2 :
考える名無しさん:2010/09/29(水) 18:58:53 0
価値判断は事実判断から出てこない
善や正義は他の言葉で定義できない
ウィキペディアってのがもうだめだってのがなんで分からんかね。
テレビのチャンネルあわせてるだけじゃいかんのよ
あぼーん
分析倫理学って聞いたことないぞw
あるよ
>>3 「定義できない」ことはありえない
なぜなら定義とは規約だからあくまで任意にできる
9 :
考える名無しさん:2010/09/30(木) 16:06:16 0
wikipedia読まないで二行でまとめてもらおうと思ってたけど、
読んだら二行でまとまってたw
>>3 サールによると価値判断は事実判断から導出できるらしいよ
あれは事実に関する発話を指令的な行為として解釈した場合の話
12 :
考える名無しさん:2010/10/28(木) 01:31:59 0
サール自身も約束などの発話行為は規範的制度を前提にしていることを認めているね
ピーター・シンガーって乳児の眼球を取り出して
角膜を移植するようなことは容認するんですか?
彼の主張からすれば容認して然るべきだと思うけど。
ロールズ正義論新訳予約しました
15 :
考える名無しさん:2010/11/14(日) 09:26:05 0
倫理学と言うのは、人は如何に行為すべきか、と言う学問だろうな?
その時、人は何が真実で何が虚偽であるか、知っているべきである。
この世界の真実を知っているなら、その真実に合致してる行為をすべきである。
そして相手の、不真実の行為に騙されないようにするのである。
要するに聖人の行為を勉強する学問であろう。
ゴーダマさんは、「人の振る舞い」と言うことを言われた。これが倫理である。
16 :
考える名無しさん:2010/11/22(月) 14:09:56 O
ヒュームの法則、あれは間違っとる。
「XはAを欲している」(事実判断)
「AはXに価値がある」(価値判断)
はい、論破。
よくわからんな もう少し敷衍してくれ
18 :
考える名無しさん:2010/11/22(月) 17:46:35 O
「XはAを欲している」(事実判断) ならば「AはXに価値がある」(価値判断)
と言えるし、逆に
「AはXに価値がある」(価値判断) ならば「XはAを欲している」(事実判断)
とも言える。
ある物が価値があるかないかは、主体の欲望と相互依存的であって、この場合は事実判断も価値判断も違いはないということ。
ちなみに、価値判断と当為判断は別物なので誤解ないように。
お前がどのヒュームの法則のことを言ってるのかわからんが、このスレの内容である以上はデビッド・ヒュームの提唱した理論だろう
だとしたら勘違いしている可能性がある
というか、そのレスだと勘違いしてるようにしか見えない
ヒュームの法則ってのは、例えば
【子供が転んだ】
という記述があったとする
それに対して、
【「助け起こすべきだ」や「放っておくべきだ」とは言えない】
っていう考えだぞ
>「XはAを欲している」(事実判断)
>「AはXに価値がある」(価値判断)
どう考えてもぶっ飛んでるだろ
20 :
考える名無しさん:2010/12/04(土) 09:06:01 0
>>12 A「任意の人xが他の任意の人yに対して1万円を支払うことを約束した」から
B「xはyに対して1万円を支払うべきである」が導出されるためには、
「xがyに対してある事柄を約束したならば、xはyに対してその事柄を行うべきである」が真でなければならない。
しかし、これはあくまで規約であって、その真偽は客観的に定まるものではない。
したがって、事実判断<だけ>から価値判断が導ける、とは言えない。
21 :
考える名無しさん:2010/12/05(日) 13:49:27 0
22 :
勝手批評:2010/12/12(日) 16:19:09 0
>>16>>18 「XはAを欲している」(事実判断) =「AはXに価値がある」(価値判断)
こんなに単純に欲求=価値にしてしまうと
「私は人を殺したい。だから殺人には価値がある」ということになってしまうが
これは永井均解釈によるニーチェの道徳としては正しいが、この場合の「価値」
はいわゆる「道徳」とは相容れなくなる。
或いは
「私は排泄をしたいと欲している。だから排泄には価値がある。」
「私はあくびがしたいと欲している。だからあくびには価値がある。」・・・
とか何とでも言えてしまうということも明らか。
>>22 横レスですまん
私は人を殺したい、だから<私にとって>殺人には価値がある
ということだろ
価値はこの場合、<私にとって>という具合に限定されている
道徳と相容れないということはないんじゃないか
排泄がきちんとできることには価値があるぞ?
高齢者になって禁制を保てなくなって初めて意味が分かるようになる。
25 :
勝手批評:2010/12/12(日) 22:59:53 0
>>23 殺人の例の場合はいくらその人が「<私にとって>価値があるという具合に限定」したところで
他の人、特に殺される側は必然的に巻き込まれるので限定などされていないことが明白だろう。
もちろん例えば誰にも迷惑がかからないようなことなら23の言う通りで、それは
「趣味の問題」で通るわけだが。
>>24 排泄は一つの例として挙げただけで、要するにあらゆる人間の欲求が価値ということ
ならごく些細なことまで「価値」になってしまうという意味だったんだが。
「私は頭を掻きたいと欲している。だから頭を掻くことには価値がある。」
「私は右手を上げたいと欲している。だから右手を上げることには価値がある。」 ・・・
そもそもこれだと明白に矛盾したことも言えちゃう。
「私は価値が無いことをしたいと欲している。だから価値が無いことには価値がある。」
26 :
16,18:2010/12/13(月) 10:32:39 O
>>16,18です。
基本的な解釈としては、
>>23さんの言ってることで大丈夫です。
もう少し言えば、「私にとって」というより、「欲求主体にとって」の方が正しいですかね。
主体の範囲をしっかり限定できれば、それは国家とかでもいいわけですし(仮に日本国民が全員、マグロが好きならマグロは日本国民に価値があるわけです)。
で、
>>25(勝手批評)さんの言うように、「個人的な価値と倫理的な価値は違うのではないか」といった問いに関しては、しっかりとそれらの価値の違いを意識した方がよいと思います。
結論から言うと、「ある行為(や性質)Xに倫理的価値があるのは、全体(あるいは他人)の幸福に対して有用だからである。」という原理でかなりの部分を説明できると思います。
また後ほどレスします。
27 :
16.18:2010/12/13(月) 11:27:19 0
>>26の続き
価値の区別について
(1)「募金することは善いことだ。」、「嘘をつくことは悪いことだ」、「身を犠牲にしてまで子供を助ける行為には価値がある。」
(2)「このハイブリット車は、なかなか良い。」、「このパスタは味が悪い」、「この古ぼけた写真は、私にとっては価値がある。」
(1)の三つの例文は、どれも倫理的な意味で善悪を判断しています。
他方、(2)の三つの例文は、どれも倫理的な善悪ではなく、個人的な観点から車やパスタ、写真の良し悪しを判断しています。
これらの例から分かることは、「よい−悪い」及び「価値」という語は、
倫理的な意味でも、非倫理的な意味でも使用されるということです。
では、倫理的な価値と非倫理的な価値、または倫理的な善悪と個人的な良し悪しを分ける特徴は何でしょうか?
つまり、倫理的価値にはあって、非倫理的価値にはない「倫理性」という性質はどういうものなのでしょうか?
28 :
16.18:2010/12/13(月) 11:32:46 0
>>26の続き
倫理性の根拠について
倫理的価値と非倫理的価値を分ける特徴、つまり倫理性を探すために、次の事例を分析してみましょう。
どちらの事例も明らかに倫理的な行為です。
「自分の身体を犠牲にして他人の生命を救う」
「飢えている他人に自分の食物を恵む」
まず、これらの事例について、行為の実質的な構成要素を調べる必要があります。
それは、行為に関わるのは自己と他人ですから、自己の側と他人の側とに分けることができるでしょう。
自己の側におけるそれらの行為の構成要素は、
(1)身体を傷つけることと食物を失うこと、及び
(2)他人に対して行為するということです。
それに対して他人の側における構成要素は、
(3)生きることと食べること(即ち生存するということ)、及び
(4)自分に対する行為を受けるということです。
これら四種の構成要素は、次のように一般化することができます。
(1)幸福に対する反有用性
(2)対他性
(3)幸福に対する有用性
(4)向自性
29 :
16.18:2010/12/13(月) 11:34:19 0
>>26の続き
事例の行為は自己(行為者)における反有用性と対他性、
及び他人(対象者)における有用性と向自性という要素から成っていると言えるでしょう。
四つの構成要素のうち、
(1)の幸福に対する反有用性、(3)の幸福に対する有用性は
それ自体倫理的(=倫理に関わる)でも非倫理的(=倫理に関わらない)でもないですし、
或いは逆に言えば、倫理的でも非倫理的でもありえます。
また、倫理的であれ非倫理的であれ、あらゆる行為は誰か(自己一般)に向けられたものですから、
(4)の向自性はあらゆる行為、従ってあらゆる価値において存在することが分かります。
それ故、それら三つは妥当しないのであり、倫理性の根拠は結局(2)の対他性にあると予想されます。
試しに、対他性を除去して先の事例を見ると、
単に「自分の身体を傷つける」及び「自分の食物を失う」、
或いは「自分の生命を守る」及び「自分の飢えを凌ぐ」となり、明らかに倫理性が消滅してしまいます。
従って、倫理性の根拠は究極的には対他性にあると言えます。
このような倫理の対他性は、倫理というものが各人の言わば「中」に自ら生まれるのではなく、
人と人との「間」においてのみ生み出されるものであることを示しています。
倫理性は、自分に対するのではなく他人に対する(他人のため)という形式的な要素によって生み出されるのです。
30 :
16.18:2010/12/13(月) 11:39:15 0
>>26の続き
価値の根拠について
倫理性の根拠は、「対他性」であるということが分かりました。
では次に、そもそもの「価値」の根拠についてはどうでしょうか。
つまり、あるものが「価値をもっている」と言えるためには、どのような条件が必要なのでしょう?
先の二つの例「自分の身体を犠牲にして他人の生命を救う」
および「飢えている他人に自分の食物を恵む」から、
倫理性を見いだしたときと同じように四つの構成要素に注目してみましょう。
(1)幸福に対する反有用性
(2)対他性
(3)幸福に対する有用性
(4)向自性
31 :
16.18:2010/12/13(月) 11:40:21 0
>>26の続き
まず、(1)の幸福に対する反有用性(「身体を傷つける」「食物を失う」)は明らかに、
害悪や損害であって、価値をもっているとは到底言えません。
次に、(2)の対他性(他人に対して行為をする)、(4)向自性(自分に対する行為を受ける)
に価値があるかどうかは、あくまで行為の内容次第であって、対他性や向自性だけからは価値の有無は確認できません。
そこで、(3)の幸福に対する有用性(生きることと食べること)に関して言えば、
これは明らかに価値を持っていると言えます。
したがって、あるものが価値をもっていると言えるのは、それが幸福に対して有用だからです。
しかし、幸福に対する有用性といっても、これにはもう少し説明が必要が要ります。
まず幸福という観念がどのように形成されるのかを考えます。
人間はあらゆる場面において、様々な欲求を満たそうとすることによって行動します。
「食事をしたい」「身体を休めたい」「社会的名声を得たい」等々。
ところが言うまでもなく、欲求は常に充足されるとは限りません。
充足に成功する場合も失敗する場合もあります。
そしてもちろん、成功する場合は主体の存続・発展や活動にとってプラスの作用を、
失敗した場合はマイナスの作用を及ぼし、またそのように意識されます。
つまり、欲求が満たされるときには幸福を、満たされないときには不幸を感じるのです。
このようにして、欲求充足の成否が幸不幸をもたらすことになるのです。
32 :
16.18:2010/12/13(月) 11:41:24 0
>>26の続き
ここに至って、欲求と価値との関係は明らかでしょう。
つまり、主体は欲求を充足してくれる対象に価値を認めるのです。
例えば、空腹時においては食物には価値があるし、身体を休めたいときには安全な場所は価値を持つことでしょう。
人間は自己の欲求が充足されることによって幸福を感じますが、
その幸福に役立つものに価値を認めるのであり、
逆に不幸をもたらすものに反価値を認めるのです。
つまり、幸福及び不幸がそれぞれ究極的価値および究極的反価値であり、
その手段がそれぞれ価値および反価値なのです。
このようにして、欲求という人間の基本的性質から幸福の意識が生まれ、
そしてそれにもとづいて価値の観念が形成されるわけです。
欲求と幸福と価値、これらが一つの連鎖を成しているということが分かります。
したがって、あらゆる価値の本質ないし根拠は、欲求またはその充足にある、と言えます。
言い換えれば、幸福およびそれに対する有用性にあると言うことができます。
33 :
16.18:2010/12/13(月) 11:46:43 0
>>26の続き
以上のことから、価値について次の性質が認められます。
(1)欲求を持つのは、何らかの主体である。
したがって、価値とは何らかの主体にとって存在する。
価値が成立しうるためには、それを評価しうる主体がなければならない。
(2)欲求は満たされる場合も、そうでない場合もある。
したがって、価値または善には本質的にプラスとマイナスという区別がある。
すなわち「善い―価値がない―悪い」という区別である。
(3)各欲求には、それらの間での大小や高低が存在する。
したがって、価値にも高低や大小がある。
我々はあらゆる価値についてその有無及び程度を問題にすることができる。
34 :
16.18:2010/12/13(月) 11:47:54 0
>>26の続き
道徳の理由について
倫理性と価値の根拠については以上のとおりです。
しかし、まだ倫理的価値と非倫理的価値の関係は明らかではありません。
というのも、倫理的に悪いものが、直ちに自分にとって価値がないとは言えないかもしれないからです。
たとえば、物を盗む行為や嘘をついて自分だけ得をするといった行為は、倫理的には悪い行為ですが、
しかし、それが自分にとっても悪いとは全面的に同意できないかもしれません。
少なくとも、一時的には、物を盗んだり、嘘をつくことで自分だけが得をできるのであれば、
それらの行為はやはり自分にとっては価値があるとは言えないでしょうか?
そこで、倫理的価値と非倫理的価値がどのように関わっているのか、
そして、なぜ倫理や道徳なるものがあるのかということを考えみましょう。
道徳の存在意義、道徳の役割、そこを確認することで、
倫理的価値と非倫理的価値との関係を明らかにすることができるはずです。
まずは次のことを確認しておきましょう。
人間は社会的存在である。
言うまでもなく、人間が他人と協力せずに一人で生きていくというのは
そう簡単なことではありません。
食物や住居を安定的に確保することから、外敵から身を守ることまでを一人で行わなければならないからです。
そのようなわけで、人間に限らず多くの動物がリスクを分散するために社会的共存を図るわけです。
35 :
考える名無しさん:2010/12/13(月) 11:52:31 O
>>26の続き
しかし、社会的共存は大変困難な課題です。
一方において、社会の成立・存立とは、多数の人間が一定の安定した秩序の下で平和に暮らすということです。
したがって、そのためには、大多数の人々において利害や意見の基本的な一致、
或いはある程度の共通性がなければなりません。
ところが他方、人間も一個の生物であり、あらゆる生物がそうであるように、自己保存を根本原則とします。
それ故全ての人間は自己中心的たらざるをえません。
そうである以上、自他の要求は物質的なものに関しては全面的かつ絶対的に、
精神的なものについてもかなりの分野で相当程度、対立することになります。
このようにして、人間は根本的な自己矛盾に陥ることになります。
一方で、自己保存に不可欠な社会的共存のために自他の一致を図らなければならず、
しかしまた他方で、同じ自己保存の本性の生み出すエゴイズムからして自他の対立は避けられないのです。
そこで、こうした状況を克服するために、人間が生み出した方法が社会規範です。
ここで言う社会規範とは、風習や法(政治権力)を含んでおり、
その中の一つに倫理や道徳というものがあります。
さて、あらゆる社会規範に共通する根本的存在意義とは何かと言えば、
それによって人々の社会的共存が成り立つということ、
更にはより良好な人間生活が可能になるということです。
そして、そのために社会規範が基本的に要求するのは、エゴイズムの抑制であり、
従ってまた、個人的・恣意的な判断や行動の禁止です。
つまり、相互的自己抑制によって、対立を防止し自他の調和を図ろうとするのです。
換言すれば、倫理や道徳とは、各人に一定の限度内において自己の幸福よりも全体の幸福を優先させ、
そうした自己幸福の抑制にもかかわらず、結局より大きな幸福を各人にもたらし、
社会的共存を可能にすると言えます。
36 :
考える名無しさん:2010/12/13(月) 11:55:36 O
>>26の続き
ここに至って、倫理的価値と非倫理的価値との関係も明らかでしょう。
社会的共存を図る以上、倫理的価値とは、一般的に各人に幸福をもたらすのです。
つまり、各人が倫理にしたがって物を盗んだり嘘をつくような一時的には得かもしれない行為を
自制することは、長期的に見れば結局は各人により大きな幸福をもたらすことになるのです。
37 :
考える名無しさん:2010/12/13(月) 11:56:59 O
>>26の続き
以上のことから、次の二つの原理が認められます。
原理1「あるものがある主体にとって価値があるのは、その主体の幸福に対して有用だからである。」
原理2「ある行為(や性質)がある社会にとって倫理的価値があるのは、他人(社会)の幸福に対して有用だからである。」
そして、倫理的価値が各人の価値になりうるのは、以下の論理展開で説明できます。
(1)各人は彼自身の幸福を望んでいる
(2)従って、各人の幸福は彼自身にとって価値がある
(3)ところで、全ての人々は社会的存在であるから、一般的に被行為者として存在している。
(4)そして、社会的生存は、他人の幸福への配慮が一般的に存在している場合のみ可能である。
(5)従って、全ての人々は一般的に他人(被行為者)の幸福を望んでいる。
(6)従って、他人(社会)の幸福は全ての人々にとって一般的に価値がある。
このように、自己の幸福を最大化するには一般的には他人にも配慮した方がよい、
という非常に常識的な結論が導かれます。
終わり。
38 :
考える名無しさん:2010/12/13(月) 11:59:36 O
連投失礼いたしました。
39 :
勝手批評:2010/12/13(月) 13:59:50 0
>>16>>18の意見とは大分違うなあ・・・
>>26 >主体の範囲をしっかり限定できれば、それは国家とかでもいいわけですし
国家が欲する、というのは文学的過ぎる表現だな。言いたい事は分かるが
精確な定義が出来るかと言えば・・・
要するに功利主義ということなんだが、これは欲求=価値という話とは繋がらないのでは?
功利主義なら全体の効用=価値だろう。
40 :
考える名無しさん:2010/12/13(月) 14:50:36 O
>>39 >国家が欲する、というのは文学的過ぎる表現だな。言いたい事は分かるが
精確な定義が出来るかと言えば・・・
失礼。国家ではなく、(日本)国民の間違いでした。
>要するに功利主義ということなんだが、これは欲求=価値という話とは繋がらないのでは?
そうです、いわゆる功利主義ですね。
ただ、押さえておいて欲しいのが、
・価値全般と倫理的価値の区別
・欲求の充足=価値(正確には=ではないですが)
・倫理的価値は、人間の対他的な行為(や性質)に関する価値であり、かつ、他人の欲求を充足するものに認められる。
なので、
>功利主義なら全体の効用=価値だろう。
これに関しては、正確には
全体の効用に有用な人間の行為(や性質)=倫理的価値 です。
たとえば、生存に不可欠な酸素は全体の効用になりますが、それが道徳的によいものとは言えないでしょう。
41 :
考える名無しさん:2010/12/13(月) 15:04:02 O
で、
>>18の話が何なのかと言えば、
「人類は皆、他人に殺されないことを欲している」(事実判断)
ならば、またそのときにかぎり
「殺人の禁止は、人類に倫理的価値がある」(価値判断)
というように
「Xたちは、Yを欲する」(事実)のXとYを確定できれば、理論的には事実から倫理的価値も出てくるという話。
たしかに、ヒュームの法則は事実判断からは(価値判断ではなく)当為判断は導けないといってるけど、上の式を少しいじれば、当為判断が出てくるバージョンもできる。
42 :
勝手批評:2010/12/14(火) 04:24:59 0
>>40 (日本)国民としたところで同じことだな。様々な考えを持った人々を十羽一絡げにする
わけで。
>・欲求の充足=価値(正確には=ではないですが)
カッコの中身が気になるが。
>>41 >「人類は皆、他人に殺されないことを欲している」
うーん、他人に殺されないことを欲しているってだけだと「自分以外を殺すことを欲する」
ことは禁止できないんじゃない?
それから「XはYを欲する」が倫理的かどうかはまた別の基準で導かれてるような気がするんだが。
だからこのXとYを確定しただけじゃダメだろう。
哲板で倫理学スレがこのスレくらいしかないのは何故でしょうか?
メタ倫理学は、規範倫理学の存立基盤が崩れてしまった故の、一種の自家中毒のようなものに思えるのですが・・・。
確かR.M.ヘアとかは規則功利主義を分析哲学的に基礎付けしようとしていたような記憶がありますが、
それ以降の状況がわかりません・・・。
自分で立てればいいでしょ
45 :
考える名無しさん:2011/01/17(月) 14:50:48 O
徳倫理学や進化倫理学とかが最近は盛んかな。特に後者。
46 :
考える名無しさん:2011/02/01(火) 09:15:59 0
そうか?
47 :
考える名無しさん:2011/02/01(火) 21:25:13 O
ヒューム生誕300年で、論文を募集してるね。
賞金20万円くらい。
48 :
考える名無しさん:2011/02/02(水) 10:51:29 0
出してみるわ
>>43 倫理道徳、よさとか正しさとか、人によってあるいは時代や国で変わるようなものは
扱う価値が無いとか、哲学の対象ではないとか哲板の雰囲気がそんな感じだから。
ヘア以降はロールズの登場のおかげで規範倫理が盛んになった。
やかましくメタ倫理的な議論をするのはやっぱり不毛だったと気づかれた。
それが不毛だと思えてしまうのは
君がすでに規範倫理を前提にしてしまってるからだよ
51 :
考える名無しさん:2011/02/12(土) 02:25:18 0
価値概念の分析だけから説得力ある規範がでてこないのはヘアの失敗から明らかだろ
>説得力ある規範がでてこない
規範をつくることと規範について考えることは別ですよ
首尾一貫した整合的な倫理命題体系なんてありえないのだから
その都度、倫理命題を無根拠に選択するしかない
55 :
考える名無しさん:2011/03/19(土) 09:54:28.70 0
原発のリスクは受益者たる都市住民も応分に負担すべきという価値判断はどのように正当化できますか?
>>55 逆じゃない?
こうこうこういう価値観(倫理規範)に照らすと負担すべきであるっていう結論を導いていくのが
倫理学っぽいと思う。
57 :
考える名無しさん:2011/03/19(土) 10:46:02.42 0
ドカタが勝ち組
58 :
考える名無しさん:2011/03/19(土) 10:53:40.40 0
>>55 受益者負担の原則によってということだろうが、問題は負担の仕方でしょうね。
原発周辺の電気料金や税を安くしたり補助金を払ったり、都市部の電気料金を高くしたりして、カネで解決すればいいのかという問題。
今回のような放射線被害はけっしてカネで償われうるものではないともいえるわけだし。
受益者負担の原則は要するに等価交換の原則だから
究極的には互酬性の原理によって正当化される
61 :
考える名無しさん:2011/04/23(土) 10:23:14.40 0
善とは人が社会状態に与える価値のことである
62 :
考える名無しさん:2011/05/03(火) 11:07:02.11 0
価値とはなんでしょうか
価値とは選好順序のことです
64 :
考える名無しさん:2011/07/11(月) 00:50:10.91 0
ということは対象それ自体には価値はないということですか
>>16 今更だけどこれってどっちも事実判断だよね?
「価値」の定義によるんじゃないかな
67 :
考える名無しさん:2011/08/21(日) 14:22:00.46 0
68 :
考える名無しさん:2011/08/21(日) 15:01:58.69 0
帰納的推論の未決問題ていいよね。
価値語の内包が語の使用者の主観にのみ対応しているかぎり、それを用いた文は事実判断ではないよ。
71 :
考える名無しさん:2011/08/30(火) 23:54:31.67 0
あげ
72 :
シャイア・ラブーフ:2011/09/02(金) 23:31:49.64 0
>>3 良いだ、悪いだというけど
力自体は大して変わらん
73 :
考える名無しさん:2011/09/09(金) 09:47:05.12 0
>>70 >価値語の内包が語の使用者の主観にのみ対応しているかぎり、それを用いた文は事実判断ではないよ。
つまり、ある文が事実判断であるためには、その文を構成する語の内包うち、語の使用者の主観以外のものに対応するものが少なくとも1個存在することが必要ということか。
というか、分析哲学にはヘーゲルが居ないから理論的な意味で右翼も左翼もない。
メタ倫理学が盛り上がらないように見えるのは、
右左の論壇的トピックに受け皿がないからで、理論的な問題があるからではない。
純粋に倫理として見た場合、20世紀はあきらかにメタ倫理学の時代だった。
75 :
考える名無しさん:2011/09/21(水) 22:46:18.30 0
メタ倫理学は言語行為論の一つの応用問題にすぎない。
他の価値判断(例えば美学)にも当てはまることをいくら細々と語っても、
倫理という事象に固有の問題に触れることはない。
76 :
考える名無しさん:2011/10/18(火) 09:38:15.14 0
77 :
考える名無しさん:2011/10/18(火) 09:38:45.53 0
78 :
考える名無しさん:2011/12/14(水) 19:50:33.00 0
私的言語だな
79 :
考える名無しさん:2012/01/02(月) 19:58:18.04 0
>>13-14 ほほう。セクタ単位バックアップで
使用セクタのみバックアップなんて選べるのかw
昔のDriveImageみたいですね
俺は今はParagon系を使ってるけど
Paragonにもこの機能が入れば俺的には完璧なんですがなぁ
ん?
81 :
考える名無しさん:2012/01/07(土) 18:54:52.81 0
人間界の言葉で書いてくれ
82 :
考える名無しさん:2012/01/07(土) 18:58:01.53 0
Hey Ass, Don't you have normal brain? ha ha!
ネットでエロ動画を見てるガキ
「女の子は最初嫌がるけど、そのうちチ◯コ欲しがる」と歪んだ知識で犯罪へいくぞと
日本の韓国コミュニティが英語で語りかける
高口
あぼーん
86 :
Alepf ダニエル・カール:2012/01/19(木) 14:27:45.29 0
何そのアクセサリー 見たことなーいって
プルシャ?
プルシャなんてちょっと、ありきたり じゃないだけだって
講習会に出れば無料で人から貰えるようなものだよ
87 :
考える名無しさん:2012/01/21(土) 11:07:27.02 0
価値判断を事実判断から導けるっていうけど本当?
89 :
考える名無しさん:2012/01/22(日) 23:58:30.86 0
>>87 ある種の事実判断を行為遂行的発言として価値判断を含んだものと解釈する方法があるけど、あれはそうした解釈図式を前提にしているから導き出せるのであって、妥当な推論とはいえない。
90 :
考える名無しさん:2012/01/23(月) 13:39:50.77 0
純粋中立な事実判断があるという前提も一つの解釈図式にすぎないけどね。
事実判断は文法レベルの話のでそういうんじゃないよw
XはAよりBを選好する。(事実判断)→XにとってAはBより価値がある。(価値判断)
誰もがAよりBを選好する。(事実判断)→一般にAはBより価値がある。(価値判断)
みたいな話だっけ?よく覚えていない。
93 :
考える名無しさん:2012/01/23(月) 15:02:59.33 0
>>91 >文法レベルの話
まさに文法レベルで価値中立的に抽出できるという前提自体が価値判断だね。
「それも結局は○○にすぎないけどね」
中学生じゃないんだから虚無的ニヒリズムは卒業しなよ
そんなこと言ってたら何も始まらないよ
反論になってないなぁ
ああスマン、反論のつもりはなかったんだ
>>93 いや、それは文法的に言って価値判断じゃないよw
98 :
考える名無しさん:2012/02/17(金) 11:44:50.65 0
なにか入門書とかありますか?
99 :
考える名無しさん:2012/02/17(金) 11:55:47.89 0
ない
探せ
あぼーん
あぼーん
103 :
考える名無しさん:2012/03/31(土) 10:05:23.64 0
メタ倫理学、分析倫理学の最前線の本ありますか?
メタリガ
>>103 マイケル・スミスの『道徳の中心問題』が和書では一番新しいはず。
>>105 横レスだけど有益な情報さんくす。ちょっと読んでみたけど入門書としてもよさそう。
108 :
考える名無しさん:2012/08/08(水) 02:52:26.01 0
サンデルは分析倫理学ではどういう位置付けになるの?
110 :
考える名無しさん:2012/08/24(金) 22:22:02.04 0
age
サンデル、読んでる。
ちくま学芸文庫 夏の100冊
倫理学ってゲーム理論や進化論と交流あるの?
最近あるね
それに関連した疑問なんだけど、
正義や倫理という概念を個々人の利害の関数に還元する考え方とかってあるの?
正義や倫理という抽象的な何かがどしんとあるわけではなくて、利益の最大化をはかって個々人が各々行動した結果、社会規範や正義という概念が成立するみたいな、そんな考え方。
あ、今書いてて気づいたけど、これって社会契約説のことかな?
誰か教えてください。
>>116 ぐぐってみた
これこれ。こういう理論があるのね
で、こういう理論と倫理学は接点あるの?あるとしたらどんな感じなの?
>>114 正義や倫理という概念を個々人の利害に還元する試みなら功利主義がそれにあたる。
もっとクールに、正義や倫理というものを単なる現象と捉えて、それを個々人の利害に
よって説明する試みなら、動物行動学のほうでやっていると思う。
社会目標としての功利主義は人間の行為法則としては偽だよ
反例として徴兵応諾がある。死ぬ確率が極めて高いと分かっていても出征してしまった戦前成年男子は明らかに功利主義以外の動因で行為選択した。
120 :
考える名無しさん:2012/09/07(金) 22:06:50.71 0
9月
伊勢田さんの新刊でるみたいね
立ち読みしとくわ
加藤尚武の現代倫理学入門読んだけど
彼はいくらなんでも二重結果原理について誤解し過ぎでしょjk
真実・事実・現実・史実は人の数だけある。数ある真実の1つに過ぎない「真実は1つ」に執着する者ほど、矛盾(怒りや争い)を体験する/感情自己責任論
125 :
考える名無しさん:2012/12/09(日) 20:46:50.80 0
J.S.ミルの『自由論』なんですが一応ペーパーバックで英語でも買おうとは思うのですが
基本的には和訳を読もうと思っています。
光文社古典新訳文庫から5年ほど前に山岡という翻訳家の方が出されていましたが
今では同じ方は日経BPクラシックスから出していて、かつ光文社からは
斉藤という別の方が新しい訳書を出されています
光文社の訳は問題があるものが多いという噂も聞きますし
どちらが良いのでしょうか。さすがに四十年以上前に出た岩波文庫も読む気しませんし……
128 :
考える名無しさん:2013/01/24(木) 08:38:12.58 0
答え 両方読め
岩波文庫の訳はだめなのか。積ん読してあるのだが。
そういえば買ったのは加藤尚武が「我々の時代のよりどころになるような
思想の古典は存在しない。あえて言うなら」とかいって
ミルの自由論を挙げていたからだった。あれは現代倫理学入門だったか
何だったか。
130 :
考える名無しさん:2013/02/03(日) 10:09:36.14 0
>>37さんのような「自分の幸福は大事だけど
社会との折り合いをつけるために、他者の幸福にも配慮したほうが良いよ」
って結論は幸福の「程度」の観点が欠落している。
他者(社会)の幸福が
自分自身の許容できないレベルの不幸と一致してしまった場合はどうする?
自己犠牲を強要される状況に放り込まれてしまったら?
船が沈み、救命ボートにたどり着いたが定員オーバーになってしまった。
「このままだと救命ボートは定員オーバーで沈んでしまう。
そこで乗っている女子供を守るため
あなたは海に飛び込んで死んでくれ」と言われた。
乗員で成人男性はあなた一人、それ以外は若い女と子供だけと仮定しよう。
自分の幸福を保全するなら女子供を海に投げ飛ばせば生存できる。
自分が海に飛び込めば、ボートの乗員は助かるが自分は消滅してしまう。
俺なら前者を取る。他人のために死ぬなんてまっぴらごめんだからな。
そういう二者択一の極限状況をわざわざ持ち出して利己主義を正当化するのがサンデル経由の素人の典型
132 :
37:2013/02/03(日) 13:46:50.91 0
>>130 幸福の「程度」に関してお答えします。
>>37のように、道徳や倫理を各人の利益を最大化するための手段であると考えるならば、私たちが守らなければならない道徳の範囲も分かります。
つまり、道徳は、その利用者が 「少ないコストを払うことで、大きな利益を 得られる」ところにその存在意義があるわけのなので、
払うコストとそれによって得られる利益が割に合わなくなるときには、人は道徳に従う必要はなくなるというわけです。
たとえば、次の規則や事例を考えてみましょう。
1、嘘をついてはならない。
2、困っている人を見たら、自らの命 を捨ててでも助けなければならない。
3、社会から見放された余命3日の人 が、自暴自棄になって犯罪をする。
おそらく、大抵の人は1の規則は素直に受け 入れられ、2の規則は要求が強すぎると感 じ、また3の事例は場合によっては仕方がな いと思うのではないでしょうか。
なぜこう感じるのかと言えば、1の道徳的規 則は、その利用者が嘘をつけないという少な いコストを払うかわりに、
他人からも嘘をつ かれないという大きな利益を得られるために 多くの人が受け入れられるであろうからで す。
したがって、1の規則は誰もが守らねば ならない義務として存在することになりま す。
一方、2の道徳的規則は、困っているとき他 人から助けてもらうためには、代わりに自分 の命を捨てるという多大なコストを支払わな ければならないことを要求しています。
この 規則は利益とコストが割に合わず、ほとんど の人は受け入れることが出来ず、したがっ て、この規則を強制するような義務は発生し ません。
最後に3の場合は、社会から見放された上に 余命もないということで、この人は道徳によ る恩恵(利益)を今後受ける可能性が少ない と判断できます。
このような場合には、もは や犯罪を抑止する力は働かないと考えられま す。
ここまでをまとめると、道徳的責任や道徳的 義務が発生する場合というのは、社会の構成 員のほとんどが受け入れられるような低コス ト高利益の規則で定められる行為に限られ るということです。
私が他人に害を加えなければ
他人も私に害を加えないだろう、というようなことが推論されているように
見受けられるのですが、これはどこから出て来たのですか?
それとも議論の前提として仮定されているのですか?
134 :
37:2013/02/03(日) 17:02:51.50 0
>>133 「他人の大多数は合理的である」という前提があります。
ゆえに 「私が他人に害を加えなければ
他人も私に害を加えないだろう」という推論を行っています。
135 :
考える名無しさん:2013/02/03(日) 17:43:33.15 O
マックス・シェーラーの「倫理学に於ける形式主義と実質的価値倫理学」は名著
136 :
130:2013/02/03(日) 19:25:39.38 0
>>132 丁寧なレスありがとう。
意見には概ね同意。
道徳は低コスト高利益を志向した
ルールの集合体ってのが基本形になるのかな。
成員は「コストに見合う限りにおいて道徳に服するべきである」と。
なんか生命保険みたいになってきたな。
>>134 合理的な人は私と同じ行動を取るだろう、ということですか?
囚人のジレンマで同じ推論すると一人だけボロ負けする気が
138 :
37:2013/02/03(日) 20:03:46.06 0
>>137 >>合理的な人は私と同じ行動を取るだろう、ということですか?
厳密には違いますが、まあそんな感じです。
>>囚人のジレンマで同じ推論すると一人だけボロ負けする気が
囚人のジレンマで前提となってるのは、取引が一回限りということです。取引の回数を複数回にすると結論も異なってきます。
人間社会のように、長期にわたって取引が続く場合では 「私が他人に害を加えなければ、他人も私に害を加えないだろう」という判断が合理的になります。
詳しくは「互恵的利他行動」や「しっぺ返し戦略」でググってみて下さい。
推論はだいたい分かりました。
そうすると、人間は実際には不死なる存在ではありえないのですから
近似的な真理に過ぎないということになるんでしょうね。
老い先短い老人は若者よりも利己的に行動するのが合理的だし、
後の世代の為に何かを我慢して良い環境を残すのは愚かなことだ、ということになるでしょう。
Tit for Tatについては十年ほど昔ホフスタッターの本で読みました。
インターネット上では以下のページなどが有益ですね
http://cruel.org/candybox/axelrodhype.html アクセルロッド『対立と協調の科学』書評
140 :
考える名無しさん:2013/02/03(日) 21:06:23.15 0
人間を縛るものは未来、つまり継続期間の長短ということか。
病気で余命○ヶ月ですなんていわれたら
確かに目の前の利害関係なんてどうでもよくなるな。
老人になって欲望剥き出しで生きるのも
この前提にたてば納得がいく。
>>139さんの言うように
老い先短いなら他者を考慮する必要など無いもんね。
でも老人が未来ある子供や若者を食い物にして
「俺合理的だしもんねフフン』
とか言ってたら何だかなあ、とは思うけどねw
142 :
考える名無しさん:2013/02/03(日) 21:59:34.60 0
そんな老人が実際にいたら、醜いことこの上ないが
原理としてそうなっているのもまた事実。
年齢に関係なく利己的に振舞うことが
非合理的になるように動作する道徳を
構築できればいいんだろうけどね。
143 :
37:2013/02/03(日) 23:06:41.14 0
ここにきてゲーム理論よりの話題が続いてますが、スレタイにある「メタ倫理学」の話題をしませんか?
私は詳しくないのでどなかたいろいろ教えてくれません?
功利主義的な線に沿って話をするとどうしてもutilityの話しないといけないから
細かいところを詰めていくとどうしても
ミクロ経済学とかゲーム理論とかそっち系っぽい話になっちゃう
やっぱ行為功利主義はダメだ
規則功利主義じゃないと
その「ダメ」という価値判断は何によって正当化されてるわけ?
メタ倫理が強い大学ってどこかな?
ないな
>>146 老人は若者を食い物にするべきだ、ってのは直観的に明らかにおかしいでしょ
それじゃホッブズの万人の万人に対する闘争みたいな感じだ
>>149 その「直観的に明らかにおかしい」という価値判断は何によって正当化されてるわけ?
分析哲学全般に言えることだけど、直観を根拠にする議論ってのはけっこう多いよ。
言語的直観、倫理的直観など。
倫理学は特に直観的判断が重視される分野であって、
隣人をムシャクシャしたからという理由で殺していけない理由は何もない、
どんどん殺すべきだ、とか言ったところで一顧だにされない
だからメタ倫理の『倫理学原理』書いたG.E.ムーアみたいに
道徳的判断を基礎付けるものは直観以外には全く無いという
直覚主義を主張する人も居てそういう考えが結構有力だったりする
あ、但し最もラディカルな考えを採る哲学者のなかには
「人を殺すことによってのみ、あなたの「生」が輝くのだとしたら殺すべきだ」
という人も居ます
あと、昔は血統による身分制は直観的に根拠があるものだったかもしれないけど
今では明らかに根拠が無いと考えられてると思う
そこらへんの歴史性の問題を直覚主義でどう処理するのかは知らん
だったら直観って文化や時代に左右されちゃうし、なんだか普遍的じゃないよね
って不満をもつ人はもちろんいるわけで、そういう人達は実験哲学(知らない人はググってね)や科学方面に行くわけだ。
でも人を(より正確にはなかまを)殺して良くなることは今後永久に無いだろうね
価値判断の基礎付け主義は例のミュンヒハウゼンのトリレンマを出すまでもなくうまくいかないが
自分の価値判断を正当化すると本人が思う判断を示すことは可能
157 :
考える名無しさん:2013/04/22(月) 08:55:16.86 0
アルバートとかまだ生きてんの?
>>132 「町を綺麗にしよう」人によってコスト合わないから罰金が必要なのか
合わない人が損し続けるな
>>158 それは敵
人類みな仲間ってわけじゃないのよ
何が”仲間”かってことに既に倫理的なものが入り込んでる気が。
たとえば、絹を作るための蚕を殺すけど、”蚕”は仲間か否か
仲間じゃないとしたら、その理由は何か
もう少し自発性を持って人間に協力する犬とかならどうだろう?
ロボットなら?
例えば、ロボットが「道具」ではなく、「仲間」であるための要件を考えると
結局、倫理的配慮対象たりうる事が必要条件の一分になってるんじゃないかな
163 :
考える名無しさん:2013/05/25(土) 11:32:25.93 0
そうかな
164 :
文化人類:2013/05/25(土) 14:44:20.40 0
新倫理学
約束無視、法律無視、条約無視、信頼無視、迷惑無視、シテヨイガ
加害国○○ 被害国○○ コノ責任.賠償ハ永遠不滅デアル
これが、「二国間関係」の「外交倫理」と言う
>>162 犬に自発性は……
いっそ極端に、ボールは友達、つって蹴りまくる事案がわかりやすい
166 :
考える名無しさん:2013/07/13(土) NY:AN:NY.AN 0
ヘアに還れ
ヘア解禁?
168 :
考える名無しさん:2013/08/01(木) NY:AN:NY.AN 0
いまどきか
169 :
考える名無しさん:2013/09/05(木) 10:08:36.30 0
なんだかんだいって情緒説が最もすっきりする
そうか?
171 :
考える名無しさん:2013/10/24(木) 23:10:00.56 0
情緒というより選択でしょ
自然にこそ(いや自然にこそのみ)価値判断の根拠があると思うんだよなあ。俺たちも所詮一種の動物、1人の猿に過ぎないわけだしさ。
スペンサーがやらかしたせいで生物学(進化論)と倫理学を結びつけるのに忌避感を強く持っている人が多いけど、進化倫理学こそ倫理学に確固たる根拠を与えてくれるように思える。
進化自体に倫理は介在しないけどな
もちろん。
そこは社会進化論が勘違いしちゃったところだね。
"あるべき倫理"を組み立てる材料として進化を使うことはできない(してはならない)けど、
"どうしてか今ここにある倫理"を分析する手段として進化的視点は不可欠なんじゃないか。ってこれ特に進化心理学でやってることだけども。
今を知らずしてどうするべきかを語ることが出来ないのは当然で、それゆえに従来の倫理学(特にメタ)は、言ってしまえば空回りしてしまっていたんじゃないか。
175 :
考える名無しさん:2014/03/27(木) 23:49:10.93 0
そうか?
176 :
考える名無しさん:2014/04/25(金) 05:19:25.02 0
これからの時代は
脱構築倫理学だろう
177 :
考える名無しさん:2014/07/03(木) 21:09:24.45 0
これからは倫理学の自然化でしょ
178 :
考える名無しさん:2014/07/05(土) 00:48:01.46 0
ウィギンズの論文集が来週出るな
180 :
考える名無しさん:2014/09/06(土) 12:13:40.64 0
こんなチャラチャラとした倫理学に〈他なるもの〉は扱えるのか?
どこがチャラチャラしてんの…
数ヶ月前に前に『動物からの倫理学入門』を読んだ。
p.324「私自身も〜」以下を読んで、
ここまで知的に不誠実でふざけたことを書く自称倫理学者も居るのだな、
と正直驚いたんだが、読んだことがある人どう思う?
だれ?
184 :
考える名無しさん:2014/10/11(土) 07:36:04.62 0
なんか分析系の倫理学研究者って、ethicsが、
雑務が終わって空いた時間にやるものじゃなくて
まさにそのethicsを生きねばならないという意味で
或る意味恐ろしくてきついものだということに分かってない人多いよね。
Wittgensteinはこのことを深く理解していた。
こういう環境においてはこうするべきだ、と主張してしまったら、
自分は当然ながらその主張通りの生き方をせねばならない。
そうでなければ当然批難される。
他人にはああすべきこうすべきだと言って、自分では全くそれに従わない人間が居たら
当然とんでもない奴だという評価をされる。それは人にとって当たり前のことであって、
分析系か大陸系かそれとも仏教倫理や神道倫理なのかは関係ない。
倫理と倫理学という言葉の使い方の違いがある日本語もマズいのだけどね。
こういう議論を論点先取といいます。
メタ倫理学では、
「こういう環境においてはこうするべきだと主張してしまったら、
自分は当然ながらその主張通りの生き方をせねばならない」という立場を内在主義といい、
それ自体研究の対象です。外在主義者からは同意をえられない。
これは伊勢田本でも触れられているはず。
確かに、倫理の内/外在性と関係あると言わざるを得ないようです。
メタ倫理的問題がじぶん自身の生き方に関わって来るとは
まさか思っていなかったので目から鱗でしたが、こういう問題なのですね。
ちょっと内在主義/外在主義、非認知主義/認知主義、
(道徳)反実在論、実在論といういろいろな言葉の使い分けや
そのイメージや、概念が考え出された経緯などを、簡単には
きちんと理解できそうになかったので放っておいたのですが、これではいけませんね。
職場にも倫理の本いくつか置いてるから後で確認して来よう。
187 :
考える名無しさん:2014/10/13(月) 12:27:49.93 0
ただ、「他人にはああすべきこうすべきだと言って、自分では全くそれに従わない人間」
が居たら、普通に考えたら頭のネジが外れた奴だと思います。
人には床にゴミを捨てるなと怒っておいて、
その三秒後に自分でも平気で床にゴミを捨てるような人が居たら、
たぶん、六歳児でも何かしら強い不整合があることを感じると思うのです。
いきなりこういう人もいるかもしれない、と言われても、
何でそんな意味不明な事主張するんだろう、としか思いません。
188 :
いつも通りのななしさん:2014/10/13(月) 12:29:52.39 0
ごみそうじ って 5文字だけで
信者集めてる新興宗教が 殆どだから
189 :
いつも通りの洋楽さん:2014/10/13(月) 12:41:27.42 0
STARDUST
占い板とリンクさせるのには理由があります ってはなし
ぱぴょん そーゆーわけだ
190 :
いつも通りの洋楽さん:2014/10/13(月) 12:43:20.37 0
獅子には またたびでも 嗅がせて
とりあえず 鰤子 をさきに
・・・・・ 八王子バカばっかりだし
191 :
考える名無しさん:2014/10/13(月) 12:43:39.67 0
192 :
ねむねむ:2014/10/13(月) 12:49:21.20 0
>>184 果たしてそうだろうか?
例えば、以下の倫理は矛盾してるだろうか?
「日本語を語ってはならない」
このような倫理を唱える人は矛盾を犯しているだろうか?
同様なものに次のことが挙げられる
「我々は言葉を使って考えるべきではない」とか
「理性的に生きていることは良い生き方なのだろうか?」とか
そのようなことが矛盾とされてしまう
しかし、それを矛盾としてよいのだろうか?
193 :
ねむねむ:2014/10/13(月) 12:58:38.08 0
もしそれがどうしようもないほどの間違いなのだというのなら
「人間は言葉を話すべきだ」とか
「人間は理性的に生きるべきだ」などの倫理は、どうしようもないほど正しい倫理ということなのだろうか?
194 :
いつも通りの洋楽さん(エロ):2014/10/13(月) 13:34:25.74 0
三菱のリコール隠しの Hマーク とか
ブレーキの効かない PAJERO で
教習所の教官にケンカ売る刑事裁判とか あの辺
195 :
いつも通りの洋楽さん(エロ):2014/10/13(月) 13:36:38.47 0
あんたがたどこさ ひごさ ひごどこさ 熊本さ
くまもとどこさ せんばさ やーっぱり タヌキか
ひごずいき と くまんこ (笑)
価値や倫理の自然主義的基礎づけはことごとく失敗する
197 :
184:2014/10/16(木) 22:35:24.45 0
メタ倫理に関する文献の所をちょっと読みなおしましたけど
>「こういう環境においてはこうするべきだと主張してしまったら、
>自分は当然ながらその主張通りの生き方をせねばならない」という立場を内在主義といい、
これは違うようですね。
人は皆Xすべきだ、なら自分も当然Xすべきなのは当たり前です。
内在主義は、そうではなく
「(こういう環境においては)Xするべきだということを認める人には
必ず、(そのような環境下において)自分自身Xするような動機付けが伴う」
ということかと思います。
つまり、今日のお昼は半額だからハンバーグ弁当にすべきだ、
と言ってた人は当然自分でもハンバーグ弁当を頼むに違いない、というようなこと。
焼肉弁当を頼んだりしたら、おいお前なにやってるんだ、って話ですね。
これが倫理的言明全てに通用するかどうか。
「良い」概念は「得」概念だけから導出できない
「自然主義の誤謬」批判ってどれも的外れのように思えるんだが。
事実に関する命題か価値に関する命題かって二分法が、
そもそも誤った二分法false dichotomyだよね。
これを敷衍すると(倫理の話じゃなくて言語哲学的になって申し訳ないが)
a とnot aという形になっていない、aかbかというdichotomy
(例:身体か精神かというDescartesの二元論)は
(厳密に言えば)全てがfalse dichotomyだということになる気がする。
或る人がaだと信じているからと言って、必ずしもnot aと信じていないとは限らない。
たとえば恋人が好きだからといって、必ずしも恋人が嫌いでないとは限らないように。
人間の心にはa、not aという命題に対するcommittmentの強弱があるだけで、
本来、人間の信念というのは両価的なものだ。
こういう誤った二元論的思考が人間を苦しめて来たのだと思う。
ちなみにnot a というのは定義上「 a ならば矛盾する」ということだから、
a / not aという二分法は論理学でいう矛盾律、爆発律の正しさをどう考えるかに依存する。
Humeの欲求か信念か、という二分法にはより深刻な誤謬があると思う。
これだけ言語哲学も論理学も心理学も認知神経科学も発達した現代において、
この本においては人間心理についてはHume以来の伝統的な理解が
正しいとして話を進める、と根拠の無いむちゃくちゃな議論の進め方をする
メタ倫理の本がこんなに多いのは、正直信じられない。
前提が間違っていたら何とでも言えてしまうし、それ以降の議論が無意義になってしまう。
まず最初に議論しなければいけないのはその仮定の真偽だろうに。
ムーア最強
マイケル・スミス
道徳の中心問題 要約
倫理学の自然化ができるか?
ヒュームの事実に関する信念と動機に関する情念の分離が焦点になる。
表出主義・外在主義・ヒュームの動機・反ヒュームの規範
エアの表出主義による記述主義批判。
記述主義には非自然主義と自然主義がある。
記述主義のジレンマ。一般的に正しい答えと私にとって正しい答えは違うことがしばしばあり矛盾しうる。
自然主義的に還元主義的には答えはない。
直観主義を採用するなら道徳判断は人により食い違う。結局、自然主義的には答えはない。
非自然主義的に開きなおってもそれは無根拠に開きなおっただけ。
スミスの解答
非自然主義に対してはエアは正しいが還元主義的でない、
ホーリスティックな自然主義は成立する。
自然主義は擁護されるべき。
外在主義
通常の意味の道徳を持たない快楽殺人者。
彼にとっての正しいことは通常の道徳とは違うが彼にとってはそれが道徳。
内在的で万人に妥当する性質として道徳があるわけではない。
外在的で状況依存。
スミスによる批判。
色は各人にとって同じに見えてるとは限らない。社会、集団で色の定義は違う。
またクオリアが同じかは原理的にわからない。
しかし、物理的にある波長として色は定義しどんな場合でも妥当かものにできる。
黄色もyellowも同じ物理実在を指すように、道徳も同じ実在的性質を持つ。
快楽殺人者の主観道徳は道徳ではない。
ヒューム主義による動機の分析
一組の欲求と信念が適切に関係づけられてないなら動機づけられていることにはならない。
私はピカソを購入したい。しかし、目の前の絵はピカソではないと私は思っている。
実際にはピカソの絵だが第三者が購入すべきだと助言する理由があるが、
私は動機づけられていないのも真実である。
三人称的にはどうあれ、一人称的にはピカソの絵を所有したいとの、
欲求があり真実所有の機会があっても信念の食い違いから所有しない。
信念と欲求は別々で食い違いうる。
反ヒューム主義による規範の分析
薬物中毒者や病的な盗癖の人間は薬物をやるべきではない、
盗みをすべきではないと理性で結論つけてもやめられないものである。
規範は理解しても実践では行動できない。
スミスの反論。
規範による理由づけとは何か。所詮欲求で責め立てられたことしか意味ないのか。
自分の長期的には正しいことがわかっていながら短期的にはできない、
状態は薬物中毒や盗癖など確かにある。
しかし、長期的に正しい規範的に正しいことは確かに客観的にある。
目の前の病的な主観的な欲求とは別に規範的な正しさ、道徳は存在する。
主観的な欲求によって客観的な規範が消滅するわけではない。
以上で自然主義的で記述可能で内在主義的に客観的な性質の道徳的性質はある。
個人的な信念と欲求はヒュームのいう通り分離するが、
客観的な規範は個人的信念離れて客観的に実在し記述可能だ。
そのことが証明できた。
・私がすることは正しいという道徳判断は主体にとってなすべき正しい行為、
という客観的な事実への主体が持つ信念である。道徳判断の客観性。
・ある人がすることは正しいと判断するならば、
他の条件が等しいならするよう動機づけられる。
道徳判断の実践性。
・信念と欲求はヒュームによれば別なものである。
ヒューム主義。
道徳判断は信念である。道徳判断の客観性。
信念は動機に欲求に結びづけられてるはず。
道徳判断の実践性。
信念と欲求は結びついていない。
ヒューム主義。
表出主義者は道徳判断は事実に関する信念じゃないと道徳判断の客観性を否定する。
外在主義者は道徳判断の実践性を否定する。
その他の論者はヒューム主義を否定する。
しかし、マイケル・スミスによればヒューム主義を維持したままで、
動機づけに関する部分と規範に関する部分を分離すれば、
道徳判断の客観性も実践性も維持できる。
事実であるから当為べきが導ける。
自然的事実から道徳的事実を導ける。
210 :
考える名無しさん:2014/12/21(日) 23:20:14.67 0
ばかばっかり。さらしあげ
211 :
考える名無しさん:2014/12/21(日) 23:21:49.84 0
いまどきヒュームとかカントとか・・・・・・ばかかと。
最新の哲学を学びなさいよ。
212 :
考える名無しさん:2014/12/21(日) 23:29:07.85 0
いや最近のメタ倫理学者が
ヒュームがどうとかカントがどうとか
そこらへんを根拠に議論をするんだよ
213 :
考える名無しさん:2014/12/22(月) 11:24:00.96 0
神話的な世界観からきっぱり縁を切ったデモクリトスを、今こそ捨てて、それ以前の哲学を学ぶべし。
214 :
法哲学者:2014/12/22(月) 11:32:35.56 0
いや、あらゆる生活条件が神の光のもとにおかれていた、中世の哲学観に回帰すべきだ。
価値命題は事実命題から導き出せないよ
216 :
考える名無しさん:2014/12/22(月) 22:06:42.31 O
>>210 馬鹿発見!
>>215 ならスミスに反論してみろよ。
言いっぱなしとかどいつもこいつも馬鹿だなwww
マイケル・スミスは間違っているけど言いっぱなしの馬鹿は吐き気がする。
せめて根拠を書けよ。くずども。
218 :
考える名無しさん:2014/12/22(月) 22:10:03.21 0
では命令します、長文を書きなさい。
219 :
なんとなく思ったななしさん:2014/12/22(月) 22:11:07.53 0
こそあどれもん 300ml 無果汁
一応事実から当為を導いていいわけを規範の客観性の存在として、
マイケル・スミスが説明してんだから、
それに回答すべきだな。
>>215は。
事実から当為は導けません
マイケル・スミスの言い分だと自然科学の命題が客観的で、
黄色は物理的に同じ波長として定義できるように、
規範も快楽殺人者の道徳とか排除して、色と同じ自然的事実としてある。
自然科学の命題も道徳の命題も同じ客観的事実だということだからな。
それに反論しないと議論にならない。
これを叩き台にしていろいろ論ずればいいだけの話。
マイケル・スミスによれば薬物中毒者にしても規範として、
あるいは将来の自分のために、薬物はやめるべきとはわかってる。
そっちの方が自分にとっても正しいことも。
だけど目の前の快楽のが優先する。
やめられないが、規範は事実として客観的に正しいものとしてある。
それは否定されない。薬物中毒者にとっても。
事実の中に規範命題。すべきと客観的にある。
事実から価値も当為も導ける。
反論するならまずこれを叩かないと。
いろいろ端折り過ぎてて意味不明。
元の本をちゃんと読まないと反論も何もしようがない。
読めよw
ムーア 倫理学原理 要約
私が善いとは何かと問われるならば善いは善いであるということにつきる。
善いは別の何かに置き換えられない。快とか、役に立つとか、美とか。
黄色を考える。それは波動として定義できるかもしれない。
ある種の物に反射された光の振動が正常な眼を刺激しないと、
黄色を知覚しないと。
でもその振動、波長、分子は黄色ではない。
黄色の知覚体験は物に置き換えられない。
善いを快楽や欲求に置き換えるのは同じ過ちだ。
私が快いと言うとき赤を見てたからといって、快いと赤を同じとは言えない。
快いことは善いことだと言ってもそれは同じではない。
ムーア 倫理学原理 要約
ある種のものは善い結果を持つという判断がある。
それらが常に善い結果をもたらすというのはあり得なさそう。
一般に善い結果を持つと述べるなら世界史のある時期ある状況で真にすぎない。
手段としての善い。
ある種の物はそれ自身善いと述べる判断があり、普遍的に正しいなら、
目的としての善い。
そして真の善いは目的としての善いである。
手段としての善いを真の善いと勘違いするのは自然主義の間違い。
ベンサムとかの功利主義は自然主義的誤謬。
途中の推論・論証を省いて
結論のみ述べたものなどを
哲学書の要約と呼ぶことは出来ない。
でw
このスレに論証なんかあるかよ?
論証抜きの意味のない断言だけじゃんwww
232 :
考える名無しさん:2014/12/26(金) 07:50:01.00 0
もともと無いのと
もとはきちんとした論証があったのに
その部分を省略して抜き書きするのでは違うだろjk
自分の気にくわない見解に因縁つけてるだけじゃん。
意味のない断言じゃなく議論すりゃいいだけ。
このスレに感情(規範倫理)は不要だ
>感情(規範倫理)
いみふ
「である」から「べき」は導き出せません
メタメタ倫理学