1 :
考える名無しさん :
2010/09/16(木) 21:50:44 0 老子「知者不言、言者不知(知るものは言わず、言うものは知らず)」 つまり老子は何も知らないってことかwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
2 :
考える名無しさん :2010/09/16(木) 22:04:17 0
老子は何もしらないってことはないだろ。 言うものは知らずってことは知っているんだから。 わーい>>1論破! 俺>>1論破! 俺最強!
ろうこって女子高生?ハァハァ‥
5 :
哲学板 IS DEAD :2010/09/16(木) 22:09:36 0
ソカ厨wwwwwwwwwwww
JR東日本 宇宙の旅
これは情報と英知の関係を、分かりやすく言い換えてるんだよ。 情報 < 言語 ≦ 文脈 ≦ 公理 < 英知 情報はものしか言わず、英知は黙する 言語は、情報の必要に応じて 文脈は、言語の必要に応じて 公理は、文脈の必要に応じて 語り 英知に近づくほど喋らない
>>1 実際あのころのあいつらってこういう屁理屈こねごっこレベルのそれだよね。
なんで古典になってんのかわからん
そこらへんの厨房でもこねれそうな理屈
9 :
考える名無しさん :2010/09/16(木) 22:42:17 0
老子を読んだことがあって、 あれが「屁理屈こねごっこ」だと本気で思うの?
10 :
考える名無しさん :2010/09/16(木) 23:30:02 0
情報からも真理や英知は見える。 よって、知るものは言わず、言うものは知らず ではなく、 知る者も言う、言う者も知りえる。 情報とは英知の結晶(最終形態)でもあるのだから。、
11 :
考える名無しさん :2010/09/17(金) 00:26:42 O
荘子の方がファンキーじゃね?
12 :
考える名無しさん :2010/09/17(金) 00:30:52 O
いや、孟子のがファンキー
孔子(こうこ) 老子(ろうこ) 荘子(そうこ) 孟子(もうこ) 尊師(そんこ)
14 :
考える名無しさん :2010/09/17(金) 00:36:07 0
>>13 尊師の「師」は「こ」とは読みませんよ。
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
15 :
考える名無しさん :2010/09/17(金) 00:40:51 O
みんな女子でつね
ロンパッパ〜 ロンパッパ〜 誰でも〜♪
17 :
考える名無しさん :2010/09/17(金) 00:45:53 O
おののの 妹子を忘れないで。
18 :
考える名無しさん :2010/09/17(金) 00:51:53 O
>>1 は言いすぎた
「知者不言、言者不知」
より短文で論破しないと老子を論破した事にはならないな
19 :
考える名無しさん :2010/09/17(金) 00:56:41 0
馬子(うまこ)
論破の前に読破するのが筋じゃろ?
老子を馬鹿にする奴は絶対に許さないよ
老子は事実命題でも分析命題でもなく価値判断の集まりです
参考までに夏目漱石が大学のレポート(「老子の哲学」1892年)で描いた老子の解説図 (新版全集第26巻より)。半角英数字は該当する章番号を付記した。 道 ┳絶対の道┳(一)範 囲 ┳無限25?,45? ┃ ┃ ┣無始 ┃ ┃ ┗無終 62,25,4 ┃ ┣(二)体(無為)┳無形41 ┃ ┃ ┣無声41(希声) ,25(寂兮寥兮) ┃ ┃ ┗無臭 4,25,14,35,21 ┃ ┗(三)用(有為)┳生万物 ┃ ┣無意識にして法あり 57? ┃ ┗柔にして屈する能はず 34,51,40,42,79,73,37 ┗相対の道┳人之道(損不足奉有余) 48,77,81 ┣不 道(壮者必老) 30,55 ┗非 道(盗夸[とうか]) 53
24 :
2/3 :2010/09/17(金) 09:54:31 P
修身┳(ア)無為 <消極的>無爲 2,3,10,38,43,48,57,63,64 ┃ ┣(一)学問を廃す┳(甲)講修学理するを廃す 20 ┃ ┃ ┗(乙)致知格物の観察を廃す 48 ┃ ┃ ┃ ┣(二)行為を廃す┳(甲)道徳上┳仁 5,(18),19 ┃ ┃ ┃ ┣義(18),19 ┃ ┃ ┃ ┣礼(38) ┃ ┃ ┃ ┗智 5,18,19,38 ┃ ┃ ┣(乙)美術上…音楽等 12 ┃ ┃ ┗(丙)肉体の快楽…衣食の賛沢等 20 ┃ ┃ ┃ ┃ (たげんなればしばしばきゅうす) ┃ ┗(三)多言を廃す(多 言 数 窮 5 ┃ (せいじんはふげんのおしえをおこなう) ┃ 又云聖人行不言之教) 47 ┃ ┗(イ)復帰於嬰児(えいじにふっきす)<積極的?> 28 ┣(一)足ることを知れ 46 ┣(二)柔を守り物と争ふなかれ 76,78,66,68 ┗(三)静に安んじて下に居れ 61,16,26
25 :
3/3 :2010/09/17(金) 10:00:34 P
政治┳天下を得る方 ┃ ┣(一)不敢為天下先〔敢えて天下の先と為らず〕 67 ┃ ┗(二)能守道〔能く道を守る〕 32 ┃ ┗天下を得たる後…施悶々之政〔悶々の政を施す〕 60 ┣(一)消極的┳徐刑罰[刑罰を除く] 74 ┃ ┣撒甲兵[甲兵を撒す] 57,31 ┃ ┗廃法令忌諱[法令忌諱を廃す] 57,(65) ┃ ┗(二)積極的┳教育┳無智┳不尚賢[賢を不尚(たっと)ばず] 3 ┃ ┃ ┣毀利器[毀利器毀(こぼ)つ] (57) ┃ ┃ ┗已技巧[技巧を已(や)む] (57) ┃ ┃ ┃ ┗無欲┳不貴難得之財〔得難きの財を貴ばず〕3 ┃ ┗去耳目之楽〔耳目の楽を去る〕 (12) ┃ ┗方針┳守倹軽負〔賦〕収斂〔倹を守り賦斂(ふれん)を軽くす〕 75,67 ,(57吝嗇) ┣善下民〔善く民に下る〕 66 ┣柔弱自居〔柔弱にして自ら居る〕柔弱36,76 ┗因物性禦之〔物の性に因(よ)り之を禦す〕万物51?,64? 上記図(原文は縦書き)の所収された論文は『漱石文芸論集』(岩波文庫)でも一部紹介されている。 漱石が「復帰於嬰児」を積極的かどうか迷っていたり、老子をワーズワースと比較しているところが面白い。また、漱石は老子の水に関する記述を完全に比喩として考えているようだ。 ヘーゲルとの違いを絶対的意識の有無に見ているのも興味深い。
26 :
1/2 :2010/09/17(金) 11:42:35 P
/\ /__\ /\ /\ /__\/__\ /\ /\ /__\ 政治 /__\ 天下を得る方\ /天下を得たる後 不敢為天下先\能守道\消極的\/積極的(教育/方針) /\ /\ /__\ /__\ 多言を廃す\ 修身(徳) /静に安んじて下に居れ /__\/__\ /__\/__\ 無為 <消極的>無爲 /\復帰於嬰児(えいじにふっきす) /__\ /__\ /__<積極的?>__\ 学問を廃す\ 行為を廃す\ 足ることを知れ /柔を守り物と争ふなかれ /__\/__\/__\/__\/__\/__\/__\/__\
27 :
2/2 :2010/09/17(金) 11:52:39 P
/\ /\ /__\ /__\ 柔にして屈する能はず /\ /\ /__\/__\ /__\/__\ /\ 用(有為)/\ /非 道(盗夸[とうか]) /__\ /__\ 道 /__\ /__\ /生万物/\ /無意識にして法あり /\ /\ /\ /\ /__\/__\/__\/__\ 、 /__\/__\/__\/__\ /\ /\ /\ /\ /__\ /__\ /__\ /__\ /\無終/\ 絶対 /\無臭/\ /\ /\ 相対 /\ /\ /__\/__\ /__\/__\ /__\/__\ /__\/__\ /\ /\ /\体(無為) /\ 人之道(損不足奉有余) /不 道(壮者必老) /__\ 範 囲/__\ /__\ /__\ /__\ /__\ /__\ /__\ /\無限/\ /\無始/\ /\無形/\ /\無声/\ /\ /\ /\ /\ /\ /\ /\ /\ /__\/__\/__\/__\/__\/__\/__\/__\/__\/__\/__\/__\/__\/__\/__\/__\
老子は論破しようとしても勝ったことにならない。人格で圧倒して勝つしかない。 東洋思想は言葉の強さよりも人格の強さを問題にする。 西洋思想は言葉の積み木の強さ立派さで勝とうとする。
30 :
考える名無しさん :2010/09/17(金) 17:14:06 0
最近の日本では、人徳を欲する人が減ったよね。 欧米文化の影響か?はたまた人徳が高いと食えないからか?どっちもか?
合理的に欲望を消費する社会では人徳など野暮な存在でしかない。
33 :
考える名無しさん :2010/09/17(金) 17:32:17 0
人徳にこだわらない現代日本人が徳が高い訳ではないけどね。 日本では、徳は死んだ、俺は発狂しない。
⌒ヽ r ⌒ヽ 、 _ ,ノ , '⌒ヽ ( ⌒ヽ/ l \ , '⌒ヽ ´ ⌒ヽ ) ( ) i ヽ( ) ⌒ヽ '⌒ /⌒ヽ '⌒\ ⌒ヽ ⌒ヽ ⌒ヽ Y ( ( ⌒ヽ 、 ⌒Y ; ; ; _, ._ (;・ω・) . . ○={=}〇, ; .'´ `. ゙ ; ` |:::::::::\,.'.;´," :´,´' . ゙ .` . .,,.,.,,,.,.,,,.,.,,,.,.,,,.,.,,,.,し,,.,.,`(.@)wwwwwwwwwwwwwww
1>> 知らなかったら、悪いのか! あなたが、何時笑ったのかわたしは知らない。 それが悪いのか? 知るより、行動せよ!
36 :
考える名無しさん :2010/09/19(日) 20:29:22 0
無為自然
689 :(加瀬英明&石平) 「中華思想」の誤解が日本を亡ぼす:2010/09/17(金) 03:20:29 ID:Z54T+bO7
【加瀬英明&石平】中華思想の誤解が日本を亡ぼす[桜H22/9/16]
http://www.youtube.com/watch?v=M8vFOXcYW5Y 加瀬英明氏と石平氏のお二人で著されたばかりの『徹底解明!ここまで違う日本と中国』をご紹介いただきながら、
両国の長い歴史と現状を踏まえた上で、
中華思想の実像や、日本と中国の違いなどについて共に考察する「知の冒険」を通して得られた中国論・日本論の真髄についてお聞きすると共に、
尖閣諸島をめぐる問題についてもご説明いただきます。
※『徹底解明!ここまで違う日本と中国』
・著 者…石平・加瀬英明
・発行所…自由社
・定 価…1575円(税込)
※石平(作家/評論家)・加瀬英明(外交評論家)氏に聞く
・「日本の文化」と「中国の文化」の違いは、ヨーロッパの「キリスト教」圏と海を渡った「イスラム教」圏との違いよりも遥かに大きい。
本質的に違う!むしろ、違いのほうが本質的!!(正反対≠フ文化)
・中国人には(潜在的に)「いつか徹底的に日本をやっつけてやる」という意識がある!
・中国には「何が真実で」「何が事実で」ということが全くない!(何でも政権に都合よく作り変えてしまう)
・中国は「国ではない、文明である」!(中国にとっては「全世界が領土」!!)
・中国の絶対権力者は、自分だけが徳を独占していて、あと他の人たちは従わなければならない!
(他の人たちには「儒教」の道徳を強いるが、自分は全然守らなくてよい)
・「中国の文化」は素晴らしい?中国の文化の良い部分は、むしろ日本においてこそ生かされてる!日本こそ東洋文明の代表格!
・中国は、今でも異質な「帝国主義」(とどまるところが無い!) ・(日本は)毅然としなければいけない!! ・日本が中途半端な態度をとると、アジア全体(アジアの平和)に悪い影響を与える! ・中国には56の民族、チベット・ウイグル・モンゴル…これを、全部「中華民族」と呼んだ!! ・57番目に日本が加わる?!…われわれも「中華民族」!?「日本自治区」!?「日本族」!? ・「儒教」…中国では、秦の始皇帝の頃からずっと儒教国家。本場の「儒教」≠ニいうのは邪なもの!(政治の思想) 日本に来ると、道徳・倫理に変わる!?(日本としての「儒教」) ・中国とは折り合う必要もない!是々非々で距離をおいて…国防体制をちゃんと固めて…。 ・はっきり言う人のほうが、シナ人もちゃんと認める! ・中国に行って儲けた日本の企業はほとんど無い!! ・日本がちゃんとしていれば、アメリカにとっても、中国と組むより日本と組むほうが国益に適うことは間違いない! ※本当に読んでいただきたい本!
39 :
考える名無しさん :2010/09/20(月) 22:28:00 0
↑ 石平さんは日本国籍の日本贔屓の人だから 逆の意見の中国人の本も合わせて読むと石平さんが言っている中国人像が本当だと良く分かりそうだね。
40 :
考える名無しさん :2010/09/21(火) 03:01:47 O
こうして中華人民共和国は自ら脆弱さを露呈るす。 少し動くとその体重で 足を骨折してしまう。 肥満体の赤子
41 :
考える名無しさん :2010/09/21(火) 05:07:11 0
中国は漢民族が主に悪いだけだよな 老子も漢族なのかな?
42 :
考える名無しさん :2010/09/21(火) 12:46:46 O
>>41 シナは全て悪いよ
嘘つきクソ国家
南京大虐殺を例にすればわかるし
43 :
考える名無しさん :2010/09/21(火) 13:30:00 O
あぐねすちゃん
44 :
考える名無しさん :2010/09/21(火) 15:13:07 0
アグネーーーーーーーーース! シナにはチベットは確か入らないんだっけ
45 :
考える名無しさん :2010/09/21(火) 15:16:31 0
占ったところマリーアントワネットが出たのでアグネスは堕ちる。
老荘思想を完璧に理解できてる若者っているのか? 俺には難しすぎた。
/\
/理想\
/具体像/\
道、天下\/静寂\
/\ /\
/兵術\ 政治 /統治\
/\武器/\ /\態度/\
欲望、経済\/原則\/逆説\/畏れ\
/\ /\
/_水\ /倫理\
/\比喩/\ 道徳経 /\聖人/\
女、嬰児\/受動\ /感覚\/_知\
/\ /\ /\ /\
/_道\ 道 /鈍柔\ 地位名誉 徳 /学問、道
/\逆説/\ /発生論/\ /\日常/\ /感覚学問\
/_物\/_人\/原理\/物理\/_徳\/態度\/感覚\/学問、知
http://nam-students.blogspot.com/#ref
48 :
47 :2010/09/24(金) 22:37:43 P
/\ /80\ /\理想/\ /65\/78\ /\ /\ /62\ 具体像/59\ /道、天下\ /\静寂/\ /37\/54\/29\/57\ /\ /\ /76\ /63\ /武器戦術\ 政治 /\統治/\ /50\/69\ /58\/60\ /\ /\ /\ /\ /79\経済武器/36\ /67\ 態度 /74\ 欲望(馬)、経済/\ /武器原則\ /\逆説/\ /\恐れ/\ /46\/75\/30\/31\/17\/18\/53\/72\
49 :
47 :2010/09/24(金) 22:41:25 P
/\ /\ /66\ /27\ /\水 /\ /\倫理/\ /_8\/61\ /_3\/_5\ /\ /\ 道徳経 /\ /\ /55\ 比喩 /43\ /64\ 聖人 /73\ /\嬰児/\ /\受動/\ /\感覚/\ /\ 知/\ /10\/28\/_6\/15\ 、 /_7\/49\/70\/71\ /\ /\ /\ /\ 34b\ /26\ /44\ /56\ /\道、変幻自在 道 /\鈍柔/\ 日常地位名誉 徳 /\学問、道、同一化 /25\/32\ /_4\/52\ /_9\/13\ (修身) /23\/47\ /\ /\ /\ /b /\ /\ /\ /\ /45\ 逆説 /81\ /51\ 発生論/77\ /68\ 徳日常/33\ /35\感覚学問/48\ /逆説物/\ /逆説人/\ /\原理/\ /\物理/\ /\徳 /\ /日常態度\ /\感覚/\ /\学問、知識 /_1\/41\/_2\/22\/39\/42\/11\/40\/21\/38\/16\/24\/12\/14\/19\/20\
お☆わ☆り
52 :
考える名無しさん :2010/10/07(木) 23:59:17 O
>>41 少なくとも唐の時代までの人達と、現在の中国人とは違うみたい。
朝鮮半島も、日本に文化を伝えた百済は、現在の朝鮮人とは違うことは分かってる。
ロンパールーム
54 :
考える名無しさん :2010/10/08(金) 03:30:56 0
老子がいるのに若子がいないのはおかしい。
若輩という言葉ならある
若者は莫迦だ、大抵。
わたしと、論を構えるか? とことんまで! 止めてほうがいいよ。
うんこ育成シミュレーター
うんこ描画エンジンAdvanced UGSによるリアルなうんこをリアルタイムに育成
・うんこ育成シミュレーターとは
リアルタイムにうんこの育成を楽しむことができるシミュレーションゲームです。
うんこは、あなたと同じ時間を過ごし、人と同じような感情も持っています。
毎日食事を与え、世話を続けることで、うんこは少しずつ成長していきます。
うんこは丈夫な生き物なので比較的育てやすい部類に入りますが、いい加減な育て方を続けていると病気になってしまうこともあります。
うんこは成長すると、より複雑な動きができるようになります。
・うんこ育成シミュレーターの特徴
弊社独自開発によるAdvanced UGS(Unko Graphics System)により、リアルなうんこの描写を実現しています。滑らかなうんこの動き、飛び回るハエ、ニオイや感情の表現などは、Advanced UGSならではのものと言えるでしょう。
http://www.vector.co.jp/soft/win95/game/se334756.html
59 :
考える名無しさん :2010/10/11(月) 03:24:12 0
老子 ←→ 若親
じゃあ、君子の対語は俺親か
61 :
考える名無しさん :2010/10/11(月) 12:09:21 0
62 :
考える名無しさん :2010/10/12(火) 00:27:20 0
>>60 君子は「理想的とされる人物像」の事だよw
君は本当に馬鹿だなーwwwwww
冗談なんだろうけど
64 :
考える名無しさん :2010/10/12(火) 03:41:50 0
>>1 内情を知る者は(色々とまずいから)黙っていて、
何も知らない人はおそれを知らずに大声で適当に話している、
という、よくある状態なんじゃないの?
65 :
考える名無しさん :2010/10/12(火) 08:42:21 O
何このキチガイ
66 :
考える名無しさん :2010/10/12(火) 08:44:31 O
67 :
考える名無しさん :2010/10/12(火) 09:35:30 0
>>66 ようするに、真の強者は通常の言葉すら使わずに
テレパシーか夢枕か何かでコッソリとやりとりしてるんだろ。
エクリチュール(書き言葉)がパロール(話し言葉)に劣ると言われやすいように、
パロール(話し言葉)も神秘の力にはなかなか勝てんよ。
68 :
考える名無しさん :2010/10/12(火) 18:35:55 O
>>67 テレパシーも「言う」ことにはならないのか?
71 :
考える名無しさん :2010/10/26(火) 21:07:21 0
1は間違い。この格言はそういうことが多いと理解するのが正しい解釈。もし、完全にそうでありひとつの例外もないと理解するとしたらその解釈は間違っている。 つまり老子のように言う知者もいるということ。 格言はだいたいそうで、本来そういうことが多いといっているだけで、その部分を省略して簡潔に表現している。 例えば犬も歩けば棒にあたるというのも「そういうことがある」といってるだけで「犬が歩けば必ず棒にあたる」と解釈するのは間違い。
72 :
考える名無しさん :2010/10/27(水) 08:19:02 0
>>1 この格言の意味は
知恵者は黙っていて、阿呆はよくしゃべるってことじゃないのか?
73 :
考える名無しさん :2010/11/14(日) 06:06:23 0
これは自己言及としての解釈だろ、勝手に考えるな。そうであるならば別に1 の問題意識自体はレベル低くない。むしろ老子も対象化しているという意味で 健全だ。 わけのわからない人格なり哲学なり持ち込むな。そもそもそういう次元の 問題ではない。 かといって論破しているわけではない。老子若しくは老子と扱われる誰か が老子本人を含めている保証はない。 1の主張をどのレベルで扱うかによるが自己言及という視点で見るならば それはすでにマトモに人間によって考察された領域。的はずれな人情論 はやめよら。
74 :
考える名無しさん :2010/11/14(日) 10:42:56 0
75 :
考える名無しさん :2010/11/14(日) 12:39:26 0
だからそういう問題じゃねー。老子が何をいってるかじゃねー。本人を 含む発言の破綻ていう領域だ。お前ら何を言ってるんだ?意味を考えりゃ いいってもんでもないぞ。発言の構造の問題だぞ。1の言ってることに 対してまるきり的はずれだ。 カツマ「ダメダ コリャ」
知者不言、言者不知が破綻するには老子が知者である必要があるけど 老子中で老子は知者だと主張されてるの?
77 :
考える名無しさん :2010/11/15(月) 06:24:24 0
老子が知者で無いならばその発言はどうなるんだよ? 他人に知られて参考にされる価値はあるのか?老子以外の人間にとって。 読解側は二つの場合を考えればいい。 知者ならば 破綻 そうでない そもそも言説の価値低い そういうことになる。別に特定しなくてもそれぞれの場合に言説がどうなる か考えればいいだろ。 1は老子の言説との関わりにおいて直感的に構造的に変だなと思ったんだよ。 それについて内容に関するレスしかないのは的はずれ。 別に延々と意味に関して考えてもいいけど、1は確実にそういう意味で問題 認知はしていない。そもそも主張されてるかどうかなんて現代のそういう分野 の人間が合意に達するという意味で認められるだけで別に本当に老子が自分 を考えていたかなんてわかるものでない。これは誰がどれだけ優秀になっても その固有の構造は変わらない。 国語・漢文じゃないぞ。
78 :
考える名無しさん :2010/11/15(月) 06:49:58 0
ちなみに論破と違うのはこの手の発言に固有の問題であって老子に拘束され るわけではないから。命題そのものの抱えている問題。 知識がどれだけ深くても別にこの構造そのものが変わるわけではない。 大事なのは知識の量でなくて、どういう次元の問題として扱うか。前者が 多い人はいろいろ大変だろうね、的はずれに捉えることが多いだろうから。 結論として別に1の問題意識自体はおかしくないが、それを他人にわかって もらう為の表現が無いだけ。そこで不毛な解釈論になってしまってる。 読解より発言というものとそれにどう自分が関わるかを考えたほうがいい。
79 :
考える名無しさん :2010/11/15(月) 07:33:51 0
まあしかし、1がwwwwwwwwやっちゃってて、老子単体の論破であるかの 用に表現してるから、意味論で反発をまねくというのも、正直なところ わからなくはない。 でもね、それは、老子を雲の上の人として出なく自分の理解の対象にで きた喜びなのであって、これは必ずしもはねっかえりと解釈されるべき ことではないんだよ。ここは日本の教育では重視されていないところ だけど。 つまりどんな偉人も人間としての構造からは逃げられないってことは あらかじめ教えておけば、こういう認識が生じても普通にそれを 問題として捉えることができるはずなんだ。人から反発を招きやすい 表出抜きで。 逆に言えば、まだまだ偉人とされるひととの「普通の関わり方」という ものが十分に考えられて教育内容に盛り込まれていないということの あらわれなんだから、それを1に負担させるというのは少し荷が重いわけ。 もう適当に書くけど、意味・解釈の蓄積より、自然な解釈・人間が逃れ られないものについての教育のほうが本当はよほど大事。偉人の言説 と受身的に関わることはあまりよくないんだよ。 個人的には老子は好きだけど、そこに解釈はあまりもちこみたくはないね。
ことばでもって人とコミュニケーションできる人は妄想の世界に住んでいる と取れば肯けることばだ>>知者不言、言者不知
というか文字なのでは
82 :
考える名無しさん :2010/11/16(火) 19:00:50 0
あと仮に1の納得しうるパターンならこうだろ。 「 」 はい、終わり。この中には1にも上記の問題が生じるということが 書いてあるが、書いたら知らないことになるので具体的に書けない。
ここにレスしてる人が、1に一つもレスしなければ、1の使う論理で 1を論破していることにはなっていた。
マジレスすると、実は、老子の「道」を「精神(Spirit)」に差し替えると 精神現象学(つまり、ヘーゲル)になる 老子は「精神」を静態的に語っている。ヘーゲルは「道」を動態的に論じ ている
>>77 それは「知者の言葉は他人に知られて参考にされる価値がある」
あるいは「知者の言葉でなければ他人に知られて参考にされる価値はない」
という君の考えを前提にしているだろう
老子ならきっとこう言うね
「知者は価値ある言葉を語らない、価値ある人は知を語らない」
まさに鏡
87 :
考える名無しさん :2010/12/06(月) 05:22:14 0
>>84 しかし、静態的なヘーゲルなんか、ヘーゲルじゃないし。
老子の道はヘーゲルの精神とは全然違いますよw
89 :
考える名無しさん :2010/12/12(日) 20:35:15 0
老子は無為をとくくせに実際はかなり政治的思想が強い
だれか老子になりきってくれ。それでシミュレーションしよう。
廬山百龍覇ーーー!!
あ、だめだな。俺が便宜的にやってみよう。 「米もってこい」
>>88 一件全く異なるように見えるのにもかかわらず実は全く同じ
概念なのである
>>94 ポイントは同一性をどう設定するかだよ。
一意に同じとはいえない。もしくは二つを共に説明とできる何かを
どう設定するか。
不親切なヤツだな。
96 :
考える名無しさん :2011/01/12(水) 03:13:31 0
老子ほど過大評価されてる思想って稀だよな 無為自然で世の中平和になったら苦労しねーよ
無為自然 ↓ 自然農法 ↓ 食料問題解決 ↓ 世界平和
98 :
考える名無しさん :2011/01/17(月) 02:18:31 0
老子って何もしてねー癖に説教くさいこと言ってるのが気に食わん 孔子は遊説とかやってかなり苦労してたから説得力がある
苦労してない割にはなんか深そうでいい
100 :
考える名無しさん :2011/01/25(火) 19:30:16 0
老子や荘子は回りくどい言い方をして深い思想のように見せているだけだ
あれはあるイメージを持たせるための表現で、狙いは回りくどさではない。
この屁理屈じいさんが馬鹿くせえという形で皮肉にもこの論を実証してる
老子はともかく、荘子って回りくどいか? カントもハイデガーも読めん高校時代ですらスコーンと来たよ
105 :
考える名無しさん :2011/01/26(水) 19:16:25 0
老子みたいな当時のキモオタがいかにもな屁理屈で調子こいてんなよ
老子は実在した人物だが、それが誰なのかはっきりとしていない。
前漢の司馬遷の老子伝によると3名候補がいるらしい。老タン、老莱子、周の太史タン。
しかしながら、司馬遷は最終的に老子とは世を避けて出仕しない
知識人(隠君子)のことで、そういう野の無名哲人たちをいつしか老子という一人の人物像に
集約されたのではという結論らしい。
>>1 は、私見だが、私の経験から本当に素晴らしい言葉というのは、一言で普遍の真理が見えてくることであり、
言葉を尽くして長い説明というのは最上ではないと思う。全てに通じるような重い一言に出会ったことが
ない人間にとってみたら、理解不可能なことだと思うが、物事が真に理解できているという姿は、無駄のない言葉で
説明できる・・・その最終形態は無であり、多くの言葉を喋る(有)ことは優れているわけではないと思う。
老子のなかで現代でも似たようなことを言っているひとは多い。
老子が説くことは、孔子の説く礼よりも現実的だと思う。
老子はそれを学ぶ人間を楽にさせる。如何にして幸福な人生を過ごせるか、そんな教えのように思える。
拘りを捨てることが楽になるとか、水のごとくあることなど、現代でもさも自分が考えた風に講演してお金
とっているひとがいるね。それら全て、もうすでに老子のなかにあるというのに。
ストレスを抱えていたり、精神が不安定な人間はまず老子を熟読すべき。確かにここにぴったりw
107 :
考える名無しさん :2011/01/31(月) 14:22:16 0
老子では経済が発展しない
108 :
考える名無しさん :2011/01/31(月) 18:34:51 0
>>107 同感。無為自然説の発展性の無さ、グウタラぶりときたら。
楽チンだというだけだ。
二者択一。 グウタラとして生きるか?それとも経済発展の恩恵を受けて生きるか? 哲学的。
老荘ってそう深く考えることじゃない。ただそういう性格の人がいるって だけさ。水木しげるなど、生まれつき体現している可能性が高い。 あまり老荘タイプでない人が深いなと感じたり反感を感じたり するんだよ。 あれは思想などとは思えないし、経済との関連も深読みだろう。 あの感覚があるかどうか、それだけ。別にレベルが高いとか低いとか そういうこととは関係ない気がする。
111 :
考える名無しさん :2011/02/01(火) 21:51:07 0
無為自然では人間的成長ができないと思う やはり人間というのは辛いことを乗り越えてこそ成長できるはずだ 老荘思想はそういうことから逃げてるように思えてしまう
固有名詞が使われてないのが何気に凄いね。
114 :
考える名無しさん :2011/02/22(火) 18:41:42.60 0
1>> 何も知らないってことだよ。 「知る」ということを深く考察した人ならわかるだろうけど 知るということは知らないへの追及と同義になってるんだよこれが。 無知の知とはよくいったもの。 1も知ること自体についてゆっくりと考えてみるといいよ。 果たして自分が知っていることってなんだろう。ではなぜ自分が それを知っていることになっているんだろう……とね。 (この行為がいわゆる哲学。哲学を名詞としてしか扱えない人種が 増えてるけど哲学ってのは動詞、動的な状態しか指さない) そーしていると老子がどうのこうのではなく、それがすべてに成り立つ 普遍なものと気付くはず。
>>114 それで老子が少しでもわかったつもりですか?
>>1 の方がよっぽど老子をわかってるじゃないか。
どうしてそっちに行っちゃうのかな。
116 :
考える名無しさん :2011/02/23(水) 19:26:31.88 0
>>115 老子がわかる……?
やっぱりそこからか。
そもそもなぜ老子(他の哲学者も)が今まで淘汰されずに残っているのかを
吟味したことがないのかな。
老子がわかるなんて言っているうちは何一つ知ることはない。
(1個体における特殊的人生論なら何か知ったふりでもできるだろうが)
117 :
考える名無しさん :2011/02/23(水) 19:48:25.94 0
>>116 >普遍なものと気付くはず。
その普遍なものを示しなさい!
118 :
考える名無しさん :2011/02/23(水) 21:27:13.38 0
>>117 普遍が言語によって限定しきれない、対応しきれないから
それは幾多の言語、言葉によって外殻を埋めようと先人たちの書物が
残ってきたんじゃないか。
おそらくこの当たりからが理解されないのであろうが、普遍自体をある単語
で限定してしまうとすると、それは普遍そのものではなくなる。
とすると、ある事象に対しての普遍を説明するということはできないんだよ、
皮肉なことに。
天、逆説、直感、
ごめんなさいね。自分がくるところではなかった。
もはや科学信仰の世界だもんね。
形而上なんて、ハハッ
人類オワタ\(^o^)/
普遍てのは、ある人の中での「これは通じるだろ」っていうイメージさ。 人が持つ、自分が何かに対して核心的な理解をもてるっていう本能から くるんだよ。 モノに名前付けたら楽。感覚などにつけるとめんどくさくなってる。 抽象名詞の使い方なんて好き勝手だよ、みんな。
120 :
考える名無しさん :2011/02/24(木) 03:38:18.96 0
>>116 >老子がわかるなんて言っているうちは何一つ知ることはない。
では老子は、よくわからないものですか。
121 :
考える名無しさん :2011/02/26(土) 16:54:03.43 0
若者は老子読むべきじゃないと思う 生産意欲低下、学力低下につながる恐れがある 年取ってから読んだほうがいい
122 :
考える名無しさん :2011/02/27(日) 12:53:50.67 0
>>121 その辺は学校の教科書等にも配慮されてると思う。
俺の高校生の頃の古典の資料集でも
孔孟老荘の中で老子が最も小さく気づかないように記述されてたと記憶してる。
若者は間違いなく無為自然を勘違いして捉えるだろう。
>>111 人間的成長とか、人間の考えたことだろ。
そんなものどうでもいいんだよ。
自然があればそれでいい。
人間が滅亡しようがそんなことどうだっていいんだよ。
む
むいしぜん っていう言葉をよく聞くのですが、イマイチ意味がわかりません。わかってる方、解説してもらえないでしょうか。
126 :
考える名無しさん :2011/03/24(木) 21:08:51.55 0
>>125 其の説明は、荘子が「荘子」でよく説明してるよ。
127 :
考える名無しさん :2011/04/02(土) 22:17:47.08 0
真実が一である、無相である、と言うところから導出できる。 意識と言うものが無いと知り、無意識の行為が真実で完全で平安をもたらすことを 実感することが、無為自然の意味である。 仏教で三解脱門として、無願、空、無相というのが真理であり、その体得が 解脱である。無為自然とは解脱の意味である。
>>84 ヘーゲルは前に進むことばかりではなく後ろに戻ることも
重要だと説いている。
そういう意味では老子につながる部分もあるね。
>>121 >>122 旧制高校や東大出身の人は孔子を崇め過ぎて共産主義に走った、
戦後生まれの団塊もそう、と団塊の中西輝政(京大教授)は指摘する。
何事もバランスよく、特に今みたいな混迷の時代には
孔子も老子荘子、さらには陽明学なども入れ込む必要を感じる。
中国人発の思想に傾倒する人間はおしなべて売国奴
131 :
考える名無しさん :2011/04/05(火) 17:01:51.33 0
>>130 老子や荘子の説くところはゴーダマやギリシャエレア派の説く所と同一だ。
だから老荘は中国人の発想ではない。
またそれは、キリスト教の神でもある。
132 :
考える名無しさん :2011/04/05(火) 17:22:32.38 0
133 :
考える名無しさん :2011/04/05(火) 19:13:15.50 0
>>122 あたりまえだろ。
「学を絶てば憂いなし。知識にとらわれなければ、悩みも生じない。」だぞ。
こんなの勉強している学生に教えられる訳ねえ。
だが、学問しまくって行き詰まったなら、その限りではない・・・・。
>>130 空海はあえて儒教、道教を捨てて仏教一筋に打ち込んだ。
唐の最高知識人が驚愕するほど漢籍に通じていた彼が。
中国人を生で見てダメだこりゃ、と思ったに違いない。
つまりインド伝来の密教を選んだ。
あまりに天才すぎて後継者に恵まれず、
最澄の系統の法然、親鸞、道元を輩出した。
道元(正法眼蔵)は明治のころまでまともに読まれなかったが、
現代ではハイデガー、ウィトゲンシュタインに影響を与えた
大哲学者として西洋では認識されている。
>>134 そうなの?
道元は宋に留学して帰国したら、
宋人を礼賛して、本朝の人をダメダメに言ってたのが正法眼蔵に記されてたが・・・
シナも地域のよって違ってたのかな。
どちらにしろ現在の中国人はダメだこりゃだが。
136 :
考える名無しさん :2011/04/07(木) 15:15:46.16 0
やっぱり無為自然じゃ駄目だと思う俺は 結局学問も礼儀もない人間ってのはロクな人間がいないもん ゆとり教育なんてその典型だろう
>>136 自由自適な隠遁者の言葉だし。これから社会にでようという人がこれを学ぶ必要はないと思われ
138 :
考える名無しさん :2011/04/08(金) 07:11:23.01 0
>>137 ああ、まだ真実が一相無相空相であることの意味がわかってない。
139 :
考える名無しさん :2011/04/09(土) 14:08:59.82 0
>>134 古代中国で、老子荘子に関する書物は、ゴーダマの教えについて書いたものと比較すると、
少ないと言えるのではないのか?其の政治に対する影響力についても見ると、
ゴーダマの教えを絶対的なものとして採用した君主は、老荘の教えを採用した中国の君主
と比較すると、其の印象の程度を見ると、インドの方が大きいように思えるが、
道なんだろうか、浅学であるから自信がないが。
中国では、ゴーダマの教えに相当する老荘の教え、つまり仏教で言う「教」はあるのだが、
仏教で言う「律」「論」が今の段階では、希薄な存在であるのだ。
いずれにしても、中国に於いても老荘の教えが君主に、また宰相に採用され
ていた事実は明らかにあることが認められる。
インドではゴーダマの教えはヒンズーに吸収されれ残らなくなった。しかし其の真理は
ヒンズーの根幹として残っている。
宗教と政治のかかわりを論ずる時、一番注目すべきは、キリスト教、マホメット教であり、これらが一番成功してるのではあるまいか。
ニーチェによってキリスト教も化けの皮が剥がれたと思うけどね。 イエス自身はパウロ以下の伝承者に失望していたと言われている。 ゴーダマも200年程度で教えが途絶えた、と。 聖徳太子は儒教と仏教の両方を取り入れた。 空海は仏教の生粋の部分を伝承させた。ある意味釈迦より大きな役割を持った。 最澄も伝承者としての役割は大きい。 ヨーロッパではカント以前、およびバッハが生まれる前に三十年戦争の結果キリスト教が 国教でなく教会、個人のレベルまで降りていった。 今もって分かりにくいのは『歎異抄』と『正法眼蔵』ということになる。しかも重要。
141 :
考える名無しさん :2011/04/10(日) 00:12:44.96 0
>ニーチェによってキリスト教も化けの皮が剥がれたと思うけどね。 神は死んだ、か? 神とは唯一なるもの、であるから、これが死ぬと言うことはありえない。 むしろニーチェの間違いと思うが。
いや、キリスト教の神は死んだってことさ。 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の起源をたどれば 唯一なるものなんて概念は飛んでしまうと思うよ。
143 :
考える名無しさん :2011/04/10(日) 10:21:47.79 0
>>140 >今もって分かりにくいのは『歎異抄』と『正法眼蔵』ということになる。しかも重要。
日本の仏教輸入者たちは、仏教の根本を最重要事項として
認識理解していたのか、といささか疑うのである。
仏教の根本理法を解説する日本の輸入者は、いない。
空の意味を理解していないのだと思う。
これでは、単に理由もなくありがたいと思わせるだけで、
理法の理解が伴わないので、真実の仏教のありがたみに預かってないのである。
歎異抄にしても正法眼蔵にしてもである。
真実が空であることから、一切の教えが発生してるのである。
キリスト教でも、真実が空であること(唯一とは空であること)に基づいて
いるのであるが、其の解説はない。イエスキリストの教えは、まことに、空の思想
に基づくものである。
144 :
考える名無しさん :2011/04/10(日) 13:41:30.57 0
昨夜、バチカンを舞台とする「宗教と科学」と言う映画を見た。 其の主張である、宗教は科学を超えると言う主張には同意できた。 初めから見てたわけではないので、正確には知らないが。 良いテーマを扱っていたと思う。 それにしても、バチカンはすばらしいね、芸術が。バチカンを見てから、死ね、 だね。 ヨーロッパと中国の差は、この美的センスにある。
>>1 > 老子「知者不言、言者不知(知るものは言わず、言うものは知らず)」
その通り
知れば知るほど言葉がなくなる
> つまり老子は何も知らないってことかwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
たとえば何かを語ると、それに対してすぐ質問責めをする人がいるでしよ
それでも説明せずにいたら、
「説明も出来ない癖に、なに偉そうなこと言ってるんだw」って言いながら勝ち誇ったようにしてる人いるでしよ
この人は100%勝ったつもりでいるんだけど、その知者の目にはその人が敗北者に映る
言葉は所詮道具に過ぎない
敵対したら最後、言葉は剣になる
理解するには言葉以上のモノが必要で、その人の中に何かが欠けているなら、どんな言葉を贈っても態度で示しても
なにをやってもその人の中に理解が入らない
そうなると手段はひとつしかない
その人を信じて待つこと
これ意外手の施しようがなくなる
そして無口になると罵声を浴びせられる
こんな風に
> つまり老子は何も知らないってことかwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
孔子はそれでもあなたに無口を貫くと思う
なぜなら、あなたを信じてるから
146 :
考える名無しさん :2011/04/10(日) 14:26:46.16 0
>>145 >>1 は老子が「知者不言、言者不知」という言葉を発してる時点で
老子が『知らないもの』という事じゃなけりゃ矛盾してるって言いたいんだろ
イエスが磔刑に掛けられた時、神様にこう言った 「この者達(ローマ軍)を許して下さい。この者達は自分が何をやっているのかわからないのです」 人間は自分が何をやってるのかわからないんだよ 孔子がそれを言わなければ他の誰がわかったろう わかった人は口にしないだろうか 言わなければわからない でも言ってもわからない それでも人に希望を託す だから言うわけ 「無知の知を知っている」って 希望の思いだよ
それか、たんなるお喋りだった可能性もある
>>147 イエスは実在の人物で、
傍から見れば自己犠牲的な精神がある。
昭和天皇にもそういうところがあった。
結果は反対になったが、昭和天皇が言葉通り処刑されていれば
天皇制は消えても宗教として神道は延々残ったと思う。
ヘーゲルは『キリスト教の精神とその運命』で、
イエスの伝言を伝承者が反古にしたんじゃないかと言いたかった。
ところで中西輝政が言うには、徳川幕府が『論語』を取り入れることで
支配階級以外の一般市民の統制を成し得ようとした、と。
そういう倫理観が根強く大正昭和まで残ってマルクス主義に走った、と。
決定版みたいなの無いのかね。花伝書や五輪書みたいなのが。 これに従ってればいい、みたいなの
151 :
考える名無しさん :2011/04/11(月) 00:43:34.90 0
『老子タオ』の加島祥造さんって案外合理的な生活送ってるかもしれない。 山の中で時々執筆して食うには困らず毎日山々や森を眺め おそらく野菜とか肉なんかを送ってくれる業者もいて。 本が読みたいときにはチャリかなんかで街に出るに違いない。
自力と他力、そして無。 独学でいくら練習しても上手くならない→自力 先生の指導に従う→他力 環境の自由な流れに乗りつつコントロールする→自他一如 ただ自分と環境を感じて生きる→無
154 :
考える名無しさん :2011/04/11(月) 07:17:20.64 0
155 :
考える名無しさん :2011/04/11(月) 07:31:03.59 0
>>145 荘子を読むと、孔子=儒家は全く値打ちのないものとみなされている。
後世のわれわれも、そして諸子百家を学ぶものは、荘子の考えを尊重すべきである。
また、墨家も儒家を偽善であると排斥している。
今の欧米の学者は、孔子を研究する値打ちがあるように思っているが、
それは孔子の名声の故ではあるまいか。
157 :
考える名無しさん :2011/04/11(月) 15:02:44.99 0
サッカーのシュートの名人に、うまくシュートを打つ秘訣を聞くとして その人にはたして言葉だけでその秘訣を語らせることができるだろうか シュート技術は練習と実践の積み重ねの末にたどり着いたものなので 言葉だけで説明できるものではない 同様に知者が言わないのは、それが言葉によって説明できるものでないことを 知っているからなのだろう
158 :
阮籍王戎 :2011/04/11(月) 21:42:47.74 0
他力っていうのは念仏を唱えなくても 誰かが唱えているだろうから それに乗っかろうって話じゃなかったか
160 :
考える名無しさん :2011/04/12(火) 08:41:02.03 0
一を説く哲学の理法と、科学の理法を比較すると、 科学の理法など何の値打ちもないな。 哲学の説く理法は、一切をカバーしている。 日本を襲撃する自然の力、科学など何の防御にもなっていない。
161 :
考える名無しさん :2011/04/12(火) 20:28:47.11 0
カントの言うように理性界は英知界に届き得ない 分かりやすく言えば科学と人生の真理は融合しない これは多分確定的に正しいと思うな 人間は宇宙に比べればちっぽけな存在なのかもしれない・・・ ではなくて人間というのは絶対にちっぽけなんだと思う 石が石であるように したがって壮大な説明、証明の類は人間のあるべき姿を踏み越えている あるべき姿を知らない→ある意味致命的な無知 したがって言う物は知らず、知るものは言わず、という事が出来る
語ることを畏れるな。想像力が権力を持つ。想像を堂々と語った者が勝利する。
知る者は言わず、言うものは知らず は、カントの第1アンティノミーを想起させる。 今風のビッグバンは可能性の話でしょう? またウィトゲンシュタインの語りえぬものについては、 沈黙せねばならない も思い出させる。
語りえぬものを何とか語ろうとするのが豊かな人生。 沈黙するのは貧しい引きこもり。
165 :
考える名無しさん :2011/04/13(水) 08:48:39.00 0
一と言う真理真実をよく考えてみよう。 一とは、ある一つのものだけが存在しえるという理法に基づき、 世界の真実は、一なるものである、と言う主張である。 二つのものがあるとするなら、これらは想定的存在である。他方があるからこれがあるのである。 自分の存在は他方に依存しているのである。これではどちらのそれも、真実にあるとは言えないというのである。 他方が失せるなら自分も失せなければならない存在だからである。不安定である。 自存ということがないのである。 しかし一方一つのものだけで存在しえるものなら、そのものは絶対存在である。他のものを必要としないで 存在できているからだ。そうすると、この一つのものとは、他の一切のものを寄せ付けないのでなければならない。 それしかないのである。それしかないのであるから、見えず、掴めず、心に 認識できないものである。要するに「無」の存在なのである。故にゴーダマは 「無相」と言い「空相」と言ったのである。 真実が無相であると、真実足らんとするもの、他者にたいして誠実足らんとするもの、 は、無相ゆえに、何も言わず、何もせづ、ということになる。 無言無為と言うと、現実にひとところにとどまって動かない、無言である、と言うなら、 語弊がある。故意に無言である、無為であるとするなら、故意ゆえに、無言ではなく、 無為でもないことになる。ここが難しいところである。 どのような態度が真実に合致するのかと言うと、意識そのものを捨てることになるのである。 故に、人を殺す行為が事実上あったとしても、人を殺した人は、私は何もしていない、と真実に誓って 正直として告白するであろう。 これは自然災害をもたらす自然が人を殺すのと同じ状態なのである。 意味深長である。
166 :
考える名無しさん :2011/04/13(水) 11:54:02.98 0
地球は24時間で自転してるのに人間の身体は25時間周期。 1日に1時間もズレがあるのはあまりにも不自然。 やはり自転25時間のよその惑星から来た誰かが遺伝子情報だけ 置いてったにちがいない。 で、猿から突然変異もしくは何かしらの遺伝子注入(楽しんご!) で人間を作った。 だから人間はクローンみたいなもんで存在自体が無為なんだよ。
168 :
考える名無しさん :2011/04/13(水) 15:21:35.16 0
>人間の身体は25時間周期 んなこたない。似たような知識を読んで、おまえさんが勝手にそういうふうに解釈してしまってるだけ。
170 :
考える名無しさん :2011/04/17(日) 13:38:01.02 0
昨夜のNHKのサンデル教授の講義を見て。 締めくくりで、ハバ大学の女の子が、なんか「日本の震災住民の 抑制されら行為は誇りに思う、とか何とかいったのを、サンデル教授は 締めくくりの言葉にしたが、厳しく言うと変だと思う。 何でアメリカ人が日本人の行為を誇りに思うわけ? いくら日本とアメリカが親しいと言っても、中国人がいる前で言うのは 中国人に対してあてつけではあるまいか? それとも、通訳の間違いか?通訳の間違いと言うことはあるからね。 それでおかしいと思うのは、アメリカ陣営の行為であり、アメリカの関与した 憲法を施行してる日本国は、この憲法の力のためにこのような行為となったのである 、と言うのが真意ではなかったかと思うのだ。 そして中国のような法制度の国には、こういう抑制の効いた国民は生じ得ないだろう、 と言うことなのではないのか?これがあてつけだというのだ。 ま、アメリカ人が日本を自国の一州のように思っているのは、別段不愉快ではないがな。 日本人にとって其のほうが良いのだ。アメリカのやり方をまねて、そんなことは一つもないのだ。 しかし、哲学者の見解としては、どうかなと思う。間、限られた時間と言う制約があったから なんともいえないが。
171 :
考える名無しさん :2011/04/17(日) 14:59:41.25 0
172 :
考える名無しさん :2011/04/17(日) 20:58:00.66 0
同じ民主国家の一員として、誇りに思う、というほどの意味ではないか。 中国は民主国家といわれてないが、非民主国家に対する敬遠の意味では?
174 :
考える名無しさん :2011/04/18(月) 00:07:19.22 0
哲学は雰囲気が良いですよねー!?♪。
175 :
激モテ 石井 慧 :2011/04/20(水) 18:17:08.20 0
若さがないよ 若さが
176 :
考える名無しさん :2011/04/21(木) 16:45:57.36 0
若さなどというと、無謀を連想する。特に哲学学問に於いては。 真実を体得するに於いては、年齢は関係ないというのが仏教である。 八歳の竜女、この招待は何であるか問題だろうが、おおよそのことを言うと、 竜とは蛇を指し、女とは、性別のメスと言う意味らしい。そうするとメス蛇の子供 と言うことになる。 こんなメス蛇の子供でも、真実を体得すると言うのであるが、ものすごく以外であろう。 しかし、仏教の理法によると、当然なのだ。また、仏教であろうと、老荘であろうと 一と言う真理真実を掲げる教派は、当然とみなすところである。蛇も人間も 差別がないのが、一と言う真実なのだから。 そういうわけで、若さなどと言うものが何か意味をもつと考えることは、 大きな間違いなのだ。
177 :
考える名無しさん :2011/04/21(木) 17:14:21.81 0
訂正 メス蛇の子供、と言うのはおかしいな。子供のメス蛇と言うのはどうかな? この話は、大乗経典の法華経と言うものの中に出てくる。 法華経は危険な経典である。なぜかと言うと、失敗作だからである。 よくよく一と言う教えを理解してるものだけが、それを発見するだろう。 あなたは、老荘を呼んだり、仏教を読んだり、エレア派の教えを聞いたり、キリスト教を聞いたりするであろう。 其のとき、真理真実が一であると言う道理を知っているなら、これらの教えが よく理解できるだろう。 仏教に、「間を置かぬ教え」と言うのがある。この意味がわかるだろうか? 仏教を「間を置かぬ教え」と言うのである。 どうしてであろうか?
言い伝えによると、老子と孔子は出会っている。 どちらが年上かという話では、孔子は自分のほうが年上だと答えた。 老子はにやにや笑っていたそうだよ。 一般的には老子のほうが年長らしいね。
179 :
考える名無しさん :2011/04/22(金) 07:10:19.56 0
「荘子」で、孔子は五十歳になるのに、真理を理解できないでいると馬鹿にされている。 どちらが年上であるかどうかよりも、真理真実は年齢に関係なく体得されるもんだと考えられているのだ。 また荘子で、真理真実を体得したものは、幼児が何も考えないで行為するように、そのように 行為すべきものだと教えている。イエスの、幼児の心にならなければ天国に入れないと言う教えと同じだな。
180 :
激モテ 石井 慧 :2011/04/22(金) 08:04:27.41 0
181 :
考える名無しさん :2011/04/23(土) 12:49:29.59 0
もし人が一を体現してる人に近づくなら、自分の今までの積み重ねてきた 善も悪も、その人の前でたちどころに消滅するのを知るだろう。 その人はあなたの善悪を見ないのだから。 悪があるなら、消滅するだろう。善が有るならまた消滅するだろう。 その人の前では、善悪はないのであり、あなたの善悪は真実には 邪魔者であったのである。 これゆえに、「慈しみ深き 友なるイエスは、罪とが憂いを取り去りたもう」と言う 歌の歌詞が正しい理解に基づいている事を知るべきである。 老荘の思想に触れても、そのような気分になる。安息を得るのである。 あなたが安息を理解し、其の安息を体得してる人、阿弥陀仏に近づくなら 阿弥陀がメシアであるのも、これによる。 易行ではないかいな〜。 あなかしこあなかしこ これは科学である、理法ゆえに。科学に基づかない信仰は地獄であろう。
182 :
考える名無しさん :2011/04/24(日) 18:57:47.29 0
>>181 つづき
あらゆるものはこれらの聖人の中にいるのであって、それを打ち破ることはできない。
であるから、これらの聖人は、死んでいないのではなく、現実にましますのである。
大ざっぱに4つに分けられる。 ・年齢を重ねるごとに賢くなる、いくつになってもまだまだ熟していくと考え、 生涯現役的な生き方、老齢さも武器になると考えるタイプ。 ・年齢に応じてそれ相応のその人なりの考え方や感じ方になるだろうと思うタイプ。 ・年齢をあまり気にせずその時その場でものを考えるタイプ。 ・若いほうが感性も新鮮である。枯渇しなくていい。だが年齢を重ねていくうちに 徐々に老いることも良い面があるのだとだんだん分かっていくタイプ。
>>1 すべてのクレタ島人は嘘つきだ、と或るクレタ島人が言った
185 :
考える名無しさん :2011/04/28(木) 00:17:43.83 0
クレタ文明も、地震で滅んだと言う。・・・・・・
君不見 絶學無爲閑道人 不除妄想不求眞
187 :
考える名無しさん :2011/05/07(土) 18:47:02.78 0
老荘思想と自然災害とはどのような関係にあるのだろう? 老荘思想によると、人工の社会は否定する。自然の猛威は人工の社会でも 防げない。老荘の社会でも自然災害はあるだろう。だとすると老荘の社会は 人工の社会よりも自然災害に対して無防備で、人工の社会よりも悲惨な状態 を避けることができないのだろうか? そう考えてはならないと思う。自然に対して老荘の社会は、人工の社会よりも 理解が透徹してるのだ。事前に自然災害に対処するのだ。地震が起きる前に 地震を察知した、避難し、其地震を利用するのである。老荘の社会の人間は 自然と一体になった人間であるから、自然に対する理解が透徹してるのである。
188 :
考える名無しさん :2011/05/07(土) 21:06:50.55 0
まあ国民全員が老子というのが理想の社会なのは間違いない 現代社会を見て貧富の差とか資源の問題、環境問題などを考えると どう計算しても上手くなんかいかないように思える ただ全員が老子のようになるのは難しいし、そこまでやらなくても 理想の社会はあるのかもしれん
道徳経に天災関連の記載はあったかな? 戦乱の時代だからねえ。ほぼ統治論だな。 道教の祖の一人なのだろうけど、 老子の「道(タオ)」はよくわからないね。
190 :
考える名無しさん :2011/05/08(日) 11:59:12.73 0
老荘のどちらかに、自然は優しくない、と言う認識を示すものがあったよ。
本能で災害を避けることはあるだろうけど、 運悪く巻き込まれたらそれで諦めようと思っている。
運良く巻き込まれたいわ
194 :
考える名無しさん :2011/05/09(月) 10:55:13.96 0
>>189 >ほぼ統治論だな。
其の統治の原因をタオ「一」の思想によらせよ、と言う趣旨だ。
福音書にイエスが説く天国と言うか、この世での生活の仕方、と言うものは、
候のいう無為自然と同じ意味だ、と思う。
例えば、空の小鳥を見よ、耕した根を巻き、収穫するのではないが、それでも
天の神様は養ってくださっているとか、野のゆりを見よ、栄華を極めたソロモンでさえも、
このののゆりよりも着飾っていなかったのであるとか、弟子たちに、何も持ち物を持たないで
伝道に遣わしていたのだが、弟子たちに、何も持たないでいて、困ったことがあったか、と質問された。
弟子たちは、何も困ることがありませんでした、と答えている。
これは人間と言うものは、外界の自然と相対した存在であることに起因してると思う。
人間がおなかがすいたと言うことは、外界の自然と言う存在があるから、人間の空腹と言う気持ちが発生しているのだ。
このことは、自然に人間の空腹を満たすものがあることを前提にしてるのだ。人間の目の前に
それが直に見えないとしても、あることを信じて良いのである。ないなら、空腹と言う感情がないだろうから。
195 :
考える名無しさん :2011/05/09(月) 11:00:17.18 0
>>194 つづき訂正
候のいう無為自然と同じ意味だ、と思う。
→老荘の言う無為自然と同じ意味だと思う。
例えば、空の小鳥を見よ、耕した根を巻き、収穫するのではないが、それでも
→空の小鳥を見よ、耕したり、種をまき、収穫するのではないが、
>>194 >人間がおなかがすいたと言うことは、外界の自然と言う存在があるから、人間の空腹と言う気持ちが発生しているのだ。
>このことは、自然に人間の空腹を満たすものがあることを前提にしてるのだ。人間の目の前に
>それが直に見えないとしても、あることを信じて良いのである。ないなら、空腹と言う感情がないだろうから。
あるとかないとか言って老子を汚すのか?
無礼だよ。そういう言説は。釣れますか?何がおもしろいんだ?貴様は全然おもしろそうじゃないがね。
197 :
考える名無しさん :2011/05/10(火) 22:04:24.36 0
199 :
南の名無し :2011/05/15(日) 11:37:51.00 0
>>189 >>190 >>道徳経に天災関連の記載はあったかな?
>>老荘のどちらかに、自然は優しくない、と言う認識を示すものがあったよ。
「天地は不仁、万物を以って芻狗(すうく)と為す。」(『老子』第五章)
天地とは非情なもので、万物を祭りが終われば「芻(干草)で作った狗(犬)の人形」のように
投げ捨てるように扱う。
震災では狡猾な者たちが生き残り、善人そのもののような者たちが溺死する。またその逆も。
あらゆる天災やアウシュヴィッツなどの人為的なホロコースト(「地」の動き)もそうだ。
森羅万象において、善悪を超えた基準(「道」)がしっかりと根底で世界を支配している。
「道」の働きは善悪を超えたもの。
200 :
考える名無しさん :2011/05/15(日) 11:52:33.80 0
>>198 あらゆる事象は縁起現象である。其の縁起現象を有と無に抽出して論じてみる。
縁起関係にあるから、有と無には実体がない。それでは有が占めていたところ、無が占めていたところ、
つまり其の場所には、何もないもの、つまり無相なものがあるといわなければならない。
そして、それは一つのものである。初め有と無と言う二つのものがあると思っていたのだが。
真実は、一相なものであり、それは無相なものであることになる。
有が実体としてあると思っていると、決して真実が一相なものであり、無相なものであることが
受容できない。ここから人の妄想の世界が発生する。つまり不真実の世界が誕生するのである。
真実にはないものをあると思ったのは、その有を取り押さえていたいと言う欲望が必然である。
この欲望により世界を見ると、世界は不真実の世界であり、自分の欲望の世界である。
欲望の世界とは、嘘の世界であり、欲望は決して満たされない、世界である。
一方真実の世界は、真実にある世界であり、欲望の満たされた世界であり、満たされているが故に、
欲望を起こさない世界である。
となると、有無を平等なところとみなすべきと言うことになる。無のところには、
無もな空もないのであり、有のところにも、有もなく無もない、と見做すのである。
真実がそうであるから。実体がそうであるから。
欲望を離れて、縁起している事象を見ると、そこは清浄な世界である。美の美であり、
楽の楽であり、・・・。
欲望の人の行為は、真実の世界につながる人の前には、単なる縁起現象であり、
それが真実ではないと知っており、何の影響も受けない。
最近長い文章読むのがしんどい。 みじかくまとめてくれ。。
他人の存在を証明することは、自分を示せばいいだけ そんなことは自明なわけだ
203 :
考える名無しさん :2011/05/17(火) 22:42:41.67 0
>>201 真実は一相なるものであるから、極力欲を小さくするようにするのが
よく生きる幸せになるほう法と言うことになる。
一相とは無相ということであるから、無相であるのに、なんかがあると思ってそれに欲心すると言うこと
がそもそも間違っていると言うことなのだ。
老子荘子が賞与口即と言ったのと同じ原理意味で、ゴーダマも小欲知足と教えているのである。
204 :
考える名無しさん :2011/05/17(火) 22:44:03.07 0
賞与口即→小欲知足
205 :
考える名無しさん :2011/05/18(水) 06:36:10.18 0
キリスト教の神は唯一であると言う。これはゴーダマや老荘と一致している。 キリスト教で、ゴーダマや老荘と異なる大きな得著は、犠牲と言うことである。 どうもこの点が、重大な問題があるのだ。 キリスト教から分離独立した、マホメット教では、犠牲と言う教理はない。 犠牲と言う教理を持たない、マホメット教のほうが、ゴーダマや老荘、それからエレア派の教え の範囲である。
206 :
考える名無しさん :2011/05/18(水) 06:41:26.86 0
207 :
考える名無しさん :2011/05/19(木) 19:47:45.75 0
真理真実が何であるか、常に思い忘れないようにする必要がある。 そのために、真理真実に命名をしているのだと思う。 キリスト教と言うか、ユダヤ教と言うか、それを唯一と言いそれに神と言う名を与えている。 老荘では、一と言う。また枢軸とも言うのか?ゴーダマは、なんと言ったのだろうか? 無相とか一相とか言い、それを体得した人を悟った人と言い仏陀という。 こうして教え教えられ、忘れないように、この世間に留めたのである。 常に、死も生もなく、悲しみも喜びもなく、善悪もなく、優劣もなく 、病気健康もなく、金持ち貧乏もなく、一切の事象はないのであり、 それをあると思い、失うことを恐れることなく、平安であるようにしなければ ならないと言うのである。 墨子と言う人は兼愛を説き、その理由は、天はすべての人に平等であるから、というのである。 天とは、単なる空間上の頭上を意味してるようであるが、どうかな? イエスも、天の太陽が罪人にも善人にも平等に光を注ぐように、人も人を差別しないで完全なものとなれ、と教えている。 天の太陽な、曇りのときもあれば、夜もあるし、太陽の恵みを受ける地域の人もいれば、 太陽の恵みの乏しい地域の人もいる。これでは天は平等に恵みを与えているだろうか? これ見ると、絶対存在を、太陽に比喩するのは、適当ではない。 太陽を真理真実の比喩に用いるイエスや墨子は、比喩による説明としては、理解を得られるものでは有るが、 真理真実に直結していないだろう。
老子というと道教でしょう。、 道教って禅でしょ。禅にもいろいろあるようだけど 道元なんかはだいぶ老子とかけ離れた印象を持つ。 自力で悟るなんてさ。老子みたいな脱力さがないよね。 むしろ他力の親鸞に近い気がする。浄土真宗だか浄土宗だか。 法然が浄土宗だっけ。うろ覚えだが。 昔、バグワン・シュリ・ラジニーシが流行った。
209 :
バッカス :2011/05/21(土) 17:17:06.43 0
>>208 >>むしろ他力の親鸞に近い気がする。
このあたり、かなり難しく感じる。無為自然って他力そのもののような気がするが、『老子』では「天下を取る
(ためには)」と言って大事を為すことを狙っている。天下を取り、大事を為すことはかなり作為、無作為が
入り混じった作業だ。
『老子』を編纂した者が本当に読み手として対象にしたのは、才知があり、意欲的・積極的で、行動的で野心的に
なりがちな人間に対して、「脱力」と無為自然を説いたのではないか。事実、勝海舟は老荘思想の影響を受け、
その弟子坂本龍馬は「自然堂」と名乗り老荘思想の影響を受けていたと評されている。
『老子』を実践するということは、『老子』と関係が深い『荘子』の「達生篇」の蝉取り仙人のように、修練という作為の
積み重ねののちに無為自然という生き方を得ることではないのか。これは「達生篇」全体の主題だ。
210 :
考える名無しさん :2011/05/22(日) 18:03:20.33 0
仏教でも修行の方法として、一点を観想すると言う方法が、精神集中の方法 として説かれている。 一転に集中すると言うことは、他の一切を思わないということだ。 しかし、一点に執着している、と言うことになるよね。この点はどうなのかな? 執着してはならない、と言う教えがあるのだから。いかなるものにも執着してはならないと。 しかし、一点に執着すると言うのだが。 一点に執着すると確かにその他のものは消えうせる。しかし一点は残る。 しかし、一点だけが残るのであり、その他ものは消え失せている。 残る一点は、どのような存在か?もしそれが、相対的に存在するものなら、 それは一点といえるだろうか?それは二点ではないのか? 観想の対象である一点とはどのようなものか?それは鉛筆の先でつけられた点か? それで良いのだと思う。それしか見ない観想しないのである。 他の雑念を排除し、その鉛筆の先でつけられた一点を観想することができるようになると、 その一点は、存在する一切のものである。鉛筆の先の一点が、鉛筆と言う亜鉛の存在が 消滅し、無相の拡大するのではないのか?こういうことになるに違いないと思う、がどうか? 大事な修行に、こういう鉛筆の先で記された一点を利用すると言うのは、なんだか邪道ではないのか、 と思いたいが、現実そのものが、縁起現象であって、縁起現象から解脱するためには、 縁起現象の内でも、鉛筆の先の一点を便宜的に利用するのは、不合理ではない。 要は、無相一相にいたれば良いのだから。
量子魚雷思想哲学!?♪。
212 :
考える名無しさん :2011/05/23(月) 07:58:33.89 0
達生篇は出家を説いているな。 そこで肉体のためにあくせくする事をやめたいなら、世間を捨てる事が第一である。世間を捨てれば、面倒なわずらいが無くなり、わずらいが無くなれば心は正しく安らかである。心正しく安らかであれば、広い世界とともに新しく生まれ変わる。 新たに生まれかえれば、究極に行き着いたことになる。この境地では世事を世事として捨てるには当たらない。そして生命を生命として忘れ去るにも当たらない。こうして世間の事を捨ててしまうと、肉体は疲れず、生命を忘れてしまうと、 精神も損なわれない。そもそも肉体が安全に保持され、精神が損なわれなく本来のあり方に立ち戻れば、天地自然の働きと一つになる。天と地は万物の父母である。天の陽気と地の陰気が合すると、万物の形が出来、分散すると未生の始の状態になる。 肉体と精神が損なわれずにあることを自然とともに推移するという。かくて精に精を重ねてその極地に至れば、かえって天地の化育を助ける事になるのだ
213 :
考える名無しさん :2011/05/23(月) 07:59:37.72 0
これが痛い 扁先生が答えた「お前は、あの至人(しじん・道をわきまえた賢人)のおのずからの振る舞いを聞かされた事がないのか。至人は肝臓や胆のうなどの内臓の事を打ち忘れ、耳や眼などの外形の事も打ち忘れ、とらわれの無い有様で俗塵の外で気ままに振舞って、 ことさらな事をせず、自然の働きをのびのびと楽しんでいるのだ。これこそ『為して恃まず、長じて宰せず』(自然に任せて成果を当てにしない。養い育てても、自然にまかせて取り仕切ったりしない)といわれている事だ。ところが今のお前は、知識を飾り立てて愚か者を驚かせ、 わが身をおさめて他人の欠点をはっきりさせ、きらきらとしてまるで日月をかざして歩いているようだ。お前などは五体満足で目鼻や耳や口もそろい、人生半ばで聾唖や盲や身体障害の災にも合わず、人並に居れるだけでも幸せな事だ。天を怨んだりする事がどうして許されよう。 そなた、出て行ってくれ」。
孟子「己を知らずんば己に勝つ」
孟子もピアノが弾けたなら〜♪
216 :
考える名無しさん :2011/05/28(土) 06:46:40.76 0
>>213 >為して恃まず、長じて宰せず』(
これって、人工的な人の行為も、自然の内に有るものとみなすと言う意味なのかな?
人間の行為というものは、例えば、人のものを盗む、人を殺す、騙す、姦淫する、
と言う行為も、所詮は自然の内のものと言う意味か、と言うことなのだが。
それから、人が社会を法律によって形成しているが、これも自然なものの内だと言うのか?
そうすると一切のものは、自然現象ということになるが、そういう意味なのかな?
つまり自然現象とは、縁起現象であり、人間の行為する一切も自然現象の中のものであるとして、
故に、人間のすること一切は、縁起現象であると言うことになるが、そういう意味か?
こういうことのようだな。人殺しも、盗人も、女たらしも、詐欺師も、縁起現象に過ぎないと。
そういえば、イエスは、上着を奪うものには下着をも与えよ、右のほほを打つものには左のほほをも打たせよ、
と言う教えは、根拠があることになる。
217 :
考える名無しさん :2011/05/28(土) 18:13:42.11 0
ロ・ロ・ロ・老子アンルーレット
218 :
考える名無しさん :2011/05/30(月) 09:25:24.40 0
求道者は?
219 :
如 水 :2011/06/04(土) 20:51:49.63 0
>>212 >>達生篇は出家を説いているな。
そうだろうか。
自己を棄てて無になるという時、それはたいてい世間との関わりの問題が多い。
それは他者と自己との差別からくるものだ。
「棄世」
約二、三年ぶりに『荘子』達成篇を読み返して、自己を棄てようと思う者、
世を棄てられなくて「天と一為る」ことができるものかと思った。
世を棄てることは、消極的な「気」の衰退を示すことではなく、
「ゼロ」に至ることによる、莫大なる天地自然の神気を得ることである。
老荘思想っていうのは隠者の思想らしい。 隠者というのは没落した官僚や貴族の事で 落伍者の現実逃避的で哀れで危険な思想ということになる
221 :
考える名無しさん :2011/06/05(日) 11:22:43.96 0
キリスト教のイエスは、自分に追従しようと言う人が、「まず、今死んだものが居りますので、 それの葬式を済ませてから、あなたのところに参ります」と言ったところ、「葬式は死者に任せなさい」と教えた。 死者に任せるとは、死者を放置しておけという意味ではなく、死者を弔う人々を「死者」と呼んだ者と解すべきである。 つまり、葬式は死者たちの儀式である、生きてるもののすることではない、と言うのである。そしてイエスに追従するものこそ、 生きる人であるというのだと思う。 上の意味は、出家に相当する。この世間は、死者の世界なのだと言うのだ。 その死者の世界から脱することが出家であると言うのだ。または、イエスに追従する 世界であり、天国もしくは神の世界、であると言うのだとおもう。 医者が活躍する世界、葬儀を職業とするもののいる世界、裁判官のいる世界、農夫のいる世界 、要するにこの世間=この世界のことであるが、この世界は、死者の世界なのだ。 今の現代人にとって出家とは、要するにこの世界のしきたりとか慣わしとか、医者が提言する 養生法などが支配している世界から、脱することなのだと思う。 特定の宗教に所属してはならないだろう。そんなことをするとイエスの言う本当の命の世界に入れないことになる。 生命保険を持っていてはならないだろう。医療保険を捨てなければならないだろう。 出家する人が目指す世界は、不生不滅の世界なのだ。
222 :
考える名無しさん :2011/06/05(日) 11:39:55.65 0
いわんや、墓場の心配、直送で良いんじゃないとか、子孫の心配、遺産の心配 、そんなこと一切を考えてはならない。 そう、生きてる間は、それから食物の心配、一切の心配をしてはならない。 まあ、このことを、ゴーダマは、世界の究極にいたらなければならない、と言ったのであり、 中途半端は、絶対に許されないのである。それは真理真実ではないことになる。
老子って可愛いよね
224 :
考える名無しさん :2011/07/03(日) 16:24:33.35 0
老子は手話で話したんじゃね?
225 :
考える名無しさん :2011/07/03(日) 17:10:47.00 0
言葉ってのは不思議だね、 じゃあ人間が動物の真似をしたって多分駄目だろう でも言葉自体は無意味なものだとも思える っつうことは人間はロゴス的な生き物だと言える とするとプラトンのイデア論は便利だね それが人間のイデアという事にしてしまえば解決するわけだから 哲学的には自分が霊長類の何目だとか、遺伝子がこうだとか考えなくても いいわけだからね
226 :
考える名無しさん :2011/07/03(日) 17:14:40.26 0
227 :
考える名無しさん :2011/07/03(日) 21:58:21.58 0
>>1 老子は実在すらしていない。理由は我、空と共に無なり。
この世は常に幻想、全て無一色だ。
汝、透明になれ。存在はただ空虚なり。
228 :
考える名無しさん :2011/07/07(木) 09:36:44.95 O
229 :
如 水 :2011/07/19(火) 18:10:26.93 0
>>213 「達生篇」第十一説話で見られるような、踏んだり蹴ったりの境遇にある人間が、
己の心の現象(肝胆)と世間の耳目(聞いたり見たりする事)を忘れて生きるのは難しい。
そのような中で絶えず「道」を忘れないで生きるには、何かしらの工夫が必要なのかもしれない。
説話中、「無事の業に逍遙す」とある。
とりあえず『荘子』逍遙篇冒頭に戻り、大鵬の声に耳を傾けてみるか。
230 :
考える名無しさん :2011/07/27(水) 19:35:53.42 0
老子の教えを学び実行する。そして成果を実感する。その時 老子の教えを学んだから、その成果が結果として生じたのであると、思わない と言うのである。老子がある行為を正しく行うと、それに縁起して他者は 同じく正しい行為をせざるを得ないようになる。彼は、そのように正しい行為をしたのは、 自然にしたことであって、誰かからの原因結果であるとは思えないのである。 誰か他者の命令でしたとか、影響でしたとか、そういう気持ちは発生していないのである。 それは彼自身の真正の気持ちであり、それからの行為なのである。これが自然無為と言われる行為なのである。 これは真理真実として、一を認めるからである。意識的に認めるのではなく、 無意識に認めているからである。 老子にこの部分の教えが有るが、引用するためには浅学すぎるのでしない。 ゴーダマの弟子で、ゴーダマへの恩が強すぎて、ゴーダマに足を向けて寝ることができない と言うものがいたことが、中村元訳の「感興の書」だったと思うが、それに記されている。 これは正しい態度の弟子であろうか?一時的なものではないだろうか? 正覚を得たものが複数いて、彼らは平等である。しかしながら、彼らのうちの特定のものを 師としてあがめるなら、彼らのうちに平等はない。平等がなければ同じ正覚を得たものとはいえない。 正覚を得ているなら、誰が師であるとかということはない。 これと同じことを老子は言っているのだと思う。
老子ってただのヘタレだよね
232 :
考える名無しさん :2011/08/28(日) 16:28:18.39 0
test
233 :
考える名無しさん :2011/08/28(日) 16:56:17.29 0
一を説いたパルメやゼノンは、イエスのような奇跡をしたとかの記述はないし、 ゴーダマや、老荘のように、太陽を掴むとか、天空に上るとかの、可能であることの 記述がない。 奇跡や、太陽を掴み、死人をよみがえらせるなどは、大して価値のないことなのである。 死人からよみがえったラザロは、その後どうしたのか?永遠に生きたのか?同じように再び 死んだのだろう。奇跡はその場限りのものだった。 ゴーダマは、真実が空であることの証明のために、空中に登り弟子にその実態を体験させた。 イエスが奇跡を起こしたのは、神の実在を教えるためであった。神の実在とは空性が真実であるということである。
「少国寡民」を見直したほうがいいと思う このままでは人口減だから移民入れようという話にしかならない。 日本は過剰な外部との交わりは絶って風の谷みたいな国になればいいんだよ。
235 :
考える名無しさん :2011/09/11(日) 18:39:52.86 0
>>234 ?
ところで、先日アメリカ国民のムスリムに対する警戒感を放映しておった。
ムスリムもキリシタンも同じ神なんだろう?
イヤー、宗教間の戦争と言うのはあるんだね。
神を知らないからだよ。老荘にお出まし願わないとな。
236 :
考える名無しさん :2011/09/18(日) 15:17:03.34 0
社会的に老子の思想一辺倒でも良く無いだろうけど、 日本は老子的な所が足り無すぎて問題が起きてる所が多い。 学校で教育内容や仕組みにしても、ひどい事でも何でも教えようとしてる所とか。 その影響がブラック企業や、そうじゃ無くても様々な偏見や差別を引き起こしている所とか。
237 :
考える名無しさん :2011/09/25(日) 09:34:30.26 0
道教と言うのは、老荘の教本を経典にしてるのか? もしそうなら、良いな。 唐の玄宗皇帝は、道教を仏教の上に置いたと言う。同じ教えなら、 自国の風土の中で生まれた老荘の教えの方が良いだろうよ。 儒教は老荘と隔絶してる。孔子は老荘の真理を知っていない。 仏教も十世紀には、回教、ヒンズー教に押されてインドでは滅んだ。 同じ一を説く古代ギリシャのパルメニデス、ゼノンの教えは、キリスト教の吸収 されて生き残っているのだが、其の教主の名前は跡形もない。 ・・・・・・・
239 :
考える名無しさん :2011/09/30(金) 18:31:21.46 0
>>238 社会的には一辺倒じゃ無い方が良いんじゃないかな。
一辺倒の人がいても良いと思うけど、
みんな一辺倒じゃ無ければまで行くと行き過ぎになるっていう。
無ければじゃ無くても、自然に全員一辺倒になる事は無いっていうのもある。
知者不言、言者不知 言うまでもない、と、言わねばならない、の違いのありかた
老子は嘘つき
242 :
考える名無しさん :2011/10/02(日) 10:48:53.95 O
こんなん役にたたんから、関わらん方がいいぞw
243 :
考える名無しさん :2011/10/03(月) 18:13:36.93 O
と言いつつ関わる242‥
244 :
考える名無しさん :2011/10/04(火) 09:10:09.70 0
各篇の名称 [編集]第一 徳行篇(徳の高い人物の話) 第二 言語篇(外交的弁舌に優れた人物の話) 第三 政事篇(優れた統治能力を持った人物の話) 第四 文学篇(学問に優れた人物の話) 第五 方正篇(己の信じる義を貫いた人物の話) 第六 雅量篇(度量の広い人物の話) 第七 識鑒篇(シキカン、知識、判断力に優れた人物の話) 第八 賞誉篇(厳正に公平に人を褒め称えた人物評) 第九 品藻篇(品格や才能にあふれた人物の話) 第十 規箴篇(人物の良し悪しの判断に優れた人物の話) 第十一 捷悟篇(問題に対する対応力に優れた人物の話) 第十二 夙恵篇(大人顔負けの教養を持った子供の話) 第十三 豪爽篇(豪快でさわやかなすっきりした性格を持った人物の話) 第十四 容止篇(美男子の話) 第十五 自新篇(過去の過ちを己が力で正した人物の話) 第十六 企羨篇(目標とする人物に近づこうと努力しそのようになった人物の話し) 第十七 傷逝篇(死者を心から偲んだ人物の話) 第十八 棲逸篇(世俗を離れ山野に下った人物の話) 第十九 賢媛篇
245 :
考える名無しさん :2011/10/04(火) 09:11:36.72 0
>>244 続き
第二十 術解篇(占術、医術、馬術などに優れた人物の話)
第二十一 巧芸篇(芸術に長けた人物の話)
第二十二 寵礼篇(才能などを認められた上で寵愛を受けた人物の話)
第二十三 任誕篇(世俗にとらわれぬ人々の話)
第二十四 簡傲篇(驕り高ぶった性質を持った人物の話)
第二十五 排調篇(他人を言い負かしたりやりこめたりする話)
第二十六 軽詆篇(他人を軽蔑し誹る行いをした人物の話)
第二十七 仮譎篇(カケツ、他人をうまくあざむいた話)
第二十八 黜免篇(チュツメン、左遷や免職に関する話)
第二十九 倹嗇篇(ケンショク、けちんぼの話)
第三十 汰侈篇(タイシ、ぜいたくに関する話)
第三十一 忿狷篇(短気な人物の話)
第三十二 讒険篇(悪説により他人を陥れた人物のはなし)
第三十三 尤悔篇(同じ過ちを繰り返し起こしてしまった人物の話)
第三十四 紕漏篇
第三十五 惑溺篇(女性に迷い溺れた人物の話)
第三十六 仇隟篇(キュウゲキ、仇を恨んだ人物の話)
246 :
考える名無しさん :2011/10/04(火) 09:15:38.48 0
>>244 続き
この「世説新語」と言う本は、この内容を見ると、これはたいした人間を見る目のある人の
者と言う感じがしないか?
これは読んで見る価値がありそうだ。
ネットで読めるサイトがないかな?
老荘ファンには最適なものではないか?
247 :
考える名無しさん :2011/10/06(木) 08:57:20.25 0
真実は「一なるもの」で絶対存在である。 これを分割すると言うことは不可能である。 にもかかわらず、分割する人がいる。そういう人は真実に反するが故に 絶対的矛盾に対面する。 この矛盾を説いたのが、パルメニデス及び其の弟子ゼノンであり、ゴーダマであり、 老荘である。そして、名家と言われる集団もまた其の一派であるが 詭弁集団としてみなされているが、それは誤解である。 名家の中の恵子「恵施」は「われ万物を愛す」といったというが、 それは当然であろう。 名家の「堅白論」「白馬非馬説」は、説く者自体(公孫竜)の誤解が混入していると思われる。 「飛んでる矢は止っている」と言うのと同じに、白馬でなくとも、「一切の馬は 馬ではない」と言う意味なのだ。其のわけは、真実が「一なるもの」と言う場合、 色彩の変化と言うものはありえないし、馬と言う形態の変化もまた、ありえないのである。 「一なるもの」とは一切の変化がないという意味なのだ。「飛ぶ」と言う変化は無いのである。 矢と言う形態の変化もないのである。 「白馬は馬ではない」と言うと、それじゃ黄色い馬のは馬なのか、と言うことになる。 馬は走らない、と言う命題に等しいのだ。
色即是空空即是色みたいなもんでって言うと、仏教とは違うと言われそうだが、 一なるものと分割されたものは同時にあるものだよ。
いったいなぜ、昔から この道がこんなに貴ばれるのか 知っているかね? ダメな奴も 世間でいう罪を犯した者も 黙って受け入れてくれるからさ。 タオはね、 世の中でダメ人間とされる連中の 避難所だといえるんだ。
250 :
考える名無しさん :2011/10/07(金) 08:44:04.45 0
>>247 大事なことを忘れていた。
「飛んでる矢は止っている」と言うのが真実のありようであり、世間で言われているような、
「矢は飛んでいる」と言うのこそ、矛盾なのである。
同じく、アキレスは亀に勝てないと言うのが真実であり、アキレスは亀よりも速く走る、と言うのが
矛盾しているのである。
以下に銘菓の論題を提示するが、これが真実であり、世間の認識こそ矛盾しているのだ、と言えると思う。
言えると思うとは吟味していないからであるが。
(12)亀は蛇より長い
(13)差し金では方形は出来ず、規(コンパス)では円形は作れない。
(14)のみでくりぬいたほぞ穴は、はめ込んだほぞを囲んでいない
(15)飛ぶ鳥の影は決して移動しない
(16)矢がすばやく飛んでいくのに、進みもせず止まりもしない時が ある。
(17)狗は犬でない
(18)黄色の馬と黒い牛とで三となる
(19)白い犬は黒い
荘子天下編
251 :
考える名無しさん :2011/10/09(日) 16:38:51.73 0
公孫竜はプラトンのイデア論と同じ思想に流れたので、捨てられた。 プラトンのイデア論とは、ソクラテスの論法である。ソクラテスの対話は どれもこれも結局成立しないのであった。 ソクラテスの前にはパルメニデスゼノンの説く「一」の思想があったのだが、それを 習得できなかった。 公孫竜の前には、老荘、恵施の「一」の思想があったのだが、その一の思想から逸脱し 、イデア論に執着した。その原因は、言葉と言う文化=分化に執着したがためである。 言葉などと言うものがあるはずがないのだ。バイブルの初めに、新約聖書のヨハネ伝の初めに 「言葉は神であった」とあるが、これは嘘である。
実にダメな思想だな
253 :
考える名無しさん :2011/10/10(月) 13:27:15.27 0
恵施(けいし・荘子の友人、論理学者で魏の宰相を勤める)は多才で、蔵書は五台の車にいっぱいと言うほどであったが、その学問はばらばらの寄せ集め、その議論も的外れが多かった。事物の意味を次々と検討してこんな事を言っている。 (1)究極の大きさとは、その外側を囲むものが無い事である。これを大きな一と言う。究極の小とは、その内側を満たすものが無い事である。これを小さい一と言う。 (2)厚みを持たないものは積み上げるわけにはいかないが、その大きさは千里四方に及ぶ。 (3)天の高さは地面と似たもの、山の高さは沢地と等しく平らかだ (4)太陽が真上に来ることはちょうど西に傾くことである。万物が生まれることはちょうど死ぬ事である。 (5)大きな類同と小さなり類同とでできる同異を小さい同異と言う。万物はことごとく同じでも、ことごとく異なるという同異、これを大きな同異と言う。 (6)南方といえば果てしなく極まりの無いものであるが、また極まりがあるとも言える。 (7)今日、南の越の国に旅立って、昨日到着する。 (8)繋がった知恵の輪は解きはずす事ができる。 (9)自分にはこの世界の中央が分かっている。北国の燕の南の土地が、それである。 (10)万物を広く隔てなく愛すれば、天地も一体となる。 恵施は以上の命題を優れたものと自負して、これを天下中に公表し、論理学派の人々を説得した。そこで天下中の論理学派はともどもにこれを楽しんだ。
老子ってどうよ
日本が少子高齢化を受け入れるための思想的基盤
あなたが貧乏であれば、あなたは貧乏人です。金持ではない。 金持になりたいと思っても、今日のあなたは貧乏人として生きるよりほかない。 だとすれば、あなたは今日一日、立派な貧乏人として生きるべきです。 あなたががんになれば、あなたはがん患者のまま生きるよりほかありません。 それであれば、幸せながん患者として生きたほうがよいのです。
257 :
考える名無しさん :2011/10/19(水) 18:48:01.01 0
>>254-255 老子とても、荘子やゴーダマ、イエス、パルメと同じである。
一からその思想は出ている。そのつもりで解釈しないと判らない。
イエスと同じ一から説いているので、イエスと同じ教えがあるのは、当然であるが
時代、地域がすごく離れていながら、同じ教えと同じ根源を持つ人がいるのを見出すのは、
歴史を学ぶものには、看過できない事実であろうよ。
>日本が少子高齢化を受け入れるための思想的基盤
欲を出さない、小欲知足を実行するものなら、そういう世界になるだろう、と言う教えである。
258 :
バッカス :2011/10/19(水) 20:55:14.28 0
老子の教えは読み手により変幻自在。 「日本が少子高齢化を受け入れるための思想的基盤」でもあり、 ボロをまとった聖者や乞食の拠り所でもあり、 戦国時代の統一者、高祖、家康への指南書でもある。 勝海舟、坂本龍馬にも好んで読まれた。 そもそも、『老子』は多くの研究者の指摘するように、 考え抜かれた、極めて政治的な編纂書である。
259 :
考える名無しさん :2011/10/20(木) 02:10:28.65 0
>>1 それ、毫も論破になってなくってよ。
老タンは何も知らない、というあなたの意見は正しい。
だけど、それが老タンの理想なんだからそれでよくってよ。
「何も知らない」ことの神聖さがわからない人にはただの詭弁にしかみえなくても、
わかる人にはわかるの。で、このわかる人を彼は聖人と呼ぶの。それだけよ。
260 :
考える名無しさん :2011/10/20(木) 12:30:13.99 0
>>246 新書はちょっと俗っぽいわよ。一応老荘的ではあるけど、
それこそこのスレの
>>1 の指摘で「論破」されちゃうレベルの人の話が多いわ。
261 :
考える名無しさん :2011/10/20(木) 22:28:11.11 0
証拠がないので、なんとも言えませんね。
262 :
考える名無しさん :2011/10/22(土) 08:44:07.53 0
真実がどのようなものであるかを知らないで、聞くに値するもしくは話すに値する ことが言えるなどと言うことはありえない。 これは荘子のどこかで言われていたことと思う。 人間の偉さ、このことを焦点にするというだけでも、捨てがたいのである。
人間は考える葦である
264 :
考える名無しさん :2011/10/22(土) 11:04:56.35 0
現代社会では、お金持ちが偉いかのようだ。お金持ちだけが幸せな人間とみなされている。 徳ということがそもそも何であるか判らなくなってる時代世相なのだ。 徳以外の何も必要ではないと言うのが、洋の東西を問わない、古代の尺度であった。
老子の思想と少子高齢とは何の関係もない
266 :
考える名無しさん :2011/10/24(月) 20:21:48.37 0
[解説]
以下に紹介するのが、老子の描いた理想郷です。「小国寡民」とも呼ばれます。原始の社会を書いたもので、現代人には理解できないと思います。この時代の司馬遷でさえ、これじゃ社会は発展しないと酷評しています。
ただ老子が教えようとしたのは為政者たちで、庶民の本当の幸せはこうした社会にあるといっているのです。これは現代人のわれわれにも心響きます。反省の材料です。
*
『国を小さくし、民を少なくする。
様々の道具があるが使用する事はない。
民の生命を重じて、遠くに移り住まわせない。
船や車はあるが、これに乗って行く所はない。
鎧、刀など武器はあるが、これを集め並べることはない。
民には古代のように縄を結んで記録する方法を取らせている。
食べ物はおいしく、着る物はきれいだ。住まいも気持ちよく、皆風俗に馴染む。
隣国とは互いに望見する事ができるし、鶏や犬の声も聞こえて来るが、老いて死ぬまで互いに行き来する事はない』。
http://www4.tokai.or.jp/kyuguan/mutoku/15_07risou.html ・・・・・
とあるから無関係とは言えないだろう。
わかるのは
>>1 には死んでも老子を理解できないし論破なんて永遠に無理だ
ということだな
老子の足元にも及ばない、というか、老子の鼻毛ほどの知性もないなり
268 :
考える名無しさん :2011/10/25(火) 07:08:33.59 0
>>266 小国寡民と少子高齢化とはベクトルが違う。
269 :
考える名無しさん :2011/10/25(火) 19:40:03.02 0
老子を読んでると、なんか人間がやわらかくなる感じがする。 道教とは老子を信仰するものだが、道教の信者は、この現実の世界で、 ひょっとすると、尤も安楽な生活をしてる、宗教信者の可能性がある。 同じ一を説いているもの、キリスト教、回教、仏教、を比較してみると、 ・・・・・
老子を信じちゃいけないよ
271 :
考える名無しさん :2011/10/27(木) 10:16:01.54 0
なぜ?
老子は人を堕落させる
人は老子を堕落させる
274 :
考える名無しさん :2011/10/29(土) 11:58:59.18 0
>>269 この一の思想真理を否定する宗教団体がある。それは日蓮信徒の団体である。
特に層化である。
にもかかわらず、自分たちを仏教徒であるとしている。
275 :
考える名無しさん :2011/10/29(土) 12:05:33.99 0
今話題に人、アップルの故ジョッブズ氏は、仏教の禅の思想を学んでいたというではないか。 それなのに、彼は、生に執着し、現在の生命を執着し、その存続を望んでいたと言う。 禅で何を学んだのか、何にも学んでいなかったのではないのか?
276 :
考える名無しさん :2011/10/30(日) 13:22:37.03 0
>>272 >老子は人を堕落させる
老子は永遠の智慧を説きそれに基づく生活を説いたのである。
老子の智慧を知らないで、無為自然と言う教えを知らないで、怠けることと
理解しているなら、それは堕落したものと言うことになろう。
その誤解の根本的誤りは、自分と言うものが自然の一部であることを忘れていると言うか、
看過しているところにあると思う。
自分と言うものとその他の周囲の自然とは、別なものでは無いのである。同じ自然なのだ。
種が適度な大地に落ちると、春には芽を出し、成長する。太陽を求め水を求める。
それと同じに、人間も適度な大地に誕生すると、成長するのだ。そのとき植物と違って、
食物を他の自然から摂取するのだ。それは植物であり、他の動物であり魚介類なのだ。
人間型の植物の内食べるに適したもを選択するのは、本来の性質による。それ以外口に入れることができないのである。
動物魚介類にしろ同じだ。これは、植物の根が大地に中で自分に必要な栄養素を吸収するのと同じで、
どれが自分に適しているかは、本来の性質に拠るのだ。こういうことを『自然』というのである。
今マスコミ等が、自然と言うと、山岳風景などを言うが、本来そのものに備わっている
識別能力が自然なものであることを認識しなければならない。そして、老荘の言う自然とは
この本来的な識別能力を言うのである。仏教で言うなら、五蘊のことである。
色、受、想、行、識である。
そしてこの自然に対して何も手を加えてはならないと言うのである。このことを『無為』というのである。
何故であるか?一切の変化は、同じものであり実相は変化していないからであると言うのである。
277 :
考える名無しさん :2011/10/30(日) 13:23:29.65 0
仏教の般若経では、五蘊は空であるから、五蘊の世界から抜け出せ、と教えている。 ご運の世界に執着してはいけないと言うのである。変化に執着してはいけないと言うのである。 これは現実には、つまりこの教えを実行するためには、変化していく現象をそのまま受け入れると言う ことになるだろう。同じものとして。病気も健康も同じものなのだ。 同じものであるので、どちらにも執着しないで、いなければならないことになる。死も生も同じものなのだ。 だから、死にも生にも執着しないのである。死も生も同じものとは、死も生も実体としてあるものではなく、 単なる縁起してる幻に過ぎない、ということなのである。
278 :
考える名無しさん :2011/10/30(日) 16:21:25.47 0
人間は考える葦である
279 :
如 水 :2011/11/02(水) 18:17:42.94 0
>>272 >老子は人を堕落させる
何をもって「人の堕落」と言うのだろう。
フーテンの寅さんに似た人間が気高くて、人を蹴おとし、人と競争しながら
ガツガツ働く男が「堕落と退廃」の人間であるという見方もある。
老子の価値観とは通俗的価値の転倒したものだから、何でもありだ。
ただ、「道」に添うてれば良い。
280 :
考える名無しさん :2011/11/03(木) 10:23:37.31 0
自然とは縁起のことである。縁起が空であることになるから、自然は空なのである。 東北で大地震があったというが、それは自然現象に過ぎず、つまり、縁起現象に過ぎず、 それの実体は無いのである。 幻に対しては、をれを見ないことである。それを聞かないことである。それを言わないことである。 なぜか?幻であるから。嘘であるから。悪魔の誘惑であるから。 妻子供が助けを求めている。それは幻である。妻子供を助けようとしてはならないのである。 妻子供が助けを求める現象は悪魔の誘惑である。 幻であるから、それに騙されてはならないのである。
どうでもいい思想だな
282 :
考える名無しさん :2011/11/04(金) 22:00:56.92 0
一の思想は、妬み深い神様 この神様によらずして、平安に入ることはできないアル。
283 :
考える名無しさん :2011/11/05(土) 11:08:06.40 0
http://www.chonmage-eigojuku.com/magetan/roushi01.html 第五章
原文
天地不仁、以萬物爲芻狗。聖人不仁、以百姓爲芻狗。
天地之間、其猶槖籥乎。虚而不屈、動而愈出。多言數窮。不如守中。
書き下し文
天地は仁ならず、万物をもって芻狗(すうく)となす。
聖人は仁ならず、百姓(ひゃくせい)をもって芻狗となす。
天と地の間は、其(そ)れ猶(な)お槖籥(たくやく)のごときか。
虚(むな)しくして屈(つ)きず、動きていよいよ出ず。
多言はしばしば窮(きゅう)す。中(ちゅう)を守るに如(し)かず。
英訳文
Mother Nature is not benevolent. She uses all things once and then throws them away.
The saint who knows "the way" does not express benevolence.
He rules people like he is ignoring them. The work of Mother Nature is like a bellows.
All things are produced every time she moves, even though she is empty.
If you cannot put your words into practice, do not speak flowery words.
現代語訳
天地自然の働きに仁愛の心は無い、万物を使い捨てにしている。「道」を知った聖人の政治も仁愛の心は表さない、民衆に対して素知らぬ顔をしている。
天地自然の働きは空気を送り出す鞴(ふいご)の様なもので、空っぽの中から尽きることなく万物が生み出され、動けば動くほどに溢れ出てくる。
仁愛をいくら言葉で言い表そうとも実行できずに終わるのならば、余計な事は言わない方が良い。
284 :
考える名無しさん :2011/11/05(土) 12:07:56.18 0
http://www.asahi-net.or.jp/~qh4s-kbym/Tao1.html (5)自 然
自然はけっして親切ではない。
自然は万物を,神に捧げた後に捨てられる“わら作りの犬ころ”のように取り扱う。
成人もまったく自然がそうであるように,
民を“わら作りの犬ころ”同然に扱う。
なんと天地(あめつち)は,風を送る“ふいご”のようであることよ!
空虚であってなお,物の供給は途絶えることが無く,
動けば動くほど,物は生み出される!
万言が費やされて,知は涸れて
なお,世界の“芯”(中,核心)は不滅である。
285 :
考える名無しさん :2011/11/05(土) 13:03:42.67 0
>中(ちゅう)を守るに如(し)かず。 >なお,世界の“芯”(中,核心)は不滅である。 ここに中道=中庸が説かれている 相対的に存在するもの、例えば、大小について言うなら、 両方の中間で、それは大の半分と小の半分をプラスしたものである、 と言うのではない。もしそれなら、その中にはやはり、半分の大と半分の小が あることになろう。大と小が混合しているのだから。 いくら両方の中間を細分化して言っても結果は同じ、大と小の混合したもので、 中道=中庸ではない。 中道は大と小とは無関係なものでなければならない。 それは空虚である。虚空である。一相=無相である。 これが中道:中庸である。 中道を生きるなら、大小を見てはならないことになる。話してはならないことになる。言ってはならないことになる、
上善若水。水善利萬物而不爭,處衆人之所惡,故幾於道。居善地,心善淵,與善人,言善信,政善治,事善能,動善時。夫唯不爭,故無尤。
287 :
考える名無しさん :2011/11/05(土) 18:44:32.45 0
判らん
288 :
考える名無しさん :2011/11/06(日) 09:07:41.86 0
こうしてみてみると、
>>266 の小国寡民の住民生活は聖人の生活ではなかろうか?
聖人の生活は尤も幸福なものと言うべきだろう。
*
『国を小さくし、民を少なくする。
様々の道具があるが使用する事はない。
民の生命を重じて、遠くに移り住まわせない。
船や車はあるが、これに乗って行く所はない。
鎧、刀など武器はあるが、これを集め並べることはない。
民には古代のように縄を結んで記録する方法を取らせている。
食べ物はおいしく、着る物はきれいだ。住まいも気持ちよく、皆風俗に馴染む。
隣国とは互いに望見する事ができるし、鶏や犬の声も聞こえて来るが、老いて死ぬまで互いに行き来する事はない』。
289 :
考える名無しさん :2011/11/06(日) 09:12:28.99 0
(80)小さな理想郷 少ない人口の小さな国(であらしめよ)。 そこには品物が,人々が日常用いる品数の十倍も百倍もある。 人々は日常の生活を大切にして遠くへは出かけないようにする。 そこには舟や車はあるけれども, それに乗る者はいない。 よろいかぶとや武器はあるけれども, それらを表に取り出す機会がない。 人々に(昔のやり方だった)縄の結び目を数えて意志を伝え会うようにする。 人々に日々の食事を楽しまさせ, 着古しの物をきれいだと思うようにさせ, 日常に住む家に満足させ, 習俗を歓迎させる。 隣り合う集落の(地域の)人々とはお互いに見えているし, 隣人達の犬の鳴き声や雄鶏のときの声も聞こえてくる。 そして生涯の終わりまで人々は, 決して自分の国の外に出ようとはしない。
290 :
考える名無しさん :2011/11/06(日) 09:12:40.20 0
久美子軟派したwwwww
291 :
考える名無しさん :2011/11/07(月) 08:44:38.37 0
こうしてみると、人類の過去の歴史もないことになるし、未来の歴史も ないことになる。実際ゴーダマはそのように教えている。 世界遺産などといっているが、こういう感覚は真理への道を曲げるものだ。 今のコマーシャルを見聞きしていても、人を煽るような言辞が満ちている。 こういう悪魔の誘惑を警戒してる又はできる人はどれほどいるのだろうか?
292 :
考える名無しさん :2011/11/12(土) 12:24:08.24 0
>>289 小国寡民を愚民政策であるという記事がある。
愚かな見識だ。ここに見える住民は聖人だよ。
老子の生年が問題になるときがある。孔子を基準に考える。
孔子より前か後ろか、と。
荘子の視点を基準にしたほうが良いと思う。
荘子では、老子と孔子は大体同年代に生きていたと考えている。
そして、孔子の著には、中庸なるものの言辞はあるが、その意味が理解されていない。
これは後年朱子に於いても理解されないままだ。もし理解されているなら、
孔子の教えは大変革していただろう。そして孔子の『中庸』は孔子の孫の子思
が表したというではないか。老子の道徳教には、孔子の思想を批判する言辞があるらしい。
しかし孔子の著には、老子の教えについて何もないという。何もないというと語弊がある。
中庸と言うのがあるのだが、理解していないままなので、労使の教えに近づけなかったのである。
293 :
考える名無しさん :2011/11/14(月) 08:33:47.64 0
294 :
考える名無しさん :2011/11/16(水) 08:49:09.50 0
生長の家の教えは、値打ちがあるようだ。 心はない。そういえばイエスもこれに順ずる教えを言っている。 心の貧しいものは幸いである。天国はその人ものもである。これだ。 心が貧しいとは心が無いと言う極致に近づくものだ。 天国とは心がない人のものなのだ。 天国とは、真実の世界であるのだ。心が無いのが真実だからだ。 生長の家の先生は、真実を説明する先生で、得がたい人ではあるまいか。
295 :
考える名無しさん :2011/11/17(木) 19:41:57.86 O
心はないと教える必要があるんだろうか どうも宗教というのは余計なことをしているようにしか見えない 心はないと言おうが心はあると言おうが真実から外れることは出来ないじゃないか
297 :
考える名無しさん :2011/11/19(土) 10:44:22.85 0
宗教と哲学とは別物とする誤解が一般的にあるように思う。 キリスト教ではイエスへの信仰を説き、浄土系統では、阿弥陀への信仰を説く。 そしてそこでは理法と言うものが説かれることがない。このために宗教とは 理法ではなく、そして理法ではないものにより、救いがもたらされるものと 思われるようになっているのだと思う。 ところが、こういう事実が看過されているのだ。 イエスが裁判にかけられたときに、イエスは「神は真実である」と言ったのに対し、 裁判官は「真実とは何か?」と問うた。イエスは答えなかったと言う。 神とは「唯一」なるものであり、唯一なら、無相なるものである。無相とは、 一切がないと言うことなのだ。これは、旧約の教えと異なり、大混乱を将来するだろう。 また旧約と異ならないことを説明するにも、大変な労力を要することになろう。 それでイエスは、その時期でもないものとして答えなかったのだと思う。 とにかくイエスの神とは唯一なるものでありそれは無相空相なるものであったのだ。 この説明に終始したのが、ゴーダマの仏教であり、パルメゼノン、老荘なのであったが。 そしてイエス以外の覚者たちも、この神の説明は容易には理解されないし、反発を招く ものであるといっている。 浄土系宗教では、阿弥陀は、正法を誹謗するもの及び五逆罪を犯している者を除いて、 阿弥陀を信じるものは救われると言っているのだ。そして、阿弥陀の五劫の修行とは、 この正法の体得なのだ。いや菩薩としての活動であると言った方が正しいかもしれない。 この正法を信じないもの、すなわち誹謗するもの又は尊敬しないものは、阿弥陀そのものを誹謗し 尊敬しないものとなるのである。口先だけで、称名してもそれでは何のご利益も無いと言うのは当たり前ではないか。 また、どうせ救って盛られるのなら、この世間で好きなこと充分にしてから、称名すれば良いではないか、 と言う考えも、正法と阿弥陀を理解しないものの言うことである。
298 :
考える名無しさん :2011/11/19(土) 10:45:18.87 0
つづき 同じく、イエスの神とイエスの活動を理解しないでは、何のご利益もありえないのである。 だから、よくキリストの教えとか、仏教でも大乗教の教えである、浄土宗系統は、 言葉だけのものであると思われているのであり、それは哲学と言う理法とは無関係のものと考えられる のである。 しかしこれは大間違いで、この責任は誰にあるか言うことができるだろう。 日蓮などは、この仏教を知らない宗教者の頂点に立つものである。 結論は、心が無いとは、理法による教えなのだ。究極の教えから導き出される教えなのだ。 一相無相と言いながら、心と言う変化するものが存在するというのは矛盾なのだ。
それにしてもキリストは私は神の子だというのはどういう理由だ
真実をなぜ神と言わねばならんのだろう?
301 :
考える名無しさん :2011/11/19(土) 11:35:02.55 0
神とは真実を言うと。その真実の子供と言う意味は、何も深い且つ複雑な経路を 持つものではない。真実を知り、真実のを体得した人間と言う意味だ。 神と言う真実は、イエスがいようがいまいが、常に存在している。常に存在しているものから、 イエスと言う人間が誕生したと言う意味だ。 この考え方は、仏教でも同じだ。仏が世に出ようが出まいが、実相は常に存在しており、 菩薩仏は、この真実から生まれたもので、真実の家系に属するものである、と大乗経典は言っている。 真実に対して、不真実が相対するのであり、不真実は、この世間のことである。 この不真実の世界の人間は真実の世界の人間ではない。その中で、真実を知り、真実を体得したもの、 はこの世間から脱したものであり、それはまた、真実の世界から生まれたものと言うのは相当であろう。 そしてこの世間の人間ではなくなったのである。 >真実をなぜ神と言わねばならんのだろう? 旧約に神は真実で、それは唯一なものすなわち無相なるものとされているからであろう。
だめだ、こりゃ
303 :
考える名無しさん :2011/11/19(土) 12:19:30.05 O
人の行いに意味を認める考えには同調できませんね なにがどうなろうと真実が損なわれることはない
305 :
考える名無しさん :2011/11/19(土) 22:14:34.56 0
???
はいはい。 キリストと大乗は正しいと言いたいのね。
長文でカキコする奴は 老子の足元にも及ばず
309 :
考える名無しさん :2011/11/22(火) 08:30:12.71 0
>>306 と言うよりも、真実は「一」「無相」と言うことだよ。
西洋哲学では、プラトンが最大のように言われているが、この真実が
「一」「無相」と言うものであるとすると、プラトンソクラテスは、三流の
哲学者だな。
プラトンは、ゴルギアス、プロたゴーラスなどのものをソフィストなどと
哲学者以下のもののように言っているが、何のことはない、自分こそ哲学者以下である。
ソクラテスが死刑になったのは、冤罪ではないと思う。
ゴルギアス、プロタゴーラスなどがアテネで名声を博していたのは、すばらしいことだったのだ。
これゆえにこそアテネが、ギリシャの覇者の資格があったのである。
さて、古代中国で、老荘の思想が最も喧伝されたところがあったのだろうか?
310 :
考える名無しさん :2011/11/22(火) 08:37:24.04 0
諸子百家が喧伝されたところはどこ? 荘子が恵施と論談したところはどこ?
>>309 お前は喋りすぎだ
改めて問う
知者不言、言者不知
一と無相って矛盾しないのか? 釈迦は「すべては空である」と言ってるだけだが
キリスト教も大乗も神や如来を拝むばかりで ほとんど無相なんて感じないなあ。 あまりこじつけてはいかんよ。
道の変わらぬ在り方は無名であり、名(ことば)を超えている。 あら木は小さくても無名の自然を全うし、誰もそれを道具にすることはできない。 ・・・・あら木がひとたび制(き)られると、そこに名をもつ さまざまな器物が生じるが、名をもつ世界が既に生じたからには 、名をもつものの限界を弁(わきま)えるのだ 老子
315 :
如 水 :2011/11/23(水) 18:04:21.21 0
>>309 は意味不明な文章。
>>ゴルギアス、プロタゴーラスなどがアテネで名声を博していたのは、すばらしいことだったのだ。
>>これゆえにこそアテネが、ギリシャの覇者の資格があったのである。
>>さて、古代中国で、老荘の思想が最も喧伝されたところがあったのだろうか?
>>と言うよりも、真実は「一」「無相」と言うことだよ。
『真実は「一」「無相」と言うことだ』 ということが理解できているなら、
名声や賞賛も糞土やガラクタと同じものだと理解できているはず。
キリストや釈迦や老子や荘子も、糞土やガラクタと同じと見るのが、
老子の「一」であり、荘子の万物斉同説だよ。
>>312 空の思想が成立したのは、釈迦の入滅後からかなり経てからだ
この思想を確立したのは龍樹だろう
大乗仏教では、仏とは空であると説く これは仏とは、この宇宙に無限に広がり普遍に存在する。釈迦も阿弥陀も数多の仏はその一面に過ぎず。 それぞれの仏が存在すると同時に、同時に仏という一つのものでもあるとの考えだ。 孫悟空がどんなにがんばっても、釈迦の手のひらを超える事が出来なかったのも当然 なぜなら、仏とは宇宙に無限に広がり、普遍に存在するものだから。 この考えは老子の思想にも通じるところがあり。 中国でも受け入れられたのだろうな しかし老子とは、孔子より前の人物だと思っていたが 調べてみると、存在自体が怪しいな 孔子の師であると説かれているあたりは、むしろ孔子の後の人物である匂いがぷんぷんする
318 :
考える名無しさん :2011/11/24(木) 23:10:03.19 0
竜樹とかいうまえから釈迦が言ってんじゃないの 老子のいう道は無でしょう。釈迦なんかいないよ。 老子は一人の人物でなくある集団の総称と言われてるというのは 読んだことあるけど。
いる・あると思ったら、いる・あるんだからどうでもいい 老子にしろ道にしろ気にしろ龍にしろ無にしろ三角形にしろ ところで、柄谷は、老荘の言う道とは交通空間であるとしてたが
交通空間ってなんだよ。それ?
つ『探究2』
ああ
交通空間 たったそれだけ言われてもなw
>>318 空の思想は、金剛般若経あたりで初めて出てきたのだよ
この経は、明らかに釈迦入滅後に書かれたものだ
どう考えても、釈迦が空の思想を説いたとは思えない。
ま、宗教の世界に歴史的経緯を説いても仕方ないと言えば仕方ない
入滅後に書かれた経であっても、間違いなく釈迦の言葉だと言えばそれまでだが
>>324 そこのところはよくわからないのですが
空という考えはどこかの経典にすでにあったのを
般若心経では呼び物のようにしめくくられているという理解でした。
今後よく調べてみます。
326 :
考える名無しさん :2011/11/26(土) 21:53:34.88 0
アテネはギリシャの学校とペリクレスは言った。 ここでは、老荘が、イエスが、ゴーダマが活躍したようなものだった。 これらの覚者が敬慕されていたのである。 次に、これを引き継いだのが、ローマであった。 であるから、歴史上曲がりなりにも、真理真実が支配しいた国があったのである。 ギリシャやローマだけであると言うと、正しくないな。インドでも、中国でも そういう時期と国はあったといわなければ正しくない。 今だっても、ないと言うと正しくない。 ただ思うに、正しく理解されてあるかどうか 疑問なのだ。
327 :
考える名無しさん :2011/11/27(日) 09:31:26.85 0
>>312 >一と無相って矛盾しないのか?
矛盾しない。
一とか無相とか言っているが、何が一であり何が無相なのか再度確認が必要だ。
真実:実在:真相:真理:実相;無量;無限;など絶対的存在が「一」「無相」
と言っているのである。
一とは真実に存在するものは、一つの存在だけである、と言う意味であり、一つとは
混じりけの全くないものでなければならない。こんなものは現実世界では見出すことができないだろう。
しかし、理論上は想定できるのである。『純一』と言う表現が適している。
そこで、純一なものなら、何の変化もないものでなければならないのだが。
無限に純一なものなのだ。そこにはいかなる異物も混入していないのだ。いい加減なことを言っているのではない。
厳密なことを言っているのだ。
だから、純一なものなら無相だろう。
宇宙空間は、無限な空間であると、言われがちだ。しかし、それは正しくない。
どうしてか?その空間には、星が混入してるからだ。
星の数も無数あり、星と星の間の空間も無限にあるといえる。
しかし、その星の数も、その空間も無限ではない。なぜなら、その空間には星の占める場所だけ
空間がないではないか。だからその部分では無限ではない。星についても同様に言われなければならない。
だから宇宙空間は無限ではないのだ。純一なものではないのだから。混ざった混合物である以上
無相ではない。一ではない。混ざっているのだから、変化があるものなのだ。
328 :
考える名無しさん :2011/11/27(日) 10:46:16.95 0
>>312 つづき
一と言う数が存在を表し、その存在が実在する真実なものなら、一以上に大きな数はない。
真実在なのであるから、絶対的存在であり、無限な存在である。したがって無相である。
次に二と言う数は、一が二つと言う意味であろう。一以上に大きな存在は無いのであるから、
この一が二つあるというのは間違いと言わねばならない。二以上の数、三、四、五
も同様に、無意味な数と言うことになる。
しかしそれでは、一を二分割した数と言うのはどうだろうか?それは先に宇宙空間には、
星の存在とその間の空間の存在という二つの混合物により成り立っていると言ったのだが。
そのおのおのは元の一よりは小さいのだが。これなら一応納得できるだろう。
次に三、四、五と進んだ数でも、元の一を三等分、四等分、五等分したものと考えるのは、
受容できるところだろう。無限分割することも可能だ。
そしてそれぞれには、元の一の性質である、無限無量と言う性質を持っているのだ。
そして二等分したと言うことは、無相なものであるものに、二つのものが誕生したと言うことであり、
一対の変化が誕生したと言うことである。しかし、無限なものを分割すると言うこと、そして
そのおのおのは元のものよりも小さいと言うことは、必然であろうか?
一対ものなら、それは二つのものであろうか?それは必ず同時に動くのであるが。同時に存在するのであるが。
切り離して存在できないのであるが。相対的存在なのであるが。三、四、五と進んでも同じである。
同時に存在し、切り離すことができないもの、これは元の『一』の属性ではなかったか?
だとすると、二等分、三等分したと言うのは、間違い、幻想、妄想ではなかったのか?
変化と言うものを、二つのもの、の誕生であると言ってたのは間違いではなかったのか?
間違いだったのだ。色受想行識即空、空即色受想行識と言うのは真理ではないのか?
こういうことのようだな。
329 :
考える名無しさん :2011/11/27(日) 23:26:20.36 0
>>327 と
>>328 それにイエスと仏教の話をしたがる同じ人
スレ違いだからほかにスレッド立ててやってくれ
一種の荒らしだぞ
この宇宙が無限なように、仏とは無限に そして普遍に在られる存在です。 孫悟空が世界の果てまで飛ぼうが、釈迦の手のひらの上から逃れる事が出来なかったのは道理 なぜなら、この世界のあらいる場所に仏は在られるからです どのような場所に我々が行こうが、この世界を超える事が出来ないように 仏の御許を超える事はかないません そして仏がしばしば救済のためにその姿を現される事がある それが数々の如来においてほかなりません。 釈迦を崇めようと、薬師如来を崇めようと、ほかの如何なる如来を崇めようと それは個々の仏を崇めたと同時に全ての仏を崇めた事になるのは、あらいる仏はこの世界に普遍に存在する仏の一面であるからです だからこそ、仏とは空であり、同時に有でもある これが空の思想です
331 :
考える名無しさん :2011/11/28(月) 08:27:20.21 0
>この宇宙が無限なように、仏とは無限に
そして普遍に在られる存在です。
この宇宙が無限ではない。星と空間が混在してる限り、どうして無限であろうか?
無限とは純一なるものが絶対として存在する状態を言う。
この宇宙は相対的存在なのだ。しかし相対的存在は常に対を成して存在するものである。
そこで、対を成しているものは一つのものと考えることができる。
宇宙は対を成した存在である。が故に、宇宙は一つのものであり、純一なものである。
故に宇宙そのものが真実在である。真実在は仏の母である。母であるとは、仏を生み出した
元であるという意味だ。
(ここで仏とは、仏陀とはの語源を究明しておく必要があるようだ。)
いかなる存在も自己を他者よりも優位にあるというのは間違っている。
他者に依存した相対存在であるのだから。その他者には、人間なら、ごみの一つも
他者に当たる。人間はごみよりも優位にあるのでは無いのである。
荘子によれば糞便も平等に清浄であるという。
>>329 それは間違いだ。イエスと労使は同じ真実に付くもので、イエスを語るなら、
労使を語っているのである。この故に、老子以外に人で、聖人と言われる人のことを
語るのである。その方が理解が深まると思われるからだ。
332 :
考える名無しさん :2011/11/30(水) 08:54:23.05 0
プラトンのゴルギアスを読んだ。 イデア論もゴルギアスの弁論の根源である『非存在』についても、 何の言及もなかった。 しかし、会話の中で、その点に触れようとする場面がいくつかあった。 それだけだった。その点に触れることを回避してるのだ。 ゴルギアスを引き摺り下ろすだけに終始している。 大乗教徒が空を徹底しない仏教徒を『小乗』とさげすんだのと同じに、ソクラテスは 小乗教徒と言われなければならないのでは、と思う。 弁論術というものは、確かに成立する技術『テクネー』であると思う。 この世界の成り立ちは、相対存在であるのだから、そのことを知って、 話す必要がある。そしてその場合のみ説得も成功する。この途しかない。
333 :
考える名無しさん :2011/12/02(金) 08:25:56.89 0
>>315 真実の教えが世に広まることは、あらまほしきことだろう?そうあるべきだ。
こういう理由で、キリスト教にしろ、仏教にしろ、伝道布教ということが行われてきているのだ。
そして、現実に、その教えに基づき、教団がその国の枢要となり、社会の根幹となっていると言えるのだ。
この現象が、アテネに於いて、ペリクレスという人の政治に発生しているのだ。
ペリクレスは、ゴルギアス、プロタゴラス、パルメニデスゼノン等の、講義を受けたと当時の書物は記している。
ペリクレスの追悼演説は、プラトンのメノクセネスの追悼演説よりもはるかに優れている。ペリクレスは
世界の真実を説く教えを受容してのものであるが、プラトンの演説はその教えを知らないものである。
結局 老子を論破出来ず終いかw
335 :
バッカス :2011/12/02(金) 20:11:24.41 0
>>333 ペリクレスの政治論が、現代の政治においてどのような形で可能だと言いたいのか。
理想論を述べたいだけなら無意味だが、老子の政治思想は戦国時代において極めて実用的なものであり、
現代の政治を裏で支えている。
私は「小国寡民」の政治を、『老子』編纂者が一つの抽象的理想型を述べたに過ぎないものと考えているが、
ペリクレスの政治論と老子の「小国寡民」の政治が、どのような関係にあるというのか。
また、ペリクレスの追悼演説について何の文献を読んで述べているのか。
336 :
考える名無しさん :2011/12/03(土) 13:23:31.40 0
>>334 一なるものが無相の姿で、又は、空相の姿で、又は、非存在の姿で、実在すると言うのが、
老子の見解である。そして現象界の変化は、実在するものではない、と言うのである。
そこで、この真実在と一体になったものこそ、真実在を知っているものである。
このものは自分をどのように言うのだろうか?自分は真実にいるものであるが
一切の変化と言うものと無縁な存在なのである。言うことがないんである。
しかし、この真実在と一体になっていないものは、変化と言うものに浸かっているのである。
変化を免れようとして、変化について論じるであろう。変化してるものに支配されているのは
苦しいからである。安息を得ないからである。
安息してるものは、変化から免れる方法を言うだろう。これが聖人の教えである。
老荘等の覚者は、変化するものに騙されないように教えるのだ。
陰陽思想などは、変化の頭であるから、このようなものを排斥するのである。
パルメニデスは、以下のように言う。
337 :
考える名無しさん :2011/12/03(土) 13:37:50.19 0
つづき 「これを以て私は真理に関する信ずべき言論と思想とを終る。これよりは死すべきものどもの臆見を我が説話の虚構に聞きて学べ。 すなわち彼等は二つの形態(μορφή)を名づけようと決心した。されどそれらのただ一つさえ名づくべきではない──この点において彼等は迷っていた。 そして彼等はその二つの形態の相反するものとして区別し、それらに目じるしを別々につけた。 ここにては、炎のアイテール的な火、すなわち穏やかで、非常に軽く、あらゆる方向において自分自身とは同じであるが、 他のものとは同じではないものを。しかしそれとは反対に、かのもの、暗き夜を、すなわち緻密にして重き形態を。 我はこの世界の全構造を、それが外見的には、どのようなものであるかを、凡て汝に語り明かそう。 すれば、死すべきものどものいかなる意見も汝を断じて追い抜くことはできまい。」 (『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.42) 老荘がこのような陰陽思想を避難するのは、当然である。陰陽思想を頭とする思想を 規範とするのが儒家である。パルメニデスにいわすれば、『死すべきもの度もの意見に 儒家は追い抜かれてしまっている』のである。
338 :
考える名無しさん :2011/12/03(土) 17:48:26.51 0
>>335 >老子の政治思想は戦国時代において極めて実用的なものであり、
現代の政治を裏で支えている。
それは老荘の思想に興味を持たないものはいないだろう。
前漢の皇帝とか唐の玄宗皇帝などは、その人に当たろうと思う。
戦国時代に、老荘の思想を政治にもたらそうとしてなんか効果のあった人は誰?
恵子などは、その一人に違いないが、その人以外に誰か?恵子のことか?
>現代の政治を裏で支えている。
詳しく
>私は「小国寡民」の政治を、『老子』編纂者が一つの抽象的理想型を述べたに過ぎないものと考えているが、
ペリクレスの政治論と老子の「小国寡民」の政治が、どのような関係にあるというのか。
老子と老子編集者と別ものにするのは同意できない。抽象的理想形ではなく具体的理想形であると思う。
ペリクレスは、アテナイを老子の国にしたのだ。
ツキジデスの記すものを読めば判る。
また、ペリクレスの追悼演説について何の文献を読んで述べているのか。
339 :
考える名無しさん :2011/12/04(日) 20:29:10.48 0
>ペリクレスは、アテナイを老子の国にしたのだ。 これを論証するのは容易ではないな。無理がある。 私は無理をしない。取り消す。
真理を論証する必要はない
341 :
考える名無しさん :2011/12/07(水) 11:07:24.78 0
今のアメリカは、ペリクレスのアテナイを模範にしてるジャマイカ?
342 :
考える名無しさん :2011/12/09(金) 11:28:36.48 0
>>340 真理は論証する必要があるだろう。
現に老子荘子は、論証してる。この論証がスタートである。
創始で言えば斉物論、老子で言えば、一、二章のものは相対存在であることの説示。
これに関する説示は他にもあるが。
荘子でも老子でも、このスタートの説示が、最後まで維持されていなければならないが、
なんかこの説示に反するもしくは、同調しない説示も混じっているように見受けられるところがある。
>反するもしくは、同調しない 論証しなけれは、その様な事もなくなる
老子はキリスト以上の法螺吹き
345 :
考える名無しさん :2011/12/09(金) 21:52:54.92 0
>>343 この世界のものに執着してる人には、論証が有効な場合は是非すべきだ、
そのことにより、執着から離れる努力をするようになれば、良いのだから。
>>344 ??
老荘ってそう深く考えることじゃない。ただそういう性格の人がいるって だけさ。水木しげるなど、生まれつき体現している可能性が高い。
347 :
考える名無しさん :2011/12/09(金) 22:39:01.45 0
水木茂と老荘の関係を詳しく
先生が体現者とは思わず膝を売ったが、 墨子を支持とはあまり考えられんな
墨子を支持とは考えられんな
350 :
考える名無しさん :2011/12/26(月) 23:58:52.07 0
老子の訳はなにがいいか。 岩波、講談社学術、明治、中公、ちくま、徳間、大修館、比較して読んでるんだが。 かなり違うね。 どれがいいと思いますか。 教えてください。どれが好きですか。 基本的には勝手に読め、でしょうけど。
>>1 は処世術とかあるあるネタとか人物評論では無いぞ。
その知るというのも修行の最終段階の話で、
偉人でもそうじゃ無くても、ほとんどの人は知らない状態と言える。
352 :
考える名無しさん :2011/12/29(木) 22:16:03.58 0
>>350 >老子の訳はなにがいいか。
大事な点は、原典を表示していることが必要であると思う。それから書き下し文を載せ、
次に口語訳を示すもの、こういうものは、訳の根拠を示すもので、信用を提示するものといえると思う。
そして、大事な二番目は、その訳を読んでみて、解らないところ、その点を他の訳を参照して理解に勤めることである。
書き下し分までは、どの訳者も同じでなければならない。口語訳にするときに、各訳者により、異なった解釈
が混入してくるのだ。表現が異なってくるのである。
表現が異なっていても、その意味が同じなら、問題ない。それでも読者により、その意味がわからないときがある。
そのときは読者は、他の訳を参照したり、訳注を参照したりしなければならない。そうすればできるだけ
訳注が豊富にものがあるほうがいいということになるかも。
そういう訳書はあるだろうが、ITではないだろう。高いお金を払って買わなければなるまい。
しかし、そんな必要はないと思われる。それほど難しいとは思えないからだ。
そこで、どんな訳書でも、最初から読んでいくことになるが、その意味を確実に把握することが必須である。
仏教経典でも、一番大事な説明は、至極簡単に書かれているのだ。ものが相対的存在であること、と言う説明であるが。
その意味を理解すると言うのは、小さいことではない。絶対の世界を理解することになるのだが。
ここから一切の説明がスタートしているのである。老子、荘子も同じである。
特別際立った訳書と言うものは必要がないので、ITで見られるもので間に合うと思うよ。
真理真実は科学的なもので、それは時代を超越している。であるから、時代の様相にそれほど、
関係なく、説かれているものだと思われる。最初から豊富な訳注を具備したものを求める必要はないと言う結論。
353 :
考える名無しさん :2011/12/30(金) 08:56:12.76 0
>>349 老荘と墨家との関係。
これが大いにあるのか、と疑問を呈する根拠がある。
荘子にあったと思うが、墨家では老子を教本として読むというのだ。
史記にもその記述がある。
墨子とは、墨家に於いては聖人とされている。その人を差し置いて何で、老荘を
尊ぶのか、と言う疑問だ。そして墨家の兼愛の思想は有名で、ある。そして兼愛の思想は
老荘で特別なものとして取り上げられていない。翻訳の間違いかと思ったが、史記にも、「荘子」
にも、墨家が老子を読むとあるところを見ると、翻訳の間違いでない可能性がある。
兼愛とは平等と言うことであり、平等とは万物斎性と言う根源を持つから、
墨家と老荘が基本的な面で対立する関係にはないと思われる。
とすると、墨家が活躍したときには、すでに老子が存在したことになり、墨家と
儒家との対立はあったのだから、儒家の講師よりも老子が後の人だとかの
論は成り立たないことになる。
354 :
考える名無しさん :2011/12/30(金) 21:58:54.58 0
正月にはいろいろな行事が行われるだろうが、それは陰陽の法則から来るもので、 老荘を学んだ人は、それらに囚われてはならない。 老荘を学んだとは、哲学をしたと言うことである。 神社での祈願とか、占いとか、そういうことをしてはならない。
355 :
考える名無しさん :2011/12/31(土) 23:28:49.75 0
>>352 ありだとうございます。
岩波を基本に、講談社学術をサブに読んでいます。
意味は明治書院も、解説がみやすいです。
徳間も、思い切りがいいです。
ちくまは好きな人はいいと思いますが解釈しすぎのように思う。
大修館は儒教的かな。と言って、論語は知らないんだけれど。
ほんと解釈は同じ章でも違い、自分の納得できる読み方をしています。
長谷川如是関の本も読んでみたいですね。
森先生の概説、一冊、読んで、荘子に入りました。
岩波、中公、徳間、そろえました。
ちょっと本マニアなので。
人生に疲れたので、なにか惹かれます。
どっちかって言うと老荘的な性格でないから、惹かれると思います。
また教えてください。
356 :
考える名無しさん :2011/12/31(土) 23:30:50.39 0
355 ありだとうございます。→ありがとうございます。 訂正するのが老荘的じゃないですね。ありゃま。
357 :
考える名無しさん :2012/01/01(日) 11:31:36.41 0
儒教が中国文化にとって癌だった。
358 :
考える名無しさん :2012/01/01(日) 11:36:54.64 0
日本語の敬語などというものも、儒教に起源があるのだ。
359 :
考える名無しさん :2012/01/01(日) 20:02:37.26 0
福永、荘子を忘れてはいかん。
360 :
考える名無しさん :2012/01/02(月) 08:23:43.15 0
>>359 ?
・・・・・・
老子については、老子がヨーロッパに紹介された当初、それがだいぶ人気を博したと言う事実があるのではない?
老子に限らず、インドの哲学書も、そういうことがあったみたいだ。どこかで読んだことがある。
ヨーロッパの哲学は、プラトンのイデア論から抜け出せないみたいだから、詳しく知らないで言うが、
そのものが、イデア論を全く認めない思想を、イデア論で以って理解しょうとすることになった可能性がある。
それでも、一の思想が真理真実であるので、それに引かれたものが存在したことは当然である。
ヨーロッパ自体でも、プラトンは自著でパルメニデスゼノンの思想を紹介してるのだから、元々無かった訳ではないのだ。
361 :
考える名無しさん :2012/01/06(金) 20:33:52.73 0
荘子の親友の恵子は、名声はあるがその自著というものが残ってない。 荘子の親友である限り、それは老荘に同じであったというべきだ。 その恵子は、宰相であったとき、その国のために法律を創った。 皆が言いといった。が一人だけ、法律と言うものは、重い神輿を皆で担ぐようなもの であるが、恵子の法律案は反対に身軽にするものだ、と言って、結局実行されなかった。 さて、一の思想を説いた世界の各社たちは、一様に世人の尊敬を集める存在となっていたのだと思う。 その故に、世人はその人に、その社会の法律を創るように依頼している。 ゴルギアス、パルメニデス、ゴーダマ、恵子、そしてイエスである。これらの人は 依頼に答えて、法律を制定している。 これらの人の法律と言うものは、国民の自由を尊重するものであったと考えられる。 自由とは無為自然のことなのである。 人為をしなくとも、無為であるなら、それは自然を頼むことなのであるから、その自然を尊重するなら、 何も苦労することは無いのである。 天から与えられた視覚、聴覚、味覚、触覚、舌覚、こういう働きは、人為の及ばないことである。 にもかかわらず、これらの働きに人為を加えるなら、それは嘘を強いるものである。 これを不自由と言うのである。 日本国憲法でも、この五感を基本的人権といっている。こらは人為によるものではないので、 人為にそれを抑圧することを禁じているのである。この憲法の目的は、 この自然権を尊重される社会に必要な範囲でしか、法律を制定できないものとしてるのである。 この自然権を殺したら人間は人間ではなくなる。無為自然とはこの自然権の行使に他ならない。
老子は宗教?
363 :
考える名無しさん :2012/01/14(土) 23:07:40.59 0
道教では老子を神としている、主紳として祭っている。
老子はニヒリズム?
365 :
バッカス :2012/01/19(木) 22:41:07.44 0
道教では、老子を神として祭っていても、『老子』という書物に忠実であろうとしていないんじゃないかな。 第一、老子の像なんかを並べて儀式なんかやっているのは、もう偶像崇拝になってしまっていて、 あらゆる宗教に見られる元祖の教えの形骸化だ。 『老子』では、「損して損して、また損して無為になる」といっている。 無為とは、我を捨てて天地大自然、宇宙と一体となること(無為自然)。だから個我意識は「無」となるが、 天地大自然と宇宙の無限の力に同化しようとするわけだから、結論的には「無」ではないが、心境的・ 心理的・意識的には「無」だ。 言葉で言い現しにくいが、無であって無ではない。 しかし、老子の世界は『老子』の書を読めばわかるように、「道」の働きとその生命力に満ちたものだ。 海、山、川、森、獣、草木、これら大自然の生命力は、「道」の働きの一部だ。
366 :
考える名無しさん :2012/01/20(金) 15:42:24.17 0
>>365 >もう偶像崇拝になってしまっていて、
あらゆる宗教に見られる元祖の教えの形骸化だ。
このことと回教の形式を比較するのが論じるに良い。
回教では、比較的、コーランと言う書物及び無はマッドの名前、そして五度の
礼拝が際立っている。
一方キリスト教特にカトリックでは、偶像を設置している。
信者にとって、教えを実行するに点いてどの方がベターかと言うことだ。
それぞれ長所短所があるのではないだろうか?
コーランとその内容もしくは礼拝に依拠するか、偶像を身近に感じてその教えを
想起し、教えを実行しやすくするか、と言うことになるのだと思う。
要は、信者が教えを実行し自らが浄福になることなのだから。
>『老子』では、「損して損して、また損して無為になる」といっている。
老子」のどこにこのような文言がありますか?
老子でもゴーダマでも、存在は相対的であるとし、一切の物質と言うものも、
実体としてあるのではなく、認識としてあるのであり、損というものも、得という認識
があって生じている認識であると言っているのだと思います。
如何にある人が莫大な財産を所有していたとしても、それは相対的に莫大なのであって、
そのことを忘却しないでいるなら、確かにその財産を所有していることになるが、
莫大であることに埋没してしまって、貧困と言う反対認識を忘れてしまうなら、莫大な財産は
たちどころにその人を滅ぼすと言う。なぜならその人は莫大な財産に執着しているからで、
真実は貧困と言うものがその財産に付きまとっているのであり、財産が大きければ大きいほど
貧困から逃れようとして、貧困に追い回されることになるのではないでしょうか?
その人は富を追求してると思っているが、貧困に追い回されているのに気遣いないのだ。
367 :
考える名無しさん :2012/01/20(金) 15:43:44.95 0
要するに富と貧困と言うものを同時に所有してることに気づかなければならないのである。 反対に損を所有したならば、富をも所有したことを知らなければならない。 とすると、富をも所有で着ないのだし、損をも所有できないのである。 富を所有して喜んだり悲しんだりするのは、肉体と言う物質があって、それに執着してることが 元もとの原因である。 要するに、元々一なる空である自分があり、その中に、相対的にものが生じるのである。 何故ものが相対的に生じるのか、と言う質問は、物に執着している質問である。 あるがままに受け入れるだけにしなければならないのだ。真実にはものは生じていないのだから。 ものが生じて見えることを、命と言っているのだと思う。だから、命には実体が無いのだ。
368 :
考える名無しさん :2012/01/20(金) 16:19:50.35 0
(2)ものごとの価値は相対的 世上の人々が美しいものを美しいと認めるとき, そこには,醜さ(の認知)が生じてくる。 世上の人々が善なるものを善だと認めるとき, そこには,悪(の認知)が生じてくる。 このようであるから, 有(存在)と非有(非存在)は,連なって生じ, 難と易は,相互に成り(補ってあり), 長と短は,対比して現れ, 高と低とは,相対する位置としてあり, 音と声は,調和して響き合い, 前と後とは,あい伴う(順序をもつ)。 そこで聖人は, 無為のままに物を扱い, 無声のうちに道を説く。 聖人は,万物の生起ををあるがままに認め, 身を処するのに,名声を求めず(外的な評価とは無縁であり), ことを成就しても,栄誉の見返りを求めない。 なぜなら,それらはもともと聖人に備わったものとしてあるからだ。
369 :
バッカス :2012/01/20(金) 21:50:26.66 0
>>366 >『老子』では、「損して損して、また損して無為になる」といっている。
「老子」のどこにこのような文言がありますか?
第四十八章です。
370 :
考える名無しさん :2012/01/20(金) 22:18:53.42 0
現代語訳 学問を修めると日に日に知識が増えるが、「道」を修めると日に日に知識が失われていく。 知識を減らした上にまた減らし、そうして無為の境地へと至るのだ。 無為であれば出来ない事などありはしない。世界を支配するには、ありのままにまかせて余計な事はしない事だ。 自分の思い通りにしようとして余計な事をすれば、世界を支配する事など出来はしない。 ・・・・・ これだな。 損してとはないだろう。自ら捨てるのだ。真実は無相であるから、 無相の反対のもの、有無に当たる一切のもの、すなわち知識五感意識を、 捨てて省みないのである。それらは虚蒙なるものであるから。
誰だって初めは 知識や礼儀作法を取りいれるさ、 利益になるからね。 けれども、それから タオにつながる人は、 蓄えたものを、 忘れてゆくんだ──いわば損をしてゆく。 どんどん損をしていって、しまいに 空っぽ状態になった時、その人は 内なる自由を獲得する。 それを無為というんだ。 無為とは 知識を体内で消化した人が 何に対しても応じられるベストな状態のこと、 あとは存在の内なるリズムに任せて 黙って見ていることを言う。 本当に大きな仕事をする者はね、 こういう姿勢でいる──それができずに あれこれ指図ばかりしてる者は まあ、 天下を取る器じゃあないのさ。
372 :
考える名無しさん :2012/01/21(土) 10:04:10.16 0
>忘れてゆくんだ──いわば損をしてゆく。 自分の身体についている泥ごみ、これをお風呂に入って洗い落とす。 こういうのを「自分の垢を損する」と言うと、それは勘違いだ、と言うのが普通だ。 身体の垢など無いほうが良いのだから、ないほうが言いものを捨てて、ああ、自分は損をした、などというのは 気が変になっていると言うべきだろう。 垢を洗い落として、ああすっきりした、自分の利益になった、と思うのが正常である。 哲学宗教を論ずるときは、相手に正しい表現で対応しないと、理解されないばかりか誤解される。
373 :
考える名無しさん :2012/01/21(土) 17:03:44.94 0
ヨーロッパの哲学宗教で、よく「魂」と言うことを言う。 これこそ結論から言うと、こう言うものはなく、これは認識に過ぎない。 例えば刃物を知らない人から突きつけられると、恐怖感に襲われる。 これは刃物を突きつけるという行為に対して生じた恐怖感で、相対存在である。 また、昔で言うと、戦争が起きて、何とか自国を勝利に導こうと決意する心、 こういう決意もまた、相対存在である。 要するに魂と言いえるものは、ない。 古代中国では、「徳」と言うことを言う。これは「よき思慮」のことである。 「よき」と言う以上、善をもたらす思慮である。もうこれ以上ないという程度に深い 思慮を示す言葉、これが本当の「徳」である。これをあらわしたのが、老荘である。 これを魂と言うのだろうか?魂の不滅と言うのはこのことだろうか? ならば同意できる。そのつど変化する気持ち、これを一般に心と言っている。 こういうものは相対存在で、実体が無い。 心と魂を混同してはいけない。 一を知り、どんな問題も、一に導いて解消する人を徳ある人というのだと思う。 道徳教で、得とはなんか説明していたが、どこだったかな?
374 :
考える名無しさん :2012/01/27(金) 19:23:51.46 0
仏教では一相無相空相が真理真実であると言うが、それをこそ教えとして 体得すべきなのに、仏像を拝んでいる。これは仏教を理解していないもの の恐れがある。 また道教では、老子の像を礼拝しているようだが、これも同じ理由で、 教えの根本が損なわれる恐れがあるのではないだろうか? この点回教は徹底しているのでは? コーランを少し読んでみた。 老子荘子は哲学が起点 、仏教もパルメニデスも。
375 :
考える名無しさん :2012/02/10(金) 13:14:39.00 0
便秘
376 :
考える名無しさん :2012/02/10(金) 17:57:33.46 O
易に老子ぽい卦がある 山沢損とか天山とんとか艮為山とか地山謙
377 :
考える名無しさん :2012/02/14(火) 19:57:37.93 0
キリスト教のパウロがギリシャに伝道して言った内容を考えてみるに、 哲学的内容がない。つまり神の説明がないと思う。キリストの復活を言ったという。 縁起の理法を説いて、そして神の属性を言うべきであった。空、一相、無相 だ。
378 :
考える名無しさん :2012/02/17(金) 11:14:15.55 0
∩―−、
/ (゚) 、_ `ヽ
/ ( ● (゚) |つ
| /(入__ノ ミ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
、 (_/ ノ < すみませんすぐsageますんで
\ ノ゙ \______________
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>>9 |. |
-=≡ /. \ヽ/\\_
/ ヽ⌒)==ヽ_)= ∧_∧
-= / /⌒\.\ || || (´థ_థ) ←
>>77 / / > ) || || ( つ旦O
/ / / /_||_ || と_)_) _.
し' (_つ ̄(_)) ̄ (.)) ̄ (_)) ̄(.))
oノ
>>109 | 三
_,,..-―'"⌒"~⌒"~ ゙゙̄"'''ョ ミ
゙~,,,....-=-‐√"゙゙T"~ ̄Y"゙=ミ L____
>>378 T | l,_,,/\ ,,/l | ゚ ゚
,.-r '"l\,,j / |/ L,,,/
,,/|,/\,/ _,|\_,i_,,,/ /
_V\ ,,/\,| ,,∧,,|_/
380 :
考える名無しさん :2012/02/22(水) 10:27:54.71 0
一相=一=無相=無我 一=無我 一我=無我 一我が真実として存在する以上、死んでも一我がある。 一我を体得しない限り、死の世界と言うものはこの現世と同じものとして存在する。 老子荘子は輪廻のような、死後の世界、前世と現世と言う観念をといているか?
381 :
考える名無しさん :2012/02/22(水) 11:20:07.97 0
前世の悪の報いが現世に生じると考えるべきである。 今話題の母子殺害事件、この被害者は、前世の不法行為の報いを今受けたのである、 と言う言論をするものがいるが、それは一応そのように考えても不当ではないと思う。 そういう考えは否定すべきではないのだ。 現世と前世、そして、未来生が同じつながりのある世界である以上。 現世とはこのように未来生、過去生により成り立っているのだから、この三世 に於いては、浄福の世界というものは不可能である。 ゴーダマが、輪廻の世界は苦しい、と言うとおりなのだ。 そこでこの輪廻の世界から脱する方が無いか、と言うことになるんだ。 そのほうを説いたのが、老荘ゴーダマ等の覚者たちである。
本来の因果の考え方からすると、善悪を云々するのは少し違うんじゃないかな。 悪の原因が悪の結果を生むのではなくて、あくまで原因が結果を生むにすぎない。 捉え方によれば、善の原因が悪の結果を生む場合もあるし、当然その逆もあり得る。 老荘だってそういう二元的な捉え方をやめよと説いている。
383 :
考える名無しさん :2012/02/22(水) 15:59:05.64 0
抽象的論考の前に、具体的事例をあげてみる。 善行の結果は何か?それは安心ではないか? 悪行の結果は何か?それは不安ではないか? ところでゴーダマは、実在するものは平安であると言う。これをニルバーナ と言っているのだと思う。 一切はこれが目的なのだ。 平安をもたらさない善行って無い。 善悪の基準はここにあるとすべきではないか? >善の原因が悪の結果を生む場合 自他の平安をもたらすものとしての行為が不安をもたらす結果になった、と言う場合で無ければならないわけであるが、 これってどんな場合が想定されるか?
結局は自己満足出来るかどうかということだよね。
たとえばwikipediaではこんな例がある
人物Aが人物Bの落としたハンカチを、まったくの善意で拾って手渡してあげた。
しかし人物Bは自身の持ち物を他人に触れられることに極度の嫌悪を感じる人間であり、逆上した人物Bは包丁で人物Aを刺殺した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A0%E6%9E%9C この人物Aがたとえ刺し殺されようとも、自らの善行によって平安を得られたというのなら結構
しかしそうではなく、今世では無理だったから来世で良い報いを得られるというのならそれは欺瞞じゃないか
また、相手に平安をもたらさなかったのだから善ではないというのであれば、そんなのは互いによく知った間柄でも不可能
所詮、善因善果、悪因悪果なんてのは大衆を納得させる為の方便に過ぎないんじゃないか
385 :
考える名無しさん :2012/02/23(木) 21:18:50.18 0
>>384 物理学の「因果性」をも読んでみた。
ボーアと言う人は、最終的に東洋哲学に行き着いていると言う。
老荘ばかりじゃや無く、ゴーダマ、パルメ、イエスもそうだと帰納できるが、
人間の心を除外しては、学問など無い。人間が学問するのだから。
粒子と波動の共存、これはお互いに対立する形態である。
現在確認できる最小物だから、上の状態がある。しかし巨視的な場合でも、
ものは、対立関係にある。
純度100パーセントの金塊は、それを取り巻く空気と共存して初めて
金塊なのだ。したがって、金塊と言う独自の存在は無いのだ。
粒子と言うものも無く、波動と言うものも無い
善悪は、この真実に向かう行為を善と言い、この真実に反する行為を悪と言うと定義しなければならない。
何かがあると思わせるものは全て悪魔の誘惑である。これには忍耐すべきなのだ。
何かがあると思うことは不安を呼ぶ。
386 :
考える名無しさん :2012/02/23(木) 22:10:12.64 0
だから、今やかましい、放射性物質など無いのだ。
>>385 言わんとすることはわかるし、恐らく俺が考えていることもそう違わないと思う。
>粒子と言うものも無く、波動と言うものも無い
これはそのまま善と悪に置き換えることも出来るんじゃないか。
つまり、ある行為には善と悪どちらも含まれているとも言えるし、どちらでもないとも言える。
ただし、どちらか一方だけが独立するということはあり得ない。
それが因果であり、空であるというわけだよね。
そして、あなたが定義する善とは、その空によって物事を捉えようとする行為のことだよね。
ということは、一般的な意味における善因善果、悪因悪果というような考え方は、あなたの定義する悪にあたることにならないだろうか。
388 :
考える名無しさん :2012/02/24(金) 21:55:36.58 0
>一般的な意味における善因善果、悪因悪果 例えば仏教の四重禁というのが有り、その中に、嘘をついてはならない、と言うのがある。 この嘘の中には、真実は空相一相無相であるというべきところ、全てを否定するなら、 この人は嘘をついているのである。 そしてこの嘘を吐く人は、平安を得ることから遠く離れる。 そして、金塊排尿する空気が無いなら、近海も待たない、と言う理を認めないで、 空気が無くとも金塊は存在すると言うなら、その人は嘘を吐いている。 その金塊はその人を拘束し最後には殺すのではないだろうか? こうしてみると、一般的な善因善果、悪因悪果というものがあるのだろうか?
389 :
考える名無しさん :2012/02/24(金) 22:27:17.22 0
訂正 そして、金塊排尿する空気が無いなら、近海も待たない、と言う理を認めないで、 ↓ 金塊と囲にょうする空気が無いなら、金塊も又無い、という理
>そしてこの嘘を吐く人は、平安を得ることから遠く離れる。 >その金塊はその人を拘束し最後には殺すのではないだろうか? ともに前の二行まではわかるんだけど、このあたりが今一つよくわからない。 もう少し具体的に説明してもらえないだろうか。 それと、もし仮に自らを殺す結果になったとしても、それが他に及ぼす影響如何によっては必ずしも悪とはいえないのではないだろうか。 例えば反面教師的なものであったり
391 :
考える名無しさん :2012/02/25(土) 11:04:19.36 0
>>390 真実「真相=実相」は「一相=無相=無我=空相」であるとするなら、
ある人が、真実は、一相や無相や無我なるものではない、と言うなら、前提を
否定するものであり、その否定は、嘘である。その人は嘘をついているのである。
嘘とは自分の内心と外心との相違が常にあるものだ。嘘を吐く人は正直では無いのである。
正直ではないとき、人は常に内心が嘘と言う外心に拘束されて、自由では無いのである。
心が不自由であるとは、その人は内心と外心の戦争状態にあるのであり、その人は統一した
行動を取ることができない、その戦争は両者に壊滅的被害をもたらすのである。その人は心が
荒廃し、体も動かない状態になる。と言うことは今の医療が言う、植物人間になるのである。
脳死の状態である。だから植物人間というと、外面的には、死の状態であるが、
本質は、二つの心が永遠に戦争状態にあるといえる。だから、そのような戦争状態にある人の、
心は、平安を得ることができていないのである。
金塊と言う個物が、無いのにあると思っていると言うことは、無いと言う内心の声と、あるという外心の声
が戦争状態にあるということである。戦争状態にあることを、心の永遠の死であると言った。
戦争を引き起こした原因は、金塊があるという外心の心であり、それは偽りの心であった。
その偽りの心と、内心の金塊は無いと言う心を拘束し、それに服従しないのである。
かくして、その人を植物人間にするのである。
これでどうですか?
392 :
考える名無しさん :2012/02/25(土) 11:30:53.14 0
>>391 >それと、もし仮に自らを殺す結果になったとしても、それが他に及ぼす影響如何によっては必ずしも悪とはいえないのではないだろうか。
例えば反面教師的なものであったり
自分が真実に反することの結果を見せて、他者にその轍を踏まないように教える意図が、ある場合のことですね?
そういう例はこの現実社会に蔓延しているのであって、それを事例として、
覚者は、教えているのである。事例を取り上げる覚者こそ反面教師の役割を
兼ね備えていると言うべきではないだろうか?
>>391 しかし、その前提をしらぬものが殆どではないだろうか。
そういうものにとっては嘘が嘘にならないともいえる。
それと内心と外心の不一致、要するにある種の矛盾や葛藤は、人である限り誰しも避けられぬものであり
むしろそういったものをひっくるめて肯定することは出来ないのだろうか。
あと、仮に百歩譲ってあなたの言うとおりだとしても、それがどうして来世に関係するのかがよくわからない。
例えば、殺人を犯したために来世で酷い報いを受ける、人助けをしたために来世で良い報いを得る、
単純にいってしまえばこういうのが一般的な因果観、輪廻観だと思うんだけど、
それらは殺人を犯せば処刑をうける、あるいはうけない、人助けをすれば良い報いをうける、あるいはうけない
というようなあくまでも現世だけのものであって、
しかしそれでは納得出来ない大衆の為につくられた方便だと俺は思うんだが、いかがであろうか。
394 :
考える名無しさん :2012/02/25(土) 13:12:12.42 0
十善(十の善き戒め) [編集]不殺生(ふせっしょう) 故意に生き物を殺さない。 不偸盗(ふちゅうとう) 与えられていないものを自分のものとしない。 不邪淫(ふじゃいん) 不倫をしない。 不妄語(ふもうご) 嘘をつかない。 不綺語(ふきご) 中身の無い言葉を話さない。 不悪口(ふあっく) 乱暴な言葉を使わない。 不両舌(ふりょうぜつ) 他人を仲違いさせるようなことを言わない。 不慳貪(ふけんどん) 異常な欲を持たない。 不瞋恚(ふしんに) 異常な怒りを持たない。 不邪見(ふじゃけん) (善悪業報、輪廻等を否定する)誤った見解を持たない。 ・・・・・ 上はwikiのコピーである。 最後の不邪見とは何かについて、善悪業報、輪廻、と注してるが、これでは仏教の 教えの半分にも満たない。
395 :
考える名無しさん :2012/02/25(土) 13:24:21.85 0
>>394 続き
仏の教えとは、真実在は、無相一相空相であり、その故は、一切は縁起してるに過ぎないからであると言うものだ。
善悪業法とか輪廻と言うのは、縁起の様相である。
縁起であるがゆえに、善悪は幻で真実にあるものではなく、無相であり、
輪廻も縁起現象であるが故に、真実にあるものではない、と言う教えなのである。
で、この故に、人はこの十の戒めを守るべきである、という論理的帰結になるのである。
殺して得るもの無く、盗んで得るもの無く、邪淫して得るもの無く、騙して得るもの無く、
綺語して得るもの無く、・・・・・となるのである。
396 :
考える名無しさん :2012/02/25(土) 13:39:05.68 0
>>395 つづき
輪廻というと、人間としての生まれ変わりを意味する。他の動物に生まれ変わったり、
人間でも地位名誉が異なって生まれたり、殺したものは次には殺される、というめぐり合わせ、などを言うのだ。
この輪廻の思想も、真実が一相であるということから来る論理的帰結なのである。
397 :
考える名無しさん :2012/02/25(土) 13:52:44.12 0
人間というものは無く、人間と他の動物というものも無く、動物と植物というさも無く、 植物と大地という差異も無い、一切の差異は無い、というのが真相なのである。 この真相実相真実に反して、自分は他のものと厳然とした違うものである、 と考えるなら、人を殺して鬱憤を晴らしたり、人のものを奪って自分が得をしたり、 ということになる。しかし、自分と他のものとの差異が無いとすれば、他のものにした行為は、 自分にしたものなるのである。 真実の世界が一相であるのに対して、不真実の世界も反転して一相なのだ。 殺したものは殺されたものになるのだ。
398 :
考える名無しさん :2012/02/25(土) 16:17:09.33 0
>>393 >あと、仮に百歩譲ってあなたの言うとおりだとしても、それがどうして来世に関係するのかがよくわからない。
前段について、それは世界の真相は、一相なもの、無相なもの、と説いた人の教え
の範囲内であり、それに基づいた覚者の教えがあるからである。それを受け入れないものは、
それに拘束される必要はない。
で、縁起してるものに実体があるとする人は、生まれたことに実体があり、死ぬことにも実体があると
考えることになる。これは必然である。形を変えて存在すると考えるのだ。
金塊の喩えを用いるならば、金塊でなくなると、金塊を囲にょうしていた空間に
変化して存在するという考えになろう。死者とは生きてる人には無視される存在である。
死ぬということは、生きてる人から無視される存在になるということと考えるだろう。
全くの無視である。それは苦しみのきわみであると考えるだろう。
そこで、死者の霊を弔おうという考えが生まれるだろう。それにより、無視されることの苦しみから
開放されるだろうと考えるのだ。又、犬に生まれ変わって、その存在として可愛がられ又虐待されるだろう、
と考えるだろう。人が死ねば必ず、自分とは反対の存在になると考えるのは必然なのだ。生きている人間とは相対的存在である
限りは。生きてるときの自分がどのような相対的存在であったかにより、
仏教で言う十界が考えられるのである。仏から地獄界までである。
しかし、この十界は、これもまた縁起現象に他ならないのである。
よって実体の無い妄想であると知るべきである。
要するに、殺人者が来世では幸福な一生を送るかもしれないし、人助けをした者が来世では地獄のような一生を送るかもしれない。 また人とも限らず、どうなるかは分からないが、とにかく存在としての輪廻は永久的に続くことになる。 だから、例えば殺す殺されるということも現在の一時的な現象、存在に囚われているに過ぎず、全体から見れば大して差はない。 こういうことだよね。 それならほぼ同意です。
400 :
考える名無しさん :2012/02/25(土) 21:59:05.83 0
>>399 そうではないのだ、私の説明が色々混乱させているに違いない。
具体的に言うと、この世で良い行為をたくさんした人、というと、この世で人がありがたいと感謝する
行為をした人は、その人が死んでこの世にいなくなったとき、生前のその人から受益した人達は、
その人の良い行為の恩恵を受け続けることになるのだ。受益してる限り、被受益者は受益者を
忘れず感謝し続け、仮にその人が生き返ったとするなら、その人を大いに歓迎するであろう、
この受益者は死んでもこの世界で、人々に受け入れられ愛されるのである。
このことを私は、人は死んでも、生きていたときと同じ、生活をするというのである。
そしてこの善き行為をした人と反対の人は、またこの世に残した悪い行為の効果で、忌み嫌われるということになる。
これが縁起の世界の有様なのだ。
しかし真実は、縁起を超越している。縁起してるものには実体が無い。縁起してるものは幻に過ぎないと。
幻に過ぎないのだから、縁起にとらわれずに、自分の今の生活を改良することができるのである。
結論としては近いところいるように思われます。
401 :
考える名無しさん :2012/02/25(土) 22:14:24.17 0
ごめん、受益者と与益者を混乱して言っている。
402 :
考える名無しさん :2012/02/26(日) 09:56:16.83 0
この世界の争いの元凶は、旧約聖書にある、神の智慧とサタンの智慧の戦いを起源とする。 今に至るまで、この智慧の覇権争いである。 神の智慧とは実相は一なるものすなわち一相である。サタンの智慧とは IQテストによるIQテストがする評価である。 現今このIQテストなるものが氾濫しているが、実効性が見られない。 これは妄想の世界を対称にするものだからである。 真実の智慧は、縁起の理法を土台とする、一相無相を真理真実とするものである。
403 :
考える名無しさん :2012/02/26(日) 14:40:10.64 0
数学の平均を理解してなくともぜんぜん問題ない。 そんなものは、理解してるに値しないのだ。必要の応じて理解すれば良い。
404 :
考える名無しさん :2012/02/26(日) 15:28:03.48 0
>>399 善因善果、悪因悪果、どちらも縁起現象である。だから、
善因が悪果になろうとも、悪因善果になろうとも、実体が無いのだから、
なんら恐れることは無いのだ。
こういう意味なら、あなたの言うとおりだ。
あなたの言うのは大吾、というか、究極の立場ではないか?
405 :
考える名無しさん :2012/02/26(日) 16:50:20.27 0
東洋思想は不確実な人間について断定するから「おまじない言葉」でしかないのな
406 :
考える名無しさん :2012/02/26(日) 22:42:45.92 0
??
「イスラエルを除けば、我々が紀元前古代の何処を探しても見つからないような 思想内容がこもっている」 つまりギリシア<老荘
408 :
考える名無しさん :2012/02/29(水) 19:34:59.68 0
ギリシャのパルメニデス、ゼノンは同じ一の真理真実を説いた人達だが、 ともに、輪廻と言うものを取り立てて言ってないが、対を為している変化に捕らえられてはならない と言っている。この対を為している変化とは輪廻のことだ。 パルメニデスはピタゴラスの思想を知っていた。ピタゴラスは輪廻を説いたらしい。そして 輪廻からの解脱を説いたと言う。しかし彼の輪廻がどういうものか、明らかではない。 次に、地理的に近いユダヤのイエスキリストは、輪廻と言うものと特別に説いてはいない。 しかし、それに類似してる思想は見受けられる。永遠の地獄に落ちると言う 意味は、輪廻から逃れらないという意味である。 ゴーダマとても、輪廻を説いているが、彼の時代にはすでに輪廻の思想があったのだ。 バラモン教である。ゴーダマはそれを自分の解く真理真実に基づいて、輪廻を 解き明かしたのである。 老荘も、特段に輪廻を説いてはいないだろう。老荘の場合一番輪廻と言うものを 説いていないな。しかし彼らの真理真実によれば、輪廻は容易に説けたものだ。 道教は仏教から輪廻の思想を補強している。
409 :
考える名無しさん :2012/02/29(水) 19:56:25.76 0
清の学者で、西洋諸外国から開国を迫られていたとき、中国には 西洋の学問で輸入する新しい思想は無い、皆中国に元々ある、 と言った人がいたね。 そうなんだよね。 キリスト教に対しては、墨子の教団。 パルメ、ゼノン、ゴーダマに対しては、老荘だ。 中国では、政治と哲学宗教が、分離されなくて、政治に哲学宗教を 生かそう、と言う考えが常に支配していたんだよね。
410 :
考える名無しさん :2012/03/03(土) 10:59:39.47 0
一切が縁起現象であって、虚蒙:幻、であるなら、一切は無相:一相 で清浄なのだ。虚蒙:幻とは実体が無く、無視すべきものだから。 この理法を認めないものが、虚蒙幻に実体があると思い、それと格闘することになる。
411 :
考える名無しさん :2012/03/04(日) 10:27:24.26 0
過去も縁起現象であった。現在も縁起現象である。未来も縁起現象である。 ならば、未来の縁起現象を予測できないはずは無いだろう。 同じに過去の縁起現象をも推定できる。 これは縁起してるものに実体があるとした場合である。 縁起してるものに実体が無いとした場合は、過去にも何も無かったし、現在も何もないし、 未来も何も無い、と言わなければならない。
412 :
考える名無しさん :2012/03/04(日) 11:44:01.79 0
老子は一を抱け、と言う。一は無相のことなのだが、一を抱くのと無相を抱くのと どちらが良いのだろう? 何もないというとき、複数のものがなく一であるという事だが、アジア人には一が良いのか?
413 :
考える名無しさん :2012/03/04(日) 11:54:33.04 0
414 :
考える名無しさん :2012/03/04(日) 11:58:27.67 0
ゼロとしての一、台風の目としての一 これが肝心要
416 :
考える名無しさん :2012/03/05(月) 09:15:44.54 0
しかし、道士方士が、房術を行ったり、丹を練ったりというのは、解せない。 これじゃ老荘の教えと衝突するのでは、と思うのだ。 この点仏教は徹底して、房術を排している。いわんや錬丹をや。 道教と仏教が論争したとき、この点が重要な分岐点になった可能性があるな。 道教と仏教の争いについて調べることは有意義。
417 :
考える名無しさん :2012/03/05(月) 09:19:20.87 0
>>415 ゼロとしての一、と言うのは判るが、台風の目としての一と言うのが判らない。
418 :
考える名無しさん :2012/03/05(月) 14:37:40.16 0
419 :
洋楽/T-X :2012/03/05(月) 15:47:28.59 0
>>417 gyro じゃろ じゃろってなんじゃろ JARO ばーか
ちがぁあああう じゃいろ ってゆーの
ヘビの色気 ・・・・ ちがぁああああう
とりあえず 「 ジャイロ 」 で Wikiって みてください
・・・・・ 台風の目
420 :
考える名無しさん :2012/03/06(火) 12:35:14.79 0
一と言う真実は無と言う相を採る。 移動と言うものが無い。不動だ。静止だ。 時間と言うものが無い。空間と言うものが無い。 だから、台風の目とたとえるのは不適切ではないのか?
421 :
考える名無しさん :2012/03/26(月) 19:58:13.23 0
読んでも分からんくせに(プ
424 :
考える名無しさん :2012/03/28(水) 09:07:11.39 0
老子の小国寡民の国などは、ヨーロッパの片田舎にありそうな感じだ。 大きな誤解を招きそうな話ではあるな。 愚民政策などと言うのは、これに起源があるのだろう。 ところが、この国というのは、為政者がいないのだよね? 為政者が身近にいると感じる国というのはひどい国なのだ。古代中国では、 為政者がいないという国が理想の国とされている。 今の民主主義国家がこれに近いのだ。そこの住民そのものが為政者なのだから。 主権在民という。
425 :
考える名無しさん :2012/03/28(水) 11:41:33.20 0
アーミッシュ
愚民政策はキリスト教的主義にあって正確には理解し得ない
427 :
考える名無しさん :2012/03/28(水) 18:33:42.84 0
アーミッシュに会っては、速いよりも遅い方が尊重されると言う。 ゼノンや老荘では、速い遅いと言うことはないというのが真実であると言う。 アーミッシュは、老荘をも理解しているな。
428 :
考える名無しさん :2012/03/29(木) 19:35:32.16 0
銃撃事件 [編集]2006年10月、ランカスター郡の小学校に「神を憎む」という男性が闖入し、児童や教員を銃で殺傷する事件が発生したが、 13歳のアーミッシュの少女が自分より小さな子供に銃口が向けられた際、身代わりとなって射殺され、その妹も銃撃された。 その後、彼女らの祖父は犯人に恨みを抱いていないことを表明し、犯人の家族を葬儀に招いたという。 町田宗鳳はアーミッシュの伝統を重んじる信仰生活が決して形式的なものではなかったと評している[15]。
429 :
考える名無しさん :2012/03/29(木) 19:43:17.72 0
神は唯一なる存在であるとすると、神は無相一相空相である。 そして、神は真実なのである。 だとするなら、人間などいないのだ。そうだとすると、銃撃事件などもなかった といわなければならないだろう。 アーミッシュはこの真理を信じていたという理解が正しいのでは?
オカルトだな。オカルトは早く病院に入ったほうがいい
431 :
考える名無しさん :2012/03/29(木) 21:31:28.98 0
というよりも、この真理真実を知っていたイエスキリストの教えに従った、 というべきか。 なぜならイエスは、汝の敵を愛せよ、とか、敵のために祈れ、とか、 上着を奪うものには下着をも与えよ、と教えているのだ。 しかし理解が伴わない教えの実行はつらいのではないだろうか? 苦しいに違いない。 その点、仏陀は、真実は一相といっているので、理解の実行が修行であり、 信仰であり、現実の収得、証得・・・・・
432 :
考える名無しさん :2012/03/30(金) 19:14:12.56 0
真実の世界が一相無相としてあり、その中に、ぽっかりと縁起の世界、 相対の世界、対の世界、がある、と考えるのが良いのではないだろうか?
縁起の考え方からすると、自己の意思というものをどう考える? 例えば、種を蒔けば花や実がなる 種を蒔くという行為は自らが行うわけだけど その発想、また実際に蒔くか否かという判断等は、周囲の複合的な影響に因るところが大きいよね 種だけでは花や実をならすことが出来ないないように
434 :
考える名無しさん :2012/04/01(日) 14:25:21.56 0
五蘊は次の5種である。 1.色蘊(しきうん) - 人間の肉体を意味したが、後にはすべての物質も含んで言われるようになった。 2.受蘊(じゅうん、vedanaa) - 感受作用 3.想蘊(そううん、saMjJaa) - 表象作用 4.行蘊(ぎょううん、saMskaara) - 意志作用 5.識蘊(しきうん、vijJaana) - 認識作用 般若心経には、「五蘊皆空」と「無色無受想行識」という文言が含まれている。 __ウィキ >その発想、また実際に蒔くか否かという判断等は、周囲の複合的な影響に因るところが大きいよね 意思作用というものは独自に存在するもんではなく、周囲の複合的影響により、生ずるもの 生じたり滅したりするものでありましょう。これは縁により生起する心でしょう。 意思は意思でも正法を聞き理解して、修行するぞと一念発起する場合の意思ですが、 この場合でも、真理真実の世界を想起し、それを目的にするというものであり、 この世界がないなら、一念発起もなかったものです。それで、この修行については、 一念発起の意思もまた無いのが真実であるとして、無の境地にならなければならないと教えることになるでしょう。 そして無の境地こそ、一の境地であり、これこそ精神統一に他ならないと知るべきなのです。
>意思作用というものは独自に存在するもんではなく、周囲の複合的影響により、生ずるもの 生じたり滅したりするものでありましょう。これは縁により生起する心でしょう。 そうだとすると、イエスの赦しの教えもわからなくはないな
環境と行動が存在するのと 環境に行動が左右されるというのは 全く別の事象だし 両方あるんじゃない?
437 :
考える名無しさん :2012/04/01(日) 22:03:04.31 0
>>436 世界には別の事象と言うものは絶対にないのだ。
もしそんなもの、そんな区別、そんな差別があるなら、真実は一相無相空相ということは不可能だから。。
死と生も相対してる。無と有も相対してるのだ。
存在してるものは相対的に存在してる。
>環境と行動が存在するのと
環境に行動が左右されるというのは
全く別の事象だし
同じだと思われる。
438 :
考える名無しさん :2012/04/03(火) 19:43:40.71 0
大事なことを強調していないと思う。 それは真実在は無相だということである。 真実にあるものは無相ということだ。仏教では真実在のことを実相と言う。 相対的に存在してるものは、実在してるものではなく、虚妄と言うことだ。
無知の知
『老子道徳経』を読めばいい。
441 :
考える名無しさん :2012/04/06(金) 16:06:50.99 0
道徳経を読もう。 その前に、漢語訳された仏教は、簡潔で、説明用語が準備されてるんだよね。 だから、仏典を利用して説明するのは、仏典を先に勉強したものには、つい援用してしまう。 色受想行識は空である、と般若心経は説く。 であるから、重い軽いというのは受=感覚の範疇である。感覚は空であるのだから、 重い軽いという変化はないのだ。つまり、重力というものはないということだ。 学校で、ニュウトンの物理学を教えているが、これって、真理真実に反する教えということだ。 偽りを教えているのだ。 ニュウトン自身、この偽りを判ったのか、気づかずに偽りに支配されたのか、彼は五年間ほど 精神錯乱に陥っていたという。この事実は余り知らされない。不名誉だからだろう。 しかし現実だったのだ。
442 :
考える名無しさん :2012/04/06(金) 21:12:24.65 0
人間は万物の尺度である。プロタゴラス。
443 :
考える名無しさん :2012/04/07(土) 11:18:14.97 0
プロタゴラスは、真理真実というものはない、と言う。 そして、法律:約束が人間の行動の規範となる、と言うようなことを説いた。 真理真実がないというのと、真理真実は一である無相である空相である、と言うのと、 どのような違いが有るのだろう? そこで、それでは法律が規範であるとするなら、法律に違反したものは、絶対的な処罰を 受けなければならない。 なるほど、アテネでは裁判で、法律に違反したものは、死刑になっていると言う事実が多数報告されている。 そして、本来優れた人々が、法定の弁論のいかんにより、死刑にされるのを悲しんでいる評論もある。 ペリクレスの時代がアテネの最盛期であった。ペリクレスは、プロタゴラスやゴルギアスの講義を受けた。 プロタゴラスやゴルギアスが、アテネの民主政治の原因者であったのではないだろうか? 古代中国でも、この流れた基本としてある。こういう流れが基本として生じるのは、これもまた、 必然、つまり、縁起なのだと思う。 中国では、まず、老荘思想が怒り、それに基づいて、法家、名家、が発生しているのだ。 秦の始皇帝が、法律により天下を治めた。 仏教でもキリスト教でも、不法行為が正常の妨げになるということを厳然と言う。 しかし、不法行為を人間は犯してしまうのだ。これに対してなんら救いがないのだろうか・ 有る。やはり起源の『一』に戻らねばならないのである。一に戻るならば 不法行為から許されることも可能である。 不法行為を惹起する法律とは、要するに、人を天国極楽に導くための道しるべに過ぎないのである。
だだだ
445 :
考える名無しさん :2012/04/12(木) 06:35:36.13 0
工事中
ららら
摩季姐さん
ここでお尋ねすべきかどうか迷ったのですが、間違っていたならすみません。 英語で If you want to be given everything, give everything up 老子の言葉らしいのですが、日本語のどの格言にあたるのか教えていただきたいです。 よろしくお願いします。
第二十二章か 情けは人のためならず、かな
451 :
考える名無しさん :2012/04/18(水) 19:50:47.77 0
日本語の格言というと、聖書を訳したもので、日本語になっているが、そこには、 この意味と同じ教えがある。 しかし日本の格言としては、思い浮かばないな〜
449です ありがとうございました
453 :
考える名無しさん :2012/04/20(金) 19:07:37.75 0
ルカによる福音書 0638> 与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまで量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。 あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから」。 英語文の老子の教えは、上のイエスの教えのことだろう?
454 :
考える名無しさん :2012/04/20(金) 21:59:58.93 0
三神一体(トリムルティ)とよばれる近世の教義では、中心となる3大神、すなわち ヒンズー教では、創造と破壊の神様がいるんだ。 キリスト教では、創造の神様、創造しただけで、破壊と言うことがない。 これって、半端じゃなのか? 創造とその消滅、これを考えてみよう。 滅するものがあるから、新たに生ずるものがあるというのがゴーダマや老荘の教えだ。 滅するものがないのに、生ずると言うことがあるか? あるものが現れると言うことは、その部分に於いて、滅するものがあるからではないか。 だとするなら、創造と破壊:消滅は対でなければならない。 キリスト教の神は創造だけで、後はほったらかしだ。 老荘ではどうだろうか? ・・・・・・ ブラフマー:宇宙の創造を司る神 ヴィシュヌ:宇宙の維持を司る神 シヴァ:宇宙の寿命が尽きた時に世界の破壊を司る神
455 :
考える名無しさん :2012/04/21(土) 13:53:13.34 0
ヴェーダンタ学派の シャンカラは、隠れ仏教徒だって。
456 :
考える名無しさん :2012/04/21(土) 19:49:37.94 0
老子の教えを根本とする道教では、長命を奨励する。 長命することで、修行を完成しやすくなるというのだ。 選任になれる可能性が大だというのだろう。 しかし、これは仏教に反する。そして、老子荘子にも反するんではないのか? 仏教で間を置かぬ、という。悟ってニルバーナに至るのに間を置かない、というのだ。 欲望さえ消滅させられるなら、直ちにニルバーナに至るというのである。 今望んでいることを、捨てるなら直ちにニルバーナに至るというのである。 そのとおりだと思う。
457 :
考える名無しさん :2012/05/27(日) 11:52:07.76 0
三国志が人気あるのは、老荘思想の現実から離れた自由で夢のような思想があるからではないのかな? これに似たものとして、ホメロスがあると思う。ギリシャ神話がなければ ホメロスはあれほど人気がなかったと思う。 ホメロスと三国志の、自由で夢のような思想の係わり合いは、ホメロスに三国志は及ばないが。
458 :
考える名無しさん :2012/06/13(水) 05:36:33.44 0
老荘の「無為」とは「無欲」ってことだな
459 :
考える名無しさん :2012/07/06(金) 03:50:12.78 0
>>456 当たり前だけど、修行が完成していない人は完全には悟っていない人だから、
長命を望むのも間違いでは無いよ。
460 :
考える名無しさん :2012/07/31(火) 16:12:33.79 0
老子は、スポーツ観戦などの勝ち負けで、必死に頭に血をのぼらせてる人はアホだみたいなことをやんわり言ってるよな
461 :
考える名無しさん :2012/07/31(火) 23:11:40.01 O
知は言を超えている! ( ̄∀ ̄)
462 :
考える名無しさん :2012/09/24(月) 21:47:07.62 0
道について3000字くらい書かれてるサイトありませんか?
道との遭遇
464 :
考える名無しさん :2012/09/29(土) 21:16:13.60 0
なかなか老子さんの事を実践するのは難しい。無為自然なる状況に おいて、今の世の中、つけこまれそうで怖い。しかし、強い状態は道 に反するといっているように、権力やら、名誉やら、お金やらをもち すぎている状態は歴史をみても弾け飛んでしまうのは間違いないような 気がする。 真の無抵抗は暴力を振るわれる心配がないそうだが、 隣の国が武器をもっていたら、そこまで神がかれない気はする。 しかし、本来、人の死は人間の及ばざる所にあるのであって、むやみに 戦争をおこせば、勝った方もおびただしい犠牲者などがあり 人心の荒廃などがあり、マイナスがおおいだろう。 大道が廃れているのだろう、みんな頭をつかって何とかやろうとするが、 確かに考えたとおりにはならない。
中国政府の暴動のコントロールに見る老荘思想を発見しました。しかしここでは発表しませんがね
466 :
考える名無しさん :2012/10/04(木) 04:56:46.31 0
道で遊ぶべし
467 :
考える名無しさん :2012/10/06(土) 15:42:27.56 0
>>465 しかし、それは間違いかもしれないぞw。
孔子(こうこ) 老子(ろうこ) 荘子(そうこ) 孟子(もうこ) 万子()
ああ、ばんこな、ばんこ
万子(i)
471 :
考える名無しさん :2012/11/05(月) 13:09:17.52 0
知らないものだから、言ってみるよ。 例えば、「■」 知ってる人は、黒くて、四隅がとがっていて、下がまっすぐで、 上も下と平行っぽいし、右も左も平行っぽいし、それでいて面積は… と、思い浮かべるけど、言葉という道具では実物の全てを表現しきれない。 しかし、そこまで考えない人は「黒い四角じゃん」って言ってしまう。 で、そういう風にした瞬間に、本来もっていた■の他の性質をばっさり 切って、「黒い四角」という言葉に押し込めてしまう。規定しちゃう。 という、言葉の限界の話じゃね?って思う。
五行目の「実物」は、別のより適切な語に置き換えると完成度が上がるかと思う。
473 :
名無しさん :2013/01/12(土) 05:25:08.49 0
大阪府三島郡島本町の小学校や中学校は、暴力イジメ学校や。
島本町の学校でいじめ・暴力・脅迫・恐喝などを受け続けて、
心も身体も壊されて廃人同様になってしもうた僕が言うんやから、
まちがいないで。精神病院へ行っても、ちっとも良うならへん。
教師も校長も、暴力やいじめがあっても見て見ぬフリ。
そればかりか、イジメに加担する教師もおった。
誰かがイジメを苦にして自殺しても、「本校にイジメは
なかった」と言うて逃げるんやろうなあ。
僕をイジメた生徒や教師の名前をここで書きたいけど、
そんなことしたら殺されて、天王山に埋められるか、
どこかの家の床下に埋められるか、ドラム缶に詰められて
大阪湾に沈められるかもしれへん。それで誰にも発見され
へんかったら、永久に行方不明のままや。
島本町の学校の関係者は、僕を捜し出して口封じをするな。
http://www.shimamotocho.jp/ikkrwebBrowse/material/files/shimamoto_iti_map.pdf
474 :
考える名無しさん :2013/01/31(木) 11:08:45.08 0
身を小さくし隠れて耐えよ。 俺もそうだった。 でもいつか復讐し、肩の荷を降ろせる日が来る。
475 :
考える名無しさん :2013/02/01(金) 14:15:28.11 0
4え
476 :
忍法帖【Lv=2,xxxP】(1+0:8) :2013/02/03(日) 01:11:54.14 0
スゴ杉内
>>1 「知者不言、言者不知」
=
「本当に物事の真理を理解している人は、自己主張することもなく、ただ、人の中で目立たなく 生きている。
こういう人に対しては、世間の人たちが、どのように接したらいいのか分からず、 どうすることもできない存在である。
本当の知者は、道というものをよく理解し、道と一体化しているので、世間の人にとっては、 つかみどころがない存在ですが、こういう人こそが、本当に物事の真理を理解している。」
>どうすることもできない存在 マッカリ・ゴーサーラもパルメニデスもこれを言ってるね 仏教者からは実在論と断じられるけど、いまいちピンとこない
宗教、イデオロギー、妄想、勘違い、これらなしに人は生きられない と言うのがいわゆる枢軸時代に得られた見解かな 世界観なしで済ますことはできないから、よりましな世界観が探求されたと言うことかな
480 :
考える名無しさん :2013/04/28(日) 04:38:28.43 0
481 :
考える名無しさん :2013/04/28(日) 20:02:30.50 0
昨日までの経験とか知識なんか荷物なだけ 風はいつも通り過ぎて後に何も残さないよ 新しい道を探せ! 他人(ひと)の地図を広げるな! 伏せた目を上げた時に 0(ゼロ)になるんだ 僕らは夢見てるか? 未来を信じているか?
482 :
考える名無しさん :2013/05/01(水) 13:01:37.32 0
ほう‐せつ〔ハウ‐〕【包摂】 [名](スル) 1 一定の範囲の中につつみ込むこと。 「知識はその中に―されている」〈倉田・愛と認識との出発〉 2 論理学で、ある概念が、より一般的な概念につつみこまれること。特殊が普遍に従属する関係。例えば、動物という概念は生物という概念に包摂される。
483 :
考える名無しさん :2013/05/07(火) 11:28:12.19 0
『老子』:100分 de 名著
http://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/22_roushi/index.html 【放送時間】
2013年5月8日(水)午後11:00〜11:25/Eテレ(教育)
【再放送】
2013年5月15日(水)午前5:30〜5:55/Eテレ(教育)
2013年5月15日(水)午後0:25〜0:50/Eテレ(教育)
※放送時間は変更される場合があります
【ゲスト講師】
蜂屋邦夫(東京大学名誉教授)
老子は、儒教のアンチテーゼとして書かれた書である。儒教のような形式にとらわれず、自然のように
融通無碍に、そして柔軟に生きることを勧めた。また老子は、自然の背後には万物を創造するエネルギーがあり、
人智の及ばない法則があるとして、それを「道」と称した。第1回では、老子の全体像を解説する。そして
自然の法則に習った無理をしない生き方について語る。
老子の弱いところは創造するエネルギーとかポジティブな様相を どこかで目指しているところだ。 絶望したり、自殺することも人間の生き方として間違っていないと 悟ることが唯一残された自由であるのに、 生きることこそ是としているのは弱点としか言いようがない。 だったらアグレッシブに生きようが自然の胎動に任せて生きようが 勝手にしろと言いたい。
だって死が前提なら哲学いらんだろ
488 :
考える名無しさん :2013/06/03(月) 00:36:59.45 0
>>486 それが悟りと言うならまず君がその自由とやらを体現してみろやw
死が前提だからこそ哲学なんだろ。 ハイデガーを知らんのか?
490 :
考える名無しさん :2013/06/03(月) 16:35:28.62 0
死を選択することと死を意識して生きるのでは意味が違うだろw
不完全な死体だよ
492 :
考える名無しさん :2013/06/04(火) 01:00:14.73 0
100で名著の最終回で実は老子も寂しいし不安だし他人が羨ましく思う時もあったと聞いて 人間らしいなあと思う反面、悟りきってる訳じゃないんだなとも思った
493 :
考える名無しさん :2013/06/04(火) 03:24:50.60 0
次は孔子にチャレンジしろ
孫子もいいよ。老子からいいところをうまく吸収してることがわかる。
老子が生きていたら臓器移植も延命治療もまた否定するでしょう。もっともいえば科学的は発展も望まないでしょうね。
小国寡民は元祖スマートグリッド
>>488 >>490 いや、悟ると書いただけで、悟りとは書いてない。
それに悟りもいらない。
死を選択しようがしまいがやがてやってくるもんだ。
どちらもそんなに変わらない。
498 :
考える名無しさん :2013/06/04(火) 23:33:53.33 0
死を選択することは老子に言わせれば不自然なことだし 変に気張って生きるのも不自然なことなんだよ どちらも作為的ってことだな
あるがままにだよ
>>492 あの助川の解釈は間違っている
老子は端に道初心者に予言助言しているだけ
道を極めることを実践していると孤高孤独に感じることがあるかもしれんと予言し
かつ気にするなという助言を与える章
老子の弱音と受け取られちゃうとはwww
無為自然とは何もしないことではない。 内側の静けさを携えながら、それとともに生きること。 そのためにはエゴが終わらなければならない。
人間のエゴは当然の帰結だろ エゴを含まない無為自然は無為自然とは呼べない
自然ということならばエゴがあるのは当然。 無為自然は超自然的なこと。 自然とは下方向へのながれ。 超自然とは上方向への反自然的流れ。
「知者不言、言者不知(知るものは言わず、言うものは知らず)」 本当の事なんてわかるはずないじゃんね 老子の意図も真実も
506 :
考える名無しさん :2013/11/15(金) 18:00:21.75 0
老子=隠遁者 おもしろい癒しの思想
507 :
弧高の鬼才 ◆zD.tvziESg :2013/12/13(金) 21:57:04.24 0
老子にも荘子にも矛盾がある。矛盾を拾い出せる。 本人が書いたものじゃないからな。 たとえ、老子、荘子であろうと、鵜呑みにするのは哲学的態度ではないのは仕方あるまい。 しかし、それでも老子の思想は個人的には、偉大である。
塩
509 :
弧高の鬼才 ◆zD.tvziESg :2013/12/13(金) 23:16:38.99 0
いくら、矛盾があろうとも、それは誤謬や誤字脱字、文法的間違いとは違う。 どっかのバカ理系の書いたグダグダな評論文よりは、だいぶマシだと思う。 って、くらべたら申し訳ないか。
510 :
弧高の鬼才 ◆zD.tvziESg :2013/12/18(水) 22:37:12.00 0
魂のアナトミーは、ない、脳科学でも不可
吉川裕の憂悲とその解消−「twitter」「2ちゃんねる」「遠くから見る推理研名物Q君を想像するの図 〜2004 帰郷〜」を手がかりとして− 吉川裕(東北大学大学院) 吉川裕(一九八四〜)は、佐藤弘夫(一九五三〜)の宗教・学問のうち宗教的側面を主に継承したとされる人物である。 宗教的側面を主に受容した理由については諸説あるが、 吉川の強烈な性欲や、実際の性行為における無能力感や挫折感を原因とするのが一般的である。 本発表では視点を変え、嫌儲板での書き込みにおいて、吉川が 「女で心を満たそうとする人間はやった人数に比例した地獄を目撃する。」と書き込み、 女性が自分を満たしてくれない事への率直な憂悲を吐露していたことに注目する。 この下半身の憂悲を解消すべく吉川が没頭したのが、 折伏活動とそれに伴う漢文能力を駆使した未来の創造であった。 ところが少し前に書き込まれたレス(二○一四)ではそれまでの表現的受容を越えて、内面的に創価学会から大きく影響を受けたことが確認できる。 人生の目標を「出世」とし、憂悲に限らずマンコ等には煩わされない「創価ホモ」の主張は震災以前の吉川は見られないものだった。 本発表では、佐藤弘夫を必要以上に信仰した裕であるが、最近になるにつれて憂悲の忘却・思考停止は創価学会が主に担っていったことを指摘する。
____ ,/:::::::::::::::::::::\ /::::::::::::::::::::::::::::::::::\ |:::::::::::|_|_|_|_|_| こう見えても |_|_ノ∪ \,, ,,/ ヽ をれはイケてる男だよ。 |::( 6 ー─◎─◎ ) 財閥に近い血脈基準で |ノ (∵∴∪( o o)∴) やりすてていい女子きめてっかんな。 | < ∵ 3 ∵> /\ └ ___ ノ 女で心を満たそうとする人間はやった人数に比例した地獄を目撃する。←New!!! .\\U ___ノ\ \\____) ヽ 東北大学大学院博士課程 吉川裕(29) 仙台在住
『現代思想』2014.03で柄谷行人も言及していたが、フラ ンスの資本主義哲学の創始者とさ れる重農主義者ケネーが熱烈な儒教の信奉 者であり,またその自由主義の表現であるレッセ・ フェール“laissez faire”という語自体が,中国語の“wu-wei”(無為)の仏訳であるらしい。
514 :
てん :2014/03/19(水) 02:54:28.24 0
515 :
てん :2014/03/19(水) 02:56:33.81 0
516 :
考える名無しさん :2014/04/28(月) 00:21:56.18 0
え
毎日真剣に勉強しても家の中で2chしかできない俺らは あきらかに「ブルーカラー」の被害者だよな だって外にいる奴らしんじてねーもん