>>863 じいさん、
「現実の主客関係の中にある種の本質を見て取る」ことができるのはなぜだ?
そのこと(それができること)を「絶対的本質の存在」として見なすことに無理があるのだろうか?
僕にとってはこれは微妙な問題として感じていて明晰には至っていない
>本質と言うのは観念だから、観念が先んじるのはおかしい。
そうだ
では観念が生じる理由をどのように捉えればいい?
そこに(「観念に」ではなく、「観念が生じること」に)本質はないのだろうか?
リンゴの観念を措くことは、非リンゴの観念を措くことも決定する
「リンゴの観念の在らず世界」と、「非リンゴの観念から成る世界」は同じでない
僕はここで「リンゴの観念」を問題にしてるのではない
その(或る)観念が生じることに、本質の差異(奇妙な表現だが)があるという問題意識だ
本質とはなんだ?
私たちの世界がまったくのタブラ・ラサ(白紙)であれば観念を産めたでだろうか?
つまり、「リンゴの観念の在る世界」であることが、本質を決定してるのではないか?