学的だ」
と言う人が多数だろうけど、しかし逆に、「意味が分からない。体の同一性は
全くないのに、そもそもそれ以外に何の同一性があり得るのか。」などと反応する人は、
まずいないのではないか。
これはちょっと面白いのでは。
いや、面白くなかったら、別にいいですが。
あるいは、「非科学的だ」というだけで十分なのだろうか。
つまり、科学的にあり得ないようなことは、たとえ一見日常的には考えられそうに
見えても、実は無意味であって考えられていない、とでもいうことになるんだろうか。
>>950 >確かに客観的判断としては体の同一性によるしかないだろう・・・と思いかけたけど、
>しかし本当にそうだろうか?
「客観的判断としては体の同一性によるしかない」ということと、「本当にそうである」
こととは、全く別だ。
「体は同一だが、本当は自我は(記憶も)何回も入れ替わっている」可能性もある。
「本当は自我は過去には全く存在していなくて(過去にはこの体はずっとゾンビであって)
、たった今何十年分かの記憶と共に発生した(一瞬後にはまた消滅する)」可能性もある。
これらは、文字通り「そうかもしれない」のであって、原理的に否定することは不可能だ。
当然、体とも記憶とも独立の魂の同一性、いわゆる「生まれ変わり」の可能性もある。
ただ、記憶と関係のない「生まれ変わり」は、本当であってもなくても、
実のところあまり意味がないのだ。この私は「本当に」アリストテレスや徳川家康の
生まれ変わりだ、という可能性はあるのだが、仮に全知全能の神様が「実はそうなんだ」
と保証してくれたとしても、私にアリストテレスや徳川家康としての記憶が
全くない以上(ついでに言うと大学者でも天下統一したわけでもない以上)、
「本当でも嘘でもどっちでもいい」としか言いようがあるまい。
私が一人称小説を読んでその中の世界を認識しているとします。
もし、その世界の自己がコピーされる事件があっても、そのコピーはあくまでも他者です。
意識の主観的実在をコピーのものに接続しようとしたら、そのコピーを主人公にした一人称小説と交換するしかありません。
小説の交換は、小説の外の出来事です。
小説のルールとしては、途中で勝手に他者の一人称小説をつなげられないということが考えられます。
「スタートレック」の転送装置の場合、肉体が分解された段階で終わりになりそうです。その後に転送後の小説を読むことになるのは、小説外の出来事です。
転送後をそのままつなげられるようなルールがあるとしたら、どういうものが考えられるでしょうか?
記憶喪失(健忘)による過去の自分との断絶は生きてるうちにも味わえる「過去の自分の死」の一つの形だろう。
肉体の死も案外そういう無自覚なものに違いない。
>>948 >基準はやはり人体の同一性しかないので、
「基準」という概念が既に主観を前提にしている
>>954 当然、その小説の主人公である「私」です。
小説の登場人物に自我なんかあるわけないだろw
ひょっとして、小説内の出来事としてのコピーだと理解されていないのかも。
ついでに、小説自体には時間の経過も、クオリアもないことを補足しておきます。それは、単なる記号列です。
>>958 言わんとすることはわからないでもないですが
「小説」という表現は別のオリジナルの言葉に置き換えた方がいいと思います。
もしくは1度その定義を説明してあとはカギ括弧で括るなどして、
一般的な用語とは違うということを明確に示すか。
何の説明もなく小説という言葉を使っていると、
>>957のような無駄なツッコミが入りますしね。
まだ発想を触発されている段階なので、その言葉を使う意味があります。例えば、読者は何を意味するのかとかです。
小説の登場人物には自我もクオリアもない、というのは、なかなかに面白い発想ですな。
(哲学では普通なんだろうか?)
例えば夏目漱石の『坊ちゃん』では、主人公の考えたこと、感じたことが実にいきいきと
描写されているが、あの主人公は何も考えていないし感じていないんだろうか。
小説の中で、生きた人間、死んだ人間、ゾンビが区別して描写されたとする。
しかしみな自我もクオリアもないのだから、区別など意味がない、ということになるんだろうか。
>>961 どうも952から考えるに1の言う小説は、三人称視点ではありえないものとして定義してある気がする
963 :
考える名無しさん:2012/05/19(土) 16:18:17.63 0
心とか意識とかクオリアとかは
未だに人間の知能では解析できない人間の行動を
暫定的に評価するものに過ぎない
つまり人間の行動を完璧に計算できるようになれば
『ココロ』は消滅する
まさに『ココロ』は死んだ!である
これがマルクスが目指すところの世界
>>963 皆が仏陀になり、人類は次の段階へ進化する。
意識という未完成なフィードバック機構を完成させる「悟り教育」の時代じゃな。
このスレもう終わったな
終わったんじゃない、とっくに終わってたのをゾンビのように動かしていただけ
やっぱり終わってる
人と機械の境目が云々。
971 :
考える名無しさん:2012/05/31(木) 23:19:39.87 0
人間を生き返すのは難しいが
機械は電源を入れれば生き返る
韓国製平井堅なのかね?
人間の死が不可逆なのは人間を構成する細胞の機能の維持が不可逆だから
細胞の機能が不可逆に失われるのは細胞が化学的な連携で構成され、依存関係の強いシステムにより維持されているから
バッテリーバックアップのないRAMのみのコンピュータは電源を切ればプログラムは失われ生き返ることはない
生物と機械の間に決定的な違いはない
>>975 いや、馬鹿と言うが
>>974の言ってることは間違いじゃないよ
ただちょっとし違うなと思うのは、電源を切ってもBIOSは生きてるしHDDというものもあるから適当じゃないとも思う
いっそCPUやRAMは世界であって、人体はそのうえでエミュレートされているとした方が自然かなっと
有機物という変質しやすいものがRAM上の電流であって、一定の電流がないとデータが安定せずに崩壊する
ホメオスタシスが一定以下に落ちると人体は末端から切り離すように崩壊していくけど、過剰でも癌化する
ただね…
>>974が馬鹿と言われるゆえんはおそらく
>生物と機械の間に決定的な違いはない
この一文なんだろうね
上で語ったことも含めて、基本的に「生物と機械は違うが、似ている部分を探すことはできる」というだけなんだよね
「水とアルコールは似ているのだから決定的な違いはない」と言っているようなもの
>>976 ハードディスクでもエンジンでも重要な部品を叩き壊せば「死ぬ」し、
細菌なんかは凍らせて「機能を一時的に停止」できるんだけどね。
そういう意味で私は生物と機械の間に決定的な違いはないという考えに賛成だけど、
逆に生物と機械に決定的な違いが「ある」と考える人がそのような結論に至る
理由が分からない。
水とアルコールの喩えがそれや述べたものなのかもしれないが、
できれば単に喩えをあげるだけでなくなぜそのような喩えをすることが適切だと
考えたのかも書いて欲しい。
抽象的同型をもって同一と判定するアホーにおちいってるということ。
979 :
考える名無しさん:2012/06/01(金) 19:13:36.88 0
単に「違い」という言葉に込める程度の差の問題だな
本人も分かってるはずだが、意地になっているだけ
980 :
974:2012/06/01(金) 20:00:28.54 i
では、生物と機械の間の「決定的な違い」は何か
981 :
リーマン小太郎 ◆JXLBbnYqTY :2012/06/01(金) 20:30:12.93 0
>>980 まず定義からいえば、
新陳代謝と再生産だな。
機械はいくかは灰になるが
生物は新陳代謝と再生産で原理的には永遠。
982 :
974:2012/06/01(金) 20:37:21.26 i
ではライフゲームは生物なのか?
983 :
リーマン小太郎 ◆JXLBbnYqTY :2012/06/01(金) 20:38:33.22 0
>>982 コンピューターだろう
いつかは灰になる
984 :
974:2012/06/01(金) 20:41:29.07 i
外部から物質とエネルギーを取り込み自分を複製する機会は生物か?
985 :
リーマン小太郎 ◆JXLBbnYqTY :2012/06/01(金) 20:42:50.21 0
986 :
974:2012/06/01(金) 20:42:56.14 i
誤:機会
正:機械
987 :
974:2012/06/01(金) 20:43:19.69 i
作れる
988 :
リーマン小太郎 ◆JXLBbnYqTY :2012/06/01(金) 20:43:54.10 0
989 :
考える名無しさん:2012/06/01(金) 20:44:26.94 0
それを機械と呼ぶかどうか問題がある。
990 :
リーマン小太郎 ◆JXLBbnYqTY :2012/06/01(金) 20:45:03.81 0
心配するな
生物と鉱物の間はいろいろ存在する。
ウィルスは生物ではない。
これは豆な
991 :
974:2012/06/01(金) 20:45:37.52 i
できない理由はない
992 :
リーマン小太郎 ◆JXLBbnYqTY :2012/06/01(金) 20:47:34.41 0
ウププ
994 :
974:2012/06/01(金) 20:48:06.55 i
ウイルスは生物と無生物の間にあるのでなく
明確な境目がないので両方にまたがっているのだ
996 :
974:2012/06/01(金) 20:50:24.47 i
>>992 >たとえば?!
それは「理由がある」と主張する側が示すべきこと
ウププ
998 :
リーマン小太郎 ◆JXLBbnYqTY :2012/06/01(金) 20:52:31.72 0
999 :
974:2012/06/01(金) 20:53:29.55 i
神の存在と同じ
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。