仏教哲学の最終目的って何? 3

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871考える名無しさん
>>867
>さらに、その説明では・・・・・・なってないと思うが。
ですから、「恣意的」だと言うのです。ベトナム枯葉剤の影響で(と言ってしまってますがw)奇形児が生まれた時、
その「因」を(或いは「縁」を)必ずしも前世に求める必要はありません。
その因は、やはり枯葉剤であると見るべきなのです。前世の因や縁が奇形の因となるような連関は見出し難いのです。
(と凡夫が言い得るものでもないが・・w 全ては釈迦のみぞ知る、ってとこだw)
だから、発言には気をつけねばならないのです。安易な、短絡的な因果律のゴリ押しになっていないか?と。
価値判断の織り込まれない「事象の連鎖」を見るならば、大量殺人犯がのうのうと生きていても、
それはそういう事象の連鎖の中にあるだけです。仮に、少しばかり価値判断を織り込めば、
文字通り「機が熟していない」「機縁が熟していない」ということに、仏教的世界観の上ではなるでしょう。
「殺人には相応の報いがなければならない」というのは、「単なる事象」への希望的評価なのです。
当人に於ける「殺人という行為の果」は、周囲が希望するものとは別の形で当人に生じているのかもしれません。
それが何かは知る由もありませんがw、それに気付いた時、そこに仏教という門が開かれるわけです。
何を「因」と見、何を「果」と見るかの段階で、既に既存の価値観によるミスリードが生じるのです。
個々のケースが千差万別なれば、そこに見出される連鎖も千差万別となりましょう。
この時、「善なること」「涅槃に資すること」「他の害とならないこと」「他の福となること」といったことを枠組みとして採用する時、
仏教的“業報”が成立するわけです。あくまでもそうした枠組みを用いた上で言い得る事であり、
その枠(価値観世界観)の外で「報い」を言い出せば、整合性は途端に崩壊します。


風が吹いて必ずしも桶屋が儲かるわけではありませんがw、
縁起の中に因果を見るということは(特に業報は)、風が吹いて桶屋が儲かるが如きものなのです。
「無明により苦がある」という言明は、そうした極を拾い上げたダイジェスト的表現なのです。
少なくとも形式上は、マクロ的にそういう「連関」を見ることなのです。