>>59 デカルトは精神-身体の二元論者ということを聞くけど、彼はそうじゃない。身体性──言語と物質の代替不可能性──について
悩んでいたのだと思う。明らかにこの世界は秩序だ。それを志向している。でなければ存在しようがないではないか? 秩序立てる基準とは、
存在一般なのではなく、われわれ人間存在なのだ。われわれが存在一般を追求するのだ──物理学とともに。
しかし、そのまえにわれわれは、われわれを明証しなければならない。つまり人間を。確かな地盤とは、現時点でのわれわれ以外ではないではないか?
儚いわれわれだが、意識を持つのはわれわれしかいない。
君の言うとおり、デカルトはそれを考えた。すなわ、自分自身である。なぜなら、すべてを見ることができるのは自分自身だからだ。それは禅に似ている。
禅者とは、人間そのものである。君たち考える「だけ」の人は、思考が思考ゆえに必ず間違うのである。思考とは、たとえば物理学が物質しか扱えないように論理しか扱えないからである。
思考は、生命感を排除するからである。生命意識=人間意識を排除することはできない。われわれが人間だからだ。哲学こそは、そのためにある。あらゆる科学が、
それこそ試すことができないのである! なぜなら、自分自身を除いてはすべて相対性であるからである。