波平は「既に周囲から偉いと認められている」藤田と同種の人間として述べられているワケだから、喜ぶべきじゃないかね?
まあ波平ゼミなんか開いても藤田みたいに「偉い先生」となるかどうか分からないが。
本に書いてある事を引用するなと言っているんじゃないぞ?
たまたま自分の上手く言語化できなかった言葉がどこかの本に書いてあって「これだ」と思って引用する事はあるだろうがね。
もちろんその文章を「これだ」という具合に解釈したのはそいつ自身であり、他人がどうであるかは分からない。
しかし、「そいつが命題として言表できなかった命題を、本人が「近い」と思って引用する」事自体には、
「偉い先生の文章を引用する事で読者に社会的立場が高い人と思わせる」という要件はない。
前者のパターンでは、自分が「これだ」と思うかどうかであって、それを書いた人間の社会的立場など関係ない。
ただし、世に書物として残っている作者は、大体が社会的立場がある事になるからなあ。
「書物として残る=著者は社会的立場がある」
というのは、出版技術の向上やネット化で大分実際が伴わなく成って来たが、まだ多少はこういう「常識的暗黙の了解」が残ってはいるだろう。
自分が考えている命題を表現するのはいいんだよ。
それが相手も命題として通じるかどうかは、その時その時だ。
hm
東京kittyは、未成年へのわいせつ罪で
逮捕歴がある、そして創価学会員である。
ところが、ラカン理論を使うとこの点が出てこない。
いや、出てこないのではなく、出したくないから、
ラカン理論を『選ぶ』訳だ。
中二病=ラカニアンであると、
メタな視点(
>>386)を持っていると前提する。
万引き犯も、下着泥棒(ポール)も、流ちゃんも、
そして東京kittyも、自分が論理(ロジック)そのものと
同一化(想像(イマジネール)的に)していると思い込む。
だから、現実に下着泥棒でポールが捕まろうが、
>>368のロゴス幻想がポールの主体の正しさを保証する、
そして、メタな立場を保証するラカン理論はロゴスなので、
ロジックを抑えた彼等は数論理と(想像的に)同一化した、
という思い込みに入る訳だ。
従って、何度も説明した様に、東京kittyやポールや万引き犯が
警察に捕まろうが、自分(kitty、ポール、万引き犯)は論理そのものと
同一化していると思い込んでいる(想像的に)ので、
論理そのものが間違いな訳がない=俺は警察に捕まろうがメタである、
という論理に入り込んでしまう。
ところが、東京kittyやポールや万引き犯という
論理病に罹った人間は、想像的にロジックと同一化している、
という症候に罹っており、
これに俺純一が象徴秩序を持ち込む必要性がある。
即ち、ロジックと勝手に同化していると思い込んでいる
東京kittyやポールや万引き犯は、これでは社会生活を
送る事が出来ない、何故なら東京kittyや万引き犯は
当然の事ながら片やわいせつ罪で逮捕歴があり(東京kitty)、
片や万引きで捕まるという失態を犯しつつも、ロゴスと
同化し、メタだと思い込んでいる為に、現実での矛盾を
認識できないからだ。
そこで、分析者である俺純一は、
現実を認識できない彼等に(象徴的秩序としての)『君はこれだよ』と
教えてやる必要性がある、即ち、
東京kittyはメタではなく、単なるわいせつ罪で捕まった事のある
40のオヤジであり、
万引き犯はメタではなく、安い商品ですら金を出し渋る人間であり、
ポールは頭が良いメタではなく、単純に欲望の抑えが聞かない
幼稚な人間であるに過ぎない。
ロゴスと同一化した彼等、東ポ万を正常に治療してやるには、
彼等は決して自分達が思い込んでいる『メタ』でなく、
単なる『犯罪者』であり、『下衆』であるという事を
分析者であるこの俺純一が彼等に象徴秩序を導入する事で
気付かせなければならない訳だ。
ラカン的に言うのならば、東kや万犯やポや流は『メタ』という
シニフィアンに同一化しているが、彼等は中二病という病気なので、
『メタ』というシニフィアンと『下衆』というシニフィエが
固定化されているので、やってる事が犯罪でも、勝手にメタのカテゴリに
入れてしまい、これが第三者から見て、彼等が犯罪をやってる癖に
反省しないという症候に入っていく原因となる訳だ。
くだらねえ
ごめん、悪ノリし過ぎた。
ところで、ラカンの言ってる事は、
数式の装飾を取り払ってしまうと、実は殆どレインと
主張は変わらない。
ただ、ラカン論者は、全くレインを話題に上らせない。
それは腐る程、口が酸っぱくなる程に
言いまくったが、要するに、旧来の先生=偉い、患者=大衆、
という近代(モダン)の図式を擁護する口実を得られるのが、
辛うじてラカンだからだ。
要するに、中二病を維持するのにラカンは欠かせない。
言ってる内容が同じでもレインではこの点を否定するので、
中二病はレインを受け入れられない。
何故ならレインは数式を用いないので
権威の補強に使えないからだ。
と、いう訳で、純一統一理論における
基礎知識がこのスレで一通り出揃ったので、
これからラカンの破壊を細かく行っていこう〜
まず、デリダも言ってる様に、
ラカンはファロス中心主義である。
女は存在しないってのは、
女を示すシニフィアンが存在しないって事で、
要するに、女は男にとって訳のわからん存在であるが故に、
女なのだ、という見方なのだが、
これはハッキリ言って男『からの見方』であり、
それゆえ、ファロス(男根)中心主義と呼ばれる。
ファロス中心主義は、二元論であり、
男/女、言語/非言語等、物事を二つに分けて、
その一方に優位があると考える方法を
デリダはファロス(男根)中心主義と呼ぶ訳だ。
ラカンは明らかに、言語/非言語という二元論を採っており、
ラカンにとっては、この二つの分け方をした後、
言語に優位を与える方法を全体に亘って採っている。
しつこいがだからデリダにファロス(男根)中心主義と呼ばれる。
>>292-333でも言ったが、
ラカンはファロス中心主義に陥っているので、
言語/非言語という(ファロス中心主義的な)分け方をして、
(同じくファロス中心主義的に)言語『だけが』実在する、
というまたまたファロス中心主義の典型的なパターンに陥っていく。
大体、ラカン理論を使う前提として、
言語だけが実在すると前提しなければ理解できない様になっている訳だ。
シェーマLでは、何も知らん幼児に
実在としての言語が勝手に入ってくるというストーリーなので、
言語の実在が初めから前提されているが、
これはファロス中心主義にラカンが陥っているので、
言語/非言語という分け方をして言語だけが実在、即ち、
二元論の片方(言語)が優位である、と言う訳だ。
ところで、言語/非言語という『分け方』を決めているのは?
そう、勝手にラカンが決めている。
そして、勝手に二つに分けた後で、言語の方が優位と
初めから前提して勝手に決めているのは?
そう、それはラカンが勝手に決めている事である。
つまり、シェーマLではどうしてもラカンは、
言語が幼児の精神に侵入する事で、初めて人間は
自我を持つと言いたい、
つまり、逆に言えば、人間は言語無しには成り立たないと
言いたいのだが、実際にはそうではない事は
>>292-333で俺が証明した。
いや、もうちょっと踏み込んで言うと、
ラカンは人間が言語を使うのではなく、
言語に人間が従属すると言いたい訳だ。
それはアンナ・フロイトとの派閥抗争で、
どうしてもそういう方向に持っていきたい、みたいな
思惑から来ているのだが、そもそも冷静に考えて、
上の様な勝手な派閥抗争という事情を動機として、
勝手に人間が言語に従属するという結論に
『持っていこうとしている』のはラカンというおっさんの主体であり、
この一連のプロセスは、ラカンが人間が言語に従属すると
言いながらも、結局は背景にアンナとの喧嘩から、
アンナと説を真逆に『しようという動機』から勝手に
言語をラカンという人間が操って作っているのであり、
結果的に言えば、『『言語に人間が従属する』という言説を
作っているのが(ラカンという)人間の派閥抗争という事情である』
という具合になり、結局、こいつの行動を見れば、
言語を勝手に個人の事情で操ってるじゃねーか、という結論になる訳だ。
つまり、この事から言っても、
人間が言語に従属するのではなく、
そもそもそういう説を主張する人間(ラカン)の
動機というか都合が言語を従属させる訳であって、逆ではない。
そもそも、ソシュール的定義では、
シニフィアンとシニフィエってのは不可分であって、
ラカンの言う意味では存在しえない。
ラカンが言ってるのはソシュール的定義では
シニフィエであってシニフィアンじゃない。
この事はラカンがソシュールを誤読してるって事を意味している。
大体、ソシュール的定義では、
シニフィアンってのは聴覚的媒体であって、
シニフィエ抜きで存在するもんではない。
従って、当然、ソシュールを理解していれば、
シニフィアンの連鎖等はありえないし、
シニフィアンの優位というのも無い訳だ。
そういう訳で、ラカンの言うシニフィアンを理解するには、
ソシュールの思想を理解していない事を前提としなければならない。
つまり、ラカンがソシュールを全く理解していない、
という事を前提としなければならん訳だ。
978 :
純一:2010/12/16(木) 22:59:03 O
言ってる事とやってる事が逆な奴はどうする?
大抵怒られるけどな。
という訳で、ラカンの言うシニフィアンは、
ほぼ、(実在する)『言語』と読み替えて良い。
そうすると大体、ラカンの考えている思考が分かる。
という訳で、ラカンの基本思想を
俺純一が解説しよう〜
まず、ラカンはモダン(近代)的な旧来の古い観念を持っている。
その為に、デリダが指摘する様な、単純なファロス中心主義の
観念を持っている。
男性/女性、言語/非言語という二元論という古い分け方をし、
その内、男性と言語に優位を与える訳だ。
981 :
純一:2010/12/16(木) 23:05:00 O
まあ、死んだ奴の考えていることなんて分かる訳が無いがな。
とすると、ラカンにとっては、
実在するのは男性と言語のみが実在し、
女性と非言語である人間は、それらの影としての
存在しか与えられない事になる。
だから、ラカンの場合、
言語と男性だけが実在するものなので、
人間が喋るとは言いたくない、
あくまで言語だけが実在すると言いたいので、
俺が喋る、という言い方ではなく、言語によって
主体の影が見える、という様な言い方をする訳だ。
だから、ラカンにとっては、
女性は男性の影としての存在でしかないので、
言語が貼り付けられない女性は存在しない、となる訳だ。
しかし、これは結局は単純なものの見方であり、
冷静に考えれば間違いはすぐに分かる。
んで、ラカンは前編に亘って、
言語だけが実在すると言いたいので、
そう言わなくても言える事を敢えて逆に言う。
要するに言い方だけ変える訳だ。
だから、ラカンに言わせりゃ、
こうやってパソコンの文字だけが実在し、
俺という人格は存在しない事になる。
そりゃ、パソコンの文字面からでは
俺の姿は見えないからね〜ラカンというおじさんにはそう見える。
だから、ラカンに言わせれば、
俺がこの文章を書いているのではなく、
文字が純一という主体を表象する、という言い方をする訳だ。
要するに俺は存在せずにこの文字だけが実在するって訳だが、
これは詭弁だよな〜?
要するに言い方を変えただけだ。
というのも、ラカンはアンナと喧嘩した為に、
意地でも主体とか人間が実在すると言いたいない、
そこで、パソコンの文字面だけが実在し、
主体は存在しない、とトンデモを言い出す訳だが、
そういう理論を作ってんのはおまえ(ラカン)だろうが、
というツッコミが入る訳だ。
とまあ、こんな具合にラカンというおっさんの
喧嘩に理論が引き摺られている為に、
言い方が非常に紛らわしい。
歯を食いしばりながら意地でも主体とか人間とか
言わないという単なる痴話喧嘩からくる事情に
我々は付き合わされる訳だ。
ところで、ラカンの言う様に、
文字面だけしか存在しないとしても、
文字だけが実在というのをまずどうやって証明するのか?
という話もあるが、この辺の話はことごとく無視されている。
つまり、それは前提とされていて疑ってはいけない訳だ。
あるいは、文字面だけを実在とするならば、
単純に物質を実在とすれば良いのかもな〜
コンピュータの中には確かに文字のデータがあるんだから。
しかし、その場合、
マテリアとしての文字面を認めるのならば、
そもそも脳科学だけで十分になり、
結局これも背理になる。
あと残るのは分析哲学みたいに
言語だけが実在するって無批判に前提する事ぐらいだね〜
だから、ラカン理論と分析哲学は相性が良く、
中二病の巣窟になりやすい。
ところで、何故、言語が実在だと
分析哲学は考えるのか?というと、
これは背後にIT世代という主体があるからだ。
IT世代となると、プログラム言語があり、
それっぽいものとしての数学や論理学が
神となる、そこで言語が実在と考える分析哲学と
非常に相性が良い訳だ。
あるいは、数学や論理学への信仰が、
分析哲学への親和性となり、
そういったIT世代の下部構造が
それが言語だけが実在するという観念(イデオロギー)を作り出す訳だ。
これが言語だけが実在するという観念を作り出す。
そういう訳で、例えば東京kittyの場合、
時系列的にはこうなる↓
@ IT世代の何となくのロジックへの信仰
↓
A プログラム言語っぽい分析哲学の信仰
↓
B マテームとかで分析哲学っぽいラカンへの信仰
と来る訳だが、元々は@から来ているので、
Bから段々と元を辿れば最後には@が出てくる。
で、一般的なラカン論者は@とAが見えない。
(@ IT世代の何となくのロジックへの信仰)
↓
(A プログラム言語っぽい分析哲学の信仰)
↓
B マテームとかで分析哲学っぽいラカンへの信仰
そこで、マテームを支持するラカン論者っぽいのが
多く出てくる。
東京kittyは東スレに出入りしているので、
当然斉藤等のラカン理論を知っている筈だが、
こういう東京kittyの様な下衆が、つまりは
性犯罪者がラカンを支持するのは、要するに、
Bを段々と辿って行くと@に行く着く為だ。
ラカンを支持する事はBのみならず、Aと@を
肯定する、従って、ラカンを支持する東京kittyは
性犯罪をしてもメタな視点でいられるという観念を持つが、
これは逆に言えば、@のITへの盲目的な信仰が形を変えて
Bという姿で顕現しているに過ぎないという事であり、
つまりは、Bのラカン理論が性犯罪をやって
逮捕歴がある東京kittyを学問的に擁護するのではなく、
実際には@の主体がAとBを逮捕されても言い訳する為に
無意識的に『選んで』いる、という訳さ〜
終わり。
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