とても興味深い吉本の発言、があって。幻想論について、共同幻想については幻想でいいんだけ
ど、個人幻想や対幻想の場合、幻想というタームで論じたのは違うかもしれないと『吉本隆明が語
る戦後55年E』で語ってるんですね。
《個人幻想とか対幻想とかは、特に個人幻想は、個人の錯覚や幻覚という意味にとられるかもしれ
ませんが、それとはまったく違う意味なんです。個人幻想というのは、個々の人間の精神現象とそ
の集まりのことを言っているわけで、共同の場合や制度的な場合と比較したらまったく違う意味
になっちゃいます。(補注:共同幻想の場合、消滅すべきという意味が込められているが、そういう
意図は込められていない、という意味だと思われる。)だから、本当は違う言葉を使わないといけ
ないんでしょうね。僕は勝手に使っちゃっているわけです。》(『吉本隆明が語る戦後55年E』66頁
)
僕はここでの吉本の述懐から、個人幻想という場合、ハイデガーの現有 Da-sein を念頭にお
けばいいんじゃないかと勝手に思っています。つまり己における、覆蔵された歴史性が有るも
のと交わることで心や、関心を、すなわち自己性(有限性としての世界)を現成させる場ですね。そ
れが現成すると。そう考えた方が吉本の真意を受け取りうるのでは、と思います。