◆決定論:脳は物質だから意識は必然に過ぎない179◆

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796あまの:2010/11/27(土) 01:22:10 P
しかし、物と心って陳腐だよな
そのへんの短大卒の主婦でも言うぜこんなの
んなわけねーだろ馬鹿!!!www
797抄録 ◆xOLbFG9QNU :2010/11/27(土) 01:24:48 P
言うてるまに御大登場w

機械さん息災でしたか
798あまの:2010/11/27(土) 01:26:45 P
この補完とか関連は唯意味さんが圧倒的な語彙力をもって説明してくれている
大体納得させられる
おれの喩えは「融かされて合金のような状態になった二種類の金属」のようなもの
だから心と物質を分離すること自体出来ないと思う
799抄録 ◆xOLbFG9QNU :2010/11/27(土) 01:31:21 P
>>798
それが合金である以上、二種類の元素により生じる組織として理解され得るのだ。
そうでなければ、合金ではない。
800抄録 ◆xOLbFG9QNU :2010/11/27(土) 01:34:52 P
だいたい、心と物質が別の元素なら、心と物質は「別」ってことじゃねーか
801あまの:2010/11/27(土) 01:39:03 P
心も物質も、時間(そんなものがあるのかどうか、正体不明)や空間(主観と独立してあるんだろうかこの舞台が)や因果律に
律せられて、どこにあるのかわからない物自体に等しく転がされているだけと諦めるしか・・
それを生きて認識している者だけが主観というスクリーンに強制的に見せ付けられている
802あまの:2010/11/27(土) 01:52:30 P
世界は、「物自体」と「生きて日々認識している我々」で成っているとしか・・
803154人目のヒト:2010/11/27(土) 01:54:46 O
私と言うところの意識はこの次元のモノではないという解釈で良いですか?脳を見れても精神は不可視ですし。いや、水分子のやり取りの結果意識が生じてるって話もあるんでしたっけ。…でもやっぱりそこに宿ってる→意識は見えないモノ→五次元以上の存在?
804あまの:2010/11/27(土) 01:59:11 P
毎度毎度おれの物言い詰まんなくて申し訳ない

五次元以上とかちょっとオカルティックなのも興味あるな
おれ幽霊の存在も信じているしね
805attk:2010/11/27(土) 02:23:27 0
意識は見えないと言うけど、仕組み自体は見えるでしょうし、
そのものが目に見えなくとも、どんなものかは誰でも知っている
その知っている意識をなんとしても可視化したいというなら、
結局それは脳に電極を埋め込んで電気信号から意識をモニターするといった方向になる
言葉、映像、何をどこまでモニターできるかは知らないけど、
資金と時間と実験台さえあれば、大体はモニターできるんじゃないかな

806154人目のヒト:2010/11/27(土) 08:46:38 O
>>804 話合いそう!ワタクシは高校の時に自宅で幽霊(母方祖母)見てから、魂って概念は合ってて不死なのか?と驚きまして。
>>805 意識らしいものをあくまで間接的にしか観測出来ないワケですね…播磨のスプリング-8やCERNで次元に関する新発見ないかし。密かに期待してるんだが
807唯意味論:2010/11/27(土) 12:53:49 0
>>806
その幽霊の話、もう少し具体的に。
夢ではなかった、と貴方が確信している理由も。

まだ幽霊をみたことがないので、いないものと思っていました。
808唯意味論:2010/11/27(土) 13:06:51 0
>>790
動的秩序であれ、混沌とした連続体であれ、それは現われです。
意識・言語・意味に絡みとられている。

で、ボーアの親父さんは何といっていましたか。
809154人目のヒト:2010/11/27(土) 15:56:05 O
>>807 えぇと、高二の冬の夜の話なんですが、二階の自分の部屋から廊下を挟んで向かいの部屋に行く際、左側は階段で居間に繋がってるんですね。で、夜だから階段から居間を見ると光が差し込むかっこう(逆光)になるので、物が置いてあったりすると黒く見えるワケです。
810154人目のヒト:2010/11/27(土) 15:58:18 O
その向かいの部屋に入った時に、階段途中に黒いモノがあった気がしたので、「あれ?何か置いてあったっけ?ていうか何か居たな…」と思って戻って見たら、クッキリと黒い姿の老婆が階段途中に座ってて、居間に体を向けて、顔はこっちを振り向いてる形でした。
811154人目のヒト:2010/11/27(土) 16:04:36 O
シルエットからして和服だったし見た瞬間に母方曾祖母という感じが頭に浮かんだ?ので安心して、部屋に入って物を探しながら「ばあちゃん、母方と縁切れちゃった俺らの事気にかけてくれてるのかもな」と思って、また自分の部屋に戻る時に見たら何も物無かったから、見たんだなと
812Trauerode:2010/11/27(土) 23:37:22 0
>>785 :777(Absalom)さん
>「物」と「心」の異質なところは、「物」が物質であり、「心」が概念であることではないか。

意識や心を「概念」と考えると、デカルト以前の哲学の問題の枠組み(パラダイム)に近づきますね。
プラトンがイデアを真の実在と考えて、具体的な個物はイデアの影である(イデアを分有する)にすぎないと考えて以来、
イデア的なもの(普遍)と、具体的な個物との関係が哲学の中心問題になったと思います。
「形相(エイドス)」は「質量」の中に内在する、つまり「普遍」は「個物」の中に内在するというアリストテレスの思想は、
この問題への一つの回答でしたが、やはりいったん分けてしまったものを結びつけるのは困難なことであって、
この問題の枠組みは中世の普遍論争まで続きました。
この「個物」と「普遍」というパラダイムが、デカルトの思想によって「物」と「心」へとシフトしたのだろうと思います。
そう考えると、この問題の発端は、プラトンのイデア論にあると思われます。
813Trauerode:2010/11/27(土) 23:38:59 0
>>789 :抄録さん
>「この意識」に依らずに意識を理解することはなく、
>「この意識」を理解することが意識一般を理解することになるのです。

(抄録さんが言わんとしていることを僕が理解しているかどうか定かではありませんが…)

その逆も言えるわけで、「意識」という一般概念によって<←?>を理解しているという側面もあります。
人は教育を受けながら育つ過程で、<←?>が「意識」と言われるものであることを理解する(させられる)ようになります。
(教育とはそういうものでしょうね。)

例えば僕が今何かを「見ている」という事態は、それを<この意識>と言ってもいいし、<この感覚>と言ってもいいし、
あるいは<この思惟>と言えなくもないし、<この意思>と言っても間違いではない。
しかしそれを「意識」「感覚」「思惟」「意思」とする場合では、それぞれニュアンスが大きく違ってきます。
僕が今何かを「見ている」という事態を、「意識」「感覚」「思惟」「意思」という一般概念で説明し、
それを理解することはできるのだけれども、どの概念を使ったとしても、「見ている」という事態は、それそのものではない。
(だから、そういう一般概念を使うよりは多少はましかと思い、僕は<←?>としたわけですが)

(上のことは、僕が>>698で書いたことと似ています。)
(>「H2O」という式で、どのリアルで個的な水についても説明でき、その説明は妥当性を持つのだけれども、「リアルで個的な水」=「H2O」ではない。)

ところで、<←?>を、<この魂>と、「魂」という一般概念で説明したら、どうでしょうか…
おそらく現代では多くの人が違和感を覚えるでしょうが、昔の人ならこのほうがしっくりきたかも知れませんね。
「身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留置まし大和魂」
これは吉田松陰の辞世の歌です。
814Trauerode:2010/11/27(土) 23:40:24 0
>>792 :抄録さん
>交差点とはどこにありますか?
>「人」を前提とせずに交差点は成立しますか?

まず、ひょっとすると「能動」と「受動」という概念を僕が唐突に持ち出していると誤解されているかも知れないので、その点について説明しておきますが、
>>751で抄録さんが書いている【「ヒトにより設定される物質世界の秩序」】の「設定する」という行為を、僕は「能動」と言い換え、
【「物質世界を設定するヒトの思惟」に間違いなく影響しているのである。】のほうを「受動」と言い換えています。
(だから抄録さんの考え方でも、「ヒト」が交差点にあると思います。)

さて…
今此処に生きている自分自身が、能動と受動との交差点にあたると思います。
今此処に生きる自分自身を消去したら、そもそも「考える」ことはできないでしょう。
「自分自身」と言ってしまうと、デカルトの「我」と同じように、やや実体化してしまっているので、
今此処にある「思う」という働き、あるいは<←?>でも良いです。
(<←?>に一般概念を入れるとすれば、ここは「能動」の話なので、「意識」よりも「意思」のほうがしっくりくると思います。)

今此処に生きる自分自身は、その「意思」の《基点》(つまり<←?>の矢印の基点)であると考えられます。
(カントの超越論的自我も、フッサールの自我極も、意識の《基点》として考えられていると思います。)

しかしその《基点》も、無から発生したものではなく、生成し成立したものだろうと考えられます。
そうすると、《基点》としての自分自身の成立過程については、自分の意思は及ばないので、それに対しては受動的であらざるを得ません。
815「機械的唯物論」者 ◆fHx/n24uQU :2010/11/28(日) 01:00:53 0
XBOX360なるゲーム機は昔から知っておりましたが、
最近「キネクト」なる「マンマシンインターフェース』を装備した機器と
ソフトが発売されたため、購入しました。
 結論は「かなり面白い」です。
逆に言うと「任天堂のWiiは終わり」となるでしょう」と申し上げるほかは
ありません。
 東芝の3DTVレグザGZ55も購入しましたが、こちらも「2D→3D変換」
で結構楽しめます。

 要するに「リアル」とは何か?・・を判断するのは「五感」しかありえないのですから、
「右目・左目・右耳・左耳から入力される映像・音響情報」が私たちの「脳内に作り出す」
『(志向的クオリアで整列させられた)感覚的クオリア』が私たちの「認識の全て」なのです。

「現実」とか「リアルな体験」とかは全て「外界の情報が脳に入力されてきた電磁パルス信号が
脳に伝わり、脳内に蓄積されている『志向的クオリア(一種のROM)』がそれらを「情報処理」
する結果に過ぎないのです。すまわちそれが「(現在も)意識」の「全て」である
・・ということです。

本日は脳内睡眠物質意の蓄積により就寝させて戴きます。
816154人目のヒト:2010/11/28(日) 01:27:48 O
>>815 俺が見たのも感覚が集約された結果のモノって事?頭に性別とか流れ込んできた感覚も?

結論:俺は当時精神病。じゃなくても思春期に稀に見られる症状。クソッやっぱここでは理解は得られないかorz
結論:俺はスレ違い。うぅ…出てった方がよい?
817あまの:2010/11/28(日) 02:51:22 P
気にしなくていいと思うよ
おれだって3年位前に深夜の交差点で信号待ちしてるとき、右の横断歩道の上に白い顔が
浮かんでたのばっちり見ちゃったもんね
30mくらい向こうだったけど5秒くらい目が合っちゃた
錯覚だとは思えない
そのほかにも見たことあるし
818抄録 ◆xOLbFG9QNU :2010/11/28(日) 03:46:58 P
>>813>Trauerodeさん

>「意識」という一般概念によって<←?>を理解しているという側面もあります。
>人は教育を受けながら育つ過程で、<←?>が「意識」と言われるものであることを理解>する(させられる)ようになります。
>(教育とはそういうものでしょうね。)

そこに教育がどれほどの効力があるのか、私には計れませんが、
(私としては、それは他者との関わりのなかで「習得」されるのだと思いますが、まあどっちでもいいですw)
我々は<←?>が意識といわれるものであることを普遍的に理解可能である、ということでいいのですかね。

>例えば僕が今何かを「見ている」という事態は、それを<この意識>と言ってもいいし、><この感覚>と言ってもいいし、
>あるいは<この思惟>と言えなくもないし、<この意思>と言っても間違いではない。

ええ、ええ

>しかしそれを「意識」「感覚」「思惟」「意思」とする場合では、それぞれニュアンスが>大きく違ってきます。
>僕が今何かを「見ている」という事態を、「意識」「感覚」「思惟」「意思」という一般概念で説明し、
>それを理解することはできるのだけれども、どの概念を使ったとしても、「見ている」という事態は、それそのものではない。
>(だから、そういう一般概念を使うよりは多少はましかと思い、僕は<←?>としたわけですが)

<この意識>の一般化され得るように思われる最大公倍数的な意味を「意識」とし、
<この意識>の「一般化され得ない」部分ついては「意識」としたくはない、
ということでしょうか。

もしそのような意味なら、もちろんそうでしょう。
しかしそれは普通の「特殊からの一般性の抽出」の作業と同じですよね。
819抄録 ◆xOLbFG9QNU :2010/11/28(日) 04:15:02 P
>(>「H2O」という式で、どのリアルで個的な水についても説明でき、
>その説明は妥当性を>持つのだけれども、「リアルで個的な水」=「H2O」ではない。)

Trauerodeさんの言う<←?>の特徴的内容とは、どうやらその個物性にあるようですね。
永井の言う<ぼく>とか、最高位氏の言う「この私」についての私の理解は、そんな個物性の話とは違ってます。
それは「正にこの肉体であっても、そこに私が生まれなくてもよかった感」であり、
私の出現は神による奇蹟の創出である・・・と言いたいのだと理解しています。
私としては、これを「水の個物性と普遍性」などの合理的に理解できる話に還元できないのです。

永井を引き合いにされたので少し混乱しましたが、しかしだいたい分かりました。
私が>>580で言いたかったことはですね、
凡そ意識と呼べるものは、「この意識」しか無いのではないですか、ということです。
最高位氏と唯意味論さんとの対話の文脈の中で、「意識の帰属」についての問題があり、
「誰の意識か」が問題は、「誰の私か」と同レベルの問題である、ということを言いたい訳です。
りんごとかなら、私にも貴方にも共通に、このりんごもあのりんごもあるわけです。
しかし意識とか感覚は、それぞれ「この意識」「この感覚」しか無いでしょう。
なのでその帰属性の問題に於いて、「意識」「感覚」はりんごとは違うレベルで特別でしょう、
ということなのです。

しかしTrauerodeさんは意識とりんごを同じレベルで語ろうとしておられるようにも見える。
(※奇しくも私が一般化を拡張的に使用する意図は<私>の平凡化にあるわけですがw)
820抄録 ◆xOLbFG9QNU :2010/11/28(日) 04:17:17 P
>>814
私としては、その「基点」とやらを
“理解可能な”物理現象により作り出せる可能性を探りたい訳です。
821考える名無しさん:2010/11/28(日) 04:21:49 0
理解可能ということは、自分の中でコントロールできる程度の情報として
処理したいということなんですか。
822抄録 ◆xOLbFG9QNU :2010/11/28(日) 04:24:03 P
>>808>唯意味論さん

私としては、意識に先立つものとして、それは皆さんの言われるところの
「超越論的w」に、「動的」であり、また「秩序」が要請されるだろう、
と考えて「動的秩序」とか言い立てたのですが、なんともぬるすぎて・・・
ほとんど思想と変わらん話で、撤回させてもらいます。
もっとこう、「この世」との繋がりが強固な語りを考えたいw
823抄録 ◆xOLbFG9QNU :2010/11/28(日) 04:27:22 P
>>821
コントロールのよく分からんですが、

物理対象と数理により扱えるシロモノにできる方法論はないものかな、
と夢想しているわけです。
824抄録 ◆xOLbFG9QNU :2010/11/28(日) 04:29:04 P
>機械さん

ゲームばかりすると情報空間に呑み込まれますよ。
自慢じゃないが、あたくしはゲームなんぞ全くしませんな。
買う金も無いしw
825抄録 ◆xOLbFG9QNU :2010/11/28(日) 09:51:53 P
>>818
×最大公倍数→○最大公約数ですね、はは。。
826唯意味論:2010/11/28(日) 12:29:12 0
>>822
動的秩序を「あらわれ」といいましたが、訂正します。
様々な“あらわれ”を抽象化した概念です。
「混沌の連続」も「いまだ意味づけされない生」も同工異曲。
それらは主観が付与した(あらわれの抽象化)“意味”であり、
それが共有されれば“共同性”をうみだす(らしい)。
(もしかすれば永久に私たちは共同主観しか持ちえないのかもしれぬ)
>>820
以前、最高位陣営に属していた頃w、その“起点”“基点”なる概念を
振り回して唯物主義一派に対抗したものだが、この“点”なる概念は
ヒトによる“発明品”のなかでは最高ランクに属するでしょう。
存在(時空)の果てにそれを立てるか、“私”にそれを置くか。どちらも
意識現象(心的営為)である。この“点”や“線”のような表徴不能の概念を
つくりだす“こころ”と、抄録氏のいう確たる「客観(物質)世界」とを、
どう対応づけるか。抄録氏の前途は多難である。w
827唯意味論:2010/11/28(日) 13:30:42 0
>>819
《私》と『神』の出現は、たしかに奇跡的だが、それらは「心的出来事」で
ある、という点に共通性がある。つまり、ここでも“意識”が先行する。
私や神の“意味”は意識の累積による後づけである。たぶん意識においては、
《私》は『神』に先立っているのではないか。

意識は「この意識」しかない、というのは現前についてはそういえる。
それは現前の対象がそれ(一回性)しかない、ということの証しである。

『水』や『リンゴ』『月』に一般性や普遍性があるのは、それらを抽象・
概念化する“意識”の働きによる。このリンゴとあのリンゴに、昨日の月
と今日の月に、共通性を付与するのは“概念”である。

したがって抄録氏が「意識的開闢は、存在の創世の一齣にすぎぬ」ことを
論証しなければ、この唯心論的二元論は解消されない。w
828考える名無しさん:2010/11/28(日) 14:02:48 0
a
829154人目のヒト:2010/11/28(日) 14:07:02 O
今日は〜
>>817 こわっ!怖っ!目が合ったとか…向こうも驚いたかもしれませんね、
「こいつ見えるのかっ!?」
見えるのが向こうの人達にはわかるから現れてる可能性もあるか…
830唯意味論:2010/11/28(日) 23:17:10 0
>>817>>829
その幽霊なるものは、どのように「ある」のですか。
眼前に一本の木がある。そのように「ありありとある」のですか。
錯覚や妄想ではない、と確信される理由は何ですか。
よければ、教えてください。

貴方たちを含む少数の人たちにしかみえない理由は何だと考えますか。
あるいは、なぜ貴たちにはみえるのでしょうか。
831154人目のヒト:2010/11/29(月) 00:19:21 O
>>830 俺はありありと見えましたね…めちゃめちゃリアルでした。影そのものでしたインパクトあり過ぎました。
今は見えませんけどね。
理由…さぁ?わかったらあれこれ考えなくて良いから苦労しませんよ。そこで見る必要・意味があったのかも知れませんねぇ。
832Trauerode:2010/11/29(月) 00:32:44 0
>>819 :抄録さん
>Trauerodeさんの言う<←?>の特徴的内容とは、どうやらその個物性にあるようですね。

それはちょっと(かなり大きく)違います。
前スレ>885を読んでいただければ分かりますが、<←?>に最も特徴的な内容は、「対象化し得ない」というところにあります。
前スレ>919-920の長文を引用した意図も、読んでいただければ分かるように、「対象化し得ない」ということが、どういうことであるかを説明するためのものでした。

しかし>919-920の文章(や>399の文章)を良く読むと分かると思いますが、そこには、「対象化し得ない」ということと「一般化(概念化)し得ない」という二つのことが絡み合いながら含まれています。
(これは川原氏や永井氏特有の問題ではなく、実存的思想と言われる思想に共通した問題意識であると思われます。)
そして、「対象化し得ない」ということと、「一般化(概念化)し得ない」ということとは、深く関連してはいますが、同じことではありません。

僕は途中までは「対象化し得ない」ということを中心に書いていたのですが、なかなか言わんとすることを理解してもらえないようなので、
このスレの>>398あたりからは、「一般化し得ない」ということについて、「個と普遍」の問題を中心に書いていました。
だから抄録さんとの話は「個と普遍」の問題が中心になっていたのですね。

でも、抄録さんへのレスでも、>>773では次のように書いていますね。
>前スレ>919-920の【「見ている私の目」これはあくまで見るだけであって決して見られ得ないのだ。】
>このスレ>399の【意識は対象化する場所であって、それ自体はどこまでも決して対象化されない。】
>ということが、決定的に重要なことであると思われます。
833Trauerode:2010/11/29(月) 00:34:19 0
>>819 :抄録さん
>最高位氏と唯意味論さんとの対話の文脈の中で、「意識の帰属」についての問題があり、
>「誰の意識か」が問題は、「誰の私か」と同レベルの問題である、ということを言いたい訳です。

これも(同じ問題なのかどうか知りませんが、たぶん関連しているでしょう)僕が書いていた内容でいえば、「対象化し得ない」ということと結びついた問題です。

例えば、>>72で僕は唯意味論さんに次のように質問しています。
【では、「意味づけ」しているのは「誰(何)」なのか?】
そしてこの問いは、そのまま>919-920の文章につながる、と書きました。

つまり(僕の場合は)、【「誰(何)」なのか?】という問いは、「意味」や「意識」に先立つ(抄録さんの言葉ではおそらく「帰属」する)ものがあるということ、
そしてその先立つ(帰属する)ものは、「誰(何)」という形では答えられないもの(つまり<←?>)であることを示唆する問いなのです。
それに答えてしまえば、(>>246で書いたように、)【「誰(何)」なのか?】という問いがずっと続きます。
834抄録 ◆xOLbFG9QNU :2010/11/29(月) 00:58:24 P
>>826>>827
衰えを知らぬ言葉のアクロバット
分かるような分からんような境界を歩く四次元論評。
心底敬服しますw
貴方の提示する問題に、私には何一つ答える術がない。

俺が真面目な奴なら前途多難どころか絶望して死にたくなるところだが
道楽であり、手段が目的なので自由気儘なのであります。

意識は一つ二つとは数えれない。
なのでそれは最初から空間的な存在とは言えないのだが、
無理矢理に空間化(つまり正統な意味での一般化)して基点を想起すると
トラップに嵌る・・・のかもしれんw

*************

お化けの話もありだすな
私はお化けを見てもお化けとは思わない性分。
なので多分、一生お化けを見ることはないw
しかし、特殊な時空間構造は精神と作用し
妖怪が生まれる余地はあるでしょうw

感覚の正当性をどこに求めるればよいのかしら。はっは
835抄録 ◆xOLbFG9QNU :2010/11/29(月) 01:01:12 P
>Trauerodeさん

あとでレスさしてもらうかもしれませんw
836抄録 ◆xOLbFG9QNU :2010/11/29(月) 01:15:24 P
>>832>>833

なるほど 
しかし唯意味論さんに答えて貰った方がよさそうですね。
837考える名無しさん:2010/11/29(月) 04:01:29 0
共産主義者のスレ
838唯意味論:2010/11/29(月) 10:23:19 0
意識の主体(だれが、なにが)は存在しない(のではないか)。
現前は「惰性的に」もしくは「いきなり」やってくる。(乳児は唐突に泣き喚く) 
よく“乳児”の例をあげるのは、それがキリエ氏の“主客未分明”やTrau氏の
“実存”に比較的、合致するからである。

乳児に主体意識はなかろう。しかし(サルトル的なそれではないが)実存している。
たぶんその主語は“感覚”であり、一見、それは身体に帰属しているかにみえる。
が、そう単純ではない。

泣き喚かせているのは、不快感や不全感である。つまり「不幸な意識」が身体を
駆使して“必要性”を訴え、発信させているともいえる。w

この乳児期に(具象的)意味や「空間」「時間」の萌芽があるのは間違いない。
この間、意識は常に“図”であり、また一貫して“地”でもあり続ける。
身体は意識を媒介するけれども、それは“地”ですらない。
(なぜ身体が必要だったのだろうか。幽霊に関心を持つのも、その疑問による)

《私》と意味の意味(概念)は同期するのではないか。つまり言語も。




839考える名無しさん:2010/11/29(月) 12:07:27 0
はなしちょっと脱線しますけど

子供の運動会のリレーで、気持ちにからだが追いつかず
コケル親御さんを見ると、意識と身体の乖離を如実に感じますね。
それは走っていた当の者より一瞬早く周りの者が気付き、
走者の「身体惰性運動ではなく気持ちに同期」して、走者を観ていた者に逆説的に、
盲目の手探り的 彷徨える意識態、負の幽霊的な現象を発現開陳させるw

同期観は、当人にとっても(ココロとカラダ)観る側(主客)にとっても
幻想の原因かもしれません。
840:2010/11/29(月) 19:00:54 0
人間の表層意識ではなく、単なる意識(時に無意識などといわれる)というのは、
「誰がこの主体か?」とかいう表層意識が生じる以前の未分の意識であって、
これの所有者を考えたり、どうしてそうなるのか考えること事態が、
表層意識を生じさせることである。
よって、手をつければつけるほど、単なる意識は矮小化されて表層意識に戻され
分割されて消え失せる。
であるからして、この単なる誰のものでもない意識を究明したければ、
哲学的学術的記述および思考と体系化、哲学化を拒絶するしかない。
それが「言語を超えた世界への突入」だ。
哲学や思想で伝えたいなら、伝えたいそいつが落第する。そういうものだ。
「わかったつもりになったら元の木阿弥」だ。表層意識に還元しただけで報告して満足。
希少だが、学問では無理だとわかったなら、表層意識に還元して学問的記述・反論などせずに、
果ての果ての底まで潜ってみようじゃないか。反対派など放っておけ。
死ぬまで探索してみよう。でなければ、哲学者ではない。
ちょっと深く潜ったらすぐ水面に上がって来て「わかったよ!」と海面で御託を並べる。
哲学者は水面に上がって来てはならない。報告合戦をしてるんじゃないんだから。
死ぬまで探求的に深く深く分け入るものだよ。
841抄録 ◆xOLbFG9QNU :2010/11/30(火) 00:28:27 P
>Trauerodeさん

・対象化し得ない<←?>とはなんぞ。

私は以前、眼球から脳に送られる信号が、脳に於いて何らかの状態を結ぶとするなら
その状態を見ているのはいったい何なんだ?と悩んだことがありました。
これでは結局、脳内に小人を住まわせることになってしまう。これじゃいかん。

あるとき私は、脳を中心とする生命システム及び環境とが
対象感覚と主体感覚を「セットで作り出している」のだ、と思いつき
今はそれで納得しています。

簡単のために、網膜が脳そのものだとしますと(無理矢理すぎるがw)。
網膜に結ばれる像は、網膜により対象化され、視覚となります。
このときに<←?>の感覚も同時に成立する、とするわけです。
(唯物論的には<←?>は網膜自身の生存感覚として理解され得るかもしれません。)
しかし網膜はそれ自体、分裂しているわけではなく、
意識と<←?>との分裂は、成立する観念にすぎない、とも考え得る訳です。
842唯意味論:2010/11/30(火) 11:11:01 0
>>841
本日は、いまいちですね。w

網膜(脳)に像が結ばれる。ここまではわかります。(本当の意味はわからないが)
それをまた網膜(脳)が対象化する。
なぜ、物体である脳が自己言及する必要があるのですか?

生存感覚やそこから生じる観念は脳が生みだすわけですか。
感覚や観念(意識)もまた物質ですか。

843154人目のヒト:2010/11/30(火) 15:03:49 O
>>840 賛同します。
はぁ、体験や思考を直接共有出来る様にならないかなぁ…
それは個を消失する事だと言われそうですが。
一方で、表現するという事が私達にとって絶対必要だからこういう意思表示の仕方なのだとも思いますが。
844考える名無しさん:2010/11/30(火) 15:35:41 0
境界性ユリイカ症候群
845Trauerode
>>841 :抄録さん
「対象感覚」と「主体感覚」という区別が、それぞれどういうことを指しているのか、よくわかりません…
それは、先の二つの引用文と内容的につながっていますか? ずれている感じがしますが。
【「見ている私の目」これはあくまで見るだけであって決して見られ得ないのだ。】(>919-920)
【意識は対象化する場所であって、それ自体はどこまでも決して対象化されない。】(>399)

抄録さんの視覚の例でいえば、視覚そのもの(<見えている>ということ)が<←?>だと思います。
そしてその時に「見られたもの」が「対象化されたもの」です。
また、<←?>が<思う>であるとすれば、「思われたもの」が「対象化されたもの」です。

<←?>は対象化され得ないということは、言い換えれば、自分自身を対象化することはできないということです。
何かを対象化するためには、その何かに「対して」いなければならないので、ある意味で、その何かの「外」から見なければなりません。
だから(自分が自分自身の外に立つことはできないので)、自分自身を対象化することはできません。
上の二つの引用文は、だいたいそのような意味です。

それにもかかわらず、そのできないはずのことをしているのが「自己意識」(つまり自己が自己を対象化して見るということ)です。
だから「自己意識」には、パラドクシカルなものがつきまといます。