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考える名無しさん:
山崎龍明の『初めての歎異鈔』(NHK出版)に、親鸞が骨抜きにされる典型が書かれている。山
崎は以下のように言う。《私は親鸞聖人の宗教は、悪そのものを無原則に認め、そのままでよい、とい
うものではなく、悪そのもののままにしか生きられない私たちが、悪をもて余し、悪に泣き、その
傷みとともに生きる者を、阿弥陀仏は必ず救うと誓ったのだと領解しています。》(同書97頁)
親鸞自身が《何が善で何が悪か、私は一つも知らない》(『歎異鈔』)と言い、又、《阿弥陀仏とは、自然(じねん)
ということを知らせようとする手だてであります。》《人が自らのはからいを捨てて、善いとも悪い
ともはからわないことを自然というのである、と聞いています。》《ですから義(基準、またその行
い)の捨てられていることが義である、と知らねばならないといわれます。》(いずれも『末燈鈔』
での親鸞の言葉)とまで言っているのに、つまり“人の世の善悪を当てにしたことなど私はない”
と言っているのに、相変わらず現世の善悪に拘り、“悪を悔やむ人間を仏は見棄てない”としている
。山崎は悪人正機説をめぐって吉本と論争した学者だが、やはりこれは駄目な読み方としか言えな
い。