ジョルジュ・バタイユ Georges Bataille
ドウルーズはこう書いています。《無意識とは、作り出し、投資し、流動させるべき実質、戦い取らなければ
ならない社会的・政治的空間なのです。一つの革命は途方もない無意識の生産で、他に多くの例を見ませ
ん。》《小家族や近所の学校など、それがどのような場所においてであれ、装置を揺るがし、社会領域を糾弾
しないような欲望の開花はないのです。常により多くの連結を求めるから欲望は革命的なのです
。精神分析は全ての連結を、全ての〈組み合い〉を切断し、挫いてしまう。》《精神分析は欲望を憎み、政治を
憎悪する。》(「精神分析に関する四つの提言」)個体の次元の無意識の生成、その呪縛への軽視がなければ
こういった発想はとれないでしょう。無意識を連結させ、多様化し、噴出させることを、それこそ
政治的空間であり、課題だと言っている。それがここでの独自な立場でしょう。《むしろこう言ったほうが
よいでしょう。欲望の主体も、対象もどちらも存在しないと。〈流れ〉だけが欲望自身を客観的に示すのです
。》ここで無意識の個体における生成を敢えて無視し、連結し、それを政治的空間化してるのが
分かると思うんですが。続いて《第二の提言は従って精神分析が言表の形成を妨げる流儀に関わることに
なります。》そこで言われる言表とは、要するに分裂症的幻想の断片である。これを重要視する。
で、そのような妄想の噴出を精神分析が妨げる、として批判しているわけです。
面白くない、というのでなく、面白いんだけど、この面白さはまともに付き合う性質のものだろう
か。そこに来てしまう。遊んでるように見えるが、おそらく真面目に書いてるでしょう。読んでいて
、思想とはこういうものなのか、という疑問をもつわけです。ドウルーズにも色んな面があるんで
しょうが、前衛芸術に影響された思想家がいかにも書きそうだけど、先に書いたように、ここで
アンチ精神分析によって分裂症を政治的に活用するところは、不毛、だと思えますけどね。色んな
面があり、信奉者も多いのですごいな、とは思いますけどね。
バタイユについては、彼自身のなかで、自分の思想が何なのか、あまり区分けはしてなかったと
思えるんです。自分は狂人だ、と言ってるインタビューか何かありますね。
>常により多くの連結を求めるから欲望は革命的なのです 。
これは分裂病に特異な関係妄想でしょう。
世界のすべての悪事や珍事が自分のせいで起こっていると思い込む類いの妄想です。
精神医学において、分裂病患者の妄想を精神分析にかけることが害だということになった理由には、
妄想の中でできあがった世界観を議論に晒すことによって、妄想が強化されてしまうというものがあります。
だから、ドゥルーズ=ガタリにとって分裂病的であることがすぐさま革命に結びつくというのなら、
本来は精神分析を批判するべきじゃないんですよ。
精神分析は、分裂病的な思考(ドゥルーズによると最強の強度をもつ思想)を強化するものなのです。
こういった分裂病的な思考が政治の場に活用されていた時代は、大昔にありました。
一番最近の例ではロマノフ王朝にラスプーチンが関わっていたことなどが挙げられます。
共同体を指揮するリーダーにまじない師が口添えをしていた時代がありましたが、
まじない師というものはだいたい分裂病的な誇大妄想、関係妄想で世界を眺めるものです。
分裂病になると時間の感覚が狂うので、デジャブや予知夢を頻繁に見るようになります。
これらがまじない師の予言の元になっているのです。
しかし、
>>101さんの言うように、こういった政治形態は今や不毛になりつつあります。
ドゥルーズの著書は、詩としては名作ですが、思想としてはあまり現実味がなく批判の余地が十分にありますね。
精神病に、幻聴という症例があります。自分を責めてくる声が絶えず聴こえてくる。また、他人の
視線がやはり自分を責めてくる、というのもあります。で、最終的に、目には目を、で他人に暴力
を振るう。精神病から、いかにもカフカ的な変身妄想とか、詩的な、自分が川や空になったり、
芸術肌の人間が好む症例もあれば、ただ悲惨な、惨めな、症例もある。都合よく症例をひいて、“
主体が脱せられている”とか、“器官なき身体”とか、言ってしまうこともできるわけでしょう。
しかし、その手法がさほど注目に値するわけではないことは自明で、理由は単に都合のいい
論法だから。思想的問題がそこにあると言っていいのか、さえ疑問で、その疑問符を誰も提起し
ないのが不思議ではないか。D=Gも本が文庫本になるようなドル箱だからか。日本の知識人も、
そういう疑問符をもっと挙げればいいのに、と思いますね。都合のいい手法で書かれてる、と。
フロイトがエデイプス複合をでっち上げた、みたいな書き方してるけど、程度が低い。フロイトも
解らないことは多々あった。しかし基本線は間違ってなかったというのが妥当でしょう。1968年
の反乱が精神分析によって収拾されるという状況があり、それへの反対だったという。しかし、
そこで為された分裂症分析が、政略以上の意味は持てなかったと思う。
104 :
考える名無しさん:2010/11/21(日) 07:26:01 0
長文を書いておられる方の意見は今まさに自分が感じていた疑問でしたので
実に面白く読ませていただきました。(全て同一人物という確証はありませんが)
自分もドゥルーズによるバタイユ批判、すなわち小さな秘密の中に欲望を還元してしまうことへの批判
には少々疑問を感じておりました。
それはバタイユの解釈者にとっては正しいのかもしれませんが、
バタイユ自身にそれを適応してしまうことは間違っているのではないかと考えていたので。
私が考えるにバタイユは絶対的な価値(そこには美醜の全てが含まれる)=カオスに絶対的な価値を置いており
後に来る時を全く考えなかったのに対して、D=Gは逃走といういわばその次なる時を想定していたため、
小さな秘密という、カオスの矮小なる還元を批判したのではないかと考えています。
つまりバタイユがカオスそのものに近づき、そこにあらゆるものの本質を求めたのに対して、
D=Gはそのカオスから生成されるもの一つ一つに本質を求めたのではないのかということです。
ここまで書いて思ったのですが井筒俊彦氏の意識と本質におけるリルケとマラルメの違いを彷彿としているような気もします。
とは言っても自分はまだバタイユを読みだして1年足らず、ドゥルーズに至っては半年程度なので、
むちゃくちゃなことを言ってると思われましたらどうぞスル―してください。
105 :
考える名無しさん:2010/11/21(日) 11:32:01 0
『至高性』に〈何ものでもないもの〉の価値、、涙、笑い、酩酊、闘争、暴力、性もそうでしょう
が、主体における規律の作用、価値意識、を遺棄し、無に引きずり込むものの到来を賞揚し
てるんですね。だけどそれは実は日常的な領域で起こる体験で、人間性に孕まれてる要素
にスポットを当ててるだけでもある。機能の一部である人間というのは、それこそ虚構で
、人間はそこに収斂するのではない。そこは〈変身〉でもなく、奇抜な論理もない。精神病の
特権化もない。D=Gには社会全体の革命は如何にして、という発想が根底にあって、そこが
マルクス主義的だと思えます。個体の存在自体、超えられるべき、という。やたらと連結や
アレンジメントを重要視しますから。その辺の発想も、〈個体の言表などない〉とするとこ
ろも、マルクス主義的で、僕はいただけない。でD=Gのそうした発想は、言うまでもないと
思うけども、浅田彰だけでなく、柄谷行人の固有名論まで流れてきてますね。《固有名と
いうものは、個人を指示するのではない。―個人が自分の真の名を獲得するのは、逆に彼が
、およそ最も苛酷な非人称化の鍛練の果てに、自己をすみずみまで貫く多様体に自己を開
くときなのである。》(『千のプラトー』55頁)これは《固有名は「他ならぬこれ」を指示する
。「他ならぬ」は、たんに「他でない」だけでなく、「他であったかもしれないが現実にこうで
ある」という意味である。》(『探究U』第五章)D=Gから柄谷へ流れ込んだその発想がどう
発展したか、言説の無責任化なように思える。言動について、そう言ったことの責任が回避
できる思想なわけで、何故なら《個人的な言表というものはない》わけで、こういった思想の
悪影響が柄谷に最も顕著に流入したのではないかと思うんですけどね。
>>105 理路整然とした長文を書くことの出来る才能を、お持ちですね?
わたしにはとても出来ない芸当なので、ひたすら感嘆しています。。。
しかしそのような能力を2chで空費されるのは、あまりにも
もったいないのではないでしょうか? あなたなら「現代思想」
や「ユリイカ」にも論文を発表できるでしょ?
もちろんご存知のはずですが、このスレはいずれ落ちてしまうのですよ?
・・しかし、あなたのおかげで私もバタイユにおおいに関心が
湧いてきました。
・・ううむ。加島祥造というひとはするどい直感力を持っていますねぇ。
おや、いっぱい書き込みがありますね、熱心な読者の人がいるようです。文才があります。
長文を投稿し続けているのは全部私です。
ドゥルーズ=ガタリは、分裂病をアルトーの唱った生きた工場の詩から根ざして、欲望機械という言葉で称揚しましたね。
分裂病の欲望というのは、内在的他者つまり、意識下のもう一人の自分の暴走と結びついています。
意識下というのは理性でコントロールできず、半ば自動で動いているんですよ。
そしてその自動的な思考がどんどんあふれて来て頭の中を支配するようになります。
この状態が機械的だと彼らは言ってるんですね。
無意識の欲望が機械的に動き回り、分裂病者本人とは別の新たな身体を作り上げるようなものです。
こういうのを精神医学では「させられ妄想」と言いますが、ガタリ達は「欲望機械」と読んだんですね。
歴史の上では「神に髪を引っ張られる」なんて言い方をしたりもする、独特の思考形式です。
>>103さんのドゥルーズへの批判(分裂病者の政治利用)は大変的をついていますが、
この欲望機械という表現においては、彼らが分裂病の当事者でもないのによく的確に表現したものだと思います。
フロイトのコンプレックス云々などよりははるかに実像をとらえていたでしょう。
しかしこの、精神病の思考というのは実際は類型的なもので、そこに一歩踏み込んでしまうと実際は味気ないものです。
自閉的で、思考が切れ切れになり、全てが自分と関係し、全てに意味があると思い込む不毛の世界です。
ニーチェに啓発されたバタイユが述べる、神なき侵犯の後の世界というのはまさに精神病者の世界なんですが、
これは実際には崇高なものでもなんでもないモノだと思います。
あくまでも未だ侵犯されず禁止に勝つ事ができない段階だからこそ、その生はきらきらと光の軌跡を描くのでしょう。
ううむ。あなた、たいした洞察力です。ただ者ではありませんね。
ただし、彼らは(もちろん)あくまでも、自分たちをモデルにして
理論構築した訳です。彼らは、分裂症者ではありませんよね。
だから、彼らの書いた本は、別に分裂症者の実態を表現しようと
しているのではありません。
ん?
つくださんは、実際に分裂症者になられた経験がおありなんですよね?
そうでないと、味気ない・・とか、不毛の世界とか言う感想が出てくる
はずはありませんから。無事快癒されたわけですね。
ほんとうに良かったですね。出来たら参考までに、いかにして分裂症
から、快癒することが出来たのか、お聞かせ願えませんでしょうか。
なにか、きっかけがあったはず。。と思いますが。
・・・わたしは、バタイユを読んだことがありませんが、バタイユは
「神なき侵犯のあとの世界は、崇高である」と主張しているわけですね?
わたしには、必ずしも理解不能な命題だとも思えませんが。
つくださんの崇高の定義をお聞かせください。
112 :
考える名無しさん:2010/11/21(日) 21:56:44 0
>>104です
>>109 同じことを湯浅さんが言っておられました。
つまり禁止に打ち勝つことができないからこそ、生の輝きを増すことができると。
確かにマラルメの辿りついたのも一切の虚無であり死んだ世界だったと思います。
しかし彼はそこに美を発見しました。私が思うにそれは虚無ゆえの美、
一切が死滅したからこそ生まれる一つの限りなく透き通った世界だったと。
安吾も教祖の文学の中で賢治の詩を引用して、さんさんたるけしきのなかで見たきれいな青ぞらとすきとほつた風を讃えておりました。
私はこうした境地にいまだ至っていないため(至るとしたらそれは死か発狂かのどちらかですが)それを語ることはできません。
ただ、崇高でも何でもないと言われてしまうと、自分としては三島を始め、それを求めた多くの人々があまりに不憫であり、
またこれが一番の理由かも知れませんが、自分自身の生の意味を失いかねないので残念ながら同意できないのです。
結局、私はそれが崇高なものでも何でもないモノだったとしても、それを心から追い求める人間がいるからこそ、
崇高なものが生まれるのではないかと思っております。
まさにヨカナーンに恋をしたサロメが限りなく美しい舞を舞ったように。
>>110 いえ、私は統合失調症ではありませんが、内臓疾患の薬の副作用で、一過性の幻覚体験をしただけです。
一ヶ月ほどの間、奇妙な妄想と幻覚の体験をしました。宗教的な体験でした。貴重な体験だったと思います。
あるとき、ある瞬間、「新聞の大見出しに自分のことが載っている」と確信して、それのメモをとるようになりました。
「世界にはこまごまとした法則がからみあって、それらをまとめる巨大な法則があり、自分はそれを俯瞰できている」と思い込んでいました。
ドーパミン過剰で脳の働きが異常に良くなっていたようなんですが、膨大な思考が頭の中に流れ込んで、対処しきれませんでした。
幻想的な小説を何編も書いたり、日常の便利グッズもいくつか発明して特許をとったり、何か活動的な時期でした。
私はもともとデザイナーをしていますが、この時期に描いた絵をあとで個展に出したらよく売れました。
でも興奮して何日も寝なかったので仕事に支障がでて、会社から病院に連絡が行って、副作用はおさまりました。
実際体験してみると、バタイユの思想なんかはとてもリアルに狂気を表していると思うんですよ。
また、ニーチェやドストエフスキー、ムージルも幻惑的な場面を見事に描いていると思います。
逆にリアルじゃないな〜と感じるのが、ラカンのシェーマやフロイトのエディプス論です。
面白いのは、小説家のほうがリアルに狂気を語れて、臨床医が胡散臭い事を言っている点です。
>>113 薬の副作用、ですか。。。じつを言いますと、自分がいま、
つくださんが描かれたのとそっくりな状態なんですが。
何日も眠ることが出来ないですよね?そのとき、しきりに
メモをとってはいませんでしたか?自分は、いま、メモを
とるのをやめることができません。そして、確かに異常な
状態だとは思いますが、しかし別に、味気なくもなければ
不毛な世界だ、とも思いませんけど。
小説家のほうが、臨床医よりリアルに。。。
そのとおりと思います。特にSF作家がいいでしょう?
ル=グイン、コニー・ウィリス、F.K.ディック・・・
狂気とSF作家は、なんらかの関連がある。。と思えて来ました。
まだまだ、たくさん居そうです。
SF作家以外では、ソウセキの弟子だった百鬼園の幻想短編とか
も凄みがある。
まあ、そんなこと言いだしたら、シュールレアリズム、ダダなど
もありますし、最近、上映された映画でも、「ラブリー・ボーン」
「運命のボタン」「瞳の奥の秘密」等々。。
まんがでは、「シグルイ」が天才的ですね。
よく考えてみると、芸術の優秀なものは狂気に近づいている。。
と言えるのではないでしょうか。
整理したいんですが、今、長文を書いてる書き手はHNの佃煮さん、トーヘンボクさん、に加え、2
名。計4名が書いてると思います。僕のレスは78.79.82.83.85.87.91.96.97.99.101.103
.105になります。あと、別の名無しさんが104.109ですね。一番前から書いてるのは佃煮さんだ
と思います。
あと、段々読んでると判ってきたのが、D=Gが敵視してるのがどうやら生に覆蔵されている歴史
、その拘束力、呪縛といってもいい。無意識っていうのが結局、生に有限性を附加し、それがあるか
ら個人Aは個人Aは足りうる、というところがある。それは気にくわない、と言われても、どうしよ
うもないことじゃないかと僕には思える。D=Gは地層という概念を敵視してて、何故なら精神の
在り方を考えれば、地層としてある、覆蔵されてる、と考えるのが妥当に思える。それを彼等は
非常に敵対心を持ってることが判ってきた。しかし、精神の層は地層として堆積してる、と想像し
た方が病理も含め色んな現象は分かりやすいと思うし、敵視するほうが無理がある。人間は彼等
の描くほどは実は身軽にはなれない。病気は辛いし、病気になったほうが自由で何でも生成できる
、というなら皆こぞって精神病になりたがる筈じゃないか。これは薬の服用とは違い、服用を止め
れば症状も終わる、というのじゃない。それなら病気ではない。治りたくても治らないから苦しむ
のだ。そこが薬品による症状とはまた別の話で、D=Gの場合、はっきり病気に罹患する状態を思想
してる。そこが問題になると思います。
いや・・ドゥルーズの立場は、ありえます。ただ、たしかにブルジョワ的
なのです。まあ、わたしも、ガタリなんかと組む必要があったのか。。とは
たびたび、思いましたけどねぇ。けっきょく、ドゥルーズは、大学という名
の地層から逃亡したくて、ガタリと組んだ。
そのような「逃走」が可能だったのは、ひとつには実績ですね。それまでに
たくさんの「哲学書」をものにし、多くの読者を獲得し得た。。その実績が
ひとつの権力として作用し、破天荒な書の出版を可能ならしめた。。のです
な。
ある知識人は天才的な哲学者はハイデガー以後はドゥルーズしかいないと言っていました
ぼくはドゥルーズはそんなに好きじゃないけど、彼の言ったことはもっと深いのではないでしょうか?
>>117 それはいったい、誰に対するレスですか?
ドウルーズは天才じゃないか?と言われれば、そうかもしれないと思います。教養、思考力。…
凄い。しかし、その言説がどこまで普遍的か、は才能と関係ない。特に歴史の及ぼす呪縛、という
ものがあるとすれば、そこへの認識が甘いわけです。個体AをA足らしめている有限性、歴史の堆
積といってもいい。そこを軽視しており、軽視することで思考の離れ業が可能になる。そのこと
を配慮してない。そこでウルトラC的テキストを出されても、感心はしないわけです。
最近このスレは賑やかになりましたね。
>>112 同じ事を思う人がいるんですね。検索してみると、湯浅さんというのは、湯浅 博雄さんのことかな?
やはり、禁止を踏み越えようとして未だ達し得ない、そんな状態が一番享楽的で生き生きした状態だと思います。
でも、狂気になにか美しく崇高なものを投影したい、そんな期待があるというあなたの意見には反論しません。
神秘的な境地をもとめていろんな人が修行をしたりしてたんですものね。
狂気に陥るということは、不幸な条件の重なり合いで起きるものじゃないかとは個人的には思いますが、
腐敗した死の灰が降り積もる虚無の中にも美しいものがあるとしたら、多くの人々に希望を与えられますね。
>>114 メモをする癖があるのはいいことじゃないですか?一杯書いてメモ魔になって下さいよ。
芸術家や作家は、病を持っている人が多い様ですね。
美大生だった頃、やはりメンタル系の薬を飲んでいて課題に追いつかず留年したりする人はクラスにいました。
でも芸術家にとって痛いのはメンタルを病むこととは違って、視覚や聴覚を失うことじゃないですかね。
メンタル系の病気は時に特異な感受性となってカンバスや原稿用紙に露出されることがありますからね。
崇高なものとは・・・何でしょうね、バタイユ風に言うなら、売春婦の寝静まった街に差し込む強烈な朝日とかですかね。
・・私にとって崇高なものとは、植物だ。おなじDNAをもっている
というのに、この静けさはどうだ? その無言の佇まいに、私は崇高さを
感じる。
今、このスレッド自体、実際には中身が一人で回してるからな〜
こんな感じ↓
佃煮マニア 『いやはや、フッサールは素晴らしい…
(ポール) ノエマ的な志向性はフッサールの受動的綜合に連なる極めて
クリエイティヴな思考です…』
catt 『いやはや、佃煮さんは相変わらず素晴らしい感性の持ち主ですね…
(ポール) 僕もフッサーリアーナ全巻ぐらいは読んだ初心者ですが、
佃煮さんの知識には敵いません…』
NAS6 『機械等、放っておけば良いのです
(ポール) 佃煮さんとcattさんの聡明な知識を合わせればこの読書会スレッドも
有意義なものになるでしょう…』
>>120 そうです。湯浅博雄さんです。
宗教の理論などを訳されている方なのですが、
現代思想の冒険者たちシリーズの中で言っておられました。
しかし思うのですが、こうした病的な境地が崇高なるものとして語られるのは、やはり感情の強度故なのではないでしょうか。
病的な境地というのは感情の制御がきかなくなってしまうことだとわたしは考えます。
ベルクソンは物質と記憶の中で、知覚を外的なもの、感情を内的なものとして定義しております。
ベルクソンの言う感情の中には知覚と混同してしまいがちな苦痛も含まれています。
だからこそ、激しい苦痛の中に至高性を見出そうとする人々にも読者に強い感情(それは嫌悪感を含めたもの)を与える小説にも
バタイユは等しく聖性を見出しているのではないかと思います。
感情は内的なものゆえに自己の変質=一つの死をもたらします。
そこからバタイユは非-知に向かおうとしたのではないでしょうか。
横からすいませんが、トーヘンボクさんはシグルイを読まれるのですね。
原作者の南條氏も残酷のうちに聖性を見出そうとしていたのかもしれませんが、
山口さんの漫画化は特にラストにおいてより一層残酷の刃を鋭いものとしたように思いました。
おいおい、自演はよせよ〜
改札が人で溢れかえって、、順番待ちのように吐き出される。電車の中でも、空いている
空間を見つけて、揺られていく。密接し、互いに不快な顔をしている。スーパーのレジで、
機械のように同じように言葉を喋る店員、処理される精算、客…。気が付くとモノとして
しか生きれなくなっている、処理されていく生存ということに気付かざるを得ない。そし
てそこから抜け出す方途はないかのようである。
事物 object と化した生存の内奥性を取り戻す、としての供儀、ということがバタイ
ユの理論で言われてます。事物性を滅却し、というのは、流通価値形態を離脱する試みな
訳で、〈非‐現前〉という意味さえ余計な無に返す、それが供儀なのだ、と。そう考えていく
と、今の社会が事物性を全面化させていることと、それへの対抗価値としての無、という
関係が浮上してくる感じがあります。そう考えていくと、原因の分からないと言われる
秩序崩壊や狂騒、も背景が見えてくるんじゃないか。バタイユの現代日本における意味は
そこかもしれない、と思えますね。今がバタイユの時代だとすれば。ああ、これなんだな、
自分が求めていることはとカタルシスを覚えさせられる。国会議員のやってる争いや、
、結局電車の中の席の奪い合いと十歩百歩の違いしかないと思える。ああ、電車の中と同じ
だな、座席が欲しいだけだな、です物量が多い方が有利
(続き)という発想。知識の有無を競い合う番組をTVでやってるけど、学校授業もあれと
五十歩百歩でしかない。どこに本当のことが言われているのか、全部嘘八百しかないん
じゃないか、大層なこととされているのは全部嘘じゃないかと思えてくる。誰が本当のこと
を言ってくれてるのか。事物性、物量性に回収され、そこから外れるものはあるのか、とい
うのが見えなくなってくる。そこを展開するのがバタイユであり、バタイユに魅惑される
力動というのもそこに起因してるのじゃないか。事物性の対抗価値としての無。それを
主体が取り込むことが、誰が言ってるわけでもないんだけど、暗黙の課題になってるんで
はないか。そこに実は焦点があるんではないか、と。
湯浅さんとう人を注意して読んだことがありませんでした。これから図書館で探してみます。
ドゥルーズの強度とは、ロゴス的なものが表象されうる時に、それが知覚できない状態のことじゃなかったかな?
そういった抑圧状態では感情があふれたりもしますよね。それが尊いということなのかな。
そういえばバタイユは低俗なものに聖性を見いだし、唯物論的に解釈したりしてますね。
そしてサドの牢獄の中での狂気のさまざまを哲学的に分析したりもしています。
ロゴス(論理)とパトス(熱情)という対比がありますが、バタイユはパトスを冷静に見つめ続けた人であるように思います。
私はこの間、「臨床医は胡散臭い事を言い、小説家がよく狂気を表現する」と書きましたが、
あふれるパトスをすべてロゴスに還元してしまう臨床医は、自らのパトスを傷つけずに吐露することができないのです。
こういう場合、シュールやダダなど、非論理な語り口を持っている小説家の方が雄弁です。
ニーチェも「余りに人間的な」の中で、非論理の必要性を語っています。
「非論理なものが人間に必要であり、また非論理的なものから多くの善きものが出て来るという認識は、
一人の思想家を絶望させるに足るもののひとつである。」
・・なぜ、植物が、いまのバタイユの話と関係があるのか、と思われたかも
しれませんね。なので、補足をします。
私の言う植物とは里山などにみられる自然な存在のことで、農作物や
観葉植物などは(一応)含みません。もし、その土地が人間にとって
必要となれば、それらの植物は単なる「雑草」として、容赦なく排除
されるでしょう。。。
つまり彼らは人間社会からみて利用価値のない不用者であり、無価値・
無意味な存在であるに過ぎない。
極端な言い方をするならば、彼らは人間社会というすばらしい秩序に
対する侵犯者なのです。。。
ゆえに、神なき世界における侵犯者は崇高である。
129 :
考える名無しさん:2010/11/29(月) 01:51:00 0
これはボードレールの革命観です
「私は共和主義者であることを認めるとき、悪と知りつつ悪をなしているのです」
「私は革命万歳を唱えますが、それは破壊万歳を唱えることと同じなのです」
これはまさに反撃(コントルアタック)の頃のバタイユの革命観と瓜二つでしょう。
情念の爆発のほうに目的があるのです。
>>128 「雑草が侵犯者」とはなかなか面白い発想ですね。
たしかに雑草はどんな狭いすき間からでも根を伸ばし、這い出ようとしますからね。
道路交通法という秩序のために整えられ、踏みならされたコンクリートを突き破る力強さがあります。
菌や雑草はわれわれ人間社会に否応なく食込んできますが、しかしもっとマクロ的な見方をすれば、
地球のあちこちにネットワークを築き、地面や地中に固まりあいに這いつくばって増殖する我々人間も、
ある意味地表を侵し続けるウイルス的な存在かも知れません。そうして生命は連鎖します。
つまり、地球上のありとあらゆるものがお互いに食らいあっているんですよね。
メルロ=ポンティが、「互いの命に挿入しあい食らいあいからみあう植物」の話をしていたのを思い出しました。
彼らは、愛するが故に食らいあっているのだという。
パリ人肉事件
>>129 確かにボードレールも重要そうだな。ボードレールを読むならまず何から
読めばいい? やはり、「悪の華」?
>>130 そう。
確かに人間なんかも雑草的な繁殖力を誇っている。。と言えなくもない
かも知れない。
ぜひそのメルロ=ポンティの引用元を教えてくださいよ。。
まあ、こうやって、バタイユも段々と誤解され、
どうでも良い俗物(トーヘンボク、佃煮)の持ち物になっていくんだよな〜
>>131 人肉事件といえば、ひかりごけ事件もそうですね。
小説化し、映画にもなりました。
バタイユも、「接吻はカニバリズムだ」と言ってますね。
互いの舌や唇ををむさぼり食らいあう儀式でもあるという。
>>132 「見えるものとしてのわたしの身体は、大きな光景のうちに含まれている。
しかし見る者としてのわたしの身体が、この見える身体を支え、この身体
とともに見えるすべてのものを支えているのである。相互の絡み合いと相
互の挿入が行われている。平面と遠近法でものを考えることはやめる必要
がある。ここでは二つの円、二つの渦巻き、二つの球があると考えよう。
この二つの球は、わたしが素朴に生きている間は同心の球だが、わたしが
自分に樋を投げ掛けると、互いにわずかに中心をずらせるのである。」
という部分です。「見えるものと見えないもの」の中にあります。
相互挿入ー絡み合いーキアスムはメルロ=ポンティ独自の概念です。
この絡み合いによって超越し、私と他者が合一するのです。
>>133 純一さんもバタイユが好きなんでしょう?
ぜひ純一さんのバタイユ論を披露してくださいよ。
>>134 ああ、どうも。今度、図書館に行った際には、ぜひあたってみますよ。
そこで、バタイユも読もう。無神学大全っていうのがあるけど
あれから読めばいいのかな? それとも、はじめは短編小説を読むのが
いいかな?
デリダやフーコーのバタイユ論もありましたよね。ほかにも、関連の
おすすめ本がありましたら、ぜひ教えてくださいね。
136 :
考える名無しさん:2010/12/01(水) 07:32:30 0
137 :
考える名無しさん:2010/12/01(水) 17:53:43 0
“バタイユを勉強します”とか、止してほしいなあ…その発想が既にバタイユ的ではないし、反‐バ
タイユ的だ。「魔法使いの弟子」というエッセイで、学者・政治家・芸術家を「不具」呼ばわりしてい
る人間なのだから、バタイユが知ったら怒らない仕方でアプローチしてほしいな。因みにバタイユ
翻訳家も含めて、日本のバタイユ研究者は現実の殺傷事件とバタイユを切り離すことしかできない
。今の言論状況からそうせざるをえないんだろうが、ならば僕はこの場を借りて言うけども、地下鉄
サリン事件には日常的通勤の風景の只中に死体や悶絶を突如現出させた、という意味では侵犯行為
である。死体というのは禁忌であり、殺傷というのが死体を現出させるという意味での禁忌を侵す
、というテーゼが『エロテイシズムの歴史』にある。その意味で地下鉄サリン事件が内包していた
侵犯性はあるのじゃないか、と思えますね。モノの連鎖、価値意識に浸透されつくした風景の中に、
死体と殺傷を投げ込んだ、苦痛する人間を投げ込んだ、如何なる意味でも回収されないマイナス=
負を投げ込んだ。その意味でやはり特異な事件だった。
バタイユを読まないがバタイユ的風景、てあると思うんだよね。僕らが女の子の身体に欲情してい
る瞬間とか、旨い酒をたらふく呑んで下品な笑い声を上げている瞬間、つまり軽微な侵犯ですよ
ね。バタイユを現実の惨たらしい風景と切り離し、安心している研究者的態度に同化したくはない
ね。翻訳作業にたいしてはご苦労様といいたいけどね。
>>135 私は、バタイユの中でも比較的やさしい「エロスの涙」「文学と悪」から入りましたよ。
「眼球譚」と「エロティシズム」がバタイユの代表作ではありますが。
バタイユと関係の深い作家では、モーリス・ブランショやシモーヌ・ヴェイユなどがいます。
>>137 う〜ん。。。
地下鉄サリン事件がエロティックというのはバタイユスレにしてみても不適切なのではないでしょうか?
私は麻原彰晃を礼賛する気にはなれませんよ。
バタイユは確かに侵犯ということを言いましたが、大量殺人が崇高だとは言いましたか?
彼は宗教そのものを否定しているではありませんか?
139 :
考える名無しさん:2010/12/01(水) 23:10:45 0
臭い
140 :
考える名無しさん:2010/12/02(木) 01:09:14 0
>地下鉄サリン事件がエロティックというのはバタイユスレにしてみても不適切なので
はないでしょうか? 私は麻原彰晃を礼賛する気にはなれませんよ。 バタイユは確かに
侵犯ということを言いましたが、大量殺人が崇高だとは言いましたか? 彼は宗教そのも
のを否定しているではありませんか?
先ず、無差別殺人というのがバタイユ的である、ということ。何故なら、生命を含めてあ
らゆる富の消尽というのが、至高性の要件としてあります。富を温存する、生命を大事に
する、財を大事にする、これが消尽の反対、富の温存を意味します。殺害にバタイユは思想
的な意味付けをしています。
《有用性の世界が一個の事物の状態へ、つまり死に疎遠な事物、したがってまた殺害にも
疎遠な事物の状態へと還元しようと努めてきた人間は、そのように自らが受け入れた禁止
をついに侵犯するよう求めるに至る。その瞬間に、彼は殺害によって、彼が拒む服従を逃
れるのであり、道具という、或は事物という様相、仮に彼が引き受けたにしてもそれはほ
んの一時のあいだのみであった様相から、暴力的な激しさとともに離脱するのである。こ
ういう代価を払って初めて至高な実存が彼に戻されるのだ。》(『至高性』人文書院 47頁)
《しかし本質的に言えば、至高性とはもろもろの限界を受け入れることの拒否なのだ。死
の怖れのせいでそれを尊重するよう促される制限、つまり諸個人の生活が勤労と安寧の
うちに営まれることを一般的に保証するために尊重するよう促される制限の拒否なので
ある。至高な生を再び見出すために、殺害するということが唯一の手段というわけではむ
ろんないのであるが、それでも至高性はつねに死が命じる感情の否定に結び付いている
のだ。至高性は殺害に対立する禁止を侵犯する力、むろん慣習が定める諸条件においてで
はあるが、そういう殺害の禁止を侵犯する力を要請する。》(同書 47-48頁)
141 :
考える名無しさん:2010/12/02(木) 01:41:00 0
バタイユの言説から、殺害ということに、《事物の世界、道具の世界であり、時間を通じた
自己同一性の世界、未来の時間を自在に取り扱おうとする操作の世界である―つまりさま
ざまな限界と法の世界、禁止の世界》(『至高性』45頁)からの暴力的な離脱、をみているこ
とは明らかである。ここをバタイユから排除することはできない。バタイユが殺害に思想
的意味付けをしていること。ここを落としてはいけない。バタイユはただの教養人ではな
い。履き違えてはいけない。彼の思想からみた意味付けをちゃんとしている。それがバタイ
ユです。喩えでもイメージでもない。殺害は殺害。本物の殺害のことを言っている。
バタイユの思想にとって、殺害は重要な意味をもつ。で、そこで常識人は顔をしかめる。
バタイユを読むならば、社会道徳や常識とかに囚われては駄目でしょう。バタイユ思想を
実像と異なる像にすべきではない。
バタイユは人類の歴史の中に
労働と侵犯を見出したんだから
どちらかに偏ってみるというのはどうなんだろう・・・
バタイユ自身アフリカ人の風習を完全には理解できないと
言ってるし、サリン事件至高性を感じるのは現代では無理なのでは?
143 :
考える名無しさん:2010/12/02(木) 19:45:54 0
少なくとも『至高性』での言説を辿る限り、殺害という行為が自己の思想的中枢を担うことを彼が
自覚していること、これは文面を読めば分かることです。
《至高な生を再び見出すために、殺害するということが唯一の手段というわけではむろんないので
あるが、それでも至高性はつねに死(注:の怖れ)が命じる感情の否定に結び付いているのだ。
至高性は殺害に対立する禁止を侵犯する力、むろん慣習が定める諸条件においてではあるが、そう
いう殺害の禁止を侵犯する力を要請する。》(『至高性』人文書院48頁)
《常に至高性は、死(注:の怖れ)に結ばれているあらゆる衰弱を、強力な意志によって一掃する
よう強いるのであり、また心底からの戦慄を支配するよう強いるのである。》(同48頁)
これらの言説は、バタイユが単にエロチック文学者の一人ではない、深度と強度を備え、また、
日常において覆蔵されている人間性の普遍性について、探っていたことを証している。再度言うけ
ども、バタイユが殺害と書くとき、それは実際の殺害を指している。よって、実際の殺害と照合する
ことは誤りではない。最も疑わしいのは、バタイユにおけるそのような、悪の意義を人間の普遍性
として思索するその言説を、換骨脱退してしまう読み方なのである。
例えば『内的体験』『有罪者』を翻訳した出口裕弘が、某批評家が地下鉄サリン事件の深層を考える
べき、と書いただけで、その某批評家を絶交した、という話がある。さようにバタイユ研究家とい
う肩書きは当てにならない。非常に保守的な、学校教育的な、骨抜きにする読み方しかできない
人間がいる。バタイユをその手の研究家のものにすべきではない。
常識家じゃないと、哲学ってできないと思いますよ。現にバタイユは図書館長の紳士でしょう?
基本的人格というものがそなわっていて、初めてそこから飛躍したアイデアを羽ばたかせる事ができるんでしょう。
また、バタイユは供犠を狂気としてとらえましたが、狂気と分類する側の人間は正気じゃないといけないですよ。
それに、バタイユを安易に世間のアナーキストや神秘家たちと結びつけるのは安易じゃないかとも思います。
彼の中のアナーキズムや神秘性とはもっぱら創造の中において発揮されたものであって、体験そのものではなかったんです。
バタイユは、暴力をたしかに肯定してはいるものの、それは瞑想によって昇華され、時間をかけて達成されなければいけないと言っています。
地下鉄サリン事件が、はたしてバタイユの言うように、瞑想によって高められた喜ばしい死であったかというと、疑問です。
発言を撤回すべきとは思いません。個人の意見としてもっておけばいいことですが、それに同意することはできません。
>>138 わかりました。私はちょっと誤解してたのかな。。。
無神学大全が、主著だと思い込んでいました。あなたのお奨めに従って
読んでみましょう。なんだか、楽しみですね。
144のつくださんの発言には残念ながら同意できません。
つくださんは、バタイユ本人と会った事でもあるような発言を
されていますが、それは虚構と思いますから。。。
なにか、サリン事件が話題となっているようですね。
確かに、アサハラや実行犯たちは自分たちの行動を崇高化していた
でしょうね?それは、疑い得ないことだと思います。・・だからと
言って、あの事件が崇高だったか、というとまったくそんな事は
ありませんね。あの事件は、崇高の反対物。・・なんと表現したら
適切かよくわかりませんが、言ってみれば低俗、ではないでしょうか?
146 :
考える名無しさん:2010/12/03(金) 02:12:21 0
144で書かれている「常識家」「基本的人格」とか、禁忌‐侵犯の弁証法の一方のことで、それ自体、
取り出しても無意味、ましてや物神化などできないし、勿論バタイユもそんな姿勢なわけががな
いし、ましてや「常識家でなければいけない」「基本的人格をもっていなければいけない」とか、バタ
イユが言うわけがないし、「私は哲学者じゃなく、狂人である」とは言ってますけどね。それと、「分
類」、彼の著作活動では必要だったけど、知性をとっても、知‐非知の弁証法としては確かに一要素
ではある。しかし、取り立ててそれ以上の意味はない。「彼の中のアナキズムや神秘性とは」から「
時間をかけて達成されなければいけない」にかけては、そんなことはバタイユの思想の歪曲以外で
はない、と言えるだけですよ。“アナキズムや神秘性は創造であり体験そのものではない”はひど
いぞ。悪いがこの発言は冒涜ものだよ。何気に言ってるだけかもしれないが、バタイユへの冒涜だ
と思うよ。君はそんなには知らないで言ってるんだろうから、その意味で読んでるけど、じゃなけ
ればひどい切り崩しだ。「暴力をたしかに肯定してはいるものの、それは瞑想によって昇華され、
時間をかけて達成されなければならない」もそうだ。貴方、これ、何なの?としか言えない。いい加
減なことを(苦笑)…。これもひどいぞ。意味を分かって書いてたら逆に凄いがね…(笑)貴方はまだ
そんなに読んでないで書いてるんだと思うけど、『至高性』で書かれてる殺害は創造世界でもなけ
れば、現実の行為として用いている。。『至高性』は理論的著作だし、そのものだよ。虚構でない、そ
のものとして書いてる。当たり前でしょう。「個人の意見としてなら」て、冗談言うんじゃない。
僕から言いたいのは、バタイユは貴方が今、理解しているような思想ではない、ということ。貴方
が理解しているバタイユは、まだ本当のものではない。地下鉄サリン事件の死と、「瞑想で高めら
れた喜ばしい死」とか、僕は一言も言ってないし、そこでそのような接続をするべきではない。そ
もそも、地下鉄サリン事件の死は瞑想で得られるようなものではない!そんなことを言ってないし
、瞑想とはそこでは関係ないんだよ。文脈が違うんだよ。分かってるのか?
147 :
考える名無しさん:2010/12/03(金) 02:30:06 0
でもバタイユは哲学を勉強してきたってインタヴューに答えているし
(邦訳されているか知りませんが)、
狂人ぶっているのは、自分を演出するポーズでもあるんじゃないかな。
ある作家に思い入れをこめるのも結構だけど、
そもそも読書とは人生を豊かにするもの。
146さんはしばらくバタイユから離れたほうが良いのではと思います。
>>145 トーヘンボクさんはこれからバタイユに触れてびっくりするのでしょうね。
私も今読んでいる所です。まあゆっくりまったり読みましょうよ。
>つくださんは、バタイユ本人と会った事でもあるような発言を されていますが、
別に私はバタイユの知り合いぶっている訳ではありませんよ。この動画を見たのです。
ttp://www.youtube.com/watch?v=tpFSXAdlEYY&NR=1 彼は語り口も穏やかで、紳士然としているでしょう?静かな男性という印象です。
>>146 まあ落ち着いて下さいよ。
たしかにバタイユは「私は聖者でなかったら狂人だ」と言ってますけど、それは事実でしょうか?
彼が本当に狂人だったら、理論的な本を書いたり、おしゃれに気を使ったりしていられないはずですよ。
それに、バタイユがオウムのような宗教による死の儀式をそんなに支持しているのだったら、
また、なぜ秘密結社アセファルは衆目の監視する所で人間の生け贄を殺害する訳でもなく、
人の来ない森で家畜の首を切るだけにとどめたのです?
また、バタイユは、殺人鬼のジル・ド・レ裁判についてこう言ってます。
「犯罪は明らかに夜を招く。夜がなければ犯罪は犯罪ではないだろう。
しかし夜がどんなに深いとしても、夜の恐怖は太陽の輝きを渇望する」
この太陽の輝きへの渇望とは、バタイユ自身による、豊かな生や秩序への渇望だと私は読んでいます。
>>147 ヤクザ映画が流行っていた頃、見に行って帰りに肩をいからせてのしのし歩く人が多かったとは聞きます。
映画は音声と映像で臨場感がありますが、読書というのは文字だけですから、
読書をして酔いしれ、その気になる人というのは、繊細で過敏な人なんだと思います。
本人にとってその、酩酊したような体験がのちのち貴重なものになるかも知れませんね。
149 :
考える名無しさん:2010/12/03(金) 19:00:12 0
人間が没落してゆく力動を覆蔵していること、をハイデガーも非常に重要視しており、〈比類を
絶する〉〈無尽蔵〉を人間において開く、それが〈歴史の根源〉からの差し向けであり、有 Seyn であ
る、と書いている。人間における、不吉な力動に着目してるのはバタイユだけではない。あと、僕が
言っているのは、あくまで思想家の辿った思想の内実を歪めるなと言ってるんだ。感染を用心し、
教養の一環として読もうというならいいでしょう。僕はそういう人間ではないがね。また、そうま
でして思想から客観的な距離を固持することが、僕はむしろ貧乏臭さ、自分を大事にか何だか知ら
ないが姿勢として、いかにも現代人らしいケチ臭さ、小心を感じる。バタイユなら多分、嘲笑、もし
くは苦笑しているだろう。あと、人の首を切るにせよ、どんなsacrificeにせよ契機がなければ
簡単にできるものではないよ。だから彼はしきりに好運 chance ということを言うでしょう。
やはりあんまり理解してないね。好運として捉えてるんだよ、至高な瞬間の到来、を。覚えておき
なさいよ。
それから、バタイユの思想というのは、禁止‐侵犯の両方を兼ねているのが人間、というテー
ゼがある。理論的な本を書いている人間が残虐な光景に魅惑されたり、矛盾するものを持っていたり
する。それがバタイユの描く人間観でしょう。理論的な本を云々、ということに感心し、バタイユの
思想を見失っているんじゃないか。
150 :
考える名無しさん:2010/12/03(金) 20:05:46 0
なんか最近バタイユwikiが更新されてるのは偶然かな
wikiの中の
ジャック・デリダ(『エクリチュールと差異』にバタイユ論がある)やミシェル・フーコー(「侵犯の思考」というバタイユ論がある)への影響も見逃せない。
しかし、フーコーとドゥルーズはのちにバタイユを批判した。
というところの批判の内容を教えてください
151 :
考える名無しさん:2010/12/03(金) 23:11:31 0
150さんには悪いがもう少し言わせてもらいます。バタイユの言説を鵜呑みにし、バタイユ
に成りきった、要するにエピゴーネン(亜流)だと質の悪い中傷を書いている人間がいるが、
僕はバタイユの思想を理解するため努力した。しかし、意図的に模倣した覚えはなく、むしろ
読んでいるうちに自分の内部に照明を当てられ、見えるようになった、というのが本当の
ところである。
もう一つ。バタイユを読むことで僕は自分の人生が豊かになったと感じている。自分の中に
、〈侵犯するために禁忌する〉というバタイユ的な領域に気付き、自分の中の制度的な硬直
化が溶解した。ということがある。自己の断面に、没落の方向へ向いた存在(無)という
ものがある。それは貴重な発見だった
ある。
151さんには悪いが、あなたからは、
自分を大事にか何だか知らないが姿勢として、
いかにも現代人らしいケチ臭さ、小心を感じる。
バタイユはオマエのように自分探しなんかやらずに、
反対に、自分を供犠にかけようとしたんだぞ。
わかってるのか、オイ!
バタイユはこう言ってます。
「残酷もエロティシズムも、禁止の限界の彼方へ向かおうとする決意に支配された精神の中で生ずるものである。
この決意は普遍的ではないが、つねに一つの領域から他の領域に横滑りしていく可能性がある。つまり、これらの
領域は、いずれも禁止の力から決然としれ逃れでようという、陶酔的な感情の上に基礎を置いた、隣り合った領域
なのである。」
つまりエロティシズムと残酷が紙一重だと。そして、上の表現をした後、アフリカの戦争捕虜のむごたらしい拷問
について、具体的に描写し、捕虜達に性的な拷問もすることがあったと述べています。
テロはよく戦争の引き金になったりして、両者は切り離せないものとなっています。
バタイユ的に見て、そのテロリズムにエロティシズムが宿るかというと、否定はできないかもしれません。
しかし私は、
>>146さんの地下鉄サリン事件への言及には、正直吐き気を覚えました。
もっとオブラートにくるんだ表現だったら、まだ拒否反応は起こらなかったでしょう。
生きている限り我々は、死を拒否しつづけます。そのみずみずしい反発力は生命の現象そのものなのです。
地下鉄サリン事件のような大量殺戮というものを、やすやすと受け入れる訳にはいかないのです。
154 :
考える名無しさん:2010/12/07(火) 18:05:01 0
バタイユというと、『エロテイシズム』に書かれてるような、禁止‐侵犯の弁証法とか個体たらしめ
る非‐連続性から連続性への変態とか、または内的体験とかが論じられる。しかし、それらはまた
別個の対立点の一部だったのだ、というのが僕の見方で。というのは晩年に書かれていた『至高性』
という本、これは『呪われた部分』3部作の結論部の予定だったそうだけど、そこで至高性というの
を、自分がこれまで様々に書いてきた概念を総称するように使っている。エロテイシズム、陶酔、
戦争、供儀、狂騒、…で、そこで総称しながらそこで貫通する根本概念として取り出しているのが、
無(なにものでもないもの rien)なわけである。何故こんな無を出してきたか、 にバタイユの
根本思想があると思うわけです。
バタイユのいう無(なにものでもないもの)とは、有用性の反対側なわけで、一切の有用性の反対
側だといえる。で、その無を孕む主体性こそが至高性とされる。それがバタイユが生涯追究した領
域、根本概念である。そうすると、バタイユのモチーフというのが浮上してくる。有用性に支配され
た、回収された世界にたいする大きな疑問符である。
麻原という人物像を考えると、これも、既に存在自体が「なにものでもないもの」に限りなく接近
してきている。精神錯乱で糞尿垂れ流しらしい。原因は不明。修行者の結末としては興味深いと思
える。そんなところです。
バタイユはコミュニケーションを重んじ、友達にも恵まれたひとだった。
一方的に説教を垂れ流し続ける154さんこそ、麻原みたい。どおかしら?
当時の吉本隆明並みに評価に重み置きすぎじゃないの?
90年代だけ見れば珍しいけどあれレベルの教義やら
精神性なんて日本の歴史を見ればいくらでもいるだろ
157 :
考える名無しさん:2010/12/08(水) 03:06:13 0
どれも俺のバタイユ理解とは違うな〜
まあ、どうでも良いがね〜
今日、注文した。
読み途中の「エロティシズム」を放置して最近ウィキペディアの編集に凝っている私ですけど、
ウィキペディア:バタイユ項目の「バタイユには、主として3つの作品群が存在する。ひとつは、
論理的な整合性を欠いた文章群。代表としては、戦間期に書かれた『無神学大全』三部作
(『内的体験』、『有罪者』、『ニーチェについて――好運への意志』)がある。」
に疑問を抱いています。うーん。果たして内的体験は論理的整合性を欠いていたでしょうか?
>>158 純一さんは統合理論でバタイユに言及してくださいよ。
>>159 トーヘンボクさんこんにちは。
バタイユの何の本を注文したんですか?
私は全部図書館で借りてすませています。
バタイユの本はどれも古いものばかりで、ボロボロなため書庫に入れられている様です。
・・・文学と悪、エロスの涙、エロティシズム。
あと、ゲリー・ボーネルのアトランティスの叡智とか。
つくだには、死んだのかな?
トーヘンボクって何かひねた奴だよな
メンヘルタッチというか
もっと、イジメたかったのに。。。
トーヘンボクって相手にされてないよ
なんでいきなりトーヘンボクと私の立場が逆転してるんですか?
バタイユの何を読めばいいかとか教えをこうてきたのはトーヘンボクでしょう?
佃煮さん佃煮さんというから友好的に接してたんですけど、
この態度の豹変は精神疾患的な要素を孕んでいるものでしょうか。
気味が悪いですね。最悪です。どうでもいいですが。
シュールレアリズム的な不気味な展開を、バタイユは得意としてましたが、
ここでも似た様なことが起こっています。夜は更けてゆきます。
うむ。豹変というのいけませんか?一貫性などに頓着しないのが
シュールレアリストの本分、ではないでしょうか。だいたい、
つくださんが、いきなり沈黙モードに入られたものですから。。
こちらも、つくださんとの関係性を忘れかけている訳ですよ。
そもそも自分がつくださんの、啓蒙主義的進歩史観を粉砕したのが
いけなかったかな。。とは、思いますが、ここはなかよしこよしの
社交空間などではなくて、ある問題提起にたいして、
議論を尽くす場所でしょう。間違っていますか。。。
(185の発言は、撤回します。)
教えを乞うという言い方も、なんだか釈然としないな。なにかモノを
頼めば、それだけで一種の権力関係が生じるわけですか?
わたしに、なにか質問をして来るひとがいるとして、その質問が適切な
ものと感じられたら、私は一生懸命答えようとしますよ。ここは、
問題解決のためにみんなが知恵を出し合う場、だと認識していますので
ね。そしてそのことによって、私と質問者のあいだには何の権力関係も
生じませんよ?
>>168>>170 >つくださんが、いきなり沈黙モードに入られたものですから。。
最近忙しいのですよ。今は年末でしょう。
2ちゃんねるも今規制中だし、ウィキペディア編集の方が面白かったりして、今はそっちのほうに気がいってます。
哲板に来て数年になりますが、ここでまともに議論できていた時期は非常に短かったです。
沢山の人と会話した中、エートル・オートルさん、174さん、カオルさんの三名とは、何とか対話の体裁を保つことができたりもしました。
しかし、大体において2ちゃんねるとは、強制力のあるルールもなく書きたい放題書ける無法地帯なので、
議論提起されればすぐに野次でスレッドがうめつくされ、対話者とは対立して喧嘩のようになってしまいます。
ウィキペディアではそういう事態を避けて、ある程度知的な人と白熱した議論ができたりします。
なので、私は最近2ちゃんねる哲板を諦めかけているという状況なのですよ。気分次第ですが。
私やバタイユスレの皆さんと議論がしたいなら、まずあなたのバタイユ論を述べて下さい。
それにはまず彼の著書を通読する必要がありますね。ゆっくり読んで下さい。
・・つくださんは、「文学と悪」を比較的やさしい。。とおっしゃってた
けど、とてもそうとは思えませんが。この本をほんとうに理解するには、
エミリ・ブロンテ、ボードレール、ミシュレ、サド、ウィリアム・ブレイク、
プルースト、カフカ、ジュネを一通り、全部読まなきゃだめじゃないですか。
5年以上はかかりますよ。こんなのを「比較的やさしい」なんて紹介して
くれるのは、一種のイジワルとしか思えないんですけどねぇ。。。
174 :
考える名無しさん:2010/12/15(水) 09:50:41 0
だいたい真に自分に必要な、渇望する本なら、必死にこまめに読んで理解しようとする。誰の指図
も受けずにそうするだろう。バタイユ研究でも色んなタイプがいるから、他人の読み方より自分に
頼った方がいい。バタイユをフランス文学研究の枠に嵌め込み、高尚な外見を纏わせ、満足している
輩もいますからね。
ここで教えてもらうより、『バタイユ入門』(酒井健 ちくま新書)、『バタイユ』(湯浅博雄 講談社
学術文庫)などを読むのがいいよ。因みに湯浅博雄は有用性の円環からの離脱ということと殺害と
いうことの連関を抉り出しており、これは僕の読みと一致している。事物性の破壊が、未来への配
慮から離脱をさせる、そこに供儀の本質があるということです。湯浅の『バタイユ』第4章 祝祭=
供儀の解明にむけて で書いています。
西欧の歴史的必然として、バタイユを捉えることが重要で、そこで何故バタイユか、とい
うところで、湯浅も着目している、有用性の円環、〈〜は…のためにある〉〈…の役に立つ〉と
いった、そこでのみ存在が測られる、それへのアンチがあり、もうひとつ、主体主義、自己
責任、自己を統制する存在としての人間。への疑問符もあったと思う。何故なら、バタイユ
のいうような人間像の場合、自律的な存在、統制的な存在としての人間は、己を蕩尽しよ
うとする力動に絶えず襲来され、没落する運命にある。それは、自己責任としての人間、
自己統制としての人間、とは違うわけです。むしろ、自己統制の破綻という地点にこそ、
人間の人間たる所以はある、とする。そこがバタイユの提示した人間像が、世界で一般化
されている人間像とちがうところである。また、そこがはっきり言えないなら、単なる
キワモノの好むフランス文学で終わりになる。
177 :
考える名無しさん:2010/12/15(水) 17:52:51 0
>>173 ボードレールは「悪の華」さえ読めば事足りるよ。
エミリ・ブロンテは早死にだったから作品が少ない。
サドだって牢獄生活が長いからそれほど多作ではない。
他はちょっと面倒臭いが。
>>174 ・・さっそくのご助言、ありがとうございます。
ご推薦の湯浅氏の本、ぜひとも入手したいと感じております。。。
174=175さんの解釈ですが。。。私はまだ、バタイユを読んでは
おりませんが、お書きになった内容はまったく共感のできるものです。
なにやらわけのわからない力動に翻弄されるのが、人間的本来性であって
それを、なるべく隠しておこうという社会的なプレッシャーというものが
ある。。と思います。・・それを批判するのでは、ありません。それもまた
人間的本来性のように思えるのですから。
酒井健のは、酒井自身のバタイユ体験が冒頭に書かれて、中々興味深かった。書き方としては、
酒井のものは伝記的な年代記と思想を絡めて論じる。湯浅のものは本人が前置きしてますが、思
想を中心に論じる、という違いが、あります。僕は2冊ともよく出来てると思いましたけどね。
どうぞ御参考に。
波平も皆と同じレベルのバタイユ理解なので、
ネットは無料であるから、モースの贈与論や
バタイユの有用性の限界を踏襲すれば、
ネットの革新性はここにある、と主張する訳だ。
君等のバタイユ理解というのは要するに
その程度であり、この波平のありがちな誤解を
解く事すらできない訳だ。
バタイユを理解したと自負するのならば、
この波平のありがちなバタイユに対する誤解を解いてみせよ。
いろんなバタイユ理解あっていいんじゃないかな
でも175さんは霞ヶ関でも秋葉原でも行って何かやらないと
口先だけの、単なるキワモノの好むフランス文学で終わりになるん
じゃないかな
インターネット掲示板でどれだけ思想的な難題を語ってみたところで、朝になれば、また同じよ
うに電車に揺られ、余裕のない、品のない、または猜疑心に満ちた、全く至高ではない、無数の顔を
見ながら、そのなかに混じって、出勤していく。生活のために。顧客に頭を下げたり、同僚と効率的
なやり方を話し合ったりしている。そのような毎日と、バタイユを読む事が、どんな関係があるか
、考えてみることは有益かもしれない。インターネット掲示板で高尚な議論する輩も、朝になれば
、実効性・有効性や能力で全て測られる、至高性の反対側の世界に行かなければ生きてはいけない
。インターネット掲示板で何を論じてみても、その内実はそのようなところだろう。バタイユを読む
ということが、そのような世界に何かをもたらすのか。または何ももたらすことはなく、何やらエ
ロテイシズムやら、について、気の効いた名言を読ませてくれただけなのか。それには興味深くみ
てはいますけど、波平の理論とか、それへの論破とか、それに取り組む必要性がわからない。インタ
ーネット掲示板で波平を論破して、それがバタイユと何の関係があるか、何も関係ないのではない
か。バタイユはバタイユの著作の中に居て、HN某が何を言おうが関係ないわけである。また、バタイ
ユを読むことが何をこの世界にもたらすのか、何ももたらさないのか、そもそも思想とは、私の毎日
にたいし、何を付加しうるというのか。HN某によるバタイユ解釈よりそちらの問いかけに興味があ
る。
だから、ネットが無料なのは、
バタイユの有用性の限界とモースの贈与論の
実現だっていうありがちな波平のバタイユ誤解を
君らは解けるのか?って聞いてる訳だ。
解けないのなら、ネットが無料=バタイユだ!
で、良いじゃないか〜という事になる訳だ。
無差別殺人とか。自分の意志だけで成就しうるものではないのではないかね。どこかで
解離状態になって、というふうでないと、難しいのじゃないか。バタイユの理論上でも、
好運 chance という契機がないと、事物性の連鎖は離脱はできないですよね。だからこ
そ、それが成就されたことは偉大な出来事とも言えるのでしょう。自己の意志のみではで
きないのだと思ってますけどね。
まあ、いいか。
一般的なバタイユの誤解の仕方って、
@グロテスク趣味としてのバタイユ
A波平的なネット万歳としてのバタイユ
B分析哲学に引き寄せたバタイユ
等々、ありますが、全部間違いです。
例えば、佃煮なんかは@のサブカル万歳としての
風俗万歳みたいな思考です。
Aは波平、Bは一般的なプロパーにありがちな誤解。
トーヘンボクもダメ、AとBあたりの誤解かな〜
>>184 ・・だから、私は俗世間で、俗に生きているけれども、
夜になれば、高尚な議論も理解できるよ。。という訳でしょう?
別に、理解できなくとも良いわけですが。理解というのは
一種の酔い、ではないでしょうか。誰でも、哲学は読まなくとも
ときどき、アルコールを嗜む。。というわけで、酔いには効用がある
また、需要がある、訳ですよね?
あと、「波平のありがちな理論」が「ある」ことが、何故論破されなきゃならないか、また、
我々が論破しなきゃならない、その必然が不明なわけだ。そこで論破が必要なら、言って
る本人がやればいいのだ。しかし、ここではやらないでもらいたいが(笑)あと、ネットが
無料で別にいいではないか?(笑)バタイユやモースと関連付けたいなら関連付けとけば
いい。勝手にやってればいい。
>>190 誤解するためには、まずバタイユを読む必要がありますね。
早く、誤解したいものです。
お、来ましたね。
>>189 純一はいつでも波平か私についての妄想プロファイリングしかしないで、肝心のバタイユ解体まではいかないんですよね。
私は一度もバタイユをグロテスク趣味だとは言ってないし、風俗なども行きません。サブカルオタであった過去はありますが。
あなたはいつでもコテ批評ばかりなんですよ。なぜなんでしょうね?コテであることが何の意味があるんですか?
私がコテをつけているのは議論する上で自他を区別しなければ意味がなくなるからです。議論していない時はコテを外します。
本題に戻りますが、純一もブログで東浩紀やラカンを脱構築したように、バタイユも脱構築してみてはいかが。
>>184 面白い提言ですが、疑問が残ります。
ここで高尚な議論がなされた事があるでしょうか?私はまだそれを目撃してはいません・・・
マダムエドワルダの芸術性について熱心に語った人を過去に記憶しています。
その人は哲学知識もほとんどなかったけれど、あの小品に電撃で打たれた様な衝撃を受けた様でした。
正面からストレートに物語に入って行き、作品から想起されるあらゆるイメージを連鎖させて語っていました。
その人のまとっていたような濃厚な熱気は、このスレには漂っていません。
バタイユを解体したいとは思わないな〜
だって、ロゴスっぽさが無いだろ?
ラカンや東は数学というロゴスに凝り固まっているから
解体が可能だが、バタイユはそもそもロジックを信仰してないじゃないか〜
あと、上のフィジー島での戦争の解釈は間違ってるね。
あれは戦争の残酷さ万歳というグロテスク趣味のバタイユ@に
誤解しがちだけど、実際には違う。
バタイユが言ってるのは、暴力それ自体では実は残酷さは無い、
と言ってるのだ。戦争での残酷さは、『暴力が組織化』されると
初めて『残酷さ』が出る、とバタイユは言ってるのだから、
実際には、昔の時代には残酷さがありふれていた、というのでは『なく』て、
暴力という散発的なものが残酷さを帯びるには、
実はロゴスやロジックといった、近代において一見無害なものが
実は暴力そのものが害である様に見せかけている、というのが
バタイユのニュアンスな訳だ。
だから、バタイユの言いたい事をちゃんと理解しているのならば、
戦争での残酷さを現出させる要素とは、
実は暴力そのものではなくて、その裏に控えている
近代的なロゴス、つまり、数学とか論理学とかその辺な訳だ。
バタイユはアンチロゴシズムなので、
この数学や論理学というロゴスそのものを破壊しにかかる訳だ。
だから、この場合、敵である破壊する対象とは
近代的な数学や論理学というロゴスであり、
暴力云々、グロテスク云々という話ではない訳だ。
ところが、佃煮は@のグロテスク趣味に
これを理解してしまうので、結果的にバタイユの価値が下がるのだ。
あと、Bの分析用に歪められたバタイユってのは、
要するにウィトの転写ね。
バタイユは言語の裏に言語化されえぬものを〜というのは
ウィトであってバタイユではないよ。