幸福・栄耀・長命の生涯をのみ求めて、有徳の一生を願わぬ人間は、いつも華麗な、威勢のよ
い、長ったらしい役割につくことばかり望んで、演ずることの種類や分類よりも、演じ方のほう
がはるかに大切なことを悟れぬ、愚かな役者にも比べられましょう。
他の人々のあられむべき気の毒な様子を見ると、わたしたいがどかく尊大になったり或いは柔
和になったりするのは、なぜでしょうか? 等しく他人の哀れな様子を見るということが、甲に
対しては尊大ならしめるのに、乙に対しては柔和ならしめるというごとく、異なって作用するよ
うになるのですが、これによって、それぞれの性格が区別されることにもなります。
スェーデンボルグは、その著『キリスト教の真理』(第四〇〇節)において、「利己的な人は、
なるほど、肉体の眼をもっては、他の人々をも人間として見るけれども、その心の眼をもっては、
ただ彼自身と自分の親類縁者とを人間と見るだけで、しかも他の人々をそれこそただの蛆虫くら
いにしか見ていない」と言っています。―この言葉は、真の意味においてはカントの「人は他
人をけっして単に手段と見なしてはならない、必ず、自己目的と見なさなければんらに」と
いう規則と同じものであります。―にもかかわらず、二つの表現は、なんと異なったものなの
でしょう。スウェーデンボルグ(この人の流儀や考え方は、この句以外ではどうもわたしには好
きになれないのですが)のほうは、いかにも溌剌として、鋭く適切で、直観的・直接に言い尽し
ているのに、カントのほうは、いかにも間接・抽象的に、或る演繹された記号を使って言い表わ
したものです。
ヴァティカンの宮殿に、ピアスの半身像があります。それに彫りつけられた銘に曰く、
おおかたの人は悪しき人なり
思うに、この句は、ピアス自身の作った命題に相違ありますまい。
わたしたちが赤ん坊のときに一、二年間泣きつづけたからとて、一生涯を通じてさまざまな子
供たちの泣き声を毎日のように聞かされるのは、余儀ないこととはいえ、厄介なつらい話です。
性格は、先天的であって、―さまざまの行為はことごとくこの性格の現われですが、―重
大な罪悪のきっかけはしばしば起こるものではなく、―たいていは強力な反対動因におどかさ
れてやめてしまい、―自分自身には自分の性状が願望・思想・感情などを通じてはっきりとわ
かるけれども、他人には知られずにすんでいるからよいようなもの、―考えてみると、たと
い大それた悪事を実行しなくとも、人それぞれに或る程度まで生まれつきの悪い心を所持してい
るもののようです。