1 :
考える名無しさん :
2010/10/01(金) 21:51:05 0 毎月1冊哲学の本を読んで、あれこれ考えるスレです。
僕は、哲学を専門に学んだわけではありませんが、
一緒に考えながら読んでもらえればいいな、と思います。
もちろん、詳しい方が教えてくださるのは大歓迎です。
>>2 に読む予定の本を書いておきます。
1,000円以下を目安に、読みやすい本で時代ごとのバランスを考えたつもりです。
読む予定の本
2010.10 プラトン『クリトン』
ソークラテースの弁明・クリトーン・パイドーン (新潮文庫) ¥ 460
ソクラテスの弁明・クリトン (岩波文庫) ¥ 504
ソクラテスの弁明・クリトン (講談社学術文庫) ¥ 924
2010.11 デカルト『方法序説』
方法序説 (岩波文庫) ¥ 483
方法序説 (ちくま学芸文庫)¥ 945
2010.12 カント『プロレゴメナ』
プロレゴメナ (岩波文庫)¥ 882
2011.01 キェルケゴール『死に至る病』
死に至る病 (岩波文庫) ¥ 819
2011.02 ニーチェ『道徳の系譜』
道徳の系譜 (岩波文庫) ¥ 693
道徳の系譜学 (光文社古典新訳文庫) ¥ 780
2011.03 ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』
論理哲学論考 (岩波文庫)¥ 756
論理哲学論考 (ちくま学芸文庫)¥ 882
2 :
1 :2010/10/01(金) 21:52:23 0
2010年10月の本 プラトン『クリトン』 【人物】 ソクラテス(紀元前469年頃 - 紀元前399年4月27日) 父は石工のソプロニスコス、母は助産婦のファイナレテ。ギリシアのアテナイに生まれる。 ペロポネソス戦争では重装歩兵として従軍した。 デルポイの神に「わたしよりも誰か知恵のある者がいるか」と尋ねたところ、 その巫女から「より知恵のある者は誰もいない」という答えを受けて、 自分よりも知恵のあると思われる人を訪ねていく。 しかし、その人たちは「知らないのに何か知っているように思っているが、 わたしは、知らないから、そのとおりに、また知らないと思っている」ようになった。 「そして知恵があるとは思えない場合には、神の手助けをして、知者ではないぞということを、 明らかにしてい」た。そうしていたところ、「青年に対して有害な破滅的影響を与え、 国家の認める神々を認めずに、別の新しい鬼神の類いを祭る」として裁判をおこされ、 死刑となる。 【内容】 死刑となったソクラテスに対して、看守を買収して訪れた親友クリトンが 以下のように話して脱獄を勧める。 クリトンを始め友人が助けようとしなかったと言われる。 不当な判決を受け入れなくてもよいのではないか。 援助する人のお金の心配はしなくてもよい。 助かれるのに自分を見捨てているのではないか。 ソクラテスには幼子もいるではないか。 しかし、ソクラテスは「人間にとって最大の価値をもつものは、徳であり、 なかでも正義であり、合法性であり、国法である」として脱獄をせず、 死刑となることを受け入れる 【感想】 後世につけられた「行動はいかにあるべきかということについて」という副題が、 自分にとって重い意味をもつ。 自分が同様な立場にあったら、ソクラテスと同様にできるか?と思います。 正義、合法性、国法に従うというのは、正しいけれど現実は……。
3 :
1 :2010/10/01(金) 22:35:03 0
>>1 ×
>>2 に読む予定の本を書いておきます。
○ 以下に読む予定の本を書いておきます。
なかなかおもしろそうなスレになりそうですが、
>>2 を読むに、
>>1 氏は、もうクリトンを読んだってこと?
5 :
1 :2010/10/02(土) 20:31:31 0
>>4 はい、
>>1 で読む予定の本に挙げた本は『プロレゴメナ』を除いてすべて読んでいます。
(文庫すべてということではなく、すべてのタイトルのもの、ということですが)
『純粋理性批判』を読んでいますから、その要約版ともいえる『プロレゴメナ』も読んだ、
といえるのかもしれません。
ただ、どの本も読み返すたびに、「うん?これはどういうことだ?」などと考えてしまうことが、
あります。
ですから、文字を目で追ったという意味では読んだのですが、
わかったかと聞かれたら、いやぁ、と頭をかいてしまうレベルです。
それで、そんな自分があれこれ考えることのを書いて、ほかの人からあーでもない、こーでもないと
言ってもらえれば、いいのかなと思った次第です。
今、『クリトン』について書いているのですが、なかなか終わりそうにないので、
明日あたりからぼつぼつと書き込む予定です。
6 :
1 :2010/10/03(日) 10:27:08 0
プラトン『クリトン』bP クリトンが脱獄を勧める場面。 「大多数の人間は、われわれが熱心に望んだにもかかわらず、君のほうが自発的に、 ここから出て行くことを欲しなかったのだと言っても、そんなことは信じないだろう」(44C 注)とクリトン。 「僕たちが気づかわなければならないのは、特にすぐれた人たち」だとソクラテスは返します。 しかし、「大多数の思わくも気にする必要があるのだ。現に今度のこと(ソクラテスの裁判 引用者注)が、 直接にそれ(大多数の思わくも気にする必要があること 引用者注)を明らかにしている」(44D) しかも、大多数の中傷を受け、悪く思われれば最大といえるような災厄をうけることになる、 とクリトンはソクラテスに言います。 すると、ソクラテスの次の言葉で、クリトンは「そういうことにしておいていい」とこの話をひとまず終わらせます。 大衆は「人を賢くすることもできなければ、また愚かにする能力もありはしない。 彼らのすることは、何にしても、その場かぎりのことなのだよ」(44D) その後もクリトンからいろいろと脱獄の勧めがありますが、 ソクラテスは、問答を通して脱獄することは不正をすることであり、 たとえ不正を受けても「仕返しに不正をしかけるとか、害悪を及ぼすとかということは、 世の何びとに対しても行なってはならない」(49C)しかも「こういうのは、ただ少数の人が考えることなのであって、 将来においても、それは少数意見に止まるだろう」(49D) 「だから、ちゃんとこう考えている人と、そうでない人とでは、一緒に共通の考えをきめるということはできないのだ。 おたがいに、相手の考える案を見て、軽蔑し合うにきまっているのだ」(49D)とソクラテスは言うのです。 ソクラテスの大衆への絶望感。 にもかかわらず、神の宣託をうけて広場での大衆を含め、多くの人と対話をしていた。 そこに『ソークラテスの弁明』41Cにでてくるシーシュポス、アルベールカミュ『シーシュポスの神話』のシーシュポスを 見いだし、国法に従った点にではなく、絶望感をもちつつ生きていた姿に 「行動はいかにあるべきか」という問いの答えを見つけた気がするのです。 注 44Cは、ステパヌス版のページ数をしめします。訳は新潮文庫版によります。
7 :
1 :2010/10/03(日) 10:31:21 0
>>7 これすごいねえ 原文の翻訳なの?
あと死に至る病を予定先送りしてやってよ。
9 :
1 :2010/10/04(月) 07:38:43 0
>>8 ええ、本当にすごいですね。ありがたいことだと思います。
『クリトン』はプロジェクトグーテンベルクが原文とありリンクを見ていくと"Crito"ともあるので、
英語からの重訳でしょう。
http://www.gutenberg.org/dirs/etext99/crito10h.htm 『方法序説』は山形浩生さんの訳でタイトルに、"Discourse on the Method of Rightly Conducting the Reason,
and Seeking the Truth in the Sciences"とあるので、これも英語からの重訳でしょう。
http://cruel.org/jindex.html 『論理哲学論考』はタイトルをクリックするとメモが出てきて、「ホーム」のリンク先を見ると
「Ogdenによる英訳および、グーテンブルグ版英訳、そして原文を参考に翻訳した」とあります。
『死に至る病』ですが、今回は時代順にやろうと思っているので、
先にしません。m(._.)m 僕は来年1月にするつもりですので、そのさいはお願いします。
先にやらないと言っておいてこう言うのもなんですが、
もしよろしければ、ユビーさんの『死に至る病』について考えていることを教えてもらえますか。
ユビーさん以外にこの本に興味を持っている人、なにより僕自身、がとても興味があるのですが。
10 :
考える名無しさん :2010/10/04(月) 20:30:35 0
『西洋古典学事典』は必読です。 「『西洋古典学事典』を編んで」という記事を月刊「新潮」10月号で読みました(pp.234〜5)。 見開き2ページの短い文ですが、編者ならではの見識が、よく伺えました。 とくに中程からは痛快至極の傑作な内容。覚えず大笑いしてしまったほどです。 オーラルセックスに関心のある向きには必読のコラムでしょう。 これぞ余人には真似出来ぬウィットとエスプリに富んだ小エッセーですネ。
>>10 > 『西洋古典学事典』は必読です。
>
> 「『西洋古典学事典』を編んで」という記事を月刊「新潮」10月号で読みました(pp.234〜5)。
とりあえず、「新潮」を見てみます。
が、西洋古典学事典 松原 國師 (著) ¥ 29,400。
29,400円かぁ。
10さんは記事ではなく、本自体ではどこらへんがおもしろかったですか?
ソクラテスには おおく大衆からはなれ 自律した精神があって 共感できるところもあるが ソクラテスが国法を重要としていたところは 新鮮に感じた 国法(ノモス)を遵守するということは ソクラテス以前から ギリシア思想の流れとして 続いていたことらしいが ソクラテスが非難したソフィストたちが 自然(ヒュシス)と対比してノモスを相対化しようとしたことを考えると おもしろい  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ∧∧ (,,・−・) (| |) | | し`J
13 :
考える名無しさん :2010/10/05(火) 18:19:51 0
アリストテレス飛ばすな
この手のスレは幾度となく立ったが、途中で必ず挫折していた。 予想以上に時間が取られ、面倒くさくなってもやり続けるんだな。まぁがんばれ。
俺も参加していいか
16 :
1 :2010/10/05(火) 23:21:13 0
>>10 >>10 「新潮」10月号読みました。
コメントは控えさせていただきますね。
17 :
1 :2010/10/05(火) 23:26:45 0
>>12 法と自然の対立、というと『ゴルギアス』のカルリクレス(「ル」は小文字)のことを思い出します。
カルリクレスは次のように言います。
「自然の本来(ピュシス 引用者注)においては、より醜いのは、すべてまた害悪となるもののほうがそうなのであるが
つまり、不正を受けることのほうがそうなのだが、しかし、法律習慣(ノモス 引用者注)の上では、反対に、
不正を行なう方がより醜いからである。なぜなら、不正を受けるなどという、
そういう憂き目は、男子たるものの受けることではさらになくて、むしろ、生きているよりは死んだ方がましな、
何か奴隷といったような者の受けるべきことだからだ」
「法律の制定者というのは、そういう力の弱い者たち、すなわち、世の大多数を占める人間どもなのである」(ゴルギアス483A・B)
同じ事を言っていて、もう少しわかりやすいところを引用しますね。
「カルリクレスは、当時流行していた「自然(ピュシス)」と「法律習慣(ノモス)」とを対立させる理論を援用しながら
「力こそ正義である」こと、つまり弱肉強食、優勝劣敗の原則は人間世界においても真理であることを述べて、
「自然の正義」論を展開するのであるが、さらにソクラテスの称える正義や節制の徳についても、これをいわゆる
「奴隷の道徳」として軽蔑するのである」(『ゴルギアス』岩波文庫P316)
ソフィストの言うことも、変わらぬ自然とアテナイのコロコロ変わる政治情勢から説得力を持っていたのでしょう。
ソフィスト的には、というよりはクリトンの発言を考えてみると当時のギリシアでは、
不正を受けることは不正を行なうよりも悪いことと考えていたのでしょうねぇ。
で、話を戻して
>>ソクラテスが非難したソフィストたちが
>>自然(ヒュシス)と対比してノモスを相対化しようとしたことを考えるとおもしろい
えぇ、とてもおもしろいですね。
ソフィストがノモスを相対化したのはなぜだろうか?
そして、それは現代でも素朴な相対主義に見られる気がするのだけれど、論理的に成り立つのだろうか?
ノモスの相対化がその後、どういう経過を経たのだろう?
考えると、現代に通じることが多くありそうです。
>>12 さんはどうおもしろいと思いましたか?
18 :
1 :2010/10/05(火) 23:31:04 0
>>13 いや、まったくその通り、なんですが、いくつか教えてください。
1 1000円以下で読めるアリストテレスの本は『心とは何か』と『詩学』くらいです。
その哲学史的な意義を考えると、取り上げるならば『形而上学』か『ニコマコス倫理学』だろう
と私は思ったのですが、どの本をすればいいと思いますか?
本を実際に読んでもらって一緒に考えてもらえればなぁと思ったので安い本を、
通勤電車でも読めるように文庫本を、と思っています。
僕自身、アリストテレスははずせないと思っていた(半年でギリシア哲学2人はバランスが悪くなるけれど)ので、
いい本があれば教えてください。
2 以下に当初計画でボツにした案(今回のプランに入れたものを削除した後の案)を書いておきます。
僕は意思が弱いから1年は長いので、半年にしました。
3 もしよろしければ、アリストテレスのスレを立ててもらえれば参加(といっても『心とは何か』、『形而上学』、
『ニコマコス倫理学』を読んだことしかありませんから、本当に微力ですが)しますよ。
2010.11 アリストテレス『形而上学』
形而上学〈上〉 (岩波文庫) ¥ 945 形而上学(下)(岩波文庫)¥ 945
2010.12 アウグスティヌス『告白』
告白(上)(岩波文庫)¥ 798 告白(下) (岩波文庫) ¥ 819
2011.03 ヘーゲル『精神現象学』
精神現象学 (上) (平凡社ライブラリー ¥ 1,596 精神現象学〈下〉(平凡社ライブラリー)¥ 1,596
2011.06 フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』
ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学 (中公文庫)¥ 1,250
2011.07 ハイデッガー『存在と時間』
存在と時間〈上〉 (ちくま学芸文庫)¥ 1,260 存在と時間〈下〉 (ちくま学芸文庫)¥ 1,260
存在と時間〈1〉 (中公クラシックス)¥ 1,680 存在と時間〈2〉 (中公クラシックス)¥ 1,628 存在と時間〈3〉 (中公クラシックス)¥ 1,680
存在と時間 上 (岩波文庫)¥ 735 存在と時間 中 (岩波文庫)¥ 840 存在と時間 下 (岩波文庫)¥ 903
2011.09 ジル・ドゥルーズ『差異と反復』
差異と反復〈上〉(河出文庫)¥ 1,365 差異と反復〈下〉(河出文庫)¥ 1,365
19 :
1 :2010/10/05(火) 23:32:23 0
>>14 応援ありがとう。本当にそうですね。
面倒くさくなってやめることは確かにありそうです。(゜゜;)\(--;)オイオイ、ナニイッテンダヨ
でも、挫折してもそこまでは得るものがあっただろうと、思うようにしています。
そう考えないと何事も始められないし、力が入っていると疲れますし。
14さんも読んでくださったのだし、それだけでもよかったと考えています。
ところで、14さんはどんなことに関心がありますか?
20 :
1 :2010/10/05(火) 23:33:33 0
>>15 >>俺も参加していいか
どうぞ、どうぞ。参加できないのは参加する気のない人だけです。
ちなみに、どんなことに関心がありますか?
実存系と言語・論理学系に興味がある 俺も予定書くか 全くPC開かない日とか結構あるからあんまりレスできないと思う 2010 10 プラトン「法律」「饗宴」 2010 11 アリストテレス「形而上学」デカルト「方法序説」「哲学原理」 2010 12 カント「純粋理性批判」 2011 01 ヘーゲル「精神減少学」フッサール「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」 2011 02 ハイデガー「存在と時間」飯田隆「言語哲学大全1、2」 2012 03 飯田隆「言語哲学大全3、4」ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」 毎日少しずつ、野矢茂樹「論理学」をノートを取りながら読もうと思ってる
俺も参加してみよかな・・・
面白そうなスレだね。 おれも、参加させてもらおうかな・・・
24 :
1 :2010/10/06(水) 07:38:39 0
>>21 > 俺も予定書くか 全くPC開かない日とか結構あるからあんまりレスできないと思う
21さんが予定の本を読んで、どんなふうに考えるのか、とても楽しみです。
レスは少なくて全然かまいませんよ、その分、本を読むのもいいと思うし、友達と遊ぶのもいいし。
けれども、わからないところがでてきたり、考えたことを話してみたくなったら、
書き込んでみてください。
僕が答えられる、なんていえませんが、一緒に考えるくらいはできますから。
25 :
1 :2010/10/06(水) 07:53:20 0
>>22 >>23 どうぞどうぞ。
>>20 でも書いたけれど
参加できないのは参加する気のない人だけです。
やろうかな、と思ったら、やってみましょう。
本を読んで話をするのは楽しいから多く参加してくれた方がいいし、、
22さんや23さんがどんなことを考えているかのを僕は知りたいし。
>>23 さんは、現象学を以前なさっていたのですか?
読んでよかった本を教えてもらえるとうれしいです。
1さん、このスレはにちゃん上の読書会のようなものと理解してよいのですよね。 ぼくは本当に「なんちゃって」です。学生時代のゼミのサブゼミではメルロー・ポンティの「知覚の現象学」を読んでました。 哲学科に籍を置きながら資格取得の勉強などしてましたから、大して読んでないです。 ここに列挙されているのを読んで言って各自で意見を言ったり、疑問を投げかけたりと議論して行くとそんなスレでいんでしょうか?
27 :
考える名無しさん :2010/10/06(水) 18:28:04 0
『西洋古典学事典』を未だにお買い求めでない方がいらっしゃるのですか? 版元では既に品切れ状態だそうでございましてよ。 失礼ながら、貧乏人には無理な相談でしょうけれど。 では、御免あそばせ。
28 :
昔なんちゃって現象学徒 ◆4Aqt/.pho. :2010/10/07(木) 00:09:48 0
岩波の哲学・思想事典買おうかな。。。
29 :
1 :2010/10/07(木) 01:13:22 0
>>26 >>28 途中まで書いていて寝てしまってました。
昔なんちゃって現象学徒さんは哲学科ですか。
経済学科だった僕からみると、うらやましいです。
「知覚の現象学」は、みすず書房の表紙の記憶くらいしか覚えてません。orz
>>1 さん、このスレはにちゃん上の読書会のようなものと理解してよいのですよね。
>>ここに列挙されているのを読んで言って各自で意見を言ったり、
>>疑問を投げかけたりと議論して行くとそんなスレでいんでしょうか?
はい。そう理解ください。
僕は毎月始めに予定の本について
>>2 のようなものを書くつもりです。
あと、毎月いくつか
>>6 のような思ったことを書きたいと思ってます。
「岩波哲学・思想事典」は図書館で何回か利用しましたが、確かにわかりやすかったです。
哲学に関する標準的な事典といっていいのかな?
30 :
昔なんちゃって現象学徒 ◆4Aqt/.pho. :2010/10/08(金) 22:25:45 0
>>29 そうです。私は哲学科を卒業したんですけれども「何ちゃって」です。本当に。
今日出かけたのですけれどもプラトンの「クリトン」購入し忘れた。
岩波の哲学辞典は哲学をする上で必須と言っていいかもしれません。
岩波のが出版される前は平凡社に哲学辞典がありました。
岩波ならフランスにげんていされますが「フランス哲学・思想辞典」というのもあったように記憶しています。
ちなみに弘文堂には、それぞれの分野や哲学者の専門の辞典があります。
こちらも値段が張って一万円以上しますが、呼んでいるだけで楽しい辞書です。
31 :
1 :2010/10/09(土) 07:29:52 0
>>30 >>30 僕はまだ『プロレゴメナ』を買っていないので、
買いに行くついでに紹介してもらった本を見てきます。
辞書・辞典って読んでいて、おもしろいですよね。
調べている言葉と全然関係ないのに、前後の項目を読んだりして。
今日は天気がよければ神保町にでも、と思っていましたが、
東京はあいにくの天気なので、近くのジュンク堂かな。
まぁ、読書日和、と考えますか。
32 :
1 :2010/10/09(土) 08:48:00 0
プラトン『クリトン』2
ソクラテスにとっては、クリトンは知的後継者ともいえるプラトンとは異なる意味で、
大切な人だったのだなぁ、と思います。
クリトンは『ソクラテスの弁明』、『パイドン』、『エウテュデモス』でも登場し、
それぞれ大切な役回りを演じています。ソクラテスの口と目を閉じるのもクリトンです。
『クリトン』では、名前が題名になっているくらいですから、助演男優といったところですね。
クリトンが脱獄を勧める場面のうち、
>>6 で引用した場面。
クリトンがせっかく脱獄させようと思って看守を買収して来たのに、ソクラテスはいつものように泰然としているから、
うらやましくもあり、少しあきれつつもあり話している光景が、僕には浮かんでくるのです。
そして、「何言っているんだよ、ソクラテス」と言いたいのをこらえつつ、話につきあわないとソクラテスは動かないことは
わかっていて、会う前から考えていた脱獄する理由を話し始めたのに、最初から切り返されてちょっとイラッとしながら
話すクリトン。
この次に、ソクラテスがお金の心配をしてそういっているのではないかと、さらに尋ねている場面(44D〜45A)。
ソクラテスが「君の言うような心配も、考えてはいるがね。しかし、クリトーン、ほかにも、
いろいろ気がかりの点があるのだよ」というと、うん、うん思ったとおりだと心の中でうなづいている。
「それなら、いまのことは、心配しないでくれたまえ」と、この作品中でクリトンは一番長く話します。
きっと一晩中、ソクラテスにこう言われたらああ言おうといろいろ考えていたんだろうなぁ。
夜明け少し前に来たのも、人に見つけられないということが一番の理由だったのだろうけれど、
もう家でおちおち寝ていられなかったのだろうなぁ、と想像すると、いい人だなぁ、クリトン。
プラトンの文章のうまさ、といえばそれまでかもしれないし、どれほど忠実に史実を描いているかは別として、
哲学を扱った文学作品、ドラマと考えて、各人の心中を考えながら『クリトン』を読むとおもしろいなぁ。
ソクラテスの言うことを、そうだよなぁ、と感じるのには、適切な、それは僕がその場に居合わせたたら
言っていただろう事を代弁してくれる、クリトンのような人が大切なのだろうなぁと感じさせられます。
33 :
昔なんちゃって現象学徒 ◆4Aqt/.pho. :2010/10/09(土) 09:19:17 0
「プロレゴメナ」積読になってる。掃除して探さないと・・・
34 :
1 :2010/10/09(土) 10:04:00 0
『エウテュデモス』の注
『ソクラテスの弁明』や『パイドン』はいまさらですが、日本語版wikiには記事がないので、少し補足。
なお、英語版のwikiには記事があります。
http://en.wikipedia.org/wiki/Euthydemus_ (dialogue)
日本語のブログ記事としてはプラトン「エウテュデモス 争論家」
http://plaza.rakuten.co.jp/sebook/diary/200705150000/ が参考になりました。
【副題】
争論家
【執筆時期】
『メノン』などと同時期の前中期の作と言われている。
【登場人物】
ソクラテス、クリトン、エウテュデモス、ディオニュソドロス、クレイニアス、クテシュポス
【内容】
ソクラテスと会ったクリトンが先日の人だかりで何があったか尋ねるところから話が始まります。
そこではソフィストとの問答があったというソクラテスの話が、この話の主題になります。
エウテュデモスとディオニュソドロスの兄弟(以下、兄弟)がソフィストとして美少年クレイニアスを相手に問答をして、
詭弁で困らせ、弟子たちに喝采を浴びる。
クレイニアスはソクラテスと徳や知識について問答をし、再度兄弟と問答をしますが、相変わらず詭弁を展開される。
それにクテシュポスが怒って、ソクラテス・クレイニアス・クテシュポスと兄弟が問答をすることになりますが、
あいかわらず詭弁を続ける兄弟に、ソクラテスたちは表面上敗れたようにしつつも、おかしな結論になることを示します。
けれども、兄弟や弟子たちはそれに気づかず問答に勝ったことと思って喜んでいる。
最後に場面が変わってソクラテスとクリトンの話となり、クリトンが自分の子どもの教育をどうすればいいのか心配するのに対し、
クリトン親子で一緒に僕のところにくればいいよ、とソクラテスが言う場面で終わります。
ソフィストを戯画化して描き、喜劇的に描いた、とプラトン全集の解説にありますが、
場面の切り替えや登場人物の描き分けがわかりにくく、今ひとつな印象でした。
同じようなソフィストの話としては『ゴルギアス』のほうがおもしろいかな。
35 :
1 :2010/10/09(土) 10:24:30 0
>>33 うちも積読があるけど、いいんだ、絶版になる前に買っておいたんだ、と自分を納得させてる。
絶版になるわけないだろ、とか、他の本を買う前に読めよ、自分、とは考えないようにして(。_゜☆\ バキ
岩波書店の「ソクラテスの弁明・クリトン」購入してきました。ついでに「メノン」も。 いやいや、結構色んな分野の本が絶版になってますよ。日本の出版業界は悲惨だから。
37 :
げおるぐ :2010/10/09(土) 23:00:46 0
必要最低限の、必須のものだけ読む。それでも時間がいくらあっても足りない。 夜か週末時間みつけて、ノートとりながらやるしかない。 哲学専攻ではなく理系だったので独学我流になるが。 どうしても哲学を捨てられない。 [読書目録] 読了のものとこれからの予定 プラトン「ソクラテスの弁明・クリトン」読了、「国家」 アリストテレス「形而上学」 新約聖書 読中 デカルト「方法序説」読了 カント「純粋理性批判」読中、「実践理性批判」 ロック「市民政府二論」 ルソー「社会契約論」読中、 加えて現代の憲法論、政治学の勉強 ミル「自由論」 ヘーゲル「精神現象学」読了(しかし消化不良。) 、「(小)論理学」読了、「歴史哲学講義」。長谷川訳で フッサール「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」 ハイデガー「存在と時間」 ニーチェ「善悪の彼岸」 フロイト「精神分析入門」挫折 マルクス「資本論」 その他、近代経済学の勉強 ウェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」読了 ソシュール「一般言語学講義」 フーコー「言葉と物」読了(これも消化度20%くらいか?) デリダ、ドゥルーズもとりあえず上記のもののあとに読んでおきたい。 哲学に興味もちだしたのはウィルバーの「進化の構造」と「統合心理学への道」を読んでからです。 やってた科学の研究にたいしても、社会にたいしても、人生についても、 何もわからず漠然とした不満と不安を抱いていたときに、ひとすじの羅針盤を示してくれた本です。 みなさん、いっしょにたのしく語り合える良スレにしていきませんか? わたしのまわりには哲学に理解や関心のあるひとがおらず、孤独です。
38 :
昔なんちゃって現象学徒 ◆4Aqt/.pho. :2010/10/09(土) 23:16:18 0
>>37 げおるぐさん、始めましてこんばんは。
げおるぐさんは理系ですか?ぼくは元々科学哲学がやりたかった元哲学科生です。
「進化の構造」とか「統合心理学へ道」なんて題名だけで面白そうですね。
もしかすると良スレになるかもしれませんね。
39 :
げおるぐ :2010/10/09(土) 23:32:48 0
好意的な返信、ありがとうございます。 やたら長いうえに、文脈に沿ってなかったので、スルーされるかと思ってました。 ぼくは、むかし神経科学をやっておりまして、それで認識論にも自然に興味をもつようになりました。 現象学でしたら、話があうかもですね(フッサールはまだよめてませんが)。 考える名無しさんのあげているものとぼくの読みたいものがかぶってたので参加してみました。
40 :
昔なんちゃって現象学徒 ◆4Aqt/.pho. :2010/10/10(日) 00:26:17 0
>>39 とんでもないです。
神経科学って面白そうというかすごくホットなトピックですよね。
私は反対に認識論や、間主観性の問題から神経科学や脳科学に興味があります。
ここで読書会は難しいかもしれませんが、こんな本読んで「こんな風に感じた」「こんな風に理解した」
みたいな話が出来たらいいですね。
41 :
げおるぐ :2010/10/10(日) 01:12:01 0
そうですね。 強制力がないと、読書会といっても散漫になってつづかないでしょうね。 自由きままに、いろんな哲学の本についてカントでもなんでもおもったこと書いていくほうがスレも伸びるんじゃないでしょうか。
良レスになれば、スカイプとかそんな方向への発展があってもいいと思いますし。
43 :
1 :2010/10/10(日) 08:14:49 0
>>37 げおるぐさん
書き込みありがとう。
哲学者には元理系の人が結構いますし、僕にとって数学はまだしも物理、化学は( ゚ρ゚ )だったので、
理系の人は尊敬します。
それと、
>>41 については、うーん、難しい問題だなぁ。
自由にいろんな哲学の本を話すというのも、スレの進め方としてあると思います。
けれども、10月1日にスレを立てて、まだ10日しかたっておらず、
6ヶ月の予定からみると1割も進んでいません。
とりあえず12月の「プロレゴメナ」が終わる頃のスレの様子をみて考えてみましょうか。
さっそくですが、「ソクラテスの弁明・クリトン」を読んだということで、質問。
読んでいかがでしたか?げおるぐさんはソクラテスの話に納得しましたか?
>>42 昔なんちゃって現象学徒 さん
良スレになればいいなぁ。
そうなったら自然と、伸びていくべき方向へ伸びていくのでしょうね。
>>43 そうですね。勉強会・読書会の一方でこのスレの方向性なんかもすこしずつ話し合えたらいいですね。
45 :
げおるぐ :2010/10/10(日) 13:38:24 0
>>43 そうですね。夜中にたまたまこのスレみつけててんぱって勝手にさきばしってたかも。
とりあえず予定にそって、がいいですよね。
しろうとだし、生活によゆうもないもんだからあまり貢献できるかわかんないですが。
「ソクラテスの弁明」については、細かい議論のなかみはだいぶまえに一回よんだきりでわすれてしまってるけど、おおざっぱな第一印象は
・ソクラテスとイエスは、共通点が多いと思った。
・時代背景が多分にあるだろうけど、ソクラテスは自己の正当化にデルフォイの神託があったとかダイモンの声をきいたとかいう神秘的な説明を
利用しているが、これは当人と彼の弟子にしか通用しないのは無理もないだろう。これはイエスにもいえると思う。しかしそもそも告発理由から
して国家の神にそむいたなどと漠然としているのでそういう反論しかありえなかったのかも。
・ほかにも、共同体の共通善と思惟上のイデアとしての善の関係について、ソクラテスはこれを同一視していたんじゃないかと、気になってよん
でた記憶があります。
46 :
げおるぐ :2010/10/10(日) 17:12:56 0
彼が共同体の共通善と思惟上のイデアとしての善の同一視していたとすれば、問題はほとんどそこから出てきているのではないかと思った。 民衆は彼との対話における結論に論理的には同意せざるをえなかった。しかしながら権力と民衆はそれをうけいれられずかれを裁いた。 共同体の精神が未発達すぎたため、彼が民衆を啓蒙し、それをイデアとしての善にちかづけようとしたが、時代がはやすぎたとみるか。 そもそも共同体の共通善と思惟上のイデアとしての善はまったく別もので、いつの時代もだれも倫理的真理自体など必要としてはいないのか。 我流なので論点がずれてるかも?
47 :
1 :2010/10/10(日) 21:26:05 0
>>44 >>45 自分の話したいことだけを話すためにスレを立ててしまったのかなぁ、
と自分でも思っていたので、むしろ進め方についてお二人の話を聴けてよかったです。
>>45 >>しろうとだし、生活によゆうもないもんだからあまり貢献できるかわかんないですが。
[読書目録]を書いてもらっただけでも、十分貢献いただいていると思いますよ。
そして、ROMしている人にとっては、と仕事や学業などで忙しいであろう中で、21さん、
昔なんちゃって現象学徒 さん、げおるぐさんのように、哲学の本をこれまで読んでいたり、
これから読もうと思っている人がいるということがわかるだけでも、自分も本を読んでみようかな、
という気持ちになるだろうし。
11月に『方法序説』、12月に『純粋理性批判』はやりませんが要約版ともいえる『プロレゴメナ』をする
予定ですから、ちょこちょこスレを覗いてもらえれば、うれしいです。
ソクラテスの下の2つの点について
・『プラトン全集1』(岩波書店)の解説で、田中美知太郎さんはこんなことを書いています
(メモなので正確ではないかもしれませんが、)。
「ソクラテスの弁明は、青年を腐敗させている点については全力を尽くしているが、
国家の認める神々を認めず、別の新しいダイモーン(鬼神)のたぐいを祭る点については、
なんら正面から答えていない」この点、僕も同感です。告発理由は、まぁ、怨恨もあったでしょうから、
それほど重要な話ではなかったのかな。281対220で有罪となったから、説明は当時のアテナイの人には
それなりによかったのかもしれません(日頃の言動も含めての判断でしょうが)。
・なるほど。「共同体の共通善と思惟上のイデアとしての善の関係」という見方は、おもしろいです。
ソクラテスの後どのように変わっていったか、みてみるのもいいですね。
ここまで書いて書き込もうとしたら、
>>46 のレスが……。
ちょっと長くなるので、次のレスに。
48 :
1 :2010/10/10(日) 21:31:19 0
>>47 の続きです。
>>我流なので論点がずれてるかも?
僕自身も同じようなことを考えていたので、ずれていて欲しくないなぁ、と思っています。
>>いつの時代もだれも倫理的真理自体など必要としてはいないのか。
いつの時代も同じなのだ!と考えることを切り上げて行動したい自分がいるのだけれど、
そういう確認作業をとばして自分にとって耳当たりのいい考えにすり寄っていくことが、
なにより倫理的真理を望んではいないことなのだ、と思い返して、
げおるぐさんのように疑問符をつけていくしかないのかな、と僕は感じています。
例えば、ソクラテスは
>>6 で書いたことが妥当ならば、共同体の共通善≠ソクラテスの善とソクラテスはわかっていたと考えます。
キルケゴール『死にいたる病』第2編第2章に、罪のソクラテス的定義という章があって、
「或ることを理解したということからそのことを行為することへの移行」に困難が生じないのがギリシア的、
「それと全然同じことが本来近世哲学全体の秘密である、−−「我思う、故に我在り」、思惟が存在である」
(『死に至る病』岩波文庫P152)というように、理解したらそうするというのがギリシア・近世なのに、
キリスト教会はしていないだろうとキルケゴールが批判する話がでてきます。
このように今回の予定の本を読む中で、哲学者が論理・倫理と行動をどうつなげていったのかを確認していく作業は、
どのレベルでできるかは別として、僕にとってしていきたいことの一つです。
これが終わっても、スピノザとブライエンベルクの往復書簡の整理などいろいろありそうですが。
なお、カントはなぜ『道徳形而上学原論』、『実践理性批判』ではないのか、という疑問があると思います。
これは「実践的な純粋理性が存在する」(『実践理性批判』p13)とある以上、
前提となる純粋理性を理解していないといけないのですが、僕が『純粋理性批判』を理解していないからです。
そして、哲学のテキストとしてはやはり主著は『純粋理性批判』ではあるけれど、
ボリューム、難易度、参考としたシモーヌ・ヴェーユがリセ(フランスの高等中学。
卒業後バカロレア(大学)を受験するので日本でいう高校)の哲学の授業のテキストであることからも
『プロレゴメナ』としました。
49 :
げおるぐ :2010/10/10(日) 21:55:02 0
>>47 >>48 充実したコメントありがとうございます。田中美知太郎さん、キルケゴールからの引用、
参考になります。
>>我流なので論点がずれてるかも?
>>僕自身も同じようなことを考えていたので、ずれていて欲しくないなぁ、と思っています。
ぼくだけのおもいこみでもなかったようで、すこし安心しました。
「哲学者が論理・倫理と行動をどうつなげていったのかを確認していく作業」
いいテーマになると思います。「或ることを理解したということからそのことを行為することへの移行」を意識することは、
すくなくともプラトンから、ヘーゲル、マルクスまでの思想の当然の前提としてあったのかもしれませんね。
ポストモダンでは、一転して理性批判や形而上学批判になっていくみたいですが。
もういちどよく考えてみます。
50 :
げおるぐ :2010/10/10(日) 22:33:02 0
>>「或ることを理解したということからそのことを行為することへの移行」を意識することは、 すくなくともプラトンから、ヘーゲル、マルクスまでの思想の当然の前提としてあったのかもしれませんね ちょっと語弊のあるいいかただったかもしれない。マルクスはおいといても、かれらが「行為」まで主体的にやろうと したわけでもないだろうし。 ただ、理性によってかんがえだした倫理なり政治体が、当然現実社会のあるべき姿に重なるだろう、という前提があったといいたかったんです。 プラトンの哲人政治やら、カントの実践理性による定言命法やら、ヘーゲルの法哲学での言葉「理性的なものは現実的なものである。」やらにみてとれる ような。その始原がこの「ソクラテスの弁明」ではないか? まあ、ゆっくり、そのあたりのことの確認作業もしたいです。
51 :
げおるぐ :2010/10/10(日) 23:09:26 0
>>「共同体の共通善≠ソクラテスの善とソクラテスはわかっていた」 とするならば、 >>理性によってかんがえだした倫理なり政治体が、当然現実社会のあるべき姿に重なるだろう、という前提の始原がこの「ソクラテスの弁明」ではないか? というのは飛躍しすぎだったかも
52 :
1 :2010/10/11(月) 07:56:27 0
>>げおるぐさん 哲人政治については『国家』第6巻484Dから書いてあるわけですが、 プラトンの国家観の一部についての考察で1論文になるくらいですから、 ゆっくり考えていきましょうかね。 少し話を変えてしまいますが、哲人政治について考える前段階として 国家と哲学者の関係というとでてくる言葉について『クリトン』に 戻って考えてみます。 「悪法もまた法なり」といってソクラテスは毒杯をあおいだと言われています。 僕もそう思っていましたが、これは本当なんだろうか? ソクラテスがそんなことを言ったとプラトンは書いてない、と僕は思うのです。 「思う」と書いたのは、プラトン全集をすべて読んでいないからです。 とはいうものの、ソクラテスの裁判から死にいたるまでを描いた『ソクラテスの弁明』、 『クリトン』、『パイドン』、そして哲学者と国家について触れている『国家』にもありません。 加えて『クリトン』の解説でも「ソクラテスが悪法というようなものをはたして考えた かどうかは疑問である」(プラトン全集第1巻P411)とありました。 「悪法もまた法なり」と言ったととられる可能性は擬人化された国法と国家公共体との対話 (50A〜)の箇所です。 しかしそこでも、ソクラテスが悪法に従うことになるとは彼自身も国法も言っていません。 「しかしそれ(この世からソクラテスが去ること 引用者注)はわたしたち国法による被害ではなく、 世間の人間から加えられた不正に止まるのだ。ところが、もしお前が、自分でわたしたちに対して行なった 同意や約束を踏みにじり、何よりも害を加えてはならないはずの、自分自身や自分の友だち、 自分の祖国とわたしたち国法に対して害を加えるという」ことは許されない」(54C)と言っています。 つまり、法の是非云々ではなく、誤用した世間の人間のことを悪く言っているに過ぎません。 『クリトン』を読んで、みなさんはどのように感じられましたか?
53 :
げおるぐ :2010/10/11(月) 14:46:43 0
>>52 「悪法もまた法なり」はソクラテスのことばなのかプラトンの創作なのかわからないのが実情なんですね。
もうこれはソクラテスにかんする記述全体にもいえるでしょうね。
>>おまえは自分でわたしたちに対して行なった 同意や約束を踏みにじり、何よりも害を加えてはならないはずの、
自分自身や自分の友だち、 自分の祖国とわたしたち国法に対して害を加えるという」ことは許されない
この言い分は当然でしょうね。共同体秩序転覆の疑でとらわれて、本人はそのことを否定してきたのだから、
ここで国法をやぶって脱獄することは、まさに世間の人間がいう共同体秩序転覆の疑を証拠づけるものになってしまう。
この論理のくだりは納得できます。
かれには革命的志向はなく、あくまで現体制・世間の共通善のなかで、ひとびとの悪徳を是正したかっただけ、
国法にも共同体にも忠誠は誓ったうえでの活動だった、といいたかったのしょうか。
54 :
げおるぐ :2010/10/11(月) 15:07:27 0
>>「悪法もまた法なり」はソクラテスのことばなのかプラトンの創作なのかわからないのが実情なんですね。 プラトンの著作にもみあたらないとすれば、後世のひとの造語かも。 いずれにせよ、いみがわかりにくいですね。国法自体がゆがんだものだときづいたなら、それを変えたいと思う のが自然な気がする。だからこそ、危険視されたんだろうし。 法の執行の不正についてだけ非難するという意味だったら、共同体秩序転覆の疑にたいする自己の「弁明」とも 矛盾しないことになり、納得できます。
55 :
考える名無しさん :2010/10/11(月) 15:09:47 0
ソクラテスの言う「法」は現代の法実証主義者が言う「法」と同じではあるまい
56 :
げおるぐ :2010/10/11(月) 16:08:06 0
>>55 もうちょいくわしく 法実証主義ってなんですか?法学部でないもんでわからないです。
ソクラテスの言う「法」は、だいたいどういうものだと思われますか?
とりあえず読んでみたはいいが、このスレの話についていけてない。
58 :
げおるぐ :2010/10/11(月) 18:02:51 0
>>法の執行の不正についてだけ非難するという意味だったら、共同体秩序転覆の疑にたいする自己の「弁明」とも 矛盾しないことになり、納得できます. 補足 なぜなら、国法や共同体については尊重しているけれども、その正しい実践・使用をしていないということを 非難するということなら、ただそういう個々人の行為にたいする非難であって法や国の神、共同体自体の否定にはあたらない ということになる、とおもったからです。
59 :
1 :2010/10/11(月) 19:41:57 0
>>57 さん
読んでくれて、さらに書き込みをしてくれてありがとうございます。
いろいろな人がいてくれてよかった、いろいろな話が聞けるから。
このスレの話についていけなくてもいいんじゃないかな。
スレを立てた本人がこんなことを言ってはいけないのかもしれませんが、
57さんが考えたことを書いてくれれば、きっと誰かが、そうそう、とか、
いやそれはちがうでしょう、とか書いてくれるでしょう。
そこで57さんが考えを深められれば、僕はこのスレを立ててよかった、
と思っています。
57さんは、『クリトン』を読んでおもしろかったですか?
つまらなかったですか?
ソクラテスって嫌なやつだとは思いませんでしたか?
脱獄しますか?
僕は最初に読んだときは、ふーん、あぁ、そうですか、という感じでした。
それにソクラテスはなんか、「僕は知っているんだもんね、ふっふっ」と
上から目線のような気がして嫌だったなぁ。
この話を読み返してわかりかけてきたといえるのは、
仕事を始めて組織と個人の倫理とかを考えてからです。
よかったら、57さんが感じたことを教えてほしいなぁ。
57です、親切なレスありがとうございます。正直自分もふーんという感じだったんですが少し思ったのは、 ソクラテスの話がなんとなく言い訳がましく聞こえました。 まるでソフィストのようであまりいい印象ではなかったですね。
61 :
考える名無しさん :2010/10/12(火) 00:38:06 O
でさ、いつ、何から始める?
62 :
考える名無しさん :2010/10/12(火) 02:15:41 0
波多野精一の「宗教哲学」「時と永遠」(全集第四巻)をじっくりと読もうと思う。
63 :
知恵者2010 ◆9BcE6JmHNk :2010/10/12(火) 05:21:11 0
これはいいスレかもしれない。 なんか見える世界が広がる本があったら それで何がわかるようになったか書いてくれると読む気がする。 俺が最近見えるようになった世界について書くと、 本でないけど、レンタルDVDの「パウロ ローマ帝国に挑んだ男」を英語学習目的で日本語字幕出して みて、おおこれが西洋人かとジーザスブラインドミーというセリフとともに衝撃を受けた。 しっかり本を読んで教養がついたら是非ペテロ(ピーター)とパウロ(ポール)の使ったトリックを考えてみて欲しい。 俺の今年のびっくり大賞に推薦するものだ。 本は最初はわかりにくいので、ヒント。(ベストな入り方はなんでも図解雑学シリーズから入るべきだといっておく。) 人間の脳は、2回目からものごとがわかるようにできているので、 一回目は負けていい。 250冊読むと、かなりかわったことを言えるようになるし、 500冊読むと 通説の間違いがわかるようになるよ。
64 :
1 :2010/10/12(火) 07:58:02 0
65 :
1 :2010/10/12(火) 08:00:48 0
>>60 >>ソクラテスの話がなんとなく言い訳がましく聞こえました。
>>まるでソフィストのようであまりいい印象ではなかったですね。
当時のアテナイの人たちもそういった印象、ソクラテスもソフィストの一人、だったみたいです。
勝手な想像ですが、プラトンも、なんか『弁明』も『クリトン』も説得力弱いなぁ、と思って
『ゴルギアス』を書いたのかもしれませんね。
66 :
1 :2010/10/12(火) 08:01:32 0
>>61 >>>でさ、いつ、何から始める?
もう始まってますよー。
>>1 を御覧ください。
67 :
1 :2010/10/12(火) 08:02:15 0
68 :
1 :2010/10/12(火) 08:04:27 0
>>63 知恵者2010さん
>>なんか見える世界が広がる本があったら
>>それで何がわかるようになったか書いてくれると読む気がする。
そうですね。ほかの人の読後感を聞くと、その本を読みたくなります。
でもまぁ、仕事や学業もあるし、旅行に行ったりもしたいし、ゆっくり読んでいきましょう。
久し振りにきたら結構伸びてて驚いた。 せっかく買った「ソクラテスの弁明・クリトン」と「メノン」くらい読まないと。 「論研」や「イデーン」読むわけじゃないんだから。 本当に「なんちゃって」ですね。私は。
70 :
げおるぐ :2010/10/12(火) 13:30:38 0
表題の本にあわせて、感銘受けた本やわかりやすい副読本あげていくのもいいですね。
>>62 >>63 西洋人の前提としているキリスト教の教養もないと、西洋哲学はわかりにくいですよね。
ぼくは最初に入門として「西洋哲学史 理性の運命と可能性」(昭和堂)をよんでみました。
西洋思想の中心に「理性」があるとして、哲学の歴史はその解釈の変遷としているようです。
まったく哲学はじめてでもよみやすいとおもいます。内容もコンパクトです。
71 :
知恵者2010 ◆9BcE6JmHNk :2010/10/12(火) 20:39:40 0
>>70 レスがあったのでなにか書こうとおもったが今日は疲れているので、
キリスト教に関してはニュー速+に関連スレがたったら書いたりしているので
みんなそういうのに書いたりすると楽しいよとだけいっておく。
気力が足りないのと、せっかく独自に解明したので隠しておきたいのがある。
>>70 >表題の本にあわせて、感銘受けた本やわかりやすい副読本あげていくのもいいですね。
私も同感です。ここは、一種のサロンみたいな感じにして、本格的な読書会とかしたいなら、
スカイプ使って議論するっていうのもありだと思いますし。
哲学をする上でキリスト教の知識と基本的な哲学史は前提として絶対に必要なものですね。
73 :
知恵者2010 ◆9BcE6JmHNk :2010/10/12(火) 21:29:18 0
キリスト教があるために、彼ら西洋には見えない世界が広がっていた。 日本から見ると、簡単に分かることも彼らにはわからない。 逆にそれゆえに西洋キリスト教徒の考えも、西洋哲学者の考えも日本人にわからないということが起こる。 というのが俺の数年前の関心。そのあと聖徳太子のとかスピノザとか読む そしてしばらくたつ。 このあたりのことで最近得た答えというかツール「なんで我々に見えないのか」 では、また数年後にでもすれちがいましょう。
74 :
げおるぐ :2010/10/12(火) 23:19:10 0
ソクラテスからそれてしまいますが、ひとことだけ。しろうとくさいかもですが。 1.西洋の特徴は、まず実体概念。現象の背後に、みることのできない本質的存在があるとする。 プラトンからでしょうね。こんな前提は東洋にはない。朱子学では「気」と「理」で考える。 2.理性中心主義。思惟への強い信頼。古代ギリシアからでしょうか。 3.単一の絶対者=神。しかもこれは、語りかけてくる「ことば」としての神。 世界のはじめにロゴス(ことば、理性、論理)ありき(ヨハネ福音書)、です。これがすべての原点で中心です。 神=理性だと。 4.個人の理性と、共同体の理性と、絶対者の理性を重ねて考えているふしがあります。 カントもヘーゲルもこの観点からよむとすこしわかるきがします。
75 :
げおるぐ :2010/10/12(火) 23:38:21 0
>>74 そしてヒュームの極端な経験論、それから現象学、構造主義などはこういった前提を破壊するようなものだったと。
はなしがそれました。
またソクラテスにもどしていただければ。。
>>74 げおるぐさん、まさにその通りです。
物の背後に物自体なるものが存在するかどうか、それが西洋と東洋の思考の違いです。
物自体=神。キリスト教では言葉が神であるのに対し、仏教では言葉は迷妄の原因ですからね。
77 :
考える名無しさん :2010/10/14(木) 15:44:47 0
デカルト板ももりあがってますよー まちきれないひとはそちらにも
78 :
1 :2010/10/15(金) 21:51:58 0
79 :
げおるぐ :2010/10/15(金) 22:06:48 0
ぼくはウィルバー板たててみました。 こちらと両立です。 きょうみあるひとはのぞいてくざされば。
80 :
1 :2010/10/16(土) 00:06:35 0
81 :
1 :2010/10/16(土) 00:08:33 0
「悪法も法なり」について図書館で調べたところ、こんな本のくだりがありました。
「「悪法も法なり」も、こういった不精確な理解の一つである。プラトン『クリトン』
において、アテナイの法律を守って脱獄の提案を拒絶するソクラテスは、そのような表現
を語らない。彼が友人クリトンに向ける論理は、より複雑で精妙である。
この標語は、日本では、ローマの法学者ウルピアヌスに由来する法格言"Dura lex,sed lex"
(厳しい法でも、法である)と混淆され、流布したようである。無論、両者は含意も起源
も異なる。だが、この誤った表現ゆえに、ソクラテスは「法実証主義」の起源と解されて
しまっている。」(『哲学者の誕生−ソクラテスをめぐる人』 納富信留著 ちくま新書P303)
ネットの検索では「悪法も法なり」をソクラテスの言葉としているものがほとんどであり、
この本以上の情報がなく、この本の解釈が正しいかの確認はできませんでした。
残念なことに、法実証主義とソクラテスの法がどのように違うかは
>>55 さんにレスをいただけませんでした。
古代ギリシアの法について調べるところまでは時間がなさそうです。
まぁ、2つが無関係ということはいえそうですから、
これで「悪法も法なり」について考えるのはひとまず終えます。
>>55 さんを含め、いろいろとレスをいただきありがとうございました。
『哲学者の誕生−ソクラテスをめぐる人』を読んで、
『クリトン』にそんな言葉はないことを再確認できたことは、もちろんうれしいのですが、
自分以外(田中美知太郎さんというギリシア哲学の大家も
>>52 のように疑問を呈していらしたわけですが)にも
『クリトン』を読んで「悪法も法なり」がソクラテスの言葉であるということに
疑問に思った人がいたとわかったことが、ちょっとうれしい、です。
原典、といっても訳書ですが、にあたって考えた、ちょっとした御褒美、というと大げさですかね。
関連する情報はありませんが、参考にWikipediaのリンクをはっておきます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ドミティウス ・ウルピアーヌス
http://en.wikipedia.org/wiki/Domitius_Ulpianus
82 :
げおるぐ :2010/10/16(土) 00:20:30 0
>>80 77=げおるぐであってます。「板」と「スレ」のことばづかいまちがってましたね。
訂正ありがとうございます。81もかんがえてみます。
83 :
考える名無しさん :2010/10/16(土) 00:27:57 0
もしもし、かんがるー
84 :
考える名無しさん :2010/10/16(土) 01:11:48 0
あさり食べたい(・v・)
85 :
1 :2010/10/17(日) 20:06:46 0
プラトン『クリトン』3 「僕という人間は、自分でよく考えてみて、原則論として、これが最上だということが 明らかになったものでなければ、他にどんなものが僕にあったとしても、それには従わないような人間」(46B) 「僕の言うことに、何か君が反対して言うことがあるなら、その反対論をやってくれたまえ。 そしてその結果、僕は君の言に従うことになるかも知れない。しかしそうでなければ、 (略)たといアテーナイ人が不承知でも、僕に出て行かせようとするのは、やめてくれたまえ。 つまり僕はどちらの行動をとるにしても、君を説得してからというのを、大切な条件としているのであって、 君が不承知なのに、そういうことをするつもりはない」(48D・48E) 『クリトン』のこの2箇所だけでも、論理によって行動するソクラテスということが見てとれます。 しかし、以下のくだりを読むと、論理を優先して考えるソクラテスの姿勢と神との関係を 考えなくてはいけないようです。 「そしてこれまでどおりにしようではないか。それが神の導きだからね」(54E) さらに、最初の場面での死刑の日の話(44A・B)で夢でのお告げの話もあります。 クリトンの「妙な、それは夢だねえ」に「いや、明々白々の夢だと、とにかく、僕は思うのだがね」(44B)と ソクラテスは応えています。
86 :
1 :2010/10/17(日) 20:13:33 0
>>85 続き
そういう目で読み返してみると、『ソクラテスの弁明』(以下『弁明』)でも神に係わる発言をしています。
「われわれの行く手に待っているものは、どちらがよいのか、誰にもはっきり分らないのだ、神でなければ」(『弁明』42A)
「自分がにくまれているということは、わかっていたし、それは苦にもなり、心配にもなったのですが、
しかしそれでもやはり、神のことをいちばん大切にしなければならない」(『弁明』21E)
裁判にでる前に神の例の合図がなかった話(『弁明』40B)もあります。
『ソクラテスの宗教』( (叢書・ウニベルシタス) マーク・L. マックフェラン 著 法政大学出版局。以下『宗教』)では
初期の対話編を中心に分析して、夢、神託の報告、ダイモニオン(神もしくは神の子。新潮文庫では鬼神、
岩波文庫では神霊と訳されている)に分け、
「ダイモニオンを除けば、ソクラテスの理性はソクラテスの「啓示」に認識論的に優先する」(P257)
(『クリトン』の最初の場面では夢の解釈の余地がなかったとされています(P240)。)
「ダイモニオンの啓示が、一方で慣習と、他方で非宗教的な実践的理性の直接の結果の両方に取って代わることがありうる
(=ダイモニオンの啓示に従うこともあれば、慣習やソクラテスの理性に従うこともある)」(P257)
つまり、理性と神を天秤にかけていたということです。
87 :
1 :2010/10/17(日) 20:16:00 0
>>86 続き
神が絶対的に優れていたらその言葉には従うんじゃないか?と考えていたら、気づきました。
神託の話に戻って考えると、巫女がソクラテス「より知恵のある者は誰もいない」(『弁明』21A)と言ったと聞いて
「いったい何を神は言おうとしているのであろうか。わたしは自分が、大小いずれにしても、
知恵のあるものではないのだということを自覚しているからです。
すると、そのわたしをいちばん知恵があると宣言することによって、いったい何を神は言おうとしているのであろうか。
というのは、(神は 引用者注)まさか嘘を言うはずはないからだ」(『弁明』21B)と人間と神との絶対的な溝、
「神の力と知恵の前での人間のもろさと無知」(『宗教』P353)を感じつつ、街頭での問答を行なっていた。
そう、人間のもろさと無知はソクラテスにもあてはまるのだから、ソクラテスは人間である自分の無知も気づいているのだ。
人間ができる限りでの理性の利用を問答を通してするしかない、その外のところは神の導きによろう、と思っていたのだ。
ソクラテスは神からも、
>>6 で書いたように大衆からも離れ、孤独だったのだ。
注 『ソクラテスの弁明』、『クリトン』では()内の数字はステパヌス版のページ数をしめします。
訳は新潮文庫版によります。
88 :
1 :2010/10/23(土) 10:24:18 0
プラトン『クリトン』4
ソクラテスにとっての魂(精神)と身体の関係について整理してみました。
「それ(魂 引用者注)は身体に比べれば、大したものではない」(47E)
『クリトン』で、このようにソクラテスは言っています。
魂と身体を分けて考え、魂のほうが身体よりも重要であると価値づけます。
その理由は「生きがいのある生き方をする」(47E)ために必要ということでした。
まとめていうなら、よく生きるためには身体よりも魂が必要ということです。
魂なんてない、と考える人がいるけれども、ソクラテスはそうは考えない。
来月のデカルトでは魂と身体はどのように扱われるのか、
前回(
>>85 )の理性と神の関係とあわせてみていきたいと思っています。
古代哲学なんてただの知恵遊びでしかないものに よく時間費やせますね
90 :
1 :2010/10/24(日) 10:22:11 0
>>89 ここまでレスを読み、書き込みをしてくれてありがとう。
プラトンとアリストテレスくらいしか読んでいませんので、見当違いな回答をしそうですが
『クリトン』でいうと、
>>6 ,
>>85 ,
>>88 のような視点で捉え返すと
僕には知恵遊びとは思えないのですが、
>>89 さんはどのような点から知恵遊びと思いますか?
来月読む『方法序説』の著者デカルトの『省察』第5省察にある想起説の考え方、
>>48 にも書きましたが1月に読む『死にいたる病』の著者キルケゴールは
「わたしは文字とおり一人ぼっちだ。私のためにいてくれる唯一の相手が、ソクラテスなのだ」
(キルケゴール全集第19巻P253。孫引きですが)と、ソクラテスを賛美しています。
ドゥルーズは「プラトンによって打ち立てられた厳密な区別の第一のものは、
範型(モデル)と似像(コピー)との区別である」
「それよりもはるかに深い第2の区別は、似像(コピー)そのものと幻像(ファンタスム)との区別である」
(『差異と反復』河出文庫下P253)から始めて、差異と反復のテーマである真理の不存在を語っています。
ドゥルーズをきちんと読んでいる方からはわかっていないといわれそうですし、
事実僕はわかっていません。しかし、彼は古代哲学をただの知恵遊びと思っていたのだろうか?
肯定的にとる場合はもちろん、否定的にとるにしても、乗り越えるにしても、
そこから何かを読み取る能力がある人にとっては古代哲学、少なくともプラトンは、
まだまだ多くのことを汲み取ることのできる著者であると思いますよ。
(アリストテレスについて触れていないのは、アリストテレスについての知識が僕に足りないからです。
もちろんアリストテレスも読むべき著者だと思います。)
91 :
1 :2010/10/25(月) 07:40:10 0
そろそろこのスレを立てて1月が経ちます。
『クリトン』に関連してこの1月で読んだ本を書いておきます。
ほとんどの本が拾い読みですが、自分用メモの意味も込めて。
みなさんは今月はどんな本を読みましたか?
・『クリトン』 プラトン 新潮文庫
・『国家』 プラトン 岩波文庫
・『ソクラテスの宗教』 マーク・L. マックフェラン 法政大学出版局
>>85 ,86,87を調べるため。ギリシアの宗教は知らなかったので、参考になりました
・『ゴルギアス』 プラトン 岩波文庫
・『ソクラテス以前の哲学者』 廣川 洋一 講談社学術文庫
・『西洋哲学史―古代から中世へ』 熊野 純彦 岩波新書
・『西洋古代・中世哲学史』 クラウス リーゼンフーバー 平凡社ライブラリー
>>17 ,
>>65 ノモスとヒュシスについて4冊を調べる
・『プラトン全集 (8) エウテュデモス プロタゴラス』 岩波書店
>>32 クリトンが登場人物なので『エウテュデモス』のみ読む
・『哲学者の誕生 ソクラテスをめぐる人々』 納富 信留 ちくま新書
>>81 悪法も法なりを調べて
93 :
げおるぐ :2010/10/26(火) 00:27:45 0
89は反応みて楽しんでるだけだから、ほうっておけばいいのでは? 現代の哲学や思想、倫理、科学、市民社会その他のありかたを考え直すうえでは、 古典や哲学史をもう一度ていねいにおさらいしておくのもかなり有意義だと思いますが。 余談:哲学史にも、いろんな解釈や方法があるようですね。ジルソンやらヴィンデルバントやら。 なにをいまさらと思われるかもしれませんが、なにぶん門外漢だったのでそれが新鮮で面白いです。 ヴィンデルバントの、「問題史」として哲学史をみる見方がどうもぼくの関心と合うようなので、この手 の入門書からおさらいしてみます。
94 :
1 :2010/10/26(火) 08:55:41 0
>>93 そうですねぇ。反応見て楽しんでいるだけなんでしょうかねぇ。
でも、もったいないですね。この手の書き込みを読んでいつも思うのですが、
きっといくらかこのスレのレスを読んで、文章を書くという、貴重な自分の時間を費やして
反応のレスを読んでいるだけというのは。
哲学に興味はあるのでしょうから、自分の考えを書き込んでいけば、いいのに。
レスをいただけないので、僕なりに考えてみたのですが、ウィトゲンシュタイン、分析哲学をしているのでしたら、
言語主義的な立場に立つという点から古代哲学、というよりウィトゲンシュタイン以前の哲学すべて、
が知恵遊びに見えてもやむをえないのかな、とは思います。
『論理哲学論考』(野矢茂樹訳 岩波文庫)に以下のとおりありますし。
6.53 語りうること以外は何も語らぬこと。(略)そして誰か形而上学的なことを語ろうとするひとがいれば、
そのたびに、あなたはその命題のこれこれの記号にいかなる意味も与えていないと指摘する。
これが、本来の正しい哲学の方法にほかならない。(後略)
昨日『論理哲学論考』をさっと読み返して、「あぁ、ウィトゲンシュタインの考えるスタイルはかっこいいなぁ」
と、改めて楽しめたので、
>>89 さんはいい機会をくれたと思ってます。
95 :
1 :2010/10/26(火) 09:01:17 0
>>93 僕も哲学史の本を読まなくてはなぁ、と思いつつ、時間がとれないなぁ。
>>70 や
>>72 で、げおるぐさんや昔なんちゃって現象学徒さんが書いていたように、
>表題の本にあわせて、感銘受けた本やわかりやすい副読本あげていくのもいいですね。
お二人の書き込みを見て
>>91 を書いておいたほうがいいかなぁ、と思いました。
参考になる本をこれからも教えてください。
96 :
げおるぐ :2010/10/26(火) 17:24:16 0
古典の形而上学を批判して乗り越えていこうとするにも、その古典をよく知らねば批判が的外れになったりしてしまうんじゃないか とも思うんです。 また、アリストテレスの倫理学などは現代の政治哲学の観点(ロールズなど)からも見直されてきているようですし、 彼の論理学や分類学、静力学などはいまでも通用していますよね。知恵遊びだとばっさり切り捨ててしまえるほど古典は浅くはないと思います。 また、純粋に歴史考証という意味でも面白いですし。 分析哲学と合わせて、科学の体系や概念が持っている形而上性を考えていくのもいいかもしれません。 問題が大きくて、まだまだぼくにとっては時期尚早だとは思いますが。
このスレに感化されて何年かぶりに「現代思想」を買ってしまいました。 特集は「臨床現象学」。現象学は精神医学とも相性が良いんですよね。 現象学学派の精神医学の本も読んでみたいのですが、なかなかそこまで手が回りません。
98 :
1 :2010/10/26(火) 22:24:31 0
>>96 えぇ、古典を知らないといけないし、古典は浅くないと思います。
そして、このスレを立ててよかったと思っています。
仕事があると一人ではなかなか読めませんが、ゆっくり読んでいきましょう。
読むスピード以上に古典は増えないでしょうし。
>>97 http://www.seidosha.co.jp/index.php?%CE%D7%BE%B2%B8%BD%BE%DD%B3%D8ですね 。
臨床現象学、ですか。臨床哲学を鷲田 清一さんがなさっているのは、
どこかで読んだ記憶がありますが、臨床現象学は正直なところ全然知りませんでした。
昔、視覚障害者の方の案内をするときに世界の感じ方の違いに気づかされたことを思い出しました。
白い杖の人が「次の塀が途切れたところを右に(曲がると目的地よ)」と言って、
僕が「次の角を右に曲がれば目的地だよな」と理解したときに、
あぁ、その人と僕の世界は違うのだな、と。
見当違いの話かもしれませんが、頚椎損傷で車椅子生活の人や統合失調症の人と話をしたりしていたので、
目次を読んで興味をもちました。僕もちょっと読んでみます。
やっと哲学板らしいスレが・・・
100 :
考える名無しさん :2010/10/27(水) 16:40:35 0
哲学は存在論と認識論なんだけどね。 アリストテレスの「形而上学」とカントの「純粋理性批判」とヘーゲルの「精神現象学」は 哲学をやるならまず勉強すべき本だよ。
101 :
考える名無しさん :2010/10/27(水) 17:59:48 0
アリストテレスの前にプラトン、カントの前に大陸合理論と経験論、 ヘーゲルの前にギリシャ古典や中世神学のアウトラインに近世の認識論、という順序 ふまないと。分析哲学だけやるなら古典すっとばしてもよさそうだけど。 ハイデガーなら全部かな。
102 :
考える名無しさん :2010/10/27(水) 19:27:13 0
もし論理学の深遠な問題などについてもっともらしい理屈がこねられるようになるだけ しか哲学が君の役に立たないなら、 また、もし哲学が日常生活の重要問題について君の考える力を進歩させないのなら、 哲学なんて無意味じゃないのか? Ludwig Josef Johann Wittgenstein 彼自身、疑念と悩みのなかで哲学をやってたのかなあ?
103 :
考える名無しさん :2010/10/27(水) 20:25:16 0
だから哲学は存在論なんだよね!!! 存在の究極的実在を把握して現代に形而上学を復活させねば・・・。
104 :
げおるぐ :2010/10/27(水) 21:15:33 0
>>103 ハイデガーはそれを西洋の伝統にのっとってやろうとしてたんでしょうか?
また、アカデミズムの外の人でウィルバーはそれを西洋哲学の伝統とは
違うやりかたでやってるんじゃないかとぼくは思いましたが、早とちりかも知れずこれももっと時間
かけてゆっくり検証しないと・・・
まあこのスレの趣旨とそれてしまうので、このへんにしときます。
とりあえず、ソクラテスとデカルトで。
法実証主義者が言う法というのは実定法のことで、 一定の手続を経て制定されればどんな内容でも法になる。 それは倫理から見れば悪法かもしれない。 でも、法実証主義者は、「法と倫理は違うからそれでいいんだ」 ということで、倫理が法を妥当性を消滅させるってことを否定する んだよね。 こういう考えはソクラテスの時代にはないと思う。 19世紀に出てきた考えだから。
プラトンの初期中期後期一冊ずつ読めばいいんだよ 初期→弁明 中期→国家 後期→法律
基本的な哲学史は抑えておくべきだろうけど、 基本的には「自分が気になるものを読めばいいのです」by石黒ひで ということらしいので、あんまり拘る必要はないかと・・・
108 :
1 :2010/10/28(木) 00:58:24 0
109 :
1 :2010/10/28(木) 00:59:56 0
>>102 ウィトゲンシュタインの伝記でいうと、
『ウィトゲンシュタイン―天才哲学者の思い出』 (ノーマン・マルコム 著 平凡社ライブラリー)
しか読んだことがありませんが、戦地で哲学のことを考えていたこと、部屋の様子やゼミの様子、
歩きながらの哲学談義など、興味深い、というか変わった人だったようですね。
この本かどうかわかりませんが、自殺願望やキルケゴールをよく読んでいたという記述を読んだ記憶があります
(Wikipediaにもありますから、記憶違いではなさそうです)。
できるかどうかわかりませんが、来年3月に読む予定の『論理哲学論考』で
6.4以降で彼の考えていた倫理を読み取ってみたいと思っています。
だいぶ先になりますが、それまでお付き合いください。
もちろん来月のデカルト『方法序説』の中で他者について彼とデカルトを比較しつつ
書き込んでいただいても結構ですよ。
110 :
1 :2010/10/28(木) 01:02:26 0
>>103 ,104
そうですね、このスレは本を読んで考えたことを話すスレです。
あまりに話題を限定しすぎることで話が広がらず理解を深められなくなるのも嫌ですが、
かけ離れた話は、当月の本を読む以外は共通の知識として前提としていない以上、御遠慮ください。
ただ形而上学の復活ということで言うと、
「著者の形而上学の基礎」(岩波文庫P7、ちくま学芸文庫P17)を著した『方法序説』にでてきます。
『方法序説』は来月、といってもあと5日ですが、読む予定です。
12月のカントはもっと激しく形而上学の復活を考えています。
『プロレゴメナ』の副題が「およそ学として現れ得る限りの将来の形而上学の為の序論」ですから。
哲学史上欠くことのできない両人が形而上学を復活させようとして、
いまだ復活できていないのなら、今すぐにできるようなものでもないでしょう。
げおるぐさんのいうように、ゆっくりいきましょう。
111 :
1 :2010/10/28(木) 01:13:41 0
>>105 55さんかな?
だとしたら、
>>81 では失礼しました。きちんと調べてくださっていたのに。
なるほど、やはり法実証主義はソクラテスとは無関係、でよかったのですね。
>>106 体系的に読むのも面白いですが、職業として読むのでなければ、
自分の関心に沿って読む、でもいいと思いますよ。
なによりも(日本語訳ではあるけれど)原典をしっかり読めば。
一冊でもしっかり読めば、それを起点にいろいろと考えていけますから。
このスレがそういう起点になれればいいなと思います。
ちなみに、『クリトン』はいかがでしたか?感想を教えてください。
>>107 そうですね。
それに体系的に読もうとしている人も好きに読んでいる人も、
10年後くらいには結局読んだ本は同じだったような気がするなぁ、
その人たちがずーっときちんと関心を持ち続けていたら。
そんな気がするだけですが。
そのためにも、いい本が絶版になりませんように。
112 :
1 :2010/10/29(金) 00:04:19 0
>>97 昔なんちゃって現象学徒さんが紹介してくれた『現代思想』10月号を読み、
「看護における「現象学的研究」の模索」の記事から『クリトン』を考えてみました。
看護において現象学的研究を行なう際に、看護師でもある西村さんが患者さんや看護師さんに
インタビューするときの話です。
「私が聴きとった看護経験の語りは、確かに一人の看護師が発した言葉ですが、
それを問う私との関係を通して、その場で生み出されてきたものです。
私の関心と問いかけが看護師さんにそのように語らせたと考えたのです。
他方で、私の問いかけは、確かに私自身の関心から始まっていたかもしれませんが、
看護師さんの実践や語りに促されたものでもあります」(P67)
「関係を通して、その場で生み出されてきた」、「私の関心と問いかけが」「語らせた」ものとして
考えると、どのように読めるのか?
プラトンは『ソクラテスの弁明』を書いて「なぜソクラテスは死刑になったか」は示した。
すると、社会一般の人々から、あるいはソクラテスを慕っていた人たちから
>>6 に引用した箇所から推測されることとして、
「なぜプラトンたちはソクラテスを助けなかったのか」という批判をうけた。
そのときにプラトンは、クリトンを相手にソクラテスに語らせようと考えた。
クリトンは社会的な成功者であり、それはとりもなおさず社会の規範を逸せずに暮らしていることを示している。
一般人代表、その中でもそれなりに優れた立場のクリトンがソクラテスと対話することで、
生み出されるソクラテスの発言はとりもなおさず、社会一般に対する「プラトンの弁明」といえます。
クリトンの説得をソクラテスが受け入れず、
>>32 で書いたようにクリトンがちょっとイライラするのも当然です。
社会一般の人が日頃のソクラテスの対話で感じていたのでしょうから。
そして、ほかの対話(例えば『メノン』)ではときに迷走しますが、ソクラテスが整然と説明をするのもわかります。
プラトンがソクラテスを通して一般人の代表であるクリトンに対して語るときに、
議論をいったりきたりさせては説明になりませんから。
単に執筆動機とストーリー作りといえるものかもしれませんが、
紹介いただいた本に触発された話として読んでもらえれば幸いです。
俺は1の弁明の読み方にはちょっと賛成しないところがある。 弁済ではソクラテスがアテナイにとってどういう人物であったか (とプラントが考えてたか)は分かるけど、ソクラテスがなんで 実際に死刑になったのかは分からない。聴衆はただ投票してる だけで、具体的になぜ死刑に投票したのかが見えてこない。 あれだと、ただソクラテスが生意気だから死刑にしたようにしか 見えないが、実際はそういうことではなかったと思う。
114 :
1 :2010/10/29(金) 07:45:36 0
>>113 書き込みありがとうございます。
なるほど。
『ソクラテスの弁明』をもう一回読み返してみて、
たしか『ソクラテスはなぜ死んだのか』(加来 彰俊著 岩波書店)に
参考になることが書いてあった気がしますから、週末図書館で読んでみます。
有罪の投票と死刑の投票での票数の違いも考えた方がいいのかな。
>>113 さんは、聴衆が死刑に投票した理由をどう考えますか?
115 :
1 :2010/10/29(金) 22:14:11 0
>>113 『ソクラテスはなぜ死んだのか』を読んでから書き込もうかとも思ったのですが、
考えていたら少し気になったので確認させてください。
産婆術使える奴っている?スレ(
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/philo/1284396616/ )の
「12」が僕です。そのスレの16で書いているように「ソクラテスが生意気だから」だけで
裁判があったとは思っていません。
113さんが「あれだと、ただソクラテスが生意気だから死刑にしたようにしか見えない」と
思ったのは、僕の書き込みのどの箇所でしょうか?
もしも、僕の書き込みがそのようにしか読めないのなら、それは僕の本意ではないので直したく思います
自分なりに思いついた箇所を以下に書いてみますね。
>>112 の
>>クリトンの説得をソクラテスが受け入れず、
>>32 で書いたようにクリトンがちょっとイライラするのも当然です。
>>社会一般の人が日頃のソクラテスの対話で感じていたのでしょうから。
この箇所ならば、ソクラテス自身が「わたしはその男にも、またその場にいた多くの者にも、
にくまれることになったのです」(21D。岩波文庫ではP21(6))とあるように、
推測として無理ではないと思っています。
あるいは、
>>6 で書いた大衆への絶望感、でしょうか?
この箇所は、ソクラテスからの視点だから、文章として聴衆の話は入れられないし……
見当違いの話をしていたら、ごめんなさい。
次の書き込みによってソクラテスが死刑になった理由についてのバランスが取れる、
ということであればいいのですが。
質問ばかりですみませんが、よろしくお願いします。
116 :
1 :2010/10/29(金) 22:22:18 0
>>115 続き
ソクラテスが死刑になった理由について
1 告訴段階
表向き
・ソクラテス裁判の宣誓口述書(訴状)にある告訴理由は「青年に対して有害な破滅的影響を与え、
国家の認める神々を認めずに、別の新しい鬼神の類を祭る」(29B,29C)です。
表にでてこない理由
・ソクラテスが独裁政治を行ったクリチアースの仲間と思われていたからでもあるでしょう。
原告メレトスの後ろにはいるアニュトス(18B)はクリチアースの独裁政治のときに亡命し、
後にクリチアースを倒し民主政治を再建したとされます。
・シチリア遠征(ペロポンネソス戦役がアテナイ敗北の遠因となった)の責任者といわれる
「饗宴」に出てくるアルキピアデスの仲間だと思われていた。
・市場で対話をしていたことに対して、恥をかかされたと思った政治家等の意向もあったでしょう。
2 裁判段階
当時のアテナイでは有罪か無罪かをまず最初に投票し、
有罪となれば量刑について原告及び被告が申立て、それに対して投票します。
1回目の有罪無罪の票決 281対220(諸説あり)で有罪
2回目の死刑か30ムナーの科料かの票決 361対140で死刑
つまり、80票(人)が当初無罪に投票した後、死刑に投票しています。
・(1)告訴段階にある理由が一般人でも同様に、例えば独裁政治やシチリア遠征で苦しめられた人たちは、
よい感情はもっていなかった。
・被告であるソクラテスが量刑の申し出で、国外追放を申立てず、
最初は市の迎賓館において給食(饗宴)を申し出た。プラトンらの説得で科料の支払いとなったが、
心証は良くなかっただろう。
参考資料
ソークラテースの弁明・クリトーン・パイドーン (新潮文庫)、ソクラテスの弁明・クリトン (岩波文庫) 、
ソクラテスはなぜ死んだのか(岩波書店)、饗宴(新潮文庫)
岩波文庫をお持ちの方には少しくどいかもしれませんが、新潮文庫、プラトン全集や
クリトンだけを読んだWebテキストの人もいると思うので、書いておきました。
117 :
113 :2010/10/29(金) 23:20:53 0
あれ、弁明が弁済になっとなるな。恥ずかしい。
>>114 ソクラテスは実際にああいう聖人君子じゃなくて、
ソフィストと同じ系列にいたんじゃないかと思う。
あと、ソクラテスの弟子にやばいのがいたことかな
(クリティアスとかアルキビアデス)。
ちなみにヨーロッパの大学でソクラテス裁判の再現をしたときは、
結構有罪に入ったそうな(学生が裁判員になる)。
哲学に興味がない人から見れば案外詭弁に聞こえるのかもね。
まあ俺の専門は哲学じゃなくて法律なので、
そこらへんは分からんけど。
118 :
1 :2010/10/30(土) 00:12:00 0
>>117 >>ソクラテスは実際にああいう聖人君子じゃなくて、
>>ソフィストと同じ系列にいたんじゃないかと思う。
当時のアテナイの人たちもソクラテスをソフィストと同様に感じていたと
岩波文庫の解説P107にもあるし、なにより
>>60 さんも言っているから、
現代でも同様に受け止められるところなんでしょうかね。
あと、『ソクラテスの弁明』(34D)や『パイドン』(116B)にあるように、
70歳近いのに小さな子がいました。貧乏をしているのにそれを当たり前と思っていて、
『饗宴』のように美少年を愛でて、大酒飲み、いつも広場に行って役に立たない。
妻のクサンティッペーからしたら、「聖人君子どころか、とんでもないスケベじじい!
理屈はどうでもいいから金持ってこい!」と罵倒したくなるところです。
「頭から水をかけるくらい、かわいいもんよ。それを後の時代の奴らはわたしのことを悪妻、
なんて言いやがるけれど、こんなろくでなしの面倒を見てただけでも、あたしゃぁ良妻賢母さ
(ちょっと池田晶子風に)」と言いたいんだろうなぁ。
>>あと、ソクラテスの弟子にやばいのがいたことかな
>>(クリティアスとかアルキビアデス)。
クリティアスは
>>116 のクリチアースのことですね。
『饗宴』の解説(新潮文庫P170)に、酔っ払ったアルキビアデスが乱入してくる場面を描いたことを
「師の生活を弁明するのが(略)その目的であった」とあります。
弟子であるアルキビアデスが師に従わず堕落しただけだよ、というのは事実かどうかは別として、
プラトンのソクラテスを守る気持ちを感じさせます。
119 :
考える名無しさん :2010/10/30(土) 00:56:45 0
ソクラテスの思想の独自性、特異性がみえないな。 大哲学者プラトンのお師匠だったくらいしか。
120 :
塩なめくじ :2010/10/30(土) 16:56:47 P
∧∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ (,,・−・) < 『ニコマコス倫理学(上・下)』岩波文庫 読了age / | \________ (,,_/
121 :
塩なめくじ :2010/10/30(土) 16:59:31 P
∧∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
(,,・−・) < あのさ
>>1 がいちいちレスするししかも長いから参加しづらいよ
/ | \________
(,,_/
122 :
塩なめくじ :2010/10/30(土) 17:22:10 P
読んだ本とは全く関係ないことだが 古典を読むとあっては いまの感覚とは合わない個所も出てくるわけだろう たとえば おいらが読んだ『ニコマコス倫理学』で 「寛厚」とか「豪華」とかについて解説する個所が出てくるんだが そういう場所を読んでても ぜんぜんピンとこないから 面白くないわけね (解説によると アリストテレスはより実際に即すために いちいちそれぞれの徳について展開したらしいから より重要なのはその内容じゃなくて「実際に即してること」のほうかもしれないが) そういうときどうやって読めばいいんだろうなあ と思った  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ∧∧ (,,・−・) (| |) | | し`J
ていうかまずアリストテレスが哲学者の価値が低すぎるからでしょう。 「人間はポリス的動物である」 「(世界は)感覚でとらえきれないほど微少」 明らかに、それっぽいことを云うってことを哲学だと勘違いしてるじゃない。 こんな思想が何年も何十年も続くはずはないけど、奇跡的に残っただけ。 確かに、文献を集めて回ったり、歴史を記述したりとかは評価できるけど、 アリストテレス自身の哲学はゴミもいいところだよ。 本来の哲学の形ってのは、言葉が在る限り永続的な真理となりうるはずのものなのに、 アリストテレスの哲学は、時代と共に陳腐化していくようなものだったってわけだ。 僕は政治学なんかは、多少しかたがないところはあると思うけど、 それは今どうするべきかってことが重点に置かれるからね。 でも、それと真理は違うでしょうってところで、アリストテレスはそういうところを 本当に勘違いしてるとは思うねぇ。 僕はこの板でもあらゆるスレッドでアリストテレスを嫌ったり批判してるけど、 それはアリストテレスの哲学を過大評価する人がいるからね。 アリストテレスのすごさはそこじゃねーからって云う……。
アリストテレスは諸説を分類・整理してるうちに 四原因説とかいう結論に達したという面白可笑しい奴だからな
>>123 逆に、それが過小評価ではないという根拠は?
哲学の「て」の字を知っている人で、裏返しの権威主義者ならばいざ知らず、アリス
トテレスをゴミと言うからには、それなりのものを示すべきだ。
それとも、ただの 2cher か?
アリストテレスの最大の問題点はやはり実体志向だろ 私動因や目的因も問題だと思うが
128 :
げおるぐ :2010/10/31(日) 00:30:43 0
「アリストテレス」スレを別にたてるべきでは? なにもここでやらなくても。表題の哲学者との関連でならいいけど。
129 :
おじさん :2010/10/31(日) 01:45:26 0 BE:1752703439-2BP(0)
アリストテレスって天動説を唱えてる時点で失格ですよ。
アリストテレスよりもプラトンの方が問題ある。 プラトンへの批判としてアリストテレスを読めばいい。 確かに変な説を説いているが、当時は科学が発達していない時代だからしょうがない と思って読めばアリストテレスは筋が通っていると感じられる。
アリストテレスの社会思想が面白いのは、 ヨーロッパの衰退とともに中世で1回忘れ去られたものが、 もう1回再発見されて(但しものによっては直接アリストテレスから 取られてるわけではなくていろいろ経由してるんだけど)、 しかもそれが何百年にも渡って思想の中心であり続けた(ている)ってことだな。 例えば人間が社会的動物であるということは、 ストア派くらいまでは覚えられてたけど、 最終的に社会契約思想のあたりで再評価されるまではかなり年月がかかってる。 あと実体志向は21世紀のオントロジーでも未だに健在で、 ウェブ上の情報整理においては基本的に受容されてる。 ってか極論すると現状手に入る日本語訳がよくないんだよ(´・ω・`)
132 :
1 :2010/10/31(日) 07:35:14 0
>>121 そうですね。
いちいちレスするのは書き込んだ後に反応がないとさびしいかな、という気持ち、
長いのはわかりやすく説明を尽くそうとした気持ち、
それぞれの気持ちの表れと思ってお許しいだたければと思います。m(._.)m ゴメン
御指摘いただいたことに配慮して、参加しやすいような雰囲気づくりに気をつけます。
133 :
1 :2010/10/31(日) 07:39:26 0
>>128 いつも進行を気づかってくださり、ありがとうございます。
そうですね。
>>122 は本を読んでいるときにどうしてる?の話だからいいけれど、
>>123 以降は、うーん、途中で空気を読んでほしいところですね。
脱線するのがこういう話の楽しいところでもあるから、
少し話がそれたからダメという気は毛頭ありませんが。
まぁ、伸びていくべき方向へ伸びていくのでしょうから、
僕はゆっくり、まったり本を読んで考えていくだけです。
ここがしっかりしていないと、スレが伸びてもしかたありませんから。
脱線してもうしわけなかったです!! 明日からのデカルト月間も楽しみにしてます! 僕もこのスレッドと一緒に哲学史を振り返ろうと思います!
135 :
1 :2010/10/31(日) 10:03:55 0
>>134 こちらこそ、あの書き方でよかったのか少し反省しています。
明日からもよろしくお願いします。(^O^)/
何がオントロジーだ、板違いだ。 Semantic Web の話なら、よそでやれ。 アリストテレスの日本語訳がどうしたなんて話をするやつは、そもそもの原文が悪名 高いという基本的事実を知った上で言っているのか? それに、ごく表面的なアリストテレス受容史の話をしたところで、そこから何か展開 できるほどの古典的な教養など微塵もないだろ。 しかし、そんなことはどーでもいい。 まさか「実体主義」なんてジャーナリスティックな煽り文句に踊らされているわけじゃ あるまいな? 「読む」んだったら、ちゃんと「読もうぜ」という話だ。
個人的にプラトンからデカルトはちょっと飛び過ぎな気もするけど、 岩波とかで手に入る中世の手頃なのがないんだよな。 アウグスティヌスかトマス・アクィナスは間に入れたいところだけど、 この2人は全集のみか。
>>127 実体に固着した思想と、その反対物(衝動的思想)への転化かな
もちろんアリストテレスは中道を説くが、その中道では足りないよ
>>138 はい?
自分で何を書いているか、わかってるか?
それでは、何を聞きたかったのかな? 実体志向の問題点を聞きたいのではないのか?
141 :
考える名無しさん :2010/10/31(日) 21:33:30 0
その反対物(衝動的思想)への転化 ってとこがわからんです。 139とは別人ですが。
俺は 139 だが、そもそも「実体志向」という言葉からして意味がわからない。 自己完結するつもりでなければ、もう少し共通語で語るべきじゃないか?
143 :
1 :2010/11/01(月) 00:07:47 0
2010年11月の本 デカルト『方法序説』 【人物】 ルネ・デカルト(1596年3月31日 - 1650年2月11日) 中部フランスのトゥレーヌ州ラエー(現デカルト町)で生まれる。父は高等法務評定官、 母はルネを産んだ後、1年ほどで病死した。法学等諸学を学んだのち志願将校となり、 2年ほどで除隊後イタリアなどを遍歴し、オランダに転住後はオランダ内で終生を過ごす。 1627年の『精神指導の規則』以降、1637年『方法序説』、1641年『省察』、1644年『哲学原理』、 1649年『情念論』等を著す。スウェーデン女王クリスティナに招かれてスウェーデンにて 早朝の講義を行い、肺炎により死亡。 【内容】 6部構成で、第1部学問にかんするさまざまな考察、第2部デカルトの方法の主たる規則、 第3部デカルトの道徳上のいくつかの規則、第4部神の存在と人間の魂の存在を証明する論拠、 第5部自然学の諸問題の秩序、第6部今後自然の探求を行なうにあたって必要と考えるもの、 『方法序説』の執筆理由となっている。 有名な炉辺は第2部、「われ惟う、故にわれ在り」、丸い三角形、神の存在証明は第4部……。 有名な記述がそこかしこにあり、肯定否定のどのような立場であれ、 人間について考えようとしたら避けては通れない本です。 【感想】 デカルトの哲学上の主著といえば『省察』です。しかし、『方法序説』は『屈折光学』、 『幾何学』、『気象学』の序説という位置づけを超えて、一般人向けに著された、わかりやすく、 読み込むと奥の深い本だと思います。そして、神の存在証明などの各論証について説明が十分とは いいきれない部分などについての考察が、『省察』、『情念論』でより深められていきます。
144 :
1 :2010/11/01(月) 00:09:02 0
145 :
國武 :2010/11/01(月) 02:20:00 O
おもしろそうだね エチカ読んでる
山内志朗「普遍論争」読み始めた。
147 :
1 :2010/11/01(月) 23:55:19 0
>>137 そうですね。確かに飛び過ぎではあります。そして、手頃なのがありません。
アウグスティヌス『告白』、トマス・アクィナス『君主の統治について』、
エックハルト『エックハルト説教集』 くらいですね、岩波文庫にあるのは。
148 :
1 :2010/11/01(月) 23:57:11 0
デカルト『方法序説』bQ
夏目漱石は『吾輩は猫である』(よろしければ、リンク先の青空文庫で全文を御覧ください
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/card789.html )で
「デカルトは「余は思考す、故に余は存在す」という三つ子にでも分るような真理を考え出
すのに十何年か懸ったそうだ。すべて考え出す時には骨の折れるものであるから猿股の発明
に十年を費やしたって車夫の智慧には出来過ぎると云わねばなるまい」
そうだよなぁ、誰でもわかるよなぁ、「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する」(P46)なんて。
誰でもわかる?本当にそうなのだろうか?
すぐにコギトの話にいきたいところですが、「本を読んで、あれこれ考える」のがこのスレの趣旨です。
まずは、この本の題名から考えていきたいと思います。
ちなみに、先月は僕が考えていることを書くだけでしたが、
今月は内容についての教科書的な掘り下げを混ぜて、書いていこうと思っています。
引用時のページは岩波文庫版を記しています。
149 :
1 :2010/11/02(火) 00:00:28 0
デカルト『方法序説』bR
最初にひっかかったのが、『方法序説』の「方法」って、なんだろうかということ。
正式な題名はこうなっています。
「理性を正しく導き、学問において真理を探究するための方法の話(序説)。
加えて、その方法の試みである屈折光学、気象学、幾何学」
Wikisourceでは「加えて」以降がありませんが、Wikipediaの画像で確認できます。
(
http://fr.wikipedia.org/wiki/Discours_de_la_methode )
ここで述べることは、「理性を正しく導き」つまり人やその生活を導くわけではなく、
「学問において真理を探究するための方法」です。つまり、学問を行なう際の方法論を述べているわけです。
その方法は第4部ではなく、第2部で書かれていて、その方法の試みとして3つの具体的な
自然科学の話が続きます。
『方法序説』は全体で500ページを越える大著の78ページを占めるにすぎません。
読み手である僕的には第4部のコギトと神の話を中心に考えていくわけですが、それがメインで
はないわけですね、デカルト的には。
150 :
考える名無しさん :2010/11/02(火) 01:24:01 0
「思う」から「ある」への論理の飛躍は尋常じゃない。西洋的思考の典型。 「ある」だけとれば、東洋人には当たり前に見えるだけだが。
151 :
考える名無しさん :2010/11/02(火) 01:38:27 0
思惟する主体の確認⇒思惟する主体=疑いない存在者といきなりもっていくあたり、エッと思う。 漱石はわざと書いてたのか、明治の知識人はまだ江戸時代の殻かぶってて西洋哲学の趣旨が てんでわかっとらんかったのか。 あと、コギトはやっぱりギリシャやスコラの伝統の延長線上にある概念なのか、まったく彼の独創になるのか。 とりあえず今は1さんの進行を待ちます。
>>150 飛躍じゃあないよ〜〜。
「リンゴが目の前にある」 けど、本当にあるのかってことでしょ。
1.あるかも知れないし、無いかも知れないね。それは疑えると。
2.でも、そこに「リンゴが目の前にある」と思う自分の思考は疑えないんだよ。
1.は極めて客観的だよね〜
2.は主観的なわけだ
つまり「自分はあるか」と疑っている自分はあるわけだね〜〜。
153 :
u :2010/11/02(火) 09:15:51 0
おもしろそうですね。参加させてください。できるだけしょうもない質問はしないようにするので・・
>>149 山田弘明が出したちくま学芸文庫の解説にそのことが詳しく書いてあったな。
この人は「方法序説」は退屈な書物だ、ってはっきり書いていて俺も同意だ。
というか、せめてポッシュ版とかフォリオ版とかの原書を脇に置いて進めたほうが良いよ。
本格的なやつだと困るだろうから、せめて文庫版のものね。
翻訳を読むんじゃ、デカルトの本当に言いたかったことは汲み取れないよ。
155 :
考える名無しさん :2010/11/02(火) 11:36:40 0
>>152 >>疑っている自分はあるわけだね
「疑っている」がどういう論理で「ある」になるの?思考と存在を結びつけてしまう前提は自明ではないのではと思ったてこと。
動詞には主語がある。この主語の存在は疑えないとも読める気がするけど。言語的意味だったんだろうか?
あと、考えて新しいことがわかったわけじゃないけど、神などからでなく個人の認識主体(公理)からはじめてすべてを演繹していく方法がまったく斬新だった
ということでそこを評価すべきってことかな?
>>155 ん〜〜。
飛躍っていうのは、最初から理解出来てないのか、途中から理解できてないのに、
最後だけ理解出来ちゃうから、飛躍になっちゃうのかなぁ。
順番に、理解していけば言ってることは分かるとおもうよ。
あるかないかって云う、懐疑論の話をしているのであればね、
目の前のリンゴが、あるか、ないかって疑うわけでしょ。
リンゴがあると言ってるわけではないよ。
でも、リンゴがあると思ってる自分はいるわけじゃない。リンゴらしきものを見ている自分がいるよね〜〜。
それが我思う。
>「疑っている」が、どういう理論で「ある」になるの?
じゃあ、そもそも、疑っているのか疑っていないのかってことに、戻ることになるよね。
で、この場合は、むろん、自分を疑ってるから〜。
「私を疑っている」と云う私の思考は疑えない
くどいようだけど、前提として、「私を疑っている」からね。
で、これは私があるかないかって云う客観論じゃないんだよ〜〜
あくまでも主観ね〜主観。
しかし、これは結構人に説明するの難しいね〜〜
157 :
155 :2010/11/02(火) 15:29:27 0
>>156 伝わってないな・・・全然。論証の筋はわかってる。そうじゃなくて・・・
1さんか、他に詳しい人の意見・解説を待ちます。
この飛躍の件、専門家はどういっておられるんだろうか?
158 :
考える名無しさん :2010/11/02(火) 15:51:59 0
>>リンゴがあると思ってる自分はいるわけじゃない 思ってる⇒自分が存在する の流れが自明とはおもえない。 確実なる自己意識を見つけたことと、その存在(実在)を確認することは別では?ってことさ。 まあデカルトに忠実に読んでいく立場なら、こう言ってたら進まないな。
159 :
158 :2010/11/02(火) 16:17:03 0
>>158 >>確実なる自己意識を見つけたことと、その存在(実在)を確認することは別では?
いいかたちがった。自己意識を見つけたこと(意識はある)と、私という「主体」を確認すること(私はある)は
は別では?と思いました。
>>157 何が分からないのか言ってくれないとちょっとねえ。
155は、理論の飛躍があるって言ってるわけだけど、どこが飛躍なのかねえ。
トートロジーだとしか思えないんだけど。
私が思うってことを理解できてれば、その同語反復なんだけど〜〜
じゃあ、デカルトは「私は思ってない」ってことなの?
結局、私は思ってるか、思ってないかしかないわけじゃん。
私は思う = 「私が思う」は正しい
私は思う ≠ 「私は思う」は間違っている でしょ〜〜
デカルトはそこで、『私らしきものが「私を思っている」』だから、私らしきものがいるじゃん。
そこで、『「私らしきものが「私を思っている」』は疑えないわけだよねえ〜〜。
感覚与件式にね。
これが我思う故に我ありだよ。
どこが間違ってるとか、どこが飛躍してるとか言ってくれなきゃわかんないかな〜〜
「われ思うゆえにわれあり」が、どのような命題を否定しているか考えればいい まず、「疑えるものは存在しない」と仮定してみた すべては疑える、、、 →したがって、何も存在しない →まてよ、という疑いはあるな →何も存在しないわけではないんだ! 何かが存在するのか、はたまた何も存在しないのか これがデカルトの最初の形而上学だ
デカルトはxy座標を発明した数学者だ デカルトはバリバリの数学オタだよ 「われおもうゆえにわれおもう」の論証は明晰、確実である これと同じくらい明晰、確実なものは真理と見なしてよい これがデカルトの最初の定理(実際にそう書いてる) 以降のデカルトは懐疑論ではない
163 :
考える名無しさん :2010/11/02(火) 17:30:22 0
疑っていることも含め、なんらかの(心的)現象が展開されていること(動詞) には、かならず主語(実在としての主体)が伴わなくてはならない、 という印欧語の構造からきてるのかな?という疑問です。
>>163 そういう解釈もあるかもね
俺のも一解釈でしかない
ただ、デカルトは懐疑主義が嫌いで(そう書いてる)
「真理はある」と思っていた
そこで「真理は本当にあるのか?」という問題をたてて
わざと懐疑論の立場をとることで
真理があることを論証しようとした
俺はこう解釈している
ユビーはキチガイだから相手にするだけ無駄です 117:考える名無しさん :sage:2010/10/30(土) 15:00:15 0 ユビーは各板を放浪してる荒らしコテですよ 荒らしまくって立場がまずくなったら他の板に移る 自分語りと中傷、粘着が得意な糞コテです 118:考える名無しさん ::2010/10/30(土) 15:17:50 0 各板とは? 119:考える名無しさん :sage:2010/10/30(土) 16:19:48 0 市況、文学、数学、最悪、育児板その他 どこでも荒らし認定されてしばらくして消えてます アク禁にもなってます
166 :
1 :2010/11/02(火) 18:17:40 0
スマホから書きこみ 草稿レベルですが参考に デカルト『方法序説』bP2 デカルトのコギトの話は、Cogito,ergo sumでいいのかな? 『ちくま』P234訳注115によると、デカルトは一度もこういっていないそうな。 一度、表現を確認します。 1637 『方法序説』(フランス語) Je pense,donc je suis.(■URL) 「余は思考す、故に余は存在す」(『吾輩は猫である』) 「ワレ惟ウ、故ニワレ在リ」(P46) 「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する」(P46) 「私は考える、ゆえに私はある」(『ちくま』P56」) 1641 『省察』(ラテン語) Ego sum.ego existo(■URL) 「私は在る、私は存在する」(『省察』P45) 1644 『哲学原理』(ラテン語) Ego cogito, ergo sum(■URL) 「われ思惟す、ゆえにわれあり」(『原理』P65)
167 :
1 :2010/11/02(火) 18:20:19 0
スマホから書きこみ 草稿レベルですが参考に デカルト『方法序説』bP2 デカルトのコギトの話は、Cogito,ergo sumでいいのかな? 『ちくま』P234訳注115によると、デカルトは一度もこういっていないそうな。 一度、表現を確認します。 1637 『方法序説』(フランス語) Je pense,donc je suis.(■URL) 「余は思考す、故に余は存在す」(『吾輩は猫である』) 「ワレ惟ウ、故ニワレ在リ」(P46) 「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する」(P46) 「私は考える、ゆえに私はある」(『ちくま』P56」) 1641 『省察』(ラテン語) Ego sum.ego existo(■URL) 「私は在る、私は存在する」(『省察』P45) 1644 『哲学原理』(ラテン語) Ego cogito, ergo sum(■URL) 「われ思惟す、ゆえにわれあり」(『原理』P65)
168 :
1 :2010/11/02(火) 18:21:04 0
『方法序説』と『原理』はフランス語とラテン語の違いはあるけれど、同じ内容のようだ。 山田弘明さんはその違いを「私」と「われ」、「考える」と「思惟す」など表現を変える ことで示しているのだろう。 あともう一つ「思う」と「考える」について。 メモなので不確かですが、谷川さんは『デカルト『方法序説』を読む』で、「思う」を胸 に秘めたイメージに関連し、「考える」をいろいろな事柄を比較し、組み立て構成する、 と捉えて訳したとあります。次の論理の導出についての諸説を考える際に参考になると思います。 なぜ違うのだろう 『方法序説』と『原理』では文の前が疑う自分についてのことであり、 『省察』の文の前は説得する自分が書かれている。 少し中途半端ですが、ここまででとめておきます。 ■深める? ■ノート参照
169 :
1 :2010/11/02(火) 18:23:58 0
デカルト『方法序説』bP3 さて、前回の調べをうけて、今読んでいる本が『方法序説』なのですから、まずは Je pense,donc je suis.にそって考えてみます。 『ちくま』P167によると、直観、行為遂行、推論の3つの解釈があるそうです。 まずは、この本に沿って整理します(【評価】は山田さんの評価。『ちくま』P167〜 の引用については、引用符はつけていません。)。 1 直観説 【内容】コギトは直観によって獲得された真理である。 【根拠】デカルト自身の発言。思惟から存在を三段論法によって演繹しているのではな く、あたかも自明なものとして精神の単純な直観によって知る」(「第2答弁」) 【評価】伝統的な解釈だが、直観がどういう論理か十分説明できていない。 2 行為遂行説 【内容】コギトの真理性は行為遂行によって獲得されている。 【根拠】ヒンティッカの解釈。いま「私は考える」と私が発話するなら、その発話行為を 遂行すること自体からして「私はある」と結論される 【評価】言語行為論の立場から直観の内的構造を説明したものである。しかし、「いかな る行為も、行為の主体なしにはありえない」ということであれば、「私は考える、 ゆえに私はある」と「私は歩く、ゆえに私はある」との間の重要な際を説明でき ない恐れがある。夢の仮説(注)によって後者は成立しない。 によって私は伝統的な解釈だが、直観がどういう論理か十分説明できていない。 (注)「夢がさまざまな対象を、われわれの外部感覚と同じやり方で表象することについ ては、それが、こうした感覚的観念の真理性を疑わせる機縁」(P55、『ちくま』 P65)となる。
170 :
1 :2010/11/02(火) 18:25:02 0
3 推論説 【内容】コギトは推論であるとする素朴な解釈。 【根拠】ウィルソンやパリアントの解釈。大前提からではないが、それに先立つ何らかの 命題を媒介にした論理的推論によって成立している。 コギトの直前の文章。(P46、『ちくま』P56)により、私が何をどう考え ようとも、考えるという属性が現にあるなら、それが帰属している「何ものか」 が存在していなければならない。つまり、私の思惟行為とその行為主体とは存在 論的に切り離せない。 【評価】『序説』のテキストを読む限り、この解釈が最も無理がない。 コギト以前にある命題の先行を認めるが、それは公理にほかならず、コギトのよ うに最初に知られ他を知るのに役立つ原理としての「第一原理」とはなりえない から、コギトが第一原理でよい。 突っ込もうと思う人はまだ早いです。次の同時代の哲学者やフッサールの批判を見てみましょう。 2,3の説はデカルトへの批判を受けた解釈ですから、元となる批判を読んでおくと、 突っ込みがよりうまくいくはずです。
171 :
1 :2010/11/02(火) 23:42:16 0
>>166 から
>>170 までは
>>157 への回答です。
と思ったら、連投はしているし、草稿の段階でもあり文章のつながりがわかりにくい。
しかも、コピペミスと思われる文章の重複もあるし。
そして、
>>163 でより疑問を特定していたのですね。
>>155 での、「疑っている」がどういう論理で「ある」になるの?
ということについては、
>>169 ,
>>170 での解釈の3類型が参考になると思います。
『ちくま』の説明の前にはこうあります。
「私は考える、ゆえに私はある」という「命題は、一体どういう論理によって導出された
のであるか。なぜ「私は考える」から「私はある」がでてくるのであるか。3つの解釈が
ありうると思われる。」(『ちくま』P166,P167)
また、『哲学の歴史5』で小林道夫さんは直観説に沿った説明をしています。
で、
>>163 でいうと「印欧語の構造からきてる」という点については、僕は今はなんとも
いえません。
グーグルで検索したら、養老孟司さんの『唯脳論』で以下の記述があるそうです。
「「考える」主体などというものは、言語の形式上、ここに紛れ込んできたものであって、
そんなものはもともと要らない。
……
ところで、デカルトはこのことに気がついていたのではなかろうか。というのは、かれの
言い方は、ラテン語でcogitoだからである。ここには「我」という主格が独立の語として
は現れていない。……脳の話に「我」が入るのは、話をややこしくしこそすれ、単純には
しない。」
http://plaza.rakuten.co.jp/neuron/diary/200809230001/ どこまでお話の件に関係あるのかわかりませんが。
172 :
1 :2010/11/02(火) 23:43:34 0
デカルト『方法序説』bS 序に各部の内容のまとめを書いてあります。。 デカルトは『省察』でも概要を書いて全体が見えるようにしてくれています。 それには、第1部は「学問にかんするさまざまな考察」(P7)とあります。 冒頭から、有名なくだりがでてきます。 「良識はこの世でもっとも公平に分け与えられているものである」(P8) 「良識とか理性」を「生まれつき平等に」具えているのに「意見が分かれる」のは、 「思考を異なる道筋で導き、同一のことを考察してはいない」(P8)からだとします。 というのも、「大切なのはそれ(良い精神 引用者注)を良く用いることだからだ」(P8)といいます。 なんか、聞いたことがある話。 機会平等である社会では経済格差は能力を用いたかどうかであって、 等しい条件で結果うまくいってないのは、あなたの能力の使い方が悪かったのだ、という話。 あるいは、お前が言うことをわからないのはお前が頭を使っていないからで、 よく考えれば俺と同じ結論になる、という話。 もちろん、否定的な場面だけではなく、 等しくある各人の能力を開発するための環境を整備しようとする社会の動きもあります。 そう、デカルトの思想は近代思想の源流とされるのだから、 思い当たるところがあって当然なのです。 デカルトはゆっくり、しっかり、考えていった人なのですから、 それを読む僕も、拙速に判断したり、無理に関連づけることなく、 ゆっくり、しっかり考えていかなくてはいけないのですが。 そういった目で見ると、「理性すなわち良識が、わたしたちを人間たらしめ、 動物から区別する唯一のもの」(P9)というのも、 自然に対する人間の優位を示す近代人の驕りを示すものだと見えてきます。 本当のところはどうなのでしょうか。 第5部に「われわれの魂と動物の魂との差異」(P7)があり、第6部にこれまた有名な 「自然の主人にして所有者」(P82)とあります。そこを読んでから考えることにします。
173 :
1 :2010/11/03(水) 00:00:53 0
>>145 『エチカ』おもしろいですよね。
絶版になっていますが、ブライエンブルクとのやりとりが載っている
『スピノザ往復書簡集』もおもしろかったですよ。
デカルトへの批判者としてスピノザには少し登場してもらうつもりです。
>>146 デカルトへのスコラ哲学の影響を考えると、読んでみたいなぁ。
しかも副題が「近代の源流としての」なんですね。
よかったら、教えてください。
>>166-167 方法序説のラテン語訳と同じである哲学原理の表現は
Ego(われ)が付いているだけで、cogito ergo sumですよ
方法序説は短いのだから、普通に最初から読書会形式で要約していけば良いと思う。
176 :
1 :2010/11/03(水) 22:00:34 0
> 153 uさん
>>1 に挙げた本や著者に関係ないことの話をずっと続けなければ、OKです。
本を読み、ご自分で考えた結果でてきた質問に、しょうもない質問はないと思いますよ。
> 154
>>144 に書いていますが、ちくま学芸文庫版も読んでいます。
>>149 は、たしか岩波文庫の解説P129に自分の考えたことを加えたつもりですが、読んだ記
憶が残っていてそう書いているかもしれません。もう一度読み返してみます。
あと、確かに山田さんは『ちくま』P5で「読みづら」く、「退屈であった」と書いてい
ますし、フランス人の学生も同感だというエピソードを書いています。
ただ、めくってすぐのP6では「その後デカルトについて少しばかり勉強してきた今の筆
者には、『序説』は読むには依然として難しいが、底知れない面白さを秘めていると思わ
れるようになった。というのも、それをデカルト自身の生と哲学的発展とを重ね合わせて
読み直してみるとき、一行一行に深い思想の含蓄があり、率直で快活な若いデカルトに出
会う思いがするからである。」とあります。まぁ、つまらない本を私は訳しました、と書
く人もいないでしょうが。
このスレで154さんが山田さんと同じようなデカルトとの出会いがありますように。
> 翻訳を読むんじゃ、デカルトの本当に言いたかったことは汲み取れないよ。
ちょうど第3部の解釈で困っているところがあるので、フランス語での文章を書くときの
お作法を教えてください。学者さんによって解釈がちがうような気がするし、フランス語
で逐語訳以上のことはできないので(他の言語でそれ以上のことができるという意味では
ありませんがf(^^;))。
177 :
1 :2010/11/03(水) 22:02:43 0
デカルト『方法序説』bT 第1部続き よい学校に行って語学、哲学、法学、医学などを学んで卒業はしたけれど、どうも満足で きなかった。数学を論拠の確実性と明証性から好みつつも、諸学問への不満を書いています。 「哲学には論争の的にならないものはなく、したがって疑わしくないものは一つもない」(P16) デカルトの時代から変わっていないなぁ、と思いながら読んでいると、 「ほかの諸学問については、その原理を哲学から借りているかぎり、 これほど脆弱な基礎の上には何も堅固なものが建てられなかったはずだ」(P16) と、現代ではそんなに哲学の地位は高くないよなぁ、とため息をつきつつも、 デカルトは哲学が諸学の基礎であると考えていました。 ここで少し戻ります。 「数学の基礎はあれほどゆるぎなく堅固なのに、もっと高い学問が何もその上に築かれな かったのを意外に思った」(P15)数学のほうが哲学よりも堅固なものと考えていたわけです。 卒業後、旅をし、宮廷や軍隊を見て、「世界という書物」(P17)のなかで探求していくなかで 次のことに気づきます。 「われわれにはきわめて突飛でこっけいに見えても、それでもほかの国々のおおぜいの人 に共通に受け入れられ是認されている多くのことがあるのを見て、ただ前例と習慣だけで 納得してきたことを、あまり堅く信じてはいけないと学んだことだ」(P18) 自文化についていえば、現在納得していることも実は理性に従ったものではないことがあ るという視点が必要であるということ。 他文化についていえば、習俗の行なわれる理由を理性に照らして判断すること。 行為の規準への理性の適用と慣習への懐疑と言えます。
178 :
1 :2010/11/03(水) 22:30:11 0
>>176 解釈の相談は後ほど整理してからいたします。
その際はよろしくお願いします。
176さんのほかにもフランス語がわかる方々、
教えてください。
冒頭部のbon sensは、デカルトもチェックしたラテン訳ではbona mensとなっているのが興味深いところ ちなみにraisonはrecta ratioと訳されている
180 :
考える名無しさん :2010/11/04(木) 21:39:49 0
ぼくらが原書読まなきゃ厳密な哲学読解・思索に至らないとしたら、 ラテン語、ギリシャ語を使わないでフランス語やドイツ語や英語で思索・執筆してた 彼らはどうだったのだろうか?
このスレは珍しく荒れてないね
彼ら、って誰だ? デカルトはラテン語で多くのものを書いているし 最初の頃ラテン語で論文を書いていたカントのドイツ語が変なのは 基本的にラテン語で考えていたからだ、というのは良く言われること
>>182 ちょっと時代は下るが、フッサールはどうだ?
古典語も含めて、それほど教養があったとは思えないが?
184 :
げおるぐ :2010/11/04(木) 22:46:35 0
分析哲学なら英語だけでよし。 ウィトゲンシュタインは、伝統的哲学はやってないみたいだし。読んでない。 工学と数学やってた。 理系のぼくには分析哲学がいいみたい。英語だけなら語学の障害もないしね。
185 :
げおるぐ :2010/11/04(木) 23:03:09 0
いやちがうか。ドイツ語もやっぱり必要ですね。 英訳でもほんとは語意にズレあるかも。 でもラテン語やギリシャ語まで意識せんでもいいってことで。 語学にまで手が回らんもんですから。
彼がラテン語でアウグスティヌスを読んでいたことすら知らないなんて・・・
187 :
考える名無しさん :2010/11/04(木) 23:11:31 0
ああ、そうなの? 何も知らんのです。もともとガチガチの理系人間ですから。 それにしても彼が中世神学まで読んでたとは。
別に語学に構える必要はないけど 欧米ではラテン語やギリシャ語ぐらい(どちらか片方だけでも)学んでいるのは 文系とか理系(これ自体日本の区別だ)とか関係なく ある程度以上の教育を受けた人間には普通のことだったのよ ウィトゲンシュタインの場合は、少し後から、自ら望んで 原文で読むためにラテン語を学んだようだけど ちなみに、彼はラテン語で手紙を書いたりするぐらい入れ込んでますw
189 :
げおるぐ :2010/11/04(木) 23:22:15 0
いつごろ彼は神学まで読みだしたんでしょうか? 彼の思想のなかにも入り込んでたんでしょうか? それとも、批判対象として検証してみる意味で読んでたんでしょうか? ラテン語の書物も押さえとかないと、分析哲学は厳密には読めんのでしょうか? 何も知らんですいません。 また話それて1さんには申し訳ないです(笑)。読み方とか事情とかも知ってる人 に聞いてみたかったもんで。
190 :
考える名無しさん :2010/11/04(木) 23:37:58 0
>>188 なるほど。昔の中等教育はラテン語学校とかグラマー・スクール(英は今もそういいますね。)
とかで専門が固まる前に西洋の人文学・古典語を修めてたみたいですね。
自然科学系だと、読むのも書くのも文献は全部英語(笑)。他の語学できんままで来てます。
日本だと、専門が人文学系じゃないかぎり理文関係なく事情は近いかもしれんですね。
ウィトゲンシュタインにアウグスティヌスが「哲学的に」一番影響を受けたと言われているのは
大体、論考を書いた後
ウィトゲンシュタイン自身は、生まれた文化圏もあるし
その後の、アメリカで発達した分析哲学とは、少し違う視点で見たほうが良いかもね
>>189 一番重要なのは、アウグスティヌスについては
単純に「神学」とは理解しない方がいいのじゃないかな?
もちろん切り離せないけどね
素直に読んで見たら、古代の最後の輝きで哲学的にも面白いよ
ウィトゲンシュタイン自身についての話であれば
彼自身は、宗教的な問題についても色々と考えていた、というのはあるね
ウィトゲンシュタインの理解に、アウグスティヌスをラテン語で読むことが必須だとは思わないけど
アウグスティヌスは読んで見ても面白いと思うよ
ただ日本語訳は、必ずしも良いとは言えない・・・
このスレは哲学板の良心
193 :
げおるぐ :2010/11/05(金) 00:08:01 0
>>191 なるほど。よくわかりました。ありがたいです。
ウィトゲンシュタインの宗教観にも興味出てきました。
その前にまず「論考」。数ヵ月後までとっときましょう(笑)。
アウグスティヌスは、ほんのさわり以外全然読めてないんですが、
歴史区分上は古代末期にあたり、哲学上は中世初期という、分水嶺にあたるらしいですね。
そういう視点では面白いかも。デカルトもそうですが。
194 :
1 :2010/11/05(金) 00:25:39 0
デカルト『方法序説』bU
第2部は「わたしが探究した方法の主たる規則」(P7)とあります。
第1部のデカルトの経験の続きから始まります。
これまた有名な炉辺での思索です。街や建物の建築になぞらえて、思索を進めます。
「真理については、ただ一人の人がそういう真理を見つけだしたというほうが、
国中の人が見つけだしたというより、はるかに真らしいから、賛成の数が多いといっても
何ひとつ価値のある証拠にはならない」(P26)
どこかで読んだような文章です。
>>6 「僕たちが気づかわなければならないのは、特にすぐれた人たち」
従うべきは大衆ではなく、善いことを知っている人たちの意見であるとソクラテスが話すくだりです。
>>177 bTの「行為の規準への理性の適用と慣習への懐疑」も考えてみれば、
>>85 の「論
理によって行動するソクラテス」に似ています。
そして、明証性の規則、分析の規則、総合の規則、枚挙の規則の、4つの規則を掲げます
(P28・P29)。これらの規則を厳密に守ることで、幾何学的解析と代数学の「以前
たいへん難しいと思っていた多くの問題を解いてしまっただけでなく、しまいには、知ら
なかった問題さえも、どういうやり方でどこまで解けるかを決定できる、と思われたほど
だ」(P31)とまでいいます。この4つの規則が
>>149 bRの学問の方法というわけです。
もっともデカルト自身が具体的に他著作で各規則の適用例を示したりはしていないようで
すし、その方法の試みである屈折光学、気象学、幾何学との「関係であるが、これもまた
不透明である」(『ちくま』P141)とされています。
確か
>>149 bPで見たように「その方法の試みである」と題名につけていたはずなのに、
と心の中で突っ込んでおきます。
まだ23歳だったデカルトは、数学で有効であった4つの規則を哲学に適用しようとしま
すが、「もっと成熟した年齢に達するまでは、これ(哲学において原理を打ち立てること
引用者注)をやりとげようと企ててはならないと考え」(P33)ます。
195 :
1 :2010/11/05(金) 00:41:57 0
>>174 「コギト-エルゴスム 」の語の意味として「我思う、故に我あり」というけれど、デカル
トはそんなことを書いていないといいたかったのです。標語として使う分にはいいのですが。
「「我思う、ゆえに我あり」と訳される。すべての仮構的権威を排したあとで、絶対に疑
いえない確実な真理として、考える我という主体の存在を提起したもの。デカルトの言葉。」
(
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/76493/m0u/ )
>>175 読んで自分がどう考えていることもまとめているので、確かにまとめるのに時間がかかっ
ています。僕はゆっくりまとめていきますので、もしよろしければ、先行してして>175さ
んに読書会形式で要約していただけると助かります。 (^-^)/ ヨロシク
196 :
1 :2010/11/06(土) 11:38:32 0
デカルト『方法序説』bV 第3部は「わたしがこの方法からひきだした道徳上の規則のいくつか」(P7)とあります。 デカルトは自らの道徳を定め、いくつかの格率を示します。(P34〜P38) ここでもソクラテスを思い出してみます。 第1の格率はソクラテスも同じように法律(と慣習)に従うこととしていました。 が、従う理由は?とみてみると、デカルトは「極端からはもっとも遠い、いちばん穏健な 意見に従って自分を導いてい」き、「いちばん良識ある人たちの意見に従う」(P34・P35) というものです。 それはソクラテスが従う理由、国法との対話(『クリトン』50A)で示される論理とは 違い、なんとも保守的な印象を受けます。 しかし、天動説を唱えたガリレイの『天文対話』が否認されたなどの当時の社会状況(P133、 『ちくま』P250訳注197)を考えると、現代日本の感覚で批判はできません。 また、ソクラテスの話は裁判前に分かっていたのは嫌われているということであって、裁 判をおこされる前に死刑になると思っていたかどうかとはわかりません。ですから、デカ ルトのように社会的な断罪を受ける恐れというものとまったく同じではありません。 また、デカルトのそうした考えにもかかわらず、『方法序説』、『省察』の出版後、無 神論者として告発され、ユトレヒト大学はデカルト哲学に関するいっさいの著作の販売や 出版を禁止しました。 もちろん、1643年から『情念論』につながるエリザベト王女との文通が始まり、スウェー デン女王クリスティナからの招きを受け進講するほどで、信奉者もいたわけですが。
197 :
1 :2010/11/06(土) 11:40:40 0
デカルト『方法序説』 番外
>>154 、
>>176 で書いていた件について
ここで疑問が一つ。
P39(『ちくま』P49)に「最後にこの道徳の結論として〜」とあります。これを格
率に入れるかどうか、です。
「この結論「真理探究をして自己を教育し続けることが、満足のいく最高の生き方である」
を、第4の格率とみなすことができる。第3部のはじめで、「3,4の格率」(略)と言
われていたことを想起すべきである。だがこれはデカルト個人にのみ関わることなので、
普遍化することが可能な3つの格率とは同列に置かれていない」(『ちくま』P227訳注88)
とあります。岩波文庫でも「3つ4つの格率」(P34)とあります。
"Discours de la methode"のWikipedia(
http://fr.wikipedia.org/wiki/Discours_de_la_methode )でも
第3部(Troisieme partie)で4つ目の格率として書いてあります。
該当箇所のフランス語原文をWikisourceで確認しておきます。
http://fr.wikisource.org/wiki/Discours_de_la_methode/Troisieme_partie "qui ne consistoit qu'en trois ou quatre maximes"
~~~~~~~~~~ ~~~~~~~ ~~ ~~~~~~ ~~~~~~
からなる 3 または 4 格言
デカルト自身が3つ、4つといっているのかぁ。
うん?普通に考えればデカルトは4つの格率と書くんじゃないか?
198 :
1 :2010/11/06(土) 11:46:29 0
番外続き
「先の3つの格率も、自分を教育しつづけていこうというわたしの計画にもとづいたものに
ほかならない」(P40)とあるように、結論的に述べていることから格率は3つでよいのではないか?
そもそも『方法序説』はP11にあるように自分の努力を示すことだし、谷川多佳子さ
んは「実生活の指針が、3つの規則」(P130)としています。
また、小林道夫さんも「暫定的な生き方の方針すなわち「仮の道徳」と呼ばれるもので、これ
は「3つの格率」からなり、それが『方法序説』の第3部で提示されている」
(『哲学の歴史5』P176)としています。
もう一度読み返すと、山田明弘さんの引いている文章に類似の表現として「先の3つの格率も、
自分を教育し続けていこうというわたしの計画にもとづいたものにほかならない」(P40)
とあります。
「自己の思想あるいは理性の開発こそが最善の途であるという決意に直結する」(『デカ
ルト入門』P56)と小林道夫さんは書いています。
やはり、格率よりも上位の方針なのではないだろうか?
「デカルト個人にのみ関わる」からと4つ目の格率と訳者の山田さんはいうけれど、
もともと自分のために定めた道徳であり、「普遍化することが可能な3つの格率とは同列
に置かれていない」というのなら、別物として扱うほうが筋が通っていると思うなぁ。
みなさんはどう考えますか?
フランス語は大学の教養課程で学んだだけなので、あやしいです。
infoseekマルチ翻訳(
http://translation.infoseek.co.jp/ )を利用しています。
細かすぎるし、フランス語の読解の話もでてくるので、番外として書き込みの対象外にし
ていたのですが、
>>154 さんが書いてくださったので書いてみました。
maximesのの意味、「最後にこの道徳の結論として〜」の段落のフランス語の
読解に限らず、内容の面からも意見をいただければ、幸いです。
我流の読みだが、cogito ergo sumのsumを東洋的な意味の現象で 読んだらそりゃ意味分からんよ。 西洋哲学は現象についてはあまり興味持って無いからね。 そういう意味で言ったならcogito ergo existoって書いたはずだ。 アウグスティヌスが書いてるように、 これはアカデメイア派の懐疑論に対する論理的な反駁。 「トートロジーが真であることくらい認めろや」というだけの話だ。
「現象を救え」から始まった西洋哲学。
個々の現象より法則だからな。 本質essentia論が台頭するのもその影響だろうし。
個人的に、デカルトの現代的な読みは当時の思想界では、 そんな重要視されてなかったと思う。 17世紀の本はよく読むけど、デカルト学派で一番よく引用されるのは、 人間機械論とかの生理学に関する部分。 コギトうんたらなんてまず出てこない。 まあ人間機械論自体が当時は相当インパクトのある主張なんだが。
203 :
1 :2010/11/07(日) 20:58:41 0
デカルト『方法序説』bW 第3部続き で、読んでいくと「よく行うためにはよく判断すれば十分であり、したがって、最善を尽 くすためには、つまり、あらゆる美徳とともにわれわれの手に入りうる他のすべての善も 獲得するためには、できるかぎりよく判断すれば十分なのである」(P40・P41) ここを読む限り、ソクラテスの「よく生きる」はデカルトにとっては「よく判断すればよ い」ようです。ここで、訳語としての「善」が同じだから同じと考えてはいけないけれど、 実生活で求めるものとして考えているものと(bVの話を脇において)考えると、よく判 断すればよいという考え方は、先の格率とは違って違和感なく僕には受け入れられます。 「これらの格率をこのように確かめ、これらを、わたしの信念のなかでつねに第一であっ た信仰の真理とあわせて、ひとまず別にしたのちは、自分の意見の残り全部について、そ れらを自由に捨て去ることができると判断した。」(P41) ちょっと待てよ。デカルトはすべてのことを疑ったというけれど、生活においては格率と 信仰の真理は捨てられない、と言っているのか。ふぅん。 さて、ここまでを考えた後1620年3月(デカルト34歳)頃旅にでて、9年後にオ ランダに隠れ住み、終生をオランダで過ごすこととなります。
「デカルトの現代的な読み」というのが何を意味しているのか今一つ分からないけど je pense, donc je suis自体、いわゆるcogito自体はそれなりに表現としては知られたんじゃない? パスカルみたいに、早々に「アウグスティヌスも言っていることで新しくはない」とか 精神的実体の実在を表明するものとして解釈されることが多かったのは確かだけど
知られてたっていうかそのまんまなのがアウグスティヌスにあるから、 当時の知識人が知らないはずがない。 文脈もアカデメイア派の隆盛→カウンターとしてのアウグスティヌス、 ピュロニズムの復権→カウンターとしてのデカルト、 という流れが一致してて、デカルトがこの点で西洋哲学に大きな何かを付け加えた ってのは、 ありえんと思う。 既出だがデカルトは宇宙機械論とか松果体説の方が重要。 あのあたりで身体と精神の関係が生理学的に問題になり始めた。
206 :
考える名無しさん :2010/11/09(火) 20:02:18 0
なるほど、いよいよ本格的な科学的思考のはじまりとしての デカルトってことか? たしかに、科学上の業績多いなあ。すごいよ。ニュートンも何度も何度も デカルトの自然学を読み返して勉強してたらしいし。
それこそ身体と精神の生理学的関係なんて 医学的伝統の中で、13世紀から論じられてるよ アウグスティヌスとデカルトがそのままイコールだと言ってしまうのは かなりの暴論で、どれぐらい近いかどうか自体が哲学史的な大問題
208 :
1 :2010/11/09(火) 21:18:56 0
デカルト『方法序説』bX 第4部は「神の存在と人間の魂の存在を証明する論拠、つまり著者の形而上学の基礎」 (P7)とあります。 この部についてはこれからの予定を先に書いておきます。 あくまでも予定であり、文章量や僕の理解、能力から変更になることがあります。 bP0 第4部前書き bP1 コギト1 方法的懐疑 bP2 コギト2 『方法序説』、『原理』、『省察』による違い bP3 コギト3 論理の導出についての諸説1 bP4 コギト4 論理の導出についての諸説2 bP5 神の存在証明1 観念内容の原因として神の存在が帰結される bP6 神の存在証明2 神の観念をもつ私の存在の原因の探求 bP7 神の存在証明3 存在論的証明 bP8 デカルトの循環1 概要、諸説1 bP9 デカルトの循環2 諸説2 bQ0 第4部後書き 心身二元論は第5部でまとめてやります。 同時代の哲学者やカントの批判は、まだ整理しきれていないので後回しにしました。 カントの批判はいれるつもりですが、同時代の哲学者の批判は省略するかもしれません。
209 :
1 :2010/11/09(火) 21:22:32 0
デカルト『方法序説』bP0
まずは、本題に入る前に少し。
第4部冒頭の文章はデカルトの韜晦かとも思いますが、「わたしが選んだ基礎が十分堅固
であるかどうか判断してもらうため」(P45)に、この部を書いたとあります。
そして、『方法序説』を読んだ人々からの手紙に対して、神と精神について詳しく書いた
『省察』をデカルトは書いています。
「そこで綿密に扱おうとしたのではなく、ただ問題を試みに提示して、あとでその問題を
どういう仕方で論じればよいかを、読者の判断から学ぼうとしたのである」(『省察』P21)
デカルトは『方法序説』での神の存在の議論の「曖昧さ」について、手紙で3つの原因を
書いています。以下は、『ちくま』P171の抜粋です。
「本屋にせかされギリギリになってようやく書き加えたものであるので、最も重要な部分
でありながら、最も推敲されていない」
「ご婦人方にも何がしかのことが分かってもらえるようにするために、精神を感覚から引
き離すなどの懐疑論的な議論を詳しく述べられなかった」
「私にとって身近で明証的な概念、たとえば観念は対象の内またはわれわれの内にある実
在性しか表象しえないことは、だれにとっても明証的であるはずだと考えていた」
しかし、詳しく述べた『省察』でも、「「7回読んでも納得できない」という当時の神学者たちの
叫び声が収録されているが、これがおそらく通常の反応だったかと思われる」(『省察』P242)
そうです。
『方法序説』を読んでその説明をわからなくて当然、と自分を慰めておきます。
なお、『省察』の三木清訳が校正予約(点検前)中のようですが、青空文庫にあります。
http://www.aozora.gr.jp/cards/001029/files/43291_21543.html
210 :
1 :2010/11/10(水) 21:18:06 0
デカルト『方法序説』bP1 コギトの次に、神の存在証明という順序は、『序説』、『省察』、『原理』どれも変わり ません。 実生活では「ひどく不確かだとわかっている意見でも、疑う余地のない場合とまったく同 じように、時にはそれに従う必要がある」(P45)とする一方で、「真理の探究」の場 面では「ほんの少しでも疑いをかけうるものは全部、絶対的に誤りとして廃棄すべき であり、その後で、私の信念のなかにまったく疑いえない何かが残るかどうかを見きわめ」 (同上)る。 方法的懐疑、つまり、真理探究のために疑うわけです。 その真理探究の邪魔をする、感覚、誤謬推理(誤った推論)、夢の幻想をそれぞれ真でな いとして廃棄し、「すべてを偽と考えようとする間も、そう考えているこのわたしは必然 的に何ものかでなければならない、と。そして「わたしは考える、ゆえに私は存在する」」 を「哲学の第一原理」(P46)とします
211 :
1 :2010/11/10(水) 21:19:14 0
デカルト『方法序説』bP2
デカルトといえば、Cogito, ergo sum(コギト・エルゴ・スム)とすぐでてきます。
「この命題は解釈者たちによってラテン語でCogito,ergo sum(コギト・エルゴ・スム)と
表記され、デカルト哲学の標語とされてきた。だが、厳密に言えばデカルト自身がこの
ラテン語表記をしたことは一度もない」(『ちくま』P234訳注115)とあり、同訳
注には以下の内容が書かれています。
『方法序説』(フランス語 原文) Je pense, donc je suis.
『方法序説』(第三者によるラテン語訳) Ego cogito, ergo sum, sive existo
『省察』(ラテン語 原文) Ego sum, ego existo
『哲学原理』(ラテン語 原文) ego cogito, ergo sum
『真理の探究』(第三者によるラテン語訳)cogito, ergo sum
デカルトの使用例をみるかぎり、あくまでも標語、と理解しておいた方がよさそうです。
また、それぞれに対する日本語訳は、以下のとおりです。
『方法序説』 「ワレ惟ウ、故ニワレ在リ」(P46)
「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する」(P46)
「私は考える、ゆえに私はある」(『ちくま』P56」)
『省察』 「私は在る、私は存在する」(『省察』P45)
『哲学原理』 「われ思惟す、ゆえにわれあり」(『原理』P65)
『方法序説』と『原理』でフランス語とラテン語の違いを山田弘明さんは「私」と「われ」、
「考える」と「思惟す」など表現を変えることで示しているのでしょう。
メモなので不確かですが、谷川多佳子さんは『デカルト『方法序説』を読む』で、「思う」
を胸に秘めたイメージに関連し、「考える」をいろいろな事柄を比較し、組み立て構成す
る、と捉えて訳したとあります。4つの規則(
>>194 bU)を想い起こせば、「思う」では
なく「考える」が適当だとわかります。
なお、「表記の相違を根拠として、『方法序説』と『省察』とではコギト命題の意味が異
なるとする解釈(略)が出てきている」(『ちくま』P234訳注115)とあります。
これについては、時間がなく調べることができませんでした。
212 :
1 :2010/11/10(水) 21:20:16 0
デカルト『方法序説』bP3 『方法序説』のJe pense,donc je suis.にそって考えてみます。 「私は考える、ゆえに私はある」という「命題は、一体どういう論理によって導出された のであるか。なぜ「私は考える」から「私はある」がでてくるのであるか。3つの解釈」 (『ちくま』P166,P167)、直観、行為遂行、推論があるそうです。 この本に沿って整理しておきます(【評価】は山田弘明さんの評価。『ちくま』P167〜 の引用については、引用符はつけていません。)。 1 直観説 【内容】コギトは直観によって獲得された真理である。 思惟から存在を三段論法によって演繹しているのではなく、あたかも自明なもの として精神の単純な直観によって知る」(「第2答弁」) 【主張】デカルト 【評価】伝統的な解釈だが、直観がどういう論理か十分説明できていない。 2 行為遂行説 【内容】コギトの真理性は行為遂行によって獲得されている。 いま「私は考える」と私が発話するなら、その発話行為を遂行すること自体から して「私はある」と結論される。 【主張】ヒンティッカ 【評価】言語行為論の立場から直観の内的構造を説明したものとして注目されている。し かし、「いかなる行為も、行為の主体なしにはありえない」ということだけであ れば、「私は考える、ゆえに私はある」と「私は歩く、ゆえに私はある」との間 の重要な差異を説明できない恐れがある。夢の仮説(注)によって後者は成立しない。 (注)「夢がさまざまな対象を、われわれの外部感覚と同じやり方で表象することについ ては、それが、こうした感覚的観念の真理性を疑わせる機縁」(P55、『ちくま』 P65)となる。
213 :
1 :2010/11/10(水) 21:21:18 0
デカルト『方法序説』bP4
3 推論説
【内容】コギトは推論であるとする素朴な解釈。
大前提からの演繹ではないが、それに先立つ何らかの命題を媒介にした論理的推
論によって成立している。コギトの直前の文章(P46、『ちくま』P56)に
より、私が何をどう考えようとも、考えるという属性が現にあるなら、それが帰
属している「何ものか」が存在していなければならない。つまり、私の思惟行為
とその行為主体とは存在論的に切り離せない。
【主張】ウィルソンやパリアント
【評価】『序説』のテキストを読む限り、この解釈が最も無理がない。
コギト以前にある命題の先行を認めるが、それは公理にほかならず、コギトのよ
うに最初に知られ他を知るのに役立つ原理としての「第一原理」とはなりえない
から、コギトが第一原理でよい。
なお、小林道夫さんは『哲学の歴史5』では直観説、『デカルト入門』では直観説と行為
遂行説をあわせた考えを紹介しています(入門向けということで通説を採っているのかも
しれません)。
さて、これらの推論について細かく検討に入りたいところですが、各説の著作について読
む時間がとれませんでした。ただ。どうも決定的な解釈はないようです。
>>148 の、「三つ子にでもわかるような真理」、僕には今ひとつわからないなぁ。
俺は単純に3だと思う。 で、変だと指摘されて1に切り替えたんじゃなかろうか。 俺は哲学じゃなくて歴史が専門なんで、 デカルトの理由付けがそもそも十分じゃないんだから、 完全な説明は無理で最後直観に逃げたって解釈しても変には思わない。 2は現代的すぎるっていうか、歴史的文脈がぶっとんでる気がする。 言語行為論なんて当時あったんかと。
>>211 デカルトのラテン語は、古典ラテン語とも中世スコラのラテン語とも
ヒューマニストの復興古典ラテン語とも違う癖のあるラテン語だし
哲学の言語としてのフランス語は、まだまだ不安定だし
その一文にこだわってpenserやcogitoが「思う」か「考える」かと悩むよりも
前後の文脈から、何が含まれているのかを考えた方がいいよ
ヒンティカの論文は、論理学的にテクニカルな話もしていないし読んで見たら面白いよ
>>212 のまとめから受ける印象よりもバランスが取れていて面白いと感じるはず
そのまとめで【評価】と書かれている部分についても、
むしろ、その差異が推論説では説明できなくなるという所から
彼の議論が出てきていて、その話自体を論文の中でやっているので、その「評価」は、あまり公平とはいえない
確かに分析系の議論は、引き寄せすぎになるものも多いけど
この場合は、例えば「省察」で
Adeo ut, omnibus satis superque pensitatis, denique statuendum sit HOC PRONUNTIATUM,
Ego sum, ego existo, QUOTIENS A ME PROFERTUR, vel mente concipitur, necessario esse verum.
という、そのまんまの文章があったりすることが背景にあるので、それほど強引とも言えない
というわけで「省察」の場合は
>>211 の前後も引かないと、議論の展開が見えなくなってしまう
217 :
214 :2010/11/11(木) 10:33:15 0
>>216 サンクス。でもその箇所からじゃよく俺には分からんな。
hoc pronuntiatum, quotiens a me profertur, necessario verum est
という構造だけ抜き出してみれば、profero ergo sumとなるし、
vel mente concipiturがcogitoのことだと仮定すれば、
cogito ergo sumを別の表現で言い換えてるだけにも見える。
結局「じゃあなんてprofero ergo sumなのよ?」という問題が生じて、
最初に戻っちゃうのでは?
まあ原論文読めばいんだろうけど、さすがに今は時間がない。
218 :
1 :2010/11/11(木) 22:43:37 0
219 :
1 :2010/11/13(土) 00:10:35 0
デカルト『方法序説』bP5
デカルトの神の存在証明を、『方法序説』にでてくる順に神の存在証明1、神の存在証明2、
神の存在証明3とします。
神の存在証明1 観念内容の原因として神の存在が帰結される
神の存在証明1は、岩波文庫では、P48の4行目「続いて」からP49の7
行目まで、『ちくま』では、P58の6行目「それにつづいて、」からP59の10行目
までです(最終行の終わりの文字は示していません。)。
判 断 思 考 内 容
1わたしが疑っている
↓ 2疑うよりも認識することの方が完全性が大だから
3わたしの存在は不完全である
↓ 4わたしより完全な何かを考えることをどこから学んだか、考えた
↓ 無から得ることは不可能
↓ わたし自身から得ることもできなかった
5現実にわたしより完全なある本性から学んだにちがいない
↓ 6わたしの存在よりも完全な存在の観念はどこから得たのか、考えた
7わたしよりも真に完全なある本性によってわたしのなかに置かれた
↓ 8わたしよりも真に完全なある本性とは何か、考えた
↓ それはわたしが考えうるあらゆる完全性をそれ自体のうちに具えている
9神である本性だ
疑問1 4で、わたし自身から完全な何かを考えることはできないのか?
疑問2 6、7で、なぜ完全な存在の観念が外部からきていると考えるのだろうか?
「神が私を創造したとき」「その観念を私のうちに植えつけたということは、な
んら驚くべきことでない」(『省察』P81)とデカルトはそのことを信じてい
るように読める。
また、
>>209 bP0のように「明証的」と考えていたくらいですから、その説明が
わかりにくいのもやむをえないのかもしれません。「スコラ的議論が略述されて
いるのみで分かりにくい」(『ちくま』P238訳注126)とあり、詳細はそ
の議論を踏まえないと判断はできませんが。
220 :
1 :2010/11/13(土) 00:12:16 0
デカルト『方法序説』bP6 神の存在証明2 神の観念をもつ私の存在の原因の探求 神の存在証明2は、岩波文庫では、P49の7行目「これに加えて、」からP50の1行 目まで、『ちくま』では、P59の11行目「それに、」からP60の4行目までです。 判 断 思 考 内 容 わたしは自分の持たないいくつかの完全性を認識している ↓ わたしは現存する唯一の存在者ではなく、 他のいっそう完全な存在者が必ずなければならない 『ちくま』P239訳注132では次のように整理してあります。 1私は完全者の観念を知っている ↓ 2私は完全者ではない ↓ 3私は自分ひとりによって独立に存在しているのではなく、 ↓ 私の存在や本質は完全者に依存している 4私があるなら、神もまたなければならない 疑問 3でなぜ完全者に依存しているといえるのか。
221 :
1 :2010/11/13(土) 00:13:44 0
デカルト『方法序説』bP7 神の存在証明3 存在論的証明 神の存在証明3は、岩波文庫では、P52の1行目「これにひきかえ」からP52の6行 目まで、『ちくま』では、P62の3行目「ところが、」からP62の9行目までです。 判 断 思 考 内 容 1完全な存在者である神の観念のなかに存在が含まれる←補筆 ↓ 2三角形の観念のなかに三角の和は2直角に等しいが含まれる ↓ 球の観念のなかにそのすべての部分は中心から等距離にあるが含まれる 3神の観念がある以上は完全な存在者である神が存在することは、 少なくとも幾何学のどの証明にも劣らず確実である 『方法序説』の文章だけでは分かりにくいので、『ちくま』P176から抜粋します。 「幾何学の真理は明証的だが存在には関わらない。しかるに、神の観念に存在が含まれる ことは、幾何学の真理と同じく明証的である。よって神は存在する。」というもので、 「この証明は11世紀の神学者アンセルムスに由来する」(注)ということだそうです。 「われわれにとって最も理解しにくいのは、「神の観念に存在が含まれる」という点であ」る。 「第5省察」で「神の観念には必然的に(つまり神の定義上)存在が含まれており、 存在を欠いている神を考えることは矛盾である」とデカルトは言う。 「神の観念の中から「存在」という神に特権的な属性を、何らかの仕方で取り出す作業」 にデカルトが成功しているかどうか、なぜ特権的な属性か、そういう議論が論理的に有意 味かどうかについては、現在も議論が多い。」 (注)「アンセルムスは神の「定義」から背理法によってそのその存在を引き出すのに 対して、デカルトは神の「本性から直接その存在を帰結して」いるという違いがある。 (『デカルト入門』P117・P118) 疑問 1について『ちくま』の説明を読んでも了解できません。
222 :
1 :2010/11/16(火) 20:46:58 0
デカルト『方法序説』bP8
デカルトの循環とは、『方法序説』では岩波文庫P54の3行目「なぜなら、」から5
行目まで、ちくまP64の6行目「というのは、」から9行目までのことです。
「わたしが神について明晰判明な観念をもつことから神の存在を証明したのに、神が存在
することのゆえに明晰判明な観念があるというのは循環ではないか?というもので、第4
答弁でデカルトは現在あることを明晰にとらえる場合と過去において明晰にとらえたこと
を想起する場合とを区別することによって、前者の知識は神の保障を必要としないと答え
ています」(デカルト『方法序説』を読むP116 抜書きメモから記載のため正確では
ないかもしれません。)
山田弘明さんは『序説』のテキストでは、明晰判明の規則は神の存在証明の本体を構成す
るわけではないので循環ではないとしています(『ちくま』P178,P179.『省察』
での話は循環であるような書き方です)。
「デカルトの循環」をGoogleで検索してヒットした以下の古賀祥二郎さんの「デカルトの
循環」(
http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/13028/1/ronso0880201400.pdf )
には以下の3つの説がとりあげられています。【評価】は古賀さんの評価。
1 記憶保証説
【内容】明証的認識そのものは神による保証を要さない自立したものである。
【主張】デカルト。第4答弁。
【評価】『省察』本文で明証的な認識自体が懐疑の対象となっている箇所がある。
デカルトの答弁自体も別様に解釈できる余地がある。
この説は論理的循環から結局抜け出せていない。
223 :
1 :2010/11/16(火) 20:47:44 0
デカルト『方法序説』bP9 2 懐疑の合理的根拠 【内容】明証的認識の真理性を疑う合理的根拠はない 【主張】フランクファート 【評価】デカルトの直接の目標は、明証的認識の真理性の証明にあるのではなく、明証的 認識の真理性を疑う合理的根拠のないことを示すことにあるとする。 しかし、この目的が成功するためにも明証的な認識体系の整合性が前提とされな くてはならない。しかし、今度はその整合性の証明を前提とする循環に陥る。 3 神の超越性と理性 【内容】神の認識の前で理性の自立性は失われ、神がすべての実在的なるものの根拠とし て現れる。その理性を超えた神によって理性を基礎づけられる。 【主張】アルキエら 【評価】神の超越性の認識の真なることが明証性の規則なしでは確立できない。 古賀さんの判断では、どの説も一長一短でこの問題は簡単には解きえないという結論のよ うです。また、グイエによると「別々の文脈にあるものを同じ文脈の下に論じることから 生じる偽問題だということになる」(『省察』P252)そうです。 うーん。なんかしっくりきません。
方法序説一応読み終わった とりあえず第4部が肝であるのはわかった 特に重要なのは「我思う、ゆえに我あり」なのだろうが これが理解できない 我思う、と、我ありのつながり以前の問題で そもそも「我」って何だ? 俺の意識の中で、「我」というものを未だ見つけたことが無い いつか見つかるようになるのかな? 思考=我、でいいのだろうか? んな訳ないよな まあよくわからないので来月のプロレゴメナの読書に移ります
225 :
1 :2010/11/18(木) 06:58:52 0
>>224 僕も「我」がなにかわかりません。というより、判断を保留しているといったところかな、
まだまだ知らないことが多いから。
わからないからいろいろな本を読んでいる、といったほうがあっている気がします。
思考=我で、これから読んで考えていってみてはどうでしょうか。
きっと224さんのデカルトが表れてくるような気がします。
まだまだゆっくり考えることができますから。
参考までに、『プロレゴメナ』でいうと第49節にカントによるデカルトのコギト批判が
あります。僕の下書きではNo.25くらいですので、月末頃に触れる予定です。
なお、岩波文庫(篠田英雄訳)でお読みでしたら、P184の5行目「我々のそれにとい
う概念は」は「我々の外という概念は」が正しいようです。読んでいてどうにも意味が通
じないので、カント全集第6巻(岩波書店 久呉 高之訳)で確認しました。
『死に至る病』でも「我思う、ゆえに我あり」はでてきます。ちなみに、『死に至る病』
のちくま学芸文庫版を最近買って読んでいるのですが、岩波文庫より格段によいと思いま
す。1000円という設定を自ら破ってしまいますが、これから買うのなら少し高いですが、
こちらをお勧めします。
>>225 やっぱりねえ、思考=我っていうのは無理だわ
それだと思考していない時は「我」が消えていることになってしまう
さすがに「我」ってものは湧いたり消えたりするもんじゃないだろう
自分も判断を保留しておきます
プロレゴメナ、さっそく本に書き込んでおきました
死に至る病は幸いにしてちくま学芸文庫のを持ってました
どうもありがとう
>それだと思考していない時は「我」が消えていることになってしまう これは結構素敵な着眼点 そうしたわけで、神が必要になるのです
228 :
1 :2010/11/19(金) 22:05:12 0
デカルト『方法序説』bQ0
ここまでコギト、神の存在証明、デカルトの循環について調べ、考えてみました。
資料は手に入ったものだけで系統だったものではなく、十分なものとは到底言えません。
しかも、考えた、というよりは、整理した、という程度の書き込み内容です。
しかし、これまで長年多くの人が検討してきたこれらの論点について、現時点で自分に結
論をだす知識があるとは思えません。
ただせっかく読んだのですから、考えたことをまとめてみます。
「神の存在を理論的に証明しようとする試みは、伝統的に神学の領域でなされてきた」
(『ちくま』P173)ところを「デカルトはそれは哲学によって、つまり自然的理性に
よってなされるべきだと考えた」(同上)デカルトは、神の存在も理性による検証の対象
となるとして神の存在を学問上論証しました。が、
>>203 でみたように、「デカルトはす
べてのことを疑ったというけれど、生活においては格率と信仰の真理は捨てられない、と
言っている」。
ここで、先月『クリトン』のときに考えていたことを思い返してみます。
>>85 で「人間ができる限りでの理性の利用を問答を通してするしかない、
>>その外のところは神の導きによろう、と思っていたのだ。」
神と理性との関係が神と理性の棲み分けから理性による証明へと変わった、といえるので
しょう。しかし、Je pense,donc je suis. を起点とする論理の体系で現代の哲学者の中で解
釈の一致する説明はないようです。
そういったデカルトの論理の展開はどこから生じたものなのか、後世の哲学者はデカルト
の諸説をどう理解してきたのかは、今後も折りを見て考えていきたいと思っています。
で、来月読む予定のカントで神と理性の関係がさらに変わっていきます。
カントによるデカルトへの批判は来月への導入として今月の最後にまとめる予定です。
次回から第5部の連続的創造説、心身二元論、自然観等々を考えていきます。
229 :
1 :2010/11/19(金) 22:08:16 0
230 :
1 :2010/11/19(金) 22:38:15 0
>>226 >>どうもありがとう
いえいえ、僕はまわりに哲学の本を読む人がいなくて一人で読んでいるし、専門的な教育
を受けているわけでもありません。ですから、できるだけほかの人の話を伺いたいし、自分
が知っていることはできるだけ話したいだけですから。
きっと偏った知識のために変なことを言っているでしょうから、そのときは遠慮なく言ってく
ださい。>>all
231 :
1 :2010/11/20(土) 22:20:26 0
デカルト『方法序説』No.21 第5部は「自然学の諸問題の秩序、とくに心臓の運動や医学に属する他のいくつかの難問 の解明と、われわれの魂と動物の魂との差異」(P7)とあります。 『世界論』を公刊しなかった経緯とその略述をする最後の部分で、気になることを書いて います。「神がいまこの世界を維持している働きは、神が世界を想像したときの働きとまっ たく同じだということは確実」。(P62 『ちくま』P73) さかのぼってみると、第4部にも類似の記述があります。「それらの存在は神の力に依存 しているにちがいなく、そうすると神なしには一瞬間たりとも存続できない」(P51 『ちくま』P61)これは連続的創造説といい、神が「世界をはじめに創造しただけでな く、それが持続する各瞬間において、つねに保存し続けている」(『ちくま』P240訳注137)。 となると、当然「人生のすべての時間は無数の部分に分割されることができ、残りの部分 にいささかも依存しない」(『省察』P77)ことになります。例えてみれば、神が映画 フィルムの一コマ一コマを描いているように世界を描いているということになります。 世界を描いている神と描かれている我。 心臓の運動が語られたあと、人間と機械、動物の違いを示します。 デカルトは、P75からP78まで(『ちくま』P85からP89まで)で言語の使用と 理性の使用が人と機械、動物との違いであると述べます。 デカルトは「動物のなす見事な行動や巧みな所作は、理性によって意識的になされている のではなく、身体の「諸器官の配置」によって本能的・条件反射的に行われているにすぎ ないと見る」(『ちくま』P194)「動物機械論」と言われるものです。 「現代の動物行動学は(略)動物にもある程度の知的機能や言葉能力を認めている」(『ちくま』P196) とあり、デカルトの誤解、であったようですが、では、人と動物を分けているものは? 機械、現代で言えば、ロボットと人間を分けているものは? デカルトから400年たって、さまざまなことが分かってきているけれども、 まだまだわからないことが多いのでしょうか。
232 :
1 :2010/11/20(土) 22:39:46 0
233 :
1 :2010/11/23(火) 10:43:24 0
デカルト『方法序説』bQ2
>>208 bXで先送りしていた、心身二元論をまとめてみます。
関係すると思われる記述を『方法序説』からひろってみると、以下のようなものがあります。
「わたしをいま存在するものにしている魂は、身体〔物体〕からまったく区別され、しか
も身体〔物体〕より認識しやすく、たとえ身体〔物体〕が無かったとしても、完全に今あ
るままのものであることに変わりはない」(P47 『ちくま』P57)
「理性的魂は、水先案内人が船に乗りこんでいるように、身体に宿っているだけでは不十
分である」。「真の人間を構成するためには、理性的魂が身体と結合し、より緊密に一体
となる必要がある」(P78、P79 『ちくま』P89)
「精神でさえも体質と身体器官の状態とに多分に依存している」(P83 『ちくま』P94)
うん?魂(以下このレスで「精神」)と身体は別物であり、結合し一体?
実体は「存在するために他のいかなるものも必要とせずに存在するもの」で「本来、神だ
けであるが、デカルトは、神に創造された実体として、精神と物質の二つを認めた」
(P116(6)『ちくま』P236(120))なのに、精神と身体は結合している?
以上のことは「精神が身体から実在的に区別されることが論証される。それにもかかわら
ず、精神は身体と緊密に結合しており、身体といわば一なるものを構成している」(『省
察』P30)とまとめられています。
デカルトは松果腺による相互作用説により心身問題を説明したとこれまで僕は理解してい
ましたが、どうも実際は少し違うようです。
エリザベート王女からの質問で有名な「非物体的である精神が物質である身体にいかにし
て作用し、またそれから作用されることになるのか」(『デカルト入門』P181)とい
う「心身問題(のアポリア)」を次に考えます
234 :
1 :2010/11/23(火) 10:44:14 0
デカルト『方法序説』bQ3 心身問題の続き デカルトの生理学的見地からの回答として「脳室の中心に松果腺という小さい腺がつるさ れてあって、精神はこれに直接結合しており、この腺においてその機能を果たす」(『入 門』P182)としています。 そして、さらにデカルトは王女にこう回答しているそうです。 「心身の結合は、精神と身体の実体から理論的に分析・総合されることはありえない。そ れは「原初的概念」であって、原初的概念は「それ自身によってのみ、理解されうる。」 (『デカルト『方法序説』を読む』P153 『デカルト入門』にも同内容の説明があり ますが、まとまっているので、この本から引用します。) 4つの規則は、とりわけ明証性の規則はどこへいった、デカルト!といいたいところです。 が、同時にこの心身問題が『デカルト『方法序説』を読む』にあるように、スピノザ、ラ イプニッツらに広がり、現象学、メルロ=ポンティへとつながっていくなど、大きな流れ を作っていくことを考えると、デカルトにすべての解決を求めるより、その後の緒論を見 ていくべきなのでしょう。 さらに、心身二元論と心身合一は矛盾するではないか?という話に戻りますと、『デカル ト入門』P186には以下の内容の説明があります。 精神と身体は実体的に別である事態と精神と身体が実体的に一つである事態とは時間的に 異なる。その例として、「自分の身体を医者のような立場から物理的対象とみなして「手 の傷」に医学的処置を施すこともできれば、身体を精神と一つとみて「私の手が痛い」と 感じることもできる。しかしそれは厳密には同時のことではないのである」とあります。 どうにも釈然としないなぁ。
235 :
1 :2010/11/24(水) 21:53:55 0
デカルト『方法序説』bQ4
>>88 で見た『クリトン』での魂(精神)と身体の関係を比べてみると、
デカルトは
>>233 ,234 でNo.22,23のように心身は合一とも考え、その関係はソクラテ
スより複雑です。
そして、理性と行動について、デカルトは『情念論』で述べています。なお、数字は節番
号です。
「30精神は身体のあらゆる部分と協同して合一していること」、「31脳内に小さな腺
(松果腺)があり、精神は、他の部分よりも特にこの腺において機能を果たしていること」
「41身体に対して精神の持つ支配力は何か」と思索を深めます。精神の受動の一つであ
り、自分の精神の状態と感じられる情念(精神の受動には、ほかに外的知覚、内的欲求が
ある)と精神の能動である意志があり、精神が情念を完全には支配できないとされていま
す。松果腺において動物精気が意志と対立し、「意志によってきわめて容易に情念にうち
勝ち、情念にともなう身体の運動を制止できる人たちは、むろん最も強い精神を持って
いる」(『情念論』P47)そして、「49精神の力は、真理の認識がなければ十分でな
いこと」(『情念論』P48)と、真理、理性を重視しつつ、「153高邁とはいかなる
ことか」(『情念論』P134)で高邁とは「自由な意志決定のほかには真に自己に属し
ているものは何もないこと、しかもこの自由意志の善用・悪用のほかには正当な賞賛また
は非難の理由は何もないのを認識すること。もう一つは、みずから最善と判断するすべて
を企て実行するために、自由意志を善く用いる、すなわち、意志をけっして捨てまい、と
いう確固不変の決意を、自分自身のうちに感得すること。これは完全に徳に従うことだ」
とします。
ソクラテスのよく生きるためには身体より魂が必要という考えが、分析され深められてい
るといえそうです。そして、身体を精神と分かちがたいものと考えていたことを踏まえて
考えると「精神と物質(身体)」という「デカルト主義は近代合理思想の中心原理」(P135)
というのとは違ったデカルトが見えてきた気がします。
236 :
1 :2010/11/26(金) 00:14:55 0
デカルト『方法序説』bQ5
第6部は「わたしが自然の探求においてさらに先に進むために何が必要だと考えるか、
またどんな理由でわたしが本書を執筆するにいたったか」(P7)とあります。
「自然の主人にして所有者」(P82 『ちくま』P93)という有名な言葉がでてきま
す。「フランシス・ベーコンの思想(知と力は合一し、自然に従うことによって自然を征
服する)の影響があると考えられている」(『ちくま』P250訳注199)そうです。
これは「しばしば誤って批判されるような自然破壊の思想にはつながらないであろう。デ
カルトの主張は、人間は精神的には自然の主人ではあっても、身体的には自然の一部であ
り、そうした自然(物体的・身体的自然)を養い育てて人間の便宜に供する、ということ
にとどまる」(『ちくま』P201)とあります。
しかし、やはり前後−例えば、直前の「物体を適切な用途に用いることができ」という箇
所、その後のそういった自然の物体をもちいることで自らの健康や病気の治療に役立てる
箇所−から見て、自然を人間に役立つものとして扱う視点はうかがえます。
ここからすぐに自然を破壊してよいとは読めませんが、人間に有益である限りは自然を変
えてよいとうかがえることから、その思想を展開して自然の物体をもちいることで破壊す
ることを認めてしまうようにも読みとれる、といったところではないでしょうか。見方を
変えていえば、デカルトの文章から、結果として自然を破壊することになる行動をとる考
え方を展開することはできるが、そういう考えを展開できるのは読み手の読み方もある程
度はあるだろう、ということです。
最後に、『方法序説』をフランス語で書いた理由を「自然〔生まれつき〕の理性だけをまっ
たく純粋に働かせる人たちのほうが、古い書物だけしか信じない人たちよりも、いっそう
正しくわたしの意見を判断してくれるだろうと期待するから」(P101、102)と書
いています。このくだりには
>>172 の「良識は〜」に対応し、「理性ないし良識を純粋に
育て、よく導いて正しく使用するならば、人はおのずから真理に達するという確信がデカ
ルトにはある」(『ちくま』P253訳注215)のでしょう。
237 :
1 :2010/11/28(日) 20:19:43 0
デカルト『方法序説』bQ6 デカルトへは同時代の人からの反論もありましたが、今回はカントによる批判を『カント 事典』(弘文堂)のデカルトの項をもとにまとめてみました。 今回だけは『プロレゴメナ』(岩波文庫)からの引用にページ数のみを書きます。 1 神の存在論的証明批判 『プロレゴメナ』では「「批判が」これについて述べていることは、明白でわかり易いし また決定的だ」(P205)と、説明はありません。『純粋理性批判』第2部第2篇第3 章4節神の存在の存在論的証明の不可能について、という内容そのままの節があり、「「 最高に完全な存在者(最も実在的な存在者)といっても、それは「概念」にほかならず、 概念からは「現実存在」は出てこない」(『デカルト入門』P118)と批判されています。 2 外的経験批判 デカルトは「物体界の実在を否定するのは各自の自由である」(P89)つまり、空間で の物の実在を懐疑の対象とし、内的経験である私の存在をまず信じていた。 しかしカントは「外的なものの表象が経験の普遍的法則と何からなにまで一致すれば、こ れらの物が真実の経験を成す筈であるということには、疑いをさしはさむ余地がない」( p183、P184)とし、「我々のそとにある(空間における)物体が存在していると いうことは、私自身が内的感官の表象に従って(時間において)存在しているのとまった く同様に確実な経験である」(P184)として、現象としての物の存在を確実なもので あるとしました。(なお、物自体はわかりえないとしています。) 3 純粋理性の誤謬推理 「私は存在する」という命題において「私」という内的直観の対象があることは、「私」 という意識の主体が存在することを意味しない。(P184要約)つまり、「わたしは考 える」の「考える」ものとしてわたしは現象として現れている。しかし、だからといって、 「わたしは存在する」で意識の主体として「存在する」とはいえない。それは、空間にお いて経験を通して物体があると認識したとしても、考える対象が現れたとおりに実在する かどうかはわからないのと同じだ、というものです。
238 :
1 :2010/11/28(日) 20:21:26 0
デカルト『方法序説』bQ7 No.26は『カント事典』の以下の要約(ぼそのまま引用しています)から対応する『純 粋理性批判』の節を読み、さらに『プロレゴメナ』の対応する節を読んで書いたものです。 No.26はその内容を汲み尽くしたとはいえませんが、参考に書きこんでおきます。 〔B○○○〕は『純粋理性批判』第2版の丁付けです。 1 存在論的証明 「「あるは明らかにいかなる事物(実在)的な述語でもない」〔B626〕というテーゼに関 しては、<デカルトの>と言われる「存在論的証明」が結果からの証明を先立てていると いうことの意義の測定が重要になる」 2 外的経験 「「内的経験でさえ、外的経験を前提にしてのみ可能である」〔B275〕というデカルト的 観念論への批判は、そもそも「外的」と言えるのは如何にしてか、そのことは絶対的他と しての「無限」への着眼なしに可能であるのか、というデカルト的問いとの対決を要請する。 3 純粋理性の誤謬推理 デカルトが「私自身の観念」を認め、マルブランシュはこれを否認したという連関で言え ば、思惟する自我へとカテゴリーを適用することから生じる「誤謬推理」の問題が浮かび 上がる。 こうしてカントによって批判されたデカルトですが、中島義道著『カントの自我論』(岩 波現代文庫)ではこうあります(P6、P7)。 「カントもまた、こうしたデカルトの二つの信念を共有している。(略) デカルトの信念A=思惟するものが私であるという信念 デカルトの信念B=その思惟のかたちが「私」という言葉を適切に語るあらゆる者(あら ゆる理性的な人間)に普遍的であるという信念 カントの自我論は、まさにこの二つの信念に支えられて成立している。しかも、カントの 場合、理論武装はデカルトよりはるかに堅牢である。(略)だからこそ、カントの精緻な 理論の背後に潜むこれらの信念を見抜かねばならないのである」 こんな話を頭の片隅にいれて、カントはどのように考えていたのか?、来月『プロレゴメ ナ』を各節のタイトル付けと要約作成を中心に読んでみてみたいと思います。
239 :
1 :2010/11/28(日) 22:32:18 0
デカルト『方法序説』bQ8
『方法序説』の扱った問題群に目が眩んでいるうちに終わった、という印象です。
今回読み直すまでに何回か読んでいたはずですが、読んだというにはおこがましいレベル
であったと痛感します。
共通感覚など省略したものもあるのに、『方法序説』だけでもこれほどの範囲なのですか
ら、自然学などのデカルトの思想全体としてみれば、その対象領域は本当に広大といえます。
個々の議論で論理的な整合性がとれているかどうか、という読み方だけではなく、それぞ
れどういう議論があったかをフォローすることで現代の諸問題を考察・議論する際の考え
方(自然破壊、人間と機械など)について、400年前に外国で出版された『方法序説』
を現代日本に生きる自分が活かす読み方ができるのではないだろうか、と考えています。
夏目漱石(
>>148 No.2)と小林秀雄を読んだ理由ですが、図書館の端末で「デカルト」
で検索したところでてきたというだけで、はじめのうちは深く考えてもいませんでした。
しかし、デカルトの考えたことが「近代合理思想の中心原理」(P135)であるならば、
近代日本の文芸・文化・思想を考える際に外すことのできない二人の文章に、デカルトが
でてきているのを興味深く感じました。
デカルトの思想で2人の思想を透かしてみて、そこから現代日本に流れるものを見ること
もできるのではないだろうか。そんな思い(淡い期待とも妄想ともいう)を込めて(漱石
はもっと適切な文章があったかもしれませんが)、最後に小林秀雄から引用して、デカル
トの回を終えたいと思います。
「「見たところ明瞭で、模倣も容易なら反駁も容易だが、至る處殆ど底の知れぬ感じだ」
とアランは「デカルト讃」のなかで言つてゐるが、僕には彼の意見は正しいように思はれ
る。
と言ふより寧ろ「底の知れない感じ」といふ言葉で、彼の言ひたい事は、よく納得出來る
様に思はれるのである。所謂「明晰な作家」L'auteur clairとしてのデカルトの明快さな
ぞといふものは、畢竟何物でもない。(後略)」(小林秀雄全集6「デカルト選集」
新潮社 「東京朝日新聞」、昭和14年10月)
1です。今月は名前欄には、本文の文字数を確保することもあり、該当ページがすぐに見 つかるように内容や本文のページを入れる予定です。 【人物】 イマヌエル・カント(1724年4月22日 - 1804年2月12日) カントは1724年、東プロイセンの首都ケーニヒスベルク(現ロシア領カリーニングラード)で 馬具職人の四男として生まれ、生涯のほとんどをその地で過ごし、老衰により死去。 1740年ケーニヒスベルク大学に入学し哲学部に学び、卒業後は家庭教師を務め、自然 学も研究した。1755年冬学期よりケーニヒスベルク大学哲学部に私講師に就任し、倫 理学、力学などさまざまな講義を担当し、1770年教授となり、1786年、1788 年にはケーニヒスベルク大学学長を務めた。 主な著作は以下のとおり。 1781年 『純粋理性批判』第一版 1782年 『学として現れるであろうあらゆる将来の形而上学のための序論(プロレゴメナ)』 1784年 『啓蒙とは何か』 1787年 『純粋理性批判』第二版 1788年 『実践理性批判』 1790年 『判断力批判』 1795年 『永遠平和のために』 【内容】 『純粋理性批判』(以下『批判』)に対する「予習」(P24)、「設計図」(P28)。 カント自身がこう書いている本です。 『批判』「がわかりにくいという苦情が多く、「カント自身すら「ほとんど何びとにも理 解されない」と歎いているくらいである(略)。こういう苦情を除くために、カントはこ の「プロレゴメナ」を著した。」(P281) ショーペンハウアーがこう評している本です。 「カントのすべての主要著作のうちで最も見事な、また最も理解しやすい本書は、カント 哲学の研究を極めて容易にするにも拘らず、読まれることがまた極めて少ない」(P293 『意志と表象としての世界』)。 【感想】 『批判』を読んでまったくわからなかった僕が、カントの考えていることがなんとなくわ かったかな、と思えた本です。いまだに「精考し理解した」とは言えませんが。
12月は名前欄に『プロレゴメナ』の対象とするページ範囲を入れ、内容の要約(と用語
説明)をします。また、一部の節にしか標題が付いていませんので、各区切りに僕なりに
考えた標題をつけていきます。
要約は【標題】問いー【内容】抜粋中心の回答の参考になる文書という形式で書いていき
ます。
この方法は、偶然Webで見かけた「読書会の方法」での読書会形式の授業方法として、
筆者が「見出し比較法と名づけた方法(
http://rche.kyushu-u.ac.jp/education/paper1102.pdf )
と中山元訳『純粋理性批判』の標題付けを参考にしています。ですので、これまでレスを
つけにくかった方も見出し案ということで、「第△節 ▲▼▲▼とはなにか」といった1
行レスOKですので、気楽に書き込んでみてください。もちろんオリジナルの要約や僕の
書き込みへのコメントもお願いします。
また、全ての回に付けられないとは思いますが、僕が読んでいてわかりにくかったところ
やこういうふうに読んだということなどを、江戸時代の長屋住人がプロレゴメナを読んだ
ら……という設定で、対話風に書いていけたらと思っています。
なお、「先験的」→「超越論的」、「ア・プリオリ」→「アプリオリ」、「綜合的」→「
総合的」といった読み替えはせず、岩波文庫版に沿った表現にしています。
一人勝手な理解をしているでしょうから、おかしいところは突っ込んでください。(^-^)/ ヨロシク
今の時点で僕が読んだ本や見たサイトを書いておきます(理解のほどは?です)。
これからの書き込みを見ると、あぁ、あの本のここだろうとわかると思いますが、
本文の直接の引用でない場合は特に出典を示しません。
『プロレゴメナ』(カント著 篠田英雄訳 岩波文庫)
『プロレゴメナ』(カント著 久呉 高之訳 カント全集第6巻 岩波書店 以下『全集』)
『純粋理性批判』(上)(中)(下)(カント著 篠田英雄訳 岩波文庫 以下『批判』
(上)(中)(下))(『第1批判』という案もありますが、『プロレゴメナ』の訳文とあ
わせることから、『批判』とします。)
『カント事典』(弘文堂 以下『事典』)(図書館で調べたというだけです)
『完全解読カント『純粋理性批判』』(竹田青嗣著 講談社 以下『読解』)
『カント『純粋理性批判』を読むために』(ヨハン・シュルツ著 菅沢竜文、渋谷繁明、
山下和也訳 梓出版社)
参考になりそうな(『批判』の途中までですが)勉強会のレジメを見つけましたので、リンク
をはっておきます。
http://www.ne.jp/asahi/net/jpn/1000p/050811.html#reg
【標題】 『プロレゴメナ』執筆の経緯はどのようなものか 【内容】 ヒュームは、概念だけからア・プリオリに因果的結合(原因が設定されると結果が必然的 に結合されること)を考えることは理性には不可能であるとした。その結果、形而上学は 存在しない、理性やア・プリオリに存立する認識は経験にすぎないと主張する。 しかし、カントは原因と結果との必然的連結という概念を調べ、カテゴリー、先験的演繹 により、それらは純粋悟性から発生したと確認した。そこで純粋理性の能力の範囲と限界 に関して叙述するため『純粋理性批判』を著したが、解りにくいとの批判を受けたので、 設計図としてこの本を書いた。
『プロレゴメナ』が出版されたのが1782年で、例えば『東海道中膝栗毛』が1802 年ですから、年代的に近いといえば近いけれども、翻訳があったとも思えず、ありえない 設定です。時代考証は全くしていません。けれども、哲学にとんと縁のないような長屋住 人が読んでいるのと、わかっていない自分が読むのを重ねて、僕がどういう風に読んだか を書ければ、と思っています。なお、P10L7 は10ページの(本文だけで数えて)7行目 となります。1ページ16行ですので、該当箇所を探すときの参考に。 −家賃を取立てに来た大家と長屋住人 「読むんですか、この『プロレゴメナ』って本を、大家さん。長いですよ、序言なのに。 結婚式の新婦の上司の話みたいですよ。短く、パパっとしてくれりゃぁいいのに」 「おまえ、さては先月貸してやった『方法序説』読んでないな。4つの規則、明証性の規 則、分析の規則、総合の規則、枚挙の規則があっただろ」 「あぁ、思い出しました、思い出しました」 「じゃぁ、言ってみろ」 「あぁ、話しかけるから忘れちゃった」 「まったく。このうちの分析の規則、つまりは。全体を分割して考えてみな」 「ヒュームってのはわかんないから飛ばして、と。おぉ、だいたい半分になりましたね。」 「で、序言だからこの本で何を書くかを多分書いているんだろうと予想するわけだ」 「となると、P10L7の「いったい〜」をまず見て、それがP11L9の「いったい〜」になって、 その問いに対しての答えがP21L15の「この先験的〜」で書いてあるわけだ」 「で、カントはこの本の成り立ちも書いているわけよ」 「と、P9L1に「将来の〜」、P23L13「「批判」は〜」、P27L13「設計図が出来あがってい て〜」にあるわけですね」 「読めてるじゃねぇか」
「で、P28L4 「分析的方法〜」で設計図がどういうふうに書いてあるか、わかるわけだ。 これは、どこみりゃぁいいんですかね」 「訳注(一)では第4節、第5節、および第5節注なんて書いてあるが、とりあえずはP55 の訳注(一)を読んどけ」 「あぁ、さすが仏の大家さんとみんな言うわけだ、ありがたいねぇ。どうです、お祝いに 一杯いきますか」 「(゜゜;)\(--;)オイオイ。それより、さっき飛ばした、ヒュームの箇所をまだ読んでな いだろう」 「チェ、しっかり覚えていやがる。えぇっと、ヒュームはP14L2 にありますね。どうせ悪 口しか書いていないんだからいいんですよ、読まなくても」 「馬鹿野郎、P19L16に「私を独断論の微睡から眼ざめさせ〜」ってあるだろう。ヒューム 体験っていって有名で、カントはヒュームのことを評価しているわけだ。 じゃぁ、どこを評価しているかっていうと、P21L1 からヒュームが従来の形而上学に批判 をして、カントがその批判をさらに深めるとどうか考えたってあるだろう。ってことはヒュー ムの考えをカントがさらに深めたわけだ。ヒュームの何を考えたかっていうと、P21L2に 「原因と結果との必然的連結という概念」ってあるな。これが実はP14L3 にまったく同じ 言葉が出てくるんだ。だからそこを比較してヒュームが考えたこととカントがそれを深め たところを見ればヒュームの考えで足りないと思っていたところがわかるってわけよ。」 「(とりあえずわかったふりをしておくか、飲めそうにないしな)さすが大家さん、それ じゃぁ今日はこのへんで」 「家賃待ってやるから、ちゃんと読むんだぞ。それと、あとがきに全体の要約があるから わかんなくても読んどくといいぞ」 「あぁ、ありがとうございます。(って、こんないい天気の日に、本なんて読んでいられ るか)じゃ、しっかり読んでおきますんで、これで、失礼します」
【標題】 第1節 形而上学的認識とはなにか 【内容】 形而上学的認識は、経験から得られたものではなく、ア・プリオリな認識、すなわち純粋 悟性および純粋理性にもとづく認識であり、純粋な哲学的認識(概念による理性認識)で ある。 【標題】 1 判断はどのように区別されるか 【内容】 形而上学的認識はア・プリオリな判断だけを含む。その判断とは、分析的判断(単に解明 的であって認識内容に何ものをも付け加えない。つまり、述語によって主語に何ものをも 付け加えない。)と綜合的判断(拡張的であって与えられた認識の内容を増大する。つま り、述語が主語の概念のうちに含まれているものとして主語に属するような判断)のいず れかである。 分析的判断−認識内容に何ものをも付け加えない−P33L1〜で説明−矛盾律にもとづく −すべてアプリオリな判断 綜合的判断−与えられた認識内容を増大する−P33L7〜で説明−矛盾律に従うが異なる原理を必要とする −アプリオリな判断もアポステリオリな判断もある 【標題】 2 分析的判断とはなにか 【内容】 分析的判断はすべて矛盾律にもとづき、分析的命題はすべてア・プリオリな判断である。
【標題】 3 綜合的判断とはなにか 【内容】 綜合的判断は矛盾律から導かれるものではないが矛盾律に従い、ア・プリオリな判断およ びア・ポステリオリな判断があり、以下の3種類の綜合的判断に類別される。 1 経験判断 2 数学的判断 例 7+5=12、直線は二点間の最短線である 数学的認識は常に概念の構成によって得られる。 ヒュームは純粋数学は分析的命題だけを含むと考え、形而上学はア・プリオリな綜合 的命題を含むと考える誤謬をおかしていた。それゆえ、原因と結果との必然的連結と いう概念で間違いを犯したのだ。 3 本来の形而上学的判断(ア・プリオリな形而上学的認識を産出する判断) 例 物において実体であるところのものは、すべて常住不変である。 形而上学に属する判断には、分析的判断を含む。 第2節の結論は、次のようにいえる。 形而上学の目的はア・プリオリな総合的命題の究明であり、目的達成のために形而上学的 概念の分析と分析的判断とを必要とする。その際の手続きは、分析的認識様式の際の仕方 のほかにア・プリオリな認識の産出、しかもア・プリオリな綜合的諸命題の哲学的認識に おける産出が形而上学の本質的内容をなすのである。 【標題】 第3節 判断を分析的判断と綜合的判断とに区分することを説明するのはなぜか 【内容】 独断的哲学者、ヴォルフ、バウムガルテンがこの区分を誤って考察していた。ロックや ヒュームですら漠然としかとらえていなかった。 しかし、この区分は人間悟性の批判に顕著な効用があるので、取り上げたのである。
−長屋の部屋で正座して読んでいる 「お、今日は短くていいや。形而上学の源泉、と。なんだい客観〔対象〕って。いいや、 とりあえずにP30L9「形而上学的認識の源泉〜」は経験的じゃないのね。でP31L5「ア・プ リオリ」なんだこりゃ」 「読んでるな、じゃぁ、今日も家賃は待っといてやろう、どうせ金もないんだろう」 「ありがとうございます。てぇと、読んでる間はチャラ、ですかい」 「チャラじゃないよ、待っててやるだけさ。ところで、ア・プリオリか」 「えぇ、なんです、アプリオリって」 「P31(3)に書いてあるだろう。経験的なものに絶対にかかわりのない、だ。反対に経験に かかわるア・ポステリオリっていうのも後で出てくるからな」 「経験しなくてわかるんですか、カントさんは。スゴイなぁ」 「おまえは経験したっておんなじ失敗繰り返すもんなぁ。で、客観〔対象〕や経験って言 葉もちぃとばかし普通の意味と違っているからな。おいおいでてくるから、ちょいと頭の 隅に入れときな」 「へい、へい」
−長屋の部屋で寝転がって読んでいる 「今日も短いな。毎日これならいいけど」 「P32L2「形而上学的認識は〜」これ昨日やったぞ。経験にかかわりのない判断だけだ、と。 解明的、拡張的、なんだこれは難しい言葉を並べやがって、今日はやめた、やめた」 「大きな声で何言ってやがんだ」 「うぁ、聞こえちまったか。いや、カントの野郎、こっちが無学だと思って、小難しい言 葉を並べやがって」 「P32L6に前者、後者ってあるだろう。こういうときは、2つを比較している時が多いから 比べてみな。(P30-P35のレス参照) 「なるほどねぇ。で、わかんない言葉はどうすりゃいいですかね。矛盾律なんて」 「矛盾律は、同一のものが同一のものに即して、同一のものに同時にありかつあらぬとい うことは不可能である(アリストテレス『形而上学』第4巻第3章)ってことだ。 解明的、拡張的は帳面につけときな。後ろの事項索引になきゃ、そんなに気にしないでい いよ」 「えぇ、気にしなくていいなら、いいですよ。そういうのは得意ですから。それじゃぁ、 P33L7「若干の物体は〜」は綜合的判断なんですか?重さがあって当たり前でしょう」 「このあとのP36L3 の「物体は〜」が分析的判断なのと比べてみな。重さは物体の概念の 中には含まれていないと考えたから、その命題は主語である物体という概念に含まれない 何かあるものを述語のなかに含んでいる、つまり綜合的判断と考えたわけさ」 「はぁ、そういうもんですかねぇ。ところで、またヒュームが出てきてますね」 「ほっとかなくてよかっただろう。大家の言うことは聞いとくもんだ。そういや、お前、 煮売り屋(居酒屋)のつけもためて……」 「大家さん、ヒューム、ヒューム」 「あぁ、この前言ってた、原因と結果の概念の話だ。そいで、この節のまとめをしてくれ てる。この節の標題は、形而上学的と呼ばれ得る唯一の認識様式について、だ。P44L16「 それは分析的認識様式と異なるところがない」、とありますよ」 「次を読んで見な。ここが矛盾律だけによる分析的判断とは別の原理さ」 「なるほどねぇ。じゃ、家帰ってまた読んでこよう」 「それじゃぁな。煮売り屋にはちゃんと払っとけよ」
−慌てて煮売り屋にたまったつけを払ってきて、その翌日、部屋で途方にくれる長屋住人 「はぁあ、とりあえず、煮売り屋の払いは済んだけど、たまった家賃は払えねぇなぁ。ど うしたもんだか。ちょいと、熊のところにでも仕事がないか、相談に行くか。 さて、と、ああぁ。こりゃあ大家さん、どうしたんです、ひとんちの前で」 「どうしたもこうしたもないよ、おまえさん、煮売り屋につけをまとめて払ったそうじゃ ないか。なら、うちにも払ってもらおうじゃないかと思ってな、えぇ、どうだい」 「(ありゃ、今日はやばいなぁ)そういやぁ、お借りしている本のP45L10の充足理由律っ てなんですかね。矛盾律みないなもんですかね」 「まぁ、そうだな。理由なしにはなにものも生じない、っていうことだ」 「なるほど、大家さんも充足理由律なわけですね。わけもなくうちには来ない、ってことは」 「そうだよ、で、払えるかい、いくらかでも」 「いや、煮売り屋の払いを済ませたら、ほとんど手持ちがなくなっちまって」 「まぁ、しかたない。おまえさんにしては煮売り屋の分を払っただけでもよしとしなきゃな。 ところで、気がついているかどうか知らないがもう40ページくらい読んでいるから、 1/6読んだことになるんだな。これからが本題だからな、気を入れていくんだぞ。それ じゃぁな」 「ふぅ、これからっていっても、なんとかやりくりしていくしかないよなぁ」
【標題】 第4節 いったい形而上学は可能なのか 【内容】 学としての形而上学が実際に存在しているということは承認できないにせよ、『批判』で 純粋理性の源泉そのものにおいて、理性の純粋使用に必要な諸要素ならびにこの純粋使用 の法則を原理に従って規定し、我々が信頼できると認めている純粋数学と純粋自然科学と いうア・プリオリな綜合的認識なら与えられている。この認識がどうして可能であるかを 確認すればよい。
【標題】 第5節 「ア・プリオリな綜合的命題(認識)はどうして可能か」という形而上学の課題 を『プロレゴメナ』ではどのように解決するか 【内容】 命題は次のように分類される。 分析的命題 ←−−−−−−−−−−−−−矛盾律にもとづいている 綜合的命題+ア・ポステリオリな命題 = 経験から得られるような綜合的命題 綜合的命題+ア・プリオリな命題←−−−−この種の命題はいくらでもあり、確実にある ↓ ア・プリオリな綜合的命題(認識)はどうして可能か、を究明すればよい。 『批判』では綜合的方法(原理から結果へ、或いは単純なものから合成されたものへ向かっ て進む)をとったが、『プロレゴメナ』では分析的方法(条件付きのもの、既に根拠を与 えられているもの(純粋数学と純粋自然科学)から出発して原理へ進む)によってこの課 題を検討する。 ヒュームは2つの概念の連結を経験によると考え、その必然性を習慣によって主観的必然 性を客観的必然性とみなすようになったと言っている。 純粋数学と純粋自然科学にアプリオリな認識が含まれていれば、その認識の現実的存在を 示したら、そこから分析的方法でこの認識を可能ならしめる根拠に遡るように、次の課題 を解いていく。 1 純粋数学はどうして可能か 2 純粋自然科学はどうして可能か 3 形而上学一般はどうして可能か 4 学としての形而上学はどうして可能か
−部屋でひとり読んでいる 「することもないし、金もない、と。暇つぶしに本で読むか。 ここは俺だけでも読めそうだな。まずは段落ごとに読んで、あれ、P50L7 の段落の最初 の文章「こうして我々は」の文章で独断論と懐疑論を否定しているけれど、こうしてって ことは前の段落にそのわけを書いてあるわけか。P48L7からが独断論、P49L4からが懐疑論 のことなわけか。で、それらを否定して、P50L14いったい〜」の問いを立てた理由を書い て、P51L5からの段落で『批判』と『プロレゴメナ』の書き方の違いを説明し、P52L8 から これからの話の進め方を書いているわけだ」 第5節はP48L6の「形而上学は〜」の究明する問いを検討して…… あ、経験の説明がP53 訳注1にあるぞ。なんだこりゃ。「やってみたこと」じゃなくて、 「見たり聞いたりしたことを意識で統一すること」なのか。とりあえず、普通の経験とは 違うみたいだな、帳面につけておくか。 P55に分析的方法と綜合的方法の説明もあるな、同じ分析的でも分析的命題とはぜんぜん 違うんだな、これも帳面に、と。 で、ヒュームの意見の検討をして、ありゃあ、P59L10で答えられなかったら休職を申し渡 されたも同然とか、カントも結構きついことを言うなぁ。 P61L3「先験的哲学」か」 「おっ、そんなところまで読んでいるのか。先験的は最近じゃぁ超越論的っていうなぁ」 「うわぁ、なんですか、窓から顔出して、大家さん。超なんとか、っていうのは紛らわし くっていけねぇや」 「超越論的だ。超越的とは意味が違うから注意しろよ。意味が分からない言葉は、事項索 引を見てみて、「先験的」だと259Aとあるだろう。経験に先立ち、経験を可能ならし める、っていうことだ、まぁ、わからなければ、今は「カントの哲学の基本的な」くらい に置き換えておきな。超越的は、そこの説明でわかるだろう」 「えぇ、大家さんが窓越しに首を突っ込んで家の中に入ってくるのが、超越的ってとこで すかね」 「おいおい、そういうのは家賃を払ってから言うもんだよ。家賃払わない店子の部屋に踏 み込みたくなるのを我慢してんだから」
>>249 ×
「あぁ、この前言ってた、原因と結果の概念の話だ。そいで、この節のまとめをしてくれ
てる。この節の標題は、形而上学的と呼ばれ得る唯一の認識様式について、だ。P44L16「
それは分析的認識様式と異なるところがない」、とありますよ」
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「あぁ、この前言ってた、原因と結果の概念の話だ。そいで、この節のまとめをしてくれ
てる。この節の標題は、形而上学的と呼ばれ得る唯一の認識様式について、だ」
「P44L16「それは分析的認識様式と異なるところがない」、とありますよ」
【標題】 第6節 純粋数学はどうして可能か、をどのように考えればよいか 【内容】 純粋数学はいかなる経験的根拠にも依存しない、綜合的な認識である。かかる認識を完全 にア・プリオリに成立せしめることが、人間の理性にどうして可能なのか。この理性能力 はなんらかのア・プリオリな認識根拠を前提としているのではないか。この認識根拠を現 にあるところの結果を生ぜしめたそもそもの起点を追求すれば、これらの結果を通じてわ かるのではないか。 【標題】 第7節 数学的認識の特性とはなにか 【内容】 数学的判断は常に直観的であり、哲学は単なる概念に基づく論証的判断である。 数学はその一切の概念を純粋直観において具体的に、しかもア・プリオリに現示し得る、 概念を構成し得る。 純粋直観におけるア・プリオリな綜合的判断 −「確然的」に確実 経験的直観におけるア・ポステリオリな綜合的判断−「経験的」に確実 つまり、純粋直観は、すべての経験に先立って、概念と不可分離的に結びついている。 【標題】 第8節 何か或るものをア・プリオリに直観することはどうして可能か 【内容】 第6節標題の問題は、第7節をうけて、第8節標題の問題になる。 直観は表象に対するものであるから、対象が現に存在しないといけないので、第7節で書 いたような対象が与えられる以前にア・プリオリに直観することは不可能に思われる。 しかし、概念の中には対象一般の思惟だけを含むような、量の概念や原因の概念といった、 いくつかの概念がある。これらの概念を直観に適用し、概念の対象を直観に与えなくては いけない。
【標題】 第9節 ア・プリオリな直観が可能な対象とはどのようなものか 【内容】 私は現実的な印象を通じて対象から触発されるが、私の直観は私の主観において現実的印 象に先立つところの感性的形式しか含んでいない。 感官の対象は感性のかかる形式に一致する場合にだけ直観せられ得る。感性的直観のかか る形式に関係する命題だけが、感官の対象について可能であり、対象に該当する。逆に、 ア・プリオリに可能な直観は、感官の対象以外の物(例えば、物自体)には関係し得ない。 【標題】 第10節 感性の形式としてはなにがあるか 【内容】 感性的直観の形式によってのみ、物をア・プリオリに認識できる。 この直観形式によって対象〔物〕をそれ自体あるがままに認識するのではなくて、これら の対象が我々(我々の感官)に現れ得るままに認識するにすぎない。 我々が物体とその変化(運動)との経験的直観から経験的なもの、すなわち感覚に属する ものをすべて除き去っても、なお空間と時間とはあとに残る。空間および時間は、経験的 直観の根底にア・プリオリに存する純粋直観である。空間および時間が我々の感性の単な る形式であることこそ、現実的な対象の知覚に先立たねばならないこと、対象はこの二つ の形式と一致することによって我々に現れるままにアプリオリに認識せられることを証明 する。 【標題】 第11節 純粋直観とはどのようなものか 【内容】 純粋数学がア・プリオリな綜合的認識として可能なのは、この学が感官の対象だけに関係 するからである。 純粋直観は、ア・プリオリに直観する能力であり、現象の質料〔内容〕に関係するのでは なくて、現象の形式である空間と時間にのみ関係する。
−煮売り屋でひとり飲みながら 「大家はうるさいし、金はないし。この前つけをきれいにしたから、ゆっくり飲みながら 本でも読むか。純粋数学はどうして可能か、って。俺はソロバンできないからなぁ」 「あら、なぁに、本読んでるの。どうせ洒落本なんでしょ、いやらしい」 「いくら俺だって街の真ん中で洒落本なんて読まねぇよ。カントのプロ、プロって本だ。 えれぇ哲学者の話だ」 「珍しいわね、どこまで読んだの。先験的主要問題まできたの。どうりで最近天気が悪い わけね、あんたがちゃんとした本を読むなんて。なんて書いてあった?」 「早くいやぁ、純粋理性ができることとできないことをはっきり白黒つけて形而上学を作 り変えようと『純粋理性批判』を書いたら、みんなからわからねぇって言われたから、書 き方を変えて書いた、ってところよ」 「あーあ、明日からも雨ね、おおまかにだけど、わかっているじゃない」 「あたりまえよ、家賃がかかっているからな」 「ここから哲学っぽい言葉がいっぱい出てくるからね。後ろの索引を使って用語を書き留 めておいたほうがいいわよ」 「おうよ、帳面はもう作ってあるんだ。 第6節はそのまま読めばいいよな。第7節が、おお、まず数学的と哲学の比較か、P32 に あったな。で、純粋直観(P66L8)なんだ、これは」 「P40L14に直観ってでてきてるわよ」 「し、知っているさ。P66L9 の「数学は〜」っていうのは、P40L12の「数学的認識は〜」っ ていうのと同んなじだな。で、P67L2の純粋直観とP67L3の経験的直観があるけど、ここは P67L4に「第二の場合には〜」とあるし、前みたいに比べればいいんだな。 うん、P67L7 「すべての経験に先立って」は「すなわち個々の知覚に先立って」ってある のか。確かこの前、経験の話をしてたな。あぁ、帳面にあったP53 訳注1と」 「本当に読んでいるのね、感心、感心。次の節まで読んだら、一杯おごってあげるわ」 「そう言われたら、何がなんでも読んでやるさ」
「なんだい、まだ、困難は増大する(P67L9)のか。もう十分困難だよ。 P68L1から、問題は「何か或るものを」何かなんだな、「ア・プリオリに」経験にかかわ りなくだな、「直観する」さっきのだ、見たり聞いたりする前に何かするんだなことだな。 おーい、熱燗を一杯用意しといてくれよ。 ……直観は表象である、対象が現在、ってなんだこりゃ。 おーい、お会計」 「どうしたの、急に、難しくなったでしょう」 「そうじゃねぇよ、体のことを考えて、そろそろ帰るかと」 「うそ、わからないのは表象、対象、直観、感性的形式?そこ? 直観は表象である、すると直観は対象が現在〔現に存在〕することによって、直接に規定 されるわけである」(P68L2,L3)っていう文章は別の人の訳だと「直観は、直接的に対象の 現前に依存するような表象である」(『全集』P226)となってて、その直前の「何か或る ものを〜」が問題になるということは、それが当たり前じゃないからでしょ。対象が現に あることで知覚(例えば、見える)して経験になる。だからP68L2 「対象が与えられる以 前に」ア・プリオリに(経験にかかわりなく)直観することはできないはずなのに、ア・ プリオリに直観できるのはどうしてか、ということがカントの設定した問題なの。 で、第9節の冒頭とP69L15「ア・プリオリに可能な直観は〜」の文章ととP70L1とP70L2に も感性的直観のことが書いてあるからつなげて考えて、P71L2 の「我々が〜」の文章とそ の次の文章から経験的直観−経験的なもの=空間・時間=純粋直観でしょう。で、経験的 直観は、P69L13の「感性的直観〜」の文章から感官の対象について可能なわけでしょう。 だから直観=純粋直観+経験的直観といえて、P71L1 の「空間および時間の表象は〜」の 文章と表象は感官に現れることを合わせて考えると、「直観は表象」となるのよ。 物自体は聞いたことがあるでしょう。感性的形式は私もうまく説明できないなぁ。 第11節にあるこれまでのまとめを読んで、だいたいわかったら大丈夫よ」 「ふうん、わかった」 「あぁ、わかってないでしょう。後から読み返してわかることもあるから、印だけつけて 飛ばして読むのも一つよ」
【標題】 第12節 第2章補足説明−純粋数学での手続はどのようなものか 【内容】 与えられた二個の図形が全等であることの証明は、この二つの図形が互いに重なりあうこ とに帰する。 全一の空間は3次元をもつ。 空間および時間の表象は、直観にのみ属しうる。表象は決して概念から推論されうるもの ではない。数学の根底にはア・プリオリな純粋直観があり、この直観により数学を確然的 確実性をもつ綜合的命題を可能にする。 【標題】 第13節 第2章補足説明−空間と時間を感性的直観の単なる形式にするのはなぜか 【内容】 球面図形での二個の図形の全等であること、原物の手と鏡中の映像としての手、右巻きの 螺旋と左巻きの螺旋の差異を理解するとき、全一の空間に対する関係を考慮に入れないと 差異を理解できない。 これらは現象としてとらえられ、全一の空間の一部である部分的空間で外的感官に対する 関係としてとらえられる。
【標題】 注1 客観的実在性はどのように確保されるか−数学者への批判 【内容】 純粋数学、特に純粋幾何学は、感官の対象である表象だけに関係するという条件のもとで のみ客観的実在性をもつことができる。 純粋幾何学の空間の概念やそれに関連する規定は以下のとおりである。これまで幾何学者 はこのことを認識していなかった。 1 空間が物理的空間、すなわち物質の拡がりを可能ならしめる。 2 空間は物自体の性質などではなくて、我々の感性的表象力の形式にすぎない。 3 空間におけるいっさいの対象は単なる現象である。すなわち物自体ではなくて我々の 感性的直観における表象にすぎない。 そして、感性的直観の形式は、外的現象をその形式において可能ならしめる根拠を含む。 それゆえ、外的現象は、その主観的基礎である感性そのものから引き出す幾何学的命題と 必然的に一致する。 【標題】 注2 『純粋理性批判』は観念論ではないか、という批判にカントはどのように反論したか 【内容】 思考する存在者のほかには、いかなるものも存在しない、我々が直観において知覚すると 信じている他の一切の物は、この思考する存在者のうちにある表象にすぎない、そしてこ れらの表象には、思考する存在者のそとにあるいかなる対象も実際に対応するものでない、 と観念論者は言う。 これに反し、カントは、次のように言う。物は、我々のそとにある対象であると同時に、 また我々の感官の対象として我々に与えられている。しかし物自体がなんであるかという ことについては我々は何も知らない。我々はただ物自体の現われであるところの現象がい かなるものであるかを知るにすぎない。ある物体の直観を成すところのすべての特性はそ の物体の現象だけに属すると言ったところで、観念論とはいえない。観念論ではその現わ れが現象であるところの物の実在はそれによって消滅するという。しかし我々は、感官に よるのでは物をそれ自体あるがままに認識することは不可能であると指摘したにすぎない。
−まだ、煮売り屋でひとり飲んでいる 「よしよし、第12節からは補足説明してくれてるんだよな。P72L14「幾何学者が〜」で P73L1〜とP73L7〜の2つの例をあげているわけだ。 わからねぇなぁ、これ。まぁ、P73L14「空間および時間の表象は〜」が結論なんだろうな。 で、ようやく第13節か、P74L8 「空間および時間は〜」っと、おぉ、まだ考えを捨てき れないよ。で、ここでもP74L13〜で例をあげて説明してくれているんだな。 この例もわからないよ。 P75L13〜が2つめの例か。実際の手と鏡のなかの手で同じ手袋を使えない、と。そりゃぁ、 そうだな。その理由か、考えてみたことなかったな。確かにP76L11にあるように「それぞ れの空間が〜」にあるように全体に対する位置関係の違いなんだろうなぁ。 しかし、P76L6 の「純粋悟性」ってなんだ?」 「あら、そこ違うわよ。その「純粋悟性」は「純粋な悟性」のほうがいいわ。ここは、ふ つう「純粋悟性」と訳されるreiner Verstandじゃなくて、purer Verstandなんだって。 どうもヴォルフ学派が言っている悟性のことでカントの悟性とは別物って思っておいたほ うがいいらしいわ(『全集』P455訳注22)」 「あぁ、もう(頭の中が難しい言葉で)いっぱいだ」 「あら、そう、もういっぱい。じゃぁ、一杯おごらなくてもいいわね」 「いや、それはそれ、これはこれ」 「じゃぁ、はい。ここに徳利置いておくわね、空いた徳利は下げるわよ」 「おう、ありがとうよ。 うん、この徳利とこれまでここにあった徳利は徳利っていうことじゃぁ一緒だけど、置い てある位置と出てきた時間が違うわけか。 空間(徳利の位置)や時間(出てきた時間の違い)はその物の現われている現象(徳利が 見られている)を規定しているっていうことか。ただ徳利自体が何かはわからないよな、 下げられたから別の徳利に変わるわけでもないし。カントの言ってることは、こういうこ とか?」
−まだ、煮売り屋でひとりいる 「ねぇ、大丈夫」 「お、いけねぇ、寝ちまってたか」 「すっかり。気持よさそうにおやすみになってましたことよ」 「なんだよ、えらい刺のある言い方だな。 しかし、寝る前に時間と空間が感性の形式っていうことがわかった気がするな。もうちょっ と読んでみるか。」 「P77L3 「客観的実在性」か「実在性とは、当該の表象が対象への関係としての妥当性を もつ、いいかえれば内容を持つ」(『事典』実在性の項)まぁ、眼に見えてるものが実際 にあること、ってことだな。で、経験とかかわりなく見る能力がおれにあって、その見る 能力によって見えるように見たところで考えたことが、実際のことと必ずすっかりおんな じだ、っていいたいわけか。で、それは空間が徳利の性質じゃなくて、目の前にある徳利 を規定する条件、形式だから、ということだ。よしよし、わかるぞ」 「やぁねぇ、ひとりごとをぶつぶつ言って。気味悪いわよ」 「で、その次がP80L3 「我々の直観は〜」か、前も読んだな、いや酔っ払っているから知っ ている気になっているだけか。 「P80L10で「観念論の主張する〜」と取り上げて、P81L1 の「私は〜」で自分の考えを言っ ているわけだ。そうだな、「物自体がなんであるか」はわからないけれど、「我々のそと に物体のあることを承認する」っていうのは、酒があるのはわかるけれど、酒自体がなに かは成分や製造方法はわかっても、ここにある酒は俺がこの時間、この空間にあると見て 取っている以上にはわからないわな。ただ酒があることは確実、っと。 あれ、カラだ」 「ばか、出てきた徳利をきれいに飲んで、厠に行って、おやすみって言ってから寝たのよ。 それだけ飲んでたらあんたの悟性もはたらきようがなさそうね。もう今日は帰ったら」 「あぁ、そうするよ、今日は、つけといて」 「知識は蓄えてもいいけど、つけは溜めないでよ」
【標題】 注3 注2以外の批判にはどのようなものがあり、カントはどのように反論したか 【内容】 ・批判1(P83L11ーP83L14) 空間および時間の観念性に関するカントの説は、感性界における一切のものをまったく の仮象としてとらえている。 ・反論1(P84L1ーP87L14) 仮象は感官のせいではなく現象をもとにして客観的判断を下す悟性による。しかし、感 官の表象を可能的経験に関してのみ使用するならば仮象は生じず、経験的真理を生み出 す規則に感性的表象を正しく連関させる。 ・批判2(P87L15-P88L1) 批判1と反論1を受けて、カントの原理は感官の表象から現象を作り出すから、その原 理は経験的真理を与えるどころか経験を単なる仮象に変ずる。 ・反論2(P88L2-P89L3) 現象は、経験において使用される限りでは経験的真理を生ぜしめるが、しかし経験の限 界を越えて超越的なものになると、まったくの仮象だけしか産出しない。我々が感官に よって表象する物に現実性を認めるが、現象以上の何か或るものを表象するのでもなけ れば、物自体の性質を表象するのでもない。だから感官によって表象するものは、あり もしないものを捏造して自然に押しつけた仮象ではない。 ・批判3(P89L3-P89L6) 批判2を聞いても自分の誤った見解からちょっとでも逸脱すると旧来の名称をつけて観 念論と言いたがる。 ・反論3(P89L6-P90L14) デカルトの経験的観念論(物体界の実在を否定するのは各自の自由であるとした)やバー クリの陶酔的観念論(単なる表象を物に仕立てる)とは異なり、先験的観念論と名づけ た私の観念論は物の実在を疑うものではなく、物の感性的表象だけを問題としているの である。
−二日酔いで部屋で寝ている
「あぁ、昨日は飲み過ぎた。しかし、あと注3を読んだら第1章も終わりか。ちょいと読
んでおくか。
うん、注3のP83L2 〜P83L11まではこれまでのまとめか。
P83L11からP83L14まで異議があって、P84L1からカントの反論がP87L14まで、と。
うわ、また批難がP87L15からP88L1までで、カントの反論がP88L2からP89L3まで、さらに
P89L3からP89L6まで言い掛かりがあって、カントの反論がP89L6-P90L14まである、と。
まぁ、どれも繰り返しだな。
P81からの現象とかをまとめておくか、前に帳面につけてたしな。対象はどう書いていいか
わからないから、とりあえず下につけとけ。
+−−−−−−−−−−−−空間−−−−−−−−−−−−−−−+
| |
| +−−−−−−−我々−−−−−−+ |
| | 感性 悟性 | |
| +−−−−+ | +−−−感官−−−+ | |
| |物自体 現象−−−−+−+−→表象=物体 | | |
| +−−−−+ 影響 | +−−−−−−−−+ | |
| | | |
| +−−−−−−−−−−−−−−−+ |
| |
+−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−+
対象 すべてはそれが意識されるかぎり、まず対象とよばれる。(『事典』)
カントは現実にあるものを感官が受け取り悟性が判断するって考えたから、デカルトみた
いに物の実在を疑わなかったっていうことだよな。そう考えてみると、デカルトはすべて
のものを疑っていって確実なものとして私を考え、そこから物の確認をしていったけれど
(
>>237 2 外的経験批判参照、『省察』第2省察蜜蝋の話)カントは逆に物の実在から
考えて私にいくのかねぇ。
あぁ、頭がいたい。今日はもう寝よう、おやすみ」
265 :
考える名無しさん :2010/12/07(火) 11:25:56 0
近頃では読書するのも億劫なんじゃよ
【標題】 第14節 自然とはなにか 【内容】 自然とは、物が普遍的法則に従って規定されている限りでの、物の現実的存在であり、物 自体ではない。物自体の認識は、ア・プリオリにもア・ポステリオリにも不可能である。 【標題】 第15節 純粋自然科学とはどのようなものか 【内容】 純粋な自然科学は、自然一般を普遍的自然法則のもとに収め、自然を支配する法則をア・ プリオリに、また絶対的必然性をもって提示する。そのような純粋自然科学はどうして可 能か、という問題を解く必要がある。 【標題】第16節 どのように捉えた自然を考察するのか 【内容】 第15節で見たような、形式的に解せられた自然は、物一般の現実的存在の規定の合法則 性しか意味しないが、質料的に考察された自然は経験の一切の対象の総括となる。考察す るのは後者の自然であり、その自然認識は、たとえ経験に先立つにせよ、ア・プ リオリに可能であり、その実在性を経験によって実証せられ得るものである。 【標題】 第17節 純粋自然科学をどのように論究するか 【内容】 経験と経験を可能ならしめるものとしてア・プリオリに与えられている普遍的条件を論及 し、経験を可能ならしめるア・プリオリな条件が、同時にすべての普遍的自然法則をそこ から導来せねばならない源泉であるのはどうしてかを調べていく。
−長屋でひとり読んでいる
「第1章は標題の「純粋数学はどうして可能か」という問いに対して、
>>256 の第11節
のところが回答になるんだな。
ようやく第2章か。
P91L3のア・プリオリに認識できないのは何なんだ?自然か?物自体か?
ははぁ、P91L4 に「物自体に〜」とあるし、P92L4 に「物自体に関するかかる認識は」っ
てあるから、「物自体」でいいのかな。そりゃぁ、俺らには現象しかわからないんだからな。
第15節、っと。
また、わかんない言葉が出てくるねぇ。不可入性、実体、常住不変、まったく」
「しかし、でかい声だねぇ。なにがまったく、なんだい。外まで聞こえてくるぜ」
「おぉ、久しぶり。まぁ、入ってくれ。いや、なにカントの『プロレゴメナ』って本を読
んでんだよ」
「『純粋理性批判』じゃないのか。貸してやろうか、一緒に読むといいらしいぞ」
「薄いかい?3倍くらい?じゃぁ、いいよ。俺はこう見えても忙しいんだぜ。そんなに本
ばっかり読んでいられないよ。おめぇさんは、読んだのかい、その『純粋理性批判』
じゃぁ、、教えやがれ!いや、教えてください」
「なんだよ、急に馬鹿丁寧になって。不可入性は、不可侵入性ともいって、まぁ、早くい
えば、お前がそこにいたら俺はそこにいられないよな、っていうことだ。P44L3 に実体も
常住不変もあわせてでてきているんだけど、今回も命題の例としてでているだけだから、
とりあえずは帳面につけておけばいいよ。あとは、大丈夫だろう。そうか、読んでいるん
なら、ちょこちょこ顔をだそうかな、確かこのあたりは説明を端折っているところがあっ
たはずだから」
「おう、頼むよ、ちょちょいと説明してくれよ、わかりやすくな。
あぁ、ちょい待ち。P94L9の可能的経験ってなんだい」
「そうだなぁ、事項索引のP6の経験の項目に可能的〜であるだろう。で、ページを見ると
もう少し後にいっぱい出てくるから、そのときに考えてみようか。
>>263 でもでているけ
れど、今は文字通り経験の1つくらいに思っていればいいよ。経験はP53 訳注1をもう一
度見ておきなよ。」
268 :
1 :2010/12/07(火) 22:05:46 0
>>265 まぁ、生業としていないなら無理して読むこともないし
億劫なままで読むものでもないし
今は他のことをする時期と考えたら。
それが巡り巡って読書の役に立つこともあるだろうし。
269 :
1 :2010/12/07(火) 23:03:16 0
270 :
1 :2010/12/07(火) 23:09:28 0
>>268 なんか冷たい感じのレスになってしまったけれど、
本を読まなきゃいけない、なんてことはないんだから、
ゆっくり構えて、他のことをするチャンスくらいに考えたら、というつもりで書きました。
あいかわらず文章が下手ですみません。 <(_ _)>
【標題】 第18節 経験的判断はどのようなものか 【内容】 経験的判断は、客観的妥当性をもつ経験判断と主観的にのみ妥当する知覚判断からなる。 経験判断は常に感性的直観における表象を超えて、悟性において根源的に産出した概念 〔カテゴリー〕を必要とする。この概念が客観的に妥当する経験判断を成立させる。 対象による統一があるため、判断と対象が一致し、他者の判断が私の判断と必然的に一致 する。 |−知覚判断 主観的にのみ妥当する 経験的判断−+ |−経験判断 客観的妥当性をもつ→カテゴリーを必要とする 【標題】 第19節 経験判断での客観的妥当性・必然的普遍性はどのようなものか 【内容】 客観的妥当性と必然的普遍妥当性とは交換概念である。 対象←−客観的妥当性−−→私の経験判断 ↑ ↑ 交換概念−−→必然的普遍妥当性 ↓ 他者の経験判断 客観によって我々の感性に与えられているところの表象が、こんどは悟性概念によって必 然的に連結せられ、この必然的連結が普遍妥当的なものとして規定されるならば、対象は かかる関係によって規定せられ、その判断は客観的なものとなる。 悟性概念を加えても経験判断にならない知覚の例 「部屋は暖かい」、「砂糖は甘い」、「ニガヨモギは嫌な味だ」
【標題】 第20節 経験判断はどのように生じるか。 【内容】 経験には、感官だけに属する知覚と悟性だけに属する判断作用が含まれる。 判断作用は以下の2段階に分けられる。 1 知覚判断 知覚と知覚を引き合わせて、これらの知覚を私の状態の一つの意識におい て結合する。この段階では主観的妥当性しかもたない。 2 判断作用 悟性だけに属する。1の知覚を意識一般において結合する。この段階で普 遍妥当性と必然性とを具え、客観的に妥当し得る。 1と2の間に、与えられた直観がこの直観に関する判断一般の形式を規定する悟性概念の もとに包摂されねばならない。 つまり、綜合的判断には、直観から抽象されて生じた概念を超えて、純粋悟性概念がこれ に付け加わり、さきの概念はこの純粋悟性概念のもとに包摂され、こうして初めて客観的 に妥当する判断において必然的に連結される。 悟性概念を加えると経験判断になる知覚の例 「空気は弾力性をもつ」、「太陽が石を照らすと、石は熱くなる」
−長屋でひとり読んでいる
「ここは読んで整理していけばいいな。
第18節に、経験判断、経験的判断、知覚判断があって、対象による統一が書いてあって、
判断が対象と一致し、他者と私の判断が一致する、と。
客観的妥当性っていうのは、「主観における表象(直観または概念)や判断が、客観(対
象)に対して妥当すること。普遍妥当性とは異なる。」(『事典』)なのか。
P99L10からでてくる「必然的」がみそなのか。そういえば、ヒュームの話でも
>>243 で
「必然的に結合」ってあったな。あれ事項索引にはないな、まぁ、ちょっと帳面につけて
おくか。
で、P101L2から知覚判断と経験判断の例が出てくるわけだ。
この前の図をちょいと直すと、こうなるのかな。
+−−−−−−−−−−−−−−空間・時間−−−−−−−−−−−−+
| +−−−−−−−−−−我々−−−−−−−−−−−+|
| | 感 性 悟 性 ||
| | | | ||
|+−+ | +−直 観−+ +−−−判 断−−−+ ||
||物現 | | | | | ||
|| 象−−−+−+→表=物−+−+→知−純カ−−→経| ||
||自/ 影 | | 象 体 | | 覚 粋テ 験| ||
|| 対 響 | +−−−−−+ | 判 悟ゴ 判| ||
||体象 | | 断 性リ←+→断| ||
|+−+ | | 概| | | ||
| | | 念 | | ||
| | +−−−−−−↓−−+ ||
| | 普遍妥当性・客観的実在性 ||
| | \____________________/||
| | 経 験 ||
| +−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−+|
+−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−+
274 :
1 :2010/12/08(水) 22:00:12 0
空間時間は一番外側でいいの? 時空の形式は主観に属するものだとばかり思っていたが。
276 :
1 :2010/12/09(木) 23:23:35 0
>>275 教えてくださり、ありがとうございます。
そうだよなぁ。
書き込みを見て、苦笑してしまいました。なに読んでいるんだ、P72L4を読め>>自分、と。
で、直してみました。
ちょっと次の内容も盛りこんでしまっていますが、御容赦ください。
T表〜V表の位置とか、ほかにもあったら、というより、あるだろうから、いろいろと突っ
込んでください。
+−−−−−−−−−−私−−−−−−−−−−−+
| +−−−−−+ |
| |空間・時間| |
| +−−↓−−+ |
| 感 性 悟 性 |
| | | |
+−+ | +−直 観−+ +−−−−判 断−−−−+|
|物現 | | | | ||
| 象−−−+−+→表=物−+−+→知−純カ−−+−→経||
|自/ 影 | | 象 体 | | 覚 粋テ V 表 験||
| 対 響 | +−−−−−+ | 判 悟ゴ | 判||
|体象 | | 断 性リ←−+−→断||
+−+ | | 概| | / ||
| | 念 |T表 ||
| | / | ||
| | U表 | ||
| +−−−−−−−↓−−−+|
| 普遍妥当性・客観的実在性|
| \__________________/ |
| 経 験 |
+−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−+
【標題】 第21節(判断の論理的表。悟性概念の先験的表。自然科学の普遍的諸原則の純粋自然学的表) 【内容】 経験の可能性が純粋悟性概念(カテゴリー)にもとづくので、判断作用一般に属するもの、 判断作用における悟性の種々な判断様式、客観的に妥当する経験的認識としての一切の経 験を可能ならしめるア・プリオリな諸原則を示す。 T 判断の論理的表 |−−全称的判断(すべてのAはBである) 1 分量−+−−特称的判断(若干のAはBである) |−−単称的判断(このAはBである) |−−肯定的判断(AはBである) 2 性質−+−−否定的判断(AはBでない) |−−無限的判断(Aは非Bである) |−−定言的判断(AはBである) 3 関係−+−−仮言的判断(AがBならばCはDである) |−−選言的判断(AはBであるかさもなければCである) |−−蓋然的判断(AはBであり得る) 4 様態−+−−実然的判断(AはBである) |−−必然的判断(AはBでなければならない)
【標題】 第21節(判断の論理的表。悟性概念の先験的表。自然科学の普遍的諸原則の純粋自然学的表)続き 【内容】 U 悟性概念の先験的表 |−−単一性 1 分量−+−−数多性 |−−総体性 |−−実在性 2 性質−+−−否定性 |−−制限性 |−−実体 3 関係−+−−原因 |−−相互性 |−−可能性 4 様態−+−−現実的存在 |−−必然性 V 自然科学の普遍的諸原則の純粋自然学的表 1 直観の公理 2 知覚の先取的認識 3 経験の類推 4 経験的思惟一般の公準
−長屋でひとり読んでいる 「第21節は、おぉ、これこれこういうのがないと、わからないよな。 なんだ、説明がないのか、いやいや、この後にあるんだろう」 「おう、どうだい、読んでるかい」 「あぁ、いいところに来た。P108からP110にある表はなんのことを言っているんだい」 「どれどれ、ちょっと見せてみな。うぅん、確かにこれだけじゃぁわからないなぁ。あと で説明がちょっとあるけど、ちょっと『批判』から引用してやろう。 T 判断の論理表(『批判』(上)P143〜) 「判断一般からその一切の内容を度外視して判断の悟性形式だけに着目すると、我々は判 断における思惟の機能が4綱目に区分せられ、更にまた各綱目がそれぞれ3個の判断様式 を含むことを知る」(『批判』(上)P143)」つまり、分量、性質、関係、様態が思惟の 機能、全称的判断とかが判断様式なわけだ。 分量は述語に対して主語がどれだけの分量あるかという判断。性質は「霊魂は不死的であ る」(『批判』(上)P145)といった主語に対する判断。関係は「(a)述語の主語に対 する関係、(b)理由の帰結に対する関係、(c)区分された〔区分の対象となった〕認 識と区分によって生じたすべての選言肢相互との関係」(『批判』(上)P146)という判 断。様態は「蓋然的判断は、その肯定もしくは否定がまったく可能的(任意的)と見なさ れるような判断である。実然的判断は、その肯定もしくは否定が現実的(真)と見なされ るような判断である。また必然的判断は、その肯定もしくは否定が必然的と見なされるよ うな判断である」(『批判』(上)P147)
U 悟性概念の先験的表(『批判』(上)P151〜) 「判断の含む種々な表象に統一を与えるのと同じ〔悟性〕機能が、直観の含む種々な表象 の単なる綜合そのものにもまた統一を与える。この統一を一般的に表現したものが即ち純 粋悟性概念である」(『批判』(上)P151) 純粋悟性概念は2つに分けられ、「第1類〔分量と性質〕は、直観(純粋直観ならびに経 験的直観)の対象に関係する。また第2類〔関係と様態〕は、これらの対象(対象相互の 関係か、さもなければ対象と悟性との関係における)の実際的存在に関係する」(『批判』 (上)P156) 「各綱目について、第3のカテゴリーは常に第一のカテゴリーと第2のカテゴリーとの結 合から総じているのである。 すると総体性(全体性)のカテゴリーは、単一性と見なされた数多性にほかならない。 また制限性は、否定性と結合した実在性にほかならない。更にまた相互性は、他の実体と 相互的に規定し合う実体の因果性である。最後に必然性〔必然的存在〕は、〔存在の〕可 能ということによって与えられた実際的存在(略)にほかならない」(『批判』(上)P157) V 自然科学の普遍的諸原則の純粋自然学的表(『批判』(上)P233〜) 「原則は、カテゴリーを客観的に使用するための規則にほかならないからである。そうす ると純粋悟性のすべての原則」(『批判』(上)P235)はVのようにあげられる。 直観の公理と知覚の先取的認識は「直観的確実性をもつが、」経験の類推と経験的思惟一 般の公準は「論証的確実性しかもたない。」(『批判』(上)P235、P236) これについては第24節から第26節までは後でゆっくりしよう。これからちょっと手伝 いに行かなきゃいけないところがあってな」 「そうか、今日はすっかり教わっちまったな。また、時間のあるときに来てくれよ、軽く 飲もうや。それじゃぁな。 あぁ、行ったか。 しっかし、説明してくれたはいいが、こりゃぁ、わからねぇなぁ。まずは、こういう3種 類の表があって、どれも悟性、判断に関係している。そして、どれも分量、性質、関係、 様態の4つに大きく分けられていることくらいを覚えておけばいいか」
281 :
1 :2010/12/09(木) 23:55:25 0
+−−−−−+ | 空間・時間 | +−−↓−−+ 感 性 じゃなくて、 +−−−−−+ | 空間・時間 | | ↓ | +− 感 性−+ か?
カントが言ってる空間と時間って、ゲームCDから専用機で 読み込んだから画面上に空間と時間が出現するっていうのと 同じだと思うんだよね。最初から用意されてるものではない。 これをそういう枠組みでどう表現したらいいのか分からんけど。
283 :
1 :2010/12/10(金) 21:16:54 0
>>282 なるほど、おもしろいたとえですね。
「最初から用意されてるものではない」、という部分をもう少し知りたく思うので、もし
よろしければ『批判』の該当箇所か参考となる本を教えていただけますか?
【標題】 第21節a 第18節から第21節までをまとめるとどのようにいえるか 【内容】 経験は、感性に属する直観と悟性に属する判断とからなる。 経験判断には、感性的直観と直観の論理的連結を含むだけでなく、直観を綜合的に統一す る概念(カテゴリー)がそれらに加わることで、必然的なものとし、普遍妥当的なものと なる。そして、綜合的統一は、判断における、与えられた一つの論理的機能によってのみ 表示され得る。 【標題】 第22節 第18節から第21節までを第21節の表を使って説明するとどのようにいえるか 【内容】 感官の本分は直観にあり、悟性の本分は思惟にある。思惟するとは、いくつかの表象を一 つの意識において(主観的もしくは客観的)統一をすること、つまり判断である。 T表にあるように判断の論理的判断様式は、表象を一つの意識において統一する可能的な 仕方と同じ数だけある。そして、これら12個の判断様式が概念として用いられると、U 表に掲げたように表象を一つの意識において必然的に結合する概念となり、従ってまた客 観的に妥当する判断の論理でもある。
【標題】 第23節 純粋自然科学はどうして可能か 【内容】 一つの意識における与えられた諸表象の統一の条件としてのみ観られる判断は、規則である。 その統一を必然的なものとして表示する規則は、ア・プリオリな規則である。 そこからそれが導き出されるいかなるア・プリオリな規則もそれより上にないかぎり、原 則である。 すべての経験の可能性に関して、もし人が経験において単に思惟の形式を考察するならば、 経験判断の諸条件としては、諸現象をその直感の種々の形式にしたがって純粋悟性概念の もとへもたらすような諸条件より上のいかなる条件も存しないので−この純粋悟性概念が 経験的判断を客観的に妥当なものにするのだが−、こうした諸条件は、可能的経験のア・ プリオリな原則である。(P114L1-L9部分を『全集』P260をもとに作成) 可能的経験を成立せしめる諸原則は、同時にまた自然の普遍的法則である。そしてこれら の法則はア・プリオリに認識せられ得る。であるから、純粋自然科学は可能である。
−長屋で寝転びながら読んでいる
「ふぅ、昨日は一気に難しい言葉がでてきたな。今日は、いいや、第21節は要約か。
しかしなんだってこんなところに要約がはいってくるんだ?
第22節も要約か。うん、P112L9の「ところで」までの感官と悟性、主観的統一と客観的
統一の説明とそれ以降で第21節の表の流れの説明をしているのか。P112L14 のこの節の
最後の文章でまとめているんだな。P112L9の判断の論理的判断様式」がP108I表のことで、
P112L10「判断様式が概念として用いられる」のがP109U表に対応しているんだろう。」
「読んでるねぇ」
「おぉ、なんとかな。昨日いろいろと教えてくれたから助かったよ。ちょうど区切りがい
いから一休み入れるか。軽く飲みにいくか」
「いや、いや。どうだい、どこらへんまで読んだ」
「第23節に入ったところだけど、なんかわかりにくいなぁ」
「どれどれ、なるほど、こっちの訳のほうがわかりやすいよ。読んでみな(『全集』の要
約を
>>285 P114-P115 の【内容】に記載)」
「うん、たしかに。いやぁ、ありがとう。
「可能的経験」がまたでてきたな」
「うん、今は経験を可能にするためのア・プリオリな原則が純粋悟性概念くらいに考えて
おけばいいさ」
「よし今日はこれくらいでいいか。さて、じゃぁ、飲みに行くか」
(カントの認識図については、
>>276 参照)
287 :
1 :2010/12/11(土) 13:26:03 0
第24節および第25節の証明の大前提以下の内容は、ハイデガーが『物への問い』で「 この証明はどこでも、(1)大前提(略)(2)小前提(略)(3)結論(略)という構 造をそなえている」(『純粋理性批判3』P383 中山元訳 光文社古典新訳文庫)と指摘 しているということで、その解説に沿って『批判』(上)の訳文を参考に作成しています。 また、経験的思惟一般の公準の(1)から(3)までについては、『読解』を引用してい ます。 書き込みが大量になりましたので、【対話】は後で書き込みます。
【標題】 第24節 第21節aV自然科学の普遍的諸原則の純粋自然学的表の1,2はどのようなものか 【内容】 原則は、カテゴリーを客観的に使用するための規則にほかならない。(『批判』(上)P235) 1 直観の公理 直観はすべて外延量である − 分量 証 明 『プロレゴメナ』P121L13〜P121L16参照 大前提 「およそ現象は、形式的にみればすべて空間或は時間における直観を含んでい る」(『批判』(上)P237) 小前提 「現象が覚知されるには(略)多様なものの綜合によるよりほかに方法がない」 (『批判』(上)P237) 結 論 「或る一定の空間および時間の表象は、(略)同種なものの合成とかかる(同 種的な)多様なものの綜合的統一の意識とによって生じ」「直観一般における 同種的な多様なものの意識は(略)量((略)外延量)の概念である」 (『批判』(上)P237) 2 知覚の先取的認識 およそ現象においては感覚の対象をなす実在的なものは内包量即 ち度を有する − 性質 証 明 『プロレゴメナ』P121L16〜P122L6参照 大前提 「知覚とは経験的意識のことである。換言すれば、同時に感覚をも含んでいる ような意識である」(『批判』(上)P241)「それだから現象は、直観を越え てそれ以上に、なおなんらかの客観一般に対応する質料(略)を、単なる主観 的表象として含んでいる」(『批判』(上)P242) 移行部「経験的意識から純粋意識にいたる漸減的変化は可能である」(同) 小前提 「感覚自体は、決して客観的表象ではないし、(略)外延量をもつものではな いが、しかしそれにも拘らず或る種の量をもつ」(同) 結 論 或る種の量は「内包量である。知覚は感覚を含んでいるから、感覚が内包量を もつ以上、これに対応して知覚のあらゆる対象にもまた内包量、即ち感官に及 ぼす影響の度合があるとしなければならない」(同) 1,2は数学的原則といえる。
【標題】 第25節 第21節aV自然科学の普遍的諸原則の純粋自然学的表の3,4はどのようなものか 【内容】 3 経験の類推 経験は知覚の必然的結合の表象によってのみ可能である − 関係 証 明 『プロレゴメナ』P123L1〜P124L7参照 大前提 「経験とは、(略)知覚によって客観を規定するような認識である。それだか ら経験は知覚の綜合であるが、しかしこの綜合そのものは、知覚に含まれてい るのではな」(『批判』(上)P252)い。 小前提 「経験においては、確かに知覚は互に結びつきはするが、しかしその結合は偶 然的な仕方で生じたものにすぎない。それだから知覚の結合の必然性は、知覚 そのものからは明らかにされない」(同) 結 論 「時間における客観の存在は時間一般における結合によってのみ−換言すれば、 ア・プリオリに結合するところの概念によってのみ規定せられ得るわけである。 ところでかかる概念は、常に同時に必然性を伴うものである、故に経験は知覚 の必然的結合の表象によってのみ可能である。」(同)
第1の類推 実体の常住不変性の原則 内 容 現象がどんなに変異しようとも実体は常住不変であり自然における実体の量は 増しもしなければ減りもしない。 U表の関係の実体が対象に適用される原則を示す。 証 明 『プロレゴメナ』P123L2〜P123L7参照 大前提 「すべて現象は時間において存在する。同時的存在も継起も、基体(略)とし ての時間(内的直観の不変な形式としての)においてのみ、表象せられるので ある」(『批判』(上)P257) 小前提 「時間は、それ自体だけでは知覚され得ない。すると知覚の対象即ち現象にお いて、時間一般を表すところの基体が見いだされねばならないということにな る」(『批判』(上)P258) 結 論 「この常住不変なものが(略)現象の一切の変易の基体として、現象において 常に同一不変であるところの実在的なものである」(同) この結論の系として「故に自然における実体の量は、増すこともあり得なければ減る こともあり得ないのである」(同)という実体の恒存の法則が導きだされることにな る。) 第2の類推 因果律に従う時間的継起の原則 内 容 一切の変化は原因と結果とを結合する法則に従って生起する。 U表の関係の原因性が対象に適用される原則を示す。 証 明 『プロレゴメナ』P123L2〜P123L7参照 大前提 「私は、現象が時間において相ついで継起することを知覚する(略)私は、時 間における2つの知覚を実際に結びつける」(『批判』(上)P265) 小前提 「結合は、構想力の総合能力の所産である、そしてこの構想力が内感を時間関 係に関して規定する(略)単なる知覚によるだけでは、相ついで現われる現象 の客観的関係ははけっきょく規定され得ないのである」(『批判』(上)P265,P266) 結 論 「我々は、現象の継起を−従ってまた一切の変化を、原因性の法則〔因果律〕 に従わせることによってのみ経験、即ち現象の経験的認識すらも可能ならしめ るのである」(『批判』(上)P266)
第3の類推 相互作用或は相互性の法則に従う同時的存在の原則 内 容 およそ一切の実体は空間において同時的に存在するものとして知覚される限り 完全な相互作用をなしている。 U表の関係の相互性が対象に適用される原則を示す。 証 明 『プロレゴメナ』P123L2〜P123L7参照 大前提 「或る物の知覚が他の物の知覚についで継起し、また逆に前者が後者についで 継起するというふうに、これら2つの知覚が相互的に継起し得る場合には(か かることは、第2原則で示したように、時間における現象の継起においては生 じ得ない)、これらの物は同時的に存在する」(『批判』(上)P286 )「同時 的存在とは、同一の時間における多様なものの実際的存在である」(『批判』(上)P287) 第1の小前提 「2つ以上のものが同時的に置かれているからといって、そのことから これらの物の知覚が相互的に継起しうると推知するわけにはいかない (略)2つ以上の客観が同時に存在すること(略)を告げるものではな い」(同) 第1の結論 「同時的存在を客観的なものとして表象するためには、互に別々でありな がらしかも同時的に存在するこれらの物の規定が相互的に継起することを 表現するような悟性概念即ちカテゴリーを必要とするわけである」(同) 第1の結論に基づいて、この概念はどのようなものかを次に考察する。 第2の小前提 「一つの実体の含む規定の根拠が他の実体に含まれているような関係は、 影響の関係である。そして一つの実体が他の実体を規定する根拠を相互 的に含む場合には、実体間のかかる関係は、相互性の関係或は相互作用 の関係である」(同) 第2の結論 「空間における2つ以上の実体の同時的存在は、実体間の相互作用を前提 としてのみ、経験において認識せられ得る。従ってこの前提は、経験の 対象としての物を可能ならしめる条件である」(同)
4 経験的思惟一般の公準 −様態 この原則だけ証明がなされない理由 「数学における公準は、或る種の綜合しか含まない実用的命題である、即ち我々は、こ の綜合によって或る対象をまず我々自身に示しておいて、そこからこの対象の概念を産出 するのである。例えば『与えられた線をもって、与えられた点から平面上に一つの円を描 くこと』というような命題がこれである。かかる命題は証明せられ得ない、その理由は、 この命題が要求している手続そのものこそ、我々がそれによってこの図形の概念を初めて 産出するところのものだからである。そこで我々は、これとまったく同じ権利をもって、 様態の三原則を公準と名づけることができる、これらの原則は、物の概念をいささかも増 大するのではなく、この概念に認識能力が結合される仕方を示すだけだからである」(『批判』(上)P312,P313) (1)現象と悟性の認識する形式的条件との一致を一個の概念〔可能性〕に結合する 「われわれがある事物を現実に存在しうることを認識できるためには、思い描かれ たその対象(物の概念)が、経験一般を可能とするアプリオリな形式的条件(感性 と悟性の形式)に合致しているのでなくてはならない。これはおよそ事物対象をわ れわれが綜合的に認識するための基礎条件だった。」(『読解』P128) (2)現象と感官および知覚の質料との関連を一個の概念〔現実性〕に結合する 「ある事物が現実的な存在対象であることを認識できる経験の条件は、それが単に 可能な概念として与えられているだけではなく、対象がわれわれの感覚を触発して ”現に知覚として与えられている”ということが必要である。それを私は、経験の 実質的条件(感覚)とたしかに結びついている可能な対象は、現実的である、と言 おう」(『読解』P129)
4 経験的思惟一般の公準 −様態(続き) (3)この両者を一個の概念〔必然性〕に結合する 「「必然性」とは、論理上の必然性ではなく、あくまで経験的対象(事物)の存在 の「必然性」のことである。しかし、われわれは、およそ事物一般が存在している こと自体の絶対的な必然性といったものを認識することはできない。ただ、ある事 物の現実的存在の仕方・状態が、別の事物のそれとの間で、必然的な「原因−結果 関係」で結ばれているとき、われわれはその事物の存在を「必然的」なものと認識 することができるのである」(『読解』P133) 3,4は力学的原則といえる。
【標題】 第26節 第21節aV自然科学の普遍的諸原則の純粋自然学的表はどのような性質をもつか 【内容】 自然科学の普遍的諸原則の純粋自然学的表は、悟性そのものの本性から批判的方法に従っ て導出された諸原則の表である。 これらの原則における概念に加えられる本質的制限は、およそ物は、すべて経験の対象と してのみ必然的に、またア・プリオリに可能的経験を成立せしめる条件に従っている、と いうことである。 4つの原則は、直接に現象や現象間の関係に関係せしめられるのではなくて、経験の可能 性〔すなわち経験を可能ならしめること〕に関係せしめられる。
−煮売り屋で2人で飲みながら話している
「そういえば、次はカント自ら『批判』の「記述を参照しないと十分な理解がむずかしい
かも知れない」(P117原注)と書いているところだろう」
「えぇ、そうなの。
>>280 で「後でゆっくりしよう」って言ってたところだろう」
「そう、だからハイデガーの『物への問い』を参考にしたという中山元訳から解説の証明
の部分をまとめておいたよ(
>>288 〜291)。ここはカントのいうとおり、全体をひととお
りみるだけにしておこう。
ただ、可能的経験の話だけはしておかなきゃな。
経験は一般に使っている意味じゃないというのは知っているかい」
「あぁ、その話をしたのは、おまえさんで3人目(
>>248 ,253)だ。見たり聞いたりした
ことを意識で統一すること、くらいでいいか。それにP124L8の「経験というものは〜」で
カントももう散々言ってきたけど、っていいたそうだぜ」
「じゃぁ、話が早い。可能的という言葉もカントの場合は独特の意味で使っているんだ。
カントは
>>292 ,293の4 経験的思惟一般の公準の(1)で可能性の話がでていてるけれど、
感性と悟性の形式、つまりは空間・時間・純粋悟性概念の形式と合致するように、思い描
かれるということだ。
ということは、可能的経験は、あわせて考えればいいわけだ」
「なんだい御大層に言うけど、現実にありえそうなことを考えて頭ん中できちんと整理し
たってところかい。面倒くせぇ言い方しやがって。あっ」
「気づいたか。
>>243 でみたように『プロレゴメナ』、『批判』の執筆の動機は、理性や
ア・プリオリに存立する認識は経験にすぎない、ア・プリオリな認識は理性にはできない
とのヒュームの主張の検討と純粋理性の能力の範囲と限界について叙述するために書いた
のに、ア・プリオリなことが関係ないと思うか?」
「いや、
>>252 でア・プリオリな綜合的命題(認識)はどうして可能か、を考えてたんだもんな」
「可能的経験 「ア・プリオリ、ア・ポステリオリ」に悟性がT〜Vの論理(判断様式)、概念、原則を用い「うる」認識の領域
経験 「ア・ポステリオリ」に悟性がT〜Vの論理(判断様式)、概念、原則を用い「た」 認識の領域
っていうところかな(『事典』だと可能的経験にア・プリオリ、ア・ポステリオリ両方を
含めるように書いてあってちょっと引っかかるけれど、おそらく現実の経験ということで
はなく、意識で統一という点から経験をしたという意味でのア・ポステリオリなのだろう
か)
「われわれの認識が正当化されうる限界のその内部の全体を意味し、それを超えた不当な
拡張を防ぐ役割を担わせられる」(『事典』)とあって、つまり、この領域がどこかって、
相撲の土俵のように線を引けたらカントの目的は達成っていうことだろう」
「じゃぁ、早く引いちまおうよ」
「それがすぐできりゃ誰も苦労しないさ。けれども、可能的経験は事項索引で見たように
もうだいぶ前からでてきているし、最終節(P235, P239)でもでてきている。その線引き
のための道具としてT〜Vの表を見ていこうか」
【標題】 第27節 序言のヒュームの疑問はどのように捉え返されるか 【内容】 ヒュームの疑問 或る物〔A〕の現実的存在がこの物によって必然的に定立された他のなんらか或る物〔B〕 の現実的存在に関係することの可能性を理性は洞察できない。 カントの追加疑問 1 我々は自存性という概念を洞察できない。換言すれば、物の現実的存在の根底には、 それ自身なんらか他の或る物の述語になり得ないような主体〔主語〕が必然的に存す るというが、我々はその必然性の概念を洞察できない。 2 1のような物が可能であることすら理解できない。 3 物の相互性〔相互作用〕を理解できない。 P108〜P110のT〜V表で示した純粋悟性概念とこれから生じる諸原則は、一切の経験より も前にア・プリオリに確立していること、それらは経験に関してだけであるが、客観的妥 当性をもつからであることは既に証明したところである。 【標題】 第28節 第27節の疑問への回答は、第21節の諸表からはどうなされるか 【内容】 物自体について、その必然的連結を考えることはできない。表象は以下のように連結される。 1 P126L13〜P127L6 P109T表三 関係の判断様式参照 表象が3つの判断様式のどれかとして結合される。 2 P127L10〜P127L13 P109U表三 関係のカテゴリー参照 T表の関係の判断様式でとらえられた表象がある悟性概念のもとに包摂される。 3 P127L14〜P127L16 P117L6〜P118L7 経験的思惟一般の公準参照 経験的ではあるが客観的に妥当する判断がなされる。
【標題】 第29節 第27節の疑問への回答は、第21節のT表から考えるとどうなるか 【内容】 ヒュームの蓋然的概念(以下「原因の概念」)は原因としての物一般(「現象としての物」 と「物自体」を合わせたもの。もしくは「物自体」)の可能性として考えると私には理解 できない。 原因の概念が示唆するのは経験に属する条件にすぎず、先行する現象が後続する現象と仮 言的判断の規則に従って結びつき得る限り、経験は現象とその時間的継起とに関して客観 的に妥当する認識となり得るからである。 【標題】 第30節 第27節の疑問への回答は、第21節のU、Vの表から考えるとどうなるか 【内容】 純粋悟性概念も普遍的自然法則も経験に対する悟性の関係においてのみその根拠をもち、 それらは経験から導来せられるのではなくて、経験がこれらのものから導来されるという、 ヒュームの考えていた連結とは逆のものである。 ア・プリオリな綜合的諸原則は可能的経験を成立せしめる原理にほかならず、これらの原 則が関係するのは経験の対象としての現象だけである。
【標題】 第31節 独断論者や純粋理性の自然論者への批判はどのようなものであったか 【内容】 独断論者たちは諸概念や諸原則が経験にかかわりなく認識されるという理由から、いっさ いの可能的経験を超えてこれを使用する。 純粋理性の自然論者たちは独断論者を抑制できないし、自身も知らず知らずのうちに経験 の対象を超えて諸概念や諸原則を使用するだろう。 【標題】 第32節 我々は悟性的存在者を知ることができるか 【内容】 古来、純粋理性の探求者たちは感性界を形成する現象と悟性界を形成する特殊な悟性的存 在者を考えていた。しかし、我々は純粋な悟性的存在者については明確なことを何ひとつ 知らないし、また知ることもできない。純粋悟性概念ならびに純粋直観は現象しか関係し ない。
−煮売り屋で2人で飲みながら話している
「オリャ(/-o-)/、 またヒュームだよ」
「ヒュームはカントに、独断論の微睡から〜」
「わかっている、わかってる、2人目だ(
>>245 )」
「おまえ、いつも他の人に教えてもらっているのか」
「うん、なんか、みんな教えてくれる」
「まぁ、それも能力の一つだな」
「第27節はそのまま読めばいいし、第28節も訳者の補足のとおりP108,109のT表(P126L13〜
P127L6に対応)とU表(P127L12)をみればいいんだな。
あれ、P110のV表はP127L15,L16 なのか。しかも補足では経験的思惟一般の公準だ。関係
なら経験の類推じゃないのか」
「うーん、ここはわからないなぁ。P126L12 に「悟性における〜」とあるから、それ以降
は表象の悟性での流れを説明していると思うのだけれど……」
「まぁ、いいさ。第29節はヒュームの原因の概念を批判して、ア・プリオリにそなわる
T表の仮言的判断によって説明できることを言っているんだな。おぉ、可能的経験がでて
きてる、でてきてる。
で、第30節の最初に純粋悟性概念が対象とするのは物自体ではない、と言っているわけ
だ。で、ヒュームの課題は解決しました、と。
じゃぁ、乾杯!」
「甘いな、ここから可能的経験が活躍しだすんだぞ」
「どういうことだい」
「第31節では独断論者や自然論者が可能的経験を超えた領域で理性や悟性の概念や原則
を使い出し、第32節ではこれまで純粋理性の探求者は悟性的存在者、つまり物自体を考
え、それだけに現実性を認めていた、というわけだ」
「で、カントはそんなのはわからねぇよ、って言ったんだろ。カント万歳!」
「あぁあ、大声上げて一人寝ちまったよ」
301 :
1 :2010/12/12(日) 09:51:27 0
>>43 で書いていた今後のスレの進め方ですが
>>とりあえず12月の「プロレゴメナ」が終わる頃のスレの様子をみて考えてみましょうか。
と書いていました。事前に翌月分の本を買ったり、読む方もいると思うので、早い目に方
向性が見えていたほうがよいだろうと考え、今後のスレの進行方法についてお伺いします。
毎月1冊哲学の本を読んで、あれこれ考える、という現行の進め方を変えますか?
【標題】 第37節 悟性と自然法則はどのような関係にあるのか 【内容】 悟性はそのア・プリオリな法則を自然に指示するという命題を第38節から実例で説明す る。そこで明らかにすることは、我々が感性的直観の対象において発見する法則は、我々 自身によってすでに必然的法則とみなされているものであって、その法則と自然法則はい ずれも悟性が対象の中に入れておいたものである。 【標題】 第38節 第37節の実例からどのようなことが確認できるか 【内容】 方ベキの定理を例にとり、法則を根底とする自然があり、悟性はこれらの法則をア・プリ オリに、それもとりわけ空間を規定する普遍的原理にもとづいて認識する。 ところで、このような自然法則は、空間のうちにあるのか、悟性のうちにあるのか。 悟性は、いっさいの現象を自分自身の法則のもとに包括し、そうすることによって初めて 経験をその形式に関してア・プリオリに成立せしめる。このため、経験によって認識され うる限りのいっさいの物はすべて悟性の法則に必然的に従うことになる。
【標題】 第36節 自然と感性、自然、悟性との関係はどのようなものか 【内容】 Q1 質料的意味における自然(直観に関係する一切の現象の総括としての自然)はどう して可能か。すなわち感覚の対象(空間、時間、および両者を充たすもの)は一般に どうして可能か。 A1 自然は、対象から触発されるという性質をもつ、我々の感性の性質を介して可能と なる。(第7節から第11節まで参照) Q2 形式的意味における自然(規則の総括としての自然)はどうして可能か。すなわち、 もし現象が経験において必然的に連結していると考えられるならば、これら一切の現 象が従わねばならぬ規則の総括としての自然はどうして可能か。 A2 感性における一切の表象は悟性の性質に従って意識一般に必然的に関係し、規則を 介して経験が可能となる。なお、こうして成立した経験は、客観自体の認識とはまっ たく異なる。(第16節から第30節まで参照) ただし、感性や悟性、必然的統覚のかかる性質がどうして可能かは不明である。しかし、 これらの性質は必要とされている。 経験一般を可能ならしめるものが、同時に普遍的法則であり、経験一般を可能ならしめる 純粋悟性の諸原則が取りも直さず自然法則なのである。我々は、自然を現象の総括として しか、換言すれば、我々のうちにある表象の総括としてしか知らないからである。 悟性はそのア・プリオリな法則を自然から得てくるのではなく、却ってこれを自然に指示 する。
−2人が長屋で読んでいる
「「自然そのものはどうして可能か」って、自然を何か、っていわれてもなぁ」
「じゃぁ聞くけど、自然ってなんだい?」
「えぇ、海とか山とか…」
「それは質料的意味における自然だろうなぁ。もう一つ、形相的意味における自然として、
規則を介して経験が可能となるほうを考えてみよう、ということなんだよ」
「しかし、「悟性が自然に指示する」のか?」
「うん、P146L4の「自然法則に関しては〜」とその次の文の話はいいかい?」
「というよりは、自然を形相的にみたら、こうなるよな」
「まぁ、そうだわな。で、第37節、第38節でこの命題の例を挙げている」
「この第38節はなんのことをいっているの?」
「数学のことを俺に訊くなよ。『全集』P479訳注62をみると、方べきの定理(
http://ja.wikipedia.org/wiki/方べきの定理 )
らしいから、それ読んでくれ。それでP150L3の「悟性は〜」が、悟性が自然に指示するこ
とを具体的に言っているんだ」
「ふうん。ところで、P150LL14の「感性界はまったく経験の対象ではないのか、それとも
感性界は一つの自然なのか」っていう問いへの答えはどうなんだい?」
「お前はどう思った?」
「感性界の物に対しては
>>271 の第18節、第19節にあるような経験的判断のうちの知
覚判断もあるからこんな感じか。
感性界−経験判断の対象=形相的自然=経験の対象
\知覚判断の対象=質料的自然≠経験の対象」
「うん、『全集』P283でP150L13「そして悟性はこの場合に〜」の部分はこんなふうに訳
されてる。
「そのさい悟性は、経験を可能にすることにより、同時に次のことを、すなわち、感性界
は経験のいかなる対象でもまったくないか、あるいは自然であるかのいずれかである、と
いうことを成り立たせるからである。」そして、P479訳注63で「難解な言い回しだが、要
するに、経験の対象は悟性の諸法則によって可能である以上、感性界が経験の対象である
ためには、それは「自然」すなわち「諸法則にしたがって規定されて存在するすべてのも
のの総体」でなければならず、この意味での「自然」でないような感性界は(それ自体に
おいて観られはしても)経験の対象ではありえない、ということであろう。」とあるから、
それでいいと思うな」
【標題】 第33節 純粋悟性概念はその性質からどのようなことを我々に誘うか 【内容】 純粋悟性概念は経験にまったくかかわりがないし、感官における現象をひとつも含んでい ないので、物自体に関係しそうに思われる。それだけでなく、悟性概念が対象を規定する 必然性をそれ自身のうちに含んでいるようにみえるので、悟性が経験的使用の限界を越え て我々をその超越的使用、一切の可能的経験を超出する使用に誘い込もうとする。 【標題】 第34節 感官と悟性はどのようにはたらくか 【内容】 感官は、悟性概念を使用するための図式を与えるだけであり、図式に適合する対象は経験 においてのみ見出される。 純粋悟性概念と純粋悟性の諸原則は、判断の論理的形式を与えられた直観に関して規定す ることだけであるから、経験にしか用いることはできない。つまり、悟性は与えられた直 観における多様なものを必然的に連結して一つの経験たらしめるだけの能力にすぎない。 【標題】 第35節 悟性が経験を超えて空想を行うのはなぜか 【内容】 悟性は自分の原則を自分自身からまったく自由に取り出し、自然のそとにある存在者、可 想界を作り出す。可想界では経験によって証明されないが、否定もされないので、悟性は 自由に空想に耽けることになる。 理性の試みが不可能なことが明白に証明され、理性の自己認識が真正の学となり、理性の 正しい使用の行われる領域がその空しい、いささかの効果をも収め得ない使用の領域から 、いわば幾何学的確実さをもって区別されない限り、理性の徒な努力は完全には抑止され ないだろう。
−二日酔いで部屋で寝ている 「あぁ、今日も二日酔いだ。とりあえず図に書き込んでおいて、さっさと寝よう」 カントの認識図が書き込み量オーバーで書き込みできなくなったので、今後はWikiに 書きこんでいきます。 昨日のアルコールがまだ残っていたのか、書きこむ順番を間違えてしまいました。 305>306>303>302>304の順にお読みください。
【標題】 第39節 カテゴリー(純粋悟性概念)を以下の点から考察するとどのようにいえるか。 1 アリストテレスとの比較(P152L6-P154L1) 2 悟性の本性(P154L2-P155L5) 3 純粋悟性概念の本性(P155L6-P157L3) 4 カテゴリーの体系の本性(P157L4-P159) 5 反省概念との比較(P160L1-P161) 【内容】 1 アリストテレスは、カテゴリーを原理のもとに集めることなく寄せ集めたため、時代 を経ることで無用なものとして顧みられなくなった。カントは、感性の基本的概念(空 間および時間を悟性の基本的概念〔カテゴリー〕から区別し分離することに成功した。 2 悟性作用の本質は判断作用であると知り、P108のT表を作った。それらの判断機能を 判断を規定して客観的に妥当するものたらしめる条件に関係させると、純粋悟性概念が 生じ、それをカテゴリーと名づけ、P108のU表をつくった。 3 純粋悟性概念はそれ自体だけでは単なる論理的機能であり、常に感性的直観を根底に 置く必要がある。純粋悟性概念は経験的判断に普遍妥当性を与え、経験判断を可能にす る。 4 カテゴリーの体系は、他のいかなる概念も例外なくそのもとに配せられねばならない 思惟形式、つまり個々のカテゴリーをことごとく尽くしている。つまり、純粋悟性概念 の対象や純粋理性概念の対象が、哲学的、つまりア・プリオリな原則に従って吟味され ねばならない限り、これらの対象がすべてこのような仕方で認識されうることを示して いる。 5 反省概念がすでに与えられている概念を単に引合わせるだけの概念であるのに対し、 純粋悟性概念は必然的連結の概念である。
−二人で煮売り屋で読んでいる
「まぁ、この章は付録だし、いいか。しかし、P158の原注はないよなぁ。もっと適切な注
釈をつけておいてくれれば、わけのわかんない『批判』からの説明を聞かなくても良かっ
たのに。「更に一種の美を添える」じゃないよ、まったく」
「なに怒ってんだよ、今日は寝るなよ」
「いや、
>>288 〜
>>293 のことさ」
「うん、まぁ後で役に立つこともあるさ。それより、第2章はどうだった?」
「いや、長かったな、と」
「それだけかいW(`0`)W 」
「そう大きな声を出すなよ( ̄ー ̄)。第2章は標題の「純粋自然科学はどうして可能か」
という問いに対して、
>>285 の第23節のところが回答になるんだよ。
>>277 、
>>278 の表
も頭の隅に入れておくか、細かい内容は忘れちゃったよ」
「まぁ、おまえにしてはよくできたな」
「オリャ(/-o-)/、まだあった。P160L5の反省概念ってなんだ?」
「悟性概念とはちがうけれども、「反省は(略)心意識の状態である。−換言すれば、我々
が概念を得るための主観的条件を発見しようとして、まずその心構えをする状態である。
(略)判断はすべて−それどころか表象の比較にしてからが、すべて反省を必要とする。」
(『批判』(上)P339,P340)」ようなもの、くらいでいいよ」
【標題】 第40節 理性はどのようなものか 【内容】 形而上学は、常に経験において適用されるような自然概念を論究する部分と、形而上学の 本質的目的である、どのような可能的経験においても絶対に与えられ得ないような純粋理 性概念を論究する部分を含む。 純粋悟性概念は経験に終始し内在的であるが、理性概念は与えられたいかなる経験をも超 出して超越的である。 悟性の本性にカテゴリー(純粋悟性概念)が具わっているのと同様に、理性に理念(純粋 理性概念)が具わっている。 仮象が生じる原因は、判断の主観的根拠を誤ってその客観的根拠と認めるところにある。 仮象によって生じる迷妄を防止する唯一の手段は、純粋理性がそれ自身のうちに超越的( 超過的、或いは過度の)使用への傾向を具えているということを自覚するにある。 理性が自分の本分を誤解して、ただ自分自身の主観と、一切の内在的理性使用においてこ の主観の従うべき指導とに関するものを、超越的に客観自体に関係させると、理性は必ず 迷妄に陥る。 【標題】 第41節 形而上学の基礎を確立するために必要なことはなにか 【内容】 理念(純粋理性概念)とカテゴリー(純粋悟性概念)とを種類、起源および使用に関して それぞれまったく異なる認識であると区別すること。
【標題】 第42節 純粋悟性認識と比べて超越的理性認識の特性はなにか 【内容】 純粋悟性認識は、純粋悟性概念が経験において与えられ、純粋悟性の諸原則が経験によっ て証明されるという特性をもつ。 超越的理性認識は、経験によって与えられず、その命題は経験によって証明も否定もされ ないので、純粋理性そのものが誤謬を取り除かなくてはならないが、極めて困難であり、 その理念によって弁証論的になりがちである。それを避けることは、理性を主観的に研究 することによってのみ可能である。 【標題】 第43節 理性推理、理念(理性概念)、純粋理性の弁証論はどのように区分されるか 【内容】 理性推理の形式的差異による区分は定言的、仮言的、選言的の3種があり、それぞれの理 性推理に依拠する理性概念が以下の3通りある。 1 それ自体完全にしていささかも他をまつことのない主観(実体的なもの)という理念 を含んでいる理性概念。心理学的理念。 2 一切の条件を余すところなく保有する完結した系列という理念を含んでいる理性概念。 宇宙論的理念。 3 可能的なものの完全にして余すところのない総括という理念における一切の概念の規 定を含んでいる理性概念。神学的理念。 上の3つの理念が以下の3つの弁証論を生じる。 1 純粋理性の誤謬推理 2 純粋理性のアンチノミー 3 純粋理性の理想
【標題】 第44節 純粋理性の本性とはなにか 【内容】 1 心が単純な実体であるかどうかは、心の現象を説明するのにはどうでもよいことだ。 2 世界の始まりとか世界の永遠性などという宇宙論的理念は、我々が世界の出来事を説 明するのになんの役にも立たない。 3 自然の仕組みは神の意志に由来するというような説明は、自然哲学において適切と見 なされている格律に従って、差し控えねばならない。 純粋理性は経験との関連における悟性使用を全たからしめようとする、つまり悟性認識を 経験の規則にかんがみて余すところなく完全に規定されているような客観の認識としての 完璧さを思いみる。 【標題】 第45節 純粋理性の弁証論に対する差し当っての注意はどのようなものか 【内容】 学問的な教示による開明と辛苦に充ちた研究のみによって、先験的理念(悟性の規則の経 験的使用が条件付きであることに理性が満足できなくなり、条件の系列の完結を要求する ようになると、悟性が自分に定められた範囲を超出して、経験の対象を長大な系列におい て表象しようとしたり、系列のそとにノウーメノンをを求め、条件の系列をこの仮想的存 在者に連結し、そのあげく経験を成立せしめる条件を捨て去り、系列を完結させようとす る)を抑制できる。
−部屋で寝ころがりながら読んでいる
「あぁ、今日も頭がいてえや。毎日二日酔いだぁ。
とりあえず図を書いて、と。なんかだいぶわかってきたような気がするな。
そういえば昨日、奴から『純粋理性批判』を借りてきたんだ。
反省概念まで読んだから『批判』(上)は終わっていると思っていいから、『批判』(中)
第2部先験的弁証論からだな。
まずは、脇においておいて、『プロレゴメナ』を一人で読んでみるか。
いつまでも人に教えてもらっているわけにもいかないもんな。
ふん、ふん、なんかわかる気がするぞ。
まず形而上学に可能的経験を超えた純粋理性概念を考える部分がある、と。ようやく理性
がこれからメインになってくるのか。そういえば、第1章が感性、第2章が悟性、第3章
が理性のことを扱うわけだな。図に書き込んでみるか。
だいぶできてきたなぁ。しかし、これだけでもわかるような気がしてきたぞ。
この図で考えてみるか。
うん、P165L7から仮象のことが書いてあるな、仮象はカントが批判されたときに使われた
言葉だったな(
>>263 )。「判断の主観的根拠を誤ってその客観的根拠と認める」のが原因
か。確かに批判とは違う。
で、純粋理性概念と純粋悟性概念は種類や使用が違うけど、関係がある、と
しかし、理念になんだって心理学的とかついているんだ?
せっかくだから、ちょっと調べてみるか。我々と表象との関係は「(1)主観に対する関
係、(2)現象における多様な客観に対する関係、(3)あらゆる物一般に対する関係で
ある。
(略)3種の理念の第1は、思惟する主観の絶対的(無条件的)統一を含み、第2は、現
象の条件の系列の絶対的統一を含み、また第3は、思惟一般の一切の対象の条件の絶対的
統一を含むのである。
思惟する主観〔『私』〕は心理学の対象であり、一切の現象の総括(世界)は宇宙論の
対象であり、また考え得られる限りの一切のものを可能ならしめる第1条件を含むところ
の物(一切の存在者中の存在者〔神〕)は神学の対象である。」(『批判』(中)P50)
まぁ、ここはまず読んで整理しておけばいいか」
313 :
考える名無しさん :2010/12/17(金) 23:00:27 0
カント本の読解というこのスレの趣旨からちょっとズレて申し訳ないですが、 カントの「純理」とウィトゲンシュタインの「論考」の相互関係が気になりました。 何をアプリオリとするか、またウィトではあくまで「命題」(言語、論理)に話を限定してる点が ちがうようですが。 また、カントはニュートン力学を想定においているようですが、現代科学(相対論、量子論、心理学、神経科学)の見解と となじまない点もあるように思えますが、修正をほどこせば全体的なコンセプトは現代でも通用するように思えます。 この「修正」に当たるのが現代の現象学や分析哲学という解釈も可能でしょうか? 野矢さんの「論考」の入門書が面白くて、読んでるうちに思い当ったんです。 しろうと的な疑問です。たぶんそういう研究もあるのでしょうかね。 無視していただいてもかまいません。
314 :
考える名無しさん :2010/12/17(金) 23:21:07 0
水嶋ヒロの哲学的小説はアマゾンでボロクソ叩かれてるけど、 意外と良かったよ。
315 :
1 :2010/12/18(土) 21:31:29 0
>>313 いえいえ、カントは今月ですし、ウィトゲンシュタインは来年3月に読む予定ですから、
一向にかまいませんよ。
といいつつ、僕も素人で、問い掛けへの答えをできなくてすみません。
ただ、書き込みを読んでいて、とてもおもしろそうな考えだな、と思いました。
野矢さんの「論考」の入門書、というのは、『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を
読む』 (ちくま学芸文庫)ですか?3月に読むときは、
>>109 で少し書いたことですが、同
書でいうとP282の「13死について、幸福について」のあたりについて考えていきたいと
思っています。
もしよければ、カントにからめて詳しく書いてもらえるとうれしいな。
【標題】
第46節 (1)心理学的理念−心理学的理念とはどのようなものか
【内容】
実体的なものそれ自体がいかなるものであるかは、我々にはまったく知られていない。こ
こで注意すべきは、悟性が単なる理念でしかない実体的なものに関して、経験において与
えられた対象に関すると同様の明確な認識を要求しているということである。
我々の悟性の特性は、概念によって、従って述語だけによって考えるところにあるが、ど
こまでいっても絶対的主観が欠けざるを得ない。してみると、物体を認識する実在的特性
は、主体そのものではなくて、主体の付随性でしかないということになる。
内的感官の一切の述語は主観〔主体〕としての「私」に関係すると考えられ、絶対的主観
であるかのように思われるが、それは間違っている。「私」は概念ではなくて、内的感官
の対象のいわば記号にすぎず、ほかのすべての場合におけるように、内的現象とこの現象
の主体に対する関係にほかならない。
【標題】
第47節 思惟する自己(心)は実体と言えるのではないか
【内容】
思惟する自己(心)は他の物の述語と見なされ得ないという意味でなら、思惟の究極的主
体として実体と言えるのではないかという意見もある。しかし、『批判』(上)P257(
>>290 )
で説明したように、実体の概念の常住不変性は経験にとって必要なこととして証明される
のであり、物自体の実体という概念によって証明されるのではない。
【標題】 第48節 実体の(常住不変性の)概念と可能的経験との関係はどのようになっているか 【内容】 実体としての「心」の概念から実体の常住不変性を推論しようとするならば、このことは 可能的経験の対象としての心に妥当する。可能的経験を成立せしめる主観的条件は「生」 であるから、人間の生における心の常住不変性だけが推論できる。 【標題】 第49節 デカルトのコギト命題の「私」はどのようなものか 【内容】 経験の法則に従う必然的連結は、内的感官の現象の必然的連結として私の心の現実性を証 明する。しかし現象の根底に存在する存在者自体がどのようなものであるかはわからない。 であるから、デカルトは外的経験と夢とを区別したにすぎない。すなわち、外的経験の真 実を判断する基準としての合法則性を、夢における表象結合の不規則さとそこから生じた 誤れる仮象とから区別しただけである。外的なものの表象が経験の普遍的法則とか何から なにまで一致すれば、これらの物が真実の経験を成すはずであるということには、疑いを さしはさむ余地がない。 デカルトの「私は存在する」という命題における「私」は、内的直観の対象を意味するだ けでなくて、意識の主体をも意味する。しかし、外的感官の対象としての物体が、私の思 考のそとにある自然のなかで物体として実在するかどうかという問題は、即座に否定され る(つまり、問題として回答できない問題である)。同様に、私自身が内的感官の現象と して時間における私の表象力のそとに存在するかどうかという問題についても、事情は同 じである(つまり、問題として回答できない問題である)。
−長屋で腹這いになって『批判』と比べながら
「今日は、心理学的理念を読んでみるか。しかし、3つの理念は『プロレゴメナ』だと43
ページ(第43節から第56節まで)で、『批判』だと303ページ(第2篇純粋理性の
弁証的推理についてから最後まで)か。短くてよかったよ。
で、実体か。デカルトの実体(
>>233 )は「存在するために他のいかなるものも必要とせず
に存在するもの」で「本来、神だけであるが、デカルトは、神に創造された実体として、
精神と物質の二つを認めた」と、どう違うんだ?
「実体的なもの」は、「物自体」とどう違うんだ?
P177からは「私」に話が移るんだな。内的感官の述語、例えば、思う、考える、感じると
かは、絶対的主観としての私を主語にもつと考えられているけれども、これはあくまでも
内的現象とこの現象の主体(我々に知られていない)に対する関係でしかない、と考える
わけか。で、第47節で常住不変性がでてくるけれど、これは
>>290 の「第1の類推 実
体の常住不変性の原則」でみたな。P179L6の「常住不変性は〜」の文章は、V表は経験に
ついての表だし、図でみても経験にしか関係ないよなぁ」
「第48節は、なんかわかりにくな。4つの文章でこの節になっているのか。一つずつ分
けて考えるか。
1文目 実体としての「心」の概念から実体の常住不変性を推論する
→可能的経験の対象としての心なら○、×物自体としての心には×
2文目 可能的経験を成立させる主観的条件は「生」
→1文目とあわせて、人間の生における心の常住性だけが推論できる
人間の死は一切の経験の終り
3文目 1,2文目の内容をまとめると、次のことが言える。
1 可能的経験の対象としての心の常住不変性は人間の生において証明されうる
2 死後における生の常住不変性は証明できない
4文目 3文目のことは、実体の概念が常住不変性の概念と必然的に結びついていると見
なさなければならないなら、可能的経験を成立させるためにのみ、実体の概念で
ありえるということからいえる。
原注 実体の常住不変性の原則は経験を成立させるためにのみ設定されている。だから
経験において認識せられ、他のものと必然的に結びつく限りのものには妥当する。
『全集』も文章は5つ分けてあるけれど変わらないし、
原文(
http://gutenberg.spiegel.de/?id=5&xid=1372&kapitel=1#_ftnref19 )だと3つの
文章で、読みたいけれど、ドイツ語はわからないしなぁ。
実体の概念と常住不変性が、前節をうけて、次節のデカルト批判につながるつなぎ目なこ
とはわかるけれど、そのつながりがわからないなぁ。ひとまずここはこの章として理解し
ておこう。
第49節は、
>>237 の「3 純粋理性の誤謬推理」でみたとおりでいいよな。
あれ、P183L4「内的経験を介して私の心の現実的存在を意識する」とあるから、
>>312 の
図じゃぁ、だめなんじゃないか。それに「私」も大きく外枠で実線になっているけれど、
表象、なんだよな。
P183L5の「我々のそれにという概念は」の「それ」って何を指しているんだ?
うーん、書いてはみたものの、なんかわかりにくいな
(
http://www44.atwiki.jp/tetsugaku/pages/19.html参照 )」
【標題】 第50節 (2)宇宙論的理念−宇宙論的理念とはどのようなものか 【内容】 「宇宙論的」と名づけたのは、理念の客観〔対象〕を常に感性界だけに求め、感官の客観 であるような概念しか用いないからである。この理念はその限りでは土着的であり超越的 ではない。しかし、条件付きのものとその条件との連結を著しく拡張し、経験はこの条件 に追いつくことができなくなる点に関して理念なのである。それだからこの点に関しては やはり理念であり、その対象はいかなる経験においても決して理念通りには与えられない。 【標題】 第51節 純粋理性のアンチノミーはどのようなものか 【内容】 超越的理念は、4通りの宇宙論的理念に対応して4つあり、人間理性の本性にもとづいて 発生したものであり、避けることはできない。 1 正命題 世界は時間的に始まりをもちまた空間的に限界をもつ 反対命題 世界は時間的にも空間的にも無限である 2 正命題 世界におけるいっさいのものは単純なものから成っている 反対命題 〔世界には〕単純なものは一つも存在しない、すべてのものは合成されている 3 正命題 世界には自由による原因がある 反対命題 〔世界には〕自由なるものはない、すべてのものは自然〔必然的〕である 4 正命題 世界原因の系列のなかにはなんらかの必然的存在者がある 反対命題 この系列のなかには必然的なものはなにも存在しない、すべては偶然的である 【標題】 第52節 アンチノミーをみて哲学者はどう考えるか 【内容】 正命題と反対命題は双方とも立証され、自己矛盾が生じるのをみて、懐疑論者は喜び、批 判哲学者はさらに考究を行う。
【標題】 第52節b アンチノミーはどうして生じるのか 【内容】 世界は永劫このかた存在しているのか、それとも世界には始まりがあるのかといった命題 を経験によって決定できない。 理性が、ある認められている原則にもとづいてある主張をしながら。他の認められている 原則によってさきの主張とは正反対の主張をを推論することがある。これがアンチノミー であり、そこで量、質、関係、様態の4個の理性概念から生じた純粋理性の弁証論的仮象 が明らかになる。 2個の相矛盾する命題がともに偽であるのは、2つの命題の根底に存する概念そのものが 矛盾している場合である。 【標題】 第52節c 数学的アンチノミー(第1、第2アンチノミー)はどのように解決されるか 【内容】 第1アンチノミーと第2アンチノミーを数学的アンチノミーと名づける。それらは同種類 のものを加えたり分割したりする。 第1アンチノミー 我々は無限の空間や時間を経験できず、空虚な空間によって世界に限界を付することも経 験にとって不可能である。となると、経験とは別に、世界そのもののうちに空間的あるい は時間的に規定された量がなければならないが、それは現象の総括にすぎない感性界とい う概念に矛盾する。それ自体だけで存在する感性界という概念は自己矛盾を含むから、肯 定にせよ否定にせよ、その解決はいずれも偽である。 第2アンチノミー 物体の現象が、可能的経験だけしか達し得ないような一切の部分を、およそ経験自体に先 立って含んでいると想定するのは、経験においてしか実在しない単なる現象に、経験に先 立ちそれ自体として実在するものを同時に与えるのと同じわけで、それは表象が生じる以 前に、表象力のなかに表象だけが現実に存在するというようなもので、自己矛盾である。
−部屋で寝ころがりながら読んでいる 「ふわぁぁ、眠い。昨日は頭を使い過ぎたな。図を書いていたら寝るのが遅くなっちまっ た。P185L6で「独断論的微睡」えぇっと、確か、あぁ、ちゃんと帳面につけてた、「P19L16 「私を独断論の微睡から眼ざめさせ〜」と。てことは、この宇宙論的理念は重要っていう ことだな。 さぁて、どれどれ、「土着的」?土着的であって超越的ではない、だから可能的経験の内 にあるっていうことだな。で、どんなものかを説明してくれている、と。 アンチノミーはP187L4「人間の本性にもとづいて発生した」か、酒を飲みたいとか、遊び たいとかそういうことかと思えば、なんか難しそうなことばっかりだな。 第52節っと、えっ、2つの命題が両方とも立証されるの。うそでしょう、なんでそうな るの?まぁ読んでいくか。 P189L14の「自然に関する4個の理性概念」はなんのことを言っているんだ?理性概念はP169 でみたように3種じゃなかったのか。しかも4つの区分(綱目)の下に3つ(カテゴリー) を含んでいるのだから、そこからさらに4つに分かれるのは変じゃないか。 そうか、この宇宙論的理念は仮言的理性推理から出ていて、その現象における多様な客観 の中での判断がさらになされるから、分量等の4つの理性概念でいいのか。 で、P189L16 の「2通りの原則」は、前後を見てもかいてなかそうだな。ちょっと『純粋 理性批判』(『批判』(中)P146第3節これらの自己矛盾における理性の関心について) を覗いてみるか。なるほど、正命題が独断論、反対命題が経験論という立場の原則か。立 場が違う理論が両立するのか? 第1、第2アンチノミーはわかるな。 よし、今日はこれで終わりとするか」
1さんって昔別のところでSM小説とか書いてなかった?
【標題】 第53節 力学的アンチノミー(第3、第4アンチノミー)はどのように解決されるか 【内容】 アンチノミーの分類(P194L2〜P195L1) アンチノミーの第1類(数学的部類、第1,第2アンチノミー) 前提の虚偽は、物自体としての現象という自己矛盾するものを、一個の概念において統一 され得ると見なしたところにある。正・反両命題はともに偽である。数学的連結において は、量の概念において連結されたものが同じ種類のものであることを前提にする。 アンチノミーの第2類(力学的部類、第3,第4アンチノミー) 前提の虚偽は、統一され得るものを矛盾すると見なしたところにある。正・反両命題はと もに真であり得る。力学的連結は同じ種類であることを必要としない。 第3アンチノミー(P196L2〜P202L10) 第3アンチノミーの概要(P196L2〜P196L5) 物自体が感性界の対象と見なされ、自然法則が物自体の法則と解され、自由の主体が現象 と見なされたら矛盾は避けられない。しかし、自然必然性は現象にのみ関係し、自由は物 自体にのみ関係するとすれば矛盾は生じない。 反対命題の証明(P195L10〜P196L5) 現象においては、いかなる結果も時間において生起する何か或るものである。であるから、 その結果である出来事に先立ち、その原因の原因性が普遍的自然法則に従って規定せられ なければならない。とすると、原因を規定して原因の原因性たらしめるものもまた発生し 生起する何か或るものでなければならない。 このように原因の系列を遡っていくと、けっきょく自然必然性こそ、このように作用する 原因を規定する条件でなければならない 正命題の証明(P196L5〜P196L12) 自由が現象の或る種の原因の特性であるということになれば、自由は現象を自ら始めるよ うな能力でなければならない。しかし、そうなると原因の状態という時間的規定の制約を 受けてはならない、つまり決して現象であってはならない。この場合に原因は物自体と見 なされ、その結果だけが現象と見なされねばならないだろう。
両命題が真である条件(P196L12〜P197L1(『全集』P315の訳を載せています)) 「現象に対する悟性的存在者のこのような影響を矛盾なしに思惟することができるなら、 たしかに、感性界における原因と結果とのすべての連結には自然必然性が付属するだろう が、とはいえこれに反して、それ自身いかなる現象でもない(現象の根底に存するけれど も)原因には、自由を承認することができるだろうし、それゆえ、自然と自由とが、同一 の物に−しかし、あるときは現象としてのそれに、他のときは一つの物自体そのものとし てのそれにと、異なった関係において−矛盾なしに付与されることができるだろう」 行為の自然的原因である主観的規定根拠と理念である客観的根拠(P198L1〜P199L9) 主観的規定根拠と客観的規定根拠理性が「べし」と表現されような連結がされている。理 性はそれぞれの規定根拠に結びついていて、人間を理性に関してのみ考察するときの人間 の特性は物自体の特性と同じである。このような特性がどうして可能か、は我々にはわか らない。 感性界において人間が現象として行為の結果をもたらしたときに、その行為をもたらした 理性の原因性は自由であるといえる。理性の特性から、主観的条件、時間的条件、経験的 条件を規定する自然法則にも制約されない。 参考 以下は『全集』P497訳注48の一部を一部訳語を岩波文庫版にあわせています。 『批判』の関連箇所(A547ff./B575ff.(略))からみて、「主観的規定根拠」とは「私を 意欲〔意志すること〕へと駆り立てる自然根拠」たる「感性的刺激」や「快適なもの」あ るいは「感性的動機」をいい、「客観的根拠」とは、このような「経験的根拠」に対する 「理性としての根拠」としての「善」であり、「われわれが全ての実践的なものにおいて、 実行する力に規則として課する命法」であると考えられる。 両命題が真である状態(P199L14〜P200L1) 理性的存在者のすべての行為は、これらの行為が現象である限り、自然必然性に支配され ている。しかし、この同一の行為は理性に従ってのみ行為するという能力とに関しては自 由である。
自然必然性について(P200L1〜P200L14) 1 理性的存在者が、自由によって感性界における結果の原因である 2 感性界における結果は、理性にもとづいて規定されたものでない 1,2いずれの場合でも、感性界における一切の出来事は自然法則に従って規定され、自 然法則は存立する 自由について(P200L14〜P201L4) 上の1,2いずれの場合でも、自由は自然法則を妨害せず、自然法則は理性使用の自由を 妨げるものでない。 実践的自由について(P201L5〜P202L6) 実践的自由とは、そこにおいて理性が客観的規定根拠に従って原因性をもつ自由のことを いう。 存在者について、状態の系列をみずから始める能力を自然法則と矛盾なく思いみることが できる。客観的規定根拠に対する行為の関係は、時間的条件に制約されない物自体として 規定する原因を指示するから、時間的関係ではない。 行為について(P202L7〜P202L10) 行為−自由 理性の原因性に関しては第一の始まりと見なされ得る \自然必然性 現象の系列に関してはこの系列における単なる従属的な始まりと見なされうる 第4アンチノミー 第3アンチノミーにおける理性の自己矛盾の解決と同じ仕方で解決される。現象における 原因と現象の原因、すなわち物自体と考えられ得る限りの原因とを区別しさえすれば、正・ 反の両命題は並存し得る。 この2つの命題を互いに折り合うことのできないものと考えるのは、現象だけに妥当する ところのものを拡張してこれを物自体に及ぼし、けっきょく両者を一個の概念において混 同するという誤解にもとづいている。
−まだ、部屋で寝ころがりながら読んでいる
「第53節は長いし、難しそうだから、少し分割してみてみたほうがいいな。
しかし、どうして自由と必然が対になっているんだ?必然と偶然なんじゃないか、普通は。
電車に乗って立っているときに、隣の人の足を踏んだとする。電車に急ブレーキがかかっ
たときに踏んでしまったときには、隣の人は原因が急ブレーキにあり私にはないと考え、
なにもない時に踏んだら故意に踏んだと考え、原因は私の意志だと考えるだろう。踏むと
きの運動は自然の因果法則として説明できる。だが、一方では「すみません」「いえいえ」
で済むことが、他方では責任を問われるのは、踏むことの原因がさらにさかのぼる原因が
ないことによる。自由とはそのような絶対的な始めのことだとする。
『カント こう考えた』(石川文康著 ちくま学芸文庫P66〜P70要約)
まずは、この宇宙論的理念は、一切の条件を余すところなく保有する完結した系列という
理念を含んでいる理性概念(
>>310 、P169)だったな。だから、このアンチノミーでは完
結した系列を目指そうとするわけだ。そして、本来は統一され得るものを誤って矛盾する
と見なしたからアンチノミーにみえるだけ(
>>324 、P194 )だから、結論としては、この
2つの命題は統一されるわけだ。
あれ、P195L2〜P195L9にもう第3アンチノミーの内容が書いてある。P190L10からはその
詳しい説明だ。
最初に原因の系列を遡っていくと自然必然性が原因を規定する条件と書いて、次に系列の
最初に現象を始める能力が自由であるとして矛盾なく統一されるわけだ。最初に主体の自
由な働きが現象−系列を始め、その系列が必然性に沿って進む。
P198L1からはアンチノミーの話でもあるけれど、『批判』(中)P206からの「V世界の出
来事をその原因から導来する場合におけるかかる導来の全体性に関する宇宙論的理念の解
決」に対応していて『実践理性批判』につながっていくところだな。
>>48 で「哲学者が論理・倫理と行動をどうつなげていったのかを確認していく作業」と書
いていたし、よく読んでおこう。
で第4アンチノミーは、はしょっているなぁ」
>>323 いいえ、SM小説を書けるほどの文才はないですよ。
そんな才能があればいいのですが (^^ゞ
【標題】 第54節 人間理性にとって自然的な仮象の除去をするためにはどうすればよいか 【内容】 感性界の対象を物自体と見なす限り、換言すれば、感性の対象を、それが実際に在るとこ ろのもの、すなわち単なる現象と解しない限り、理性のこの自己矛盾を脱却することは不 可能である。 【標題】 第55節 (3)神学的理念−神学的理念とはどのようなものか 【内容】 第3の超越論的理念は、思弁的にのみ使用され、過度の(超越的な)使用となり、これに よって弁証論的使用が生じる理性使用に素材を給する理念であり、純粋理性の理想である。 経験との関係を断ち切り最高度に完全な根源的存在者という理念を介して、諸他いっさい のものの可能性の規定へ、更にまたこれら一切のものの現実性の規定へ降っていく。経験 を完全ならしめるために経験の連結、秩序および統一を理解するために考えられるような 存在者という前提が理念である。 神学的理念の場合には、我々が思惟の主観的条件を物自体の客観的条件と見なし、また我 々の理性を満足させるために必要な仮説を教義と見なすところから生ずる弁証論的仮象は、 たやすく露呈せられ得る。
【標題】 第56節 先験的理念に対する一般的注 理念はどのような働きをするか 【内容】 心理学的理念、宇宙論的理念および神学的理念はいずれも純粋な理性概念であり、これら の理性概念は、経験において与えられ得るものでない。 理念は、我々の悟性使用の全般にわたる調和的一致および綜合的統一を余すところなく完 全に達成せしめる原則であり、またその限りにおいて全体としての経験だけに妥当する。 先験的理念は、悟性使用の体系的統一を可能ならしめる原理としての理性の使命を顕示す る。我々が理念をもって一切の可能的経験を遙かに超出し、従ってまた超越的な仕方で我 々の知識を拡張し得ると思い込むならば、そのようなことは我々の理性と理性の原則との 本来の使命に関する判断において生じたまったくの誤解であり、一方では理性の経験的使 用を混乱せしめ、他方では理性の自己矛盾を生ぜしめるような弁証論にほかならない。
−やっぱり、部屋で寝ころがりながら読んでいる
第54節はまとめだな。確かにP203L6の「矛盾の解決のほうは〜」とあるとおり満足はし
なかったけど、概要がわかったし、現代にも通じる問題だよな、人間の自由って。
で、第55節は神学的理念か。神学的っていうのは
>>312 で調べたな。
>>237 の1神の存在論的証明批判のところだ。
第56節を読むと、理念はなんか悪い印象ばかりだったけど、そうだよな、理念は、悟性
使用に欠かせないんだよな
P207L5の「全体としての経験」っていうのは、可能的経験のことだな。
【標題】 第57節 純粋理性の限界とはどのようなものか 【内容】 我々は、可能的経験を超えて、物自体はどのようなものかについて明確な概念をもてない。 しかし、物自体の考究をやめるわけにはいかない。 数学や自然科学は現象だけを対象とする。しかし、形而上学は理性の本性がなす弁証論に おける試みで、我々を純粋理性の限界に行き当らせる。 理性はカテゴリーと純粋悟性の諸原則によって理性の経験的使用には不自由しないが、問 題の完全な解決を期する先験的理念は、理性の制限を超えたところにまだ何か或るものが 存するということを知った。そこで、我々が知っているものと我々が知っていないもの、 そしてこれからもついに知らないであろうものとの連結の概念を規定し明白にしなければ ならない。すると、我々は非物質的存在者、悟性界、最高存在者を思いみなければならな くなる。 感性界に対する悟性的存在者の関係においては、かかる存在者を想定しまた理性によって これを感性界と必然的に連結せざるを得ないのであるから、我々は少なくともかかる連結 を、感性界に対する悟性的存在者の関係を表示するような概念を介して考えることができる。
例として、最高存在者に悟性があるとする。しかし、私に理解できるのは私自身の悟性と 同じような悟性であるとすれば、現象のうちにある諸要素からなる最高存在者の概念とな るだろう。あるいは思惟の形式だけとなるため、いかなる最高存在者をも認識できない。 そこで、我々の悟性とは異なる悟性だとすれば、我々には何も理解できない。 結局、最高存在者自体がどのようなものかは我々には理解できない。 一方で純粋理性の超越的判断を極力避けよという禁止命令があり、他方では理性の内在的 (経験的)使用の可能な領域のそとにある概念にまで進出せよという命令がある。この禁 止命令と命令とを連結すると、一切の理性使用の限界の上だけで両者が良く並存し得ると わかる。 我々はこの世界を、あたかもそれが最高の悟性および意志の所造であるかのように見なさ ざるを得ないと言うことは、感性界が我々に「知られていない者」に対する関係は、時計 が時計師に対するのと同じであり、知られていない存在者を、それ自体なにかということ に関して認識するのではなく、私に対してなんであるかということについて、私がその一 部であるこの世界に関して認識するということである。
−朝、部屋で一人読んでいる 「長いねぇ、第57節は。まずは、分割して理解するとしたらどこらへんで分けるかだな。 最初の段落を読むと、これまでのまとめを書いてあるから、まずはまとめの終わりまでを 読むか。第1段落からいくと、「時間、空間、カテゴリーは経験のために使用される」、 「物自体はある」、「理性は可能的経験だけに用いうる」、「純粋理性の弁証論から生じ る3種の先験的理念は主観的根拠をもつ」、「理性には物自体を入れる余地がある」、「 数学や自然科学は現象や経験を扱う」、「しかし形而上学は理性使用の限界を示し、規定 するのに役立つ理念を扱う」、「理性は物自体と見なされうるような存在者を思い描く」、 「理性は経験の世界と可想的存在者の世界の境界線までいき、理性の使用制限を超えたと ころにある或るものの存在を知る」 少し先の話も入っているけれど、ここらへん(P218L7)くらいまでがまとめだな」 「よぅ、どうだい、あれから。『純粋理性批判』を貸したけど、読めたかい」 「おぉ、久しぶり。ぼちぼちってところだな。わかったとはいえねぇよ」 「ほう、とりあえずでも読んだらたいしたもんさ」 「いや、ようやく「結び」のところだ」 「じゃぁ、あと少しだな。これから用を足してくるから、日が暮れるころにでもまた寄るよ」 「またな。 それじゃぁ、奴さんが来るまでに最後まで読んでおくか」
−夕刻、ようやく最後まで読み終わり、部屋で一人寝ている
「よぅ、どうだい。やっと用が済んだよ」
「おぉ、『プロレゴメナ』読み終わったよ」
「なんだい、あれからずっと読んでいたのかい。そりゃ、すごい。どれ、結びはどんな感
じだったんだい。かいつまんで、ちょちょい、と話してくんな」
「なんだい、来るなり、すぐ本の話かい。まぁ、いいや。
結びは第57節からなんだけど、それまでのまとめの話の済んだ後からな。
P218L8からが「その或るものは最高存在者である」、「悟性的〔可想的〕存在者は感性
界と連結しているのだから、感性界に対する悟性的、存在者の関係を表す概念によって考
えられる」、「理神論の最高存在者の概念は、人と同じような悟性があると想定すると現
象のうちにあることになり、異なる悟性だとすると理解できない」、「ヒュームは、理神
論はどうしようもない代物で、有神論は神人同形論の点(存在論的な述語)から批判した
だけである」、「理性使用の領域に関する、禁止命令と進出命令はその限界上で並存しう
る」、「その限界で我々の経験の対象を考えるに必要な特性を、最高存在者が経験の世界
に対してもつ関係にもたせればよい」、「我々は経験の世界を最高の悟性および意志の所
造であるかのように見なさざるをえない」と、だいたいこんな理解でいいのかな」
「おまえ、これまでそうやって読んでたのか」
「うん、大家さんに分析の規則を教わって(
>>244 )から。すぐわかるのはしないけど」
「えぇ!」
(
http://www44.atwiki.jp/tetsugaku/pages/19.html参照 )」
【標題】 第58節 我々は最高存在者についてどのように認識することができるか 【内容】 第57節の最後で提示したような認識の方法は類推による認識である。ここでいう類推は、 互いにまったく類似していない2つの物において別々に成立する2通りの関係のあいだの 完全な類似を意味する。これにより、最高存在者を世界と、従って我々とに関して規定す る。 我々が実体や原因等の存在論的述語だけを用いてこの根源的存在者を思いみる概念を認め さえすれば、世界に関する限りではこの存在者に理性による原因性という述語を付して有 神論をとることができる。こうすれば、有神論をとったとしても、理性をその特性として もたせる必要がない。 最高存在者が、それ自体どのようなものであるかについては、まったく探求のしようがな く、また明確な仕方で考えることはできない。 我々は世界をその現実的存在と内的規定とに関して、あたかもそれが最高理性に由来する かのように考える。これによって、我々はこの世界そのものに属する性質を認識するが、 しかし根源的存在者自体を規定しようとすることをせずに済み、世界における理性形式の 根拠を、この世界に対する最高原因の関係の中へ入れ、この世界をそれ自体だけではかか る性質の根拠たるに足りないとみなすのである。 有神論の存立を危くする幾多の難点を解消するには、ヒュームの原理(理性を一切の可能 的経験の領域を越えて独断的に使用してはならない)に、可能的経験の領域を、我々の理 性が自分の眼で見てその限界を自分に対してきめたところの領域と同一視してはならない という原理を結びつける必要がある。
「どうしたんだい、大きな声がしたけど。ところで、そろそろ大晦日だ。家賃の払いは大 丈夫かい」 「あぁ、大家さん。いえね、お借りしていた『プロレゴメナ』を一緒に読んでたんですよ」 「おぉ、すっかり忘れてた。どこまで読めた?」 「(みんな聞くことは一緒だな)あっしは読み終えて、今二人で第57節まで読んだとこ ろです」 「ほう、じゃぁ、第58節を一緒に読もうか」 「いやいや、大家さんの前で、あっしの拙い読み方なんてみせらんないですよ」 「いいからやってみな、それとも払うかい、や・ち・ん」 「いいえ、いいえ、いや、いや、はいはい、やらせていただきます、もうすぐに」 「そんなに急ぐこたぁないよ、まずは茶の一杯でも」 「いえいえ、もうすぐに。おい、おまえ、茶を入れてこい。いっとう良いお茶でな」 「おまえんちにいいお茶なんてあったのか。ちょいと買ってこよう」 「頼んだよ。 じゃ、大家さん、早速ですが、第58節からということで」 最初の段落からいきますと、「前節の最後の認識は類推による認識であり、最高存在者そ のものの概念の規定ではないから、ヒュームが他の人にした批判はあたらない」、「根源 的存在者に理性による原因性という述語を付して有神論に移行してもよい。あくまでも世 界をその現実的存在と内的規定とに関して、最高理性に由来するように 考えるのである」、 「ヒュームの原理と可能的経験の領域を可想界の領域と区別するという原理を結びつける ことで有神論は有効である」といったところですかね」 「どうしたんだい、おまえ、別人になっちゃったのかい」 「なにをおっしゃいますやら、これもみなさんに教えていただいたおかげ、」 「ほんとうに大丈夫かい、おまえの頭の中のどこに「おかげ」なんて言葉があったんだい」 (次回へ続く)
338 :
1 :2010/12/23(木) 10:22:36 0
>301の書き込みに特に意見もないようでしたので、これまでどおり進めていきますね。 で、2011年1月に読む予定の本は、キェルケゴール『死にいたる病』です。これまで は概要を1日に書き込んでいましたが、年末年始はゆっくりしたいので、1月4日に書き 込む予定です。 また、下読みした限りでは岩波文庫よりもちくま学芸文庫のほうが注も多く読みやすくなっ ています。自ら設定した1,000円以下を目安にという条件からは外れてしまいますが、もし、 これから買う場合はちくま学芸文庫をお勧めします。
【標題】 第59節 理性は最高存在者にかかる領域についてどのように考えるか 【内容】 限界そのものは、限界内にあるところのもの〔経験〕に属すると同時に、与えられた〔現 象の〕総括〔としての感性界〕の外にある空間〔悟性的存在者の領域〕にも属している。 だから理性は、この限界までは自分自身を拡張するがしかし敢て限界を超出しようと企て ないことによってのみ、現実的な積極的認識に与る。理性はこのとき物自体に対して形式 を考えることはできるが、物そのものを考えることができないから限界を超出しようとし ない。 自然的神学は、人間理性の限界上にある概念であり、何かあるものを仮構するわけではな い。感性界のそとには、純粋悟性だけが考えるところの何か或るものが必然的に見出され なければならないから、この何かあるものを規定するためである。 このようにすれば、「理性がそのア・プリオリな原理のすべてを挙げて我々に教えるのは 可能的経験の対象だけであって、それ以上の何ものでもない、またこれらの対象について も、経験において認識せられうるものに限られる」という命題は、最高存在者を考えるこ とと矛盾しない。
【標題】 第60節 形而上学一般はどうして可能か。可能となった形而上学は何をなすことができるか。 【内容】 形而上学とは、人間理性の自然的素質において実際に与えられているような、しかも理性 の仕事の本質的目的をなすところのものにおいて与えられているような学のことである。 心理学的、宇宙論的、神学的先験的理念が相集まって自然的な純粋理性の本来の課題を成 し、この課題が純粋理性を強要して単なる自然考察に見切りをつけさせ、一切の可能的経 験を超出せしめ、こういう努力によって形而上学を成立せしめる。 そのとき、理性の自然的素質およびそれが生み出す3つの理念が、実践的原理が思弁の領 域のそとに道徳的理念のための場所を確保するのをみる。 それゆえ、形而上学における理性の思弁的使用は、道徳哲学における理性の実践的使用と 必然的に統一されていなければならない。
「ただいま。表で会っておまえさんのことを話したら、来るって言うもんだから、連れてきたよ」 「おじゃまします。あら、お客さんのいらっしゃるところを…」 「いいよ、俺も驚いているところだ」 「まぁ、そんなに。わたしも教えてもらおうかしら」 「いやぁ、ちょうど今第58節が終わったところで」 「じゃぁ、ちょうど第59節の最初から聞けるのね(^O^)」 「そうこられちゃぁ、かなわねえな。じゃぁ、最初の段落からな。 「理性は経験の世界と悟性的存在者の領域の両方に属し、悟性が経験の領域から超出しな いようにし、感性界の外にあるものと感性界のうちに含まれているものとの関係だけに理 性自身を制限する」、「自然的神学はこのような理性の限界上にある概念である」、「そ れゆえ自然的神学は理性が可能的経験の世界で有効であるということとは矛盾しない」ど うだい、おかしな理解をしていないかい」 「大丈夫よ。いや大丈夫じゃないわ、きっとお酒の飲み過ぎで頭がどうかしちゃったのね」 「お前んとこの酒を飲んだから頭が良くなったのかな。 最後に第60節な。 「理性は、我々の自然的素質といえ、過度になりがちであるから注意は必要であるが、超 越論的概念に志向しょうとする素質があり、その目指す自然目的を発見することは重要で ある」、「発見するための学はまだ心許ない現状であり、形而上学の外にある人間学にあ るのだろう」、「我々のその自然的素質は感性の達し得ない対象のみの領域を見ようとし、 それは実践的原理が道徳的意図において理性がどうしても必要とする普遍性へ拡大されう るようにするためである」、「拡大されたところでは唯物論、自然論および宿命論が排除 され、道徳的理念の領域となる」、「理性の源泉においては形而上学における理性の思弁 的使用と道徳哲学における実践的使用とは必然的に統一されていなければならない」、「 前段洛の問題の解決は、理性は悟性を統整すると『批判』で示したが、ほかの領域での考 究も必要であろう」、「以上で、形而上学一般はどうして可能かという問題の分析的解決 は終了した」 で、『プロレゴメナ』も終わり」 「\('_') \(~_~) \(^_^) オイオイ。まだ、あと1節あるよ」 「えぇ」(次回へ続く)
【標題】 純粋理性批判は形而上学に対してどのようなことをおこなったか。学としての形而上学を 可能にするにはなにが必要か 【内容】 形而上学が学としての洞察と確信とを備えていると公言し得るために、理性そのものの批 判は、以下の諸件を解決してこれを明示せねばならない。これらすべてを行ったのは『批 判』だけである。 1 ア・プリオリな概念を全数を収集する 2 これらの概念を、それぞれ相異なる源泉すなわち感性、悟性および理性に従って区分する 3 これらの概念の完全にして遺漏のない表を作製する 4 これらすべての概念と、それから生じうる派生的概念とを分析する 5 これらの概念を演繹することによって、ア・プリオリな綜合的認識を可能ならしめる 6 これらの概念を使用するための純粋悟性の諸原則を提示する 7 これらの概念の使用に限界を付する等 『批判』で示した諸原則を『プロレゴメナ』で精考し理解したら、旧来の詭弁的なえせ学 問に戻ることはない。しかし、形而上学が出現したとまではいまだ言えない。 とはいえ、カントは『プロレゴメナ』によって研究が活発になっていくと期待している。 「人間の精神は、形而上学の研究をいつかはまったく廃するだろうということが期待でき ないのは、−我々は汚れた空気をいつも吸っているよりは、いっそのこと呼吸をまったく 止めるだろうということを、人間に期待できないのと同じである」(P245L12-L14) 形而上学を建設するにあたっては、常識と確からしさを用いることなく行わなくてはなら ない。
「本当だ、まだあった。みんなで茶でも飲んでてよ、ササッと読むから」 −本人は部屋の隅に行って読み始め、3人が小声で話している 「しかし、驚いたねぇ。『プロレゴメナ』をどうやらちゃんと読んだみたいだな」 「そういえば、大家さんが貸したんですよね。お酒飲みながら読んでいるから、どうかし たのかと思っていたけど」 「ところで、この本を読んでいる間はお家賃を払わなくていいって言ったらしいじゃない ですか。読み終わったら、どうするんです?」 「そうだなぁ。年の暮れでもあるし、耳を揃えて払ってもらうか」 「工エエェェ(´д`)ェェエエ工」 「大丈夫ですかい。ほんとうに素寒貧ですよ、奴は」 「おう、お待たせ。ほんとうにこれで最後だよな。 最初からP244L11までは、『批判』がしたこと、その効果、 P244L12からP246L6までが、形而上学の衰退と考究の不可避さ P246L7からP248L13までが、他の著書の形而上学への無貢献、学としての形而上学の不存在 P249L1からP254L2までが、確からしさと憶測、常識による形而上学の検討の拒否、かな」 「いやぁ、よく読んだなぁ。ねぇ、大家さん」 「ほんとに。今度お店に来たらいっぱいおごるわよ」 「まぁ、なんだ、よく読んだじゃねぇか。でぇ、読んだところで家賃のことだがな…」 「いや、勘弁してください。餅代もないほどで…」 「そうかい、じゃぁ、これは来年からの本代」 「はい?」 「で、このなかからたまってた家賃分をもらっとくぜ」 「よかったわねぇ、大家さんが家賃をチャラにしてくれたのよ」 「これで、年が越せるだろう、お礼をいいな」 「でも、家賃をすませても、まだこんなにお金を残ってるんですが…」 「その金で本を読んで、街のみんなにいろいろと話してくんな。そのためのお金だ。まぁ、 これからの時代は、自分の頭で考えて何かをする時代になるんだろう。そんときには西洋 のことを学んでおくのは必要なんだろうからな。頼んだよ」
カントの後世への影響について『イマニュエル・カント』(オットフリート ヘッフェ 著
藪木 栄夫訳 法政大学出版局)にありました。
>>313 に関連して、現象学と分析哲学に
関する記述からまとめておきます。書き写したといったレベルですので、内容については
正直なところなんとも言えませんが、参考までに。しかし、改めてカントの影響力につい
て感じさせられます。
フッサール(同書P320〜P321)
現象学をデカルトからカントを経た発展の完成した第3の段階として把握した。カントは
すべての科学的認識にとっての前科学的な経験世界の構成的役割を見過ごしていると批難
される。(後段は『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』第28節?)
ローティ(P325)
http://ja.wikipedia.org/wiki/リチャード ・ローティ
『論考』から『探求』への、早期のラッセルからセラーズとデイヴィッドへの分析哲学の
発展は脱超越論化の歩みにほかならない。
ヒンティッカ(P325)
>>169 、
http://ja.wikipedia.org/wiki/ヤーッコ ・ヒンティッカ
超越論的論証を言語ゲームの理論と量化論理学の手法を組み合わせて再構成しようと企てた。
アーペル(P326)
http://ja.wikipedia.org/wiki/カール =オットー・アーペル
カントをパースの言う意味で意味批判として、また後期ウィトゲンシュタインの言う意味
での言語哲学として変形しようとしている。客観的妥当性の究極的根拠を超越論的自己意
識に見るのではなく、超越論的言語ゲームとの関連に見ている
345 :
1 :2010/12/26(日) 22:38:43 0
『純粋理性批判』を読んで(あまり大きな声では言えないけれど2回も読んだ)ほとんど わかりませんでしたが、なんとか『プロレゴメナ』を読み、まとめが終わりました。 『批判』は壮大な城を一人で歩くようで、『プロレゴメナ』は城の観光用コースをガイド 付きで歩いたようでした。能力がないのを脇において言うと、やはり『批判』はいきなり 独力で読んでなんとかなるものではない、というのが正直な感想です。 積み残した課題もありますが、『プロレゴメナ』はひとまずこれで終りにします。 【対話】を書いていて、途中で思ったことに哲学での理性の考察の深化、 学問・教育の制度化、近代国家の成立の3つの関係があります。 『プロレゴメナ』が1782年(基準年)、『啓蒙とはなにか』が1784年(+2年)、 全国的に藩校が設立された宝暦期(1751年−1764年、約−20年)、松下村塾が 1842年(+40年)、明治維新が1868年(+86年)、ドイツ統一(プロイセン 王国)が1871年(+89年)。 知性、理性が重視されていく哲学の流れと教育機関の整備および近代国家への流れが並行 していくところを単純に線で結ぶことは危険なのでしょうが、おもしろい。 最初はそんなことを考えて書き始めた【対話】ではありませんが、最後近くに思いついて 話をそこへまとめていきました。当時の江戸の長屋住人が『プロレゴメナ』を読んだこと はありえませんが、知、学問、西洋の情報といったものへの必要性の認識は一部の人々に なされ、それを経済的に援助した人達もいたのでしょう。そういった環境は、近代へと時 代が変わっていくときに必要な地下水脈のようなものだったのかもしれません。 その後の2度にわたる世界大戦と思想の流れを想像するに、来月のキルケゴール、2月の ニーチェへの新たな興味が湧いてきます。 まさかこのスレが3か月も続くとは思っていませんでしたが、これもみなさんの書き込み のおかげと思っています。ありがとうございました。 キルケゴール『死にいたる病』は1月4日から始める予定です。
346 :
1 :2010/12/30(木) 07:34:51 0
用事がすんで、年末にぽっかりと時間があいてしまったので 積ん読になっていた『実践理性批判』を読んでみます。
347 :
1 :2010/12/30(木) 08:25:18 0
『実践理性批判』P13-P39 序 【本書の目的】 実践的な純粋理性が存在することを論証する。 【実践理性の存在による効果】 先験的自由の確立 自由の概念の証明は純粋理性の体系という建物の要石をなす。 神、不死の概念の可能性が証明される。 【自由の特性】 神、自由、不死の理念のうち、ア・プリオリに知っている唯一の理念。 道徳的法則の条件をなす。 道徳的法則の存在根拠であり、自由の認識根拠である。 【実践理性の特性】 原因性のカテゴリーの超感性的対象である自由に客観的実在性を与える。 本書には、人間と特性について予め認識されていないので実践的諸学の完璧な分類は付していない。 【『道徳形而上学言論』への異議と異議への回答】 善の概念が道徳的原理よりも前に確立されていない。 →「分析論」第2章参照 新造語を導入しようとしている。 →適切な用語を知っていれば示してくれ。 【作業手順】 1心にそなわる2つの能力、認識能力と欲求能力のそれぞれのア・プリオリな原理の発見 2これらの原理の使用条件、範囲、限界の規定 3学としての体系的な理論哲学、実践哲学の根拠付与 【ヒューム、経験論者への批判】 主観的意義すなわち習慣を想定し、神、自由、不死に関する判断を理性に拒否させた。
348 :
1 :2010/12/30(木) 08:35:36 0
『実践理性批判』P41-P44 緒論 【純粋理性批判との比較による本書の論述について】 ・対象 『純粋理性批判』−認識能力の対象。対象に対する関係における理性 『実践理性批判』−意志を規定する根拠。意志とその原因生徒に対する関係における理性 ・全体的構想 『純粋理性批判』の区分に倣う。 『純粋理性批判』−感覚から純粋悟性の諸原則へ 『実践理性批判』−原則から概念へ、さらに感覚へ
349 :
1 :2010/12/30(木) 09:08:24 0
『実践理性批判』P47-P54 第1編 純粋実践理性の分析論 第1章 純粋実践理性の原則について 第1節 定義 【定義】 実践的原則 実践的規則が従属 ・格律 行為的主観が意志規定の条件を主観自身の意志にのみ妥当するとみなす 場合の主観的原則 ・実践的法則 すべての理性的存在者に例外なく妥当すると認められる場合の客観的原則 【注】 実践的規則 人間にあっては命法 仮言的命法 作業原因としての理性的存在者の原因性の諸条件をもっぱら結果とこの結果 を生ぜしめるに十分であるということを目途として規定する。 定言的命法 もっぱら意志そのものを規定することだけに終始して、その意志が何らかの 結果を生ぜしめるに十分であるか否かを問わない。 実践的法則は、定言的命法でなければならない。 第2節 定理1 【定理1】 欲求能力の客観(実質)を意志の規定根拠として前提するような実践的原理は、すべて経 験的原理であって、実践的法則にはなり得ない。 【証明】 行為を任意に選択しうる意志の規定根拠は、快の感情(欲求能力の実質(そのものの実現 が欲求されるような対象)の表象との関係)である。 快・不快を感受する主観的条件にもとづく原理は、格律としては役立ちうるが、法則としては 役立たない。
350 :
1 :2010/12/30(木) 09:40:07 0
『実践理性批判』P54-P 第1編 純粋実践理性の分析論 第1章 純粋実践理性の原則について 第3節 定理2 【定理2】 およそ実質的な実践的原理は、がんらい実質的なものとして、すべて同一種類に属し、自 愛あるいは自分の幸福という普遍的原理のもとに総括される。 【証明】 快は主観の感受性にもとづき、感覚(感情)に属する。 幸福は、生の快適の意識である。 自愛の原理とは、幸福を意志の最高の規定根拠とする原理のことをいう。 【系】 実質的な実践的規則は、意志の規定根拠を下級欲求能力のうちに置く。 【注1】 下級欲求能力 感性的に規定される 上級欲求能力 自分自身だけで意志を規定する限りでの理性 【注2】 幸福という原理は主観的に必然的な法則であり、客観的には偶然的な実践的原理である。 自愛の原理は、実践的法則とはいえない。 第4節 定理3 【定理3】 理性的存在者が、彼の格律を普遍的な実践的法則と見なしてよいのは、彼がその格率を、 実質に関してでなく形式に関してのみ、意志の規定根拠を含むような原理と見なし得る場 合に限られる。 【証明】 意志の対象が意志の規定根拠ならば経験的条件と快不快の感情に左右されるから、実践的 法則は普遍的立法という形式のみということになる。
351 :
1 :2010/12/30(木) 10:14:54 0
『実践理性批判』P68-P72 第1編 純粋実践理性の分析論 第1章 純粋実践理性の原則について 第5節 課題1 【課題】 格律の〔実質ではなくてその〕単なる立法形式だけが意志を規定するに十分な根拠である ことを前提したうえで、この形式によってのみ規定せられる意志の性質を見出せ。 【解答】 法則の単なる形式は現象でない。ということは、意志は現象の自然法則である原因性の法 則にいささかもかかわりがない。つまりそのような意志は自由な意志である。 第6節 課題2 【課題】 意志が自由であることを前提したうえで、この意志を必然的に規定し得る唯一の法則を見出せ。 【解答】 格律の対象は経験的にしか与えられないが、自由な意志は経験的条件にかかわりがない。 にもかかわらず、自由な意志は規定されなければならないので、法則の実施につにはかか わりなく規定根拠を法則に求めることになり、立法形式だけの法則となる。 【注】 自分自身に意志の格率を定立すると道徳的法則を直接に意識する。情欲の例と君主の例を 示して、道徳的法則がなければ知らなかった自由を認識することを説明する。
352 :
1 :2010/12/30(木) 10:46:15 0
●『実践理性批判』P72-P78 第1編 純粋実践理性の分析論 第1章 純粋実践理性の原則について 第7節 純粋実践理性の根本法則 君の意志の格率が、いつでも同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ。 【注】 純粋実践理性において実践的規則がア・プリオリな定言的−実践的命題と見なされる。 この場合には、意志は純粋意志として法則の単なる形式だけによって規定されている。 可能的な普遍的立法というア・プリオリな思想が、法則として無条件的に命令される。 【系】 純粋理性は、それ自体だけで実践的であり、我々が道徳的法則と名づけるような普遍的法 則を(人間に)与える。 【注】 自分の行為の合法則性について分析してみると、傾向性にかかわらず行為に際して意志の 格率をいかなる時でも純粋意志と突き合わせているとわかる。道徳性の原理が意志に対す る最高の規定根拠たらしめるのは、立法の普遍性である。 このような道徳性の原理は人間だけでなく、最高叡知者としての神をも含む。もっとも、 有限であるために感じる感性的動因によって動く人間には道徳的法則に矛盾しないような 格律に従うに必ず従うと前提できないから、道徳的法則は定言的に命令するような命法と なる。 義務 道徳的法則にそった、意志に強制された行為をいう。 徳 意志の格律が神聖性の理念に向かい、向かい続けることを確実にするもの。 有限な実践理性が生じうる最高のもの。
353 :
1 :2010/12/30(木) 11:49:31 0
『実践理性批判』P78-P94 第1編 純粋実践理性の分析論 第1章 純粋実践理性の原則について 第8節 定理4 【定理4】 意志の自律は、一切の道徳的法則と、これらの法則に相応する義務との唯一の原理である。 これに反して意志の一切の他律は、責務にいささかの根拠をも提供しないばかりでなく、 むしろ責務の原理と意志の道徳性とに背くものである。 【証明】 道徳性の唯一の原理の本質をなすのは、普遍的立法という単なる形式によってのみ意志を 規定することである。 意志の自律 格律の形式的条件であり、一切の格律はこの条件でのみ最高の実践的法則と 一致しうる。 【注1】 意志の他律 意志がなんらかの衝動や傾向性に従う、したがって、自然法則に依存する。 実践的規則の実質は、自分自身の幸福という原理を意志の規定根拠とする、主観的条件に 常にもとづいている。 【注2】 幸福の原理、自愛の原理−格律、勧告する、幸福を得るための指定は経験的条件にもとづ いているので従えるのはまれ 道徳性の原理 −法則、命令する、定言的命令に誰でもいつでも従える 実践理性の思想から考えると、刑罰は、それ自体だけで禍悪でなければならず、正義こそ が刑罰の概念の本質である。 幸福の原理や道徳的感官を想定する道徳説から刑罰を考えることはできない。 これまでの道徳性に関する実質的原理は道徳的法則たりえない。だから、純粋理性の形式 的な実践的原理、つまり格率によって可能な普遍的立法という単なる形式を、意志の最高 にしてかつ直接的な規定根拠たらしめねばならない原理だけが可能的原理である。
354 :
1 :2010/12/30(木) 13:15:37 0
『実践理性批判』P94-P112 第1編 純粋実践理性の分析論 第1章 純粋実践理性の原則について 第8節 1 【分析論の趣旨】 純粋理性は一切の経験的なものにかかわりなくそれ自体だけで意志を規定しうることを証 明する。しかも、意志を規定して行為たらしめる、意志の自律によって証明する。 【実践理性の最高原則の解明】 1 道徳的法則は、模型的自然(感性的自然としての感性界)に、原型的自然(悟性界の、 超感性的自然)の形式を与える。つまり、原型的自然の理念に従う道徳的法則は、我々 を原型的自然のなかへ移し入れる 2 経験的原理にかかわりなく、それ自体だけで存立する。 意志の従属する自然においては、意志を規定する表象の原因は客観〔対象〕だが、 意志に従属する自然においては、意志が客観の原因であり、意志が客観を規定する原 因性の根拠は、純粋な理性能力にのみ存する。 3 ほかのすべての実践的原則からの区別 ??? 【純粋実践理性の演繹】 道徳的法則の客観的実在性は、いかなる方法、ものによっても証明できないが、それ自体 だけで確立されている。 道徳性の原理は自由の能力を演繹し、理性的存在者において自由が現実的に実在すること を証明する。 道徳的法則は超越的理性使用を内在的理性使用(理性が経験の領域において理念そのもの によって作用する原因となる)に変じる。 実践理性は感性的存在者としての人間における原因性を規定する根拠だけを純粋理性の中 へ置き、原因そのものの概念を実践的見地においてのみ使用し、意志を規定する根拠を、 物の仮想的秩序のなかへ置くことができた。
355 :
1 :2010/12/30(木) 14:05:06 0
『実践理性批判』P112-P125 第1編 純粋実践理性の分析論 第1章 純粋実践理性の原則について
第8節 2 純粋理性がその思弁的使用においてはそれ自体不可能であるような拡張を、
その実践的使用においては為し得る権能について
【純粋理性の実践的使用と純粋理性の理論的使用との、使用における理性能力の限界規定に関する統一について】
ヒュームの原因性の概念についての批判と『純粋理性批判』での検討内容(
>>243 ,247,252,297,298参照)
『批判』では理性の範囲を可能的経験としていた。しかし、純粋意志は法則の単なる表象
によって実践的である限りにおいての純粋悟性であり、自由による原因性の概念が含まれ
ている純粋意志を具えている存在者の概念はノウーメノン的原因の概念である。このよう
な存在者を表示し、原因性の概念を自由の概念に結びつけるだけでよい、つまり理論的に
ではなく実践的にこの概念を用いる権能をもつので純粋理性では否定された、超感性的な
ものだけでなく、感官の対象に用いても問題はない。
356 :
1 :2010/12/30(木) 15:37:28 0
『実践理性批判』P126-P139 第1編 純粋実践理性の分析論 第2章 純粋実践理性の対象の概念について 【善と悪の概念について】 実践理性の対象は、欲求能力の必然的対象である善と嫌忌能力の必然的対象である悪である。 善と悪は普遍的に等しく伝えられうる概念によって判定されることを要求する。 幸福や禍悪は我々の状態に対する関係を意味し、善や悪は理性の法則によって規定されて なにかあるものを客観とする意志に対する関係を意味する。 【善と悪を判定する際に留意する点】 ・理性の原理がそれ自体として意志の規定根拠と考えられるならば、ア・プリオリな実践 的法則である。この場合には、道徳的法則が直接に意志を規定する。 ・欲求能力の規定根拠が意志の格率に先立つならば、感性に関してのみ善と言いうるだけ で、このような格率は法則とはいえない。 【善および悪の概念と道徳的法則の関係】 善および悪の概念は、道徳的法則によって規定されなければならず、純粋な実践的原理を 前提し、純粋理性の原因性を前提としている、原因性というカテゴリーの様態である。
357 :
1 :2010/12/30(木) 15:39:42 0
『実践理性批判』P139-P144 第1編 純粋実践理性の分析論 第2章 純粋実践理性の対象の概念について 【自由のカテゴリー】 理論的概念である自然のカテゴリー 直観の形式(空間、時間) 直観が必要 実践的概念である自由のカテゴリー 純粋意志 直観は不要 ・善及び悪の概念に関する自由のカテゴリー表 |−−〔単一性〕 主観的……格律(意志規定に関する個人的臆見)に従う 1 量 −+−−〔数多性〕 客観的……原理(指定)に従う |−−〔総体性〕 自由のア・プリオリな主観的ならびに客観的原理(法則) |−−〔実在性〕 為すこと〔作為〕の実践的規則(命令) 2 質 −+−−〔否定性〕 為さぬこと〔不作為〕の実践的規則(禁止命令) |−−〔制限性〕 例外の実践的規則(制限) |−−〔自存性〕 人格性に対する関係 3 関係−+−−〔原因〕 人格の状態に対する関係 |−−〔相互性〕 或る人格と他の人格の状態との相互関係 |−−〔可能と不可能〕 許されたことと許されぬこと 4 様態−+−−〔存在と非存在〕 義務と義務に反すること |−−〔必然性と偶然性〕 完全義務と不完全義務
358 :
1 :2010/12/30(木) 16:07:54 0
『実践理性批判』P144-P151 第1編 純粋実践理性の分析論 第2章 純粋実践理性の対象の概念について 純粋な実践的判断力の範型論について 【道徳的法則の範型】 道徳的善は客観としては超感性的であり、感性界には見いだせず、直観は与えられていな いので、自由の概念を具体的に適用する感性の図式もない。しかし、悟性が無条件的善と いう理念に対応させるのは法則、道徳的法則の範型という。 合法則性一般という形式が可想的自然に関係する限りにおいて、感性界の自然を可想的自 然の範型として用いることができる。。
359 :
1 :2010/12/30(木) 16:11:52 0
さて、このペースだと今日中には終わりそうにないし、 今年最後の飲みに行くので、今日はここまでとします。 およそ半分読み終わったので、なんとか明日、年内中に済ませたいところです。 飲み過ぎないようにしないと。
哲学辞典とかgoogleで代用不可?
361 :
1 :2010/12/31(金) 08:42:57 0
>>360 以下の理由から、難しいと思います。
1内容の真偽の見極めの難しさ
僕の書き込みも含めてですが、誰かの検証を経て書かれたものではないものが多いので、
内容の真偽の見極めが必要になります。しかし、その語の意味がわからないから検索して
いるわけですから、見極めが難しいと思います。
2検索の効率
確かなもしくは確からしい情報は以下で検索できます、上の2つは英語で書かれていま
すので、該当する語の英語がわからないといけないので、ひと手間かかります。それを確
認しつつ検索していると、事典で調べたほうが早い気がします。
僕は、読んでいて調べておきたい用語がでてきたらメモして、まとめて図書館で『岩波哲
学・思想事典』などで調べています。東京23区内に住んでいるからできることかもしれ
ませんが。
Internet Encyclopedia of Philosophy(インターネット哲学百科辞典)
http://www.iep.utm.edu/ Stanford Encyclopedia of Philosophy(スタンフォード哲学百科辞典)
http://plato.stanford.edu/ Wikipedia(ウィキペディア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/ Webで検索できる日本語の哲学辞典を僕は知らないのですが、どなたかご存知ですか?
362 :
1 :2010/12/31(金) 10:47:12 0
『実践理性批判』P152-P158 第1編 純粋実践理性の分析論 第3章 純粋実践理性の動機について 行為の道徳的価値の本質 道徳的法則が意志を直接に規定することにかかっている。 【人間の意志の動機は何か】 人間の意志の動機は道徳的法則である。しかし、どうして道徳的法則が意志を直接に規定 する根拠となるかは、なんともいえない 【人間の意志の動機は我々の心の中に何を生じるか】 道徳的法則は傾向性に反対して、それ自身が尊敬の対象となり、ア・プリオリに認識され るような感情の根拠になる。 【第2章の内容確認】 1 意志の対象として道徳的法則よりも前に出現するものは、実践的理性の示す最高条件 としての道徳的法則そのものによって、無条件的善という、意志の規定根拠から全て排 除せられる。 2 格律〔主観的原理〕を〔客観的な〕普遍的立法とする純然たる実践的形式〔格律の立 法的形式〕は、まずそれ自体として絶対的に善であるところのものを規定し、唯一の善 であるような純粋意志の格率を確立する。
363 :
1 :2010/12/31(金) 10:48:10 0
『実践理性批判』P158-P184 第1編 純粋実践理性の分析論 第3章 純粋実践理性の動機について 【道徳的法則と道徳的感情】 道徳的感情 道徳的法則が人に喚起する、謙抑の感情、道徳的法則に対する尊敬の感情。 理性によって生じ、行為者が道徳的法則を自分の格率とするための動機。 道徳的法則に対して関心をいだく能力。 尊敬 人格に関係し、物件に関係しない。 快の感情ではないから、ある人をいやいや尊敬せざるをえない場合がある。 道徳的動機 道徳的法則にもとづく、道徳的法則に対する尊敬の感情が動機となる。 実践的法則 純粋理性の表象においては、意志を直接に規定する根拠である。 道徳的法則に対する尊敬 〔行為者の〕活動の主観的根拠、法則を遵奉させる動機。 関心 動機の概念から発生する。格率の概念のもと。 動機、関心、格律 有限的な理性的存在者にしか適用されない。 義務 道徳的法則に従い、傾向性に由来する規定根拠をすべて排除し客観的に実践的な行為。 義務の概念は、行為に対しては法則と客観的に一致することを要求し、行為 の格律に対しては、意志を主観的に法則にする尊敬を要求する。 道徳的法則 神の意志にとっては神聖性の法則、人間にとっては義務の法則、道徳的強制 の法則である。 徳 傾向性と常に闘争している道徳的心意。 道徳的狂熱 純粋実践理性が人間理性に対して設けた限界を、原則に従って超過すること。 【世界観・人間観】 「一切の被創造物のなかで、我々が欲し、また意のままに処理しうる一切の物は、手段と してのみ使用され得る。ただ人間だけは、また人間と共に他のいかなる理性的被創造者も、 目的自体である、まことに人間は、道徳的法則の主体である。」(『実践理性批判』岩波文庫P181)
364 :
1 :2010/12/31(金) 13:55:48 0
『実践理性批判』P184-P218 第1編 純粋実践理性の分析論 第3章 純粋実践理性の動機について
純粋実践理性の分析論の批判的解明
【『純粋理性批判』と『実践理性批判』の扱う問題】
『純粋理性批判』 悟性に与えられる限りの対象の認識
『実践理性批判』 対象を実現するための能力としての意志
【幸福の原理と道徳性の原理の関係】
義務が問題となるときには、幸福を顧慮すべきでない。むしろ自分の幸福を図ることは我々
の義務である。
【自然必然性と自由の関係】
>>324 ,325,326参照
【後悔と自由の関係】
プリーストリは、すでに為した行為を為す以前に戻すことができない以上、後悔は実践的
に無意味である、とする。
しかし、感性的生活でも自由についていえばフェノメノンの絶対的統一を含んでいるから、
自由の絶対的自発性に従って判定されるから、後悔は痛苦である。
【神と自由の関係】
時間において実在する神を実体とする創造説は誤りである。時間における実在は、人間が
物を感性的に表象する仕方にすぎない。つまり、物自体としての存在者に関係ないとすれ
ば、物自体としての神を創造することは物自体を創造することになる。
時間における現実的存在は、その自由を制限するものではない。
【原因性、自由、私を実践理性からみた関係】
無条件的原因性、自由および感性界に属すると同時に自由によって可想界に属する存在で
ある私は、自由の原因性の法則に関しては規定せられ、実然的に認識されている。
それゆえ、理論理性からは超越的であるが、実践理性からは内在的と考えることができる。
365 :
1 :2010/12/31(金) 14:51:17 0
『実践理性批判』P219-P230 第2編 純粋実践理性の弁証論 第1章 純粋実践理性一般の弁証論について 【哲学と最高善】 理性は、純粋実践理性の対象の無条件的全体性を最高善に求める。 最高善の理念を実践的に規定することが知慧の教えであり、学としては哲学である。 【純粋実践理性の弁証論を論ずる際の注意点】 道徳的法則は、純粋意志の唯一の規定根拠である。 ところで、最高善の概念のなかに道徳的法則がすでに包含されているならば、最高善の概 念と最高善の実在の表象とが同時に純粋意志の規定根拠となる。 第2章 最高善の概念規定における純粋実践理性の弁証論について 【徳と幸福について】 ・ストア学派 徳が全体的最高善で、幸福は徳を所有している意識にすぎない。 エピクロス学派 幸福が全体的最高善で、徳は幸福を得るための格律の形式にすぎない。 ・両派は2つの概念を分析的(論理的連結)とみなしているが、分析論でみたように最高 善は幸福と徳の両概念の綜合である。この結合、意志の自由によって最高善を生じるの は、ア・プリオリに必然的である。
366 :
1 :2010/12/31(金) 15:56:27 0
『実践理性批判』P230-P246 第2編 純粋実践理性の弁証論 第2章 最高善の概念規定における純粋実践理性の弁証論について 1 実践理性のアンチノミー 【徳と幸福の関係について】 1 幸福を得ようとする欲望が、徳の格率に向かわしめる動因である 2 徳の格率が幸福の作用原因である 1,2のいずれかの命題が成り立つはずである。 2 実践理性のアンチノミーの批判的解決 【前項の解決】 理性的存在者は自然法則に従う感性界における現実的存在であると同時に悟性界〔可想界〕 におけるノウーメノンとして実在するので、【徳と幸福の関係について】2の命題が成立する。 【アンチノミーの解決からわかったこと】 1 道徳性の意識と道徳性の帰結として道徳性に比例するような幸福を期待することとの 自然的、必然的結合は、実践的原則において少なくとも可能と考えられる。 2 幸福を求めようとする努力は、道徳性を生み出し得るものでない。 3 最上善は道徳性である。幸福は道徳性に従属する。 3 思弁的理性との結合における純粋実践理性の優位について 【実践的使用においての優位について】 実践的意味では、これらの物のうちの一つに対する関心が、この関心に諸他いっさいの物 に対する関心が従属する限りにおいて、他の関心に優先することを意味する。 純粋思弁的理性と純粋実践理性とが結合して認識を形成する場合に、ア・プリオリに理性 そのものにもとづいている、従って必然的であるならば、純粋実践理性が優位を占める。
367 :
1 :2010/12/31(金) 17:59:53 0
『実践理性批判』P246-P263 第2編 純粋実践理性の弁証論 第2章 最高善の概念規定における純粋実践理性の弁証論について 4 純粋実践理性の要請としての心の不死 【最高善の実現】 最高善の実現は、心意と道徳的法則の完全な一致を条件とする。 【神聖性について】 神聖性は、意志が道徳的法則に完全に一致することであり、感性界に属する理性的存在者 としては、彼の現実的存在のいかなる時点においても達成しえないような完全性である。 それは、意志と道徳的法則の完全な一致を目指す無限への進行のうちにのみ見出しうる。 【心の不死】 無限への進行は、同一の理性的存在者の実在と人格性とが無限に存続することを前提とし てのみ可能となる。最高善は、心の不死を前提としてのみ実践的に可能となる。心の不死 は、純粋実践理性の要請である。 5 純粋実践理性の要請としての神の現存 【幸福と道徳的法則の関係】 幸福は、この世界における理性的存在者が、彼の実在の全体において何事も望みのまま意 のままになるという状態をいう。つまり、自然と意志の規定根拠と一致する。 道徳的法則は、自然や欲求能力との一致などには一切関係の無い規定根拠によって命令する。 【神の現存の要請】 理性的存在者が最高善を達成するために努力しなければならないとすると、道徳性と幸福 の連関が必然として要請される。連関を一致させる根拠を含む原因である神の現実的存在 が要請される。 【神の現存の想定】 道徳的必然性は、主観的であり、義務ではない。この想定は純粋な理性的信といえる。 【キリスト教の道徳】 道徳の神聖性は理性的存在者に規準として指示されてはいるが、神聖性に比例する幸福( 浄福)は永遠の彼方のいてしか達成されないとする。道徳的法則は最高善を通じて宗教に 達し、宗教は一切の義務、道徳的法則を神の命令とする。道徳論は、幸福を受けるに値い するようになるべきかの教えであるが、宗教が加わると、幸福を受けるに値しないものに ならないように自戒した程度に応じていつかは幸福に与ることができるという希望を生じる。
368 :
1 :2010/12/31(金) 18:15:43 0
『実践理性批判』P246-P263 第2編 純粋実践理性の弁証論 第2章 最高善の概念規定における純粋実践理性の弁証論について 6 純粋実践理性一般の要請について 【要請の論理】 自由、不死、神の現存はすべて道徳性の原則から出発している。理性は、この法則により 意志を規定し、指定に従うためこれらの必然的条件を要請する。 第1の要請 心の存続を道徳的法則の完璧な実現と一致させるための条件から発生する。 第2の要請 感性界にかかわりなく自分の意志を可想界の法則に従って規定する能力、すなわち自由 を有するという必然的前提から発生する。 第3の要請 最高善が存在するためには、独立自存して他に依拠することのない最高善、すなわち神 の現存が可想界の条件をなすという必然性から発生する。 以上の3つの要請を通じて、3つの概念(自由、不死、神の現存)に到達する。 これら概念は、実践的見地においてだけ我々の認識を拡張するが、これらがそれ自体何で あるかを人は認識することはできない。しかし、これらの理念があることは確実である。
369 :
1 :2010/12/31(金) 19:55:05 0
『実践理性批判』P267-P290 第2編 純粋実践理性の弁証論 第2章 最高善の概念規定における純粋実践理性の弁証論について 7 一方では実践的見地において純粋理性を拡張しながらそれと同時に他方ではこの同 じ理性の認識を思弁的に拡張しないということがどうして考えられ得るのか 【3つの理念の理性にとっての関係】 純粋理論理性 超越的、客観(対象)を欠く(=理論的認識そのものを拡張しない) 純粋実践理性 内在的、対象をもつ(=理念に客観的実在性を与える) 【神の認識可能性】 神の認識は、実践的関係においてだけ、道徳的法則を可能ならしめるために必要な概念だ けできるのであり、思弁的認識は不可能である。 【神の実在証明と神の概念】 神の概念や神の実在証明に、形而上学によってこの世界の認識から出発し、確実な推論を 用いて到達することは不可能である。 神の概念は、実践的使用の最上原理から出発して対象を規定することができ、道徳的法則 が最高善の概念によって規定することができる。 神の概念、自由および不死の概念は、道徳学に属する概念である。 8 純粋理性の必要にもとづく意見について 【神の必要の違い】 純粋理論理性 自然における秩序と合目的性を説明するために、その原因として神を前提する。 純粋実践理性 最高善を意志の対象とし、促進すべきであるという義務にもとづく。 【実践理性的信】 主観的には必要と見なされるが、客観的(実践的)に必然的である最高善を促進する手段 と見なされるならば選択の対象となった世界創造者の存在・不存在のいずれを真と考える かを決定するような格律の根拠。 (-。-) 紅白が始まっているのに……
370 :
1 :2010/12/31(金) 20:03:46 0
『実践理性批判』P290-P293 第2編 純粋実践理性の弁証論 第2章 最高善の概念規定における純粋実践理性の弁証論について 9 人間の認識能力は人間の実践的規定に巧みに釣合っているということについて 人間の本性が最高善の達成のために努力するように規定されているとすれば、悟性、判断 力および理性の程度や認識能力相互の関係は、この目的によく適合していると見なされね ばならない。しかし、『純粋理性批判』が証明したところでは、そのために思弁的理性だ けでは極めて不十分である。 そして、人間の本性が現在のままである限りは、マリオネットのようにいささかの生命も 見いだせないであろう。しかし、道徳的法則が要求する純粋な尊敬の感情が我々の心を支 配するようになると、神の国への展望が許され、理性的被創造者は最高善に与るに値する ものとなる。
371 :
1 :2010/12/31(金) 21:19:39 0
『実践理性批判』P297-P321 第2部 純粋実践理性の方法論 【実践理性批判の方法論】 どうすれば純粋実践理性の法則を人間の心のなかに取入れて、心の格率に影響を与え得る か、換言すれば、客観的に実践的な理性を主観的にも実践的なものにできるかという仕方をいう。 【方法の概要】 純粋な道徳的関心に対する感受性と徳の純粋な表象の具えている起動力が人間の心に適切 に働きかけると、この表象の力が我々を善に向かわしめる最も強力な動機となる。 【具体的方法】 1 自他の行為を道徳的法則に従って判定する。 2 1の行為が客観的に道徳的法則に合致しているか判定する。 3 責務の根拠を与えるだけの法則から、実際に責務を課する法則を区別し、行為に含ま れる義務を区別することを教える。 4 行為を考察することにより、そのものを愛好するようになる。その中に道徳的な正し さを見出すとその使用を促進する。 5 道徳的心意を実例についていきいきと表示することで、意志の純粋性に気づかせる。 6 傾向性によって生じていた必要から逃れ、内的自由が人に示される。 7 自分自身だけで満足できるという意識が生まれる。 8 自分自身に対する尊敬の念が確立され、自己吟味によって反省し、不潔な退廃的衝動 に心が侵されなくなる。 結び 「ここに2つの物がある、それは−我々がその物を思念すること長くかつしばしばなるに つれて、常にいや増す新たな感嘆と畏敬の念とをもって我々の心を余すところなく充足す る、すなわち私の上なる星をちりばめた空と私のうちなる道徳的法則である。」(『実践 理性批判』岩波文庫P317)第1の自然界の景観は動物的被創造者としての私の重要性を無 みし、第2の可想界の景観は叡知者としての私の価値を高揚する。 感嘆も畏敬の念も我々の探求を刺衝するが、探求の欠陥を補うのは悟性による。しかし、 十分に探求はなされず、道徳学は道を誤った。道徳学と哲学の学的研究が今後進められて いかねばならない。 \(^o^)/オワタ
支援とかいるのか?
「人間は無限性と有限性との、時間的なものとの永遠的なものとの、自由と必然との総合、 要するに、ひとつの総合である」 「現実性が可能性と必然性との統一なのである」 これらのテーゼが腑に落ちると、心(精神)を落ち着かせたいときに便利。 可能性が誇大化すると、「ああ、○○になったらどうしよう!」と不安に駆られ、「このままじゃダメだ!」 と思うようになり、どんどん「自己自身」から離れてしまう。→そのうち挫折して、絶望する 必然性が誇大化すると、「どうして俺は○○なんだ!」と、運命を呪うようになり、「どうせ○○だし・・・」 とふてくされるようになる(絶望する)。 人間の精神は、可能性と必然性とのシーソーゲームでできているのだ。
しかし、キルケゴール自身も繰り返し言っているように、「必然性」に閉じこもっている人間が、「可能性」を 「受け取りなおす」(これが「反復」にほかならない)には、とてつもない勇気が伴うであろう。 ・・・「受け取りなおす」ためには、何かを犠牲にすることもやむを得ない、というような覚悟的な境地に至らなければならぬからだ。 「彼は、この老人は、彼の唯一の希望とともに、そこに立った!しかし彼は疑わなかった、 彼は不安げに右や左をふり向きはしなかった、彼は祈りによって天に訴えはしなかった。 彼を試みた者が全能者、神であることを彼は知っていた、彼は自分に要求されるものがこの上なく 重大な犠牲であることを知っていた、しかしまた彼は、神が要求するとき、いかなる犠牲も重すぎることは ないことをも知っていた――かくして彼は刀を抜いた」 (『おそれとおののき』 枡田啓三郎訳 世界文学大系27 135頁)
あ、基本的にスレ主の主導だったのね もうちょっと投下しようと思ったけど、自重するわ
376 :
1 :2011/01/01(土) 21:10:36 0
>>372 支援いただけるなら欲しいなぁ。
哲学についてわかっているとはいえないから。
誤解したままというのは嫌だし、見方を深めたいし。
377 :
1 :2011/01/01(土) 21:11:20 0
>>375 いや、スレ主がでしゃばってしまっているだけで、基本的にその月に読む本に関係してい
れば何を書いてもいいです。
むしろ、374の続きを読んでみたいので、お願いしまず。
僕は『キェルケゴールとニーチェ』(カール レヴィット 未来社)を読んでいて、おも
しろいなぁと思っているところです。
>>377 いやあ、実は俺の一番好きな哲学者がキルケゴールで、今月の課題図書が『死にいたる病』ということで、
なんかついノリノリで書き込んでしまった。お恥ずかしい。
ではお言葉に甘えて・・・つっても、事前に文章を準備してるわけではなく、ほとんど思いつきでしか書かないつもりなので、
あんまり期待はしないでくださいw 見識を深めたいのは僕も一緒です。
えー、じゃあ、キルケゴールにとって、信仰とはなにか、について。
彼の著作を読んでると、まず、彼のなかでの「信仰」のハードルが異様に高いことに気付かされると思う
「人間的に言えば、救済は何よりも不可能なことである。しかし、神にとっては一切が可能なのである!
これが信仰の戦いである。それは、いうならば、可能性をうるための、狂気の戦いなのである」
(『死にいたる病』 枡田啓三郎訳 ちくま学芸文庫 75頁)
これは「β必然性の絶望は可能性を欠くことである」からの引用だけど、彼はきっと、必然性の絶望のただなかにいる人に向かって、
「可能性をもってこい、可能性をもってこい、可能性のみが唯一の救いだ」(前同)と言っているのでしょう。
じゃあ、「必然性の絶望」とは、具体的になんだろう。キルケゴールは「宿命論者」「決定論者」と書いているけれど、僕はこれを、
「深い諦観のなかにいる人」と解釈する。
>>373 にも書いた、「どうせ俺は○○だし・・・・」という心境だ。
「どうせ××しても、○○になるに決まってる」、みたいな。このような人は、神よりの救済の可能性を信じない。
また、同じく『死にいたる病』のなかの、今度は「β 絶望して、自己自身であろうと欲する絶望、反抗」では、 「世間で諦めという名前で飾り立てられているものの多くは、一種の絶望であることがわかるだろう。 すなわちそれは、絶望して抽象的な自己であろうと欲し、絶望して永遠なものに満足し、それによって、地上的、現世的な 苦難に反抗したりそれを無視したりすることができるようになろうとする絶望である」(133頁) ともある。 このような「諦観」やペシミズム(あるいは、ロマン主義や神秘主義にも当てはまるかもしれない)を、彼は「信仰」であるとは認めない。 「諦めるのには信仰を必要としない。なぜなら、わたしが諦めにおいて得るものは、私の永遠なる意識であり、 これは純粋に哲学的な運動であって、この運動なら、わたしはせよと求められれば、するだけの自信があるし、 またこの運動をするように、わたしは自分をしつけることもできるからである。」 (『おそれとおののき』 155頁)
あ、一応確認すると、『死にいたる病』はちくま学芸文庫から、『おそれとおののき』は世界文学大系から引用してます。 閑話休題。でもこのような、運命に対して屈服してる状態は、ある意味、神にだいぶ近づいてきたと言えるかもしれない。 なぜなら、運命=神?が、まさに現前しているのだから。 「最初に、地上的なもの、または地上的な或るものについての絶望があり、次に、永遠なものに対する、自己自身についての 絶望がくる。それから、反抗があらわれる(略)しかし、反抗が永遠なものの力による絶望であればこそ、反抗は或る意味で真理の すぐ近くにあるのであるが、しかしまた、真理のすぐ近くにあるからこそ、反抗は真理から無限に遠く隔たっているのである」 (『死にいたる病』127頁) ここまでくると、「絶望は長所であろうか、短所であろうか?まったく弁証法的に、絶望はその両方なのである」(前同30頁) の意味も、ぼんやりながら、わかってくると思う。つまりキルケゴールにとって、運命に対して屈服している絶望の状態は、 「信仰」の境地に至るための、必要なプロセスなのだ。
「で?『どうせ××しても、○○になるに決まってる』とふてくされてる人間が、信仰に至るためには、どうすればいいんだよ?」 ――勇気を持つことである。 「永遠なるものを得るためにすべての時間的なものを断念するには、純粋に人間的な勇気が必要である。(略) 時間的なもの全体を背理なものの力によってとらえるには、逆説的で謙虚な勇気が必要である。そしてこの勇気が信仰の勇気である」 (『おそれとおののき』155頁) キルケゴールはここで、「背理なものの力」と言った。もはや「信仰」に至るためには、思惟を、アレコレ考えることを、哲学を、手放さなければなるまい。 「殺人をさえ神の心にかなった神聖な行為とすることができるという逆説、イサクをアブラハムに返しあたえるという逆説、この逆説は 思惟のとらえうるものではない。信仰とは、思惟の終わるところ、まさにそこからはじまるものだからである」(『おそれとおののき』159頁) 「ここで、これら一連の実存哲学者たちのような態度を、哲学上の自殺と呼ばせていただこう。しかし、この呼び方は価値判断を含んでいない。 これは、思考が思考自体を否定し、自己を乗り越えて、この否定を行うもの自体のなかへと向おうとする動きを、便宜上こう名づけたまでにすぎない」 (カミュ『シーシュポスの神話』 清水徹訳 新潮文庫 75頁) きっと「宿命論者」は、度重なる失敗の経験から、確信を持ってそのような決定論に陥っているのであろう。 はっきり言ってしまえば、覚悟的に行為したところで、同じ失敗を繰り返すという宿命から解放されるというわけではなかろう。 イサクは返してもらえないかもしれない。きっとあなたはまた、同じ失敗を繰り返すだろう。・・・・それが現実だ。 たとえあなたの行為が失敗につながろうと、成功につながろうと、それが、神の欲する(神が措定した)あなたなのである。 自己自身であろうと欲することによってもたらされるやすらぎ――これが「信仰」なのである。 「そこで、絶望がまったく根こそぎにされた場合の自己の状態を表す定式は、こうである。 自己自身に関係し、自己自身であろうと欲することにおいて、自己は、自己を措定した力のうちに、透明に、根拠を置いている」 (『死にいたる病』30頁)
ちゃんちゃん。ねる
384 :
1 :2011/01/02(日) 22:01:01 0
今月、もう僕が書くことがなくなったなぁ。(^-^)ニコ
で、カミュの引用が少し唐突に思えたので、勝手に想像してみました。
カミュは(
>>382 で参照しているページは、手元の平成6年の46刷では62頁なので、以下僕
の示すページは最新の版とは少しずれていると思います)「キルケゴールはみずからの神
のなかに呑みこまれてゆき」(カミュ『シーシュポスの神話』P66)、ヤスパースやシェ
ストフ同様に「飛躍を行うのだ」(同P57)と、言います。
ちょうど読んだ『キェルケゴールとニーチェ』でも「神の非・有限性を信頼して、信仰に
決心して飛びこむことによって企投しようとした」(P20)と、神への「飛躍」の話があ
りました。
373さんは『死にいたる病』を読んで、もう少し違うところ、例えばキルケゴールを踏ま
えてもう少し先まで、考えてらっしゃるようにみえるのですが、いかがですか?
もし、僕の勝手な想像が行き過ぎていたら、すみません。
なお、この話は「キリスト教は日本人にはわからない」とか、「キルケゴールは飛躍して
いるからだめだ」という話ではありません。なぜなら、既にそれはキリスト教国であるフ
ランスのカミュですらそう指摘しているのだし、キルケゴールらの直面した社会や人の病
を克服したとは僕には思えないから。>>all(蛇足かな)
385 :
1 :2011/01/02(日) 22:13:50 0
今、ハーバード白熱教室を見ているけれど、 僕が1月かかった以上のことを2回の講義でやっているのか orz これは『死にいたる病』の「罪のソクラテス的定義」にも関連するんだよなぁ。
386 :
1 :2011/01/04(火) 22:15:03 0
2011年1月の本 キルケゴール『死にいたる病』 【人物】 セーレン・オービエ・キェルケゴール(1813年5月5日 - 1855年11月11日) 父ミカエルは地方の貧しい農奴の出であったが、コペンハーゲンにでて靴下商として独立 し順調に人生を歩み、38歳の時に結婚するが、妻は子供のできないまま死去。それまで女 中として働いていたアーネと結婚し、セーレンは7人の子の末っ子として生まれる。 父は少年時代悲惨な境遇を嘆き神を呪ったとセーレンは著し、アーネとの結婚も暴力的に 肉体的交渉をもったものと伝記研究者はする。父は子どもの誕生も、自身の少年時代の神 への呪いの結果と考え、相次いで家族を失い、1835年には父、長男と末っ子セーレンだけ となった。そして、キリストが十字架にかかって死んだ33歳を超えて生きられないという 強迫観念に家族みながとりつかれた。父はその罪意識からキリスト教による救済を求め、 子供にも厳格なキリスト教信仰を求めた。 セーレンは1830年にコペンハーゲン大学に入学し、1840年に神学の国家試験に優秀な成績 で合格する。学位論文はソクラテスについて書いた『アイロニーの概念』。しかし、外面 的には神学の勉強を放棄し、文学や哲学に向かい、ドンジュアン、ファウスト、アハスヴェ ルスの人物像やドイツ・ロマンティークを研究し、フィヒテ、メェラーらを学ぶ。ヘーゲ ルについてはデンマークのヘーゲル主義者のものから学んでいるにすぎない。 1838年、セーレンが25歳の誕生日に死を前にした父から「妻を暴力で犯した罪」を打ち明 けられ、家族にかけられた神の呪いの実体を知る(いわゆる「大地震」)。父はその年に 死亡し、かなりの遺産を相続した。 1840年9月8日にレギーネ・オルセンに愛の告白をした翌日には、大変な誤りを犯したと記 し、婚約をしたものの1841年8月11日には訣別の手紙を書く。婚約破棄の理由については 諸説あるがはっきりしたことはわかっていない。(続く)
387 :
1 :2011/01/04(火) 22:16:01 0
2011年1月の本 キルケゴール『死にいたる病』(続き) 1843年『あれかこれか』以降、『反復(受取り直し)』、『おそれとおののき』、1844年 『不安の概念』、『哲学的断片』、1849年『死にいたる病』、『キリスト教への修練』と 刊行した。1846年には風刺誌『コルサール』の人身攻撃にあい、衆人の嘲笑を浴びる。こ のコルサール事件で無責任な大衆への不信を募らせた。 1849年以降、キリストの倣びを放棄し、世俗的価値を振り回されている既成教会への批判 を激しくしていく。 1855年意識を失って路上に倒れ、40日後亡くなった。 【内容】 冒頭の「人間は精神である。しかし、精神とは何であるか〜」は(難解で)有名。 第1部では人間が2つのものの関係での均衡にあるべきことを絶望を通して、第2部では 絶望にある人間と神との不適当な関係の罪を通して、人間をとらえている。 キルケゴールはデンマーク国教会への批判の書として公刊したが、同時に「「人間の状態 はいつも危機的である」との認識に立ち、「精神の病としての絶望」の分析という「心理 学的」考察を通して、近代の自我の考え方にひそむ絶望の構造をあばきだした点で、近代 精神に対する鋭い批判の書となった」(『哲学・思想事典』岩波書店) 【感想】 10月にこの本を選んだ理由 1 日本が江戸時代に書かれた、近代精神の行き詰まりを示唆する本であった。 2 このままの内容で現代社会批判ができそうな分析をしている。 3 20世紀の思想の大きな流れの一つとなった実存主義の祖とされている。 読み返してみて、間違っていなかったなぁ、と思いました。 ところで、キリスト教についての知識ですが、僕はまったくありません。しかし、こうい うくだりを見つけて、キリスト教を知らなくても、読みとれるものがあるのだと思っています。 「キェルケゴールの実存から神を抜き取れば、それはもはやキェルケゴールではない。し かし同時に、彼の実存概念はキリスト教的な枠組みにとどまらない広がりをもっている」 (『キェルケゴールを学ぶ人のために』P105)
388 :
1 :2011/01/04(火) 22:17:04 0
389 :
1 :2011/01/05(水) 21:58:30 0
目次から読む『死にいたる病』 先月『プロレゴメナ』で各区切りに標題をつけることをしましたが、今月は逆に標題から 内容を考えてみます。著者自身がつけたわけですから、先月以上に役立つはずです。 目次をみるとこの本が体系的に書かれているのがみてとれます。 まず最初に題名となっている「死にいたる病」が何であるか? 第1編の標題で「絶望」であるといいます。 で、1AA(「絶望は精神における病〜」。以下、項目名をその標題に付せられた英数字で 略称します。例を次のレスにあげておきます)で、それは「精神における病」であり、「 自己における病」であり、3つに場合分けされるというわけです。 1Bでは、その病である絶望が「普遍」的に、つまり誰にでもみられることが書かれます。 1Cでは、絶望についての意識についての反省の無有でABが分けられ、Aの場合は、綜合の 諸契機のみが反省された結果として、1CAaの「有限性−無限性」と1CAbの「可能性−必然 性」に分類されるのですから、その2つが綜合の諸契機に関係があると想像されます。 Bの場合はさらに自覚の有無で分類され、1CBa「自分が絶望であることを知らないでいる 絶望」と1CBb「自分が絶望であることを自覚している絶望」に分けられます。 つまり、絶望は以下の8パターンあるということです。なお、各回の記述で各パターンの 状態の例を僕が考えたものも含めて、☆を文頭につけて表示する予定です。 1CAaα、1CAaβ、1CAbα、1CAbβ、1CBa、1CBbα1、1CBbα2、1CBbβ 第2編は第1編で検討した「絶望」は2Aで「罪である」といいます。性質や分類について は第1篇で分類を通して書かれているのに、なぜ改めて、別の角度からキルケゴールが考 えるのかを想像してみます。その違いは、1AA「精神における病、自己における病」、2AA 「自己意識の諸段階(神の前に、という規定)」となっていて、ここで1CB「意識という規 定のもとに」と比べて考えると、第1編では自己意識を軸に考えていて、第2編ではそれ を神の前に置き直して考えてみる、ということなのでしょう。 2A1〜3では神の前に置き直してみた場合の絶望の性質を書き、2BA〜Cで罪の類型を示しま す。(続く)
390 :
1 :2011/01/05(水) 21:59:18 0
(続き) こうしてみると、『死にいたる病』は第1編が自己意識との関係からみた絶望−病、第2 編が神との関係からみた絶望−罪、という2層構造になっていて、それぞれ性質、類型の 順に述べられていることがわかります。 全体像がおぼろげながら見えてきたところで、少し先まわりして書いておくと、目次と1AAが この本の要約といえると僕は考えたので、目次から読んでみました。 項目名について参照することが多くなりそうなので、以下のように略称します。 【ルール】 標題に付せられた英数字をつけます。 【例】 略称 該当する項目(表現は一部省略しています) 1A 絶望が死にいたる病であるということ 1AA 絶望は精神における病〜 1AB 絶望の可能性と現実性 1CA 「絶望が意識されていない場合」 1CAa 「有限性−無限性という規定のもとに見られた絶望」 1CAb 「可能性−必然性の規定のもとに見られた絶望」 1CBa 「絶望して自己をもっていることを自覚していない場合(非本来的な絶望)」 1CBb 「絶望していることを自覚している場合」 1CBbα1 「絶望して自己自身であろうと欲しない場合 地上的なものへの絶望」 1CBbα2 「絶望して自己自身であろうと欲しない場合 永遠なものへの絶望」 1CBbβ 「絶望して自己自身であろうと欲する場合」
391 :
1 :2011/01/07(金) 00:19:35 0
【題名】
神とほんとうの関係を結ぶことを知らない人、それを知ろうと欲しない人(略)のうちに
見いだされる、均衡を失った不安定な状態をあらわすものとして、この「死にいたる病」
という表現を用い、この状態を「絶望」と名づけ」(P249訳注1)た。
【筆者名】
「覚醒のためのとするのは、実をいえば、わたしの分に過ぎたことだ……それはわたし自
身よりも高くにあることなので、そのためにわたしは偽名を用いる」(P250訳注2)
とあります。
【序】
この本を教化的に書いたこと、絶望は、この本では「病として理解されていて、(本来は
薬ともなるが 引用者注)薬としては理解されてはいない」(P17)ことを示します。こ
こで
>>387 で「デンマーク国教会への批判の書として公刊した」ということを思い出しま
す。とはいえ、今回は批判の書として読むのではなく、人間について考えた書として読ん
でみます。
【緒言】
「この病は死にいたらず」というラザロの話から、キリスト教的な意味では「死でさえも
「死にいたる病」ではなく、一切の地上的なものを超然と考えることを教えてきた。とこ
ろが、キリスト教は人間が人間である限り知るにいたらない悲惨、「死にいたる病」を知っ
た。そして、ただキリスト者だけがそのことを知ったのである。
392 :
1 :2011/01/07(金) 23:58:48 0
第1編 死にいたる病とは絶望のことである A 絶望が死にいたる病であるということ A 絶望は精神における病 この項目の6つの段落に対応させてまとめてみました。 1 人間を精神としてみ、1CAaでみるように無限性と有限性を契機とする綜合、1CBa、 1CBbでみるように時間的なものと永遠的なものを契機とする綜合、1CAbで見るように 可能性と必然性を契機とする綜合、そういった綜合の運動であるとみる。 2 このとき、その関係を契機とする各項目の関係と見る場合には、その関係は各項目よ り消極的な位置(背景)に置かれるが、その関係の運動を精神としてみる場合には、そ の関係は各項目よりも積極的な位置(前景)に置かれ、それを自己と呼ぶ。 3 自己は自己自身で措定したか、神によって措定されてあるかのいずれかでなければな らない。 4 自己が他者によって措定された場合、その関係はその関係全体を措定したものに関係 している。 5 自己は、自己という関係のなかに自分で自己自身を措定した関係と神によって措定さ れた関係の2つの関係であるから、絶望には1CBbαと1CBbβの2つの形式があるので ある。絶望は2つの関係における齟齬、不均衡であるから、自己自身を措定した関係の 中だけでの不均衡は、そこだけにとどまらず、神によって措定された関係にも及ぶ。 6 絶望がまったくない自己とは、自己を措定した力のうちに、透明に根拠をおいている、 最後(P243)に書いてあるような、信仰の状態にある自己である。
393 :
1 :2011/01/09(日) 09:29:20 0
1AB 絶望の可能性と現実性 【絶望について】 長所 「人間が精神であるという無限の気高さ、崇高さを指し示す」(P30) 短所 「最大の不幸であり悲惨であるにとどまら」ず、「破滅なのである」(P31) 性質 「それ自身に関係する綜合の関係における齟齬」(P32) 【絶望の起源】 「綜合がそれ自身に関係するその関係からくる」(P33)「関係がそれ自身に関係する」(P33) つまり、自己が「関係の仕方によって不均衡な状態を生じるような、動的なはたらきとし ての関係」(P264)から生じる。 【絶望の招聘】 不均衡が生じるたびに関係に還元されていくので「絶望している瞬間ごとに、絶望をみず から招き寄せつつある」(P34) 1AC 絶望は「死にいたる病」である 【死との関係】 精神的な死が希望となるほどに危険が大きいのに、精神的に死ぬことができない。(P36) 【絶望の自乗】 絶望は、根底にある永遠的なものを含む、自己を食い尽くそうとするが、食い尽くすこと はできず、無力さがさらに絶望を生む。(P37) 【絶望における自己の状態】 1CBbαのように「自己自身について絶望し、自己自身から抜け出ようと欲している」(P38) 1CBbαに還元される1CBbβのように「絶望して自己自身であろうと欲する」(P40) 絶望が絶望者の自己を食い尽くすことはできないから、人間のうちに永遠のものがあるといえる。(P42)
394 :
1 :2011/01/09(日) 21:42:30 0
1B この病(絶望)の普遍性 【絶望の普遍性】 「人間は真のキリスト者になりきっていないかぎり、結局、なんらかの意味で絶望してい る。」(P45) 【絶望についての通俗的な見方への批判】 「絶望していないということ、絶望していることを意識していないということ、それこそ が絶望の一つの形態にほかならないことを、見逃がしている」(P46 )。また、絶望が弁 証法的であり、精神の病であり、ある時に絶望が表れると過去の全生涯ずっと絶望してい たことが顕わになることも見逃していると、と絶望の普遍性を肉体的な健康の例を挙げて 説明する。
395 :
1 :2011/01/09(日) 22:04:44 0
396 :
1 :2011/01/09(日) 22:05:36 0
1 冒頭部分を原文とあわせてゆっくり読む(その2) (3)Selvet er et Forhold, der forholder sig til sig selv, eller er det i Forholdet, at Forholdet forholder sig til sig selv; etは<中性名詞の不定冠詞>で、Forholdは<関係>。 derが<関係代名詞der + 動詞 + (本来の)主語の組み合わせのようです>、 forholderは<関係する>、sigは<三人称の再帰代名詞のようです。tilは<to にあたる前置 詞>、selvは<も>と検索ではえてきますが、きっと再帰的な意味なんでしょう。 ellerは<または>英語のorなのかな。 detは<それは>、iは<in にあたる前置詞>、Forholdetは<過去分詞形 -et>とあり、次に at Forholdetとあるので、その2つがdetにかかると考えたほうが良さそうです。atは<不定 詞を作る小辞で英語の to と同じ。 デンマーク語は前置詞の目的語として不定詞が来る ところが英語と違います>。 まとめていくと、『自己はある関係であり、その関係というのはそれがそれ自身に関係し たり、あるいは、そこで関係したり、それ自身に関係するそれ自身である』くらいでしょ うか。 で、P263訳注18の「自己とは自己自身に関係するところの関係である」は2つのsigを「自 己自身」(selvetの再帰代名詞)と読んでいるが、「関係」(forholdの再帰代名詞)と読むの が妥当だと指摘しています。なるほど、指摘のように読めます。(続く)
397 :
1 :2011/01/09(日) 22:06:45 0
1 冒頭部分を原文とあわせてゆっくり読む(その3) (続き) 実は、岩波文庫の訳がsigをselvetの再帰代名詞と読んでいる訳です。 細かいことですが、岩波文庫の訳は前の2文でもmen(しかし)を訳していないところも気 にかかるところです。解説の丁寧さとあわせて、訳の確からしさ(確かさと言い切る語学 力のなさが恥ずかしいところですが)から、僕はちくま学芸文庫をお勧めました。 創言社の山下秀智訳はちくま学芸文庫と同じ解釈でした。 ただ一つだけ。岩波文庫は、ドイツ語からの重訳ですが、戦前になされ、多くの人が『死 に至る病』に触れるきっかけを作ってくださった訳です。デンマーク語をきちんと学ばず、 桝田氏の詳しい説明やWebのおかげでようやく読んだ僕が偉そうに言うのは大変に失礼な 話です。この箇所の訳によって、訳されたことの評価が下がるというものでもないと考え ています。そもそも岩波文庫がなければ本書に触れることはありませんでしたから。 ちなみに、白水uブックスもドイツ語からの重訳です。この本では最初2つのsigをselvet、 次の2つのsigをforholdの再帰代名詞と読んでおり、これはないだろう、と思っています。 また、次の(5)〜(7)をとばしていて、元にしたドイツ語訳になかったのかどうかは わかりませんが、ちょっと困ってしまいます。
398 :
1 :2011/01/09(日) 22:08:08 0
1 冒頭部分を原文とあわせてゆっくり読む(その4) (4)Selvet er ikke Forholdet, men at Forholdet forholder sig til sig selv. ikkeは<否定辞…ない>、後半部分は前回の文の最後の部分と一緒です。 『自己は関係ではなく、それ自身に関係するそれ自身である』 (5)Mennesket er en Synthese af Uendelighed og Endelighed, af det Timelige og det Evige, af Frihed og Nodvendighed, kort en Synthese. enは<共性名詞につける不定冠詞>、Syntheseは<合成>、afはof、ogはand Uendelighedは<無限大>、Endelighedは<きっぱり>とでますが、<無限大>のUendelighedか らunをとったものだから反対語であろう。Timeligeは<一時的な><時間的な>、Evigeは<永 遠の>、Frihedは<自由>、Nodvendighedが<必要性><必然>、kort<地図><表示する> 『人間は無限大と有限との、一時的なものと永遠なものとの、自由と必然の合成であり、 合成を表わすものである』 (6)En Synthese er et Forhold mellem To. mellemha<間><の間の>、Toは<数字の2> 『合成は2つの間の関係である』 (7)Saaledes betragtet er Mennesket endnu intet Selv. Saaledesは<したがって><この>、betragtetは<考え>、endnuは<まだ><まだありません>、intetは <何も><ない> 『この考えでは、人間はまだ自己ではありません』 第1段落が終わりましたから、ここで止めておきます。
399 :
1 :2011/01/10(月) 21:56:09 0
1C この病(絶望)の諸形態 【諸形態の考察の規準】 絶望の諸形態は「綜合としての自己が成り立っている諸契機を反省することによって、見 いだされる」(P57)絶望においては、意識が決定的な意義をもっている。 1CA 絶望が意識されているかいないかという点を反省せずに考察された場合の絶望。し たがってここでは綜合の諸契機のみが反省される a 有限性−無限性という規定の もとに見られた絶望 【本来的な自己】 「自己自身になるとは、具体的になる」(P58)ことであり、有限的、無限的のいずれで もなく、綜合した状態になることである。 無限性−有限性 「自己の無限化において自己自身から無限に離れてゆき、有限化において自己自身へ無限に帰ってくる」(同) 時間的なもの−永遠的なもの 「自己は、それが現に存在している瞬間瞬間に、生成しつつある」(P59) 可能(自由)−必然 「可能態にある自己は、現実的に存在するのではなく、単に現成すべきものである」(同) 1CAaα 無限性の絶望は有限性を欠くことである 【無限化】 想像は無限化する反省である。 感情か認識か意志かが想像的になると、自己全体が想像的になり(無限性に傾き)かねず、 自己が希薄になっていく。 「無限的なものののなかに落ち込んで自己自身を失っている」(P65) ☆反省的に考えず、想像した自己の像にとらわれている状態。 1CAaβ 有限性の絶望は無限性を欠くことである 【有限性】 「自分の自己を「他の人々」に騙り取らせる」(P65) ☆反省的に考えず、社会生活に順応し他人と同様に行動している状態。
400 :
1 :2011/01/12(水) 00:15:48 0
1CAb 可能性−必然性の規定のもとに見られた絶望 【可能性と必然性】 「生成するためには(そして、もちろん、自己は自由に自己自身になるべきものである)、 可能性と必然性とがひとしく」(P68,P69)必須である。 1CAbα 可能性の絶望は必然性を欠くことである 【可能性】 「可能性においては、一切が可能であ」(P72)り、願望的、希求的な形態と憂鬱的、空 想的な形態がある。 自己が可能的に「存在する場合、自己は空想を媒体としてみずからを反省するが、それに よって、無限の可能性が表われてくる。」(P69) ☆願望的な、希求的あるいは憂鬱的、空想的な形態での可能的な自己を考えている状態 1CAbβ 必然性の絶望は可能性を欠くことである 【必然性】 ☆可能性を欠くとは、決定論者や宿命論者のように一切のものが必然的になってしまったか、 俗物根性のように一切が日常茶飯事になってしまったかのいずれかの意味である。
401 :
1 :2011/01/12(水) 22:32:23 0
1CB 意識という規定のもとに見られた絶望 【意識と絶望】 意識と絶望の強度は正比例する。(この考えはP93、P127、P185でも示されています。) 最高度の絶望は悪魔の絶望であり、最低度の絶望は一種の無邪気さ、それが絶望であると 知ってさえいない状態である。 1CBa 自分が絶望であることを知らないでいる絶望。あるいは、自分が自己というものを、 永遠な自己というものを、もっているということについての絶望的な無知 【原因】 「感性的なものの範疇のうちに生きており、精神とか真理とかいったものを少しも気にし ない」(P83) 【状態】 無精神的に安心していても、その根底には不安があり、同様に絶望がある。 「自分が絶望していることを知らないでいる絶望者は、それを意識している絶望者に比べ ると、真理と救済から、否定ひとつ分だけよけいに隔たっているにすぎない。」(P85) 絶望についての無知は「世間でいちばん普通なものであ」(P86)り、「異教徒や、キリス ト教界のうちの自然的人間」(同)は無知である。 ☆自分を精神として意識していないで「抽象的普遍的なもの(国家、国民など)のなかに 安住したり溶け込んでいたり」、自己を内面的を理解しようとせず、不可解な何物かと 考えているような状態。
402 :
1 :2011/01/13(木) 22:04:42 0
1CBb 自分が絶望であることを自覚している絶望。したがって、この絶望は、或る永遠な ものをうちに含む自己というものを自分がもっていることを自覚しており、そこで、 絶望して自己自身であろうと欲しないか、それとも、絶望して自己自身であろうと 欲するか、そのいずれかである 【絶望の意識とその認識、自己の状態についての認識とその意志の相違】 自分の絶望を意識していること(この後、意識の強まる順に記述していきます)と絶望に ついての真の観念(地上的なものか永遠なものか)、自己自身の状態に関する意識の程度 (絶望が外部からきたのか内部から生じたのか)とその認識に基づく意志(本来的な自己 自身になろうとしないのと非本来的な自己自身になろうとする)を区別して理解する必要 があり、その区分に基づいて、形態をみていく。 1CBbα 絶望して、自己自身であろうと欲しない場合、弱さの絶望 【弱さの絶望】 1CBbα 弱さの絶望 女性の絶望、1CBbβへの反省が含まれている 1CBbβ 反抗 男性の絶望 この2つの区別は、相対的な区別である。
403 :
1 :2011/01/14(金) 22:06:27 0
CBbα2 永遠なものに対する絶望、あるいは、自己自身についての絶望 ☆絶望を意識してはいるが、単に受難ではなく行為であって自己から反動として、間接的 =直接的に自己から」(P118)来たものとわかっている。 【1CBbα2との比較】 α1 弱さの絶望 α2 自己の弱さについての絶望、自己の弱さを意識する 【永遠なものに対する絶望−閉じ籠もり】 絶望者は自分が地上的なものに「思いわずらうのが弱さであり、絶望することが弱さであ る」(P117)とわかっている。そこで永遠なものに対し絶望して信仰に向かわず、「自己 の弱さについての絶望する」(同)。そして、「自己自身について何一つ知ろうともしな い」(P119) 「世間では稀にしか見られない」(同) ☆孤独を求めながらも孤独を怖れ社交的に家族と暮らして、自殺をしたあと誰にもその理 由がわからないような心の状態 なお、P115の地上的なもの「について」絶望する、永遠なもの「に対して」絶望するの使 い分けは、P209でその差異に注意するように説明されます。
404 :
1 :2011/01/14(金) 22:08:27 0
1CBbα1 地上的なものについての、あるいは、地上的な或るものについての絶望
☆絶望を意識してはいるが、それは受難として(全て−【パターン1】、一部−【パター
ン2】)外部から来たものであるとの意識をもつ。
【パターン1 純粋な直接性の場合】
地上的なもの(金銭や名誉?)を失い、そのことをもって自分は絶望にあると認識してい
る状態。絶望の状態ではあるが、それはほんとうの意味での絶望と認識してはいないから、
「絶望して(本来的な 引用者注)自己自身であろうと欲しない」、「絶望して一個の(
本来的な 同)自己であろうと欲しない」、「絶望して(非本来的な 同)自己自身とは
別のものであろうと欲しない」、「新しい(非本来的な 同)自己たろうと願う」(P101)
といった反応をしてしまう。
☆地上的な或るものとしての具体的な1億円を失って失意にあったが、再びそれを得よう
としている状態
☆地上的なものである富の虚しさを知り失意にあったが、今度は名声を得ようとしている状態、
【パターン2 いくらかの反省を含む直接性の場合】
パターン1よりは意識が増している。
最初は弱さの絶望にあるが、「相対的な自己反省の助けを借りて、自分の自己を守ろうと
試みる」。(P104)そして、漠然とではあるが「自己のうちにはなお何か永遠なものが存
在するにちがいないという観念をもっているから」「或る程度まで自分の自己を外界から
切り離」(P105)す。しかし、全直接性を切り離すことはできず、絶望して本来的な「自
己自身であろうと欲しない」(同)
☆名声を失ったら反省をして絶望にあると思ったら、その地をしばらく離れて、自分の評
価をうかがうような状態。
>>403 と404はアップする順序を間違えています。こちらが先になります。
405 :
1 :2011/01/15(土) 10:06:39 0
1CBbβ 絶望して、自己自身であろうと欲する絶望、反抗 【反抗】 1CBbα2でみた絶望を弁証法的にすすめて、「絶望者が、なぜ自分は自己自身であろうと 欲しないのかというその理由を意識するにいたる」(P127)と、絶望者が絶望して非本来 的な自己自身であろうと欲するから、反抗が表われる。 絶望は「直接に自己からくる」(同) 「彼の欲するような自己、つまり否定的な自己という無限な形態の力によって生み出され た自己を作り出そうと企てる」(P128) ☆別の自分を作りその姿に自分を重ね合わせようとする。 【行動的な自己である場合】 「自己は自分を支配する力を認めない。」(P129) 自己Aを二重化し、自己A自身の主人としての仮説化した自己Bを生み出す。しかし、そ の自己Bは派生的な自己であるから、自己A以上になることはなく、「国土なき国王」と いう自己Aでしかない。 ☆別の理想的な自分の姿を心のなかで作り出して安心しようとする。 【受動的な自己である場合−悪魔的絶望】 「救済の可能性を期待」せず、他人に「助けを求めるくらいなら」、「あらゆる地獄の苦 しみをなめても」非本来的な「自己自身であろうと欲する」(P133) 「世間ではめったに見られない、そういう人物は、詩人たちの作品にのみ登場する」(P136) 「悪魔的な絶望は、絶望して自己自身であろうと欲する、という絶望のうちでもっともそ の度を強めた形態のものである」(P138) 「人世を憎悪しつつ自己自身であろうと欲する」(同) ☆悩んでいる自分自身に安心しようとする。
406 :
1 :2011/01/16(日) 19:27:34 0
2 冒頭部分を理解しながらゆっくり読む(その1)
ちくま学芸文庫での訳注をもとにまとめてみました。
カッコつき数字は「冒頭部分を原文とあわせてゆっくり読む」(
>>395-398 )中の数字に対
応しています。
(1)では、人間の本質を精神であるととらえます。人間は本来は精神であるべきだとい
うキルケゴールの規定と考えられます。
(2)では、精神が自己である、というのですから、本来的な(本来あるべきであるよう
な)自己と非本来的な自己があると考えます。
(3)はer det以下を「関係がそれ自身に関係するという、その動き、あるいは、はたら
きそのもの」(P264)とされ、それゆえ(4)といわれるのだとしています。そのと
き「その関係項の相互関係の仕方のそれ自身に対する関係の仕方に応じて関係そのも
のにいろいろな不均衡な状態が生じうるような、動的なはたらきとしての関係、これ
が「自己」である」(同)としています。
(5)、(6)、(7)についての説明はありません。
この説明で理解した(つもり)ですが、疑問がでてきました。
なぜ1C病(絶望)の諸形態では1CAで有限性−無限性、可能性−必然性と1CB時間的−永遠
なものと分かれているのだろうか?換言すれば、3つがなぜ並列されずに、意識の反省の
有無で分けられ、時間的なものと永遠なものが1CAで検討されなかったのだろうか?
407 :
1 :2011/01/16(日) 19:28:28 0
2 冒頭部分を理解しながらゆっくり読む(その2) (その1)への自分なりの回答 「自己とは、(α)ひとつの関係、(β)その関係それ自身に関係する関係である。ある いは、(γ)その関係において、その関係がそれ自身に関係するということ、そのことで ある」(P27、括弧付き数字は引用者)これは続く文章である「人間は(α)無限性と有 限性との、(β)時間的なものと永遠なものとの、(γ)自由と必然との綜合、要するに、 一つの綜合である」にそれぞれ対応していると(3)を読めないだろうか。 (α)霊性と肉性の関係 (β)霊と肉とが綜合の2つの契機であり、その第三者である精神が霊性と肉性に関係す ることででてくる時間的なものと永遠なものの関係 (γ)(β)の時間的なものと永遠なものの関係ででてくる瞬間においてでてくる自由( 可能性)と必然(性)の関係 3つの綜合が重層的に関係している、とみることはできないか、と考えたのです。 というのも、「人間は霊と肉との綜合であった、ところでそれは同時に時間的なるものと 永遠的なるものとの綜合なのである」「第一の場合(霊と肉との綜合 引用者注)には、 霊と肉とが綜合の2つの契機であり、精神が第三者であった」「もうひとつの綜合(時間 的なるものと永遠的なるものとの綜合 引用者注)は、時間的なるものと永遠的なるもの という二つの契機だけしか持っていない」(『不安の概念』P148)そして、第三者は瞬間 とされます。ここで、「時間的なるものと永遠的なるものとの綜合は第2の綜合なのでは ない、それは、人間が霊と肉との、精神によって担われている綜合であるというかの第1 の総合の表現なのである。精神が措定されるや否や、瞬間はそこにある。」(同P155)と 独立した綜合ではないと考えられています。そして、「人格というものは、可能性と必然 性との綜合である」(『死にいたる病』P77) とあります。 ところで岩波文庫版では「人格」ではなく、「人間」(『岩波』P65) と訳されています。 「人間」と訳すとこの3つの綜合が並列的に人間にかかわることになりますから僕の解釈 はとれません。デンマーク語原本は確認できませんでしたので、ここでは「人格」と考え ることにします。
408 :
1 :2011/01/16(日) 19:29:29 0
2 冒頭部分を理解しながらゆっくり読む(その3) 話は戻って、ここで、1CAに時間的なものと永遠なものが抜けている理由を考えてみると、 精神が措定されたところで出てくる瞬間において精神、自己意識がはたらくと考えてみる。 すると、1CAでは意識されていないのだから入らない。可能性と必然が入ってくるのは (β)の関係を受けない、つまり自己意識がはたらいていない場合を検討しているのだか ら。 しかし、この考えにはいくつか欠陥、煮詰めきれていない点があります。 1 精神、自己意識が時間的なものと永遠なものの綜合である瞬間になぜ関係してくるの かをキルケゴールの記述全体の中から十分検討していない。 2 第2編でも同様の考えをとって説明ができるかをまとめきれていない。 3 そもそもこの考え方は、無関係な2つ(人間に関する規定と綜合の契機)を強引に結 びつけただけなのではないか。 読み終わるまでに、もうちょっと考えてみよう。
409 :
1 :2011/01/18(火) 00:40:48 0
第2編 絶望は罪である A 絶望は罪である 【罪の定義1】 「罪とは、神の前で、あるいは神の観念をいだきながら、絶望して自己自身であろうと欲 しないこと、もしくは、絶望して自己自身であろうと欲することである。」(P143) 【宗教的なものの方向を目指す詩人】 「絶望のうちにあって宗教的なものへの燃えるような渇望をいだいている」(P146) 2A1 自己意識の諸段階(神の前に、という規定) 【自己意識の段階の規定】 第1編 人間をを尺度とする自己 第2編 神を尺度とする自己 【罪と神】 「異教界の罪は、神についての、神の前にあることについての、絶望的な無知である。」(P150) 【罪の定義2】 「罪とは、神の前で絶望して自己自身であろうと欲しないこと、あるいは、神の前で絶望 して自己自身であろうと欲すること、である。」(P151) 【信仰の定義】 「自己が、自己自身であり、また自己自身であろうと欲するに当たって、神のうちに透明 に基礎をおいている」(P153) P30L5にほぼそのままの文章があり、訳注26を読むと「自己を措定した力のうちに」は第3 の草稿では「神のうちに」とあったということですから同じと考えていいのでしょう。 そして、直前に「絶望がまったく根こそぎにされた場合の自己の状態を表わす定式」とあ りますから、信仰において人は絶望から解放されるということです。 罪は神の前で絶望の中にいて生きている状態であり、信仰は神の中に自己自身である、あ るいは自己自身であろうと基礎をおき生きている状態であるから「罪の反対は信仰なので ある」(P153)といいます。
410 :
1 :2011/01/19(水) 21:03:27 0
2A1付論 罪の定義がつまずきの可能性を蔵しているということ、つまずきについての一 般的な注意 【つまずき】 思弁に対するキリスト教的なものの防壁。 「キリスト教が人間を、人間の頭では理解することができないような並はずれたものにし ようとしている」(P155)というキリスト教があまりに高いことから、人はキリスト教に つまずく。 【つまずきの可能性の所在】 「人間が、単独な人間として、現に神に面している、という実在性をもつべきであるとい うこと」(P154)にあり、そこから「人間の罪は神にかかわるべきである」(同)という ことが帰結する。 【人夫と帝王の話】 帝王の破格の申し出を信じられずにいる人夫がそれを受け入れるのには、「それをあえて 信ずるだけの謙虚な勇気」(P157)を人夫がもっている必要があるが、どれだけの人がそ の勇気をもっているだろうか。 この例え話をキリスト教でいうなら、「自然のままの人間の狭量さは、神が彼に与えよう と思われた並はずれたことを受け入れることができない、そこで、彼はつまずく」(P159)。
411 :
1 :2011/01/19(水) 21:06:37 0
2A2 罪のソクラテス的定義
【罪のソクラテス的定義】
「罪は無知である」(P162)
「正しいこと、善いことを知っている人は、これをおこなうはずである。正しいことをな
さず、善いことをおこなわないのは、正しいこと、善いことが何であるかを知らないから
である。つまり、不正をなし、不善をおこなうのは、無知のゆえである。だから、徳は知
であり、それを裏返しにいえば、無知は不徳、つまり罪である」(P311訳注156参照。
『ソクラテスの弁明』でいえば25Dからのメレートスとの対話。僕が読んで覚えている限り
では『メノン』96D〜岩波文庫P104〜で別のように語られている気がする。「人間が正し
い方向への導き手となるようなものの場合には、この2つ−−正しい思わくと知識が導く
のだ」(99A、岩波文庫P114)とあります。もっとも、徳がそもそも何かがわからないと
徳がどのように人間にそなわるかわからないといっていますから、確定的な話とはしてい
ないようにも読めます。また、『メノン』は中期とされていることから、ソクラテスープ
ラトン問題として別物と見ているのか、キルケゴールがどう判断したのかはわかりません。
また、必要条件と考えるということも当然できます。もちろん僕の誤読ということもあり
ます。)
しかし、「罪が無知であるならば、罪は実は現に存在しないことになる」(P165)
【罪のソクラテス的定義に欠けている規定】
意志、反抗つまり、「或ることを理解したということからそれを行なうということにいた
る移行に関する弁証法的規定」(P172)が欠けている。罪は意志のうちにあるのだから。
【理解と行為についての近世哲学の誤解】
観念の世界、ギリシア的立場、近世哲学は共通して理解が行為にそのまま移行する。
デカルトのコギト命題は考えることが存在することを証明するということであった。(
>>212 ,213,317参照)
そして、キリスト教は本来は「信じることが存在することである」(P173)といえるのに、
近世哲学はコギト命題をキリスト教にそのまま当てはめて考えている。
(続く)
412 :
1 :2011/01/19(水) 21:07:44 0
2A2 罪のソクラテス的定義(続き) 【理解と行為についてのキリスト教とソクラテスの違い】 ソクラテス 正しいことをおこなわない者は、それを理解してもいない。 キリスト教 正しいことをおこなわない者は、正しいことを理解しようと欲していない。 あるいは、正しいことを欲しない。 →「罪は意志のうちにあるのであって、認識のうちにあるのではない。そし てこの意志の堕落は、個人の意識を越えている」(P177) →個人の意識では理解できないから、つまずきによる神からの啓示が必要となる。 【罪の定義3】 「罪とは、神からの啓示によって、罪が何であるかが解き明かされたのちに、神の前に絶 望して自己自身であろうと欲しないこと、あるいは、絶望して自己自身であろうと欲する ことである。」(P178)
413 :
1 :2011/01/20(木) 21:01:08 0
2A3 罪は消極的なものではなくて、積極的なものであるということ
【正統派の教義学】
罪は積極的なものであると定義してきた。
【思弁的教義学】
罪を積極的なものであるという規定を概念的に把握できると考えている。
【既存の教義学への批判】
積極的なものは概念的に把握されることで消極化される。
罪を否定、悔い改めを否定の否定と考え、純粋思惟が罪の積極性を措定する媒体であると
すると、それはあまりに軽薄すぎる。
【罪の積極性の把握】
罪が積極的なものであることは、「信じられるほかない逆説」(P182)としてである。
「ソクラテスは無知の人であったのだ、そしてそれゆえに神はソクラテスを最大の知者と
認めた」(P184)(
>>85 ,86,87および『ソクラテスの弁明』(21A)参照)
「ソクラテス的な、神を畏れる無知こそ、無知によって信仰を思弁から守るものにほかな
らない」(P184)
【罪の積極性】
罪には、「神の観念によって無限にその度を強められた自己」と「ひとつの行為としての
罪についての最大限の意識」(P185)が必要であり、罪における積極的なものは「罪が神
の前にあるということ」(同)である。
414 :
1 :2011/01/21(金) 22:28:55 0
2Aの付論 しかしそれでは、罪は或る意味できわめて稀なことになりはしないか?(寓意)
【罪は稀である】
罪がユダヤ教とキリスト教のうちで絶望の度が強いものにしかなく、一段と質的に強まっ
た絶望なら、稀にしかないことになる。大抵の人間は弁証法的なものに無関心で、善(信
仰)から遠くかけ離れており、あまりにも無精神的なので罪とも絶望ともいえない。
【罪が稀である理由】
キリスト教界、牧師の堕落により、「たいていの人々の生活は、キリスト教的な見方から
すると、あまりにも精神を失っているので、厳密にキリスト教的な意味では、罪と呼ばれ
ることさえできない」(P193)。
【僕の理解】
絶望と同様に(P45,P46)真のキリスト者以外は、みな罪をおかしているとキルケゴールは
言いたかったと理解しています。その理由は、以下のとおり。
1 自己意識の度の上昇に応じて、次のように(上がもっとも高い)分析され、絶望もそ
の度を強めている。(
>>401 参照)
1CBbβ 「絶望して自己自身であろうと欲する絶望、反抗」
1CBbα2 「絶望して自己自身であろうと欲しない場合 永遠なものへの絶望」
1CBbα1 「絶望して自己自身であろうと欲しない場合 地上的なものへの絶望」
1CBa 「絶望して自己をもっていることを自覚していない場合(非本来的な絶望)」
で、ここまでは罪はまだ定義しかしてないわけですが、以後罪の度の強まりに応じてを罪
を分析していきます。
2BC キリスト教を肯定式的に廃棄し、それを虚偽であると説く罪 1CBbβが対応
2BB 罪の許しに対して絶望する罪(つまずき) 1CBbα2が対応
2BA 自己の罪について絶望する罪 1CBbα1が対応
ということは、絶望が意識されていない場合(1CBa)と同様、罪が自覚されていない、こ
の場合も「非本来的な罪」として考えている。
2 P187L17-P188L2からも罪を絶望での無精神性と同様に考えている。
3 この本は絶望についての2重構造(
>>390 )を説いた本であり、それを自己意識との
関係からみた第1編と神との関係から見た第2編からなっていること。
もちろん、「厳密にキリスト教的な意味では、罪と呼ばれることさえできない」(P193)
わけですが。
415 :
1 :2011/01/23(日) 10:15:48 0
2B 罪の継続 【罪の継続】 罪のうちにある状態では、その瞬間ごとに罪を増大し、新しい罪を重ねている。というの も、その状態では「それ自身のうちで罪の度を強めることになり、罪の状態にあることを 意識しながら罪の状態に踏みとどまるにいたる」(P201)ことで、「内面へ向かい、だん だんと意識の度を強めていく」(同)からである。 2BA 自己の罪について絶望する罪 【自己の罪について絶望する罪】 絶望から這い上がろうと上昇しているつもりでいるが、力尽き悪魔的に自己自身のうちに 閉じ籠り、悔い改めや恩寵を拒む。悔い改めなどを拒む、ということは、罪について絶望 することで自己自身に対するあらゆる関係を失ってしまう。
416 :
1 :2011/01/23(日) 21:05:08 0
2BB 罪の赦しに対して絶望する罪(つまずき) 【罪の赦しに対する絶望する罪】 「罪の赦しに対する絶望する罪は、」「つまずいて信じるだけの勇気のない」つまり非本 来的な「自己自身であろうとする」弱さの絶望か、つまずいて信じようとは欲しない」つ まり本来的な「自己自身であろうと欲しない」反抗の絶望かのいずれかに、還元されうる」(P210) 【深みのある人間】 罪の赦しを信じない者が、本来はつまずいているのに深みのある人間とされるようになっ てしまった。 【キリスト教界での「罪の赦しの扱い】 異教の世界ではそもそも罪の赦しに対して絶望する罪は神の観念が欠けているから存在し なかった。一方で、キリスト教的に見るならば「罪の赦しを信ずべきである」(P216) しかし、神=人の教説が「繰り返し説教されることによって」「神と人間とのあいだの質 的差異が汎神論的(略)に止揚されてしまった。」(P217) 【単独者と思弁哲学】 「人は単独な人間を思惟することができない、ただ人間という概念を思惟しうる」(P220) だけである。そして、罪も決して思惟されない。罪は概念からの離反とみられており、倫 理的なものは、「現実を抽象するのではなく、かえって現実のなかへ深く入り込み、本質 上、思弁によって見過ごされ軽蔑されている単独性という範疇の助けをかりて操作する」(P222) のである。 【単独者とキリスト教】 キリスト教は、罪の教説と単独者とともにはじまる。 「一切の抽象物は、神の前ではまったく存在しない、ただ単独の人間たち(罪人たち)の みが、キリストにおいて神の前に生きている」(P222,P223) 「神は現実そのものを、一切の単独者を、概念的に把握している」。「神にとっては、単 独者は概念以下にあるものではない」(P223) 罪の教説は、罪を負わず、罪を赦す点で神と人間との質的差異を示す。 【つまずき】 つまずきは人を単独者にし、単独の罪人として審判をおこなう。 罪の許しに対して絶望することは、絶望の度の強まったものである、「つまずき」である。
417 :
1 :2011/01/24(月) 21:37:47 0
2BC キリスト教を肯定式的に廃棄し、それを虚偽であると説く罪
「自己はここでもっとも絶望的にその度を強められている」(P230)。
「キリスト教を肯定式的に廃棄し、それを虚偽であると説く罪はつまずきの積極的形態」
(P231)である。
「つまずきの可能性はあらゆるキリスト教的なものにおける弁証法的契機」(P231)である。
【つまずきの形態1 もっとも低い形態】
「キリストに関するすべての問題を未決定のままにしておいて、わたしはその問題につい
てはあえて何とも判断をくださない、わたしは信仰もしないが、判断をくだすこともしな
い、と判断する」(P239)。
【つまずきの形態2 否定的で、受動的な形態】
「キリストを無視することのできないことを感じており、キリストに関することを打ち棄
てておいてその他の生活にせわしなく立ち働くということができない。しかしまた、信仰
することもできず、ただ同じ一点を、逆説を、いつまでもじっと見つめている」(P241,P242)。
【つまずきの形態3 積極的な形態】
「キリスト教を虚偽であり嘘であると説き、キリストを(略)仮現説の立場からか、ある
いは、合理主義の立場からか、そのいずれかから否認する」(P242)。
キリスト教的に、罪と信仰を対立させて考えないため、このつまずきは見逃されている。
【信仰の定義】
罪と信仰の対立は、P30(
>>392 )、P153(
>>409 )でみたように「絶望のまったく存在し
ない状態を表わす公式」でもある、信仰の定義として「自己自身に関係し、また自己自身
であろうと欲するに際して、自己を置いた力のうちに透明に自己を基づける」と説いてき
たのである。」(P243)
418 :
1 :2011/01/25(火) 22:17:10 0
2 冒頭部分を理解しながらゆっくり読む(その4)
>>414 の【僕の理解】の話をもう少し敷衍して、
>>407 、
>>408 でみた(
>>395-398 の冒頭部
分の文章(3)の(α)、(β)、(γ)の)対応が絶望の諸類型と対応していることが、
同様に罪の諸類型と対応しているか、言い換えれば
>>408 の煮詰めきれていない)点2の
確認をここでしてみようと思います。
罪の諸類型 − 冒頭部分 − 絶望の諸類型
2Aの付論 − (α)有限性と無限性 − 1CBa 自分が絶望であることを知らないでいる絶望
2BA 自己の罪について絶望する罪 − (β)時間的なものと永遠なもの − 1CBbα1 地上的なものについての絶望
2BB 罪の赦しに対して絶望する罪(つまずき) − (β)時間的なものと永遠なもの − 1CBbα2 永遠なものに対する絶望
2BC キリスト教を肯定式的に廃棄し、それを虚偽であると説く罪 − (γ)可能性と必然性 − 1CBbβ 絶望して、自己自身であろうと欲する絶望、反抗
【つまずきの形態1 もっとも低い形態】 ?
【つまずきの形態2 否定的で、受動的な形態】 【行動的な自己である場合】
【つまずきの形態3 積極的な形態】 【受動的な自己である場合−悪魔的絶望】
つまずきの形態1だけ対応するものがありませんでしたが、対応しました。
しかも、自己意識の度に応じているのですから当然ですが、順序も「についての」「に対
する」の言葉の対応(P115)も、絶望と罪では弱さと反抗が反対になること(P210)も対
応しています。
内容としても、2BAは(β)の精神、自己意識のから見られた自己についての有限性寄りの
地上的なもの・自己(この場合、消極的な第三者的なものでしょう)についての自己意識、
2BBは無限性寄りの永遠なもの・自己(神との関係が2BAよりも強く、積極的な第三者的な
ものでしょう)についての自己意識、2BCはつまずき、自己の可能性と必然性の中での人
格としてみることができそうです。
419 :
1 :2011/01/25(火) 22:19:10 0
こうしてみると、
>>408 は1を除いて(1はキルケゴールのほかの著作をもう少し読む必
要がありそうです)はよさそうです。
さて、
>>395 からながながと冒頭部分を見てきました。これが正しい読み方と
いうつもりは毛頭ありません。
>>388 の本のほかにはあわてて『不安の概念』を読んだく
らいですから、おもしろい考えだ、くらいに思ってもらえれば幸いです。
420 :
考える名無しさん :2011/01/26(水) 21:06:14 0
お前ら、まず吉村昭の『蚤と爆弾』に対して反論してみろ
421 :
1 :2011/01/26(水) 21:34:10 0
ようやく、『死にいたる病』を読み終わりました。
ここで、
>>48 で書いていた「哲学者が論理・倫理と行動をどうつなげていったのかを確認
していく作業」を少ししておこうと思います。基本的にこのスレで読んだ本、内容の整理
ですが、漏らしていたところもあるので、補ってあります。
【1−神についての考え、2−行動の原則、3−行動するときの根源となるもの で比較】
ソクラテス 『クリトン』、『ソクラテスの弁明』
1 神託に従って行動し、生活も神を敬う。知性の及ぶ限りでは知性を、及ばないところ
は神に従う。(
>>85 ,87)
2 正しいことを行なう。(
>>85 )
3 知+思いなし(『メノン』)
デカルト 『方法序説』、『情念論』
1 神の存在証明を行う理性の論理的先行(
>>219 ,
>>220 ,
>>221 ,
>>228 )
2 理性によって最善と判断したことを自由意志を善く用いて行なう。意志をけっして
捨てまい、という確固不変の決意を、自分自身のうちに感得すること。(
>>235 )
3 高邁な心(
>>235 )
422 :
1 :2011/01/26(水) 21:34:54 0
(続き)
【1−神についての考え、2−行動の原則、3−行動するときの根源となるもの で比較】
カント 『実践理性批判』、『プロレゴメナ』
1 神の現存の要請は道徳性、独立自存する最高善の現存から生じる。(
>>367 ,
>>368 >>333 ,
>>336 ,
>>339 )
2 意志の自律が、一切の道徳的法則と、これらの法則に相応する義務との唯一の原理で
ある。(
>>353 )
3 定言的命法 君の意志の格率が、いつでも同時に普遍的立法の原理として妥当するよ
うに行為せよ。(
>>352 )
キルケゴール『死にいたる病』
1 人間のすべての前提
2 正しいことをおこなわない者は、正しいことを理解しようと欲していない、あるいは、
正しいことを欲しないのであって、罪は意志のうちにあり、この意志の堕落は、個人
の意識を越えているため個人の意識では理解できないから、つまずきによる神からの
啓示が必要となる。(
>>412 )
3 信仰
423 :
考える名無しさん :2011/01/27(木) 19:07:46 0
スレタイはいいが、個人的な雑記メモで乗っ取るなよ。 キルケゴールについての知見を得たなら、キルケゴールのスレに書けばいいじゃないか。
いや、ここはここでいいんじゃないですか。 哲板ではめずらしく真面目に哲学をしている良心的なスレです。
425 :
考える名無しさん :2011/01/27(木) 21:33:12 0
良心的なスレでも何でもなく ただのノートだろ。 これでは他の人が使えないのが明らかだし、 仮にだよ、他の人もこの1と同じ使い方をしたらどうなる?ぐっちゃぐちゃになるぞ。
だったらあなたが1さんに議論を振ればいいじゃないですか。 私は今のままの方がスレ進行のために良いと思いますけど。
俺もそう思う。
428 :
考える名無しさん :2011/01/27(木) 21:58:29 0
>>425 自分には合わないというなら、こなきゃいいだけじゃん。くるもこないも自由だよ。
とはいえ、入っていきにくいのは確か。
参加者同士の対話形式のほうがいいかも。
読書会はここでは困難。
429 :
考える名無しさん :2011/01/27(木) 22:37:03 0
>>426 あれ、そこは
「だったらあなたも1さんと同じ使い方をすればいいじゃないですか」
とは言わないんですか?なぜ?
それと、議論振ってそれはそれで会話が成立しても
このままこの使い方が続けばぐっちゃぐちゃ状態は変わらないじゃないですか。
どんな会話も成り立ちませんよ。
>>428 >くるもこないも自由だよ。
「俺が独断で選んで月に何冊も読んでる読書メモ」
というスレタイならハナから相手しないが、スレタイが詐欺的だから文句言われる責任はあると思うよ。
スレタイ変えろと言いたいところを、そんな機能はないので使い方を変えろと言ったんだ。おかしい?
>>429 だから、キルケゴールの「倫理」の観念について1さんになにか意見してくださいよ。
私は見てますから。
431 :
考える名無しさん :2011/01/27(木) 22:45:25 0
>>430 なんで?俺キルケゴールの倫理の観念について興味ないわ。
だって「月に1冊哲学の本を読む」スレだろ?
1の読書に付き合うスタンスじゃないと参加できないの?
432 :
考える名無しさん :2011/01/27(木) 22:47:30 0
キルケゴール特定のコアな話なら、 キルケゴールのスレに行くべきじゃないかな。
433 :
1 :2011/01/27(木) 22:56:29 0
>>423 ,425さん
書き難かったであろう書き込みをしてくださってありがとうございます。
>>425 他の人が使えないのが明らか
と受け止められていたことは、とても残念なことだと思っています。
僕自身そう他の人に受け止められぬよう、と同時に
>>1 の予定のとおり本を読んでいきたい、
というもしかしたら矛盾することを願いつつ、
>>132 に書いたとおりの気持ちでやっていま
す。改めて書くならば、僕は、ほかの人が書くことを妨げる(スレに関係のない話を延々
と続けることはお断りしますが)つもりはまったくありませんし、したことはないつもり
です。
>>423 ,425さんは、スレタイが問題ないとすれば、どのようにすればいいと思いますか?
僕としては、3月まで1冊ずつ本を読んでまとめや考えたことを書いていければ構いませんよ。
>>425 仮にだよ、他の人もこの1と同じ使い方をしたらどうなる?ぐっちゃぐちゃになるぞ。
もしも他の人が、それも多くの人が、同じ使い方ができたら、考えましょう。
月毎に該当するスレにやっていることを告知するのは、僕はあまり好きなことではありま
せんし、該当スレでも楽しく会話しているところに、読書スレの内容を書かれても困るで
しょう。
少し前から4月以降のことを考えていて、過去の読書スレを少し検索していたら、ハイデ
ガースレ(しかも読書スレ)が重複していて特に混乱もしていませんでした。
ハイデッガー『存在と時間』を読みたい!
http://f61.aaa.livedoor.jp/~sslogbbs/2ch.philo.1069.1069588670.htm 今の段階では、ぐちゃぐちゃになるということは杞憂でしょう。
今月末に、29日に推敲してからアップしようと思っていたので読みにくいのはお許しくだ
さい、書こうと思っていたことを後で書いておきますね。
もしよろしければ、
>>425 さんもご参加ください。
>>429 は423,425と同じ人なのかな?
進め方について議論することは一向にかまわないのですが、誰にどうコメントしていいや
らわからないので、初書きこみ以降はスレ番号コテハンかトリップをつけてくれますか?
ここで1さんは連綿とレスをし続け、アンカーによってスレ全体をつなげて発展させてきたのですよ。 あなたがたはそれを意図的に壊そうとしているように見えますが。 すくなくともこのスレには二人のギャラリーがいるのです。 そっとしておいてくれませんか。
435 :
1 :2011/01/27(木) 22:57:30 0
【提案】2011年4月以降のこのスレについて さて、半年の予定のほぼ3分の2が終わりました。書き込みのレベルは別として、なんと か3月までいけそうな気がしてきています。そこで、3月の『論理哲学論考』が終わって からのことを考えています。 僕は、年度末ということもあり3月下旬から4月上旬はあまり書き込みできないと思いま す。また、4月以降をどうしようかと考えてはいるのですが、決めかねているところです。 そこで、少し気が早いのですが、どなたかこのスレの続き(月に1冊とかスレ主のまとめ 方を真似る必要はありません)を4月から、もしくは3月からでも、してみようという方 はいませんか? また、やってみようという方用に、僭越ながら読書スレをしていて気づいたことをまとめ てみました。 やってみようか、と考えた方がいたら書き込みをお願いします。
436 :
1 :2011/01/27(木) 22:58:11 0
読書スレを続けるためのメモ 1 ほとんど僕個人のチラシの裏状態のスレで偉そうに語るのもなんですが、なんとか3月ま で続けられそうですし、前の書き込みを読んでどなたかがやってみようと思ったときの参 考に、と思って書いてみます。 【心構え】 1 自己評価を正確に行う 難しいことですし、ある場面では背伸びをして目標を設定することで自分が向上する面 は否定しません。しかし、過大な目標を設定し失敗して嫌な思いを残すよりは、過少とも 思える目標を設定し余裕があれば関連することに手を出すほうがよいと思います。 【目的】 2 目的を明確にする 読み通すことが目的、というのも一つですが、卒論のためでも、他人に自慢したいでも いいと思いますが、○○を考えたい、というほうが続けやすいのは誰もが納得することと 思います。 【本の選定】 3 最初は短いものから始めて、自分なりのペースをつかむ 今回は時代順でもありますが、分量的に『クリトン』から『死にいたる病』まではおお よそ少から多にしてあります。最初に『国家』をしていたらペース配分をつかめず、きっ と挫折していたでしょう。 4 注釈や解説、Web資料の多いものを選ぶ 僕の選んだ6冊、6人はどれも超がつくほどの有名な本、人で解説書が図書館にもあり ます。哲学を専攻している人は別として、仕事や本業をもってするには解説書や資料がな いと途中でわからないときに読み進めるのがしんどくなります。 【計画】 5 おおよそでも計画を立てる ある程度先のこと(試験や業務の繁忙期)を見越して、忙しくなる前に先読みするなど、 作業スケジュールを立てたほうがいいです。
437 :
1 :2011/01/27(木) 22:59:38 0
読書スレを続けるためのメモ 2
【すすめ方】
6 事前準備を十分しておく
1月でいえば1月上旬−『死に至る病』原稿推敲、1月中旬−『論理哲学論考』の下読
み、資料収集、1月下旬−『道徳の系譜』原稿下書き、といったスケジュールです。もち
ろん厳密にこのとおりできたはずもなく、『死にいたる病』の原稿推敲は書きこむ直前ま
でしていましたし、時には直前に大幅な加筆修正をしたものもありますが。初めて読んで
その日にまとめるというのは、正直なところ、不可能だと思います。そして、体調が悪かっ
たり、残業があったり、とリズムが狂うことが必ずあります。そのときに下書きとはいえ
予定原稿があるとリズムを取り戻しやすくなります。僕の場合、下旬に行なう下書きは
『実践理性批判』の書き込み(
>>347-371 )レベルです。
7 わからない部分はとばす、わからないことを明確にしておく
下書きの段階でわからなくてもどんどん書いておき、推敲のときに見直すくらいにして
おかないと、そこで止まってしまいます。僕は、印をつけておいたわからない箇所の下書
きを元に、時間があるときに図書館で調べました。
8 時間を限る
デカルトへの批判をまとめるとき(
>>208 ,2337)に感じたことですが、無限に時間はあ
りません。内容的に詰め切れないと思ったら、早めにそのプランは放棄すべきです。その
点で1月という時間的な制限をつけておいてよかったと思います。
【反省】
9 計画と実施状況を振り返る
短い区切りで、作業の進捗や書きこむ内容を見返し、まとめる方法を変えることも必要
です。このときに、目的や計画がないと適切な反省ができず、見直す際に迷走します。
【止める】
10 うまく止めるのも能力
計画がうまくいかず、見直しを重ねるほど泥沼に入ってしまうこともあるとは思います
が、無理をして引っ張っていくと、みんなも困ります。
「ハイデッガー『存在と時間』を読みたい!」スレ(
http://f61.aaa.livedoor.jp/~sslogbbs/2ch.philo.1069.1069588670.htm )
のbeingさんは、きっと休むことを書くのは辛いところだったでしょうが、区切りのよい
ところで、きちんと
>>363 で休むことを書き、参考になる休み方だと思います。
ある意味、尊敬するスレ主さんです。
結論から言えば、まあ私物化してもいいんじゃないか、と。
>>1 さんのこれまでにやってきたことは、ちゃんとつきあって全部読んできたわけじゃ
ない点、申し訳ないですが、とても誠実なスタンスで個人的には好感が持てました。
私にしては珍しく、楽しみにしながら、ちらちら覗いていました。
そもそも、表立って議論することが全てではないと思っています。
2ch で議論することの難しさは、みなさん、よくご存知でしょう?
しかも、
>>1 さんは、議論そのものを拒否しているのではありません。
まったりと、ゆっくりと、今回のような会話も交えつつ大切にしていければと、傍観
者ながら願っています。
439 :
1 :2011/01/27(木) 23:12:59 0
>>佃煮マニアさん 僕自身がこの書き込みでいいのかな、スレを私物化していないかな、 と思いながらいつも書き込んでいたので、 いろいろとフォローしてくださっていて、ありがとうございます。 いま、ニーチェ関連の本どを読んだりして、「おぉ、俺と同じことを考えている!」(x_x) ☆\(^^;) んなわけない と喜んでいるので、多少騒々しくても大丈夫ですよ。 >>文学の良心? ◆abXfJskHU2 さん >>まったりと、ゆっくりと、今回のような会話も交えつつ大切にしていければ そうですね。僕自身がスレタイに入れていたのに、忘れていました。 思い出させてくれてありがとうございます。
440 :
1 :2011/01/29(土) 21:50:01 0
『方法序説』の題名(
>>149 )に象徴されるように、「近世哲学は理性を重視している」と
理解されていると思うのです。キルケゴールは近世哲学に対して、意志、反抗つまり、
「或ることを理解したということからそれを行なうということにいたる移行に関する弁証
法的規定」(P172)が欠けていると批判します。それを違う、というつもりはないのです
が、「意志」について、こうして(
>>422 , 423)振り返ってみると、『情念論』や『実践
理性批判』などで、意志は考えられていなかったのか?と僕は感じています。理性という
本流の伏流として意志は考えられていたんじゃぁないだろうか。
ただ、『ニーチェ事典』には、「ライプニッツ、シェリング、ショーペンハウアーなどの
意志の形而上学の伝統」があり、ニーチェの「力への意志」の思想的な起源の一つであっ
たとあります。僕の読み方は、どうも一般的なものではなさそうです。
『死に至る病』の冒頭部分を思い返して理性と意志について考えてみます。
無限と有限、時間的なものと永遠なもの、可能性と必然性の諸関係の綜合として人間をと
らえます。
「現実性が可能性と必然性との統一」(P71)とされるということは、可能性としてなし
うる理想(を求めていく意志)と必然性としての自己の限界(をとらえる理性)を綜合す
るのが、その諸契機としてのつまずきであると読めます(少しカントの「U 悟性概念の
先験的表 4様態」(
>>278 )に引きずられた理解かもしれませんが)。つまずきをみる
と、理性により否認することが最も重い罪(2BC キリスト教を肯定式的に廃棄し、それを
虚偽であると説く罪)であり、最も重い絶望(1CBbβ 絶望して自己自身であろうと欲す
る絶望、反抗)を招き、意志がその能力を発揮しないことで、人はつまずく。その解消を
神への信仰という飛躍によっておこなう。理性と意志との弁証法的関係を考えるときにそ
の契機としてのつまずきの問題をどう解くかで、キルケゴールは神に飛躍した。
>>384 で
書いていたことの補足のようになりますが、飛躍したということは着地点があるのは当然
として、跳躍した点もあるはずで、キルケゴールの場合は理性と意志から跳躍した結果が
神、信仰だったという読み方もできるのかな、と考えています。
元へなちょこ美学徒です。 大学を卒業して数年経ちますが、最近新約聖書を読み始め、 また「勉強」を始めたいなあと思っていたところこのスレを知りました。 聖書関連の本を数冊読んでから「道徳の系譜」を読もうと思っていたので、 渡りに舟という感じです。 楽しみにしています。
442 :
1 :2011/01/30(日) 22:08:05 0
「わたしがもっと別の人間だったらよかったのに!でももう望みはない。わたしはいまあ
るわたしでしかない。このわたしからどうすれば逃れることができるだろうか。ともかく、
わたしは自分にうんざりする!」
「自分が別の人間になれて、新しい自己を新調できたらどうだろう。」
『死にいたる病』(P102)からの引用に続けて、来月読む予定の『道徳の系譜学』(光文
社古典新訳文庫P243)の引用をしてみました。
「司牧者はルサンチマンの」方向を変える者」である」
「まずキリスト教が出てきて、人間の悟性ではけっして概念的に把握できないほどしっか
りと罪を積極的なものとして措定する。それから、その同じキリスト教が、人間の悟性で
はけっして概念的に把握できないような仕方で、この積極的なものを取り除くことを引き
受けるのである。」
同様に、『道徳の系譜学』(P253)と『死にいたる病』(P185)からの引用です。
キリスト教の教化のために書かれた本と『神は死んだ』と書いた著者の本が同じような人
間、(キリスト教)社会を描いています。
ところで、ニーチェは「G.ブランデス宛の手紙に次のドイツ旅行に出る時にはキルケゴー
ルにおける心理学的問題と取り組んでみるつもりだと記している。だがそれについての言
及は残念ながらない」(『ニーチェ事典』「キルケゴール」の項)とあり、「キェルケゴー
ルの思想を解説・批評した二次資料のいくつかをニーチェが読んでいた」(Wikipediaのニー
チェの項目
http://ja.wikipedia.org/wiki/フリードリヒ ・ニーチェ#cite_note-12)と
いうことです。
2月は、ニーチェ(1844年-1900年)の『道徳の系譜』(1887年)をこれまでの読み方と
変えて読もうと思っています。
443 :
1 :2011/01/30(日) 22:10:11 0
>>441 さん
書き込み、ありがとうございます。(^○^)/
昨年の11月以降は、仕事や学校があっても1日で読めるくらいの本文の量ごとに分けて内
容の要約をしていたのですが、2月は進め方を変えていこうと思っています。そのため、ペー
スメーカー的にこのスレを使うのには難しいとは思いますが、読むときに参考になるような
書き込みをするように心がけていきますね。
恥ずかしながら、僕は新約聖書ほか聖書関連の本をこれまで全然読んでいないのです。
キリスト教についてはまったく知識がありませんから、いろいろと教えてください。
444 :
1 :2011/01/30(日) 22:17:25 0
>>442 × 『死にいたる病』(P102)からの引用に続けて、来月読む予定の『道徳の系譜学』(光文社古典新訳文庫P243)の引用をしてみました。
○ 来月読む予定の『道徳の系譜学』(光文社古典新訳文庫P243)からの引用に続けて、 『死にいたる病』(P102)の引用をしてみました。
>>1 頑張って
応援してるよ
私は大学でカードを作るように習った
お勧め
オシムの言葉読んでみようかな
447 :
1 :2011/02/01(火) 21:12:30 0
2011年2月の本 ニーチェ『道徳の系譜』 【人物】 フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ(1844年10月15日 - 1900年8月25日) プロイセンのライプツィヒの西南リュッツェン近郊のレッケンの牧師カール・ルートヴィ ヒと母フランツィスカの長男として生まれる。両親ともプロテスタントの牧師の家の出身 だった。妹にエリーザベト(1846年生)、弟にルートヴィヒ・ヨーゼフ(1848年生)。 1849年に父、1850年には弟が死亡。 1864年にボン大学神学部に入学したが、古典文献学を学び始め、古典文献学の権威フリー ドリヒ・リッチュルに師事する。1865年にリッチュルがボン大学からライプツィヒ大学へ 移ったため、自分もライプツィヒ大学へ転学する。1865年にはショーペンハウアーの『意 志と表象としての世界』を読み感銘をうける。1868年にはリヒャルト・ヴァーグナーと初 めて会い、1869年リッチュルらの推薦によりバーゼル大学から古典文献学の員外教授とし て招聘される。1879年に激しい頭痛を伴う病によって体調を崩し大学を辞職したが、大学 からは終生にわたり年金を受けることとなる。辞職後は著述をおこなうが、1889年にトリ ノで昏倒。オーバーベックとバーゼルに戻るが、回復の見込みなしと診断される。 主要刊行物 第1期 1872年 『音楽の精神からの悲劇の誕生』刊行(再版以降は『悲劇の誕生』と改題) 1873年〜1876年 『反時代的考察』刊行 第2期 1878年 『人間的な、あまりにも人間的な』刊行 1881年 『曙光』刊行 1882年 ルー・ザロメと出会う。『悦ばしき智恵』刊行 第3期 1883年〜1885年 『ツァラトゥストラはこう語った』刊行 1886年 『善悪の彼岸』刊行 1887年 『悦ばしき智恵』増補版、『道徳の系譜』刊行 1888年 『アンチクリスト』(昏倒時、刊行を出版社に指示)、『この人を見よ』(昏倒時、校正中) 1889年 『偶像の黄昏』刊行
448 :
1 :2011/02/01(火) 21:13:27 0
2011年2月の本 ニーチェ『道徳の系譜』(続き) 【内容】 「本論の主題を手際よくまとめたものとしてしばしば引かれるものに、『この人をみよ』 での『系譜』に触れた箇所がある。第一論文「<善と悪 Gut u. Bose(oはウムラウト 引用者注)>・<良いと悪い Gut u. Schlecht>」は「キリスト教の心理学」、第二論 文「<罪>・<良心の呵責>・その類」は「良心の心理学」、そして第三論文「禁欲主義 的理想は何を意味するか」は「僧侶の心理学」である−−簡潔で要領を得たニーチェ自身 の整理として、これに過ぎるものはないが、しかし『道徳の系譜』という書は、この整理 に従って読めばすむ程度に出来上がってはいない。」(『ニーチェ事典』『道徳の系譜』 の項) 【感想】 「哲学にアフォリズムと詩という2つの表現手段を組みこん」(『ニーチェ』ドゥルーズ 著)だニーチェの思想が『ツァラトゥストラはこう語った』、『善悪の彼岸』、『道徳の 系譜』と深化・展開していく一連の書の1冊であり、ニーチェにしては珍しく論文形式な ので、読みやすく、わかりやすい。しかし、本当にそうなのか? 「実存主義の祖」、「生の哲学」、「現代思想の源泉」、「形而上学の完成者」…… さまざまに評価されるニーチェの思想の表面的な図式を理解していたのではなかったのだ ろうか。『道徳の系譜学』を出てくる人名や用語をみていき、それをもとに【内容】に肉 付けしていくという読み方を試みてみます。
449 :
1 :2011/02/01(火) 21:15:24 0
おおまかな流れとして、以下のとおり予定しています。
これまでと異なり頭から読んでいかず、人名や用語をピックアップして書いていきます。
カントに代表されるような論理で塔を築いていくというタイプでないニーチェの理解には
このまとめ方が適している(論文形式の『道徳の系譜』では頭から要約することもできま
すが)かな、と考えたことがこのスタイルにした第1の理由です。
第2の理由として、ほかの人が意見を書きやすくする方法を自分なりに考えていたことが
あります。書き方を変えるため、スプレッドシートに索引の対応表を作成し下書きを始め
ていたところ、ちょうど
>>425 ,428さんの書き込みがあり、書き方を変える必要性を確信
しました。多少かもしれませんが書き込みがしやすくなるのでは、と考えています。
現時点での予定ですので、変更することは十分にありますが、いつもと違う流れになるた
め展開がわからず読みにくいだろうと思いましたので、参考に予定を掲げておきます。
なお、△のついている人・事項は省略すると思います。
1 『光文社』、『ちくま』、『岩波』の比較
2 思想と用語、文体
3 人名索引の作成と各人について
(レー、イエス、スピノザ、△デューリング、ヴァーグナー、ショーペンハウアー、
カント、プラトン、△ルター)
4 事項索引の作成と各事項について
(<よい>と<わるい>、ルサンチマン、良心、意志、力への意志、禁欲主義的理想、△善)
5 人名索引と事項索引を用いて『道徳の系譜』を読む
(6 後世のニーチェ理解−余裕があれば)
450 :
1 :2011/02/01(火) 21:16:05 0
今の時点で僕が読んだ本や見たサイトを書いておきます(理解のほどは?です)。
サイトについてはさっと見ただけです。これからの書き込みを見ると、あぁ、あの本のこ
こだろうとわかると思いますが、本文の直接の引用でない場合は特に出典を示しません。
なお、引用のページは、光文社古典新訳文庫版によることとし、第1論文第8節をT.8と
表記します。
『道徳の系譜学』(ニーチェ著 中山元訳 光文社古典新訳文庫 以下『光文社』)
『善悪の彼岸 道徳の系譜 ニーチェ全集11』(ニーチェ著 信太正三訳 ちくま学芸文庫 以下『ちくま』)
『道徳の系譜』(ニーチェ著 木場深定訳 岩波文庫 以下『岩波』昭和45年第15刷なので現行より古い版です)
『キェルケゴールとニーチェ』(カール・レヴィット著 中川秀恭訳 未来社)
『ニーチェの哲学』(カール・レヴィット著 柴田治三郎訳 岩波書店)
『ニーチェ』(ジル・ドゥルーズ著 湯浅博雄訳 ちくま学芸文庫)
『知の教科書 ニーチェ 』(清水 真木著 講談社)
『ニーチェ事典』(弘文堂 以下『事典』)
『駆込み訴え』(太宰治著 青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/277_33098.html Friedrich Wilhelm Nietzsche Zur Genealogie der Moral(ドイツ語原文 読んでいませんが資料として)
http://gutenberg.spiegel.de/?id=5&xid=1948&kapitel=1#gb_found Three Minute Philosophy: Friedrich Nietzsche(ニーチェ理解にはなんの役にも立ちま
せんが、個人的にツボにはまったので)
http://www.youtube.com/watch?v=MFUlXPX_-_E
451 :
1 :2011/02/01(火) 21:16:57 0
>>445 応援ありがとう。
>>私は大学でカードを作るように習った
なるほど。
確かに読むだけではなく、仮にメモ程度でも何かにまとめると理解度が違いますよね。
>>446 そう思ったら読んだほうがいいですよ。
と、読みたい本リストがそろそろ1画面で見れない僕が言っても、
なんの説得力もありませんが……。
452 :
1 :2011/02/02(水) 21:45:33 0
ニーチェ『道徳の系譜』No.1
『光文社』、『岩波』、『ちくま』の比較
1 内容について
光文社古典新訳文庫版(2009年初版)で以前読んでいたので、今月のために岩波文庫版
(1964年初版)を読むと文体が古く読みにくいと思っていました。調べるなかで『ニーチェ
事典』(1995年初版)にさまざまな全集についての記事があり、元となるドイツ語の全集
のテキストとしては未来社のものが、訳・注としては理想社(ちくま学芸文庫の元となっ
たもの。生前刊行の著作はよいが、『権力への意志』をニーチェの著作とする扱いは現在
では適切でないとの指摘がありました)を紹介していました。また、『知の教科書 ニー
チェ 』(2003年刊)でも同様の記述がありました。
2 段落の区切り
太宰治に「駆込み訴え」という作品があります。青空文庫(
http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/277_33098.html )
でも読めます。ユダの訴えを書いたもので、わずか3段落からなります。タイトルからし
て「駆込み」なので息せき切って一気に訴えるところを表現するために1つの段落が長く
なった結果、少ない段落となったのだと思います。
これはわかりやすい例でしょうが、程度のいかんを別として、文体がその内容を表してい
る部分があると考えられます。そう考えると、
http://gutenberg.spiegel.de/?id=5&xid=1948&kapitel=1#gb_found でみるとおり、原文は多くの節が1段落からなります。一方、『光文社』では凡例にある
とおり「読みやすいように区切りのよいところで改行をいれて」います。確かに『ちくま』
は読みにくいのですが、原文は長い1段落で書かれているので、『光文社』を読む場合は、
それをわかった上で読む必要があります。
453 :
1 :2011/02/02(水) 21:46:15 0
ニーチェ『道徳の系譜』No.2 3 訳文 気になった箇所のうちいくつかを、論文・節番号、僕なりの判断、『光文社』、『ちくま』、 『岩波』の順に比べてみます。今回は原文との比較はできませんでした。 T.10 「一部」(『光文社』)ではなく「特有」(『ちくま』)「本性」(『岩波』)だろう。 「価値を設定するまなざしをこのように向け変えることも−自己に向けるのではなく、外 部に向けるというこの必然的な方向の転換−、かのルサンチマンの一部である」(P57L7) 「価値を定める眼差しのこの逆転−自己自身に立ち戻るのでなしに外へと向かうこの必然 的な方向−こそが、まさにルサンチマン特有のものである。」(P393L7) 「評価眼のこの逆倒−−自己自身へ帰るかわりに外へ向かうこの必然的な方向−−これこ そはまさしく<<反感>>の本性である」(P37L4) U.11 『ちくま』『岩波』はデューリングの主張が2通りに読める。 「デューリングは、侵害行為が行われた後になって正と不正が登場すると主張するのだが、 それは間違いだ」(P136L13) 「これは、デューリングの主張するように、侵害行為があってから生ずるのではない」(P450L13) 「デューリングの主張するように、侵害行為の後に初めて生じるのではない」(P87L11) V.11 「これ」は2つ(『光文社』『岩波』)? 3つ(『ちくま』)? 「これは生の一部として存在するものではなく、生そのものを支配しようとし、生のもっ とも深く、強く、奥底にある条件を支配しようとする力への意志と、飽くことなき本能が 抱くルサンチマンなのである」(P232L9) 「これは生のある部分をではなく生そのものを、生の最深かつ最強のもっとも基底的な諸 条件を制圧しようとする飽くなき本能と権力意志とルサンチマンである」(P518L1) 「生のある部分にではなく、むしろ生そのものの上に、生の最も深く、最も強く、最も基 礎的な諸条件の上に君臨しようとする一つの飽くことなき本能と権力意志の<<反感>>が支 配している」(P148L7)
454 :
1 :2011/02/02(水) 21:47:26 0
ニーチェ『道徳の系譜』No.3
4 Wille zur Macht(権力意志、力への意志)の訳語について
キルケゴールで見たように(
>>440 )理性の伏流として「意志」があるのではないだろうか、
という関心を持っています。そういう関心でこの本(Zur Genealogie der Moral)を読む
とするならば、「権力意志」(『ちくま』)と「力への意志」(『岩波』、『光文社』)
のニュアンスの違いが大きいように感じられました。
『ニーチェ事典』の権力の項を参考にまとめると、次のように言えます。
「権力意志」といった場合、権勢欲をみたすことを目指す意志だけと捉えられる。一面と
してそういった面があることは否定できないが、それだけがニーチェが考えていたもので
はない。
僕は、後ほど書き込む予定の『光文社』の事項索引を作成していくうちに、「力への意志」
のほうがしっくりきました。
5 結論
以上、3つの訳書を比べてみました。どれも一長一短といった印象です。
きっちりと読む人は索引の充実している『ちくま』、訳の堅さが気にならなければ『岩波』、
まず読んでみるなら『光文社』といったところでしょうか。
なお『ちくま』の解説のうち妹エリーザベトに関わる記述については注意をしたほうがよ
さそうです。妹エリーザベトによるニーチェの伝記の不正確さや全集の強引な編集、自分
に不利な記述の修正などが問題とされていたと『ニーチェ事典』にありました。
>>452 の「2段落の区切り」のようなデメリットはありますが、今回のまとめかたでは大
きなデメリットにはなりません。
そこで、僕は『光文社』で読み、『ちくま』で調べるという、読み方をしてみます。
455 :
考える名無しさん :2011/02/02(水) 21:56:32 0
どうやって時間つくってます? 日本の社会人でありながら、哲学・文学やるのって難しいですよね。 時間が少しはとれる職さがしたいと思ってます。 関係ないことでスレよごしてすみません。
456 :
1 :2011/02/03(木) 07:27:06 0
>>455 本を読む時間のことですから、スレ違いとは思いませんよ。けれども、
>時間が少しはとれる職さがしたいと思ってます。
は455さんのことを知らずにいうのは大変失礼かとは思いますが、
哲学・文学をするため、ではないですよね。
これはやめたほうがいいですよ。まずきちんと仕事をした上で哲学などをしましょう。
閑話休題。
人に言えるような時間の作り方はありませんが、
僕は朝早い時間に約2時間ですね。いわゆる朝活です。
試験勉強している人は結構多いですよ。
頭の一番良い状態を、仕事の前に使ってます。
あと、休日も6時起きでさっさと家事を済ませることくらいです。
457 :
1 :2011/02/04(金) 22:36:31 0
ニーチェ『道徳の系譜』No.4
思想と用語
>>452 ,453のように、訳語や文体について考えていくと、こんなことに思いいたります。
文中で用いる言葉、文中に挙げる人はその思想を特徴的に示すことはないだろうか。
何をいまさらアタリマエのことを、と思っていただけると勝手に想像して、話を進めて、
まず人名索引の人数を比較してみます。
なお、『光文社』には索引がないので、『ちくま』を参考に実在の人物を数えています。
比較にあげた本の人数はページをめくって数えたものもあるので、間違いがあるかもしれ
ません。
『道徳の系譜学』 66人 320ページ(『光文社』。『ちくま』は226ページ、『岩波』は202ページ)
『クリトン』 4人 40ページ(『岩波』では26ページ)
『方法序説』 1人 96ページ(アリストテレスのみ。『ちくま』も96ページ)
『プロレゴメナ』 21人 271ページ(岩波文庫)
『死にいたる病』 8人 231ページ(ちくま学芸文庫)
『論理哲学論考』 8人 141ページ(岩波文庫)
ちなみに
『純粋理性批判』 47人 837ページ(岩波文庫。上中下巻の合計)
『存在と時間』 64人 857ページ(ちくま学芸文庫。上下巻の合計)
1ページあたりの文字数も違うので単純に比較してはいけないのでしょうが、やはり『道
徳の系譜』は多い。そこで、取り上げられた人たちをまず見てみます。
458 :
1 :2011/02/04(金) 22:37:57 0
ニーチェ『道徳の系譜』No.5 参考資料 『死にいたる病』(ちくま学芸文庫)人名索引 アリストテレス 218 イエス(キリスト) 19,155,156,169,209,211,214,215,222,223,232,233,236,237,239,240,241,242,243 ウィギリウス・ハウフニエンシス 90 シェイクスピア 197,232,235 ソクラテス 82,84,112,162,163,164,165,166,167,170,171,172,173,175,176,183,184 フィヒテ 60 ユダ 161 ラザロ 19,20, (リチャードV世、プロメテウス、タンタロスはのぞく)
459 :
1 :2011/02/05(土) 10:18:33 0
ニーチェ『道徳の系譜』No.6
『光文社』 人名索引
>>457 で書いたように『光文社』は索引がなく、
>>449 のように人名をピックアップして書
いていく際に「これはほかではどう書いてあったっけ」というときに調べるのが大変です。
そこで、『ちくま』の人名索引を参考に光文社古典新訳文庫用に人名索引を作成しました。
なお、作成対象は、ツァラトゥストラ以外は実在の人物とし、関連が薄いと思われるもの
(ヨハネ舞踏病など)を除き、
>>457 の人数には入れていない訳者による補足(タキトゥス
など)を含めています。漏れ、間違い等がありましたら、教えてください。
なお、『光文社』以外をお持ちの方には不要かもしれないとも思いましたが、どんな人が
多く出ているかを概観することは読解の参考にもなるだろうと考え、書き込みました。
【あ行】
イエス 52,53,84,89
インノケンティウス3世 119
ヴァーグナー 186,187,188,189,190,191,192,195,197,198,278,319
エピクロス 203,268
【か行】
カルヴィン 122
カント 14,20,74,114,200,201,202,204,205,208,234,235,313,314
グヴィナー 277
ゲーテ 162,188,194,285
ゲーリンクス 272
コペルニクス 311(訳補筆),312
460 :
1 :2011/02/05(土) 10:19:16 0
ニーチェ『道徳の系譜』No.7 【さ行】 シェイクスピア 262,290 シャルル勇胆公 211 シャンカラ 266 ショーペンハウアー 18,19,195,197,198,199,200,202,203,204,205,206,207,208,218,219,277 スタンダール 201,204 スピノザ 20,116,151,153,208 スペンサー 38,143 セイヤー 277 ソクラテス 208 【た行】 ダーウィン 24 タキトゥス(訳補筆) 86 ダンテ 82 ツァラトゥストラ 26,182,183 ディオニュソス 25 テオグニス 42 デカルト 208 テーヌ 278 デューリング 133,134(訳補筆),136,137,246,316 テルトゥリアヌス 82,84 テレサ 265 ドイセン 266 ドゥーダン 314 トマス・アクィナス 82 トルストイ 316 【な行】 ナポレオン 90
461 :
1 :2011/02/05(土) 10:20:04 0
ニーチェ『道徳の系譜』No.8 【は行】 バイロン 277 パウロ 89,292(訳補筆) ハクスリー 143 パスカル 263 ハーフィズ 188 フィッシャー 151 フィルヒョー 43 フォイエルバッハ 192 仏陀 209,323, プラトン 20,32,208,273,276,306,309 ヘーゲル 206 ヘシオドス 67 ペトロ 89,292, ベートーヴェン 277 ヘラクレイトス 158,208,213 ペリクレス 66 ヘルヴェーク 198 ホメロス 65,67,80,122,176,194,309 【ま行】 マリア 89 ミッチェル 47 ミラボー 62 ムーア 277
462 :
1 :2011/02/05(土) 10:20:57 0
ニーチェ『道徳の系譜』No.9 【や行】 ヤンセン 278 ユダ 85 ヨハネ 87 【ら行】 ライプニッツ 208 ラーフラ 209 ラ・ロシュフコー 20 ランケ 279 ルイ11世 221 ルター 122,187,188,220,278,283,293 ルナン 317 レー 16,17,18,23,24
463 :
1 :2011/02/05(土) 20:19:23 0
ニーチェ『道徳の系譜』No.10 人名索引 集計 人名について作成した索引のうち、序と各論文での出現ページ数が4ページ以上のものを 以下のとおり、集計してみました。同一ページに複数でているものも1とカウントしてい ますので、該当者の正確な出現回数ではありません。訳補筆は除いています。 序でレー、第1論文でイエス、第2論文でスピノザ、デューリング、第3論文でヴァーグ ナー、カント、ゲーテ、ショーペンハウアー、プラトン、ルターが特徴的なでかたをして います。ホメロスは均等にでているといえます(ページ数あたりでみると、ホメロスは第 1論文に多く出ていることになりますが)。 序 T U V 計 イエス 0 4 0 0 4 ヴァーグナー 0 0 0 12 12 カント 2 1 1 10 14 ゲーテ 0 0 1 3 4 ショーペンハウアー 2 0 0 15 17 スピノザ 1 0 3 1 5 デューリング 0 0 3 2 5 プラトン 1 1 0 5 7 ホメロス 0 3 2 2 7 ルター 0 0 1 6 7 レー 5 0 0 0 5 (『光文社』では、序 9〜 27ページ、第1論文(T) 29〜 94ページ、第2論文(U) 95〜182ページ、第3論文(V) 183〜328ページとなっています。)
464 :
1 :2011/02/05(土) 20:47:32 0
466 :
1 :2011/02/06(日) 20:29:56 0
467 :
1 :2011/02/08(火) 00:37:17 0
ニーチェ『道徳の系譜』No.12
【イエス・キリスト】
第1論文で多くでてくる人は、イエスでした(
>>463 参照)。
【本文】
・イエスは救済者として現れたが、実は救済者という迂回路を通して、ユダヤ的な価値と
理想の革新へと導き、イスラエルは復讐を果たしたのではないか。(T.8 P52,53)
・人間が飼いならされたか、飼いならされることを望んでいる地域は地球のほぼ半分にお
よび、そこでイエスは崇拝されている。(T.16 P89)
【ニーチェ事典】
・ニーチェはキリスト教を批判攻撃していたが、キリスト教とイエス・キリストは分けて
考えようとしていた。
★まとめ
「神は死んだ」と言っているくらいだから、イエスは否定的にとらえられているのだろう
と思っていました。しかし、【本文】以外のイエスが出てくる箇所は事実を書いているだ
けですし、【本文】の箇所はイエスに否定的というよりは、イエスがそう機能していたと
言いたげです。
後でみますが、キリスト教については「キリスト教的なものに向かって悪化していく」
(T.12 P71L14)と批判的です。また、司牧者(司祭、僧侶)についても同様です。
『ニーチェ事典』を読むと、そのようなイエスの評価は『道徳の系譜』だけではないようです。
こう書いていると、先月のキルケゴールを思い出します。
>>416 また「人がキリスト教を弁護しようとしてつまずきを取り去ったのが、いかに限り
なく愚かなやり口であったか」「それは、愚かにもまた厚顔にも、キリスト自身の教訓を
無視したものである」(『死にいたる病』ちくま学芸文庫 P155)とキリスト教会を批判
し、真のキリスト・信仰の回復を目指していたキルケゴール。
ニーチェでもキリスト教、司牧者のしてきたことを見ていこうと思います。
468 :
1 :2011/02/08(火) 21:19:37 0
ニーチェ『道徳の系譜』No.13
【スピノザ】
第2論文では、スピノザとデューリングを見ていきます。(
>>463 参照)まずはスピノザから。
【本文】
・同情を低く評価している(序.5 P20)。
・結婚しなかった(V.7 P208)。
・善も悪も人間が想像したものだと言う(U.15 P152)。
・良心の呵責とは「歓喜の反対であり、期待に反する結果となった過去の思い出に伴う悲
哀である」(『エティカ』第3部定理18備考1,2)」(U.15 P152)であり、批判を受
けるような行動をしたことをすべきではなかったと考えるのではなく、受け入れるべき
宿命的なこととして考えている。
【ニーチェ事典】
・ニーチェはスピノザに強い関心と思想の親近性を抱いていたが、世界の様態をすべてコ
ナトゥス(力能)の発現としてとらえようとするスピノザの視点が、結局は病としての
自己保存の擁護に終わっていると理解していた。
【Web】
・関本洋司のブログ ニーチェとスピノザ(
http://yojiseki.exblog.jp/7527243/ )
「スピノザとニーチェには、神への愛と運命への愛、コナトゥスと力への意志、隠者=
ツァラツストゥラといった相似点,論点が見出せます。」
・スピノザの『エチカ』と趣味のブログ ニーチェとスピノザ・対立&矛盾
(
http://blog.goo.ne.jp/spinoza05/e/b0bacbaf1bed09dd5de0a1f96bd4920c )
「エチカの第三部定理六でスピノザがconatus(コナトゥス,努力という訳が与えられて
います)という概念を人間の本性を示すものとして採用するとき,ニーチェはこれを反動
的であるとみなし,力への意志という概念を対立させます。」
469 :
1 :2011/02/08(火) 21:20:50 0
ニーチェ『道徳の系譜』No.14 【スピノザ】続き ★まとめ 非婚については、哲学者にとって結婚は最善なものにいたる道を塞ぐ妨害物(V.7 P208) というくらいですから、うーん、まぁ確かにこの6か月に取り上げる6人でも誰も結婚し ていないなぁ。 同情を低く評価することについては「同情とは、他人の幸せを見ては喜び、また反対に他 人の禍を見ては悲しみにつつまれるように人が動かされる場合の、愛である。」(『エティ カ』第3部定義24 工藤喜作、斎藤博訳 中公クラシックス P277)とあります。これだ けを見るとそれほど低く見ているようにはみえませんが、「私は、感情を導いたり、また 感情を抑えたりすることについての人間の無力を隷従と呼ぶ。というのは、感情に支配さ れる人間は、自分自身を支配する力をもちあわせず、むしろ運命の力に自分をゆだねてし まっているからである」(同書 第4部序 P294)とあり、同情を含め、感情全般を低く 見ています。 一方で、『エティカ』の引用箇所の部分に訳注がついていて、「スピノザの『短論文』で は、この「内心の痛み」conscientiae morsusに相当すると思われるオランダ語が「良心の 呵責」という本来の意味で用いられている。しかし、ここではそのような道徳的な意味に のみ限定することはできない」(P206)とあり、『エティカ』の同じ定義に書いてあるの が、希望、おそれ、やすらぎ、歓喜だから、なるほど訳注が正しいように思えます。 ニーチェとスピノザの相似点で僕の気になっている点は、自己の存在を維持し、自己の本 質を実現する力を「精神だけに関係する場合に意志、精神と身体に同時に関係する場合に 衝動、その衝動を特に意識したものが欲望といわれる。」(『エティカ』訳者解説P18) 「意志」という言葉の同一性から考えてはいけませんが、人間を理性だけではなく意志、 衝動、欲望という突き動かす力と合わせて捉えている点で力への意志の考え方との相似を みます。と同時に、コナトゥスが【ニーチェ事典】にあるような、維持・もともとあった 本質の実現という現状肯定的な力である点に現状を否定し乗り越えていこうとする力への 意志との違いをみています。
470 :
1 :2011/02/08(火) 21:21:34 0
ニーチェ『道徳の系譜』No.15
【デューリング】
スピノザの次に、デューリングをみます(
>>463 参照)。
【本文】
・『生の価値』、『哲学教程』の著者(U.11 P133)
・「正義は反動的な感情に起源をもつ」(U.11 P133)と主張するが、ニーチェは反動
的な感 情は正義が最後に征服した場所であると批判する。
・侵害行為が行われた後に正と不正が生じると主張するが、ニーチェは逆だと主張する。
(U.11 P136)
・すべての意志はそれぞれ平等だとみなす(U.11 P137)説に対し、ニーチェはこの説
を虚無への抜け道(U.11 P137)として批判する。
★まとめ
デューリングはエンゲルス『反デューリング論』くらいでしか知らず、しかもそれすら読
んでいないので、なんともいえないのですが、ニーチェはデューリングの説を全面的に批
判しています。
論点としては、正義の発生場所、正不正の発生場所、意志の平等の否定があります。
471 :
1 :2011/02/09(水) 22:17:12 0
ニーチェ『道徳の系譜』No.17
【ヴァーグナー】(
>>463 参照)
【本文】
・晩年に禁欲としての貞節を誓い、それまでと反対の人間になった(V.2 P186,P187)。
・ショーペンハウアーの権威の裏付けなしに、ヴァーグナーが禁欲的な理想を掲げる勇気
をもてたとは考えられない(V.5 P197)
・ショーペンハウアーの哲学に乗り換え(V.5 P198)たために、音楽を「女」のような
ものと考えていた初期と音楽を神の腹話術のようにとらえる後期といった変化を生じた
(V.5 P198)。
【ニーチェ事典】
・ニーチェがヴァーグナーの「総合芸術作品」の理念と志向の中に見いだしたのは、「ド
ラマ」のもつ表現機能を通した公衆に対する強烈な支配意思の発現であった。
・当初はヴァーグナーを賛美していたが、1872年のバイロイト定礎式以降に同時代の教養
市民文化や第二帝国の時代思潮への対応・適合していくヴァーグナーに対する疑念と幻
滅の念が兆していた。
★まとめ
ニーチェの評価にショーペンハウアーの芸術に関する見解が大きく影響していそうです。
先取りしていえば、前期の官能性を表現した音楽から後期の貞節、禁欲的な理想にすがり
ついたヴァーグナーに対し批判している、といったところでしょうか。
「音楽を「女」のようなものとして考える」(V.5 P198)というのは、『善悪の彼岸』
序言冒頭の「真理は女である、と仮定すれば、−−どういうことになるか?」(『ちくま』P11)
と符合しているのだろうか?
472 :
1 :2011/02/09(水) 22:19:11 0
ニーチェ『道徳の系譜』No.18
【ショーペンハウアー】(
>>463 参照)
【本文】
・ニーチェは、道徳の価値についてショーペンハウアーを介して取り組んだ(序.5 P18)。
・ショーペンハウアーは、同情の本能、自己否定の本能、自己犠牲の本能のもつ価値を美
化し、価値そのものとしてしまい、これに基づいて生および自分自身を否定的にとらえ
た(序.5 P19)。
・ショーペンハウアーは禁欲的な理想を堅持し(V.5 P197)、その哲学は、音楽を他の
芸術とはちがい、それだけで独立した芸術であり、意志そのものの言葉を「深淵」から
じかに語りだす、意志のもっとも独自で、根源的で、端的な啓示とした(V.5 P199)。
・ショーペンハウアーは、カントよりも芸術について深く理解していたが、カントの強い
影響下にあった(V.6 P200,P202)。しかし、「カントの美の定義を、カント的な意
味ではまったく理解していないのではないだろうか。」(V.6 P204)
・結婚しなかった。(V.7 P208)
・ショーペンハウアーは、美的な観照により意志を鎮静させることができると美を称揚し
(V.6 P203,P204 V.8 P218)、あわせて官能への反感を示した(V.7 P207)。
しかし、美を享受しているから官能性が廃棄されるというショーペンハウアーの主張に
対し、ニーチェは、美を享受してもたんにその面を変えただけで、性的な刺激として意
識されなくなるだけだと考えた(V.8 P219)。
473 :
1 :2011/02/09(水) 22:25:35 0
ニーチェ『道徳の系譜』No.19
【ショーペンハウアー】続き
【ニーチェ事典】
・「ショーペンハウアーの哲学は、今日では厭世主義的な俗流哲学で、カント哲学の焼き
直しとも呼ばれている。」しかし、ライプニッツ、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルな
ど、ドイツ観念論における意志説と比較してみると、ショーペンハウアーのの意志説は、
意志が意志するということ以外の何ものも意志しない無意識的な生存への意志であり、
絶対的に非理性的な盲目的意志である点にその特徴がある。
・ニーチェは、ショーペンハウアーの哲学を芸術として、力として肯定的に評価しようと
した。もっとも2期以降は、ショーペンハウアーについて肯定的な言及はなくなっている。
・ショーペンハウアーは芸術を「意志の鎮静剤」と呼んでいたが、ニーチェは『悲劇の誕
生』で芸術を「生の刺激剤」とした。(
>>472 【本文】最後の中点参照)
★まとめ
>>447 の『意志と表象としての世界』の読書体験や、最多出現ページ数であることから、
ニーチェはショーペンハウアーから多大な影響を受けたであろうことがうかがえます。
美的な状態にあることで「意志」から解脱できるとする(V.6 P203)、意志から救済さ
れると考える(V.6 P203)のは、後に見る、ニーチェの「意志」についての考えとはあ
いいれないのだろうなと感じます。
道徳の価値の評価、美学についての見解の違いが前者はレー(
>>465 本書のテーマとも
言えるものでした)と、後者はヴァーグナー(
>>471 )と重ねあわせて、序の部分でレー、
ショーペンハウアーの道徳の価値づけ、第3論文ではヴァーグナーをうけて美についての
考え方を批判しながら述べています。また、前者については、
>>468 ,489でみたとおり同
情を低く評価し、善悪は人間が考えたものというスピノザの考えに「思想の親近性を抱い
ていた」ことから、道徳の価値の評価の方向性が見えてきます。
474 :
1 :2011/02/09(水) 22:26:56 0
475 :
1 :2011/02/10(木) 23:04:30 0
ニーチェ『道徳の系譜』No.20
【カント】(
>>463 参照)
【本文】
・同情が価値のないものであるという(序.5 P20)。
・法律的な債務の概念から生まれた道徳的な概念が発生的に伴う残酷さを、カントの定言
命法もそなえている(U.6 P114)。
・美学の問題を創作者の経験から考察せずに、観察者の立場だけから考察した。そのため、
「美」の概念のに観察者を持ち込み、「美とは個人的な関心なしで気に入るものである」
と普遍的に妥当する美という概念を定義した(V.6 P200,P201 訳注38,41)。
・結婚しなかった(V.7 P208)。
・カントにおいて「叡智的性格」というのは、知性にはそれをまったく捕捉できないこと
だけが知性に理解されるような事物のある種の性格(性質)を意味する。
(V.12 P234,P235 この箇所は『ちくま』P519の訳を元にしました。)
・カントが神学的な概念(「神」「霊魂」「自由」「不死」などの概念)を、理性をもと
に根拠づけたことで、禁欲的な理想が破壊されたとは言えない。(V.25 P313,P314)。
【ニーチェ事典】
・カントについて当初はそれほど否定的には見ていなかったが、時とともにカント批判が
高まり、最後には以下の3点を主とする全面的な批判となる。
1 ドイツ精神の内面性、後進性、権力追随的態度の元凶の一人である。
2 カントは信仰のために知を消去した道徳主義である。
3 世界を真なる世界と仮象の世界に分けるのは、デカダンスの示唆でしかない。
476 :
1 :2011/02/10(木) 23:56:45 0
ニーチェ『道徳の系譜』No.21
【カント】続き
★まとめ
定言的命法は
>>352 でみたように、意志の自由を前提とし、道徳的法則に従うものでした。
そして、
>>356 の【善および悪の概念と道徳的法則の関係】でみるように、「善および悪
の概念は、道徳的法則によって規定されなければなら」ないとされています。また
>>363 の
【道徳的法則と道徳的感情】であるように「道徳的感情 道徳的法則が人に喚起する、謙
抑の感情、道徳的法則に対する尊敬の感情」ですから、同情に価値がないとニーチェがカ
ントを評価するのもわかります。
美については、『判断力批判』を読んではいません(積ん読中です)が、『プロレゴメナ』、
『実践理性批判』を読んだ限りでは、観察者の視点から分析し、普遍的に妥当する概念
(
>>277 ,278
>>357 )を考えるという構制をとっていましたから、同様に考えていたのだ
ろうと理解しました。
>>475 の5つめの中点は、カントの言葉で整理するなら、「物自体」の理性による経験の不
可能性といえるでしょう。(
>>305 )可想界(叡智界)と経験界(感性界)の2つの世界
を考えています。よりわかりやすいのは
>>371 の結びの箇所かもしれません。
本書では「神学的な概念」とありますが、『プロレゴメナ』では神学的理念(
>>329 )には
自由が含まれていないので、
>>330 の「先験的理念」といえます。
「神」「霊魂」「自由」「不死」はいずれも『実践理性批判』で
>>367 「4 純粋実践理
性の要請としての心の不死」、「5 純粋実践理性の要請としての神の現存」、
>>368 「6
純粋実践理性一般の要請について」で、理性により要請されています。
477 :
1 :2011/02/11(金) 00:00:28 0
ニーチェ『道徳の系譜』No.22
【プラトン】(
>>463 参照)
【本文】
・同情が価値のないものであるという(序.5 P20)。
・結婚しなかった。(V.7 P208)。
・すべての寡頭政治の下にはつねに専制への欲望が潜んでいることを、プラトンはよく知っ
ていた(V.18、P273)。
・神は真理であり、真理は神的なものであるというキリスト教の信仰はプラトンの信仰で
もあった」(V.24、P306)。
・「芸術においては、虚偽が聖なるものとされ、疚しい良心を働かせずに欺瞞への意志が
働くことができるために、芸術は学問よりもはるかに根本的に禁欲的な理想に敵対する
ものである。プラトンの本能はそのことを告げたのであり、プラトンはこれまでヨーロッ
パで生まれた最大の、芸術への敵対者である。プラトンとホメロスの対立。これこそが
真の意味での完全な対立である。−プラトンは最善の意志をそなえた「彼岸の人」であ
り、生の大いなる誹謗者である。」(V.25、P309)
【ニーチェ事典】
・「芸術家および政治改革者としてのプラトンに対してはある程度の敬意を払っている。」
しかし「思想家ないし哲学者としてのプラトンとなると、ニーチェの評価は厳しい。」
・感性界の彼岸に「真実の世界」を想定し、超感性的な価値を最高価値とし、感性界を
「仮象の世界」に貶めるという西洋の歴史、キリスト教(民衆向きのプラトニズム」
(『善悪の彼岸』序言)、哲学、ストア以後の禁欲主義的な道徳は、「イデア論」から
帰結する「二世界論」というプラトンの思想の体系に端を発する。
478 :
1 :2011/02/11(金) 00:05:13 0
ニーチェ『道徳の系譜』No.23
【プラトン】続き
【Web】
序説──「ニーチェと『ゴルギアス』」
http://homepage2.nifty.com/eleutherion/lecture/gorgias/node1.html E.R.Doddsの『ゴルギアス』への補遺をもとに、『ゴルギアス』のニーチェへの影響をま
とめてあり、わかりやすい。以前ノモスとピュシス(
>>12 ,17)の話が出たので参考に。
★まとめ
同情についてプラトンが触れている箇所を、『プラトン全集 別巻』の総索引で調べてみた
のですが、「同情」そのものがなく、「哀れ」くらいでした(『ソクラテスの弁明』35B
裁判官に哀訴嘆願する、『パイドン』90C〜D あわれむべき心の状態)。直接確認でき
るところは見つけられませんでしたが、確かに同情するシーンを読んだ記憶もありません
し、理性を感情に優先させるので、同情を価値がないと考えていたと言えそうです。
イデア論、芸術(有名な詩人追放論)、国家観は『国家』にあります。
しかし、ニーチェのこの勢いは、諸悪の根源はプラトンにあるとでもいいそうな勢いです。
人名索引の最後の項目でもありますので、これまででてきたニーチェの評価を重ねあわせ
てみると、以下のように言えそうです。
マイナス評価
・プラトン ・イデア ・キリスト教 ・彼岸思想 ・可想界 ・理性
・貞節 ・利他的な価値づけが道徳的な価値づけ
プラス評価
・ホメロス ・現実 ・此岸 ・感性界 ・意志
・官能性 ・同情に価値がないとする哲学者
479 :
1 :2011/02/11(金) 10:03:37 0
ニーチェ『道徳の系譜』No.24 人名索引を元に頻出する人名を調べると、うっすらですが『道徳の系譜』が読めてきます。 そこで、今度は事項索引の一部の語句の集計をしてみます。 しかし、ここで注意しなくてはいけない点が大きく分けて2つあります。 【語句の選択について】 ・索引の語句の選択は『ちくま』の索引作成者が重要な語句と判断したものをと思われま す。その『ちくま』の語句から、さらに僕が語句を選択しています。 【カウント方法について】 ・索引とした語句が出ているすべてのページをまとめたものではありません。 ・同一ページに複数でていても1とカウントしていますので、該当事項の正確な出現回数 ではありません。 ・『ちくま』の10ページに出現している該当語句(例えば「意志」)がページの前後に分 かれていて『光文社』の15,16ページにある場合、本来『ちくま』が対象と考えた語句が 前のものだけでも、15,16の2ページ分カウントしていることも考えられます。 以上から、おおまかな傾向の目安にはなりますが、この数字だけで何かを論じることがで きるわけではありません。 前置きが長くなりましたので、次の書き込みに集計結果を書きます。
480 :
1 :2011/02/11(金) 10:08:38 0
ニーチェ『道徳の系譜』No.25
序 T U V 計
意志 0 3 7 7 17
神 1 6 9 14 30
キリスト教 0 4 3 7 14
禁欲主義的理想 0 3 1 16 20
善 0 5 2 4 11
力への意志 0 0 3 5 8
道徳 0 8 0 4 12
ニヒリズム 0 1 1 4 6
良いと悪い 0 7 1 0 8
良心 0 2 14 5 21
ルサンチマン 0 11 3 5 19
(序 9〜 27ページ、第1論文(T) 29〜 94ページ、第2論文(U) 95〜182ページ、
第3論文(V) 183〜328ページとなっています。)
たぶんうまく表示されないと思いますが、コピーしてテキストエディタに貼りつけるとう
まく表形式になると思います。なお、Wikiに画像を貼り付けておきます。
(
http://www44.atwiki.jp/tetsugaku/pages/23.html )
ページ数も考えてみると、第1論文で「善」、「良いと悪い」、「道徳」、「ルサンチマ
ン」、第2論文で「良心」、「意志(力への意志を含む)」、第3論文で「禁欲主義的理
想」、「意志(力への意志を含む)」、「道徳」、「ニヒリズム」が多くでています。
平均して出ているのが、「神」、「キリスト教」です。
ほかに、これも調べておいたほうがいいよ、というのがあれば教えてください。すぐには
作れませんが、時間の許す範囲で作成します。
481 :
1 :2011/02/11(金) 10:13:58 0
ニーチェ『道徳の系譜』No.26 『ちくま』の事項索引をもとに光文社古典新訳文庫用に事項索引を作成しました。なお、 作成対象は、論文名にあるものおよび出現ページ数が多いと思ったものです。 『ちくま』の訳語に1対1で対応しているわけではありませんので、適宜処理しています。 例えば、禁欲主義的理想は『光文社』では「禁欲的な理想主義」、「禁欲の理想」、「禁 欲という理想」、「禁欲的な理想」と訳し分けされています。【】は行か事項索引の項立 てを示します。漏れ、間違い等がありましたら、教えてください。 【あ行】 【意志】 意志 233 意欲 73 意志の自由 109,228 意志の自由の否定 171 意志の錯乱 174 短期的な意志 102 欺瞞への意志 309 虚無への意志 182,242,328 荒野への意志 212 最後の意志 242 自己の自虐の意志 164 自由意志 123 衰退させ、頽落させようとする意志 90 人間たることを意志 72
482 :
1 :2011/02/11(金) 10:16:31 0
ニーチェ『道徳の系譜』No.27 【か行】 【神、神々】 神 14,47,50,54,77,78,83,121,122,152,157,167,168,169,170,179,203,221,226,240,267,291,292,293,296,306,312,313,314,322 【キリスト教】 キリスト教 32,55,71,82,169,172,176,191,192,260,302,303,318,324 【禁欲主義的理想】 禁欲的な理想主義 47 禁欲の理想 183,186 禁欲という理想 185 禁欲的な理想 196,209,219,233,237,238,280,294,295,296,321,325 古典古代的理想 89 古典的な理想 89 生に敵対するすべての理想 180 消極的な理想 162 【善】 善、善と悪、善人、悪人 13,22,63,75,86,123,203,244,265,266 善なる見地のもとで 152
483 :
1 :2011/02/11(金) 10:20:32 0
ニーチェ『道徳の系譜』No.28 【た行】 【力への意志】 力への意志 140,143,162,232,245,250,270,272 【道徳】 道徳 196,324,325 道徳的なオナニスト 245 道徳の概念の発達の歴史 92 道徳の歴史家 34 道徳の発生の歴史 31 高貴な道徳 57,64 民衆道徳 73 民衆の道徳 88 同情の道徳 20 【な行】 【ニヒリズム、ニヒリスト】 ニヒリズム 72,182,242,321 ニヒリスト 301,316 【や行】 【良いと悪い】 良いと悪い 35,36,38,63,64,168 よいとわるい 72 善きものと悪しきもの 91
徐々に違和感が強くなってきました。
いろんな「読み方」があるかとは思いますが、
>>1 さんは一体何をしたいのか、よく
わかりません。
索引を作成するといったスタイルそれ自体に違和感を覚えているのではありません。
テキストを緻密に読解するためには、それも一つの方法だと思います。
しかし、その作業の「向こう側」に何を見ているのか、何を見ようとしているのか、
そもそも何をしたいのか。(余計なお世話でしょうけど)
485 :
1 :2011/02/11(金) 10:25:57 0
ニーチェ『道徳の系譜』No.29 【ら行】 【良心】 良心 90,103,104,179,220 良心の呵責 149,152 偽善的な良心 120 知的な良心 301 猛獣の意識 65 疚しい良心 134,149,152,154,158,173,176,298 疚しくない良心 117,281 学問的な良心 297 【ルサンチマン】 ルサンチマン 56,57,60,61,64,131,132,159,232,252 ルサンチマンの運動 89 ルサンチマンの道徳 64 ルサンチマンの人間 63,72,80,246 ルサンチマンの方向を変える者 253 ルサンチマンの方向が転換 256 ルサンチマンの本能 68
486 :
1 :2011/02/11(金) 10:37:38 0
>>484 文学の良心? ◆abXfJskHU2 さん
ありがとうございます。
僕自身、この書き方は読んでくれている人にとってわかりにくいかも、と思って書いた文
章があり、いやかえってわかりにくくするのではないかと逡巡して、ボツ原稿にしていた
ものを、取り急ぎ、以下に書き込みますね。あとでお昼くらいまでには、もう少しきちん
と説明します。
あえて話を出す必要はないのかもしれませんが、以下のテキストの分析方法でおもしろい
のを見つけ、真似してみよう、と思ったのも事項索引の集計をしてみた理由です。
(「N-gramモデルを利用した漢字文献の分析
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/sio/file/kiyou1/08yamada.pdf )
「あるテキストから、任意のN-gram(あるテキストの総体を前から順に任意のN個の文字列
または単語の組み合わせで分割したもの)単位で共起頻度を集計し(N-gram統計を取る)、
その結果を利用してテキストや言語の性格を見いだす研究によく利用される。」
本来はドイツ語で類似の処理をして、分析、ということになるのでしょうが、それはいく
らなんでもできませんから、発想だけ似たものにしたわけです。まぁ、4ページの「3.
1.1 N-gram方式のメリット:単なる用例検索を超えて」をみるに、僕の人名索引はま
だしも、事項索引は「単なる用例検索」です。(専門の人から見たらどちらも離れている
ことに変わらないでしょうが。)統計の真似事をするのは余興くらいに考えてください。
いずれにせよ、
>>449 に書いた理由がこうした方法をとることの主要な理由であることに
変わりはありません。
487 :
1 :2011/02/11(金) 12:00:47 0
>>484 文学の良心? ◆abXfJskHU2 さん
>>しかし、その作業の「向こう側」に何を見ているのか、何を見ようとしているのか、
>>そもそも何をしたいのか。(余計なお世話でしょうけど)
僕は書き込みを、余計なお世話とは全然思っていませんよ。むしろ改めて整理させてくれ
たと感謝しています。
結論的にいうと、『道徳の系譜』を他のニーチェの著作、ニーチェについて書いた他の著
作、自分が考えていること、それぞれと「(力への)意志」を中心につなげたいと思って
います。また、ほかの人がレスをつけやすいだろうと考えてもいます。
以下、各点について補足します。
・『道徳の系譜』は『ツァラトゥストラはこう語った』、『善悪の彼岸』と一連の書です。
3冊をつき合わせて読んで初めて『道徳の系譜』を理解したといえると僕は考えています。
『道徳の系譜』は「『善悪の彼岸』を補足し、説明するための書物」ですから。
・K.レーヴィット、ドゥルーズ、ハイデガーのニーチェ論を読むと、それぞれ「ニヒリ
ズム」、「生の肯定性」、「力への意思」などをキーワードに読んでいます。そういっ
たニーチェ論を読むときに、要約より人物・語句で整理しておく方が理解しやすいと考
えました。
・「ハイデガーは個々の命題や基本語を選択することである一定の点からニーチェの全作
品の中へ食い入る」といったことをK.レーヴィットが『ニーチェの哲学』(P312)で
批判的に書いています。僕はこれまで各本を読むことを通して、意志、行為の規準といっ
たものをみてきたつもりです。それとつなげるのには満遍なく本文をまとめるより、あ
る人物、事項に焦点を当てて読むほうが良いと判断しました。本文の要約では、スピノ
ザ、カント、プラトンは現行のまとめかたほどでてこなかったと思います。
・レスが少ないことについては、自分でも感じていました。書き込みにくい原因としてい
くつもあるでしょうが、論文を節単位で本文をまとめると、読んでいる本の著者に知識、
関心をもつ人以外書き込みしにくいだろうから、人物・事項毎にまとめていれば、その
人物・事項に詳しい人、知りたい人も書き込みがしやすいだろうと考えました。まぁ、
失敗していますが。
>>487 意図は理解しました。
以下は全くの私見です。
研究者として、ある人の思考の変遷や全体像を整理するためには、幾つかのキーワー
ドや言及対象を抽出し、著作相互の参照関係などを全体的な観点から包括的に調べる
ことは非常に重要な作業になると思います。
しかし、研究者としてすら、そのような研究成果が「啓発的」になるのは非常に稀で
しょう。そういった地道な作業が、しばしば、それだけに終わり、その作業そのもの
の意味や方向性を熟慮するといった本来最も必要なプロセスが充分に深まらないから
です。
この種の具体的な事例は(稀な例外も含めて)、分野を問わず、枚挙に暇がないはず
です。
ましてや、
>>1 さんは明らかに研究者ではないのです。
研究者の視点から見て、間違っていても構わない、そう思っています。
たとえ限定的であっても、つまり視野が狭くても、自分の視点から少しでも切り口を
シャープにすること、少しでも深めること、これが重要なのではないかと思っています。
知識は後からいくらでも継ぎ足すことができます。しかし、鋭さや深さは、そうでは
ありません。
と思っているのですが、読み方、アプローチは各人各様です。
ご自分の道を進むべきだと思います。
489 :
1 :2011/02/12(土) 21:25:02 0
>>488 文学の良心? ◆abXfJskHU2 さん
今月のような方法の陥りやすい点を確認できました。
ありがとうございます。
スレの方向性の話のとき(
>>133 )にも思っていたことですが、
飽かず弛まず少しずつでも歩みを進めて、
ほかの人が書き込んで、それを読んで考えて、
そうすることで、
僕もスレも自然と伸びていくべき方向へ伸びていくのでしょう。
良い・善い・スレ・人になるのか、
悪い・悪しき・スレ・人になるのか、僕にはわかりません。
で、「良い−悪い」、「善−悪」という『道徳の系譜』で使われている語句の話にいきます。
490 :
1 :2011/02/12(土) 21:27:09 0
ニーチェ『道徳の系譜』No.30
【善】(
>>480 参照)
【本文】
・ニーチェは、善と悪の起源に関心をずっと持っていた(序.3 P13)。
・人間の育成、有用性、繁栄の観点から「善人」は「悪人」よりも価値が高いと疑問をも
たれずに想定されてきた(序.6 P22)。
・ルサンチマンの人間は、「悪人」を考えだし、それをもとにその対照的な像として「善
人」を考えだし、その善人こそが自分だと考えた(T.10 P63)。
・善人とは、暴力を加えない者、誰も傷つけない者、他人を攻撃しない者、報復しない者、
復讐は神に委ねる者……辛抱強い者、謙虚な者、公正な者(T.13 P75)とルサンチマ
ンの人間は自画像を描いていたが、実際は、自分が弱い者であり、そうできないことを
隠蔽して自分に言い聞かせているに過ぎない。
・「良いと悪い」と「善と悪」という価値評価は、「善と悪」という価値評価が長い間優
勢な形でこれまで対立していた(T.16 P86)。
・「人間は善、悪いずれの行動を行うとしても絶対的な自発性をもつ」(自由意志)とい
う考えは、当時のヨーロッパのために行われた宿命的な哲学の発明だった。(U.7 P123)
・上の1.10やT.13などを経て、ルサンチマンの人間は自分たちだけが善人だと主張し
(V.14 P244)、健康な者、強い者を品の悪い者として貶め、正義を唱え、みずから
の優越感を示そうとするようになった。
・仏教では、善と悪は一つの鎖のようにあり、悟りを開いた者は、その両方を支配すると
される。(V.17 P265)
★まとめ
善悪の起源がルサンチマンの人間の自己欺瞞にあり、優勢であった。しかも、自由意志と
あわせて、人間が選びとるのだという形で支配してきた。哲学の発明の箇所は「当時のヨー
ロッパ」という言い方が気になりますが、文脈的には古代ギリシアのプラトンとみました。
そして、ニーチェはそうした哲学の発明への反論としてスピノザの決定論(
>>468 【本文】
4つ目の中点参照)、発明を深化したものとしてカントの『実践理性批判』の話(
>>353 【定理4】、
>>354 【分析論の趣旨】
>>422 カント)を捉えている。そうした哲学者の働きも
あり、ニーチェの時代のルサンチマンの人間は自らを善人として振る舞うようになった。
491 :
1 :2011/02/12(土) 21:37:11 0
ニーチェ『道徳の系譜』No.31
【良いと悪い】(
>>480 参照)
【本文】
・「良い」という判断は、善いことをしてもらった人々の側から生まれるものではなく、
高貴な人々、力の強い人々、高位にある人々、高邁な人々といった良い人々が行ったも
のである(P35)。
・この高貴さと距離のパトス、つまり下位の者たちにたいして支配する高位の者たちが感
じる持続的で支配的な感情。これが「良い」と「悪い」との対立の起源である(P36)。
・スペンサーの「良い」=「有用で、目的にふさわしい」と「悪い」=「有害で、目的に
ふさわしくない」という説明自体は合理的である(P38)。
・高貴な人間が「良い」という根本概念をまず考えだし、そこから「悪い」というイメー
ジを作りだした(P63)。
・「よい」<->「悪い」と「よい」<->「悪しき」の違いが重要であり、「悪しき」者は、
「高貴な道徳において「良き人」だったその人なのである。」(P64)
・しかし、「良い」にはルサンチマンの人間が考えだした「善(善い)」というもう一つ
の起源がある。(P72)それは小羊が猛禽に対し、憤慨しながらも対抗できないことを
「猛禽は悪い。悪い猛禽とは正反対の自分は善いのだ」と自らを合理化するものである。
・「善悪の彼岸」は「善きものと悪しきものの彼岸」という意味ではない(P91)。
492 :
1 :2011/02/12(土) 21:39:56 0
ニーチェ『道徳の系譜』No.32
【良いと悪い】(続き)
★まとめ
プラトンのとき(
>>478 )でもみたことですが、ニーチェには2項対立の図式がみられます
(あとで輻輳してきますが)。
善悪という価値評価はルサンチマンの人間から生じ、自らを善人だとルサンチマンの人間
が詐称し、良いと悪いという価値評価は力の強い人々から生じ、良い人間が悪人だと善人
から呼称される。こうして良いが以下の経路を経て悪とされる。
・ルサンチマンの人間の思考回路(多数者の特権により思考回路が現実化されていく(T.16 P90参照)。)
悪い(人)<−>善(人)=ルサンチマンの人間=良い人<−>悪(人)
↑__________________________|
1 悪い人の反対の人は善人(善悪と良い悪いのすり替え)
2 自分は善人
3 自分の反対の人は悪人(本当は良い人)
4 悪人は悪い人
・高位の者の思考回路
良い<−>悪い
距離のパトスというのはこことあと2箇所(T.2 P35(この直前),V.14 P248)にでて
くるけれども、今ひとつわからない。ルサンチマンの人間が高い者と低い者を同一平面に
広げたときのパトス(場)で、遠近法的に近しいもの(つまり自分たち低い者)を良いと
し、遠い者(つまり高い者)を悪いとすることで、「良いと悪い」という対立が生まれる
ということでよいのだろうか。
『光文社』では、「よい」を「悪」「悪い」の両方の意味の反対の概念として用いるとき、
「良い」を「悪い」、「善い」を「悪」のそれぞれの反対の概念として用いるとき、と
「よい」「良い」「善い」を使い分けています。始めて読んだ時にそれがわからずに、
「なんで分けているんだ?」と疑問に思っていました。
493 :
1 :2011/02/13(日) 22:28:55 0
ニーチェ『道徳の系譜』No.33
【道徳】(
>>480 参照)
【本文】
・ニーチェは、哲学者のなかに「同情の道徳」をみいだし、それがニヒリズムに導くので
はないかと考えた。現代の哲学者は「同情」を過大評価しているが、これまでの哲学者
で、プラトン、スピノザ、ラ・ロシュフコー、カントらが同情を価値がないと考えた(序.5 P20)。
・高貴な者の道徳は、自己を肯定することから生まれ、奴隷の道徳は自己ならざるものを
否定することから生まれる(T.10 P57)。
・民衆道徳は強さの「現れ」である強い者(主体)とその背後にある強さ「そのもの」を
考える(T.13 P73)が、ニーチェは行為、作用、生成の背後には行為者は存在せず、
行為は行為そのものだと主張する。
・ユダヤ人は、ルサンチマンの民族、司牧者の民族、民衆道徳の民族であった(T.16 P88)。
・「芸術家たちはいつの時代にも、ある道徳や哲学や宗教に使える僕だった。」(V.5 P196)
このあと、ヴァーグナー(
>>471 )の変心の話が続く。
・下劣な者たちは道徳的なオナニストであり、「自分で自分を慰める」。(V.14 P245)
・「生の本質のうちに必然的に潜む自己克服の法則」が、自らが定めた教義に従うことを
自らに強いることにより自らが道徳化した教義を越える教義を定めることをできなくな
り、教義としてのキリスト教も、道徳としてのキリスト教も、自己克服の法則を適用す
ることができなくなり滅びざるをえなくなった(V.27 P324)。
・真理への意志は何を意味するのか、と問題として意識されることで、ルサンチマンにも
とづく、今までの道徳は滅びていく(V.27 P325)。
★まとめ
ニーチェは、生、意志と道徳、ルサンチマンを対比的に説明します。
キルケゴールは、有限性と無限性、時間的なものと永遠なもの、可能性(自由)と必然性
といった2項対立の図式で話を進め、その2項が弁証法的契機でつながっていきます(
>>417 )。
ニーチェにおいては2項対立は同様につながるのか、つながるとすれば、何がつなげるの
かを、これまで取り上げた点(
>>478 マイナス評価とプラス評価、
>>490 ,491 「良い
と悪い」と「善悪」)を頭の隅に置きながら、次からの事項をみていきます。
494 :
1 :2011/02/14(月) 22:07:11 0
ニーチェ『道徳の系譜』No.34
【ルサンチマン】(
>>480 参照)
【本文】
・奴隷の道徳の優勢、「良いと悪い」から「善と悪」への価値評価の移行は、まずルサン
チマンが創造する力を持つようになり、価値を生みだすことから始まる(T.10 P56)。
・ルサンチマンの人間は、行動によって反応できないために、想像だけの復讐でその埋め
合わせをする(T.10 P56)。彼らは、「率直でも素朴でもなく、みずからに正直では
なく、ざっくばらんでもない。この人間の魂はもの欲しげなのである。」(T.10 P60)
・高貴な人間にとってはルサンチマンが現れても、ルサンチマンの人間のように他人否定
には走らない。ただちに反応し行動するから、自身に蓄積されず、毒となることがない
(T.10 P61)。
・「悪しき敵」、「悪人」を考えだしたのは、ルサンチマンの人間である(T.10 P63)。
・反動とルサンチマンの本能は、人間という猛獣を家畜に飼いならすものである文化の道
具である(T.11 P68)。
・「反動的な情動に敬意を表する」(P132)学問的な公正さは、憎悪、嫉妬、猜疑、邪推、
怨恨、復讐に親しいものであり、ルサンチマンの精神から生まれてきた(U.11 P132)。
・禁欲的な生は、生そのものを支配しようとする力への意志と、飽くことなき本能が抱く
ルサンチマンがせめぎあうような自己矛盾したものである。このときルサンチマンは、
力の源泉を塞ぐために力を活用しようとする(U.11 P232)。
・弱い者の内部には、ルサンチマンが蓄積され続けていき、爆発するかもしれなくなる。
(V.15 P252)すると爆発してしまわないように、司牧者は、ルサンチマンの人間が
それまで外(高貴な者)へ向かっていたルサンチマンの方向を、内(自ら)へ方向を変
えるのである(V.15 P253)。
・司牧者の力を借りて、弱い者の生きようとする本能は、ルサンチマンの方向を逆転させ、
自己に向かわせ、自己の規律、自己の監視、自己の克服のために活用しつくすことを目
指す(V.16 P256)。
495 :
1 :2011/02/14(月) 22:09:53 0
ニーチェ『道徳の系譜』No.35
【ルサンチマン】(続き)
【Wikipedia】【Web】
Wikipedia(
http://ja.wikipedia.org/wiki/ルサンチマン )で「キェルケゴールにより確
立された哲学上の概念」とあります。
英語版Wikipedia(
http://en.wikipedia.org/wiki/Ressentiment#Kierkegaard_and_Nietzsche )
でもキルケゴールと関連付けて論じられています。しかし、
>>361 の哲学事典のサイトで
は関連はなさそうです。『岩波哲学・思想事典』のルサンチマンでは「『道徳の系譜』に
おいてニーチェが用いて哲学的に注目されるようになった」とあり、キルケゴールの名は
なく、平凡社『哲学事典』でも同様です。やはり、ルサンチマンという言葉自体にキルケ
ゴールは関係はなさそうです。
★まとめ
ルサンチマンを否定的にだけニーチェは評価していると僕は思い込んでいました。しかし、
【本文】7つめの中点の力の活用をみると力への意志の1形態、あるいはキルケゴール
の有限性と無限性といった2項対立の各項として力への意志とルサンチマンを人を突き動
かすという平面での均衡としてみると、ルサンチマン(とその不均衡)は、例えば
>>405 の
1CBbβ 絶望して、自己自身であろうと欲する絶望、反抗
>>417 の2BC キリスト教を肯定
式的に廃棄し、それを虚偽であると説く罪と並行する構成だと感じました。なお、言うま
でもなく、ルサンチマンという言葉を誰が最初に使ったかということと論理構成が類似し
ているということは別のことです。また、構成が2人で同じでも、行き着く先の違いが両
者にはあると思っています。
意識する者→意識の動き→否定する働き→その形態、と流れを以下のようにみてみました。
非本来的な自己→絶望と意識→非本来的な自己のままでいようとする→反抗(
>>405 )
非本来的な自己→絶望と意識→キリストを否認する→つまずきの積極的な形態(
>>417 )
下位の者→ルサンチマン→他者を否認→善悪の道徳価値転換(
>>492 )
下位の者→ルサンチマンの蓄積→司牧者の方向転換→疚しい良心?
こうみると、ルサンチマンは次の段階への契機と考えることはできないのだろうか(現段
階では推測でしかありません)、次に第2論文で多用している「良心」をみていきます。
496 :
1 :2011/02/15(火) 21:14:06 0
ニーチェ『道徳の系譜』No.36
【良心】(
>>480 参照)
【本文】
・自由な意志の支配者となった人間、至高な人間は、意志をもつことのうちに自分の価値
の尺度をおき、自己自身と運命を支配する力の意識は支配的な本能になっている。彼ら
はそれを自らの良心と呼ぶ(U.2 P103)。
・「良心」という概念は、自己を「誇りを持って保証できること、また自己を肯定できる
こと」であるが、これまで顧みられてこなかった(U.3 P104)。
・より良き良心をそなえているのは、攻撃的な人間、高貴な者であり、疚しい良心を発明
して、良心に疚しさを感じているのは、ルサンチマンの人間だ(U.11 P134)。
・刑罰は「疚しい良心」や「良心の呵責」を呼び起こすとされている(U.14 P149)が、
それは間違っている。刑罰は恐怖心を強め、悪賢さを助長し、欲望を制御させ、人間を
飼いならすことでしかない。
・「疚しい良心」の起源の仮説(U.16 P156)
外部に捌け口をみいだせなかったすべての本能は、内部に向けられ、敵意、残忍、迫害、
襲撃、変革や破壊にたいする快感といった本能がその持ち主自身に向きを変えた。
・疚しい良心の起源の仮説についての前提(U.17 P158)
1 疚しい良心は、決裂、飛躍、強制、宿命として発生した。
疚しい良心の発生に抵抗する闘いも、ルサンチマンも存在しなかった。
2 疚しい良心を最終的に仕上げるために純粋な暴力的な過程として国家が機能した。
・力への意志が内側を向いて、小さくなり、ちっぽけなものとなり、後ろ向きになり、疚
しい良心を作りだし、消極的な理想を構築した(U.18 P162)。
・キリスト教下の人間は自分を苦しめんがために「疚しい良心」を発明した。(U.22 P173)
一方で、古代のギリシア人は、自分から疚しい良心を遠ざけるために、神々を利用して
いた(U.23 P176)。
・学問は、疚しい良心から解放するものではなく、疚しき良心の隠れ家になっている(V.23 P298)。
・無神論者、反キリスト者、ニヒリスト、精神の消耗性疾患者らは知的な良心を宿し、体
現している(V.24 P301)と考えるかもしれないが、彼らは真理を信じているという
点で、自由な精神ではなく、禁欲的な理想の信者でもある。
497 :
1 :2011/02/15(火) 21:16:31 0
ニーチェ『道徳の系譜』No.37
【良心】(続き)
【Web】
財津理の思想研究 ドゥルーズ/ラカン/ハイデガー ラカンSLV翻訳と注釈2:ニーチェのes
http://zaitsu.blog137.fc2.com/blog-entry-23.html ドゥルーズ『差異と反復』ほか多くの翻訳をなさっている財津理さんのサイト。この記事
の途中に挿話的に「gutes Gewissen」を「やましくない良心」と訳すことについて少し触
れられています。
★まとめ
>>496 No.36の【本文】5,6つめの中点とNo.34の7つめの中点をみるかぎり、疚しい良
心の発生については
>>495 の★まとめの考え方をとることができそうです。
また、学問(=哲学)が、このとき疚しい良心の隠れ家として機能し、人名索引(
>>459-462 )、
集計(
>>463 )でみるとおり、疚しい良心の隠蔽への役割を担う哲学者が多く挙げられて
います。
力への意志については事項索引の最後に触れるつもりですが、疚しい良心、理想(禁欲的
な)を作ります。うん?ルサンチマンでなくて、力への意志が作るのでしょうか?
498 :
1 :2011/02/17(木) 00:06:44 0
ニーチェ『道徳の系譜』No.38
【禁欲主義的理想】(
>>480 参照)
【本文】
・ルネサンス期にはすべてのものを高貴な形で価値評価する考え方である古典古代的理想
が復活した(T.16 P89)。しかし、すぐに宗教改革というルサンチマンの運動により
ユダヤが勝利をおさめ、ユダヤはフランス革命をもって、古典的な理想に対して勝った
(T.16 P89)。しかし、古代の理想の具現としてナポレオンが現れた。
・「生に敵対するすべての理想と、世界を否定するすべての理想にこそ、「疚しい良心」
を結びつけることもできたはず」(U.24 P180)。
・禁欲的な理想は、頽廃的な生の防衛本能と治癒本能から生まれた(V.13 P237)。
・禁欲的な理想は一つの意志を表現していて(V.23 P295)、みずからの理想がすべ
てのものに価値を与え、意味づけるという唯一の目標に照らして、さまざまな時代や民
族や人間を解釈する(V.23 P295)。
・近代的な学問は禁欲的な理想と闘い、禁欲的な理想よりも上位にあると主張するかもし
れない(V.23 P296)が、学問は疚しい良心の隠れ家(V.23 P298)としてしか機能
していない。もしも「禁欲的な理想に真の意味での「敵」がいるとすれば(略)、この
理想のコメディアンたちだけだ」(V.27 P321)。
・禁欲的な理想は確かに人々をみずからの目標のもとに手段化してきたが、もし禁欲的な
理想がなければ、人間には意味が与えられず、つまり、苦悩することに意味がなく、ニ
ヒリズムに陥っていただろう(V.28 P325)。
499 :
1 :2011/02/17(木) 00:08:55 0
ニーチェ『道徳の系譜』No.39
【禁欲主義的理想】(続き)
★まとめ
訳について気になった箇所がありましたので、少し比較してみます。
『光文社』
「禁欲の理想の意味するもの」(第3論文名 P183)
「禁欲という理想は何を意味するのだろうか?」(V.1 P185L1)
「禁欲の理想とは何を意味するのだろうか?」(V.2 P186L11)
「−−それでは禁欲的な理想とは何を意味するのだろうか?」(V.5 P196L1)
『ちくま』
「禁欲主義的理想は何を意味するか?」(第3論文名『ちくま』P483、V.1『ちくま』P485、
V.2『ちくま』P486とも同じ)
「−−では、禁欲主義的理想は何を意味するか?」(『ちくま』P492 V.5)
原文は
>>450 のリンクから辿れなくなっているので、別のを探しました。
http://www.nietzschesource.org/texts/eKGWB/GM-IIIでみると 、以下のとおりです。
Was bedeuten asketische Ideale?(第3論文名、V.1、V.2とも同じ)
-Was bedeuten also asketische Ideale?(V.5)
原文からいくと『ちくま』がよさそうです。『光文社』の訳し分けは理由が思い当たりません。
話は変わって、意志の話です。
>>498 【本文】4つめの中点で気になるのが、禁欲的な理
想は一つの意志を表現?
>>496 の7つ目の中点では、第2論文で「(疚しい)良心」、第3論
文で「禁欲主義的理想」に、それぞれ力への意志が関係していそうでした。
第1論文では?また、力への意志を先回りしてみると、「力とは欲動、意欲、作用そのも
のなのである」(T.13 P73。なお意欲は『ちくま』では意志と訳されている箇所です)
と全編を通じて、(力への)意志を見ることはできそうです。
禁欲主義的理想は人を手段化しつつも、同時に人々に目標を与えてきた。もしそれがなけ
ればニヒリズムに陥っていたといいます。次に、やはり第3論文で多く出てくるニヒリズ
ムをみます。
500 :
1 :2011/02/18(金) 02:35:00 0
ニーチェ『道徳の系譜』No.40
【ニヒリズム】(
>>480 参照)
【本文】
・人間たることを意志することもなくなり、今日のニヒリズムとは、ヨーロッパの宿命と
して現れ、人間に倦んでしまっているところにある。(T.12 P72)
・現代とは別の、創造的な精神をもつ、未来の人間は、自身のこれまでの理想そのものか
らうまれざるをえなかった、大いなる吐き気、虚無への意志、ニヒリズムから救済して
くれる(U.24 P182)。
・そのように捉えられた人間が人間に対する吐き気と同情にとらわれたときに、人間の
「最後の意志」、人間の虚無への意志、ニヒリズムが生まれる(V.14 P242)。
・現代の精神の珍妙さについては、準備中の『力への意志 すべての価値の転換の試み』
で「ヨーロッパのニヒリズムの歴史」としてさらに詳しく書く予定だ(V.27 P321)。
【ニーチェ事典】
・ニーチェ自身は「力への意志」に関する体系的な著作のプランを最終的には放棄し、遺
稿として断片的に残された(
>>452 参照)。
★まとめ
【本文】をみると、ニヒリズムの起源(3つ目の中点)において人間に吐き気と同情をもよ
おし、ニヒリズムの現在(1つ目の中点)で人間たることを意志することもなくなり、ニ
ヒリズムを乗り越える未来(2つ目の中点)として未来の人間による救済を描いています。
起源において見られる、人間への同情については、少しくどく人名索引でみました(
>>469 スピノザ、
>>472 ショーペンハウアー、
>>476 カント、
>>478 プラトン)。スピノザを除けば、
哲学者、学問はその発生、展開に助力してきたことを、良心(
>>496 )や禁欲主義的理想
(
>>498 )で述べています。
ツァラトゥストラ、未来の人は、理想(禁欲主義的)から生まれてきたものから救済して
くれます。「未来なる者」、「より強い者」、「神なき者」(V.25 P182)であるツァ
ラトゥストラを知っておくためにも、全編を通して出てくる神、キリスト教をみて、最後
に力への意志をみてみることにします。
501 :
1 :2011/02/18(金) 22:17:58 0
ニーチェ『道徳の系譜』No.41
【神】(
>>480 参照)
【本文】
・「ユダヤ人とは、貴族的な価値の方程式を(すなわち良い=高貴な=力強い=美しい=
幸福な=神に愛された)、凄まじいまでの一貫性をもって転倒させようと試みた民族で
あり、(略)ユダヤ人にとっては「惨めな者たちだけが善き者である。(略)神を信じ
る者である。(略)」」(T.7 P50)。
・キリスト教の神への信仰と人間の負い目の意識は正比例している(U.20 P169)。
・疚しい良心と神の概念の錯綜した結びつき(U.21 P170)
・これまですべての哲学の欠陥は、禁欲的な理想が支配し、「存在として、神として、最
上位の審級としての真理が信じられてきたからである」(V.24 P306)。
★まとめ
有名な「神は死んだ」でいう神は、キリスト教の神のことだけなんだろうか。
神が実在するかどうか、という問題ではなく、神が機能しているかどうか、という問題と
してとらえると、ニーチェの言う神は、これまで見てきた疚しい良心や禁欲主義的理想を
維持・強化する機能をしてきたもの(理念)として考えられ、その点で真理も神というこ
ともできる。その「神」はすっかり消滅した、もしくは乗り越えられたのだろうか?
まだすっかり消滅していない、人はニヒリズムにいるのだから。
まだ乗り越えられていない、人は未来の人間に救われると考えているのだから。
ここで、ニーチェはまだ神は人々の間では「死につつあるが、死んでいない」と考えてい
るだろう。
キルケゴールは『死にいたる病』の緒言(
>>391 )で、地上的な死はキリスト教的な意味で
は死にいたらないものであり、絶望を死にいたる病としました。病人は死人ではありませ
んから、「死にいたる、けれども死んでいない」人と考えていて、神自身は死んだ(死ぬ)
とは考えていませんでした。
>>495 で両者の似ている点を書きましたが、同様に人々のニヒリズムにある状況と絶望・罪
にある状況が類似しており、両者の違いとして神の生死があり、その状況から向かう方向
が異なることになります。
502 :
1 :2011/02/18(金) 22:20:41 0
ニーチェ『道徳の系譜』No.42
【キリスト教】(
>>480 参照)
【本文】
・人類の解放が進み、すべてがユダヤ化し、キリスト教化し、賤民化しているのははっき
りしている(T.9 P55)。
・キリスト教は、「精神的に慰める手段の一大宝庫と呼」べる(V.17 P260)。
・「あの反ユダヤ主義者たちも好まない。彼らは最近はそのキリスト教的で、アーリア人
的で、実直な人間らしいまなざしを向けて、きわめて月並みな扇動方法である道徳主義
的な態度をうんざりするほどに濫用して、民衆のうちの頓馬な人々をすべて煽ろうとし
ているのだ」(V.26 P318)
★まとめ
イエスでも少し触れた(
>>467 )ことですが、ニーチェはキリスト教を厳しく批判します。
【本文】2つ目の中点にあるようにキリスト教も禁欲的理想とともに精神的に人々を慰め
るものとして機能します。
また司牧者がまずルサンチマンの方向転換をしたと(
>>494 )大きな役割を果たしたと述べ
ます。
503 :
1 :2011/02/19(土) 21:40:09.63 0
ニーチェ『道徳の系譜』No.43
【意志】(
>>480 参照)
【本文】
・「力とは欲動、意欲、作用そのものなのである」(T.13 P73)。
・ルサンチマンから生まれた多数者の特権という言葉が、人間を衰退させ、頽落させよう
とする意志として表れていたのに対し、ナポレオンは抗していた(T.16 P90)。
・道徳の系譜学者は、これまで負い目が負債から生じ、刑罰が一つの報復として発展して
きたと考えたことはない(U.4 P109)が、実際には債権者と債務者の契約関係から
負い目は生じ、損害と負債が等価であるという考えから刑罰は生じたのである。
・人間が善悪において絶対的な自発性をもつという「自由意志」の考えは、哲学の発明だっ
た」(U.7 P123)。
・
>>465 レーの考えに関連して、疚しい良心と「自虐の意志があって、初めて非利己的な
ものの価値の前提が生まれた」(U.18 P164)。
・人間は動物的な本能から解放されないために、その反対物として「神」を考えだし、動
物的な本能を神に対する負い目として考え、神の審判、彼岸といった概念を生み出した。
これはある種の意志の錯乱である」(U.22 P174)。
・「哲学者」は精神の意志、責任を負う意志、意志の自由をもっているのだろうか?(V.10 P228)
そのような意志は、官能性、自我、みずからの実在性を否定し、理性を真理と実在から
追放する(V.12 P233)。
・芸術では疚しい良心を働かせずに欺瞞への意志が働くことができるので、芸術は学問よ
りもはるかに禁欲的な理想に敵対するものである(V.25 P309)。
・人間は何も意欲しないよりは、むしろ生を否定する、虚無を意欲することを望むもので
ある(V.28 P328)。
504 :
1 :2011/02/19(土) 21:43:03.93 0
ニーチェ『道徳の系譜』No.44
【力への意志】(
>>480 参照)
【本文】
・目的や効用は、「力への意志が自分よりも力の弱いものを支配する主人となり、ある機
能の意味を力の弱いものに押しつけたという<しるし>にすぎない」(U.12 P140)。
・「生の本質とは力への意志にある」(U.12 P143)。
・自己への暴力として疚しい良心を産んだものは、芸術家において働いた能動的な力や国
家を建設した能動的な力と同じ、力への意志であり、消極的な理想を構築した(U.18 P162)。
・「これ(禁欲的な生 引用者注)は生の一部として存在するものではなく、生そのもの
を支配しようとし、生のもっとも深く、強く、奥底にある条件を支配しようとする力へ
の意志と、飽くことなき本能が抱くルサンチマンなのである」(V.11 P232L9)
・どんな形であれ優越感を誇示したいという、弱い者の力への意志はいつでもどこでも誰
にでも存在する(V.14 P245)。
・禁欲的な司牧者は、自ら病気であると同時に、「強い者であらねばならないし、他者よ
りもまず自己を支配することができなければならないし、力への意志の強さにおいて揺
るぎのない者でなければならない」(V.15 P250)。
・そして、「禁欲的な司牧者は「隣人愛」を処方することによって、根本的にもっとも強
く、生をもっとも肯定する衝動−−すなわち力への意志を処方するのである」(V.18 P270)。
・強い者たちは力への意志を満たそうと結合するが、結合することに対して良心の強い抵
抗を感じざるをえないのである。「反対に弱い者たちが手を結ぶのは、結合することに
快感を覚えるからである」(V.19 P272)。
505 :
1 :2011/02/19(土) 21:50:38.39 0
ニーチェ『道徳の系譜』No.45
【意志】、【力への意志】(続き)
★まとめ
「力への意志」が事項索引の最後ですので、人名索引のまとめ(
>>478 )のように、ニー
チェのマイナス評価、プラス評価を考えてみます。
プラス評価のものを拾っていくと、「生の本質」(U.12 >>【本文】)、「生をもっとも
肯定する衝動」(V.18 >>【本文】)とあり、道徳やルサンチマンを乗り越えていくもの
として評価しています。
しかし、一方で「優越感を示したい弱い者の力への意志」(V.14 >>【本文】)、「ル
サンチマンは力を用いて力の源泉を塞ぐ」(U.11
>>494 )、「力への意志が内向きにな
り疚しい良心を作り、消極的な理想を構築した」(U.18
>>496 )とマイナス評価とされ
るようなものもあります。
となると、意志の一つの形態であるルサンチマンが善悪の道徳的価値転換を生み(
>>495 )、
ルサンチマンの蓄積から力への意志が内側に向いて歪み疚しい良心を作りだし(
>>496 )、
禁欲的な生を力への意志とルサンチマンが生み出す(>504)ととらえるとき、力への意志
は単純にプラスマイナスではいえない、
>>495 でのルサンチマンのように力への意志はも
う少し別のとらえ方をする必要があると考えます。
>>495 でキルケゴールの関係性による人間理解とニーチェの2項対立による人間理解をみ
ました。キルケゴールにおいても無限性と有限性といった2項対立も単純なものではなく、
>>440 でみたように諸契機による諸関係の綜合があり、諸契機として「つまずき」をみられ
ないかと考えました。
ニーチェでも、諸々の力への諸々の意志の交錯する場として人(の生)と考えてはどうだろうか?
『ニーチェ事典』からの孫引きですが、「力への意志は存在でも生成でもなく、
パトスであるということは、最も基本的な事実であり、そこからはじめて生成や作用が生
ずるのである」と遺稿集U.11.74にあるということからも、こう言えそうです。
506 :
1 :2011/02/19(土) 21:53:17.09 0
ニーチェ『道徳の系譜』No.46
【意志】、【力への意志】(続き その2)
そして、キルケゴールの「つまずき」を自分にとっての神の不在を気づき、確認し、乗り
越えていく契機としてみると、ニーチェにおいては「ニヒリズム」といえそうです。で、
あればキルケゴールの信仰にあたるものはニーチェにとって何になるのでしょうか。
ここで再び「力への意志」に戻ってきてしまいます。生の本質が諸力への諸意志にあり、
そこから生が(生を否定するものも含めて)生まれでてくるのですから。となると、力へ
の意志についてのニーチェの評価がプラスかマイナスか僕が判別に迷ったのは当然でしょ
う。
ここまできたのでもう一歩先に進んで、諸力への諸意志が交錯する場から外へ向けて生を
肯定して溢れ出していく力が、力への意志として人を救うものと僕は読みたくなります。
しかし、『道徳の系譜』ではここまでのようです。
「しかしわたしはここで何を語ろうとしているのか?(略)ここでわたしがなすべきこと
はただ一つ、すなわち沈黙することだ。口を開けば、わたしよりも若い者、「より未来な
る者」、より強い者だけに許されていることに手出しをすることになるだろう。−−ツァ
ラトゥストラだけに、神なき者だけに許されていることに……。」(U.25 P182)
>>421 ,
>>422 の続きを書いて、ここまでのまとめとします。
【1−神についての考え、2−行動の原則、3−行動するときの根源となるもの で比較】
ニーチェ
1 生を否定するものとしてこれまで機能してきて、現在では死につつある。
2 生を肯定する
3 力への意志
507 :
1 :2011/02/20(日) 20:24:38.66 0
508 :
1 :2011/02/22(火) 22:29:00.26 0
ニーチェ『道徳の系譜』No.48
【カール・レーヴィット】
哲学畑の人にとっては知っていて当然の人なのでしょうが、僕は先月のキルケゴールの際
に初めて知った人でした。簡単にまとめておきます。
【人物】
ユダヤ系ドイツ人の哲学者。1897年ウィーンで生まれる。第一次大戦に従軍後、ウェーバー、
ハイデガー、フッサールらの影響下で哲学および社会学を学び始め、ニーチェに関する論
文で学位を取った後、1928年からマールブルク大学で哲学と社会学を講じた。1933年のナ
チス政権奪取に伴い、1935年から1941年まで仙台の東北大学で教鞭を取った。1941年にア
メリカへ亡命し、1952年に帰国してハイデルベルク大学教授となった。1973年死去。
主な著作 『ヘーゲルからニーチェへ』、『歴史における意味』
★まとめ
1933年大学での講演を基とする『キルケゴールとニーチェ』は「現代の哲学を特色づける
2つの根本概念−−「生」と「実存」−−は、もとニーチェとキルケゴールによって発見
され、そうして造られた」と始まります。1930年代の現代哲学の研究でもあったわけです。
ニヒリズム(
>>500 )をめぐる両者の取組みを、以下のように整理しています。
1 ニヒリズムの原因
2 ニヒリズムから抜け出す道
キルケゴール
1 神を失えるものである人間にもとづく。
2 キリスト教的意味の獲得、キリスト教的超克を目指す。
ニーチェ
1 近代のキリスト教以後の人間が相変わらず神から抜け出ていないことにもとづく。
2 現存在はいわゆる意味をもち、またこのような意味を「必要」とするのかという問い
を立て、哲学的超克を目指す。
509 :
1 :2011/02/22(火) 22:31:51.34 0
ニーチェ『道徳の系譜』No.49
【ジル・ドゥルーズ】
書くまでもない人ですが、ごく簡単に見ておきます。
【人物】
フランスの哲学者。1925年パリで生まれる。ヒューム、ベルクソン、スピノザ、カント、
ニーチェ等についての著作ののち、『差異と反復』、『意味の論理学』、ガタリとの共著
による『アンチ‐オイディプス』『千のプラトー』など独自の概念で哲学を展開する。
1995年投身自殺により死去。
「力への意志と永遠回帰の思考は差異と反復の思考である。」とニーチェ事典にあり、
http://www.iep.utm.edu/deleuze/では 、スピノザを除けば、ニーチェはドゥルーズにとっ
てもっとも重要な哲学者である、とされています。
★まとめ
『ニーチェと哲学』(河出文庫)の「結論」の章は「現代哲学は混合状態を見せている。
この状態は哲学の力強さと活発さを示しているが、しかし精神にとっての危機も含んでい
る。」(P374)と始まります。1960年代のマルクス主義、実存主義、構造主義、現象学が
林立し、哲学にとっても危機のなかでニーチェを読み解きます。
主に第4章怨恨から疚しい良心へで『道徳の系譜』を、力への意志(
>>504 )について能動
的と反動的を軸に、能動的諸力と反動的諸力のせめぎ合いとみて、ルサンチマン、疚しい
良心、禁欲主義的理想を反動的諸力の勝利と位置づけて読んでいます。
また、「ニーチェは『道徳の系譜』において『純粋理性批判』をやり直したかったのだと
結論しなければならない」(P178)とします。ルサンチマンを「自分の為しうることから
分離された力の誤謬推理」、疚しい良心を「精神的で創造的な出来事から分離」ず、「二
律背反的」で、禁欲主義的理想を「道徳と認識のあらゆる虚構とを包含する<理想>とい
う欺瞞に関わっている」と読み、カントの純粋理性の弁証論(
>>310 )の「純粋理性の誤
謬推理、純粋理性のアンチノミー、純粋理性の理想」と類比的にとらえます。
ところで、財津理さんは「『差異と反復』は、訳者には、カントにおける『純粋理性批判』
に対応するように思えてならない。」(『差異と反復』P407 )と書いています。となる
と、『純粋理性批判』−『道徳の系譜』−『差異と反復』がつながるのか?
510 :
1 :
2011/02/22(火) 22:32:55.14 0 ニーチェ『道徳の系譜』No.50
【ホルクハイマー】
この人もかなりの有名人だと思いますが、念のため。
【人物】
ユダヤ系のドイツの哲学者、社会学者。1895年生まれ。フランクフルト大学の社会研究研
究所の創設に参加した、フランクフルト学派の代表だったが、1934年にアメリカに亡命し、
コロンビア大学で教鞭をとる。戦後フランクフルト大学に戻り、同研究所所長、同大学学
長を務めた。1973年死去。主な著作 『啓蒙の弁証法』(アドルノとの共著)
http://www.ub.uni-frankfurt.de/archive/horkheimer_en.htmlでは以下のとおりあります 。
"the Enlightenment promised freedom and progress through reason and knowledge,
reason and knowledge have instead become instruments of domination, enabling more
efficient and extensive control not only over the natural environment, but also
human beings. "
「啓蒙主義は、理性と知識を介して自由と進歩を約束していた。しかし一方で、理性と知
識は、自然環境のみならず人間に対してもより効率的で広範なコントロールを可能とする
ことを通して、支配の道具となってしまった。」
★まとめ
道徳(
>>493 )でのニーチェの生と道徳を対立するものとする見方を、意志(
>>503 )、力
への意志(
>>504 )の主体性・支配性の観点から捉え直して、第2補論「ジュリエットあ
るいは啓蒙と道徳」で、カント、サド、ニーチェを取り上げます。
カントの「「同時に自己自身を普遍的立法者とした対象に持つことのできる意志、そうい
う自分の意志の立てる格率にもとづいてすべてを行う」というカントの原理は、また超人
の秘密でもある。超人の意志は定言命法に劣らず専制的である。超人の意志は定言命法に
劣らず専制的である。二つの原理は外的諸力からの独立を、つまり啓蒙の本質として規定
された「一本立ちの大人になること」を、目ざしている。」(『啓蒙の弁証法−哲学的断
想』ホルクハイマー・アドルノ著 徳永恂訳 岩波文庫 P232,P233)と、生を支配して
いる道徳を越えていくとニーチェが捉えた力への意志が、それを乗り越えた時点から生を
支配していく担い手として機能することを批判します。