1 :
考える名無しさん:
井上さんが立てないので
2 :
考える名無しさん:2010/09/10(金) 22:56:24 0
同じ名家といわれる公孫竜と恵子とは説くところが違っているのじゃないかな。
恵子は位置を説くが、公孫竜は一を最高位として説いているわけじゃないだろう。
一切の言論は、この一を最高位と認めるから発生するもののだ。恵子が多弁であったのもも
これがためである。
いまだ公孫竜については勉強不足だが。
3 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/09/11(土) 02:10:15 0
こちらも復活したようですね。
4 :
考える名無しさん:2010/09/11(土) 07:40:05 0
なんだかんだ言ってもねw。やはりないと・・・
5 :
考える名無しさん:2010/09/12(日) 09:32:41 0
井上さんとの問答、無学とはどういうものか、の結末がないままに前スレが滅している。
井上さんの諸法の実相が何であるかにより、無学の内容も拘束される。
仏教における無学は、仏教の説く諸法の実相に拘束された解釈になる。
仏教の説く実相は、空相であるまたは同じ意味として無相一相である。
この実相に無学が相応する意味でなければならない。つまり、無相一相空相と
無学が同じ意味でなければならないのだ。
無学の意味が、一般的な意味を超越してあると考えてはならないだろう。
一般的な語用を持って、仏教の教えは成り立っているのだから。
それは学がないと言う意味である。内訳は、@知識がない。A充分な知識が
獲得されているので、それ以上の獲得すべき知識がない。この二つの意味があるのである。
そして一方仏教では、無学の反対として有学を言う。
有学の意味は、@知識がある。Aいまで獲得した知識があるので、学識がある
と言う意味となる。
仏教の有学無学は、あくまでも諸法の実相に対して言われるものである。
諸法の実相は、空相無相一相なのであるから、上記の有学無学の解釈のどれが当たるのだろうか?
仏教では、無学が当たるのである。
しかし、ただし、無学の第Aの意味が誤解されてはならない。充分な知識の獲得が
有ったとの意味は、一相無相空相に反する一切の知識が、偽りものであるとして排斥
されるべきものであると知って、それを実行したので生じる、知識のない状態を言う
と言うことである。
6 :
考える名無しさん:2010/09/12(日) 09:47:49 0
>>5続き
それでは一切の知識がない状態で、どうして生きていけるのか、と言う疑問が生ずるであろう。
実相が空相無相一相であるのに、知識があるものとしてあるなら、それは
実相の敵対するものである。しかし、知識が無いものとしてあるなら、実相に敵対しないのである。
無いものとして対することを、無執着と言うのである。
知識に執着するなら、その執着を中心に行為することになるが、無執着であるなら、
実相に従うことになる。
7 :
考える名無しさん:2010/09/12(日) 09:59:52 0
念仏系?
8 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/09/12(日) 10:30:32 0
知識が逆に悟りの妨げとなる場合もあります。
所知障ですね。
9 :
考える名無しさん:2010/09/12(日) 10:36:10 0
創価学会?
10 :
考える名無しさん:2010/09/12(日) 10:37:54 0
?
世界の実相は、常に変わらず一つである。地球の裏側ではこうであるが、
こちらでは実相は違うということはないのである。宗教の違いがあるように
思われているが、実相が一つである以上、いかなる宗教の違いも無いのである。
宗教間の争いは、まことに誤解に基づくものである。いや、宗教間の争いは
無いのであり、争いの元は、信者の誤解であり、それは信者の弱さであり、
それは信者の欲である。
一切の宗教が、実相を掲げそれを信ずると言うものではない。日蓮創価の様な
本末転倒な、非仏教を真仏教であるなどと信じているものも居る。
11 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/09/12(日) 10:42:44 0
某宗教団体が華厳唯識思想を
取り入れるはずは無いでしょうから。
12 :
考える名無しさん:2010/09/12(日) 10:45:27 0
>>8 >知識が逆に悟りの妨げとなる場合もあります
知識が悟りの修行の妨げにならない場合と言うものこそ有り得ない。
実相が無相である以上、無相を体得するのが目的である以上。
どんな場合が知識が悟りのために有効である、と思われるのでしょうか?
13 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/09/12(日) 10:51:38 0
>>12さん
悟りに至るためには知識を智慧に昇華させることです。
14 :
考える名無しさん:2010/09/12(日) 10:56:56 0
実相ってなに?詳細解説キボ。
べつに悟らなくていいんだケド、仏典崇拝みたいだケド。
15 :
考える名無しさん:2010/09/12(日) 10:59:47 0
>悟りに至るためには知識を智慧に昇華させることです。
つまり、知識を実践しろってことかな?智慧って?
16 :
考える名無しさん:2010/09/12(日) 11:02:34 0
悟ったヒトの解説お願いします。
17 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/09/12(日) 11:04:53 0
>>15さん
まずは六波羅密、三学について学ばれてはいかがでしょうか?
知識を詰め込めば(言い方が悪いですが)智慧になるわけではありません。
18 :
考える名無しさん:2010/09/12(日) 11:05:16 0
ヒトじゃねえかホットケさんたのんます。
19 :
考える名無しさん:2010/09/12(日) 11:06:30 0
密教か〜ガラじゃねぇな。
20 :
考える名無しさん:2010/09/12(日) 11:15:28 0
学ぶ気はねぇ、坊主になる気もねぇ、旧態依然な無意味言語取得ヤッタゼの世界でナンカイの海に飲まれる気もねぇ。
ナンカイホークスは門田のホームランだぜ、佐藤の完封だぜ。
21 :
考える名無しさん:2010/09/12(日) 11:21:02 0
>>13 東洋教学でも、ユダヤ教学でも、ギリシャインド教学でも、同じに、
人の一生は苦悩に満ちている、としています。
それは人は幸福を求めていると言うこととそれが得られないと言うことを意味しています。
どうしたら幸福になれるのか、と言う解決方法を求めるざるを得ないのです。
その方法を知恵と言うというべきです。
知識も知恵です。しかし、幸福から逸脱させない知識と言うものこそ必要なのであり、
それ以外のものは、知識であっても、一時的なものなのですね。こういう一時的なものは
人を幸せにするものではないのです。
しかし常に幸福にする知識があるのであり、それを知識のうちでも特別な呼び名をつけることは
妥当でしょう。仏教では般若の知恵と言うようです。同じ知識をギリシャでは
特別な名前をつけていません。聞いたことがありません。中国では老荘は『明知』と
特別に呼んでいます。
知識にはこのような相違があるのです。知識を知恵の昇華するということは、
知識に上に言ったような相違がある以上、妥当でないというよりも、誤りである
と言うべきではないでしょうか?
一時的な利益を与える知識と、恒久的利益を与える知識の相違であり、
前者を後者に何とかして変容させると言うことは必要もなければできもしないと思うのですが。
22 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/09/12(日) 11:54:02 0
>>21さん
般若の知恵というより、般若それ自体(プラジュニャー)が智慧を表します。
幸福を求めるのが仏教の教えではないと思います。
それはあくまで方便でしょう。利益云々の論は違うのではないでしょうか。
もし恒久的利益を智慧と言うならば、それこそ悟りであり涅槃ではないでしょうか。
23 :
考える名無しさん:2010/09/12(日) 12:11:04 0
もし恒久的利益を智慧と言うならば、それこそ悟りであり涅槃ではないでしょうか。
24 :
考える名無しさん:2010/09/12(日) 12:19:11 0
>>22 >幸福を求めるのが仏教の教えではないと思います。
永遠の幸福を得る方法と言う教えが仏教です。
>もし恒久的利益を智慧と言うならば、それこそ悟りであり涅槃ではないでしょうか。
恒久的利益を与える教えが知恵と言うべきでしょう。そして恒久的利益の説明
が、仏教では涅槃と言う世界と説明しているのですよ
25 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/09/12(日) 12:58:38 0
>>24さん
永遠の幸福=恒久的利益=涅槃という図式でしょうか。
経典によく「一切の衆生を利益する」等々の句が出てきますが
それははたして「幸福」というものでしょうか?
幸福とは何か?仏教のそれと、世俗のそれは違うと思います。
それを同列に見ようとする場合には細心の注意が必要かと。
26 :
考える名無しさん:2010/09/12(日) 13:04:45 0
>>25 >幸福とは何か?仏教のそれと、世俗のそれは違うと思います。
世俗の幸福とは一時的なもので、永遠ではない。そういう世俗の人に、
永遠の幸福を教えるのが仏教でしょう。
27 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/09/12(日) 13:16:39 0
28 :
考える名無しさん:2010/09/12(日) 13:54:14 0
>>27 >それを同列に見ようとする場合には細心の注意が必要かと。
永遠の幸福と一時的幸福を同列に見ることは間違いでしょう。同じではないのですから。
細心の注意を払う余地が無いと思われます。
どんな場合に細心の注意が必要になると思われるんでしょうか?もし永遠の幸福と
一時的幸福が同一ではないと同意されるのでしたら。
29 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/09/12(日) 13:58:04 0
>>28さん
同様に知識と智慧を同列に見るのも違うのでは?
30 :
考える名無しさん:2010/09/12(日) 14:14:07 0
>>29 永遠の利益の世界に至る知識と一時的な利益を得させる知識と言うことでしょう。
永遠の利益の世界に至る教えを、知識と言ってはならなくて、知恵と言うべきであると言う
根拠は無いでしょう。
そして今度は、永遠の幸福と、一時的幸福と言うことがあるのであり、
両者ともに幸福と言う名称を使用してるから、永遠と一時的と言う違いも
無くなるということは無いですよね。
そもそも初めに戻ると、「それを同列に見ようとする場合には細心の注意が必要かと」
と言うところが発端なのです。ここにおける『同列』とは、永遠なものと一時的なものを同列
にする、と言うことでしょう。永遠と一時的を同列に見ることは間違いである、といわなければならない
と言うことですよ。
31 :
考える名無しさん:2010/09/12(日) 14:27:14 0
要するに同義語と言うものがあるのです。知識、知恵、智慧,は同義語です。
漢字が違うからと言ってその意味も違うと言うものではないのですよ。
ただもったいぶりたいときとか、印象つけたいときに、使い分ける場合があるだけでしょう。
32 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/09/12(日) 14:30:08 0
>>30さん
まずは知識と智慧の違い
幸福なるものの考え方
永遠と一時的の言葉の遣い方の定義でしょうか。
>>31については特に仏教では区別します。
マジックといいますかこれらの言葉を喩え、引用して表現するのは
ある意味便利なのかもしれません。
しかし永遠を常住とし一時的を刹那とするならば
永遠は仏であり刹那は衆生?そうではありませんよね。
仰りたいことはわかります。
ただし一足飛びに知識=智慧であるとか、所謂煩悩即菩提という文言だけでなく
過程も必要ではないかと。
33 :
考える名無しさん:2010/09/12(日) 14:48:22 0
>>32 >永遠は仏であり刹那は衆生?そうではありませんよね。
これはどういう意味ですか?永遠は仏と言う意味には同意しますが。
刹那と言うとどういうことを言うのですか?
>ただし一足飛びに知識=智慧であるとか、所謂煩悩即菩提という文言だけでなく
過程も必要ではないかと。
確かに、問題を公正に解決に導く人を、知識のある人だといわないで、智慧のある人だ、と言いますよね。
しかし、知識を智慧と言うのは間違いで、それでは誤解が発生し、つじつまが合わなくなる、と言うことは
無いと思われるのです。
煩悩即菩提と言うのは、一種の知識=智慧に他ならないと思いますが、その意味を説明するのは、
命名とは関係ないことでしょう。
34 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/09/12(日) 15:04:04 0
>>33さん
申し訳ありません。仏教で区別しているのは
「知恵」と「智慧」です。失礼しました。
刹那というのは文字通りですが。
一種の知識=智慧が煩悩即菩提ではないと思います。
先に書いたように、知識が昇華(私はあえて変わるとは言いません)されて
智慧になるのですから。端的に迷いは迷い。煩悩です。
それがなぜ菩提に繋がるかの過程のほうが大切だと思います。
もっとも後期大乗仏教、つまり金剛乗では趣きが異なりますが
それはひとまずおいておきます。
主役の井上さんを差し置いて出しゃばっていたら怒られそうですね。
35 :
考える名無しさん:2010/09/12(日) 15:28:28 0
>>34 >仏教で区別しているのは「知恵」と「智慧」です
何の故に区別してるんでしょうか?
>刹那というのは文字通りですが。
何の故に、刹那と言う観念を持ち出しているのでしょうか?
>知識が昇華(私はあえて変わるとは言いません)されて
智慧になるのですから。
これがわかりません。説明してください。
36 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/09/12(日) 15:33:42 0
>>35さん
とりあえずキーワードはお示ししたつもりですので
後はご自身で。特に最後については先に空(無自性)の思想を知った上でないと
あらぬ方向に向かってしまいますので。
37 :
考える名無しさん:2010/09/12(日) 15:58:09 0
>>36 アテクシは仏教についてもほぼ知っているつもりです。
それに拠れば知識が昇華して智慧になると言う教えは無かったと記憶しますし、
その様な道理は仏教にはないと理解しております。
ひょっとしたらあなたの方が誤解しているのかもしれません。大事なところです。
仏典を引用してでも説明を試みた方が良いと思われます。
38 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/09/12(日) 16:01:57 0
39 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/09/12(日) 16:05:47 0
チャット状態になってしまってますが
時間の都合上また後ほど。
40 :
考える名無しさん:2010/09/12(日) 16:06:45 0
>>38 仏典と言われているものに仏教はあると言うべきでしょう。
アゴンからです。一貫して同じ実相を説いています。
41 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/09/12(日) 16:15:10 0
>>40さん
上座部系ですね。
一応こちらは大乗のつもり?ですので。
また誤解があるといけませんので
知識をどう定義するかにもよると思いますが
知の識(こころ)というのは如何でしょうか?
唯識では八識を説きますので。前五、意識、末那、阿頼耶です。
この内、知識と呼ばれるものは前五であろうと考えますが貴方はどうでしょうか。
すみませんまた夜にでも。
42 :
考える名無しさん:2010/09/12(日) 21:13:24 0
>>41 >唯識では八識を説きますので。前五、意識、末那、阿頼耶です。
この内、知識と呼ばれるものは前五であろうと考えますが貴方はどうでしょうか。
認識と知識は違うね。あなたの言うのは認識である。
平常我々が知識と言うと、実生活に有用な知識と言う意味で、
例えば、アメリカまで飛行機では何時間かかるとか、駅までの道順をいえるとか、
車の操縦方法を知っているとか、こういうものを知識といっているでしょう。
このような知識の上に、世界の真実の相は無相一相空相であると言うものが来る訳です。
世界の真実の相は無相であるので、それに合うような行動を取るべきで、それが間違いないことを
実体験するということになり、知識は有益である、と言うことになるのです。
43 :
考える名無しさん:2010/09/12(日) 21:29:15 0
人間生きていると、実に千差万別の変化を感じ取るわけですが、
その変化を認めることを認識と言うのでしょう。
そして、その変化を認め知ることを『識』と言い、識と言う限り
認めることなくありえないのですから、『認識』と言っているだけでしょう。
そして、その変化と言うものは、相対的にのみ存在してることを、また、認識し
、それなら変化と言うものに実体がない、と判断するのです。
つまり結論として、「識」は幻であり、実体は空性である、と言うのでしょう。
44 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/09/13(月) 01:13:17 0
>>42さん
ご返事ありがとうございます。
認識であるとのお答えですが、認識は第六意識の働きです。
やはり知識というものは五感側ではないでしょうか?
操縦方法を例に出されておられるように、
前五(五感)の働きによって認識(意識)されるものです。
ここで何が五感の対象になるのかと言えば所謂阿頼耶識なのですが
阿頼耶識はまず「器世間」でもあります。
世界が空相であることを真に悟るには
この阿頼耶識が智にならなければならないのですが
識のままで得られた知識、記憶は完全に真理では無いということです。
先に書きました(自分のレスを探しましたが)
>>8ですね。
決していろんな知識を得ることが悪いというわけではありませんが
知るところに依る妨げという厄介なものがありまして
これは知識を以ってどうにかする、というわけにはいきません。
46 :
考える名無しさん:2010/09/13(月) 19:25:00 0
>>44 >やはり知識というものは五感側ではないでしょうか?
ゴーダマは、一切とは六処六識六境の十八界であると教えています。
これは知識じゃないでしょうか?ゴーダマはこの十八界以外になんかを求めるなら、
その人は病気になるだろうと言っています。無いものを求めるのですから。
しかし、六識の各識を、知識であるとは言わないでしょう。厳密に言うと
知識の範疇に入らないとはいえないのですが、知識と呼ぶためには、一般的
常識にないものを言わないと、皆誰でも知っているものを、知識であるまたは智慧である、
などと言っていては、人の利益にならないと言うべきでしょう。
唯識派は八識を立てています。最後の二識は無意識でなもので、本来は必要ではないもののように思われるのです。
唯識派において、この八識の発案は、決して根幹を成す教えではないと思われるのです。
要は識を滅することであります。識があってはならないのです。どこからか識が生じてくるなら、
それは、判別できるものである以上、それを滅する修行が必要なのです。
無意識の二識と、六識との関係があるとしても、その関係に縛られないことが、修行の目的
なのです。
47 :
考える名無しさん:2010/09/13(月) 19:34:50 0
>>46続き
サンユッタ・ニカーヤという、原始仏典の中には存在しているのです。
「一切経」と呼ばれるその教典で、釈迦は次のように述べています。
|比丘たちよ、私は「一切」について話そうと思う。
|よく聞くがよい。「一切」とは、いったい何であろうか?
|それは、眼と眼に見えるもの、耳と耳に聞こえるもの、
|鼻と鼻に臭うもの、舌と舌に味わわれるもの、
|身体と身体に触れられるもの、心(意)と心に触れられるもの、のことである。
|これが「一切」と呼ばれるものなのだ。
|誰かがこの「一切」を否定し、これとは別の「一切」を説こう、と主張するとき、
|それは結局、(空虚な)言葉だけに終わらざるを得ないであろう。
|さらに彼を問い詰めると、その主張を説明できず、病に倒れてしまうかも知れない。
|それは何故であろうか。
|何故ならば、彼の主張が彼の知識(知覚)領域を越えているからである。
48 :
考える名無しさん:2010/09/13(月) 21:12:02 0
>>5 そりゃ実相は有無とか言語の論理形式を超えたところですがな、
無相一相というのも、それをなんとか言語表現したもの。
相が無いのでもなく、一相があるのでもない。
49 :
考える名無しさん:2010/09/15(水) 17:23:11 0
公孫竜の白馬非馬論を読んでるのだ。それそのものではなく、含めた解説。
浅野と言う人のもの。
50 :
考える名無しさん:2010/09/15(水) 21:44:42 0
プラトンのパルメニデス、この仲で、ソクラテスとパルメがソクラテスのイデアについて
対話をするだけど、この内容と同じものが、公孫竜の白馬非馬論堅白論の中で出てきてるんだ。
公孫竜の堅白論白馬非馬論は同時代から排斥され、皇孫龍は世間から捨てられて死んだ。
ソクラテスは、アテネ市民から死刑を宣告された。そして死んだ。この原因も
同じだと思う。上辺は違っている様だけだが、中味は同じなのだ。
何の文化交流も無い国の間に、こんな同じ人間が居たんだよ。面白くない?
そしてこういう事件がおきる状況も、実に古代ギリシャと古代中国とは似てるんだなあ。
51 :
考える名無しさん:2010/09/15(水) 22:13:50 0
>>50 本質主義は単純だから、どこでもあるよ。
それよりその本質主義を軽々と乗り越えたインドが凄い。
もちろん、インドにも本質主義のヴァリエーションは沢山あるよん。
52 :
考える名無しさん:2010/09/15(水) 22:41:41 0
>>51 イデア論対一論の争いは、中国では先に言ったようにあると思うのですが、
インドでは、この争いは、仏教とその他の外道の中にこそ見出されるべきだと思うのですが、
その外道が無いと思うのです。むしろ仏教内の、部派仏教といわれる派閥に見出されるのではないでしょうか?
つまり大乗と言う派閥と、説一切有部の争いです。
よく判らないんですが、説一切も仏教でありながら、空を標榜する大乗と、どうして、空が実相であることについて
争うのでしょうか?説一切は、多数の法があり、それは実有、即ち、実体があると言うものでしょう?
実体が複数あると言うことは、絶対に空と言うことにはならないのです。一相無相無我であるからこそ
空相と言うことになるのですからね。
しかし、インドに、中国やギリシャと同じ論争が有ると見るなら、この説一切と大乗を
挙げないわけにはいかないでしょう?これ以外に外道との論争は無いでしょう?
53 :
考える名無しさん:2010/09/15(水) 22:42:29 0
>>50俺は世界史板で類似のことを思い、訊いてみたら「アレクサンドロス
三世が古代ギリシャ哲学をもちこんだ結果」だそうです。
54 :
考える名無しさん:2010/09/15(水) 23:21:38 0
>>53 いや、それは違うと思うな。
ま、古代のことだから、正確な年代はわからないが。
まず、中国には老子が道徳経を発表していた、ちょうど同時代に、
パルメゼノン、プロタゴラス、ゴルギアス、も大体同じ時代に、同じ内容の
見解を発表しているんだよね。そして、インドではゴーダマが同じ見解を発表しているのだ。
中国では老子に続いて、列子と言う人が老子の説を自説として継承してるみたいなんだ。
列子の後を荘子が自説として継承してんだよね。
アレクサンドロスがインドに来たのは、荘子の時代であり、彼がインドに来たと同時に
一思想をインドに広めたということはあるはず無く、インドに支配権を打ち立てて落ち着いた時期に
思想の伝播が行われたと言うべきだろう。そうすると、インドにパルメに一思想が伝播しても、
それ以前にインドにはゴーダマの一思想がすでに広められていたのだ。だからインドに
パルメのギリシャ思想が影響したと言うこと花井と言うべきだよ。
次に中国にギリシャ思想が伝播し、影響してるかどうかと言うと、先に言ったように、
中国にもすでに、一思想が、老子列子荘子により広まってしまっているのだ。
ギリシャ思想の影響はインドにも、中国にも無いといわなければならないよ。
美術には影響してるのは明らかだけどね。
55 :
考える名無しさん:2010/09/15(水) 23:40:05 0
ソクラテスのイデア論と言うのは、公孫龍の概念実在論に相当するわけだけど、
時代的には、公孫龍に影響を与えることは可能であったね。しかし、それを感じさせる
情報が全く無いんだよね。そして、公孫龍以前に公孫龍のような概念実在論を
発表した中国人は居ないんだよね。
ソクラテスのイデア論でも、アリストテレスに批判されているし、どうも浅学を棚に上げるわけじゃないが、
、その後尊重すべき思想としては続いていないと思われるのだ。
プラトンの『パルメニデス」で、プラトンはイデア論を放棄している、と言えると思うんだ。
56 :
考える名無しさん:2010/09/16(木) 03:47:21 0
>>52 いやいや、たくさんあるよ。原実『インド思想史』中村元『インドの哲学体系』パーリ『梵網経』梶山雄一『論理のことば』一郷正道『中観荘厳論』金倉円照『悟りへの道』第九章あたりみれば分かると思う。
釈尊・中観以外は皆本質主義。
有部はヴァイシェーシカの影響受けて、本質を設定して諸法を解釈したからと思われる。
57 :
考える名無しさん:2010/09/16(木) 03:48:53 0
>>54 >見解を発表しているんだよね。そして、インドではゴーダマが同じ見解を発表しているのだ。
いや、全然違う。釈尊は本質主義、実在論じゃない。
58 :
考える名無しさん:2010/09/16(木) 08:07:43 0
>>56>>57 >釈尊・中観以外は皆本質主義。
>釈尊は本質主義、実在論じゃない。
と言う様に矛盾した意見が出ている。そこで、
本質主義と実在論の定義を明らかにすべきである。
ここにこそ根本的問題があると思う。
59 :
考える名無しさん:2010/09/16(木) 08:54:51 0
漢の時代の王の宦官が、王の前に鹿を連れてきて見せた。そして言った。
「王様、これは馬であります。」と。王は「いや、鹿ではないか。」と否定した。
宦官は、居並ぶもの達に「これは馬である。あなた方はどう思うか?」と
聞いた。あるものは馬であると言いあるものは鹿であると返答したと言う。
こういう事例を生む土壌が公孫龍により作られていたのである。
60 :
考える名無しさん:2010/09/16(木) 09:09:49 0
>>58 どこが矛盾してるんだ、同じこと言ってるだろ
その定義しろという立場が正にソクラテスに始まる本質主義だ。
『メノン』読んで見。
言葉の意味にしろ、現象の対象にしろ固定した本質や実在を要請するような考えをオイラは本質主義という意味で使っている。
これは定義じゃないから、言葉というのは一過性で、その場の文脈でしか意味を持たないから。
仏教でいえば我、アートマン、自性などが指すものがそう。
もうちっとよく考えよう
61 :
考える名無しさん:2010/09/16(木) 09:31:44 0
>>60 >釈尊・中観以外は皆本質主義。
>釈尊は本質主義、実在論じゃない。
上では釈尊;中観は本質主義じゃないんだろう?
しかし、下では、釈尊は本質主義であって、実在論ではない、
と言ってるじゃないか?これは矛盾だろう?
62 :
考える名無しさん:2010/09/16(木) 09:47:14 0
名称とその意味すること(これを実体と言う)が発言者により、曖昧であったり、
勘違いして意味するところと反対の名称を使用すると言うことがある。
他に、議論の最中に、名称と実体が反対になる場合もある。これは、
公孫龍と反対論者との間にも起きたことだ。
この名称と実体の相違による混乱は、真相を究明する以上、避けられない
ハードルなのだ。
世界の実相は何か、と言う問いの答えとして、ゴーダマは、無相であると言う。
実相とは何かと言う問いに対しては、ゴーダマは真実であると言う。
真実とは何かと言う問いに対しては、嘘偽りではないものであると言う。
で、嘘偽りでないものは有るのか、と問うと、あると言う。
有るからには、それは実体あるものなのか、と問うと、実体あるものだという。
実体あるものとは何か、と問うと、それは無相であると言う。
無相とは何か、と問うと、それは何も無いものである、と言うのである。
63 :
考える名無しさん:2010/09/16(木) 10:34:46 0
>>61 「以外は」って書いてあるだろ(^^)
どういう読みしてんだ
64 :
考える名無しさん:2010/09/16(木) 10:37:11 0
>>62 釈尊は名称とは仮設だと仰ってると思うけどね。
君が述べた根拠・出典は何?
65 :
考える名無しさん:2010/09/16(木) 11:40:37 0
>>63 釈尊と竜樹等のグループが居るのであり、他方のグループも居るものだろう?
で、この他方のグループは本質主義、だと言うのだろう?そして同時に、釈尊のグループ
は本質主義ではない、と言うのだよね?
で、つぎに下段で、釈尊のグループは本質主義だといっているだろう?
これではあなたは、釈尊のグループを、上段では本質主義ではないと言い、
下段では、本質主義、であると言っているではないか?
>>64 >釈尊は名称とは仮設だと仰ってると思うけどね。
典拠は出せないけども、これには同意するよ
アテクシが、名称とそれに意味するところ、と言い、意味するところを実体と
断わっているが、名称としての実体であると言いたいのである。
例えば、りんごを指して梨であるといえば、名称と実体が違っている。
更に、これを議論においても維持する場合、大混乱に陥るよね。こういう意味で
実体といったのだ。
定義とは名実を一致させることと言うべきだろう。各人が勝手な意味を抱いていては
話にならない。
66 :
考える名無しさん:2010/09/16(木) 11:59:18 0
>>65 >釈尊と竜樹等のグループが居るのであり、他方のグループも居るものだろう?
>で、この他方のグループは本質主義、だと言うのだろう?そして同時に、釈尊のグループ
>は本質主義ではない、と言うのだよね?
>
>で、つぎに下段で、釈尊のグループは本質主義だといっているだろう?
>>釈尊・中観以外は皆本質主義。
>>釈尊は本質主義、実在論じゃない。
下段上段ってこれのことだよね? 言ってないよね。
67 :
考える名無しさん:2010/09/16(木) 12:06:38 0
>
>>64 >>釈尊は名称とは仮設だと仰ってると思うけどね。
>
>典拠は出せないけども、これには同意するよ
>アテクシが、名称とそれに意味するところ、と言い、意味するところを実体と
>断わっているが、名称としての実体であると言いたいのである。
>
>例えば、りんごを指して梨であるといえば、名称と実体が違っている。
>更に、これを議論においても維持する場合、大混乱に陥るよね。こういう意味で
>実体といったのだ。
>
>定義とは名実を一致させることと言うべきだろう。各人が勝手な意味を抱いていては
>話にならない。
ああ、そういう意味ね。仏教だと実体とは言わないな。対象とかいうよ。
その対象も言語習慣にそって仮設され適当にイメージされるもの。
自立した実体ではない。
一水四見って知ってる? 人が水と呼ぶものが、天人には甘露、
魚には環境というか人にとっての空気みたいなもの、餓鬼には血膿に認識されるという意味なんだが。
これは水という何らかの基体が自立していて、それぞれの生物にそれぞれに見えるわけではなく、
それぞれの業によって、縁起してそれぞれに立ち現れるという意味。
オイラの根拠は『勝義空性経』『中論』24.18など。詳しくは
http://www.scribd.com/doc/32972938/Essence-of-Phantom 石飛 道子『 龍樹―あるように見えても「空」という (構築された仏教思想) 』
特に下が非常に明解なので読んでみて。
68 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/09/16(木) 14:22:13 0
かなり盛り上がっているようですが
端的に、我空法有と我空法空の違いではないでしょうか。
ついでながら
>>46さんの第六意識以降必要無いという点に付いて
これこそ唯識にとっては重要な考え方でありますし
これを滅する云々の必要性?は
>>36で書いたとおり
まず空(無自性)とは如何なるものかを知った上でないと
あたかも識が絶対的に存在するというような誤解になりますので。
蛇足ながら意識には一つ不思議な働きがありまして、それは
あらゆる事象に対して、それらに「名を付ける」という働きがあります。
69 :
考える名無しさん:2010/09/16(木) 16:52:43 0
>>68 我空法有にしろ、唯識にしろ、方便としてはありだけど
本質的には仏教から逸脱してると考えるべきだというのが、
私のスタンス。
といって松本史朗は問題外の断見ですから、そっちで執らないでください。
そういった『八宗綱要』とか宗義書みたいなまとめかただと、
入門としてはいいけど、本質を見逃しがちだと思います。
70 :
考える名無しさん:2010/09/16(木) 20:36:38 0
一か多か、と言うことだよ。真実は一か多かと言うことだ。
71 :
考える名無しさん:2010/09/16(木) 20:40:54 0
>>70 それじゃ、仏教じゃないな。
離一多論証というのがあるんですよ。
一多というのは、どちらにしろ本質主義・実在論に基づくもので、
縁起・空・無我・仮設には基づいてないんです。
72 :
考える名無しさん:2010/09/16(木) 21:13:37 0
>>
そんな説明で判る人は居ないよ。
わかるように説明してください。
73 :
考える名無しさん:2010/09/16(木) 21:23:12 0
74 :
考える名無しさん:2010/09/16(木) 22:18:09 0
75 :
考える名無しさん:2010/09/17(金) 07:23:23 0
ここはこれでまた良いところがあるので、続けます。井上さんもまた
ここに啓発できるものがあれば投稿してください。
76 :
考える名無しさん:2010/09/17(金) 07:25:34 0
>>73 あれを読めと言って終わるのは議論する気が無いのだ。
さよならね。
77 :
考える名無しさん:2010/09/17(金) 07:40:33 0
さ、列子に取り組むぞ!
78 :
考える名無しさん:2010/09/18(土) 17:24:02 0
列子と言うのは、ぼかした存在に思われるが、陽子は常に一定の存在を感じる。
列子も陽子も荘子の創作ではないかという人が居るが、そもそも、老子の思想は
人を春のような気候の人間にするのである。人を差別せづ、従って、老子の思想を
受け保つ人は皆同じような印象を与える人物になるのだ。これは老荘の思想が
真理真実である証拠だと思う。イエスキリストが、真理は人を自由にする、と言った
が、このことである。またゴーダマの教えを受けたもつ人は、ゆったりとしていると
経典は言うが、これも同じ証拠となる現象である。パルメとゼノンは高貴ですがすがしい
印象であったことが言われている。
真理は人を自由にするなどとは、とんでもない。
世俗的には何もしないでいるのが至上であることに気づくのみ。
80 :
考える名無しさん:2010/09/18(土) 19:53:05 0
「あなたにとっての真理」「私にとっての真理」などを追い求めている時点で、
真理の求道姿勢としては根本的に誤っている。顔洗って歯磨きして出直せ。
82 :
考える名無しさん:2010/09/18(土) 20:29:55 0
真理でもないものを真理だと言っている者たちがいることを知っていないのか?
だから、「そなたのいう真理とは、誰が唱える真理か?ゴーダマも真理と言い、
イエスも真理と言い、パルメも真理と言い、荘子も心理と言う。そなたのいう真理とは
何か?」
その質問に対して俺が「この方とこの方の言われる真理が真理で、こいつとこいつのほざくのは真理じゃない」
などと指摘したなら、そうではないと思っていた連中や、その逆だと思っていた輩が「俺はそうとは思わないな」
で始まる不実なディベートを始めようとし、真理を把捉する上で何らの益もない乱脈へと論調が移っていく。
真理の鉱脈のありかぐらいは、当然のこととして見定められている所からのみ、
実際に真理を把捉していく道も開ける。真理のありかから疑っているようでは、まだその道すら開けていない。
84 :
考える名無しさん:2010/09/19(日) 09:13:37 0
>>83 あなたが心で常日頃真理であると思っている教えのことです。
そういうものがあるでしょう?
85 :
考える名無しさん:2010/09/19(日) 09:31:42 0
ユーグリッドが発見した数学上の定理、アルキメデスやパスカル
が発見した物理学上の定理、これらを真理、と言うのは、一般的に認められ
て居る。これらを真理ではない、と主張するものを聞いたことが無い。
しかし、これらは部分的な範囲のものであることは明白である。
これらは知識と換言しても良い。
それなら、この世界の真理と言うものもまた、あっても良いのである。
世界とは全体を指す。この世界の全体には、真理と言うものが無いのだろうか?
自分が心の中で思っているから、一般的に認められて疑われることがないから、
真理であるということも、真理でないということも、部分的に真理であったりなかったりすることもない。
現象や知識のおもむきに真理の実在性を追い求めようとすることから、すでに違う。
究明者自身の根本的な態度姿勢が道に違っていることこそは、
すでに本人の脳内へと挿入済みの知識が、間違っていたりすることよりも致命的に救われない。
俺の把捉している真理や道理が、それほど純度の高いものではないにしても、
脳内の一切合財が迷妄でしかないおまえらの考えよりは、まだ純正なものであるのが
確かなようだが、だからといって、それを俺が「真理はこれこれこういったものだ」と
いう風に説明したならば、その姿はおまえらが意見を述べる姿とも大して変わることはないし、
善悪を分別する道理の説明に及んだりしたなら、善悪みそくそなおまえらの意見とも
決定的に相反する部分が多発して、到底相容れない結果とすらなってしまう。
真理や道理が人によって説明される姿、教示される姿が現象として神々しいか、はたまた凡俗か
などということは、そこで説明されているものが真正の真理や道理であることとは関係がない。
だから人間自身が人の教えによって真理や道理を把捉しようと思うのなら、教えてくれる相手を
目上の先生として敬うなどの、人工的な講義現象の盛り立てが必要となる。その盛り立てを、
先生の側に修辞の習得などの形で強要するのは、教えてもらう生徒の側の思い上がりすらをも
助長させるもので、その思い上がりがかえって真理や道理を把捉する上での妨げともなるものなので、
あくまで先生ではなく生徒の側から教えてもらう姿勢を整えるのが、真理や道理を学ぶ上での正しい
あり方となる。先生の側から巧みな修辞で教えさせていただこうとすることなどは、たかが知れてる。
88 :
考える名無しさん:2010/09/19(日) 10:38:07 0
なんかよ〜くわからない。
プラトンの対話編を読むと、その質疑応答がよく判る。
そんな風にやりたいものです。
虚無主義と言うものがニーチェにより唱えられている。これも
真理といわなければならない。ただし、こういう真理を明らかにする
過程が、縁起の理法で無いなら、人を利さないだろう。
89 :
考える名無しさん:2010/09/19(日) 11:48:49 0
> 俺の把捉している真理や道理が・・・
それが迷妄です。真理を把握などしていないのに把握していると思い込んでいるあなたは、
真理を把握していない点はあなたと同様だが誤って把握していると思い込んではいない「おまえら」
より迷妄の度合いが高いだけです。
いかにも、ソクラテスやプラトンやニーチェの狂信者らしい論理展開だ。
おまえらのその、根本的な脳内の論理構造こそは、何よりのスレ違い。
「なにも分からないことを分かっているぶん、分かった気でいるおまえよりもマシだ」の無秩序志向も、
言葉(ロゴス)や知識(ソフィア)といった現象が真理や道理そのものだと思い込むことも、
思考はすなわち自我の根拠であると断ずることも、全て哲学思想上の致命的な誤りであり、
根本的な誤りから全ての議論を展開しようとしている点からして、東洋教学の名にそぐわない。
別にこちらが偽スレであることを認めるというのなら、それでもいいわけだが。
オカルトを否定した時点で東洋的な教学ではない、
そこには自然から学んだ原理を使うもので、論理的な人が意味を
確定させる仕組みではない。
何故そうなるかの仕組みは必要ない。そうなる原理さえあればいい。
何故宇宙が存在するかの仕組みを考えても宇宙を認知できなければ
なんの意味もない。
理屈だけでしか物事を考えられない学識やら知識で育った奴ほど
合理性で丸写しな技術やら仕組みの知識ばかりを吸収している。
それは知識であって知恵ではない。
おまえらの理屈など哲学にすら至っていない。
能力を超えるなら能力を使うべきではない、論理を超えるなら論理を
使うべきではない。これらの非常に簡単なことすらわかっとらん。
考えてはダメなことは考えない。なぜならそこに論理的仕組みは
無限の時間をかけてしか解けない方程式があるからだ。
論理を見るのではなく、現実を見ろ。
現実と論理(知識)が不一致になるときに知的な脳を鍛えれば
鍛えるほと論理を優先して選択をしてしまう心理を理解しておけ。
故に合理性は壁をつくり知識は哲学を縛り、無想で得る結果を
頭から否定するお前がそこにあるわけだ。
93 :
考える名無しさん:2010/09/19(日) 15:16:38 0
>>85最近それらの「古代ギリシャ起源」だとされてたさまざまな発見が、
君のすきな白人の歴史家たちによって否定されてるな。古代エジプトやシリアにすでにあったらしい。
94 :
考える名無しさん:2010/09/19(日) 16:43:09 0
>>93 そんなことは聞いたことがありません。だから何も否定されていないのです。
残念でした。
95 :
考える名無しさん:2010/09/19(日) 17:00:41 0
96 :
考える名無しさん:2010/09/19(日) 19:11:31 0
中国の般若の智慧に従うものは、行為にそれを生かすようにしていると思うのです。
無為自然と言うのは、忘座と言うものも有りますが、それは、自然な日常生活の中
で生じるもので、取り立てて修行としてしていないのです。むしろ日常の行為に
般若の智慧を実行し、その一環として忘座があると言うべきであると思います。
一方インドでは、唯我行に生かすのですね。そのための教えがアーガマに溢れているのです。
そしてギリシャでは、弁論に般若の智慧を生かし、その教えを広めるような傾向があると思うのです。
ユダヤでは、イエスの行為に表れているのであり、それは般若の智慧の行為を
身をもってあらわすことと言うべきだと思います。
97 :
考える名無しさん:2010/09/19(日) 19:47:31 0
直径4センチの円を書いてその中を黄色に塗りつぶす。そして次に
右横に1センチの間隔を置いて、同じく直径4センチの円を書いて中を黄色に塗りつぶす。
この二つの円は、同じものだろうか、違うだろうか?
>>97 同じと思えば同じ、違うと思えば違う。
んな簡単なことすらわからないの?
理屈に支配されていないか?
99 :
考える名無しさん:2010/09/19(日) 20:42:07 0
100 :
考える名無しさん:2010/09/19(日) 20:59:23 0
101 :
考える名無しさん:2010/09/19(日) 22:31:52 0
97の回答
異なる円である。
場所を異ならせているからである。
同じ円であるというためには、最初の円の上に、次の円を重ねて
描いた場合のみである。従って同じ円であるから、数としては
一つの円である。
前者の異なる円の場合は、二つの円である。
この問題は、公孫龍の白馬非馬論に応用できる。
白馬二頭と黄い馬一頭が居るとする。白馬は非馬であると言うが、
白馬はそれぞれ異なる馬である。内一頭は非馬であるは成立する。
他の一頭の白馬は、お互いに異なる白馬である以上、白馬であるにも拘らず、
非馬であるとはいえない。
そして黄い馬はここでは論外である。
公孫龍の論理は破綻してるのである。
102 :
考える名無しさん:2010/09/19(日) 22:50:56 0
この種のことになるとシナの哲学はあまり賢いとは言えなくなる。
同じTypeの図形の異なるInstanceであるという西洋の論理学の解答
以上のものがそこに含まれているようには見えない。
103 :
考える名無しさん:2010/09/19(日) 23:38:03 0
いや速断であると思うよ。
公孫龍であろうと、恵子であろうと、彼らの最初の意図は、
実体が一つか多数かを論証しようとしたことである。
恵子は目的の範囲内で留まっていたが、公孫龍は恵子よりも
後世の人であって、面白さにかまけて所期の目的を逸脱したものか、
正しく恵子の意図を伝えることができなかったものと思われる。
このことは、ギリシャのパルメとその弟子のゼノンのケースにすばらしく該当するのである。
アキレスと亀のぱらドックスも同じ趣旨の論証なのである。
要するに実体は一つであるか多であるか、である。そして、多であるならと言う前提
をおくと、その多である実体が証明されない、と言うことなのである。
アキレスと亀のケースでは、早いと言う実体と、遅いと言う実体があるとするなら、と言う前提であり、
白馬非馬論のケースは、白と言う色に実体があり、馬と言う形態に実体があるなら、と言う前提
、である。
速い遅いは相対的なもので、実体はない、つまり一つのものであるので、世間のように速いから良いとか遅いから
困ると言うような判断は、妄想であるという教えなのである。
また、色は形であり、形は色であると言う様に、形と色は一つのものであるのに、
世間は、色と形を分離して、色を抜きに形を求めたり、形抜きに色を求めたりしていて、
結局、求めることができないと言う結果に落胆することを警告する目的が有ったのであろう。
104 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/09/20(月) 02:08:06 0
>>69さん
本質と言われますとやはり般若ということになりそうですが
如何でしょう。
105 :
考える名無しさん:2010/09/20(月) 11:01:33 0
>>101 >公孫龍の論理は破綻してるのである。
公孫龍の置いた前提が間違っているということであり、
この前提は、世間の一般的認識つまり常識なのでる。
そういえば、中国人の色彩感覚はどうも、美しいとはいえないのではないか?
名所形跡によくある岩石に文字を掘り込んだもの、この掘り込みに真っ赤な色を
流して、文字を表している。街路に真っ赤なちょうちんをすべての家々がつるしている。
つまり、コーディネイトが無いのである。
106 :
井上筑後守:2010/09/20(月) 19:20:53 0
これはおまえらに特定して聞くことなので、あえてこちらに書こう。
「史記」読了後に、ヘロドトスの「歴史」も読んでやってもいい気になってるんだが、読んでやろうか?
もう西洋古典なんか本腰を入れて読む気にもならないでいたが、
「史記」の史実描写があまりにも秀逸なんで、これと同じようなことを
西洋人がやれば、どんな風になるのかちょっと興味がわいてきた。
もうこれ以上恥の上塗りをしたくないってんならそれでもいいんだが。
それだったら読まないか、読んでもわざわざ感想を書き込んだりはしない。
107 :
井上筑後守:2010/09/20(月) 19:47:44 0
ちなみに「世界最古の歴史家」であり、真の「歴史の父」でもあるのは、
「書経」を編纂し、「春秋経」も自作した孔子であり、世界最古のまとまった歴史書も、
孔子と左丘明の合作である「春秋左氏伝」なので、現時点でもうすでに、
ヘロドトスごときを世界最古の歴史家だとも、歴史の父だとも思っていないし、
ヘロドトスの「歴史」が最も偉大な歴史書だとも全く思っていない。
孔子も左丘明も、「史上最高の歴史家」としての地位は司馬遷に譲るものの、
歴史家としても相当に手堅い仕事を行っており、その歴史書の編纂姿勢は
「春秋の筆法」として、「新唐書」の編纂者である欧陽修などにも受け継がれている。
世界最古かつ相応品質の歴史家も、世界最高の歴史家も、両者とも中国に生まれており、
司馬遷の史書編纂のあまりもの秀逸さに隠れて、孔子や左丘明の偉業が陰に隠れているだけ。
凄いものがあまりにも重畳し過ぎているために、その全ての評価が追いついていないだけ。
108 :
考える名無しさん:2010/09/20(月) 20:01:38 0
>>106 なんかひねくれたことを言ってんじゃないですか?
アテクシは今史記を読んでいるんですよ。刺客列伝を読みました。
残酷で、恐ろしい世界ですね。他国他者のこととは思ってはならないと思いますが。
日本でも、殺人事件などの内訳は、このようなものでしょうか?
刺客列伝は確かに凄いな。
荊軻が後の始皇帝こと秦王を、毒を塗った剣で殺そうとして失敗するくだり、
あれほどもの熱狂を、古今東西どの文学でも未だ体験したことがない。
横山光輝の漫画版でも一応読んだが、あの凄さは全く描ききれていなかった。
事実は小説や漫画や映画よりも奇なるだけでなく、より熱狂させられるものでもある。
で、ヘロドトスは読んだほうがいいかい?
110 :
考える名無しさん:2010/09/20(月) 20:37:13 0
>>109 ヘロドトスを今まで読んだことがないということですか?
ウームゥ
ぜひ読んだ方が良いです。そのひねくれ根性が直りますぅ。いや、かもね。
111 :
考える名無しさん:2010/09/20(月) 20:44:57 0
孔子(前551年9月28日‐前479年4月11日)
左丘明(前556年−前451年)
ヘロドトス(前485年頃 - 前420年頃)
岩波文庫の全訳版の分量で見ればよく分かるが、
「左伝(春秋左氏伝)」と「ヘロドトス歴史」の日本語訳での分量はほぼ同じ。
左伝のほうは原文でも訳文でも読み抜いたが、今の日本の
政治家みたいに悪辣な連中が跋扈している春秋時代を記しているため、
甚だ分かりにくい上、どこにも正義が貫かれていないことへの辟易も抱くが、
これほどにも救われない時代だったからこそ、孔子のような在野の賢人が
輩出されざるを得なかった理由までもがよく分かる。「左伝」における徳治不全の
有り様を読み解くことが、泰平を司る儒者などにとっては、最悪の事態を想定する
消火栓的な役割をも負えたからこそ、「春秋経」を含む「左伝」全体が、
五経の一つとして実質的に認められてきたことまでもがうかがえる。
歴史学の起源がギリシャではなく中国にあったとする見方も、
別にひねくれているわけではなく、ただ事実に即した結果に過ぎない。
112 :
考える名無しさん:2010/09/20(月) 20:57:03 0
シナの古典文化に数学ってなかったのかい?
インドにはあったようだが。
113 :
考える名無しさん:2010/09/20(月) 21:14:18 0
>>111 井上さん、史記に対応する歴史書と言うと、タキツゥスの「年代記」ではないでしょうか?
タキツスはいいから、まずはヘロドトスを読んで頂きたいかどうか意思表示してみ?
>>110は読んでいただきたいと言っているが、それだけでも、読むだけならかまわない。
読んだ上で、「ぜひ感想も読ませていただきたい」というところまで意思表示しなきゃな。
こちとらいつ削除規制対象になってもおかしくない立場だから、下手に切実な感想を
書いたりすれば、おまえらが読む前にもう「あぼ〜ん」と化すこと、これ請け合いだ。
筑摩書房「世界古典文学全集版」での
春秋左氏伝のページ数:542ページ
ヘロドトスのページ数:485ページ
訳し方によって多少の分量の増減はあるので、
あくまで参考程度に。
117 :
考える名無しさん:2010/09/20(月) 22:29:53 0
なんだ、中国こそは未曾有の数学大国だったのか。
てっきり算術止まりかと思っていたのに。
118 :
考える名無しさん:2010/09/20(月) 22:51:53 0
>>116 > 《墨子》は次のように言っている『一少于二而多于五,説在建位』。この
意味するところは、『一』が一の位にあるときと十の位にあるときでは意味
が違い、二より小さくなることもあれば五より大きくなることもある、とい
うことである。
解説を求む。
>>18 単純に、
「01」における1は、2より小さくて
「10」における1は、5より大きい、といった意味かと、、、
120 :
119:2010/09/20(月) 23:15:53 P
121 :
考える名無しさん:2010/09/20(月) 23:32:16 0
やはり演繹的証明という概念はなかったか、あるいは重視されていなかったようだね。
哲学・思想においてはどうだろう? 古代シナ人は「論証」をどう見ていたのだろう?
122 :
考える名無しさん:2010/09/20(月) 23:34:51 0
で、ヘロドトスは仮に読んだとしても、心の奥深くに仕舞い込んでもらいたいと?
123 :
考える名無しさん:2010/09/21(火) 00:20:43 0
>>121というか西洋(のものとされる)概念を漢字や熟語で言い換えることが
できることの意味をわかってるのか?韓非子だろうが論語だろうが論証・実証はあるよ。
124 :
考える名無しさん:2010/09/21(火) 00:22:43 0
>>116十進法よりも二分法の確立が重要だと思う。
今もさまざまな世界に応用されてる二進法と同じで、
もっとも古いコンピューター理論だ。易経は
本当に世界最古のコンピュータープログラムだよ。
125 :
考える名無しさん:2010/09/21(火) 00:30:41 0
つうか白人って面白いんだよ。現在「欧米特有の考え方」だの「発見」だの
されてる「方法論」がイスラム科学の影響(というかそのまんま)だと
指摘すると今度は必ずこう言う「イスラムはビザンツ起源」だとね。で、
ビザンツ時代にイスラム科学の「大翻訳時代」が起こったのだというと、
次は「ビザンツは古代ギリシャ起源」と言い出す。で、インドの数学だろうが
イスラムの科学だろうが、みんな「古代ギリシャ人が言い出したことの模倣」なんて
言い出すんだ。で、それは古代エジプトやメソポタミアにあった文明の
影響を色濃く受けているとヘロドトス自体記してるが、と指摘すると「それは
経験則の世界だった」と来る。つまり一般的な白人の歴史っていうのは
「古代ギリシャですべてが始まって一方的に東方まで広がり、ルネサンスを
経てその継承者は欧米」ということなんだ。それ以前やその中間点は一切なく、
知恵の蓄積方法や先人の知恵なんて一切ない、全部一点からいきなり生まれた
ビッグバンみたいな歴史観なんだよ。本当に白人って変だよ。
126 :
考える名無しさん:2010/09/21(火) 00:47:08 0
イスラムの科学がギリシャの文化を継承・発展させたものだというのは事実だろ。
127 :
考える名無しさん:2010/09/21(火) 00:49:49 0
>>123 そのことから、西洋の概念に相当するものがシナにあったと
主張しているなら、それは誤りだよ。
「電話」や「冷蔵庫」という語が漢字で作れたのは、
それらがもともとシナにあったからだと言っているようなものだ。
>>126ギリシャはエジプトに影響を受けたからイスラムはエジプト
の継承者というべきじゃないの?途中で挟まってくる古代ギリシャって
つまりなに?
>>127電気も冷蔵も支那にも日本にもある概念だけど。それを
あわせて言い換えて何か障ることでもあるんか?
129 :
考える名無しさん:2010/09/21(火) 01:36:11 0
日本では西洋思想の概念を、
シナの哲学にもともとあった熟語を借用したり、
漢字の新しい組み合わせを作ることで表現し、受容した。
しかし、このことは、それらの概念がシナの思想の中に
もともとあったということを意味してはいない。
>>127で言おうとしたのはこれだけだよ。
130 :
考える名無しさん:2010/09/21(火) 02:05:50 0
おっ哲学スレらしくなってきたじゃねえか。
紙の発明は確かに知恵の媒体・集積に対して非常な力を発揮したが、
だきゃらといって紙の製法が伝わる以前の西洋に「媒体自体が
存在しなかった」とはいえない。
それと同じ。
133 :
考える名無しさん:2010/09/21(火) 08:18:00 0
>>122 >で、ヘロドトスは仮に読んだとしても、心の奥深くに仕舞い込んでもらいたいと?
あなたが自分の必要に応じて読書されるべきで、その中で人のためになることが
あって、それを知らしめたいと思われるなら、ここに開陳されれば良いのです。
ここの人はそれに応じて、対応するでしょう。自分に関わるならその範囲で。
それ以外に、ここの人とあなたの関係は無いでしょう。
その「人のためになること」が、一部の人間の長期服役や
強制入院を伴いかねないことであっても構わないんだね?
もし本当に書くんなら、こっちじゃなくて師匠スレに書くがな。
今は弟子たちの学生寮にちょっと師匠が赴いているだけで。
俺が西洋の本などをもう読まないでいてあげているのも、慈しみの一つでこそある。
昔は俺も、洋学関係の本なども読み漁っていて、科学書や数学書を含め、
その学び込み加減たるや、洋学のほうでもおまえら以上だったわけだが、
当時はまだ洋学の根本的な劣悪さ加減に気づいていなかった。気づいてなかったから、
今のおまえらとも同じように、糞を食むようにして旺盛に洋学をもがっついていたわけだが、
気づいてからはだんだん服毒量が減り、今となってはもう自分からは一切読まず、
洋学の蔵書もいつでも粗大ゴミやブックオフに出せるよう段ボール箱に詰め込んでいる。
ストーリーや歌詞が洋学の影響下であることが顕著な、洋画や洋楽も一切見聞きしなくなった。
もちろん全ての洋学を服毒し尽してからやめたわけではなく、取りこぼした中には
ヘロドトスの「歴史」などもあって、西洋史よりはむしろ中東史やエジプト史への興味から
読んでみたい気になっているが、それが自分にとっての毒となるだけでなく、それに対する
勧善懲悪込みの感想が、洋学に対する「故意の追い討ち」となることを恐れている。
今までの洋学批判はすべて、まだ洋学が劣悪だと気づいていなかった頃に勉強した洋学の
知識に基づいているので、全く故意ではないんだが、劣悪であることに気づききってから
わざわざ自分から服毒した知識に基づいて批判したりすれば、故意の追い討ちになってしまう。
だから、やっぱり読まないでおいたり、読んでも感想を述べなかったりするほうが得策かとも思う。
136 :
考える名無しさん:2010/09/21(火) 10:42:47 0
>>131 そのための例として「電話」と「冷蔵庫」を挙げた。
これで分からなければ、もうお手上げだ。
137 :
考える名無しさん:2010/09/21(火) 11:01:54 0
>>135 洋学よりも東洋学の方が価値のある根拠を示さないとね。説得力が無いですね。
その根拠を示すために必要な情報量が、すでに常人が把握できる分量を遥かに超えているのでね。
現実問題として、経験則で慮ることしかできないことが
いくらでもあるのを見落としている点もまた、洋学の落ち度の一つだ。
139 :
考える名無しさん:2010/09/21(火) 11:28:17 0
>>138 それは逃げ口上と言うものでしょう。
自分の観念として思っていること無くして、決定を左右することはできないのが
人間では有りませんか?
アテクシは、人間とは、いい加減なことを言ってしまう場合も有るとは理解してますよ。
140 :
考える名無しさん:2010/09/21(火) 12:12:50 0
明の時代にシナは大きく衰退したように見える。何が起こったのだ?
141 :
考える名無しさん:2010/09/21(火) 12:13:22 0
たとえば、品質に大きなばらつきのある中国製品がそのまま、
中国本土では日本の10分の1の値段で売りさばかれていたとする。
粗悪品も多く混じっているため、このままでは日本で売り出せないので、
日本の側で検品などの品質管理を行ってから国内で販売するとする。
すると結局管理のための費用がかさんで、10倍の値段になってしまう。
仮に全ての当該中国製品を、日本国内で販売する場合ほどの品質にまで
向上させようとすれば、結局は中国の工場などに対して、日本並みの
品質管理体制を整えさせる必要があり、相当の費用がかさんでしまう。
しかも、中国は日本の10倍以上もの規模を持つ大国であるため、
そこで生産される全ての中国製品に日本並みの品質管理を要求すれば、
コストの総体的な高騰によって、世界経済全体の破綻すら招きかねない。
だから結局、総体的には中国製品は粗悪品が多くなり、日本製品や
日本で品質管理された中国製品は質が高くなって、金持ちの中国人も
日本にわざわざ買い物にくるようになる。それが世界の生産市場の
総体的な限界であり、中国が生産品質でまで日本を追い抜くなど
原理的に不可能なこと。小国だからこそ日本は製品の品質を保て、
大国だからこそ中国は製品を大量生産できる一方、その品質は保てない。
それなのに、このままいけば中国が日本を追い抜くような風説が流布され、
中国がハリボテ同然の空母を造り始めたのを根拠に、またアメリカが日本への
防衛干渉のおせっかいを活性化させ始めてもいる。経験則ではなく、実相を
逸脱した杓子定規な理論的推察を通すことによる過ちが、また繰り返されている。
142 :
考える名無しさん:2010/09/21(火) 13:05:52 0
>>139 今までに書いてきたこと全てが、東洋優位西洋劣位の根拠の提示になり続けている。そのうちの
どれか一つとかではなく、それら全ての論及が、実相上の優劣をことごとく指摘していく重畳となっている。
実相の把握には「ここまででいい」などということが決してないために、どの時点で真実を
大悟するかということは、全く個々人の研鑽姿勢如何による。ただ、部分ばかりにこだわって全体を
見ない弁士一曲のままでは、絶対に実相からの優劣の把握にまで至ることができないのは確かだ。
あっちを立てればこっちが立たぬ、質を立てれば量が立たぬといった背反性が現実の世界にはよくあり、
部分の説明品質を向上させ過ぎれば、全体の把握が追いつかなくなるといった二律背反もあるわけで、
一言一言での納得を追い求めるよりは、全体的な風潮の把握から察知されることもあり、
洋学に対する東洋学の優位もまた、そのような漠然とした総体性の部分にこそある。
スレ違いの議論をこっちでもやってるのかな?
こっちはレス番で削除依頼出します。やってることかなり悪質です。
ほんと2chって、殺したくなるぐらい憎たらしい奴がそこら中にいるよな。
最高権力者から放伐によって交代させられる大政変などにおいて、
平時の感覚でいえば「別にそこまでしなくていいのに」というぐらいの惨殺がよく行われる。
一時的に法制なども無効化されて、何をやってもお咎めなしと化したときに、
今まで吐露されることすらなかった被虐民たちの鬱憤が爆発して、
惨殺行為すら伴った狂乱に陥ってしまうわけだ。
そのようなことが起こらないようにするために、本当は常日頃、誰しもに対して
無駄な鬱憤を溜め込ませないような、清廉な為政に権力者などが励んでいるべきなんだが、
それもなく、権力機構が腐敗して、それにならって民の間にも悪意が蔓延してしまった
からこそ放伐革命なども起こらざるを得なくなってしまう。だから常識的に考えて、
何十万もの秦兵を生き埋めにし、投降してきた秦王子嬰を首切りの刑に処した
項羽のような暴挙が起こってしまうほうが必然なわけだが、あえてそこをグッと抑えて、
革命後の世の中の穏健な統治のために私怨を堪えられる者こそは、後代の徳治者ともなる。
あくまで「私怨を堪える」のであって、「私怨がない」のではない。
不快なものは不快だと思うし、殺したい相手は殺したいと思う。
俗世に生きる常人にとって、喜怒哀楽を抱くことは常なることであり、
常識的に考えて許しがたい罪などを無条件に許したりするのは、そのほうが精神薄弱で、
相応の怒りをもって懲罰にも臨むほうが健全なこと。ただ、その怒りが行き過ぎて
私怨とまでなったなら、それに基づいて報復を行ったりすることは正当な処罰にならない。
怒るべきものを怒らない薄弱でもなく、怒るべきでないものにすら怒る私怨でもなく、
怒るべきものだけに怒り、怒るべきでないものには怒らない、それでこそ真人間だ。
147 :
考える名無しさん:2010/09/21(火) 14:22:53 0
>>146 せっかく面白くなってきたのにてめえが出てくると滞るんだよ
とっとと失せろ、ごみくず荒らしが
常日ごろ、中韓人などへの無礼で差別的な書き込みもしまくっているおまえらが、
日本への入国制限や国籍取得の緩和などに対しても反対や不快の意を述べる。
そりゃあ、今まで中韓人を差別し続けてきて、ネット上にも大量に無礼な書き込みをしてきたのだから、
それが日本語を勉強した中韓人などの目に触れて、大きな恨みを買って、入国したり日本国籍を
得たりした中韓人に敵対的な意識を持たれる原因をも、おまえら自身が作っているから。
少子高齢化で移民も受け入れざるを得ないような中に、主な移民誘致先ともなるだろう中韓などの
恨みを買うようなことを自分らでやっているから、移民として受け入れることにも嫌悪感を抱いている。
全くの自分たち自身の自業自得であり、かつての渡来人とのように仲良くやっていく選択肢を
わざわざ自分たちから摘んでいる。
父母共に特濃の日本系である俺も、近ごろのおまえらのような日本人の愚かな言行を見ていると、
自分と同族であるはずながらも、中韓人あたりにしばき倒してもらえればなあと思ってしまう。
さすがに日本占領とまでいかれると癪だが、逆にアメリカによる占領によって完全な腑抜けと
化してしまった今の日本人を、夷狄を以て夷狄を制する要領で踏みにじってもらいたいもんだ。
151 :
考える名無しさん:2010/09/21(火) 14:59:52 0
いま俺がおまえらに露呈している感情的な側面こそは、今の権力者などにも欠けている部分。
法治主義社会では、為政者や法律家などは徹底して無感情であることを要求されるが、
その無感情こそは民の不要な恨みを買う元凶であり、放伐革命の際に惨殺込みの狂乱を生む原因ともなる。
民と共に喜び、民と共に怒る人情からの民意の一致があって、うまく民たちの恨みなどの
ガス抜き処理も行えることこそが、泰平の為政者などに対して要求されることであり、機械のように
無感情な事務官などは、何事をも自分では決めさせてもらえない下賤に甘んじていなければならない。
直情的だから、権力者となる資格がないんじゃない。私怨を堪える程度の制御が利いた中にも
豊かな感情を湛えている者こそは権力者であるべきなのであり、そうであるからといって省かれてはならない。
むしろ何事をも冷酷に処理する酷吏などこそは、権力の高みに上っていくことなどを求めてはならない。
>>150 おまえの態度は酷吏然としており、目上の者に指図するような立場でないことが明らかなので、
おまえのような身の程知らずの分際が命令すればするほど、それには従わない。
これは俺の感情に基づいていることでもある上に、道徳的な義務にも即した措置だ。
私怨とまではいかない範囲での措置であることを、ありがたく思え。
感情はある。感情はあるが、それによって破綻することもない。
無感情と激情の中庸の、梵我一如ないし物我一理に基づく情念。
感情がなくなることなどを期待してはならないし、逆に情愛に溺れきることなどを期待してもならない。
愛が偏愛を抑制させたところで仁愛となり、勇気が蛮勇をおしとどめた所で大勇となるように、
感情全般もまた、限りのない激情を適度に抑制したあたりでちょうどよくなるのであり、
それが過度の激情よりも適切であるのはもちろんのこと、無感情であるよりも実際上適切である。
俗世を捨てた出家者となるでもなく、実社会での活躍者ともなることを目的としている俺にとって、
そこそこに感情が豊かである今の自分の性情が、特に感情面においてはより適切なのであり、
これ以上に感情を捨てさせられたりする筋合いもない。朱熹にも癇癖があったというし、
俗世の思想家が感情豊かであるのはむしろ健全なことで、無感情であるほうが不健全。
そこに無感情を要求したりするのは、そのほうが根本的に間違った姿勢でこそある。
153 :
考える名無しさん:2010/09/21(火) 16:42:25 0
154 :
考える名無しさん:2010/09/21(火) 16:48:35 0
史記とヘロドトスって、漢文読むのとギリシャ語の和訳読むんじゃ不公平じゃないか?
両方原文で読んでるなら、それは公平だけど。
日本の場合、史記に関してはかなり恵まれた環境だから
ヘロドトスは、どうみてもそうじゃないだろう。
史記も邦訳で読んでいる。
左伝やヘロドトス史の三倍程度で、四書五経全文にも迫る分量だから。
無理すりゃ読めないこともないが、個人的に「史」の研究は、「経」よりは一歩下がるようにしている。
どうせ東洋教学の文献全てを、一人の人間が一生のうちに読み尽くすことなどは不可能なのだから、
特に重点的に研究するものと、そうでないものとの区別は付ける。多読が必ずしも功を奏すとは限らない
とは朱子も言っていて、学知を俗世で切実に実践するつもりならば、特に自戒すべき点だと言える。
156 :
考える名無しさん:2010/09/21(火) 19:09:34 0
任侠列伝を読んだが、とにかく人間がバッタバッタと殺されるんだな。
こういうものばかり読んでると、それが当たり前になってしまうと思われる。
法律に基づいた裁判なんて言ったって、こんなに簡単に罪を犯す人がたくさん居るのか、
疑って見ないわけに行かないのだ。なんと死刑なんだよ。
中国人のことを「ちゃんころ」などと別称した時代があったようだが、
まるで豚を殺すように、殺し、死ぬんだよね。史記の時代。
こんな書物が有名だから、世界中は、現代の中国でも、数々の大事件で
膨大な人民が殺されていると疑うんだろうね。
ところで話は変わるが、広島長崎に原爆が投下されて日本国民が何十万人
と死んで居るが、大部分が民間人で有ることを理由に、アメリカは、悪い、と
日本人は言うのだろうか?殺しあうべきは軍人同士で無ければならないという
国際法があるのだろうか?
157 :
考える名無しさん:2010/09/21(火) 19:34:41 0
その、義侠心豊かな任侠を多数擁する中国よりも、
遥かに多くの人々を内乱や外界侵略で殺戮してきたのが欧米人なわけでね。
どちらかに即すというのなら、中国のほうに即すしかない。
それほどにもどうしようもない結果を、欧米人こそが呈しているので。
殺し合い奪い合いやそれの懲罰といった、殺伐とした世界とはまた別に
人間道徳を重んずる儒家や、無為自然を重んずる道家も中国にはあったから
十分なガス抜きが行き届いていたわけだが、適当なガス抜きもないままに、
法制による雁字搦めで潔癖主義社会を強要する一方で、法の網を潜り抜けた
外部では殺し放題奪い放題の状態を呈し続けてきたのが西洋社会。
今はもう、潔癖主義が欧米先進国内に行き届き、やりたい放題が後進国に
擦り付けられることが定着しているが、潔癖主義の副作用としての荒廃のほうが
遥かに甚大である状態は続いており、中国史上にすら類を見ない
大殺戮が今の欧米中心主義社会においてこそ引き起こされいる。
158 :
考える名無しさん:2010/09/21(火) 20:06:19 0
人間である以上はある程度抱いてしまう殺伐さと、それを乗り越えようとする道徳性の調和が
自国内において図られてきた中国よりも、殺伐さを法制の雁字搦めで根絶させようとするあまり
かえって殺人被害者を増産してしまった西洋とで、どちらのほうがマシだったかを今さら述べるまでもない。
いずれも「最低かマシか」程度の、ブービー賞とビリッケツの争いでしかなく、世の中をよりよく
していこうとする、向上競争のスタートラインにすら立てていないのでは共通している。
死刑一つなかった平安時代や、戦争一つ起きなかった江戸時代のような、量と引き換えに質を
向上させる日本のような小国でしか実現し得たことのなかった理想的社会が、中国全土や欧米全土、
インド全土や中東全土のような極大社会で、総体的に実現されたことは未だかつてないのであり、
そのような粗大な極大社会のうちで、比較的良質な結果を得られていたのが中国やインドであったに過ぎない。
人類全体の風紀秩序を向上させていくこと、それこそ「史記」の書かれた前漢中期ぐらいまでにしか
及ばない可能性も高いが、それでも今の全地球社会よりはよっぽどマシであり、前漢の中国並みに
地球社会全体がマシとなった結果として、中国やインドや中東や西洋といった極大社会の中にも、
今の先進国並みに風紀の行き届いた社会が散発することは見込まれる。そしてそれは、富貴と貧困の
両極端が一部の支配者によって画策されている今の社会と比べて、よっぽど罪も他愛もないものとなる。
誰しもに平等に選択肢が提示された上で、志す者と志さない者とが自主的に別れていく社会。
選択肢すら必ずしも用意されているとは限らない、今よりもよっぽど根本から均されていくことになる。
>>154 それは俺っちが前から言ってる。
どうしても知りたければ現地の図書館にでも行って現地の言語を読むってね。
ま、一応ネットでもできるけど、言語をその国に合わせなきゃなんないけど
その国の言語が使えなきゃ意味ないねw
ていうか井上さんやっちゃったなwあれほどおとなしくしてろって言ったのにw
もはや時間の問題。
感情的な物言いも含めて企図の範囲内だから、どうということもない。
俺の感情吐露に付いて来られる者こそは、これからの実力者としても相応しいのであり、
付いてこられない不感症患者こそは、イギリス人などと共に謹慎しなければならない。
為政者が無感情の限りを尽くした結果として今の荒廃化社会があるのだから、仕方がない。
福沢諭吉が批判の対象とした、感情論と為政の合致を、今にこそ復興させざるを得ない。
161 :
考える名無しさん:2010/09/21(火) 20:43:17 0
>>155 何語でも和訳で読んだら良さなんか半減以下。
それは断言できる。
全部は無理だけど、『漢文体系』『大蔵経』ぐらいなら、軽く読めるでしょ。
そのぐらい読んでないと何もいえんよ。
162 :
考える名無しさん:2010/09/21(火) 21:00:05 0
また弁士一曲がはじまった。
164 :
考える名無しさん:2010/09/21(火) 21:18:44 0
>>163 いやいや、適当に和訳読んで妄想語ってる方がおかしいよ。
つくづく共に語る価値のねえヤローどもだな。
しかもそのウンコさ加減で相手を負かそうとする。
ウンコが勝ったからっていいことなど何もないのに。
166 :
考える名無しさん:2010/09/21(火) 21:40:56 0
>>165 まず、きっちり読まないと、ただの妄想だってのは分かるよね
「史記」大宛列伝で、武帝はいくつも通訳を代える必要がある
遠方にまで、交易によって威徳が轟くことを期待してもいる。
現代最大の話者数を誇る中国語が世界の公用語になる必要はないにしても、
実質世界の公用語扱いされている英語が公用禁止になるぐらいでちょうどいい。
重権力犯罪者どもの主要言語であったことや、「道徳」に該当する言葉が
存在しないなど(moralと訳したのは誤り)、公用禁止にする根拠はいくらでもある。
きっちり読まないことが妄想になるとも、きっちり読むことが妄想にならないとも言えない。
ものの考え方も、言葉の扱い方も根本から間違っていることのほうが、よっぽど妄念妄想を呼び起こす。
それこそ「人殺しはいけない」とか、「盗みはいけない」とかいったことにまで妄想を付帯させる。
いかなる現象的知識に関わるよりも以前の、根本的な人間精神との連絡の不通が、妄想の種になる。
言葉を発してしまう時点で過ちになってしまうような輩は、とにかく自首に向けたあらゆる手段に励め。
おまえら全員を収容するだけの留置所がまだないんなら、仮設牢獄を自作するところからでも始めろ。
自分たちの心の赴きをどうにかしようとすることも、放任状態から解放された檻の中でこそ始められていく。
170 :
考える名無しさん:2010/09/22(水) 07:15:41 0
史記の世界は、弱肉強食の世界である。現代のほとんどの国は、民主主義国家である。
どこが違うのか。幸福である権利は、第一番に、君主にありその家族縁戚、と言う順番に
折的、弱者である平民、奴隷と来るのだ。民主国家とは、幸福である権利を持つ第一番目は、
平民なのである。奴隷も君主とその家族も無い。
史記のような独裁君主制の時代の書物ばかり読んでると、その時代の人間の精神になってしまう。
民主国家の人間と合いいれない。民主国家の人間は、民主国家の人間になるようにこそ
教育されなければならない。であるから、古代中国の書物を読むときは、民主国家と君主国家の相違を
よく認識してることが肝要である。
171 :
考える名無しさん:2010/09/22(水) 09:23:41 0
そういう考えは遅くても高校くらいで終わっとけよ
172 :
考える名無しさん:2010/09/22(水) 14:31:57 0
民主主義社会でも、先進国の民衆の幸福が第一で、
後進国の民衆の幸福は第二第三に劣後されてるじゃねえか。
劣後しているものへの配慮を決定的に欠いているぶん、
封建社会(×独裁社会)よりも遥かに大きな格差が開いてもいるし。
餓死や戦死による犠牲者数も、封建社会とは桁外れの数に上っているし。
173 :
考える名無しさん:2010/09/22(水) 15:18:18 0
自国民の利益・幸福だけを考える傾向は、
民主主義であろうがなかろうがあまり変わらない。
これは民主制か封建制かという問題とは別。
174 :
考える名無しさん:2010/09/22(水) 17:18:45 0
民主主義にしろ独裁主義にしろ資本主義にしろ共産主義にしろ、
国家や社会を構成するいち部分の派閥のみを偏重していることには変わりない。
民主主義は被治者、独裁主義は支配者、資本主義は消費者、共産主義は生産者。
それら全てが寄り合ってこそ、一つの完結した国家や社会を形成するというのに、
その中のどれか一つだけを偏重するせいで、完結的な国家としての不完全性を呈する。
畢竟、上記のイデオロギーはどれも、国家と国家が覇権を争い合う国際主義社会において、
社会機構の一部分のみに偏重した「他国依存型国家」を形成してしまうことでは共通しており、
支配者も被治者も生産者も消費者も全て含めた、多様な社会性の調和を図ることで、
個々の国家が独立的な完成度を身に付ける封建主義とは全く異質のものとなっている。
早い話が、他国民の利益や幸福を侵害してでも自国民の利益や幸福だけを偏重する
我田引水志向は、民主主義や独裁主義や資本主義や共産主義といった洋学原産の
イデオロギーにのみ付帯していることで、真に他国への依存を排して、自国だけでの自立を
図る権力道徳は、王権神授説などのカルト性を帯びていない封建主義だけが持っている。
基督教系仏教・自慰座主位守徒に入信してマリア観音像を拝もう
176 :
I wanna fuck you like an animal.:2010/09/22(水) 18:33:17 0
白人は一人前のヒトよりも保護動物扱いのほうが、自分たち自身の本領も発揮できるかと思う。
177 :
考える名無しさん:2010/09/22(水) 20:10:46 0
これは酷い。完全なる妄想の世界。
本人たち自身の自主権限は禁治産によって大幅に制限されるんだが、
見た目の奇妙さや美しさを活かしての芸能業務などが、保護者の許可を得た範囲内で認められる。
西洋文学などに基づいた腐れきったシナリオではなく、健全に面白い東洋産のシナリオに即した
演劇などを演じさせる。いまアニメや漫画として日本で発表されている作品の実写化なども
できそうだが、如何せん今のままでは製作陣まで白人になる上、何もかもが白人自身によって
取り仕切られるが故の あ ば ず れ で、日本の漫画やアニメのキャラでこそ表現されている
慎ましやかさなどが白人俳優にも演じきれない。製作陣も、全白人の保護者も東洋人と
なることで、初めて東洋精神を白人などに演じさせる上での準備も整えられることだろう。
179 :
考える名無しさん:2010/09/22(水) 23:10:07 0
日本の漫画アニメは皆白人が登場人物。
孟子も言っていますね、人を殺さない君主の下には人は集まります、と。
アメリカやヨーロッパの国の政府は、東洋の政府よりも、人を殺さないでしょう?
欧米で、自ら進んで自殺行為である神風とか自爆テロと言うのは考えられないでしょう?
彼らの方が人間を大事にしてるんですよ。だから、皆欧米びいきになるのです。
井上さんはよくよく自らの冷酷残忍な性情を反省すべきではないでしょうか?
アテクシは、どうも東洋人と言うのは、あのサバンナの猛獣のように、人を食らう
性情が生まれながらに備わっているのではないかと疑うのです。欧米人が
東洋人、日本人を理解できないときに、「我々とは異質な人間なのだ」と言うせりふは、
正直なかれらの感想だと思います。
180 :
考える名無しさん:2010/09/22(水) 23:23:40 0
孟子はそんなことは言っていない。
「人を殺すことを嗜まざる者、能く之を一にせん」
(「孟子」梁恵王章句上・六)
天下全土全世界において、人を殺すことを最低限に止めおこうとした者、
転じて人殺しを嗜好しなかった者こそは、天下を一にすると言っている。
民衆に標榜している部分に限らず、四方八方全面において人殺しを嗜まなかった者、
つまり本音から人殺しを厭がっていた者こそは、派閥を欲するまでもなく天下を統一する。
孟子は個々の家のような部分論も、天下国家のような全体論も述べているが、
上記の言は全体論にあたり、個々の派閥のような部分論に当てはめるべきではない。
181 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/09/23(木) 02:19:29 0
>>153さん
長文が続くなか短いレスにありがとうございます。
般若(プラジュニャー)、智慧ですね。
本質というお言葉がありましたので。
特に大乗、後期大乗では両者は重要ですから。
182 :
考える名無しさん:2010/09/23(木) 04:01:27 0
>>181 プラジュニャーとジュニャーナをどう捉えますか? という意味です。
>>179白人が結果的に殺したアメリカ大陸の住人は最低でも1500万人ですが。
確かに、さも人殺しを嗜んでいないかのように装っていることが、
現代における白人文化支持の主要な理由でもある。
巧みな情報操作や、「史記」では「滑稽」と呼ばれている類いの
徳性を伴わない巧みさだけが取り得の言い回しなどによって、
自分たちの殺人嗜好の痕跡をことごとく煙に巻いていく。
昨今のイラクやアフガンでの暴虐のように、どうしても隠し切れない殺戮行為も、
さも道義を通そうとしていたかのような既成事実だけは作っておいて、
「石油が欲しかったから」とか「軍需産業を回転させたかったから」とかの
本当の理由は陰謀論止まりにさせておいて、自分たちが正義の味方で
あったかのようなパブリックイメージだけは一般に流布させておく。
逆に中国人やアラブ人などの非道な振る舞いは、どんなに小規模でも
大々的に取り上げて、自分たち以上に野蛮な存在であることを強調する。
自分たち白人こそは突出して人類史上最悪の殺人集団であるくだんの事実も
文化大革命などの小規模な虐殺の流布で隠蔽する。そこまでして自分たちの
殺人嗜好を情報的に握りつぶしているからこそ、一応はまだ支持されもいる。
しかし、「史記」佞幸列伝には苦笑させられた。
皇太子だった孝景帝すら噛み千切って吸い出すのを嫌がった
孝文帝の腫れ物の膿を、寵臣のケ通はいつも好んで吸い出していたそうな。
いくら孝行な息子といえど、実の親父の膿を吸うのなんか嫌に決まってんじゃねえかw
実の息子である景帝よりも文帝に媚びた咎で、ケ通は非業の最期を遂げた。当然のこととはいえ、
封建社会における君臣父子の序列が、ある種の奇癖によって左右されるものではない証拠となっている。
普通「膿を吸う」なんて、同性ならまず拒絶する。
異性でも見た目が醜悪だったりすればかなり厭う。
異性でしかも絶世の美男美女なら、やっと許せるかどうかってとこ。
美しさは、膿を吸うための緩衝材に過ぎない。
見た目の美しさを磨いて、膿を吸う尽力に努めるのもまた一興だが、
それ以上にも、嫌でも相手に膿を吸わせる手段を尽くすに尽きる。
膿を吸うことなんて、結局は誰にとっても嫌なことでしかないから。
187 :
考える名無しさん:2010/09/23(木) 23:04:21 0
きたない。
188 :
考える名無しさん:2010/09/24(金) 15:29:34 0
美男や美女こそは、膿すらも吸い合えるし、
醜男や醜女こそは、膿を吸うことなどは嫌がる。
たったこれだけの事実でも、内面と外面の巧拙の反比例関係の証拠となっていて、
「健全な精神は健全な肉体に宿る」わけでもないことが明らかなわけだが。
物事を一面的にしか捉えることができず、万事万物に何らかの相反性が付随していることを
全く見落としている連中がいて、物事を無限発展の前提ばかりに即して捉えようとし、
実際には無限循環こそを前提としている、実相面における過ちを繰り返していく。
ただ物事を一面的に捉え、無限発展を前提として物事を捉えるだけで、人は誤る。
いついかなる時も必ずそうする場合だけでなく、ほんのちょっとそう捉えただけでも、誤る。
いついかなる時も物事を多面的に捉え、必ず無限循環を前提とする場合にのみ、人は正しい。
ちょっとだけそう捉えてみるのではなく、完全にそう捉え続けることでのみ正しくあることができる。
仏陀もヒンズー教では維持循環の神ヴィシュヌの化身とされているが、破壊や創造と比べれば
中道にあたる、維持循環こそは絶対真理であり、それは未曾有であると共に、微妙なことなので、
絶対的真理、絶対的な正しさなどを絶対に堅持しようなどとは、生身の仏者や儒者ですら努めない。
一面性や無限発展を大前提とする絶対的過ちと、多面性や無限循環を大前提とする絶対的正しさとの、
両者の調和を嗜むことまでも含めて中正であり、正しさと過ちのいずれをも絶対肯定も絶対否定もせず、
優劣程度の序列をわきまえた中に並存させる。正しさと過ちの調和を序列によって嗜むこともまた、正しい。
189 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/09/25(土) 00:14:52 0
>>182さん
両者とも「知」という意味ですが
前者はPraが付きますので完全な知(智のほうが適当)でしょうか。
般若経や、ご真言にもよく出てきますね。
もし「知識」というならばヴィジュニャーナのほうではないでしょうか。
190 :
考える名無しさん:2010/09/25(土) 04:31:19 0
>>189 そんな読み方してたら何も分からないでしょう。
191 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/09/25(土) 05:27:53 0
>>190さん
そもそも分かる分からないの論は智(プラジュニャー)ではないですので。
このスレの初めの上座部の方でしょうか?
大乗にはそれなりの考え方もありますので。
大乗、後期大乗の二本柱の一つについて
>>69さんのお答えに
レスしたまでですが。同じ方ですよね?
>>184宮崎市定先生の「世界は欧米化じゃなくて支那化している」と
言う言葉を思い出してみましょう。「儀を唱えた後、諸侯の支持を集め
侵略を正当化する」とか「技術文明を発展させて自然を征服する」とか、
これは儒の荀子の考え方に一致します。さらに欧米で蔓延する学歴社会、
権力者に対する容赦ない要求などなど、やつらは西洋に影響を及ぼした
一神教の精神より、現在の発展を重視する支那思想に溺れているのでは
ないかと。
儀じゃなくて義ね。
>>185その手の話題って多いよね。呉起の人心掌握術。
あと
石田三成もそれをしたよね。
呉子が膿を吸ってやって人心を掌握した兵士の母親も、かえって嘆き悲しんだことも有名だな。
「これで息子も将軍のために命を張って戦い、討ち死にすることが決まってしまった」と。
「膿を吸う」ってのは、中国では「極端な媚び」の象徴であるようで、
それは親子の親愛すらをも不埒に侵害するものであり、決してよろしくないこととされる。
呉起も悼王の死体に覆いかぶさって死んだふりをしていたところ、死体ごと射ぬかれて殺されている。
仁徳すらないがしろにしてでも勝てればいいのが兵家であり、必勝法として呉子の兵法も有効で
あるのは確かだが、あくまで善用のための道具としてわきまえないことには、諸刃の剣と化す。
>>192 白人が「頭隠して尻隠さず」の、見え見えの情報統制で綱渡り的な自己正当化を続けているのは、
中国思想の影響ではないし、天地万物に汎神性を見出すイスラムを含む一神教の影響にも即していない。
洞窟の奥底から、外界の一部分だけを徹底的に観察するプラトンの「洞窟の比ゆ」や、
全方位の半分以下の範囲でしかない人間の視野によって、図形を視覚的に捉えるユークリッド幾何学。
四方八方全方位への空間把握を適正化する易の空間把握などと違い、必ず空間上のどこかに見落としの
部分を残しつつ、一部分の視野に対する徹底的な観察のみに耽る、視野狭量型の空間把握に基づいて、
アメリカも裏では腐敗し放題でありつつ、表向きだけは英雄的である「劇場型国家」であろうとしている。
最古のピタゴラスやプラトン、ユークリッドの頃から、全方位の半分以下しか捉えられない視角的な
空間把握を続けてきた欧米人にとっては、それが自分たちに用意されていた唯一の空間把握形式であり、
全方位への空間把握を達成する易のような把握形式のほうが、未知の存在だった。今までは一面だけを
見て全面を捉えない劇場型空間把握を押し通してきたが、すでにより適正な全空間への把握形式が
発見されており、しかもその成立は、エジプトにおける幾何学の成立よりもさらに以前にまでさかのぼる。
質でも量でも古さでも遥かに上等なものの実在を確認してしまったが故に、
自分たちこそは唯一無二だと思っていた下等な連中が、引き下がらざるを得ない。
196 :
考える名無しさん:2010/09/26(日) 10:07:21 0
なぜ、何も分からないかというと、何によっているのか分からないけど、
貴方のように言葉を文脈によらずに一義的に捉えていては、確実に誤解するからだ。
どうも、般若を無分別智のように捉えているようだけれど、確かにそういう意味の場合もあるけれど、違う場合が多い。
例えば、以下の唯識文献を見れば分かるでしょう。
『大乘阿毘達磨集論』
jñāna-sanniśrayadāna-karmakaḥ //
prajñā katamā / upaparīkṣya eva vastuni dharmāṇāṃ pravicayaḥ /
saṃśayavyāvarttanakarmikā //
ཤེས་པའི་རྟེན་བྱེད་པའི་ལས་ཅན་ནོ། །
ཤེས་རབ་གང་ཞེ་ན།
བརྟག་པ་ཉིད་ཀྱི་དངོས་པོའི་ཆོས་རྣམས་ལ་
རབ་ཏུ་རྣམ་པ་འབྱེད་པ་སྟེ།
སོམ་ཉི་བཟློག་པའི་ལས་ཅན་ནོ། །
T1605_.31.0664b03: 智所
T1605_.31.0664b04: 依止爲業。何等爲慧。謂於所觀事擇法爲體。
T1605_.31.0664b05: 斷疑爲業
[三昧とは]智慧を根拠とする働きである。般若とは何かというなら、他ならぬ観察した物事を諸法に分析することである。つまり、疑いを除く働きである。
197 :
考える名無しさん:2010/09/26(日) 10:09:50 0
『大乘阿毘達磨雜集論』
jñāna-saṃniśrayadānaṃ samāhita-cittasya yathābhūta-jñānāt /
saṃśaya-vyāvartanaṃ prajñayā dharmān pravicinvato niścaya-lābhāt /
ཤེས་པ་འབྱུང་བའི་རྟེན་ནི་
སེམས་མཉམ་པར་གཞག་ན་
ཡང་དག་པ་ཇི་ལྟ་བ་བཞིན་དུ་
ཤེས་པའི་ཕྱིར་རོ། །
ཤེས་རབ་གང་།
ཉེ་བར་བརྟགས་པ་ཉིད་ཀྱི་
དངོས་པོའི་ཆོས་རྣམས་ལ་
རབ་ཏུ་རྣམ་པར་འབྱེད་པ་
སོམ་ཉི་བཟློག་པའི་ལས་ཅན་ནོ། །
198 :
考える名無しさん:2010/09/26(日) 10:10:59 0
སོམ་ཉི་བཟློག་པ་ནི་ཤེས་རབ་ཀྱིས་
ཆོས་རྣམས་རབ་ཏུ་རྣམ་པར་ཕྱེ་ན་
ངེས་པ་རྙེད་པའི་ཕྱིར་རོ། །
T1606_.31.0697b16: 智所依者。心處靜定知如實故
T1606_.31.0697b17: 慧者。於所觀事擇法爲體。斷疑爲業。斷疑
T1606_.31.0697b18: 者。謂由慧擇法得決定故
智慧を根拠とする入定した心であるがままに知るからである。[蔵漢:般若とは何かというなら、他ならぬ観察した物事を諸法に分析して疑いを除く働きである。]疑いを除くとは、般若によって諸法を分析すれば決定が得られるからである。
こちらの「般若」の用法は、部派や中観などとほぼ共通で、こちらの使い方の方が一般的に思われます。
まあ、よく詰めて分析してないので正確に把握してないけど。
これと同様にインド、チベット、シナ、日本のどのような綱要書・宗義書によっていても
> 端的に、我空法有と我空法空の違いではないでしょうか。
といった綱要書・宗義書的見解で割り切られては、縁起・空・仮設という仏教の根幹に関わる問題は分からないとハッキリ断言できる。
なぜなら、綱要書・宗義書というのは、単なる教科書だからである。
大掴みでどのようなトピックがあるかを知るには便利だけど、
それらを根拠に仏教を判定されては困るんです。
199 :
考える名無しさん:2010/09/26(日) 11:28:24 O
築摩世界古典文学全集版の本文ページ数:
「春秋左氏伝」・・・461ページ
「歴史」・・・439ページ
共に29行×32文字の二段組で、挿絵はほとんどなし。
「左伝」のほうは経と伝の間に1、2の空白行があるので、これを縮めるともう少し短くなるが、
「左伝」中の人名や地名は「桓公」とか「叔孫豹」とか「子産」とかの2、3文字がほとんどであるのに対し、
「歴史」中の人名や地名は「ヒュロイアデス」とか「プサンメティコス」とか「アルケストラティデス」とかの
かなり長い横文字の場合が多いので、訳し方を漢字か横文字かのどちらかに統一すれば
分量的におあいこか、むしろ「左伝」のほうがさらに長くなるだろうと思われる。
200 :
考える名無しさん:2010/09/26(日) 11:58:56 0
「書経」のように現存する分量が少なかったら、
「それはまだ本格的な歴史書ではないのでナシ」とかのいちゃもんを付けて、
「世界最古の歴史書」や「世界最古の歴史家」の座を明け渡さなかったりするんだろ?
ちなみに暦や数字の正確さでも、孔子・左丘明共著の「左伝」のほうが上だ。
202 :
考える名無しさん:2010/09/26(日) 13:20:17 0
「歴史」は「春秋経」寄りの筆法? 「史記」寄りの筆法?
それとも「山海経」寄りの筆法?
203 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/09/26(日) 13:25:54 0
>>196さん以下
すみませんが何が書いてあるのかすべて点の羅列なんですが。
ついでなが何を仰りたいのかはっきりしないのですが。
204 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/09/26(日) 13:44:37 0
205 :
考える名無しさん:2010/09/26(日) 14:16:14 0
>>203 え、あれで分かんないの。
要するに君の教科書的理解じゃ話にならないってこと。
206 :
考える名無しさん:2010/09/26(日) 14:19:45 O
訳文でも漢字だらけな「左伝」の文面を見てから、
「歴史」のカタカナだらけの文面を見ると、思わず吹き出しそうになった。
「ポポポポポポポ」って感じ。
こりゃあ、漢文なんか読む気にもなれなくて当然だな。
同じ世界文学全集なのに、あまりにも住む世界が違いすぎる。
ヘロドトス「女は下着と共に恥すらも脱ぎ捨てるものだす」
207 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/09/26(日) 14:32:36 0
>>205さん
点の羅列どう読めと仰られるのかわかりません。
208 :
考える名無しさん:2010/09/26(日) 14:37:21 0
>>207 ああ、ユニコードが見えないわけね。
大丈夫、見えない部分はサンスクリットとチベット訳だから、
漢訳と和訳を観れば意味は同じこと。
209 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/09/26(日) 14:58:30 0
>>208さん
すみませんね。あまりそういった類には詳しくないので。
つまり訳の部分ですね。
>>196の観察したものを諸法に分析し疑いを除く
たしかに般若(智慧)ですが、特にこれは唯識でいうところの
観察したものを諸法に分析する智慧でしょうか。
智慧には上の他にも戯論を断ずる智慧(文殊菩薩の徳)等々ありますよね。
それらの仏様の智を総合して般若(智慧)と呼ぶべきではないかと。
210 :
考える名無しさん:2010/09/26(日) 15:15:57 0
支那思想のすごいとこは2000年以上まえから「オカルトと科学」を
分けて考えてたことだ。これはすごいことだと思う。
211 :
考える名無しさん:2010/09/26(日) 15:46:14 0
>>209 いや、だからそういう大雑把な見方じゃ言葉の意味に拘ってもしょうがないんだって。
『雑集論』って日本でも唯識十一部論書に数えられてるのは知ってるよね。
212 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/09/26(日) 16:09:21 0
>>211さん
唯識について私が参考勉強しているのは、華厳経、唯識三十頌その他ですが・・・。
それに般若(智慧)についてそれこそ拘りすぎでは?しょうがない理由とは?
逆に方便とは何でしょうか?
>>219で書いたことと密接に繋がってくるのですが。
>>69で言われる
貴方にとっての方便とはどういった意味合いなのか、般若ではないのなら
何なのでしょう。
別段
>>219が間違いというわけでない、と思われるなら了としませんか?
私は貴方の論が間違い、とは思ってませんし。
過日同様、少し離れますのでまた夜にでも。
213 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/09/26(日) 16:11:35 0
すみません
>>209です。
最近打ち間違いが多すぎですね。失礼。
214 :
考える名無しさん:2010/09/26(日) 16:34:23 0
>>212 縁起・空・仮設という仏教の核心を説いても分からない人に、
分かるように多少実体的に説明するようなことを方便といっています。
まあ、これで終了でいいのではないでしょうか?
あまり話ても意味がなさそうですし。
215 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2010/09/27(月) 01:54:34 0
>>214さん
一応唯識は縁起論です。
方便についてはその通りですが中には
方便こそが核心であり最も勝れたもの、という経典もあるようです。
なにやら仏教哲学の最終目的って何?なるスレが立っているようなので
そちらに移動しましょうか。
216 :
考える名無しさん:2010/09/27(月) 03:02:40 0
>>214 >縁起・空・仮設という仏教の核心を説いても分からない人に、
>分かるように多少実体的に説明するようなことを方便といっています。
まさにシッタカの方便を自己紹介していると気がつけ。
218 :
考える名無しさん:2010/09/29(水) 20:08:04 0
あなたは、同じもの、とか、違うもの、と言う判断をするだろう、現実の生活で。
それじゃ、同じものとは何か?違うものとは?
この論は先に少し触れているが、ここに重大な判断ミスがあるが、それが当たり前になっているのである。
丸Aと丸Bは一センチの間隔を置いてあるのである。これは同じ丸ではなく異なる丸であるとした。
その理由は異なる位置に有るからである、と言うものだった。
ところが我々はこのAとBを同じ丸である、といっている。そして、これが同じ丸で無いとするなら、
同じ丸とはどんな丸か、と聞きたいと思うだろう。
そこで、同じ丸と言うためには、同じ位置を占める丸で無ければならないとした。そして
同じ丸は二つとは決してならないと言った。
以上から、我々は、同じでないものを同じであると言い。同じものを異なるもの、といっている,と言わなければ
ならないことになる。
これは重大な間違いではないだろうか?確かに誤っているのだ。
そこで、この混乱からどうして逃げられるだろうか?
先の事例の丸Aと丸Bに戻って観察してみよう。丸Aと丸Bは同じ丸ではなく
お互いに似てる丸である、と言うなら、どうだろうか?少なくとも同じであるという
妄想は回避できているだろう。次に、両者は平等なものである、と言うならどうだろうか?
これの方が間違いはないというべきではないか、表現として?また、認識として。
そうすると、「平等なもの(等価である)」や「似てるもの」を「同じもの」であると言う、間違いをしないことになる。
しかし、「平等なもの(等価なもの)」と言うのなら、「同じもの」と言っても問題ないではないか、と言うのが
通常の疑問である。
ばかだねぇ
実際に双子がいても、その情報は同じなのに
位置が違うだけで差異が生まれ、どんどん広がっていくだろ。
そもそも同じ丸って言い方がおかしいよw
数学じゃ同じ丸なんていわないよ。
r1とr2は合同だって言うじゃない。
その合同って言う定義を
>>218は同じだなんて言い方をして誤解してる。
似てると合同も全然違うよ。
そもそも似てるって、数学で何?
2と√4は似てるってか 合同じゃんw
ま、
>>218以外はめんどくさくって読んでないから、その前の流れを全然知らないけどね。
220 :
考える名無しさん:2010/09/29(水) 20:22:06 0
>>218 つづき
しかし、丸Aと丸Bは異なる丸であると言うことは、どうなるのだろうか?
このように先に認定したのであったが。それを今になって、同じである、と言うなら
矛盾したことを言っているのだ。矛盾したことを言っていては、何も言っていないのである。
しかし、「等価である、平等なものである」と言うなら、そしてそれ故に「同じもの」である
と言うなら、問題ないのだ。
老荘や、ゴーダマの教えで、同じものと言う表現がでてくるときがあるが、
上の説明を前提にしてるのであり、この前提を理解していないなら、「同じもの」
であるとの教えを受け入れることはできないのである。
三角形ABCが回転移動して1cmずれても、それは同じものじゃん。
でも平面状には三角形は二つ描かれるわけ。
じゃ今度は、点ABCが適当に散らばってだね、でもなおも繋いだら三角形であるわけだけど、それも同じじゃんw
この前提を理解してないなら
>>220ダメじゃんw
222 :
考える名無しさん:2010/09/29(水) 20:38:29 0
>>219 合同と言う、これが異なるものを、同じもの、と言っている誤解なのである、よん。
この誤解を説くのがアテクシのレスなの、よん。
>>222 だから、合同は異なるものを同じものって言ってるんじゃなくて
異なるものを合同って言ってるんやん
224 :
考える名無しさん:2010/09/29(水) 20:47:07 0
>>221 >じゃ今度は、点ABCが適当に散らばってだね、でもなおも繋いだら三角形であるわけだけど、それも同じじゃんw
いやー、この先もおかしいがこれもおかしいね。
三角形にはなるだろうが、合同にはならないだろう。
それとも三角形になると言うだけの、幼稚なことを言っているの?
>三角形ABCが回転移動して1cmずれても、それは同じものじゃん。
でも平面状には三角形は二つ描かれるわけ。
この二つの三角形は、合同と言うが、同じものではない、と言うのがアテクシの主張。
なぜ異なるかは、位置が異なるからと言うのが理由、よん。
225 :
考える名無しさん:2010/09/29(水) 20:52:07 0
>>223 >異なるものを合同って言ってるんやん
相似と合同ってどうだっけかな?w
226 :
考える名無しさん:2010/09/29(水) 21:00:24 0
>>223 >異なるものを合同って言ってるんやん
異なるものはあくまでも異なるものである。合同とは同じ形をした三角形
で各々が離れてあるものと言う概念であろう。
そして、あわせれば一つになるものと言う概念であろう。
しかし合わせないならば、決して同じものとはならず、あくまでも異なったもののままなのである。
それは、四角形でも五角形でもが、基の三角形と異なるのと同じである。
227 :
考える名無しさん:2010/09/29(水) 21:23:41 0
しかし、異なる存在が、 合わさることにより一つになると言うことは、不可能ではあるまいか?
それは不可能である。であるから、合同と言う概念は、成立しないのである。妄想なのである。
228 :
考える名無しさん:2010/09/29(水) 21:31:41 0
同じものとは初めから一つのものとして存在できるのであり、
余所に合同なものとして存在することは不可能である。
同じものはありえない、と言わなければならない。
>>224 >三角形にはなるだろうが合同にはならない
合同になるっていってないだろw 同じ三角形だっていってんだよw
同じってわかるか? 2年前のボクと今のボクは同じボク。の同じだよw
あんたがいってる同じってそういう意味じゃないのかよ
あんたがいってる同じがそういう意味じゃないなら、何がいいたいんだ?_?
>>226 ”合同”と”異なるものが同じ”は違う云うてるやろが
230 :
考える名無しさん:2010/09/30(木) 19:32:05 0
>>229 >2年前のボクと今のボクは同じボク。の同じだよw
同じだと思うのは、間違い。同じじゃあないといっているの。
その理由は時間を異にするから。時間とは空間だよ。空間とは位置場所のことだよ。
231 :
考える名無しさん:2010/10/01(金) 12:24:42 0
不生不滅の真理は同じ。
それ以外はエントロピー増大法則によって変化を免れない。
232 :
考える名無しさん:2010/10/01(金) 18:18:10 0
「アテクシ」は、ギリシャやローマなどの古代西洋史に詳しいようだが、西洋史上の
“権力者”のうちで、十字架などに磔(はりつけ)にされて刑死した有名な罪人がいるか?
イエスは単なる娼婦の私生児であり、権力者ではなかったので抜き。
ちなみに中国では磔どころではない惨殺刑が、よく権力犯罪者などに科されていたが。
中国にしろ日本にしろ、磔刑ごときは民間の犯罪者に科すざっとした処分のうちだった。
>>230 そんなことゆーてへんねん。
合同って云う言葉の意味と、学術用語でもなんでもない、どうにでも捕らえられる”同じ”と云う言葉を混合させるな
ってゆーてんねん。
頭おかしいんかワレ
234 :
考える名無しさん:2010/10/01(金) 21:09:29 0
>>232 アテクシは西洋史に特別詳しいわけではないですが、イエス以外にはり付けになった有名な人
と言うと、ローマの反乱奴隷ぐらいです。これとても、権力者ではないね。
しかし、貼り付けと言う形式は、ローマに合ったわけですよね。そういえば
ペテロとかパウロとかが、ローマのコロッセオの中でしょうか、磔になったと聞いていますね。
パルメの弟子で、メリッソスと言う人が居ましたが、彼は権力者で、つまり、小アジアのある都市国家の
支配者であったということですが、アテネと戦争をし勝ちました。彼はアテネの捕虜達の
額に、ふくろうの焼印を押して、返したということでした。アテネ人はとても恐ろしくおもっったそうです。
一方古代中国では、鼻そぎの刑と言うのが、むしろ軽い刑としてあったようですね。
それから宮刑と言う去勢の刑なども軽いものでした。しかし、古代シナで、磔の刑と言うのは
有ったんでしょうか?
こういう範囲の研究発表はサイトを探すと、見つけることができそうですね。
235 :
考える名無しさん:2010/10/01(金) 21:15:35 0
>>233 学術用語である合同と言う言葉と、一般世間で使用される「同じ」と言う概念とは
、そもそも、違うものではない、と言うのです。
>>234 正確にどこだったかは忘れたが、「荘子」の雑篇(荘子の直筆ではない)あたりに、
老子の弟子が、市街に晒されていた磔状態の遺体を引き降ろして、
「あなたも乱世の犠牲者だ」と嘆きながら自分の上着を着せる寓話があった。
「史記」にも処刑した権力者の遺体を市街に晒す刑が頻繁に出てくる。
近ごろだとムッソリーニが夫人と共に市街に逆さ吊りにされて、
遺体をグチャグチャに損傷されてたが、やはり「磔刑」ということではないな。
やはり磔刑は、一般的には民間の犯罪者への処罰方法で、
権力犯罪者への処罰手段としては、少しばかり手ぬるい。
そのへんをよくよく考え直してみればいい。
237 :
考える名無しさん:2010/10/01(金) 22:33:23 0
西洋の刑罰や拷問だって、個人に対するものとしては中国にも負けてない場合があるが、
中国の刑罰でなんといっても格別なのは、親族身内にまで連帯責任を及ぼす「族滅の刑」があったことだ。
一般的には、淮陰侯韓信が謀反の咎で受けた九族(九親等)皆殺しの刑が有名だが、
刑吏の厳しさや寛大さによっては、十三族(十三親等)皆殺しに重罰化されたり、六族(六親等)皆殺しに
緩和されたりすることもあった。個人よりも家族を社会構成の一単位として見なし、親子兄弟の親密さを
重んじていた中国だからこそ思いつかれた刑。感情にかられてではなく、冷静な刑罰として扱っていた。
>>235 なんでやねん。合同の意味はひとつしかないやろが
同じの意味はなんぼでもあんねん。合同としての意味もあるし、全く違う意味としての”同じ”でもあるんじゃ
カス名無し相手じゃ話にならんわ〜〜
240 :
考える名無しさん:2010/10/02(土) 01:01:08 0
発菩提心=天上天下唯我独尊すぎて困る
241 :
考える名無しさん:2010/10/02(土) 08:15:41 0
>>239 極端なことを言うが、日本人が韓国へ言って、日本語で質問をした場合、
日本語を理解しない韓国人は、その日本人に何にも答えてやれない、と言うことになる。
韓国に入ったら、やはり韓国語で話すようにするのが、常識で、それが質問の場合は
特に、有るべき態度、即ち誠実な態度であると言うべきだろう。
日本国内においても、岩手県の人が、大分県の人の中にはいったなら、その地の言葉を使用するのが
良識であり、何かを伝えまたは教えてもらうときは、特に必要な態度であると言うべきだろう。
日本には標準語と言うものがあり、誰でもそれは使用することができる。各県の人が
集うようなこのスレにおいては、その標準語を使用するのが特に必要な態度であり、
それは、誠実な態度であり、必要な態度であり、親切な態度である、と言うべきだろう。
昨今、公衆の集いの場において、地方語が良いかのように思って平気で地方語を使用する人が居る。
しかし、それは親切でもないし、誠実でもない。他者に自分の仕方を押し付けるもので、
自己中心の態度である。
大阪弁は、よく判るが、こちらが大阪弁を使用しない以上、言葉のギャップがあることになる。
諧謔を目的に話しているときは、価値があるだろうが、相でないときに使用するときは
自分も他人をも誤解に誘引するものとなる、と思う。
自己中の態度、不親切な態度、二心、不誠実な態度、これらは醜いのである。
242 :
考える名無しさん:2010/10/02(土) 08:30:03 O
ごーげんぎぎーいーじーむーごく
にちがつまーにー
243 :
考える名無しさん:2010/10/02(土) 10:35:07 0
妄想とはないもをあると見做すことである。五感にすべてと第六識にいえる。
現象は縁起してるもので実体がない、と言う真実に対して、現象が実体として
有ると考えることが妄想である。
妄想も縁起して生じるものである。それの成り立ちが12支縁起の法である。
244 :
考える名無しさん:2010/10/02(土) 10:46:11 0
ところが、妄想こそ心であり、妄想が豊かであることは、心が豊かであるということである、
と言う。これが仏教であると言うのが、日蓮層化である。であるから彼らに言わせると
、妄想を滅ぼしたつまり、灰身滅智を誹謗するのである。これは正法を誹謗するものである。
正法を誹謗するものは決して成仏できない。ところが日蓮創価は、灰身滅智
を誹謗し、妄想を賛美するのである。そしてこれこそ末法の仏教であるというのである。
これほど転倒したものがあるだろうか?
245 :
考える名無しさん:2010/10/02(土) 10:54:49 0
部派仏教は実体は一相無相空相で有ることを認めないで、
70以上の実体を主張すると言うのが本当なら、部派仏教は
日蓮創価とどっこいどっこいの偽仏教である。
部派仏教の「法有」と言うのは、こういう意味なんだろう?
アーガマには法有として実体が複数は愚か70以上も認定してよい若しくはできる
とする教えは絶対にない。どこからこんなことを言うのだろうか、誰か知っている人の教えを請いたい。
それは間違いである。どうしてそんな転倒した間違いをするようになったか、そこを知りたいものだ。
246 :
考える名無しさん:2010/10/02(土) 11:08:26 0
地獄餓鬼畜生修羅人天声門縁覚菩薩仏と言うのも妄想である。
一切の教えも妄想である。しかし、これらの妄想は、これらの教えとしても、
妄想を知らないで、現象を実体ある門と妄想している凡夫に対しての
妄想であり、この故に方便、即ち指導するための方法なのである。
247 :
考える名無しさん:2010/10/02(土) 11:25:36 0
妄想ほど恐ろしい人間の気持ちはない。この妄想が一切を作り出しているのである。
輪廻思想を作り出しているのである。
経典では申そうという言葉を使用する頻度が少ないのではないのか?
妄想は現代人に、必要な表現である。理解に誤りがないからである。
それを「臆見」などと言う学術的用語を使用すると、理解されないのである。
こういうことから、尊い教えが、凡夫に染み渡らないということになるのである。
現代の凡夫は妄想を返って楽しんでいる。恐ろしいことだ。
248 :
考える名無しさん:2010/10/02(土) 11:41:06 0
↑こいつら、自分が妄想を垂れ流している自覚はあるのか?w
249 :
考える名無しさん:2010/10/02(土) 12:05:38 0
そして、現代、現代に限らず、歴史上の世間と言うべきか、その世間では、
妄想があるほうが幸せを得ていると考えるのである。真実の世界とは真逆なのである。
知恵がないのを智慧があると言う、貧乏なものを裕福であると言う、不幸なものを幸福であるという。
頭が悪いものを頭が良いと言う。美しいものを汚いと言う。恐ろしいものを
かわいらしいと言う。善い人を悪い人と言う。当然悪い人を善い人と言う。
一切があべこべなのである。
現象として真逆というわけではない。
俗人はただ富貴を求めて貧賤を嫌うが、王族として最高の富貴にも与り、
出家者として最低の貧賤にも浴したお釈迦さまに言わせれば、
富貴も貧賤も真実にたどり着く道ではなく、両者の中道こそは真理に通ずるという。
富貴か貧賤の両極端こそは全てであり、真ん中あたりの微妙な生活が
真理に通ずるなんてことの不可思議さが単なる俗人には分からない。
自分たちの価値観と全く相反しているのではなく、極論に走りがちな自分たちの
判断基準全般が、仏門の中道志向によって否定されることの意味が分からない。
251 :
考える名無しさん:2010/10/02(土) 13:19:04 0
>>250 >富貴か貧賤の両極端こそは全てであり、真ん中あたりの微妙な生活が
真理に通ずるなんてことの不可思議さが単なる俗人には分からない。
仏門の中道の意味が正しくないね。「真ん中あたりの微妙な生活」などと言うと、
これは要するに、冨貴と卑賤を混合させた状態を言うことになる。ある時は冨貴
に流れある時は卑賤に流れると言う。とすると、少しも、冨貴を離れもせづ、卑賤を離れる
ことにもならない。冨貴と言わないまでも程ほどの財産名誉を持ち、
卑賤と言わないほどの質素倹約をする、と言う意味でもないのだ。このような相対的
判断に基づく状態は、やはり、冨貴に執着し、卑賤に執着するのと異ならないんだ。
こういうものを中道とは言わない。中道とは、冨貴にも、卑賤にも、両者が混合した
中間にも執着しない、と言うものなんである。その訳は、冨貴も卑賤も実体のない
ものなので、価値がないから、と言うことなのである。だからその混合である中間も、
無実体であることに他ならないのだ。
一切がこのような無実体なものであるので、自然な流れに沿っていても、何かを得ることも無ければ失う
ことも無いと諦観できるのであり、しなければならないのである。これを無為自然と言うのである。
にちがつまーにー
「富貴と貧賤の中道」という人の発言を、勝手に「富貴と貧賤の混合」と解釈し直して自論を羅列する。
君はそれで満足かもしれないが、相手にとっては何の価値もないね。
254 :
考える名無しさん:2010/10/02(土) 14:08:54 0
>>235 嘘をついて得る利益と言うものがないので、嘘をつく苦労をしないのである。
嘘をつく人は、なんかの利益があると妄想してる訳で、いまだ真理を理解していない。
235は真理を理解していない。だから、250が中道の意味に迷っているにも拘らず
解ったかのような言辞を呈しているのが判らないのだ。
「富貴と貧賤の中道」という人の発言を、勝手に「富貴と貧賤を混合する迷い」と解釈し直して自論を羅列する。
君はそれで満足かもしれないが、君以外の誰にとっても何の価値もないね。
目に見えることは敵を捉える上での重要ごとではない。
自らが心で相手を見、逆に、天魔外道すらわが心をうかがい得ざる也。
視覚的な優位に立とうとするあまり、
かえって総体面での勝機を相手に贈呈してしまっている。
それができないから文字にしてネットで自己表現
典型的自己紹介例だな。鳥瞰されてるのに気付かない
先に高みに登ったほうが勝ち。
そんなのは仮想的な勝ち負けで、真剣勝負ではない。
本当に相手を殺したほうが勝ちで、本当に相手に殺されたほうが負け。
これが真剣勝負での勝ち負け。真剣勝負なら必ずそう。
当たり前っちゃあ当たり前の話。
じゃあリアルでオフ会でもやるか?
それを断るのも、真剣勝負における兵法だからこそ。
風のように速く動き、火のように侵すこともある一方で、
おまえらが自首するまでは林のように潜み、山のように動かない、それも兵法のうち。
血気にはやりすぎて自分を見失っている相手からは舟を漕いででも逃げ去り、
自分たちの潜在的な敗北に気づくまで放任してやるのも、兵法のうち。
勝つか負けるかで生死も決まる、ゲームでもスポーツでもない真剣勝負での兵法のうち。
負け戦だからねえ
>>262 まあその気があるなら捨てアドでも出しておけ
これで見えない敵じゃなくなる。
おまえが会わなきゃならないのは、
俺じゃなくて、ムスリム世界裁判所運営員。
265 :
考える名無しさん:2010/10/02(土) 15:22:32 0
読んでて笑った
一方はシミュレーションゲーム、かたや実践派
犯罪だけは起こすなよw
>>264 おまえが会わなきゃいけないのは精神科医か警察。
>>265 心配するな。ネットで偉そうなこと言ってるやつほど実際行動に移せない
俺が実践派なら世の常識と流れに透徹してるから馬鹿はしない
むしろ
>>264が事件をやらかすような異常者。あるだろ過去に。
おまえらがムスリム様や唐人様の有り難いお怒りを頂戴している間に、
俺ももうちょっと減量するなどして見栄えを整えておくからなぁ。
不起訴や執行猶予で済んだ奴らとは、一、二年後ぐらいには会えるだろ。
別に巧言令色までをも欲しはしないが、さすがに今のままだと見苦しすぎて、
人に見せられたもんじゃない。それをわざわざ覗き見てるような連中もご愁傷様。
自分から見聞きしてもらおうとするぐらいなら、見苦しかったり聞き苦しかったりまでの
「マイナスの修辞」ぐらいは避けるわな。見聞きされたくもない内は、その限りでもないが。
270 :
考える名無しさん:2010/10/02(土) 19:43:17 0
竜樹を『中観派』と言う。この『中』は『中道』の中だろう。
諸子百家の『中庸』は、老荘が発見したものと言うべきである。
特に荘子である。
中道と中庸は厳密には違うと言う見解が流布してるようだが、同じである。
その拠って起こる所以を見ればわかる。
今は中道:中庸と言う名称がどういう意味を持つのかを詮索したいのだ。
ともに『なか』と言う意味を強調してる。『中』とは何の『中』だろうか?
両極端の『中間』という意味か?それとも、ものの中心と言う意味だろうか?
それともものの『中身』のことだろうか?
それとも両者を包含する意味だろうか?
次に『道』と『観』と『庸』を調べてみよう。
道とはルートの意味か、それとも、老荘の言う真理真実の意味だろうか?
次に観とは、辞書によると「2 仏語。真理を観じること。物事を細心に分別して観察し、道理を悟ること。」
とある。
次に「庸」の意味は、辞書によると「2 並みである。変わりばえがしない。変わらない。普通。「庸愚・庸君/中庸・凡庸」」
ということである。
271 :
考える名無しさん:2010/10/02(土) 19:44:54 0
つづき
そして、ゴーダマも老荘も同じものを真理真実としてるのである。
相すれば、中道と中観と中庸は、何か密接な関係が有ると見ても良いだろう。
両極端を排除する意味であることは両者とも共通してる。
この意味は変化と言うものを認めない意味である。変化してるけれどもそれは
中身において変化ではないと言う意味である。中味とは表面に対して中味ではなく
真実の意味である。
中は真実を意味し、真実は変化のないものであり、変化のないものを「庸」と言い
また、真実は変化しないものであることは言うまでもない。
相すると結論として、中庸中道は同じく、真理真実の意味であり、中観は
中を見る、即ち真理真実を「観察」する意味であるといって当たっている。
272 :
考える名無しさん:2010/10/02(土) 20:12:28 0
中道も中庸も、行き着いた先は結局変わらない。
すなわち、富貴と貧困の両極端にぶれない、人である以上は真人間である生き様。
しかし、そこまでの結論に至るまでの道程が、釈迦が中道を標榜したインド哲学と、
孔子が中庸を標榜した中国思想とでは随分と異なっていた。
釈迦は王族としての富貴の極みと、出家者としての貧賤の極みの両極を体験した上で、
いずれにも偏らない中道の真理を大悟したが、孔子の場合は、王族とまではいかず、
出家者とまでもいかない中流の生活において、ありのままに中庸の道理を見出した。
「中正」が理にかなっていることをわきまえるまでに、釈迦の場合は富貴と貧賤の両極端
を通過する密教的な体験を積んだわけだが、孔子の場合はそのような体験にも即さず、
中流に甘んじ続ける中にこそ中正の理をわきまえた。その、中正の理をわきまえるまでの
道程の違いによって、釈迦は中正を「中道」と呼び、中正の理を「真理」に等しいものとして
捉えた一方で、孔子は中正を「中庸」と呼び、中正の理を「道理」程度のものとして捉えた。
中道とか中庸とか真理とか道理とかいった言葉の違いは、ただ釈迦や孔子が中正の理を
わきまえるために歩んだ道程の異同によってのみ分かれたのであり、根本的には同じもの。
根本的に同じであるにも関わらず、言葉が違うのにも、「諸法実相」に基づく意義があり、
苦行の先に中正の理をわきまえることと、安易に中庸の道理を重んずることとの違いを
表している。中正の理を重んじることは簡単だが、それを味わうのはなかなか難しいから。
「中観」は、中正の理をわきまえたものによる観行の意。中を観察する意にあらず。
273 :
考える名無しさん:2010/10/02(土) 20:45:53 0
>>272 孔子は中庸を知りませんでした。孔子の孫が老荘から中庸を
盗み取って、孔子の説に加えたのです。
お間違えないようにお願いします。
274 :
考える名無しさん:2010/10/02(土) 20:55:45 0
>>273つづき
孔子は中庸を知らないために、その説くところに、老荘に近似した
教えがないのです。
この違いを知らないのは、中庸と言う教えを蹂躙するものであります。
中庸の教えは正法に当たります、中庸の教えを誹謗するものは、
正法を誹謗するものです、正法を誹謗するものは、決して悟りを得ることはできないばかりか、
永遠の輪廻をするものです。輪廻とは地獄のことです。
275 :
考える名無しさん:2010/10/02(土) 21:11:41 0
お前が中庸を知ってるかが問題だ。
知ってたらすべて解決してる。
孔子老荘なんかどうでもいい。
老荘は、孔孟の妻。
277 :
考える名無しさん:2010/10/02(土) 21:38:54 0
汚らしい。
汚いものを、綺麗に処理するから、便器。
かわいいかわいい
280 :
考える名無しさん:2010/10/02(土) 22:05:23 0
中国人は、自分の糞便を奴隷に始末させていたのだ。
糞壷にするだろう、それを奴隷に始末させるのだ。
だから、公共下水道をそんなに必要としなかったのだろう。
今ではそういうことはないだろうが、そこでだ、そういう糞壷が必要ではなくなっているのだが、
それが面白い形をしてるんだろうか、日本人には、骨董品に見えるわけだ。
それでそれをお土産に買ってくると言う訳なんだな。
しかしな、分壷から捨てる場所と言うものについては、やはり公共の施設が
必要と感じなかったんかな?
美しい便器。膿を吸って雛を産む。
かわいいかわいい
283 :
考える名無しさん:2010/10/02(土) 22:35:37 0
>>280つづき
中国人が豚を食べることは、大昔からであったことを知ってるだろう?
その豚と言うのは人糞を食べるのだ。おいしいんだろうかね?
だから、人糞をじかに、出来立てのほやほやなものを、じかに豚が食べられるように、
トイレは二階にし、直下に豚部屋を設置するようにしたということだ。
豚が人糞を美味しいと同じに、人間はその豚が美味しいんだろうね。
母さんの味 ますやみそ
諸法実相
286 :
考える名無しさん:2010/10/03(日) 04:35:00 0
287 :
やみつき:2010/10/03(日) 04:38:16 O
かしら
こっちが迷惑とかいう以前に、本人たちにとっての自殺行為だから。
自暴自棄せる者とは共に言行すべからざるなり。
もし俺が証人などとして意見の提示を要求されたなら、
「自分への迫害は許すが、他の誰かにまで迷惑をかけているのなら許さない」
と言うだろうな。自分にはそこまで許す資格はないから。
290 :
考える名無しさん:2010/10/03(日) 21:00:49 0
しかし創価ほど、もろに正法を誹謗する団体はないな。
誹謗する暇もなく正法に違反してきた奴らもいるがな。
292 :
考える名無しさん:2010/10/03(日) 21:54:31 0
要するに日蓮だ。こいつを島流しなどしないで殺すべきだったのだ。
しかし日蓮も竜樹を開祖としてるんじゃないのか?だとするとどうして
空諦の意味がわからないのだろう?
日蓮の本山の野郎どもとその日常茶飯事なのは十分理解したぞ
日蓮は間違っている。しかし、その間違い具合が、
人間社会の公共性に反する過ちを糧に生き延びる
商売人を五十歩百歩レベルで抑制する方便になっている。
295 :
考える名無しさん:2010/10/03(日) 22:55:14 0
難しいなw。
日蓮は今で言う反社会的な変人だよ
反社会性は餓鬼の世界の沙汰だね
297 :
考える名無しさん:2010/10/04(月) 08:54:23 0
日蓮は日本の恥なのだ。日本人が道理を解さない野蛮人である
と世界に言うようなものだ。創価が世界に日蓮を広めていることは。
そして日蓮の政党まであるのだ。息が詰まるよ。
まあ法華以外悪だなんて柔軟とは言い難いな
そして教義は恐い。はなし聞いてるとあいつら地獄みせんのが
好きなんじゃないかと思えるほど恐い語り口調と
罵倒してくるんだからな
それがまあ、全ての商売人の本性なわけでね。
宗教の部分で本音を発散できているぶん、
日蓮信者の商人はまだ精神衛生を保ててるんだな。
創価の信者などに、貧乏な小売商人が多いのもそのためだ。
あくどいマネーゲームなどに走らずとも、そこそこの儲けだけで満足できるから。
「流通担当者」という本来の商売人の領分に甘んじるが故のルサンチマンを、
はたからみれば矛盾だらけなのが明らかな、法華経信仰や大作信仰で解消している。
自分がそうなるのはイヤでも、必要悪として認めるぐらいのことはできて、
不必要悪ですらある重権力犯罪者などよりは、その存在性を容認できる。
日蓮信仰は、士農工商の四民制と共にこそ容認できるもの。
武士は禅、百姓は浄土、そして商工階級の町人は日蓮。
仏教全般を総合的に捉えた上で、その中心に法華を据える公家向けの天台教学などと違い、
ただ法華ばかりを一尊とする狭量さが、自力との分を保った上での他力本願である
浄土信仰以上にも愚かしく映る。
ただ、その愚かさを見下せるのは、自分が公家や武家や百姓であり、
家の宗教からして天台宗や禅や浄土、あるいは真言宗などによる
教学面での支援を受けた、重めの神道などである場合に限る。
(神道は日本文化全般の意匠でもあり、それだけでは宗教としての強度が低い)
自分までもが商売人でいて、しかも日蓮級の精神的支柱も持たないのでは、
1+1を3とも4ともする愚かしさを確信的に嗜んでいる、日蓮教徒の前ではひとたまりもあるまい。
ウチは戦国以来の武家の家系だが、それ以前は京都のお公家さんだったらしい。
百姓出身の妻を娶ることなどもあったようだが、町人との深い関係は聞かない。
大政奉還後には金貸しなどの仕事も試してみたようだが、失敗して多くの財産を失ったらしい。
徹頭徹尾商売に向いてない家系。それ以外なら何でもできそうなのに。
303 :
考える名無しさん:2010/10/04(月) 19:34:58 0
鬼平の母親も百姓出身の妾であり、創作上では父親の本妻にしこたまいじめられたように
描かれたりもしているが、それでも長谷川家の当主として立派な人生を送った(ちょっと早死にだったが)。
妾としての囲い込みなどによって、下民の女が上流階級の男と付き合うこともあったわけで、
その子供が家を継ぐことすらあった。公家や武家の家系でもあっても、女系には多くの下民の血が流れて
いるのであり、たとえ世襲制であろうとも、階級の上下によって血筋が完全に分断されていたわけではない。
百姓や町人の娘が公家や武家に囲い込まれることがあったのはもちろんのこと、公家や武家の娘が
豪農や豪商に嫁ぐことすら無くはなかった。家系図に名前すら載せられない卑しめと引き換えに、
女子に関しては身分を越えた付き合いが全く認められていた。それが本物の男系社会の真相。
世の中に対して幅を利かすための家柄などを、女系に基づかせるのは心もとないから、
徹底的に男に対してのみ家格を継ぐ責任を負わす。だからこそ女子のほうも自由自在に人を愛せた。
完全な男系社会においてこそ、女子もまた、己れの本分としての愛を純粋かつ無限なものとさせられる。
「世をいとふ 人とし聞けば かりの宿に 心止むなと思ふばかりぞ」
「世を厭う人の話などを聞けば、仮りの宿に過ぎないこの世などに、厭うほども心を止めるなとばかり思う」
(西行の歌集より。江口の遊女が詠んだ歌)
父親が心底恥じ入ってから始まる親孝行もある。
劉邦とその父の劉太公のように。
自首するまでは、一切減量もしないし、言行の修辞をそこそこに正す気すらない。
不正な傍観者への罰となり、さっさと自首するための取っ掛かりとさせるためにも。
そういう恣意がいつだって介在できるから、傍観主義も行き詰らざるを得ないのだ。
見ることでかえって相手をダメにしているから、もう見ることをやめるしかないのだ。
306 :
考える名無しさん:2010/10/05(火) 18:31:17 0
九族皆殺しや十三族皆殺しといった族滅の刑は、本当にやるとするなら、
刑を執行する側も三綱や五常といった精神的な拠り所がなければ、気が狂うだろう。
浮ついた心持ちでやろうとすれば、やる側もヒトラーのように頭がおかしくなる。
不当な虐殺行為でもない、正当な刑罰行為としては人類究極レベルの懲罰である族滅の刑、
その精神的負担を乗り越えるためにも、中国では君臣や家族の関係が厳重に扱われていたのだ。
307 :
考える名無しさん:2010/10/05(火) 21:20:07 0
日本の刑法でも、内乱罪、外患に関する罪に当たるものは、共犯も含めてすべて死刑ですね。
ま、大雑把な見識ですが。
単なる犯罪者本人への死刑ですら、法務大臣から躊躇しまくって、
絞首台の床を抜くスイッチも、ダミーが混じった複数のボタンを
いっせいに押すことで作動するようになっている体たらく。
族滅の刑なんか行った挙句には、刑務官がPTSD被害を訴え始めるぞ。
309 :
考える名無しさん:2010/10/05(火) 21:39:05 0
井上と言う人物がものすごく欧米に対して、棘のある暴言を吐いて止みませんが、
これは欧米(AU) からの戦争を仕掛けさせようとしているものではないでしょうか?
310 :
考える名無しさん:2010/10/05(火) 21:44:44 0
やらせることは自首に尽きている。
それ以外の何をしようとも、俺の言うことを聞いてはいない。
ウニの中身は美味い。
311 :
考える名無しさん:2010/10/05(火) 21:50:09 0
死んでから食べられないからね。
もう、適切な言葉を返す気にもなれない。
死に行く相手を諭せるほど、達観できた人間でもないから。
その程度の人間でしかないから、
たとえ再会できたとしても、坊さんにはならないでいるだろう。
314 :
考える名無しさん:2010/10/05(火) 22:26:54 0
さ、冗談はそれぐらいにして、と。
中国哲学では、死後の世界のことを説かない,と言うことが言われる。
ギリシャ哲学では、パルメは死後の事を説いていない。しかしイエスとゴーダマ
は、正法を誹謗するもの、イエスでは聖霊を汚すもの、といっていると思うが、
このものは許されることがない、つまり地獄から脱することはできない、といっていると
解することができると思う。
しかしね、この地獄とは、正法を誹謗してるこの世界のことと考えなければならないのだ。
正法を誹謗するなら、即地獄に落ちるのである。その地獄が、永遠なのだ。それは
至福の世界が永遠なのに対応しているのである。至福の世界が永遠であることは
パルメも老荘も説くところである。
315 :
考える名無しさん:2010/10/05(火) 22:54:10 0
そこで次に、死と生と言うものをどのようにかの知者達が考えていたか調べてみよう。
実にこうなのだ、死と生は同時に存在している、と言うのだ。
死と生は相対的に存在してると言うのである。したがって、生が終われば死も終わる
と言えるのだ。
それは結構ではないか、と言いたいところだ。
ところが、そう問屋は卸してくれないんだな。
使徒性が相対的に存在してると言うことを理解し、それゆえに実体がない、
と認めるなら、生が終われば死も終わる、と言えるのだ。
しかし、生にも実体があり、死にも実体がある、と思っているなら、とんでもない
世界から抜け出すことができないのである。つまり地獄から抜け出せないと言うことになるのだ。
実体が一つか、複数であるか、と言うことである。実体が複数であるなら、てんやわんやの収拾の付かない
二律背反の世界、これが地獄と言うものであるが、この混迷の世界から抜け出すことができないのである。
正法を誹謗するなら、現世においてこの混迷の世界に落ちるのであるが、それでは現世において
自決したとするなら、一体どうなるのであろうか?
何のために自決するのかと言うと、混迷の地獄から脱するためである。永遠の地獄から
現世で自決するなら、永遠の混迷の世界から脱することができるのだろうか?
316 :
考える名無しさん:2010/10/05(火) 23:04:28 0
>>315つづき
論証が難しくなってきてるが、言ってみることにする。
自決する人は、この生を厭うのであった。そして死という世界に身を移したのである。
これでは、居場所を変えただけで、永遠の地獄即ち二律背反の世界から抜け出せたのではないだろう。
その死は、生と相対的に存在してるものだから、死の世界に身をおいてみても、
生は常に相対的に存在してるのだから。
死の世界が生の世界と同じに苦しいものであることがわかって、再び生の世界に
戻ろうとするだろう。
恐ろしい現実ではないか。
317 :
考える名無しさん:2010/10/06(水) 10:11:27 0
仏教を異端の学として排撃していた宋代の朱子学者ですら、お釈迦様を「釈氏」と呼んでいた。
流派は違えど、聖賢への人並みの敬意すら抱けなくなるような不実の学は、
かえって勉強しないほうがマシだから、それぐらいの社会的体裁は保っていた。
イエスは信者の間ですらイエスと呼ばれているが、その、どこにも畏敬対象の存在しなくなる風潮を
聖書圏以外に持ち込むぐらいなら、むしろ畏敬を重んじる聖書圏外の風潮を聖書圏に持ち込むべきだ。
その結果、イエスなんて大した人間でもなかったことが明らかになったとしても、極西の偏狭の地で
劣悪なカルト教学のみにドップリ浸かってきたその愚かさを十分に恥じ入り、もう少しマシな人間になれる。
318 :
考える名無しさん:2010/10/06(水) 10:31:47 0
「未だ生を知らず。いずくんぞ死を知らん」
(「論語」先進第十一・一二)
人の死に対する対応の仕方として、おおよそ三つある。
@一つは上記の言を述べた孔子などとも同じ、死への殊更な接近の回避。
A二つには死の恐怖も乗り越えて、生死を超脱した絶対真理に与る仏教的境地への安住。
Bそして三つ目が、死への恐怖を持ち越したままに、迷妄でごまかそうとするカルト状態。
俺自身の立場は@で、俗人が不用意に死を語ったりすべきではなく、死との対峙は
正式に得度した坊さんなどがAにいたることでのみ語っていいものとしている。
そうである限りにおいてのAは敬うが、Bは敬いすらしない。Bの状態にあるような連中は、
死への恐怖も乗り越えられず、死の何たるかを実相からの把握に努めようともしないままに、
自分たちの脳内お花畑で捏造された偽物の死や死後の世界などを述べ立てようとする。
それは、実相に即した死を捉えようとしているAであれば敬うことを誓約しているからこそ、
敬うに値しない。本物の死を重んずるA、偽物の死への妄想に溺れるB。
>>314-316もB。
結局その程度の死生観しか述べられないのなら、死など語るべきでなく、大人しく@であるべきだ。
319 :
考える名無しさん:2010/10/06(水) 11:12:10 0
礼儀ってのは、無毒化し適正化された主従関係でもある。
相手が主人であり、自分が奴隷であるわけでもないが、主人と奴隷の主従関係などに特有の
人間関係の簡便さを流用するために、身分が目上である者のほうに、目下である者が謙った態度を執る。
その謙り方も、奴隷の主人に対する場合ほどには卑屈でもない、心身の制御が利いた正しい振る舞いとなる。
主人と奴隷に値するような主従関係を、より適正化して上質化したのが礼儀であるのに、
ただ脳内超越神のみを「主」と呼んで、他の誰に対しても奴隷戦士然とした振る舞いをするような人間が
礼儀をわきまえられるはずもない。未だに奴隷制そのものを内面に持ち越してしまっているのだから、
奴隷制を乗り越えた先にこそある礼儀礼節とは決して相容れず、どちらかを捨て去るしかない。
320 :
考える名無しさん:2010/10/06(水) 13:27:47 0
確固たる道徳的な拠り所もなく族滅の刑級の殺戮を行えば、まず人間は気が狂う。
たとえ国家や社会の信認に即した正式な刑罰であろうとも、自分の側にそれを執行するだけの
覚悟が備わっていないのなら、刑吏に値するような人間が精神を蝕まれることは間違いない。
じゃあ、当たり前のように族滅の刑を行っていた古来の中国人が、ヒトラーやアイヒマンのように
狂人とも化していたのかとすれば、そうではあるまい。実践から伴った確かな道徳的拠り所に基づいて、
精神的な衛生も保ちつつ、九族皆殺しや十三族皆殺しの刑も執行していた。
中でも最も大きな拠り所だったのが、「君臣」「父子」「夫婦」の序を重んじる三綱。
族滅の刑に遭うような不行跡を一家から排除するために、親密さを糧に家族の行状を矯正してもいた、
さらにはその家族全体が、主君との序列もよくわきまえて、君臣父子夫婦の三綱全体を重んじてもいた。
そこまでして家族の清廉さを徹底させていたからこそ、族滅の刑にあうような人間やその家族を自業自得と断じて、
自分たちにまでその嫌疑がかかるような心配も排せていた。だから族滅の刑すら執行することができた。
321 :
考える名無しさん:2010/10/06(水) 13:46:05 0
族滅の刑に遭うような人間というのは、家族ごと皆殺しに遭っても仕方がないほどに
不孝な悪行を犯してきたから皆殺しにされるのであり、その親不孝さや親族不孝さ加減を、
自分たち自身は孝行孝養を尽くしてきた人間こそは、十分に見下すこともできる。
不孝な悪行によって家族ごと皆殺しにされた奴らを反面教師ともして、
自分はこれからも手厚い孝行や孝養を尽くしていこうという気にもなる。
不孝ゆえの族滅は、不孝を世の中に撒き散らす害悪を減らす役割も果たすため、
族滅の刑それ自体が、世の中全体における孝行を推進する役目すらも帯びている。
だから、孝道を心から重んじられる者こそは、族滅の刑すらも容赦なく執行できる。
容赦なく執行した先に精神を蝕まれたりすることもなく、罪に相応の罰を科すことにより、
天下の平定にも貢献する。族滅の刑という大量殺戮それ自体ではなく、その殺戮を尽くした
先にある孝道の推進こそは目的であり楽しみであるため、殺戮それ自体を嗜好するわけでもない。
ここから孟子の「人を殺すことを嗜まざる者、能く之(天下)を一にせん」という言葉の本義も
うかがい知ることができ、族滅級の殺戮すら、行ったとて嗜好しないほどにも、孝道の推進などの
より高尚な目的を持ち合わせた者こそは、健全に罪人を殺戮もできるから、天下を統一することもできる。
322 :
考える名無しさん:2010/10/06(水) 14:09:10 0
「論語」子張第十九・一九における、曾子の新任刑事に対する
「もしその情を得ば、哀矜して喜ぶこと勿かれ(犯罪の実情をつかんだ時には、哀れんでも喜んではならない)」
という助言も、罪人が族滅級の重罰を受けることすら見越してのものであるというのなら、話が通る。
喜んではならないし、怒り狂ってもならない、ただ哀れむばかりでいるしかない。
それは、好き好んで嗜んだことには、刑吏の側が発狂してしまうほどもの重罰を科す場合をも見越してのこと。
鬼平が火付盗賊を斬り捨てたりする姿も、創作交じりの傍目には楽しめても、実際に家族もある本物の
罪人を重罰に服させる時には、喜びでも怒りでもなく、悲しみや哀れみばかりを抱いてことに臨むしかない。
それでこそ人殺しを行ったとて嗜まずにいられるのであり、天下を平定する度量の持ち主ともなる。
喜んではならないし、怒り狂ってもならないし、無感情でいてもならない。
人がこれから死ぬというのに、無感情でいるのも薄情なもの。その境遇を哀れむぐらいの人情も保ちつつ刑罰に臨む。
だからこそ人殺しへの嗜好をも跳ね返すことができるのであり、無感情な中に殺したりするのでは嗜好の内に入る。
自分も生きて死ぬ人間であるのだから、人が死ぬことを悲しむほうが当然の姿であり、悲しまないほうがおかしい。
ことに、自分が人を殺すことになるぐらいなら、悲しみや哀れみこそは嗜好を打ち消す解毒剤にもなるのだろう。
323 :
考える名無しさん:2010/10/06(水) 14:34:09 0
重ねて言うが、俺の言うことを聞くのなら自首しろ。
おまえら自身が俺の言うことに背いて、自己責任で自主的に非合法の
諜報活動を続けたり、世界戦争を引き起こしたりすることはあるだろうが、
ことに俺の言うことを聞くのなら、一切の犯行を辞めて全員が自首しろ。
俺の発言には何らの寓意もなく、ただ書いてあることありのままの意味があるのみ。
寓意を勘ぐって自分勝手な解釈に基づいたりするのも、おまえらの自主性による。
324 :
考える名無しさん:2010/10/06(水) 17:25:03 0
>>323 妄想ですね。
問題提起するわけでもなく、何か感動したことを伝えるわけでもなく、
人の役に立つと思うことを言うわけでもなく、人の疑問に意見するわけでもなく、
独り言に過ぎない。
つまらない。読みたくない、もう。
325 :
考える名無しさん:2010/10/06(水) 17:41:49 0
>>324 現実だ。
犯罪者には問題提起などより自首を促すべきだし、逃亡中の犯罪者などを感動させるべきでもないし、
犯罪者の役になど立つべきでもないし、自分の疑問に意見してもらう以前に犯罪者は自首すべきだし、
犯罪者がまだ聞いているから語っていることでもある。
つまらないのもあえてのこと。読みたくなくなって、さっさと自首。
326 :
考える名無しさん:2010/10/06(水) 17:43:44 0
327 :
考える名無しさん:2010/10/06(水) 17:49:19 0
>>326 人殺し、強盗、詐欺、盗聴、盗撮、ストーカー。
このあたりはみんな、法定するまでもなく普遍的な犯罪扱いのものだ。
九族皆殺しや十三族皆殺しは、さすがに極例であるにしても、
自分だけが懲罰されればそれで済む程度の罪人が、自殺などによって
自己死刑に及んで、正式な断罪をうやむやにした場合などには、
三族(三親等)程度の近親に連帯責任を科すなどということは、
実際にこれからありそうだ。実定法治主義も消滅してから。
328 :
考える名無しさん:2010/10/06(水) 18:05:10 0
罪人は、常人と対等に付き合う権利を、自ら捨て去っている。
自ら好き好んで手に入れた不自由。
常人と親密に話を交わすことすらできない、罪障の檻の中。
自らが檻の中から出てくる努力をするのならまだしも、
相手までをも檻の中に引き込もうとすらする愚かしさ。
愛してしかもその悪を知り、憎んでしかもその善を知る。
脳天から引っかぶっている鼻つまみものの汚物が
きれいに洗い清められてから、西施にも会いたいもの。
329 :
考える名無しさん:2010/10/06(水) 18:15:27 0
あまりにも狭隘、視野狭窄的、一考にも値しませんな。
反論すべきところが膨大なので、反論できません、どうぞののしってください。
そうやってまた、自首するまでの時間を稼ごうとする。
こっちは他に選択肢がないからこうしているだけだが。
こんなつまらない状況を、よくいつまでもタラタラと継続していられるもんだ。
まだ、チャッチャと罪を償ってしまったほうがよさそうなものを。
331 :
考える名無しさん:2010/10/06(水) 18:24:15 0
>>327―328
そんな凡庸な、議題にもなっていないことを、このスレで話してるわけではないのですよ。
おまえらが自首した先には無限の希望が広がっているが、
現状維持や罪業の深刻化には一抹の望みもありゃしない。
あと問題なのは、おまえら自身に内在する自意識過剰の思い上がりだ。
神を信じることや、主君に仕えること以上にも優先されている、自己主義の思い上がり。
それすらなくなれば、後は立て板に水を流すようにして、おまえらの足も出頭に向かうだろうに。
333 :
考える名無しさん:2010/10/06(水) 18:35:49 0
火事だ、火事だ、と、放火魔が言い。泥棒だ、泥棒だ、と泥棒が言い。
こんな諺がありましたね。
すばらしいすばらしい、おまえらの自首後の世界。
想像するだけでもすばらしく、実現すればなおのことすばらしい。
これから自首する程度の相手に対しての、今後の予定の説明も概ね済んでいる。
細事はもちろん実情によって融通されるが、大体のところはもう見通しが立っていて、
その大体が大機であるが故に、実現したときの大用の現前の、軌則からの逸脱こそはまず楽しみ。
おまえらが自首して逮捕されるなんてのは取っ掛かりに過ぎず、大用の現前はその後にこそやって来る。
人類70億の総力を結集して現前する大用、破滅でも滅亡でもないほうにこそ、それは見込まれてもいる。
(破滅や滅亡のほうは、ハリウッド映画あたりで散々シミュレーション済みでもある)
335 :
考える名無しさん:2010/10/06(水) 18:48:17 0
いくら高邁な論文をしたためようとも、
発表する相手が強盗殺人集団じゃな。
ノーベル賞にすらもはや望みはない。
337 :
考える名無しさん:2010/10/06(水) 19:06:50 0
自首すらすれば、後は全部やってやるから。
人類支配の全権のバトンタッチ。
もう少しは犠牲者の数も減らしてやれるさ。
339 :
考える名無しさん:2010/10/06(水) 19:12:59 0
井上さんが前スレが滅しても、何時までも新スレを立てないので、人がこのスレを立てたのです。
それから一週間たってから、【フワーリズミ】東洋教学総合スレ0007【関孝和】を井上さん自身が立てたのです。
井上さんをはじき出したとはいえないでしょう?
340 :
考える名無しさん:2010/10/06(水) 19:23:52 0
このスレが終われば、井上さんの立てたスレに移行します。今度立てるスレのテンプレには、
このスレ名をも記載してくださいよ。
341 :
考える名無しさん:2010/10/06(水) 21:46:39 0
>>316つづき
死と生とは相対的に存在していると言う観念。以下wiki
三性 [編集]
このような識の転変によって、存在の様態をどのように見ているかに、3つあるとする。
遍計所執性(へんげしょしゅうしょう) 構想された存在 凡夫の日常の認識。
依他起性(えたきしょう) 相対的存在、他に依存する存在
円成実性(えんじょうじっしょう) 絶対的存在、完成された存在
このような見方は唯識を待つまでもなく大乗仏教の基本であり、その原型が既に般若経に説かれている。
342 :
考える名無しさん:2010/10/06(水) 22:18:09 0
自らを私刑で勝手に死に追いやったりするのではなく、公正な裁決者に裁きを委ねるんだ。
その結果処刑されるとしても、私刑で勝手に死んだりするよりはまだ罪障も緩和されるだろう。
罪障を有るか無いかではなく、重いか軽いかといった程度論において現実に軽しめた上で、
さらに積極的に罪障の滅尽に挑み、輪廻を解脱して二度と生まれ変わらない仏をも目指す。
仮に処刑されるのであれば、来世や来々世からででも仏道を歩み出す。それ以前にまず
重権力犯罪者などに必要なのは、地獄道や鬼畜道から抜け出して、人道や天道ぐらいには
格を上げること。神様への畏敬や主君への忠恕が、自意識過剰ぐらいは上回れるようになること。
343 :
考える名無しさん:2010/10/06(水) 22:25:03 0
しかし、死って何なのだ?五感と第六の意がない存在と言うべきか?
一切とは五感と第六の意であるといっている。この一切に死というものが含まれないのだろうか?
含まれるというべきだろう。そうすると死は一切の中のどこに存在するのだろう?
識か?
死は、熟睡だ。
君らが自首すれば、みんなが楽しい。
その楽しみを我が楽しみとすることもまた、仁の内だろう。
346 :
考える名無しさん:2010/10/07(木) 08:49:54 0
語りうる「道」は「道」そのものではない、名づけうる名は名そのものではない。
語ることができる「道(タオ)」は,真の道(絶対者としての道(タオ))ではない。
名付けられるものは,真の名前(絶対者の名称)ではない。
これが「道」だと言い表せる様な道は、偉大なる不朽の道ではない。これが「名」だと呼べる様な名は、真実不変の名ではない。
ぶっちゃけ、東洋教学なんて好きでもなんでもないくせに。
348 :
考える名無しさん:2010/10/07(木) 09:00:19 0
>>346 老子は名称そのものから、その意味とその使用を説明してくれるのです。
なんと優しいお方様ではないか。それに引き換え、孔子の言うことは煮ても焼いても
食えない。それは、道理と言う客観的なものではないからだ。
349 :
考える名無しさん:2010/10/07(木) 09:14:34 0
東洋教学中最大学派の儒家は排斥。
創唱宗教として最大である仏教の開祖も呼び捨て。
どの主君に仕えるという以前に、主君全般に仕えようとする忠恕の心、
どの神様を信じるという以前に、神様全般を信じようとする畏敬の心が
自意識過剰による選別意識に負けていて、なによりもまず、
一神教的な思い上がりに精神が蝕まれていることが看るに明らか。
350 :
考える名無しさん:2010/10/07(木) 09:24:54 0
井上さんは心を全く入れ替えて、正法に帰依しないと、地獄は必定ですよ。
正法とは、ゴーダマの教え、老荘の教え、イエスの教え、パルメの教えです。
儒家と道家は互いに相容れませんでした。つまり儒家は道家を排斥しているということです。
道家を排斥するということが、正法を誹謗するものなのです。正法を誹謗するものは
天に唾するものです。これでは地獄は必定と言うのは当たり前ですね。
心を入れ替えてください、まっすぐな心の人間になりましょうね。
351 :
考える名無しさん:2010/10/07(木) 09:38:59 0
東洋教学は、今の物質機械文明を司っている理念ではない一方で、
昔ながらの封建社会や精神主義を司っている理念でこそある。
だから、今の人間にそれが嫌われるのは、全く想定済みのことでもある。
今は、弱者が強者に勝ったフリをしている時代。
被支配者が支配者に、女が男に、年少者が年配者に、劣等人種が高等人種に
勝ったフリをしている時代。「フリ」というのは、本当に勝てているわけではないからで、
強者が弱者を引き連れることによってこそ正常化する人間社会の法則性に
真っ向から背いた結果、案の定、封建主義社会よりも遥かに甚大な殺傷被害を
今の民主主義社会がもたらしてしまってもいるからで、好き勝手に情報を操作される
メディア上での仮想的な勝利などが大きく報道されている一方で、最終的には民主主義
の崩壊と封建主義の復権が免れ得ないことから、「勝ったフリ」でしかないと言える。
しかし、弱者が強者に勝ったフリをしながら構築してきた独特の文化文明、
甚大な科学知識や資源投入による機械文明や物質文化が、ガチガチの封建制下
では決して産み出しえなかったのも確かであり、それらが結局は本物の精神文化や
礼節文明に及ばないことは確かであるにしても、一応独特で新奇なものであった。
後進国からの莫大な利権の収奪や、外界への多大なる迫害があることで初めて
成り立っていた資本主義先進国内での栄華も、漢代や唐代における最隆盛期の中国の
それにすら、物質的には遥かに上回っている。それが甚大なる権力犯罪の放任によって
もたらされた「敗北上の遺産」であるのは確かにしても、始めから東洋教学一辺倒であり、
封建制や精神主義にのみ頑なであり続けた場合にはもたらされ得なかったもので
あるからして、たとえ最終的には強者である東洋が弱者である西洋を飲み込むことに
なるにしても、自分たちが劣悪なものとして完全に斬り捨ててきた地球人類の負の側面にも、
斬り捨て去ったままでもいけない重大な要素が多々含まれていたことの教訓にはなった。
352 :
考える名無しさん:2010/10/07(木) 11:15:38 0
精神性や秩序を重んずる東洋とはまた別に、物質性や無秩序さに惑溺する西洋が
自己責任で独特の文化を発展させてきたのは、地球人類社会全体を一つのものとして捉える
公共意識の醸成が、深刻な分裂を宿したままでの世界発展に追いついていなかったから。
もしもモンゴル帝国かオスマン帝国あたりが、西欧の端々まで征服支配を達成して、
キリスト教の棄教やその他独自文化の放棄なども行き届かせていたなら、今における大虐殺被害
なども起こらなかっただろうからして、東洋の側の西洋に対する「保護監督不行届き」が
あったという程度には、東洋の側にも現今の人類社会の荒廃の責任がなくもない。
実験と呼ぶには、あまりにも多くの人的被害がもたらされ過ぎた、西洋文明の放辟邪侈という実験。
もうそこに一抹の望みもないからして、早急に実験を終了する以外に現時点での選択肢はないが、
実験を完全に強制終了させた後での、西洋文明の遺骸のリサイクルにも当然努めていくべきだ。
特に機械物質文明の点などで、東洋だけでは成しえなかったような業績が良くも悪しくも山積
しているため、それらを西洋人自身の操縦下に置く場合以上にも有効かつ無害に活用していく。
多くの人々の命が未だ失われ続けていることなので、あまり大きな声でも言えないが、
西洋文化の爆発的発展とその終息という過程も、人類社会に組み込まれていた縁起で
あると言えなくもない。ちゃんと爆発の後片付けまでをも済まして、安定的かつ恒久的な
東洋主導の人類社会が建て直された後でこそ、声を高めつつ謳うこともできる、縁起。
353 :
考える名無しさん:2010/10/07(木) 17:56:50 0
>>343つづき
死と生に実体があるとした場合、の追求のつづき
自決は一つの例であり、自決でなくとも、自然死である場合でも、同じ道理が働く。
生きてる人間に取り、死は最も避ける対象である。常に死と向かい合い
死から逃れる方策に拘束される。具体的に言うと、五感と第六識を守る
ことに心身をすり減らすのである。
反対に、死の世界に居ると、生の世界からの攻撃に晒される。五感と第六識の攻撃である。
死には五感と第六識がないと見て、生は死を閉じ込めようとするのである。これが生の攻撃である。
氏は死だけで安閑としていられないのである。
あるときは、生は、死の世界を葬儀や、回忌法要などといってかき回してくる。
善いことをしてるようであるが、全く迷惑なのだ。
また、生きてるときの行いに応じて、復讐してくる。気持ちとしてであれ、行為を伴ってであれ。
354 :
考える名無しさん:2010/10/07(木) 18:09:50 0
自然死や自殺と言うことから始まるものを死といっているようであるが、
生と相対的に存在してる死の世界のことを言っているものとしてもらいたい。
意識の世界のことで、意識は永遠を作り出すのだ。この意識は妄想である。妄想は
無限に渡るのだ。
要するにアテクシが言おうとしてることは、かのアキレスと亀の競争
が競争にならないという結論となるように、実体が二つあるとする見識は
決して初期の目的が達成できないという結果になるということなのだ。
死も性もともに決して良いところがないと言う結果しかえられないということなのだ。
どうすれば、このメチャクチャな世界から脱することができるのか?
般若の智慧による以外ないのである。
355 :
考える名無しさん:2010/10/07(木) 19:20:27 0
般若の智慧によって、現象世界を超えた所にある絶対真理に到達したなら、
一切皆苦であるが故に一切皆悪でもある三千大千世界のうちで、
真実の道理に即して勧善懲悪であろうとしたものと、
道理に背いて悪逆非道であろうとしたものとの分別が付いて、
一切皆悪である中にも、勧善懲悪や断悪修善である現象が大部分であり、
悪逆非道や善悪みそくそである現象などはごくわずかに過ぎないことに
気づくため、全然この世界はすばらしいかぎりじゃないかということに気づく。
356 :
考える名無しさん:2010/10/07(木) 20:31:49 0
>>355 >一切皆悪である中にも、勧善懲悪や断悪修善である現象が大部分であり、
悪逆非道や善悪みそくそである現象などはごくわずかに過ぎないことに
気づくため
儒教でも、国を治めるためには、自身を治めることが前提である、といっていませんか?
国を治めるとは、国を平和にするという意味でしょう。
勧善懲悪といっても、王が国民に対して勧善懲悪を実行する前に、自身が善人であることが前提である、と言うわけです。
自身を治めるとはどういう意味でしょうか?
自身が真理真実に適った人間になると言うことでしょう。そこで真理真実とは何か、
と言うことが大事となるのです。
それは『中道、中庸』を常に実行できる人間、と言うことなんですね。
これが自身を治め、国民を治め、世界を治めることなんです。
で、『中道:中庸』の修行とは、一切のものがないので、一切のもに
束縛されない、と言うことなんです。善にも、悪にも束縛されないのです。
実に悪とは、中道に反する行い、善とは、中道に適った行い、のことなのです。
主人を拘束したい妻にとっては、絶望的な事実だな。
自らはもの言わず、動きもしない植物だからこそ、その花は美しい。
キャッキャキャッキャと飛び回るメスザルの股間など、見れたもんじゃない。
359 :
あふぉ:2010/10/07(木) 23:42:47 0
360 :
考える名無しさん:2010/10/08(金) 09:34:26 0
曲がりなりにも、諸子百家の時代から、中国の君主は、老子荘子恵子
などの道家に属する人たちなのです。
このことは、欧米において、曲がりなりにも、西洋の君主が、イエスであるのと
同じなのであります。
同様にアラビアでは、ムハマッドと言えます。
ゴーダマは東南アジア東アジアで君主として君臨してるのです。曲りなりにでありますが。
361 :
考える名無しさん:2010/10/08(金) 11:46:49 0
中国の君主が道家を特に尊んでいたのは、呂后や孝文帝、孝恵帝らが君臨した前漢前期。
司馬遷も当時の社会的風潮に即して、道家的な筆法に即して「史記」をも編纂したが、
その司馬遷を宮刑にも処した孝武帝の頃から、儒家が国教扱いとなって統治原理の第一となり、
体裁が整えられつつあった五経などの経書が官僚登用の試験科目として用いられるようにもなった。
時は中国の最隆盛期、度重ねられた匈奴からの侵略の撃退も成功して匈奴は滅亡し、
諸外国との国交においても、どの国ももはや漢帝国の偉大さを認めて朝貢を始めようとしていた頃。
「儒者は進取を共にするは難く、守成を共にするは可なり」という高祖直属の儒者叔孫通の意向にも
即して、降りかかる火の粉が完全に取り払われた頃になってからやっと、儒家がその頭角を現し始めた。
とはいえ、儒家統治の起源は、孔子などに言わせれば堯・舜・禹の遥か古代にまでさかのぼり、
湯文武三王や周公といった理想的統治者の模倣に過ぎないのであり、古来の伝統的かつ理想的な
詩書礼楽による仁徳統治を復活せんというだけのこと。漢代以降の儒家統治はもっぱら、五経などの
孔子の学によって運営されたが、それもあくまで、古来からの仁政を行っていこうする現われであった。
362 :
考える名無しさん:2010/10/08(金) 11:57:14 0
堯・舜・禹の禅譲統治時代(儒家においても最良とされる)
↓
湯文武三王の放伐統治時代(禅譲には劣るが、それなりのもの)
↓
春秋戦国時代(血で血を洗う兵家偏重の時代)
↓
統一秦帝国(法家統治で人民を最悪の苦境に追いやる)
↓
前漢前期(道家的無為自然統治で人民になるべく楽をさせる)
↓
前漢中期以降(儒家統治によってそこそこの競争も付加)
大昔から原始的な儒家統治はあったが、2200〜2800年前あたりに
中国はものすごい乱世を経験し、乱世の覇者である始皇帝による
法律万能主義的支配でその荒廃は極みに達し、長い間乱世を続けて
きたことへの緊急的なクールダウン措置として道家の無為自然統治が
後にあてがわれた。が、あまりにもヒマ過ぎるんでやっぱり儒家に鞍替えし、
以降2000年以上もの間、儒家を第一とする封建統治が中国では続いた。
363 :
考える名無しさん:2010/10/08(金) 12:15:00 0
前漢武帝以降の中国でも、老荘などの道家がそれなりに受容され、
後漢中期には仏教も伝来し、多くの宗派に分かれての仏教文化をも花開かせた。
しかし、中国には儒家があったから、宗教性を色濃く帯びた教学が
政治面であんまりこと大きな顔をすることはなかった。そしてそれは、
儒家を中国から輸入した日本においても同じこと。宗教は神道や仏教、
政治は儒家という分別が付いていたので、政治が宗教によって腐敗する
こともなかった一方で、朝鮮のように儒家が宗教化してしまうこともなかった。
「鬼神を敬してこれを遠ざく」という、儒家に根ざした緩やかな政教分離策のおかげで、
宗教にドップリ浸かりすぎたり、その反動で宗教を徹底廃絶したりといった問題を
東洋教学だけでは呈することがなかった。学問と宗教が一定の間隔を置きつつも
親密な関係も保てていたことから、「教学」という言葉も古来から用いられて来た。
宗教がある以上は、もう完全に宗教に浸かりきるしか選択肢がないという、一神教的
な感覚で中国以東の伝統的な統治体制を捉えると、ひどく見誤った結果を招く。
364 :
考える名無しさん:2010/10/08(金) 13:10:48 0
儒家が前漢中期以降の中国の統治原理となったからといって、
なにも儒学の始祖である孔子が中国の永劫的な君主となったわけでもない。
文部的な学術としての儒学の大成者が孔子や孟子であったのみで、
孔子や孟子もまた堯舜禹や湯文武といった古えの聖王を模範としている。
宗教の祖、学術の祖だからといって、今上の帝王にも優る位階上の君主である
などということは全くなく、宗教界や学術界と政界は完全に分けて考えられている。
もちろん政界と財界、政界と工業界なども分別の対象であり、どちらがみそで
どちらがくそであるとかいう以前に、それぞれの職分を守ることが重んじられている。
365 :
考える名無しさん:2010/10/08(金) 18:27:56 0
インド哲学に心酔していたショーペンハウアーは、
欧州に生きた自らの経験に即して、「意志全般の否定」を理想に掲げた。
インド哲学やインド宗教を勉強した挙句に、「意志(全般)の否定」という結論が導かれたことは、
意志の塊のようなドイツ人の学界において、ショーペンハウアーが脇に追いやられる原因ともなったが、
別にインド教学が意志全般を否定したりしているわけではなく、ただ、キリスト教やユダヤ教と
比べれば、悪いことをしてでも利益を得ようとするような「犯罪意志」には乏しいだけのこと。
自らが乞食行者となってでも聖人になろうとすることなども、それはそれである種の旺盛な意志に
即しているのであり、聖賢であるものなりの意志がインド人には旺盛なわけで、ただ、そんな意志は、
強盗殺人によってでも利益を得て虚栄に浸ろうとする西洋人などにとっては意志の内として認められず、
ただ、物質的栄華を進んで捨て去ろうとするその姿が、自分たちからは「意志の否定」に見えてしまったのみ。
物質的虚栄に浸ろうとする意志こそは「意志」であると思うのなら、インド教学に倣う以上は意志を否定
する必要があるが、物欲としての意志を否定した先に、聖賢になろうとする意志がまたあるのであり、
意志を否定してそれっきりというわけではない。日本語でお釈迦様を「ゴータマ」などと呼び捨てにしようとする
思い上がった意志は否定されるべきだが、それもまた否定されてそれっきりになるのではなく、その先に
「お釈迦様」と呼ぼうとする畏敬の意志が芽生えてくる。負の意志を否定することで、逆に正の意志が芽生える。
366 :
考える名無しさん:2010/10/08(金) 19:27:25 0
うちの祖父母ももう90近い高齢で、年相応に老け込んで重い病気などにもかかっているが、
それでも仲睦まじい。別にデレデレに愛し合ってるとかいうのではなく、口論などもよくしているが、
どちらかに異常があった場合などのために、一時は別々にしていた寝床をまた一緒にしてもいる。
あれは、単なる夫婦愛というのではなく、強靭な意志に根ざした愛でこそあるのだろうと思う。
昔ながらの日本人というのは、誰でも儒家の影響を受けていて、戦前までは徳育教育も行われていた。
そのことからも、自然と君臣父子夫婦の三綱などを重んずる意志が根付いていて、もはや意識すら
していなくとも、自然と「夫婦は死ぬまで愛し合うものだ」という意志に基づいて、老後を共にしている。
ただ好きだから、自分が愛しているからだとかの単純な意志ではなく、体系的な道徳性にも根ざした
意志であるからこそ、ヨボヨボのジジババになってからも通用する。美男美女だから愛し合った
なんてだけじゃ、年取って美貌が失われた途端に破綻してしまうが、家を守り、世の中の秩序立て
にも貢献するという磐石な根拠に根ざしているが故に、透徹した意志を持って愛し続けることができる。
その、透徹した意志に基づく夫婦の愛し合いを後ろ盾する儒家にもまた、意志を否定する側面がある。
乱世での悪行に没頭しようとするような意志も否定するし、家庭性に反する度を越した色好みの
意志なども否定する。カルト宗教の狂信なども否定することで、年取ってからもおかしな宗教詐欺
などに引っかからない強靭な意志を育てる。ある種の意志が否定されることによってこそ、逆に
推進されていく意志があるのであり、何もかものあらゆる意志を否定するのではなく、劣悪な
方向の意志を否定して、優良な方向の意志を推進していくことが、人として最善のあり方となる。
367 :
考える名無しさん:2010/10/08(金) 19:54:07 0
優良な意志の位相がプラスであり、劣悪な意志の位相がマイナスであるとする。
日本語でお釈迦様を「ゴータマ」と呼び捨てようとするマイナスの意志と、
ちゃんと「お釈迦様」と呼ぼうとするプラスの意志とは、互いに相容れず、
どちらかの意志を持つ以上は、もう一方の意志を捨て去らざるを得ない。
「ゴータマ」と呼ぶマイナスの意志(−)←意志の否定(0)→「お釈迦様」と呼ぶプラスの意志(+)
両立し得ないプラスの意志とマイナスの意志というのは、概ねこのような関係性にあり、
意志を抱く本人については、マイナスの意志を捨てて、プラスの意志を育てていく冗長な
自助努力が必要になるわけだが、ことに、外部からその様子をうかがう人間に対しては、
マイナスの意志にもう一度マイナス符号(−)を掛け合わせることで、さも一瞬のうちに
マイナスの意志からプラスの意志に転じたように見せかけることができる。
マイナスの意志(−)×自己の現状を完全否定する意志(−)=プラスの意志(+)
お釈迦様を「ゴータマ」と呼んでしまうようなマイナスの意志に、「自己の現状への完全否定」
というマイナスの意志をさらにかけ合わせることで、一応見せかけ上はプラスの意志に転ずる。
具体的には、一応だけでも「お釈迦様」と呼んでみる。悪いことをして来たならその罪を償う。
本人自身は最初のうちは不本意であり、「ゴータマ」と呼び捨てるマイナスの意志を
まだ帯びているわけだが、まずは周りに、そのようなマイナスの意志を抱えている自己の現状を
完全否定したことを明示して、周囲からの矯正の機会も得る。そしたらそこから徐々にではあるが、
「ゴータマ」と呼び捨てるマイナスの意志が払拭されて行き、自分から自然と「お釈迦様」と呼ぶ
プラスの意志を抱けるようになって行く。始めは形式からであっても、そのうち中身が付いてくる。
一つ、今だからこそ重要なことを言っておこうか。
現中国の1人当たりの資源占有率は、すでに世界平均を若干上回る程度であり、
仮に中華流の仁徳統治に基づいて各国の資源配分が均されたとしても、
中国がこれ以上の資源収奪を正当化することはできない。
本当に資源配分の平均化の恩恵に与ることができるのは、インドとブラックアフリカ。
いずれも1人当たりの資源占有率で底辺を這い続けている。
後漢以降に仏教文化を拝借した恩を、中国や日本がインドに返すというのが、
東洋内における資源配分平均化の効用。欧米が一方的に収奪したものを
ブラックアフリカに返却するのが、西洋における資源配分平均化の効用。
もちろんその平均化は、全世界全地球人類社会に共通して行われる。
369 :
考える名無しさん:2010/10/08(金) 20:28:54 0
欧米の石油メジャーなどからの圧力で滞らされている
核融合発電や電気自動車の実用化も、物質利権のいざこざが解消されてこそ実現する。
そしてその、無限エネルギーや環境配慮型工業の技術的な要は、この日本にこそいま蓄積されている。
世界平均を大幅に上回る資源占有率であるからして、
資源配分が平均化されれば、当然日本は配分を減らされるうちに入るわけだが、
資源の配分が減らされる一方で、資源の占有に頼らない高等技術も解放される。
だから結局、日本にとっても、資源配分の平均化はプラマイゼロ程度の影響に止まる。
敷設したてのアスファルト道路まで切り貼りして身銭を稼ぐような土方がいなくなる一方で、
枯渇まで二千万年以上かかる豊潤な電力を用いての、巧妙の限りを尽くした未来文明が花開く。
温故知新と技術革新の挟み撃ちにあってんだよ、今の欧米社会は。
その両方ともを、自分たちの傲岸さだけで妨げてんだから。
371 :
考える名無しさん:2010/10/10(日) 12:51:28 0
荘子と恵子とが、人間には感情と言うものがある、かどうかについて議論したことが
「荘子」にあるが、内編か外編か記憶が定かではない。
荘子は無いと言い、恵子は無いと言うのはおかしい、有る、と言う会話である。
恵子が無いというのは、アテクシはおかしいと思うのだ。恵子が無いというはずは無いと思うのだ。
恵子は政治に携わっているから、人間の心情を理解しないでは、政治はできないと言う考えに基づいている
とは容易に理解できるのであるが、その程度の真理真実への理解では、恵子らしくないのだ。
そして、この会話は、中途半端であるに違いない。且つ、この会話の記述を残したのは、
「荘子」の外編の著者ではないか、と疑われる。
心の変化と言うものは、変化である以上、実体がないのである。虚妄なのである。
したがって、ゴーダマも、過去の恨みを持っているようでは、真理真実には
至れない、と教えるのである。
なんか、ゴーダマと呼び捨てにするのは、不敬であるという人が居るが、
このスレで敬意を特別に表さなければならない常識は、無いのである。
むしろ敬意を表すると、真偽の論が損なわれる恐れがある。
372 :
考える名無しさん:2010/10/10(日) 13:16:32 0
先人への敬意を持っての勉学に努めるのが、東洋教学の第一歩だ。
偉人への相応の敬意も持てないような餓鬼畜生の領域は、
十界論や十住心論などのうちで一応把捉の対象にもされているが、
「そうあってはならない反面教師」としてこそあげつらわれているのであり、
餓鬼畜生には仏の声すら届かないこともまたわきまえられている。
373 :
考える名無しさん:2010/10/10(日) 13:49:42 0
敬意に基づく一心不乱な勉学を一旦でも通過しないことには、東洋教学を修得することはできない。
最終的には「敬」の一点張りすら捨て去って、縄で縛り付けずとも自分からスズメを捕らえようとしない猫のように
自由自在に是非善悪をわきまえた言行ができる境地に至れることもあるわけだが、それは滅法な達人の領域であり、
未だ餓鬼畜生も同然の卑賤な精神状態にある人間などがまねるべきものじゃない。生兵法は大怪我の基。
374 :
考える名無しさん:2010/10/10(日) 13:53:01 0
考だとか忠とか言うときは、考の対象がどうあるか全然無関係であり、忠と言う場合でも、
忠の対象がどうあるかは、関係ないのである。
関係あると言う場合は、例えば親が聖霊:正法を誹謗してるという恐ろしい人である場合でも、
考と言うことは言えるのであり、同じく、忠でも、その主が聖霊:正法を誹謗する人であっても、
忠と言うことが成り立つのである、。
考忠の対象が明らかに間違っている場合は、その間違いを是正する方策と言うものが考えられようが、
そんなことが明白であることは望み得ないのが現実なのだ。だとすると、考を尽くすもの、
忠を尽くすものは、自分も同罪共犯となる行為をしてるのであり、それを推し進めるのが
儒教なのである。
これでは尊い教えとは毛頭いえまい。
375 :
考える名無しさん:2010/10/10(日) 13:53:57 0
つづき
そこで、親なり教師なりが、尊重に値する相手なのかどうか、どうして
判るのだろうか?それは困っているときに、教えてくれるという機縁が
必要であろう。それ以降敬意を表することになる。それまでは敬意を表することはないのである。
次に、過去の偉人といわれる人の扱いであるが、過去の人については、諸子百家といえども、
偉人聖人と言うが、何々様とかの敬称をつけないのが通常だったのだ。
前にも言ったが、ここは孟子の教室、孔子の教室、ゴーダマの教室、パルメの教室
などではない。
諸子百家の生徒が、呼び捨てにしたように、歴史家の司馬遷が呼び捨てにしたように、
我々も呼び捨てにしても問題ないのである。
それを殊更に、あるものが、呼び捨てにするのはよろしくないというのであるが、
少なくとも今様にいえば、思想良心の自由、言論表現の自由の侵害行為であることは
明らかである。
376 :
考える名無しさん:2010/10/10(日) 14:03:03 0
全然だめ。おまえは東洋教学を勉強する上での一段目の段階でつまづいてしまっている。
それじゃあ洋学の観点から東洋教学を傍観することはできても、
東洋教学それ自体を修得することは一切不可能。
語ってる内容に多少東洋教学用語が入っていたところで、その論述姿勢が完全に
洋学のそれだから、東洋教学を勉強する上での条件を一切満たしてはいない。
スレ違いだから、もう出て行きなさい。パルメかなんかのスレででも慰んでいればいい。
377 :
考える名無しさん:2010/10/10(日) 14:15:57 0
結局、「○○大学文学部中国哲学科」とか、「哲学部インド哲学科」とかいった風な
「洋学の中の東洋学」として東洋教学を論じようとしているから、どこまでいっても白々しい。
東洋教学の第一義は「修身」であり、教学を学ぶことによってわが身を修めること。
いくら学知を取り入れまくったところで、自分自身が単なる「歩くデータベース」状態に
なるだけなんじゃ、東洋教学の修得に値しないし、多少は理解が伴っていたところで、
言行に恭しさが備わるなどの実践性を帯びていないのなら、まだ不完全なもの。
忠や孝を舌の上で転がして文句を付けるぐらいなら、自分が忠孝に徹すべきなのであり、
それでこそ忠や孝の勉強にもなる。ただ言葉の定義上から文句を付けたりするのは、
食べ物のレシピを見て「この食べ物はうまくない」とか言ってるようなもの。
全く白々しい限りであり、読む側も書く側も何ら得る所のない、空回りにしかならない。
スレ違いは放置してください
まとめて削除依頼出しますんで
孟子も「君子は我が子の教育を他人に任せる。自分が教えると情が移りすぎてうまくいかないから」
と言っていた。教えたり学んだりすることはどこまでも峻厳であるべきだから、父子夫婦などの
親類関係の中に差し挟むべきではなく、師弟関係か、せいぜい朋友関係において試みられるべきであると。
父子であるもの、夫婦となるものなどが、お互いを学問的に責め合うことは、始めから不適切なことなのだ。
380 :
考える名無しさん:2010/10/10(日) 14:30:13 0
>>377 あなたの言うことはよく判らないが、今までのあなたの書き込みでは、
聖人であるからといって、特別に敬称をつけて、敬意を表明した事実が、
書き込みに有りません。
今後もそれでよろしいと思います。
ゴーダマは、お釈迦様と言う名称が日本では常態化してるので、多少の違和感が
有るのでしょう。
381 :
考える名無しさん:2010/10/10(日) 14:47:40 0
そういう杓子定規な無様さが、臨機応変を旨とする東洋教学の有り方にも反している。
とにかく、何もかもをトップダウンにどうこうしようとする。
大した見識の持ち主でもないくせに、自分の知見の範囲内だけでの一般論を述べて、
さもそれが天地万物に永久不変の一般論であるかのようなまくし立てすら行う。
そりゃあ、洞窟の奥底から外をうかがう傍観者ですらありゃあいい洋学では通用するだろうが、
自らの立場に即した相応の態度や姿勢でいることが要求される東洋教学では通用しない。
無辜の隠者や坊さんとしての立場をわきまえて、自由自在な言行を為したりすることもあるが、
罪業にまみれた重権力犯罪者の分際で、発言上だけは公平さを期したりすることも白々しく、
「自首」というより立場に即した行ないを疎かにもしている点からして、身の程知らずにも程が
あるのであり、そもそも今のおまえらのような立場で公平を装うような態度がすでに無様なのだ。
382 :
考える名無しさん:2010/10/10(日) 15:00:25 0
現実社会上のお前らにとって先ず必要なのはもちろん自首だが、
学問的にまず必要なのは、「洋学や洋学的研究姿勢の破棄」だ。
ソクラテスみたいに、とにかくなんにでも文句すら付けときゃそれでいい
アナーキズム姿勢が一切通用せず、餓鬼畜生の天邪鬼であるぐらいなら、
全ての東洋教学を無制限に畏敬の対象とし尽くして、まだ余りあるほど。
俺も、自分自身が専攻の対象とするのは、儒学や浄土教などに限定しているが、
だからといって諸子百家や自力仏教などの、他の東洋教学を貶めの対象にするわけでもなく、
全ての東洋教学への畏敬を欠かさない一方で、中でも儒学や浄土教を自分自身の
専攻対象としているだけ。老荘申韓もそれなりのものだが、孔子や孟子はそれ以上であり、
空海や道元は高尚に過ぎるので、法然や親鸞レベルの汎用的な仏門に甘んじている。
貶め合いよりも高め合いを伝統的に重んじてきたから、東洋教学全体が畏敬の対象に
できる一方で、高め合いよりも貶め合いばかりに終始してきたから、洋学は畏敬の対象
どころか侮蔑の対象にすらなってしまう。洋学全体が侮蔑の対象になるのが洋学者の
自業自得である一方で、全ての東洋教学を畏敬の対象にしなければならないのは、
多少は貶め合いにも関与している、自分自身の自業自得である。
383 :
考える名無しさん:2010/10/10(日) 15:12:18 0
釈迦を「ゴータマ」と呼ぶのがなんでおかしいかって、「ゴータマ」は釈迦の俗名だからだ。
最澄、空海、法然、親鸞、栄西、道元、全て呼び捨てではあるが僧名。
釈迦は仏教の開祖なので、誰かに付けられた僧名などはないが、シャカ族に由来する
「釈迦」が僧名に順ずるものとしてあてがわれている。そして僧侶は僧名で呼ぶのが通例。
「ゴータマ」とか「真魚(空海の幼名)」とかの俗名で呼ぶんなら、それは出家以前の釈迦や
空海を限定して呼ぶことになってしまう。それほどにも仏教にとっては、出家が大事なものだから。
在俗なら死後にいただく法名を、生前に出家を通じて僧名としていただく、その時点で世俗的には
死んだも同然なのであり、在俗の頃とは全く異質の存在扱いすらしなければならない。
そして、高名な僧侶などが活躍したのは、もちろん出家後に僧名をいただいてからの話。
だから、活躍者としての僧侶をあげつらうのならば、俗名ではなく僧名(法名)で呼ばなければならない。
どこだったか忘れたが、「学術目的で歴史上の人物を呼び捨てにするのは許される」とは
「礼記」にも書いてあった。どうせ敬おうが敬うまいがうんともすんとも言わない故人を、下手に
かしこまって扱い過ぎるのも諂いになりかねず、敬意はあくまで臨機応変な中に育まねばならない。
「宗教者としての釈迦を『ゴータマ』と呼ぶのは、出家前の俗名だから不適切である」と
俺が言葉で明確に認識したのは、ほんの今しがたのことだ。
でも、それ以前から釈迦を「ゴータマ」と呼ぶのはおかしいという心持ちが働いていた。
それは、日本人などが伝統的に釈迦を「お釈迦様」と呼んできたことにも基づくし、
その日本人が江戸時代までに仏教面で打ち立ててきた功績への信頼や畏敬もあったからこそ。
畏敬があればこそ、明確な知識上の認識に至るまでもなく、おかしいものがおかしいと分かる。
逆に侮蔑しかないのでは、おかしいものがおかしいとも分からず、明確な知覚に至っても
まだ納得がいかなかったりする。諸々の事物が正しいか誤りかという以前に、畏敬こそは、
「物事を正しからしめよう」とする本人の側からの積極的な心持ちであり、逆に侮蔑こそは、
「物事を誤らしめよう」とする本人の側からの積極的な心持ちでこそある。
物事をあえて過ちに導こうとする侮蔑の意識を排して、むしろ自分から積極的に正しからしめようとする
畏敬の意識を持つこと。そこからのみ正しいものの正しさと、おかしいもののおかしさも自覚される。
385 :
考える名無しさん:2010/10/10(日) 17:27:28 0
人を量るという行為、どういうことかと言うと、人の優劣、人の美醜、
人の能力、これらを人が計量器にかけるようにしてその量を出すことである。
こういう行為は、利益を求める人間に取り、利益に付随して、行うことを欲するものである。
、どうしても避けられない行為といっても良い。
しかし、これは災いの元なのである。
為政者がこれを行うと、その国は滅ぶだろう。
なぜ災いを引き起こすのか?と言う訳は、真実に反するからなのだ。
真実は、無相一相空相無我、と聖賢が説くとおり、一切に差異は無いからなのだ。
差異を作り出すのは、利益:欲に基づく妄想なのである。
為政者が行う国は、こうして差別の蔓延する、嘘偽りの妄想の国になる。
これは二律背反の矛盾の社会である。これを地獄と言うのである。迷いの世界と言いのは
この世界のことなのである。
386 :
考える名無しさん:2010/10/10(日) 17:47:31 0
>>385つづき
こうしてみると、イエスが天国を示し、天国を求めるように教え、ゴーダマが
出家してニルバーナを求めるように教え、そして荘子が、世間の付き合いを避け
タオ「道」の世界に導く教えを説くことに終始したのは、真理に適っていたのだ。
387 :
考える名無しさん:2010/10/10(日) 18:40:20 0
仏教が中国に入ってきて、老荘の教えと類似してるのを知り、黄老の術
を奉じる団体が、仏教の出家の制度を取り入れたのは、実に自然なことであった。
ただし、黄老の術団体、即ち道教が、水銀を使用する教えを採用したのは、
理解できないのである。これは老荘の教えに反する。
388 :
考える名無しさん:2010/10/10(日) 20:39:45 0
釈迦を「ゴータマ」と呼ぶ時点で、人間的な権利を失ってでもの
成道に努めた釈迦の正念の把握から逃げていることになる。
出家して「ゴータマ」という俗名を捨て去った以降の、釈迦の活動一切を蔑ろにする物言いだから。
389 :
考える名無しさん:2010/10/10(日) 21:17:20 0
くだらない考え
釈迦を「ゴータマ」呼び通そうとするような、
徹底的な出家成道禁止者とは、一緒にいるのも息苦しい。
29歳で出家して、35歳で悟りを開き、80歳での涅槃に至るまで仏法を説き続けた
お釈迦様の偉業一切を反故にしようとする試み、釈迦への「ゴータマ」という呼び捨て。
三十路過ぎの中年になったればと気が狂って、おかしなカルト教義を触れ回った挙句に
33歳で刑死して二度と生き返ることもなかった、無様さを誰しもにあてがおうとする無様さ。
392 :
考える名無しさん:2010/10/10(日) 21:27:53 0
無様なのは、あなた達だけ。
互いに貶め合うことだけを旨としてきた、あなたたちだけにとっての病理。
互いに高め合ってきた聖賢同士にはもちろんのこと、
ただ貶め合いを避けようとだけしてきた凡人ですら帯びることはない、透徹した無様さ。
透徹しているが故にあなた方だけのものであるその無様さを、
他の一切誰にも連帯責任を及ぼしたりすることなく、自分たちだけで受け止めて、
無様なものであったなりの、醜悪極まりない終焉を受け入れた上で、次に進め。
自首すると何もかもが楽しくなるよ!
何もかもがつまらなかったのが。
これ程にも、夫婦の真剣勝負をも許容し尽くしてしまう
儒家に大感謝してし過ぎることはない。
三綱の下で、むしろ愛は天の果てまで昇り続けて止まない。嗚呼。
全ては愛のためにもなっている。
ゴータマという呼び名が俗名だから不適切だというのもあるし、
本名(長谷川平蔵の「宣以」など)を呼ぶのが東洋では不謹慎扱いだからというのもある。
徳川家康も竹千代→松平元信→元康→家康→徳川家康という風に改称して言っているように、
元服などを通じて貴人が改名していくのは世俗でも通例のことだったので、
出家者が俗名を捨てて僧名となるのも、正式な手続きのうちの一つだった。
そのような事情を無視して「ゴータマ」などと呼ぶから、世の秩序を不用意に乱す
反社会勢力も同然の不埒さを帯びてしまう。つーか本当に反社会勢力でもあるが。
「郷に入らば郷に従え」でもあるし、仮に汎用的な議論をするにしても、
フランスだのイギリスだのの、偏狭の地の蛮族の悪習をわざわざ持ち込んで
もともと良かったものをあえて劣悪化させる必要なども微塵もない。
本名を呼び捨てる悪習を持つ蛮族どもこそは、誰しもが誰しもを貶め合う
無様な劣悪文化ばかりを自分たちだけで溜め込んで来てもいるのだから。
397 :
考える名無しさん:2010/10/11(月) 09:50:31 0
どんなに辛らつに聞こえたところで、「だって本当のことじゃないか」ということしか言ってない。
だって、本当のことじゃないか、劣悪なのも無様なのも。
卑劣で稚拙で俗悪で悲惨なのも、比喩ではなく本当のことじゃないか。
おまえらが間違った根拠に基づいて東洋教学の一部分を批判したりしているのとは違って、おまえらが
劣悪無様で、卑劣で稚拙で俗悪で悲惨である根拠は、そこら中にいくらでも転がってるじゃないか。
東洋教学の「お互いの高め合い」という風習が今に始まったことではなく、何千年もの歴史を持つのと同じように、
おまえらが「お互いの貶め合い」という悪習を蓄積してきた歴史も、2000年以上にも上っている。
絶え間なく登りつめられて来た高山と、絶え間なく掘り下げられてきた墓穴、
その落差が、ちょっとやそっとの小細工で埋め合わせられるわけもない。
巷の多くの人間が、東洋教学と洋学をまともな比較の対象にすらしないのは、東洋教学への無知もあるし、
両者の格差があまりにも開きすぎているため、片方を一方的な糾弾の対象にするしかなくなるからでもある。
誰がやったところで、当然のこととして、欧米や洋学の側を一方的な貶めの対象にするしかない。
そういう風にしか、冷静で厳格な比較が覚束ないから、あまりにも惨めなので、誰も比較を試みようともしない。
398 :
考える名無しさん:2010/10/11(月) 11:18:09 0
「民は神の主なり」という、「民主」の語源ともなっている句が「左伝」桓公六年に出てくるし、
それよりもさらに以前の「書経」でも、「天の聡明は、我が民の聡明に自う(皐陶謨)」などの、
民意を重視する金言が方々に散りばめられている。しかし、だからといって中国人は、
自分たちの考えに基づいて、人民に主権を明け渡すような「民主制」などを実行はしなかった。
男尊女卑社会において、妻たる女が「家財」としては大事にされる一方で、あくまで家財だから
主権者扱いはされないのと同じように、民を国の財産として大事にする意向は固めた上で、
為政者としての主権はあくまで王君が持つという、封建制社会の基本構造は変えなかった。
夏目漱石の「こころ」では、先生とKとがお互いを「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」と
ののしりあった挙句にどちらも自殺しているが、善悪の分別などの道徳的知見はともかく、
精神的に向上心のない小人にもまた、独特の悪知恵があるのであり、必ずしも白痴のように
馬鹿であるわけではない。商売人の商売知識も、カネという末節のための小知であるには
違いない一方で、確かにそれもまた一種の知識ではある。それと同じように、フランス人や
イギリス人の知識なども、下愚故の小知であるには違いないが、「本質的敗北中の仮設的勝利」
という、ある種の利益を得るための知識にはなっていて、その方面にかけてだけ激烈に頭もいい。
上知や大知には到底当てはまらないものの、下愚故の小知としては巧妙な部類であるのが、
民衆に主権までをも明け渡す「民主制」を伴った民主主義でもある。国の財産として丁重に
扱うことでこそ長所も伸ばされる民に、あろうことか主権までをも明け渡すことで、商売知識
のような小知を、国家運営のような大知を要する領分にまで適用しようとして、失敗に至る。
小知は小知で、あるべきところにあればそれで活かされるものなのに、あるべきでない所にまで
押し通したせいで大失敗を招いてもいる。今一度、国や家の財産としての民や女に帰った上で、
あくまで財産として大切にされる中に、相応の能力を発揮することに専念しなければならない。
だって、本当のことじょのいこ。
世界は広い、広いからこそ、限りなく高尚なものもあれば、ぶっちぎりに下劣なものもある。
両者の差異をも立体的に捉えられてこそ、より視野が広いと言えるのであり、
平面的な把握に終始して、両者をみそくそに扱うことこそは視野が狭い。
高尚なものは高尚なものとして丁重に扱い、下劣なものは下劣なものとして適当に扱う、
天皇陛下は惜しみなく敬い、ヨゴレ芸人は容赦なく見下す、
それでこそ、両者の本領が発揮されるというものではないか。
401 :
考える名無しさん:2010/10/11(月) 14:31:52 0
だけど、井上と言うやつは、心底から馬鹿なやつだな。
いつも低級な長文ばかり書いて、人の投稿を邪魔ばかりしてる。
お前の建てたスレに行け!
フランス、イギリス、森三中。
アメリカ、イタリア、江頭2:50。
ロシアだって ドイツだって ギリシヤだって みんなみんな 生きているんだ 友達なんだ♪
404 :
考える名無しさん:2010/10/11(月) 21:26:08 0
珍しい状況じゃないか?
白系の欧米人こそは、特筆して差別の対象にされるなんてのは。
白人こそは、他者を差別する思い上がりの持ち主の最たるものだったのが、
一転して透徹した差別の対象となっている、ある意味、人類史上初めてのことじゃないか?
黒人の場合、白人よりもさらに原始的な人種だから差別の対象になった所もあるが、
黄色人種や有色コーカソイドの場合は、人種的には白人よりもさらに先進的だが、
他者を見下す思い上がりの劣悪さをわきまえて、十全に排除の対象としてきた、
だから黄色人種や有色コーカソイドが、白人や黒人を人種的に差別しようとしたことは
あまりないが、それらの人々にまで、欧米文化が無制限に賞賛や受け入れの対象とされて、
俺みたいな黄色人種にまで、白人レベルの思い上がりや差別意識が根付いた結果、
自分たち黄色人種や有色コーカソイドよりも遥かに劣等な文化文明ばかりを
構築してきたしろんぼなどへの、あられもない差別意識が生じてしまっているわけだ。
405 :
考える名無しさん:2010/10/11(月) 21:26:48 0
黄色人種や有色コーカソイドが、自分たち自身で構築してきた精神性に基づけば、
今の俺ほどにも他者を徹底的な差別の対象にするのは完全な非難の対象となるわけで、
「人の悪を称するをにくむ(陽貨第十七・二四)」なわけだが、今の俺は洋学に根ざした
資本主義国である日本の住人であり、小学生の頃には同級生をいじめたこともある
卑劣な精神性に根ざしているから、惜しむことも容赦もなく、差別したいものを差別している。
洋学や聖書信仰にこそ根ざした自意識過剰の思い上がり、その思い上がりにこそ基づいて、
いま俺が白系の欧米人やおまえらに対して、あられもなく披瀝している旺盛な差別意識、
それは、おまえら自身こその産物。他人種や外国人をいっぱしの人として認めることすらなく、
自分たちだけでの狭隘な栄華ばかりを貪り続けようとしている、おまえらの精神性にこそ
根ざしたものであり、おまえらと共通している部分だからこそ、腹立たしくもあるのだ。
己れの欲せざる所を人に施すことなかれ。差別の対象にされるのが嫌ならば、
あらゆる差別を撤廃し、差別意識に根ざして強奪してきた既得権益なども、全て
放棄しなければならない。現状が差別を容認していたり、差別による産物を保全したり
しているうちは、俺もそれにならって、おまえらへの旺盛な差別意識を捨てないだけだ。
406 :
考える名無しさん:2010/10/11(月) 21:30:13 0
仏教の経典を買ったら最初の言葉に「リグ・ベーダに載ってる云々」という
解説があったのでやっぱり仏教を理解するには先んじてインド思想の書物が
必要だと気づいたのですが、いったい最初に何を読むべきでしょうか?
よかったら教えてください
中村元あたりの訳した上座部経典を“買って”いる時点で、
一切の私有財産を禁ずる上座部の取り決めにも違反しているがな。
>>406 あくまで個人的意見として、、、、
古本で見つかれば、
世界の名著1『バラモン教典/原始仏典』(中央公論)所収の
ウッダーラカ・アールニ『チャーンドーギア・ウパニシャッド』
読み物としては、
『インド哲学七つの難問』宮元啓一
参考書としては、
『インド思想史 』早島 鏡正
論理学に興味があれば、
『インド人の論理学 問答法から帰納法へ』桂紹隆(中公新書)
岩波文庫『真の独立への道』ガンディー
中国はすでに資源占有率で世界平均をわずかに上回っている程度なので、こちらからどうにかしてあげる必要はない。
アラブも結局は大資源産出地域なので、欧米人が油田の占有権などを放棄するだけで自動的に資源均衡を取り戻す。
問題は、資源占有率で完全に底辺をはい回り続けているインドとアフリカであり、欧米人が自分たちの独占資源の大半を
彼らに“返却”することによってのみ、その貧窮も相応に是正される。しかし、実際問題としてできない。
欧米社会は軒並み民主主義社会であり、国民に主権があることにしてしまっているので、政府がトップダウンに
「国民の私有財産」となっている独占資源を左右したりすることはできない。そのためまず、CIAやMI6も含めた
国家ぐるみでの欧米社会の犯罪行為を表向きに大々的に公開して、洗脳政策によって自分たちがまともな人間であると
まんまと思い込んでしまっている欧米社会の全国民に、自分たちが主権を主張できるほどに真っ当な人種ではないことを十分に
思い知らせる。その上で、全国民の罪責をも背負って、国家元首級の最高権力者が雁首揃えてムスリム世界裁判所に出頭する。
無政府状態と化した欧米社会は、完全にムスリムなどの監督下に置かれ、当然国民主権も剥奪される。
資源配分の是正もムスリムや中国人が強制的に執行するが、前記の通り、中国やアラブ自体は欧米の独占資源を
これ以上収奪することもなく、ただインドやアフリカへと不足している資源を横流しする業務に勤め、
そのための手数料などの相応の手当てだけをもらうのみ。インドやアフリカに資源の大半を返却し、そのための事務手当てを
中国人やムスリムに支払うぐらいでやっと、地球上の八割以上にのぼる物質資源の、欧米八億による独占も十分に是正されることになる。
410 :
考える名無しさん:2010/10/12(火) 06:56:48 O
主要ウパニシャッドの全訳版もあるみたいだが、新刊でも古本でもバカ高いな。
その上近郊の図書館にも置いてない。
全訳「華厳経」も同じ状態。
働いてもよくなったら、まず手に入れたいもの。
バラモン教と大乗仏教は私有財産を完全に禁止してはいないし。
411 :
考える名無しさん:2010/10/12(火) 08:51:28 0
412 :
考える名無しさん:2010/10/12(火) 09:00:51 0
真に独立するのは、インドでもアフリカでもない。
精神面でも物質面でも、地球人類におんぶにだっこの
寄生虫状態な欧米人こそは、真の独立を果たす。
主権剥奪や禁治産、入獄や処刑などの仕置きを通じて、
精神薄弱人種に相応の身分に自分たちをやつすことで、
「分不相応」というくびきを取り払った、真の独立や自由を手に入れる
413 :
考える名無しさん:2010/10/12(火) 09:25:38 0
病にも、一過性のものと再発性のものとがあるが、
ことに近現代における欧米人の暴走は、人類社会にとっての完全な一過性の病であり、
ただの一度でも、東洋教学の十分な投与による免疫抵抗力が付けば、二度と再発することはない。
人類文明が一旦は完全に跡形もなく滅びきって、人類の歴史が完全にやり直されでも
しない限りは、カルト信仰に基づく犯罪意志の等比級数的な増幅が起こることは二度とない。
せいぜい、治るにしろ治らないにしろ、絶対に一過性ではあるこの病を、
こじらせて危篤に陥る以前に、再発予防も兼ねた治療措置を受けておくことだな。
現実の夢とはまた別に、妄想の夢も見ているが。つーか、見せられているが。
あれほどにもクソ加減まる出しな悪夢ばかりしか捏造できないなればこそ、
俺の構想している夢が、どれほど現実的で、かつ希望に満ちたものであるのかが分かりそうなもんだが?
おまえら自身の絶望こそは、俺自身の描いている夢とはかけ離れた
諸々の悪夢を生んでいるんじゃないか。一かけらの希望も見出だせないほどの。
415 :
考える名無しさん:2010/10/12(火) 16:17:48 0
各ヴェーダがすべて書かれてる書物ってないでしょうか?
アマゾンにはヴェーダ関連がイロイロあるのですが、
何を買えばいいのかわかりません。
ヴェーダ全集はないのでしょうか?
416 :
考える名無しさん:2010/10/12(火) 17:57:25 0
ヴェーダはバラモン以外が教示してはならないと「マヌ法典」でも取り決められている。
本当は訳出して出版したりすることも違法扱いで、
コーランなどと同じくそれは聖典のうちに見なされない。
それもあってか、邦語全訳はまだないが、資本主義国の出版社が、
乞食大国の聖典の出版などに興味を持たないというのが本当の所。
あくまで「本物の聖典ではない」という扱いで、内容把握のために訳しとくぐらいしとけばいいのにな。
岩波文庫赤六八−一『リグ・ヴェーダ讃歌』
同 赤六七−一『アタルヴァ・ヴェーダ讃歌』
リグ・ヴェーダくらいしか出版されてないんですね。これじゃ
仏教の経典なんて理解できないですよね
418 :
考える名無しさん:2010/10/12(火) 20:44:58 0
ドイツ語全訳やフランス語全訳のヴェーダもあるようだが、
あまりにも敷居が高かったり低かったりし過ぎるなw
もし正式に訳されるのならば、ヴェーダはまず漢訳されるべきだ。
漢訳仏典こそは、最も多くの人々を教化し続けて今に至る。
空海の「秘蔵宝鑰」でも「吠陀」という書名が引用されるなど、極東でもその存在だけは
大昔から知られていたのに、ヴェーダこと吠陀自体が本格的に漢訳されたことは未だない。
それほどにも、インドの側も自分たちの根本聖典であるヴェーダを不用意に輸出しようとしなかったし、
中国の側も自分から他国の財産を無闇に収奪しようなどとはしなかった。インドと中国、両国とも
面子を守り通した結果として、2000年の国交を通じてすら、未だその内奥の交換が済んでいない。
ドイツやフランスの小人ならできたことを、巨頭同士であるが故にこそ、十数億の大所帯でありながら
未だ十全な国交を果たしたことがない。これほどもの狂言も、人類史上未だかつて無かったことで
あるからして、ヴェーダが全文漢訳されるぐらいの未曾有の事件でも起こらないことには、
地球人類のうちの誰であれ、ヴェーダの正式な外語訳を行うことは許されない。
419 :
考える名無しさん:2010/10/13(水) 20:59:28 0
そうですかー・・
じゃあいきなり「ブッダのことば」(和訳、岩波文庫)を読むのは無駄ですかね?
420 :
考える名無しさん:2010/10/13(水) 22:43:12 0
例えば(仏陀の言葉)2は、このようなものがある。
「5
目ざめていて、念いを落ちつけ、正気でいて、心を統一安定させ、喜んで、
心もちが明らかに澄んでいる者は、適当な時々に正しい教えを熟考して、
生まれと老い、ならびに憂いをのり超えよ」
ここにはなんか深い意味の、正しい自分が説かれているとは、どんな人も
感じ取れるであろうが、それでは、語句の一つ一つは、どういう意味なのか、
どうしてそうなるのか、ここにおける『ただしいおいしえ』とはなんのことか」
と言うと、さっぱり判らない。
仏陀の言葉と言う本の中には、正しい教えがあるのだが、それを初心者にわかりやすいように、
初めから、順序良く、かかれていないのである。
四諦の法門と言う部分もあるが、それも不完全である。
だから、仏教の本質を、この本では、知ることはできないと思う。これをよく理解するためには、
他の本もよく読む以外ないのだ。
他の本も読んでみて、よく熟考してみて、初めて、仏陀の教えの本質は、
一切は縁起しているものであり、それは相対的存在であると言うことであり、
それ故に実体がないということである、と言うことに帰結するのである。
この無実体で有ることを、空とか無相とか一相とか、無我、とか言っているのだ。
これが究極の真実、実相である、と言っているのである。
この真実であるが故に、この真実に自らを合わせることが必要なのであり、
それが修行であり、その修行に当たる言葉が、「目ざめていて、念いを落ちつけ、正気でいて、心を統一安定させ、喜んで、
心もちが明らかに澄んでいる者は」と言うことなのである。
421 :
考える名無しさん:2010/10/13(水) 22:55:41 0
>>420つづき
この点、荘子は、斎物論で、この真理真実を説明し、この真理真実に基づいて
論を以降に展開するのである。だから、荘子は、仏典よりもより親切であるといえる。
老子も、一章二章でこの真理真実を説明しているのである。この真理真実に
基づいた生き方を説くものである。
仏典のアーガマ『阿含経典』は老子荘子の真理真実をすべて含むのであるが、
なにぶん、老荘のような順序と言うものがないので、非常に初心者には、
困難であるときがあると思う。しかし、誰でもこの心理真実は、ゴーダマや
老荘の助けなく、悟るということもありえないものではないので、そういう人には、
友を得たものとなるだろう。
422 :
考える名無しさん:2010/10/13(水) 22:57:49 0
>>420つづき
であるから、老荘やパルメやイエスがゴーダマのアーガマを読むなら、
直ぐに理解し、友で有ることを知るのである。
ヴェーダと仏教は、
西欧で言うなら
実在論と唯名論
スピノザとカント
に対応する。
老子と孔子
もこの構図にあてはまる。
特にヒンズー教と仏教の論争は論理学史上最重要。この対立を理解していないと
東洋哲学は単なるイメージにすぎなくなる。
424 :
考える名無しさん:2010/10/13(水) 23:35:08 0
>>423 >特にヒンズー教と仏教の論争は論理学史上最重要
それを紹介して下さい。
哲学に西洋人の名前を持ってくるやつは信用しない
ドイツ哲学ってどう考えてもインド哲学の翻訳じゃん。
426 :
考える名無しさん:2010/10/13(水) 23:39:51 0
犯罪者が自首もせずにのうのうと書き込みを続けているから腹立たしいというのもあるが、
その主張内容が全く当を得ていない妄言の塊だから腹立たしいというのもある。
もう少し正しい方向性にも基づきつつ、部分部分で勘違いを犯しているぐらいの主張ならば、
こちらから助言してその間違いを正してあげることなどもできるが、その主張内容が徹頭徹尾
一貫して間違い通しであったりする以上は、もはや部分の指摘による修正も覚束ない。
あなたが主張している内容以前に、あなたが主張しようとすることそれ自体が根本的に間違いだから、
その主張内容も部分といわず、その全てが間違い尽くしているので、いちいち部分の誤りを指摘する
ことで矯正してあげる余地もない。一心不乱に念仏したり、「敬」の一点張りに終始するぐらいの
絶対他力本願からでもないと、あなたが主張しようとすることその全てが悟りの妨害になる。
ヴェーダに漢訳の完訳がないとしたら、
支那人はどうやって仏教を学んだんだろ?
>>425 その通りで、423が提示した対立構造も、洋学に敷衍した時点で意味が分からなくなっている。
東洋教学の内部における伝統的な対立構造は、何といっても「善徳主義とその超脱」。
道徳主義を重んずる儒家と、道徳や犯罪の超脱すら目指した道家。
社会秩序を重んずるヒンズー教と、絶対的な平等を説いた仏教。
仮初めの善悪を超えた絶対的な善徳の存在性を認める仏教と、
善悪をあくまで相対的な状態に置き続けようとするジャイナ教など、
東洋教学内において対立構造が生ずる場合にはいつも、善悪のうちの
善徳を一尊に掲げるものと、善悪全体を俯瞰するものとに二分化している。
このような対立構造は西欧にはないものの、逆の意味での対立構造はある。
罪悪をどこまでも積重しようとするものと、善悪をなかったものにしようとするもの、
「罪悪主義とその辟易」という二分化での対立構造はあり、東洋が「善いものとそれ以上」を
追い求める方向性から内部対立を生じたのに対し、西洋では「悪いものとそれ以下」が
最底辺からの脱出を競い合う、穴掘り競争の方向性こそは内部対立を生じている。
結局、善悪という陰陽構造にその全てが司られているのは同じであり、
善悪をどうにかしようという方向性から発展してきたのも同じだが、東洋のほうは、
善徳の高め合いを基調として来たのに対し、西洋のほうは罪悪の深め合いを基調として
来たので、東洋のほうはあからさまな善悪論(悪人正機とか)を隠さない一方で、
西洋のほうは自分たちの行状から、倫理性の付帯を隠蔽したがる。観念とか実存とか、
白痴とか悪霊とかいった文飾を通じて、自分たちが罪悪の積重や、その卑しめを根本として
発達して来たことを隠そうとする。所詮はその全てが善悪罪徳の法則の範囲内であるにも関わらず。
429 :
考える名無しさん:2010/10/14(木) 00:08:39 0
>>426 世の中には逆恨みと言うものがあることがアテクシにもわかるようになってきました。
人のものを盗んでおきながら、相手が取り返そうとすると、取り返そうとしたことが
とんでもないことだ、と言う手合いがいるのです。
これって自分が何をしても、つまり人を殺しても、陵辱しても、何をしても
良いのであり、それを悪く言うものこそ、悪いのだ、と言うのですが、これは
、白雉であり、誇大妄想であり、直ちに隔離すべき異常者であるといわなければなりません。
放置するなら、何をしでかすか判らないのであり、それも緊急を要するのです。
今ここで無責任なことを言っているのでは、相手にされなくなります。無責任なことを言う繰らないなら、
言ってはならないです。
まさか、あなたも、無責任なことを言っておきながら、相手がその根拠なりを
聞いてきたときに、質問してきたことが悪いというのでは、前記の異常者とどこが
違うのでしょうか?
捨てられた愛よ
濁りない水中で 偽り無い告白を
止める事ない暴力で拳を痛めた阿羅漢は誰よりも哀しい旅人だ
空念仏の人類救済を唱え終わりの無い夢を呪う彼は永遠に辿り着かない
近付く事さえもないだろう
越える事の無い自我の壁を前に本望はすり替えられてゆく
ガラス張りの独房でうずくまる囚人の夢を食い荒らす人々
街では明日の平和の為に今日も血が流れている
431 :
考える名無しさん:2010/10/14(木) 00:18:20 0
>>425 >ドイツ哲学ってどう考えてもインド哲学の翻訳じゃん。
それはドイツ人の哲学者が、嘘をついて真理であると言っているので、
信用してはならない、と言うことにはならないでしょう。
そもそも翻訳であるといえるほどに、同じ理法を主張することは、
ありえないことではないでしょう。特に真理真実に関しては、むしろ有りえることでしょう。
432 :
考える名無しさん:2010/10/14(木) 00:22:56 0
しかもあのころのドイツ人哲学者ってアジアの哲学すべてを
ものすごくバカにしてたよ。ニーチェなんてどう考えても劣化ブッダなのに。
433 :
考える名無しさん:2010/10/14(木) 00:25:33 0
>>428よく言われることで「白人の頭の中には天使と悪魔に属する
世界という二つの世界しかない」。
「キリスト教徒と異教徒」「白人と有色人種」「いい戦争とわるい戦争」
「絶滅と共生」・・
白人がそのようであり続けたところで、
何も問題がないのなら、わざわざ論議する必要すらない。
問題があると思うから、議論をしようとする、
だったら「白人こそは人類社会を破滅に導く元凶である」
という問題の根本から目を逸らすべきではない。
問題の根本から目を逸らしつつの議論が、
何らの問題の解決にならないのは無謬の原理だ。
435 :
考える名無しさん:2010/10/14(木) 01:19:30 0
でも人類で最初に異教徒を絶滅させたのはイスラエルに進入した
ユダヤ人のヨシュアだよ。白人じゃない。
「ユダヤ人」などという人種は存在しない。
437 :
考える名無しさん:2010/10/14(木) 01:36:22 0
餅の美味さを味わおうとして、餅を食べたことのある人間に
その味わいを徹底的に聞き出して、その美味さを知識で
納得しようとはするが、決して餅そのものを食べようとはしない。
そのようにして、自分たちの服役の先にある浄土の満足さを、
浄土経験者に徹底的に聞き出して、その満足さを知識で
納得しようとはするが、決して服役自体に乗り出そうとはしない。
438 :
考える名無しさん:2010/10/14(木) 01:47:59 0
餅を食べたがっているのも、実は白人たち自身でしかない。
さすがに餅ばかり食っていると、飽きる。
439 :
考える名無しさん:2010/10/14(木) 07:12:23 0
>>431 ヨーロッパの学者の仏教批評を見てみると、参考になるところがある。
アテクシは、仏教は宗教ではなく、哲学である、と言う評をどこかで聞いたことがある。
反対に、仏教は哲学ではなく、ドグマの羅列である、と言う評も聞いたことがある。
これらの評は、仏教経典の内容の特徴を表している面がある。
「仏陀の言葉」などは、ドクマの羅列であると評させる欠点を持っている。
アーガマの中の空性の説明を見れば、これは宗教ではなく、哲学だ、と言うであろう。
老荘の教えはタオイズムとして、ヨーロッパに紹介され、その価値を知っている人が確かに居るようだ。
なにぶんそれを消化しようと言う欲求が希薄な土壌のせいで、一つの主義主張とはなっていないのだともう。
しかし、アテクシは、こんな話を聞いたことがあるのだ。それはドイツだったかもしれないが、
ある女性が、自分はタオイズムを信じている、タオイズムで救われた、と言う告白である。
それは大いにありえる話で、むしろ当然といって言いのである。老荘は順序立てて
説明してるのであり、その説明は、どの哲学どの宗教をも批評する試金石になるものだからである。
要するに欧米の哲学宗教も、真理真実が何であるか明確に把握していないのではないのか、
といえるのである。
本当に何も分かってないんだな。
君臣義あり、父子親あり、そして夫婦別あり。
純粋に妻であるのならば、上知と移らない下愚でも全く構わず、
むしろそのほうがいいぐらいなんだが。ノミの夫婦だったりするよりはよっぽど。
ただ、「中人以上には、以て上を語るべきなり。
中人以下には、以て上を語るべからざるなり(雍也第六・二一)」
でもあるので、本格的な学問論議の相手には二度とならない。
欧州人が参政権を剥奪されたからって、
別にシャネルやグッチやプラダやヴィトンが潰れるわけでもないから。
商標関係の権利保護が緩和されて、値段はぐっと安くなるだろうが。
米英のメーカーはそっくり乗っ取られて社名から変わっちまうだろうが。
投機趣味ばかりで、物作りをちゃんとやっている企業がもうほとんどないんだな、これが。
ウィンドウズも中国のパチ物のほうがよくできてたりするし、風穴扇風機なんかもいらないしな。
443 :
考える名無しさん:2010/10/14(木) 13:30:50 0
>>339「東洋の神秘主義で私の心はやすらぎました」ってやつな。
おまえもう来なくていいよ。
十全な実践と共に真の安らぎを手に入れるのが東洋教学。
脳内妄想の自己欺瞞で不幸を幸福だと思い込んだりするのとは違う。
445 :
考える名無しさん:2010/10/14(木) 14:04:20 0
十全な実践(=2ちゃんねるへの書き込み)と共に
真の安らぎ(=反論受けても馬の耳に念仏)を手に入れるんですか。
へえw
446 :
菩薩:2010/10/14(木) 14:08:01 0
>>444 安らぎなど必要としていない人に言っても反感買うだけだから
やめておきなさい(^o^)
十全な実践(=基本は何もしない)と共に
真の安らぎ(=重権力犯罪者などではないことによる自ずからのすがすがしさ)を手に入れるのが東洋教学。
結局、極重の辛苦にあえぎ続けている
罪人をからかうのが面白いから、書き込みを続けているのでもある。
それによって自分の比較的なすがすがしさを反芻しているから。
448 :
考える名無しさん:2010/10/14(木) 15:34:04 0
欧米だと「東洋の神秘主義に毒された患者を科学で救う」のが
大流行だそうで。ヨガだのブッディストを科学で救うんだってよw
娼婦の私生児が自暴自棄にかられて好き好んで刑死した挙げ句に
生き返ったなんていうほどの神秘(笑)も、東洋にはないからねえ。
450 :
考える名無しさん:2010/10/14(木) 19:08:06 0
結局、学問や宗教をなめすぎだってことだ。
底を突かないと深刻さが分からないらしいな。
452 :
考える名無しさん:2010/10/14(木) 22:18:44 0
>>443 >神秘主義
神秘主義って何?
東洋の神秘主義、そんなものはないよ。
最も神秘主義ではない、道理理法の世界なのだ。
こういう理法の世界を、理解できないからといって、神秘主義といっているようだ。
453 :
考える名無しさん:2010/10/14(木) 22:35:07 0
なぜ道理理法が理解できないのか?
それは欲心があるからだ。
欲心を解きほぐすのが、道理理法なのであるが、
道理理法に執着するものが、道理理法を説くのであろうか?
道理理法を知ったなら、それを実行することが必要である。
お金に執着してるものに、お金は幻である、それを捨てろ、その訳は
縁起の産物に過ぎないからである、とその所以を説いても、お金に執着してる
当人には、トンと実行できることではないのである。
その場合は、その道理を説く人自体が、お金に執着しない行為をすることではないだろうか?
確かにその通りである。
上着を強奪するものには、下着をも与えよ、と言うことを実行するなら、
空の道理理法を実行してることになる。ところが上着まして下着をも取り返そうとする
人は、空の道理理法を実行しないで、上着下着に執着しているのである。
このように物に執着しておりながら、他人には、空の道理を説きそれを実行するべきである
といっても、誰が実行できるだろうか?自分も他人も実行できない教義は、滅ぶ以外ないではないか?
「ゴータマ」とか「アテクシ」とかの専門用語を使わなくても、
何もわかっていないものの無知蒙昧さ加減は識別できるな。
かわいいよ、わが妻よ。
455 :
考える名無しさん:2010/10/14(木) 23:09:37 0
>>454 妄想が鍛えられているね。心豊かだね。
豊かな人生だね。
下愚大学大学院博士課程卒、同大学教授と名誉教授を歴任という、
ある意味透徹した人生を歩むことで、上知者に奉仕し続けるのだ。
457 :
考える名無しさん:2010/10/14(木) 23:19:31 0
妄想を鍛えてきましたね。
頭の回転がすばらしいですね。
そちらこそ。
459 :
考える名無しさん:2010/10/15(金) 01:12:23 0
>>452「経験則の下等な世界」が神秘主義。
仏教とか儒教がそれなw
>>424 亀レス失礼
以下がおすすめです。
>>408 >『インド哲学七つの難問』宮元啓一
>『インド人の論理学 問答法から帰納法へ』桂紹隆(中公新書)
『東洋の合理思想』講談社新書も、仏教ばかりで、ヴェーダには触れられていませんが、
上記書籍の前提となる本でおすすめです。
461 :
考える名無しさん:2010/10/15(金) 10:21:30 0
朱子学によって四書が重んじられるようになった現今からすれば、
儒学中の儒学とは言い難いうちに入れられてしまうものの、元来は四書五経
を含む全経書の第一とされていた「易経」、その易が提示する法則こそは、
あらゆる現行の帰納科学をも超えた普遍的な物理構造の把握ともなっている。
それこそ、ピタゴラスやユークリッドの頃から西洋人が追い求め続けて来た
この宇宙この世界の概念構造的な真理を、遥か5000年以上の太古に
把握してしまっていた。ただ、その易によってこそ分かったこととして、
物理現象を傍観することはそれ自体が観察対象をかき乱す不確定性を
有している所があるために、易発見以降の中国において、対象への強度な
傍観に根ざした帰納分析的な学究体制などは根付かず、学者自身が
社会や政治の場へと積極的に介入していった場合の、直観的な
確立統計法則の把握に重きが置かれるようになった。
462 :
考える名無しさん:2010/10/15(金) 10:39:58 0
多少の時間軸の異同などもあるが、インド哲学も上記のような、
中国思想と同等の発展の仕方を総合的には遂げてきている。
今から約3200年前にその主要部分が確立されたという「リグ・ヴェーダ」、
中でも宇宙開闢讃歌などと訳される部位における宇宙構造の把握は秀逸で、
易よりはかなり文学的な表現に即しているものの、だからこそ定性的な
把握としては、易以上にも独特の荘厳が伴っているとすら言える。
そのヴェーダに始まり、ウパニシャッドを最終とするヴェーダ教学が
宇宙構造などを概念的に捉える側面を持っている一方で、仏教のほうは、
形而上的な概念論を一切「無記(答)」に付して、孔孟以降の儒学のような
確立統計的な直観論を主としている。孔子が「易経」を三回綴じ糸が切れるほど
熟読していたにも関わらず、政治社会における実践の場では易を語らず、
易占なども行わなかったように、釈迦もヴェーダに述べられているような
概念思考は述べなかった。それどころか、概念論として最も秀逸な
ヴェーダ教学の権威すらも否定して、バラモン教学と袂を分かち、
仏教といういち独立的な宗教教派をも派生させるに至った。
463 :
考える名無しさん:2010/10/15(金) 10:48:03 0
仏教の開祖である釈迦や、儒学の開祖としての孔子などがすでに
概念論よりも直観論を重んじていることから、その全てが経験則ばかりに
頼っているものだと思われがちだが、そこには易やヴェーダといった、
近現代科学理論をも上回るほどの正確さを伴った形而上学による裏づけが
ちゃんとあるのであり、西洋人が前世紀にやっと思いついた不確定性原理も
実質了解して来たから、概念論の膨張に走らず、直観論を重視もしてきた。
儒学はまだ、自分たちの正典である経書中に「易経」を入れているのでそれが分かりやすいが、
仏教はヴェーダ・ウパニシャッドを正典とするバラモン・ヒンズー教と袂を分かちきって、
ヴェーダなどの権威も認めていないために、それが形而上学の裏づけをも帯びているとは
察知しがたい。ただ、ヒンズー教の教学なども悟りにいたる過程の勉強としては認める
密教などに基づいて、梵我一如のヴェーダーンタ教学と、諸法無我の仏教教学とが
多少の用語や思索の異同はありつつも、類似性を帯びていることが提示されてもいて、
釈迦の独創であるかのように思われている仏教もまた、インド哲学宗教の伝統に
即して派生したものであることが明らか。今後ヴェーダやウパニシャッドなどの研究が
進むに連れて、仏教の形而上学的な裏づけ(形而上学否定の根拠)も進んでいくだろう。
464 :
考える名無しさん:2010/10/15(金) 20:22:54 0
>>460 なんかちょっとサイトの紹介なんかあれば助かるんですが。
どういう論争なのか、詳しくではなくて。
465 :
考える名無しさん:2010/10/15(金) 20:57:33 0
中国の老荘は研究が、日本人はインドやギリシャローマの哲学ほどに、なされていないんだな。
老荘は道教として中国では維持されているようだが、日本や中国以外に国に
広まってはいないんだ。
老荘が絶対の真理を説いており、その恩恵が絶大なものであることが、理解されていないのだろうか?
そもそも中国人が、それほど世界の人の尊敬を受けていないことと相まって居るのだよね。
それに比例して老荘が研究されていないんだと思う。
古代中国では、老荘は名家に引き継がれて、研究及び論議の対象になっている、と言うことを
人は知らないのだ。名家の書物は、公孫龍以外にほとんど無いんだろう?
恵子は、たくさんの書物を書いているということも聞いているが、ほとんど残っていないという。
恵子の論理は完全であると荘子は評している。
名家の論争はパルメとソクラテスの議論、インドでは、ゴーダマとバラモンその他の
宗教哲学派との論争に、相当するものだと思う。
名家の恵子はパルメと同じような運命になっていると思う。恵子の書物がいつか
古代の墳墓から発掘されるのを期待する以外ないのだろうか?
・・・・・・・
466 :
考える名無しさん:2010/10/15(金) 21:12:44 0
通やに参列してきた。ごぼう様が説教を語るのだった。
浄土真宗である。
仏教の正法について一切教えなかった。
正法がすべてなのだが。阿弥陀の名号などは何の値打ちもない。
阿弥陀の名称の値打ちがあるのは、正法を体得した人と言う意味で、なのだ。
正法抜きに阿弥陀の名称の値打ちはない。
このことを知らないで、阿弥陀の名称を唱えるものは、妄想の世界に入るものだ。
妄想とは地獄のことである。
哀れな日本人である。日本人は、他の面から見ても、到底尊敬すべきところがない国民である。
知性がナインである。生まれながら相なのである。それは、オランウータンが仏教を聞いても
それを理解することが内容にである。日本人と言うのは、やはり、人類ではあろうが、
知性を持つものとしては、類人猿に近いのであろう。
467 :
考える名無しさん:2010/10/15(金) 21:15:57 0
>>466訂正
通やに→お通夜
内容にである→ない様にである
468 :
考える名無しさん:2010/10/15(金) 21:35:12 0
しかし、犬や猫、猛禽類でさえも、縁起の理法に従っている。類人猿
でさえも縁起の理法に従っているのだ。従わざるを得ないのである。
それなら何の理法も理解し得ない日本人でも、縁起の理法に従っているはずである。
如何にしたら、解脱を遂げることができるのだろうか?少なくとも
その道に入らせることができるのだろうか?
日本人の様子を見ていると、難破船があり、その周囲にたくさんな人間が
折、めいめい何とかして生き残ろうとしており、他人よりも自分が生き残ろうとし、
そのために救助具を争って取り合い、お互いに罵りあい、殺し合いをしてる様の様である。
正法を誹謗する罰なのだが、その正法を聞き分ける知性がない。
目障りな阿呆だな。独り言は勝手に言ってればいいが、
不愉快だからE^mailのところにsageと書いて書き込んでくれないか?
470 :
考える名無しさん:2010/10/15(金) 21:54:41 0
正法に反した見解に固執し、それが真理真実であると信じ、
正法をあざ笑うのである。正法に反した見解とは悪魔の教えである。
ここは正法に反する教えも、それは悪魔の教えではあっても、それを
誉めてやり、海面に長い間漂流し、脱水症になっているなら、海水も良いと教えてやり、
彼らの思うようにさせてやるのが、良いと思う。
来世にもう一度、正法を聞かせてやる方が、今は良いのではないかと思うべきだろうね。
先にこっちを埋めとこうと思ったが、容量ともにまだ半分もいかないな。
俺の立てたスレじゃないことをいいことに、道理にも真理にも反する放言を押し通そうとする輩も多い。
やはりこちらは弟子スレということにしておいて、俺は師匠スレのほうに戻ることにしよう。
「東洋教学総合スレ門弟寮0001」
これがこのスレの正式名称。
次スレからは上のテンプレを用いるように。
孔子と共に顔淵や子貢や子路の名も残されているように、
高名な師匠の弟子の名もまた、後世にまで語り継がれていくもの
なので、門弟寮もまた4桁のスレ数に上るとしてもおかしくない。
宰我や提婆達多のように、出来の悪い弟子の名も多少は残るわけだが、
それもまた孔子や釈迦の威光の賜物。太陽の光を反射して光る月の如し。
473 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 10:33:08 0
日本の教育と言うのは、嘘の人間を作り出すところである。
嘘をつくことを教えるところである。
そもそも教育する主体者であるもの、それは国であるが、その機関に従事する
ものが、憲法法律の規定に違反して、教育してるのである。
このもの、具体的に言うと政府と自治体行政庁(教委)が、国民の能力を測定するというのである。
あるものは天才である、あるものは中ぐらいである、あるものは魯鈍である、あるものは白雉である、
と評価し、それを必要に応じて公表し、それに基づき差別化を実行してるのである。
これが憲法にいう国民の能力であるとしてるのである。
憲法にいう能力とはこのようなものでは、全くない。
で、どのように能力を測定するのかと言うと、民間の作成した能力測定テストなるものを
採用し、それを児童生徒に施行すると言う方法によってである。
この測定の結果を国及びその機関である自治体行政庁が受容し、それは取りも直さず、行政庁職員の
判断であり、行政庁職員は国民に対して、国民の能力を知っていると自認するのである。
それ故に、国民がどのように行為するか予測でき、それは科学的な推測であり、
その推測により、行政効率を促進させることができるというのである。
つまり、自分は、人間各自の真実を知っていると考えるのである。
474 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 10:34:42 0
>>473続き
個々人の真実を知るものは、、この世界の真実を知っているものでなければ有り得ない事である。
つまり、仏と言う一切知者でなければ、知っているのではなく、単に妄想してるに過ぎないのである、といわなければ ならないのである。
行政庁は、自分が仏となり一切知者となったと妄想するのである。そして妄想者の判断はこれまた妄想である。
国民の能力を知能テストで測定できるとし、それを実行すると言う行為が、妄想なのである。
人間は無我である。人間には実体がないのである。これは宗教的判断であるとして、行政庁は
採用してはならないとしても、憲法にいう能力とは、人間各自に固定的な実体があるもの
とはしていないのである。。
憲法のいう能力とは、「第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、
国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、
これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」
と言うところの、責任能力のことであるのだ。
こういう能力は、学校家庭社会全体で、教えられることにより養われるものである。こういう能力は
各個人に実体として備わって生まれてくるものではないのである。
しかし、根本的な、自由を求め、幸福になりたいという精神は、なければならず、
これこそ能力の根幹であるが、これはどの人間も平等にある、と憲法は宣言し、
それをあるのかないのかの測定は、してはならないと宣言してるのである。
にも係わらず行政庁はこの能力を測定してるのは、憲法違反行為であり、この測定に基づき
教育行政をするのは、これまた違法な行政といわなければならないのだ。
つまり政府行政庁は、違法に国民を差別する教育行政をしているのである。
475 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 10:40:39 0
>>473続き
アテクシがこのような国の行政をここ哲学版において言うのは、哲学の根幹に密接に係わる
問題だからである。
哲学の目的は、真理真実を知り、迷いを脱し、幸福になることであることは言うまでもないだろう。
であるから、憲法法律と、その目的において異なるものではないのである。
仏教でも、仏教と世俗の法とは違背しないと断じているのだ。
相すると哲学でも憲法でも規定する『能力』とは、『各人がお互いに幸福になるための智慧』
であると定義することができるのだ。
この智慧が何であるか、それを知らないのは、能力がないのである。
この智慧を知らないものが人の能力を測定するなど、許されないことである。
その誤った測定に囚われる行為をするからである。
仏教では、人の能力を測定するものは、自らを害する、といっている。
ただし、等正覚の菩薩及び仏だけが、それをできるという。
ここのところをよくよく考えてみるべきである。
あなかしこ、あ〜なかしこ
時代を順に追って書かれているはずの世界史の教科書で、
明らかにより歴史の古い中国やインドよりも、後輩格のギリシャや
ローマのほうが先に書かれていることが多いのもおかしいよな。
477 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 10:55:34 0
そこで、この智慧が何であるかについては、知者の言うところを参考にすべきであろう。
老荘は、無為自然であるとし、反するものを小ざかしい智慧と言い、これは作為であり、
人を束縛する智慧で、排斥すべきものである、と言う。
ゴーダマも同じである。パルメも同じである。イエスも同じである。
日本国憲法は、自由と権利の知識であるとしている。自由とは
いかなるものにも囚われない心情を言う。権利とは、社会生活するにおいて、
相手と自分との関係を言うものである。相すると、相手にも自由があり、自分にも自由があり、
それは平等である、と言うものと解すべきである。
自由とは、行為するにいかなる障害もないということである。障害がないということは
空性ということである。
これは、老荘、パルメ、ゴーダマ、イエスの言う智慧と同じである。
傲多魔
479 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 11:09:50 0
パルメって何だ?
480 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 11:23:22 0
481 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 11:34:06 0
パルメニデスの言葉なんてほとんど残っていませんよ?
482 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 11:47:04 0
>>476 エジプト文明は、その遺跡が証明するし、メソポタミアぶんめいもその遺跡が証明する。
インダス文明も同じ。ところが中国の夏とか、殷となると、その遺跡がないのである。
エジプトやメソポタミアとギリシャローマは交流があるので、そちらが優先するのは理由があるだろう?
>>481 パルメニデスが書いた叙事詩『自然について』と言うものがあるし、これはプラトンの『パルメニデス』
においても確認できる。
483 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 11:56:18 0
>>482 『自然について』は数行の断片がいくつか残っている
(それもどこまで原文か疑わしい)だけ。
プラトンの『パルメニデス』にいたっては完全なフィクション。
お前は読んだこともないのにいい加減なこと書き散らしてんのか?
484 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 12:10:27 0
>>483 日本の教育を受けると、その様な見識を持つようになる。
他のものと比較して、異なる見識は、それぞれ異なる人のものと考えるのが常識である。
それ故に、誰それの見識であると、記録することになるのだ。これは必然といえる。
ひとりの人が、異なる見識を、持つというのは、多重人格と言うべきであり、
その見識が程度の低いものなら、それでも良いが、高度な真理真実と言う範囲のもの
であれば、異なる人のものであり、特筆すべきものと言うべきだろう。
仮に一人の人の見識であろうとも、その特筆すべき見識は、特に取り上げられる価値がある。
ゴーダマの見識と同じであるとか、老荘の見識と同じである、とかが認められる場合、
特に、プラトン一人の見識であるというのは、誰にとっても認めがたいのである。
老子荘子もゴ−ダマもイエスもパルメも同じ見識を持っているから、これらの人間は
実は一人の人である、とはいえない。また、一人の人により紹介されたからといって、
これらが同じ人である、とは言えない。
妄想をいって人を騙せると思うのは、自分のためにならない。
485 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 12:40:11 0
>>482 殷代の遺構はすでに多く発見されているし、夏王朝の痕跡も、
まだ特定されているわけではないが、それらしきものが発見されている。
時代順であれば
日本縄文文明→オリエント文明→中国・インド文明→ギリシャ・ローマ文明
の順番であり、東西文明が互い違いに発展してきており、
常に一段階ずつ東洋が西洋に先行していて、文明の根幹に当たる
規矩準縄の扱いも東洋人のほうが秀逸である一方、西洋人のほうが稚拙。
今の世界史の教育体制が全般的に西洋史優先東洋史劣後になっているから
ギリシャやローマみたいな後発の蛮族文明が、質でも量でも古さでも全てに
おいて優る、中国やインドよりも先に置かれる大間違いを犯している。
486 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 15:25:12 0
>>482「世界のすべては古代ギリシャ起源」とされてる現状は、
かえって欧州人による発掘調査で覆されつつある。俺が個人的に
知ってるのはアリストテレスの機械の問題は偽書である、という
イギリス人歴史家の見解。
487 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 15:30:28 0
>>486 >アリストテレスの機械の問題
こんなことははじめて聞きます。これは一体何のことでしょうか?
488 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 16:36:32 0
>>484 > 妄想をいって人を騙せると思うのは、自分のためにならない。
これはあなた自身に一番よく当てはまりますね。
ろくに勉強もせずに知ったかぶりをしゃべり、
誤りを指摘されるとこんなわけの分からない言い訳をするようじゃ、
あなたの「東洋教学」とやらも底が知れてますね。
489 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 17:07:30 0
>>488 具体的に事実を指摘しましょう。世の常識をぶち壊すなら
その根拠を明確にしましょう。
490 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 17:22:21 0
プラトンの「パルメニデス」の登場人物としてのパルメニデスの発言と
実在した哲学者パルメニデスの見解が別物であること、
パルメニデスの『自然について』が数行の断片しか残っていないことは
どちらも西洋古典学の常識ですが?
491 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 17:33:18 0
>>490 プラトンの紹介するパルメの見解と、実在したパルメの発言の違いがあるというのなら、
具体的に、そこの部分を引用してみよ。
パルメの断片詩が数行であると言うのなら、その数行を引用してくだい。
492 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 17:36:17 0
そんなことは自分で調べろよ。
「世の常識」とか偉そうに語っていながら、
ディールス・クランツも読んだことがないのか?
どこまで「ゆとり」なんだよw
493 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 17:41:31 0
>>486 「イギリス人歴史家の見解」も何も、
世界史の年表を精査すれば、誰にでも分かることだもの。
国家や社会としての興隆も、基本的な古典文献などの成立も、
中国やインドのほうがギリシャやローマよりも500年程度先行している。
しかもその規模もギリシャ本国やイスラエルとは桁外れで、
ローマ帝国やアレクサンドロス東征期の勢力範囲をも上回る。
ギリシャ人が「アジア」の一言で片付けていた東方に、
ギリシャ以西の3倍以上の世界が、500年以上も昔から
先進的に発展していたのだから、身の程知らずにも程がある。
494 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 17:43:20 0
うん、ゆとりなんだ。
ちゃんと調べていっているの。
ディールス・クランツなど、しらないね。知る必要もない。
495 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 17:46:08 0
じゃ、何を根拠にプラトンのパルメニデスが実在した
パルメニデスの哲学が同じなんて言ったんだよ?
ただの妄想じゃないんなら、根拠を言えよ。
496 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 17:52:50 0
>>495 >じゃ、何を根拠にプラトンのパルメニデスが実在した
パルメニデスの哲学が同じなんて言ったんだよ?
読解不能。言い直せるだろう?はい、どうぞ。
497 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 17:54:41 0
「ちゃんと調べていっている」というのは、何を調べたのかね?
>>494 象牙の塔の内側の知識をわざわざ動員するまでもないって言ってるの。
Wikiだって年代まで間違っている場合は少ないから、知識量を稼ぐ上での資料にはなる。
一つ一つの個別の事象ではなく、全体的な社会や文化文明の物量的な成立の流れが
どちらのほうが早いかといえば、中国やインドのほうが、ギリシャやローマよりも500年以上早い。
しかもその規模も常時大幅に上回り続けている。自分たちこそは世界の中心だと
未だに思い続けている西洋人は、さながら、大柄な兄と生き別れたきりで、
未だその実在すら察知していない小娘の如く。
499 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 18:00:31 0
>>497 パルメの断片詩とその内容、プラトンの『パルメ』とその内容
、その他のパルメについての記事。
500 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 18:08:18 0
パルメなんて変な省略は止めろよ。無教養知ったかぶり丸出しだぞw
まあいいや、その「パルメの断片詩」とやらはどの本で読んだんだ?
501 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 18:15:24 0
502 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 18:21:57 0
503 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 18:28:55 0
ひょっとして君、
インターネットでいくつか検索して読み散らしただけの知識で
「これが常識だぁ!」とか偉そうに語ってたわけ?
こういう学問の基礎がまったく無い奴がよりにもよって
「東洋教学」スレにいるのはどういうことなんだ?
504 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 18:42:48 0
>>503 おまえがぼろをだしたのだ。
どのサイトでもその主は、できるだけ確実な根拠に基づき、論じ批評し、
解説するのが良いと考えていると思わないか?それともいい加減なことを
いって、恥を晒すのを当たり前と思って、苦労してサイトを立ち上げていると思うのか?
そんなバカなことなら初めからしないほうが良いと考えるのが通常ではないか?
そして今上に上げたサイトを見ると、やはりできるだけ根拠を明確にするために
パルメの主張を残した資料を提示しているのだ。
それに「これが常識だ、」と言うところの争点は、なんだったか?
よくよく反省してみよう。
人が真理を知るのは、人から人へと言う場合は、学問の基礎など必要ではないのだ。
そもそもそんなものはないのだ。生の人間にかかわる問題だから、人間である以上
真理真実を習得する準備は、常になされていると考えるべきである。
お前は相当頭の中にゴミが詰まっているのを知るべきであろう。
なんか、悲愴感が漂ってるな。
506 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 18:51:18 0
>>504で自分の醜態を誤魔化せると本気で思ってそうだな。哀れな奴だ。
507 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 18:51:25 0
妄想はしないほうが良い。少なくとも無意味で有ることを知ろう。
508 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 19:41:03 0
というか古代ギリシャって古代エジプトの功績を分捕って「俺が起源」って
主張してるような気がする・・
509 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 19:46:39 0
つうか、古代ギリシャ人は「俺が起源」なんて主張はしていないだろ。
近代ヨーロッパに「何事もギリシャが起源」って主張したがる奴はいたが。
510 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 19:53:05 0
>>508 古代ギリシャ人がエジプト人を差し置いて、自分が起源であるといったりした事はないだろう、。
ギリシャよりもエジプトの方が古いことはギリシャ人も認めていたのだ。
ただしかし、ギリシャ人は、特にアテネ人は、自分がギリシャの中で最も
芸術文芸政治制度において、模範となるものであると、自認していたことはある。
そして、ギリシャでも反省であると言うことは、世界での模範生であると言うことも自認していたのだ。
何を以って起源とするか、と問うならば、やはり民主主義を以って起源とすべきである。
民主主義とは、国民の幸福を保護する体制であるからだ。反して専制君主のエジプトなどは、
国民は君主の奴隷であり、君主の幸福が目的の体制だったのだ。
こういう体制は、自由平等ではない。自由平等の体制を確立したのが、ギリシャのアテネであると言う意味で、
起源はギリシャにありと言うのではないのか?
511 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 19:55:17 0
訂正
でも反省であると→で模範生であると
512 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 19:59:04 0
公理から演繹推論のみで定理を証明するという形で表現された数学って、
ギリシャ以前にはなかったんじゃね?
513 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 20:14:09 0
民主主義の起源がギリシャなら、
昨今の民主主義や自由主義に基づいた資本主義諸国の
限りない放辟邪侈と我田引水による10億人規模の
大虐殺の最高責任もギリシャにあるってことだな。
全西洋に先んじて破綻したのも当然のことだ。
514 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 20:19:01 0
「10億人規模の大虐殺」って何のこと?
515 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 20:22:09 0
516 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 20:31:12 0
517 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 20:39:21 0
>>510アテナイの民主制って存在自体が怪しいとされてる伝説じゃん。
支那の尭舜と同じだよ。
>>512何らかの定理を導き出すのは多く幾何学の面積の算出方法などで
用いられた思考方法で、古代エジプトじゃないの?つうかなんで白人や
日本人は
何でもかんでも古代ギリシャ起源にしたがるんだろ?
518 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 20:43:23 0
古代エジプトの数学に、公理から定理を証明するという構成のものが
あるというのは聞いたことがないな。君は何か知っているのかい?
519 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 20:45:12 0
>>516 理論の出発点として無根拠で設定されるのが公理で、
公理から論理的に証明されるのが定理だが?
520 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 20:56:01 0
>>518ヒエログリフで方程式とその解を記したとされるものが
見つかっている。それとそのような概念がないとしたら
幾何学の面積はどうやって計算するんだ?円周率に関する
計算もどうやって行うの?
521 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 21:01:38 0
>>517 民主制と言うのは、一人一人がいわば王様と言うことなんだ。
一つの真実が発見されるなら、それはすべての王様の者となるのだ。
つまり皆のものと言うわけだ。即ち、公共の利益となるのだ。
ところが、専制君主の体制の場合は、真理と言うものが誰かに発見されたとしても、
それは一人だけいる王様のものになるのだ。王様はそれを皆に公表し与えるかどうか
、自分の利益に拘束されるのだ。
このようにして専制国家では、みんなの利益と言うことが考えられないで、皆の利益になるものが
発生しても、皆のものにならないことがあった若しくはならないのが普通であったと思われる。
で、ギリシャの民主制では、公益は皆のものとして保護され、それは全世界の人に
同じく与えら得るものと言う考えがあったのだと思うべきだろう。
>>519 それはおかしい。基地外じみている。w
さ、世界不思議発見を見ようではないか。
522 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 21:20:51 0
>>520 「方程式とその解」も「面積」も「円周率」も数学の理論を
公理体系として表現することとは関係ないと思うが?
523 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 21:33:12 0
>>521 >それはおかしい。基地外じみている。
「公理」と「定理」に関する普通の見方だが、どこがおかしいと思うの?
専制君主の存在を忌み嫌うのは、国際性を前提にしているからだろうな。
全世界全人類が一つと化して、ただ一人の君主の意向に従うのならば、
君主は全世界全人類の利益を慮らねばならないから、結局誰しもの利益を慮ることが
自らの利益を第一に考えることとも共通する。すなわち仁義である。
525 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 21:41:51 0
526 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 21:43:57 0
>>522なんで体系として表現すると「古代ギリシャ起源」になるの?
527 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 21:49:49 0
>>526 「少数の公理だけから演繹だけを用いて定理を証明していく」
という数学の体系化の方法の起源が、
古代ギリシャではないかと言ってるんだが。
528 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 21:56:14 0
いやそんなのどこにもあるだろw
頭が爆発しちゃった妻もかわいいなぁ
530 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 22:19:39 0
>>523 >理論の出発点として無根拠で設定されるのが公理で、
根拠なく設定されるものに、『理』などと言う名称を用いることが基地外じみている。
どんな実例があると言うのか、その実例を見せてもらいたい。
531 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 22:36:02 0
アトムatomの語源はアートマンatman。
極大なるものに万物の根源を追い求めたか、
極小なるものに万物の根源を追い求めたか。
532 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 22:42:16 0
>>528 あるというなら、具体的実例を挙げてくれ。
君が根拠もなく「あるはずだ」と思ってるだけじゃないかい?
533 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 22:43:45 0
>>530 アホか。単なる訳語に文句つけても無意味だとは思わないのか?
534 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 23:00:38 0
>>533 >単なる訳語に文句つけても
単なる訳語って何だ?「根拠なく設定されるもの」を『公理』と言うのだろう?
公理と言うものは、公の認める『理』=『理性』と言う意味である。
理性がが同意するものが、根拠のないものである、と言うのは矛盾してるのだ。
理性が同意するものなら根拠があると言うべきであるし、理性が同意しないものなら、
根拠がないものと言うべきだ。
ハイ、どうぞ。
美しい牝馬
536 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 23:33:12 0
>>534 量子力学について議論しているとき、
「量」「子」「力」「学」という文字の意味から
「量子力学は矛盾している」と主張する奴がいたらただのアホだろ?
それがいまの君の姿だよw
537 :
考える名無しさん:2010/10/17(日) 08:40:30 0
妄想と言うものは、いずれ消滅する運命にあるものだ。
日本人は妄想するように教育されている。直ぐにしぼんでしまう。
妄想の世界で、生き延びようとお互いに殺しあう。
ほっとけほっとけ。
さて、孔子の教えと言うのは、どうしてこうも霞を捕らえるように感じるのだろう?
自分の親が日本人として日本の教育を受けていて、妄想人間になっているから
本来の人間としての力を出して子供を教育していないので、子供が親の存在を
認められないのだろうか?
さてこのことは前にも言ったことであるが、親と子の関係、兄弟同士の関係、
社会のリーダーへの服従、こういう人間関係を尊重するのは、儒教と無関係だと思われている
クリスチャンの世界に実によく実行されているのを見るのだ。
クリスチャンの世界と言うのは、空性を信じる人の世界である。この空性が
人を賢明にするに違いないのだ。
このことを説いているのが老荘なのだ。大道廃れて仁義あり、と言うのだ。
大道あれば仁義とは言わないのだ。仁義と言わない時は、仁義が自然なものとして
行われているのである。
538 :
考える名無しさん:2010/10/17(日) 08:41:30 0
>>537つづき
大道を説かないで、仁義を説くものは、その社会を消滅させる。なぜか、
仁義なるものはないのであるにも拘らず、仁義なるものがあると妄想させるからである。
仁義に執着させるからである。仁義に執着するとは、仁義を妄想することなのである。
このことを老子荘子は説いた。墨子は儒家を攻撃した。しかし為政者は
反乱が起こることを恐れて、服従を説く儒家を利用したのである。
ここに老荘の教えへの信仰が弱かった事実が現れている。やはりわが身がかわいかったのである。
老荘は黄老の術といわれるようになった。黄老の術と法家は密接に関係してる。法家は黄老の術
から生まれているのだ。
韓非子が墨縄を引いたように法の支配を作った、といわれるが、具体的にどのようなものか、言われてことがない。
いずれにしても法を支配を確立できるということは、黄老の術が有ってこそである。
黄老の思想が守られるように法律を制定するのが正しいのであった。ところが
始皇帝がしたように、それは始皇帝を守り維持するための法令であったのではないのか。
この点から言うと、墨家の行いの方が、老荘の思想に近い。
539 :
考える名無しさん:2010/10/17(日) 09:35:08 0
ついにキリシタンの正当化に話が及び始めたか。
558 名前:n[] 投稿日:2010/10/15(金) 01:01:21 0
善悪が無く、その報いもないと言えば、戒が浅く、軽率な者は悪事に走る事もあるじゃろう。
人々は善い事をしなくなり、獣のように争い合って暮らすじゃろう。
自らの欲にのみ従い、他から奪う事だけを考えるようになる。
そして実際に個我の観念を持つ者には、やはり悪事には悪い報いがある。
そのような教えを真に受けて悪事をした者は、この世で苦しみ、死んでからも苦しむものじゃ。
(Oni−Oshow)
540 :
考える名無しさん:2010/10/17(日) 09:59:11 0
キリシタンが善悪に囚われていないなんてことはもちろんなく、
個我の迷妄によって限りの無い悪逆非道に走り続けている。
しかもそれで救われるとする。キリストへの狂信に基づいて悪行を
積み重ねている自分たちこそは、破滅に陥った世界で優先して救われると。
「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」の浄土教の悪人正機とは、
似て非なるカラクリがその内に宿されている。阿弥陀様が悪人をも救わんとするのは、
一切の衆生を救おうとする仏教版の仁義=菩提心に即しているためであり、
天下万人を救い出す過程において悪人もまた救われる。「観無量寿経」における
九品九生のランク分けにも即して、極重の罪悪にまみれた悪人どもこそは
服役や禁治産や参政権剥奪なども要する、最も救いがたいものであるからして、
一切の衆生を救い出す阿弥陀様にとっては、これらの悪人こそは救済の腕の
見せ所となる。だからこそ「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」となる。
然るに、キリシタンの場合は、自分たちこそは悪行によって世界を破滅に
陥らせた上で、軍事面や経済面における徹底した我田引水にもよって自分たち
だけには徹底した防護策を講ずることで、自分たちだけは破滅から免れるとする。
実際の所、全く他力本願でもなく、そのくせして、一切の衆生を救い出すどころか、
一切の衆生を破滅に追いやった上で自分たちだけが甘い汁を吸うという、
阿弥陀様の救いとは全く真逆の、反仁義に根ざした悪行の積み重ねになっている。
もちろん、そのような自力の悪行による救済信者が、我田引水を続けたままに
阿弥陀様にもよって救われるわけもなく、一旦はムスリム世界裁判所などに
自首し、参政権剥奪や禁治産や入獄などの処分も被った上で、救われる。
天下万人一切衆生を救わんとする阿弥陀様の意向に基づいて、あらゆる
人間の中でも最悪の極悪人だったキリシタンやユダヤまでもが救われる。
それどころか、入獄後のキリシタンやユダヤを救い出すことこそは、誰しもの
救済を請願した阿弥陀様の腕の見せ所でもある。東洋人なおもて往生を遂ぐ、
いわんや欧米人をや。下品下生の救済困難であればこそ、救われぬはずがない。
541 :
考える名無しさん:2010/10/17(日) 10:54:54 0
キリシタン信仰・・・善人を破滅に陥れつつ、悪人である自分たちが救われる。
阿弥陀信仰・・・善人も誰しもが救われる中で、悪人である自分たちも救われる。
他者の利権を強奪することで自分たちが裕福になる、禽獣にも等しい共食いの論理が
キリシタン信仰には内在している一方で、阿弥陀信仰にはそのような共食いの論理は
備わっておらず、一切衆生が救われる中で、悪人の部類である自分たちも救われるとする。
人間が人間の財物を強奪することは、一から農作や物作りに励む場合よりもはるかに
手っ取り早く私益が得られるから、我田引水のキリシタン信仰によって富を得ることは極めて
たやすい。それに対し、もはや強奪対象すら存在し得ない、天下万人一切衆生を救済
せんとする阿弥陀様の試みは、未曾有の難業であり、到底自力だけで達成することなど
不可能なもの。だから、他力本願として、誰しもの助け合いを促し、なるべくそれが易行
であるかのようにも取り繕っている。どこかにマイナスの要素を押し付けることで自分たちが
プラスになるのではなく、誰しもがプラスへと導かれる一切衆生の救済。それはもちろん、
どこかに必ずマイナスを作ろうとするキリシタン信仰などとは相容れないものであり、
一旦は完全にキリシタン信仰が廃絶されてから、当然実現されていくものである。
542 :
考える名無しさん:2010/10/17(日) 11:44:11 0
また始まったか。キリスト教について何の知識もないくせに語るのは止めろよ。
何かについて語るなら、まずそれを十分に学ばなければならないのは当然のことだ。
そんな基本的な姿勢もできてないやつが「東洋教学」とは笑止千万。
543 :
考える名無しさん:2010/10/17(日) 11:51:18 0
聖書にそのまんま書いてあるじゃないか。
エホバやキリストを信じるものだけは、破滅に陥った世界で救われて、
異教徒はみんな滅び去って死に絶えるとな。
自分たちこそは異教徒をホロコースト被害に追いやるとも。
単純に考えて、一切衆生誰しもを救済することと、
他者を破滅に陥れてでも自分たちが豊かになることが、両立できると思うか?
544 :
考える名無しさん:2010/10/17(日) 13:37:30 0
v(・x・)vピスピス
他者を破滅に陥れてでも自分たちが繁栄できればそれでいい、
貧窮や戦乱の元凶でもある、我田引水カルトが平和を騙る空々しさ。
547 :
考える名無しさん:2010/10/17(日) 15:38:19 O
不生不滅
548 :
考える名無しさん:2010/10/17(日) 16:23:21 0
精神科医 香山リカ
精神科医 斉藤環
精神科医 和田秀樹
哲学者 東浩紀
社会学者 大澤真幸
社会学者 宮台信司
なまじ、悪知恵の付いた鶏鳴狗盗の学術屋などよりは、
知識はまだあまりなくても、向学心はある有志のほうが
教えがいも、教えることでの学びがいもある。
550 :
考える名無しさん:2010/10/17(日) 19:23:44 0
至高の名言の事を漢字二文字で何て言うんだっけ?
金言 格言 箴言 至言
他にも色々とあるが、それ以上というなら、
自白
552 :
考える名無しさん:2010/10/17(日) 20:10:52 0
自白はもっといい
「過てば則ち改むるに憚ることなかれ(学而第一・八)」
「過ちて改めざる、是れを過ちと謂う(衛霊公第十五)」
今という時代であるからだけでなく、普遍的な倫理性にも基づいて、
ギリシャやローマの過ちを性懲りもなく繰り返した
イギリスやアメリカこそは真の過ちなのであり、
まだ何も知らなかった頃の、初めての過ちである
ギリシャやローマに最高責任を押し付けるべきではないというのが、
当のギリシャやローマにも先んじた、中国の先哲の意向だ。
556 :
考える名無しさん:2010/10/18(月) 08:58:27 0
554-555
根拠も示せない癖に、偉そうにだけは振舞っている。ここはそんな不真面目なところじゃないんだよ。
557 :
考える名無しさん:2010/10/18(月) 10:34:04 0
根拠も示せない癖に、偉そうにだけは振舞うためのスレだろ?
発言の大半は、そんなのばかりじゃね。
558 :
考える名無しさん:2010/10/18(月) 10:54:41 0
ttp://bbs56.meiwasuisan.com/bbs/discussion/img/12829197880056.gif 死亡者数に3億から10億もの開きがあるのは、死亡診断書の取れている餓死者数が
約3億だからで、診断書の書けるような医師の診察にも与れないような劣悪な環境で
人知れず死んでいっている人々のほうが、遥かに多いと予想されるから。
診察できるような医師が十分な数だけいれば、餓死する前に相応の治療を受けて
ほとんどの人々が助かれたのだから当然。死亡診断という根拠を求めるのなら、
それ以前に餓死者は生まれず、根拠も提示できないようなところでこそ何億人もの
人々が死んでいってもいる。観察行為が対象の動向をかき乱す不確定性原理の一種。
診断書が書けるぐらいならそれ以前に餓死が食い止められている、
原理的に根拠を提示しきれない所にまで根拠の提示を求めて、
悲惨な現実から目を背けようとすることのほうが不真面目だ。
不確定性原理や非線形のカオスにもまみれた現実における、
数学的帰納法の万事への適用こそは、不誠実さの元凶だった。
560 :
考える名無しさん:2010/10/18(月) 11:28:54 0
> 不確定性原理や非線形のカオスにもまみれた現実における、
> 数学的帰納法の万事への適用こそは、不誠実さの元凶だった。
知ったかぶりで見当違いの学術用語を使うと、言ってたことのうちの
まともな部分まで信用されなくなるよ。
正直、虐殺被害者の大多数である、アフリカの黒人などに大した親近感は湧いてない。
ただ、それと同じぐらい欧米の白人にも親近感は湧かず、ブラックアフリカやインドからの
莫大な利権の収奪を嵩にかかって優位を決め込んで来るぐらいなら、こちらも戦略として、
数億人規模の大虐殺という、毛沢東も真っ青の国際犯罪責任を追及していくまで。
562 :
考える名無しさん:2010/10/18(月) 11:38:17 0
君は誰が虐殺されても何も感じないのかい?
「遠きを柔らげ、ちかきを能くし、以て我が王を定めん」
(「詩経」大雅・民勞)
近親の人間により親愛の情が湧き、遠方の他人などには親近感を抱けないのが人情というもの。
ただ、そのような切実な人情をも踏まえた上で、最遠方にまで柔和の配慮を行き届かせるのが「仁」。
近親に親しみ、人を仁し、物を愛玩する。近親ほどに親密でなく、物ほどに適当であってもならない、
遠方ではあれ人間である人々への配慮。今ならそれは全地球人類にまで及ぼすのが義務だ。
「近きを釈てて遠きを謀る者は、労するも功無し。
遠きを釈てて近きを謀る者は、佚して終わり有り」
(「三略」下略)
隣人愛や友愛に即した欧米人の釈遠謀近政策=グローバリズムは、
自分たちに利益を呼び込む戦略として有効であるのが兵法上でも認められている。
ただ、これはあくまで有事の兵法であり、平時においてまで性懲りもなく
行使すれば、それは場違いな戦闘行為であるからして、犯罪扱いされても仕方がない。
ただ、だからといって釈近謀遠に振れきるのもまた中庸を欠いた姿勢であり、
親に親しみ、人を仁し、物を愛する序列の伴った仁徳統治、近きもよくし遠きも和らげる
人情にもかなった統治であればこそ、泰平が長続きするのでもある。
565 :
考える名無しさん:2010/10/18(月) 13:14:43 0
>「近きを釈てて遠きを謀る者は、労するも功無し。
遠きを釈てて近きを謀る者は、佚して終わり有り」
どういう意味か、解説しないとわからない。
「身近なものよりも遠くのことに力を注いでいる人は、その苦労の割には報いられることが少ない。その反対に、
遠くのことよりも身近なことに力を注いでいる人は、思いのほか容易に所期の目的を達成することができる」
(中公文庫版「三略」の日本語訳)
黒柳徹子や藤原紀香みたいな、釈近謀遠の徒労に手を出すのは、むしろ憚るべきことなのであり、
自分たちにちょっかいを出してくる欧米白人の撃退という、身近な目的に即してアフリカ人やインド人の
救済も訴えるほうが、人情にも適っている上に、柔遠能近という所期の目的を達成しやすいのでもある。
567 :
考える名無しさん:2010/10/18(月) 16:08:46 0
568 :
考える名無しさん:2010/10/18(月) 20:28:23 0
孟子が「規矩準縄」などの、墨子の提唱した理念を一部借り受けつつも、
墨子にとっての最高理念だった博愛志向(兼愛)や親族への薄葬(節葬)は
退けた理由が、今となってこそ明らかになりつつある。
天下万人誰しもを兼ね愛して、その責任を取れるほどもの度量の持ち主など、そうそうにはいない。
仮にそれほどもの博愛を抱けた所で、その愛は親族や恋人、友人などに対する情念からはかけ離れた、
極めて抽象的な愛に終始する。そのため当人の切実な人間関係を阻害してしまうので、親族のような
近親中の近親への親愛と、天下万人を愛しようとする博愛の均衡を取った仁愛が、博愛一辺倒のために
親族の葬儀すら節制する兼愛などよりも現実的であるだけでなく、人として抱き得る最大最高の愛とも
なるのだとわきまえていたから、孟子は仁を称揚した上で、墨子の兼愛や節葬を退けたのだった。
569 :
考える名無しさん:2010/10/18(月) 20:50:51 0
おまえらの場合でも、天下万人への博愛ばかりに基づいて、
自分たちが大量虐殺してきたアフリカ人やインド人への罪を償おうとするなら、
その試みは失敗に終わる可能性が大きい。遠方の他人である人々に対して、
おまえらはあまりにも大きな罪を犯し続けてきたのであり、完全な切り捨ての対象とし、
一切人として扱って来なかった人々を、今さら博愛に基づいて救おうなどとすれば、
その空々しさがかえって被害者の怨みや第三者の侮蔑を買い、思い切って改悛した
割りには、その報いが辛らつなものばかりであることへの落胆に見舞われることだろう。
正直、今はもう博愛などに基づいたりはせず、ただ自分たち自身が可愛いことに専念して、
その自愛の行き過ぎからなる我田引水の積重が、人類の破滅や滅亡を呼び込みつつあるという
切実な問題性に即して、仕方なくなく自首を敢行するという、本音を露呈しつつの音を上げる。
その際、「自分自身が可愛いから」という動機に基づくのは不純であり、これは孟子が墨子の
博愛主義と共に糾弾した、楊朱の自己中心主義にも基づいている。自分自身が可愛いからでもなく、
かといって遠方の他人を愛しているからでもない、私の親族を、人類共々の自滅の不幸に
巻き込みたくないから自首をするという、親愛に即した姿勢こそは、博愛の空々しさを帯びてない
一方で、自己愛の醜さも帯びていない。おまえらが切実な動機に即して自首する上での根本的な
理念にもなれるのが、親族への愛を中心とする仁愛であり、博愛や自己愛ではその代役が務まらない。
570 :
考える名無しさん:2010/10/19(火) 01:59:18 0
自らの侵略の罪を償おうなんてまったくしてないよwというか正当化しまくりで
話し合いにさえ応じないよ=欧米帝国
こういった「力でねじ伏せて自己正当化をする勢力」の行き着く先は荀子が言う
「次々と争いが起きて誰もそれを止められず(人を殺しても後で正当化すればいいのだから)
最終的に一人の権力者がいるだけの世界」になる。だからこそ「そうなる前の
規定」を決めねばならないのだが、これを決定してるのが欧米みたいなキチガイ
なんで世界はぜんぜん安定しない。
571 :
考える名無しさん:2010/10/19(火) 08:02:48 0
どういう精神状態なんだ?
真、荒らしだ、失礼なものだ。
人の名誉を毀損する、これは犯罪である。このことを礼儀知らずというのだろう?
ところが、この名誉毀損と言う、礼儀に反することを、当たり前のごとく、反対に善いこと
のごとくにする人が日本にはとても多いんだ。
572 :
考える名無しさん:2010/10/19(火) 08:21:25 0
人の名誉を毀損することは、礼儀に反する、と言うのは誰も異議がないであろう。
また、人の権利の行使を妨害するのは、礼儀に反する、と言うのも異議がないだろう。
とすると、『礼』とは、『人の自由と権利のことであり、且つその平等性 』を言うものである。
この自由権と平等の意義をよく知っているなら、礼に於いて間違うことはないであろう。
外見に執着しない、真心からの『礼』を行えるであろう。
儒家は言うところに、根拠を持たないのだ。道家は根拠を持つので、
世間に出ない場合にも、世間に出る場合にも、その行いのあり方を、区別することができる。
この故に、法家が道家を根拠にしてる訳がわかろうというものだ。
釈迦をゴータマ呼ばわりする礼儀知らずが礼を語る。
>>570 糾弾にも耳を貸さずにいられるのならそうするだろうが、
(実際には全て盗聴済みであり、ただ聞かないフリをしているだけだが)
実際そういうわけにもいかず、このままいけば数十年内に人類全体が破滅に陥る。
いくら中東や中国などに責任を押し付けようとしたところで、破滅の元凶になっているのはあくまで
自分たち欧米人なのだから、欧米人が人類社会の主導権を放棄することでしか破滅を食い止められない。
その際に、今でもユニセフやユネスコあたりでやっているような、歯の浮くような白々しい博愛志向で
主権放棄なんかに臨めば、責任転嫁によって怨みを売って来た中東や中国の餌食となることが必定。
もちろん博愛という建前の部分だけでなく、自己愛という本音の部分を晒してもそれは同じこと。
名も知れず顔をも知らないような遠方の他人への博愛では脆弱に過ぎるし、自己愛では醜すぎる。
だから、他人でもなく自分でもない、親族程度の近親への親愛に根ざした仁愛に基づいて
降伏することが、現実的に最も切実な態度姿勢となる。
新約聖書の福音書やヨハネ黙示録では、親族兄弟での殺し合いすら予言されているので、
親愛に即した仁を育む以上は、新約信仰も捨てなければならない。アブラハムがエホバへの
生贄のために甥のロトを殺そうとして、それが義の根拠とされているような旧約への信仰も捨てて。
575 :
考える名無しさん:2010/10/19(火) 11:26:04 0
*
問題の元凶はあくまで欧米やイスラエルだが、
いま深刻な問題を呈しているのは、アラブや中国とて同じこと。
欧米勢力からの侵略行為への対抗目的で、アラブもイスラム原理主義を、
中国も毛沢東主義を派生させたのだから、イスラム原理主義や毛沢東主義に
基づいて欧米社会を裁くのでは、やり過ぎにやり過ぎで応対する報復劇となるのみ。
中国やイスラムの側に対しても、迎撃手段としての毛沢東主義やイスラム原理主義を
放棄させるために、欧米の側から先に、一化の理念に即した仁を嗜んで、一旦は
お蔵入り状態となってしまっている最優等の東洋教学=儒学や大乗仏教を復興させる。
極東と極西が太平洋で繋がっていることが判明した昨今、日出ずる処としての東方と、
日没する処としての西方の存在性はすでに無効化しているのであり、走光性の強大だった
東洋人種と、弱小だった西洋人種いずれもが、居住地の東西如何によって文化文明の
優劣までをも絶対化させてしまう段階にはない。未だ洋の東西による文化文明の優劣が
絶対的だった百数十年前までにおける、純粋な優等文化の根幹であった東洋教学を
今の東洋人が十分に実践できないこともあれば、今の西洋人が東洋人に先駆けて
実践できることもある。もはや地球上のどこの人間ばかりが東洋教学の私有権を主張
することもできないほどに、地球社会が自己完結しきってしまっているからこそ、欧米人も
自己流の劣悪教学による横暴の進行を、いい加減自制しなければならないのでもある。
577 :
考える名無しさん:2010/10/19(火) 17:11:03 0
井上のものは一切読まない、読む気にならないのだ。
こんな荒らしもいるんだ。
根底には儒教と言うものがある。儒教が中国の近代化を阻害してきたのだ。
こんなものを初めに含んでいるので、やることなすこと、人の揚げ足取りみたいなことばかり
、孔子が聖人だなんて、どうしたら相思えるのか、儒家に入り浸っていると
その様な妄想が当たり前になるんじゃないの?
孔子が四十にして迷わず、なんていっているが、真理真実の習得は、こういう年月を重ねれば
習得すると言うものではない。真理真実は直ちに得られる間をおかない修行により得られるのである。
列子が三ヶ月の修行を経て、習得したようなものである。
孔子は我を張って世間を徘徊してるうちに、その孔子の我は、世間から認められるようになって、
それを四十にして惑わずとか、七十にして則を超えず、とかいったものと解されるのだ。
この世間のもたらす栄誉名声評判などに、少しでも執着しているようなら、
絶対に、ニルバーナにいたることはできない。人の迷惑ものにしかなれないだろう。
井上さんは猛省すべきであろう。
578 :
考える名無しさん:2010/10/19(火) 18:38:48 0
目を背け続けていたい、不都合な現実を直視させられたからって、いきり立ってんじゃないよ。
それほどにも陰惨な現実をもたらしたのも、俺ではなく、おたくらやその祖先たちなのだから。
権力道徳学たる儒家による制動を振り切って、民主主義の大革命でやりたい放題を
押し通した挙句に呈したのが、今の資本主義先進国の栄華と、後進国における未曾有の大虐殺。
外界への迷惑を控えつつの恭しい発展ではなく、迷惑撒き散らし放題の釈遠謀近な
我田引水経済こそは今の資本主義国を支えてもいるのだから、儒家のような権力道徳を
捨て去ったことが、利害両面において極端になり過ぎた、近現代社会の根本原理であるといえる。
権力道徳←180度真逆のベクトル→権力犯罪
もういい加減、放辟邪侈が行き詰まりつつあり、何らかの方向転換を行なわなければならない以上、
完全に儒家そのものへとシフトするのではないにしても、儒学的なものの存在意義を見直して、
権力道徳的な方向性へと修正していく以外に余地はない。権力犯罪の推進という劣悪化ベクトルが
修正を要求される以上は、そのベクトルに180度相反する優良化ベクトル、権力道徳の甘受や
推進の方面へと移っていく以外に、何らの選択肢も残存していない。
579 :
考える名無しさん:2010/10/19(火) 20:16:10 0
白って色を黒にするのは簡単
黒って色を白にするのは難しい
純粋だったものは簡単に汚されていくけど
汚れたものは純粋には戻れない
純粋であることは何も知らないって事
知ってもなお純粋であろうとすることは天使であるための試練。夢、希望、理想
宇宙のカオスから始まり地球の男女やそれら矛盾を陰陽でまとめたとして
つまり人は全てを愛す事は不可能に出来ている
どんな善人も生きてる限り残酷な生き物であるという現実や絶望
太陽と月のように希望と絶望があり
表裏一体になっている宇宙には逆らえない
580 :
考える名無しさん:2010/10/19(火) 20:39:23 0
「孟子曰、楊子取為我、拔一毛而利天下、不為也。墨子兼愛、摩頂放踵利天下、為之。
子莫執中、執中為近之、執中無權、猶執一也。所惡執一者、為其賊道也、舉一而廢百也」
「楊朱は何もかもを自分本位に考えて、天下のために自らの毛筋一つも役立てようとはしない。
墨子は誰しもを兼ね愛する博愛を解き、天下のためにはかかとをすり減らして頭まで達することすら辞さない。
魯の賢人の子莫はこの中間を採っている。彼のように中間を期することがまずまず中庸に近いとは言えるが、
中間ばかりに固執して臨機応変であることを忘れるのならば、ただ一極に固執することとも何ら変わらない。
私が一所に固執することを忌み嫌うのは、それもまた中庸の道を損ねる、一のために百を排する仕業だからだ」
(「孟子」尽心章句上・二六)
581 :
考える名無しさん:2010/10/19(火) 20:43:58 0
白って色を黒にするのは簡単
黒って色を白にするのは難しい
油絵を知らないのか?
582 :
考える名無しさん:2010/10/19(火) 20:45:08 0
名前を付けて保存
上書きして保存
583 :
考える名無しさん:2010/10/19(火) 20:53:38 0
ブリーチで黒光りちんぽを脱色できるって知ってた?
584 :
考える名無しさん:2010/10/19(火) 21:07:48 0
京都教育大学の、劇団のスレかと思った
585 :
考える名無しさん:2010/10/19(火) 21:53:11 0
何もかもをなかったことにできる、自首。
586 :
考える名無しさん:2010/10/19(火) 22:04:42 0
587 :
爆縮:2010/10/19(火) 22:22:10 0
人類を滅亡させる勢いで、自首。
というか、儒家と一君万民の皇帝制度をいっしょくたに議論しちゃいけないでちゅよ。
589 :
考える名無しさん:2010/10/19(火) 23:51:07 0
君臣侯公大夫士農工商
>>570のいうとおり、世界に一人の支配者しかいないような
独裁社会を未然に食い止めるために、君臣から商工階級までの
なだらかな序列を構築していくのが封建体制なわけだね。
まるで「史記」における紀伝体の記述順序のように。
今は「政財界」だから。
為政者と産業従事者の間に何らの緩衝材も入れず、
仁義を旨とすべきものと、我田引水でもいいものとの区別が
何ら付いていないから、為政者でも我田引水に走り、
商売人でも世の中全体の利益を慮っているようなフリをする。
もちろんフリなだけで、本当は自分の利益こそが第一なので
結局、世の中に誰一人として本気で仁政を試みる人間が
いなくなるのが、政財癒着の平等化社会の実情。
為政者も含めて、誰も彼もが私利私欲を争った挙句に、
政治家ですらないような、金融会社の社長あたりが天下に覇を唱える。
591 :
考える名無しさん:2010/10/20(水) 09:54:40 0
孔子は、最盛期には魯の宰相ともなったが、基本は士大夫の身分であり、
目上の大夫だった陽貨の機嫌をうかがったりの、せせこましい言行も見られる。
今でも君主制の国家では君臣関係があるし、侯公もその事務的な役割が
都道府県知事や市町村長などに引き継がれている(ただしそこに権威はない)。
第一次産業と比べての、第三次産業や第二次産業の肥大化は見られるものの、
産業階級が農工商といった生業に就いて私益を稼いでいることも同じ。
ことに、士大夫だけはいない。
権威性を伴った道徳的権力者としての君臣侯公と、利欲に走ることも自由な
産業階級との緩衝材となり、両者の架け橋ともなる士大夫階級が絶滅して、
代わりに実定法というヤクザな取り決めと、その遵守を強制させる法務機関が
設置されているのみであり、政財界がトップ同士では癒着し合う反面、農家や
町工場、小売業などを営むような庶民と権力者の疎通は途絶してしまっている。
592 :
考える名無しさん:2010/10/20(水) 10:14:53 0
君臣侯公なんて、いつの時代にも数えるぐらいしかいない。
一方で、産業階級は世の中のほとんどの人数を占める。
両者の断絶を避けるために、昔なら王侯の命を帯びた士大夫階級が
「君子(王君の子分)」となって、仔細の徳治にまで勤めていたわけだが、
今ではその全ての業務が法律や法律家に丸投げされて、公務員が
君子としての徳性を養うことなどは完全に反故となっている。
公務員の自助努力を怠らせ、法文に書いてある通りのことしか
被治者にあてがわない法治社会は、自明に権力機構の無機質化を生じ、
トップ付近の独裁者と、それ以外の奴隷という二極化した状況に全社会を追いやる。
トップ付近の独裁者も、自分自身は表舞台に立たず、傀儡と化した表向きの
為政者を裏から操るなどして、自分たちの存在性を被治者の大部分には
知らせまいとする。そうして、壮大な欺瞞上の「民主主義社会」が捏造される。
593 :
考える名無しさん:2010/10/20(水) 15:55:53 0
雨音がする
草木がおしめりを喜ぶ声がする
久しぶりに庭木も葉を濡らして水を滴らせている
雨だ
触ると冷たい水しぶき
私の手のひらではじかれる
雨だ
地面の上にも屋根の上にも雨音が響いている
あちこちが水音に取り囲まれている
雨水の流れている音がする
594 :
考える名無しさん:2010/10/20(水) 17:24:03 0
595 :
考える名無しさん:2010/10/20(水) 20:14:03 0
私は見た。
深く暗い深海から怪物がやってくるのを怪物は私から世界を奪った、そして世界そのものになった。
色を、存在を、感情は消え去り、永遠に居場所を求めてさまようだけの地獄に私は居た。
神を殺した怪物を滅ぼすことは出来ない、名前を失った怪物、名前のない怪物が誕生した。
名前のない世界を私は見た。
一人の男がその世界に現れた。
その男は笑った。
名前のない世界に名前を与えてくれた。
死なないように、僕自身が怪物なってしまわないように、与えてくれた。
名前なんて要らないんだ。
僕は名前のない怪物なんだから、名前なんてなくても幸せなんだ。
今はそう思う。
596 :
考える名無しさん:2010/10/20(水) 22:07:18 0
今度はあまりよく状況が判らないが、一つ判ったことがある。
神には名前がない、と言うことである。真理真実には名前がない。
名前は相対的なものであるとすると、神に名前をつけると神が相対的なものになってしまう。
そこで、カトリックのバチカンが、神の名前を唱えることをしないで、主と言うことにしたということを聞いたことが
あるが、どうか?
その理由として、神に名前をつけると、神をギリシャ神話の神の一つにすることになるから、と言うのである。
クリスチャンでもエホバの信者を自認するものは、エホバに固執している。
カトリックは、唯一と言う意味をよく理解していると思う。彼らがもう一歩進むなら、
仏教の教えに到達するだろう。また回教徒同じで有ることを知ろう。また老荘と同じで有ることを知ろう。
要するに、この世界の宗教上の争いは、根拠のないものであることが判る所に近づいて居るのである。
後は、そういった上ずり気味な含蓄の吐露の場を、
東洋教学ではなく、アニメか少女漫画あたりに持っていくことだよ。
598 :
考える名無しさん:2010/10/21(木) 04:55:31 0
「プライド」とは「誇り」だ。誇れるものが何もない人間にはプライドなんて有り得ない。
誇れるものがない人間が抱くプライドなんて「私欲」を解消したり「快感」を得るツールとしての
「情」や「念」でしかない。
一般的に「間違い」や「勘違い」と呼ぶ。最も質が悪いのは誰もそれを教えてくれないこと。
600 :
考える名無しさん:2010/10/21(木) 07:34:25 0
ヒンズー教徒がいうところの「リンガ」っていえば
日本にもそれ関係の祭りってけっこうありますよね
601 :
考える名無しさん:2010/10/21(木) 12:43:04 0
白骨サブカルとカルトのパワーで体制打破かね
603 :
考える名無しさん:2010/10/21(木) 13:01:20 0
いるのかね?
604 :
考える名無しさん:2010/10/21(木) 14:49:22 0
605 :
考える名無しさん:2010/10/21(木) 17:24:45 0
皆さんは、保険と言うものに入っているのではないですか?
そんな人が、ニルバーナには入れるなどと思っていてはいけません。
ニルバーナに入りたいのならば、一切の保険を捨てましょう。
公的保険もいうまでもありません。
アメリカが国民皆保険制度を作ろうとして、今法案が成立したんでしょうか?、
それまでこういう保険はなく、そして今も、この保険に反対する人が多いというのは、
アメリカ人の、心が大きく、自分の身体にも執着しないという、望ましい気風が
有るのであります。
せめて、アメリカ人においても、この保険法案が成立して施行されることになったとしても、
この保険に頼らないように、入らない自由を確保して欲しいものです。
と同じに、日本人でも、真理真実を尊重する人は、一切の保険を拒否しましょう。
606 :
考える名無しさん:2010/10/21(木) 17:31:20 0
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607 :
考える名無しさん:2010/10/21(木) 17:37:16 0
あ、大賛成なんですね。ありがとうございます。
一人でも、ニルバーナに入って欲しいものです。
608 :
考える名無しさん:2010/10/21(木) 19:03:57 0
そういえばこういう宗教団体があったね。
死んだままにしているという。
609 :
考える名無しさん:2010/10/21(木) 19:56:53 0
人間とは神の失敗作に過ぎないのか、それとも神こそ人間の失敗作にすぎぬのか。
未来永劫子々孫々の代まで家系を継いでいくつもりでもないのに、
仮初めの延命策である医療保険制度が捨てられるかよw
611 :
考える名無しさん:2010/10/21(木) 21:18:24 0
>>610 どうも矛盾してるような。
子々孫々まで家系を継いで行くつもりがないのだから、延命策である医療保険制度
などは、仮初めなものであるから、幾らでも捨てられる、と言うべきではないのか?
子々孫々代々の家系を紡いでいくつもりだから、
制度なんかに頼らずとも、子や孫からの扶助を頼れるんじゃねえかw
一代限りで家も絶やすつもりだからこそ、
自分自身までの老後扶助が殊更に問題になるんじゃねえか。
613 :
考える名無しさん:2010/10/21(木) 21:46:42 0
春秋戦国時代の中国の諸侯は、一万人の美女を擁する者もいたという。
彼女らに、子孫を残させようと言うのであった。
一体その実態はどうなったのであろうか?一万人の美女を殺すのは惜しいというので、
残されたものもいたということだろうか?その諸侯で、どれだけのものが存続したのであろうか?
途中で敗れたものなら、一族が滅亡の憂き目に会ったであろう。
こういうところの詳しい事情は、井上さんにでも頼まないとね。
しかし、、孔子の家系は今に残っているというではないか?
「齊の景公、馬千駟有り。死するの日、民コを稱すること無し。
伯夷叔齊首陽の下に餓う。民今に到るまで之れを稱す」
(「論語」季氏第十六・一二)
子孫代々の家系を紡いでいくつもりなら、ただ栄華を誇って美女をはべらしまくるばかりでもいけない。
首陽山に餓死した伯夷や叔斉ほどもの清廉さであってこそ、後世にも名を残し、
その家系を代々存続していくに足るものとなる。
615 :
考える名無しさん:2010/10/21(木) 22:08:08 0
616 :
考える名無しさん:2010/10/21(木) 22:11:20 0
何かに心頭滅却しているときは我失うですね。意識がないのが無なのかな…。
生禅 野狐禅
本当に形に囚われていないのと、
道徳主義であれ犯罪主義であれ、一定の形に囚われ続けているのと。
619 :
考える名無しさん:2010/10/22(金) 05:50:32 0
_,..-――-:..、 ⌒⌒
/.:;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;::.\ ^^
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道徳主義であれ犯罪主義であれ、
一定の形に囚われているのは同じ。
道徳主義者が善徳の形一辺倒でいようとするのに対し、
犯罪主義者は罪悪の形一辺倒でいようとする。
いくら自由を謳歌しようとしたところで、
一切皆苦の罪悪一辺倒などでいるのでは、
形に囚われている中でも最悪の部類だといえる。
たとえば、武術の定石で「脇を開けるな」というのがある。
脇の内側は人間の急所な上、脇を開けた状態で刀を振ったりすれば、
正中線に沿った人体の中心からの力が分散して、斬れるものも斬れなくなる。
だから不用意に脇を開いてはならないというのが、一つの鉄則になっている。
十字架に張り付けられて、両手を90度ずつ開かされている(実際には180度ずつだったともされる)
キリストの磔刑の姿は、人間の中心力を分散させる、最も脆弱な姿形となっている。
元より磔刑は、わざと受刑者の脇を開かせて無力化し、わき腹に向かって槍を突き刺すなどして
死に至らしめるわけだから、これから刑死させる姿としては理に適っているが、
あえて脆弱化させられた姿形にあたる、磔刑時の十字架上のキリストなどを崇めたてるのは、
わざわざ人として脆弱な形、罪悪にまみれて自明に苦しむ形に凝り固まった状態となっている。
形にはめられることを堅苦しがる気持ちも分からんではないが、
礼儀礼節や武道のような典型的な形から逃避した挙句に、
より劣悪な罪悪の形に落ち着くのでは、本末転倒でしかない。
そのような罪悪への凝り固まりを避けるためにこそ、礼儀や武道もあるのに。
623 :
考える名無しさん:2010/10/22(金) 10:50:06 0
ちなみに、お釈迦様が生誕時に右手指で天を指し、左手指で地を指して
「天上天下唯我独尊」と言ったときの姿は、合気道などで「天地投げ」と呼ばれる
一種の投げ技の形になっていて、この天地投げも脇が開いていると失敗し、
しっかりと脇を閉じて中心線から腕を昇らせていくことで成功するようになっている。
もちろん生誕時の逸話というのはウソだろうし、成長後の話としても創作かもしれない。
ただ、史実であれ創作であれ、一つ一つの逸話からして形式上の理にも適っているのが
仏教でもあり、自分たちから人工的に礼式を盛り立てていこうとする儒家以上にも、
自らが形に囚われないままに、自然と理想的な形式をも派生した宝庫となっている。
624 :
考える名無しさん:2010/10/22(金) 12:36:45 0
こんな迷惑メールが着たんだが↓
Merry-go-round
┌──┐彡
│\/│ 新着 mail
└──┘
匿名霊媒師より♪
件名:アナタに負のオーラを感じました…今すぐ連絡をして下さい…
負のオーラとかw知ってるわwww\(^o^)/
625 :
考える名無しさん:2010/10/22(金) 13:12:57 0
物事には何事にも正負がある。
男と女、凸と凹、そのいずれかを排してもう一方を取るというのではなく、
両者の正当な扱いをわきまえられるか、不当な扱いに終始するかにかかっている。
人はそれを善悪と呼び、善であるものに快を、悪であるものに不快を抱く。
627 :
考える名無しさん:2010/10/22(金) 14:21:38 0
628 :
考える名無しさん:2010/10/22(金) 16:50:53 0
629 :
考える名無しさん:2010/10/22(金) 18:18:08 0
630 :
考える名無しさん:2010/10/22(金) 18:36:07 0
病人につきまとわれてぴかぁ〜も可哀想だな
無職こそは、これからの時代のエリートとなる。
632 :
考える名無しさん:2010/10/22(金) 18:52:58 0
e
633 :
考える名無しさん:2010/10/22(金) 18:54:01 0
ニコ動画のじゅんいちは純一なの?
エリートってのは、イヤな存在だ。
自分たちの経歴の優秀さを鼻にかけて、
賤業に勤しんで来た下民どもを透徹して見下す。
そのいやらしさを、これからは高学歴や高収入ではなく、
無職の徒が負う。無為自然の道家が勤労志向の儒家に
優位を決め込んでいたように、何もして来なかった者こそは、
何をして来た者以上にも率先して尊ばれる。
もっと、精子を大事にしなければならない。
637 :
考える名無しさん:2010/10/23(土) 09:39:50 0
心が浄化と程遠いね。
ヤマカガシは、目の前に有精卵と無精卵があると、
無精卵には目もくれずに有精卵に飛び付くんだぞ?
639 :
考える名無しさん:2010/10/23(土) 11:36:19 0
パチッ☆-(^ー'*)(,_,*)ウンウン♪
そうそう、私誕生日なんです。今日|_-。) ポッ
See♪ ヾ('-'*)oヾ(*'ー'*)ノo(*'-') /~ You♪
昔は米などの食糧について執り行われていた石高制を、
電力供給についても適用するようにしたらどうだろうね?
千葉県主 井上政重 30テラワット毎時取り
電気自動車や電化住宅もじきに一般化するようになる。
電力供給を掌握した相手には、今だって大部分の市民は逆らえない。
641 :
考える名無しさん:2010/10/23(土) 14:15:28 0
一回きりの人生だから周りのことなんて気にせずに
したいようにしてみたらいいのではないかと思います。
サイバー封建社会
誰しもがやりたいことだけをやってられるように世の中はできてないんで、
やりたいこととすべきでないこと、やりたいこととすべきことの
折り合いを付けていく、その模範にこそ自分がなっていきたいものだ。
やりたいけどすべきでないこと・・・現行逃亡犯
やりたくないけどすべきこと・・・自首
義務だけでなく、欲求があるのも当然のことだが、ほんの少しだけ、
義務が欲求に先行する陽唱陰和が達成されれば、それだけで済むことだ。
645 :
考える名無しさん:2010/10/24(日) 09:44:16 0
義務も欲求もあったとした上で、義務が欲求に先行するのが吉で、欲求が義務に先行するのが凶だ。
義務が欲求に先行すらしていれば、後は愛し合おうがどうしようが構わない。
646 :
考える名無しさん:2010/10/24(日) 09:57:22 0
義務を欲求に先行させることを欲するのが最も高潔なことで、
欲求を義務に先行させることに義務感を抱くのが最も下劣なことでもあるだろう。
神や悪魔にその所業を仮託する以前に、自ずから高潔だったり下劣だったりする。
「徳を好むこと色を好むが如く(論語・子罕第九・一)」
義務を欲求に先行させることへの欲求を育てるのが儒家。
義務を欲求に先行させることの義務感を育てるのが法家。
欲求を義務に先行させることの義務感を育てるのがユダヤ教。
欲求を義務に先行させることへの欲求を育てるのがキリスト教。
649 :
考える名無しさん:2010/10/25(月) 09:54:24 0
孔子の肖像の面相が怪獣(蒙倛)のようであるのは、
「荀子」非相篇第五における伝承などにも即している。
怪獣のような面構えでいて、聖人でもある。これもまた
「巧言令色すくなきは仁なり(学而第一・三)」などの言葉に即している。
ダブダブの伝統衣装を着て、道の真ん中を歩くことも避ける
儒者の姿形は、当の中国においてですら、劉邦を始めとする
壮士から嫌われ者扱いされていたのだから、その外見はあくまで
「カッコつけるばかりが能じゃない」という反例の提示であるぐらいに
思っていたほうがいい。日本の武士も儒者の外見までは見習ってない。
650 :
考える名無しさん:2010/10/25(月) 11:38:52 0
インドでも中国でも、奴僕の身なりとして賤しまれていた剃髪をあえて行い、
原初には使用済みナプキンをも袈裟として用いていた仏教の僧侶なども、
あえて外貌の格好良さをかなぐり捨てる典型だったわけだ。
外見ではなく中身こそが重要な、教学の徒であればこその巧言令色のかなぐり捨て。
中身が大したこともないような匹夫匹婦がその外見まで真似すれば、見る影もなくなる。
651 :
考える名無しさん:2010/10/25(月) 20:32:48 0
今でもインドのサドゥーやタイの僧侶が着ているサフラン色の法衣、
チベットの僧侶が着ているエンジ色の法衣なども全て、
昔の乞食行者が使用済みナプキンやオシメを身にまとっていたことに由来している。
女子の初潮の祝いに赤飯を炊く風習なども、日本にあったりする。
韓国ネチズンが日章旗を「血の付いたナプキン」などと揶揄していることもあったが、
カレーがあからさまにウ○コ色をしているのとも同じように、東洋社会における
「故意なる不浄の標榜による厄除け」の風習の一種として、使用済みナプキンに近い
色調の前面への押し出しがある。インドから日本まで一貫してあることなので、
韓国人の不勉強がまた一つ露呈してしまった結果ともなっている。
漢の武帝の幼名も、厄除けの意味を込めて「彘(ブタ)」とされていた。
あまり吉祥でないものをあえて標榜する妙技は、もちろん中国にもある。
というか、中国こそは厄除けのための不浄標榜の聖地でもあるが。
652 :
考える名無しさん:2010/10/27(水) 11:21:58 0
なんと東南アジア及び東アジアと言うところは、自然災害の顕著なところだよね。
中国の水害と思っていたら、今度は台風、奄美の水害、要するに、台風が
発生し暴れまわるのだ。
今後はインドネシアで、地震津波と来る。
広い地域の各所で起きるのだから、一箇所に集中していないといえるが、
もっと広い視野で見ると、つまりヨーロッパと比較してみると、東南アジア東アジアに
集中しているといえる。
こういう自然の違いが、人々の暮らし人間性にも強い影響を与えずには置かない。
それとも人間が悪いので、天地が感応して、自然災害が発生しやすいのだろうか?
両方かもしれない。相するとこの地域と言うのは、世界の中で、地獄のようなところと言うべきだな。
653 :
考える名無しさん:2010/10/27(水) 12:10:40 0
つまり、旅行にでも出かけた場合、そこで、自然災害に会わないとも限らないのだ。
そう言えば、蒙古来襲が、自然災害のお陰で、日本人は免れたね。
また病気が再発したのか?
655 :
考える名無しさん:2010/10/27(水) 13:09:13 0
これがどうして病気?
656 :
考える名無しさん:2010/10/27(水) 13:21:45 0
「天のなせるわざわい(天災)はなお避くべきも、
自らのなせるわざわい(人災)はのがるべからず」
(「書経」商書・太甲中)
天災集積地帯:東洋
人災集積地帯:西洋
657 :
考える名無しさん:2010/10/27(水) 14:33:45 0
>>656 それは非常に問題ある教えのようである。
そこで、まずその教えが何であるかを、提出者から説明をしてもらおう。
さもなくて、こちらが勝手に解釈して論と進めると、後ほど議論が錯綜して
しまう。
この教えの提出者からこの教えの説明をよく聞いてから、論を進めるべきである。
さ、この書経とか言うものの中の、教えを説明してもらいたい。
《>「天のなせるわざわい(天災)はなお避くべきも、
自らのなせるわざわい(人災)はのがるべからず」
(「書経」商書・太甲中)》
の説明である。
はい、どうぞ。
頭よわそ。
659 :
考える名無しさん:2010/10/27(水) 18:36:18 0
人のためにならぬことを言って、人を騙し、その上に人の尊敬を受けようとするのが儒家じゃないのか?
《>「天のなせるわざわい(天災)はなお避くべきも、
自らのなせるわざわい(人災)はのがるべからず」》
これをおかしく思わないもの、そのものこそ致命的症状のうちにあると思う。
1+1=2ほどにも当たり前な教えを頑なに守ろうとするのも愚直だが、
その1+1=2に1+1=3で無闇に対抗しようとするのも愚劣だ。
661 :
考える名無しさん:2010/10/28(木) 11:03:13 0
そういうことなら、それで行こうではないか。
長い時間をとってしまったね。
天災も人災も一般に使用されている表現である、と言うことですね。
で、天災は避けることができるが、人災は避けることができない、と言う意味ですね?
天災は、自分以外のものから来るが、人災は、自分から生じる、と言うことですね?
人災は自分から生じるとは、自分にその災害の原因があると言うことですね?
アテクシはこんな単純なものではないと思うのですよ。
天災により人が嘆き苦しむのは誰も否定しませんよね。天災であるから
その苦しみは、人災によるものと、異なると、どれほどいえるでしょうか?
その区別は非常に難しいでしょう。
そして天災は避けようがないのですよ。どうして避けられるというのでしょうか?
人災でも、例えば、過っての蒙古軍により滅ぼされた国のことを考えて見ましょう。
蒙古軍に攻め込まれた城砦と、城砦内の火事が、強風にあおられて城砦を
焼き尽くすという場合と、どれだけ違うのでしょうか?
結論を言いますが、人の心と、自然な外界との境は、ないのであると言うことですよ。
こういう真理真実こそ、人を助けるものであるが、単に、ここに出されている論題のようなものは、
なんら人を助ける言葉にはならないということです。
反対に、人の心をさいなむ、苦しめる、絶望の貶める、言葉と言うべきであると思うのです。
間違いなくそうです。
こういう言葉を、ありがたがるとするなら、その人は、人間ではない、と言うべきだと思うのです。
卍解
663 :
考える名無しさん:2010/10/28(木) 11:41:20 0
>>661続き
それにしてもへたくそな言い方をしてます。
単純に一般的に言うと、天災は避けることができないが、人災こそは避けることができるものである、
という方が正しい
。
人災こそは、避けることができるものであるので、人災が発生すると、それの責任が
問われるのである。一方天災には、責任論は発生しないのである。
しかしこの「書経」の言うところは、何か馴染があるのである。何故だろうか?
664 :
考える名無しさん:2010/10/28(木) 11:58:08 0
>>663続き
《>「天のなせるわざわい(天災)はなお避くべきも、
自らのなせるわざわい(人災)はのがるべからず」》
これの真意は、簡単ではない。「1+1=2ほどにも当たり前な教えを頑なに守ろうとするのも愚直だが、
その1+1=2に1+1=3で無闇に対抗しようとするのも愚劣だ。」
といわれるようなものでは決してない。
天災は避けることができない、と言うのは公理である。それでは何故、避けることができるといったのだろうか?
この避けるという対象は、天災なのだろうか?違うのである。天才の場合は、
その責任が自分にないので、その故意過失から、自分を保護しておける、と言う意味を
、避けられるといったものなのだ。
そして一方、人災は、人間に災いの原因があるので、それは人間の故意過失
によるものであるから、人間はその穴埋めをすることにより、人災を解消することが可能であり、
その様な解消義務から免れることはできない、と言う意味なのだ。
これでは救いはどこにあるんだろう?
665 :
考える名無しさん:2010/10/28(木) 12:41:36 0
>>663続き
天災なら甘受しなければならないが、人災なら、損害を回復させることができるというのである。
その損害の回復とはどのようなものなのだろうか?
人を殺したのなら、自分の死を以って償うのである。
666 :
考える名無しさん:2010/10/28(木) 12:45:16 0
天災にも避けられないことはある。でも、避けられることもある。
人災は決して避けることができない。自業自得の自明な災いであるから。
不確定要素の入り交じる天災と比べて、人災は確定要素だけで成り立っている。
だから天災以上にも人災こそは避けようがない。
天災はともかく、人災だけは徹底して避けようとして来た人々にとっては至言だが、
天災ばかりを忌避して人災の防止を疎かにして来た輩にとっては苦言だろうな。
武門の家系でもないような女が死ぬ死ぬ言うもんじゃない。
生存欲たらたらな庶民のくせして。
668 :
考える名無しさん:2010/10/28(木) 13:25:32 0
ここは詭弁の博物館か?
669 :
考える名無しさん:2010/10/28(木) 13:31:50 0
詭弁だと思うのなら、そこを反駁すればいい。
「ひとが不正としていることをしないために不正をするな」という
ブッダのことばの725節に書かれてることの意味が分かりません
671 :
考える名無しさん:2010/10/28(木) 13:36:20 0
そこを引用しろよ。
672 :
考える名無しさん:2010/10/28(木) 14:04:16 0
>>666 >天災にも避けられないことはある。でも、避けられることもある。
なんか気の振れたような見識じゃない?
>人災は決して避けることができない。自業自得の自明な災いであるから。
それじゃ聞くが、生きてるときに故意過失を犯して人を苦しめておきながら、
その報いが来ないままに死んでいった人は、災いを「自業自得」していないのではないか?
これはどういうことになるのか説明、説明、ハイハイ。
673 :
考える名無しさん:2010/10/28(木) 14:08:39 0
>>658 >頭よわそ。
自分が頭弱いのなら、人のことを言わないことだ。
フォアグラって、食べられる化粧品みたいな味がするよな。
ほんとフランス人って馬鹿だよな。
675 :
考える名無しさん:2010/10/28(木) 14:48:01 0
詭弁のオンパレードだな
佐川がパリでオランダ女を同意の下に殺して、
臀部などの肉を食って、心神喪失扱いで日本に強制送還になったのも、
フランス人たち自身に身に覚えがあり過ぎたからだ。
自分たち一般こそは、化粧臭い女を食い物だと本気で倒錯しているから。
677 :
考える名無しさん:2010/10/28(木) 15:11:01 0
詭弁論=ソフィズムsophism=知識偏重≠識別知
グノーシズム(認識主義)=統覚機能に対して比喩的に用いられる認識の偏重≠アートマンによる真の認識の尊重
我れ思う故に我れあり=統覚機能が自己を認識主体であるとする錯乱≠アートマンこそは認識主体であるとする識別知
我れ思う故に我れあり
はブッダのことばにもかかれてましたよ!
無眼耳鼻舌身“意”
馬鹿な女ほど可愛い。
中国女なんか、抜け目なさ過ぎてちっともいいと思わない。
681 :
考える名無しさん:2010/10/28(木) 19:34:39 0
男だと思っているらしいねw。
やりにげされたとか顕正会か?
霊友会で都知事のマスコットにでもなればいい。
それでこそ上戸彩の上を行く。
684 :
考える名無しさん:2010/10/28(木) 22:22:02 0
今日は何を言っているのかわからない発言が多かったな。
ほのめかしは止めろよな。
もちろん服罪後の話。
精神がない。
687 :
考える名無しさん:2010/10/29(金) 08:24:30 0
妄想は、真理に反する。真理があるかないかが重要である。
こんな場末の掲示板から怨念放ってても一生理解されないでしょうね
問題は理解されるかどうかではなく、
理解を超えたものの価値が推し量られるかどうかだからね。
690 :
考える名無しさん:2010/10/29(金) 11:34:02 0
俺だって、東洋教学の深奥を理解し尽くしたなどとはとても言えない。
でも、理解し尽くせない中にもその価値を推し量り、十全な尊重の対象にしていこうとする気持ちはある。
物量的にも、その全ての情報把握すら一人の人間には不可能であることが明らかな東洋教学、
誰一人として、理解し尽くしたことを誇ることは一生できないのだから、
理解如何に全てを還元しようとすることが、即座に絶望を呼び込むことにもなる。
むしろ、一生涯を増上慢を抜きにした、貞節な童僕も同然の恭しさのままでいさせてくれるほどにも、
踏破不能な教学の大山脈を拵えてくだすったことにこそ、感謝の念を抱くべきなのであり、
修士や博士になったからといって思い上がり放題になるような悪癖のほうを諦めればいいのだ。
691 :
考える名無しさん:2010/10/29(金) 11:44:29 0
ほのめかしとは、人を混乱させる言動なのだ。
混乱するとは、妄想を起こすことである。
ほのめかしをする人、ほのめかしを受ける人、がいる。
ほのめかしをする人は、人を混乱させる人であり、ほのめかしを受ける人は、
混乱させられる人である。
692 :
考える名無しさん:2010/10/29(金) 12:14:49 0
議論を拒否する人は、このスレに来ることはないのだ。邪魔なのだ。
敬意を保てた議論ができればいいだけなのにね。
そしたらお釈迦様をゴータマなどと呼ぶ過ちも犯さずに済んだのに。
694 :
考える名無しさん:2010/10/29(金) 13:13:50 0
悪知恵と馬鹿力、ギリシャとローマ、イギリスとアメリカ、スネ夫とジャイアンの
ペースでものを考えてれば、そりゃあ知者への畏敬なんかも生まれるわけがない。
知者は尊ばれ、無知は恥じる、ドラえもんに頼りっきりなのび太のようで
あることのほうが、知識の醸成とその受容を滞らせるような障害は少なくて済む。
そのためには、知者のほうも悪知恵や浅知恵の持ち主なんかではなく、
世のため人のためやそれ以上ともなる上知、ソフィズムではない識別知の
持ち主でなければならず、知識を好きに悪用される「歩く図書館」状態でもいけない。
だからこそ、自己流の知識を振りかざして悦に入るのでもいかず、ある程度の
知識を得ただけで思い上がるような望みの低さでもいけない。たとえ人がそれでも
十分だと言ったとしても、自分はまだまだ、これでいいes ist gutなどと思ってはいけない。
馬鹿力は可愛くない。
馬鹿非力は可愛い。
学業一辺倒でもなければスポーツ一辺倒でもない、文武両道と馬鹿非力。
この二つがこれからのトレンド。今後300年ぐらいの間の。
697 :
考える名無しさん:2010/10/29(金) 17:31:32 0
真理真実の論が隠れてしまっているね。
馬鹿非力になることでの、真理真実の把捉を説いた道家。
>だからこそ、自己流の知識を振りかざして悦に入るのでもいかず、ある程度の
>知識を得ただけで思い上がるような望みの低さでもいけない。
知識を習うのではない、自己に知恵を結ぶんだ。
術事であっても技事ではない物が存在することを感じるとべき、
仕組みに捕らわれ流れを感じ取らず変化があることを静的にしか
考えないのは無能の証拠である、感じることは安易ではない、
非合理の馬鹿非力の領域にある、故に誰もが馬鹿の力を扱う
ことはできない。それは馬鹿を超えたところに存在する類だからだ。
常に物事が確定していると思いたいという願望は思考停止のそれと
同じである、揺蕩う対象、移りゆく対象は時に流れを変える。
故に知的合理性を追求するとたどり着く潮の流れ目に遭遇し
流れを読めず過去の合理性に流されてしまう。それは心という
力に支配されているからだ。知識を信じてしまった時点で知識以外を
信じられなくなる。故に知識が正しいという合理性の流れにには
逆らうことが不可能になる。それがおまえらの性質ってこと。
700 :
考える名無しさん:2010/10/29(金) 18:47:01 0
>>699 こんな論、誰がわかる?
仏教では、第一義諦を知らないでは、その他一切を解決できないという。
その通りなのだ。
第一義諦と難しい言葉を使うが、その意味は、世界の真理真実は何かを知ることである。
文武両道であるのが最高なのはもちろんだが、
馬鹿で非力であったとしても、さほど悪くはない。
馬鹿で非力な人間ですら、馬鹿力や悪知恵の持ち主よりは、まだマシだから。
702 :
考える名無しさん:2010/10/29(金) 20:25:31 0
自分を一角の人間だと思っているんじゃないw。
>>700 何様?仏様でもないのにお前のは俺主張にすぎない。
704 :
考える名無しさん:2010/10/29(金) 22:00:14 0
>>700 >俺主張
これが大事なんだよ。
で、俺主張とは無いんだ、と言うものなのだ。
無我、無我、無我。
〇〇宗vs××宗
語彙の解釈の違い
その解釈の間違い自体が罪
=刑法犯???
1+1=2というのが正しい教え。
1+1=1.1だったり0.9だったりするのが多少間違っている教え。
1+1=1000だったり1000000だったりするのが大きく間違った教え。
1+1=2ではない。というのが致命的な教え。
708 :
考える名無しさん:2010/10/30(土) 00:36:17 0
◎1+1=2という正しい教え:
儒家 バラモン・ヒンズー教
○1+1=1.1だったり0.9だったりする多少間違った教え:
中国諸子百家(儒家と道家除く) インド外道教学(仏教除く)
△1+1=1000だったり1000000だったりする大きく間違った教え:
道家と仏教(ただし1+1=2をわきまえている余裕に基づく)
洋学(1+1=2であることをわきまえているわけでもなく)
×1+1=2ではないとする致命的な教え:
キリスト教 ユダヤ教
709 :
考える名無しさん:2010/10/30(土) 02:07:03 0
_ ....-ー、,-─ /
__ `ソ. -= =- i、-= =- / ̄/
\/゚ / ー-' ヽ \/ rへ,ノ
__>-へ| i .. -=ニ=- |ノ :.\_ 肩の力抜いたらどうかね〜?
.:/从へ、. `ニニ´ .ノ从rーヘ_
── = ニ /=、。。。。。。。。。。。。。。。。r=、ヽ
─ =ニ三 (◎ ヽ-─────(◎ )
ノ◎、 |\ \ / / | /◎、
(_,rへ `ソ /> ◎) (◎く| レ' ,rへ )
─ = ニ \◎'/ / \ ヽ、◎/
ノ / \ ヽ
─ =ニ三 ( ◎( ) ◎)
─ = ー、_ら
1+1=2ではないとすることが、一番苦しい。
苦しいからといって偉くもない。
711 :
考える名無しさん:2010/10/30(土) 11:00:30 0
仏教教義の真理真実に即している部分は、バラモン教義を論拠ともしている。
しかし、実際問題として、カースト制下のバラモンに寡占されている真理の教えを
一切衆生に開放するために、梵我一如を諸法無我と言い換えたり、一種異様な
方便を用いるなどして、バラモン教義との同一性を煙に巻いている。
仏教教義が難解不可思議であるのも何のことはない、
ヴェーダ・ウパニシャッド教学のいち解釈であることを隠蔽しているからだ。
712 :
考える名無しさん:2010/10/30(土) 11:24:13 0
>>711 >梵我一如を諸法無我と言い換えたり
>バラモン教義との同一性を煙に巻いている。
ゴーダマは、自灯明、法灯明といった。この法灯明とは、
自分で見分けることができた「理法」なのだ。
して、その理法とは、縁起の理法及び空の真実なのである。
この理法は全く自分にあるのである。ここが他の宗教と異なるところである。
他の宗教とは、バラモン教である。
バラモン教では、自分と係わりなくブラフマンと言うものが有ると説き、そのブラフマンと
自分とは一つであるというのである。
そこで、このブラフマンが何であるか、そしてこれと一つである自分とは何であるか、
ここのところを、どのように説いているのでしょうか?アテクシは残念ながら、
その説くところの理法を聞いたことがないのである。
しかし、ゴーダマの教えによるなら、バラモンの説く、ブラフマンと、真我とがどのようなものか、
推定できるのである。
バラモン教が仏教を説明するのではなく、ゴーダマの仏教がバラモン教を
よくよく説明するのである。
これはバラモン教を原点とするヒンズー教において、シャンカラが
哲学的に仏教に近づくことにより、説明したものと、アテクシは思っている。
あなかしこ、あな〜かしこ。
713 :
考える名無しさん:2010/10/30(土) 11:25:16 0
仏教は、真理の教えであると共に、自由の教えでもある。
「真理は人を自由にする」というイエスの主張とは相反して、
真理こそは人々をカースト制や法典によってがんじがらめにする。
そのカースト制下において、比較的裕福な王族階級に生まれながらも、
バラモンを最高権威とするカースト社会が、多くの被差別階級を生じてしまって
いることに辟易した釈迦は、制度外沙門となっての自由の追求に身を投じた。
釈迦が単に「真諦」と呼んだのは、実はバラモン教義とも同じガチガチの真理。
一方で「俗諦」と呼んだのが、イエスが説いたような俗世での放辟邪侈の法則。
真諦はまさに本物の真理であり、バラモンが最高のものとして掲げているものだが、
その真諦に基づいて実際問題、カースト制下の大差別化社会が生じてしまっている。
俗諦はまったく真理ではなく、むしろ真理とは相反する完全誤謬、「1+1=2ではない」
の法則なわけだが、バラモンなどが完全な否定の対象とするこの俗諦を、王族階級
としての富裕にも与った釈迦こそはそれなりのものとして捉え、それもまた最高のもの
などではないとした上で、完全真理である真諦と、完全誤謬である俗諦の
中正にあたる、「中道第一義諦」を打ち出した。
完全真理と完全誤謬すらも総合してしまっているのが
仏教であるために、完全真理のみを説いているバラモン教義よりも、
完全誤謬のみを説いているキリスト教義やユダヤ教義よりも、はるかに分かりにくい。
しかしそれは、「真理は人をがんじがらめにする」という、実際問題を釈迦が
どうにかしようと模索した結果編み出したものであり、真理一辺倒であるが故に
賤民の自由すら切り捨ててしまっているバラモン教義の超克を目指したものだった。
互いに相反する真理と自由の折り合わせ、それこそは釈迦の見出した第一義諦だった。
714 :
考える名無しさん:2010/10/30(土) 11:57:50 0
「真理」ってのは、一義的には天道の領分だ。
バラモン教であれ、道家であれ神道であれ、
天道に属する派閥こそは、純粋真理それのみを徹底して追求の対象としている。
仏教は、そういった意味での純粋真理の追究にすら止まらず、
自由を蔑ろにする純粋真理と、自由どころか放辟邪侈にすら走る純粋誤謬とを
同時に超克した、1+1が2であったり2でなかったりすること全般の真理を捉えている。
地獄・餓鬼・畜生の三悪道・・・完全誤謬の求道
修羅道・・・真剣勝負の求道
人道・・・道理の求道
天道・・・真理の求道
仏道・・・真理と誤謬の総合の中道的真理の求道
715 :
考える名無しさん:2010/10/30(土) 12:20:36 0
まあ、畏敬すべき先人を相も変わらず俗名で呼び捨てようとする輩の
自業自得での破滅になど、誰も同情の念すら湧かないわな。
仏の慈悲すらも、あえて振り切ろうってなもん。
仏敵は刑法犯ですな
シュードラ(奴隷)やハリジャン(不可触賤民、「神の子」の意)級の賤民にすら
真の自由を与えてやろうってのが仏教なのに、その仏教すら卑下の対象にしようとする。
自首や服罪後の、自分たちの復興の芽をもわざわざあえて摘んでるんだから、
ほんと馬鹿だ。馬鹿だから可愛いくても、馬鹿が極まって破滅に陥るんじゃあな。
馬鹿非力ではなく馬鹿力だからこそ自壊するのでもあるが。
718 :
考える名無しさん:2010/10/30(土) 18:38:31 0
ここは「教学」の場だから。
研究対象は「検体」として、解剖的な見下しの対象としていい産業学術の場でもなければ、
これと決めた相手はただただ狂信し抜いて、無制限に服従しなければならないカルト宗教の場でもない。
畏敬によって滞りなく師匠に教えを乞い、ふんぞり返りながらでは決して得られないような
分別の伴った上質な学知に与る、「礼記」学記篇第十八を語源とする「教学」の場でこそある。
奴隷化宗教か、思い上がり学術かの両極に振れきった、現状の学界や宗教界の是正のためにも、
あえて教と学を同一のものと見なして、狂信やニヒリズムに振れきらない、釣り合いのとれた
教学体制を打ち出している。学術ならば必ず思い上がらねばならず、宗教ならば必ず狂信しなければ
ならないという、洋学や聖書信仰のペースに馴れ過ぎてしまっている現代人にはとっつき辛かろうとも、
それが「教学」というものだから、思い上がった態度や狂信的な態度が、それだけでもスレ違いになる。
719 :
考える名無しさん:2010/10/30(土) 19:15:13 0
管首相は、日本と中国は数千年の関係が有る、といっていましたが、
本当は何年間でしょうか?
720 :
考える名無しさん:2010/10/30(土) 19:25:16 0
主人と奴隷の両極端、そのどちらともがいらない。
そんな、征服と服従の両極関係は、師弟の関係から夫婦の関係、
父子の関係から君臣の関係に至るまで、あらゆる道徳的な上下関係において相応しくない。
主導者と追従者の関係性がむやみに絶対化されたり、逆に完全な反故と
された横の繋がり(友愛)でしかなくなったりする両極端もまた、不適切なのであり、
上下関係はあるにしても、身分の違いの中にすら適当な孝悌や子愛が備わっていることが、
あらゆる上下関係のあり方として相応しいのであり、上下関係が適当な荘厳によって
堂に入らない限りにおいては、そのような上下関係自体が不適切なものにしかならない。
>>719 日中国交正常化後、38年来の付き合いだ。
ちなみに俺の実家は築45年。
女のロマン 死す
723 :
考える名無しさん:2010/10/30(土) 22:48:38 0
真面目なスレでなくなったな
思い上がり一辺倒の洋学や、狂信一辺倒の聖書信仰に惑溺して
教学の何たるかも見えなくなっていることこそは、何よりの不真面目。
まだ少女漫画の巨匠を「先生」とでも呼ぶほうが、真面目。
人の下に置かれることを徹底して忌み嫌った元祖ヤンキー、
ベンジャミンフランクリンのあの、容貌だけからすらにじみ出ている、
肥溜めの中のヒキガエルのような下劣さ。
先天的な外貌の美醜に関わらず、
上下関係を捨ててまで不当利権を貪る輩は、
みんなああいった雰囲気を漂わせるようになる。
727 :
考える名無しさん:2010/10/31(日) 08:34:13 0
上下関係の、「上」とは誰がなるのか?「下」とは誰がなるのか??
728 :
考える名無しさん:2010/10/31(日) 09:14:32 0
先日のポーランド戦のポーランドの選手達の様子をどう思った?
逆転されてしまったが、アテクシは、ポーランドが勝つに決まっていると思われたので、
途中から観なくなったのだが、それまでのポーランドの選手達は、理想的であった。
対して日本人は、哀れに思えるほど、自由がないのであった。
アテクシは、その理由は、ポーランドの選手達が、容貌の点で優れていたので、
日本の選手達は気後れしていたのではないかと思った。
さて、容貌がどうのこうのと言うのは間違いである。大事なのは、選手個人が、
行為に自由さがあるかどうか、ナのである。この自由な行為が勝敗を決するのであり、
選手の自由度に、容貌も、プレーもすべて依存しているのである。
徳川家康だって、きれい目の肖像であっても、肥満体の、腹黒さがにじみ出たタヌキ親父然としている。
実際、多くの妻妾をはべらせて、賄賂によって武将を篭絡するなどの悪辣な手段にも及んでいるが、
それでもフランクリンなどとは違って、目が澄んでいる。目的のために手段は選ばずとも、
目的は厭離江戸欣求浄土であったことが、瞳の致命的な濁りを退けている。
「人をみるには眸子(瞳)より良きはなし。眸子はその悪をおおうあたわず。胸中正しければ、則ち眸子あきらかなり。
胸中正からざれば、則ち眸子くらし。その言を聴きて、其の眸子を観れば、人いずくんぞかくさんや」
(「孟子」離婁章句上・一五)
実際には瞳そのものというよりは、瞳を含む眼球を取り巻いている顔つき全般が、澄んでいたり濁っていたりする。
徳川家康みたいな肥満体の爺さんでも澄んでいることもあれば、ディカプリオみたいな美男子でも濁っていることもある。
手段は賄賂だったり破約だったりの悪辣の限りであっても、目的が正当であればこそ濁ることの無かった瞳。
手段は演劇だったりスポーツだったりの綺麗目であっても、目的は金儲けに過ぎないことでこそ濁る瞳。
肥溜めの中のヒキガエル、己れの胸中のベンジャミンフランクリンは、いかなる表向きの美しさや自由の追求に
よっても退けれられない一方で、仁義道徳や礼節のわきまえによれば、たとえタヌキ親父であろうとも退けられる。
瞳が濁るのはなぜだろうか。
度を越した享楽のために、他者への迷惑を忘れてしまっているからだ。
自分たちが放辟邪侈を行き過ぎさせた挙句の、莫大な利権の強奪によって
多くの人々が貧窮や戦乱によって苦しんでいる。そのことから目を背けようとすることが、
焦点の定まらない濁った瞳を自明にさらけ出す。
「視るには明を思う(季氏第十六・一〇)」という、君子の徳目にも反した、
都合の悪いものからは目を背けていようとする姿勢が、自ずとその瞳を濁らせる。
731 :
考える名無しさん:2010/10/31(日) 14:23:17 0
>放辟邪侈
こんな日本語めったに見ない、どう読んだらいいのかも判らない
この語句を見るごとに、嫌気がするのだ。
「放辟邪侈(ほうへきじゃし.一発変換可)」
出典は「孟子」梁惠王章句上・七と滕文公章句上・三。
意味は「欲しいまま(放)であることにかたより(辟)、よこしま
「放辟邪侈(ほうへきじゃし.一発変換可)」
出典は「孟子」梁惠王章句上・七と滕文公章句上・三。
意味は「欲しいまま(放)であることにかたより(辟)、よこしま(邪)でぜいたく(侈)し放題」。
君らがfreedomとかlibertyとか、「自由(諭吉訳)」とかいった言葉で美化しているものだ。
真理と自由の両立という仏教の本義に即して、
本当に高潔な意味で「自由」という言葉を元から用いていた
禅仏教などにとっては、限りなく迷惑な誤訳だ。
734 :
考える名無しさん:2010/10/31(日) 19:15:41 0
自由が容認されるにしても、何もかものあらゆる自由が同時に容認されるわけでもない。
己れの欲せざるところを人に施す、聖書信仰の自由が容認されている以上は、
己の欲せざるところを人に施さない、儒学教育の自由はまったく容認されなくなる。
数百年単位の泰平統治を中国や日本で幾度も実現して来た儒家統治の自由が、
聖書信仰の自由が容認されてしまった時点で一切反故になり、絶対に再現不能となってしまう。
ある種の自由、「放辟邪侈の自由」が容認されたことによる、あまりにも大きな代償。
おまえらにいま自由があるように、俺などにもまた得られる自由があるのであり、ただ、
その自由はおまえらの自由とは決して相容れないが故に、今は完全な不自由の只中にいる。
放辟邪侈を排する、道徳規律の自由が俺にとっての自由であり、
道徳を排しての放辟邪侈がおまえらにとっての自由。互いに決して相容れることがなく、
今はおまえらの自由が容認されているために、俺の自由はまったく容認されていない。
自由とは放辟邪侈のこととばかり思い込んでいるおまえらにとっては異常なことかもしれないが、
放辟邪侈を排して道徳を打ち立てる自由もまたあるのであり、それこそは儒家教育の自由でもある。
洋学や聖書教なんぞが偏重されていることによって、全く容認されなくなっている、儒学の自由。
おまえらの自由が容認されていることの代償。「そんなものは存在しない」などとは言わせない。
735 :
考える名無しさん:2010/10/31(日) 20:44:21 0
儒家と言うのは自由というものを知らないんだ。
自由というものは、どんな場合であっても、解脱を言うのである。
孔子は、欲するままにして、則を超えず、と言ったということであるが、
文字通りであれば、これが自由を意味するだろうが、どうも孔子の言うことはね、
にわかには信用できないのだね。
例えば、自分の弟子のかなにいては、欲するままにして則を越えず、と言うとおりになるだろう。
しかし、全く無関係の人の中にいても、欲するままにして則を越えず、と言うとおりになるだろうか?
大いに疑問なのだ。
だから、おまえの言わんとする目的語抜きの「自由」が、
あるがままに放辟邪侈なだけだっての。
欲するままにして則を越えない自由も、またある。
おまえらが自首して服罪するぐらいに、
美も善も尽くされた音色だったことだろうな。
自由という名の放辟邪侈
道徳規律という名の自由
自首しなければ何も分からない。
自首すれば全てが分かる。
741 :
考える名無しさん:2010/11/01(月) 04:07:49 0
742 :
考える名無しさん:2010/11/01(月) 09:23:18 0
freedomでlibertyなんだね♪
743 :
考える名無しさん:2010/11/01(月) 09:43:46 0
自分勝手、味噌糞、の独裁者。
治癒不可能
744 :
考える名無しさん:2010/11/01(月) 09:46:01 0
金銭的、物質的な栄華を誇ってこその放辟邪侈だからねえ。
リサイクルショップで100円単位の安値を競っている、俺なんかにあてがわれてもねえ。
おまえらも早く「人間のリサイクルショップ」に入ればいいのに。
タバコのヤニにまみれた中古女も、
今の技術ならキレイさっぱり清掃されて売り出せるさあ。
746 :
考える名無しさん:2010/11/01(月) 11:17:20 0
なんかさ、古物屋の片隅から出てきた、古物の醸す世界みたいだな〜
ま、とにかく、孔子の思想はいけない。こんなものが中国二千年の歴史を支配してきた
、そればかりか、日本朝鮮までも支配してきたというのだから、困ったものだ。
大体孔子自体が見本としたものが、孔子から見て、何千年も前の人の思想だったというじゃないか。
とにかく孔子の思想は昔も今も、新鮮味がない。生きていないのだ。この思想にかぶれると
人は死んでしまうのである。
747 :
考える名無しさん:2010/11/01(月) 11:30:15 0
おまえらを自首させて大権を掌握した暁には、即刻、天皇陛下に臣従。
内閣や総理大臣を潰して、幕府と征夷大将軍かそれに相当する低位階の権力機構を復興。
俺も幕閣か中小大名ぐらいにはなる。
あと、「全国の教会を取り壊して孔子廟を設置する会」の会長にもなろう。
748 :
考える名無しさん:2010/11/01(月) 11:55:19 0
中国人は、ピタゴラス幾何学やユークリッド幾何学よりも遥かに秀逸な
空間把握を、5200年前の易の発明によって達成していたわけだから、
その5200年前の教えを約2600年前に醸成させた孔子は、
ピタゴラス以来、2600年以上も原始的な幾何学に拘泥し続けてきた
西洋人からすれば、今から2600+5200+(5200−2600)=10400年後の
思想哲学を構築しているのが孔子だということになるな。
孔子より約200年後代の儒者である孟子は10400+200=10600年後、
さらに約1400年後代の朱子は10600+1400=12000年後の未来哲学者。
悪いことをするぐらいなら何もしないでいたほうがいい無為自然の徳を
発見したのが約4500年前の黄帝で、その教えを醸成させたのが
2500年前の老子なわけだから、何もしないより悪いことをしているほうが
偉いと思い込んだ、約2000年前のイエスの教えを頑なに
信じ込み続けている西洋人からすれば、老子もまた今から
2000+4500+(4500−2500)=8500年後の未来人だということになる。
老子より約100年後代の人間である列子は8500+100=8600年後、
さらに約100年後代の荘子は8600+100=8700年後の先を行っている。
749 :
考える名無しさん:2010/11/01(月) 12:50:17 0
おまえらが“リサイクルショップ”に入ってからできることは山ほどあるのに、
今はまだ俺のほうがリサイクル品漁りぐらいしかできることがない。
これもみんな、おまえらのせいだ。
おまえらとの共生が不能である俺のような人間にとっての、おまえらのせいだ。
ひるがえって、俺が活躍の場を得るときには、
おまえらには一切二度と活躍の余地はなくなる。それももちろん、俺のせいで。
俺との共生が不能であるおまえらのような人間にとっての、俺のせいで。
おまえらは俺の活躍の場を強制的に奪い去っているが、
俺はおまえらの活躍の場を強制的に奪ったりはしない。
放辟邪侈同然の自由の行き過ぎだけでなく、お互いに譲り合う礼節が
世の中に必要であることも知っているから、自由の争奪に臨んだりはしない。
だからこそ、何億人もの人々を餓死や戦死に陥れてまで、自分たちの放辟邪侈
を貪っている、おまえらの犯しているような過ちの二の轍を踏んだりもしない。
750 :
考える名無しさん:2010/11/01(月) 13:30:17 0
人の自由を奪い去ってまで自分たちの放辟邪侈を貪ることは、おまえらにとっては上等かもしれないが、
俺には拒絶事項であるところ。何億人もの人々を犠牲に追いやってまでの放辟邪侈などは
始めからご免こうむるから、「自由の争奪」という部分において、おまえらに倣うことだけはしない。
そこがおまえらと比べて、俺が独裁的でも自意識過剰でもない部分であり、
逆におまえらのほうが独裁的で自意識過剰であるところでもある。
たとえ民主主義で数億レベルの所帯数を稼いでいたところで、
その何倍もの人々を破滅に追いやりつつ自分たちの放辟邪侈を貪っているところから、
俺一人よりも独裁的で自意識過剰であるといえる。集団独裁主義の、集団的自意識過剰である。
751 :
考える名無しさん:2010/11/01(月) 14:26:17 0
楽しみだなあ、おまえらの自首後の世界。
想像するだけでも楽しいが、実現すればもっと楽しい。
決してこちらから強要するものではないが、楽しみだなあ。
今後300年は勸善懲惡の天下だからねえ。
来来来世紀のリバイバルでも目指して頑張るがいいさあ。
もう西暦じゃなくなってるだろうがなあ。
語言内在的神霊力量
全中国人や全インド人は格上の存在なので、その女を娶る気にはなれない。
格下の部族の女を娶ってこその、陽唱陰和。
おまえらが自首して楽しい以外に、今の俺にあるかよ。
757 :
考える名無しさん:2010/11/02(火) 02:46:38 0
ユークリッドとか三平方の定理って古代ギリシャ起源じゃなくて
幾何学の発達したエジプトの考え方じゃね?
悪いことでもいいから何かをしていたほうが偉い、
多動性障害の起源もピラミッドの石積みだしな。
インドでは犀の河原の小石積み扱い。
759 :
考える名無しさん:2010/11/02(火) 12:08:52 0
荘子は、皆が歩くからそこが道になり、道と言うのであるといっている。
道と言う言葉は共通概念なのである。
共通概念ではないもの、未だ共通概念になっていないものを、一人の人が
共通概念であるかのように言うのを、独裁と言うのである。共通概念ではないが故に、
誰もそれを共有するものはいない。
>格下の部族の女を娶ってこその、陽唱陰和。<<755
無意味な語句である。前句と後句に何の違いがあると言うのか?
で、前記の道と言う概念は、道とはいえない概念に対して発生する概念である。
つまり未だ野原のままの状態の原っぱに対して、道と言う概念が相対するのである。
したがって、命名するとは、相対的に生じることなのである。道は野原を生起せしめ、野原は
道を生起せしめるのである。野原がなければ、道はなく、道がなければ野原はないのである。
あらゆるものは名前を持ち、おのおのが相対的存在であるので、名前も相対的存在なのである。
名家と言われるが形名家とも言われるのはここに原因がある。
多くの人々を破滅に陥れつつ、船頭多くして船山に登る。
独裁者ばかりを非難してはいるが、ヒトラーやスターリンや毛沢東の独裁政治によって
死んだ人間の合計よりも、昨今の民主主義者の限りない放辟邪侈の
犠牲になった餓死者や戦死者のほうが遥かに多いのでもある。
761 :
考える名無しさん:2010/11/02(火) 16:34:02 0
名称のは性質により区別がある。名詞、形容詞、動詞、副詞、助詞である。
これらすべて、相対的に存在するもので、名詞ばかりが相対的存在ではない。
そこで、アキレスと亀のぱらっどクスを考えてみよう。
アキレスとは速いと言う性質の名称;形容詞の代替語である。亀とは遅いと言う性質の名称:形容詞
の代替語である。
然るに速いと言う形容詞に実体があると見る時、その実体をアキレスと代替語したのである。
遅いという形容詞に実体があると見る時、その実体を亀と代替語したのである。
然るに、速いと言うことは遅いということと相対的に存在してるもので、速いということがなければ
遅いということはなく、遅いということがなければ、速いと言うことはないのである。
速いと言う形容詞がないにも拘らず、遅いということがあるなら、遅いということは、実体としてあると言わなければ
ならない。こういうことはないので、必ず、遅いと速いは相対的に存在するものであると認めなければならないのである。
このように速いと遅いとは相対的に存在する名称であるのは、名詞である道が原っぱと相対的に存在する
名称であるのと同じなのである。
そこで、早いと遅いに実体があり、どちらかが欠けても、片方は存在すると言うのなら、
それではアキレスと亀が競争するケースを考えてみよう、と言うのが、このパラッドクスなのである。
結果は言うまでもないものであった。アキレスは亀を追い越せないのである。
762 :
考える名無しさん:2010/11/02(火) 16:52:13 0
アキレスが亀を追い越せないのであるから、アキレスが速く、亀が遅いという
と言う実体はないのである。アキレスと亀の前提となる仮説が間違っていたと言うことなのである。
ところが、この仮説が間違っていると言う事を認めないで、アキレスが亀を追い越せないはずはない、
と言って仮説の間違いを認めないものが現代においても多いのである。
そしてここでもう一つ付言しておこう。
アキレスと亀が同一線上からスタートした場合はどうなるのか、と言う問題である。
早さ遅さに実体がないというのが真理であるとすると、この場合でも、その真理は
支配していなければならないのだが。
アキレスは亀と平行に前進できないで、亀の方の湾曲することになる。
アキレスは亀を無視して前進できないのである。最終的に亀の周囲を
円を描いて周行するのでは無いかと思う。
ここは証明の余地があります。
格下の、少数部族の、ちょっと病気入ってる娘。
かわいいかわいい
764 :
考える名無しさん:2010/11/02(火) 23:37:13 0
形名家の白馬非馬説、堅白異同説、これらも根っこは上記のパラドックスと同じものであると思う。
形名と言う命名は前記したように、相対的に存在するものである。
白と言う命名は、白ではない色が前提として存在することが必須なのである。
そして次に、白は面積を持つが故に、形を持つ。白とその形は分離できないのである。
先に、一切は名称であると言った。名称は概念である。一切は概念である。
名称は、相対的存在である。白色がその形と分離できないことを言った。
色とは形なのである。概念はすべて形を持つものなのである。
対象を持たないものを命名することはないのだから。
相すると一切は名称であり、名称は色形を持つのである。
そうすると、白馬は色形を持つ。馬も色形を持つ。ならば、白馬は馬であると言って良いだろう。
なぜなら、白馬と言う概念も、単なる馬と言う概念も、ともに色形と言う概念なのだから、
概念が異なるから、白馬は馬ではない、とはいえないことになる。
どう思う、こういうことだろう?
766 :
考える名無しさん:2010/11/03(水) 10:26:23 0
ヒトラーやスターリンや毛沢東も悪辣な独裁者ではあったが、
それですら、今のおまえらの体たらくよりはマシだったってことだ。
虐殺被害を国内ではなく国外に押し付け、自分たちだけでの八割以上の
地球資源の独占によって、何億人もの人々が命を落とし続けている因果性から
隠蔽して目を背けていようとする自己欺瞞は、確信的に国内の不穏分子などを
虐殺していたかつての独裁者と比べても、内面的にもより劣悪なものだ。
独裁者の内面的などす黒さを忌み嫌ったところで、その独裁者よりも遥かに
大規模な権力犯罪を、脳内お花畑であるおまえらこそは犯し続けている。
自己の所業の実情をわきまえない脳内破綻が、確信犯以上もの罪を重ねている。
767 :
考える名無しさん:2010/11/03(水) 10:58:06 0
人により執着心の程度は異なると考えられる。またその種類も異なる。
最も執着心のないものは菩薩以上であるが、菩薩の周りには執着心に満ちた
地獄の住民が溢れているのである。お互いに殺し合い、誹謗し合い、騙しあっている。
こういう陰惨さは、執着心の産物なのである。
あるものが執着心を取り除こうとして修行を始めると、餓鬼畜生たちは、
傍によってきて、修行者の執着心を呼び起こし、自分たちの執着心の世界、即ち
地獄の世界に引きずり込もうするのである。
よくよく警戒を怠たってはならない。
一切益が無く、害を益だと思い込んで害を為す思考回路。
その全てを捨て去って、従順であることにのみ積極的な、貞節な童僕となるか、
もしくは自らのなせる災いによって、自業自得で破滅するか。
童貞になることで生き延びるんなら、もう今までの思考回路は全廃するしかない。
取っておいて何の得にもならない、破滅を不可分に内包した思考回路。
思考を喪失したからといって真我はなくならないが、思考そのものが
それであると思い込んで、必死で守り通そうとしてきた虚妄の個我はなくなる。
×思考は自我である
↓
○汝はそれである
10人の子供が川を渡るとき、9人までが渡りきって、最後の1人がまだ渡りきらずにいて、
その1人が「全ての子供は川を渡りきった」と思い込むように、
思考や視覚、聴覚や触覚といった身体機能を自己の居場所であると思い込む虚妄から目覚めよ。
769 :
考える名無しさん:2010/11/03(水) 11:49:59 0
>>768 >従順であることにのみ積極的な、貞節な童僕となるか
何に対して従順なのか?
何に対しても従順である以前に、
そんな何にでもえらそうに突っかかってくる、
腐った大人然とした自らの態度から是正していくことだ。
もっと、童貞らしく。
マッカーサーが「日本人は子供の集まりだから大人にしてやる」
などとほざきつつ、戦後の占領政策を行ったが、
日本人から童僕故の貞節さ、「童貞」は奪い去ったものの、
童僕故の蒙昧さ、「童蒙」はむしろ助長させた。
白髪のおっさんにヤンキース帽をかぶらせて、
ディズニーランドでキャッキャ言う醜態を晒させた。
童貞を尊重する大人は、武士のように高潔でいられるが、
童蒙を持ち越した大人は、腐れきった下衆と化す。
マッカーサーも童貞を捨て去った童蒙であったのであり、
童蒙を排した童貞尊重者だった戦前までの日本人を、
自分とは逆の位相の童僕ゆえに子ども扱いしていた。
本当は童貞であっても童蒙ではなかった、かつての日本人の
ほうが高潔な大人だったのであり、童蒙であっても童貞ではない、
マッカーサーの子供である今の日本の大人のほうが腐れきっている。
772 :
考える名無しさん:2010/11/03(水) 12:38:26 0
お前は邪魔だ。失せろ。学びもせづ、教えもせづ。荒らしだからだ。
削除願いを出すぞ。
>>771の話は「易経」の蒙卦の解釈に即しているし、
>>768の「10人の子供」の比ゆも、シャンカラのアートマン哲学から引用したもの。
童僕は童貞であることは吉だが、童蒙であることは凶であり、
童蒙に対しては折檻込みの強烈な説教すら必要であるとのこと。
インドでも童貞が処女以上にも貴ばれ、高貴なバラモンの男子は
30近くまで童貞のまま勉学に励むことが奨励されてもいる(「マヌ法典」参照)。
童貞をバカにしたり、平易な比ゆを不哲学扱いしたりする狭量さは
西洋哲学の領分であり、東洋教学の領分ではない。腐れ切った下衆な
大人を量産する産業学術ではあっても、真の聖賢の教学には当たらない。
774 :
考える名無しさん:2010/11/03(水) 12:47:45 0
単にヨサゲな言葉をもてあそぶ智慧だけはあるようだ。
そんなものは迷惑なのだ。
ヤンヤンデレデレ
かわいいかわいい
洋学は基本、すべて産業学術だから、為政者(君子)の学問が主体である
東洋教学の側からすれば、小人の学に過ぎない洋学全体を劣後や差別の対象に
するのが義務だ。それでこそ、士農工商の四民制や、ヴァイシャやシュードラの上に
バラモンとクシャトリヤを置く、カーストの四姓制度の方向性にもかなう。
もちろん、為政者より産業階級が差別下に置かれた上での、
平等や自由を謳う教学もまたあるのであり、仏教や道家こそはそれに当たる。
不可触賤民ハリジャン(神の子)までもが生まれてしまうほどもの
大差別化社会においてこそ、その緩和を目指す順当な自由・平等の教学が
生まれるのであり、民主主義の大革命で逆に君子と小人の立場を
ひっくり返してしまうだけのような、稚拙な自由主義や平等主義には止まらない、
本物の自由、本物の平等までもが優秀な教学によって育まれる。
「民、后にあらざれば、克く胥い匡して以て生くること罔し」
「民衆は、服従する支配者を頂かないことには、互いの欠点を正しながら生きていくこともできない」
(「書経」商書・太甲中)
まだ奴隷制も盛んだったころの中国の古言。
峻厳な支配者なんかいなくても済むんだったらそれでもよかったが、実際そうではなかった。
ヒトラーやスターリンや毛沢東みたいな、考えうる限りでも最も悪辣な僭主が支配する場合以上にも、
責任ある頭首がいない民主主義社会こそは多頭怪獣となって、過ちの大きさこそを競い合う
船頭の山登り競争に惑溺してしまい、人類史上にも未曾有の惨事を招く結果となってしまった。
確固たる権威を持つ為政者が君臨し、自分たちの欠点の正し方も分からない産業階級は
十全な差別下に置かれることが、今のおまえらの体たらくに即してこそ、義務性を帯びつつある。
君主から被治民までの、なだらかな序列が育まれる封建社会になるのが最善ではあるが、
たとえヒトラー級の独裁者による苛政が行われるのであっても、おまえらの放辟邪侈が
性懲りもなく存続し続けるよりはまだマシな結果が得られる。それほどにも、おまえらこそは
劣悪の限りを尽くした餓鬼畜生然としているのであり、マシなうちにすら入らない底辺となっている。
どうして君らは、そんなにカモネギなんだろうね?
あがけばあがくほど深く深く沈み込んでいく、泥沼のカモネギ。
沈んでも溺死、助けられてもいいご馳走。ほんとかわいいなあ。
産業階級の人間ってのは、本当に自分のことしか考えない。
多少は隣人や友人に親切する程度の気持ちはあっても、
遠方の他人や天下国家のことまでには、決して頭が回らない。
それは、普段から農作業や物作り、小売や金融操作などといった、
世の中の部分部分を構成する「社会の歯車」としての仕事ばかりをやっているからで、
当該の仕事について有能であろうとすればするほど、世の中の大局を見据える能力は疎かになる。
仕事のできる産業従事者ほど、世の中全体のことなどには頭を回さないという相反定理が
あるにもかかわらず、商工民としてこそ有能な人間などに政治的な権能までをも明け渡せば、
商工業について有能であればこそ、世の中全体を破滅に追い込む深刻な我田引水をも招く。
世の中の大局を見計らわねばならない為政者としての領分と、自分の利益すら追求していれば
それでいい産業従事者としての領分は、別個のものであるのみならず、互いに相反する要素すら備えている。
我田引水を排してこそ仁義が達成されるのに対し、仁義をかなぐり捨ててこそ我田引水は成功する。
我田引水の成功こそは自分たちの仕事の成功でもある産業従事者――大多数の一般庶民を、
政治の王座に就けようなどとする本末転倒が、当然のこととして世の中全体の破滅をも招いたのだ。
百姓の家系であるうちのばあさんは、本当に自分のことしか考えない。
いつも自分の身体のどこが悪い、自分が好きな食べ物、自分が好きな野球チームなどと
自分のことばかりを考えて口にし、こちらの身体の調子が悪かったりしても
「あたしもここが悪くて辛いのよ」などと、すぐに自分のほうに話を振る。
そんな、百姓としては健全な範囲の自意識過剰であるばあさんを、
養子縁組などもあったにしろ、一応は武家の血筋であるじいさんは「大したことない女」などと放言する。
男系社会では、妻が高貴であることなど大した自慢にはならず、百姓出身だからこそ秀吉も妻をえり好みしていた。
むしろ「大したことない女」を妻として娶り、老後も仲睦まじく過ごしていることを自慢の種にすらしているのであり、
大したことある女を妻として娶ることを自慢にするヴィーナス>アンキーセース型の、蚤の夫婦の逆をいっている。
偏屈なところも非常に多いじいさんではあるが、人を見る目は確かなようで、
戦前には軟派者の入る部類に入れられていた航空部隊に所属し、今は小さな自動車工場を営んでいる
叔母の勤め先の社長などが、「近頃は儲かりまへんなあ」などと漏らしていたのを聞いて、
もう今では数少ない同年代にも関わらず、「大したことない男だ」などと冷徹に言っていた。
俺自身、その血筋からも、自分のことや儲けばかりが問題である産業従事者の小人さ加減と、
自分や儲け以上のものを計り知る士人の君子さ加減との違いを、身に染みて経験してきている。
君子と小人、どちらともに奥深く関わって来たからこそ、両者の違いをかぎ分ける嗅覚は人一倍だと自負できる。
たとえ仁義統治者のフリをしたところで、奥底に儲け第一の性根=商魂が潜んでいれば、すぐに見抜いてやる。
我田引水よりも仁義を旨とした、
君子道徳の持ち主と意見を戦わせることは、こちらから望むところですらある。
しかし、仁義よりも我田引水のほうが重要である、
大部分の産業従事者にも共通した、小人止まりの品性の持ち主とは、
元から意見を戦わせたりするべきではない。
我田引水を否定する仁義と、仁義を否定する我田引水と、
互いに譲れない相反性を持ち合わせているもの同士、意見が相容れるはずも
ないのだから、議論を試みることで意見をすり合わせる余地もない。
君子と小人が貴賤に基づく差別下に置かれるのは、
互いに相反する理念を拠り所としている上に、君子の品性のほうが優良で、
小人の品性のほうが劣悪だからで、両者の差別が相反性に即していなければ、
まだ平等化の余地もあったが、仁義と我田引水という、決して相容れない
理念を本義としていればこそ、普遍的な差別下に置かざるを得ない。
夫が高貴な身分で、妻が下賤な身分であることは、まったく問題ない。
むしろ夫唱婦随に滞りがなくて、よりうまくいく。
もちろん、体制を転覆させてやろうだなどという、
不埒なルサンチマンは元から捨て去っている場合の話。
783 :
考える名無しさん:2010/11/05(金) 06:59:02 0
陰陽乾坤について質問します。陰陽乾坤図の
白は「陽」でしょうか?「陰」でしょうか?
そして方角としては陽は「南」でしょうか?
それとも「北」でしょうか?
ところで宮崎アニメって仏教(あるいはインド教)の世界を書いてるんですね。
もののけ姫の「アシタカ」って仏教(ジャイナ教だったかな)の概念なんですよね。
785 :
考える名無しさん:2010/11/05(金) 09:59:34 0
>>783 そんな、概念上の白黒や南北で一概に決め付けられるもんじゃない。
痩せた土地でも育つ蕎麦の粉は浅黒く、肥沃な土地でないと育たない麦の粉は白い。
これは蕎麦のほうが悪い環境でも育つ生命力の陽剛さの証拠になっているから、
生命力に関しては浅黒い蕎麦のほうが陽剛であるといえる一方、麦のほうは逆に肥沃な
環境の象徴にもなっているといえ、環境の良さという点では白い麦のほうが陽剛であるといえる。
それじゃあこの白黒の法則が、必ず何ものにも当てはまるのかといえばそうではない。
日当たりのいい南洋や砂漠の気候に順応しているからこそインド人やアラブ人の肌は黒く、
日当たりの悪い北方の気候や洞窟での生活に順応しているからこそ白人の肌は白い。
有色コーカソイドの肌の黒さが日当たりの良い環境、陽剛である環境の象徴になっているのに対し、
白色コーカソイドの肌の白さが日当たりの悪い環境、陰柔である環境の象徴になっていることは、
蕎麦の黒さが土壌の悪さの象徴となり、麦の白さが土壌の良さの象徴となっていることと反転している。
天の環境の良し悪しは良さが黒さ、悪さが白さで表れるのに対し、地の環境の良し悪しは良さが白さ、
悪さが黒さであるという風に、天地という環境の位相の逆転に基づいて、白黒の陰陽関係も逆転する。
786 :
考える名無しさん:2010/11/05(金) 10:13:28 0
中国では伝統的に天子が南面(南を向く)して政務を執る。
これは地球上の北半球では太陽が南方に昇る法則に基づいていて、
天子たるものは日当たりのいい環境に置かれなければならないという陰陽の法則に即している。
しかし、天子が南面して政務を執るということは、その天子に臣従して目前で意見を述べる臣下は
天子のほうを向くために北面する必要が出てくる。天子が南面するからこそ、臣下は南側で
太陽に背を向け、天子は北側で太陽に面と向かっているという状態が生ずる。天子が北、
臣下が南に位置する政務関係もまた正しいものであり、天皇の語源となっている「天皇大帝」も
北極星の意味を含意しており、「徳治が行われる時には、北極星を中心に全ての星が回るように
天子の下に人々が臣従する」という論語・為政第二・一の記述にも適った状態に自然となる。
南面するからこそ天子は北に、臣従するからこそ臣下は南にという、互い違いの陰陽関係が
南北については備わりもする。しかもこれは北半球での法則であり、太陽が北方に昇る
南半球であれば、これらの陰陽法則の全ての位相が逆転することにもなる。実相上の環境に
厳格に左右されるのが陰陽関係であるため、脳内の概念上で白黒はこう、南北はこうなどと
決め付けたところで、実相に即さない不毛な論議に終始することが明らか。
レスありがとうございます。一般にはどう指定されているのでしょうか?
たとえば洛陽は「洛水の南に位置するから洛陽」でしたよね?
788 :
考える名無しさん:2010/11/05(金) 10:30:24 0
土地環境上は、北半球では太陽が南に昇るから、南が陽だ。
でも、土地的に南方が陽だからこそ、天子は朝廷の北側に玉座を構える。
土地的には南が陽→一般的に南が陽→天子も南側に座ればいい
などといったような、概念による一般化での実相把握の欠落をかませると、
全く真逆の誤った結論に至ってしまうのが陰陽関係。「一般的にどうであるか」
を実相からかけ離れたところで考え込む、帰納法が通用しない。
789 :
考える名無しさん:2010/11/05(金) 10:52:20 0
生物的により陽剛な動物か、より陰柔な植物かによっても、陰陽の現れ方は反転する。
麦よりもさらに土壌の肥沃さを必要とする稲などは、モンスーン気候並みに湿潤な気候でなければうまく育たない。
砂漠ほどに痩せているわけではないが、雑草も生えないほどに痩せ気味の土地であるヨーロッパでは
せいぜい麦を育てるのが精一杯。動物上の白人の肌が白いことが、肥沃な土壌の象徴になっているわけでもなく、
動物の白黒は天候の良し悪し、植物の白黒は土壌の良し悪しにより左右されやすいことがわかる。
人間の肌の白さは、日当たりの悪さの象徴である上に、土壌の肥沃さの象徴ともならない。つくづく環境の
悪さの象徴ばかりになっているが、だからといって肌が白いことが、必ずしも否定の対象になるわけではない。
中国でも古来から白磁のように肌の白い女性が好まれて来たし、日本でも日照度の低さゆえに肌が白い
場合の多い秋田美人が持てはやされたりしている。男が色白なのはひ弱さの象徴にしかならないが、
女だとそのひ弱さがかえって愛らしさの象徴になる。日当たりも土壌もよくない劣悪な環境下に育ったことも、
夫唱婦随に耐える堪忍の持ち主である証拠にもなっているためより好ましい。劣悪な環境下で育った
陰湿な存在であることが、本人たち自身が女性的な陰柔さを守る限りにおいては、かえって有効に働いたりする。
790 :
考える名無しさん:2010/11/05(金) 13:26:29 0
白人の肌は、白いのではなく、脱色しているのだ。色がないのである。
一方黄色、黒色、と言われる人種は、肌に色が付いているのである。
であるから、有色人種といわれるのである。
自分の身体の色がこのようにそれぞれ異なるのであるから、気持ち:考え方も自ずから、
異なるものとなるのである。
これは気候風土の違いが、人の気持ちを気候風土に相応したものに拘束するのと同じ働きをしているのである。
脱色人種の色彩感覚は、すべての色を差別せずに、コーディネイトする。
有色人種の色彩感覚は、色を差別し、特定の色に執着する。
脱色人種の、身につける衣服、街路の色彩を見て、それから、有色人種の身につける
衣服、街の色彩を見ると、その違いを発見するだろう。
さて、色即是空と言う真理真実があるが、脱色人種の方が、絶対的に、この真理真実
に近い。つまり、生まれながらに、悟りに近いのである。自分の身体そのものが、
色形を脱した様相を持っているからであり、したがって、特定の色に執着する
と言うことは、自らの性質に反するものなのである。
とこのように思えるがどうかな?
791 :
考える名無しさん:2010/11/05(金) 13:43:25 0
>>790続き
であるから、日本人の旅行者で、アジアからヨーロッパに入ると、ヨーロッパの世界は、
垢抜けしていると言うのである。垢抜けとはよく言ったものだ。適切な表現であると言うのである。
赤とは罪を言う。罪がない社会であるとかんると言うのである。
792 :
考える名無しさん:2010/11/05(金) 13:47:06 0
訂正
赤とは罪を言う。罪がない社会であるとかんると言うのである。
↓
垢とは罪を言う。罪がない社会であると感じると言うのである。
793 :
考える名無しさん:2010/11/05(金) 13:52:42 0
罪の最たるものは、これは優れている、これは劣っている、これは良い、これは悪い、
この人はよい、などと差別することである。ましてそれを得意げに言う
のほど、重罪はないのである。
この罪が深いものはヨーロッパなどに旅行しない方が良いのではないか?
見ても聞いても接しても面白くないだろうからだ。
アテクシなんかは、とても行けないな。
どうあっても亭主関白を拒むというのなら、結局女は遊び人の男と付き合うしかなくなる。
いい男と結婚するため、それどころか結婚する相手をいい男にしてやるためにこそ、自分が良妻賢母とならなければならない。
週刊アスキー読んでたら、秋葉観光に来たフランス人やイギリス人が
「街がとても綺麗だ」などとインタビューで言っていた。
日本の公衆衛生の清潔さには定評があるが、
よりにもよって秋葉原が清潔か? と思った。
796 :
考える名無しさん:2010/11/05(金) 14:11:00 0
不可触民
ハリジャン(神の子)
ハリジャン
クリジャン
クリスジャン
クリスチャン
神の子たちの恒久の歴史は、まだ始まったばかり。
800 :
考える名無しさん:2010/11/05(金) 20:37:56 0
>>790-793 白人が自分たちの所業に全く罪悪感を抱かないでいるのにも、ちゃんとトリックがある。
再三言うとおり、天空の南側に太陽が昇降する北半球では、南方が土地関係上は「吉方」となる。
不動産でも、南向きの日当たりのいい物件は評価が上がって値上がりしたりする。
けれども、その南方の日当たりのよさを享受する人間自身は、むしろ北側から南を向く。
国家社会において最も高貴な身分に当たる天子がいらっしゃる時には、周りの人間からも
自主的に日当たりを気遣って、南方を向く北側の位置に玉座を設け、そこに鎮座してもらう。
高貴であるが故に優遇される立場であればこそ、南方を向く北側の位置に座席が設けられる。
土地関係上の吉方が南であればこそ、南方の豊かな日当たりを享受する、天子は北側に座る。
土地の吉方と、その吉祥さの享受者である者の座席とは、お互いが相反関係にあるのであり、
南方が吉方であるからといって、その享受者である者までもが南方に座ったりはしない。
801 :
考える名無しさん:2010/11/05(金) 20:41:53 0
これと同じように、十字架にかけられて苦悶しつつ刑死しているイエスの像などを見たからといって、
その人間がイエス自身になったりするわけでは決してない。自分自身は十字架にかけられてもいなければ
それによる身体の苦痛に苦悶してもおらず、無理な姿勢でいさせられ続けることでの身体破壊や、
ロンギヌスの槍によるわき腹の突き刺しなどによって、本当に刑死せんとしているわけでもない。
ただ、見ているだけ。苦悶する刑死者という偶像を視認することによって、苦痛を分け与えてもらった
気になっているだけ。自分たち自身は決して懲罰を被ることもなく、近頃じゃ死刑や精神医療の
全面的な撤廃までをも試みつつある始末。ただ刑死者の偶像を見ただけで、自分たち自身の
罪までもが贖われた気に本気でなっている。それは、「土地関係上は南が吉方だから、天子は北側に鎮座する」
というような、視認対象と視認者の分別がキリスト教徒などに備わっていないからで、
刑死者の偶像を自分が見たからといって、自分が刑死者になるわけでもないことは、
実相を厳格に精査していく易学などに基づけば、あまりにも明白なこと。
刑死者の偶像を見たから、自分たちの罪が贖われたと白人たちが思い込むのは、
視認者と視認対象の区別も付かない、愚者の錯乱に過ぎないのであり、そのような初歩的な
倒錯に基づきつつ、人類史上未曾有の大犯罪に手を染めて、なおも罪悪感すら抱かないでいることは、
白人が優等な人種である証拠になっているどころか、致命的な精神薄弱を宿した劣等人種、
「人類社会のガン細胞」である証拠にすらなっているのであり、易学などに基づいた実相把握が
器質的に本当に不可能であるというのなら、冗談抜きで、インドのカースト制に基づいた「ハリジャン」
という意味での、「神の子」としての恒久的な歴史を歩んでいく以外に、もはや選択肢はない。
802 :
考える名無しさん:2010/11/06(土) 00:28:06 0
欧米白人は「内なる神」がないからだと思う。つまり「何をしても信じていれば
救われる」という阿弥陀信仰に近いものがあると思いますね。そうじゃなければ
とてもじゃないがあれほどの世界中での殺戮を行って正当化、なんてできはしない。
それにくらべるとインドの人間は内なる神があって、彼がずっと見てるわけですよ、
己の行動すべてを。だから行動を自制できる。
白人女は、白人男のフニャチンばかり相手にしてるから、大して感じてない。
だから野太い声で「オ〜イエ〜」とか自覚的に喘いでいる。内なるものが何とやら。
さほど感じてないとも言えるし、
さほどでもない性感を必死で感じようとしているとも言える。
突き立ての餅も同然のフニャチンでも感じた気でいようとする必死さが、
刑死者を見ただけで自分までもが刑死した気分になる倒錯にも寄与した。
健気というか、アホというか。
突き立ての餅も同然のフニャチンだけでは、女を征服できない。
だから白人男はチンポ以外のあらゆる手管を尽くして、女を感じさせようとする。
女の側が感じないことには、膣内が強酸性であり続ける関係から
女子ばかりが産まれて男子が産まれなくなるため、種の存続の
ための切実問題としても、何とかして女を感じさせる必要がある。
女のほうも、そんな白人男の側の事情を慮って、チンポによる性感と
それ以外のサービスによる歓喜とを混同する、倒錯の妙技を尽くそうとする。
そこから、刑死者を見ることと自分が刑死することの混同なども醸成され、
自らの罪が刑死者の視認だけで解消された気になる倒錯も確立されていった。
男の側がチンポだけで女を感じさせられない白人社会の事情は、
自然と女の側に権威を付与し、男を使いっパシリに回す女系も肥大化させ、
母親が旧約信仰者であることを規定としたユダヤ系の派生も助長している。
せつねえな
ちんぽ一本、剣一振りで天下を平らげる、
漢の高祖の如き男のロマンは、白人男には始めから無いってことだな。
せつねえな
808 :
考える名無しさん:2010/11/07(日) 15:24:54 O
ヨーロッパの美麗とされる街並みも、
男の視点からすれば、ただ女くさいだけだもの。
女を喜ばせて、嬉しがらせて、感じさせて、男子も産んでもらう。
そのためにちんぽではなくインフラ整備なんかに頼ってるんだから、
街並みが美麗で豪壮であればあるほど、男のフニャチンさの証拠にしかなっていない。
ちんぽは逝かせられず、まんぽは自主的に逝こうとする「陰陽不全」が、
根本を疎かにしたまま外観ばかりを取り繕う、美しくとも不吉なフェミニン社会をもたらした。
809 :
考える名無しさん:2010/11/07(日) 15:44:27 0
もともと欧州は男尊女卑だぞ。イスラムの影響で女性優位になっただけ
ちんぽで逝けない・逝かせられない挙げ句に
「ちんぽで感じさせられるのは外道だ」「ちんぽ以外のもので感じるのが高尚だ」
などとまで思い込む始末。
結局「感じる」という情念の部分を扱っているのには違いないのに、
何によって感じるのかを選り好みすることなどを高尚扱いしようとする始末。
感じたければ、ちんぽで感じればいい。
感じる感じない云々の情念を超えた所に高尚さを見出すのは結構だが、
ことに感じたいのなら、ちんぽで感じるに越したことはない。
貧乏長屋の万年床の布団の中でも、ちんぽで感じられればそれに越したことはなく、
ヨーロッパの古城のキングサイズのベッドの中でも、ちんぽで感じられないことにはしょうもない。
眼で逝くことではなく、ちんぽで逝くこと、
そのほうが性感の本義であることをわきまえるところから、
刑死者の視認を自らの刑死と思い込むような錯乱も排されていく。
>>809 そりゃあただ、男のほうが身体も大きくて体力もあるから、
奪い合い殺し合いの絶え間ない乱脈社会で、その腕力が偏重されていただけだ。
イスラムでは女性、特に子を産んだ母親を尊ぶ風習があるし、それは中国や日本にもある。
孝行で知られる曾子は「勝母」という名前の土地を忌んで足を踏み入れなかったというし、
孟子は財政が豊かになってから執り行った母親の葬儀が、貧窮していた頃の父親の葬儀
よりも豪華だったことにいちゃもんを付けられて、魯の平公との面会を断られてもいる。
日本神道の最高神アマテラスも、経産婦でもある主婦の神で、家の外に出て
バリバリ働く大夫の神であるスサノオよりも、格上の存在として扱われている。
男系社会だからこそ、家を司る良妻賢母が尊貴なものとして厚遇されるのであり、
それは「フェミニン(女性本位)」であるということとは全く違う。一夫多妻で女系の
世襲は認められず、家系図に女の名前は載せられないほどにも透徹した男尊女卑が
根本に据えられているから、その余技として、良妻賢母としての女性が尊ばれてもいる。
それは、女系だったり、女系と男系のごちゃ混ぜだったりするような社会ではあり得ない
ことであり、家督を継ぐほどもの権限を保持している場合にこそ、女性への風当たりも強い。
男と同等のものとして扱われるにも関わらず、身体も小さく力も弱い女性が、強権社会たる
西洋で徹底して貶められていたことのはねっ返りとしてフェミニズムがあるのであり、
根本的に女性は男性の支配対象であること、ちんぽで感じさせるべき相手であることが、
男の側のフニャチンという特殊事情によって疎かにされていたことを元凶としている。
そもそも「ちんぽ」が、これほどまでにも卑しめられている現状がおかしい。
日本の古来からの冠も、正直、男性器を模した形状になっているし、
その冠を模して、髷も結われている。日本刀も、腰元に差した状態の柄拵えが
鍔と合わせて男性器の模型になるようにして、その誂えを凝らされてもいる。
情感そのものを劣後する超俗的な観点からすれば、性器が劣後の対象に
なるのも免れ得ないことだが、ことに情感の内では、性器が最高の部類にあたる。
美麗な街並みや美しい王宮、美男子の美顔や筋骨隆々とした身体構造なんぞに
よって感じさせられることよりも、ちんぽによって感じさせられることのほうが、
ことに情感を扱う限りにおいては高尚なことなのであり。情感こそは最高扱い
される俗世において、ちんぽほどにも高貴であるものは他にあり得ない。
ちんぽすら汚らわしい、情感対象の極致すら汚らわしいというのなら、
今すぐにでも出家するべきなのであり、出家もしない内はちんぽこそが最高。
あらゆる情感の根本にあたる、何もかもを感じさせる根元であるちんぽ。
そのちんぽすら蔑ろにして、他の何ものかを情感の根本に据えようとすることは、
根本を疎かにして末節を偏重する、本末転倒の根元ですらあるといえる。
Luxury Chimpo
814 :
考える名無しさん:2010/11/08(月) 07:04:35 0
イスラム教徒の女性が顔を隠すのは「顔で女性を判断してはいけない」という
理由があるとのことですが本当ですか?
女は美しかろうが醜かろうが豚っぽい。
丸みを基調とした外見もそうだし、
ほっとけばどこまでも貪欲であり続けるところも。
イスラムの豚否定は、女性性の暗部の否定でこそある。
豚トロうめー
「太っていることが豚」なんていう安易な発想にもよらない。
食糧事情が資本主義社会ほどには豊かでもないので、
そんなに多くはないが、イスラム圏にも肥満した男女はそれなりにいる。
一方で、豚肉から豚革、豚毛まで豚を活用しまくっている
中国人は、豊満な力士たちが取っ組み合う日本の相撲を嫌う。
後天的な肥満ではなく、先天的な脂肪分の多さ、
よく言えばムチムチ、悪く言えばブヨブヨな女性性が、
豚という寓意を借りてイスラムでは否定された。
そりゃあ、男のちんぽからブヨブヨな白人などにとっては
理解しがたいことで、単なる肥満が豚の寓意という理解のほうが
しやすいだろうが、一般的な肥満と豚を結びつけて考える風習は
イスラムにもなければ、中国にもない。アラブ男の陰茎も
黄色人種並みにガチガチらしいが、股間の陰陽関係から
健全な社会では、豚のブヨブヨさは女性性にこそ比類され、
イスラムでは女性性の否定のために豚が否定されたが、
中国では陰陽の調和を重んじて、豚が完全否定はされなかった。
否定したりしなかったりの選択の異同以前に、
豚を何ものとして扱っているかという部分での異同がある。
818 :
考える名無しさん:2010/11/08(月) 15:02:55 0
近ごろじゃモデル体系の女優なども持て囃されているようだが、
インドでも豊満な体系の女性が伝統的に好まれて来た。
肉食全般が忌避されることで、豚が特定して貶められていた
わけではないインドで、脂肪分の多い女性が好まれていたのも、
女性とはそういうものだという見解の一致があったからだ。
いくらダイエットに励んだところで、潜在的な脂肪分が女性は多い。
それは、育児のときに幼児に安心感を与えるためなどの
有用性があるからこそ付与された一種の機能なのだから、
一概に否定し去ればいいもんでもない。
ただ、イスラム圏などにおいては、女性的な脂肪分の多さを
「豚」という寓意を借りて否定してきた伝統があり、脂肪分の多さゆえに
丸みを帯びた女性の容貌が、ヴェールでひた隠しにされてきてもいる。
人間社会に女性は必須の存在であり、女性の脂肪分の多さも
それなりの有用性があるものだから、根絶するわけにもいかない。
だからイスラムでは苦肉の策として、女性のヴェール着用があてがわれた。
より高度な陰陽調和を図っている極東文化などと比べれば、不恰好な感が
無きにしも非ずだが、女性性を完全否定まではせずとも劣後した事例が
イスラムにおける豚の否定や女性のヴェールの着用であるのだから、
女性を完全否定したり、その反動でフェミニズムに振れきったりする
極端化よりは、まだ穏健な要素を伴っているのだといえる。
819 :
考える名無しさん:2010/11/08(月) 15:23:30 0
ある程度スレンダーな女性が好まれる現代社会でも、
ロリコンでもない限りは、胸や尻が丸々と豊満であることが好まれるだろう?
それは、女の豚っぽさが好まれているということだ。
残飯でも糞尿でも平気で食らいつく、貪欲さの象徴としてのムチムチさ。
それをイスラムは豚否定を通じて完全劣後してしまってるんだから、ある意味たいしたもんだ。
女性用下着の専門店でも髭のオヤジが店番をしているほどに、女性性の劣後が行き届いている。
それでいて女性は女性で存在していて、大半は女性解放を訴えたりすることもなく、いそいそと暮らしている。
ムスリムの女性こそは、色欲の対象であることから解放されているのだともいえる。
820 :
考える名無しさん:2010/11/08(月) 15:28:51 0
豚しゃぶうめー
821 :
考える名無しさん:2010/11/08(月) 19:55:50 0
白人ってのは、どうも「鏡映認知障害」である場合が多いようだ。
肉をくわえた犬が、橋の上から川面に映る自分の姿を見て他の犬と勘違いし、
相手の肉も奪ってやろうとして口を開けたら、肉は川へとボットンという
イソップ寓話も有名だが、人間には元来、鏡に映った自分の姿を、
自分自身の姿であると認識する「鏡映認知能力」が備わっている。
白人にだってその能力があるはずだが、あるにしても随分と脆弱なようで、
莫大な利権を貪ることで多くの人々を犠牲に追いやっている自分たちの有様と、
十字架にかけられた長髪のヒゲ男との区別も付かない。だから、十字架上で
刑死しているイエスの像を見たからといって、それが自分の姿であると思い込み、
罪を贖った気にすらなってしまう。切実な鏡映認知能力の欠如に基づき。
自分たちが美男美女であったりするから、鏡映認知が疎かになるのだとしても、
ことに「鏡映認知障害」という部分だけを鑑みれば、明らかに劣等な障害でしかない。
美男美女だったりすることを根拠にその障害を正当化するとしても、「障害それ自体が
優等な証拠である」とまではいかず、あくまでそれは不具であり、矯正が不能だというのなら
手厚い庇護にでも置かねばならない。美男美女であったりすることと引き換えに、致命的な
劣等さを宿し続けるというのなら、美男美女であることすら免罪の理由にはならない。
822 :
考える名無しさん:2010/11/08(月) 20:36:04 0
日本や中国で伝統的に鏡が貴ばれてきたのは知ってのとおり。
正直、日本人や中国人が美男美女であるということは少ない。
一重だったり出っ歯だったり猿耳だったりと、現代的な美意識に基づいて非難される容貌的特長も多い。
しかし、だからこそ鏡映認知が極めて細緻であり、自分が世の中においていかなる存在であるか
というような自己把握も切実になり得た。もちろん自らを形而上の概念世界に避難させるような
愚行にも及ばず、オリュンポス山の神々のうちの誰かに自分を当てはめるようなこともしなかった。
万物斉同の観点に即して、万物のうちの一つとしての個人である自分を冷静にわきまえられたから、
他者を餓死や戦死にまで追い込みつつの凶行などに、自分たちから手を染めることはなかった。
(戦後の日本人の醜態も、あくまでアメリカによる強権支配下でのやむ無いもののうちに止まっている)
美男美女であることが重権力犯罪に結びつき、ブ男やブスであることが権力道徳に結びつくというのなら、
美男美女が尊ばれて、ブ男やブスが卑しめられることから見直さなければならなくなるのも当たり前。
823 :
考える名無しさん:2010/11/08(月) 20:37:33 0
人は美しさによって生きているのではなく、穀物をも育て上げる日当たりのよさによってこそ生きている。
「北半球では南側に太陽が昇降するから、天子が朝廷で政務を執る上では北側に座る」というような、
実相に即した吉凶把握のほうが、美醜の把握よりも普遍的である上に、人々の存亡を直接司ってもいる。
美醜も全くの無駄とは言わないが、全空間の八分の一に過ぎない、人間の視覚の欲求を満たす
ためにのみ存在する美醜だけにかかずらわっていれば、かえって全体の吉凶が疎かにされ、人類を
滅亡へと導く結果ともなる。礼記の「愛してしかもその悪を知り、憎んでしかもその善を知る」という言葉も、
このような美醜好悪と吉凶善悪の相反性をこそ予言していたのであり、美しいから愛せるが凶悪であることと、
醜いから嫌いだが吉祥であることとは全くの相反関係にあるからこそ、それらをみそくそに扱ってジレンマの
苦悩を抱く必要もない。美しいから愛せるものは凶悪だから劣後し、醜いから嫌いなものは吉祥だから優先する。
好き・嫌いという判断を超えた所に冷静な優劣判断を置くだけで、美しくて愛せるものと、醜くて嫌いなものとの
両立は簡単に達成されるのであり、好き嫌いを第一のものとして扱うことが殊更に不吉であるだけに過ぎない。
824 :
考える名無しさん:2010/11/08(月) 23:29:28 0
そうかな?
身の回りには美男美女けっこういるぞ?中国人も。
逆に一部のひと以外、西洋人ってそんなに美男美女多くないと思うけど。経験上。
自分自身にどこかコンプレックスあるのを、無理やり別の論理でこねくりまわしてねじふせんでも・・・。
もはや何がコンプレックスだったのかも覚えてない。
ブタ かわいいよ ブタ
完全なる天邪鬼か、完全なるイエスマンかのどちらかでしか
意見を述べられない思考回路も、つまらないもんだな。
反応がYesである場合もNoである場合も、自省の行き届いた発言者は予想し抜いている。
だからそのような二者択一で話を進めようとすることは全くの不毛であり、
ツーといえばカーという、機転の利いた会話のみが真に行うに値する。
YesやNoやIばかりで発言が始まる、英語文法に即した会話などは、始めからいらないのだ。
語るべきでないことを語るぐらいなら、語らないほうがいい。
語るべきことを語らないでいるぐらいなら、語ったほうがいい。
「私がやりました」
罪のなにが致命的かって、真に人を愛することも憎むこともできなくなることだな。
829 :
考える名無しさん:2010/11/09(火) 12:08:46 0
「惟だ仁者のみ能く人を好み、能く人を悪む」
(「論語」里仁第四・三)
自らが仁に即して最大級に愛すべきものを愛し、憎むべきものを憎んでいるからこそ、
誰にもそこまで愛されても憎まれてもいないことに気づく。
別に俺が誰かにというだけでなく、今の世における万人が万人に対して
大した愛も憎悪も抱くことなく、事務処理然とした無機質な付き合いばかりに終始している。
それは何よりも「仁」に即せていないからで、仁義に反する我田引水、
他者を破滅に陥れてでも自分が裕福になろうとする犯罪志向を帯びてしまっているせいで、
せいぜい愛憎が隣人か友人ぐらいまでにしか届かず、その愛憎も不恰好で、
矮小でこわばったものにしかなっていない。
仁者は常に、万人との調和を念頭において人を愛したり憎んだりするから、
万人のうちの一人である自らにまで愛憎が跳ね返ってくることも常に踏まえているために、
最大級に他者を愛したり憎んだりすることもできる。しかし、仁義が欠如し、
我田引水ばかりに耽溺しているような人間は、自らの愛憎が自らに返ってくることを
必ずしも踏まえていないために、人を愛したり憎んだりすることを極端に恐れた結果、
せいぜい隣人や友人程度への、こわばった矮小な愛憎しか抱けなくなる。
仁者が抱いているほどもの愛憎を、不仁者が抱いたりすれば、おそらく発狂する。
冗談抜きで、自らの愛憎に征服されることで、自我を喪失してしまうに違いなく、
それはただ、仁者と面と向かって付き合うだけですら引き起こされかねないこと。
仁弱者が仁者と対等に付き合おうとすることは、仁弱者にとってこそ致命的な危険が伴う。
830 :
考える名無しさん:2010/11/09(火) 13:20:09 0
愛も憎悪もないところで、無味乾燥とした人間関係を築こうとする一方で、
愛や憎悪しかないところで、禽獣同然の色欲や、血も涙もない殺し合いに溺れもする。
愛憎の扱いが全般的に稚拙過ぎるからこそ、そんなことになるのであり、
何事にかけても満遍なく適度な愛憎を振り向ける仁に基づけば、
全く愛憎しないとか、愛憎しかないとかいった、無様な事態は未然に防がれる。
最も、女性が汎用的な愛=仁を抱くことが器質的に困難であることは、
韓信の名言「婦人の仁」からも明らかだが。男ですら、よっぽどの大丈夫でも
ない限りは抱けないとされる仁を、婦女子が抱くことを期待するぐらいなら、
火付盗賊が捕縛されることを期待するほうが先ではないか。
人生の未熟者が、人生の達人の目前に放り出されれば、
未熟者のほうこそは、達人の仁強さにあてられて、発狂せざるを得ない。
だからこそ、未熟者こそは逃げ回っているしかなく、
どうしても会うというのなら、檻越しにでもなるしかない。
未熟者のほうこそは、剃刀などの危険物も預かり制となる檻の中からでないと、命に関わる。
詭弁による論理武装によって、一方的に自己意見をまくし立て続けるハリネズミ状態と化すことで、
相手の意見を聞き入れることによる自己崩壊を免れられなくもないだろうが、
だったらまだ、会わないほうがマシだろう。
こうやって面と向かいもせず、声も掛け合えない隔離関係にあったほうが、
下手に気を許して崩壊してしまう危険も少なくて、より都合がいいだろう。未熟者の側にとっては。
おまえらが抱けば発狂・自殺してしまうレベルの愛憎を俺が抱いても破綻しないのは、
俺のほうがが仁強であり、おまえらのほうが仁弱だからだ。
別に俺が気違いだからでも野蛮だからでもなく、俺には仁があって、おまえらにはないから。
仁があることも殊更に稀有なことでもなく、「史記」などには仁の持ち主らしき人間の
敢然とした振る舞いがあまた記録されている。仁弱を煽るカルト信教や洗脳政策によって、
今の世の中においてばかり、仁の持ち主が少数派に追い込まれているのであり、為政者からも
仁を貴んで、率先した実践に努める世の中であれば、世の中の大多数が仁強になることすらある。
仁強であること全般を非難や冤病のの対象にしたところで、仁弱であるおまえらこそは
人類史上未曾有の重権力犯罪に手を染めているのだから、どちらかが非難されて、
どちらかが病気扱いされなければならないというのなら、もちろんおまえらのほうであるに違いない。
別にどちらかを殊更な非難や病気扱いの対象とせず、どちらともそれなりに健全ではあるものの、
仁強であるほうがより優良であり、仁弱であるほうがより劣悪であるといった、社会的責任を
負える範囲での差別に基づくだけでも十分。そのような差別によって世の中が営まれていくほうが、
どちらか一方を完全な社会不適合者扱いして、完全隔離の対象とするよりも、普遍的にはマシだろう。
仁弱の側が保身のためにどうするかといえば、仁強者を病人として隔離し続けるほうがマシだろうがな。
愛憎を楽しみなさい。
無理なら出家なさい。
835 :
考える名無しさん:2010/11/10(水) 13:40:43 0
仁弱であることが保護容認されることが文明的なこと、先進的なことで、
仁強であることが野蛮なこと、気違いじみていることだなどという認識が
西洋などではまかり通り、維新後の日本にもそれが輸入されてしまった。
だから「史記」のような、仁強者の事績を羅列した記録書などを読んでも、
その有り様を野蛮扱いしようとしたりするが、自他の利益を十分に慮ることで、
殺したり殺されたりの剣呑さを甘受する仁強さのほうが、愛憎も不全なままに
何億人もの人々を犠牲に追いやる重権力犯罪に手を染める仁弱さなどよりも
遥かに死傷者や貧窮者も少なく抑えられているのだから、結果的にいえば、
仁強さよりも仁弱さのほうが野蛮だったことにもなる。
仁強さは蛮勇とも違うものであり、未然に自他の利益を十分に慮る
叡智が働いている場合に限ってこそ、剣呑さも受け入れるのであり、
死をも恐れぬ暴力団組員などが仁義を掲げるのも、仁義を蛮勇だと
曲解してのことに過ぎず、ただの蛮勇を仁義だと勘違いし続けているのなら、
仁強さが蛮勇だと思われても仕方がない。あくまでそれは、間違いに基づく。
836 :
考える名無しさん:2010/11/11(木) 11:46:08 0
仁弱であることの保護や容認を日本人に奨励したのも、やっぱり福沢諭吉。
日本の武家が、あだ討ちなどの血みどろの仁強さをも嗜むのに対し、
西洋では、議会で争っていた政敵同士が、私的には会食を行っていたりする
ことを根拠に、西洋のほうが進んでいて、日本のほうが遅れているとした。
実際には、為政者としての十分な責任を負うために、自分たちが血にまみれることを
嗜んでいた日本人などのほうが、なあなあの友愛ばかりに終始して、交友のない
所に全ての殺伐さをしわ寄せする、西洋流の仁弱保護などよりも進んでいた。
まあ、そのことを、140年前の日本人が十分に図り知ることができなかったのも
無理のない話で、佐久間象山や吉田松陰のような、儒学への傾倒も多少はあった
ような学者が殺されて、福沢諭吉や新渡戸稲造、板垣退助のような、もはや
完全に東洋教学を捨て去った西洋かぶれのほうが長生きして持て囃されたのも、
あの時代には仕方のないことだった。すでに洋学や聖書信仰に基づいて、
人類史上未曾有の重権力犯罪がやり尽くされている今ならばそうではないが。
ただ、欲望を最大限に叶えたいだけのことさ。
特筆すべきは、地獄・餓鬼・畜生の三悪道が、
修羅・人・天の三善道などと比べて、峻厳などころか、むしろ緩慢としているということだ。
人の心の峻厳さは、修羅道や人道においてこそ極まるのであり、
それは、両者を高度に両立させた日本の伝統的な武士道が(新渡戸の偽武士道ではなく)、
あまりにも仁強であるために、仁弱な人間からは気違いじみているとすら思われることからも分かる。
仁弱さが保護されて畜生のごとく飼い馴らされたり、逆に保護されなくて餓鬼と化したりすることは
「悪趣」であるわけだから、「善趣」である人道や天道と比べて、より精神的な疲弊が多そうに
予想されやすいが、実際には悪趣である餓鬼道や畜生道こそは精神薄弱の世界であり、
薄弱者に特有の緩慢さこそが持ち越されることで、餓鬼や畜生となる。それは、
三悪趣中最悪の地獄道についてですら言えることで、罪を罪ともわきまえられない
仁弱者に対してこそ、地獄の鬼たちも、どこまでも際限のない厳罰を加え続ける。
悪それ自体は恐るべきものであり、不用意に受け入れれば破滅をも招きかねない危険な
存在ではあるが、人はむしろ、悪への十分な恐れを欠いた中でこそ、悪に取り込まれる。
致命的な意見の分裂を宿した政敵同士が、私的には馴れ合って会食していたり
するような緩慢さこそが、本人たちを知らず知らずのうちに地獄へと突き落とす。
心に疚しいところがないのなら、
間違っていたことを間違っていたと認めたからといって、
我を喪う心配をする必要はない。
「私はこうこう思う」といった思考自体が、
あなたの自我だったわけではないから。
罪を犯しても、反省すらしないような相手とは、当然付き合えもしないね。
ましてや結婚など、なおさら。
反省したから許されて、早々にも付き合える、それでいいじゃない?
あとは、心から反省する努力が必要なだけだ。
反省できたかどうかが分かるまでは待っていよう。
反省できたなら、一緒になろう。
反省できなかったなら、諦めよう。
反省は再帰的近代の思考の典型だが、東洋思想には近代がないから
反省もない。
ただし荘子などが近代にたどり着く前に反省をつきつめてしまったから、
(西欧的な)近代を必要としなかったとも言える。
中国にはカントがいないと小林秀雄が言ったが、感性/悟性/理性の
代わりに三国志があるのだ。
反省はサルにはできない。
ありゃあ、人間にとっての反省のポーズをさせられてるだけだ。
心から反省して、いい子になる。
いい子いい子
845 :
考える名無しさん:2010/11/18(木) 14:44:37 0
「蝃蝀が東に在るを、之を敢えて指さす莫し。女子の行く有り、父母兄弟に遠ざかり。
朝隮の西に于れば、崇朝に其れ雨ふる。女子の行く有り、兄弟父母に遠ざかり。
乃れ之くの如き人、昏姻を懷えども、大しも信無く、命を知らざるなり」
「東の夕空に虹が昇れども、あえてこれを指さそうとはしない。女子が嫁ぎ行く時には、父母兄弟から遠ざかるもの。
西の朝空に虹が昇ったなら、日中は雨になることも見込まれる。女子が嫁ぎ行く時には、兄弟父母から遠ざかるもの。
欲情のあまり婚姻を急ぐような女子は、信用もならない上に、その命を知りも知らない」
(「詩経」国風・鄘風・蝃蝀)
中国で、「虹」は陰陽の交接によって生まれるとされていたことから、「結婚」に比類されることがある。
もちろん結婚が悪いことなわけではなく、万物を化育する陰陽調和の機会として、東洋でも重要なものとして扱われる。
しかし、男系社会である東洋では、結婚が女子にとっては実家を出て他人の家に入る、親愛毀損の発端ともなることから、
あまり女子から欲したりすべきものではなく、よく機会を見計らって、慎重に受け入れるべきものとして扱われている。
記紀神話におけるイザナギ・イザナミの国生み神話などでも、女神のイザナミが男神のイザナギよりも先に
声をかけた時には奇形児が生まれ、イザナギがイザナミよりも先に声をかけた時には日本列島などが生まれたとされている。
陽唱陰和も叶わないうちから、ことさらに女子のほうから婚姻を求めるのは、無知で信用がならない上に、不孝でもある。
むしろ、適切な婚期を得るための準備にこそ尽力すべきなのであって、それでこそ信頼がおける上知である上に、孝行ともなる。
×その命を知りも知らない
○その命を知りもしない
密教は、白人には物理的に修得不能。
突き立ての餅も同然では。
釈迦もモンゴロイドかコーカソイドかその混血かは不明にしろ、
「黄色い肌」だったという記録が、原始経典を含む仏典に数多ある。
肌が黄色いと、アレもガッチガチ。
まさかそんな所に器質的な解脱の秘訣があろうとは、夢にも思わなんだ。
だいたい「東洋教学」って何よ。
そんな言葉初めて聞いたわよ、私。
お互いに腹を割り切って付き合う、ただそれだけのことじゃないか。
どこに納得のいかないところがあるものか。
同態復讐の嫌疑を免れるために、当然被害者は、
自分への加害者の断罪には直接従事しない。
あなたの尋問担当者は、たぶんムスリムかインド人あたりになる。
中国人は少し感情的な反発が大きすぎるだろう、お互いに。
こちとら善意にしろ悪意にしろ、ここに書き尽くしているまでで全てだから。
ちっとも腹の内を見透かされることへの恐れなどはありゃしない。
しかし、そっちは違うな。匿名掲示板で対等な会話をしているようでいて、
腹には一物も二物も宿したまま。誰にも未だ一度も打ち明けたことのない
思いだって、いくらでもあるだろう。そこがどうしたって、不公平な所だ。
士農工商穢多非人や、カースト制の階級差別のほうが
まだマシなぐらいの、内心からの自由の有無の差別だ。
女囚にはやっぱり、女性の尋問官をあてないとな。
854 :
考える名無しさん:2010/11/19(金) 22:25:12 0
ムスリムのおばあちゃんあたりに、直接尋問をお願いして、
女性としての尊厳を著しく損なうような尋問情報などは、
捜査上差し支えのない限りは、おばあちゃんの胸のうちに伏せておいてもらう。
捜査上問題でもあり、性的にも問題のあるような情報に関しては、
なるべく女性の捜査官だけをあてて、男の介在は最小限に食い止めるようにする。
とはいえ、どうせ女囚の数はそんなに多くはあるまい。
万引きレベルなどではない、重大な権力犯罪などを主導しているのはいつも男。
女は介入したとて、せいぜい共犯止まり。捜査する側もそんなに
大掛かりな体勢で臨む必要はないだろう。
イスラム圏の国境検問所には、女性専用の隔離された身元取調所がある。
厳格なムスリムだと、目まで覆ったヴェールで完全に顔を覆う。
かといってイスラエルなどからの不法入国者の排除も欠かせない。
だから隔離された取調所で、女性同士で顔も晒しつつの身元確認を行う。
つまり、そういう事務に慣れている女性が、イスラムには結構いるということだ。
まあ、それでも受け入れられないってんなら、俺と付き合うのは絶対に無理だな。
こちとら、己れの欲せざらざる限りのところを要求しているだけだから。
それすら受け入れられないってんなら、どちらが上か下かはともかくとして、
心の段階に違いがありすぎるから、男女の相違を容れた上でも、やっぱり付き合うのは無理だな。
わざわざ心の内を見透かすまでもなく、見透かされることを拒んでいる時点で、
見透かされると困るような致命的な悪心を抱えたままでいることが明らかだから。
そんな相手とは付き合わないでいたほうがマシなのも、
しごく当たり前な道理だといえる。
よりにもよって、内面に致命的な悪心を抱えたままでいることが
実証的に明らかな女なんかと付き合うかよ。
だったらまだ、悪心を抱いているともいないとも知れない、
どこぞやの無関係の女と付き合ったほうがいいに決まってんじゃねえか。
ざらざるざらざる
悪意をまったく完全に捨て去れってんではなく、
カルト信仰に基づいて「実罪(他者に危害を加える罪)」の
重犯をも正当化してしまうような、俗世に生きる人間としては
致命的な悪念だけを捨て去って、よく反省しろって話だ。
罪には実罪と虚罪とがあり、実罪は上記にいうとおり実害の伴う罪のことで、
虚罪はたとえば、カルト教義や悪法に違反しているとかの、実害の伴わない罪のこと。
誰しもが旧約聖書の律法に少なからず違反していたり、七つの大罪を犯していたりすることを根拠に
誰しもを罪人扱いして、「誰にも誰をも断罪する権利はない」の論理と、「毒食わば皿まで」の論理によって、
自分たちこそは多大なる実害も伴う、重大な実罪に手を染めようとする。それこそは致命的に許されない所で、
実害の伴うわけでもない虚罪は、坊さんでもないような俗人なら何ら咎められる謂われはない一方で、
実害の伴う実罪だけは、俗人であろうとも犯しちゃいけない。みんな虚罪(キリシタンなどは「原罪」という)を
犯しているからといって、自分たちが実罪を犯しても構わない根拠などになるはずがなく、そのような
カルト教義への狂信に根ざした悪念だけは捨て去って、十分に反省しなければならない。
そこんところすら十分に反省して、二度とカルト教義への狂信に基づく実罪の重犯などには陥らないと
見受けられたなら、法定上の最低刑以上にも軽い刑罰や、執行猶予などだけでも済むかも知れない。
それぐらいの償いはしてからでないと、悪念を抱えたままであることが
確実な相手などとわざわざ付き合う筋は通らない。
861 :
考える名無しさん:2010/11/21(日) 17:47:15 0
あなたの愛こそは、己れの罪を乗り越えられていない。
試練からも逃げ去ろうとする卑小な愛でしかないから、
無理に付き合うことがあなたの思いに沿わないことも明らかなので、
あなたの意向を尊重する上でも、付き合わないほうがいいということになる。
腹を割って付き合えるほどにも、純粋で透徹した愛などが
あなたには備わっていないことが、その選択からも明らかだから、
愛もない相手などに付き合いを無理強いするほうが、相手にも悪いことになる。
本当はぜんぜん付き合いたくなんかない、
美形の白人男の、モチモチのちんぽこそを咥えたい、
そんな内心を見透かされたんじゃ、何もかもが台無しになっちゃうから、
どうあっても自分が“やられる側”になるのだけは認められない。
だったらねえ、付き合おうとすることからやめなきゃねえ。
身分や心の段階の違いを乗り越えて付き合うだなんて以前に、
そもそも本人にそんなに付き合いたい意志がないことが明らかなんだから、
それを無理強いして付き合ったりするのは、そちらにこそ悪いからねえ。
別に、家の都合で嫁ぎ先までもが決められる封建社会なわけでもあるまいし、
愛してもいないような相手と無理やり付き合わされるような強要も認められまい。
誰から強要されるわけでもない付き合いが、内心を読まれることで破綻するというのなら、
それは「愛していない」か、「他に愛している相手がいる」かのいずれかでしかありえない。
そのいずれであろうとも、付き合うのをやめておく理由としては十二分なもの。
こちらではなく、あなたの内心こそを慮って、お付き合いをご免させて頂かねばならない。
864 :
考える名無しさん:2010/11/21(日) 19:52:55 0
「愛していない」や「他に愛している相手がいる」と同等か、
それ以上にも深刻な破綻の原因となるのが、「カルト信仰が捨てられないから」という理由。
愛することよりもカルト信仰のほうが重要、だからカルト信仰は捨てられない、
だったらカルト信仰と結婚すりゃいいのであって、俺の出る幕なんか微塵もありゃしない。
何よりも、カルト信仰による征服支配の口実に、愛が悪用されることが頂けない。
男女の交合が、君臣や父子の序列にも先んじる最原初の陰陽調和であることが「易経」の
序卦伝においても認められているのに、その男女の関係よりもさらに先にカルト信仰を
置くとするなら、もはや何ものにも先んじてカルト信仰があるということになる。優劣はともかく、
先後関係については、易に始まる漢学ですらもが先を譲っている男女の関係の、
さらに先にカルト信仰を置いたりすることは、史実上の順列においても間違っているし、
実際、認められるもんじゃない。漢学すらも先を譲っている男女関係のさらに先に、
カルト信仰を置いたりすることは、漢学の拘束すらも振り切った俺こそが許さない。
865 :
考える名無しさん:2010/11/21(日) 20:04:42 0
近ごろ、俺が熱心な勉学対象として、深く傾倒しつつある漢学すらもが、
「男女の関係については、我々の領分よりも先にあった」と認め、
俺を含む天下万人の、男女関係に関する殊更な拘束を解いている。
にもかかわらず、その漢学よりもさらに劣悪なカルト信仰が、漢学すらもが拘束を解く
男女関係に対して、精神的な拘束を強要することなど、認められるわけがない。
旧約聖書の2倍もの歴史を持つ、世界最古の古典「易経」をも擁する漢学すらもが
「そこから先はもう自分たちで好きにやってくれ」としている男女関係を、
漢学よりも質でも量でも古さでも劣るカルト信仰などに拘束されることは、
漢学の拘束すらをも振り切った俺こそが認めない。愛に関して複雑怪奇な
学問宗教が介在することは、漢学も含めて一切認めず、何ものによる拘束も
認めないがゆえに、カルト信仰による拘束もまた、当然のこととして認めない。
愛を拘束するカルト信仰を捨てられない、そんな相手と付き合うことこそは認められない。
男女の恋愛への拘束は、漢学すらもが解くというのに、カルト信仰などが試みるとは、何ぞや?
おまえらよりも遥かに優等な教学すらもが介入を控えている部分に、おまえらこそは介入を試みる、
何様のつもりだ?ということだ。何ものかによる精神的な拘束を受け続ける、常時マゾ状態の
恋愛などを、何ものに拘束されているわけでもない、この俺こそは認めてたまるかってんだ。
866 :
考える名無しさん:2010/11/21(日) 20:22:22 0
カルト信仰・・・虚罪(原罪など)を厳禁して実罪を容認。
法律万能主義・・・実罪も虚罪も法文で禁止されていれば厳禁、法文で黙認されていれば容認。
道徳主義・・・実罪を厳禁して虚罪を容認。
カルト信仰は、憤怒や色欲のような虚罪までをも厳禁しようとして、結局実罪を放任する。
法律万能主義は法文による杓子定規で、実罪か虚罪かなどということを察知しない。
道徳主義は他者に危害を加える実罪を厳禁する一方で、憤怒や色欲のような、
それだけでは誰に危害を加えるわけでもない虚罪を全く容認する。
カルト信仰に即して「罪」とされるような罪を裁かれる必要は全くないし、
法律万能主義に即して「罪」とされる罪も、道徳主義に即して罪とされない場合には許される。
ただ道徳主義に基づいて、俗世の凡人の虚罪は一切咎めず、実罪の責任のみを徹底的に追求し、
もう二度と同じ過ちを繰り返さないことが明らかな程もの反省ができたなら許すが、
その言質も取れないようなら、いつまでも許されることはない。
生きている間に許される見込みがないようなら、もうあなたとの付き合いは諦める。
許されて釈放されたならば、多少の時間がかかったとしても付き合うだろう。
もちろん元から愛してもいなかったり、他に愛してる相手がいたりするのならば、とっとと諦めるが。
自ら愛していない証拠を提示し続ける相手と付き合う無理。
「全ては愛のため」だったというのなら、その心を見透かされることを恐れる必要は何もないはず。
「愛のためか、もしくは正当な理由のため」だったというのなら、それでも恐れる必要は何もない。
「愛や不当な理由のため」だったり、「不当な理由のためだけ」だったりするなら、
その心を見透かされて、断罪や破談の対象になることも恐れざるを得ない。
「不当な理由」ってのは、たとえば愛までをも拘束して悪用するようなカルト宗教だったり。
カルト信仰でなくても、実罪を犯すような致命的な悪行の存続のためだったり。
まあ、その「不当な理由」が、心からの弁解によって人に理解されることもあると思うんなら、
その場合にも心を見透かされることを恐れる必要はないわけで、自分が愛のため以外の
理由としていることが、心の底からの弁解によってでも、到底認められ得ないような、脆弱な
欺瞞に根ざしていることが自分でも分かってるから、心を見透かされることを恐れるわけだ。
どこまでも、自らが人と愛し合うに値しない存在であることを自ら実証し続けているのが、今のあなただ。
869 :
考える名無しさん:2010/11/21(日) 23:04:33 0
愛し合うに値しないし、愛し合ってはならないという義務性すら伴っている。
今のあなたのあるがままのあり方が、「誰も私と愛し合ってはならない」
という義務感を、全ての人間に対して振りまき続けている。
愛されオーラではなく、「愛してはならないオーラ」が、
あなたの自意識に即してこそ、周囲に発散され続けている。
ただ罪障を帯びているだけでなく、その罪障を自らが振り払うこともできず、
むしろ自分から保全すらしようとしていることが、あるがままの行状からも
明白なので、最大級にあなたを愛している相手ですら、あなたを愛している
ような素振りを、思考からすら表現することができない。
どこもかしこも「愛してはならないオーラ」で取り巻かれているので、
最大限にあなたを愛している相手もまた、あなたの意向に沿うためにこそ、
あなたを愛する素振りすら見せようとしないように努める。
それでこそ、愛するあなたの今の意向に即していることになるから。
素直に反省すれば許される程度のことなのに、
その反省すらをも拒む強情さ。その強情さにすら勝てない愛。
大して人を愛そうともしない相手を、一方的に愛することもできなくはないが、
それは相手にとってこそ酷なことだろうから、あえて愛さないでおく配慮を尽くす。
それでこそ、真に相手への愛情を込めた応対だといえる。
何か、理に適わないことを言っただろうか?
理には適っても、愛情に反することを言っただろうか?
理に適い、しかも愛情に即したことを言っている。
そこに反発を抱くというなら、それは、あなたの言い分が理に適わない上に、
愛情にすら反している証拠でもある。
愛すらも、もはやあなたの味方ではなく、敵だ。
せっかく、愛の真実さを証明する手段が目の前にあるというのに、
その手段を用いることを拒むってことは、愛が真実でないか、
真実の愛すらをも阻害するような何らかの障害があるってことだ。
あなたの内面にこそ。愛が真実でない場合はもちろんのこと、
真実の愛すらをも阻害するような何らかの障害がある場合にも、
これ以上お近づきになったりしたとて、その障害の側からの
阻害によって、今以上にも真実の愛が損なわれていくことが
明白だから、より愛を育むためにこそお近づきになるという本来の
目的が叶えられることはないので、やはりダメだということになる。
「自らの意思とは無関係に、親の意向などによって結婚する相手も選ばされる」
なんてのは、封建社会の武家などなら当然あったことだ。
しかし、その封建主義を君らは目の敵にして、
本人自身の意向がどこまでも通される自由主義を絶対視している。
だったら、本人の意思が根本からお付き合いを欲しているのかどうかを
確かめることを憚る必要など、何もないはず。
「本人自身が意向の有無を読まれることを拒絶している」としても、
その希望がすでに、読まれると困るような不実さを宿したままでいる実証にもなっている。
それ以前に、その意向すらも、本人自身の本心からの意向であるとも知れない。
少なからず、何らかの欺瞞を宿したままでいる人間が、
全ての欺瞞を引き剥がされて丸裸と化した人間と付き合おうとする無理。
至らない人間が、至っている人間と対等に付き合おうとする、自明に不当な平等志向。
厳重な差別化で付き合うか、もしくはお互いに丸裸になるかでないと、通らない。
874 :
考える名無しさん:2010/11/22(月) 13:29:07 0
丸裸といっても、服を脱いで丸裸ということでもなければ、
自尊心や道徳心を引き剥がされて丸裸ということでもない。
自他に対する欺瞞を完全に引き剥がし、
善意も悪意も完全に丸裸にしているという意味。
未だ自己の内面に致命的な欺瞞を抱えたままでいる者と、
全ての欺瞞を捨て去った者とが、接触する狂気。
その欺瞞の内容が如何であれ、欺瞞を持たない人間は欺瞞を忌み嫌い、
欺瞞の持ち主も欺瞞を持たない純粋さを忌み嫌うのが人の心の常。
致命的な欺瞞の持ち主であることが明らかな人間と、
あらゆる欺瞞を捨て去っていることが明らかな人間。
そのような者同士であることがすでに、致命的な敵対の原因ともなる。
バカで無知蒙昧な上に、さらに誤解や無理解に根ざした自己意見ばかりをがなり立てるから、
到底こちらの言ってることなんか理解できやしない。そしてそんな甘えは、もう通用しない。
ただでさえ難解な東洋教学の深奥を、自己流の思い込みをあてがいつつ理解しようだなんてんじゃ、
二度と檻の中から出られなくなるだろうことも必定。分からないなりにも従順でありつつの熱心な
学習に努め、それでもかなりの時間がかかって、多少なりとも理解できるかどうかってとこ。
理解ができて、それが反省材料ともなり、他者に危害を加える実罪ぐらいは踏みとどまる程度の
倫理観が恒常的に抱けるようになって、その反省の度合いが審査されて、許されれば釈放となる。
難解であって、しかも反発意識すら未だ大きいだろう道徳学。反意を抱くのは明らかに罪障の大きさ故の
自業自得だし、難解すぎて理解できないのも、頭が弱すぎるからでなければ、間違った学知による
曲学阿世で、正しい学問を理解する方向に脳みそが割り振れなくなっているからで、それもまた、
間違った異学異見をあえて自分が好き好んで取り入れてきた自業自得によっている。
876 :
考える名無しさん:2010/11/22(月) 20:12:06 0
自分だって、目の前に洋学や聖書教しかなくて、漢学や仏教が巧妙にひた隠されていた限りにおいては、
そっちのほうを好き好んでいた経験があるから、それらを捨て去って漢学や仏教へと移行する大変さもよく知っている。
もしも目の前に洋学や聖書教しかなく、漢学や仏教など、未だ遥か遠い世界の未知の存在であったりしたなら、
洋学や聖書教のほうに傾倒し続け、それらをアイデンティティの拠り所にしていたに違いない。
しかし、実際のところ自分の目の前には漢学や仏教もあって、歴史的に自分の家系などが傾倒してきた
度量も漢学や仏教のほうが遥かに大きかったことが明らかだから、その、洋学や聖書教と比較しての優等さも
合間見えて、当然のこととして漢学や仏教を含む東洋教学のほうに振れきり、それらへの傾倒にも専念した。
そういう、恵まれた境遇にあるわけでもない君らが、東洋教学を修得するために必要とされるのは、偏に向学心。
イエスと同じように妾腹の私生児として産まれながらも、自暴自棄になって破滅級のカルト教義を触れ回るわけでもなく、
伝統上にある正統な道徳学の継承に努めた孔子のような、不遇さをも超克した向学心による、正学の修得。
恵まれた血筋などが跳躍板ともなって、色を好むように徳を好めた俺の場合などとは違って、
君らにはいかなる後ろ盾もない、純粋な向学心のみに即した、東洋教学修得の責務が課される。
それは、全く苦労をさせられていないわけではないにしろ、同質の苦労はさせられたことのない
俺などには計り知ることも、助言することもできないところなので、ただ「がんばれ」としか言えない。
がんばった先に結実するものがあることぐらいは知っているから、その応援ぐらいはできる。
まじめに答えてくれるスレがここだけなので。
私はゴータマブッダの教えは「中庸を得ること」だと感じたのですが、どうでしょうか?
「中正を得ること」だ。
「始めから中正を守り抜き続けること」が中庸。
「両極端の過ちから中正を得ること」が中道。
俺は結局、中庸でい続けているわけだけれども。
君らはもう中庸は無理で、中道を目指すしかない。
ゴータマ・ブッダは「両極端を退けよ」とおっしゃられましたよ
孔子はそんな言い方もせずに、ただ中庸の徳を褒め称えている。
両極端を経験した上で卒業したから、
仏陀であるものこそは「両極端を退けよ」とも言える。
881 :
考える名無しさん:2010/11/25(木) 23:32:34 0
「中国が共産主義をやめて古来の徳治主義社会に立ち戻るなら、
資源配分を是正して中国にも人口相応の資本を分け与える」と、
資本主義国の側が宣言すればどうだろうね?
共産党を崩壊させる民衆革命が起こるかもね。
882 :
考える名無しさん:2010/11/26(金) 23:40:02 0
むかしむかし、地球村という村に、70人の村人たちが住んでいました。
この村は、人里遠く離れたど田舎ではあるものの、自然は豊かであり、
村の中だけでも、100人分の食糧はまかなえるほどもの資源に恵まれています。
しかし、この地球村には、盗賊を生業とする人種が約10名ほどもいて、
こいつらが地球村の食糧を80人ぶんも強奪して独占してしまうために、
残りの20人ぶんの食糧しか、盗賊ではない60人の村人たちには行き渡りません。
60人の村人たちが、たった20人ぶんの食糧だけで何とか食いつないでいるのですから、
当然まったく栄養が足りず、飢えて苦しむ人たちもいますし、そうでなくたって、
栄養状態がはなはだ悪いために、元気でいる村人たちもあまり体格はよくありません。
かえって、盗賊身分の村人たちは、たった10人で80人ぶんもの食糧を独占している
わけですから、栄養状態はよ過ぎるほどにもよくて、体格も巨人かというほどにも
大きくなったりしています。それはあくまで、他の村人たちからの食糧の強奪によって
成り立っているものなのですが、強奪によってこそ巨大になった自分たちの体格を、
盗賊たちは「自分たちが他の村人たちよりも偉い証拠だ」などと思ってもいます。
この地球村における、盗賊身分ではない60人の村人たちが、
飢餓を解消して人並みの生活を送るためには、どうすることが最善でしょうか?
1.盗賊たちを滅ぼしつくして、60人の村人たちだけで地球村の生計を立てていく。
2.盗賊たちが、他の村人たちからの食糧の大強奪をやめて、平等な資源配分の下で仲良く暮らす。
3.盗賊たちによる資源の大強奪はそのままに、他の村人たちが自助努力によって資源を増産する。
4.盗賊たちによる資源の大強奪はそのままに、盗賊たちが村の外に出て村人たちへの借りを返す。
5.その他。( 記入欄 )
低能な、あまりにも低能な
884 :
考える名無しさん:2010/11/27(土) 15:36:13 0
単なる低能を、「愛」なんて言葉でごまかしてんじゃねえよ。
脳みそだけがカルト教義によって幼児退行したところで、
大きく成長したおまえらの身体を、もうお母さんも抱きかかえられねえよ。
886 :
考える名無しさん:2010/11/27(土) 20:28:19 0
>>880中庸を得るために極端な行動をすることはあり得る。
ただし行いに対し基準(到達点)を求めず、闇雲に
連続してそれを行うのならば、傾いた舟に水が入って
沈むかのごとくすべてを失う。
というよりも、その舟に乗っていたことがすでに極例だが。
洪水に方舟で対抗しようとする以前に、まず治水から。
888 :
考える名無しさん:2010/11/27(土) 21:57:50 0
たとえば舟が荒波によって急激に右方向に舵を取られたとする。
舟の本来である「目的地に対しての安定した推進」を得るためには
瞬間的に左に舵を切らねばならぬ。これは中庸である。
だが闇雲に方向を基準とせず常に舟を右、あるいは常に左に
航海する、というのは偏向であり偏った悪しき行いである。
これさえも現代人は気づかない人が多い。
目的のための手段と、目的のない手段とでは、当然違いが出てくるだろうね。
飼い犬は長生きできても、野良犬は早死にするようなもん。
目的を司るあなたの飼い主はいずこ。
そもそも、水上を航行するために設計されていた方舟が、
乗船者の大多数を占める船頭たちの意向で山の上に登り、
陸上での無理な引きずり航行が祟って、自壊しつつあるとでもいった所。
目的のために選ばれない手段も、武経七書などの兵法では嗜まれる。
しかし、それは恒常的な統治手段などではなく、有事の軍政に限って
用いられることが認められるものであり、平時にまで性懲りもなく
用い続けたならば、名将ではなく重罪人のそしりを被るのみ。
キリスト教で是とされる隣人愛や、
アリストテレスの「ニコマコス倫理学」で賛美されている友愛なども、
それらの名目上の愛を偏重することによって得られる実質的な効能が、
「釈遠謀近は利益を得やすい」」という形で七書中の「三略」に説かれている。
大戦中や冷戦中のような戦闘状態ならば、自分たちばかりの利益を慮って
遠方の利益を蔑ろにすることにも妥当性が伴っていたが、冷戦も終結し、
同時テロのような自作自演でも試みないことには有事を捏造できない、
平時へと世界が移行しても、相も変わらず「グローバリズム(国際主義)」
などという、釈遠謀近を正当化するイデオロギーを全世界に強制し続けた
せいで、他国の人間を餓死に追いやってでも自分たちばかりが裕福でいる、
国家レベルからの重権力犯罪の条件をも満たしてしまったわけだ。
西洋人が釈遠謀近をやめたからといって、
今度は東洋人が釈遠謀近を試みるようになるわけでもない。
そのせいで今度は、欧米が貧窮するようなことになってもいけない。
>>882の答えも、1よりは2であるべきだから。
盗賊が、何かを得た上で“失う”なんてこともなく、
元来他人の財産であるものを一時的に奪い取ったから、
それを“お返し”するだけのことだ。
未だ「悪いことをした」という罪の意識すら十分にわかないのも、悪魔の仕業には違いないが。
悪魔役だった連中を厳罰に処すのは簡単にしても、それで反省の気持ちが抱けるかどうか。
かえって一部の「トカゲの尻尾」に全ての責任を押し付けて、自分自身は罪を免れた気にすらなりかねない。
むしろ、自分こそは悪いことをしたという、率先して罪に服していこうとする心意気が必要。
何もかもの罪をキリストさんに押し付けるのではなく、自分こそは相応の罪に服そうとする。
その際、他人の罪までをも自分が代わりに被るような、分不相応なおせっかいにも及ぶことなく、
自分自身が犯した罪こそを特定して明らかにすることに努め、その罪に相応の罰を受けることに
ついてこそ率先的であらねばならない。誰しもの罪を償おうとすることにかけてではなく、
自分自身の罪を償うことにかけて徹底的であろうとする心意気こそは、
自らの行いによって、他者にも徳性の堅持を促す、最も道義的な服罪姿勢となる。
大山不動にして億千万の鼠鳴動せる。
895 :
考える名無しさん:2010/11/30(火) 05:18:06 0
欧州人がイエスを信じる割合は5%w
でも、みんな聖書から姓名を引用している。
実際のところ、新約聖書は「古代ローマ小説」でもあるし。
「罪と罰」で、強盗殺人を犯したラスコーリニコフの代わりに
誤認逮捕されたペンキ屋のミコールカが、慈善(偽善)団体に加入していた関係から
「自分が犯人だ」などとウソの自供を始め、ラスコーリニコフの代わりに
強盗殺人の罪を背負おうとするくだりがある。
そのせいもあったり、親孝行娼婦(爆)ソーニャのキ○○イじみた説得などに応じたりで
ラスコーリニコフも最後には自首するが、やはりキリスト教圏の小説なだけあって、
これも色々とおかしい。他人の罪までをもかぶる偽善が持てはやされたり、
親孝行のために娼婦になったりの、実相からの狂いが前提としてあって、
その狂いに感化されて強盗殺人の真犯人も自首するという、美談のようでいて、
実際には人間倫理にひどく反する犯罪寓意が散りばめられている。
自らの罪を償うことにかけて徹底的であるような人間に倣って自首するのならいいし、
親孝行のために貞女であろうとする女性に感化されて、「人は結局あるべきところに
いなければならない」と感化されて自首するのでもいいだろう。しかし、他人の罪までをも
被ってあげようなどとする偽善者に感化されたり、親孝行のために娼婦になった白痴女
なんかに感化されたりして自首するのでは、自首する動機から間違っているから、
服罪に努めたところで、なかなか反省するのも難しかろうな。
かようにして、キリスト教圏においては、
長らくカルト教義にドップリ漬かり続けてきた爪あとが方々に残されている。
たとえ今はもう、キリストなんか本気で信じていなくたって、
カルト信仰の爪あととしての凶相が方々に残されているために、
ドストエフスキーやニーチェのような実存主義志向の文学ですらもが、
凶相の遍在を前提とした論理展開から脱却できないままでいる。
マルクスの「資本論」なども、資本主義経済批判の対象として、
よりにもよってイギリスの下層階級の極端な薄給重労働をあげつらい、
「こんな風にならないためにはどうしたらいいか」をわざわざ論じ立てているから、
人間社会のデフォルトがさも、イギリスの下層階級の薄給重労働であるかのようになってしまった。
マルクス存命中でもあった、江戸時代の日本人の平均労働時間などは、今の半分程度だったというし。
王権神授説によって上層階級の権力を絶対化し、そのくせして四民制やカースト制のような
支配階級と産業階級の分別も付けず、ユダヤ商人などもヘタに近づけて、資本家の権力までをも
絶対化させてしまった英欧の社会体制などを大前提として、マルクスも共産主義を提唱したから、
非宗教・無信仰的なイデオロギーであるはずにも関わらず、共産主義もまた、
その内面に奇形的な精神性を宿したままに定立されることとなってしまった。
そもそも王権の神授性から、封禅の儀の成功如何によって左右され(始皇帝は失敗し武帝は成功した)、
儒家や法家の提唱した四民制によって政財界の分別も行き届いていた東洋の社会体制に基づくなら、
19世紀のイギリスの下層階級の薄給重労働など自体が、すでに異常なものであることが確かだから、
それを前提にその解決を目指すようなことからあり得ず、そのイギリス的な資本主義を、東洋的な封建主義
よりもまだ先進的なもの(ただし共産主義よりは後進的なもの)として認めたマルクスの判断もおかしかった。
900 :
考える名無しさん:2010/11/30(火) 21:08:08 0
ラスコーリニコフが、親孝行娼婦ソーニャの説得に応じて自首したことにも、ちゃんと裏がある。
家を出る 人としきけば仮りの宿に 心とどむなと 思ふばかりぞ
「人が出家しただなどという話を聞けば、仮の宿に過ぎない現世ごときに心をとどめるなとばかり思う」
との意味である、西行法師と歌詠み交わした江口の遊女の返し歌。
現世で散々にわが身をもてあそばれ、どこにも安住するに足る場所を見出せない娼婦の詠んだこの歌が、
「兵法にも通ずる」として沢庵和尚に「不動智神妙録」で取り上げられ、それを又引きしつつ柳生宗矩も
「兵法家伝書」を書いた。娼婦の心境は、命をやり取る兵法者の心境にも順ずるものであり、
真剣勝負の場においてですら有効ながらも、それはしごく殺伐としたものであるということ。
家計を助けるために娼婦になって、殺伐とした遊女なりの心境を蓄えつつあったソーニャと対面して、
自らの罪状を告白したラスコーリニコフは、発狂したかのごとく自首を命令するするソーニャの
気勢に押されて、最後には自首してしまう。それは要するに、強盗殺人という重罪を犯しながらも
反省すらしないでいたラスコーリニコフの気勢が、真剣勝負にも相当する戦闘態勢を、日々の
秘め事で蓄えていたソーニャの気勢に圧倒されて、思わず自首してしまったということであり、
反省の足りなさに打ちひしがれるどころか、反省しないでいる平気さの足りなさに打ちひしがれて
自首したということだったので、より悪い動機によって自首してしまったことにしかなっていない。
内心「あ"〜早くちんぽ咥えたい、咥えたい、咥えたぁ〜い」などと思っていても、
そこはムスリムのおばあちゃんの心のうちに止めておいてもらう。
別にそれが実罪なのではなく、
畜生の渇望を巧妙な権力犯罪に振り向けたことこそは実罪なのだから。
902 :
考える名無しさん:2010/12/01(水) 10:05:49 0
地獄餓鬼畜生の三悪趣と、修羅人天の三善趣との違いは、主に渇望の有無ないし充足の有無にある。
地獄餓鬼畜生には全く充足がなく、渇望ばかりがあり、餓鬼のように本当に餓えている場合だけでなく、
すでに相当な利権を貪っている畜生ですらも、いま以上の貪りを続けようとすることを止めない。
修羅人天にも全く渇望がないわけではないが、人としての致命的な問題をも呈するほどもの渇望は
十分に抑制されて、邦に道の行われている時にこそ熱心に働いて俸禄も得ようとするような分別によって、
自ずからの充足を知り、むしろ充足状態故の浩然の気を保つことにかけての研鑽にすら努めようとする。
903 :
考える名無しさん:2010/12/01(水) 10:06:59 0
ただ、このうちでも扱いが難しいのが修羅で、劣悪な修羅は際限もなく戦いを貪ることがあるために、
正統仏教においても地獄餓鬼畜生と合わせた「四悪趣」として扱われることがある。しかし、どこまでも
際限なく戦いを貪るのはあくまで劣悪な修羅のみであり、東洋兵法や武芸などの高潔な修羅においては、
武はあくまで目的のための手段であるとされ、一旦泰平という目的が達成されたなら、堅実な徳治などに
道を譲ることが貴ばれているために、どこまでも無意味に戦いを貪り続ける畜生的な要素は廃されている。
とはいえ確かに、戦闘中の修羅は安穏としてもいられない所があり、実際に心を一所に止めることが
ないように努めるさまが、畜生道である遊女の心境にも近いものだと、沢庵や柳生ですらもが認めている。
「地獄餓鬼畜生修羅人天」の順列では、修羅と畜生は隣り合わせになるが、確かに近いところもあって、
戦争中の兵士なども性欲を蓄積させてしまうために、軍規の徹底や慰安婦のあてがいにでも依らない
ことには、戦地での婦女への暴行なども横行してしまう(ソビエトは戦地での強姦を正式に認めてもいた)。
逆言すれば、畜生道にあたる娼婦の心境は、戦闘中の修羅にも見紛う渇望にまみれたものである故に、
それを今から自首せんとする犯罪者への後押しなどに用いれば、檻の中で心を落ち着けて反省
しなければならないところが、その気持ちは殺がれ、バビロン拘留中に異民族への復讐意識を
モーセ五書に託した古代ユダヤ人のような、全く反省しない服役者が量産されるだけのこととなる。
自分が投獄されるのは戦いに負けただけのことに過ぎないから、「今度は勝つ」などと、己の罪に
よってこそ投獄された犯罪者としては思い上がりにも程がある、勘違い下での悪念を募らせる。
904 :
考える名無しさん:2010/12/01(水) 16:34:29 0
地獄界・・・米英瑞以
餓鬼界・・・ブラックアフリカ
畜生界・・・欧露
修羅界・・・イスラム圏
人界・・・中国
天界・・・インド
かようにして、現代の現実世界もまた、ちゃんと六道輪廻の配分に収まっている。
今の日本はといえば、地獄餓鬼畜生修羅人天のいずれもが混在している状態で、
善くも悪しくも、六道については世界一網羅が行き届いている社会となっている。
畜生界は、それらだけで重大な実罪に手を染めることは少ないが、
「蛇の道は蛇」であり、地獄道の連中との連絡にも余念がなく、
仲間内で小競り合いなども多少はしながら、利権関係ではねんごろとなり、
地獄界並みかそれ以上もの利権的豊満に与る。
餓鬼界はといえば、ただ地獄界や畜生界から一方的に利権を奪われ続ける一方で
ある点が深刻な従犯状態ともなっており、資本主義国の工業生産の下請けなども
引き受けつつ、ちゃっかり工業技術などを吸収している中国のようなしたたかさもない。
ただ奪われ通しで、誰を怨めばいいかも分からないほどの無知蒙昧の中に
置かれ続けていることも、決していい見本にはならないので、
地獄道や畜生道と共に、三悪趣の中に入れられる。
修羅界はといえば、三悪趣の敵になることもあれば、三善趣の敵になることもあり、
一概に善か悪かを断定できないのも確かだが、少なくとも実罪の共犯であることにかけて、
地獄界や畜生界と共同しようとまではしないので、断罪の対象にまではならない。
人界と天界については、もうさんざんここで説明し尽くしているので、いま詳述する必要はあるまい。
東洋教学は主に、人界や天界、仏界などを研究対象とし、地獄道や餓鬼道、畜生道などの
暴挙を抑え付けることによる、天下万人の恒久的な福利厚生に貢献することをも目的としている。
905 :
考える名無しさん:2010/12/02(木) 01:37:18 0
俺は修羅が英米だと思うね。慢性的なうそつきと戦争と自己正当化の繰り返し。
まさにアスラ。
人界は支那やインドシナかな。とりあえず食わねばならず、そのために人を動かす
政治に重点を置いてるから。
天界は自己に打ち勝つことを目的とした宗教家だろうか。
畜生道は日本やドイツといった敗戦国だろう。まさに戦勝国のための家畜。
飢餓道は旧共産圏だろう。心身ともにすべてに飢えている。
地獄道はわからない。
906 :
考える名無しさん:2010/12/02(木) 01:41:40 0
>>903「闘争を以ってむさぼる存在」とは言いえて妙ですな。
欧米の「権利の追求」は自分の権利を主張するために
他者の権利を踏みにじり、そしてその人はまた自分を保持する
権利を突きつける・・まさに「闘争の輪廻」が続いていくわけです。
こんなバカな政治制度は荀子の時代でさえ、すでに退けられて
いたのに、あいも変わらずの白人の暗愚と独善ぶりには
笑うしかないです。
907 :
考える名無しさん:2010/12/02(木) 11:43:00 0
闘争が貪りであるのは、闘争している限りにおいてだ。
畜生はもはや何もかもが貪りであり、戦闘状態でなければ禅定に努める本物の修羅とも根本的には違う。
見境もなく利権を貪り続ける欧米の所業はまさに畜生道であり、純粋な修羅道には当たらない。
利権の貪りのためには権力犯罪すらも犯すのは地獄道であり、その領分は特に米英が勤めている。
だから米英こそは地獄道を突っ走っているといえ、自分たち自身は直接的な権力犯罪に手を染めず、
米英との取引を通じて間接的に利権を貪っている欧州などが、より純度の高い畜生道に当たる。
>>905-906は六道それぞれの意味を取り違えたり、修羅道と畜生道や地獄道を全く混同したりしているので、
それぞれの現実世界への当てはめも全く間違ったものになっている。表向きだけは徹底的な
治安維持志向を打ち出している米英などが、表裏いずれにおいても修羅の徒であるなどとは言えない。
とりあえず食うために働くのも、人界ではなく餓鬼界の条件であり、真人間こそは道義のために死ぬこともある。
克己も人界ですでに勤められるものであり、天界ではもはや自他の区別すら捨て去った一化の嗜みが貴ばれる。
日本やドイツが戦勝国の奴隷状態であるのも餓鬼状態である証拠であり、戦勝国などの際限のない利権の貪りこそは畜生に当たる。
908 :
考える名無しさん:2010/12/02(木) 11:54:29 0
六道十界論は浄土思想や日蓮宗も通じて広く世の中に頒布されているのに、
ちっとも六道や四乗それぞれの存在性が正しく把握されてはいない。
六道のうちの地獄道・餓鬼道・畜生道だけを、それぞれ地獄・煉獄・天国に当てはめた
ダンテの「神曲」などが流布されたりもしているせいで、本物の修羅道・人道・天道への
理解が特に疎かになり、実際には畜生道や地獄道に過ぎないものを修羅道だと勘違いしたり、
餓鬼道を人道だと勘違いしたり、ただ宗教的ですらあれば天道であるなどと勘違いしたりの、
勘違いのオンパレード状態となっていて、少しも本家本元の六道への理解は行き届いていない。
六道が“六”道であることにもちゃんと理由があって、これは易の六爻からなる六十四卦の構造とも合致している。
「天道、人道、地道がそれぞれ八卦の三爻となり、さらに八卦が上下に重なって六爻の六十四卦となる」
と、「易経」繋辞伝でも孔子が説明しており、より優良な天地人の道が天道・人道・修羅道となり、
より劣悪な天地人の道が畜生道・餓鬼道・地獄道になると、仏教以前の易学においてすでに予言されている。
天地人の道が上下に二つ重なり合うという所までもが、5000年前の中国ですでに把握されており、
未だ天地人が一枚岩でしかあり得ないと思い込んでいる、今の社会通念とは次元があまりにも違いすぎている。
909 :
考える名無しさん:2010/12/02(木) 12:08:02 0
「六道輪廻は畢竟地獄」などというのも、天地人の三才を地獄・煉獄・天国などの
一枚岩状態であると思い込んでいる重大な勘違いを原因としている。
この勘違いを簡単に喩えるなら、「日食」が分かりやすいだろう。
太陽と月は、いつもは別々に運行しており、人間の肉眼からはほぼ同じ程度の大きさにも見える。
この二つが重なり合って、太陽が月にすっぽり覆われて、日中でも暗闇と化すのが日食。
それと同じように、地獄・餓鬼・畜生の三悪道が、修羅・人・天の三善道をすっぽり覆い隠して、
しかも自分たちのことを「地獄・煉獄・天国」などと言い換えて悦に入ったりもしているのが現状。
そりゃあ、歴史的に見ればほんの一瞬であり、そうそう長く続くものでもない。
太陽と月の運行がずれて、じょじょに太陽の光が取り戻されていき、じきにいつもの通りの、
日中は何もかもが光に照らされる日常が戻ってくることとなる。
六道輪廻はそのような、日食のようなごく一時の現象に限らない、恒常的な世界の有り様を
把捉したものであり、太陽と月が別物であるように、三善道と三悪道もまた、恒常的には
別物で有り続ける。今は修羅のフリをしている米英なども、じきに化けの皮が剥がされて、
本当は地獄の亡者であることが明らかになる。まるで自分たちこそは天国にいるかのような
フリをしている欧州人なども、所詮は畜生同然の貪欲さの塊でしかないことが明らかになる。
逆に餓鬼や畜生扱いされていた東洋人などのほうが、本来の人道や天道の求道者としての
本領を取り戻し、月に覆い隠されぬ太陽としての、無量光を放ち続けて止まなくなる。
910 :
考える名無しさん:2010/12/02(木) 12:51:29 0
天地人三才の二元性は、日本神道においても明確化されている。
中国原産の易学においては、天が父、地が母であるとされ、
ギリシャ神話における天父神ゼウスや地母神デメーテルなどとも一致している。
しかし、日本神話では、女神にして母神であるアマテラスこそは太陽神であるとされる。
これはむしろ、易学的な観点からしても、ギリシャ神話以上にもおかしいようにすら思える。
しかし、ここにも古代日本人の叡智が隠されていて、それがちゃんと易学とも合致している。
中国の易における「天」とは、日月星辰といった全天体のことであり、特に「星」が主要な天体とされている。
太陽は日光によって全ての星辰を覆い隠し、月の姿すらもうっすらと見える程度にしてしまう。
太陽こそはあらゆる天体の中でも別格のものであり、これをこそ日本神話では女神として扱う。
天子は朝廷の北側に鎮座して南面し、皇祖神にして母神たる天照らす太陽に向かう。
そして北方には、星辰の運行の中心たる北極星があり、北極星のように全ての人間の中心に居住まう
ことこそは天子にとっての本分であるが故、道教で北極星を意味する「天皇大帝」から「天皇」という号が引かれもした。
鏡映認知を徹底的に考え抜くことで、天の中でも太陽こそは母神であり、夜間の星辰の運行の中心となる北極星と
同等たる天皇陛下こそは、父とされる天体=星辰の中心中の中心であるという、完全な易学的配慮が行き届いている。
これにより、ぱっと見易学にも合致しているかのように思える、天父神ゼウスや地母神デメーテルなどの、ギリシャ神話上
の父母配置も、間違っているとまでは言わないまでも、瑣末な仔細ばかりを捉えた極例であることが裏付けられる。
911 :
考える名無しさん:2010/12/02(木) 13:05:22 0
三位一体思想も、三悪道を司るキリスト教では「父と子と処女膜胎盤(聖霊)」という、
母親をものとしてしか扱わない下劣な定義に止まっていたのが、
修羅道のイスラムでは「父と母と子」という風に解釈され直し、母親の権威が取り戻された。
さらに儒学では「君臣父子夫婦」という三綱が提唱され、三位一体を三つの人間関係に昇華する、
六爻六十四卦の数理にも即した人間関係の理想化が提唱されている。
天地人三才の把握が、六道や三綱のような二元性にまで昇華されているのが東洋教学であるのに対し、
洋学や聖書教ではどこまでも一元に止まり、地獄・煉獄・天国の三つで全ての世界を捉えようともする。
しかし、実際のところそれは間違っており、西洋人が地獄・煉獄・天国とする地獄界・餓鬼界・畜生界の上に、
本当は修羅界・人界・天界の三善界があり、これら合わせて六つを把握することで「俗界」の把握が完成する。
これでこそ全世界の俗世の把握が完了するのであり、東洋人はとっくの昔にそれを完了させていたが、
西洋人はまだであり、修羅界・人界・天界の三つは未だかつて把握したことがない。
修羅や天国だと思い込んでいるものも畜生や地獄でしかなく、人だと思い込んでいるものも餓鬼でしかない。
東洋人は、修羅・人・天・とは別個に地獄・餓鬼・畜生があると分かっていて、自分たちですら地獄や鬼畜に
陥ることがあり得ることも分かっているが、西洋人はそもそも地獄・餓鬼・畜生の三つしか知らないから、
どうあがいたって今のところ地獄・餓鬼・畜生の三つでしかあり得たことがない。修羅や人や天には
偶然やまぐれでなれたりはせず、それなりの学術的な把握や、体系的な研鑽を要するものだから。
六道全体の存在も知らない内から、修羅や天人であれたことがないのも、全く仕方のない話。
米英が修羅だからいけないってんなら、同じ修羅である武蔵などの剣豪などもいけないことになる。
でも、実際には両者は全くの別物で、剣豪は恨みっこなしの真剣勝負にこそ挑んでいたのに、
米英は怨みの嵐を巻き起こす重大犯罪行為の積み重ねによって、名目上の戦勝も得ている。
戦いこそは主であるものと、罪悪こそは主であり戦いは名目に過ぎないものと。
前者からすれば、後者はまるっきり罪悪の塊に過ぎず、地獄の亡者であるようにしか見えない。
実際に地獄の亡者でしかないから、罪状をすべて自白した上で、十分な反省に努めたなら、
大勝が反故になるのとは引き換えに、戦敗して死ぬようなこともなく、贖罪して庶民になることもできる。
そんな相手とは、そもそも真剣勝負ができないので、戦う気も失せて、何もしないで衰滅を待つ程度。
死ぬことなんて簡単だから、ただ死に様が道化とならない程度には努めるのみ。
>>907 向上心を持てって言ってんだろ
お前のはそれ上昇志向だよ
914 :
考える名無しさん:2010/12/03(金) 09:58:28 0
向上心が必要なのも西洋人のほうだ。
東洋人は、昔から天地人三才が上下に折り重なった六道が俗界の全容であるとわきまえていたから、
当然のこととして、自分たちがより優良な修羅人天の三善趣であるように努め、
より劣悪な地獄餓鬼畜生の三悪趣ではないように努めた。
しかし、西洋人は大昔から地獄餓鬼畜生(地獄煉獄天国)の三悪趣しか知らず、
最高天とされるものですら畜生天国止まりだったから、
劣悪なものを排して優良なものをとる選択肢などはなかった。
優劣良悪の選択肢が提示されたなら、もはや劣悪を排して優良をとるしかなく、
東洋人も当然のこととして六道のうちの三善趣を採っていたわけだが、
西洋人はなまじ三悪趣の中だけで文化文明を育んできた伝統が長いせいで、
(ただし東洋人が三善趣を選取してきた伝統の長さには及ばない)
なかなか「全ての選択肢」の中から選択すべきものを選択する踏ん切りが付かず、
仮に今から三悪趣を排して三善趣を採ったとしても、大昔から伝統的に
三善趣の選取に努めてきた東洋人との落差はそうそうには埋め合わせられないから、
無根拠で無益有害なプライドもあるせいで、今まさに三悪趣の長であることを「全世界の長」
である根拠ともして、「日食状態の暗闇の長」であることを鼻にかけ続けていようともする。
日食状態なんて、ほんの一瞬だから、いつまでも長きどりをしてもいられず、
じきに三善趣選取にかけての「大後輩」にならざるを得ないが、全く向上心を抱こうともせずに、
最低最悪社会の長である身分に固執すればするだけ、その間の犠牲になっていく被害者も数多い。
だからほんの一瞬といえども、命を大切にする当たり前な人心によって、三悪趣卒業を促し続けもする。
915 :
考える名無しさん:2010/12/03(金) 20:43:38 0
>>907ハンパしてすみませんでした。六道のことは今まで
誰も教えてくれなかったので。
916 :
考える名無しさん:2010/12/06(月) 20:29:38 0
「六道輪廻」は衆生に説く方便のうちの一つでもあり、自力修習のための本格教学でもないので、
地獄餓鬼畜生修羅人天の六才からなる六道だけを切に学べば、凡人であろうとも理解できないことはない。
しかし、六道の他に、地獄煉獄天国の三獄だけに専らな異端の見識などを同時に学んだりすれば、
いったいどれが正しいのか分からなくなり、どっちも正しいような矛盾許容論理にも陥らざるを得ない。
不純物が混在してしまったせいで、通常なら凡夫でも分かる程度の方便が尽くされている六道輪廻の思想までもが、
容易には理解しがたいものとなってしまっている。本当は別に難しいことでもなく、IQが100もあれば誰でも
理解できることが他力仏教や儒学などでは教えられているのに、IQを一時的にでも20や30程度にまで
落ち込ませてしまう禽獣教学が干渉してしまっているせいで、常識的に理解できることまでもが理解できなくなっている。
別にIQ180や200なんかにならなくても、IQ100程度のまともな知能を恒常的に堅持し続けられればいい。
酔っ払っていても、性交中でも、とにかく一人前の知能は堅持し続けておく。常に一人前でい続けられるのなら、
知能テストの時だけは高得点をはじき出せても、ややもすれば知的障害レベルにまで知能を退行させてしまう
「知能不安定症」の患者などであるよりも、重大な仕事を任せるに値する人間でもあるといえる。
・・読もうという気はある。
918 :
考える名無しさん:2010/12/10(金) 19:28:14 0
>>916地獄道とは具体的にどんな世界なのでしょうか?
あした、読もうかな。。
全体の要旨を、50行以内の文章にまとめて下さい。
(これ、自分の勉強にもなるよ。。)
地獄道・・・犯罪まみれの主謀
餓鬼道・・・犯罪被害による貧窮
畜生道・・・犯罪加害による過度の富裕
修羅道・・・犯罪性を除外した武闘
人道・・・犯罪まみれの体系的な払拭
天道・・・犯罪まみれの体系的な抑止
声聞縁覚菩薩仏の四乗も、「諸悪莫作修善奉行(法句経)」や「断悪修善(般若経)」を
旨としており、三悪道を排して三善道を推し進める傾向を伴っているわけだけれども、
三善道のうちの人道や天道が、自分たちから主体的に善性を推し進めていくのに対し、
四乗である仏道の場合には、三善道と三悪道いずれをも傍観的に諦観した上での、
菩提心の発露に即した断悪修善を推し進めていく点が異なっている。
儒学の正典四書五経中の「易経」もまた、六道を六爻六十四卦に即して俯瞰する
材料を一応は提供しているわけだが、その記述は素っ気ない上にやたらと難解で、
易学の理解にまで即して人道たる儒家を実践していくことは大体において諦められ、
四書などのより簡明直裁な勉強材料によって、より実践的に儒学を実践していくことの
ほうが朱子学創立以降の中国や日本でも重んじられてきた。六道全体を俯瞰して
までの超越的な断悪修善のお株は、儒学発祥の地である中国においてですら、
仏教伝来以降には仏教のほうに丸投げしてきたきらいがある。
922 :
考える名無しさん:2010/12/13(月) 13:54:45 0
なるほど。そう考えると陰陽因循の易経と「善悪六道」の
仏教はたしかに似てますね。
旧くはなかったね。あまりにも新しすぎたんだ。10000年以上も。
>>748 あまりにも新しすぎたんで、付いて来られる人間が限られていたというのはある。
・・ありがとうございます。大変、勉強させていただきました。
これからいくつか質問させていただきます。
「超越的な断悪修善」は「六道全体を俯瞰する」ことによって
可能になる、と。すばらしい教えですね。921さんは、日本
仏教の諸流のうち、どれがもっとも本質的に仏道を継承した・・
とお考えですか。
925 :
考える名無しさん:2010/12/14(火) 13:10:18 0
そりゃあ、場合わけによっていくらでも答えが変わってしまう難問だ。
釈迦が成道に至ったまでの、厳しい研鑽を忠実に再現している点では密教が一番だし、
成道した瞬間の正覚の再現一つに絞って、参禅に努めている点では禅が一番だし、
円熟期の自在な方便も駆使した教学を受け継いでいる点では法華が一番だし、
そもそも凡人が悟りを得ることなどを諦めて堅実な正念に努める点では浄土が一番だ。
仏教はどこまでも、仏陀という巨像を群盲が撫で回した体験談でしかあり得ず、
自分がいずれの盲人であるかによって、どの教派が最適であるかも変わってくる。
とりあえず、貴賤を問わず、誰しもに対して帰依を勧められるのは浄土教で、
天台教学である六道十界論のうちの、特に俗人にとってこそ重要な六道輪廻を
「往生要集」などで主体的に司っているのも浄土教だが、自力の仏者にとってこそ
重要な声聞縁覚菩薩仏の四乗に関する考察などをあえて切り捨てているなど、
やはり仏教らしい仏教であるとは言えないことを認めざるを得ない。
自分は、ごく初心者なので見当違いの質問をする。。と思いますが、
ご容赦ください。
浄土教とおっしゃられる場合、具体的には法然の教えを指す・・と
理解してよろしいのでしょうか?
そして、帰依を勧められるのは浄土教である・・とおっしゃられる
一方で、(浄土教は)仏教らしい仏教であるとは言えない・・と
おっしゃっていますね?
つまり、浄土教は、もっとも帰依を勧められる教えであるが、仏教、
本来の仏教とは、異質なものを含む。。ということですね?
つまり、仏教のメイン・ロードは、禅に代表される自力の道であるが、
それは、大衆に広めるという目的からみると、あまりに貴族的な道である
と、示唆されている。。と理解していいでしょうか。(じっさい、開祖の
シッタルタは、王族の出身です。。)
2つの問いをしてしまいましたが、お答えいただければと願っています。
また、やはり、往生要集を、すぐに読んだほうがいいでしょうか。
入門者に、勧められる良い書物があれば、ご紹介いただければ嬉しいです。
ほんとうに、初心者でありまして、
ほとんど読んでおりませんので、どうか、好著をご紹介下さい。
ああ。。ごめんなさい。浄土教という場合、もっと古くて、平家物語などにも
大きな影響を与えている信仰のことですよね。
そう言えば、兵藤裕己の「平家物語」「琵琶法師」(岩波新書)という本を
持ってました。。。
928 :
考える名無しさん:2010/12/15(水) 09:51:31 0
10円玉の平等院鳳凰堂も浄土系の寺院で、本尊も阿弥陀如来だね。
法華と共に禅や浄土、密教なども兼学する日本天台宗が、藤原氏の支援で建立したもの。
未だ禅や浄土の本格的な輸入がされていなかった平安時代までの日本において、
法華を最高の教えとする天台宗で副次的に学ばれていた、禅仏教を本格的に広めたのが栄西や道元、
そして浄土教を本格的に広めたのが法然や親鸞。「往生要集」を著した源信も秀逸な浄土信者ではあったが、
未だ天台宗のいち僧侶に止まっていたために、独自の宗派を立ち上げた法然や親鸞と比べれば、
どうしてもプロトタイプ的な扱いに止められることが免れ得ない。
禅や浄土が独自の宗派としての発展を見せた鎌倉期の新仏教は、いわば「比叡山仏教の開陳」であって、
それまでも延暦寺においては黙々と修習されていた数々の教義が、公家社会から武家社会への
時代の移行などからの要求にもよって、比叡山の外へと持ち出され始めた動きだった。
比叡山では副学扱いだった禅や浄土を独自の宗派として立ち上げたのはまだしも、
主要中の主要教義である法華を独自の解釈も踏まえつつ庶民に流布したのが日蓮で、
その教義の排他性の高さなどから伝統的に非難の対象となり続け、今でも創価などの形で
嫌悪の対象となっている。ただ、皇室ご用達でもある天台教学のうちでも最高の教えとされる法華までもが、
一応は鎌倉新仏教の興隆を通じて一般に流布されており、何らかの仏教教義が象牙の塔の内側に
隠されたままで庶民に流布されることがなかったりしたわけではない証拠にはなっている。
929 :
考える名無しさん:2010/12/15(水) 10:04:24 0
良くも悪しくも、あらゆる仏教教派の中でも最難関なのが密教。
大乗小乗共通の戒律の他に、密教独特の戒律も加えるなどのガチガチの実践主義。
あまりにもその実践が困難であり過ぎることから、弘法大師空海以降の真言密教では
未だ空海に匹敵するほどもの後継者が生み出されたことがない。
その真言密教も、禅や浄土や法華などのあらゆる他流教義を兼学する総合仏教であり、
天台宗が法華を最高の教えとするのに対し、真言宗は密教こそを最高の教えとする点が異なる。
未だ空海を超えるような密教の後継者が生まれていないにも関わらず、真言密教の人気は高く、
その信者数も浄土真宗と並んで日本最大級であるのも、一つには空海のカリスマ性があるが、
「南無遍照金剛」のような他力本願の信仰形態も部分的に浄土教などから借り受けているために、
自分自身が密教の大成者でなくとも密教に帰依する門扉が開かれているから。弘法大師並みの
大聖でなければ密教に帰依してはならないというのなら、誰も密教信者を名乗ることはできない。
930 :
考える名無しさん:2010/12/15(水) 10:16:54 0
密教も南無大師遍照金剛、禅宗も南無釈迦牟尼仏、日蓮宗も南無妙法蓮華経。
「南無〜」という他力の帰依を最も純化したのが、浄土信仰の「南無阿弥陀仏」であり、
阿弥陀仏への正念を専修する以上は、もはや自力での仏教修習などは目指さない。
阿弥陀仏も実在しない架空の仏ではあるが、だからこそ見習いようもなく、
お釈迦さまや弘法大師や法華経のような、見習いの対象にもなり得る実物に
帰依する場合以上にも、他力信仰の姿勢だけは堅固なものとなる。
お釈迦さまを見習えると思うのなら、お大師さまを見習えると思うのなら、
そっち系の自力仏教を目指してもいいわけだが、ただ、自力仏教は出家第一。
婚姻も社会的成功も絶って、丸坊主に糞掃衣の風体で厳しい修行に励み続ける。
他力でないというのならそうでしかあり得ず、結局は浄土教以外の仏教に帰依する
のであっても、大体は「南無〜」という他力信仰の形態にあやかる場合がほとんどとなる。
931 :
考える名無しさん:2010/12/15(水) 10:51:42 0
ベラベラとなまくらな仏教知識を述べ立ててしまったが、自分も仏教が専攻なわけではないんだ。
本当は儒学などに即した徳治学や、その実践に務められた政治史などのほうが専攻。
ただ、東洋の政治史などを専門的に勉強していると、どうしたって仏教が頭をもたげてくる。
あくまで超俗志向であるのが基本であり、武田信玄や上杉謙信のようなにわかでもない本格の僧侶が
本格の政治家として活躍した例なども皆無なわけだが、孝謙天皇の黒幕として専横を働いた道鏡や、
徳川家康のブレーンとして重宝された天海など、政治史の傍流で不気味な威容を放つ僧侶は多い。
そして何より、他力の帰依者としての、本格の政治家による仏教帰依の度合いが半端ではない。
世界最大級の木造寺院である東大寺を建立した聖武天皇、さらにそれ以上もの大寺院の建立を
試みた秀吉(ただし中途の地震による倒壊で中止)、俗世の頂点に立った権力者が、自らの孤高さを
紛らわせる手段として、超俗宗教の雄である仏教に、大枚もはたきつつ帰依することがよくあり、
そのために、自分たちでは大して稼ぎもしない仏門が、伝統的にホクホクの財政状況でもあり続けている。
932 :
考える名無しさん:2010/12/15(水) 11:08:09 0
あくまで政教分離が基本であり、東洋の為政者が仏教教義に即して政治的手腕を奮ったりはしていない。
しかし、一端の政治家が儒学や老荘などの無宗教的な政治思想に即して、自力での徳治を実現した後に、
事業の封禅の意図も込めて、他力の範囲内で仏教に帰依し、大寺院や大仏を建立するなどした場合が多い。
未だ仏教が流入していなかった前漢までの中国においては、始皇帝や武帝などが仏教ではなく、
道教やそれ以前の土着宗教に即して、泰山などでの封禅の儀を執り行っていた。ただ、未だ未発達な
土着宗教などに即して封禅の儀を行っていたことから、インチキや迷信も相当に横行していたようで、
泰山での封禅を成功させた武帝ですら、欒大のようなインチキ道術者に惑わされてもいる。
未発達な土着宗教などに特有の迷信は排して、絶対真理こそを究明し、他力でもその絶対真理にこそ帰依する
仏教が、かつては迷信混じりな土着宗教ばかりに即して行われていた封禅の儀などをより手堅いものとする上で、
時の権力者たちに重宝されるようになった。もちろん秀吉のように、仏教帰依による報禅が失敗した場合もあるが。
別に、仏教流入以降の中国や日本で、古来の土着宗教が全廃されただなんてこともなく、土着宗教は土着宗教で
道教や神道などとして、仏教との協同に即した洗練なども伴いつつ、独自の発展を果たしてきた。その道教や
神道が衰亡の危機に晒されているのも、仏教ではなく、文化大革命やGHQ占領などのほうのせいだったりする。
神道が衰亡の危機に晒されている・・とは、思えないのですが?
象徴天皇制が続く限り。。。
秀吉の仏教帰依については、まったく知りませんでした。
彼は大俗物のように思えるので、完全に政治的ポーズだと思いますが?
家康の2人の宗教的ブレーン、南光坊天海と金地院崇伝ですね。
前者は理想家肌、後者はリアルポリティクス志向のような印象が。
あと、面白そうだと思うのは、後白河です。
この辺、おおいに関心があります。
・・他力信仰は、仏教と言えるでしょうか。自力と他力では異質すぎるという
気がしますが。
浄土教を知るためには、
とにかくまず、法然を研究してみる必要がありそうですね?
936 :
考える名無しさん:2010/12/16(木) 11:06:13 0
浄土教は純粋な仏教だ。
その依拠元となっている浄土三部経も純粋な仏説だし、その浄土経と、
華厳経などの聖道門の経典との血のにじむような比較査読によって
親鸞聖人が提唱した悪人正機も、確かに正確な仏説の一つでこそある。
「一切衆生悉有仏性」であり、牆壁瓦礫(瓦礫の山)や乾屎蕨(糞かきべら)にまで
仏性は伴っているとされる。それは、拝火教やアブラハム教の主な信仰形態である
他力本願にすら当てはまるのであり、他力信仰に仏性を見出した結果が悪人正機でもある。
仏性ってのは、ある種の位相のことであって、「悪人なおもて往生を遂ぐ、いわんや善人をや」
だと仏性の位相とはならないが、「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」だと仏性の位相になる。
易学における吉凶の相とはちょっとちがって、吉凶をも超越する普遍性の位相こそが仏性となり、
位相が専らに優良であることこそが吉祥となり、専らに劣悪であることが不吉となる。
位相が仏性の規則にすら従っていれば、他力信仰ですらもが仏教となり得る一方で、
仏性の規則に違反した位相である以上は、何ものも仏教や仏説であることはない。
悪人正機は確かな仏説だが、善人正機は遊び人のたわ言に過ぎず、両者の違いは厳然としてある。
937 :
考える名無しさん:2010/12/16(木) 11:48:08 0
一休和尚が寺の本尊の阿弥陀如来を枕に昼寝していれば「俺の商売道具に何をする!」と怒り、
信者たちにも「本尊はかけ破れ、聖教は読み破れ」との珍言を残している蓮如上人。
ちっとも本尊であるはずの阿弥陀如来に対する陶酔的な帰依が伺えない、
それもそのはずで、悪人正機に即しての一向専修念仏が、ありのままに悟りに至る正業であるから、
阿弥陀如来という偶像への殊更な精神依存などを浄土信者が必要とすることもない。
仏性という位相に即しての他力本願であればそうなるのに、仏性に違反する善人正機的な
思い込みの中での他力本願は狂信の塊とも化してしまう。仏説に即せば確かに正しい方向へと
導かれ、反仏説に即せば確かに誤った方向へと陥れられる。それはどんなことにでも当てはまり、
受戒を必要としないはずの浄土教においてですら、阿弥陀仏への正念に努めていることで、
自然と一挙手一投足や、一思いや一言から仏性にかなったものへと矯正されていく。
ははは。。。
33さんの、煩悩即菩提という言い方は、はじめて聞きましたが
優れていますね。
自分の用語で言うとこれは、弁証法であり、陰陽となります。
悪人正機説も、まさに弁証法ですね。
940 :
考える名無しさん:2010/12/17(金) 01:01:02 0
世の中は荀子の説が正しいのか、老子の説が正しいのか。
>>937さんはどちらを信じてますか?
941 :
考える名無しさん:2010/12/17(金) 09:52:23 0
せっかくタチバナ文庫から「十八史略」の全釈が出たと思ったら、
全巻揃で3900円だってな。古本で新釈版を買ったほうが安いっての。
良書は高く、悪書は安く。少なくとも商売人は性悪説に則っている。
商売人は性悪説を実行し、士人は性善説を実行する。
善悪は人間の社会的作為に影法師のごとく付随するものであり、
作為全般を消極化することによって、善悪の差し障りも根本から防ごうってのが老子の説。
作為を積極化する中にも、善悪の流れを最適化してしまうのが悪人正機。
真宗七祖のうちの第三祖である曇鸞も、道家の書を焼き捨てて阿弥陀仏に帰依するなど、
浄土教と道家の説は互いに相容れないことが歴史的に確認されてきてもいる。
「煩悩を捨て去れ」ってのが道家や自力仏教の勤めである一方、煩悩を最適化して
善用してしまうのが浄土教や儒家の勤め。儒家や浄土教とて、最適化もされていない
劣悪な煩悩をただ垂れ流しにするのではなく、それなりの矯正を行き届かせようとはしている。
性善であるにしろ性悪であるにしろ、濁悪な煩悩をそのまんま肥大化させて
人類を破滅に追い込むようなことだけは避けようというのが、東洋教学全般に共通の要項。
942 :
考える名無しさん:2010/12/17(金) 10:48:52 0
パソコンも、定期的にデフラグしておかないと、
断片化したファイルだらけで動作がやたらと遅くなるし、
しまいにはMBRまで壊れてOS自体が起動しなくなったりするね。
お念仏は、人間自身にとってのデフラグのようなものだよ。
943 :
考える名無しさん:2010/12/17(金) 10:53:24 0
MBRまで断片化で破壊されたボリュームは、起動ディスクのブートでも起動できない。
だからハードディスクごと取り出して他のPCに接続し、
MBR修復ソフトやエラーチェッカーなどを駆使して直すしかない。
人間でいえば、刑務所や閉鎖病棟に入って更生するようなものだ。
944 :
考える名無しさん:2010/12/17(金) 11:22:32 0
ハードディスク容量に十分な空きがあれば、
リナックスとのマルチブートで、リナックスの側から
ウィンドウズやマックのパーティションを修復することもできるかもしれない。
人間でいえば、後見人が付いて全ての治産行為を任せるようなものか。
>>941 ふん。
自分はまったくの門外漢ですが、要するに、一種のバランス感覚を
発明せねばならない。。という訳ですな?
綱渡りのなかに真あり、ですか。。。
946 :
考える名無しさん:2010/12/17(金) 21:42:44 0
>>941老子の「何もしないことが最上の結果をうむ」という説と
「自ら先取して自然を徹底的に人工的に利用して栄えるべきだ」という荀子の説と、どちらを
支持しますか?
私は最近迷ってます。
947 :
考える名無しさん:2010/12/17(金) 23:16:32 0
老子ではないし、荀子でもない。
孔子や孟子の「俗世に道があれば勤労に励み、道がなければ活動を自粛する」という
分別の行き届いた説を支持するし、実際に自分もそうでありたいと思う。
荀子の学門からは、勤労義務化の提唱者である韓非も輩出されており、
その韓非の説を始皇帝も参考にして、下民を牛馬のようにこき使っての事業展開を試みた。
それで中国が強くなったのかといえば、全くその逆で、世界的なバカ建築である
万里の長城まで築き上げつつも、蛮族匈奴による中原の侵略は深刻化する一方だった。
それが漢代になって、無為自然の統治が重んじられるようになると、十分な休暇を
与えられたことで民は瞬く間に強大化し、匈奴の撃退も成功するようになり始め、
武帝が儒家の五経を正学に取り決めた前漢中期に、ついに匈奴は滅亡することともなった。
どこまでも多動性障害を鼓舞する荀子・韓非系の勤労義務化志向も行き過ぎなら、
とくにかく何もしないでいることを推奨する、老荘列のニート礼賛志向も行き過ぎだ。
民の疲弊で弱体化したり、逆に休暇によって強大化したりの緩急の後に、
行動と不動の緩急の加減こそを重んずる、正統な儒学が正学とされたことで、
中国は歴史的にも最高の安定を獲得することとなった。働きまくればいい場合もあれば、
何もしないでいたほうがいい場合もある。そのような場合分け全体を俯瞰しての
均衡を重んずる、正統な儒学の中庸志向が、仏教の中道志向と並んで最適なものだといえる。
しかし、餓鬼界というのは、単なる犯罪被害者におもえるのだが?
949 :
考える名無しさん:2010/12/18(土) 11:09:14 0
餓鬼界の住人はね、自分たちが犯罪被害者であることすらもわきまえられないんだよ。
深刻な重権力犯罪被害に遭い続けていることに、まずは気づかない。
なんとなく察知しても、「奉仕の精神」とかいった美辞麗句で犯罪性を隠蔽しようとする。
もはや明らかな犯罪被害であることを察知しつつある状態でも、まだ
「奴隷階級」とか「社会の歯車」とかの、それはそれで存在性がある程度認められるような
表現によって、自分たちの置かれている状況を最低限でも正当化しておこうとする。
それでももう、明らかな犯罪被害者であることこそを完全に突き付けられたなら、
その時はもはや「これでいい(es ist gut)」の一言のみによって開き直る。
犯罪被害者であって、しかも犯罪被害者であり続けることを肯定すらさせられている、
マゾ根性が完全に定着しきってしまっているのが餓鬼界の住人。
畜生界や地獄界の住人は、逆にサド根性が定着しきっており、餓鬼界の住人などに対して
一方的に犯罪行為を加え続けることを「これでいい(es ist gut)」と開き直る。
地獄餓鬼畜生の三悪道の内部にいる者たちは、自分たちが犯罪加害被害という
劣悪な破滅現象の只中にいるという自覚が薄く、そうであることこそを
「これでいい(es ist gut)」と開き直ろうともする。三悪道の犯罪性を
十分にわきまえて、それではダメだという自覚を十分に備えた上で、立派な
勧善懲悪や断悪修善に臨めるのは、あくまで三善道や四乗の住人に限られている。
952 :
考える名無しさん:2010/12/19(日) 01:30:23 0
削除依頼が出てるスレじゃ無理だな。
不当圧力に屈する餓鬼界の住人とは、
奴隷根性を抜きにした健全な議論もできないので、別に構わない。
仕方なく奴隷でいるものとの議論の余地はまだあっても、
自ら奴隷であることを欲するものとの議論の余地まではない。
954 :
考える名無しさん:2010/12/19(日) 10:53:17 0
>>947しかし始皇帝のころの匈奴はもっとおとなしかったですよ。
さらに武帝までの漢兵は連戦連敗でよくて引き分けな状況が多く、
とてもじゃないけど武帝の時代で勝利とはいえないものでしたよ。
やはり軍隊の瞬間的・戦術的な勝利は法家に勝機があるのでは
ないでしょうか?
955 :
考える名無しさん:2010/12/19(日) 12:46:35 0
それは、「史記」の匈奴列伝の記録からは、随分かけ離れた物言いだな。
匈奴による中原の侵略が最も深刻だったのが、始皇帝らの支配した秦代までで、
その統治を引き継いだために高祖劉邦などの頃の漢もまた匈奴に苦しめられたが、
呂后や文帝、景帝らの無為自然統治が功を奏して中国全体が強大化し始め、
武帝の代にはついに、匈奴からの侵略の分量を、匈奴駆逐の分量が
上回り始めたと「史記」の匈奴列伝には記録されている。
匈奴駆逐を任命された将軍であった李陵に十分な援軍を送らなかったせいで、
李陵が匈奴に降った武帝の失策を指摘したために、帝の怒りも買って宮刑に処せられた司馬遷が、
にもかかわらず、厳然たる事実の提示として、武帝期の漢の匈奴に対する優勢を認めている。
司馬遷には、良くも悪しくも歯に衣着せぬ冷徹さがあったようで、そのせいで自らが不遇に
追い込まれもしたが、皇帝から貨殖に至るあらゆる人々の行状を偏見抜きに描ききる
道家的な見地に即した世界初の正史「史記」を脱稿することもできたのだった。
956 :
考える名無しさん:2010/12/20(月) 03:05:25 0
始皇帝はモウテンを派遣して匈奴を駆逐したので秦の時代は
匈奴は進入できなかったとか。
957 :
考える名無しさん:2010/12/20(月) 07:55:53 0
現在は老荘思想の無為自然が
荀子・法家の人工思想に勝ったように思えるが。
958 :
考える名無しさん:2010/12/20(月) 09:43:02 0
>>956 その蒙恬こそは、始皇帝没後の醜い後継者争いの犠牲となって
謀殺され、一旦は中原からの撤退を余儀なくされていた匈奴たちも、
中国の側の自業自得による弱体化によって息を吹き返すこととなった。
不世出の聖人君子ではなく、どこにでもいるような小人であっても
世界支配を可能にすることが売りである法治主義を掲げた統一秦王朝が、
実際には蒙恬のような不世出の猛将の奮闘にもよって支えられていたために、
自分たちの守護者を自分たちの手で殺める愚行によって、二代限り、
たった15年の統一支配の後に、秦帝国もまた滅亡するザマとなった。
始皇帝の時代にも、蒙恬のように匈奴への健闘を果たした名将がいたし、
武帝の時代にも、李陵のように匈奴に敗北して投降するような将軍がまだいた。
しかし、全体としての戦局が秦代や前漢初期には匈奴優位中国劣位であった
のに対し、前漢中期には完全に中国優位匈奴劣位となって、中国の側が
匈奴の側に大勝を収める分量のほうが多くなった。部分の勝敗と全体の
勝敗が連動することもあればしないこともあり、部分だけの勝利に固執して
全体の勝利を疎かにするようでは、秦帝国の二の舞三の舞となってしまう。
959 :
考える名無しさん:2010/12/20(月) 09:56:24 0
>>957 完全なる無為か絶対的な有為か、
どちらかのみの勝敗が未だ争われる状態では、
両極端にぶれない儒家や仏教の出番もないな。
政局の大変動が起こる時期に、
おおよそ三種類の人間が頭角を現して来るようになる。
破壊を司るもの、創造を司るもの、そして維持を司るもの。
ヒンズー教における、破壊神シヴァと創造神ブラフマーと維持神ヴィシュヌの
三神一体思想にも符号している、この三種の傾向を司る人間が、単数にしろ複数にしろ必ず現れる。
分かりやすいところでは、信長と秀吉と家康。信長が今川や武田などの
戦国最強軍をも破壊し、秀吉が刀狩りやキリシタン禁教、太閤検地などによって
国の土台を創造し、家康が安定を獲得した日本社会の維持に努めた。
960 :
考える名無しさん:2010/12/20(月) 10:08:18 0
約2200年前の中国に上記の論理を当てはめるなら、始皇帝はこのうちの「創造」を司った。
中国全土の貨幣や字体を統一し、雁字搦め過ぎるほどもの法制を整備して、善くも悪しくも国の土台を作った。
しかし、あまりにも機構としての融通が利かなかったために、秦帝国自体は早急に崩壊せざるを得なかった。
そして、秦帝国の圧倒的な「破壊」につとめたのが項羽。
劉邦のほうが、なるべく直接対決などを避けた懐柔策によって諸国を投降させていったのに対し、
項羽はほぼ一方的に諸国を撃破していくばかりで、一旦は劉邦が無血で投降させた秦の首都咸陽でも
暴虐を働き、降伏した秦王子嬰も斬首に処し、阿房宮や始皇帝陵墓なども焼き払う蛮行に及んだ。
そして、その項羽すらも垓下の戦いにおいて破り、統一中華帝国の「維持」強化につとめたのが劉邦。
項羽が咸陽の建造物を焼き払って回る直前に、劉邦直属の重臣である蕭何らが大事な書類を収集して回り、
その保存につとめたために、秦帝国における国政関係資料は漢代の中国でも再利用されることが可能となった。
もちろん秦帝国の政治体制をそのまま受け継ぐのではなく、杓子定規に過ぎた法制を軒並み緩和撤廃して、
民たちの自由闊達な心身活動の余地を与え、秦代の中国以上もの国力強化をも実現した。
961 :
考える名無しさん:2010/12/20(月) 10:21:50 0
両極端を排する中道を説いた仏陀が、ヒンズー教では維持神ヴィシュヌの化身とされるが、
一過性の破壊や創造につとめた始皇帝や信長、項羽や秀吉などによる支配は、それこそ一瞬限りに止まったが、
国体の維持につとめた劉邦や家康の興した漢王朝や江戸幕府こそは、数百年もの泰平を実現している。
泰平の「維持」が目的なのだから、長期統治が実現されることも当然なわけだが、長期なだけに、歴史の大部分を占有することともなる。
ヒンズー教で、維持神ヴィシュヌが創造神ブラフマーや破壊神シヴァよりも特別扱いされたりすることはないが、
中道の堅持を説く仏教では当然、破壊や創造以上にも維持のほうが特別扱いされている。自分たち同士での内紛などが
皆無であるインドならば、維持神ヴィシュヌを特別扱いしたりする必要もないのだろうが、相当な戦乱状態も経験している中国や日本などの
社会においては、平和を維持していくことが破壊や創造以上にも重んじられるから、中道の維持を説く仏教がインド以上にも尊重されている。
中国以東に、仏教が流入してきたのは後漢時代以降であり、秦代や前漢時代には、まだ仏教の中道思想は察知されていなかった。
しかし、中国には中国特有の中正教学――儒学があったために、儒学に即しての中正維持が重んじられて、前漢期における
長期の泰平も確立された。インドのような泰平続きでも、西洋のような戦乱続きでもない、一時の戦乱と長期の泰平を順繰りに経験する
極東社会特有の歴史展開は、第一には儒学によって、第二には仏教によって確立されたものであり、まさに中正に即した歴史展開だといえる。
するともしかして、神道を延々と維持し続け、仏教も、儒学も
やすやすと吸収し尽くした日本は、世界最強か?
963 :
考える名無しさん:2010/12/21(火) 02:18:07 0
>>958部下(特に将軍)への粛清というのなら劉邦に軍配が上がるのでは?
さらに彼が韓信や英布らを生かしておけば匈奴(中原の都市と平野からなる
戦い方と騎馬民族との戦い方は違うだろうが)への
対応を武帝の時代まで敗北続きにはならなかったのではないでしょうか。
たしかに二代目皇帝のように項羽のような猛将に滅ぼされる危険性があったかも
しれないが、劉邦がかといって不世出の人間を活かしたとはとてもいえず、
まさに本人の奇跡的な魅力で成り立っていただけのような気がします。
法家の始皇に対し儒家が勝った、とみなしたのはかなり後の(特に
儒者たちが拵えた正当性)話ではないでしょうか。
964 :
考える名無しさん:2010/12/21(火) 02:23:55 0
>>959私は儒も仏も両極端に触れることはありだと考えてます。
それこそ三悪趣におちった者たちが救いを求めるために
修行する姿は他人から見ればえらく極端な行いとも見えます。
このように中庸とは円を描いたその中心、というわけではなく
本来の自分に完全に適した行いを得ることであり、仏教や儒教は
そのためには極性に到達するようなことをするのも是とするだろうと
思います。ただしそれはあくまで目的(王道楽土)あっての極相であり、
連続した闇雲の行いではないとこは誰しもが知るとおりのことです。
965 :
考える名無しさん:2010/12/21(火) 02:30:23 0
>>962そのような考え方は矛盾概念に弱くなるので現実に対して
適正な判断のできない国になるでしょう。そんな説は捨てるべきです。
966 :
考える名無しさん:2010/12/21(火) 02:35:31 0
>>961ところで宮崎駿氏の映画には仏教用語からなる
個人名がたくさんあって、
ほとんど彼の作品はインドの思想をアニメにしたような気がします。
でも私は仏教に詳しくないので
風の谷のナウシカを仮にそういう目で見た場合、その世界はどのような
ものになるのでしょうか?貴方の個人的な所感を教えてください。
967 :
考える名無しさん:2010/12/21(火) 02:42:56 0
腐海・・穢土
王蟲・・破壊と創造と消滅という自然現象
クシャナ率いる兵隊・・悪の軍勢(ヤッカ)
青年・・アスラ
ナウシカ・・マイトレーヤ
巨神兵・・シヴァ
私はあまり仏教に詳しくないですがこんな感じがしました。
>破壊と創造と消滅という自然現象
違う。自然現象はそういう風にはなっていない。
自然はおろか、数学上の関数の極限だって「発散」と「収束」と「振動」に大別される。(これは高校数学のVCで習う)
発散が破壊、収束が創造、振動が維持として現実の自然現象や社会現象へと演繹されるわけで、
破壊、創造、維持の三つを最高神として扱うインド思想や、
この思想にも即しての政変を繰り返してきた極東史のほうが、数理的にも理に適っている。
世襲での代々の帝位の存続という、維持振動の理に即して数百年の泰平を保った漢が
瞬間的な天下取りでしかあり得なかった秦始皇帝や項羽などよりも成功した存在であるという解釈も
全く理に適ったものであり、一瞬の天下でしかあり得なかったようなものを優位扱いするほうが理に反している。
969 :
トーヘンボク:2010/12/22(水) 00:45:15 0
ははは。発散、収束、振動と、インド思想の三大最高神。。。ですか?
そりゃあ、壮大極まるメタファーですねぇ。。すっかり、気に入った。
あなたは六道を俯瞰するのが、中道の立場だと、ボクに教えてくれたヒトな
のかな? ボクは、ひとりで本とか書く能力がないから、あなたと組もうかな。
どうです? 私と本を書く。。というのは。
一度、真剣に考えてみてくださいよ。
970 :
トーヘンボク:2010/12/22(水) 00:51:07 0
ナウシカねぇ。。。
ナウシカには、いまいち乗れませんでしたねぇ。。。
宮崎アニメだったら、「ハウルの動く城」が、結構好きかな。
宮崎アニメじゃないけど、ジブリで言えば「耳をすませば」もいい
ですね。
971 :
考える名無しさん:2010/12/22(水) 09:48:52 0
>>968老荘思想で宇宙は発散と収束の繰り返しなんて言ったましたね!
972 :
考える名無しさん:2010/12/22(水) 13:08:17 0
柳生宗矩も「兵法家伝書」でそのへんの老子の言を引いていたが、
春夏秋冬の四季の流れが、自然界の発散と収束、破壊と創造の繰り返しになっているという。
一方で、そのような四季の移り変わりの繰り返し全体が、維持振動の法則に即しているとも言える。
老荘に始まる道家は、春夏秋冬という1セットの四季を以て、発散と収束の法則にも着目したが、
儒家は四季の繰り返しに代表されるような、振動による状態維持の普遍性に着目したわけだ。
振動はあくまで振動であって、ひとところへの凝り固まりではない。
統一中華帝国の体制を創造した始皇帝は、法整備による雁字搦めでの乱世の収束ばかりに
固執したために、ある程度の面白味も欲する民心の反発なども受けて、瞬く間に崩壊をも呼び込んだ。
一方で、高祖劉邦に始まる漢帝国では、統一後もそれなりの社会的な動きが結構認められて、
秦代には廃止された諸侯らの貴族制も、諸侯の独立性を弱めた形で復興したために、
小さな小競り合いは続くことともなった。それでも確かに、春秋戦国時代ほどもの乱世は
確実に収束させられて、下民が大戦争に徴発されて疲弊し、総体から弱体化するようなこともなくなった。
973 :
考える名無しさん:2010/12/22(水) 13:08:59 0
唐代の中国でも、李白や杜甫や白楽天といった大詩文芸文化が花開き、インドなどの西方社会との
異文化交流も盛んとなったために、最澄や空海も天台宗や真言宗といった高度な仏教文化を
入唐求法によって日本に持ち帰ることができた。そしてその唐代とも時期的にはかぶる日本の平安時代や、
徳川幕府による泰平統治が実現された江戸時代においても、宮廷文学や歌舞伎や浮世絵といった
多くの独自文化が花開いた。泰平社会ってのは、完全に法制などで社会構造が収束しきって
止滅してしまっている状態ではなく、それなりに穏健な動きもありながら続いていくものだ。
永久平和を「墓場」に見立てたカントの物言いなども、本物の泰平社会を知らない西洋人に
特有の思い込みであり、泰平社会にこそ、人類史上にも残される多くの優等文化が花開く。
孔子や孟子が活躍した時期は、乱世の春秋戦国時代だったにしても、孔子が編纂した詩書や易は
周代初期の泰平期に草案されたものだし、「礼記」や「論語」や「孟子」なども、漢代以降にやっとその体裁が
確立されたもの。本当の乱世には、本当に価値のある文化は、あったって隠されて役立てられることがない。
(マルチポストはさすがによくないんで、以降はなるべく本スレへ)
974 :
考える名無しさん:2010/12/23(木) 05:51:26 0
しかし「それがほしいならそれをあたえよ」という
老荘思想が是であるとするのなら
やはり人工世界での安定が正解であるとする
儒・法その他「方法」的な思想は成り立ち得ないわけであり
私は最近どうすればいいのかわからなくなりました
老荘は、何もしないことを是とする中に、
いやいやながらの適当な言行を残しただけだ。
976 :
考える名無しさん:2011/01/04(火) 17:46:36 0
>自然はおろか、数学上の関数の極限だって「発散」と「収束」と「振動」に大別される。(これは高校数学のVCで習う)
>発散が破壊、収束が創造、振動が維持として現実の自然現象や社会現象へと演繹されるわけで、
>破壊、創造、維持の三つを最高神として扱うインド思想や
これは、これは・・・何を書いても責任を課せられない2chならではのとんでも理論ですな
一昔流行ったポストモダンとかいう思想のさらに下をいく下種の理論
近現代数学も「異端再利用学科」での扱いとなる。
ふむふむ。
線形代数の基礎を初めて考案したのも日本人の関孝和だが、
微積分の基礎を初めて考案したのも、本当は中国人なんだってな。
なんなんだよ、ニュートンとかライプニッツって。
・・なんなんだよって、もちろん、キミよりはるかに偉大な存在である
ことだけは、断言できますけど、何か?
正直、関孝和がやっていたぐらいの
行列式計算までしか、今のところ使いみちがない。
関の五行五列の行列式計算は間違っていたが、そもそも五行五列までいらない。
それどころか、四行四列すらいらない。三次以上の実成分の次元要素は収縮するし、
時間軸は行列計算の実行そのものとなるから。時間までをも俯瞰することはもう不要。有は時なり。
何、それ?・・めっきり面白そうなお話ですね。
3行3列の行列計算で十分。
なんとなれば、3次以上の実成分の次元要素は収縮するから・・、って、
しらないなあ。実成分という以上、複素行列を念頭においている事は
わかるけど。
3次以上は必要ないって・・・ホントかなぁ。
あまりにも、それでは、話が簡単になりすぎる・・・と思うよ、正直。
3次以内の行列計算で、自然解釈は十分できる・・・という主張なの?
まさか、そんな、簡単な話であるはずがない、と思うよ。
そんな話、まったく聴いたことがないよ。
きっと、君のかん違いだと思うよ。もう一度、反省してみてよ。
ヒント:オブジェクト指向
絶対、ウソだね。そんな話、聞いたことないから。
3次行列で、すべてがまかなえること、あるはずないじゃない。
タチ、悪いなぁ。。。初デマ?
金剛界曼荼羅は23行27列
ごめん。27行33列だった。
37行45列といえないこともない。
関++