>>64 ベルクソン批判も面白いですね。
ベルクソンによって「持続」と名付けられた時間ですが、
これは過去の記憶を現在に呼び戻し今の瞬間に練り込んで行くという行為を直観によって体験することです。
本来なら、生きられた時間の長さが伸びるにしたがって過去は増大していきますが、しかし同時に過去は忘却によって消滅していきます。
そもそも世界自体、ついさっきから始まったんじゃないかという仮説「世界五分前仮説」もあります。
また、短期記憶がふっとんだ痴呆老人にとっては、過去は生きられた時間ではなく、失われたゴミでしかありません。
ベルクソンが、「知覚は記憶から逃れ得ない」と言いますが、例えば痴呆老人にとっての知覚はどうなるんでしょう。
失われた記憶も、脳のどこかにひっそりと残っているという説もありますが、呼び起こされなければ意味がないでしょう。
>そして未来とは、創造が創造主に対して相対的であることから、創造そのものの自律という
>意味での、「新しさ」が主題になっている、と解釈した。
まだ決定していない流動的な未来からの時間の流れの一点を受け入れるというのが、ベルクソンの「持続」であり、
我々の生命的な進化は、絶えず個の内側からのエネルギーの発展によって、予測不可能な方向に枝葉を伸ばして行ったとも言えますが、
これに対して、「未来は予め予見されている」という決定論からの反論はないのかとも思います。
決定論者の唯意味論さんからの指摘がないのが何とも残念です。
そして、過去と未来の両端は閉じられて円環になっているのか、途切れて伸び切っているのかどうなのか、という議論もあります。