1 :
考える名無しさん:
それゆえ、一者は万有ではないであろう。万有なら、一者はもはや一者では
ありえないからである。また一者は知性体でもないであろう。なぜなら、知性体
はすなわち万有であるから、一者は知性体であることによっても、やはり万有
となるであろうから。また一者は存在でもないであろう。なぜなら、存在は万有
だからである。
それでは、一者は何なのであろうか。いかなる自然の本性をもつものなので
あろうか。しかしむろん、これに答えることは容易ではない。すでに存在や形相
についても、それは容易ではないのに、我々の知識は形相に依存するものだ
からである。ところが、その形相もないところへたましいが向かうとなれば、・・・
プロティノス「善なるもの一なるもの」
前スレ:
【一者】新プラトン主義【流出説】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1158608810/
2 :
地方労働者:2010/05/12(水) 23:40:36 0
「我々の知識は形相に依存するものだからである。」
こういうことを解するのに、科学の進歩とかは関係ないらしいね。
自分は学生なのですがプラトンの説いた洞窟の比喩が理解できません。
イデア、叡智界、魂の向けかえといった言葉を用いて説明していただけるとありがたいです
スレ違いでしたら申し訳ありませんよろしくお願いします。
4 :
地方労働者:2010/05/13(木) 19:55:25 0
ラッセルは明らかにパルメニデスをアリストテレスの
神学体系の先達者みたいな書き方をしてんな。
プロティノスについても、アリストテレスの影響が見かけ
よりも大きいと評価してる。
前スレの最後の話の続きで恐縮なんだが、
カースト制がブラフマンと関係ないというのは信じ難いねぇ
ブラフマンと合一できる連中とそうでない連中がいて、
各人のアートマンには高低があるという考えから、
その高低に基づいてカーストが生まれているのであって、
そういう意味では、ブラフマンはカースト制度の発出源だ
プロティノスが、一者と合一できる連中とそうでない連中がいて、
その魂には高低があると言ったのと同じ構図だ
だから、行き付く先は要するに一だというならば、
ゴータマとか出すのは止めて、
インドに行ってヒンズー教徒になった方がいい
バラモンになれるかわからんがなw
バラモンは火の扱いを知っている人たちだろう。
(火は一なるもののメタファーとしては最適だ)
ここで注意すべきは身分と階級を分けて考えた方がいいということだ。
バラモンは身分であって階級ではない。
階級になるのは後の時代だ。
そして、この点においてはブッダよりガンジーの方が歴史的に有効な処方箋(塩の自給や
チャルカ=手紡ぎ機という自律分散的な生産手段など)をもたらしたと思う。
7 :
地方労働者:2010/05/13(木) 22:35:16 0
バガヴァット・ギーターじゃブラフマンである祭祀のチャクラ(車輪)を
この世で回せとあるね。
8 :
考える名無しさん:2010/05/13(木) 22:45:16 0
地球と言うものは、宇宙の中で、縁起の理法により釣り合って存在してるのだ。
釣り合って存在してるだけのものだから、実体があるのではない。実体とは
真実在を言う。真実在ではないので、幻である。決してそれに依存することはできないものだ。
そしてこの宇宙全体も、縁起の理法により釣り合って存在してるだけのものだ。
だから幻としてあるだけで、本当に有るのではない。縁起の及ぶ範囲は、無限であるといえるが、
それをすべるものがあり、それは演技現象は幻に過ぎないと見破る知恵であり、この知恵は、
えんぎして居ると見ることの次に、縁起しているから実体のない嘘のものである、と見るのである。
この知恵こそ究極の知恵である。これゆえに仏教では勝義諦という。縁起現象は無限であるが、
この勝義諦により包まれている。包まれている以上有限である。勝義諦我表れたので有限なものになったのである。
有限なものは、消滅する性質のものだ。縁起現象に過ぎないからだ。
あなたがインドの釈迦だとかカーストだとか、その他の知識をひけらかしているそれは、
縁起現象に過ぎないものだ。この彰義隊に包まれている縁起現象の世界を
パルメは、球状なもん、といったのである。
9 :
地方労働者:2010/05/13(木) 22:55:45 0
「諦」は「帝が言う」と書いて、仏教哲学では「真理」の意味らしいな。
して見ると「諦める」とは、そもそも「あからしめる」の近意か知らん・・・。
10 :
考える名無しさん:2010/05/13(木) 23:06:32 0
>>3 プラトンは勉強する必要がない。プラトンのパルメニデスは必要だ。その他は必要なし。
百害あって一利なしだ。
>>8 パルメニデスは、諸記録によれば、
二つの原因・原理、つまり、火と土、或いは、熱と冷を立てていたらしいが
その見解によれば、その二つの原因はどのようなことになるのかなぁ
12 :
考える名無しさん:2010/05/14(金) 01:03:04 0
>>3 大学の課題でその言葉を使って論文書けって言われたからここで聞いてるんだろう
自分で考えろよ
13 :
考える名無しさん:2010/05/14(金) 07:42:42 0
>>11 パルメを少しは自分で勉強してるんだね。それは結構。其れなら平行して
老荘特に荘子を勉強すると良い。さらに仏陀のアゴンに至れば良い。アゴンは
パルメや老荘を理解してから、読むと良い。しかし、そんな勉強も本当は不必要なんだけどね。
世界が一=無相=空相であるという理解に至るなら、今度は演繹してこの世界の成り立ちを見るのだ。
天地創造である。人の考えるところ、これをパルメは、臆見といっている。世界各地に
天地創造の神話があるが、それぞれ異なっている。その原因はその民族の一般的な知恵の程度による。
知恵の程度に差が有るのだ。この知恵は勝義諦ではない。欲の認識である。
性欲、睡眠欲、食欲である。これに基づいて世界を創造してるのである。
14 :
考える名無しさん:2010/05/14(金) 08:01:04 0
>>11つづき
そこで、パルメの、熱と冷を考えてみるに、人間の三大欲を生命とか魂とか
言い、その保持への欲が基となっていると見るべきだ。火と土も同様である。
仏教の12支縁起が最も学問的解明である。
やはり魂には高低があるという見解になるようだな
そういう意味では、仏教は援用せずに、
ヒンズー教徒になった方がいいのではないかと思うが
>>10 パルメニデス信望者が下らない奴なのは分かった。
プロティノスのスレには来ないで良いぞ。
プラトンはアリストテレスにイデア説を放棄させられて、
当てつけに「パルメニデス」書いたんじゃなかろうか。
ハイデガーの『存在と時間』にアリストテレスと並んで、
パルメニデスの名前出てくるもんね。やっと意味がつ
かめた。
18 :
考える名無しさん:2010/05/14(金) 19:04:51 0
>>16-17 パ〜カ。同名異人のアリストテレスだよ。
時代背景を調べろ。
クックク。
19 :
考える名無しさん:2010/05/14(金) 19:15:08 0
>>15 >やはり魂には高低があるという見解になるようだな
注意しろよ。欲に強弱があると言う意味だ。小欲知足
に近いものが有利ではないかと普通は考えられる。
しかしな、知恵が完成しないことには、所詮同じなんだよ。
今こうして交流できるのは、誰にお陰だ?しかし、これとても
真正の優位ではない。優劣がないというのが真実である、という真理は揺るがないんだ。
>>18 思想文脈的にはワザとかも知らんぞ。
形相の領域に一者を措定している点で、パルメニデスも
アリストテレスもプロティノスのそれとは全く相容れない。
アリストテレスの体系には一貫性が欠けているというから、
文脈次第でどうにでも解釈可能だろうが、形而上学者は、
否定神学的一者なんで考えたくもなかろう。
21 :
考える名無しさん:2010/05/14(金) 22:16:34 0
文化交流が実際に記録できる状態でなされているときだけ、文化の交流が
行われるということはいえない、と思う。空気が文化を伝えるのだ。
この証拠が、紀元前5、4世紀に同時に中国、インド、ギリシャで一の思想が
花を咲かせたということである。これらの知者は、断絶した常態ではなかったと言いたい。
実際の文化交流がなかったにも拘らず。一であるなら、パルメも老荘も釈迦も同一人格といって言いのだと思う。
もし今の誰かが一を体得するなら、彼は、往古のパルメや老荘、釈迦と同一人格なのである。
>>3 洞窟とは肉体を意味する。我々の霊魂は肉体という檻に囚われているということ。
そして、洞窟の壁に映る影とは目で見たもの。
これに対してイデアとは、いわば第六感とでも言うべき理性によって認識される。
万物は流転するのであり、肉体の目はまずその変化に幻惑される。
しかし、一見して無常であるかのような世の裏には永遠の真理が潜んでいる。
それを洞察せよということだな。
万物は流転するが、ロゴスは不変であるというわけだ。
単純に言えば、物はいろいろ変化するが、物理法則は一定というわけだ。
で、プラトンの場合、こういった理屈が倫理にも応用できると考えている。
物理と倫理が理という点で共通するという考え方だが、これは現代から見ればアナロジーにすぎない。
論語に「政を為すに徳を以ってすれば、譬えば北辰の其の所に居て、衆星のこれに共するがごとし」
という言葉があるが、これに似た表現はプラトンの『法律』にもある。
しかしプラトンの方がはるかに論は精密であって、惑星の軌道がどうこうと問題にしている。
惑星は距離が近いので北極星(北辰)を中心に回るように見えない場合があるのだ。
諦めの悪いのがいるな・・・。
「諦観」とは真理を見ることか知らん。
24 :
考える名無しさん:2010/05/14(金) 22:39:13 0
自分で論旨の不明確なことを言っていることは判っている。
>>21のことだ。
しかしあなたの言うことも曖昧すぎて判らない。一者というのが絶対的一を意味するのなら、
パルメも、プロチノスも、アリストテレスも「アリストテレスが一を主張したのか?そんなことは
初耳だ)同じものを捕らえ説明しょうとしてるのだ。
>>17 ヘラクレイトスは「万物は流転する」と言ったが、
これに対してパルメニデスは「存在するものは存在し、存在しないものは存在しない」と言う。
これで常に流転するような現実の物質が果たして本当に実在すると言えるのだろうかという
疑問が提示される。そして、観念こそが実在であり、現実は幻影であるということが帰結される。
それゆえ、パルメニデスは形而上学の祖とされる。
ところで、ゼノンの逆説で有名なゼノンはパルメニデスの弟子である。
ゼノンのパラドクスは、パルメニデスの球体的一者の
形而上学における実在論が背景にあるかも知らんね。
観念的唯物論みたいな世界だ。
ここだけの話だけど、パルメニデスの「全体が至る所に
在って、無限に広がる球体」ってのは、「中心が至る所に
あって周縁のない円」と一緒で、神秘主義的超越意識の
表現の典型例なのか知らんけどね。
パルメニデスの球体は有限だと思うねぇ
俺の記憶が正しければ、無限なのはパルメニデスに師事したメリッソスだ
29 :
考える名無しさん:2010/05/15(土) 07:50:33 0
幻は有限であるが、真実在は無限である、ということだ。
まぼろしは2、3の複数であるが、真実在は1の単数なのだ。
幻は真実在により姿を消す。その逆はない。
30 :
考える名無しさん:2010/05/15(土) 08:22:36 0
31 :
考える名無しさん:2010/05/15(土) 08:27:44 0
>>30つづき
ただしかし、論理的裏ずけが、仏教や、パルメ、老荘のように、縁起であるとしたものが
この紹介文の中には見当たらないね。
>>28 超越的一者が輪郭と大きさのある丸い球体だなんて
おとぎ話をするのでは、尚のこと取り上げる価値なんか
ないだろ。アタマ悪杉。
プラトンの「パルメニデス」に登場する「アリストテレス」って、
実は同一人物だったりしねえ? 西洋の学者は、かなり恣意的な
解釈するからな。
33 :
考える名無しさん:2010/05/15(土) 13:30:16 0
プラトンのパルメニデスには、パルメニデスやゼノンの言ったことがほぼ全部含まれているようだよ。
ゼノンの逆説も、紹介されているような具体的な話ではなく抽象的に、だがね。
メリッソスの言っていることは正しいが、それはパルメとは相反しないのだ。
パルメの現存してる遺稿というもは、本当は後の人が書き留めていたものに過ぎないという。
だから、書き間違い、理解に間違い、があったかもしれないのだ。しかしその点、
プラトンのパルメニデスは、最も信頼できるものといえるだろう。
ソクラテスが言うように、聖人は聖人の風貌を持つものなのだな〜。
プラトンだって人づてに聞いただけだろ。しかも
好意的な取り上げ方はしてないようだ。哲学詩編は
残っているようだな。
思考可能なものが即ち、語り得るものであり、
それが世界の境界を規定するって考え方は
ウィトゲンシュタンに似ていなくもないが。
35 :
考える名無しさん:2010/05/15(土) 14:13:08 0
>>34 >プラトンだって人づてに聞いただけだろ
ソクラテスが師匠であったし、その当時は、パルメの遺稿も完全なものとして残っていた
に違いないのだ。ソクラテスはじかにパルメやゼノンの話を聞いたのだからね。
好意的に書いてないというよりも、恐れ多い説であると、思っていたようだ。
プラトン自身は、最後までパルメを理解し切れなかったようだ。それは中国の
韓非子のようだったと思う。プラトンも韓非子も政治に哲学が適用できないというのは、
納得できないのだ。しかしそこが両名の了見の狭さだ。政治に適用できないということはない。
パルメの思想はプロチノスに受け継がれ、それがキリスト教に受け継がれ、キリスト教が、
ヨーロッパで、政治と結びついて、以下に大きな影響を果たしているか、それは政治の効果であるとは否定できないのだ。
しかし、プラトンの「パルメニデス」は後期作品ではないのか?
その中で、ソクラテスにわざわざイデア説を取り下げさせると
いうのは、ちょっと首を傾げざるを得ないのだが。
37 :
考える名無しさん:2010/05/15(土) 15:07:32 0
>>36 いろいろプラトンも試行錯誤を経て、というのは自分イデア説のことだが、どうも
しっくり行かないので、パルメの説を思い出し、しかも周囲にはパルメの説を支持してるソフィストが
居てその影響を受けざるを得ない状況下にあっては、後期にパルメの説に屈服するという方が
自然であると思わないかい?
ああ、すまん。ソクラテスがイデア説を取り下げた「パルメニデス」は、
特にイデア説を強調して取り扱った中期に分類される作品の最後と
見なされているのな。
ソクラテスがパルメニデスに師事してたのが事実であるとしても、
そもそもイデア説がソクラテス自身のものであるというのは疑わしいと
思う。
プラトンのパペットとしてのソクラテスと、実際のソクラテスとをごったに
すべきではないだろう。
>>37 アリストテレスは、プラトンの主催するアカデメイアに入門して、
最初は学徒として、最後は教師として、プラトンの死ぬまでの
二十年を過ごした。
後期のプラトンの著作にはアリストテレスの逆影響はあるかもね。
自然哲学の著作などもあるようだし。
40 :
考える名無しさん:2010/05/15(土) 15:29:22 0
それにパルメの説は理に適っていた、反論できないのだ。
イデア説などどうでも良いのだ。そのパルメニデスの
一者について解説したまへ。
俺の討論はソクラテス式だから照準は決して外さないのだ。
43 :
考える名無しさん:2010/05/15(土) 15:52:01 0
プロティノスの一者説を中心に話をしているのではないのか?
パルメニデスについての自慢話に付き合うつもりはないぞ。
また規制かかってるし。いい加減にしろ。
45 :
考える名無しさん:2010/05/15(土) 16:05:36 0
そんな大上段にものを言われても対応が困難だ。
きっかけと言うものを原因として必要なものだ。
パルメの一について、どこが不満なのか、どこが判らないのか、こういうきっかけが必要だ。
第一原理と、そこから玉突き式に動く機械的世界観か。
物理学は、この世界がどうなっているかについて
語ることは出来ても、何故そうなのかについて
語ることは出来ないのな。それが実証科学って
奴だ。
「何故」を持ち出すと形而上学になる。反証不可能な
点については宗教と一緒だ。
たぶんだが、パルメニデスの一における有限と言うのは、
一者=球体には外などないというような意味だと思うねぇ
少なくともプラトンはそういう意味合いで引用している
そして「ソピステス」において、
エレアからの客人にパルメニデスの議論が気楽過ぎると言わせている
素晴らしい。ようやく「モナドロジー」が読めるように
なって来たぞ。
パルメニデス門下で有名なのは、
ゼノンの他に、メリッソスとエンペドクレス辺りだ
だから、ソピステスにおける「エレアからの客人」が誰かと言うのは、
その辺りから判断することになると思うねぇ
51 :
考える名無しさん:2010/05/15(土) 18:10:32 0
>>46 >第一原理と、そこから玉突き式に動く機械的世界観か。
第一原理とは何のことか解るが、玉突き式に動く機械的世界観というのは、
問題だと思う。
対話と言うものはなれていないし、自信がないが、今までの貴殿の言うところを見ていると、
一というものの理解が正確に確立していないのではないか、と疑っていたところだ。
そこで、一と言うものがそもそもどのような意味内容を持つものか説明してみよう。
一と言うのは数学の一ではない。数学の一は234を予定しているものだ。
一とは、質量において、純一なものを言う。これには同意するよね?
質量のあるものは、プロティノス的には万有に属する。
53 :
考える名無しさん:2010/05/15(土) 18:19:05 0
質量は万有に属し、一には属さないという返答か?
ホティー・エゴー・エイミー
「シュ・レゲイス」が抜けたかな。ま、良いけど。
「一を主張する世界の知者達」の中で、「一者」について
質量のあるものを匂わせる言説は少数派だと思うぞ?
56 :
考える名無しさん:2010/05/15(土) 18:36:11 0
最初の質問を読んでくれ。
一なるものがあるとすれば、でも良いよ。その一は質量が同一なものの固まりでなければならないのではないのか?
「一なるもの」は「ない」のだ。存在するものは万有だからなw
58 :
考える名無しさん:2010/05/15(土) 18:46:46 0
>存在するものは万有だからなw
万有、つまりすべてのものがあると言うことか?個々それぞれとして?
不生不滅から、やり直せ(フォッフォッフォ
60 :
考える名無しさん:2010/05/15(土) 19:13:32 0
一と言う道理がわからないと、一切の教えが無意味になる。
解っているのなら良いじゃない。
ぼた餅を半分に切ってみても、断面に一者が見える
わけではないし、宇宙の果てまで出かけて行っても、
やはり一者が見つかるわけではない。この宇宙には
出口がないのだ。
test♥
まあ、何事も気の持ちようということだね
機械的世界観と言えばプラトンと同時代にはデモクリトスがいて、プラトンはそれを強く批判していたわけだけど。
しかし、プラトンの思想にも機械的世界観に見える部分があって、また、対話編で書かれているゆえに、どちらの
言っていることがプラトンの本心なのか断定はできないわけだから、偽装された機械的世界観である可能性もなくはない。
周知のようにソクラテスは神を否定したという罪状で処刑された。ソクラテスが実際に神を否定したかはともかく、
神を否定すれば処刑される可能性があったわけだから、プラトンは内心の機械的世界観を偽装して
うまく立ち回ったのだという解釈もありうる。
65 :
考える名無しさん:2010/05/16(日) 13:45:48 0
老荘思想は、どんな悪人をも、春の日のような気分にさせる。
そして、この気分は永遠に続くのである。
端午の節句は老荘思想に影響されてあるものだ。
メリッソスについては、
アリストテレスからも新プラトン主義者からも
曲解されているようなので分かりにくいかもしれんが、
アリストクレスという男が端的に言っていると思うねぇ
67 :
考える名無しさん:2010/05/17(月) 06:48:37 0
やはり機械的世界観とは違うと思うねぇ
新プラトンに比べればそちらに近いと言わざるを得ないとは思うけどね
プラトンの西洋哲学への実際の影響は、その名前ほどには
大きくないんじゃないか?
モロ影響を受けているって、レオ・シュトラウス主義者とか、
最低の連中だろw
古代・中世はともかく、近世以降は、
アカデメイアの設立とか
詩・弁論より数学・天文学(自然学)重視とか
その辺は見逃せない影響だと思うけどねぇ
ルネサンス以後のヨーロッパでのギリシャ思想の影響は、
アリストテレスのイスラムからの輸入で始まって、それに
釣られてプラトンの評価も上がったのでは?
中世だと一番読まれていたプラトンの著作は『ティマイオス』だったというがな。
キリスト教の思想に近いというのもあるだろうが。
プロティノスもキリスト教をある程度学んだことがあるようだし。
キリスト教と真っ向から対立するような学説だったら焚書されて
後世に残らなかっただろうな。
ティマイオスの中で展開されてる「ありそうな物語」は
かなりの側面で新プラトンの一者流出的考えと親和的だと思うね
全部とは言えないとしても
プラトンその人よりも、
アリストテレスの目的世界観と新プラトンの一者流出世界観の方が
ヨーロッパ中世への影響は無視できないと思うねぇ
そういや、ラッセルは『哲学史』の中で、トマスの神学は「実際の
アリストテレスよりはプロティノスに近い」と評しているねぇ
神学者の見解だったかな。俺はプラトンは初期のソクラテスの
芯の通った対話術だけ読んでりゃ良いと思ってるんだけどねぇ
『饗宴』で語られる、戦役でのソクラテスの剛毅ぶりも良いんだが。
セム的一神教であるイスラムにアリストテレスが受容されたのは一度新プラトン主義に
よって解釈・潤色されたものだからっていう面が強そうだが、これはキリスト教においても
同様に考えていいのかな
>>69 直接的に言及されてなくても、プラトンがひいたレールの上をいまだにすたこら走ってんだよ。
西洋哲学史はプラトンの注釈史であるとは有名な見解だ。
注釈というより、どちらかというと牽強付会の歴史だと思うねぇ
良くも悪くも西洋ではそれだけプラトンがビッグネームだということではあるけど
プラトンがひいたレールというか、アカデメイアはピュタゴラス教団を参考にして
作られたいう説もあるから、元々はピュタゴラスがひいたレールかもしれないけど。
話が逸れるが、中国にネストリウス派キリスト教が入って
来た時の、中国の皇帝の布教許可の勅諭で老子を引用
してたのは興味深かった。
83 :
考える名無しさん:2010/05/23(日) 14:59:19 0
景教の伝来を調べてヤフってたら、どこかにあった。
「景教 親鸞」でも、いろいろヒットするが。
大秦景ヘ流行中國碑頌
道に常名無く、聖に常體無し。方に隨ひてヘを設け、密として群生を濟はん。
大秦國の大コ・阿羅本は、遠く經像を將(も)ちて、來獻して京に上る。其の
ヘ旨を詳かにすれば、玄妙無爲たり。其の元宗を觀れば、生成して要を立つ。
詞に繋説無く、理に忘筌に有り。物を濟ひて人に利すれば、宜しく天下に行ふ
べし。
◆ 通 釈 ◆
道は(変幻自在なものゆえ)固定の呼び名を持たず、聖人は(臨機応変するもの
ゆえ)固定の態度に留まらないという。それぞれのやり方によって教化の道を開き、
きめ細かく人民を救済すべきであろう。ローマ帝国の高僧・アブラハムは、教典と
聖像とを携えて遠き道程を越え、これらを献納するために長安に上京した。その
教義を詳しく尋ねたところ、深玄霊妙であって無為無欲。その宗旨を観察してみると、
聖人生成の道に努め、要諦がはっきりしていることが解る。その教説にはよけいな
粉飾が見られず、その教理には方便のための寓言が多く集められている。人民を
救済して万民に利のあるものであるので、天下に布教することを許可する。
86 :
考える名無しさん:2010/05/23(日) 22:51:57 0
中国人というのは、中華思想といわれるほど、自己に責任を感じているんですね。
よいものは取り入れるということに自主的なんです。日本のように、前例を踏襲するという
ような考えは無いのです。
それと、昔から、老荘という真理の教えがあったことも、よい影響をしていると思われます。
まぁ武宗の時代に道教以外認めないとか言って弾圧しまくったけどな
ふむ。
89 :
考える名無しさん:2010/05/24(月) 18:33:29 0
かくの如き高邁な信条によって布教を許可されたものが、
教勢が急拡大して、その信条を踏み越えてしまって弾圧
されてしまうというのはあり得るだろ。
91 :
考える名無しさん:2010/05/24(月) 21:36:54 0
絶対的に正確は保証しないが、この当時、出家するものは税金とかの公課は課せられない法律だった。
そこで、出家した人が納税しなくなって、国の税収が足りなくなったのだ。
それを解消するために、道家以外を認めない政策を採った、と言う。
>>85 空海や最澄が唐に渡ったのが、この頃らしいね。
>>91 仏教を禁止する理由にはそれは当てはまるかもしれんが在地の外国人が
信仰主体であったマニ教、景教、ゾロアスター教を禁止する理由にはならんわな
94 :
考える名無しさん:2010/05/25(火) 06:34:31 0
景教マニ教だって在家と出家と言う区別はあったといってるよ。
95 :
考える名無しさん:2010/05/25(火) 06:52:00 0
>>92 空海は中国語を話せなかったに違いないだろう?
書くことはできただろうが。
日本人が中国人とどのように会話をしたのかと言う点について、
一切聞いたことがないんだが。例えばこんなトラブルがあったとか、
何かそれに関する記事があって良いと思うんだが。
まして空海だか最澄だかは、色目人とも交際があったという事実がある。
それから、中国人の仏教者が、本場インドに出かけて、そこでまたコミュニケーションなくしては
できない仕事をしてるんだよね。ま、インドの言語を翻訳する仕事をしてるのだから、
インド語を習得してることは間違いないが。彼らは旅行記を表しているのだから、そこに書いているのだろうか?言語習得の苦労を。
しかしそんな苦労など物ともしないで、大事な内容の経典を翻訳したと言うのは、並々ならぬ意欲があったというべきだろうな?
しかも命に関わる危険を冒さないでは、天竺にたどり着けないのだった。
帰る時も相である。しかし、中国には、天竺の思想と同じ思想がすでに有ったのだがな。
老荘という真理真実の思想が。
>>95 最澄は通訳無しでは話せなかったが、空海はペラペラだったらしい。若年より
漢学者の叔父に指導を受けていたことが大きいらしい。梵語については入唐後、
般若三蔵に習っているが在唐期間2年程度で恵果に両部(金剛頂経+大日経)の伝法
灌頂を受けているところをみると、中国語も梵語も日本にいた時点でかなり高いレベル
にあったんじゃないか。ちなみに「三教指帰」(空海作の戯曲)のなかで空海は
儒、道教(老荘)を仏教と比較してレベルの落ちるものと評価している。
97 :
考える名無しさん:2010/05/25(火) 13:21:35 0
>>96 空海が道教に接したのは、800年ごろで、道教ができてからほぼ300年経過している。
その道教も、元々、老荘の教えを奉じる団体として発生したものではないようである。
中国では、老荘の教団と、道教とは別と見做されていると言う(wikiより」。
空海が比較の対象にした道教とは、このような道教であり、老荘ではなかった。
仮に老荘であったとしても、仏教よりも下に置く根拠は何だと言うのだろう。有り得ないのだ。
老荘を仏教より下においているのなら、空海が仏教も老荘も理解していなかったのだ、と言われるべきである。
三教指帰は普通に読めるんで読んでみれば。あり得ないのだ、とか言わずに。
それからそろそろ、老荘じゃなくて新プラトン主義に帰りたいのだが。
99 :
考える名無しさん:2010/05/25(火) 15:26:41 0
ま、護摩をたいたり、呪文を唱えたりしてる人ですからね。
空海の日誌だかに、大秦景ヘ流行中國碑頌を書いた人と
会ったって記述があるんだと。碑頌は、老子の思想を読み
解くには、実に分かりやすい例だ。
道教ってのは、もともと中国の民衆の土着信仰だろ。
高野山に景教碑のレプリカがあんだと。日本も分からん国だよな・・・。
佐伯好郎氏の研究によれば当時のネストリウス派は宣教のために、意識的に大日経を
参考にして教義を中国語化し、自ら「光輝く太陽(大日)の教え」、すなわち「景教」と称した
とか。空海の梵語の師匠般若三蔵が経典の翻訳を開始したときの協力者がネストリウス派
の宣教師でペルシア語に長けおそらくはシリアの血をひく景浄(アダム)。空海は景教も
貪欲に取り込んだかもしれない。
ところでこのネストリウス派のシリア人ってのがイスラムに新プラトン主義的アリストテレス
を翻訳・紹介する際の主役なのだが、彼らが新プラトン主義をも当時の長安に持ち込んだ
可能性はないだろうか?景教の影に添うようにして。
華厳とプロティノスの類似はよく言われるが、空海が顕教のなかで最も高く評価していたのが
華厳だった。さて。
103 :
考える名無しさん:2010/05/25(火) 19:41:56 0
w
真言密教は、梵我一如の仏教版みたいな感じだから、
他の仏教に比べるとバラモン教に似てると思うねぇ
ただ、無我ということなので、その辺がバラモン教と異なるということなんだが
仏教からバラモン教に戻ってるという感じが無くはない
もし「三身即一身」の背後に三位一体があるなら、間接的には
プロティノスの影響があるってことかもね。
今や両氏とも故人だが、井筒俊彦が司馬遼太郎との会談で語ってる。
空海の真言密教とプラトニズムとのあいだには思想構造上のメトニミィ関係が成立する
だけじゃなくて、実際に歴史的にギリシア思想の影響もあるのではないか?
例えば、真言密教の金剛界マンダラの成身会の「不生無礙常瑜伽」的存在地平の
構造なんか、プラトンのイデア哲学やピタゴラスの世界像などを持ってくることによって
初めてその独自の構造的整合性の成立が哲学的に可能になる、とか。
ヘレニズムだねえ
>>106 論旨がやや不明だし、
プラトンはどうしても牽強付会されやすいので、
明らかにしてもらいたいんだが、
そこで言われてるプラトンのイデア哲学と言うのは
具体的にどのようなものなのかね
例えば、これこれの対話篇のどのような内容とか示してもらうとありがたいが
>>108 詳しいことは知らない。井筒氏晩年の仕事で大乗起信論から始めて空海の
真言密教まで読み解く予定だったらしいが一冊目を出して逝去されたんで。
だから氏がどこに共通点を見出したのかは不明。
自分は景教にしても新プラトン主義にしてもあの時代の中央アジアを行きかう人々によって
広く伝播し、思想の化学反応を起こしてたんじゃないか、と夢想してる。
ちなみに対談自体は司馬遼太郎「十六の話」(中公文庫)ね。
大乗起信論は読むのに根気がいるよな。途中で投げちまった。
佐伯好郎氏ってのは、日ユ同祖論者な。そっちの方はさて置いて。
日本にあるという景教経典はやはり遣唐使の持ち帰ったものだろうか。
新プラトンの特に、一者やそれとの合一ならば、
既にバラモン教の中にあるので、
容易にその影響関係は推定できると思うが、
プラトンその人の考えの影響を推定するのは難しいと思うね
密教については、新プラトンの影響があってもなくても、
新プラトンが梵我一如に似ているわけだから、
結局のところ、バラモン教への先祖帰りだと思うねぇ
プラトンは後期の作品である「ティマイオス」で、
自然について語るときには、ありそうな物語でよしとしなければならず、
何らかの始原を持ち出すのは余り意味が無いといっている
そして、ありそうな物語を語ろうとするならば、
自然の無限の多様さを観察しなければならないと言ってる
だから、このプラトンの態度と護摩たいてる密教との繋がりをイマイチ想像できない
プロティノスもインド哲学に興味あったんだしな。
三世紀頃なら、いい加減、インド哲学もギリシャに
浸透してるだろうし。
高野山に景教碑のレプリカ寄贈したゴルドン女史も日ユ同祖論者にして仏基同一論者。
思うに20世紀初頭ってのは急速に世界が小さくなって思想や宗教の類似例がそこかしこで見つかってた
時期なんだろうね。
115 :
考える名無しさん:2010/06/05(土) 17:20:08 0
>仏基同一論者。
仏教とキリスト教が根本的に、一を真実としているから、と言う意味で言っているのかと思ったけど、
相でもないんだよね。むしろ外面的な相を見ていっているのだ。
大日如来と言う名称は、便宜的なものである。ヤハウエの神とかエホバの神と言うのも便宜的である。
>>105 遅レスだが
プロティノスの体系における三つの本体(一者、ヌース、霊魂)は大乗仏教の教理における
仏の三身に相応したものであり、前者を解明することは、仏教教義のいくつかの困難な点を
解明するであろうと考えられている、とか
「フランス仏教学の50年」山口益より
この見方自体はJ.Przyluskiっていうフランス人学者の1930年代の研究(3世紀前後における
西欧思想に対するインドの影響)から
117 :
考える名無しさん:2010/06/13(日) 23:12:51 0
>>3 小林秀雄の『考えるヒント』の「プラトンの国家」の章でも読め。
読めるなら、読んでいるだけで思考が棍棒みたいに太くなって
来るぞ。
「ソクラテスは、或考えを比喩的に語っているのではない。
物事を具体的に考えようとして、おのずから比喩の中に
立つのである。」
シビレちゃう・・・。
119 :
考える名無しさん:2010/06/13(日) 23:29:39 0
この世界は、半開きの牢獄だ。格子の向こうからは、悲鳴や嬌声、
殺し合いの景色、硝煙と血の匂い。振り返ると、壁がなくて野山が
開けてる。
120 :
考える名無しさん:2010/06/13(日) 23:32:36 0
ドアの向こうから、牢獄の管理人たちが、「仲間になりましょう。
特別な地位に就きましょう」と手招きしてる。
122 :
考える名無しさん:2010/06/14(月) 19:51:40 0
したらばで、哲学板の避難所作れよ。変な飾りなしで。
『考えるヒント』は前半は、60年安保前の文章で、
文藝春秋に掲載されたもののようだが、後半は、
安保後の60年代以後bの文章で、これがほとんど
朝日新聞に掲載された奴だな。
最後がソ連旅行の話題で終わってる。
小林の政治スタンスってこんなだ。
プロティノスと仏教との類似性をいくら指摘しても、
エクスタシスとアナートマンは相容れないと思うね
エクスタシスと入我我入は相容れないのかい?
それらは親和性は高いと思うね
しかし、仏教草創からのキー概念であるアナートマンとは相容れないと思うね