吉本隆明

このエントリーをはてなブックマークに追加
177考える名無しさん
悪を為した人間が「やべえ」と思うならそれは善の要素を持っていることになる。それは山崎
龍明らの悪人正機説が唱えている悪人である。悪を犯したと自覚しており、救われたいと思う、そ
のような悪人を山崎らの悪人正機説は対象としている。よって「やべえ」と思う悪人なら別にどうと
いうこともない。むしろそれは善であり、世の親鸞論者の喜ぶ、悔い改め、救いを求める悪人である
。善の要素がなければ救いの対象にはならないと山崎らが言うことの意味はそれである。「歎異抄」
で言われている悪というのは、人間が把握してない悪も含み、むしろそれらを救いとるところに
阿弥陀の知がある。人間の知と阿弥陀の知とは規模が違うのだから当然そうなる。むしろ全く悔い
改めない悪、悪を自覚していない悪、善だと思っている悪、などだろう。「歎異抄」では、人間の知り
得る善悪の規模と阿弥陀の知る善悪を規模が違う、人間が知り得る善悪の限界ということが思想
化されている。いかなる善悪も業縁による、というのが親鸞思想で、しかもそれは人間には識別しが
たい。そこで突き放されている。善悪に拘ることさえがそこで自力の信仰で、浄土から遠い。