仏教哲学の最終目的って何? 3

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883考える名無しさん
>>873
>「整合性」がちょいと甘いんじゃないかと
はい。甘いですねw
というか、最終的に詰め切れない部分が確実に残ります。
(それを確認し得るのは「宿命通と、その解析に依るしかありませんw)
だから私は、懐疑したまま棚上げしているのです。
誰かさんは首肯しませんがw、仏教の基本ラインは三世に跨らずとも成立するからです。

>なら、いちいち「報い」などと言う必要はあるまい?
社会の中で生き、関わり続けねばならないとするなら、
倫理道徳の領域へ下向する必要があります。生きる以上(日常生活を送る以上)避け得ないことです。
それは、倫理道徳の領域に限らず、言語や慣習・文化、世相・情勢の領域についても同様です。
「出世間」ということは、言い換えれば「縛られていない」「惑わされない・眩まされない」「誘われない・追従盲従しない」
ということであり、桃源郷の仙人が如く断絶してあることではありません。

何か土産を渡す時、「つまらない物ですが・・」と言い、表書きを「粗品」とする。
互いの間柄やシチュにより「事象そのままに」会話されることもあり得るかもしれませんが、
大概はそのように言う。『どんなに高価で、価値があって、相手の為になる・喜ばれる物であっても』、です。
当該品がそのようなものであるなら、 >いちいち「つまらない物」などと言う必要はあるまい?
なぜ言わないのでしょう? なぜ、「つまらない物」と称することが通例となるのでしょう?
それは、
【場面や文脈が、そのような表現(言語使用法)を要請している】からです。
【場面や文脈に於いて、その当該品の「位置付け」として必要な表現、呼称である】からです。
同じように、
【場面や文脈が、「報い」という表現(言語使用法)を要請している】からです。
【場面や文脈に於いて、その事象の「位置付け」として必要な表現、呼称である】からです。

他、また今度。  ノシ



国会始まったんで、また動画三昧の夜が続きそうだ・・w