1 :
考える名無しさん:
輪廻から解放されて、もうこの世に生まれてこないこと?
だからエッチも禁止なの?
2 :
考える名無しさん:2010/09/21(火) 14:01:21 0
そうだとすると、輪廻なんかねえよってことになれば、仏教イラネとなってしまうな。
仏教は無始無終です
最終目的はありません
そうやって、知によって悟りを得ようという姿勢を、仏教は否定しているのです
5 :
考える名無しさん:2010/09/21(火) 14:29:58 0
金払うと、無欲無執着という紳士的なレッテルを装備できるよ。
6 :
考える名無しさん:2010/09/21(火) 14:31:25 0
いや、一応哲学とかないとホントにただの葬儀屋になっちゃうんでw
7 :
考える名無しさん:2010/09/21(火) 14:48:15 0
>>4 で、何を肯定してるんだね? それとも「何でも反対」か?
8 :
考える名無しさん:2010/09/21(火) 14:49:07 O
冠婚葬祭や各種相談承ります
墓石、仏壇の斡旋から月極駐車場もやってます
仏教は非有非無です
肯定も否定もありません
10 :
考える名無しさん:2010/09/21(火) 15:11:49 0
ちなみに嫁も自動的に用意されるよ。
11 :
考える名無しさん:2010/09/21(火) 15:12:18 0
何を考えてそう言ったのかは知りません
13 :
考える名無しさん:2010/09/21(火) 16:05:35 O
じゃあ仏教では、
何をどうしたいって言ってるの?
全ての執着から離れるってのが主張なら、
どうしたいとか一切ないの?
ただ体験をあるがままに受け入れ、価値観を転換し楽しめってのとは違うのかな。
14 :
考える名無しさん:2010/09/21(火) 16:07:55 0
何事も肯定も否定もしないんじゃ
サンジャヤと変わらないじゃないですか。
竜樹とかガンガン否定してなかったっすか?
15 :
考える名無しさん:2010/09/21(火) 16:11:02 0
いや、釈尊はきっとすごいっすよ。
老病死とかみて生は苦だとは誰でも思うけれど、
しょうがねえやとあきらめて、
それを解決しようとか考えんでしょ、ふつう。
並じゃないっすよ。
16 :
考える名無しさん:2010/09/21(火) 16:11:59 O
仏教の経典って、いろんな時代にいろんな人が書いてるから、
処世術みたいなものや既存の経典と矛盾してたりしてわかりにくいわ。
お釈迦様か次の如来の方が早く現れて整理整頓してくれないかな。
これOK これボツとか
17 :
考える名無しさん:2010/09/21(火) 16:21:29 O
>>14 龍樹菩薩いいよね。
透明人間の術とか使っちゃうんだけど。
ファンキーだな。
唯摩居士とかも興味深い
>>14 仏教史において、過去も現在もそのように誤解されることがしばしばあります
3 : タンメン(西日本):2010/09/21(火) 22:05:01.48 ID:NpZSpQXR0
坊主の金への執着心は異常
修行による神秘体験によって
今までとは違う価値観や物の見え方になる
これがすべて
21 :
考える名無しさん:2010/09/22(水) 18:58:42 O
無目的って事でオケ?
22 :
考える名無しさん:2010/09/22(水) 19:35:17 0
修行による神秘体験は幻ですって、修行した人が言ってた。
23 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2010/09/22(水) 20:11:54 0
素人考えだと、あらゆることを意味づけるっていうことの単細胞さを、救いのないものとして、人間は無意味なこと
にも価値を見いだすべき、というか、そういうものが死である、ということ、そういうことを人生の中で悟る、意味のないこと
を「事態として」考えることができるのが人間というものの叡智であり、したがって人間の見るあらゆるものには
色があるが、それは結局人間の内部である限界を持つ、「空」という見方のできるものであるということだ。
22>>
その人の修行は、だめったんだろうね。大体、悟ってもいない者が、判定できないだろ?
25 :
考える名無しさん:2010/09/25(土) 14:46:45 0
仏教なんかよりオレが考えた宗教のほうが優れている。
それはないな
27 :
考える名無しさん:2010/09/25(土) 17:02:00 0
世界中の人間を怠け者 馬鹿にし
お布施をもらいまくり 酒池肉林
極楽浄土を実現する
28 :
考える名無しさん:2010/09/25(土) 19:42:21 0
釈迦が輪廻の話を持ち出した理由はおそらく当時のバラモン教が輪廻を説いていたからだろう。
永遠に輪廻すると。だから解脱すれば輪廻から抜けられるという説明が意味をなす。
実際、この一切皆苦や輪廻は身近な所にもあるのでわかりやすい。一生を通して起こるという
大きなものではなく小さい単位でも発生する。例えば博打にハマってやめられない人というのが
実際に存在する。これは正に勝ったり負けたりの繰り返しであり全体を通して苦の輪廻になっており、
博打に関わることをやめないと(解脱しないと)苦はなくならない。しかしやっている本人は勝てば
苦がなくなると錯覚しているのでやめられない。確かに勝てば一時的に苦は消える。しかし時間が
経てばまた博打で金を失い苦が迫ってくるので勝ちは根本的な解決にならない。博打の魔力に
惑わされずに執着を捨てスッパリとやめてしまうしか苦を完全に滅する方法はないのだ。
29 :
考える名無しさん:2010/09/25(土) 19:44:13 0
そしてやめてからがその人の本当の人生となるだろう。それまでの人生は博打という魔物に
取り付かれて動かされているだけの操り人形だったのだから。
それは単なる聖俗二元論だろ
31 :
考える名無しさん:2010/09/25(土) 19:55:05 0
>>30 一回全部捨てないと全体は見えない。
一度パチンコ屋を出て自分が何をやっていたのか離れて見てみないと何が起こっていたのかは
分からないものだ。その中に入ったままでは視野がその中のことだけに固定され全体は見えなくなる。
確かに聖も俗もありはしない。それは幻想だ。しかし幻想の中に入ったままで幻想を見破ることは
出来ない。それは夢の中で夢であることを証明不能であることに等しい。
部分即全体だろ
自然数みたいなもんか
間違えた実数
どういうこと?
y=tanxは連続でしかもxが-π/2からπ/2動くだけでyは実数全体を動く
だから、(-π/2,π/2)に含まれる実数の個数と、(-∞,∞)のそれは等しい
37 :
考える名無しさん:2010/09/25(土) 21:21:02 0
金持ちのボンボンが暇だから取り付かれる
思考に
みんなが伝染したら やばいだろうな
>>30 どこが聖俗二元論なんだよ?
穢れも出てこないのに
博打における苦の状態
40 :
考える名無しさん:2010/09/25(土) 22:13:01 0
即身成仏
41 :
考える名無しさん:2010/09/25(土) 22:43:10 0
>>32 その事が理解困難な状態に陥っている所から抜け出すのだ。
42 :
考える名無しさん:2010/09/25(土) 22:44:15 0
まあしかし仏教をただの哲学だけで終わらせてしまうのは非常に勿体ないことだ。
瞑想するなどして是非体感して経典の真意を読み取って欲しい。
仏教は実践主義、体験主義だからね
自分で体験してああそういうことかと初めてわかる
44 :
NeverReturner ◆QTarhat7/2 :2010/09/25(土) 22:58:10 0
世間の人は釈迦の法を未だ知らない。
悟りではなく、その根拠の問題を言っているのだ。
釈迦の法がなぜ解脱をもたらすのか、その理由さえも知らない。
たとえば自分の行動パターンを変える、という事を想像した場合、
普段コーヒーの粉を台所の棚に置いてあるのに、書斎の棚にそれを置いたとすると、
頭の中で何度かコーヒーの粉は書棚にある、と言い聞かせたところで、
何度か身体は知らず知らずのうち台所に向かってしまう。
言い聞かせることには効果が無いとは言わないが、即効性は無い。
だから深い瞑想を出来ない修行者は、直ぐには解脱を成し遂げることが出来ないのだ。
それでは、煩悩を解脱できる根拠はというと、煩悩は運命の動画として認識されるからだ。
それはまるで退行催眠療法におけるトラウマとなった事件を追体験する作業に似ている。
そこには、衝撃があり、心からの反省がある。現在の自分がよって立つところの根本的な原因と正面から向き合い、
まざまざと自分の内面を認識させられる。ここに解脱の根拠がはっきりと存在する。
これが、漏尽通の解脱力である。漏尽通は観察力であると同時に
解脱力なのである。
この漏尽通にははっきりとした解脱の根拠がある。したがって、多くの仏道修行者は
ここを目指すべきである。
45 :
考える名無しさん:2010/09/26(日) 00:00:33 0
暇なやつは仏教でもしてろ
46 :
考える名無しさん:2010/09/26(日) 03:54:38 0
超能力のようなものに見入ってしまうとしたらそれは煩悩なので、普通は修行中にそういう能力が
現れたとしても囚われずに修行を続けろと言われている。
これは要するに最終的に認識を行っている阿頼耶識の問題だ。それが世界を作っている故に
実は現実と思い込んでいるこの世界でも夢のように何でもありということである。しかしそれに
囚われてしまえば修行はそこで停まり識を滅することも出来ない。相変わらず世界は己れの
外にあり、己れがその内にあり、世界に翻弄される己れが存在してしまう。相変わらず夢と
幻想に支配された状態が続く。それは涅槃ではなく静寂もない。そして己れが滅していない。
「私」が神秘体験をしただけになってしまう。
47 :
考える名無しさん:2010/09/26(日) 03:58:37 0
そしてその「私」が膨れ上がってしまい「私がやった」、「私が見た」、「私が悟った」と認識して
しまうのである。その「私」が一体何であるのかを理解しないままに。
48 :
考える名無しさん:2010/09/26(日) 10:05:04 0
この時代に
こんな邪教が流布したら
本当に日本はやばいな
49 :
考える名無しさん:2010/09/26(日) 10:27:10 0
>>1 そう
>>2 それはありえない
>>4 そんなことないぞ。聞思修も知と捉えるられる。
>>7 最終的にからっぽであることを気付くために道があり、
その道は方便として設定される
>>9 最終的にはそうだけど、世俗レヴェルの道や因果としては有無はある。
>>13 サンガに属し覚った伝統的師から聞き考え習えと説く。
習う内容は、すべきことすべきでないことを戒め、心を集中させ、
集中した状態、三昧が得られたなら、縁起・苦・無常・無我・空などによって
無我・空を悟り、解脱する。
>>14 上の縁起・苦・無常・無我・空の位置に当たるのが『中論』
つまり、戒と定・三昧を得てないものが『中論』を読んでもほとんど意味がない。
50 :
考える名無しさん:2010/09/26(日) 10:35:25 0
>>15 すごい。史上無二です。これは間違いない。
なぜなら、縁起・空・仮設ほど勝れた見解は世界にないと思われるから。
少なくとも私は知らない。
>>16 いろんな聖者がやってます、代表的なのが『中論』『入菩提行論』
>>20 違う。そういった変性意識は、あまり重要ではありません。
>>22 そう。それと同時に現在の現象・知覚も幻。
>>42 伝統的な師に就くべし。仏教は師に就かないと無理。
>>45 あ、はい!
>>46 そうだけど、アラヤ識も仮設です。
>>47 いや、無我なのに私と思い、実体などないのに実体だと思うのが無明
51 :
考える名無しさん:2010/09/26(日) 10:40:30 0
儒教を否定して仏教の利権を守り
日本人を薬中にして民衆から金を吸い上げ
国家を弱体化し
儒教の中国に日本を明け渡す
52 :
考える名無しさん:2010/09/26(日) 10:48:24 0
>>51 その国体ってやつの方が邪教だぞ。
明治になっていきなり出てきた好戦的な新興宗教・国営神道の概念だからな。
様々な文化を柔軟に取り入れる文化というものが日本古来の文化だ。
53 :
考える名無しさん:2010/09/26(日) 10:51:19 0
あ、ごめん
国家を弱体化のとこ、国体を弱体化に見えた。
まあ同じことだ。
54 :
考える名無しさん:2010/09/26(日) 10:55:28 0
19世紀的な国家、エゴの拡張としての国家を捨てないと未来はないようなキガス
55 :
考える名無しさん:2010/09/26(日) 12:18:29 0
高尚な思想はいいと思う
しかし相手がわかってくれるか
そして生ぬるい湯に使って
結局 弱体化するか
今の日本は戦前に似てると思う
仏教の大切さを時 安堵した瞬間
突然 ナショナリズムが台頭し 突き進んでいくような
気がする
哲学じゃないだろ仏教は
理屈じゃなくて、物の感じ方を変える訓練というか強制方法だろ
58 :
考える名無しさん:2010/09/26(日) 18:26:35 0
>>56 強制と言うか、戻すという感じですね。おかしくなってしまった認識を戻すんです。
だから怪我を治すのと似ています。「悟り」とは言うなれば怪我が治った状態です。
だから特別なものではありません。誰でも放っておけば治ります。ただ普通の怪我と
同様に何も手当てをしなければ治るまでに時間が掛かってしまいますしその間の
苦しみも長く続くわけです。それを防止するための手当てに相当するのが修行です。
「手当てにより治癒を早める」というのは「修行により悟りを早める」のと同じことです。
ですから沢山修行すれば良いというものではありません。人によってどのような修行を
どの程度したら良いかは厳密には違います。但し風邪の時は安静にして寝ているのが
良いのと同様に、共通化出来る点があります。自然治癒に任せて人が手を出さない
のが基本ではありますが、それを促すのに丁度良い方法があるわけです。
それが瞑想です。
59 :
考える名無しさん:2010/09/26(日) 20:21:48 0
講談社現代新書だったと思うけど「哲学としての仏教」
コンパクトによくまとまってるぞ。
仏教だけじゃなく哲学をやってる人間なら一度は読んでおくのがいい。
空という考え方をとれば
すべてが無価値になってしまうと思うのですが、
なぜ都合よく都合の悪い執着だけがなくなり、一般的な道徳的な価値観はそのままのこるでしょうか?
非有非無
仏教は論理破綻している。
竜樹から仏教はおかしくなった
64 :
考える名無しさん:2010/09/26(日) 23:04:19 0
話はいくらでも作れる
何でこんな邪教が残れたか
それは人間の社会に必ず 権力の犬という専門業が存在するからだ
何も生産してないのに生活できる そこに人間の権力の源泉がある
美しい情緒はいい
しかし大人はその後の 落とし穴に気をつけなくてはいけない
非有非無とか矛盾にもほどがある
実体がないかもしれない、わからないということだけなら
たんなる認識論的事実にすぎなし。
そこから執着がなくなるというのは論理の飛躍
66 :
考える名無しさん:2010/09/26(日) 23:51:28 0
宗教の時代は終わった
頼むから私語のことまで不吉なことを言わないでくれ
無心論者からしたら 鬼無なくてもよいのだが
気持ちのいいものではない
67 :
考える名無しさん:2010/09/26(日) 23:52:19 0
>>67 ではそういう価値観がないのに社会規範や道徳など守っているのは何でですか?
69 :
考える名無しさん:2010/09/27(月) 00:29:16 0
因習やインフラが守っているんだろ
だから仏教って偶像つくりまくっているんでしょ
まずは仏教と禅の違いを誰か
71 :
考える名無しさん:2010/09/27(月) 01:44:05 0
>>60 確かに勝義・法界では平等ですが、
世俗は習慣にそって因果が縁起・仮設されるので、
その世俗のなかでは、善いことをすれば楽を悪いことをすれば苦を得ますので、
その意味で善悪は苦楽によって規定され、苦を得ないために善を行うことが勧められるだけのことです。
要するに苦しまないようにするためにしようというだけのことで、
儒教的な道徳や、西洋のエチカ(倫理)とは違います。
72 :
考える名無しさん:2010/09/27(月) 01:49:28 0
要するに 何もしないという事
さすが金持ちのボンボンの考えそうなこと
73 :
考える名無しさん:2010/09/27(月) 01:49:55 0
>>65 いや、本来、非有非無なんです。
言語内、あるいは意識内で捉えるなら、論理的二値あるいは四値の中で捉えるからそう考える。
論理的二値で考えるなら、必然的に実在論か虚無論を選択することになりますが、
それはどちらも正しくない。
西洋論理学は、形而上学として実在論を選択しているので、所詮、その中でしか考えられません。
そのような形而上学的基盤を持つ論理を基準にしては理解できないのが仏教です。
>>66 信じなければいいだけのことです。
仏教は強制しませんから。
74 :
考える名無しさん:2010/09/27(月) 01:54:31 0
反西洋が仏教です
反民主が自民です
反米がインテリです
75 :
考える名無しさん:2010/09/27(月) 01:58:22 0
>>70 特に違いはありませんが、禅は不立文字としたことでいくつか歪みがあると思います。
まず、見解の妥当性を経典によって裏づけられなくなったので、その教えの妥当性が個人レヴェルのコミュニケーションで判定せざる得なくなった。
禅宗の人が、問答などによって互いの境地を常に判定しあうのはそのためだと思います。
そして印可とかを出す。悟ったという証明を悟った師に貰うということです。
ところが、いくつか悟ってないのに悟ったと言い出す流れが出てきたようです。三昧の境地などを悟りと勘違いする人などです。
こうなると混乱してきます。悟ってない人が判断するわけですから、自分の境地以上のことは分かりません。そこで混乱が生じ、いろいろ論争などが生まれていると思われます。
76 :
考える名無しさん:2010/09/27(月) 01:59:18 0
>>72 いやいや、いろいろしますよ。
たしかに生産活動はしませんが。
77 :
考える名無しさん:2010/09/27(月) 02:00:10 0
>>74 政治は仏教徒で、且つ悟っていないなら避けるべきことです。
78 :
考える名無しさん:2010/09/27(月) 02:03:54 0
身内にこんなものにうつつを抜かすものが出たらどうしよう
妙なものを流布しないでね
普通の人は 仕事や 政治 社会活動の中で悟っているから
そんな周りくどいものは必要ありません
もしかして 暇のなのでは・・・・
79 :
考える名無しさん:2010/09/27(月) 02:12:51 0
使う頭があったら
何か 役に立つことに使え
80 :
考える名無しさん:2010/09/27(月) 05:55:33 0
仏教の言ってることは結局「考えてもどうにもならない事は考えるな」
のひと事で集約できると思う。
81 :
考える名無しさん:2010/09/27(月) 07:29:47 0
仏教哲学なんて言ったら脊髄反射で嫌悪感を抱いてしまう気持ちはわかるけど
内実は普通の哲学行為と何ら変わらんよ。
仏教はインドから日本・東南アジアまで広大な地域に伝播していく間に
各地の民俗・宗教と融合を繰り返し、外見は金ピカのグロテスクになっているが、
厳密な哲学行為は粛々と受け継がれている。
>>71 >良いことをすれば楽
楽と苦という意味が分かりませんが
これはつまり多数の一般人が道徳観規範意識持ってルールを作っているから
それに従っているということですか?
かりに殺人が是とされる社会に放りこまれたら殺人をするんですか?
その質問が全く理解できない…
「つまり」の前と後とで話が変わってない?
84 :
考える名無しさん:2010/09/27(月) 08:31:33 0
>>80 ちゃうちゃう、そういう所もあるだけ
>>82 楽はその人が気持ちいいと感じることです。
苦はその逆です。
そして苦となる行為は他人を傷つける行為が基本なので、
そういった行為を止めることです。
これは個人的な苦楽の問題で苦しみたくなければ他人を傷つけるなということです。
仏教の根本は苦るしみを無くすことです。
上に書いたようにですから、儒教的道徳や西洋のエチカ(倫理)のような
一般的に作られたルールに従う分けではありません。
苦しみたくないなら、傷つけるなという非常にプラクティカルなものです。
>>84 なぜ苦楽が発生するのか理解できません
執着心によって他人を傷つけることは確かに苦だと思いますが
空を悟った段階では執着心にって他人を傷つけることはなくなりますが、
執着心なしで他人を気付つける可能性があると思うのですが。
空によれば評価軸はなくなるはずです。
例外を認めるのであれば執着を否定する理由がなくなります。
86 :
考える名無しさん:2010/09/27(月) 09:47:21 0
悟りや 食うなどと 執着するのはやめとけ
そんな煩悩に身を任しても
苦だけだよ
心配しなくても長年の因習でお布施を払うから
87 :
考える名無しさん:2010/09/27(月) 10:13:12 0
>>85 主要な問題は自分の動き、特に自分の心の動きなので、
他人がどう知覚するかはあまり関係ありません。
そうです、空性に至ればその聖者の中では平等性ですが、
現れとして幻の因果が縁起し仮説されます。
88 :
考える名無しさん:2010/09/27(月) 10:13:31 0
井上義衍老師示衆
坐禅をするときは、自己を中心として坐禅をしてはならんのです。
それを本当にやめて、六根を開放して、六根の作用がどうあろうとも一切かまわずに、
一々の、その時その時の作用のままに、煩悩らしい作用が起きようと立派そうなのが起きようと放っておくことです。
その生じたり滅したりするそれ自体が、あなたの手つかずの真相なんです。
それですから安心して、ただ、そういうような働きの真相のそのままに注意していてご覧なさい。
そうすると本当に何にもないところから生じながら、直にそれと離れて、その事実が自分に完全に備わっていることが手に入るんです。
・・・・
ほかに云うこともやることもない。只、今の消息だけです。
それだから、もう方法も手段も尽きて尽き果てた、今の自分の様子だけでいいじゃないか。
それで初めて「本源自性天真仏」としての自分が、そこへ転がり出ておる。
それにお目にかかってくればいい、それだけじゃ。
それは、意識のなかに自己を忘ずることであって、意識をなくする事ではない。
意識自体が純意識体自身であるとき、自体が自体を知ることはできない。
主体が主体を知ることもできぬところに、意識の主体すらも消滅する。
眼が眼を見ることができぬ様に。
この確実かつ純粋なる道に徹するとき、無明は断絶する。
それは、識自体が識以前の純然たる法体性の事実に証せられて、
意識の及び難きものなることを正しく得たとき、
この生活自体が法身であることを自得するからである。
このとき、疑いようも信じようもない。
その必要も全くなく、その欲求すらも起こらないものである。
89 :
考える名無しさん:2010/09/27(月) 10:20:30 0
>>88 これは本当だけど、その前提に三昧に入れることがある。
三昧に入れない人が、普通の知覚とか感覚の中で、
上のようなことをしようとしてもできません。
最悪、ただの現状肯定、何も気にしないといった考えを採るのがオチですが、
それは全く違います。
禅宗の人は三昧に入れることを前提としていることを説かずに上のようなことをよくいうのは誤解を招く基、
あるいは言っている本人も何も分かって無くて、ただ過去の禅師の言葉を真似ているだけということも多いように思います。
定力が足りん...........
>>89 普通の人でもきっかけがあればある程度そうなるよ
文字だってずっと見てればゲシュタルト崩壊するし
悟りなんて元々誰にとっても今ここにあるものだから
92 :
考える名無しさん:2010/09/27(月) 10:43:10 0
>>87 世俗的な道徳観から逸脱しないのは楽だからとおっしゃいますが
執着のない状態では楽も苦もないのではないですか?
94 :
考える名無しさん:2010/09/27(月) 11:14:48 0
>>91 それじゃ、現状肯定なっちゃって、全くダメなんですね。
禅宗は、本来、師匠と弟子マンツゥーマンでやるものを、
印刷公開するから、おかしくなる。
まあ、これは仏教全体に当てはまるけど、特に禅宗や密教はそう。
95 :
考える名無しさん:2010/09/27(月) 11:16:04 0
>>93 >世俗的な道徳観から逸脱しないのは楽だからとおっしゃいますが
言ってませんよ。もう三回言いました。
正確に文を読めないことを自覚してください。
96 :
考える名無しさん:2010/09/27(月) 11:20:39 0
>>92 たぶん同じことだと思います。
ただし、三昧にも段階があって、集中力が増すごとに知覚対象が減少します。
その三昧の段階のなかで縁起観などに必要なのは、
ある程度知覚対象がある状態で、仏教では四禅と呼びます。
釈尊もこの四禅の状態で縁起観をして悟ったと諸経に述べられています。
>>68 社会規範や道徳を破る必要性がないことと、修行中の人が勘違いして社会規範を
破ってしまわないようにすることと、社会の中で生き延びるためです。生き延び
られなければ教えを伝えることもできません。
但し悟った場合は人に何かを教えようだの導こうだのの慈悲の心もなくなり何も
しなくなる(一切の義務がないことを体感して確認してしまう)ため、単に悟った
だけではそうなりません。悟った後で慈悲の心が出て来る必要があります。
これもまた欲や執着心でありそれによる苦もあるんですが、分かってて敢えて
持つわけです。というか悟った後で敢えてそのような欲望を持った人しか人に
教えるようなことをしていません。だから聖人と呼ばれるような人が少ないんです。
98 :
考える名無しさん:2010/09/27(月) 14:02:11 0
道元禅師の言葉
誰もが屍に遇うとき、人にとって死は逃れられぬものだと気づく。
誰もが死の普遍性を知っている。幾度春に逢うとも不変の心である。
ところで自分の屍というのは、すべての人々が未だ遇ったことのないものだ。
だから人は本当の死を知らないのだ。
然の力、禅の力、念の力、
この言葉でわかれば、お前は既に答えを見通している。
じゃないやつは、永久に論の輪廻が続くだけ
100 :
考える名無しさん:2010/09/27(月) 14:13:13 0
たぶん
悟って何もしなくなるのが阿羅漢で
慈悲という煩悩を敢えて起こすのが菩薩という生き方なんだろう。
>>100 意味論の領域から逸脱できない人に、悟りとか関係ないから。
102 :
考える名無しさん:2010/09/27(月) 14:41:41 0
>>101 三昧を悟りと勘違いして、誤った仏教を撒き散らすよりはいい。
知識だけなら、まあ、ほとんどの人は信じないから。
そして慈悲は煩悩じゃなくて、本来のものですよん
103 :
考える名無しさん:2010/09/27(月) 14:56:25 0
縁起や空の考え方って単なる物理法則じゃん
誰もが知ってる物理法則
それで苦しみから解放されるっていうならだれも苦しんでないぞ
>>104 考えている時点で、釈迦の手のひらの上であがいているだけ。
仏教を超えずに仏教を悟りえることなど不可能だ。
そしてそれは考えないという意味でもない。
106 :
考える名無しさん:2010/09/27(月) 15:49:16 0
また胡散臭いスレだな。前はフィッシング詐欺みたいなのあったし
みんな気をつけろよw
107 :
考える名無しさん:2010/09/27(月) 15:53:07 0
>>104 それ縁起・空じゃないし、空性という観念を認識するだけで
かなり苦は軽減されるでしょう。
なぜなら、知覚や現象が幻だと意識するから、執着が軽減する。
しかし、本格的に縁起・空が分かるためには、三昧に入れないと無理。
>>105 師匠いるの?
>>107 で、そういってるおまえさんは先生に師事してるの?
昼間っから2ちゃんに居座ってるようじゃかなりウソっぽいけどね
109 :
考える名無しさん:2010/09/27(月) 16:15:36 0
>>108 たぶんそうだろ。あったとしても真っ当な宗教じゃないな。
古参の正統宗派の僧侶が2ちゃんでえせ知識広めるヒマがあったら修行してるわ。
2ちゃんの野狐禅者たちは無師独覚がほとんどだろ。
宗教板の坐禅スレでもボッタンとかいうヤツが延々と説法してるし。
だいたいざんまい?に入れないと無理とかさ
だったらここで説法する意味内わけでさ、なに自慢しに来てるのって感じ
こういうのが来るからつまんなくなるんだよ
112 :
考える名無しさん:2010/09/27(月) 16:35:42 0
>>110 前に哲板に立ってた仏教スレはひどかったぞw
「ソースはこれだ」ってリンク貼ったんだが、それが自分で立てたWikiというお粗末
あれには笑った。フィッシング詐欺だろってw
113 :
考える名無しさん:2010/09/27(月) 16:45:23 0
>>108 もちろん師匠はいますよ。仏教は師匠がないと無理だから。
悟りは努力して得るものではなく自然に起こるもの。これを人の意識でコントロールすることは出来ない。
師は単に変な脇道にそれないかを見ているだけであり何かを与えたり教えたりなどしていない。
むしろ奪うのが師である。師は観念を奪い様々な必要性を失わせ悟りが自然に起こりやすくする
手伝いをする。
こんな話がある。探求者がインドまで行って聖者にどのように修行したらよいかを問うた。
聖者は言った。「何もするな」。そして疑問に思いながらも本当に何もしていなかったら悟った。
師は探求者の「修行しなければ悟れない」、また「悟る必要がある」という観念を落としたのである。
115 :
考える名無しさん:2010/09/27(月) 16:50:55 0
>>112 それは誤解だって。ほとんど同じこと聞かれるから、wiki を立てたわけだ。
いつも同じ問題ばかりだから、リンクすれば済むでしょ。
それと巷の学者の訳や解説より、正確だからね。
いや、そんな勘ぐりされると思わなかったよ(^^)
116 :
考える名無しさん:2010/09/27(月) 16:54:18 0
>>114 そりゃ、三昧とか安定して空性に入ってからの話だ。
そういう話を凡夫が聞くと何もしなくていいと思っちゃったり、
君みたいに努力しなくいいと解釈するんだけど、困ったもんだ。
全く違う。レヴェルが違う話だよ。
三昧に入れないような人はひたすら聞思修をするしかないよ。
117 :
考える名無しさん:2010/09/27(月) 16:56:02 0
>>108 ところで、師匠もいないなら、
>>105みたいなシッタカしないことだ。
誤解を生むばかりだ。
118 :
考える名無しさん:2010/09/27(月) 16:58:44 0
>>111 オイラはあると思ってる。
誤解ばっかだから、それを正すことが有意味。
面白いって、妄想を脹らまされちゃ困るよ。
哲学・思想・文学みたいな観念遊戯じゃないんだよ。
いろんな方が命がけで伝えてきたもんですから。
修行した方が悟る率が高まるのは確かではある。しかし特定の修行によって必ず悟れる保証はない。
それは釣りのようなものだ。釣り人がどれほど素晴らしい釣り具を持ちどれほど素晴らしい
テクニックを持っていようとも釣り糸を垂れた所に魚が居なければ一匹も釣れない。
沢山魚が居てもたまたま全ての魚が満腹ならば一匹も餌に食いつかない。
どれだけ努力しようとも魚の動きは都合よく操れない。釣れるかどうかは人知を超えた動きである。
原則的には仏法に誤解も正解もないだろうに。
誤解って何だろう?
句にくっついて道迷うーーーとかかな
>>116 あなたは「私は知っている」及び「私以外の者は知らない」という観念を落とした方が良い。
意味でしか物事を捉えようとしない、それがお前の限界ってことな。
知識の類だと表現し論じれるものだと思い込んでいる時点で
永遠にその領域から抜け出すことはできない。
自然の物事の有り様とは、考えれば人が事として計った物の理となる。
捉えられない本質を知ってこそ、さらなる高みへ登れるが
その本質にたどり着いたとしても、捉えられないという状況はいっさい
変わりがない。捉えられない盲目で無意味で理解が人智では不可能の
領域を扱うことができてこそ。貴方にも仏教の本質を捉えられる。
それは言葉ではない。物事の仕組みを考える時点で思考の本質すら捉えていない。
そういう不確ないっさい人智が及ばないものを扱えるからこそ釈迦と対等な
領域へ進めるってことです。それは知識で得ることは無いのです。
法の本質は知り得ないってダイアモンド経に書いてあったっけね。
>>107 一般人が知らない空性という観念でしか説明できない現象でもあるのか?
ないだろ。あるならあげてくれ。
126 :
考える名無しさん:2010/09/27(月) 18:01:21 0
人i
ノ:;;,ヒ=-;、
(~´;;;;;;;゙'‐;;;)
___ ,i`(;;;゙'―---‐'ヾ ____
゙=c_ \ ヽ;;';ー--―-、'';;;;;゙) /_っ='
く:::\ / ヽ /:::>'
. \::::\/ "-=・=-∵-=・=}/::::/
| l )○( | /
| ヽ "ー=〓=-.'`| 無位の真人是れなんの乾屎橛ぞ!
| \___/
. ノ `-ァヘV
γ⌒ヽ \ヽ { /´ `ヽ
| ヽ \ )____ { /、/ |
| ! ヽ i Y | !
| / `ヽ,c、 ,.イ ! /
| / \ (i)ソ /! /
/ ) ー―''⌒ー‐‐'' ( ヽ、
cccnノ´ ヽnoo)
127 :
考える名無しさん:2010/09/27(月) 18:50:38 0
>>125 逆に全ての現象は縁起・空・仮説でしかきっちり説明できないよ。
例えば、現象は何らかの本質に還元できないでしょう?
あるいは言葉の意味でもいいよ。
>>127 潜意や秘意や嘘意という類を使わないから説明できないんです。
表面で説明できる類は実在してしまうので、実在しないものを
説明しても空虚なだけです。人の認知の計りで捉えれば必ず歪むってことです。
自然に何も足さず何も引かず、神のような存在の視点やら側面でしか
計りしえ無い類を言葉やら意味で論説しても、それは人の定義に過ぎません。
しかし古代の知識を持たない人々はそれを言葉が無い故に捉えることができた
のです。理由は簡単です言葉を持っていないからです。
129 :
考える名無しさん:2010/09/27(月) 20:48:45 0
>>128 縁起・空・仮説は全くそういうことではないですよ。逆にそのようなことをやって来たのはセム系宗教とギリシャ思想を根源とする西洋の本質主義・実在論・還元主義です。
それは例えばプラトンの『メノン』に見いだせる。ソクラテスは他所からきた青年メノンに「徳が教えられるか?」と問われ、逆にメノンに「徳とは何か?」と聞き返す。メノンは徳の用法を慣用に従って正しく列挙する。これにソクラテスは満足せず、こう言う。
> それらの徳はすべて、ある一つの同じ相(本質的特性)をもっているはずであって、それがあるからこそ、いずれも徳であるということになるのだ。
> この相に注目することによって、「まさに徳であるところのもの」を質問者に対して明らかにするのが、答え手としての正しいやり方というべきだろう。(岩波文庫、1994、13頁以下、 144頁以下も参照)
西洋ではこのようにソクラテスが言葉の慣用を否定し本質を追究して以来、この相、あるいは本質的特性という概念・意味を、西洋の本質主義・実在論・還元主義はずっと追求してきた。それで様々な恣意的な存在論・形而上学によって定義してきました。
それは科学でも同じことで、何かに還元しようとしてきた。現代では揺らいでいるようですが、未だ実在論で説明しようとしているように見えます。
130 :
考える名無しさん:2010/09/27(月) 20:53:13 0
これに対して縁起・空・仮説はこのように説かれます。『中観荘厳論自註』ad k.63
> 物事全ては[実在・実体に]還元できないので、ただ分析考察せず受け入れるべき本質としての本体を持つ。例えば幻の象や人馬などのように。
> もし、そのように他[妄想・戯論]によって改変されていない物事一切を本体と認定すると考えるなら、それを私が何で否定しよう?
> それら[の考え・認識]がこの物事の本体[火]を本質[熱さ]によって[火]そのものとするが、これは誰にとっても牽強付会のない[常識的認識]考えなのだから、これらを[実在論的本質的に]定義することはない。
これはどういうことかというと、現象はすべて何らかの実在や実体に還元できない空である。
我々が認識する現象・知覚は、世間の習慣的形相・意味を適当に仮説されたまま、そのまま適当にもちいるだけで、恣意的な存在論や形而上学によって定義することはできないということです。
この見解に西洋人で接近しているのは私が知る限りウィトゲンシュタインとハイデガー、ソシュールぐらいですが、彼らの体系は仏教に比べてまだものすごく甘いと思われます。
これは『中論』27.18や『勝義空性経』に観られる考えであり、
最近では石飛道子先生の『龍樹』に簡明に説かれています。
あるいはマチウ・リカール『掌の中の無限』もいいですが、和訳は仏教の箇所に誤訳が多いのが残念です。
131 :
考える名無しさん:2010/09/27(月) 20:56:48 0
>>130 >これは『中論』27.18
『中論』24.18 の打ち間違い。これは痛い。数字の間違いは痛いな。
いつもながら、抜けている(^^)
>>129 >縁起・空・仮説は全くそういうことではないですよ。
だから極められず永遠に他者との論説の無限ループになったんでしょう。
133 :
考える名無しさん:2010/09/27(月) 22:22:49 0
>>132 いやいや、縁起・空は極めている。
極めてないというか妄想で極めたつもりなのが諸実在論の形而上学や存在論。
その主張を掲げるなら、根拠を示さないといけません。
>>133 自分で極めている厨房は黙っておいたほうがいいよ、恥ずかしいから。
136 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/09/28(火) 01:02:32 0
このスレは初顔です。お見知りおきを。
といいますか昨日まで東洋教学スレに居られた方が
書き込んでおられるようですが(間違っていましたらすみません)
三諦を強調されているのでおそらく。
しかし今までと違いません?
三諦が究極であるとか。そんな教えは無いと思いますが。
別スレでは正論を書かれていたと思うのですが。
>>136 三昧厨のことなら触るな危険
そいつは自作自演のペテン師
空観に三昧の必要性を強調するってことは真言宗の人かな?
139 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/09/28(火) 02:19:01 0
>>138さん
中論とかにお詳しいようですから禅宗かと思うのですが
今ざっと読んでみて金剛乗のような雰囲気は感じないのですが
禅定との違いを強調されたいのか、わかりません。
昨日までの東洋教学スレでもその方面のお話にはなりませんでしたし。
140 :
ニート:2010/09/28(火) 02:41:24 O
仏教の研究なんて意味ないよ。
仏教学の研究って馬鹿じゃないのと言いたくなるよ。
141 :
考える名無しさん:2010/09/28(火) 06:19:25 0
>>136 >しかし今までと違いません?
何が? 伝統と違うということ?
>三諦が究極であるとか。そんな教えは無いと思いますが。
三諦という天台の読みが、誤読ですから。
縁起に関しては、シナ・日本なら華厳が最も優れてますよ。
そして私の説はインド・チベットが中心なので、
あまりシナ・日本は使ってません。
>>139 そりゃ、ここで密教は語らないよ。語る人はおかしい。
本来は、もっとも役にたつ部分を言いたいんだけど、
話の流れで、縁起・空・仮説になっただけのこと。
存在論や認識論が問題になると、これを述べるしかありませんから。
>>129 ソクラテスはそういう考えをする人らを
パラドックスに嵌めているんだよ
>>141 だから、君の考えは理屈が理屈を縛る性質となり
論は論をマダラ模様にしてしまう。
多様性がある論でも組み合わせその特徴を重ねるほどシンプルになるって
ことだよ。君は論をして論に縛られるタイプだから何故しばられているか
すら感じ得ることができていない。
>>123 >捉えられない本質を知ってこそ、さらなる高みへ登れるが
>その本質にたどり着いたとしても、捉えられないという状況はいっさい
>変わりがない。
高みに登るというより、深く掘り下げると言った方が哲学板っぽい。
145 :
考える名無しさん:2010/09/28(火) 12:51:51 0
フィッシング詐欺なんかほっとけよ
自ら告白してんじゃねえか
なるほどフィッシング詐欺のおかげでここの我々仏教学者たちは悟れないのか。
しかも彼らがさらにフィッシング詐欺を連鎖させているという有様。
これでは仏法が廃れるのも当然。
147 :
考える名無しさん:2010/09/28(火) 13:03:40 0
翻訳したの自分だって言ってたよなたしかw
そのWikiに誘導してこれが真実だ!だってよ
見抜いた俺のほうがすごくね?
148 :
考える名無しさん:2010/09/28(火) 13:05:07 0
>>146 それは悟った者側からの視点であり、
自分が悟る前に散々経論を勉強して
きたことを忘れている。
だから「すぐ悟れる」とかいう文句
を持ち出す。実際、すぐ悟った人な
んぞがいたら教えて欲しいもんだね。
149 :
考える名無しさん:2010/09/28(火) 13:09:41 0
>>149 おれはそのwikiのことは何もしらない。
フィッシング詐欺ってそのwikiに誘導する意味で使ってたの?
俺は何か他の比喩表現なのかと思ってたよ。
151 :
考える名無しさん:2010/09/28(火) 13:34:02 0
>>151 あー、あの中論バキャボンか。
あーゆー風になる人って多いんだよね。
自分で仏教哲学構築しちゃって。承認欲求が強いから布教しまくるタイプだ。
153 :
考える名無しさん:2010/09/28(火) 13:53:11 0
>>147 いまだに誤解を自慢げに語ってる所がネラだな(^^)
見性ぐらいなら一般人にも突発的に起こるだろ
知り合いは仏教なんてまるで知らなかったが自分は自分でなく無限な宇宙そのものではな
いかと自身に真剣に問うことで空を体験した
もちろん仏教の教えを知ってるほうが自分の体験をこれはなんだあれはなんだと分かるだけ
分類できる
でも教えを知ってるから逆に限定的にもなってる気もする
野狐禅っていうかね
悟りは機が熟したときに与えられるもので、機が熟するのに仏教も教えも時間も大して関係
ないよ
いくら学んでも時間を費やしてもまるで変わらない人は多いし
一乗思想の面目丸つぶれだな。
最終的に悟りは運次第とかいう結論に落ち着きそうな予感。
156 :
考える名無しさん:2010/09/28(火) 14:06:29 0
>>153 もうおまえの居場所はねえんだよ
もし力ってもんがあるならできんじゃねえのw
>>144 >高みに登るというより、深く掘り下げると言った方が哲学板っぽい。
それは理屈で物事を掘り下げるときです。理屈でしか物事を考えられない
理屈万能主義の思想を信じきっているならそれでいいんですが。
物事は理屈ではどうにもならない領域ってものがあるんですよ。
>>146 >ここの我々仏教学者たちは悟れないのか。
我々?違うだろ。
学者じゃない、学問でもない。「学問で悟れる?」バカ言うのもいい加減に。
哲学とは表記するが、実践と「知識だけで学ぶ」それとは全く違う。
それがわかってないから学問だと思い知識としての勉強しかできない。
君が考えているのは、表面だけの知識でなんの役にもたっていない。
学生が陥りやすいのが自分では考えない、知識の丸呑状態という
テンプレート主義な。コピーしてもそれは技術じゃないから無意味なんだよ。
159 :
考える名無しさん:2010/09/28(火) 14:29:12 0
>>151 笑えるのは君が釣りと誤解してるところだな、
それにつられて誤解してるヤツが結構いるのが、哲板のレヴェルだろ。
160 :
考える名無しさん:2010/09/28(火) 14:31:37 0
>>158 知識では悟れないが、悟ってるか勘違いしてるかは言葉で分かる。
禅問答とはそういったもの。
君が悟ってないのはよく分かる。
>>160 あんたもそしてこのスレの誰も悟っていない。
このスレっておもしろい人たちばかりだな。
悟境はどうあれ悟りをちょっとでもかじったことのある奴ばかりだ。
しかしながら、誰もが元から悟っているというのに、
明言はしないにしても「俺は悟っているのだ」という
思いの片鱗がレスからチラチラ見え隠れしているのは残念なことだ。
まあ身体からニヒリズム発散してればいいだけですし
Unspeakable............
チラチラしているからいけない。もっと堂々と書こう。
俺は悟っているのだ。
みんな悟っているのだ。
終わり。
166 :
考える名無しさん:2010/09/28(火) 18:37:46 0
オイラは悟ってないよ
ほなageんなや
>禅問答とはそういったもの。
禅問答で悟れるとでも勘違いしているバカ?
悟りを知らないやつが悟り得ているかなど判断できるわけないだろ。
論でも言葉でもそれは叶わない
他人をともかくいう以前に自分が悟れていないので
他人を妬む時点でお前がどんだけ最低な人間か自覚したほうがいいよ
171 :
考える名無しさん:2010/09/28(火) 19:44:23 O
妬むか・・・。そうだ。とりあえずそれで判定出来るな。
人を妬むやつは悟ってない。
以上。
172 :
考える名無しさん:2010/09/28(火) 20:07:24 0
173 :
考える名無しさん:2010/09/28(火) 20:08:46 0
>>169 いやいや、文から充分伝わるよ。
2ch である程度境地を得てるのは鬼和尚ぐらいだろう
174 :
考える名無しさん:2010/09/28(火) 23:34:59 0
悟っていないと判定して良さそうなやつ。
1. 煩悩に振り回されている(煩悩があるだけなら問題なし)。
2. 批判的であり、批判のための比較を行う。
3. 不平不満ばかり言っている。
4. 常に他人を悪とし、自らを省みることがない。
5. 自分の方が偉いと思っている。(自他の分別があり自他の違いを絶対視する)。
6. 誰かが悟っていると言い出すと何も言ってなくても無条件に「偉そうにしている」と感じる。
175 :
考える名無しさん:2010/09/28(火) 23:37:58 0
悟っていないと判定して良さそうなやつ。(縮小版)
1. 何かに苦を感じる。
以上。
176 :
考える名無しさん:2010/09/28(火) 23:46:12 0
凡夫の信じていること
1. 世の中には「悟った特別な人」と「悟っていない人」が存在する。
2. 「悟った人」は神のような人である。
3. 悟ることは凡人には不可能で、ものすごい荒行を何十年もしなければならない。
4. 悟るためにはお経を覚えるなど、沢山勉強しなければいけない。
5. 超人のような人でなければ悟ることは出来ない。
6. 悟った人は尊い人である。
7. 「悟った人」を崇めるとご利益がある。
8. お経は意味が分からないままでもとにかく読めば良い。
9. お経は意味が分からないままでもとにかく書き写せば良い。
10. その他、各宗派での儀式などは守らないと祟る(悪いことがある)などと信じている。
悟っていないと判定して良さそうなやつ。(超縮小版)
1. かに じる
以上。
178 :
考える名無しさん:2010/09/28(火) 23:49:17 0
蟹汁
蟹汁あんがい悟ってるかも
180 :
考える名無しさん:2010/09/29(水) 01:02:52 0
悟った人に特徴はない。
故に見分けも判断もできない。
普通の人と変わらない。
でも、出入り自在。
悟前も悟後も変わりなし。
特別な変化を挙げるのは魔境。
そして本人は教えることはしない。
居るだけでいい。
教えると害悪の方が多く広がることは宗教史の常。
教団形成や教祖となって、へんてこりんな迷妄に堕する。
変な使命感も責任も出家も政治活動も必要ないし、仏教なぞ忘れ去ってる。
居るだけで利他行になるのが悟った人。
こういう人々が少ないと国家が傾く。
電波塔みたいに方々にいてくれると嬉しいかぎりだが。
181 :
考える名無しさん:2010/09/29(水) 01:14:44 0
釈迦は教団作っちゃってなかった? 教えちゃってなかった?
悟ると、輪廻から外れて、死んだ後は
極楽浄土に行けるんですね。
そんで、毎日楽しくお気楽に過ごす。永遠に。
たまに、如来っぽく、愚かな衆生を諭し導いてやる。
あんまり面白そうではないですね。
ちなみに、いまの日本で、悟られた方は
どれくらいいるのでしょうか?
183 :
考える名無しさん:2010/09/29(水) 01:44:51 0
いいえ。悟と最初から極楽浄土に居たことに気付くだけです。
生死については幻想だったことが分かります。生も死もありません。
もちろん自分が存在していたことが幻想だったことも分かります。
自分は居ません。というか、誰も居ません。ただ海が波打つように
自分や他人のように見えていた現象が起きているだけです。
一つの教えにのめりこんだらこうなる典型例
>>183 ペテン師触るな危険
185 :
考える名無しさん:2010/09/29(水) 04:02:48 0
最終目的
人口問題を自殺で解消する
186 :
考える名無しさん:2010/09/29(水) 06:38:52 0
>>183 結構いいせんいってるけど、極楽浄土も幻だよね。
そこが重要。
たんなる離人症じゃん
幻ってことも幻なんだから、極楽と言っても極楽でないと言ってもいいよ
そこに執着がなければ、なんと言おうと同じ
執着があるかないか(自分というものを持っているかいないか)でしかない
>>187 離人症は自分が離人症であることを苦に思ってる
苦に思う自分を持っている
それが無くなれば悟れるかもしれない
離人症は手放せない自我を持ちながら空の世界を垣間見てる状態だから
>>189 唯識が間違ってるところってどこですか?
唯識に限らず、間違っているいないということはない
間違っているいないと判断する自分があるだけ
その自分に執着しなければいい
自分があるということも自分がないということも無い
192 :
考える名無しさん:2010/09/29(水) 11:01:55 0
>>191 執着する執着しないって凡人の意識でって意味じゃないよね。
一般の人にとって執着とは執着するとか執着しないとかいう分別でしかないかもしれない
それは自分の概念で二つに分けどちらかを選んでいるに過ぎない
執着しないということは執着するしないという分別、概念すら完全に消えること
何からも自由であることで、言葉では矛盾するようだが、そのとき自分が執着しようがしまい
が、自分は何も執着していない
194 :
考える名無しさん:2010/09/29(水) 11:44:33 0
>>193 なるほど、では。
三昧などに入ってる時は、分別が消えているから、それは分かりますが、
三昧から立って普通に生活する時は、どうなりますか?
現れはありますよね。そしてそれぞれ分別しますね。
じゃないと生活できないから、狂人と変わらなくなってしまう。
その現象への分別と、執着のあるなしはどうなってますか?
ここがきっちりしてるとかなりの境地。
文字通り「分別の無い人」=常識の無い人になるからな
生活できますよ
生活できないならその三昧は自分を見失ってるだけ
見失うという自分を持っているだけ
分別が消えるということは分別する自分が自分でないということです
誰にも身体(肉体)があるからそのぶんの反応は常に生じている
反応が何もないならそれは肉体が死んでいる(物理的に存在していない)ということです
その身体の反応を身体のままに過ごさせているだけです
身体が身体のままにどのように過ごしてもかまわないのが執着がないということです
かなりの境地とかそういうのはどうでもいいです
執着を捨てるって言うのと、虚無主義は違うんですよね。
たしかに、へんなこだわりが無くなれば
苦もなくなるって言うのは、なんとなく分かるんですが。
なんに関しても、どうでも良い境地って言うのも
ある種のぼけ老人の境地みたいで
あんまり有難く感じないなぁ。
なんか、悟りたいとは思わなくなってきました。
悟っても嫉妬や卑屈さその他の人間的なマイナスの感情はなくならないということですか?
無執着とは何からも自由であるということです
虚無が虚無すら虚無であり自由なら無執着かもしれません
ぼけ老人がどうかはぼけ老人にしかわかりません
悟りたいと思わないのは悟りたい執着がなくなったと思えばいいことかもしれません
あ、いま恐ろしいことに気がついた!
伝統仏教の高僧に、悟った人が多いのは
あの人たちは、ただ単に高齢で
ぼけて来たって事なんじゃないだろうか。
過去も未来も、すべて一緒。
他人と自分の境界もない。
もちろん執着もない。執着って概念自体が喪失している。
禅の話なんかでも、わけのわからん行動に出る
悟られた高僧が出てくるけど、ああいうのも
もしかして・・・
嫉妬や卑屈さは他人と自分を比べるところから生じます
ただの身体なら比べたりはしません、自分が意識によって比べてるだけです
自分を手放せば自と他を比べることから生じる感情は生じなくなります
マイナスもプラスも生じません
身体の反応として起こる感覚が生じているのみです
分別は有っても、固定されたものとしてはないと考えるのが良い
分別は有っても、同一性を持ってあるわけではない
だから、執着することは無い
非有非無
非如非異
203 :
考える名無しさん:2010/09/29(水) 12:33:57 0
このスレに書き込まれてる、菩薩の皆さん、
僕は豁然大悟したのでしょうか?
すいません、勘違いしてました。
無分別ということに執着を持っている人は、自分が桜であるのに夏や秋や冬に咲いてもいい
のではと思うようなものです
桜は春に咲くようにできてるし、春に咲くのが無執着なのです
桜なのに他の季節でも自由に咲けるようになろうとしたら無分別になりたいという執着なので
す
身体は身体であるがまま、本来の身体のままに勝手に生きてくれますし、自分はただ自由で
あればいいのです
207 :
考える名無しさん:2010/09/29(水) 12:55:33 0
自作自演の応酬が始まったな
>>203 師匠なんていませんよ
神秘体験のようなものを繰り返しながら自分で修練しました
師匠は自分以外のあらゆる全てでした また自分も師匠でした
経や覚者の本などを読み、読んでわからないことは体験できるまで自己を見つめるだけでした
教わる師匠はいませんがきっかけを与えてくれた師匠のような人ならいます
師匠にこだわる方の多くは、師匠と師匠でないものがあるとか、師匠というような何かに仕え
たいという願望(執着)が見受けられます
もちろんそういう執着がなければ師匠がいるのもいいとは思います
しかしまあ好きにすればいいでしょう
みんな勝手に悟ったり悟らなかったりするだけです
自演だっていいじゃない!
おれはしてないけどねw
>>201 意識が一定の焦点を持って現象をとらえるのも身体的反応じゃないだろうか?
>>202 同一性がなくても執着するということはありうる
212 :
考える名無しさん:2010/09/29(水) 13:28:33 0
自演のやりすぎで規制でも食らったかw
なんか書き込んでほしいのか?
214 :
考える名無しさん:2010/09/29(水) 13:53:49 0
>>208 やっぱり、そうなると仏教スレとか仏教について語るのはおかしいと思いますよ。
たぶん、貴方は悟ればみんな一緒と考えてると思いますが、
境地に違いがあり、完全な境地でない状態を悟りと勘違いすることが多いのです。
もし、仏教に興味があるのでしたら、師匠に就かないとしょうがないです。
興味ないのでしたら、仏教スレや仏教について語らなければいいと思います。
>>214 まずはそういう君が所属と経典を示さないといけないね。
フェアじゃない。
216 :
考える名無しさん:2010/09/29(水) 14:00:42 0
>>214 >師匠に就かないとしょうがない
仏陀がそんなこと言ったか?
>>217 その人はなんか自作自演のフィッシング詐欺とか言われてたよな、昨日。
口からでまかせっぽいから信用しないほうがいい
ぐーぐる先生のほうがまし。
>>214 何宗の教え? とりあえず初期仏教じゃないよね? 大乗の一派?
>>214 逆に師匠がいるのにここで説教しても意味ない
でなかったら目的は勧誘?それとも自慢?自慢ってこと事態が仏教語だけどね
師匠についたらみんな同じ?宗派によって違うでしょ。
釈迦は、己こそ己の寄る辺・・的な事を
言ってたみたいですね。
ただ、伝統仏教の師匠がいたほうが
本人が変な妄想・魔境に取り付かれたときに
それ魔境やん!って突っ込みを入れてもらえるので
良いかなって気もします。
安全装置的なもので。
222 :
考える名無しさん:2010/09/29(水) 14:18:33 O
全ては固定的な実体がなく変化し続けていることを忘れてはいけません。
自分も他人も変化し続けていて固定的なものではないのです。海の波のようなものです。
だから今この瞬間に自分にとって師となりうる人が、次の瞬間には違う人に変わっているかもしれません。
また自分も次の瞬間には誰かの師となりうる存在になっているかも知れません。
しかしどちらにせよ固定的に師のままだったり師でないままだったりはしないのです。
強いていうならそういった移り変わる世界全体が師であり、そしてそれは自分でもあるのです。
223 :
考える名無しさん:2010/09/29(水) 14:19:31 0
こういう馬鹿は自分と同レベルか知識を持ったやつに語られるのが嫌なんだよ
自分が一番主だって2ちゃん馬鹿だからなw
やるならてめえのとこでやれと
師匠についてる人は無師を認めると自分自身を否定するようで嫌なんだろう
まともな師匠なら師匠の方から師匠などいない、師匠と思うなって言うけどね
師匠についててもちゃんとそれがわかってるひとも多いし
たぶん
>>214に師匠なんていないと思う
>>223と似てるけど師匠という名を利用して他の人の発言を否定したいんだと思う。
そういえば師に付かなければならないという話と平行してよく言われることに瞑想を
勝手に一人でやるのは危険だというのがありますね。しかし本当に危険なんでしょうか?
危険ならば精神科医等も何かを把握していると思うのですが、実際に何がどう危険なのか、
危険だと言っている人に聞いても全く教えてくれないのが普通です。
どうやら思い込みだけでそう言っている人ばかりのようなのですが、本当のところはどうなのでしょうか?
誰か分かる人居ますか?
>>227 矛盾に気付かない?
瞑想って二人でするもの?
229 :
考える名無しさん:2010/09/29(水) 16:19:46 0
>>215 真言宗だけど、経典は何を、あるいはどういった事が説かれているものを示せと?
>>217 三宝に帰依するのが、仏教と釈尊も説かれてるよ。
そのうち僧宝というのは、サンガに属する聖者を意味する。
その聖者から教えを聞き思い修するのが仏教で、
そうでないなら、外道。
>>220 少なくとも伝統的意味で仏教というなら上の意味でなくてはならない。
そこから逸脱したものは違いますという意味があるとオイラは思ってる。
>>221 自灯明は自州の誤解で、輪廻という激流のなかで仏教を修行できる人身という
中州のような一時的な余暇によって涅槃の彼岸に渡れというような意味。
師匠がいないと最初から最後まで勘違いさせるのが自我という魔ですよ。
>>222 そういう人は本来師とは呼べません。
>>224 いや、仏教ではそんなことはいいませんね。
一人で勝手にではなく指導してくれる人のもとでって言いたいんだろう
231 :
考える名無しさん:2010/09/29(水) 16:25:28 0
>>227 大抵の人は、禅定とか観想しても集中力がなくて何も起きないから大丈夫ですが、
希に集中力がある人が禅定とかに入ります。
この時に人それぞれ業によって色々な現れが起こります。
その中でその妄想が真実で、所謂凡人の世界が妄想だと思ったりすると、
世間的に生活できなくなり、段々歪みが酷くなります。
この代表例が松本チヅオに他なりません。
師匠がいれば、こういった時に間違ってますよと指摘してもらえます。
真言宗は師を大事にしてるひとが多いな
まあ好きにすればいいんじゃないか
問題は自分が悟れるかどうかだし
大乗とはいえ他人を救おうとするのは自分が悟ってからにしてくれ
松本を師匠だと信じたから事件が起きたんだけどな…
234 :
考える名無しさん:2010/09/29(水) 16:39:42 0
>>233 オイラから観れば松本が師匠を持たなかったから事件が起きたと観るけどね。
そしてもし仏教を信じるとすれば、伝統的なサンガから伝承してない松本は師たりえない。
そして三宝帰依の対象にもならないんです。
このように知識は間接的に役に立つわけです。
>>229 三宝の解釈もいろいろあるし、特に僧宝は教団が大きくなるに後からつれ付け加えられたも
のって言われてるけどね
ところでなぜ三宝に帰依してるの?それが正しいと思った根拠は?
そう言われてるから?師匠がそう言うから?
それともそれが正しいと自分で悟ったから?
実際どうだかわからないし、それを信じるなら信じればいいけど
でも信じるってなんだろねえ
なんだ、カルト宗教を批判したいから師弟や伝統仏教を支持してるひとだったのか…
>>227 瞑想に限らず自分だけで進むとストップかけてくれる人がいないからへんな方にいったとき
ヤバイって論法だよ
逆に言えば一人で進むと何でもヤバイと言える
そんなの何でもそうだし多面の中の一面でしかないという意味では瞑想も一人でも平気
へんな師(自称)の影響を受けることもないぶん安全とも言える
238 :
考える名無しさん:2010/09/29(水) 17:14:11 0
>>235 それは信ですよ。要するに三宝を信じるか信じないか。
確かにサンガが形成されて三宝帰依が成立したのは事実。
しかし、それは形成期のみの特殊な時期だけです。
それ以降は、仏教というなら三宝帰依が何をするにも、そこから始まります。
>>236 いえいえ、別に他宗派を批判したいのではなく、
仏教はそういうものではないと言いたいだけですよ。
特殊即普遍だろ
>>238 >それは信ですよ。要するに三宝を信じるか信じないか。
で、その信じる根拠はなんだったの?
他にも信じても良さそうなものが世の中にたくさんある中でなぜ仏教の三宝を信じたわけ?
信じようと思えたわけ?
自分の勘で? 自分の思考論理で?
それとも信が自ずから湧いてきた?
三宝が正しいかどうか、悟ってもないのになぜわかったのだろう?
それとも悟ってからわかったの?
この人は仏教を手放すと悟れる気がする
なんか「三宝帰依」とか言ってる人。
三宝って「仏」「法」「僧」でokかね?
「僧」を悟った僧だとするなら、
この「仏」「法」「僧」の三つはすべて同一である。
「仏」と「法」が何だかわかってなかったら帰依しても無駄。
>>229 自灯明 法灯明で、灯火が島(洲)の誤訳だとは知りませんでした。
ただ、洲って訳しても、意味はそのままで
いちめん水浸しになった中で、残っている洲
それが自分自身と法で、それに頼れって事になるんじゃないですか?
ただ、そこから師匠不要に結びつけるのも、ちょっとおかしいかなと思いました。
自灯明での洲は、輪廻と言う激流の中の一時的な猶予期間、そこで
涅槃に渡れって解釈も面白いと思うのですが、それが真言宗の方の
解釈なんでしょうか。
ただ、解釈って星の数ほどありそうですね。
仏教は聖職者の会議で、どの解釈が正しいか?って事を
決めなかったせいで、異常な数の経典が生まれたらしいですが
それも仏教の良さなのかな。
>>243 師匠なんかいてもいなくても同じだ。師匠はいつでもいる。
解釈はどうでもいい。どの解釈も信じるな。
あんたが悟ったら、あんたが解釈するようになる。
245 :
考える名無しさん:2010/09/29(水) 20:07:40 0
>>240 色々論理もあるけど、最終的には縁でしょう。
世の中の全てのことは形而上学的選択に基づいて、始めて論理が成立するんで同じこと。
形而上学的選択とは即ち信の言い換えです。
>>242 >三宝って「仏」「法」「僧」でokかね?
ok
>「僧」を悟った僧だとするなら、
>この「仏」「法」「僧」の三つはすべて同一である。
同一ではないですね。ただその聖者の僧を通して法が伝えられ、
仏を偲ぶという感じです。
>「仏」と「法」が何だかわかってなかったら帰依しても無駄。
できるだけ正確に把握した方がいいですが、分かってなくても無駄ではないです。
寧ろ、論理的理解よりも、敬う気持ち、信の方が重要と考えるのが伝統仏教。
246 :
考える名無しさん:2010/09/29(水) 20:09:18 0
>>243 >それが自分自身と法で、それに頼れって事になるんじゃないですか?
それに頼れといってもいいですが、それに依って輪廻を渡れという意味で、
自分を信じろという意味では決してありません。
>ただ、そこから師匠不要に結びつけるのも、ちょっとおかしいかなと思いました。
もちろん、この文から師匠不要を結びつけるのは「自分を信じろ」と読みかえたり、「信を捨てよ」という文だけを文脈から切り離して持ってきて自分勝手に意味を与えてるだけのことです。
真言宗の解釈ではありません。もともと自灯明は漢訳仏教では用いられない言葉で、パーリから誤訳して多分、増谷文雄あたりが広めたものかと思います。
そこら辺の仏教学者は、とにかく仏教を常識に適合させようとしたので、むちゃくちゃな解釈が多いのです。
>>244 それは新興宗教であって、仏教ではありません。
そう説くのは勝手ですが、仏教を云々する場で発言するのは場違いでしょう。
仏教オタ?
その伝統仏教は昔に比べれば明らかに衰退したと言っていいと思うが、
その原因は何だと思うのかな
政治的陰謀のせいか?
偶然か?
師匠に何らかの理由があったからかな?
249 :
考える名無しさん:2010/09/29(水) 21:34:49 0
禅宗とかだと接心とか印可とかあるけど、真言宗って誰がどうやって悟ったか判断するの?
250 :
考える名無しさん:2010/09/29(水) 22:05:05 0
>>248 日本の伝統仏教が衰退したのは、聖者が少なくなったこと。
それと江戸時代の檀家制度、明治時代の廃仏毀釈、戦後教育が大きかったと思います。
>>249 師匠ですよ。本来は四度加行とかに入るのも相当レヴェルが高く、
加行でも結果が出なければ灌頂とかは受けられなかったんです。
今はただの大量生産ですから、基本的にほとんど凡人です。
これは禅宗でも同じことです。
251 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/09/30(木) 00:43:15 0
盛り上がってるのはいいのでしょうが
悟った悟ってないとかの議論は不毛な気もしますが。
>>141=
>>250さんですね?
真言宗ですか。語られない理由は分かりますが
教相は別段問題無いと思いますが如何ですか?
ちょっと気になるのは加行について
自らの宗派を貶めるような発言はどうかと・・・。
自灯明法灯明の話は釈迦入滅の際にアーナンダがこれから
何を頼れば良いかとの質問への答えなので師が居なくなった
後にどうすれば良いかの答えですよね。つまり師が居ない
場合の対処法になります。「師が居た方が良い」とか「師が
居ない方が良い」とかの良し悪しの話ではありません。
ただ居なくてもこういう対処法で行けるということは意味している
と思います。
帰依と師弟関係を一緒にするのがわからんな
帰依は自己を忘じて無執着で接するということだろ
仏法僧を前に我を持たないということだろ
師が必要になれば執着になるじゃないか
師がいなくても仏法僧を拠り所にすることはできるし
本当に自己を忘じることが出来たならその時は世界も忘じられてしまい
師弟という分離された関係は消えています。その時は師も弟もありません。
己という固定的なものがなかったと確認されてしまうので当然師という
固定的なものもなかったことが見えて分かってしまうのです。自分も他人
も最初から存在していなかったと分かってしまうわけです。
師匠役の人の必要性はこれが確認出来る前の人です。ただし、実際には
師を作っているのは自分です。自分という弟子となるものを作ってしまうから
師が必要になるのです。1枚の紙を破って2つにしたようなものです。
2つになっているからぴったりと合う。しかし、初めから2つに分けて
いなければ師弟自体が存在しないのです。
255 :
考える名無しさん:2010/09/30(木) 05:49:04 0
最終目的
脳内モルヒネを自分で出せるようになり
一生 気持ちいい〜
256 :
考える名無しさん:2010/09/30(木) 06:53:22 0
>>251 密教に関して語るのはサマヤに抵触しますよ。それは間違いありません。
現代日本仏教の現状は惨憺たるものでしょう。
>>252 中村元『ブッダ最後の旅』63頁ですね。
そこでは法を説いたことが前提となってます。
つまり、師から法を聞いたものが、修行できる身体と法を拠り所にひたすら修行せよという意味で、自分勝手に自分の思いつきで生きよというような意味ではありません。
そのことは『ブッダ最後の旅』を読めば分かるでしょう。
弟子はみな帰依もしてますし、教えも受けてます。
>>253 その解釈の根拠はなんでしょう?
私の根拠は『帰依六論』『帰依七十論』『正法眼蔵』水野弘元『要語』などです。
師の必要性を説かない仏教は聞いたことがありません。
>>254 それは誰が言っているのでしょうか? まさか「悟ったオレが言っている」じゃないでしょうね。
根拠がお経とか、○○に書いてあるって…
仏教は体験主義実践主義だろうに…
真言宗じゃ仏教の示すものを話すときあのお経にこう書いてありますからとか言うのか。
経の内容を実際に体験して体得するもんだろう。
そもそも初期教典を除けば、後にできたお経自体それぞれの体験から書かれたもんなんだ
から。
経なんて学術的な研究結果を除けば誰の作かもわからない。
書いてあることが実際にそうであるのか自分が確かめるのが仏教で自灯明だろう。
経に書いてありますからって言うんじゃ学者仏教だろう。
256じゃないが悟ったオレとまでは言わないが、それぞれの体験から仏教それ自体を説いて
いったものが大乗のように発展したんだし。
自分の体験から仏陀の言わんとしたことを解釈していくのが仏教だろう。
もちろん自分勝手ではなく体験としてね。
258 :
考える名無しさん:2010/09/30(木) 10:01:36 0
釈迦を超えた一切智智とか大日如来とか当時は異端だったろうね。
さすがは密教。
止観双運は正解。
259 :
考える名無しさん:2010/09/30(木) 10:34:44 0
>>257 体験の是非を判定するのは師か経論以外にないでしょ。
ここに誰もが認める師はいない、よって異見が分かれた場合、経論によるしかないんです。
大乗は勝手に発展した訳ではありません。
それぞれの体験から説いたわけでもありません。
テルマとか大乗経典はちゃんと教師がいるんです。
自分勝手に解釈するのは新興宗教です。
もはや仏教ではありません。
体験の是非は師に確認するものです。
それこそ妄想か教え通りか分からない部分ですよ。
だから、師が必要なんです。
我々の認識は狂人と同じで狂ってるという認識自覚がないと
仏教にならず、勝手な新興宗教になります。
>>258 一切智というのはブッダであるということです。
それはパーリ・ニカーヤにも確認できます。
大日如来も当然空です。
大乗であれば密教が異端にはならないでしょう。
但し、大日如来をミクロコスモス・マクロコスモスとかブラフマン・アートマンと捉えるなら、それは唯の常見に他なりません。
自分の認識が狂人と同じで狂ってるという認識はあっても、
自分が正しい師を選べるしその認識は狂ってないという認識は持っちゃうのねえ
自分の都合で信じたり疑ったり…
大乗にしろ教師にしろ釈迦から直々に悟ったと認定されてきた流れと実証されてるわけでも
ないだろ
過去のことは実証しようがないし
自派では皆理由を述べて語るが確実なことではないわけだし
それこそ空で無常だよ
261 :
考える名無しさん:2010/09/30(木) 11:05:50 0
>>260 >自分が正しい師を選べるしその認識は狂ってないという認識は持っちゃうのねえ
そんなこと言ってないよ。師の判定は難しく、自分の福徳に頼るしかないでしょう。
一応、論理とか風評、他の師の評価などから総合的にみたりするけど、
最終的には縁のみといっていいよ。
>一応、論理とか風評、他の師の評価などから総合的にみたりするけど、
>最終的には縁のみといっていいよ。
それらが狂ってるかもとは疑わないんですよね?
すごい極論だな。狂ってるかも、狂ってるかもって疑いだしたら
なにも選べないし、学べないだろうに。
極端な思想に触れたとき、その考えが
本当に正しいと言えるのか、常に自問自答するのは必要だと思うけど。
人間、あらゆる判断を先例に任せたり、他人にゆだねたりは
出来ないと思う。
>すごい極論だな。狂ってるかも、狂ってるかもって疑いだしたら
>なにも選べないし、学べないだろうに。
何かを選ばないといけないし、何かを学ばないといけないのですか?
選ぶということがなんであるのか。
選んでいる主体がなんであるのか。
それらの問いの答えがわかっているならそんな言い方はしないように思いますが。
何かを選ぶ前に体験してその答えを知るのが仏教でしょう。
全てが空で無常であるのに誰が何を選んでいいというのでしょう。
疑うなら全てを疑わないと、信じるなら全てを信じないと、自分という視点で疑いたいものと
信じたいものを勝手に分けて選んでるだけです。
265 :
考える名無しさん:2010/09/30(木) 11:28:44 0
>>262 だから、最終的に縁のみ、福徳だのみだと言ってるだけど
266 :
考える名無しさん:2010/09/30(木) 11:31:43 0
>>264 それは貴方教で仏教じゃないな。
仏教というのは、読んで字の如く「仏の教え」なんですよ。
先ず何よりも帰依して聞くことから始まるんです。
貴方は貴方教を別の所で説けばいいだけのこと。
その時、仏教と言ってはいけない。
267 :
考える名無しさん:2010/09/30(木) 11:32:08 0
>>264 ん?
>何かを選ぶ前に体験して
その体験がされるような行為をする(或いは状況に入る)という選択がないと、
その体験は生じないと思いますが?
数ある行為や状況から、或る限定されたものが既に選ばれてませんか?
あらゆる判断を教祖にまかせたり委ねたらカルト教団のいっちょあがりだと思う。
師の評価どころか師を超えないとダメだよ。
まともな師なら、弟子が自分を超えてこそ本望なのではないかな。
縁や福徳は体験を通して体得したものということですか?
だとすれば何らかの体験をするまえの凡夫のときには正しい師を選ぶことはできないですよね
270 :
考える名無しさん:2010/09/30(木) 11:34:55 0
>>264 そもそもこのタイプの方がよく仏教に拘ってるんですが、
何も執着ないのに何故、仏教に貴方は拘るのか?
オイラ教なりなんなり、適当に名づけてどこかで説けばいいだけなのに。
271 :
考える名無しさん:2010/09/30(木) 11:36:32 0
>>269 いや、その時までの福徳による縁という意味です。
だから、いい縁を得たければ善行に励むべき。
>>267 選択無選択を抜きに常に誰でも今を生きているでしょう
そこから体験するだけです
見性してから正師探しが始まるんじゃないのでしょうか?
それまでは修行にさえなってないでしょ?
274 :
考える名無しさん:2010/09/30(木) 11:38:30 0
>>272 だったら、その後も選択する必要はありませんよね?
ただ流されていればいいのですから。
275 :
考える名無しさん:2010/09/30(木) 11:39:15 0
>>268 あらゆる判断ではなく、重要なダルマに関する判断のみですがな
師も世俗のことは自分で決めなさいといいますよ。
>師の評価どころか師を超えないとダメだよ。
>まともな師なら、弟子が自分を超えてこそ本望なのではないかな。
なんかよくこれをリピートする人がいるけど、
そりゃ師は喜ぶだろうけど、師を越えられる人は非常に少ないことは、
歴史が雄弁に物語っているでしょう。
>>271 じゃあ誰しも与えられた縁に沿うだけということですね
自分が師を選ぶのではなく、勝手に師が与えられると
正しい師が与えられようとカルトの師が与えられようとそれはこれまでの福徳の縁でそれに
沿うだけなのだと
>>274 選択とか流れとか流される主体というものがあるのならそれでいいんじゃないですか?
278 :
考える名無しさん:2010/09/30(木) 11:44:10 0
>>273 禅宗はそういういい方をするかもしれませんが、
例えば福徳の積み方や、善悪などすら知らない人が、どう見性しろというのでしょう。
少なくとも坐禅の方法と、魔境かどうかぐらいは師に判断してもらうのではないですか?
禅宗のことはよく知りませんが。
>>274 そうそう。それだとただの現状肯定と全く異ならないでしょう。
そういったことは釈尊が『梵網経』で否定してるし、諸師も同様です。
279 :
考える名無しさん:2010/09/30(木) 11:57:26 0
>>278 >例えば福徳の積み方や、善悪などすら知らない人が、どう見性しろというのでしょう。
自分の内にある仏性に聞きなよ
そもそも福徳の積み方や、善悪などすら知らないような人には師が判断できる師かどうかわ
からないだろ
判断できるかわからない師に判断してもらうのか?
280 :
考える名無しさん:2010/09/30(木) 12:07:15 0
真言宗の究極の悟りって何なの?
281 :
考える名無しさん:2010/09/30(木) 12:20:40 0
悟り以前に神通力とかいうのが意味不明
282 :
考える名無しさん:2010/09/30(木) 12:40:59 O
私の師は仏です。
私の師も仏です。
私の師は法です。
>>256 さあ?「誰」が言っているんでしょうか?
お前ら見てると煩悩の塊に見えるw
287 :
考える名無しさん:2010/09/30(木) 13:18:36 0
そこで「煩悩即菩提」でつよw
単なる欲だけならあまり苦にはならない。欲を出したら人からどう思われるかを
気にして隠すというもう一つの欲との葛藤が苦をもたらす。
凡夫はこれを欲と思わず理性と呼んで別扱いし肯定してしまうため葛藤は中々終わらない。
しかしどちらも欲望である。
>>288 じゃあどうしたいいの?
発露させればいいの?
>>289 性的な欲望だと、多くの日本のお寺の中では
お稚児さんの尻にぶちまけてたみたいですね。
オレ様教の人はホントに真言密教の坊さんなのか?
密教系の信者にしか見えん
密教専門の俺が言ってみる。
ま、欲そのものは消せなかったとしても何故その欲が発生するのかを突き止めておいた方が良い。
そうすれば欲望に支配されてしまうことも減り、更にいざというときに停止することも楽だから。
295 :
考える名無しさん:2010/09/30(木) 14:14:53 0
296 :
考える名無しさん:2010/09/30(木) 14:18:10 0
>>293 そうだよ。仏教徒だけど。
某所で、四度加行、伝法灌頂も受けた。
密教専門なら、聞くが密教でいう「秘密荘厳」とはどういう意味か分かる?
>>296 レス早いな。
弘法大師空海の書の十住心論の第十
秘密荘厳心、大日如来の境地。
で、真言宗何派?
秘密教は秘密とか逝ってるから自然と思考・心が閉じていくんだよ
さて、それじゃあ勝手に宗派でも作って俺様がアレンジした仏教でも広めるかな。
301 :
考える名無しさん:2010/09/30(木) 14:36:30 0
>>297 そういう出典じゃなくて、意味はどういうことか分かる?
現代語でどういうことを意味するかということ。
これが分かってる密教学者ほとんどいないから。
ところで真言宗の僧侶であることが、そんなに重要なのか?
誰でもなれるでしょ。100日とちょっと時間とお金かければ。
オイラは聞かれたから答えたまでで、真言宗の僧侶であることに何の権威も感じないんだが?
302 :
考える名無しさん:2010/09/30(木) 14:37:41 0
>>298 秘密というのはそういう意味ではありません。
「如来秘密」という意味で、「秘密荘厳」の意味に関わります。
しかし仏教の宗派の中にはまるでキリスト教みたいなのまであるんだから笑えるよな。
最初からなんでもありで異端を潰すみたいなことがなかったというのは珍しい。
弘法大師が、衆道の元祖と俗説では言われているみたいですが
まさか、お大師様が堕落していたとは言えないですよね。
そういう時代だったから、仕方がないのかな。
>>301 ならば説いてみせよ。まさか三昧を修習してないとダメとか言うんじゃないだろうな?
振ったのは真言密教の坊さんのほうだから解説の責任はおまえさんにある。
ていうかどこの宗派であれ昼間に2ちゃんに書き込んでるが坊さんだとは思えん。
306 :
考える名無しさん:2010/09/30(木) 14:43:35 0
秘密荘厳=自己+大日如来(=宇宙)
完全に概念を超越。
いろいろな宗派があって、うちの宗派には更に上の境地があるのだ、とか
表現されてるが、最終地点はどこも同じだよ。
慢心僧衣になったらインフェルノ逝きだが。
>>302 衆生自秘と如来秘密、自内証で済む話か?
>>302 それでは秘密とはどういう意味なのかね
「秘する」という意味を含んでないんだったら、
当ててる漢字がそもそもおかしいだろ
漢字間違いか?
旦那様、宗論はどちら負けても釈迦の恥て言いやす。
310 :
考える名無しさん:2010/09/30(木) 14:49:08 0
流れが変わったなw
「秘密」というからには、
隠してるという意味に聞こえる。
だが違うだろう。
どんだけベラベラしゃべっても
聴いてる方はわからない。だから
「コイツ絶対何か奥義を隠して秘密にしてる・・」
と勘ぐられる。
しかし、しゃべってる方は何も秘密にしていない。
よって「秘密」と称される。
312 :
考える名無しさん:2010/09/30(木) 14:55:46 0
>>295 そこのリンク、自称真言のあじゃりさんが自前で立てたWiki
いきなり静かになるのは誰かが連投で自演してる証だな。
315 :
考える名無しさん:2010/09/30(木) 15:10:25 0
>>305 >>308 >>312 サマヤにかかわるけど、要するに認識変換という意味。
現れ、認識はそれぞれの業に従ってそれぞれに現れる一水四見と言われるように。
だから自分の認識を変えることでこの汚土が浄土になる。
この認識が如来の認識だから、凡夫には秘されているので如来秘密なわけ。
>>306 それはミクロコスモス・マクロコスモス、ブラフマン・アートマンの見方であって、
仏教ではない。そういう見方をしてる限り三昧体験があっても仏教は全く分かってない。
>>307 もちろん自内証ですよ。
>>315 それは第十を特別に切り離した場合、九顕一密だな。
>>311 それはしゃべってる人の主観の問題で
傍から見ると秘密の状態だろ
本人が秘密にしてないといってるだけで
>>317 法身説法と自受法楽、そして衆生自秘
これで説明できるのに遠回りにもったいつけることはないんだがね、真言の坊さんは。
ここで語られていること全てに実体はなく空性である。
>>319 結論出たな。そろそろ俺が連投規制になりそうだがまだいけるか。
321 :
考える名無しさん:2010/09/30(木) 15:43:06 0
>>316 まず、あの認識がなくて世の密教を述べる人たちは、
認識変換ではなく大日如来とか浄土とかマンダラを実体視して、
神秘によって、それを見るなどと言ってるのは全くの間違い。
まず、それが分からなくては九顕一密も九顕十密もありえない。
密教になってないからです。
>>321 書き込めれば今回はこれでラストだろうが
認識変換と神秘がどう違うんだ?神秘によって認識変換が起きるんじゃなかったら
認識変換はどっから来るんだ?阿摩羅識か。三昧で認識が変換できるなら誰でも大日如来だ。
師匠が必要という真言宗の方はわかりやすいようにコテつけてもらえませんか?
まあ派閥くらいは必要だね。無派閥なら書かないってことで。
325 :
考える名無しさん:2010/09/30(木) 16:41:18 0
>>322 縁起・空・仮設ですがな。
だから、仏教なんであって、それを神秘といい大日如来をマクロコスモスといっては、
ヒンドゥーそのもの。
>>323 すまん。コテをつけないのが無我なのだ。(^^)
>>300 > それじゃ層化と同じ。
そうか?w
まあしかし今も残る色々な宗派も最初は新興宗教で怪しまれたんじゃねえの?
私は、今ここでその内容を明言する術を持たぬが、現代人と鎌倉時代の人との間で、宗教観の違いが在ったことは明白だろう。
328 :
考える名無しさん:2010/09/30(木) 17:10:33 0
>>326 宗教一般なら、それもありかも
だけど、ここでは仏教が問題だから、
正統な伝承系譜に連なっているかどうかがメルクマール
創価以前に日蓮は仏教じゃないから
329 :
考える名無しさん:2010/09/30(木) 17:11:53 0
鎌倉時代って何で鎌倉新仏教が乱立したわけ?
まあそれが今の伝統宗派なわけだが。
末法とか元寇とか飢饉が原因の気がするが、
もっと大きい理由があるような。
日蓮て聖書主義のキリスト教原理主義や
コーランがすべてのイスラーム原理主義に似てるな。
法華経のみが所依だし。
331 :
考える名無しさん:2010/09/30(木) 17:20:01 0
>>325 無我なら逆につけろよ
どんなコテがついても無我なのが無我だろう!
ふだん名前も言わないのかよ
IDないからわかりにくいんだよ!
>>328 俺様仏教は原始仏教に直結させるぜ。
経典ほとんどなし。面倒臭いからとにかく座って自分で確認しろ。
無我だからコテつけられないってどんだけ我欲だよ
>>331 コテを「無我」にすればいいじゃんねえ。
335 :
考える名無しさん:2010/09/30(木) 18:18:37 0
上祐氏のひかりの輪はプリミティブな仏教をやってる。
>>335 オ○ム事件のおかげで
俺様だけ仏教が台頭することを願うばかり。集団即魔境。
337 :
考える名無しさん:2010/09/30(木) 18:54:50 0
>>329 乱世だったのが大きいでしょう。
もう一つは、全て天台からの分派なので、天台本覚門の影響があるかもしれません。
つまり、あまりにも高度な内容になってしまってついていけなくなって、
いろいろ模索した。
それと別に、禅宗はシナから新しく伝わったものです。
いくつかの系統が伝わっているのですが、いくつかしか残りませんでした。
日蓮宗は仏教というより、鎌倉時代のナショナリズム宗教と考えた方がいいと思います。
あの時代、日本を中心に考える神道が沢山起こりました。
それの仏教系新興宗教が日蓮宗と考えると分かると思います。
明治時代に新しい新興宗教が沢山生まれたのと同じでしょう。
要するに混迷期だったということです。
338 :
考える名無しさん:2010/09/30(木) 18:56:13 0
>>335 彼もちゃんとした師匠に就かないと危ないと思う
>>338 彼なりに正しい師を選んだんでしょ
世の中の師についてる人はみんな正しい師につこうとして選んでる
その結果カルト宗教に入ったりするだけ
師につこうとするから師を探すからおかしなところに行く人は必ずでる
それなのに師を探せと?
どのように探せというわけ?
340 :
考える名無しさん:2010/09/30(木) 19:54:24 0
>>339 彼の場合、問題とされるべきは今で、
彼は今、どんな人が師に価するかかなり知っているはずなのに、
誰どんな師にも就かずに大勢の弟子を持ってやっていることが危ないんです。
仏教を学びたいなら、まず師を探すことですね。
いろいろ伝手はあるでしょう。
私はビルマ系かチベット系で探すことをお勧めします。
どちらの伝統も聖者が続いています。
結局煩悩はなくならないんですか?
煩悩を含めて縁起、空の視点で受け止めるということですか?
>>340 なるほど
軍事国家か植民地ということか
どちらも聖者のいる地上の楽園みたいだな
343 :
考える名無しさん:2010/09/30(木) 22:51:50 0
政治経済関係ないのでは単なる聖俗二元論だろう
345 :
考える名無しさん:2010/09/30(木) 22:59:20 0
真言宗くんは数ある宗派の中からなんで真言宗を選んだのよ?
煩悩はただの欲ではありません。自分と他人を意識した上での欲です。例えば人からよく思われたい、
人から悪く思われたくない、人を抜かしたい、人より下になりたくない等です。これはその主体であると
思い込んでいる「自分」というものが記憶やイメージによって想像されて作られているだけの幻である
ことを認識することによって消滅します。あなたはあなたの思っているような「あなた」ではありません。
あなたは何者でもなく、それ故に何者でもあります。
あなたは子供の頃から名前で呼ばれていたでしょう。しかし名前があなたなのではありません。
名前はあなたの体に識別のために付けられたラベルのようなものです。
更に名前と共に様々な評価がされてきたことでしょう。「あなたは頭が良い」、「あなたは馬鹿だ」、
「手先が器用だ」、「不器用だ」、「綺麗だ」、「汚い」などなど。しかしそれはその時他の誰かが
その人の基準によって勝手に行った評価であり、相対的なものでもあるためほとんどあてに
なりません。また次の日にはあなたも他の人も変化してしまって全く違う評価になっている
かも知れません。それだけでなく、それは外側から見た評価です。よって名前と同様に外側に
貼り付けられたラベルであるためそれがあなたなのではありません。
あなたは変化し続けるものです。よってどのようなものがあなたであると固定的に決めてしまう
ことは出来ません。海の波のように一瞬一瞬形が変わり二度と同じ形にはならないのです。
10年前のあなたと今のあなたが違うのはもちろんのこと昨日のあなたと今日のあなたもまた
違います。あなたは一瞬一瞬生まれ、そして一瞬一瞬死んでいるのです。同じものが継続
しているわけではありません。継続するものは何もありません。
349 :
考える名無しさん:2010/10/01(金) 09:58:09 0
どなたの正師も「仏」です。
で、「仏」って何?
ゲシュタルト崩壊って上でレスがあったけど
あれか。これって悟りというか、脳の錯覚みたいないもんだな
ゲシュタルト崩壊は悟りと何の関係もない。
352 :
考える名無しさん:2010/10/01(金) 12:29:42 0
ゲスタルト崩壊(ゲシュタルト心理学)は禅や西田哲学の純粋知覚などとも関連付けて考察
されてるしゲシュタルト療法とかも生み出していて悟りと直接ではないが間接的には関連し
てるでしょ。
ゲシュタルト療法は禅に近接してるが
ゲシュタルト崩壊は何の関係もない。
関係ないと思いたければそう思えばいいよね。
ゲシュタルト崩壊の一種だろう
一種かわからんけど三昧や忘我の過程でゲシュタルト崩壊みたいになるしな
山は山でなくなりってやつ
そのまま受け止められないと仏とか虚無とか魔境に変換しちゃうし、魔境を排除しようとして
ゲシュタルト崩壊自体を排除する人も多いみたいだけど
357 :
考える名無しさん:2010/10/01(金) 14:48:04 0
関係があるなしはおいといて、
悟りなどに関係したスレだと、
ゲシュタルト崩壊や離人症の話は、
たびたび出てきますね
忘我・脱自(エクスタシス)は崩壊だと思うが
悟り・三昧はそれではないよ
むしろ逆でゲシュタルトの構築だよ
どちらかというと
エクスタシスと勘違いしてる奴やエクスタシスのことを悟りといってる宗派も多いが
崩壊したあとに構築を観、構築となるんだろ
色即是空、空即是色
色不異空、空不異色
「崩壊した後」ではないだろ
崩壊もなく崩壊がなくなることもなく
理性や意志の力ではまとまりで見えるものをバラバラなものとして捕らえるのって無理です
悟り=差取り=無分別=崩壊=離人症=独りよがりの穴蔵住まいでok?
>>364 > 悟り=差取り
最初のこの部分からして日本語でしか行えない書き換えになっている。しかし悟りに言語は関係ない。
「 わたしは、世界の常住。無住、あるいは有辺・無辺については、なにも説かない。
また、霊魂、肉体のことあるいは死後の存在については、何事も説かない。
それらの事は、道理の把握に役立たず、聖道の実践には役立たず、
究極の目的の実現に役立たないからである。」
(中部経典「摩羅迦子」。中阿含経「箭喩経」)
⇒ つまり、神もあの世も語らないと言っているゴータマ・シッダールタは不可知論者
367 :
考える名無しさん:2010/10/02(土) 03:52:30 0
で?
売れないロック歌手はスカートだから女の仲間に入れって虐められなくなる為
369 :
366:2010/10/02(土) 08:16:46 0
で、釈迦が不可知論者だとすれば、
>>1の【輪廻(転生)】とか言うはずがないし、【悟り】も仏(神格)に成る事ではない。
釈迦の言う【輪廻】はアトラクターの事だと思う。
仏教の良いところは自力本願的なところ。
悟りの境地に至る為の方法論と実践。学ぶ価値はある。
370 :
考える名無しさん:2010/10/02(土) 08:39:59 0
当時はバラモン教の方で輪廻が信じられていて、そちらの方の人との受け答えの中で輪廻の話を
出す方が通じ易かったから方便として使ったということはないかな。つまり対機説法。
371 :
考える名無しさん:2010/10/02(土) 08:42:23 0
つまりその社会で広く信じられていることに沿った形での説法ということ。
これについてはイエスもやっていると思う。イエスの場合は当時のイスラエル近辺での
ユダヤ教を信じる人向けの説法になっている。おそらくあのような内容にしないと聞いて
くれる人は居なかっただろう。
372 :
366:2010/10/02(土) 09:14:04 0
対機説法かもしれないですね。
イエスの「右の頬を・・・」もユダヤの「目には目を」のアンチだし。
ブッダは一切を知る者といわれる
仏教の最終目的と言うなら、一切を知りブッダになることがそれに当たるのだろう
では一切とは何か
何をもって一切か
これに答えられた人はいるかな?
世界は一つ
375 :
考える名無しさん:2010/10/02(土) 11:42:15 0
>>373 俺の基礎年金番号や口座番号なんかは知らなかったと思うなw
376 :
考える名無しさん:2010/10/02(土) 13:48:26 0
自称真言の坊さんはどうしたんだ。
377 :
考える名無しさん:2010/10/02(土) 16:22:28 O
日本の、昔の偉い坊さんも、稚児灌頂とか言って
好き勝手に、お稚児さんの尻を突いてたんですね。
そういう部分を見ると、邪教だなって感じがします。
修行・修行とえらそうに言っても、性欲は抑えきれなかった。
右も左も分からない男の子を、よってたかって犯すって
今だったら、とんでもないカルト認定されそう。
まだ親鸞の妻帯OKの方が、まともな感じがします。
ああ。もはや解脱するしか方法がないのだよ。
悟るまではどこを見ても結局は地獄でしかない。
空海も性欲は抑えきれなっかたんだろ
383 :
考える名無しさん:2010/10/02(土) 20:54:31 0
テレビゲームと一緒
思考の堂々巡りで人々から多くの時間を奪い
経済が停滞する 自殺者が増え 人口問題が解決
これが日本の宗教の歴史的役割
もしくは戦争
384 :
考える名無しさん:2010/10/02(土) 21:31:28 0
そういうのから解脱する必要があるね。
>>385 あなたは女性ですか?
女性は男を諦めないと仏教無理だよ。
388 :
考える名無しさん:2010/10/03(日) 00:46:20 0
>>387 これは女性だからと侮って失礼した。
>>385の代わりにお詫びします。
自慢とは自己慢心でありまして、執着です。
執着が執着であるとき、執着は執着ではないのです。
誤解ではなく自ら証して頂きたい。
あなたの師匠もそれを待ちわびているでしょう。
豪快に身投げしませんか
390 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/10/03(日) 01:12:17 0
真言宗の方からすれば
こちら
>>385は事相に当たる部分ではないかと。
空海様が最澄様に貸し出しを拒んだのは理趣釈経ではないかと。
>>390 唯識 ◆Vidya0E1.sさん。
あなたに任任します。
そろそろ、漢文=格好いいって呪縛から逃れよう。
呪文はダメだよ。
393 :
考える名無しさん:2010/10/03(日) 04:26:18 0
漢文 かっこわるい
394 :
考える名無しさん:2010/10/03(日) 10:05:26 0
一切を知る
すなわちこの世ははったりがすべて
霊感商法は罪悪感が刺激されて気持ちいい
うそは大きなうそのほうがいい
楽したものが勝ち
このスレ枯れちゃったな。
賢者が居なくなった。
396 :
考える名無しさん:2010/10/03(日) 12:02:52 0
解脱者が一人もいないんだから当たり前だろ。
397 :
考える名無しさん:2010/10/03(日) 12:08:17 0
賢者だから解脱者だからって、侮辱・揶揄してもいいと思ってる甘ったれは
反省して仏教を志せよ。
398 :
考える名無しさん:2010/10/03(日) 13:33:04 0
世の中には、多くの異なった真理が永久に存在しているのではない。
ただ永久のものだと想像しているだけである。
かれらは、諸々の偏見にもとづいて思索考研を行って、
「わが説は真理である」「他人の説は虚妄である」と二つのことを説いているのである。
399 :
考える名無しさん:2010/10/03(日) 13:49:53 0
真理なんかない
仏教は霊感商法
以上
>>378 性欲の問題というより、
精神が外との接触を持たないとそうなるんだよ
例えば、肉(女)とか、他者とか、外世界とか
外がなくて精神が閉じていくと、精神が外から自由になってその内に変な思惑が渦巻くようになる
「釈迦といふ いたづらものが世にいでて おほくの人をまよはすかな」 一休
一休はヒンズー教徒か
仏教は苦を滅することを中心として組み立てられているため苦を生む元となる観念を破壊し、
観念のフィルターを通さずにそのままのあるがままの世界を見ることを推し進めます。
なので、仏教そのものや釈迦の存在が観念化してしまいそれが苦に繋がるというのなら
それもまた破壊の対象となります。「釈迦に会ったら釈迦を殺せ」です。
何も崇めてはいけません。
仏教は結局のところ苦が完全に滅した状態である悟りを目指すものであるため「仏教徒である」
という観念をも捨て何者でもない本来の状態になる必要があります。つまりまずは子供のような
純真な心に戻すわけです。そこでようやっと悟りの入り口に立つことになります。(ここまでが
悟りのための準備です。これで悟ったわけではありません。睡眠と同じで準備は意識的に出来ても
眠ることそのものが意思の力で出来ないのと同じことです。意思が消え去らない限り睡眠状態には
なりません。同様に悟ることそのものは本人の力では出来ません。悟るのはその本人が
消え去った後です)。
このことは逆に言えば悟ったらもう仏教徒ではないということです。川を渡り切って
もう筏は捨てられているのです。では悟ったにも関わらずその後仏教を広めようとする
人が居るのは何故か? それは慈悲によるものです。他の人が彼岸まで渡るための筏を作る
手伝いをしているのです。
オマエラが分かっているのは中層以下の末端仏教であることを
悟るべきだ。
階層があったらヒンズー教だろ
>>404 賢者再来。
「純真な心に戻す」=無我無知な赤子や下等動物に戻るって事?
煩悩にまみれた汚い世の中すらも受け入れつつ心を平静に保つのが理想じゃない?
「一切を知る」とかいうのもその事を言っているんだと思う。
408 :
考える名無しさん:2010/10/03(日) 23:37:24 0
>>407 修行は大人になってからする、というか、色々な知識を得た後でやるのでその記憶は残ったまま
観念だけ滅した状態です(これは簡単に言えば「これはこうである」という決め付けがなくなった
状態です)。だから心が幼い子供のようではあっても少し違います。自分の状態を知識によって
把握して語ることや人との会話も出来るわけです。
ところで、「一切を知る」とは言っても世間での知識の全てを知っているというのとは意味が違います。
真理を体現していてそれをある程度言葉でも語れるという感じです。但し実際には誰でも真理は
体現しています。ただその事が自分でよく分かっていないので言葉に変えられないだけです。
例えば妊婦は何も知らなくてもお腹の中の子は勝手に細胞分裂して育つわけです。生物学や
医学などは一切知っている必要がありません。知っていようがいまいがお構いなしに育ちます。
しかし知っていればある程度状態を把握して言葉にも変えられます。
409 :
考える名無しさん:2010/10/04(月) 03:43:16 0
>>400 まだ、綺麗なことに興味あるんだ。
もっとさあ、哲学よりも楽しいことがあるんだと思うんだよ。
君みたいな才能ある人ってさ、
数年したら哲学を卒業してさ、次ぎのステップの楽しい世界に進めると思うんだよ。
哲学ばっかりやって、他に何もやることない人なのか?
410 :
考える名無しさん:2010/10/04(月) 07:07:56 0
>>404 仏教やってないのになんで仏教に拘るのでしょう。
何も執着がないとかいっといて、執着しまくりですね。
>>408 「真理」っていうのは何でしょう?「万物理論」のようなもの?
「あるがままに」「観念を捨てろ」とか、似てるので「全ては無意味(意味が有る)」とかって、
「じゃあ、何もするなって事か?」と思ってしまう。
人間の営みも自然の一部なのに「自然」と「人工」と別けるのって変じゃない?
同じように「観念」(人工)も「真理」(自然)の一部でしょ?
「苦」(観念)を完全に無くそうってのは無理だよ。
生きてれば苦しむのは当たり前。排除するんじゃなくて付き合っていくものだと思う。
412 :
考える名無しさん:2010/10/04(月) 09:35:26 0
純粋意識体になることが悟り。
純粋意識体であったことが悟り。
純粋意識体であることが悟り。
ダンマである。
仏教という宗教はこれに気づかせるために構築した方便としてのインチキ。
414 :
考える名無しさん:2010/10/04(月) 09:59:12 0
>>412 その純粋意識体をアートマンとして捉えているなら仏教としては誤解。
縁起・無我・空・仮設でなければならない。
この概念を立てて論理的に説明でき、道としても無我・空を悟れることが仏教の最大の特徴と思われる。
記号・名称はどうあれ、アートマンみたいななんらかの基体を想定・知覚するならもはや仏教ではありえない。
415 :
考える名無しさん:2010/10/04(月) 10:10:00 O
じゃあボクはエイトマンでいいです。
416 :
412:2010/10/04(月) 10:10:49 0
>>414 そこまでわかっている方がいるなら文句なし。
最終的には仏も無存在である。
417 :
考える名無しさん:2010/10/04(月) 10:34:57 0
>>416 無存在という断定はできない、四句分別という論理形式を越えたものですね。
418 :
412:2010/10/04(月) 10:46:28 0
>>417 >無存在という断定はできない、
それでもよいと思います。
同じくして、アートマンとか無我という断定もできない。
>>388 >執着が執着であるとき、執着は執着ではないのです。
わかりません。詳しく教えてください
420 :
考える名無しさん:2010/10/04(月) 12:01:16 0
421 :
考える名無しさん:2010/10/04(月) 12:29:43 0
仏教の最終目標、それは広末涼子のコンサートにいくこと
難しいぞよ
末広涼風
423 :
考える名無しさん:2010/10/04(月) 12:45:53 0
>>409-410 だからさあ、念入りにレス書いてくれてるのに揶揄するなって。
全く内容のない「野次のための野次」を飛ばすんじゃねえよ。
疑問があれば、それに応えてもらうべく努力して丁寧にレスを書け。
それができなければうせろ。
賢者と対照的に野次馬の見苦しいこと。
自称真言宗の坊さんは適当なこと言ってるなあ
たぶん信者。
425 :
考える名無しさん:2010/10/04(月) 17:40:11 0
三昧が悟りだし、悟りに三昧は必要ない。
「〜が足りない」とか言ってるのは単なる客引きのための
キャッチコピーみたいなもんだよ。
宗教法人だって商売っ気がなきゃやってけないんだから、
哲板の無師独悟さんはそのあたりをもっと大目に見るべき。
>>420 これ読んでると縁起や空は関係ないように感じるんですが
427 :
考える名無しさん:2010/10/04(月) 19:37:49 0
428 :
考える名無しさん:2010/10/04(月) 21:51:40 0
>>418 そうですね。究極には無我という断定もできませんが、
アートマンとアナートマンでは大きな開きがあると思います。
429 :
考える名無しさん:2010/10/04(月) 23:34:54 0
>>411 いや、この世界は完全に真理に基づいて出来ていてどこを取っても真理なんです。
だからあなたの言うとおり分けるのはおかしい。何がどうなっていようがそれは真理の現れです。
それが分からなくなって真理と真理でないものがあると分けて考える思考は苦を産む元になります。
(もちろんこの分ける思考自体も物が上から下に落ちるかのごとく真理に基づいて発生してしまうものではありますが)。
苦を滅することは可能です。苦を最終的に感じているのは苦を認識しているものですよね。
それは精神が大きく関わっています。だから偽薬で痛みがなくなってしまうということも起こる。
もちろん逆に思い込みだけで痛みが作られたり体が死んだりすることもあります。
嘘でも本当だと信じ込んでしまえば体を生かすことも殺すことも出来てしまうということです。
どこかに限界はあるかも知れませんけどね。それでも火事場の馬鹿力みたいに常識外れなことは起こりえます。
(かといって限界に挑戦する必要は何処にもありませんけどね)。
430 :
考える名無しさん:2010/10/05(火) 02:19:03 0
>>1 誰かが、「輪廻転生」の因果から離れ、滅すること。
>>429 観念を取り去っていったら、タマネギみたいに何も無くなるんじゃない?
苦は無くなるだろうけど、喜ぶ事も無くなるし、認知する事もできないと思う。
観念を排除するのではなく、育てて洗練させるのでは?
観念が乏しくて状況に合致しないから苦が生じるのでは?
観念を取り去ることはできない。
苦もなくならない。喜びもなくならない。
観念は排除するものでも、育てて洗練するものでもない。
どうしてこういう根本的な勘違いが起こるのかねぇ。
何か仏教以外のスピ系の本を読みすぎじゃないかな。
苦がなくなるとか無くならないとかみんなバラバラだな
スピリチュアルとかいってる時点で霊魂を実体視してるからな
>>432 斜め上から偉そうに批判するだけじゃなく、自分の意見を言え。
お前らだってわかってないんだろ
仏教に何の疑問もないの?
>>432 観念はなくせますよ? 変えることも出来るし。
要するに信じている内容が変われば変わる。
例えば「サンタクロースが居る」と信じている状態から「サンタクロースが居ない」になった
だけだと観念がなくなったわけじゃなくて変わっただけですね。なくなるというとサンタクロース
そのもののことについて考えなくなって、仮に記憶に残っていたとしてもそんなことはどうでも
よくなっているということです。
どうでもいいならなんで生きてるんだよ
>>438 あえて死ぬ必要もありませんね。というか自分から何かする必要が何もない。
>>439 じゃあなんで悟った人で死ぬ人はいないの?
>>440 観念なしの状態は自分で意識的に何かをしようということがない状態です。つまり子供のように心が
自由な状態です。だからあえて死のうとも生きようともしない。生死はどうでも良いことになるわけです。
生きるべきか死ぬべきか、あるいは生きてしまうのか死んでしまうのかとそれについて考えることも
ないしそれに心が縛られてしまうこともないので自由ということです。この自由な状態が苦のない
平安な状態に繋がります。
結局生き続ける基本的な機能は体が持っているようなのでそれに任せて放っておいている感じになります。
それで仮に死んだとしても構わないわけですが、生きたとしても構わないわけです。そんなことは
どうでも良いことだからです。
そもそも仏教は信じるものではないです。
仏教には政治的・哲学的思想はありません。
哲学は迷いを増大させるだけなので、仏教とは正反対です。
>>441 難しいなぁ
ではこうして今書き込みをしていることはどういうことなんですか
>>443 たまたまこのスレを見つけて受け答えを楽しんでいるだけです。
>>440 魂は死なない。物理的な世界だけを理屈で考えるから
物理的な面での生物は必ず死するとしか結果を選べない理由となる。
そんな思考なら物理学でも学べばいい、理屈を超えること、それは
理屈では非ず。言葉を超えられない人に言葉の超えた世界を知ることは
できない。貴方を含む多くのものが得られるのは知識でしかない。
知識は意味でしかない。意味を超えた何かを意味として客観的に
余計な部分を排除した合理主義思想では得られる質は明確にその合理的な
結果しか返ってこないのは明白である。
>>445 それキリスト教w
あなたがクリスチャンなら問題ない。
仏教で魂の存在を認めると、ヒンドゥー教に逆戻りになる。
>>444 嫉妬や怒りや自慢はまったく生まれないですか?
それとも上で書かれていたように
「嫉妬や怒りは嫉妬や怒りである時、執着ではない」
というような解釈ですか?
このやりとりは仏教哲学が全く役に立たない典型例だ。
念仏でも題目でも真言でも坐禅でも瞑想でもしろ。
「行」をしろ。でなきゃ仏教を語るな。
>>448 「行」をしろ。でなきゃ仏教を語るな。
オマエが行をして永久に2chにくるな。
魂だろうとなんだろうと生滅しないし無始無終だろ
451 :
考える名無しさん:2010/10/05(火) 20:25:05 0
哲学なんて面白くないですよ。
君は魅力的な人なんだからさあ、哲学よりもっと楽しいことあるよ。
何で哲学ばっかりやるのか?
哲学なんてやってたら、艶の無い人だと思われないんですか?
大丈夫だから、君ならもっと、広い世界に行けるって。
魂とは観念にすぎず、それを説明すると物のような価値観で違うとか
いいだす馬鹿って、観念を定義してどうなるんだ?
それも主観にかなり依存するものだし。
>>447 私はまだ完全ではないので波がありますが、だいたいは気づいた時に観察すれば消えます。
怒りの感情が起こってしまう理由はこうでなければいけないといった観念が根にあるからですが、
その観念がそのまま保持されている理由はそれが正しいと信じているからで、更にそれを推し進める
理由はそれが生命の維持発展に関わると信じているためです。つまり生命維持の防衛本能に繋がって
いるために観念は中々変更できないわけです。特に長年同じ観念を持ち続けてある程度うまく行って
いた場合はなおさらです(年寄りが時代に付いていけず頑固になってしまう理由はこれだと思います。
時代が変わっても作られた観念は中々変わりません)。
その結果通常は歳を取れば取るほど怒りたくなることが増え「昔はよかった」と感じてしまう
のでしょうが、そのままだとずっと苦を受け続け怒り続けてしまうということでもあります。
解除する方法は本当にそれが正しいことなのかまずは疑うことです。多分大半のことは一面的には
正しいと思います(だから信じ込むに至ったわけです)。ただ現状に本当に合っているかとなると
恐らく合ってません。ものによっては戦場で人殺しはいけないと訴えるぐらい大幅に現状にフィット
しない観念もあるかも知れません。そういう観念は大きな苦に繋がります。
455 :
考える名無しさん:2010/10/05(火) 21:22:59 0
なんで仏教スレなのに自分語りするのだろう
あなたには自分語りをここでしてはいけないという観念があるのですね。わかります。
しかし長い年月だね。おそろしく長い。で結局
何なのかカオスみたいなものだな。
この広大な宇宙空間のなかで
458 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/10/06(水) 00:21:03 0
なにやら思考を停止すれば悟りであるとか
間違った方向に進んでませんか?
459 :
考える名無しさん:2010/10/06(水) 00:40:52 0
誰もそんなこと書いてないと思うが?
460 :
考える名無しさん:2010/10/06(水) 01:50:03 0
思考を停止する必要もしない必要もない。
思考とは何かすら分かっていないのに、「思考」と言葉を使うバカって。
>>458 おまえバカだろ?思考を停止とは、最初から何も考えずに停止するのとは
意味がまったく違う。
お前程度の思考能力で安易に思考を停止すれば何も悟れない。
まあ仕組みがどうなっているかを説明してもオマエには無意味。
463 :
考える名無しさん:2010/10/06(水) 03:32:48 0
いやあ素晴らしい。
>>462の思考は完全に停止していますね。
464 :
考える名無しさん:2010/10/06(水) 04:15:00 0
>>456 観念とか執着を捨てよといえば ok ですか?
そりゃ、悟りスレとか、そういったテーマならいいでしょ。
だけど、ここっで仏教哲学のって限定がついてんだぜ。
自分語りをするのは執着を捨ててない証拠に思えるけど。
オレの体験スゲ〜、みたいな
465 :
考える名無しさん:2010/10/06(水) 04:15:53 0
日本人を思考停止し
いつまでも寄生できる培地を作っておく
賢いやつが出てきたらよってたかって潰す
466 :
考える名無しさん:2010/10/06(水) 05:08:27 O
何だ芥山賞って
>>454 だから観念を現状にフィットするように更新していく、と考える方が建設的でしょ?
観念を捨てちゃったら、人殺しがどうとか何が正しいとか判断できないってばさ。
キャンバスを白地に戻すようなもんだよ。
468 :
考える名無しさん:2010/10/06(水) 08:21:35 0
>>467 そんな常識で言われてもね〜
発言者じゃないけど
>>468 >
>>467 > そんな常識で言われてもね〜
> 発言者じゃないけど
>
俺はこれを言われてどう答えればいいんだよ!
どこが自分語りなんだろう。
体験、実感をまじえて話す、説明しているだけだと。
よくコテをつければ自我だの自己顕示欲だの言う単細胞がいるのはウザい。
観念的な一般論を言えば、それはそれで、
それは他人のものでお前のものじゃないと言うのだろうし。
>>467 それは何かに洗脳された状態から別の内容に洗脳するだけじゃない?
カルト宗教から別のカルト宗教に改宗して、何か意味ある?
>>471 「観念」の意味とか今さら問いたくないけど、宗教的な意味でとらえてる?
俺は既出の「ゲシュタルト」に近い意味で使ってる。
何か形が有ればそれに相容れないものが必ず発生しちゃうんだよ。
だからって形を無くしてまっさらにすればいいってのはおかしいだろ。
473 :
考える名無しさん:2010/10/06(水) 10:19:14 0
何が議論になってるのかわからない。
観念や執着があるからそれを捨てろってことかな。
でも元は皆空なのだから捨てる必要もなく皆空と気が付けばよいのでは?
何もかも捨て去るのではなく、元からそんなものなかったってことで
いいのではないでしょうか。
>>472 郷に入っては郷に従えでその場その場で合わせれば良い。
しかし元から持っている観念が強いと合わせる事が困難になる。
正確に言えば
執着は空というのはカテゴリーミステイク
執着は空であることがわからない状態でのみ発生する感覚
たとえば「つねったら痛い」という現象をみるとき、
つねらなかったら、痛いという現象は現れない。
このとき、痛いというのは空であるといってもそれは意味のないこと。
476 :
考える名無しさん:2010/10/06(水) 10:41:50 0
>>469-470 要するに仏教的に跡付けてないってことだ。
自分の経験や感覚が全てだと思ってる。
それを仏典とか仏教の伝統でトレースできなかったら仏教じゃない、ただの自分語りだって分からないかな。
477 :
考える名無しさん:2010/10/06(水) 10:44:06 0
>>470 >観念的な一般論を言えば、それはそれで、
>それは他人のものでお前のものじゃないと言うのだろうし。
そういうこと言うヤツは言わせ説けばいい。
仏教について問題になってるので、自分のものである必要はないもない。
仏教についての妥当性・正当性が、まず第一に問題になるだろう。
このスレタイなら。
だから執着は空ではなく無である
479 :
考える名無しさん:2010/10/06(水) 10:45:50 0
>>473 単純に仏教を離れてオレ様体験・感覚で真理はこれだって言われても、
それは仏教とは関係ないってこと。
>>473 >>476 仏教哲学の最終目的 ⇒ 悟ること ⇒ 悟るって何? ⇒ 観念を捨てる事? ⇒ 違うんじゃね?
何がおかしいの?
そもそも
>>1の思考レベルから始まった話だぜ?
トレースもくそもねーだろ。
>>474 合わせるのが難しいなら、無くすのも難しいでしょ。
まー無くしてから再構築ってのもありかも。
自分語りなんてどこにもないと思うがな
どういう解釈か聞いただけだけで
483 :
考える名無しさん:2010/10/06(水) 10:54:09 0
始めは分析からだよな地質調査の話だけど。
筋同士は結合させないと鉄筋は。
梁の端場を押さえて全部とか或る部分だとかモーメントの話をしたり。
輝いてるというカンデラになりたいんじゃないかな。
それで、向こう岸って移動端の橋をかけるそうじゃない。
俺は一人で回してるからピンだとか。埋め込んでおっ立ててる話してんじゃないよってのは固定端だ。
仏教ってね。
原始仏教に支点を置けば
新興宗教なんて存在しないことになるんだがな
仏教のいいところは多様性。
無数の宗派があって収集がつかないところ。
そもそも釈迦の法話も自分語りだし。
まして原始仏教いがいなんて胡散臭くて語る気にもならねーよ。
でも釈迦の境地を再現しようと努力している事は認めるけど。
道元なんていいせん行ってると思うよ。
>>473 空ってのは、そういう「何もない」ってことじゃなく、諸法が縁起するものであることを一言で表したものだから。
諸法が空であることに気がついていないってことが、執着があるってことだから。
執着を捨てないと気付けない(実感・納得できない)わけです。
嫉妬や怒り、自慢が、つねったら痛いという痛みと同列かどうかが気になる。
観念自体は空だが、空的には存在しているわけで、
その空的な観念から嫉妬や怒りが生み出されるのかどうか、
痛みと同じ身体的な反応といえるのかどうか。
たとえば、おいしそうなステーキを想像したときによだれが出るように、
自分と他人を想像したときに嫉妬心が湧き出る。
嫉妬心は認め、嫉妬心を空とみなすのか
嫉妬心そのものが自分や他人を空という存在としてみてないから生まれる感情とするのか
489 :
考える名無しさん:2010/10/06(水) 12:05:54 0
>>480 悟る意味が違う、仏教では悟ることを観念を捨てるなどと言わない。
観念を捨てるのは三昧で可能。
仏教では三昧は悟りではない。
だから、上で言ったように仏教を論じるなら、経論に基づいて話さないと無理。
>>486 釈尊はいいのブッダだから。
ブッダの教えだからね。
>>487 そういわれてもね。仏教にはもっと適切な表現も道もあるわけで。
490 :
考える名無しさん:2010/10/06(水) 12:30:21 O
個人主義的な発想だと合理的ではないな
個人の悟りを目標とするならさらに上にも目標があるはず
要するに関連する人間へ影響
最終的には人類の意識変化とかな
合理的とは「バランス」だな
仏教はそもそもバランスで世の中は成り立ってるとの考えだろう
>>489 473に対しては十分でしょ?
「もともと何もない」とか、「捨てる必要もない」ということじゃないってことで。
それ以上何か要る?
>>489 観念がないというか、自我が動かなくなっている時が三昧だね。だから観念も消えてはいる。
その後それを認識しているものまで落とせたら悟りになるかも知れないと。
493 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/10/06(水) 12:49:05 0
>>492さん
横から失礼します。
消えた観念を認識しているとはどういうことでしょう?
三昧まで行くと世界を作っているのが自分だったことが分かるよ。夢と同じだったと分かる。
一応半端に悟った感じではあるから。でもまだそれを見て体験している者がいるので世界は
作られ続ける。寝ぼけてるのと同じだ。そのままだと二度寝になってまた夢が真実に感じられる
世界に逆戻り。
>>493 三昧は中途半端な状態だからまだ認識する者が存在している。残りカスかな。
三昧と悟りの違いって何?
497 :
考える名無しさん:2010/10/06(水) 13:50:24 0
>>492 それじゃ全然仏教じゃないつの
それじゃよくでヒンドゥーだよ。
498 :
考える名無しさん:2010/10/06(水) 13:52:12 0
>>496 縁起・無我・空・仮設を経ているかいないかがメルクマール
アートマンとか神とか実在とか掴んでるのが三昧
>>498 観念がなくたった状態が三昧なのに
アートマンとか神という観念を掴んでいるというのは矛盾してませんか?
500 :
考える名無しさん:2010/10/06(水) 14:05:20 0
>>499 高度な三昧は観念などが消滅するけど、
その三昧から戻った状態で、言語活動が生まれ、
三昧の状態について、いろいろ名づけたり体系づけるわけだ。
それがブラフマンとの合一とか、神とのウニオミスティカとか。
それらを仏教は妄想と呼ぶ。
>>500 無理矢理言葉に変えて説明する場合、その説明相手の観念に合わせないと通じないから仕方がないね。
神がいると信じる者には神のようなものだと言わないと通じない。
503 :
考える名無しさん:2010/10/06(水) 14:25:50 0
>>500 三昧から体系づけるのに必要なのは
論理的思考ですか?
505 :
考える名無しさん:2010/10/06(水) 14:29:10 0
>>502 いや〜、それはつらいは。
要するに縁起が分かってないだけだ。
縁起って深いぜ、そして縁起を説けるのはブッダだけと仏教は言う。
実際、世界の思想はほとんど大雑把に明らかになっているが、
仏教以外に縁起・無我・空・仮設のような見解を表したものはいない。
他は何か基盤・本質・アルケー・アートマンを想定してしまう。
>>497 説明方法が仏教的ではないということか? しかし現象は同じだ。宗教は関係ない。
ただの自然現象だからな。
507 :
考える名無しさん:2010/10/06(水) 14:33:12 0
>>504 仏教は三昧体験を悟りとは捉えない。
そこから縁起観で無我・空を悟る。
体系付けるのに必要なのは妄想力と其れまでの言語習慣でしょう。
素朴なものは神話と言われ、論理的に洗練されたものは神学とか哲学と言われますが、
どれも妄想に他ならない。
その根拠は
>>129-131
>>505 仏教は悟りに導くためにそのような方便を使うというだけのことだ。他の宗教は他の方便を使う。
違いはそれだけだ。筏の組み方が違うだけだよ。彼岸まで渡り切ったら捨てても良い。
>>467 それだけだと三世実有に行きかねないだろ
縁起を理解できたら、全ては関係性で成り立ってる
したがって、それ自体で存在するようなアートマンと呼ばれるものは
ない、ぜんぶ空だなぁって実感できるわけですか。
理解するには、どうしても実践が必要って言うのなら
おそらく、このスレにいる大多数の人は実践してないだろうから
ずっと理解できないことになるのかな。
>>510 言葉になっていて概念は掴めるから自我にも分かるでしょう。
というか言葉に変えた説明は全て自我に理解させるための方便です。
だから真実ではありません。本当のことは自分で体感するまでわかりません。
料理番組みたいなもんですかね。いくらうまそうな顔して「うまい」と言われても
味も臭いも分からないんです。
512 :
考える名無しさん:2010/10/06(水) 15:59:09 0
>>508 釈尊は他宗派では悟れないと明確に示したよ。
それが『梵網経』。
それ以来、仏教では一貫して他宗派では悟れないと述べる。
なぜなら、三昧まではあるけど、縁起・無我・空・仮設がないから。
>>510 縁起を通して無我・空を体感するには三昧が必要、
ただの論理的理解では一切皆空などと理解できません。
>>510 けっこう皆さん影で実践してますよ。
念仏・題目・瞑想・坐禅・阿字観etc.....
514 :
考える名無しさん:2010/10/06(水) 17:34:52 0
>>512 それは釈尊の時代に釈尊が出会った宗教で悟りを表した宗教はなかったって意味だよ。
釈尊自体が自分の前にも悟った者たちがいたって言ってるのに。
仏教でないと悟れないということでなく、仏教で説いている内容がないと悟れないってだけ。
仏教でなかろうとその宗派に縁起・無我・空・仮設の内容があればいいだけでしょ。
縁起・無我・空・仮設は仏教にしかありえないと??
仏教のないところにも仏教以前も誰も知りえないものだと?
仏教がなくなるとこの世の誰も知りえないものだとでも?
なんか仏教という実体があると思ってないかな。
空は少しわかったけど、空もまた空ということがまだわかってない方がいろいろ書いている
ように思います。
空が無くなるまで修行するといいかもしれません。
わっ、そうなんですか。
実践されてるかた、意外に多いみたいですね。
自分みたいに、新書を数冊読んだだけの
にわか仏教通が大半だと思ってました。
失礼しました。
>>512 > 釈尊は他宗派では悟れないと明確に示したよ。
かといって本当にそうかどうかはそのままでは確認できない。
(あなたが全く疑わず釈迦の言うことを鵜呑みにする「信者」であれば別だが、
しかし釈迦は「全て疑え」とは言ってなかったか?)。
ということで、是非ともあなたが悟って確認してくれ。
517 :
考える名無しさん:2010/10/06(水) 20:02:21 0
>>514 >それは釈尊の時代に釈尊が出会った宗教で悟りを表した宗教はなかったって意味だよ。
そのタイム・スパンは少なくとも有史以来現在に至るまでそうだと全ての伝承が一致して伝えてるぞ。
>釈尊自体が自分の前にも悟った者たちがいたって言ってるのに。
少なくとも有史以前、恐らくこの宇宙ができる前のことを言っていると思われる。
>仏教でないと悟れないということでなく、仏教で説いている内容がないと悟れないってだけ。
>仏教でなかろうとその宗派に縁起・無我・空・仮設の内容があればいいだけでしょ。
縁起・無我・空・仮設の内容は、ブッダのみしか説けないと伝えるのが仏教。
>縁起・無我・空・仮設は仏教にしかありえないと??
何か反証があったら教えて欲しいよ。オイラは知らないな。
>仏教のないところにも仏教以前も誰も知りえないものだと?
>仏教がなくなるとこの世の誰も知りえないものだとでも?
そう仏教は伝えるね。
>なんか仏教という実体があると思ってないかな。
実体ではないが、そういう伝承なんだ。
そしてオイラが知る限り歴史もその伝承に一致している。
>空は少しわかったけど、空もまた空ということがまだわかってない方がいろいろ書いているように思います。
いやいや、アナタが仏教じゃないのに仏教と言ってるだけでしょう。
518 :
考える名無しさん:2010/10/06(水) 20:10:08 0
>>516 >(あなたが全く疑わず釈迦の言うことを鵜呑みにする「信者」であれば別だが、
>しかし釈迦は「全て疑え」とは言ってなかったか?)。
そりゃ、誤解だろ。
『タットヴァサングラハ』3588や『カーラーマ・スッタ』あたりのこといっているんだろうが、
三宝や師は一度吟味することはあっても、その後疑ってはならない。
そういう意味で、アナタは仏教じゃなくて何か自分の宗教を語ってるだけだから、
これから仏教と言って語るのは止めた方がいいと忠告しとくよ。
間違って語るのは大きな罪だからね。
>>517-518 それはおまえの解釈したオリジナル仏教。釈迦本人でもないのに偉そうに講釈するな
おまえはただトレースしてるだけ。トレースならトレーシングペーパーにでも書いとけ
このスレが求めてんのは俺様宗教じゃないわ。
>>518 それってコーランや新約聖書を信じてるのと同じじゃないか。
ドグマに陥ってると自覚して下さい。
釈迦は経典ができる前に多くの人々を彼岸に渡してたことを思い出して下さいよ。
まして、釈迦の言説がそのまま経典になってるなどと信じたら足をひっぱられますぞ。
ゴータマの生きた時代の歴史とか、
バラモン教、外道の教説とか
じゃあそれ読んで実践して悟ってくれ。
525 :
考える名無しさん:2010/10/06(水) 21:04:49 0
>>519-520 オイラは伝統に連なってるし行もしてるぞ。
勝手に自分の体験を語って経典とも合わないのに、それが仏教というよりは、
少なくともマシだ。
釈尊の説法が経典になったんだけどな。
しかし、どうしようもないな。経典という基準がなかったら勝手にこれが仏教とかいうことになると思わないのだろうか?
>>521 少なくとも基準になるよね。
伝統的には経証といわれて、体験と伝承経典が基準となってきたわけで。
526 :
考える名無しさん:2010/10/06(水) 21:19:08 0
>>519 こういった怒りも露な凡人は、なんで自覚がないのだろうか?
なんも分かってないのに。
>>520 こういったなまじ体験がある人が、誤解するのはまだ分かる。
体験を信じてるから。それって「コーランや新約聖書を信じてるのと同じ」なんだが。
体験とか知覚がどれほど信用できるか、あるいはその体験や知覚がどの程度のものなのか、どうして分かるのだろうか?
>>525 > 勝手に自分の体験を語って経典とも合わないのに、
仏教の場合そうやって経典は増えていったんだな。
合わないもんは経典にして追加だ。w
>>526 > 体験とか知覚がどれほど信用できるか、あるいはその体験や知覚がどの程度のものなのか、どうして分かるのだろうか?
それ以前に人間は体験するまで分からないってのがある。
文字で書いてあるのを読むだけでは知識が増すだけで意味がない。
うっかりすれば「あなた方よりよく知っている私」という分別や比較の観念が大きくなってしまい知識自慢に繋がる。
当然それは悟りを遠ざけることにしかならないだろう。
もちろん体験によってもこれは起こりうる。「あなた方よりも特別な体験をした私」なら同じことだ。
そんなありもしないものの観念が大きくなっても意味はない。
529 :
考える名無しさん:2010/10/06(水) 22:00:36 0
>>527 まったく違う。テルマとか大乗経典は著作されたのではない。
そんなもの成就者が信じるわけがない。神通あるんだよ。ちょっとした人でも。
>>528 もちろん、それはある。
経典の読み、解釈がむちゃくちゃなことも多いし。
しかし、体験だけでは話しにならないでしょう。
体験だけでは、要するに「オレの話信じる?」ってことになるでしょ。
これはいいよね。
勉強になるなあこのスレ
531 :
考える名無しさん:2010/10/07(木) 00:30:36 0
>>529 > そんなもの成就者が信じるわけがない。
信じる?
> 神通あるんだよ。ちょっとした人でも。
神通?
あなた、変なこと信じているようだねえ。
532 :
考える名無しさん:2010/10/07(木) 01:21:35 0
経典がわかってるならいいけどさ。
パッと光明がさしたら、それまで意味不明だったのが
読み解けるようになるし。
みなさん頑張って下さい。
寄り道して途中をグチャグチャ議論してるから、
そもそもの最終目的の真正の解脱すら何だかわからない・・・。
「体験しなければ判らない。」
「自分体験で語るな。」
どっちだよw
534 :
考える名無しさん:2010/10/07(木) 04:31:09 0
>>532 光明体験があると分かるというのも分かるが、
真正の解脱であるというのが勘違いでないという保証は何もない。
麻原やヒンドゥーもそう思い込んでいるが仏教は、それを認めない。
要するにアナタがずっと言っているのは「オレの体験は正しい」でしかない。
>>533 体験だけで語るなとオイラはいいたい。
だから、師が必要だし、ここでは経典がないと話にならない。
>>534 しつこい。そしてそれは君自身にも当てはまる。
師匠がどうとかは哲板じゃない。宗教板でやってくれ。
536 :
考える名無しさん:2010/10/07(木) 05:29:04 0
>>535 怒ったね。境地もたいしたことないね。
オイラは経典で確認することを提唱している。
経典は少なくとも他人でもある程度確認可能なものだ。
仏教じゃない、オレ教なんだから、よそでやるべきはアナタでしょ。(^^)
ちょっと脱線するけど、
「神」とかって数学に例えれば「0」や「∞」なわけで、方程式成り立たなくなっちゃうでしょ。
「体験しなきゃわからない」とか「経典が全てだ」とか言うのも同じ事だと思うよ。発散しすぎ。
538 :
考える名無しさん:2010/10/07(木) 05:42:06 0
>>537 >「神」とかって数学に例えれば「0」や「∞」なわけで、方程式成り立たなくなっちゃうでしょ。
ここが重要。これを仏教では自性という。本質・アルケーのような本質主義の存在論的前提と言えば分かるだろうか?
仏教ではそんなものない無我・空だという、そして教えを説く場合は、
諸自性は言語習慣に従って仮設される。
それで神やアートマン、原子などが実在するというのは妄想だとされる。
実在論や本質主義に立つと、ライップニッツの問いから、
なんらかの基体・アルケーが要請される。
それこそが根本的誤認、無明、有身見、我執と仏教は言う。
これが世の実在論・本質主義と仏教の縁起・無我・空・仮設を大きく分かつところ。
>>536 反応したね。君の境地は「人間」。経典で確認なんてオウム真理教がやってたことと同じ。
だから上のほうでトレースって言われるんだよ。
君は悟ってなどいない。その気になってるだけのマインドコントロール
経典をよりどころにしなさいって経典がある?はったりも大概にしろっての。
540 :
考える名無しさん:2010/10/07(木) 06:02:39 0
>>538 八万四千の法門有りの仏教にしては
ほんの少しのお経の内容に拘りすぎじゃないか?
守備範囲狭すぎ。
引き出しの少なさってことか。
>>538 2ちゃんの01信号が作り出す縁も考察もできないで悟りなんてないから。
543 :
考える名無しさん:2010/10/07(木) 06:14:00 0
>>539 オイラは悟ってないよ。もちろん。
アナタ悟ってるなら、完全な神通があるはずなんだから、
今、ちょっとオイラの前にきてくれないか?
そんなこともできないなら、まったく悟ってないと自覚できるはず。
トレースと言ったのもオイラね。確認といっても完全なものではないことは言うまでもないが。
少なくとも明らかにおかしいアナタみたいなものは排除できる。
>>540 いや、経典は結構読んだし、教えも結構聞いたと思う。
しかしながら、仏教経典で縁起・無我・空・仮設から逸脱しているものはないと思うよ。
論書にはあるのは知っている。それは方便か誤解のいずれかだろう。
八万四千の法門は、門なので入り口は様々だけど、
縁起・無我・空・仮設を通過しない教えはないと思うよ。
あるなら挙げてくれ。典拠、頁数も一緒に。
544 :
考える名無しさん:2010/10/07(木) 06:15:13 0
>>542 それは、ただの縁起でしょ。
何か不都合でも?
>>543 >>519だったよな?流れ的にこれは君への批判レスであって君のレスじゃないだろ?
で、神通力とか恥ずかしいこと言ってちゃダメだよ。
なんかメッキが剥がれてきたね。
546 :
考える名無しさん:2010/10/07(木) 06:29:04 0
>>545 唯の妄想家か、何も分かってないんだから。
自覚するように。
だったら、議論は終了だ。まったく妄想野郎ばっかだ。
トレースはこれだ。
>>476
547 :
考える名無しさん:2010/10/07(木) 06:29:20 0
>>543 >あるなら挙げてくれ。典拠、頁数も一緒に。
誰も無いとは一言も言ってないんだが?
読むことしか知らないからそういうレスになるんだろうな。
読んで実践したらこうだったなんて
>>539のオウムと同じ修行法だよな?
これテレビで麻原や上裕が力説してたから有名。
冷静になったほうがいいんじゃないか?
>>546 自己暗示かけて経典を楯に妄想に逃げてるのは君だよ。
君のしていることは
>>539じゃないけどトレーシングでしょ?
でもトレースした時点で既にオリジナルじゃないんだ。君が作ったオリジナルなんだ。
気付こうよ。危ない部類の宗教、ていうかカルトだね。
549 :
考える名無しさん:2010/10/07(木) 06:38:07 0
>>547 オウムは縁起・無我・空・仮設が分かってないし、
三宝に帰依せず師がいなかったから、ああなった。
オウムに近いのは師が必要ないとか、
勝手に悟ってるとか言ってる君とかね。
なんで分かんないかな?
まあ、オイラ的には、もう終了ですな。
550 :
考える名無しさん:2010/10/07(木) 06:39:56 0
しかし、オレオレ悟りは我が強い。
551 :
考える名無しさん:2010/10/07(木) 06:43:07 0
>>549 おーいちゃんと読んでるか?
誰が、師匠は必要ないとか悟ってるとかいつ言った?
俺は
>>540だぞ?
>>549 君は縁起・無我・空・仮設を呪文のように唱え続け、理解したつもりになってるだけ。
終了なら宗教板かどっかでやってくださいな。
553 :
考える名無しさん:2010/10/07(木) 08:13:39 0
仏教が流行する
うつ病が増える
自殺者が増える
村八 世襲 コネ
科学の発達が遅れる
個人でも戦う人をくじく
つまり不幸な人 死ぬ人が増える→宗教が儲かる
「あなた方とは違って経典を読んで修行している特別な私」という妄想観念が誰かの体のなかで
蠢いているようですなあ。まずはそんな者がどこにも居ないことを見抜くことが必要でしょう。
海の波のように一瞬特定の形になることは有りうる。だからそんな者が現れることは有りうる。
しかし固定的なものではなく移り変わっていってしまうので次の瞬間には消えているかもしれない。
「自分」というものもまた同じ。記憶があるからつい同じものが継続しているように感じてしまう。
しかし継続するものなど一つもないのです。人間ならば心臓が一拍しただけで、あるいは一呼吸した
だけでもう違うものなのです。ゆっくり変化しているように見えるのは細部が見えてないからです。
餅が喉に詰まれば誰でも数分で死ぬのです。変化は遅くありません。
556 :
考える名無しさん:2010/10/07(木) 09:29:34 0
っていうか、「仏教哲学」って何?
Buddhism Philosophy って、既に仏教じゃないと思うんやで。
ここは仏教を仏教徒が語りたいのか、仏教を哲学的に解釈したいのか?
まあ、前者だと板違いなんだけど。
後者なら、仏教に哲学的に切り込むくらいできないとしょぼいでしょ。
少なくとも、哲学が学問である以上、体験原理主義はだめでしょ(笑
彼は知識を詰め込み過ぎてしまったのです。
スマナサーラ長老みたいなもんです。
知識が邪魔して中々悟れんのです。
人間は苦労して何かを得てしまうと「苦労した特別な私」が記憶に残ってしまって中々手放せないんです。
そんな主体となる「私」は居ないのに。
560 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/10/07(木) 13:25:44 0
彼(自ら真言宗の僧侶と仰ってましたが、書き込みを読んでみると多少疑問なので)
彼の縁起、空などについての論は誤りはないと思います。
ただ、疑問と思える部分がいくつかありまして
中論等の理論展開による仏教の根本思想を展開して
いざ、議論が進みはじめると
例えば「○○しないと悟りではない」「○○は仏教ではない」という流れです。
最終的には、師匠(彼の場合は阿闍梨でしょうか)いないと、と否定される。
これの繰り返しに何か哲学としての意味があるのかと。
顕教の教えに密教を持ち出して議論を暈しているのではないか?
言葉のマジックでは?、と。
奇しくも
>>559さんが仰られているように知識の詰め込みすぎ
知るところに依る障り、所謂「所知障」というものです。
東洋教学スレの初めのほうで彼はこれに真っ向から反論されましたので。
その他、彼が真言宗で得度し灌頂まで授かったとなると
当然それをベースにしたお話も出るのではないか?と思いましたが
彼はサマヤ(三昧耶戒の事だと思います)に触れるからとの理由で
話されることはありませんが、少なくとも日本の金剛乗、所謂密教の教相は
広く一般にも知られています。それはここで彼が論じているようなものではありません。
561 :
考える名無しさん:2010/10/07(木) 14:11:42 0
とにかくIDが出ないのでは議論にならない。
おまけに責任もって発言するというのと、我の問題と混同するからコテもつけない。
つけないのに、自分の意見にこだわる。
だめだよまず話にならない。
そういえばIDなしで誰が誰だか分からないし何人で議論しているかも分からないのに
妄想野郎ばかりだと言われてますね。一体何人と話しているつもりになっていたんでしょうか。
しかし何人であると思ってもそれは確認不能なので全て妄想です。
そして究極的には自分と自分以外の何者かが存在するという主観的感覚が妄想です。
563 :
考える名無しさん:2010/10/07(木) 16:18:55 0
十牛図7の忘牛存人で悟りだと思うから
オウムみたいになっちゃうんだろうな。
たしか悟りは悟ったことも完全に忘れ
去らなければならないのではなかった
かな。
最後には仏教を実践しているという
意識も滅尽される。ここまでになれば
仏教だろうが景教だろうがオレ教だろ
うがどうでもよくなる。
>>563 ていうか、三昧まですれば宗教が関係ないことは分かるとおもうんだが。こりゃ表現が違うだけだなと。
言葉を作るのがうまい人ならイエスみたいに既存の宗教の抜けている分の埋め合わせや改変をして
時代に合った形に修正させることもできると思うよ。
566 :
考える名無しさん:2010/10/07(木) 20:27:22 0
>>551 おお、すまん。すまん。オレオレ悟りと勘違いした。
じゃ、何が問題なのだ?
ちなみに終了はオレオレ悟りとの対話が終了ね
妄想野郎ってのは悟ってるとか勝手にいってる人ね
567 :
考える名無しさん:2010/10/07(木) 20:36:19 0
>>554 先ず、三昧体験・光明体験など精神集中や変性意識を悟りと勘違いしたこと。
師がいなかったので、上の勘違いや様々な誤解、麻原の煩悩も指摘認識できなかった。
縁起・無我・空・仮設が分からずアートマン・シヴァなどの実在論だったこと。
密教を実践しながらサマヤを壊し続けたこと。
この最後によって、狂気に至り、麻原がもともと持っていたコンプレックスと結びついて破壊衝動となったと思われます。
つまり、一番の原因は師がいなかったこと。
彼はヒンドゥーや仏教の師から教えは受けていますが、
それをテクニックやノウハウのように捉えているのので、
それは師になりません。
師というのは誤解を指摘してくれる方のことで、
師がいれば、上のようなことは起きなかったのは確実です。
568 :
考える名無しさん:2010/10/07(木) 20:50:06 0
>>558 そう言ってもいいけど、その意味分かってる?
言葉と事物がそれぞれ成立していて、「非如非異」に結びつけられるという意味じゃないよ?
業と縁が結びついて縁起して言語習慣(言葉)によって
ある事物として仮設されるだけってことだよ。
だから、言葉も事物も本当は中身空っぽだけど、
ある言葉によってある事物として仮設されるから「非如非異」って意味でしょ。
これは『中論』の「不一不異」や『般若心経』の「色即是空空即是色」に通じる。
つまり、色として縁起したものは中身空っぽだけど、色と仮設されるという意味。
つまり、色という言葉で仮設されて、色という事物と縁起するということ。
そして、それは一瞬である。持続して知覚するのはそれが連続しているだけのこと。
569 :
考える名無しさん:2010/10/07(木) 20:57:21 0
>>560 >最終的には、師匠(彼の場合は阿闍梨でしょうか)いないと、と否定される。
それはオレオレ悟りの人が、経典を信用しないから。
オレオレ悟りは師匠がいないから、伝統でないから、三宝に帰依しないから、
仏教ではないといってるだけ。
彼らに経論や哲学を説いても、体験しなくては分からないと言われるだけだから。
>顕教の教えに密教を持ち出して議論を暈しているのではないか?
密教は基本的に説いてませんが、密教も縁起・無我・空・仮設で通じます。
『大日経疏』や『十住心論』の第九・十住心は正にそれ。
>知るところに依る障り、所謂「所知障」というものです。
所知障って知識の量の障害じゃないでしょ。それは酷すぎ。
>話されることはありませんが、少なくとも日本の金剛乗、所謂密教の教相は
>広く一般にも知られています。それはここで彼が論じているようなものではありません。
それは論じてる人がサマヤを捨ててるだけのこと。
相変わらずへらず口叩くな
なんの説得力もないんだよ
571 :
考える名無しさん:2010/10/07(木) 20:59:56 0
>>563 >>565 ただの誤解だよ
逆に君らと同じ方向の考え方で、オウムはいろんな宗教をミックスしたわけだ。
まさに「時代に合った形」と言っていたと記憶する。
建築物関係はミックスしたとは言えなかったな
>>567 > 師というのは誤解を指摘してくれる方のことで、
だからみんなして君の誤解を解こうとしているわけなんだが・・・。
師は体はないぞ。
574 :
考える名無しさん:2010/10/07(木) 22:02:45 0
>>573 はいはい、自明過ぎて限定しなかったが、
師というのは、仏・法・僧の三宝の僧、
つまり、伝統をうけた聖者であること、
本人が師と認めていて始めて師と言われる。
オイラは逆に君たちの誤解を指摘してるわけだ。
まあ、信じなければ、それも結構。
575 :
考える名無しさん:2010/10/07(木) 22:19:30 0
最終目的か。苦からの解脱かな。迷える魂の救済。
具体的にそれをどう実現するかは各自自分で考えなさいってことかな。
>>574 じゃあとにかくあなたがその伝統をうけた聖者を師として素早く悟ってくれ。
悟れば何が起きていたかは分かる。いや悟る前にわかるかも知れない。
今のままならずっと同じ妄想の中で堂々巡りになるだけだ。
実は、悟っている人は生まれた時から悟っているし、
今悟っていない人は一生悟れない、
という事に気付けてる人はどれくらいいるのだろう。
うはwww
(一部を除き)仏教全否定キタコレwwwww
579 :
考える名無しさん:2010/10/07(木) 23:03:16 0
>>577 正確に言うと悟った「人」というのは居ない。個我がある(個人というものがある)と信じる者のために
便宜上そういう人が居るという説明になっているだけ。悟るということは全てのものが関係性のなかで
生滅を繰り返しているだけということが分かった、つまり自分を含めて個人などというものは最初から
なかったとわかってしまったということなので悟りを体験する個人も存在しない。だからある意味誰も
悟ることはないと言える。最初から誰も居ないから。物理的な体はあるとしても、人格の核になる部分は
たまねぎのように何もないんだ。芯は入っていない。そして記憶によって変動する。
580 :
考える名無しさん:2010/10/08(金) 02:18:39 0
現代に悟りが必要なほど苦しんでる人っているのか?
悟りは宗教を超えて誰もが目指す道とかきいたことあるけど
幸せだったら悟りは必要なくない?
581 :
考える名無しさん:2010/10/08(金) 02:41:43 0
>>580 ずっと幸せなままの人が居るかな?
それと、悟りは目指すというよりは、目指さざるを得なくなるもの、
あるいは気付いたら目指していたと後で分かるようなものだ。
582 :
考える名無しさん:2010/10/08(金) 08:21:36 0
人の幸福なんてはかれない
悟りなんてない
仏教の目的は金
583 :
考える名無しさん:2010/10/08(金) 08:46:51 0
>>576-577 これがオレオレ悟り、ただの妄想。よくて三昧ぐらいのもん。
>>579 まあ、近いんだけど対話すると仏教じゃない人。
なに、人じゃない。仮設では人なんだが。
そんなこと言ったら、言葉が使えないは。
>>580 気がつかない人は目指さなくてもいいよ。
幸せだと思ってるのはただ鈍感なだけ。
>>581 ここらへん仏教でも哲学でもないのに。
>>582 可哀想に。その言葉、軽く言ってるけど重いぞ。
584 :
考える名無しさん:2010/10/08(金) 09:01:19 0
人の主観
幸福について
規制のものさしで計ることはできない
宗教の時代は終わった
因習 老害 既得権
はもういい
>>583 うわー…いまだに悟りとか信じてる人いたんだ。
586 :
考える名無しさん:2010/10/08(金) 10:06:10 0
>>585 当然、オイラはいろいろ聖者をみてるからね。
因みにあのレッド・チャイナで強制収容所だか刑務所だかに入れられても、
その圧倒的な存在感に中国人の看守たしも敬服して自由に行動していた方が、
ちょっと前までいた。
そして1960年以降、チベットで仏教の中心地はその刑務所になった。
現在でもその方の弟子たちが、全世界で活躍している。
587 :
考える名無しさん:2010/10/08(金) 10:18:05 0
誰か「悟後の修行」について適切に語ってください。
589 :
考える名無しさん:2010/10/08(金) 10:45:04 0
>>589 >もしかして空性とか無我を三昧中に体感した後の話かな?
はい。自分が消えたら外も消えて。実際消えるわけではありませんでしたが。
これで終わりですかね。
慈悲は観念ですか?
592 :
考える名無しさん:2010/10/08(金) 10:53:05 0
>>590 ああ、それは三昧です。
そこで先ず縁起観などをして無我・空を悟ります。
その後、三昧から出た後でもその無我・空の見方で、
現れを幻と捉える修行となります。
ちゃんとした師匠についた方がいいと思います。
593 :
考える名無しさん:2010/10/08(金) 10:58:16 0
>>591 違います。例えば、生き物が殺される時や、非常に可哀想な状況の人を観たり聞いたりした時、胸が熱くならないでしょうか。
その熱くなる感覚が慈悲です。
ただし、普通の状態では慈悲がでないために、観念でいろいろ本来持っている慈悲を目覚めさせようとするわけです。
代表的な教えでは四無量心というものがあり、テーラワーダでも大乗でも行われていますが、私は大乗のロジョンと呼ばれる方法が一番勝れていると思います。
そしてそれに勝れた先生がガルチェン・リンポチェという方で、
この方は上に挙げたケンポ・ムンセルの弟子です。
594 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/10/08(金) 11:00:59 0
>>569さん
ここに「これで悟った」とか「私は悟った」などと言われている方は居られないようですが?
また密教の僧侶が三昧耶戒を捨てることはあり得ないと思います。
事相面を説明しないだけでは?
結論として貴方が仰りたいのは師匠云々以前に出家せよ、ということですか?
ならばこのスレの趣きとは違う気がしますが。
596 :
考える名無しさん:2010/10/08(金) 11:16:40 0
>>594 >ここに「これで悟った」とか「私は悟った」などと言われている方は居られないようですが?
何人かいると思いますよ。
>また密教の僧侶が三昧耶戒を捨てることはあり得ないと思います。
サマヤというのは、伝授していただいた師匠や伝承系譜の師匠との信頼関係というような意味で、
その伝承内容を公にするということは密教では特別な聖者を除いてありえません。
現代日本の密教学者は、伝承内容をそのまま伝えるというようなサマヤの態度ではなく、
開かれた文献資料を現代科学の普遍妥当性を持って批判的に取り扱っているので、
その時点から延々とサマヤを壊し続けているのです。
>事相面を説明しないだけでは?
事相面に限定したのは文献学者のただのいい訳で、現在は事相も研究されているでしょう。
>結論として貴方が仰りたいのは師匠云々以前に出家せよ、ということですか?
全くそういうことではありません。出家せよなどと言ったことはありません。
人に対していったことはありません。
仏教をやるなら師匠につかないと無理だといっているだけです。
それは勝手に自分の体験や思惟を仏教と主張する人がいたり、
修行法が知りたいという人に対して言っているだけのことです。
純粋に仏教の哲学・思想を論じようという人に対して、
そのように言ったことはないつもりです。
そもそも本スレの趣旨に添って書いている人はそんなにいないでしょう。
私はそれぞれの書き込みに合わせて書いているだけです。
597 :
考える名無しさん:2010/10/08(金) 11:50:03 O
599 :
考える名無しさん:2010/10/08(金) 15:21:39 0
最近多い「気づき」も悟りの一種だな。
>>596 「仏教をやるなら師匠につかないと無理だといっているだけです。」
という時点で三昧にも程遠いという事には気付けてる?
601 :
考える名無しさん:2010/10/08(金) 16:45:09 0
>>600 分かってないな〜
三昧に入ったぐらいで師が要らないと思ったら大間違いだ。
寧ろ本当に師が必要なのは、ある程度行や体験、見解が進んでから、
その体験が大した境地じゃないのに悟りと勘違いしたり、
いろいろ妄想したりするからね。
602 :
考える名無しさん:2010/10/08(金) 17:17:56 0
哲板住人をなめてはいけない。
ここは宗教板ではない。
彼らは体験や見解なんかより
唯一の真理を得なければ決して満足しない。
とゆうか、ここを「仏教」スレだと勘違いしてる奴がいるんだよね。
というか、仏教を体験で占有しようとする性根がすでに非仏教的。
空飛ぶスパゲッティ・モンスター教的に、
仏教ガリガリ君派とか作って
「ガリガリ君100本を30分間で食べられなければ悟れない」
という教義を布教してみせないと分からないのかね。
605 :
考える名無しさん:2010/10/08(金) 17:55:21 P
仏教という言葉やあらゆる言葉、概念というものに執着してるのに気づいてないね
言葉や言葉の指す内容が存在してると思ってる 内に持ってしまっている
目を外に向けている限り、いくらどのように言われてもわからないだろうね
師に言われてもわからないだろうね
その根拠は?
1>>
エッチなんて「悟り」と何も関係ない。これ本当。
悟りと三昧を区別したがる奴なんなの。うざい
611 :
考える名無しさん:2010/10/08(金) 20:04:50 P
根拠を根拠だとみなすのは誰なんだろうね
断定を断定とみなすのは誰なんだろうね
誰がそれを生じさせ、それにこだわるんだろうね
仏だよ。
613 :
考える名無しさん:2010/10/08(金) 20:23:19 0
>>611 これがオレオレ悟り、つまり、自分の体験や見解以外は認めない。
それで哲板で、何を話せというのか?
オイラにはオレ様を信じろと繰り返しているようにしか見えない。
>>601 「師」という自分以外の(そして自分と同じような体を持った)何者かが存在するという感覚が
妄想なわけだが。
605>>
その通り。
他の人に言っとくけど、悟るには自分自身の命が「死」に近づかなければならない。
それを通らないのは、生臭坊主だ。
616 :
考える名無しさん:2010/10/08(金) 20:35:35 0
>>615 「命」と思い込んでいるものの死だな。
正確には、そんなものは最初からなかったと知ることだ。
>>617 感動した。
いわば、「猪木」と思い込んでいるものの死が
猪木スピリットの誕生だったことにも通じる。
619 :
考える名無しさん:2010/10/08(金) 21:44:06 O
元気ですかー!
620 :
考える名無しさん:2010/10/08(金) 21:52:22 0
妄想ですか〜
無いって断定も妄想ですから
621 :
考える名無しさん:2010/10/08(金) 22:16:27 O
煩悩ですかー!
622 :
考える名無しさん:2010/10/08(金) 23:32:34 0
1・2・3・陀ー!
623 :
考える名無しさん:2010/10/09(土) 00:15:19 0
キリスト教を弾圧し
体制にシッポを振っても守ってきた
お布施利権を簡単に手放してたまるか
>>623 日本の大乗仏教は全部潰れて良い。というかむしろ徹底的に弾圧して潰しまくった方が良いだろう。
そうすれば本物が残る。
625 :
考える名無しさん:2010/10/09(土) 00:47:32 0
つうか、釈迦の生きた時代の教えを現代にもってきたのが間違いとゆうきがする。
悟りを得るよりも幸福追及手段が増えすぎた。明らかに苦は少なくなったし。
働かなくてもそこそこ食えるような国民が少なくないような国で仏教ゆわれてもね。
626 :
考える名無しさん:2010/10/09(土) 00:53:15 0
仏教やキリスト教を信じようと、何でもいいけど
日本の国教は、天皇を中心とする国家神道であり
あなたがたは、大日本帝国臣民(信者)であると
決定されている。
そういう意味でアイデンティティとしては臣民で
あり、宗教はアイデンティティとしては軽薄になる
という事情が、密度の濃い宗教の発展を期待できる
のである。
627 :
考える名無しさん:2010/10/09(土) 01:32:25 0
>>625 苦が精神的なことであることがよりはっきり分かって実に分かり易いと思うのだが。
これが貧乏な国だったら苦が身体的なことだけだと思い込まれる率が高いだろう。
>>626 日本に仏教を広めたのは、聖徳太子。
628 :
やみつき:2010/10/09(土) 04:21:34 O
釈迦がいいたかったのは自然に対応した
生き方が苦を遠ざける生き方だということぞなもし
629 :
考える名無しさん:2010/10/09(土) 04:30:20 0
630 :
にゃ:2010/10/09(土) 05:00:49 0
あまり知られていないが、釈迦が私の説くのは、哲学ではない、と言ったようで仏教哲学とは、釈迦とは離れてしまう。
631 :
やみつき:2010/10/09(土) 05:25:47 O
釈迦が言ったのは唯心論ではないと思います
唯識も主に後付けされた論が日本に出回って
ますから本当は華の大芽を精神の芽生えに例えたのだと思います
唯物論にある意味では掛かっている
632 :
考える名無しさん:2010/10/09(土) 06:08:40 0
>>630 存在論も認識論もあるよ
>>631 唯心論ではないけど唯物論ではありえない。
唯物論は仏教から最も遠い思想・見解でしょう。
>>625は苦しんだ事無いの?
2500年前に株価の変動に一喜一憂してたか?
「腹減った」「寒い」とかの苦は減ってるかもしれないけど、
楽(幸福追求手段)が増えれば、苦(幸福実現できねークソー何でだ死にて―)も増えるって。
今生きてるのに生きていないと思う人には言っていない、あしからず。
他でも書いたけど、論理的に考えて答えが出てくるのは数学以上には出てこない。
生身の人が使う言葉だから、数学とは区別されるのだ。
論理的に正しいのが最高というのであれば、数学以上はない。
諸君(617は除外する)。おわかりか?
存在していることを無視し、何を考えるのか? 不気味な人もいるものだ。
そもさん。
635 :
考える名無しさん:2010/10/09(土) 07:11:15 0
636 :
考える名無しさん:2010/10/09(土) 07:14:13 0
>>634 あなたは誰と受け答えしているつもりになっているの?
せめてアンカ付けろよな。
638 :
考える名無しさん:2010/10/09(土) 08:11:08 0
自我の特徴は必ず何かを否定していることにあります。表面的には
何かを肯定していても何かを否定するためであるならば同じことです。
自分の中の否定的思考の出所を探しましょう。
639 :
考える名無しさん:2010/10/09(土) 08:36:16 0
>>634 それは論理を本質主義に基づく西洋論理に限定して考えるから、
本来、論理とは言葉の筋道、話や思考の筋だからね。
もちろん、言葉で示せる限界はある。
640 :
考える名無しさん:2010/10/09(土) 09:50:53 0
日本の宗教の目的は
少なくとも景気をよくする戸かではないだろうな
年間3万人自殺してるのに苦がないとかありえない
642 :
考える名無しさん:2010/10/09(土) 12:18:54 0
仏教の最終目的は
自殺によって人口問題を解決することである
そのために世にさまざまなものを流布する
怒りは生物の基本的な機能ですよね?
これは認めるんですか?
637>>
あなた! 綜析という言葉を知らないようだな! 出直したほうが良いんじゃない!
637>>
お前みたいな奴を、ほにゃららって言うんだよー。
646 :
考える名無しさん:2010/10/09(土) 14:00:57 0
>>643 仏教では捨てるべき三大煩悩の一つですね。
>>645 なんだよそのアンカは。>>の直後に数字だよ。
それじゃ逆になっててリンクにならねえじゃねか。
>>643 よーく考えてみろ。怒る必要のあることが本当にあるのかを。
怒る芝居をして相手に怒っていると思い込ませた方が良さそうな時はあるかも知れない。
しかし心の底から怒ってしまう必要のあることはあるだろうか?
>>645 我が字はほにゃらら
朽ちし木々と汚泥の長なりこの小さき者との盟約に従い
我が体躯を這いずる獣鬼めらを蛆どもの苗床と化さん
腐れよ!!!
>>646 情欲(心の力)をすてるのは基本。
だが論理(仕組みや知識の力)も捨てるのは貴方も解っていない
では何がのこるのか?
そこに残るものがアタナにもわかれば、
我々の達した領域にたどり着けるでしょう。
心を落ち着ければ3つめの何かが現れます。
それは極自然なこと、思いや知識で考えようするからこそ何か分からない。
651 :
考える名無しさん:2010/10/09(土) 22:24:02 0
怒りは人間の原動力
悟りを求めるは人間の最大の煩悩
653 :
やみつき:2010/10/10(日) 11:27:36 O
>>632 唯物論は原理的にはすべての生き物も物質
もその物理的反応の所産であるいうことなので
華厳経のように蓮の華を人間精神の開眼で
例えたのである意味では唯物論であると思います
それと唯識とはかなり違いますが化学は精神
のなかで起こることと対応してるのであれば
それもまた唯物論になります
654 :
考える名無しさん:2010/10/10(日) 15:25:43 0
>>651 人間は怒りを求めてもいるよね。自分が怒り出してしまうような情報を自分で集めている。
そして例えば「近頃の若い者は・・・」と言い出したりする。元から若者に注目していなければ
そんなことは起こらず穏やかに過ごせる。
655 :
考える名無しさん:2010/10/10(日) 15:45:18 0
怒り出してしまう情報を自分で集めるというのは自ら苦を受けようとしているということでもある。
そして苦があると訴えたがっているということでもある。
656 :
考える名無しさん:2010/10/10(日) 17:13:32 0
無知=怒らない
有知=怒る
無知=霊感商法に弱い
有知=霊感商法に引っかかりにくい
よって 怒るのは悟りがないと流布する
それなら有知な鳩山は何でムーの購読者なんだよ
659 :
考える名無しさん:2010/10/10(日) 18:53:54 0
有知な子が金権政治に出会いました
そうだ おカーちゃんにお金をもらおう
賢い彼は その後 ムーを買いに行きました
660 :
考える名無しさん:2010/10/10(日) 21:02:50 0
>>653 つまり、それは古い物理学のような物質還元主義ですね。
すべての現象は物質に還元できるというような。
華厳にしても唯識にしても、それはありえません。
なぜなら、それでは縁起ではなくなるからです。
661 :
やみつき:2010/10/10(日) 21:39:49 O
すべての物事は連なっていて無限に影響し
あっています。唯識は人間の精神に生ずる眼耳鼻舌身意と
第七識と第八識による働きから生じるものです
それが物質と関係してないとは言ってないことでしょう
物質も精神もこの宇宙に誕生したものです
深くはマルクスの唯物論唯物史観と関係してないとは言えません
662 :
考える名無しさん:2010/10/10(日) 21:50:36 0
哲学と仏教の融合はしばしば試みられますが
科学と仏教は融合しえますか?
ええOKですよ
664 :
考える名無しさん:2010/10/10(日) 22:33:45 0
>>661 唯物論というのは基盤・アルケーとなるものが実在・成立していて離散集合して関係すると考えますが、
仏教の縁起は、そう捉えません。様々な業によって縁起して仮設され知覚されると考えます。
例えば、唯物論だと、原子や水はどこまでも水ですが、
仏教の縁起では人とって水の知覚されるだけの縁起と考えます。
魚には環境、餓鬼には血膿、天には甘露などと知覚されます。
しかも、それは同じものを見ているわけでも他のものを見ているわけでもありません。
それが縁起・空・仮設です。
>>662 マチウ・リカール『掌の中の無限』を読んでみてください。
ダライラマ猊下の科学との対話シリーズもいいのですが、
どれも訳がもう一つです。
665 :
考える名無しさん:2010/10/11(月) 02:26:19 0
悟りと三昧を別にするのは異論もあるらしいが。
インドでは釈迦以前から三昧(サマーディー)はあるよね。
だから三昧で悟りも巻き込まれる程に修行して、
悟りの灯火も消え去ったところが仏道のなれの果てなんだろう。
悟りの所有者はおらず、悟りしかないならば、
悟り体となった「師」と呼ばれる者の指導は、「悟りを得た」と思っている指導者と比較して、
弟子に対する指導方法が必然的に
しかも根本的に違ってくるはずなんだよ。
こういう師匠はほとんど皆無と言える程少ないと思うよ。
666 :
考える名無しさん:2010/10/11(月) 03:03:10 0
三昧まで行けばもうそこに他人は居ないんだよ。かといってそれまでの自分も居ない。
全てが自分のようにも感じられる。世界が自分の中にある。つまりその時は師は居ない。
師というラベルを付けていた何かはあるかも知れないがそれもまた自分の中にある。
いや、中も外もない。世界が自分であり自分が世界だ。
667 :
考える名無しさん:2010/10/11(月) 03:58:06 0
>>666 だから、
そのように思っておられる「あなた」がいるのが
問題なんでしょーが。
「全てが自分のようにも感じられる。世界が自分の中にある。つまりその時は師は居ない。
師というラベルを付けていた何かはあるかも知れないがそれもまた自分の中にある。
いや、中も外もない。世界が自分であり自分が世界だ。 」
と、おもっている「あなた」が問題なんですよ。
「世界が自分であり自分が世界だ。」と言っておいて、
そう思ってる「あなた」は場外にいるのですか?
それが仏教とヒンズー教の違いじゃないの????
もっと、頑張ってみてよ、男でしょ?
>>667 おまえ悪魔だろ?そうやって他人の正しい見解に疑念を抱かせる
ループにさせてどうすんの?
>>666は正しい。ただ自分がそうなれるかどうかは別問題
>>667 場外に居るわけではない。無理に言葉で表すとああなる。言葉に変えるのが下手なものでね。
「自分」とは書いたがそれはそれまで自分と思い込んでいた存在とは違う。便宜的に「自分」と書いているだけだ。
それは観ている視点のことだ。三昧なので自我は休止中だが認識する部分は残っておりそれが世界とも自分とも
つかないものを観ている感じになる。それまでの自分についてはあるともないとも言える。ただし偽りの自分で
あったことが分かる。正に仮面であり自我だ。
670 :
考える名無しさん:2010/10/11(月) 06:11:39 0
御義口伝には「三界之相とは生老病死なり本有の生死とみれば無有生死なり
生死無ければ退出も無し唯生死無きに非ざるなり、生死を見て厭離するを迷と云い始覚と云うなり
さて本有の生死と知見するを悟と云い本覚と云うなり」(同七五三n)と仰せである。
これは、法華経如来寿量品の「如来如実知見。三界之相。無有生死。若退若出。亦無在世。及滅度者」
の一節について述べられた一節である。
この法華経の文は、現実世界から決して離れず、同時に、現実世界の表面にとらわれず、
そこに秘められた偉大なる真実の姿をとらえ、開いていこうとする仏法の智慧を示している。
如来は、ありのままに三界の実相を知見しており、生と死といっても、この三界から退き去ることでも、
この三界に出現することでもない。また世に在る者、滅度した者という区別も無い、との意は、
我々が日常に五感で捉えている「生」もなければ「死」もないということである。
しかし、“生死そのものがない”としてしまえば、虚無的になり、現実逃避とならざるを得ない。
そのようなとらえ方は大聖人の御本意ではないことは、富木常忍の妻が病床にあったときに、
「而して法華経にあわせ給いぬ一日もいきてをはせば功徳つもるべし、
あらをしの命や・をしの命や」仰せであることからも拝察できる。
「生死を離れよう」とするのではなく、功徳がつもる「永遠の大生命」に視点を切り変えさせることが、
仏の智慧にほかならないのである。
671 :
考える名無しさん:2010/10/11(月) 06:41:44 0
どこからのコピペですか?
672 :
考える名無しさん:2010/10/11(月) 06:42:37 0
>>665 釈尊の伝記で、釈尊は深い三昧の境地を二師から学びますが、
それは悟りとは見なしませんでした。
二師はそれを悟りと勘違いしていました。
釈尊はほどよい三昧状態で縁起を観察することにより無我・空を悟ったと伝記及び、後生の諸論は口を揃え、
三昧は止、サマタ、観察は観、ヴィパサナなどと言われ、
ヒンドゥーは観がないので、悟れないとどの時代のどの地域の仏教でも
伝統的な仏教では言われます。
673 :
考える名無しさん:2010/10/11(月) 06:44:46 0
>>670 日蓮は仏教じゃありませんよ。
仏教に擬装した国粋主義新興宗教です。
彼の法華経説は排他的ですが、伝統的法華経解釈は融和的です。
674 :
考える名無しさん:2010/10/11(月) 07:19:54 0
>>672 そう。
しかし伝統的に座禅だけしかやらない宗派もある。
しかしそれだと止だけになってしまい中々悟れない。
675 :
考える名無しさん:2010/10/11(月) 07:32:07 0
>ヒンドゥーは観がないので、悟れないと
>中々悟れない。
676 :
考える名無しさん:2010/10/11(月) 10:01:22 0
死んだら魂だけになる
49日現世に留まる事ができる
49日以内に門をくぐらなければ現世をさ迷うことになる
死んだ理由が自殺なら門はくぐれず輪廻転生できず現世を一生さ迷うことになる
人間は生まれ変わるのも人間
魂は輪廻転生を無限ループする
魂の一定数増えると大災害や戦争などがおき調整がおきる
最終的には文明のリセットが起こる
ジャッジメント
45>>
暇な奴は、論理だけで考えてろ!
678 :
考える名無しさん:2010/10/11(月) 13:15:55 0
また自作自演が始まってるな
ほんとに坊主か?
679 :
考える名無しさん:2010/10/11(月) 13:54:20 0
オイラは自演など一回もしたことはないんだが。
哲板は嫉妬深いというか、あまりにもオレちゃんレヴェルでしか考えられないのでやりにくい。
680 :
考える名無しさん:2010/10/11(月) 14:04:28 0
正直者はすぐ反応する2ちゃん馬鹿の典型&自己紹介レス乙
681 :
考える名無しさん:2010/10/11(月) 14:22:11 0
外に見えたものは必ず内にもあります。そして内に対処しない限り外は変わりません。
他人のように見えるものもまた自分です。それだからこのような言葉が残されているのです。
ダンマパダ50
他人の過失を見るなかれ。他人のしたこととしなかったことを見るな。ただ自分のしたこととしなかったことだけを見よ。
悟ったら虎に食われそうになっても抵抗しないんだろ?
683 :
考える名無しさん:2010/10/11(月) 16:28:31 0
そもそも虎と出くわすことがほとんどないと思うが、基本的にそうだろうねえ。
体に対する執着はないだろうから。
但し体がどう動いてしまうかについても執着はないだろうから、体の自然な動きに任せるんじゃないかな。
684 :
考える名無しさん:2010/10/11(月) 17:40:25 0
「ゴールドマンサックスがあるのにゴールドウーマンサックスがないのは性差別だ」
「木村屋のパンがあるのに中村屋のパンがないのはパン好きな中村姓への差別だ」
結局、こういう問題が起きるのも全ては言葉に囚われるからであって
言葉を超越すればすべては一体と流れとして感じられる。
一行三昧やら真如三昧は結局梵我一如と変わらん
686 :
考える名無しさん:2010/10/11(月) 19:44:18 0
>>684 > 結局、こういう問題が起きるのも全ては言葉に囚われるからであって
いや、あの、そういう問題起きてませんから。w
687 :
考える名無しさん:2010/10/11(月) 20:24:34 0
仏教が輪廻転生を肯定してるのって、なんか浅いよね?
まあ、悟った人だけに伝えるわけじゃないから仮設なんだろうけど
悟った人はそんな事越えてるはずだし。
>>685 ふ〜む。
では、釈迦が言った“涅槃”というのは“完全消滅”という理解でいいんだろうか?
俺も
>>666のような人と似たような体験をした事がある。
おそらく『真如三昧』というのが当たると思う。
1度の体験ではなく、まっ白な空間の中で黒い球体の宇宙を見てきたりしたから、『梵我一如』より深い三昧だったと思う。
それ以上なら、“消滅”しかない。
(しかし、“消滅”なんて出来るんだろうか? 結局、“何か”が残ってしまうのではないか?)
ただ問題は『真如三昧』しても、完全な執着心がとれなかった。
かなりの執着心がとれていたつもりだけど。
だから、完全な悟りは完全に執着心がとれた状態だと考えていた。
しかし、“涅槃”が“完全消滅”を意味しているなら、悟りとは“無”になる事、もしくは“無”になりきる事を意味するんだろう。[←何かよくわからない世界の事だ。]
その辺の事を詳しく教えて欲しいm(_ _)m。
689 :
考える名無しさん:2010/10/11(月) 20:53:32 0
>>688 そういう体験は言葉にしちゃうと実際どの程度を観たのかなかなか本人にしかわからないよね
どんな執着心が残ってたの? 何か残ってるという意味で執着があると感じた?
とりあえずそこからこれ以上が消滅という概念が消えるんじゃない?
今が既に消滅であり、消滅なんてものはないし
どれ以上とかどれ以下とかなんてないし
>>689 えーと、俺が神秘的な体験をしたのは、ものすごく昔で4〜7歳にかけてで、それ以後はあまりしていない。
現在は目を瞑っても、ごちゃごちゃ雑念ばかりが浮かび、まっくらに近い感じがする。
しかし、かつてはそういう雑念がなく、比較的簡単にまっ白な世界に入っていけた。
それは小さい時だから、余計な事を考えずに済んでいたからだと思う。
それと釈迦のようにこの世が『苦』だという気持ちがあった。
だから、死んでしまってもいいという気持ちがあった。
だから、死後のような世界にも行けたんだと思う。(←世にいう体外離脱を何度もしている。
確か真如の体験は4歳ぐらいで、体外離脱は6ぐらいの時からだった。)
ただし、死んでしまう事には“ためらい”があった。
それが残り少ない執着心だった。
もっとこの世で生きてみたいというような……。
(他にもあったかもしれない。)
>>690 死ってなんだろうね
今の自分を生きてると思ってるからじゃないかな
今の自分は生きてるのかね
あなたの体験はわからないけど、生への執着心という前に、生や死というものがあるかない
か、わかる段階があると思うよ
>>688 よくわからん話だが、
>まっ白な空間の中で黒い球体の宇宙
ほとんどブラフマンのイメージだぞ
体外離脱したんなら、あの世もあるとわかるのだし、言い方はおかしいがこの世でなくても
あの世で生きてもいいと思うんじゃないのか?
単なるこの世にやり残した未練か?
>>691 いや、“梵我一如”というのは自分が宇宙全体に広がって、宇宙との一体感を感じるという。
俺はそういう体験もあるけど、宇宙の外側に立って宇宙を眺める事が出来たということ。
まぁ、ブラフマンに近いといえば、その通りかもしれないけど(ちょっと違う感じがする)。
>>694 それはただの想像力豊かな人では。
俺も小学生の頃そんな事空想したことあったよ。
697 :
考える名無しさん:2010/10/11(月) 21:41:02 0
「自分と宇宙との合一」は常識の破壊が必要なので、
本当に体験することには意味があると思うけど、
「宇宙を傍観する」ってのは想像以外の何ものでもないような。
だって、宇宙は本来傍観できるものではないわけだし。
自分を想像力で客観視することができるように、
宇宙化した自分を想像力で客観視したってこと?
宇宙は傍観できるよ もちろん物理的な意味じゃないけど
なんだって傍観はできる
自分も宇宙とか過去や未来がひとつになった時空そのものを傍観したことがある
あれは想像とはまるっきり別で、単なる観としかいいようがない
まあ言葉にはできないけどね
その外に居ようと同じだろ
例えばチャクラなりマニを外から見てるようなもんだ
でもいずれにしても想像やトランス状態を体験そのもののように勘違いしてる人も多いよね
まぁそういう脳内物質が分泌されただけなんだけどな
>>695 いや、心霊現象もいろいろ体験している。
たとえば、5歳ぐらいの時、玄関に置いてあるエビス像を落として割ってしまった。
そうしたら、中から白い小さな球体が現れて、“謝れ”と言ってきた。
それで“いやだ”と言ったら、再び“謝れ”と言われたからまた“いやだ”と言った。
そういう押し問答みたいなものが3回続いた後、ふいに出掛けたくなった。
それで、サンダルをはきかけのまま出掛けると、家から10メートル先に砂利道があって、そこで大きな釘を踏んでしまった。
それで、泣きながら家に帰って、母親におんぶしてもって医者で手当てをしてもらった。
まるで“罰を当てられた”みたいだった。
そういう多少物理現象を伴う心霊体験をしている。
まぁ、この場合、他人からみれば、心霊体験の方が“妄想”で、釘を踏んだのが偶然の体験と考える事もできるが。
……俺にとってはひとつづきの体験だった。
>>702 それはエビス像を割ってしまったことが悪いことだと思ったので、謝らなくてはいけない、謝
って許されなくてはいけないという深層心理からの投影と、その思いが、自分で釘を踏む体
験を招いただけだと思うよ
つまり自分に生じた思いのヴィジョン化と体験
そもそも自分とかエビスとか別個のものとして存在しないし、壊れることで謝らなければいけ
ないものも、謝らなければならない自分もいない
エビスも自分もないよ
自分の思いが生じていただけじゃないかな
>>702 それはそれで諸々解釈できるが、
何にせよヒンズー教の方が明らかに近いな
ヒンズー教ヒンズー教ってうるせえなあw
ヒンズー教と仏教を違いで分けても、分別はするなよ!
アハハ、まぁ、確かに俺が言っている事はヒンズー教に近いかもしれない(^_^;)。
ところで、誰か、涅槃がどういう意味か詳しく教えて欲しいm(_ _)m。
仏教でなくてわるいが、アドヴァイタのラマナ・マハルシは涅槃とは個人性の消滅と言ってい
たな
仏教用語でいろいろ説明されるよりはシンプルでわかりやすいと思う
みんなバラモン教が好きなんだなぁ。
>>707 ラマナ・マハルシは好きなんだけど、ヒンズー教の聖者だし、ラマナ・マハルシが語る“涅槃”と仏教の“涅槃”は違うらしい。
最近まで同じようなものだと考えていたんだけど(-_-;)。
違うという人も多いし、言葉にした場合の違いで同じだという人もいるね
お釈迦さまならなんと言うかね
今の部派仏教を釈迦がなんと言うかもわからんけどw
まあ違うか同じかは実際に自分が涅槃に達しないとわからんでしょw
711 :
考える名無しさん:2010/10/11(月) 23:08:12 0
結局、ブハの教義にまどわされず、シャカの言葉や事跡を直接読んで考えるのが近道な気がする。
哲学者がソクラテスに回帰するのと同じような流れって仏教界にはないの?
712 :
考える名無しさん:2010/10/11(月) 23:12:19 0
哲学者がソクラテスに回帰する流れなんて知りませんが、
初期仏教に回帰すると称している宗教団体なら知ってます。
彼らは火祭りが大好きらしいですw
713 :
考える名無しさん:2010/10/11(月) 23:44:01 0
阿含宗?
あれはインチキ詐欺宗教、所謂カルトですけど・・・。
マスオ爺さん、まだ生きてんの?
714 :
考える名無しさん:2010/10/11(月) 23:46:03 0
新興詐欺宗教でも伝統詐欺宗教でもない仏教の団体なんてあるんですか?
>>714 この手のスレで核心突きほど野暮なことはない。
上座部仏教は初期仏教をそのまま守ってるって言い分だけどね
宗教の違いはいかにして悟りに導くかの手法の違いだけ。
但しダメな宗教団体もある。
718 :
考える名無しさん:2010/10/12(火) 00:30:05 0
ノーベル平和賞・劉暁波氏の本を、音読したい!
おめでとうチャイナ!
チャイナ初のノーベル賞?
719 :
考える名無しさん:2010/10/12(火) 01:06:58 0
まぁ、宗教、特に仏教は目的はただひとつ、解脱とそのための道の実践のみ。
おめでとうなんて浮かれてるけど、共産党独裁の全体主義国家中共の人権蹂躙は
凄まじいよ・・・。
劉氏の苦難の程を思うと慄然とする。
720 :
考える名無しさん:2010/10/12(火) 01:47:25 0
仏教は幸せの追求なんかより
苦の滅尽をするものでしょう。
苦を滅尽しときながら、
さらに幸福を求めて、
滅尽したはずの苦を再び抱きかかえる
という人が多い気ガス。
こういうのを輪廻というのだろうね。
721 :
考える名無しさん:2010/10/12(火) 01:54:39 0
>>720 本当に苦を滅し切れたなら何が苦に繋がっていたかは既に分かっている筈なので同じ所へは戻らないでしょう。
722 :
考える名無しさん:2010/10/12(火) 01:56:42 0
>>718 その喜びは相対的なもので勝ったり負けたりの繰り返しの波の勝ちの方での喜びだ。
だから何れ消え去る。もちろん負けたとしてもそれは消え去る。
そういった波に飲まれてしまわないことが大切なんだよ。
723 :
考える名無しさん:2010/10/12(火) 01:58:27 0
エッチは禁止じゃない。
人を信じなければエッチはOK.
または、絶対に裏切らないし、裏切られないという確信が持てて、事実そうであればエッチはOK。
要するに、気を揉むことが無ければエッチはおkだ。
解脱の妨げにはならないはずだ。エッチしたいときにいつでもどこでもエッチできれば。
でも、他人に見られながら、街角でするのは気を揉む。→山に籠もる。
危険地帯、衛生環境のせいで、女性が死んだり、エッチできなくなると気を揉む。→女性は連れて行かない。
男色に走れば、体力も気力も十分。エッチだけはできる。でもどちらかが先に死ぬとどうしても気を揉む。→エッチはしない。
こうして、エッチは禁止。気を揉むと修行がままならなくなる。
全てを経験し、極めたような人ほど、出家しやすいのは、こういうことだろう。
724 :
考える名無しさん:2010/10/12(火) 02:03:15 0
仏教に「最終目標」など無いでしょ。
最終なんて無いんだから。
人は、エッチをするたびに、眠りにつき、体力を回復させ、そして飯を食い、精をつける。
エッチすることは人間としての活力だ。
でも、それで気を揉んでいてはいけない。すべてを諦念し観念し、エッチすらそういうことにして、飯を食う意味、眠る意味さえ曖昧なものにする。こうして修行が完成に近づいてくる。
726 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/10/12(火) 02:15:35 0
>>596さん
かなり遅くなりまりましたが
その内容ですと灌頂がまったく意味を持たなくなるのではないでしょうか。
密教学者さんとは僧侶ではない研究者のことでしょうか。
追加で事相というものは表に出さない、というのがお決まりだと思うのですが・・・。
私が考えるに、仏教をやる、というより信仰ですよね。
修行のために師匠が必要ということは当然理解できます。
ただ、基本的な考え方についてはどうでしょう。
このスレに限らず、仏教の知識をお持ちの方は相当いらっしゃいますし。
727 :
考える名無しさん:2010/10/12(火) 02:58:05 0
>>723 説明がなんか変だ。単に「執着心を捨てる」だけで良いのでは?
セックスしたくてしたくて仕方がない、という執着心がないのならセックスしても良い。w
728 :
考える名無しさん:2010/10/12(火) 02:59:19 0
更に、セックスしてはいけないんだいけないんだ、という執着心がないのなら、セックスしなくても良い。w
729 :
考える名無しさん:2010/10/12(火) 03:01:55 0
ていうか、セックスに振り回される状態が苦を産むのだ。やりたいだろうがやりたくないだろうが、
あるいはやってはいけないやってよいだろうが、とにかくセックスが心理的に神のようになって
しまっていてそれに振り回されている。それ中心に思考を巡らしてしまっている。それが苦の元だ。
セックスでなくてお金でも同じ。その他なんでも執着しているなら同じ。
730 :
考える名無しさん:2010/10/12(火) 03:03:22 0
何も崇めず何にも執着せず何も求めない状態になるまでは振り回されて苦が続く。
731 :
考える名無しさん:2010/10/12(火) 03:04:53 0
執着がなければなにしてもなにしなくてもいいよ
でもおまいら、それをいいことに、執着なんてないよとか自分に言い聞かせながらすぐオナニ
するからな
オナニはちゃんとオナニに執着があるかないか師にみてもらってからにしろよな!
732 :
考える名無しさん:2010/10/12(火) 03:12:10 0
何事にも執着しない。
「執着しない」ということにも執着しない。
733 :
考える名無しさん:2010/10/12(火) 04:05:55 0
あらゆる欲や苦は分別することによって生じる。
無分別であれば生じない。
恋愛だろうがセックスだろうがオナニーだろうが酒だろうが、
無分別智の状態であれば、すべて無効になる。
これは分別状態の快がほぼ認識できなくなる。
以外に重視されてないのが食事のとき。
最も執着が発露される。
無分別のときは縁に縛られながらも絶縁になれるのだ。
734 :
考える名無しさん:2010/10/12(火) 04:34:02 0
>>705 >ヒンズー教と仏教を違いで分けても、分別はするなよ!
なんだこりゃ。分別しなきゃ分けられんがな
>>709 >ラマナ・マハルシは好きなんだけど、ヒンズー教の聖者だし、ラマナ・マハルシが語る“涅槃”と仏教の“涅槃”は違うらしい。
>最近まで同じようなものだと考えていたんだけど(-_-;)。
そう違う。
>>710 >まあ違うか同じかは実際に自分が涅槃に達しないとわからんでしょw
『梵網経』で明確に違うと説かれてるって。やってみなくちゃ何も分からないなら、仏教である必要はないでしょう。
>>723 適当なこと言わないように
>>726 密教のこと全く分かってないから言及しないように
自分はどの宗派、伝統、あるいは見解を守ってる、と枠づけすることは無意味だ。
自分が仏教徒であるかないか、考えるのも無意味だ。
中略
本当に必要なことは、自分自身の本来の境地を悟り、自分を開き、そういった障壁をすべて
取り除いてしまうことだ。
ナムカイ・ノルブ
736 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/10/12(火) 05:01:25 0
>>734さん
本職ではありませんからね。が、ある程度は知っていますよ。
ただ宗派内の決め事は分かりませんけどね。
737 :
考える名無しさん:2010/10/12(火) 05:13:41 0
>>734 >ラマナ・マハルシが語る“涅槃”と仏教の“涅槃”は違うらしい。
>そう違う。
どう違うんですか?
>『梵網経』で明確に違うと説かれてるって。
説かれてるからそうだっていうなら単に書かれていることを信用しただけですよね
説かれていることが本当だとなぜわかるのですか?
>やってみなくちゃ何も分からないなら、仏教である必要はないでしょう。
説かれていることがその通りだと証明するには自分で体験しないと、単なる知識の丸憶えで
しかないのではないですか?
738 :
考える名無しさん:2010/10/12(火) 05:44:04 0
>>735 ノルブ・リンポチェも仏教と外道を区別する時はきっちり区別するんだけど。
>>736 現代の密教学者が書いてることなんか、ほとんど本質的に仏教じゃないし、
もちろん密教でもないんです。それは既に上に書いたので繰り返しません。
密教は教えを受けるだけでサマヤが発生します、
もちろん灌頂を受ければもっと強力に発生します。
>>737 それは釈尊の外道二師が三昧の境地を涅槃と捉えていたのを
釈尊は涅槃ではないとしたから。
例えば三昧などを体験してオレは悟ったと思う人が自分の体験を
全く異なったものなのに仏教と同じだと言っているのかどうか、どうやって分かるのでしょう。
それは書かれているものや、伝統的師匠の教えとの整合性で判断するしかないでしょう。
そこは伝統を信じるかどうかです。
少なくとも仏教というなら、仏教の伝統で悟った人を今でも出している伝統に従うべきで、
ヒンドゥーや他の宗教がいうことや、個人の体験を仏教に結びつけるのは可笑しいでしょう。
なぜなら、釈尊以来諸聖者が、それは異なるものだと一致して述べているからです。
739 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/10/12(火) 05:54:44 0
>>738さん
何もお答えになって無いです。
密教学者と呼ばれる人は僧侶ではないのですか?と聞いてるのですが。
ついでながら貴方が書かれていることは
>>596と矛盾しませんか?
でなければ在家のままで師匠に就くべきと仰りたいのですか?
蛇足的に三昧だけが仏教だとすれば大乗仏教は灰塵に帰します。
740 :
考える名無しさん:2010/10/12(火) 06:31:17 0
>>739 アナタは密教について云々しない方がいいよ。
ほんと何も分かってないし、密教についてはここで詳細に論証できないので、
なぜ、密教に拘っているのかというと、私を否定したいから以外に考えられないんですが、違いますか?
そういう動機で云々するのは止めた方がいいですよ。
741 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/10/12(火) 06:49:25 0
>>740さん
ここは哲学スレですので貴方を否定云々の話ではないのですよ。
貴方は何事も(私の問いに限らず)何かを楯にする傾向がありませんか?
密教でなぜ貴方を否定する、或いは出来るのでしょう?
貴方自身何らかの防御線を引いて居られるようにしか見えません。
以前にも書きました言葉のマジックで暈そうとしておられる。
密教の論証など聞いてはいません。
>>739のとおり密教学者は僧侶ではないのか?
師匠に師事しなけばならない理屈は分かります。
その上で、師匠と在家との質問にお答えできますか?
742 :
考える名無しさん:2010/10/12(火) 07:55:27 0
>>741 >密教学者は僧侶ではないのか?
>師匠に師事しなけばならない理屈は分かります。
>その上で、師匠と在家との質問にお答えできますか
密教はヴィナヤとは本質的に関係ありません。
日本密教では出家が前提となっているようですが。
743 :
考える名無しさん:2010/10/12(火) 22:41:09 0
密教って 洞窟の奥で町を観察し
町に出てどうやって権力に取り入って
よろしくやろうかと考えている宗教のことですか
744 :
考える名無しさん:2010/10/13(水) 00:53:03 0
それは秘密です。w
745 :
考える名無しさん:2010/10/13(水) 01:04:31 0
密教は大乗仏教の堕落形態だよw
746 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/10/13(水) 01:14:02 0
>>742さん
貴方は
>>740さんとは別の方ですよね。
>>741が書き方が悪かったようなので
密教学者と呼ばれる人は僧侶ではないのか?ともう一点
特に密教に限らず、在家でも師匠は必要なのか?という意味合いです。
行に関しては師匠が必要と言う点は理解できますが。
>>745さん
そう見る向きもありますが、確固たる哲学と実践に基づいた教えだと思いますよ。
>>742 仏教に分類される密教とそれ以外の密教を同一としてはいけない。
>>745 身勝手な決め付けです。論理性でなく感情論に落ちてます。
論で議論してもその答えは論でしかない。
その本質を理解していれば論は重要ではないことを悟れる。
意味を追求しても意味という本質の枠からは逃げられない。
貴方と宗教の関係が情緒的に感情的に結ばれているのを自分の信じる形成
された捉え方、価値観を見直せるとでも思っているのか?
それは宗教に関係しているとか宗教の知識がとかの関係性が深いほど
その力との結びつきが大きくなる。
その力の外から観測せずにどうやって物事の有り様が見えてくる。
まだまだ井戸の中の蛙ということです。お釈迦様の手のひらの上です。
宗教やら知識、学問、人間すら捨てた本質を感じ取れるならば、
見えてくるでしょう。それは仏教の言葉でも説明がありますが、
比喩でしかありません。比喩であるかぎり本質の例えで体感しない
先天的な盲目の盲人に色の鮮やかさを教える如く、無謀で無意味な比喩で
しかないのです。
聖書の最初にある言葉に面白いのがあります。「最初に言葉ありき」
聖書の元ではヘブライ語で「シェマ」=認知しろ、という所があります。
言葉の根源である意味、人が意味を与えてこそすべてが始まるのです。
それ以前の状態やら現象やらを人の意味を扱わずに得る、
それができるならば貴方も悟り得た世界を覗けるでしょう。
749 :
考える名無しさん:2010/10/13(水) 05:51:35 0
>>746 同じものです。
出家であることの重要性は、密教の場合、本質的にはありません。
出家・在家とわず師匠は必要です。
なぜなら、仏教というのは認識誤りを正す道だからです。
例えば狂人が自分で狂ってると分からないようなものです。
750 :
考える名無しさん:2010/10/13(水) 06:11:01 0
もともとたいしたスレでもなかったが…
こんなクソスレになり果てるとは…
751 :
考える名無しさん:2010/10/13(水) 06:12:22 O
虹の身体になること
その前に小人になる
ちっちゃいオジサンは大先達
密意の伝授ならば言葉や夢や五感や自然やもののけですら師匠になる
論理や学問は最終的に邪魔
752 :
考える名無しさん:2010/10/13(水) 06:28:56 0
チベットかなんかで虹の身体になって髪と爪を残して消えるとかいうけど、日本でもそうやっ
て消えるなんていうの?
向こうにあって日本にないのはおかしい気もするけど
日本でも実際に消えた実例とかあるの?
754 :
考える名無しさん:2010/10/13(水) 09:32:01 0
>>753 つか、こういう人は何も分かってないだけ
仏教はキリスト教のヨハネの見解とは反対になるだろ
むしろそういう見解を転倒しているとさえ言うわけで
756 :
考える名無しさん:2010/10/13(水) 11:50:25 0
何かわかったとしたら仏道ではない。
何もわからない状態に占領されることが道だ。
757 :
考える名無しさん:2010/10/13(水) 12:14:35 0
>>756 道ってのはわかんなきゃ道にならんでしょ
道も果もぐちゃぐちゃ
仏教も外道もぐちゃぐちゃ
758 :
考える名無しさん:2010/10/13(水) 12:26:09 O
とにかくみんな悟れ。話はそれからだ。
でも本当に悟っちゃったら何も話す気はなくなるだろうけどな。w
>>749 >出家・在家とわず師匠は必要です。
なんの根拠もない思い込みです。
>なぜなら、仏教というのは認識誤りを正す道だからです
貴方の自己紹介にすぎません。
760 :
考える名無しさん:2010/10/13(水) 12:46:49 0
一つだけおしえてやろう。
ねんじればぜんはえられず。
老婆親切w
禅宗の引き起こした弊害は甚大なものがあるなw
特に2chは禅スタイルが好きな奴が多い。
25 :ロウシ ◆SRBroushi6 :04/12/01 19:23:23
達磨が面壁して坐禅をしている。二祖慧可は雪の中に立ち尽くしていたが、自分の臂を切り落として言った、
「私の心はまだ不安であります。どうか安心させて下さい」。
達磨が言われた、「心をここへ持ってくるがよい。お前のために安らぎを与えてやろう」。
二祖慧可は言った、「心を捜し求めましたが、どうしても掴むことができません」。
達磨が言われた、「お前のためにもう安心させてしまったぞ」。
無門は言う、「インド生まれの歯抜け爺さんは、十万里の海を越えてわざわざやってきたのだが、
これはまるで風邪もないところに波を立てたように迷惑なことをしたものだ。
死ぬ前になってようやく一粒種の弟子を物にしたが、これとて目鼻がしっかりついていないよ。
やい謝三郎、文字も知らない爺さんよ」。
頌って言う、
インド伝来ズバリの教えを、
伝えたばかりにトラブルさ。
いまだに禅寺騒がせる、
もとはと言えばあなたゆえ。
764 :
考える名無しさん:2010/10/13(水) 14:25:24 0
765 :
考える名無しさん:2010/10/13(水) 14:31:02 0
>>764 そういう君こそ思い込み悟ったちゃんでしょ
偽坊主っ鏡
禅といえばラブホテルの天井鏡だろ
>>749 狂人が選ぶ師が狂人でない事は誰が証明するのでしょう?
悪魔の証明だなw
釈迦が思い込み悟ったちゃんでしょ?
・・・ってとこまでさかのぼるかね。
770 :
考える名無しさん:2010/10/13(水) 15:19:48 0
>>767 それは福徳積んで縁を信じるしかなく、
一応の基準や風評などを総合して吟味するしかない。
世の中に確実なことなど何もないんです。
771 :
考える名無しさん:2010/10/13(水) 15:44:33 0
>>770 ほんとに確実なことなど何もないとわかっていたら、何かを信じたり吟味したりしないんじゃ
ない?
結局確実なものはないといいながら心のどこかで確実なものがあると思ってんじゃないの?
773 :
考える名無しさん:2010/10/13(水) 16:53:36 0
>>771 いやいや、縁起は適当な妥当性に基づくものであり、
西洋思想のような普遍妥当性や確実性がなければ信じられないというのが妄想です。
世の中適当に動いているものですから。
そうそう唯一確実なことは生まれたものは死ぬ。
死ぬことだけは確実です。
もちろん、仏教を信じない人は信じなければいいだけのことです。
774 :
考える名無しさん:2010/10/13(水) 16:55:00 0
「悟り」そのものが論理的矛盾の産物なんだけどね。
悟る必要がある人は悟れないし、悟る必要がない人は悟らない(既に悟っている)から。
>>773 別に西洋思想のような普遍妥当性や確実性の意味で確実の話をしたわけでもないけど。
書き込みから何かを持ってるように感じるけど、何も持ってないの?無執着?
持ってることに無執着ということでもいいけど。ようするに無執着そのものなのかな?
>>774 >「悟り」そのものが論理的矛盾の産物
宗教性とか、実践性とか、日常への回帰とかを抜きにすれば、
そりゃ、そうならざるを得ないでしょ。
777 :
考える名無しさん:2010/10/13(水) 17:07:03 0
オレオレ悟りはもういいよ
安易にオレオレ悟リを批判するんじゃなくて、
いかに良きオレオレ悟りを目指すかってのが仏教的なんだけどね。
779 :
考える名無しさん:2010/10/13(水) 17:10:30 0
なんでオレオレ悟りを排除したいんだ?
そこらの草木や水と同じだろ?
780 :
考える名無しさん:2010/10/13(水) 17:11:49 0
オレオレ悟りなんていったいどこにあるんだ?
ないものを見てるのか?
オレオレ悟りがあると「確実に」思ってるよね
オレオレ悟りがあると思う自分を「確実」に存在させてるよね
ワタシはワタシワタシ悟りです。
ネコはネコネコ悟りです。
784 :
考える名無しさん:2010/10/13(水) 17:26:28 0
実はオレも悟りを眺めてるオレがいる。
これはバラモン教で止まっているという。
仏教の悟りはさらに観察してる「オレ」が消えなきゃいけないらしい。
そうでないと、何度も疑念やら「わかってるけどピタッと来ない」という状態で止まる。
東山寺のHPの法話を読んだらそれがわかる。
785 :
考える名無しさん:2010/10/13(水) 17:36:08 0
自分が消えるのも何段階かあるよね
最終的にはどうなんだろ
東山寺は読んでるけど、忘我は忘我から戻ってきて初めて忘我だったとわかるみたいにい
うけどそういうこと?
忘我の状態中は何もわからないし憶えてないみたいな
禅は道教や仙道の影響が濃すぎる。
十牛図を見ても、“インドでお釈迦さんが見たもの”とは違うんじゃないかって想いがよぎる。
ここ20レスくらいを見ても、なんか桃源郷的だよね、言い回しがさ・・。
原始仏教以外は仏教にあらず。
>>787 そなこと言ったってしょうがないじゃん。
神道だって道教と同じじゃないか。
中国経由なんだから仏教には道教や仙人が混じってるよ。
インド仏教は何百年も前にイスラム勢力に破壊されちゃったし。
タイ・ミャンマー・スリランカなど上座部はヴィパッサナとかいう
いつまでも悟れないことやってるし。
ラマ教は中国のせいでごちゃごちゃだ。
789 :
考える名無しさん:2010/10/13(水) 18:38:55 0
また馬鹿なことをwww
神道、特に古神道が道教と同じなのかよ・・・www
>>789 古神道ならいいよ。
文字がない時代だから。
791 :
考える名無しさん:2010/10/13(水) 19:50:38 0
なんか、無我を勘違いしてる奴多いな。
「我(アートマン)」って釈迦の時代には重要な宗教用語だから
それを否定しただけなんだけど、字だけで解釈が広がったんだよね。
実際には、(原始)仏教は我を否定しても自己を否定しないし(自灯明)、
縁起による現象としての自己意識はあり「うる」し、
そこまで自覚していればあってもなにも問題ない。
792 :
考える名無しさん:2010/10/13(水) 19:54:12 0
>>791 >実際には、(原始)仏教は我を否定しても自己を否定しないし(自灯明)、
>縁起による現象としての自己意識はあり「うる」し、
>そこまで自覚していればあってもなにも問題ない。
唯の仮設なんだが、
793 :
考える名無しさん:2010/10/13(水) 20:57:21 O
>>130 石飛先生が輪廻と十二縁起をメインテーマに本を書いてくれたらうれしいんだけど。ホームページの論考を大展開してほしい。
>>791 比喩にすぎないことを、重要な宗教用語と祭り上げるのはやめておけ。
>>788 学会の人のようなことを言うんだね。
795 :
考える名無しさん:2010/10/13(水) 21:35:21 0
>>793 『龍樹』素晴らしいよね。
恐らく十二縁起は、まだきっちり定まってないのではないでしょうか?
石飛先生は、インド学を正常な方向に変えてるので、ガンガンいって欲しい。
796 :
考える名無しさん:2010/10/13(水) 21:48:58 O
>>795 龍樹面白かった。分量少なくて残念。
自分的にはブッダと龍樹の論理学が一番面白かったです。
どの本も本当に読みやすいんだけど方便心論の研究だけは難しすぎてわかんなかった。
797 :
考える名無しさん:2010/10/13(水) 22:13:29 0
>>796 あの本は故あって未完成で出版されたものみたいです。
『龍樹と語れ』が註釈みたいなものですが、まだ一部ですね。
798 :
考える名無しさん:2010/10/14(木) 01:24:29 0
竜樹より無着や世親の唯識の方が面白いと思うし、仏教史的にも重要なんじゃあないかな?
799 :
考える名無しさん:2010/10/14(木) 02:17:23 0
スレすすんでるなw
>>784-785が気になったんだけど、誰かこれに関してわかるひといる?
観察してくと最後はどうなんの?
800 :
考える名無しさん:2010/10/14(木) 03:03:33 0
>>799 たまねぎの皮剥いてく感じかな。最後には何もなくなる。
しかし、何もなくなった、というのを見ている認識だけをしている自分が残っている。
その最後の残りを観察して、終わり。
801 :
考える名無しさん:2010/10/14(木) 03:19:06 0
>>800 >その最後の残りを観察して、終わり。
その最後の残りを観察してるのって何(誰)なの?
どういう状態?
802 :
考える名無しさん:2010/10/14(木) 03:38:06 0
知らん。詳しくは自分でやって確認してくれ。
多分最後は自分が認識していることを認識するという形じゃないかな。
で、認識する部分を消滅させて行く。
803 :
考える名無しさん:2010/10/14(木) 03:51:14 0
知らないのか…
確認できるものなのかな、確認できるものが残るのもおかしい気がするけど
自分も対象も消えてただの眼(観)そのものになる状態くらいは経験してるしわかるが、そん
なのアドヴァイタでもみんなわかってるしな
でも仏教はそうじゃないみたいなこと聞くし
最後の最後はどうなんだかわかるひとはいないものか
806 :
考える名無しさん:2010/10/14(木) 04:57:17 0
うーん、それでいいのかなあ
実際どうかはわかんないけど、そういうのは経験したけどね
鬼和尚は好きだけど、書き込みみても自分と別にかわらない気がする
>わしは再び問うた。(本当はもうわしは無いんじゃよ、わかっとるね?)
>この境地が最後であるかと、智慧が答えた。
>この境地が最後である。何故ならもはや為すべき事も、為すべき者もおらず、為す事も
>無いのだから。と、智慧が答えた。
なんで最後だったのに問うたのかね
そこが最後ならその時点で問う必要はなかったと思うけど
智慧そのものになってるってんならわかるけど、問うて智慧が答えるってのはわかんないな
まあ言葉にしたときの方便かね
他にもわかるひといたら聞きたい
鬼和尚じゃないけど、別に聞きたい自分なんていないんだけどさ
まあ自分が思うのは鬼和尚みたいなことは仏教に限らずいろいろな覚者が同じようなこと
言ってるけど、このスレみたら仏教はそこから先があるみたいな話してるからね
それでどうなんかなーと
精神医学や心理療法の目的で瞑想についての研究が真面目にされているが(形而上学的トランスパーソナルとは異なる実証科学的なもの)、
やっぱ科学からしたら仏教は単なる宗教ですね。悟りなんていうありえない幻想で人をひきつけているし、悟りを究極の売り物にして、それで商売している。
文明人として伝統宗教には敬意を払うけど、仏教は信じちゃいけないと思うね。
仏教の教義を勉強するのは仏教伝統を守るという意味では正しいけど、仏教を信じるのは妄想であり間違い。
仏教は参考にはなるが、所詮は妄想。
>>807 そうそう。
鬼和尚と似た事は体験している。
だから、それ以上は“消滅”しかない。
たとえば、俺が言っている真如の体験は、体が無くなって、真っ白な世界の中で自分の考えが波になって広がっていくのを見ていた。
そこは恍惚とした感じで気持ちが良かっった。
つまり、思考が生まれる先の地点……にいた事があった。
しかし、それ以上は“消滅”しかない。
[というか、“消滅”したら、もうこの世に生きているはずがないんだけど……。]
ただ、道元が気になる事を言っている。
まだ道元関係の本を読んでいる途中だから、なんとも言えないんだけど……。
810 :
考える名無しさん:2010/10/14(木) 06:17:28 0
>>808 妄想や幻想じゃ困るという立場から話されてもな
妄想でも幻想でもいいんだよ別に
妄想だと困るという者は妄想でないものの中で生きればいい
妄想や妄想でないというものがあったとしてだが
811 :
考える名無しさん:2010/10/14(木) 06:47:47 0
>>798 圧倒的に龍樹菩薩が重要だし見解も高い。
無着・世親の唯識は部派のアビダルマをサーンキャで再解釈したようなものなので、縁起・空が薄まっていて煩瑣なことばっかりいってる。
だから、チベットでもシナ・日本でも唯識より中観の方が見解が高いとされるのは当然。
812 :
考える名無しさん:2010/10/14(木) 06:49:18 0
>>800 >しかし、何もなくなった、というのを見ている認識だけをしている自分が残っている。
それじゃ終わりじゃない。
>>801 >その最後の残りを観察してるのって何(誰)なの?
>どういう状態?
まず、その自我意識を縁起観などで壊す必要がある。
それから、先もあるけど言っても無駄。
813 :
考える名無しさん:2010/10/14(木) 06:54:06 0
>>805 これが無我・空、鬼和尚は少なくとも観の体験がある。
言ってることも可笑しくない。
ここで、無執着とか悟ったとか言ってる人は三昧だけで観はない。
だから、認識している自分などと言うわけだ。
そんなもん悟りでもなんでもない唯の三昧、精神集中状態。
814 :
考える名無しさん:2010/10/14(木) 06:56:22 0
>>807 いやいや、鬼和尚は観があるから仏教の伝統と思われる。
言ってることも仏教と矛盾しない。
ヒンドゥーなどでは観がない。
仏教と矛盾する。それを一緒にしては仏教でもなんでもない。
ヒンドゥーかニューエイジに他ならない。
815 :
考える名無しさん:2010/10/14(木) 06:57:27 0
>>808 いや、そう思いたければ勝手だが、仏教を云々することは止めてくれ。
816 :
考える名無しさん:2010/10/14(木) 06:58:58 0
>>812-813 >>805の鬼和尚の内容は悟りでそこが終わりってことか?
その先はもうない?
鬼和尚も自分ではないと言いつつも観ているもの、問うている何かがあるわけだが
何かは無くならないのか?
何かは有るとも無いともいえないことぐらいもちろん経験してるが
817 :
考える名無しさん:2010/10/14(木) 06:59:03 0
>>809 道元禅師が気になるなら、きっちりした師家についたらどう?
まだ数人はいると聞いている。
818 :
考える名無しさん:2010/10/14(木) 07:00:24 0
>>816 いや、終わりではない。あれでは小乗の見道に入ったぐらい。
まだまだ、先は長い。
819 :
考える名無しさん:2010/10/14(木) 07:00:43 0
>>814 アドヴァイタにも観照や観照者という観があるがあれは観ではないのか?
観照者と言っても者などなく誰でもない観照者だが
820 :
考える名無しさん:2010/10/14(木) 07:02:20 0
>>818 じゃあ、あそこの次に何がどうなるかぐらいおしえてよ
821 :
考える名無しさん:2010/10/14(木) 07:45:34 0
>>819 観というのは唯の漢訳だから、意味が違う。
観照者というのは自我意識が残っているから、者と言われると思う。
>>820 その状態だと禅定中は無我だけど、禅定から立ったら普通の状態に近くなる。
そこから、寝ても起きてもどんな時も無我・空の状態に留まれるようにいろいろ修行する。
ちなみに現象・知覚は全て空と捉えながら、縁起としての因果・世間的妥当性に添って行動できる状態を目指す。
822 :
考える名無しさん:2010/10/14(木) 07:50:41 0
>>821 >そこから、寝ても起きてもどんな時も無我・空の状態に留まれるようにいろいろ修行する。
じゃあ状態は805で終わりってこと? どんな時でも805の状態であるってだけで。
状態も805の先に別の状態があるの? 805とはまた違う状態が。
>>797 なるほど。語れの方は口述調で明快でしたねー。
先生には中論の注釈も書いてほしいです。たしか26章27章に十二支縁起も含むからもう他に本なんていらないかも。26章27章後世付加説取らない日本の学者って石飛先生ぐらいかも。
824 :
考える名無しさん:2010/10/14(木) 08:07:38 0
>>821 それじゃ鬼が
「わしは定を解き、ここに帰ってきた。
自我は無くなっていた。
人と話をする為に擬似的自我を作り出したのじゃ。」
って書いてるのとかわんないんじゃないか?
結局、鬼ので終わりってことか?
しかし仏教は何の役にも立ってないな
空とか言いながら道徳的な理想は追い求めず
ただ権力に従ってるだけ
>>821 空だけど幻の世間的妥当性だけはそれに合わせるって都合がよすぎる
社会から逸脱したくないという執着がありありだろ
>>826 「食」に関することと、「聞きたいと思う者、必要とする者へ教えを説く」ということを考えれば、
逸脱せず社会の中に居なきゃならないんじゃない?
828 :
考える名無しさん:2010/10/14(木) 09:31:18 0
屁理屈だけ言って
楽して暮らしたい
人間の本性だね
829 :
考える名無しさん:2010/10/14(木) 10:51:20 0
>>822 >>824 だから、違うって説明したでしょ。
>>823 ですね。
>>825 現代葬式仏教とかダメな人を観て言われてもね
>>826 まったく違う。他人のためのものだよ。
例えば習慣を認めないでは会話できないぞ。
そして唯一の正しいあり方を認めず、
それぞれの習慣・仕来り・文化・社会制度を尊重するあり方は、
現代の国家間のあり方にヒントをもたらすでしょ。
>>827 そういう方向。
>>828 情けない心だ
仏教ってクソ屁理屈の塊だね
内的に集中力を高めればサマディーの状態や空の体験は起こるが、
その先の悟りというのは妄想であり存在しない。
仏教は悟りがあると嘘をついて信者を集めている。
信者は幻想である悟りを目指して仏教を頼る。
信教の自由だが、嘘に過ぎない悟りを信じて宗教に依存するのは馬鹿馬鹿しい。
直観的な妥当性と世間のしきたりとの関係は非如非異だろ
833 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/10/14(木) 12:22:25 0
>>749さん
在家の場合、どのような哲学と実践
そして師匠との関係が考えられるでしょうか?
もう一点、他の方も批判されていますが
仏教というのは認識誤りを正す道、とありますが
これは仏様の教えの一部だけを切り取ったもので
仏教の全体像としての考えからみれば遠いのでは?
しかし結局密教学者の件は語らずじまいでしたね。
>>799さん
唯識では「見分」のみとされ、相分と平等である、という考え方です。
ついでに
>>831さん
>>749さんと被りますが、悟りとは、仏教とはどういう教えだと思われますか?
834 :
考える名無しさん:2010/10/14(木) 12:32:29 0
>>831 そりゃ、ヒンドゥーの見方。
だから、悟れない。
>>832 直観的な妥当性って、勝義の現観、世俗の認識のどっち。
>>833 >在家の場合、どのような哲学と実践
>そして師匠との関係が考えられるでしょうか?
ヴィナヤを除いて出家と変わらない。
もちろん、それぞれの器によるけど。
>もう一点、他の方も批判されていますが
>仏教というのは認識誤りを正す道、とありますが
>これは仏様の教えの一部だけを切り取ったもので
>仏教の全体像としての考えからみれば遠いのでは?
そんなことないよ。そう思わないのはアナタが倒錯してるだけ。
>しかし結局密教学者の件は語らずじまいでしたね。
何が聞きたいのか分からない。
アナタの密教観が倒錯してて質問の意図が分からないのだと思う。
835 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/10/14(木) 12:46:05 0
>>834さん
変わらない、ということですが、それでは在家は戒はどうでもいい?
というわけではありませんよね。
ついでに
密教学者について言い出したのは貴方のほうですよ。
ご自身のレスをよく振り返ってみてください。
その上でも密教学者は僧侶ではないのか?という問いについて
お答えになられないのかどうか、間に何かを挟んだマジック
悪く言えばトリックはお止めになられては?
(他の人のレスに対して、○○ではないとかの類です)
逆に認識の誤りを正す、とは、仏教のどのような教えでしょうか?
サマディと悟りで議論が起こるのは、
止観の二つに分離させた天台宗の責任だよ。
道元はそれを一緒にして只管打坐だった。
座って三昧になったら、空を悟って、空間に溶けろ。
後は何をしていてもそれを死守するだけ。
そうすりゃ一切皆空で終了。
悟りなどどうでもよくなる。
837 :
考える名無しさん:2010/10/14(木) 14:11:06 0
>>829 じゃあ、寝ても起きてもどんな時も無我・空の状態に留まれるようになってもまたその先の
状態があるってことね?
他人にどうこうは別にして、自分の状態はさ。
>>836 悟りは議論ではない、議論として意味にになりえない。
故に議論しているだけで意味不明であるし、議論だと思っている時点で
的外れ。それは論理や理屈に支配された貴方の自己紹介をしているだけに
すぎない。
悟りは得るものとか、達するものでもはい
必然として訪れるものである。
貴方が理解できないのは必然という原理で、素理であるのに
その仕組みを受け入れないということ。ゆがんでいる。
割り切れない数を無限に割り切れると思って割ってゆく行為を
愚かだと思わないか?
人の捉える意味で理解しても、それは無限に続くだけの話である。
人を超えた意味とは、意味ではないことに気がつくべき。
非意味が生む必然を理解できないから1つ1つ分析して意味付けしても
DNAの塩基を1つ1つ意味付けしているのと同じである、その結果を
知らないのでは?
839 :
836:2010/10/14(木) 14:32:45 0
|
>>784-785が気になったんだけど、誰かこれに関してわかるひといる?
|観察してくと最後はどうなんの?
自然と一体化する、自然そのものになる。つまり生仏になる。
その生き仏の力こを貴方が100%理解できない何かである。
観察している状態はまだ念「ねん」であり
観察が消滅すると然「ねん」に至る。
君は未だに世の中の運が偶然で起こるという説明がランダムだと考えて
いるんだろう。ランダムに見えるのは自己存在と非自分の存在との関係で
自分からのみで非自分の一部の対象だけを捉えているからである。
すべての存在に個だけで存在するものはありえない。因果関係は常にある。
これを科学思考で行う論理手法で考えれば閉じた条件で要素を特定して
証明するという論理構造やら仕組みで捉えてしまう、君らが越えられないのは
この部分の激しく強力な意味やら論理の力を信じてしまっているところにある。
物と物が因果関係もつ本質は偶然が必然として起こることである、この部分が
体感できたときに悟りが訪れます。それは知あるが故に得られない物になって
しまっただけで難しいことではないのです。
根本的に間違っているのは悟りがとても凄いものだと君たちが感じて
(内心として定義)いるのがその情動で発言をする原因となっているのでしょう。
「自然と一体化する力」
これは単純に自然そのものになるだけです、自然の力を得る
それは自然の力を感じる、自然の力を纏う。
だから何か?それは自然そのもので流れるままに流されるということ、
その自然の中の1つが自分であるゆえに、自分の選択も自然といえます。
その選択は自然と比べれば極小さいものであるのも明白であります。
ですが極小さいものであっても最も重要な要素になることも時に
ありえるのです。
自然と一体化などは梵我一如でバラモン教だろう
843 :
考える名無しさん:2010/10/14(木) 16:56:25 0
>>835 ヴィヤナというのは殆ど僧団の決まりですよ。
戒がどうでもいいわけではないです。
十善戒やボサツ戒は重要です。
アナタが密教について知っているというので、
密教学者の言ってることは当てにならないといっただけですよ。
それでなぜ僧侶でないのかと聞くのか分かりません。
アナタの論理は飛躍があって、他人に自明でないことを飛ばして
話すので分かりません。
トリックとか詭弁は私は一切語ってないつもりです。
密教についても私は何も発言してなかったのに、
真言宗ということから、アナタが密教云々いいだしただけのことですよ。
844 :
考える名無しさん:2010/10/14(木) 17:18:05 0
>>835 >逆に認識の誤りを正す、とは、仏教のどのような教えでしょうか?
『華厳経』
T0293_.10.0813c10: 善男子。應於自身生病苦想。於善知識
T0293_.10.0813c11: 生醫王想。於所説法生良藥想。於所修行生
T0293_.10.0813c12: 除病想。
梵蔵から訳すなら、だいたいこんなかんじ。
「釈子よ! 貴方は自分に病人という想いを起こすべきです。法に薬という想いを起こすべきです。善友に熟達した医師という想いを起こすべきです。厳しい修行は、病を癒す治療という想いを起こすべきです」
846 :
考える名無しさん:2010/10/14(木) 19:57:29 0
>>845 師と経法に依らずば仏教じゃないオレオレ悟りでしょ
847 :
845:2010/10/14(木) 20:14:18 0
>>846 >師と経法に依らずば仏教じゃないオレオレ悟りでしょ
俺は悟っていない。
師と経法に依るのは初心者。
悟るというなら、師と経法は離れてる。
そして師と経法を解読できるようになる。
オレオレ悟りもいいが、
ここには悟るために本気の人たちもいることを忘れずに。
悟りたいならば、その者の依存するところを徹底して否定する。
どこにも住ませない。
俺は畜生界に墜ちようが、悟りに導く。
真言宗にさらに上があるというなら、その後はあなたに勝手に任せる。
あなたはあなたの最上の境地があるのだから、そこに導きなさい。
悟りたいという人に変な虫がついたら払ってあげるのが俺。
あなたが俺より上でもかまわない。ただ歩こうという人が
虫に襲われてたら払子でパタパタ払ってあげたいんだ。
848 :
845:2010/10/14(木) 20:18:38 0
だから、その人が歩けるようになったら
あなたの担当だ。俺の管轄外。
その先に行きたいかどうかはその人次第。
そういう意味で
あなたは疑念を無理に起こさせて釣り上げてるようにしか見えない。
カルトを思わせる。真言宗はそういったところがあるが、
あなたが真言宗の人間であるという証拠はどこにもない。
極めて無責任なんじゃなかろうか。
釈迦に会ったら釈迦を殺せ。
経典を見たら燃やしとけ。
850 :
考える名無しさん:2010/10/14(木) 20:25:19 0
日本人がみんな悟ったら
経済は完全に破綻するだろう
意味良く分からんけど、その話に付き合うならば、
日本が全部悟っても
世界が悟らなければ破綻しないだろ
安心してください。日本は既にアメリカに乗っ取られています。
日本という国は既になく今あるように見えているのはただの幻影で蜃気楼のようなものです。
ないものを奪える者は居ません。
854 :
考える名無しさん:2010/10/14(木) 21:13:37 0
そうか。基地問題が円満解決するわけか。
核配備必須の最重要軍事拠点になりそうだなw
856 :
考える名無しさん:2010/10/14(木) 21:15:08 0
>>848 あらあら、無執着なんじゃなかった?
なんで真言宗なんかに拘るのか?
オイラは聞かれたから、答えただけだよ。
857 :
考える名無しさん:2010/10/14(木) 21:16:44 0
>>849 そういうは、極めて高いレヴェルの話なんですは
だねw
>>849 釈迦を殺すには、まず釈迦に会わなきゃならない。
見た経典を燃やすには、まず経典を見なきゃならない。
悟りなんか無いし、誰も悟れ無いのだから安心しろと言いたい。
860 :
考える名無しさん:2010/10/14(木) 21:34:25 0
悟りという現象はある。しかし悟った時にはその人は居ない。だから悟りを体験する人は居ない。
いるよ。
862 :
考える名無しさん:2010/10/14(木) 21:58:31 0
相対的信頼度 セリフ
25% 悟りはある。おれは悟りを体験している。
25% 悟りはある。おれは悟ったことはない。
25% 悟りはない。おれは悟ったことはない。
25% 悟りはない。おれは悟りを体験している。
極楽浄土
>>862 >>521に対して、まともなレスがつかない時点で、スレのレベルが判ろうというものw
>>522が、傍証としての位置付けとなるという意味でなら、辛うじて意見足り得るが・・。
ネタ投下。
スレタイに沿うならば、「仏教哲学の目的」とは、
「通仏教的枠組みに於いては、“おしえ”及び方法論を詳説・解析することにより、
〈ブッダの悟りの何たるか〉に迫ろうとするもの、或いは〈悟りを得るための補助としてのもの〉」
「仏教の枠を超えて、広く哲学的な枠組みに於いては、
この思想(仏教)は、いかなる構造を持っているのか、どのような整合性でもって成立しているのか、といった知的パズルの解法探し」
「もっと広く、考察の対象として見れば、
インドで誕生し、2500年のスパンの中、各地域に伝播したこの思想は、いったい如何なるものなのか、
教義面の現代思想との関わりはどのようになるのか、という問いの為の叩き台作り」
867 :
考える名無しさん:2010/10/14(木) 22:55:01 0
>>865 >>522だと結局文献に落ち着くわけだが
もちろん、伝統の諸師も重要だが、バラモンやジャイナ僧から体系的に教えを受けた人はいないようだし。
考古学的遺物では思想・見解は分からないからね
868 :
考える名無しさん:2010/10/14(木) 22:57:13 0
>>866 順に伝統的、文献学的、思想・哲学的ですな
以上にはオレオレ悟りは全く関係ないね。
869 :
考える名無しさん:2010/10/14(木) 23:52:44 0
悟りという病気にかかっている日本は
外国に容易に乗っ取られる
870 :
考える名無しさん:2010/10/14(木) 23:59:28 0
____
/ \ /\ キリッ
. / (ー) (ー)\ <「師と経法に依らずば仏教じゃないオレオレ悟りでしょ」
/ ⌒(__人__)⌒ \
| |r┬-| |
\ `ー’´ /
ノ \
/´ ヽ
| l \
ヽ -一””””~~``’ー?、 -一”””’ー-、.
ヽ ____(⌒)(⌒)⌒) ) (⌒_(⌒)⌒)⌒))
>>867 それなら敦煌文書群とかも特に意味はないな
872 :
考える名無しさん:2010/10/15(金) 11:02:31 0
>>871 そりゃ釈尊当時のインドに関して何か直接情報を与えるものか?
シナ、チベット、中央アジアの8世紀前後については有益な情報だとしても
873 :
考える名無しさん:2010/10/15(金) 11:26:21 0
自作自演乙
874 :
考える名無しさん:2010/10/15(金) 11:52:32 0
875 :
考える名無しさん:2010/10/15(金) 13:32:24 0
まず「悟り」を定義しなさい。
876 :
考える名無しさん:2010/10/15(金) 14:06:50 0
>>875 定義みたいなソクラテス・本質主義は反縁起・空・仮設
877 :
考える名無しさん:2010/10/15(金) 16:25:56 0
空だよ
ネタ投下2。
スレタイに沿うならば、
部派の論書及び中観、倶舎唯識、そして華厳を押さえなかったら《仏教「哲学」》にならないっしょw
これらを外す(→経典・論書に依らない)のならば、スレタイから「哲学」の2文字を削るべき。
そうすれば、「経典や伝承に依らない自らの体験」を語ることも許容されよう。
もっともそれは、「哲学」という領域をもはみ出すことになるのだが・・w
>>879 知らないw 教えて教えて! o(゚∀゚o )wkwk
てか、スレタイは「語源の意味で」使われてるの?(´・ω・`)
宗教の定義って、基本的には、超自然的な存在を想定して
それを確信することなんですよね。
まぁ、人や立場でいろいろ違うだろうけど。
釈迦の縁起についての説明・・って言うか思考実験みたいな部分は
超自然でもなんでもないから、宗教って言うより
哲学っぽいかなと思いました。
輪廻云々は、単にバラモン教の呪縛にとらわれている人を
救うための方便だったと思うし。
882 :
考える名無しさん:2010/10/15(金) 20:21:15 O
輪廻がなきゃ仏教の最大目的の苦の解決は自殺で済むって事にならないか?
883 :
考える名無しさん:2010/10/15(金) 20:36:08 0
>>882 そう。なにせ四諦の第一が一切皆苦。
これを受け入れて、輪廻しないなら自殺すればいい話。
実際、鹿杖外道など勘違いして殺しまくったヤツもいたという。
仏教が輪廻を説かないとか、方便説だという人は何も分かってない。
884 :
考える名無しさん:2010/10/15(金) 20:40:32 0
>>883 分かってないのはおまえ。
釈迦は反輪廻だった事は常識。
885 :
考える名無しさん:2010/10/15(金) 20:59:41 0
>>884 困ったね。常識じゃなくて、一部のドキュン学者がいってるだけ。
和辻、増谷、秋月、松本、山口、並川とかね。
この人たちは学者からも伝統的高僧からも馬鹿にされてるよ。
886 :
考える名無しさん:2010/10/15(金) 21:27:42 0
釈迦が反輪廻なんて、
そんなこと言われたら事象釈迦の生まれ変わりの
教祖さんたちや、ダライラマさんとか
みんな困っちゃうでしょうにw
生まれ変わりを成立させるには、死んでも残ってる
それだけで「ある」存在、アートマンを認めないといけない。
しかし、縁起を突き詰めていくと、全ては関係性で成り立ってるのだから
それだけで「ある」ものは認められない。
って言うわけで、輪廻は否定される。
たぶん、釈迦自身の言葉では、得意の「毒矢のたとえ」で
否定も肯定もしてなかったはず。
あるなしで、拘ること事態が執着だ!って事で。
ただ、アートマンの想定無しで、輪廻を説明する事も
あるみたいですが、いまいち理解できません。
生まれ変わりを成立させるには、死んでも残ってる
それだけで「ある」存在、アートマンを認めないといけない。
しかし、縁起を突き詰めていくと、全ては関係性で成り立ってるのだから
それだけで「ある」ものは認められない。
その「ある」ものを物の入った箱に見立て、個性は中の物でつくられるとすると、
アートマンはその箱のようなもの。
で、縁起が関係性でなりたつ理論だとしても、何もないところに関係もへったくれもないかと。
その何かが、箱だとすれば、別にその話は矛盾しないのではないの?
889 :
考える名無しさん:2010/10/15(金) 23:03:47 0
>生まれ変わりを成立させるには、死んでも残ってる
>それだけで「ある」存在、アートマンを認めないといけない。
これは間違いだと思う。仏教の枠組みで考えても、
心的出来事の因果連鎖が死で断絶する必然性はないのではないかな。
890 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/10/16(土) 01:46:46 0
>>843>>844さん
密教の僧侶さんも当てにならないと・・・
身内の批判もほどほどに。
>>844について
人は皆病ですか。見当違いとまでは言いませんが
それはかなり違うのでは?
まず衆生は病であると思いなさいと?
まさか「法界に入れない衆生」というお考えではないでしょうね?
他の方も指摘されていますが
もっと簡潔な表現があるはずです。
それはこのスレの皆さんもご理解いただけるのでは?
ついでに「○○は仏教でない」という、うたい文句は止めにしませんか。
こういう言い方をされる方は決まったパターンの書き込みで
お考えの根底にある自我をさらけ出してしまいます。
貴方が東洋教学スレの井上さんのような人でない事を願うのみです。
891 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 03:27:55 0
>>887 その考え方は和辻が提唱したものだが、
その考え方こそ反縁起の最たるものである。
縁起・空・仮設によれば、なんら基体などないのである。
現在も私が仮設されていながら、無我・空であるように
死後も同じこと。これが理解できなければ仏教の基本が理解できてないだけのことである。
これは『勝義空性経』を筆頭に『中論』『因縁心論』
『清浄道論』などで確認できる。
892 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 03:34:31 0
>>887 毒矢の譬えは、如来の死後、つまり、涅槃したものは輪廻するかどうかであって、
一般人が輪廻するのは当然のことながら原始仏教以来一貫して説かれる。
輪廻否定論は大体こんなかんじで全て根拠がない。
1.無我だから輪廻できない。主要論者:和辻など。
反証:現在、諸法が無我でも縁起しているように、無我でも死後も輪廻する。
死後、輪廻しないというのは、断見である。
2.輪廻は、それを信じる蒙昧な古代人のための方便説である。主要論者:和辻など。
反証:輪廻説がなかった、ギリシャ、シナ、チベットなどに思想抵抗にあいながらも、
必ず説いているので方便説ではない。聖者が獲得する宿命通からも方便説でないことが分かる。
3.十/十四無記で死後が不問にされている。主要論者:桜部健など。
反証:水野弘元先生以下が論証したようにタターガタを人、有情と注釈するのは、ジャイナでも
タターガタという語を使うからで、十/十四無記のタターガタは、解脱者の意味に他ならない。
つまり、解脱者は死後どうなるのか、それは答えられないという意味である。
4.釈尊の仏教では輪廻は否定された。主要論者:並川考儀など。
反証:輪廻は否定したという意味が異なる。輪廻は仏教で一貫して厭離され解脱することが目的である。
それを輪廻という現状を認めないという意味で無理に解釈している。
5.三世輪廻は部派のみのもの。主要論者:梶山雄一先生など。
反証:『雑阿含』『スッタニパータ』『小四十経』『量評釈』『タルカバーシャー』に明らかなように
原始仏教も大乗仏教も三世輪廻、というか輪廻は始まりはなく、終わりは解脱するまで続くもので、
それ以外の輪廻など現代日本以外で説かれたことなどないと思われる。
6.輪廻は現世の因果で転生ではない。主要論者:ネラなど。
反証:経典の用例は明らかに前世・来世を想定したものであり、現世のみの因果であれば、
始まりと終わりがあることになり輪廻ではなく他ならぬ断見である。
893 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 03:36:02 0
>>890 もう付き合ってられない。
アナタはほとんど分かってないよ。
勝手にどうぞ。
894 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 03:43:58 0
>>893 けっこうへんな時間に書き込むけどほんとにお坊さんなんですか?
895 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 03:49:23 0
896 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 03:57:05 0
起きるのが早いのはわかるけど起きて早朝からネット?
まあ今どきのお坊さんはそういうスタイルなのかな
897 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/10/16(土) 03:58:59 0
>>893さん
一応哲学スレですので考え方について
疑問なり私なりの見解があれば、貴方に限らず
書き込みはしていくつもりですよ。
輪廻転生が話題になっているようですが
チベット密教では認めてますよね。
特にゲルク派でしたか、バルド・ソドルという経典に詳しく説かれていますね。
898 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 04:09:31 0
前も聞いたけど回答なかったんですが虹の身体になって消えるって実際あるんですか?
日本でも実際に消えたひととかいるんですかね?
899 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 04:13:04 0
>>897 チベット密教でなくチベット仏教。
輪廻を認めない仏教は、基本を逸脱している。
どんな時代、どんな地域の仏教も輪廻が基本、
メナンドロス王やシナ、西欧に仏教が伝わった時も、まず輪廻を受け入れて貰うことから教えは始まる。
これは釈尊も同じ。
バルド・ソドルではなく『バルド・トゥードゥル』
ゲルク派ではなくニンマ。
因みに平岡宏一がゲルク派版死者の書というのを翻訳しているが、
あれは別の論書で、ゲルク派版死者の書というものはない。
明らかに売るためのこじつけに他ならない。
900 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 04:18:10 0
901 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/10/16(土) 04:27:01 0
>>899さん
書き方に不安があったのですが
原語?はそういう読みでしたか。
ゲルク派かニンマ派で論争になったことがあったような記憶がありますが。
ここでちょっと立ち入って(事相ではないのでよりしいかと)
バルド・トゥードゥル(コピーさせてもらいました)には
日本の密教でも説かれる、金剛界五仏が光りの形、その他で現れますが
チベット密教ではなくチベット仏教と呼んだ方が正しいのでしょうか?
ついでに下の三行は特に批判材料にしなくていいじゃないですか。
普通にいきません?
902 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 07:18:54 0
6、「われらは、ここにあって死ぬはずのものである。」と覚悟をしょう。−−−このことわりを他の人々は知ってはいない。
しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。
16、善いことをした人は、この世で喜び、来世でも喜び、ふたつのところで共に喜ぶ。
彼は自分の行為が浄らかなのを見て、喜び、楽しむ。
50、他人の過失を見るなかれ。他人のしたこととしなかったことを見るな。
ただ自分のしたこととしなかったことだけを見よ。
903 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 08:06:02 0
仏教はもともと秩序破壊の思想なのになんでこんなもんが冠婚葬祭と結びついてるのか意味不明
904 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 08:29:46 0
>>903 それも誤解。それぞれ多様な社会習慣という秩序は尊重します。
905 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 09:00:51 0
踏み絵 村八 寄らば大樹のカゲ 同和 世襲 コネ
お布施 ノルマ
906 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 10:02:05 O
例えばAという人間が死んで後にBが生まれるとする。BがAの人間としての記憶を相続するかは不明だが生物の遺伝子としての記憶は相続している。その点をとらえれば輪廻はあると言える。
同一性も変化・差異もあるともないとも言えないのが真実だとすると輪廻も解脱もあるともないとも言えない。
遺伝子を輪廻と捉えると、親から子が生まれたら
生きてる間に輪廻しちゃったって事になりそう。
生まれ変わるときに、続いていくものを、魂と呼ばず
阿頼耶識って言ったり、なんらかの教えって言ったり
してる人もいた様な気がします。
人が苦しんでいるとき胸が痛むこととが慈悲というが
他人に罵倒されたときに怒りがわくことと何が違うというのか。
全く同じじゃないか。
>>906 子供が生まれなかったらおわりじゃないか
>>908 一行目は確かに、「慈」「悲」と被る部分があるけれども、
どちらも、縁によって生じた「心の動き、在り様」であることでは
貴方の言う通り、同じですよw
911 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 11:18:00 0
>>904 出自や身分、地位、お布施の額なんかで差別された戒名をつけたりするのも、
その「社会習慣と言う秩序の尊重」だったんですか?
あと、誰それの母親が死後餓鬼道に落ちたが寺にお布施したら天上界に生まれ変わった
みたいなおどろおどろしい作り話で騙して寄付をしぼりとったことについては、
反省とか謝罪とかしたんですか?
>>911 不安を煽って高額な布施をとったり
差別戒名つけるのは、単なる坊主もどきの堕落。
ダライ・ラマなんかが、現地の習俗を尊重しようって
言ったのは、単に派手な衝突を避けるため。
>>911 それは、尊重というより流れに身を任せた「迎合」、悪しき「踏襲」でしょう。
存続基盤(収入・信仰)の安定のため、「当時の世間一般の受け留め方・印象と合致させた」ということでしょう。
だから、時代が変わって問題になった。
盂蘭盆経も、(肥大化した)当時の精舎の維持の為に必要だったのでしょう。
(昭和に入ってからのこととなりましょうが)反省はあるでしょう。
差別戒名やその周辺の事案に関しては、多く謝罪・対処がされるようになりましたね。
根本的解決には、依然としてなっていませんが・・w
ただ、当時に於いては、騙しても騙されてもいず、双方ともに「本気でそう思っていた」、というのが実態でしょう。
今の情報量及び価値観でみれば「騙す・騙される」という構図になるのでしょうが・・。
また、その「本気で」という部分と絡んで、物品や金銭の喜捨(“献上”)は、自ら進んでなされる形となってしまいます。
(実際、それらが必須である(必要物資・資金である)という場合も多々ありましょうが・・。)
施す方も、それを不思議だと思うこともありません。なんとなれば、心のそこから経の(おしえの)通りだと思うし、
必要だと考えるし、施した分だけの功徳を積んだと受け止め得るからです。
だから、この部分に行政(税制)が入ってくるのは困難なのです。
その意味で、現代日本仏教は、反省とそれを活かした変革が必要であるのは事実だと思います。
霊感商法との差異をどこに設け得るのか、と。
914 :
観自在菩薩:2010/10/16(土) 16:57:48 0
>>908 「慈悲」を単なる慈しむことだと
思ってるかもしれん。だが、仏教
の「慈悲」は悟った法身から十方
を照らす「光」である。この光を
被った者はすべからく浄化される
はず。この光はフェロモンみたい
なもので目に見えない。「法」と
云われるものと同一である。
915 :
観自在菩薩:2010/10/16(土) 17:00:34 0
良寛さんがいるだけで、家の中や
そこにいるすべての人たちが温か
く和む幸福感に包まれるのと同じ
でしょう。
916 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 17:43:42 0
釈尊自身が、自分の教えは1500年経ったら
きちんと理解するものが誰もいなくなり、
無効になるとか言ってたんじゃねえの?
北朝鮮が「共産主義」の旗を降ろしたみたいに、
日本の寺屋さんたちももう仏教の看板
下ろしたら?
末法ね。
まあ、このスレの状況をみるにさもありなんってとこだね。
看板下ろさなくても、アップデートしたらいい。
伝統仏教も、多くの人を救ってきたと思う。
本当に価値がなかったら、とっくに無くなってる。
919 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 20:01:15 0
中学だか高校だかで教わった末法思想の内容がでたらめだったと
このスレで気がついた。ありがとう。
>>907>>909 生物として生まれた以上何らかの過去の情報・記憶があるって意味で。まあ輪廻説を合理的に説明するのは難しすぎるよね。
921 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 20:18:30 0
>>911 そりゃ、インチキも多いよ。
そんなやつらのことまでかまってられないよん。
922 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 20:19:54 0
>>920 それは物質的に伝達されると考える実在論的前提を持つから
923 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 20:20:22 0
今の日本の仏教で、インチキでないものが何か残っているのかい?
>>153 >生命は、「すべて」に先行する
だからwwwww
それが、《【貴方流の】(無根拠な)「勝義」》なわけです。
貴方の依拠する、現代科学・医学の知見は、
「生命」の発生を一番に持ってきてはいないと思うんですけどねぇ・・w
>小乗は、・・・・・・似て非なるもの。
時間的因果関係を捨象しているのに、「 >生命は、「すべて」に先行する 」んですかw
御都合主義丸出しですねw
『生命』が全てに先行しているという時間的因果だから、貴方の主張は成立するんじゃないですか?違いますか?w
時間的因果を排除するなら、『生命』が先行することもないと思われますが、その辺どうですか?www
すまん。タブ変え忘れた。 m(_ _)m
926 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 20:47:21 0
>>923 少し残ってるみたい。
そして何も日本仏教に拘らなくてもいいでしょ。
927 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 20:48:32 0
928 :
真言・念仏・禅は邪義:2010/10/17(日) 13:15:11 0
いまだに「真言・念仏・禅」の邪宗が多い理由
まず、邪義「真言」が、なぜ広まったのか。それは、像法の末に伝教(最澄)が
「法華経最第一」を確立した「後」に、空海(弘法)によって伝来したからである。
つまり、天台・伝教の破折を「まぬかれている」のだ。
伝教(最澄)が南都六宗の邪義を破った後に、空海(弘法)によって伝来した真言が、
後に天台宗の人々が真言に「籠絡されていく落とし穴」となってしまった。
真言は、天台の一念三千の法を「盗み入れて」自宗の極理となし、「真言宗は天台宗と
法理の次元では同じだが、天台宗にない印と真言という事相があるから勝れている」
との邪義を立てた。その策略にかかり、天台宗を真言へとおとしめてしまったのが
比叡山第3代座主の「慈覚(円仁)」である。
伝教が一生の闘争で確立した「法華経最第一」の原則を崩し、「理同事勝」の邪義を唱え、
天台宗の真言密教化に踏み切ってしまった慈覚が、謗法の端緒を開く元凶となった。
さらに、慈覚の弟子「安然」は、禅宗を促し、「恵心」は、念仏を広める役割をした。
高徳・碩学と仰がれた慈覚が、後世の安然や恵心の邪義を引き出す呼び水になったのだ。
法をより深くむしばむ害虫は、他宗ではなく正法を護るべき天台宗の中にいた。
(よって現在の天台宗は、慈覚・安然・恵心の謗法を引継ぐ邪宗・謗法宗である)
そして、謗法に毒された人々を救うため、末法悪世の変革のために、次々と起こる
大難・迫害に命がけで戦い勝ち越えてきた、末法における妙法流布の法華経の行者が
日蓮である。
謗法の人々も今は法華経を誹謗しているが、亡国・亡身の危機に直面したとき、
一切の仏寺・一切の神寺を捨てて、「南無妙法蓮華経」と唱えるようになるだろう。
929 :
考える名無しさん:2010/10/17(日) 14:35:35 0
しかし、大乗仏教は大丈夫教とはよくいったものだ。
930 :
考える名無しさん:2010/10/17(日) 15:42:10 0
>>928 草加の痴愚洗脳信者はお引取り下さいwww
931 :
考える名無しさん:2010/10/17(日) 20:09:57 0
932 :
考える名無しさん:2010/10/17(日) 20:40:35 0
長文不気読(長文、読む気にならず)
933 :
考える名無しさん:2010/10/17(日) 21:30:56 0
仏教がとっつきにくいことだけははっきりした
934 :
考える名無しさん:2010/10/18(月) 10:38:10 0
>>906 現代の生物学の主流では、個体が生後に獲得した形質は遺伝しないとされている。
一つの個体に生じる心的出来事の因果連鎖が、同様の形で他の個体に受け継がれる
ことはあり得ない。
935 :
考える名無しさん:2010/10/18(月) 10:45:47 0
>>934 仏教の輪廻説と矛盾しないね。
代表的な著作を二三挙げてくれませんか?
936 :
考える名無しさん:2010/10/18(月) 11:22:51 0
代表的な著作って、生物の進化論については学術的なものから啓蒙書まで
日本語に限っても山のように文献があるでしょ。ダーウィンの『種の起源』
の翻訳は岩波文庫になってるし、ドーキンスの翻訳だって本屋に平積み
されてますよ。
それより「仏教の輪廻説」と矛盾しないというのが気になりますね。
どういうことですか?
937 :
考える名無しさん:2010/10/18(月) 11:36:32 0
>>936 いやいや、最近の名著という意味です。
ドーキンスにしてもどの訳がいいとか、ありませんか?
>>934 >一つの個体に生じる心的出来事の因果連鎖が、同様の形で他の個体に受け継がれる
>ことはあり得ない。
この部分が矛盾しません。
輪廻において、心的出来事が次の生に受け継がれないとしたら
一体なにが受け継がれるのだろう?
輪廻と業の考えがくっつくと、バラモン教みたいに
為政者に都合の良い、完璧な奴隷システムが出来上がると思う。
最下層の者達は、前世での業により、現在酷い境遇にある。
しかし、この世で苦しめば苦しむほど、来世では
報われ、次は上の階層で生まれ変わることが出来る。
この輪廻+業の考え方により、
下層から抜けだそうとしたり、階層社会を壊す様な
事を企てない、唯々諾々と上層階級からの支配や削除を
甘んじて受ける階層を作って、その層を安定して運用できる。
前世・今世・来世だけでなく、
今世の中においても輪廻・業は考えられるだろ
940 :
考える名無しさん:2010/10/18(月) 13:28:18 0
>>938 >輪廻において、心的出来事が次の生に受け継がれないとしたら
>一体なにが受け継がれるのだろう?
ああ、誤解してる。
他の個体に受け継がれないというのは、肉体的に遺伝しないという意味。
つまり、親から子に遺伝しない。
識は連続して縁起していくよ。
もちろん、業と輪廻は切り離せない。
政治とは関係ないよ。個人の問題。
941 :
考える名無しさん:2010/10/18(月) 13:29:14 0
なんだ、著作の紹介がないとなると、あまり知らない人がいってただけなのか
現世での、生きたままの輪廻?
それは単に、性格改善みたいなものだと思う。
「その詩句は教師から転生したものですか?」
教えの内容が、人が死んでも繋がってるって事なのかな。
ただ、これも輪廻っぽくないな。
943 :
考える名無しさん:2010/10/18(月) 14:28:03 0
>>942 現世の意識も輪廻ではあるけど。
そのように説く伝承文があって、
それを誤読して輪廻を現世に限定する学者がいるだけのこと。
944 :
考える名無しさん:2010/10/18(月) 16:24:53 0
>>943 輪廻を現世に限定した場合、
自殺ですべての苦が消滅することにならないか?
その学者は、そこはどう考えているんだ?
945 :
ゲイボーイ:2010/10/18(月) 16:36:30 0
>>909 稀にいるよね、仏教系で綺麗な人。
あれ系でしょ。
946 :
考える名無しさん:2010/10/18(月) 16:57:44 0
>>944 でしょ。その手の学者は非論理な常識迎合派だから、
むちゃくちゃな屁理屈しか聞いたことない。
曰く「そんなものじゃない」とかなんとか感情論を出ない。
一切皆苦で死後、輪廻しなければ自殺すれば済むことで、
『律』には似たように誤解した鹿杖外道が人を殺しまくった話がある。
本人は、魔に騙されて涅槃に送ってるつもり。
>>938 輪廻で奴隷制度は正当化できないだろ。
支配者が奴隷をいじめていれば悪い業を積んでいく。
支配者が奴隷を苦しめるシステム維持に協力することも悪い業を積むことだから、
奴隷制度はなくすべき。輪廻という考え方からは、むしろ奴隷制度を否定する思想が生まれる。
>>947 それは、現代の「奴隷扱いは人権・尊厳を軽視無視する悪である」という価値観で見るからそうなる。
当時は聊か趣が違ったろうと思うよ。
949 :
考える名無しさん:2010/10/18(月) 18:36:07 O
生死も仮設されたものでしかないから「生きている間」とか「現世、来世」と
考えること自体が実は意味なかったりして。
小さい竜巻か大きい台風やハリケーンなのかという大きさの違いにより現世で
収まっているように見えたり来世まで引き継いでいるように見えたりってことじゃ
ないのかな。
950 :
考える名無しさん:2010/10/18(月) 19:30:50 0
>>947 現実には階級制度肯定の道具に使われる。「全ての人が前世の行いに
応じてそれにふさわしい階級に生まれるのだから、階級の差別があって
当然だ」という風にね。悪しき支配者は来世に奴隷として生まれ変わり、
よき奴隷は来世に支配者として生まれ変わるかもしれないが、支配者で
あること自体は何ら悪いことではないとされる。
951 :
考える名無しさん:2010/10/18(月) 20:12:24 0
>>950 少なくとも仏教は支配者は、悪業を積まないようにするのは難しいとされる。
なぜなら、命令したことは命令者も施行者も同等に業を受けると言われるから。
そして君のいうようなことは、現代西洋思想に支配された考え、
もっと明瞭にいうなら民主主義を絶対視するプロパガンダから洗脳されたものだろう。
952 :
考える名無しさん:2010/10/18(月) 20:16:44 0
世の中を西洋東洋と分けるのは
実際は権力の犬の仏教勢力の
邪教を絶対視するプロパガンダから洗脳されたものだろう
953 :
考える名無しさん:2010/10/18(月) 20:19:33 0
>>951 まったく的外れだね。
>>950はヒンズーの典型的な考え方だよ。
それから、ちょっと考えてごらん。
君程度の知能で洗脳されていないのなら、
洗脳される奴などほとんど誰もいないはずだろ?
古代インドは、ある種の共和国が幾つかあって、
原始仏教徒は、そういう体制を評価していた
維摩詰などはそういう国出身の人間
仏教は身分制度に反対したことないだろ
どうでもいいんだよきっと
956 :
考える名無しさん:2010/10/18(月) 20:41:29 0
権力の犬が身分制度に反対するわけないじゃない
キリスト教は棒、仏教は布。
958 :
考える名無しさん:2010/10/18(月) 20:45:48 0
>>955 仏教の出家というのは、元来は身分制度からの離脱だろ。
現代インドの仏教はカースト制批判の政治勢力らしい。
959 :
考える名無しさん:2010/10/18(月) 20:49:25 0
現代インドのカースト制批判は仏教とキリスト教とイスラム教と・・・・
現在日本では仏教は世襲とコネの象徴
善人ぶるのは邪教の証明
>>958 僧侶は出家してそうだけど
外の世界には興味ないよね
961 :
考える名無しさん:2010/10/18(月) 21:06:58 0
>>953 そのヒンドゥー解釈が正に西洋人的なんだが
962 :
考える名無しさん:2010/10/18(月) 21:07:38 O
963 :
考える名無しさん:2010/10/18(月) 21:08:47 0
>>958 あんまり関係ないね。
社会制度、社会からの離脱だから、まあ、含まれるけど
964 :
考える名無しさん:2010/10/18(月) 21:10:56 0
>>962 ああ、それは新興宗教で仏教とはほとんど関係ないから。
たとえば、真如苑とかアゴン宗を仏教というようなもの。
アベントカル仏教は社会運動でしょ
965 :
考える名無しさん:2010/10/18(月) 21:12:23 0
じゃ聞くが、浄土真宗だの日蓮宗だのは仏教なのかね?
966 :
考える名無しさん:2010/10/18(月) 21:18:45 0
霊感商法 マルチ商法は名前を変え
次々と発生するからな
967 :
考える名無しさん:2010/10/18(月) 21:46:32 0
>>965 真宗は仏教だけど、江戸時代以降の主流は非仏教
日蓮は始めから非仏教
968 :
考える名無しさん:2010/10/19(火) 07:41:42 O
輪廻説と業説の教えが広まれば差別は究極的には減少するだろう。差別自体が悪業に含まれるから後の悪い結果を回避する為に差別は避けられる様になる。カースト制の維持に協力することも悪業。
969 :
考える名無しさん:2010/10/19(火) 17:41:07 O
そして差別への抵抗運動は善業であろう。
970 :
考える名無しさん:2010/10/19(火) 18:45:31 0
>>969 ちがう。そんな運動や政治には関わるなというのが仏教。
達人は別。
>>970 そういう言い切り方をしてしまうと、
「仏教は、社会を良くすることに無益どころか妨げである」
という批判を排除できませんよ?w
ただ自然に善行して様々な結果が現われるだけで、結果を意識して善行するなどは仏教で
はないよ
>>972 そういう劣化老荘思想(無為自然)は嫌いだなw
誰が何を嫌ってるんだ?
>>971 当たり前じゃん。だって本当だったら出家するんだよ。出家というのは全部捨ててしまうということだ。
執着を捨てるという精神面が肝心な点だが、要するに出家したなら社会も捨てている。例え社会の中で
暮らしていても執着心はないから社会がどうなろうが知ったこっちゃないんだよ。勿論自分の生死に
ついても同様に知ったこっちゃないんだ。もし失うことを恐れてうろたえているようならまだ修行が
全然足りないんだよ。
>>975 ならば、やっぱり仏教はこの世から抹消すべきですねw
977 :
おじさん:2010/10/19(火) 20:34:09 0 BE:1038638382-2BP(0)
因果応報とか親の因果が子の報いとか
実際あるんよ。
きっと仏教って経験則から法則を導き出してるんよ。
ひとを殴れば巡りめぐって自分が殴られる
とか親が人を傷つけると
子にその傷が跳ね返ってくるとかあり。
978 :
考える名無しさん:2010/10/19(火) 20:37:05 0
江戸時代の封建制で
民衆を支配する道具として存在していた仏教勢力の
勘違いなんて無視
修行とか言って脳内ホルモン出してハイになり
現実社会から逃げ出そうとする宗教なんて勝手させといて
真剣に考えたほうがいいよ世界とのかかわりとか
979 :
おじさん:2010/10/19(火) 20:39:08 0 BE:1298298454-2BP(0)
釈迦は差別への抵抗運動なんて関係ないところの思想じゃないかなあ
そういうのは般若心経を唱えたような人だよ。きっと。
980 :
考える名無しさん:2010/10/19(火) 20:44:02 0
>>971 なんで? 慈善事業とか社会運動とかとは基本的に無縁だよ。
ただし、高僧は除く
981 :
考える名無しさん:2010/10/19(火) 20:52:41 O
>>970 ブッダは在家の生き方や国家の在り方についても語ってるでしょ。勿論出家の倫理とは違うものだけど。
983 :
考える名無しさん:2010/10/19(火) 22:06:39 0
>>981 >>982 なぜなら、外的な現れに惑わされない境地に達したものを高僧と呼び、
その境地なら、世俗の習慣としてどのようなあり方がよいか指示できるから
インドでは龍樹菩薩、シナでは法蔵菩薩、不空三蔵、日本では弘法大師、
チベットではミラレパ、サパン、ロンチェンパ、ダライラマ五世、十四世がそのようなことを行っている。
鎮護国家。国家宗教として世に君臨すること。
これが日本仏教の伝統であり宿命であり本願である。
仏教を基礎とした仏教社会実現という万人に対する幸福の実現が、
仏者としてのあるべき真実です。
>>983 悟りを開くまでは(≒阿羅漢となるまでは)、世俗の雑事と距離を置く・厭離する、
というのは筋としてはその通りです。
途上にある者に言い得る事などたかが知れてるからです。
しかし、自分が托鉢して回り、日々を過ごす村に於いて、理不尽・不具合等があるとき、
(積極的参加まではせずとも)、そこに働きかけないということが、慈悲の修習としてありえましょうか?
難産に苦しむ妊婦を見て、胸を痛め、一切皆苦を痛感したアングリマーラに釈尊は言います。
この言葉を伝えよ、と。(内容略w)
この時のアングリマーラが阿羅漢であったかどうか(悟っていたかどうか)という修道階位の話はさておき、
このような(悲心を伴った)働きかけを、途上にある者だからといって、
(オーバーな謂いをすれば)「禁止」されるものでしょうか?
986 :
考える名無しさん:2010/10/19(火) 22:26:14 0
仏者は国家のことを考えないでください
迷惑です
どうせ何の効果もありません
987 :
考える名無しさん:2010/10/19(火) 23:01:12 0
>>985 それは菩薩なら助ける。
しかし、政治や社会運動には関わるべきではない。
例えば、泳げない人が泳ぎの練習している時、溺れる人を観て助けられるなら助けるべきだが、
泳げないのに練習もせずに救済とかいって監視をして、
深いところで溺れてる人を発見して助けに行って二人とも溺れるようなもの。
まず、すべきは泳げるようになることである。
それも人を助けられる程、巧みに泳げなければならない。
988 :
考える名無しさん:2010/10/19(火) 23:02:27 0
>>987 ハァ?(゚∀゚)
>>975>>980(或いは
>>983)に於いては、
そのスキルの種別や習得率に関しては触れられていない。
(寧ろ、スキルがあるのに、(言い方は悪いが)「無視をする」としか読めないが?)
菩薩とは誰ですか?
何を満たしたら菩薩ですか?
991 :
考える名無しさん:2010/10/19(火) 23:23:31 0
>>990 おもいやりを持ったら菩薩
利他心を持ったら菩薩
菩提心を持ったら菩薩
>>991 ほうw
あと10レス切りましたが、少し補足しておきましょう。
(具体性が入ってしまいますが、「泳ぐ」という具体的行為が例なので御了承を・・。)
>>987で言えば、勿論、「泳げない者」が「泳いで」助けにいくべきではありません。
だが、通報することはできます。
或いは、手近にロープがあれば、何か浮力のあるものを結んで投げることはできます。
こうした「働きかけ」すらせずに、(心の中で、祈り、手を合わせながらかもしれませんがw)無視してその場を素通りしてゆけ、
というのが
>>975>>980(或いは
>>983)の意味する所なわけです。
政治や社会運動といった具体性と積極性、その世界に全身を投じることは、避けられるべきでしょう。
(それらは、大なり小なり「義や理を曲げる必要性、或いは妥協」を要求するからです。)
しかし、私が一連の流れで野次っているのは、そうした、(どっぷり)入り込んだ形でなく、
関与する・助力するという形での社会貢献さえも排してしまっていいのか、ということです。
社会に「働きかける」「寄与する」「貢献する」といったことは、
そのような具体的、活動の中核的ポジションを取るばかりではないでしょう?
(その「程度」(関与の度合い)を問うこともアリでしょうが、その線引きが可能なのかどうかも疑問符がつきます。)
その意味で、《「貢献」の意味をもった「社会への関与」》を排する姿勢は如何なものか?と疑義を呈した次第です。
菩薩と阿羅漢に大きな差を見ているようですし、現行上座部的にも、社会参加は推奨されるものではないでしょう。
しかしながら、律蔵大品は言います。「その時、世に60人の阿羅漢があった」と。
釈尊は言います。「遊行せよ。聞く耳を持つものに、欲するものに法を説け」と。
(修道のみでなく、在家の日々の在り方についても、と見ていいでしょう。六方礼経が長部に収められているが如く・・。)
これが、大きな意味での「社会への関与」でなくて何でしょうか?
ノシ
993 :
考える名無しさん:2010/10/20(水) 05:09:01 0
>>984 しかし国家は幻想だ。この幻想の形をどう変えようとも必ず苦を産む。
悟るまでもなくこれは分かるだろう。
994 :
考える名無しさん:2010/10/20(水) 05:13:08 0
>>990 菩薩は修行中の人。つまり悟ってないので一般人と同じ。
995 :
考える名無しさん:2010/10/20(水) 05:22:26 0
>>992 そう出来ることはすればいいよ。セブン。
ただ通報すればいいはワロタ。
譬喩だっての
譬喩ってのは複雑な世界から様々な縁を捨象して
特定のことを抽象して分かりやすく伝えるものだぜ
ヴェーバーの理念型とか、科学の実験のために他の条件が排除された環境みたいなもの。
996 :
考える名無しさん:2010/10/20(水) 05:33:14 0
社会は幻想。その幻想から抜け出した人が悟った人だ。火のついた家から出ることに成功した人、
或いは彼岸に渡った人だ。その人が慈悲の心を持ち今だ「社会はある」という妄念を持つが故に
苦しむ者、そのような無明に入り込んでいる者の所へ行くことはありうるし、その人は妄想がないので
救うことも楽だ。但し人々の持つ妄念を激しく破壊する方法を使った場合はイエスのように処刑されて
しまうかも知れない。
997 :
考える名無しさん:2010/10/20(水) 07:06:07 0
社会は幻想などではない
邪教仏教に心酔しているやつは
社会 自分 などにこだわりすぎ
きっと幼稚なまま大人になってしまったのだろう
>>997 仮説されたものだ。個人は存在するとしても、あらゆる集団は人間同士の約束ごとの上に作られた
仮想的なものでしかない。それ故にその繋がりを証明する何かを必要とする。国ならば国籍などだ。
人間同士で取り決めた約束ごとでしかないために他の生き物にはそれが分からない。この世界には
そんなものは最初からないからであり人間が心の中で作っただけのものだからだ。故に動物は国境を
無視して行き来する。また同じ人間であっても約束ごとを忘れてしまえばそれまでである。
>>995 >出来ることはすればいい
そう。
この一言が、なぜ出てこないのか(含意されていないのか)が不思議だっただけだよw
(ま、その辺が、「さすが哲板w」ってトコか・・w)
*(話の発端からすれば、極端な例についてのみの(そこに特化した)話題・流れだったとも言い得るが、
「政治」やら「社会運動」「慈善事業」等、(或る意味)極端な例のみで代表させ、
「社会への関与」「働きかけ」が、あたかもそのような内容しか持たないような流れだったんで横槍を入れた。
俗事からの厭離は、そりゃ基本も基本、大前提さ。)
ノシ
おっと。変換を間違えた。まあいい。
↓1000は誰かにあげよう。
1001 :
1001:
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