吉本隆明

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172考える名無しさん
山崎龍明のような解釈は、しかし山崎だけではない。殆んど99%の論者は、悪人正機説の「
悪人」について、〈悪を自覚し、その上で、阿弥陀の恵みへの信仰に入る者〉〈何とかして、こんな悪い
自分でも救われたいと思う者〉という風に解釈する。それで阿弥陀は見棄てずに救いとる、と。そし
てそのように論ずることで、阿弥陀の知を人間並に縮小していることに気付かない。「悔い改め」「
信仰して」初めて救われる、というなら、阿弥陀は人間的な善悪と同じ境地にいるということだか
ら、それならどこが「阿弥陀の恵みの広大さ」か、人間と同じ知しかないなら、となる。そういうこと
を殆んどの親鸞論者は気付かない。人間に於ける知と、阿弥陀の知との規模の違い、善悪の規模の
違い、ということが抜けている。親鸞論でそこをやれていることは皆無だといっていい。それほど困
難な場所で、人間的な場所に落ち込むということ。吉本の親鸞の屹立がそこにある。