2 :
考える名無しさん:2011/01/03(月) 17:02:47 0
サルトルは頭いいのか悪いのかわかりません
サルトルの言う責任とはどういう意味でしょうか
なぜ不条理で自由な存在に責任があるのか分からないので
どなたか解説をお願いします
4 :
考える名無しさん:2011/01/04(火) 02:32:10 0
自分が影響を受けたものに対する責任ではないか?
5 :
考える名無しさん:2011/01/04(火) 10:03:19 0
そういえばサルトルはマジで共産主義の影響を受けちゃってるんだよね。
んで、「カミュ−サルトル論争」とか、あったらしいね。
ソ連崩壊で、最終的にはカミュの勝ちだったよ。ごめんね、カミュ。
この世界がバラ色に見えるキチガイはそう言うだろ。
7 :
考える名無しさん:2011/01/04(火) 11:28:21 0
>>3 サルトルの言う責任というのは、「それを選んだのは自分だ」と認めることだよ。
結果が予想できない状況で選択に責任を負うのだから、「賭け」だとされる。
8 :
考える名無しさん:2011/01/04(火) 12:57:58 0
サルトルが初期に唱えていたのは意識の無謬性を中心とし、つまり全ては変更可能、透見
可能、とする哲学である。サルトルのいう責任の概念は根底に、意識の哲学があり、そこで
“すべては己の意識により選択されている”とする選択を担わされている。一旦、意識され
たその限りで、その状況は選択されている。意識された以上、選択と選択に伴う責任は避け
られない。それがサルトルの哲学であり、自由は、この選択・責任と、同義、同じことであ
る。だから、サルトルのいう自由は選択とそれに伴う責任が付着してるから、辛いもので、
〈人間は自由であるよう呪われている〉という命題はそこからでしょう。それで、ではその
ような意識=自由を阻む要素があるとすれば、それはどうサルトルに捉えられるか、といえ
ば、例えば意識に先行し、無化しえない要素があるとすれば。それはサルトルにとって疎外
とされ、否認されていく。しかし、この哲学が脅迫的であるのはよく考えてみれば明らかで
、脅迫的に機能するから、かつて学生運動華やかなりし頃、サルトル哲学は流行するわけ
です。何故なら、この哲学自体、マルクス主義の補完となりうる、機能となりうる特徴を備
えていた。元々サルトル哲学の発祥はドイツ占領下のフランスにあり、レジスタンスの運
動だった。ああいう限界状況での抵抗にあった。自由=責任が重視される必然性があった
。サルトルはよって、晩年になるにしたがい、〈宿命〉といったことを言うようになり、転向
を仄めかすようになる。自分自身でさえ、自分にとって、まったき透明を獲得することの
困難を、暗示するようになる。サルトルは人生は自分がかつて言っていたほど自由ではな
い、と認めるようになっていたと思います。
9 :
考える名無しさん:2011/01/04(火) 13:38:48 0
エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』など読んでみれば分かるが、
そうした自由観はサルトル特有のものではなく、
いわば「時代の雰囲気」とでもいうべきものだったのだろう。
サルトル自身の思想の起源はともあれ、サルトルを受け入れた大衆が
そこに見たのは、この「時代の雰囲気」の表現だったのだろう。
10 :
考える名無しさん:2011/01/04(火) 16:11:16 0
実存主義の時代な。進歩主義の頓挫した。
根本的問題は未解決なまま、ナチズムの
焼き直しを我々はやってるけどw
11 :
考える名無しさん:2011/01/04(火) 18:24:56 0
ネオ・レッドパージの時代だ。浅ましい世の中になり果てた。
12 :
考える名無しさん:2011/01/04(火) 21:02:23 0
サルトルは「ユダヤ人問題は我々の問題」と言えたが、
今や我々は、誰もがユダヤ人であることを誇りに思う。
13 :
考える名無しさん:2011/01/04(火) 21:07:57 0
我々は皆、アメリカ人だ。醜悪なる豚の群れだ。
14 :
考える名無しさん:2011/01/04(火) 21:12:10 0
「人間の醜さ」なんて言葉は死語になった。
醜いのが当たり前になったからなwww
たくさんのレスありがとうございます
ここでいう「責任」とはヤクザが何か失敗をすると
指を詰めなければならないといった義務、罰とは違った意味ということで良いですかね?
>>8 >意識=自由を阻む要素があるとすれば、それはどうサルトルに捉えられるか、といえ
>ば、例えば意識に先行し、無化しえない要素があるとすれば。それはサルトルにとって疎外
>とされ、否認されていく。
この要素とは例えばフロイトの無意識とか決定論とかですか?
あと、調べても良くわからなかったのですが「疎外」「脅迫的」とはどういう意味ですか?
>サルトルはよって、晩年になるにしたがい、〈宿命〉といったことを言うようになり
なにかこのことについての本や文章などがあれば教えていただけませんか?
質問ばかりですみません。
16 :
考える名無しさん:2011/01/05(水) 01:46:52 0
お答えします。先ず「疎外」ということ。これは、インタビュー「作家とその言語」の中で語られてい
る。どのようにかといえば、人間にとって、己には意識されざる意味活動があるということ。
《インタビュアー―ところがハイデガーの場合には、言活動(パロール)への呼び掛けの完全なイニ
シアチブを持つのは結局のところ意味されるもの、つまり〈存在〉なのではないか。
サルトル―そうです。したがってそれは私にとって、疎外を表すものなのです。これはある程度まで
メルロー=ポンチの場合にも感じられる。〈存在〉へと逆行するどんな関係も、或は〈存在〉に向かって
開かれたもの、前にも後にも己を条件付けるものとしての〈存在〉を想定しているところの、〈存在〉
に向かって開かれているどんなものも、私には一つの疎外だと思われます。》
〈宿命〉について。これは「うちの馬鹿について」というインタビュー、これはフローベール論につ
いてのインタビュー。
《サルトル―(中略)同性愛的傾向とともに、そこに最も強く現れているのは、彼の性欲の受動的性
格なのだ。私は(フローベールの内部の)受動性という概念に重要な意味を与えた。(中略)こうし
た観点からすると、フローベールは次男という彼の位置そのものによって、受動性に運命づけられ
ているように見える。
インタビュアー―運命づけられているですって?この言葉は自由の哲学を貴方のうちに見ている
人々を驚かすかもしれない。
サルトル―ある意味で、我々はみな宿運を定められて生まれてきているのだ。我々は、ある時期の
家庭と社会とが置かれている状況によって、初めからある型の行動に運命づけられている。(中
略)我々は例外なしに幼年期に自分を見失ってしまう。教育方法、両親‐子供の関係、学校教育等々
、こうしたことすべてが自我を与えるのだが、それは見失われた自我なのだ。(中略)かといって
それは、この宿運のうちにはいかなる選択の余地もないということではない。けれども我々は、
選択をしても選択したものを実現しえないだろうということを知っている。これは私が自由の必
然性と呼ぶものだ。(中略)ギュスターブには幾つかの選択が残されているが、それは条件付け
られた選択なのだから。私が示しているのはこういうことだ。》
17 :
考える名無しさん:2011/01/05(水) 01:52:11 0
ちなみに「作家とその言語」はかつては『シチュアシオン\』(人文書院)に、「うちに馬鹿
について」は『シチュアシオン]』(人文書院)に収録されていました。絶版ですが、古書店
では出回っていると思います。新しい版のサルトル本ではどうか、よく知りません。
18 :
考える名無しさん:2011/01/05(水) 12:14:23 0
結局はスターリン主義つかマルクス主義を捨てられなかったわな。
そこだよな、60年以降日本でだんだん評価されなくなった理由って。
70年代にゃ、日本強酸党のイデオローグごときにさえ、
サルトルはヘーゲルとレーニン+スターリンのごちゃ混ぜに過ぎないって
揶揄されちまったらしいじゃん。
思想的には過去にシトって理解でOKだろ?
>>16 >人間にとって、己には意識されざる意味活動があるということ。
これは無意識ということですか?
>言活動(パロール)への呼び掛けの完全なイニ
>シアチブを持つのは結局のところ意味されるもの、つまり〈存在〉なのではないか。
この辺もよくわからないので解説お願いします。
20 :
考える名無しさん:2011/01/05(水) 12:48:21 0
>>18 そうそう、サルトルは過去の人、現代は新赤狩り時代な。
何遍言わせるんだコラ
>>18 サルトルの実存主義はマルクス主義と必ずくっつくものなのでしょうか?
サルトルが反マルクス主義のときもあったのでそうではないと思っていましたが・・・
どなたか解説お願いします 質問ばかりでホントすいません
22 :
考える名無しさん:2011/01/05(水) 16:49:16 0
マルクス主義を貶めるのはバカでも出来るが、
その正当性を擁護するのは、卑怯者には無理だ。
23 :
考える名無しさん:2011/01/05(水) 16:54:47 0
「サロー(卑劣漢)め!」ってさ。
24 :
考える名無しさん:2011/01/05(水) 17:33:07 0
25 :
考える名無しさん:2011/01/05(水) 17:41:40 0
実存的投機として、何でもいいけど何かしなければならないということで、
とりあえず目の前にあったマルクス主義に飛びついた感があります。
26 :
考える名無しさん:2011/01/05(水) 18:17:12 0
疎外論は実存主義と仲良しだよ。
27 :
考える名無しさん:2011/01/05(水) 18:52:09 0
吉本自慰さんの言を待つまでもなく、
実存主義はプチブルの善意のイデオロギーに過ぎないよね。
要は本質存在を求めず、現存在(=実存=移ろい)にのみ信を置く陽炎思想ってとこかな。
ジジイと一緒に耄碌したんだろ。
異邦人論争にあったな。「年は取りたくないものです」って名台詞。
サントルにも生まれつき「棘」が刺さってる。そういう見地から
考えるのもありかな。
31 :
考える名無しさん:2011/01/05(水) 21:06:45 0
少なくとも『存在と無』に代表される初期のサルトルにかぎれば、マルクス主義との連結は容易い
。前のレスにも書いたように、意識されている、ということの中に、己に選択されている、という命
題も繰り込まれている。意識とは選択の別名で、従って責任も伴う。自由も伴う。これは政治への
参加に必ず促す。逃げられません。参加するしかありません。本当にそうです。だからサルトルの
哲学の怖さがそこにある。あれを理解したら政治から逃げられません。そういう強固な拘束力を
持っているのがサルトルの自由の哲学です。
で、引用して質問されていた、ハイデガー有論を疎外だとしているところ、ここが実は核心的な
問題で、サルトルがここを否定しなければサルトルの自由の哲学は成立しない。その意味で非常
に大きな分岐点だと僕には思えます。一体何をサルトルは否定したいのか。言活動を、言語の活動
をインタビュアーは聞いて、存在 Sein すなわち己の内に覆蔵されている歴史が、己に意識され
がたい歴史としてある。それが呼び声となり、それに応えるように己は世界を生成させ、何かを
気にかけ、本来性を求める…それはハイデガーの有論そのものですが、これをサルトルは疎外とみ
なし、越えられるべき、と見なしている。ここです。何故否定しなければならないか、にサルトル哲
学の核がある。つまり、一人の固有な歴史、覆蔵された歴史を抱えてる。そのような領域を認める
訳には行かない。己にさえ、責任を全的に負えるのがサルトル哲学で、意識に先行し、差し向ける
歴史とか、認められない。何故なら、自由と責任の哲学にとって、己の歴史を引き摺り拘束される
存在は疎外であり、否認の対象になる。しかし、リアルな人間像を提示したのはどちらだ、とな
ると、サルトルに疎外と命名された方ではないか、そこに核心的問がある。
>>31 >前のレスにも書いたように、意識されている、ということの中に、己に選択されている、という命
>題も繰り込まれている。意識とは選択の別名で、従って責任も伴う。自由も伴う。これは政治への
>参加に必ず促す。逃げられません。参加するしかありません。本当にそうです。だからサルトルの
>哲学の怖さがそこにある。あれを理解したら政治から逃げられません。そういう強固な拘束力を
>持っているのがサルトルの自由の哲学です。
私の行動は人類全体をアンガジェしたことになるということですよね
これも政治運動や子作りの例は分かるのですが
誰かが「私」の行動を認識しなければアンガジェしたことにはならないんじゃないですか?
「われわれが選ぶものはつねに善であり、何ものも、われわれにとって善でありながら万人にとって善でない、ということはありえないのである。」
というのもありますがこれも意味が分かりません。解説お願いします
33 :
一平八平:2011/01/06(木) 11:30:21 0
>>27 確かに。
共産主義の圧倒的な水圧に抗し切れず、
さりとて共産主義にドップリはまるには覚醒しすぎてると。
そこで限りなく赤色を帯びた実存主義が登場するって具合だ。
アカの連中から言わせたら、ブルの蒙昧イデオロギーだわな。
34 :
考える名無しさん:2011/01/06(木) 11:45:47 0
32の質問とも関係し、また、サルトルに批判されているハイデガーとも関わるんですが。サルト
ルにおける自由、責任、選択は一つだと書きましたが、サルトルのいう主体。があるとしたら、その
特徴とは、絶えず公共性にたいし意味を持たされている点にあるんじゃないか。そう思えるわけで
す。つまり、何を以て責任を負うか、選択をするか、自由を負わされるか、というと、公共性にたい
してである。そこが、サルトルの主体が今だ死んでないと思える所以であでしょうり、また、欠陥もまたそ
こだと僕は思うわけです。サルトルの主体が絶えず公共性を相手に成立する、であるから、ハイデ
ガー有論のように、己の歴史からの呼び声が意味を示唆し、というのでは困る。だから否定されて
しまう。しかし、そこがサルトルの主体が、公共性に包括されているところで、今の社会が内包する
人間観と繋がっているんじゃないかとも思えるし、欠陥にも見えるところです。負い目という点で
、公共性にたいして専らそうである。そこが存在論として違うのではないかと僕には思えます。そ
の違うのではないかというところを、だから徐々にサルトルは修正していったんじゃないか。
36 :
考える名無しさん:2011/01/06(木) 14:33:13 0
平均的日常性に頽落していた「普通の男」が、
ある日、実存に目覚め、自らの置かれた疎外
情況を自覚して、
ってのが実存主義文学的のテンプレみたいな
ところはある。
37 :
考える名無しさん:2011/01/06(木) 14:41:14 0
実存主義的文学、
マルクス主義では、これは資本主義的疎外である
ということになるのな。自分を率先して品物扱いした
がるような奴らが当たり前な顔をしている。
まぁ、その通りな話で。
38 :
考える名無しさん:2011/01/06(木) 16:33:19 0
平たく言えばカネで買える奴らのことだが。
こんな言い方だと茶飲み話にしかならん。
39 :
考える名無しさん:2011/01/06(木) 16:58:09 0
国家権力がそれを堂々と励奨する。
魂をカネで売るというが、どちらかと
言うと魂は気絶しておるのだな。
だから悩みもしない。
40 :
考える名無しさん:2011/01/06(木) 17:04:44 0
口というのはメシを食うためと
お喋りをするためだけにある。
脳のスイッチはオフにして置く。
口が滑らかに動くようにだ。
それが世の中の正常な人間。
それを異常なことに感じてしまった
のがムルソーやロカンタンのような
実存主義小説の主人公だと。
42 :
考える名無しさん:2011/01/06(木) 18:08:26 0
続けます。サルトル哲学を再考すると、公共性と個の橋渡しにもみえ、彼の謂っていた、
〈飢えた子供の前で文学は有効か〉という問いかけも、文学に公共的価値を附加するための
一つの言い回しにみえる。で、彼は個別な作家論も書いてる。その作家論は己の素因を作品
形成の動力とし、作家になる、言い換えれば、作品形成によって自己意識になる過程が彼に
とって重要だったんじゃないか。自己意識としての人間というのがサルトルの重心だった
んではないか。そこで如何なる人間でも、例外なく人類史の過程に組み込まれる。ではその
人類史とはどっちを向いているのか、といえば、〈人=神〉の証明である。サルトルの対自存
在はだから自己意識のことだと言えるだろう。ヘーゲル哲学の変奏として。ハイデガーへ
の「疎外」という批判も、そう考えれば解ってきます。ハイデガーのいう有 Sein は自己
意識の存立を阻むように見える。言い換えれば全体の成立を阻む。何故なら没交渉的であ
ることが現‐有 DA-sein にはある。繰り返すと、ヘーゲル哲学の変奏でもあるんじゃ
ないか、ということ。今から見返せば、その辺は見えるんじゃないかと思えるんですけど
ね。
43 :
考える名無しさん:2011/01/07(金) 02:36:52 0
ムルソーやロカンタンを羨ましいと
思う奴はいないだろ。
危険人物扱いだ。
44 :
考える名無しさん:2011/01/07(金) 03:07:56 0
>>42 >人類史とはどっちを向いているのか、といえば、〈人=神〉の証明である。
そりゃ、たかだかダーウィン後だろ。人は存在だが、神は無だ。
45 :
考える名無しさん:2011/01/07(金) 12:29:56 0
いまどきサルトルとは、時代錯誤つか、訓詁学?
団塊の死に損ない世代までだろ、サルトルごときに拘泥してるんは。
つか、乗り越えられなかったってのが実態かな。
46 :
考える名無しさん:2011/01/07(金) 13:43:55 0
ああ、コンビニの商品棚の上を流れて
行くような流行り物が好きなのだよな。
サルトルは終わコン
道徳や倫理に関してはどう思っていたのでしょうか?
サルトルは革命のためなら殺人もアリだと考えていて、
チェ・ゲバラを「20世紀で最も完璧な人間だった男」と評していたものだ。
50 :
考える名無しさん:2011/01/08(土) 20:51:16 0
>>49 サルトルはブダペスト市民の抗議デモにソビエトが武力介入したときに
抗議文を発表したり、それを「犯罪」と弾劾してソビエトやフランス共産党と絶縁を表明したとあります。
また、ソビエトがチェコスロヴァキアに軍事介入したときにも「戦争犯罪」と非難したともあります。
たぶん、
「われわれが選ぶものはつねに善であり、何ものも、われわれにとって善でありながら万人にとって善でない、ということはありえないのである。」
これの意味が分からないと訳が分からないので解説お願いします
51 :
考える名無しさん:2011/01/08(土) 22:37:34 0
倫理については、『存在と無』終わり近くで語っているところがあるので、そのまま抜粋しておき
ます。
《存在論の示す直説法から、命令法を引き出すことはできない。それにもかかわらず、存在論は、「
状況のなかの人間存在」に対してみずから責任をとる一つの倫理が、いかなるものであろうかを、
予見させてくれる。事実、存在論は、価値の起原と本性とをわれわれに顕示してくれた。われわれ
が見たように、価値は、それに対して対自が自己の存在において自己を欠如として規定するときの
、「欠如」(補注:及び欠如の充填)である。》(原書 720頁)
あと、サルトルにとって、人類史の方角は〈人=神〉である地点ではないか、と書きましたが、『存在
と無』にそれを示すと思われるセンテンスがあるのでそこも引用してみます。
《あらゆる人間存在は、彼が、存在を根拠づけるために、また同時に、それ自身の根拠であることに
よって偶然性から脱れ出ているような即自すなわち宗教では神と名づけられている自己原因者を
、構成するために、あえて自己を失うことを企てるという点で、一つの受難である。》(原書707頁)
〈自己の原因であること=自己原因者〉を狙いながら、その企てのために自己に有責性を負わせ、
ために反省的にならざるをえない、選択の自由を負わせざるを得ない、その過程にサルトルは人
間存在の重要部分を見ています。この辺が、自由と責任の観念を推し進めたことで、公共性の中に
歴史性(自己有の根拠)を融解させてしまった、と思える。そこが現代の社会通念に繋がっていく
、と思える箇所です。
52 :
考える名無しさん:2011/01/08(土) 23:33:01 0
それは人間が神になるのではなく、自ら人間的自己を
無化することによって神を現前させようとする預言者
的な志向のことを指しているのではないか?
50レスの質問は、51レスに抜粋してある、一連の言説を再考すれば分かるんじゃないか
な。もう一度書きます。《すなわち宗教では神と名づけられている自己原因者を、構成する
ために、あえて自己を失うことを企てる》とあるでしょう。この意味をかんがえてください
。サルトルにおける自由、責任、選択の意味を捉えるには、上にある諸概念を考えるしかな
い。もう一度書きます(笑)《神と名づけられている自己原因者を構成するために、あえて
自己を失う》…。つまり善が神の選択となるべき、ということ。そのように選択すべきという
こと。たとえ挫折するとしてもです。しかも、サルトルにおいて、マルクス主義は進行中
の全体化作用であるから、問題点は欠如として充填されなければならない。そう意味付け
されているでしょう。だからやっぱり〈人=神〉というのが企てとして、あるべき過程とし
て、哲学にあったと思いますけどね。
人が神になれるなら受難ではないだろう。
人生とは徒労への受難である、だっけ。
或いは、受難を通じてしか神に近寄れない、か。
52レスの方の意見がありますが、単に人間的自己を無化し、神を現前させる、というの
とも違うと思う。そうじゃなく、やはり選択として、責任、自由として、《あえて自己を失う
》ことが主張されている。誰か、評論家も言ってると思うけども、左翼党派における恐
怖政治を、サルトルは肯定している。〈同胞性=恐怖〉という概念があり、こう書いている。
《実在性としての集団とは、まず、各人が共同の実践を放棄することの不可能性にほかなら
ない。或は、おのぞみなら、集団の存在は、各人の内部で、厳密に個人的な行動のあらゆる
可能性の惰性的否定として誓われた死であるといってもよい。》(『弁証法的理性批判U』
111頁》
革命のための全体化として、恐怖政治がいち過程として組み込まれているのは明らかで
、このような発想が可能なのは、全体化と命名される歴史的変革への視線があるからだろ
う。この過程のために、《あえて自己を失うこと》が組み込まれている。善とはマルクス主義
をそうやって蘇生させ、進行させることだ。そのなかで自己は失うことを要請されてしま
う。
サルトルの挑発的な言葉尻をとらえて、それを
単純な肯定ととらえるのは、どうかな。
サルトルの眼差しは、革命を客観的に評価しよう
としている歴史家のそれに近いようにも思うが。
通奏低音としての宿命論は聴こえないか。
インターナショナルとはちょっと曲調が違う。
58 :
考える名無しさん:2011/01/09(日) 11:24:39 0
>>57 >サルトルの眼差しは、革命を客観的に評価しよう・・・
知識人の階級移行というスターリン主義の嘘っぱちを論破できなかったお粗末さの顕現だろ。
>インターナショナルとは・・・
もともと赤色国際主義なんぞ信じてなかった斜視猿が、
吉本隆明から「ロシア・マルクス主義の最後のチャンピオン」とおちょくられた時にゃ、
斜視猿万歳の埴谷雄高も「言い得て妙」の感嘆を『文芸』で著してたな。
シニカルになるのはそちらの勝手だが。
60 :
考える名無しさん:2011/01/09(日) 14:25:04 0
>サルトルの眼差しは、革命を客観的に評価しよう としている歴史家のそれに近いよう
にも思うが。 通奏低音としての宿命論は聴こえないか。
成る程。モノの稀少性により分断され、互いに憎悪する、モノに支配される実践的=惰性
態を抉り出し、他者として捉え、それへの対抗の必然として、暴力の必然をサルトルは主
張する。で、互いの自由は互いの誓約として、拘束し、実践的=惰性態への逆行を止める。
そのくだりは感動的で、読んでしびれるところでもある。マルクス主義における自由の描
写として、卓越してるし、今読んでも感動的でありますね。峻厳な論理の中に、自由への
渇望が折り畳まれて。マルクス主義と自由をここまで掘り下げて描いた思想は他にないん
じゃないか。その意味では、マルクス主義の再生を、考える際には必読かもしれない。その
主張に全面的に同意はしないけども、これが凄い思想だということだけは判る。実際、今
の日本の経済悪化の最中で、サルトルが描いた暴力が、現出しないとは言い切れない。む
しろ、今の日本の社会こそ、『弁証法的理性批判』が再生する土壌ができつつあるのかもし
れない。それは感じますね。それが好ましいか否かは別にしてね。その意味では、サルト
ルによる革命的存在論は、これから再評価される可能性もあるんでしょうね。惜しむらく
は『弁証法的理性批判』という本は、既に絶版となっており、古書店にしかない。もしかす
ると、将来、人文書院から再発されるかもしれないけども。それはあるかもと思います。
『弁証法的理性批判』ね・・・
あんな時代錯誤の疎外論に今頃夢中になるなんてどうかしてると思うがね・・・
いや、実践的=惰性態という概念については、色んな所で言及されてるし、革命論として
参照されたと思いますよ。モノの稀少性に支配され、敵対し、または集列化する大衆、と
いうのはサルトルがあそこで展開した暴力の起点として、それなりにリアリティーがあ
った。実際、そこが解決されるか否かは重要な問題点には違いないわけで。資本主義に内在
する問題点の抉り方としていいと思いますけどね。
ただ、あれが絶版で云々というと、希少本みたいだけども、実際は古書店の店頭で陽ざら
しで安価で売られているのが殆んどで。あの本がどれだけ人気がないかを証してる証拠で
もある。実際、現代社会の住人たる大衆を自己欺瞞として有罪宣告しているのも確かで。
サルトルの自由の哲学からするとそうなるのは解りますけども、必然的に敬遠されていっ
た。というのが実情でしょう。ただ、現代社会における倫理の在り方として、この哲学は
態度決定する対象として、生きていると思えます。どうこれを読むか、ということが左翼
として、問われると思える。というのは、モノに左右されることに即自的に凝固すること、
に、本能的に抵抗感をもつように人間は出来ていると僕には思える。モノの支配から自由でない
ことをマルクス主義批判として俎上にあげたことの功績は消えないと思われる。
生存集団というのはある種の合目的性を
帯びるのが常だから、それで神云々と言
われるのか知らんね。
>>51 >価値は、それに対して対自が自己の存在において自己を欠如として規定するときの
>、「欠如」(補注:及び欠如の充填)である。
これの意味が分かりません。
>あらゆる人間存在は、彼が、存在を根拠づけるために、また同時に、それ自身の根拠であることに
>よって偶然性から脱れ出ているような即自すなわち宗教では神と名づけられている自己原因者を
>、構成するために、あえて自己を失うことを企てるという点で、一つの受難である。
宗教での自己原因者は分かるのですが、無神論的実存主義者の自己原因「者」は
なんなのですか?そもそも自己原因者というのは存在理由を保証するモノということでいいですか?
65 :
考える名無しさん:2011/01/10(月) 01:07:37 0
人間は絶えず己を選択しうるし、選択しうることで、存在の責任を負っている。それが人間の自由
である。自己を根本から選択しうる、それが人間である。それが「自己原因者」の意味である。絶えず
己を選択しうるし、世界内存在として責任を負っている、しかし己を充全な存在とは見なせないと
すれば、充全とみなせるよう充填しなくてはならない。欠如を満たさなくてはならない。満たされ
た分が価値である。そういう意味だと僕は捉えています。
『弁証法的理性批判』の戻ると、集団にとって、意気粗相をもたらす構成員は処刑される、で、私はそ
れを私の自由として受け入れる、と書いている箇所がある。あの本で考え込まされるのはこういう
箇所で、集団内の死は、集団を元の位置に、実践的=惰性態に落とし込まない為に不可欠なように
見なされている点である。これもそうなんですが、要するに弁証法的理性批判という課題そのもの
が、神の理性、神の精神、それを具現化する試みとして考えられている気がする。マルクス主義が
存在論として考えられており、刺激的な本なんだけど、これを実践しうる人間は、有るのか否か、
てところがそもそも問題視される。何故なら、己の自由として、集団の存続のために死をも受け
入れる、というのは考えにくい。考え方は殉教ですね。それが最初から理論的に組み込まれている
。そうすると、一体誰のための革命なのか、判らなくなってくる気がする。だから、弁証法的理性と
は神の理性じゃないか、そう言うしかなくなる。また、そこが最も面白いといえば面白い点である
。そう感じますね。
サルトル世代の口にする「自由」ってのは、
徹底してて、カミュがドストエフスキーの後
をついで自由の究極表現としての自殺を
論じたりしてるな。
ヤンキーの好きな「フリーダム」とは、やや
趣が違う。
67 :
考える名無しさん:2011/01/10(月) 18:34:17 0
>>58 ちょいと横やりをば。
『文芸』誌の掲載された吉本の「ロシア・マルクス主義の最後の・・。」云々は
決してサルトルをおちょくっての文言ではないぞよ。
文脈としては、六十年の安保闘争を回想して、
闘争に敗北したブント幹部連中がこぞってレーニン主義への純化を標榜する革共同に
懺悔したことなぞから、レーニン主義の政治主義を批判し、わが国の左翼が
「ロシア・マルクス主義最後のチャンピオン」且つ「最良のロシア・マルクス主義者。」
たるサルトルを持てなかった不幸を指摘したもの。
おちょくりなぞとは誤読の最たるもの。
68 :
考える名無しさん:2011/01/10(月) 22:00:31 0
「ロストフューチャー」ってのがあんだろ。
人類が進歩して来るはずだったのに、
来なかった未来。
憧憬と喪失感を我々は感じ、この先どう
して良いのか分からなくなる。
これが、第一次大戦後の感覚だ。
69 :
考える名無しさん:2011/01/10(月) 22:05:36 0
この問題は、第二次大戦の対ファシスト戦争と
それに続く米ソ冷戦によって覆い隠されてしまった
んだが、冷戦が終わってぶり返してしまったのだな。
その空白を埋めようとして、ネオコンの連中は、
来なかった未来を無理矢理に実現しようと非現実的
なプロジェクトをやりたがる。
ドバイ・ブルジュみたいなバカ高い建造物を乱立させ
ようとするのは、そのせい。
70 :
考える名無しさん:2011/01/10(月) 22:47:25 0
人類の進歩は止まってしまったかと辺りを
良く見回してみると、そうでもない。昔はな
かった色んなものがあらたに存在してる。
しかし、我々は自分たちが未来的な暮らしを
しているとは大して感じない。テクノロジーが
幾ら進歩しても人間は生身の人間のまま、
超人になれるアテもない。
進歩主義たけなわの時代の人間は、そんな
ことは考えず、文字通り超人になれると信じ
たわけだ。進歩が人間的な苦悩から自分たちを
解放すると。
71 :
考える名無しさん:2011/01/10(月) 22:54:41 0
「禁煙して超人になろう!」
これがナチスのスローガンだった。我々は
強烈な既視感を覚える。
72 :
考える名無しさん:2011/01/11(火) 10:23:28 0
>>65 >弁証法的理性とは神の理性じゃないか、
マルクスなら「神」と言わず「歴史」と言うのでありませんですか?
これは時々、指摘される点ですが。
73 :
58でんがな:2011/01/11(火) 11:52:57 0
67さん江。
う〜ん、な〜るヘソ。
まぁ、58のカキコは印象批評だったってことで。
なるべくならアンカー付けてくれるとうれしいです><
サルトルって不細工?
>>76 いや、それにしても不細工だとは思いませんが・・・
自分の西洋人に対する憧れですかね?
78 :
考える名無しさん:2011/01/14(金) 03:30:27 0
サルトルは、「何を選んでも自由だから他人から裁かれることがないだろうか?」という質問に対して
サルトルは「道徳の形相は普遍的である。一方、道徳の内容は変化する。己自身がつくってゆくから。」
と答えています。
この「道徳の形相」と「道徳の内容」の意味を教えてください。
79 :
考える名無しさん:2011/01/16(日) 01:42:44 0
80 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MINORKEYcM :2011/01/23(日) 19:08:12 O
『嘔吐』を読んでたら芥川の『歯車』を思い出した
翻訳のせいかな?
81 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MINORKEYcM :2011/01/23(日) 19:10:10 O
サルトルの著作にも『歯車』ってあるよね
チラ見した限りでは随分と色調は変わってるけど
82 :
考える名無しさん:2011/01/28(金) 15:31:27 0
ヴェレリーの『テスト氏』は機会があったら
読みたいと思ってるよ。
ひょっとしたらそこにムルソーやロカンタンの
原型が見つかるかも知れないからな。
間違った、ヴァレリー。昔は読んでて当たり前だった
らしいね。ヴァレリーは第一次大戦終結、間もなく、
こんなことを講演で言ったらしい。
「諸君、嵐は終わった。にもかかわらず、われわれは、あたかも嵐が
起ころうとしている矢先のように、不安である。」
実存主義というのはここから出発してるようなもんだ。
米ソ冷戦が終わって、我々は同じような体験を
した。第一次後はマチズムが勃興し、今また、
同じような政治思想が世界を席巻している。
マでなくて、ナ。適当だからなw
・・・規制すなよ。
86 :
考える名無しさん:2011/01/28(金) 20:11:25 0
十字軍国家の正義のハートをうれしがらせるような
大きな悪党国家が存在しないのがこの時代の悩み
の種だな。
87 :
考える名無しさん:2011/02/17(木) 13:50:14 0
皮肉なんだぞ?
>>88 こんな文章を各人が大学で教えているのか?
大学でマンガ読んでいても仕方ないだろう。
91 :
考える名無しさん:2011/02/22(火) 09:06:16.45 0
虹が美しい、それはサルトルにより完全否定されてます。
サルトルが言うに愛はお互いに愛し合うところのみに存在します。
一方的な慈善活動など愚劣な事らしいです。
92 :
考える名無しさん:2011/02/22(火) 10:33:52.85 0
サルトルに精通wしてる奴って、ジョン・レノンも好きそうだな
94 :
考える名無しさん:2011/02/27(日) 19:38:02.81 0
ageますよ
95 :
考える名無しさん:2011/03/26(土) 06:38:25.05 0
文学板に見あたらないと思ったらこんなところに
『想像力の問題』読んでたら眠たくなってきた
どうもサルトルの文章構成はまだるっこい
98 :
考える名無しさん:2011/04/02(土) 19:42:25.62 0
99 :
考える名無しさん:2011/04/06(水) 23:41:40.46 0
スレ違いかとは思いますがお聞きします。
サルトルに興味があって解説書などを読んだりしていたのですがサルトルの根本的なところの
現象学というものがわかっていないとわからないなと思いました。
ハイデガーの全体像を解説している本も読んだのですが、やはりそれも現象学が根本にあるのだと感じて
NHK出版のフッサールの本を読んでみたのですが分析哲学的なところもあって意味不明で困っています。
そこで何かわかりやすい、これから現象学を知ろうとしているひと向けの本があったら教えていただけませんでしょうか?
101 :
考える名無しさん:2011/04/10(日) 18:46:17.41 0
講談社現代新書の
これが現象学だ
>>100 放送大学のテキストなんかよさげだけど。
竹田青嗣・小阪脩平の『現代思想入門』。フッサール、ハイデガーからデリダ、フーコー、レヴィ・
ストロース、D=Gまで、丁寧に書いてある。現象学の基本用語もよく解説してあります。
105 :
考える名無しさん:2011/04/11(月) 23:15:22.15 0
>>100 竹田青嗣の「現象学入門」読んでもピンとこなかったら諦めたほうがいい。
あれ以上かみくだくとただの人生論になる。
文庫クセジュから出ているP・フルキエの「実存主義」は読んだのかな
サルトルはルソーやヘーゲルにもあたった方が分かりやすいと思うけどね
ハイデガーならニーチェやキェルケゴールにもあたった方が良いし
107 :
考える名無しさん:2011/05/06(金) 16:27:29.99 0
出口主義を思い出してしまったwww
108 :
考える名無しさん:2011/05/11(水) 12:55:36.35 0
正直言って、サルトルがもっと男前だったらって思います
思想と学歴によってコンプレックスを解消しようとしてるようにしか・・
一方カミュのほうは俳優並みに男前ww
ボーヴォワールもちょっと惹かれてる サルトルちょっと嫉妬(笑)
せめて斜視じゃなかったら
>>101 読んでみました。
これがすごくわかりやすくて、おもしろかったです。
全部はわかりませんでしたがほかの本も読んで見ようと思いますありがとうございます。
下記の大学教授、妙に丁寧な言葉遣いをしていませんか?
妙に丁寧な言葉遣いをしつつ 下記の様な振舞いをしていませんか? 要注意です。
皆で監視しましょう。
> 問題の関西学院大学のフランス関係の大学教授が判明したようだよ。
> その種の人間は歪んだエリート意識を持っていることが多い。
> 言葉遣いが妙に丁寧だったりするのは他者を見下したエリート意識の裏返しだ。そして何かあれば押し潰しにかかってくる。
> そのような人間性の持ち主でないか注意深く監視しているとよい。
>
>
>
>
> > 775 :名無しの車窓から:2011/04/15(金) 16:55:48.12 ID:RPmuYuzk
> >
ttp://www.ksc.kwansei.ac.jp/~nakano/profile.html > > フランスに関係しているのが一名。
>
>
> > 778 :名無しの車窓から:2011/04/18(月) 04:13:45.56 ID:PIsveKge
> > 確定だな
> >
> > > なかの ゆきのり
> > > 中野幸紀
> > > 総合政策学部国際政策学科
> > >
> > > フランス鋳物工業技術センター(CTIF)での計量組織学に基づく鋳鉄の物性研究、ENA(フランス国家行政学院)での行政実務研修、
> > > 通商産業省での行政官としての実務経験等を踏まえ、フランス的な産業と国家の関わり(産業政策)を研究してきた。
> > > 最近は、フランスの研究開発政策、EUの統合拡大と深化に係わる社会経済的諸問題、高度情報化社会における無線技術の利用、
> > > 知識社会の定量分析と日EU国際比較等に関して総合政策的アプローチによる調査研究を進めている。
112 :
考える名無しさん:2011/05/21(土) 02:40:05.31 0
最近、哲学書を読み始めようとしてるんだが
岡本太郎の『自分の中に毒を持て』って本を読んだんだが
岡本=実存主義っていう認識はあってる?
>>111 その関西学院大学総合政策学部の中野幸紀という教授は、
勝手にフランスに忠誠を誓い、日本でフランスを宣伝広告さらには押し付けて回っているような人間であろうと思います。
そういう人間は、フランスが褒められると自分自身が褒められたかのように勝手に喜びます。
中野幸紀という教授に会うことがあったら適当にフランスのことを褒めてあげるとよいです。 喜んだら大成功、 面白い玩具です。
114 :
考える名無しさん:2011/05/25(水) 22:04:47.92 0
>岡本太郎の『自分の中に毒を持て』って本を読んだんだが
岡本=実存主義っていう認識はあってる?
岡本太郎はフランス留学時代にバタイユと知り合い意気投合。思想も影響されてる。岡本の芸術
理論ー対極主義ーもバタイユの影響下に考え出されたと私は思う。バタイユは実存主義という名
称で纏めるには無理のある、異分野を横断する思想家。岡本はそれの影響を受けているのだから、
やはり実存主義という名称には無理がある。実存主義には人間性に包括されているであろう非‐
人間性ーバタイユなら、生け贄 sacrifice のような、殺傷の意義ーに目を向けない。そこが実
存主義の限界といえる。
115 :
考える名無しさん:2011/05/27(金) 02:37:12.41 0
>>114 バタイユは大学で軽く読んだことがあるけど、そんなに岡本に影響を与えてたのか。
ひとまず竹田教授の授業潜っていちから勉強しますわ。
116 :
考える名無しさん:2011/06/05(日) 19:28:08.20 0
実存主義は構造主義にうってかわられた。
今や実存主義の時代じゃない
118 :
考える名無しさん:2011/07/05(火) 00:14:41.06 0
実存主義と共産主義との結びつきに必然性はないよな
にも関わらず結びついたのはなぜだろう
ロマン主義・・・実存主義、非決定論、左翼
古典主義・・・構造主義、決定論、右翼
でこの時期の思考はかなり近似できるとおもうが
>>118 マルクス 唯物論=無神論
実存主義=無神論の立場から結果を導く
マルクス
社会が一度に救済されることがイイ!
だから個人の運命はしらん
歴史的に見て革命は起こる
「革命を待て」
サルトル
人間存在は被投性を持っててサイコロみたいなもん。
「人間の存在なんて理由はない。どうせ無駄死にするなら歴史に身を投じよう。そのほうがはるかに値打ちのある生だ。」
両者とも歴史に頼りすぎたとか無神論な立場だからとかその辺じゃない?個人的にサルトルは好きだが後期のサルトルはちょっと微妙。政治に関わるべきじゃなかったと思う
さてTERAスレに戻るか
120 :
考える名無しさん:2011/07/23(土) 17:08:51.98 0
この時期もし俺が居たとしたら多分マルクス主義に加担したと思う。
それはマルクス主義が正しいとか正しくないとかということではなくして
おれの資質をみずから鑑みての意見に過ぎない。
「マルキシスムもまた競争相手の理論を吸収し、消化して、開かれた
ままでいなければならなかったにちがいない。ところが人も知るよう
に実際につくり出されたのは、百の理論の代りに二つの革命的イデオ
ロジーにすぎなかった。ブルードン主義者は、一八七〇年以前の労働
者インターナショナルでは多数を占めていたが、パリ・コンミューン
の失敗によっておしつぶされた。マルキシスムは敵対者に打勝ったが、
その勝利は、マルキシスムがのり越えながらそのなかに含んでいたヘ
ーゲル的否定の力によるものではなく、純粋に単純に二律背反の一方
の項を押えた外力によるものであった。その光栄のない勝利がマルキ
シスムにとってどういう代価を意味したかは、何度いってもいい過ぎ
ない。すなわち矛盾する相手が欠けたときに、マルキシスムは生命を
失った。もしマルキシスムが最もよい状態にあり、絶えず戦い、征服
するために自己を変革し、敵の武器を奪って己れのものにしていたと
すれば、それは精神そのものとなっていたであろう。しかし、作家貴
族がマルキシスムから千里もはなれたところで抽象的な精神性の番人
になっている間に、マルキシスムは教会になったのである。」
サルトル『文学とは何か』第三章「誰ために書くか」
(『シチュアシオン2』人文書院p141.加藤周一訳)より
サルトルも実存主義からマルクス主義に鞍替えしたんだよな。実存主義は突き詰めたら何もなくなるからね。
>>119 マルクス主義=シュワの墓所
サルトル=ナウシカ
っぽい。
忌野清志郎氏も『 集団ストーカー 』を受けていた様子。
歌で残っているところが凄い。
少なくとも、妄想でも幻想でもなく、集団ストーキング行為は実在をしている。
被害を訴えても精神疾患とされてしまうところが怖いところ。
125 :
考える名無しさん:2011/08/05(金) 22:56:07.92 0
126 :
考える名無しさん:2011/08/05(金) 22:57:20.79 0
哲学者は倫理に関わると失敗するな
理想主義なので、政治に関わると大概失敗する
>>122 同意。
サルトルの偉いところは実存主義が空虚であることを認めたこと
実存を求めて哲学を掘り下げていたら
自我が崩れていって実存どころではないでござる
130 :
考える名無しさん:2011/08/22(月) 20:45:22.82 0
てか、言葉の遊びだからなあ
「人生についての私の感想文を思いつくままに (客観性はありませんw)」
ってとこか
実存主義も捉え方次第でまだイケるんじゃ
でも、サルトルの後継者がいない。
サルトルが政治運動なんかに熱をあげるからおかしなことになった
早く! 倫理学ノート
翻訳してって、言ってんの!
135 :
考える名無しさん:2011/10/09(日) 20:48:09.09 0
規制が・・・
サルトルの話をしたら「サルトルは実存主義じゃないよ」って言ってバカにされたんだけど、
サルトルは違うの?
詳しく言うと
無神論的実存主義
その友達は何を考えてるんだろうな
138 :
考える名無しさん:2011/10/17(月) 22:58:42.65 0
どういう考えなんだろ?
サルトルは興味津々ですよねー。
サルトルの仕事は多岐に渡る。自分でも「どうしてもそう呼びたいならいいよ」として、実存主義
という呼び名を晩年は歓迎してはいない。だいたい、マルクスを消化したことで書いた『弁証法的
理性批判』とか、どこが実存主義なんだ、と言いたくなる。実際あれはマルクス思想に具体的な人
間を導入したわけで、内面性を越えた社会、内面性ではどうにもならない疎外を描いたのだから、あ
れを実存主義と呼ぶのは不可能。だろう。サルトルの思想の根幹は、世界によって規定され、制約
され、内面的また外面的に受動態を刻印されながら宿命的に選び取る自由にある。その主題を描く
に際して方法は多岐に渡る。制度や経済に捕縛される、子供は大人に受動化され、よくわからぬう
ちにこれが自己だと思わされる。個体存在というものを多角的に描いたということを、どう読むか
によるでしょうね。
無神論的っていうけど初期の頃から神の存在を否定してるわけではないよね
ただ神がいたとしてもその重要性はあんまなくて結局人間が救えるのは
人間だけ。神の存在に拘ってるキリスト教がイヤだったんだろう
142 :
考える名無しさん:2011/11/03(木) 01:32:19.88 0
サルトルの映画やるってよ
143 :
考える名無しさん:2011/11/04(金) 00:15:41.60 0
>>140氏の解説はわかりやすい。
これを読む限りでは、やはりサルトルは実存主義でしかないのか。
内面性や固体存在という抽象的なものを強調しているから。
マルクスは人間の本質を社会的諸関係の総体という具体的なもののなかに
見出したのに対し、サルトルは依然として人間を抽象的な言葉でしか
語ってないのか。確かに内面性や固体存在とかは口当たりのいい言葉であり
人の心をひき付けるものがあるが、そんな言葉をこねくりまわしても個々の
個人が生きていくにあたっての具体的な指針は何も得られないでしょう。
サルトルは現象学の文脈で評価出来る
>マルクスは人間の本質を社会的諸関係の総体という具体的なもののなかに 見出したのに対し、
サルトルは依然として人間を抽象的な言葉でしか語ってないのか。
いや、サルトルの『弁証法的理性批判』はマルクスを『存在と無』に結合させた作品で、物象化され
る、サルトルの言葉だと集列化される人間、稀少性に左右される人間が描かれている。稀少性を
めぐって物化される、物に左右される人間がそうだ。サルトルはマルクスをよく消化してい
る。その上でそれまでの自己の哲学を更新したわけで、それは力業だといえる。
サルトルのポイントは〈自由=様々な条件に規制された運命〉、という自由の捉え方、にある。それ
は『存在と無』以降にむしろ発揮された思想で、サルトルの本領はそこにあると思う。あと、サルト
ルの思想はいまだに滅びていないとこがある。人間の生の構造が変わらないとこがある、という
理由でね。簡単には終止符は打てない。だいたい今はサルトルを読んでないから、批評さえできな
い条件なのだから。
147 :
考える名無しさん:2011/11/08(火) 20:45:12.47 0
稀少性 rarety という概念はサルトルが『弁証法的理性批判』で、人間の自由を条件付けるもの
として提起したもので、未だにこの概念は残っている、つまり解決されていないものとしてある。
稀少性とはその名前の通り、〈稀少なるゆえ、相剋の基となるもの〉のことだが、単に相剋を強いる
というだけでなく、人間同士が互いに自己を開け、理解しあうことを妨げるとも言われている。何
故妨げるかというと、稀少性が介入することで、人間の間には自己を閉ざすものが生まれるから
だ、と言われている。この問題は未だに解かれていないし、自由を妨げる壁としてある。サルトル
は1975年のインタビューで次のように語っている。
《真の社会的な和合が打ち立てられるためには、一人の人間がその隣人にたいして全的にそっくり
存在すること、その隣人の方もこの人間にたいして全的にそっくり存在することが必要だ。そうい
うことは今日では実現しえないけれどいつかは実現するだろうと私は考えている。人間同士の
経済・文化・感情の変革が、何よりもまず物質的稀少性の除去によって果たされたときにね。こ
の物質的稀少性というのは、わたしの考えでは『弁証法的理性批判』の中で示したように、人間
相互の過去、現在にわたるありとあらゆる対立抗争の根源なのだから。》(『シチュアシオン ]
Situations,]』135頁 人文書院)
ここでサルトルが、人間が互いにたいして全的でありえなくさせるものとしての稀少性、という
のは人間同士の和合を阻むものとして、未だに様々な形で存在しており、解かれてはいない。こ
の概念の意義はだからまだ滅んでいない。未来の人間同士の和合がどのように実現されるか、に
関する大きなヒントだと思う。
148 :
考える名無しさん:2011/11/08(火) 20:57:09.78 0
『弁証法的理性批判』については昨年か今年か、2分冊で研究本が出て、たしか『サルトルとマル
クス』という本。まだこれは書店に出ています。『弁証法的理性批判』そのものは絶版で、ただ、
古書では出回っていて、古書店では割合に簡単に入手できます。ただこの本はサルトルの本の中
でも読みにくいものの筆頭なんで、難しいと思いますけどね。で、難しいのと、あと色んな論者
にフランスで、また日本で、批判されたことが、さして理解されないままこの本を忘れさ
せた原因になった。。さして日本でも、サルトル研究者以外にはまともには読まれず、
そのまま古書店に片付けることになったと思われる。たしかメルロ=ポンテイがこの本
のサルトルをウルトラ・ボルシェヴィズムと名付けている。そういうのもこの本をまと
もに読まなくさせた一因でしょう。
この本は主人公は集団で、個体ではない。物化される人間が主人公で、マルクスの消化
の試みだといえる。サルトルの中で最もマルクス的で、稀少性に拘束されて実践的=惰性
態 le pratico-inerte と呼ぶ物化に陥るその 描写は鋭い。サルトルのマルクス主
義はロシアマルクス主義だ、粛清肯定として批判もされてる けど、それで片付けるに
は惜しいマルクス読解が散りばめられている。ロシアマルクス主義だか らと簡単に片
付けるべきではないと思う。
>>141 無神論と言ってるけどサルトルは初めから神を否定してない
実存主義とは何か で「神がいてもどうということはない」と神をひとまず置いといてという立場をとっている
>>140氏の言うことはまさにその通りだと思う
サルトルの自由への道ってどうなの
151 :
考える名無しさん:2011/11/30(水) 23:02:58.52 0
詳しい方が来てくださると嬉しいですね
詳しくない俺が来ましたよ。
153 :
考える名無しさん:2011/12/22(木) 01:34:40.48 0
詳しくなくてもええじゃないか!
カミュ=サルトル論争を読んだのだが
第一印象は「小さい男だなー」と
まあ当時は収容所の存在が明らかになってマルクス主義に甘い奴は劣勢の極みに立たされてたとはいえ
読んでて情けなくなった
そんでこの論争の発端となったジャンソンとか言う奴の論文がまた
感情的でヘタクソで言わなくてもいいことばっか言ってた
こんなのに味方されなきゃいけない点だけはサルトルに同情したわ
155 :
考える名無しさん:2012/01/05(木) 11:20:43.50 0
僕は実物主義ですの。
157 :
考える名無しさん:2012/02/02(木) 23:07:05.44 0
実物主義ってなんですの?
実存の語源は「外に立つ」らしいですが、どういう意味ですか?
何の外に立つということですか?
本質です。
宇宙は実存しますか?
161 :
電車男。:2012/02/10(金) 04:35:08.59 O
別に宇宙は実在します。
宇宙は実存在です。
163 :
考える名無しさん:2012/05/03(木) 21:44:23.94 0
本質は想像にすぎない
164 :
考える名無しさん:2012/05/07(月) 20:10:21.69 0
渡辺直巳によると、中畑清は「即時存在」である。
165 :
考える名無しさん:2012/05/08(火) 13:00:48.73 0
サルトルの実存主義又、キルケゴ−ルの実存主義の特徴は、当時の時代背景もあるが、
ヘイ−ゲル哲学世界観は「枠」から出ていない。つまり、唯物論はヘ−ゲル哲学体系の
対極の哲学理論として、創出されたものであり、同じ様に、当時の実存主義もヘ−ゲル体系の中に限定されている。その欠点を
克服したのが今日の実存主義と思う。今日の実存主義とは、キリスト教的世界観(ヘ−ゲル哲学体系)の
枠を超えた世界観に基づいた実存主義です。つまり、キリスト教、その他一切の宗教を包含した、世界観に基づく
実存主義であり、さらに今後、論議されていくと思われる。
166 :
考える名無しさん:2012/05/30(水) 19:32:02.14 0
>>165 とにかく「てにをは」と文の区切りをはっきりさせてほしい。
主語も明確に。
サルトルとキルケゴ−ルの実存主義はヘ−ゲル哲学と同じキリスト教的世界観に限定されている。
今日の実存主義は一切の宗教を包含した世界観に基いている。
という趣旨のことを書いたの?
そうなら、今日の実存主義というはだれのことを指してるの?
167 :
考える名無しさん:2012/05/30(水) 21:33:40.90 0
>>165
彼が、サルトルの実存主義と、キルケゴ−ルの実存主義と分けて書いてあるのは、
サルトルは唯物論的傾向が強く、キルケゴ−ルは唯心論的傾向が強いからと考えられる。
又、「今日の実存主義とは誰のことを指しているのか」は、この文面から察すると、誰かを指すのだはなく、
キリスト教的世界観を中心とした、ヨ−ロッパの伝統的哲学を継続しているヘ−ゲル論理体系の「枠」から出て、
多様的宗教的世界観を包含した、実存主義を目指すべきと、述べているのだと思う。
168 :
考える名無しさん:2012/05/30(水) 21:52:39.83 0
169 :
考える名無しさん:2012/05/31(木) 12:52:21.13 0
「真の社会的な和合が打ち立てられる為には、一人の人間がその隣人にたいして全的にそっくり存在すること、その隣人も、この人間にたいして全的に
そっくり存在することが必要である。その為には、根本的な原因である物質的そして精神的な稀少性の除去が必要である」とサルトルは述べている。
ここで述べている「物質的、精神的な稀少性」とは、種々の思想、種々の理論を、一つに統合する障害となっているものと考えられる。
その障害となっている稀少性とは、人間の「思考法」そのものではないかと思われる。
170 :
考える名無しさん:2012/05/31(木) 17:56:40.93 0
>>169 引用部分も何を言ってるのかわからないが、結論は人間が考えること自体がいけない、と言いたいの?
171 :
考える名無しさん:2012/06/01(金) 15:54:25.14 0
>>170
>>147でサルトルは、経済、文化、意識、感情の変革が何よりもまず、物質的稀少性の除去に
よって果たされなければならない。そして、「物質的稀少性」と言うのは、人間相互の過去、現在にわたる
ありとあらゆる対立抗争の根源であると述べている。この物質的稀少性を、彼は「思考法」と述べているのだと思う。
彼の言おうとする「思考法」とは、哲学(考えると言うこと)を、することの本質としての思考法を指しているのだと
考えられる。
西洋哲学は、物事を考察する時に、始めに観点(前提)を設定する。「なぜか」と言う論理プロセスが基本となっている。
つまり、「前提−推論−結論」と言う一環した思考プロセスが、西洋哲学の根本にあると思う。
この論理思考プロセスが、因数分解的に理論を部分化し、固定化する「性質」を持っている為に、種々の理論、種々の思想が
部分的なものに留まる。論理思考は、各理論を統合する能力を持っていない。この、統合する能力のない「論理思考」に対して
彼は、「思考法(論理思考)」そのものを「物質的、精神的な稀少性」を指していると判断したと思われる。
実際に西洋哲学は、種々の哲学理論が創出されているが、各理論は長所もあり、短所もある。そして、その中に優れた長所があっても、
各哲学理論の「理論同士での本質部分」の統合、又は融合がなされていないと思われる。
172 :
考える名無しさん:2012/06/01(金) 20:40:33.23 0
>>171 やっぱりわからないなあ。
まず、「物質的稀少性」の例をなにかあげてもらえないか?
>哲学(考えると言うこと)を、することの本質としての思考法
日本語として意味がとおりにくいと思うんだけど?
ここだけじゃなくて、全体にだけど。
>論理思考プロセスが、因数分解的に理論を部分化し、固定化する「性質」を持っている
揚げ足取りみたいだけど「因数分解」を部分化とか固定化とかの比喩に使うのは無理じゃないのかな?
結局のところ、>「・・本質部分」の統合、又は融合 と言っても、その「本質部分」が書けないと何も言っていないのと同じじゃないだろうか?
こういう言葉遊びになってしまうのは翻訳が悪いのかフランス語の特質なのかわからないが、サルトルから意志的に状況にかかわっていくという姿勢を除いたら何が残るんだろう?
こんなことに優れた知性が囚われているんでは日本や世界の状況が人間を不幸にしていくのもしかたがないと思う。
技術の発達、経済の拡大が多くの人に桎梏として圧し掛かってくるばかりで、本来の人間の生活のために生かされることがない。
残念なことだ。
173 :
考える名無しさん:2012/06/02(土) 17:52:30.06 0
「理論同士の本質部分の統合」とは、人間は本来、一つの生命体であり、精神(唯心論)と物質(唯物論)に
分けるところに、無理が生じ、種々の問題が発生すると考えられる。従って、唯心論と唯物論の長所を統合する
試みがなされていないと言う意味で記述している。
174 :
考える名無しさん:2012/06/02(土) 18:16:08.55 0
物質がなければ精神は無い 自らを物質と捉えたくない自称知的生命体 それが人間だ!
道端のうんこ も サルトル も そこのお前 も 俺 も 物質でしかない そこに差は無い
175 :
考える名無しさん:2012/06/02(土) 18:19:12.47 0
人間は考え始めた時から自分への評価を間違い続けて今日に至ってる
考えることに意味、意義は無い そこに意味、意義を見出すのは人間だけでそれは狭すぎる人間界にのみある価値
そうだ ロンパリの悪あがきだぞ
177 :
考える名無しさん:2012/06/02(土) 22:24:34.11 0
>>173 >唯心論と唯物論の長所を統合する
>試みがなされていないと言う意味
じゃあ、そう書けばいいじゃないか。
なんで変な言い回しをするんだろう?
普通にわかりやすく書けばいい。
中身が書かれていないことは同じだけど。
178 :
考える名無しさん:2012/06/03(日) 13:34:54.48 0
>>172
彼は「>>171」で物事を考察する時に、始めに観点(前提)を設定する。
つまり、「前提−推論−結論」と言う一環した思考プロセス(論理思考)が、
西洋哲学の基本にあると述べている。 この、観点(前提)を設定する事が結果
として、結論を細分化し、固定化するのだと思われる。
「思考法」には、論理思考の様に、細分化し固定化する性質と、直観思考の様に
統合化する性質の両方があると考えられる。
サルトルは、「稀少性」について、それが何かと言う事を、具体的に述べていない。
彼自身(>>171)の中では、統合化する能力を持っていない「論理思考」が「稀少性」を
指していると、判断したと思われる。
179 :
考える名無しさん:2012/06/03(日) 14:44:25.50 0
kokoka?
180 :
考える名無しさん:2012/06/03(日) 15:30:15.68 0
>>178 >>172です。
サルトルは状況へ自ら入ることを最も大切なことだと考えていたことは間違いない。
自分自身の直接的な状況から広く社会的、政治的(思想的)な状況へ参加する道筋を見つけていく。
そういう人が
>観点(前提)を設定する事が結果
>として、結論を細分化し、固定化する
と考えているとは思えない。
「観点(前提)を設定」しない状況参加では大海原に漂う小舟のように自分のいる場所も行先もわからなくなる。
それは自己矛盾だ。
『弁証法的理性批判』はもっと再評価されるべき要素がたくさんある。
気のきいた言葉を並べたてるモダン哲学ばかり追いかけるんじゃなくて、地についたサルトル批判(再検討・再評価)が今こそ必要だ。
>>171さんの意図も同じだと思うが、西洋哲学最大の欠点である言葉の迷宮から抜け出してほしい。
181 :
考える名無しさん:2012/06/04(月) 11:50:36.18 0
>>172 >>178 稀少性(物質的稀少性)というのは、単純に社会的に人が欲しがる稀少なものという意味でいいんじゃないだろうか?
物神的になることが避けられない資本主義社会では、そういう人が奪い合う稀少なものを生み出す、あるいは偏在させてしまう。
だから、そういう物神崇拝に連なる精神構造もまた分析、否定されなければならない。
それがサルトルの言いたかったことだろう。
182 :
考える名無しさん:2012/06/04(月) 14:12:58.45 0
>>181
「単純に社会的に人が欲しがる希少なもの」と述べていますが、その希少なもの
とは、具体的に何を指しているのでしょうか?
183 :
考える名無しさん:2012/06/04(月) 14:18:49.93 0
>>182 単純に富に類するものを想定している。
先進国では貨幣、貴金属、その他生活に必要のないぜいたく品、国や地域によっては食料、水などもそうなっているところもある。
184 :
考える名無しさん:2012/06/04(月) 20:24:56.00 0
>>183
サルトルは「真の社会的和合が打ち立てられる為には、一人の人間がその隣人に
たいして全的にそっくり存在すること。その隣人の方もこの人間にたいして全的
にそっくり存在すること事が必要です。」と述べている。
「全的にそっくり存在すること」こととは、富みに類するもの(貨幣、資産、食料、水)も
あると思うが、サルトルは「稀少性は、人間相互の過去、現在にわたる、ありとあらゆる
対立抗争(宗教戦争も含まれる)の根源なのだから」とも述べているので、富みに類する
ものの他に、実体が隠されている様に思う。
〈人間が互いにそっくり存在することを阻む稀少性〉が何か、を言う前に〈人間が互いにそっくり
存在する〉とは〈互いに透明であること〉として言っている。じゃあ〈互いに透明である〉ことが
不可能であるとはどういう事態か。そこで稀少性が出てくる。それはあらゆる富もそうだが、もっ
と価値的にも言える。能力、有益、有用、…といったもの。それもまた稀少性だろう。それは別の言い
方をすると特権をうむ全てともいえる。サルトルの言い方を延長すればそうなる。その結果、人間
は《実際には、侮蔑や無知や恐怖から生まれた勿体ぶりがあり、そのため、たえず他人に安心して
いられない、ないしはごくわずかしか安心しない》それは例えばこの2ch.netの中の人間存在で
もある。インターネット掲示板からしてサルトルの言う〈悪=透明さの障害〉から逃れられない。〈
あらゆる対立抗争の根源としての稀少性〉というのはサルトルが言ったことから発展させると相
当大きい問題を秘めている。ただ、実際の著作ではマルクス主義的にしか書かれなかったと思う
が。そういうことは度外視しても様々な解釈可能な重要な概念だと思う。イマジネーションがあ
れば様々に読めるはずだ。
186 :
考える名無しさん:2012/06/05(火) 09:56:32.55 0
>>185
「あらゆる対立抗争の根源としての稀少性」は、現代の世界情勢にも通じる
課題でもあると思います。マルクス主義を度外視しても様々な解釈可能な概念
なので、なおのこと「稀少性」の実体を知りたいと思う。
187 :
考える名無しさん:2012/06/05(火) 11:07:37.03 0
マルクスというのはどういうわけか日本が一番研究熱心なんだそうだ。
マルクス主義というより、マルクスの思想。
だから唯物史観というのもマルクス主義として括るんじゃなくて、エンゲルスの思想としてとらえるのが日本では一般的だろう。
西欧ではその区別が曖昧のままで、全部一緒にマルクスの思想(マルクス主義)とされていることが多いようだ。
サルトルもその範囲でマルクスに依拠しているように思う。
だから個人にとっても物質的、経済的な状況がその意識のあり方を決める、という理念から離れていないんじゃないだろうか?
もちろん個々人のすべてがという意味じゃなくて、広い意味でその時代、その社会にいる人々という意味で。
サルトルの物質的な状況を精神的なあり方につなげる道筋に、自分が微妙な不満を感じる理由はそういうところにある気がする。
>>187 >だから個人にとっても物質的、経済的な状況がその意識のあり方を決める、という理念から離れていないんじゃないだろうか?
これが実存主義が構造主義によって否定されたって事って理解で正しい?
189 :
考える名無しさん:2012/06/05(火) 18:30:36.86 0
>>187 サルトルは「ありとあらゆる対立抗争の根源としての稀少性」と述べているが、
この、ありとあらゆる対立抗争の中に「宗教戦争」も含まれる。過去から現代に至る
様々な宗教戦争は、物質的な面もあるが、精神的な面の比重が相当大きい事を誰しも
理解出来ると思います。この様な事実に対して、純粋な実存的立場から、サルトル自身の
内面に於いても、物質面と精神面の関わり状態と言うのは、常に大きな課題であったと思われる。
190 :
考える名無しさん:2012/06/05(火) 19:07:57.73 0
>>188 鋭い指摘だと思います。
でも、申し訳ないが、実存主義vs構造主義というふうにしてしまうのはどうかな? と。
レヴィ=ストロースとサルトルの論争は、それぞれの応援団には怒られるでしょうが
「西欧文明が一番偉いなんて思うな。威張るんじゃねえ」
「うるせえ。お前なんか、その文明の金で世界旅行してるじゃねえか」
というものではないでしょうか?
191 :
考える名無しさん:2012/06/05(火) 19:42:09.56 0
>>189 その部分がサルトルは自分のマルクス(主義)理解によって妨げられていたところではないか。
マルクスは大きな歴史の中では社会経済的な状況が人間の精神のあり方を決めると考えていた。
マルクス主義はそれを、直接の経済社会的な状況が個人の精神のあり方も決めるとしてしまった。
具体的にいうと、技術の発展とそれに伴う経済の拡大によって他地域の侵略、植民地化が国家意志(それを肯定する国民の意志でもある)となる。
その侵略にふさわしい宗教が形成される場合もあるだろう。
ただ、その中でも個人としてみた場合はさまざまな精神のあり方があるのは当然ということだ。
これを単に社会経済的な状況が精神のあり方を規定する、としたままで精神の領域を扱おうとすれば自己矛盾に陥ってしまうだろう。
だから後期のサルトルはマルクスの再検討を始めたのだろうし、晩年にはそれもあきらめたのかもしれない。
図式化しすぎだとは思うが、こんなところじゃないだろうか?
192 :
考える名無しさん:2012/06/06(水) 16:06:35.74 0
>>191 「個人としてみた場合、これを単に社会経済的な状況が精神の在り方を規定する、
としたままで精神の領域を扱おうとすれば、自己矛盾に陥ってしまうだろう」と述べている。
サルトルの実存主義の定義は、普遍的な本質存在に対して、個別的な現実存在が、先立つ(優越性)
主張をとる主義ですが、この「本質存在(魂)に先立つ」考え方が、マルクス主義へ傾倒する要因と、
なったと思われる。
後期のサルトルがマルクスの再検討を始めたのも、実存主義に対する「本質存在に先立つ」と言う概念
に対して、心の葛藤があったのではないかと思う。
193 :
考える名無しさん:2012/06/06(水) 18:12:11.62 0
>>192 キリスト教への回帰、と考えるのですか?
194 :
考える名無しさん:2012/06/06(水) 22:44:06.55 0
>>193
>191で、
彼は「歴史(全体)の中では、社会経済的な状況が人間の在り方を決めると考えられるが、
個人としてみた場合、これを単に経済社会的な状況が精神の在り方を規定する、としたままで
個人の精神の領域を扱おうとすれば、自己矛盾に陥る。」と述べている。キリスト教への回帰ではなく
実存的存在の、「全体」と「個人」の関わりの中で、個人の精神の在り方の難しさを述べているのだと
思われる。
195 :
考える名無しさん:2012/06/08(金) 20:58:55.54 0
実存を社会への参加という側面から考えれば、その社会に対する自分の位置づけは必須だ。
だから社会そのものの分析は避けて通れない。
サルトルはその社会を分析するためにマルクス(主義)を学んだ。
196 :
考える名無しさん:2012/06/10(日) 16:58:38.29 0
社会に対して、自分の位置づけをしていく過程に於いて、サルトルの
「普遍的な本質存在に先立つ」と言う考え方(定義)が、自己矛盾に
陥る原因と、なって行ったとも考えられる。
197 :
考える名無しさん:2012/06/29(金) 15:52:07.55 0
>>195 「実存を社会への参加という側面から考えれば、その社会に対する自分の位置づけは
必須だ。そして、サルトルは、その社会を分析するためにマルクス(主義)を学んだ」と
述べている。 その社会に対する自分の位置づけとは、同一律(対自存在)を基本理念
とした、自分の位置づけなのでしょうか。又、社会を分析するとは、「即自存在」としての
社会の分析の事でしょうか。
198 :
考える名無しさん:2012/06/29(金) 18:50:33.70 0
>>197 レスありがとうございます。
人間は自分がある精神状態にあると同時に、世界からの影響を受けてその精神状態も変化する。
世界がどのように自分の精神に影響を与えるか、あるいは自分が世界に影響を与えるかを考えて行動することが「実存」ということになる。
これには、世界(世界もまた変化している)の分析が欠かせない。
世界の分析を前提として、はじめて人間としての実存が可能とる。
そう考えたと思う。
だから世界の分析のためにマルクスによる唯物史観を学ぼうとした。
自分には
>同一律(対自存在)を基本理念とした、自分の位置づけ
>「即自存在」としての社会の分析
というのがどういうことなのか分からないので、答えがずれているかもしれません。
サルトルは時代遅れ
200 :
考える名無しさん:2012/07/23(月) 17:43:59.52 0
>サルトルはノーベル賞を辞退した数少ない人々の1人であり、ノーベル賞を「資産家層によって作られた儀式に過ぎない」と評した。
サルトルさんって本物なん?
実存主義VS実在主義!?♪。
202 :
考える名無しさん:2012/07/23(月) 19:09:07.82 0
>>198
「世界がどのように自分の精神に影響を与えるか、あるいは自分が世界にどの様に
影響を与えるかを考え行動することが「実存」と言うことになる。」と述べていますが、
私もその通りと思います。 サルトルは、「実存が本質に先立つもの」と定義し、人間が
世界内に実存して、外的な状況と環境の中で一方的に人間形成される、何故なら「人間は、
最初は何もないからである。」と述べている。
「世界がどの様に自分の精神に影響を与えるか、そして、同時に自分が世界に影響を与えるか」と、
言う考え方は、「実存が本質に先立つ」と言う優越的存在論ではなく、「実存と本質」を同等に相対する
存在と捉えているところが、現代に適応した「実存」の在り方ではないかと思います。
203 :
ベゲザン:2012/07/23(月) 20:57:33.11 0
コンタクトレンズにたとえると面白いな。
コンタクトレンズというものの実存は、視力の延長機能としての本質より
まず先立つ。はずさなくてよくなったり、装着感がなくなったら
コンタクトレンズは実存を喪失する。
204 :
考える名無しさん:2012/07/23(月) 21:32:14.98 0
>>203 そのたとえは違和感があるなあ。
「実存」というのは、人間の側からのあり方、生き方だと思う。
205 :
ベゲザン:2012/07/23(月) 22:45:10.36 0
>>204 ということは、「俺はコンタクトレンズを装着する」
「今俺はコンタクトレンズを装着していることを選択している」
「今俺はコンタクトレンズの装着感が感じれないことを選択している」
ということでしょうか。
206 :
考える名無しさん:2012/07/24(火) 09:54:52.92 0
>>203
「実存」とは、現象学的に自己自身の存在と、本質存在(普遍的存在)とを実体として
認識する事です。 従って、視力の延長機能は単なる「身体的機能」のことであり、
本質存在(普遍的存在)とは概念が、まったく異なるものです。
「実存(人間)は本質(普遍的存在)に先立つ」と言う定義は、「実存」の概念に対する
サルトル自身の考え方です。 「実存」の解釈には二通りあり、キルケゴ−ルの「実存と本質とは相対する」と
言う定義とサルトル、ハイデカ−、ニ−チェの様に「何々に先立つ」という優越的存在論としての定義がある。
207 :
ゲッパリラ:2012/07/24(火) 16:23:27.85 0
存在はその内包する可能性の割合に応じて「半属性存在」と「全属性存在」に分類される
208 :
ゲッパリラ:2012/07/24(火) 16:31:50.41 0
半属性存在には、対になるもう一つの半属性存在があり(例えば卵子に対する精子)、これが引き合って融合し全属性存在に転換することを属性帰結と呼ぶ
209 :
ゲッパリラ:2012/07/24(火) 16:56:12.68 0
(・ω・) ←このωは半属性存在であり(・ω・)という全属性存在に属性帰結するためには(・・)が必要なのである
210 :
考える名無しさん:2012/07/26(木) 08:09:13.07 0
実存主義の実存ってクオリアのことなのかなぁ?
西洋人の考えることだから、そこまで深い意味はなくて、もっと表面的なことなんだろうか
211 :
考える名無しさん:2012/07/26(木) 09:22:42.88 0
>>210 まためんどくさい概念を持ってきたね。
哲学やる連中はなんであいまいで難しそうな言葉が好きなんだろうね?
サルトルの実存概念は、はっきりしている。
人間は自然と人間の作った社会の中で生きている、ということ。
212 :
考える名無しさん:2012/07/26(木) 11:57:30.48 0
>>210
実存とは、普遍的な本質ではなく、時間・空間にある個体的存在(自己の主体的存在)です。
この主観的存在(実存)に対して、カントの「物自体」又、フォイエルバッハの「類としての存在」、
そしてクオリアとは、客観的存在に入る。デカルトから現代までの、哲学界の最大の問題は何か。
デカルト以前までの西洋哲学では、真理は、「主観」と「客観」に一致と言うヨ−ロッパ伝統的な認識の
「主・客図式」を継続してきた。 それに対して、デカルトが「方法序説」で、主観的存在と客観的存在の
「一致」は、原理的に存在しないと哲学的に証明してから今日まで「哲学」によっても又、論理実証的な科学の
考えによっても主観と客観の「一致」の問題は、解かれていない。 この難題に対して現在、哲学界では、現象学を
中心として取り組みがなされている。又、科学的分野では、ハ−ド・プロブレムとして解明が進められている。
213 :
考える名無しさん:2012/07/26(木) 12:43:56.98 0
>>212 なるほど!主観と客観の「一致」の問題というのは興味深いですね
脳の問題というのは、アプローチの仕方によって物質(客観的)の問題にも、意識(主観的)の問題にもなると思うのですが、
僕が考えていたクオリアは主観的なものです
>>211 要するに、たとえばここに、「リンゴA」があるとして、ただその事実だけで「リンゴA」の実存があるとみなすのか、
質感(香りや手触りや味などによって感じられる存在感)を通じて「リンゴA」の実存を感じ取るのかというのが知りたかったのです
214 :
考える名無しさん:2012/07/26(木) 13:06:45.78 0
>>213 サルトル的にはリンゴの実存という考え方はないと思う。
実存というのは、人間のあり方。
だから >「リンゴA」の実存を感じ取る のではなくて、感じ取るという人間のあり方を実存という。
自分はサルトルをそう理解している。
215 :
ベゲザン:2012/07/29(日) 02:39:54.76 0
りんごという名前を自らの自由意志によって剥ぎ取ってみる。そのとき全く
違う様相がりんごに露呈されてくる。しかしそれはりんごの本質が変ったの
ではなく、むしろそれを自由意志によって選択した人間の側に(りんご)を含んだ実存性が
現前しているのだ。
ただ、リンゴは実存しないとは言っても「存在」はする。存在はいたるところにある。
そして、人間も身体を持っていなければ実存はできない。
後期サルトルはマルクス主義の唯物論に近づく。
217 :
ベゲザン:2012/07/31(火) 03:33:12.81 0
サルトルは冗漫家だから存在はいたるところにあることの説明として
唯物論に近づいたのではないような気がする。
唯物論的歴史発展の必然性という考えが、人間の本来の選択の自由に大衆を近づけていくもの
として歓迎したにすぎない。
映画を観てるけどうんざりしてきた。こいつら、わがままなだけじゃん。
『存在と無』のconversion、なんて訳すとしっくりくる?
回心じゃあ違和感があるんだけども
220 :
考える名無しさん:2012/08/14(火) 02:39:52.08 0
あげ
221 :
考える名無しさん:2012/08/30(木) 07:32:13.57 0
『今、希望とは』(L'espoir maintenant)の全訳が読める本なり、ウェブサイトなり、誰か知らない?
フランス語の原著ならAmazonで売ってるんだけど、読めないし。
222 :
考える名無しさん:2012/08/30(木) 10:26:46.62 0
>>221 「朝日ジャーナル」1980年4月18日号4月25日号5月2日号の3回に分けて掲載されたそうです。
朝日新聞に問い合わせてみれば?
だめなら国会図書館で閲覧できるでしょう。
>>222 なるほど、新聞社に、直接問い合わせればいいんですね。ありがとうございます。
気合入れて探してみます。
224 :
考える名無しさん:2012/10/02(火) 23:07:48.83 O
地獄とは他国である。しかも我々は地獄なしに安心出来ない。
225 :
考える名無しさん:2012/10/02(火) 23:12:39.41 O
他人である地獄を解消するために。
226 :
考える名無しさん:2012/10/02(火) 23:28:53.04 O
我々はそれほどまでに自ら自身であることが地獄であり、孤独は
耐え難い苦痛だ。
227 :
考える名無しさん:2012/10/02(火) 23:48:14.85 O
存在することはそれだけで恐怖だ。
228 :
考える名無しさん:2012/10/03(水) 22:28:49.51 O
人間が腐ってりゃどんな法制度も政治体制も無意味だ。
229 :
考える名無しさん:2012/10/04(木) 21:11:27.70 O
なんて指摘されて、自分のことを棚上げしたまま慌てて誰かを非難し始める
とか、イタズラを見つかった小学生並みだが…
過疎ってるからって何書いてもイイわけじゃない
スレタイに沿わないならチラ裏にどうぞ
231 :
考える名無しさん:2012/10/04(木) 23:47:28.21 O
悪用出来ない制度は存在しない。ねじ曲げられない法律は不可能だ。
232 :
考える名無しさん:2012/10/04(木) 23:51:27.73 O
自由より下位に置かれた善悪は単なる趣味の話だ。
わざわざ善であろうとする奴はいない。
233 :
考える名無しさん:2012/10/05(金) 00:15:23.15 0
234 :
考える名無しさん:2012/10/05(金) 07:49:14.59 O
図星か…
自由は砂糖菓子だな。そればかり食ってるとすぐ飽きるしアメリカ人
みたいにデブになる。
235 :
考える名無しさん:2012/10/05(金) 08:24:55.12 O
ウザい
237 :
考える名無しさん:2012/10/06(土) 19:40:37.19 0
挑発的なポーズのないサルトルなんて、塩抜きの
タルトみたいなもんだな。
ゴミ
239 :
考える名無しさん:2012/10/07(日) 09:55:12.69 0
甘いものばかり食べてちゃ駄目なんだぞ?
サルトルの「自由」は、アメリカ人の好きな「バケツに
いっぱいの自由」とはちょっと趣が違うな。
240 :
考える名無しさん:2012/10/07(日) 10:05:11.17 0
ロンパ王いるの?
ジンセーの苦さを知らない子供は甘いものが大好きだがな。
>>240 テリーなら健康食品のCMやってるけど?
243 :
考える名無しさん:2012/10/22(月) 00:36:57.01 0
「弁証法的理性批判」が復刊されるといいんだけどね。
できれば電子書籍で。
スティーブジョブズってサルトル読んでたのかな?笑
246 :
考える名無しさん:2013/01/07(月) 19:50:03.25 i
ジョブズの若い頃ってサルトルの評価が一番低かった頃だぬ
247 :
考える名無しさん:2013/01/07(月) 20:38:29.92 0
サルトルの実存主義と、マルクス主義(唯物史観)の結合は、ある意味では、
「主観」と「客観」の結合という意味での連関であると思う。アンガ−ジュマン(主観)と
社会システム(客観)との関わりによって、社会システムをより良い方向へ変革していくと
同時に自己(主体的な人間)の創造的な上昇を図る。これは、サルトルの考えでもあったのでは
ないかと思う。
248 :
考える名無しさん:2013/01/08(火) 11:57:54.03 i
存在と無の頃から、親和性はあったと思うよ
249 :
考える名無しさん:2013/01/21(月) 19:29:56.13 0
デカルト以後の西洋哲学史は、主客二元論を基底として種々の哲学理論が、創出しているが、
サルトルの実存主義は、「唯物史観」と「実存主義」の相関関係の中で、主体的存在(主観)を
基底として現象学的な展開を試みている。つまり、全体主義(唯物史観)と個人主義(実存主義)の
連関をアンガ−ジュマンを媒介として創造的な変革を実践しているとも解釈できる。
250 :
考える名無しさん:2013/01/21(月) 19:42:08.19 0
>>249 すごいデタラメだなw
改変コピペで、かまって欲しいの?
251 :
考える名無しさん:2013/09/15(日) 04:32:53.58 i
個人主義と全体主義の対置に飛躍があるけど、とんだデタラメでもないだろう。
主客二元論が、フッサール、ハイデガーを経てサルトルやレヴィナスの時期には
主体が世界の出現根拠になるという了解は得られていたし
、それを踏まえてアンガジュマンを主張したことが
サルトルの独自性のひとつである事は認めていいと思う。
252 :
考える名無しさん:2013/09/15(日) 12:17:01.68 0
サルトルは、28歳の頃にフッサ−ルのもとで「現象学」を学んでいる。
アンガ−ジュマンは、サルトルの「即自存在」と「対自存在」の弁証法的展開が、
基底にあるのだと思う。
「実存が本質(神)に先立つ」という命題も、即自存在と対自存在の弁証法的思考と
現象学的思考との展開によって創出したものと考えられる。
サルトルに於ける「即自存在」と「対自存在」も主客二元論に当てはめて考察すると、
即自=主観として、対自=客観として捉え直すことができる。
対自存在の概念を、客観的存在と捉えて行くと、全体性(客観)としてのマルクス主義への
傾倒も論理的に理解出来る。
253 :
考える名無しさん:2013/09/15(日) 20:15:21.99 i
そもそもサルトルは存在と無の諸論において主客二元論を否定した上で実存の現象学的分析にとりかかっている。
サルトル佐助
255 :
考える名無しさん:2013/09/26(木) 22:42:08.99 0
即自存在を「自己」として、対自存在を「他者」として捉え直し、「間主観的還元」により、
対自存在(=他者)を、「共同的な主観性=内在化世界観」として捉えている。
対自存在を「無」として捉えるのも、現象学的に超越(=客観)として捉えているからであると思う。
従って、思想の展開は、即自存在(主体)と対自存在(他者)の二元論を基底として、間主観的還元により、
対自存在の「無」の現出により、主体化(即自存在)する。この両者の「二重性」の、連続的展開がサルトルの
思想の特徴と解釈している。
256 :
考える名無しさん:2013/09/27(金) 17:35:01.38 O
○○主義だのいいかげん卒業しればか
>>256 ○○主義だのを卒業すると、どうなるの?
258 :
考える名無しさん:2013/09/29(日) 12:35:40.37 0
主義と言う言葉は、論理、思想、学説などにおける明確な一つの立場のことです。
だから、私達が今、生活しているこの社会は、過去の思想家、政治家等々の優れた人々
により創られた論理、思想を基盤として成立している。
憲法にしろ、一般の法律、そして社会の種々のシステムは、すべて「理論」で創られている。
だから、主義(理論)を研究し、究明し、時代に合った新しい主義(論理)が必要となって来る。
259 :
考える名無しさん:2013/10/02(水) 10:15:33.55 O
↑勝手にやれ童貞
260 :
弧高の鬼才 ◆zD.tvziESg :2013/10/11(金) 22:36:40.05 0
フッサールはフッサフサ
261 :
弧高の鬼才 ◆zD.tvziESg :2013/10/12(土) 00:07:14.93 0
わてはヒューマニストやでー、人間とモノをいっしょにせんといてやーー、というのがサルトル
つまり人間中心主義
262 :
考える名無しさん:2013/10/12(土) 02:06:07.93 O
新訳まだあ?
263 :
考える名無しさん:2013/10/12(土) 02:49:54.80 O
サルトルで眠れないという歌があるんだが、もちろん、みんな聴いたことあるよな
サルトルは別に、政治に参画せよなんて言ってないのに、ねえ。人間の認識による歪曲化ってww
265 :
医師ギヨタン:2013/10/12(土) 11:04:34.86 0
方法的懐疑などほどほどにせよ!!!!!!!!
266 :
考える名無しさん:2013/10/12(土) 11:19:47.94 0
神に酔える無神論者
267 :
考える名無しさん:2014/01/05(日) 13:15:27.93 0
「存在と無」、読破出来そうにありません。
諦めてもいいですか。
>>267 本当はとてもいい論考だと思うけどねえ。
1年ぐらいしてから再読したらどうでしょう。
269 :
考える名無しさん:2014/01/05(日) 14:21:03.45 0
サルトルの哲学は、発生的現象学の流れを継続しているので、弁証法と現象学そして
形式論理学との連関を通して、現代哲学に与える影響は大きいと思う。
270 :
考える名無しさん:2014/01/07(火) 07:39:06.76 0
アドバイスありがとうございます。
参考にします。
271 :
考える名無しさん:2014/01/07(火) 15:23:59.03 0
本を読むときは義務感とじゃ、知ってなきゃ馬鹿にされるとか、内
発的でない理由でなら止めた方がいい。
〈人間は全世界の、自分自身の責任者である。また、争う余地なく、
それらの作者である〉〈この意味で対自の責任は圧倒的である〉(『
存在と無』第4部 「持つ」「為す」「ある」 第1章 「ある」と
「為す」-自由 V自由と責任)
とサルトルは書いている。そこからマルクス主義はじめとした政治活動
へ入る青年もかつては多くいたに違いない。上に引用したサルトルの
哲学からはそれは必然的である。また、世界-内-存在というタームを
サルトルはハイデガーからもらったが、その意味、意義は読めずに
使っていた。ハイデガーのいう世界は、「アメリカ」「西欧」「ユーラ
シア大陸」「近畿地方」「東京大学」といった〈有るもの=存在する
もの〉ではない。なのであのような責任論が出てきた可能性はある。
その誤読ゆえに、サルトル哲学は戦後新世界の倫理として脚光を浴びる
ことができた。しかしそれが生の人間の姿と合致していたわけではなく、
マルクス主義の同伴哲学であったことが徐々にあからさまになっていっ
た。そういう流れのなかで1960年代以降の現代思想-デリダ、フーコー
が出てきた。そこにあった「アンチ・サルトル」が、90年代以降また
揺れ戻されていった。その流れに今もある。しかしサルトルの中に
関係意識があり、それは個人に世界情勢や他国の不幸の責任を負わせ、
それに関係ないとしたら、「自己欺瞞」と責めるもの。マルクス主義
における主体性の形成に大いに力を与えたのは事実である。
サルトル哲学を柄谷などが褒めだしたのも、彼のマルクス主義のために
有効だから。サルトル読むなら、長編作家論『聖ジュネ』『家の馬鹿
息子』などからの方がいい。最後の方のインタビューでサルトルは「
自分が本当は何が言いたいのか、いつも苦悩があった」と語っている。彼の
哲学論文よりか、長編作家論での方が、言いたいことが歪めずに言えて
いた可能性がある。なのでそっちから読むことをお勧めする。
>>271 「誤読」は酷いねw
サルトル流の新たな「世界−内−存在」だと思うよ。
中身の空っぽなハイデガーの「世界−内−存在」に、実を与えた。
その一点だけでも、すごい哲学者だよ。
>>272 いろいろなアプローチがあるだろうが、「想像力の問題」なら「存在と無」の同系統の論考だから、どうかな。
サルトルの良さは、やはり哲学的な論考にあるんじゃないのかな。
趣味の問題かな?
一人の人間が生誕し、環境のなかでいかに前-意識と意識を埋め込まれ、そう
いう自らや世界とどういう折り合いをつけるか、が彼の問題意識だったと思う。
長編作家論ではそこが書かれていく。『馬鹿息子』について、「本当を書いた
小説」という言い方もしている。もともと彼の問題とは一人の生涯にあった
と思うので。『存在と無』はマルクス主義のへの導入書という要因が強い。
または政治活動への導入。片方にハイデガーという解毒剤があって呑める毒
だと思っている。毒にあたってもいいなら問題ない。
>>275 政治的な理念と行動というのは、とくにフランスでは哲学の条件じゃないのかねえ。
政治が芸術家の生き方の根幹に関わる、という感じ方も。
日本みたいな無害無臭の顔をした哲学というのは哲学じゃないと思われてるような気がする。
無害無臭ということは、政治的には現政権の肯定だからね。
『存在と無』でまたサルトルは、〈人間とは自己原因たる即自-神になるための
努力である〉とも言っている。革命のための犠牲になることはすでに論理として
導入されてるわけです。皮相な政治参加を促す要因はすでに哲学として書かれて
いた。それから、現代思想が政治的なことを否定していたわけではない。その
ことは、力や数、での闘争を、覇権を、否定できなかったことで、必ずしも
賞賛すべきことではない。政治というのは主体性の一種という意味での力への
意志でしかない。それは歴史が証明していることだ。
>>277 >人間とは自己原因たる即自-神になるための
>努力である
そんなこと書いてあった?
覚えてないな。
どの辺だか教えてくれるとありがたい。
>現代思想が政治的なことを否定していたわけではない
政治を拒否してるのは日本の大学哲学だよ。
現代思想じゃない。
>政治というのは主体性の一種という意味での力への
>意志でしかない
まわりくどい言い方で反政権的な政治行動を否定してるけど、そんなに自民党政権を守ることが大事なら、哲学なんかやらないほうがいいよ。
言葉が腐る。
日本の哲学は過去の著作の読み直しに価値を乗せ過ぎた
主体不在の哲学
280 :
考える名無しさん:2014/02/02(日) 17:52:56.80 0
271-277に色々書いたけど、でもサルトル自身は人間にたいして多様であるこ
とを認めているし、政治的でありさえすればよいという一元論とはかけはな
れている。世界の引き受け方は個体の担う条件が違うように違う。彼の作家論
はそれを証ていたと思う。また、自己に対する非共犯的関係は困難であり、
自己が何者かは一生かけて探究すべきことだ、ともしていた。『存在と無』での
対自存在論はイデアとしてはあっても実現しがたいものであることは本人には
前提されていた。輸出され信奉されていくにしたがい同時代の革新的雰囲気
のさなかで政治参加の主体論に色塗りされていったところがあると思う。
>>280 >対自存在論はイデアとしてはあっても実現しがたいもの
なんで?
282 :
考える名無しさん:2014/03/03(月) 13:13:30.76 0
以降、ナボコフのパンティコレクション
283 :
考える名無しさん:2014/03/03(月) 15:32:42.39 0
サルトルに於ける即自存在と対自存在の関係は、ヘ−ゲルの“弁証法”とも異なるようである。
即自と対自の差異化による反復により、「存在」を捉えているように思う。
この“差異化の反復”が存在に対する「無」と、どうのように連関しているのか、「無」の概念の
実存に於ける位置づけが重要な観点であると思う。
サンポール・ジャルトル
285 :
考える名無しさん:2014/04/16(水) 08:11:18.64 0
大丈夫、ワシがついとるがな(´・ω・`)
286 :
考える名無しさん:2014/04/16(水) 16:19:59.36 0
波平犯人説 浮上。警察に垂れ込むか。
530 名前:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です[sage] 投稿日:2014/04/16(水) 12:38:55.73 ID:UGsTKjFy0
112 名前:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です[] 投稿日:2014/04/14(月) 18:38:33.28 ID:MkVVBf7Q0
砂川真範
砂ツ真H
さっしーえっち
偶然なんですかねえ
712 名前:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です[sage] 投稿日:2014/04/16(水) 16:18:44.64 ID:9FaYsc09O
>>530 うわぁ…
西村最低だな。
287 :
考える名無しさん:2014/06/16(月) 19:09:46.59 0
288 :
考える名無しさん:2014/06/20(金) 18:05:54.09 0
人の身体的特徴を面白がるやつってたまにいるけど、例外なく知的下層だな。