>>108 トーヘンボクさんは名前に似合わず鋭いですね〜。至高性と時間についてはバタイユも語っています。
「破局ーーー生きられた時間ーーーは、鎌を身構えた老人ならぬ骸骨のすがたで、
恍惚のうちに思い描くべきである。刎ねた首の唇がその歯に張り付いている冷たくきらめく骸骨。
骸骨である以上、それはまっとうされた破壊である、ただし不可避的純粋性にまで自らを高める
武装した破壊である。
破壊は深く食い入り、そうすることでかえって至高性を純化する。時間の不可避的純粋性は、
教皇冠と仮面の下に、金ぴかの衣の中にその骸骨をひそめた〈神〉と対立する。神々しい仮面
と柔和さは、政治的圧迫の指導を目指す、摂理を自称する、避けられぬ形の努力の現れである。
だが神々しい愛の中で嗜虐的な骸骨の冷たいきらめきが際限なく露出される。」
と、比喩にみちた美しい時間論を述べています。紹介しておきますね。
>>111>>112 >ほう、昔の機械さんは相当にワルでゲスでイチビリだったのですね。
そうです。機械さんにスレを破壊された私は復讐として、決定論スレに犬コピペの大量投下を決行したのです(笑)
というのは冗談ですが・・・
>君なら、どう答えますか。
くりかえしになりますが、決定論によると、我々が現世でどんなに自由を求めても、人生や死後は因果律により決定されているのだから、
悔い改めることによって救われるかどうかというのも決定されていることになりますよね?だから何をしても無駄であるから、
我々はただ贖罪をする以外にやることがない、という話なのでしょう?
唯物的な決定論からすると、この死後という概念がなくなり、祈りの時間というのは無機質な意味のないままごとの時間・・・
ということになるのですか?それはあまりに殺伐とした世界ですね・・・あなたはなぜそんな主張をしてるのですか?