■ ジル・ドゥルーズ Gilles Deleuze 8 ■
ドゥルーズもゲイだったからな
4 :
考える名無しさん:2010/04/26(月) 17:25:48 0
>>3 映画監督になった娘がいますが。
まあ、「人間としてしかじかのもので『ある』ことより、人間以外のものに『なる』こと」を説き、
「そうすれば確信をもって『僕はホモだ』と断言できるホモはいなくなるだろう」と言っていたドゥルーズだから、
ゲイじゃないと断言することもまたないのかも知れんが。
表象04
http://urag.exblog.jp/10379669/ ★小特集「ドゥルーズの逆説的保守主義」
國分功一郎「欲望と権力──ドゥルーズの「逆説的保守主義」を巡って」
小泉義之「思考も身体もままならぬとき──ドゥルーズ『シネマ』から」
共同討議「ドゥルーズの逆説的保守主義」國分功一郎+佐藤嘉幸+千葉雅也」
これ読んだ人どうだった? みなの感想が知りたし
差異と反復を読んでいたら「差異哲学が拒絶するのは
「スベテノ規定ハ否定デアル」ということだ。」(p93)と書いてあった。
勉強不足すみませんでした。
一日、ずっとドゥルーズのことを考えていた。
約10時間前 webから
9 :
考える名無しさん:2010/05/01(土) 08:49:20 0
>>7 前後の文脈が分からないけど、そこでの引用は、「スピノザ往復書簡集」からでは
なくて、ヘーゲルの「哲学史講義」から。(マシュレー「ヘーゲルかスピノザか」に
詳細な検討がある)
>>9 ドゥルーズにおける「肯定と否定」は永遠回帰の
ニーチェ的文脈におけるもののようです。
「否から出てくる青ざめた出来損ないの
然りのすべて、永遠回帰のテストに耐えぬものすべて
これらこそが否定されなければならないのである。」
(p97
ニーチェは1881年の永劫回帰の発見の直前にスピノザを読んでおり、直接影響があったのだろう。
ドゥルーズはそれらを系譜的に拾い上げた。
ヘーゲルはスピノザの差異=無限の認識を実体化して早急に主体に回収しすぎたのだ、と思う。
マシュレはうまくその辺りを説明していると思うが、単純に数学的無限(=無際限ではない)を
ヘーゲルが理解しなかったという解釈でもいいと思う。
気になるのはスピノザの無限の説明はデカルトの力学モデルを幾何学モデルに変換したものを
使っている点だ。ここに、カントが指摘するような数学と力学の違いの認識の重要性の問題が
浮上すると思うのだが、ドゥルーズの説明は(純理論的な解決というよりは)力学を出来事の
レベルで取り返すことを目指すものだと思う。
ゲルーのコメンタリーを誰か訳してほしい
ゲルーのは分量的に引き受ける出版社があるかという問題もありそう
千プラの「狼はただ一匹か数匹か?」に出てくるフラニーって、
サリンジャーの『フラニーとゾーイ』のフラニー?
45ページの下段からです。
15 :
考える名無しさん:2010/05/03(月) 03:22:33 0
ドゥルーズと民主制、あるいはハンナ・アレントの思想との関連性を誰か突き詰めてくれないかなぁ…
『哲学とは何か』と『人間の条件』『革命について』は明らかに通低するものを持ってると思うんだが…
そこまで言うなら自分でやれ
この手の「誰か××してくれないか」という書き込みほど意味が分からないものはない
いいこと言うね
素人の読者がプロの哲学者に「××してくれないかな〜」と言うのは別におかしいことじゃない
自分で考えて練り上げる楽しみを感じられないなら
素人だろうがなんだろうが哲学なんて辞めちまえ
ってか、自分で考えようとしないのに哲学やる意味なんてあるの?
ないと思うよ
>>15 自分で調べてブログにでもupすればいいじゃないかな
このスレに書いてくれてもいいよ
こういう些細なことでキレるのは哲学でルサンチマン育てたやつの典型例
>>6 話しているのは三人ともドゥルーズ研究者らしく、かなり濃密で専門的な共同討議になってる。
非常に重要なことが語られていることは確かで、ドゥルージアンは必読の記事だが、
気合い入れないと、すらすら読めない感じ。
素人の私はまだ理解できた気がしない(泣)
3人とも「アンチ・オイディプス」をドゥルーズ(&ガタリ)の最高傑作と捉えているようだった
共同討議「ドゥルーズの逆説的保守主義」を通読しての感想は、
ドスの「交差的評伝」第17章ドゥルーズとフーコー以上のことが
語られているわけでもないなあ、という感じ。ドゥルーズから
主体的変革の思想(行動指針みたいなもの)が出てこないこと、
しかし、同時にいかなる体制への生成変化が「最もまし」なものかは
示されていること(逆説的保守主義)というのは、自明だと思う。
そもそもスピノザがそうだから。自由意志を否定し、同時に国家論を書くわけでしょう。
余談だけど、ライダー・デューの本は、読んでみると意外といい本だった。
入門書としては、今のところベストじゃないかな。ハートのは、初期しか扱っていないし、
ホールのは、身体なき器官系だし。
ついでに言うと、当たり前のことだけど、ドゥルーズまたはドゥルーズ=ガタリの
本を直接読むのが、やっぱり一番面白い。入門書や研究論文は、確かに役に立つし、
分からなかった箇所が明確になるから、ありがたいけど、原典のような面白さはないし、
やっぱり豊かだよ、「アンチ・オイディプス」にしても「千のプラトー」にしても、
「シネマ」にしても。力量が桁違いだと実感する。
26 :
15:2010/05/06(木) 00:57:01 0
>>20 宇野さんの『ドゥルーズ 流動の哲学』の後半のほうで、ドゥルーズがガタリとともに
『哲学とは何か』において、「哲学」と古代ギリシアの民主制の関連性を指摘してたってのを読んで、
アーレント思想との関連をますます考えざるを得なくなったんだよね。
アーレントも古代ギリシアの民主政について、主に『人間の条件』あたりでだけど、考察して、
現在の民主制との比較を行ってる。
ドゥルーズがよく言ってた「民衆」とか「来るべき民衆」といったものも、このことと深く関係してると
思うんだけど、いかんせん、それをしっかり考えた論究ってのがなくて、
自分的にもこのテーマを深められないでいるんだよね(泣)
オレにもう少し知識と教養があればできるのかも知らんけど…。
>>26 そういうときは、最初から問題を大きくすると、誰だって途方にくれてしまうので
まずは『哲学とは何か』におけるギリシャと哲学の関係を整理する、
次にアーレントにおけるギリシャをまとめる、
と少しずつ進めて行って、最後に両者を比較してみる、って感じに
簡単なところから少しずつ進めていったらいいんだよ。
まずは、まとめるだけでも自分でやってみると
何がはっきりしないか、自分には理解出来ないかといったことも含めて色々見えてくるから。
本屋言ったら『批評と臨床』文庫版が積んであった。
出るの忘れてたよ。
小品ながら、久しぶりに読んだら妙に面白い。
鈴木雅大が訳者から抜けちゃったんだな。
ドゥルーズと民主政ということなら、反民主的なニーチェをドゥルーズがどう論じていたか、から、
ドゥルーズ的な民衆とか民主とかが意味するところを考える方向もあるだろうな。
>>28 鈴木雅大といえば、『スピノザ 実践の哲学』で、七刷まで「概念集」の一項目が抜けていたことに気づいていなかったのには呆れた。
補遺としてあとがきに加えられたわけだが、これ、平凡社ライブラリーになった際に立ち読みしたら、ちゃんと概念集に入れずにあとがきの位置のままだったような・・・。
スピノザ実践の哲学は良訳だったじゃない。
強度は大切にね!
東京電力!
千葉さん、福嶋なんかに負けないでね。
千葉が予想以上に軽薄だった
『千のプラトー』は文庫にならないのかね。
何度も文庫化の噂が流れては消えて行くな。
今度は本当に文庫化するらしいけど。
今度は『差異と反復』の文庫みたいに、全体の註が下巻にあるとか、
ページの関連づけが単行本のときと同じで参照不能になってるとか、
そういうアホな手抜きだけは止めてくれよ。
>>37 あれなぁ・・・
文庫を先に買ったけどハードカバーを買い直したもん。
>全体の註が下巻
それ『アンチ・オイディプス』の方だな
>共同討議「ドゥルーズの逆説的保守主義」
「逆説的保守主義」は元々スピノザについて形容された言葉である
そうだから、スピノザがもっと参照されるべきだ。
例えば「欲望」はスピノザの言うコナトゥスだし、、、、
そうすればドゥルーズの動物生態学とも、政治学とも連結され得るのに。
巻頭の浅田彰らのダンス=身体談義の方がよっぽどドゥルーズ的だと思う。
追記;
度々入門書の話になるが、清水書院『ドゥルーズ』はコストパフォーマンス的に推奨できる。
あとはやはり自身の『記号と事件』がいい。
「欲望は人間の本質である」「現実存在の原因はその定立と持続を肯定するのみである」
「コナトゥスとは現実存在に固執する努力である」「快楽は身体の一部分についてのみ
その存在力を肯定するものであり、従って人間身体全体の持続については有害である」
「自然の中に空虚は存在し得ない」「人間身体のみが精神を持つのではなく、心身並行論によって、
全自然の連続している各個体は、その身体の構成と全く同程度の精神(観念)を持つ」云々
このように、スピノザを読めば、ドゥルーズがフーコーに宛てた「欲望と快楽」とぴったり符合するし、なぜ「アンチ・オイディプス」が
欲望機械という概念を中心に据えたのかもよく分かる。
スピノザ(&ニーチェ、ベルクソン)をよく読まずに、ドゥルーズ(特にドゥルーズ=ガタリ)」が分かるのか、
これは非常に疑問だ。恐ろしいくらい、多くの問題意識がスピノザ哲学に収斂していくからね。
もちろん、「差異と反復」にあるように、ドゥルーズ哲学では、実態を様態の周りで旋回させるのだから、
正しくは、スピノザ=ニーチェ(永劫回帰)をアップデートしたものなんだけど、
まあ、どう考えてもスピノザに通じていないと、とんでもない誤解をするだろうね。
それが「生産的誤読」とやらなら、別に結構なことだけど、実際は既に自分が知っていることを
ドゥルーズに読み込んでいるだけじゃないかな。
スピノジストは二度死ぬ
43 :
考える名無しさん:2010/05/17(月) 11:35:40 0
アベセデールDVD化希望。
スピノザと表現の問題は頭こんがらがるね。
なんか論理の糸が追いにくい。
>>41 自己優位を保持する為にスピノザを振りかざすのはおよしなさい
スピノザで論文一つ書いたこともない奴がドゥルーズとかwww哲学なめられ杉
>>33 現代思想の巻末のあれ、わろたけどなあ
ケージ、光ゲンジ、メセニーの三大噺
ベルクソンておもろいな
>>46 それ言い出すと、デリダ読む資格なんかも、まともに考えれば
恐ろしいもんだよなあ。
フッサール、ハイデガー、フロイトから始まってプラトンまで・・・
>>45 優越性を誇示したいというのとは違うんだけど、書き方が悪かったかもね。
本音を言えば、「エチカ」本文の下段に、引用定理等を全部貼り付けて作った冊子を
無償で配布したいくらいだ。
「短論文」「デカルトの哲学原理」「知性改善論」「神学・政治論」「エチカ」「国家論」「往復書簡集」、
スピノザは著作が分量的に少ないから、全部読むことができる。哲学者が大学教授になる前の
時代の人だからね。とっかかり易いじゃない?特に「エチカ」は、ドゥルーズ云々が無くても、
非常に面白いものだからね。読んで欲しいけど、結局読む人は読むし、読まない人は読まないから。
「スピノザと表現の問題」は、確かに難しいけど、ドゥルーズのモノグラフィの中では、一番研究対象に忠実だと思う。
「倫理的世界観」の章は、感動的だし。それと、「スピノザ−実践の哲学」は、入門書の体裁だけど、
主要概念集の章は、実は難しくて、「表現の問題」を読んでからの方が分かりやすい。
近藤和敬さんの研究ブログや「交差的伝記」の方向性だと、やはり究極的には、ドゥルーズはスピノザ主義のアップデートを
狙っていたと思えるし、それは今後ますます明らかになっていくだろうと思う。
ただ、スピノザに欠けている美学的、芸術論的な面がドゥルーズにはあって、そこは面白いね。
批評家としても、凄腕だったと思う。
51 :
考える名無しさん:2010/05/20(木) 22:51:35 0
藤田尚志「ドゥルーズか、ベルクソンか〜何を生気論として認めるか」
藤田さんから、『思想』の最新号、ベルクソン特集を頂いた。早速論文を
拝読。
ドゥルーズとベルクソンが「似ている」というのはよく知られているが、
「何が違うのか」に焦点を当てた論考。両者の共通点を見極めた上で、そ
の土台のうえで生じる差異を明らかにしている切れの良い議論だった。
結論の一部を引用する。
アニミスムがベルクソンとドゥルーズを隔てるのではなく、〔ドゥルーズ
における〕魂の観照、行動の放棄という点が二人を分かつ。潜在性として
の出来事が二人を隔てるのではなく、出来事の反ー実現、現働化の放棄が
二人を分かつ。外部を呼び求める点で二人が異なるのではなく、外部から
完全に有機性を放逐するまでに切断を非合理化するか否か、全体性を完全
に手放すかどうかが二人を分かつ。
52 :
考える名無しさん:2010/05/20(木) 22:57:35 0
ライプニッツ
昨日ある研究会で上野先生にライプニッツとスピノザについて教えていた
だいた。両者とも激しく変な哲学者であるが、一つライプニッツで教えて
いただいたことを備忘録に。
可能世界の話なのだが、現実世界は、諸可能世界の中でrealiteが最大な
のだそうだ。で、realiteとはなぜか多様性と同義語であると。というの
は世界という容器のなかに少ない投資(時空間)で最大の効果(多様性=
realite)を得るのが最善世界で、これが現実世界になる、という風に考え
るからだそうだ。ただし、最大のrealiteが現実性actualiteになるために
は神によるモナドの創造が必要である、とのことだった。
可能世界がある以上(他の可能性もあったわけだから)現実の事象には必然
性はないが、しかし最善の世界の中ではあらかじめ予定されていたとおり
にしか起きない。(とすると自由意志とは、実際にはあたかも催眠術にか
けられたことを知らずに自由意志で行為しているつもりになっているよう
なものか。)
スピノザは人間であることをはじめからやめてる、
ともおっしゃっていた。なるほど。
どこの転載?
スピノザ君?
昔は穏やかな人だったのに。
スピノザは裏切り者 byレヴィナス
そういや、から谷はドゥルーズのヒューム論を褒めてたな
「可能性の中心を突いてる」だって
柄谷にホメられたらドゥルーズも病院の窓から飛び降りた甲斐があったな(棒読み
>>50 >「スピノザ−実践の哲学」は、入門書の体裁だけど、
>主要概念集の章は、実は難しくて、「表現の問題」を読んでからの方が分かりやすい。
これはひそかに自分も思っていたが、半信半疑で言えなかった。
「表現の問題」で唯一気になるのはやはりライプニッツとスピノザの関係だ。
(表現をキーワードにするのは明らかにライプニッツ寄りの発想だ)
ドゥルーズに、あなたはどっちの味方なの?と聞きたくなる。
大事なのはニーチェにどうやってたどり着くか?ということだとは思うが。
スコトゥス____スピノザ
/
/
/
/
ライプニッツ___ニーチェ
スコトゥス スピノザ
| / |
| / |
| / |
ライプニッツ ニーチェ
60 :
考える名無しさん:2010/05/29(土) 04:50:39 0
A. Kiarina Kordela, $urplus. Spinoza, Lacan, Albany,
State University of New York Press, 2007.
ドゥルーズ・ネグリラインの「新スピノザ主義」とそれを批判する
ジジェク・バディウライン両者に対立しつつ、ラカンその人の思索こ
そがスピノザの思索を継承するというテーゼを打ち出す、
時機に適った書。
61 :
考える名無しさん:2010/05/30(日) 08:47:19 0
>>60 戦後日本人≒アメリカ人ってチャート化が好きね(苦笑)
「哲学」をそういうマーケティング的なものに回収してくことを、
ドゥルーズは一番批判してたんだけどね…。
千葉が疑わしいのはそこかな
マーケティング?
馬鹿が一匹いますね。
ニューアカ時代には千葉みたいなのが一杯いたって事か?
65 :
考える名無しさん:2010/05/30(日) 21:58:42 0
そういやアリストテレスの形而上学みてみたら「アルケーは単数か複数か」みたいな事
延々書いてあったわ。東のデリダ本も当時読んでたので「古典は大事」と痛感
ドゥルーズの著作に搾った厳密な研究書はまだ日本で書かれてないな
68 :
考える名無しさん:2010/06/01(火) 00:49:53 0
来るべき精神分析のために
思想の言葉 小林康夫 (2)
《座談会》 来るべき精神分析のために
(8)
十川幸司・原 和之・立木康介
フロイトにおける「自己のテクノロジー」 十川幸司 (60)
ラカン派 1964― 立木康介 (74)
「精神分析」を待ちながら
──ジャック・ラカンにおける欲望の「公準」── 原 和之 (101)
日本精神分析史の黎明 立木康介 (122)
留保された未来
──フロイトと偉大な男たち── 小森謙一郎 (125)
「歴史小説」における真理
──フロイト『モーセという男と一神教』について── 比嘉徹徳 (153)
無意味と無価値
──ウィトゲンシュタイン・フロイト・自閉症── 竹中 均 (172)
次善の哲学と選択(下)
──ストア道徳哲学における── 廣川洋一 (195)
〈一〉以上のものとしての「自然」
──シモンドンと自然哲学(下)── 米虫正巳 (226)
アイパッドに期待してる。各種辞書がすっぽり。原書と訳書セットという形態がデフォになるといいな。くわえて、
そもそもドゥルーズやデリダは単独で読んでも仕方ない。他の本も大いに読まないといけないから、ああいう形で
本を集約できるのはありがたい
そんなの今のPCだっていくらでも出来るだろうに
あれ意外と画面小さいから読み比べるとか向かないよ
72 :
考える名無しさん:2010/06/02(水) 23:24:59 0
一人称は俺か。なんかイメージ違うな。
しかし日本人男性の一人称って本当面倒。
俺って言うとバカっぽいし、私と言うと犬みたいだし、僕というとセンチすぎる。
>>73 で、一人称すら使えないお前はクソカス2ちゃんねらー
国分のブログ、よいね。
76 :
考える名無しさん:2010/06/05(土) 13:51:15 0
>>71 ええー、そうなの?
意味の論理学の原書と邦訳をpcで読みたい
f
意味の論理学、人気高いな
バカだからか意味の論理学とか、意味わからなくて読んでると眠くなる
出来事の何が重要なのか分からね
「私は出来事の概念について書くことに時を費やしてきましたが、
それは私が事物の存在を信じていないからです」(「記号と事件」)
物と物が出会って出来事が生じるのではなく、物そのものも出来事だ、ということでは?
「意味の論理学」には、肉とナイフが出会って「切る」って出来事が生じるように書いてるけど、
肉とかナイフが実体としてあるのではなく、ミクロ物理的に見ればこれらも差異=強度の出会いとしての出来事だ、という。
ラフランス
出来物というとイボとかウオノメとかだな
83 :
考える名無しさん:2010/06/10(木) 13:20:07 0
a
84 :
考える名無しさん:2010/06/10(木) 13:39:15 0
>>82 痔や痔ろうなんかも?
あと、赤ちゃんなんかは?
「出来ちゃった。」ってね。
85 :
考える名無しさん:2010/06/10(木) 13:58:13 0
出来事=意味の発生は処女懐胎
やっぱアンチ・オイディプスが一番
88 :
ZEEK:2010/06/16(水) 21:46:36 0
「文明の病人であると同時に医師でもあるという芸術家の特性
において」書かれたものが、アンチ・オイデプスでしょう。
(感覚の論理p296)
89 :
考える名無しさん:2010/06/20(日) 04:32:45 0
どうでもいいけどZEEKをZIZEKに空目して焦った
あ、俺はMPが一番だと思っている凡庸なドゥルジアン
みんなは、ドルーズ以外にも幅広く読んでるの?
僕はもともとネグリを読んでたな
タイトルの和訳からしてむずかしいなあ
サンスは意味?感覚?
>>92 サンスはセンスの語源になっている語で、五感、感じる、感覚、勘、センス、観点、方向性などなど・・・
人によって感じ取る意味も違っていていい語だと思います。
厳密な意味を分析しながら読むのは後回しにして、まずは流してスラッと読んでみては?
94 :
考える名無しさん:2010/06/21(月) 21:03:38 0
test
サンスのロジックというのが矛盾していて面白いという感じはする
鴉の白さ、みたいな
國分のブログはいいな。
時事問題に絡めてドゥルーズ等を語ってくれるから、とても参考になる。
『哲学男子』にドゥルーズいる?
うわー。なんだこれ・・・
ドゥルーズ馬鹿
100 :
考える名無しさん:2010/07/06(火) 18:59:33 0
哲学男子とかやめてほしいわ
これでミーハーの馬鹿な腐女子どもが哲学板に乗り込んできたらと思うと
数年前ニーチェのスレに迷い込んで来た腐女子をかまうために「哲学史の有名人でBLものをやったらどうか」という話を
住民がえんえんやっていたのを思い出しました。
哲学男子って、その話題を見た人が企画したのかも?
今までなかったのは、腐女子で哲学を知ってる奴があまりいなかったからだろう。
次は哲学書のヤオイ化だな。精神現象学なんかはやりやすかろう。
ソクラテスからフーコーまで
人材には事欠かない業界ではある
腐マンコのペニス願望のオナネタに使われるのって嫌過ぎる
腐女子の欲望ぐらい肯定できなくて何がドゥルージアンだ
嫌なことを嫌と言いたい欲望を肯定できなくて何がドゥルージアンだ
腐女子もそんなに暇じゃないし、妄想を膨らませるネタに困ってるわけでもないし、
哲学男子なんざ流行る訳もなく、哲板に乗り込んでくるだなんてことも恐らくないだろう
109 :
考える名無しさん:2010/07/07(水) 09:14:25 0
ドゥルーズ、ドゥルーズ、って、他人のふんどし締めて威張るばか。
相撲を取らんかい、相撲を!
過去の哲学者の思想をまるで参照しないで語る奴は、ふんどし締めないで一人相撲とってるようなもんだろ。
お相撲さんの肉体は器官なき身体ハァハァ
112 :
考える名無しさん:2010/07/08(木) 16:01:11 0
【速報】ミルプラ文庫化は九月。一月にはスピノザと表現の問題も。
113 :
考える名無しさん:2010/07/08(木) 18:47:18 0
うぉ〜。
『スピノザと表現の問題』は新訳ということか?
できれば、法政から出ているやつは全部新訳をお願いしたい。
河出は関係ないけど、デリダも文庫化といくつかの新訳進めて欲しい。
難しすぎてなにいってるかさっぱりなんですが、差異ってなに
ぜんぜんわから〜ん
>>115 あるものとあるものが同じでない、あるいは等しくない時、
その「等しくない」という事態を成り立たせている何か。
そして、普通は「同じである」ということが先に来て「同じでない」ということが後に来ると考えるが、
現代思想では、これを逆だと考えるらしい。つまり差異が最初にある。
肌の色が違う、言葉が違う、外見が違う、文化が違う・・・
○○人と××人の間には差異がある。
同一性が最初にあると考えると、自分は○○人だという前提が当然最初にあり、
○○人を正常、××人を異常と考える。
逆の立場から、文化の違いや多様性を認め、尊重すべきだという意見が当然出る。
××人の文化や風習を認めるようになる。そして××人を尊重する。
それが行き過ぎると、当然反動として、○○人の既存価値に執着する。
××人を排斥する。その反動として・・・以下ループ。
どちらの立場も、まず自己同一的なもの(主体・自我・私・・・/拡張して、
民族・国民・国家・・・)が最初にあるという前提から始めている点で結局の所
同じであり、何ら問題の解決にもならない。
差異が最初にあるという思考は、この不毛な対立を土台から根こそぎひっくり返す
ことを意味する。
こう考えたときに、差異の思考は現在の社会問題や政治問題に、どう
アプローチすることができるだろうか?
しかし「みんな違ってみんないい」とか標語にすると、とたんにウサン臭くなるねw
>>118 それだと『差異と反復』で批判されてた「美しき魂」になっちゃうよ。
>>116や
>>117にも書かれてあるような、それぞれの異なる同一性を認め合うという、差異を副産物とする思考法。
>>115はいきなりドゥルーズより、先にベイトソンの『精神と自然』でも読んだほうが、却って早道だと思うよ。
120 :
考える名無しさん:2010/07/08(木) 23:22:03 0
>>110 理系なら、過去の知識の体系になにか「新しいことを付け加える」ことが基本、不可欠。
他人の受け売りをだらだら垂れ流すことで成り立つ「ドゥルーズ?」
121 :
考える名無しさん:2010/07/09(金) 19:55:57 0
>114
既訳ですが、文庫化にあたりブラッシュアップされます。
RT @TnTb7: いずれも新訳ですか?
RT @kawade_bunko //9月より、ドゥルーズ +ガタリ『千のプラトー』を3分冊で連続刊行、
また来年1月には『スピノザと表現の問題』を/
何年も願い続けてたファン待望の文庫化ですか。長かったような。短かったようなこれまで。
「千のプラトー」改訳文庫化は嬉しいな。やっぱり気楽に持ち歩けて、
気が向いたらどこでも読めるってのはいいよ。「アンチ・オイディプス」は
今2周目だ。法政のは宇波訳がまずかった(特に「意味の論理学」!」)ので、
他はそうでもない。「スピノザと表現の問題」は、読める(論旨が通った)訳だったよ。
問題があるとすれば、工藤さんが監訳だったから、「エチカ」の引用が基本中公版だったところくらい。
そこは改訳しても変わらないだろう。
>>123 >「エチカ」の引用が基本中公版だった
中公版の訳だとなにかまずいの?
岩波教の信者なんだろ
今度の金曜ロードショーは、じゃがいも型リゾームな「ハウルの動く城」。
ヒロインが、アリス風の大小のではなく、少女⇔老婆の時間的な生成変化をしたり、
ハウルの三様の変化など、「それ自身における差異」が分裂症気味に展開していてなかなかいいよ。
ストーリーの方もかなり分裂症的だしwポニョとはまた違う形でハヤオの狂気が炸裂してる。
>>124 中公版は、読みやすくしようとし過ぎてか、厳密な訳じゃないんだよ。
だからかえって読みにくい。
畠中訳の方が実は厳密で読みやすい(誤解しにくい)。
羅語原書とも比較したから、間違いないと個人的には思っている。
ちなみに、「表現の問題」の原書は、原注に1発目から誤植がある。
ドゥルーズが不思議の国のアリスに触れてるのってどの本ですか?
どんなこといってるんすか?
>>128 意味の論理学
内容は詳しい人に任せるわ
正直俺はよくわからんかった
ジジェクの「ポストモダンの共産主義」を読んだんだけど、最後に
「ドゥルーズが死の直前までマルクスについての本を執筆中だったという事実」は、
「反コミュニスト左派が、晩年、下劣な裏切りの人生ののちに、コミュニズム
と和解して、天に召されたいと望む」例として挙げられているのには、唖然とした。
「マルクスの偉大さ」は実際は執筆されていない可能性が高いし、それこそ下劣な
勘繰りだろ。ジジェクは、だから後悔したくなければ、今すぐコミュニズムに見も心も捧げよ!
とアジテーションしていた。この人は、歪曲でもデッチ上げでも何でもするんだな、と思ったよ。
133 :
127:2010/07/13(火) 15:22:04 0
河出文庫版「スピノザと表現の問題」は、鈴木泉さんによる新訳なんだね。
こりゃ、買わずばなるまいな。
それはすごい
やっぱ新訳なんだ?
単行本は法政だったもんね。
>>135 河出文庫のツイッターから引用
ttp://twitter.com/kawade_bunko 「すみません、先日のツイートは舌足らずでした。
河出文庫版『スピノザと表現の問題』は新訳です。
訳者は、鈴木泉さん。
RT @borujiake //来年「スピノザと表現の問題」を
文庫化してくださるそうですが、もし法政大学出版
会の旧訳を使われるのなら//
9:05 PM Jul 11th Twitter for iPhoneから」
河出ってよい出版社だよね。
ドゥルーズ読みだからそう思うんだろうか?
ドゥルーズ読みたいけどヒューム、ライプニッツ、スピノザ、ニーチェ、ベルクソン、カント、ヘーゲル、フロイト、カフカ、サド、マゾッホ、プルースト辺り読んでないといけないんでしょ・・
あと映画数百本な
みんなそんなに予備知識付けないでも読めてると思う
>>128 『批評と臨床』に収録されてる「ルイス・キャロル」が短くて読みやすい。
『意味の論理学』は色んな話が錯綜してるからな。
例えば『不思議の国のアリス』でのアリスの台詞、「ニヤニヤ笑いをしない猫は何度も見たけど、猫無しのニヤニヤ笑いなんて初めてだわ!」。
まず、公爵夫人がアリスに「猫はみんな笑います」と断言する「不思議の国」という(虚構の)前提がある。
現実的には偽である前提が、フィクションとして成立してしまうと、本来は猫は笑わない筈なのに、「猫無しのニヤニヤ笑いなんて」と、「猫無し」に驚くアリスの台詞も成立する。
つまり「猫」とか「ニヤニヤ笑い」とかは、現実とは無関係に、命題の真偽の条件としてあるものだということ。
また、「猫無しのニヤニヤ笑い」という表現が成立するのは、「ニヤニヤ笑い」が、「猫」という物理的存在から立ち昇ってそれだけで残るモヤみたいな、観念的な出来事だから。
言語がこういう、観念的な表面での出来事として独立するには、声(言葉)が、身体的な息や叫びといったノイズから切り離される必要がある。
逆に、そうした身体的な能動受動、深層のノイズとしての言語は、アントナン・アルトーによって代表され、キャロルと対置されている。
因みに、蓮実重彦なんかのフィクション論も、こういうドゥルーズの考えに影響されてるんじゃないかな。
まぁハスミンは、ドゥルーズの映画論については時々批判的だったりもするけど。
蓮実スレでは、ドゥルーズかざしてシネフィル批判してる粘着もいたくらいでw
ドゥルーズ読んでるひとって左寄りが多いですか?
そりゃ多いだろうけど、ドゥルーズ自身は右の理論家も読んで咀嚼していたらしい。
右も左も関係なしに、使えるもんは使っちまえということですね。
近所の図書館の『アンチ・オイディプス草稿』が盗まれたとさ。
理論は盗んでも、本は盗むな。ボケ。
買うか。
僕は右寄りですけど、こういうのって下着の影響なんでしょうかね
>>146 たまに左手でオナニーするとバランスとれると思うよ
共産党に投票した俺がいる
左翼政権というものは存在しない
byドゥルーズ
そもそもドゥールーズ自身が普通の意味で左かどうかはちょっと微妙
>>141 ありがとう、不思議の国のアリスのほうに興味があったんで聞いてみたんだが
ドゥルーズを読んでみようという気になった
ニヤニヤ笑いがideeとしてあるというのは観念論者?
ルイス・キャロルって小視症だったんですよね。だからあんな万華鏡みたいな世界を描けたんですよ。
小視症はドゥルーズの好きな統合失調症の症状の一部です。
ドゥルーズは、右でも左でもなくて、縦だろ。哲学者なんだから、垂直に
物事を考える。
垂直は稲垣足穂じゃないですか?
>>151 >>141のは、『意論』の核はこの辺り、と解釈した所を俺なりに書いたので、
真偽の条件云々の箇所で実際にドゥルーズがああいう喩えで猫笑いを引用してるわけじゃないよ。
「分裂症者と少女」まではアリスが頻繁に参照されるんだけど、その後フェードアウトして、最後の方の「アリスの冒険」で復活する感じ。
論理学やら現象学やらギリシア哲学やらカントやらライプニッツやら精神分析(特にメラニー・クライン)やらが錯綜してて、
猫も、樹上の高い所からの声として、超自我と重ねられていたりもする。
「正しさ」のモデルとしてのイデアや、それに従うコピーとしての事物、というプラトン主義に対しては、モデルに従わず、
差異を伴ったまま自己主張するシミュラークル(模像)が対置されていて、ニーチェの永劫回帰やデリダのエクリチュールがそれに当たると書かれてある。
プラトンに対しては、『哲学とは何か』に至るまで、敬意が払われているけどね。
モデルを廃棄して、「全ては度合いの差異」という存在の一義性に徹したスピノザが偉い、というのがドゥルーズの見解なんだろうな。
人名並べ過ぎ
奥が深いね
ドゥルーズのフランス語はどこのサブカルライターだってな文章だよね。
本当?
>>144 ミッテラン政権に大喜びしたという話をどっかで聞いたことがあるけど、
これはホントなんかな
『表象04』での國分+千葉+佐藤の鼎談も参照。
『ドゥルーズ哲学のエッセンス』って、ひょっとして良い本?
ちょこっと読んだ感じでは期待できそう。
いい本だよ 用語でつまづくことなくドゥルーズを理解できる
『ニーチェと哲学』なんかを読むと、マルクス的前史の先に超人を求める形で、
「自由」の哲学者としてスピノザもマルクスもニーチェも一つの系譜上に置かれている印象。
ニーチェの民主主義批判も、所謂ブルジョワ民主主義へのそれだと見做している感じ。
だけどニーチェ自身は、民主主義は新たな奴隷階級を生むと予測し、それを支配する貴族階級の出現を望んでいる。
道徳も、支配者の手段として、「悪徳としての徳」として、創造性のない奴隷に植えつけるべきものと考えられている。
「賢者が金融市場を支配すべき」とか、ユダヤ人の金銭感覚を、脱国家的な政治の手段として利用すべきとか、
そういうニーチェの「いかに真の貴族が権力を手中に収めるか」的視点を、ドゥルーズは視界に入れないようにしている気がして仕方ない。
國分さんがブログで書いてる、概念の政治的力についての文章はちょっとニーチェ的かも。
その概念をガチで信じるんじゃなくて、公共の福祉を超えた超人的な目的の手段とする、という条件付きでだけど。
国分って人のブログ面白いか?なんか内容がうすいような・・・
>>166 擁護しようってわけじゃないが、
わざとああいうふうに書いているのだと白井聡との対談で言ってた。
哲学の伝え方を考えてるんだと。
素朴に感触を言っただけなんだけど、ファンいるんだね。
大学の講師だからいい加減な事は言わないよね。
逆に、内容の濃度とは何かとうかがいたい。
日常の話し言葉で話せる柔らかい内容なんだよ、国分さんのブログのは。
逆に文語ならではのさまざまな概念が濃縮された文章って論文とかであるでしょ。
国分さんも論文ではもっと固い書き方してると思うよ。読んだ事ないけど。
過大評価だとは思う
>>169 ドゥルーズの本は内容が濃い、というか論理が凝縮されているよねw
ドゥルーズの自殺をドゥルーズの哲学を使って説明できますか?
明日図書館で借りて読みます
適当に質問します
>>174 ドゥルーズの門外漢が、必ず
質問する主題。処女作の
「ヒューム・経験論と主体性」
に自殺の肯定がかいてある。
>>174 その「説明」って概念の胡散臭さを自覚するところから始めた方がいいだろうなw
死については、『意味の論理学』や『差異と反復』などにはブランショに言及しながら論じている箇所がある。
あと、どこかで読んだことだが、ドゥルーズみたいに呼吸困難に陥ってる患者は、発作的に空気を求めて窓の外に飛び出すことがあるとか。
これもまた、ドゥルーズが好んで引用した「身体が何をなし得るか我々は知らない」というスピノザの言葉の一例かもな。
これをもって「説明」とするつもりは毛頭ないけど。
ドゥルーズは説明とか体系的なとかには否定的なわけですか
ということは私に合っているかもしれません、鬱病とかトラウマみたいなものに肯定的でしょうか
鬱病やトラウマみたいな、生の弱化としての「悲しみ」「苦痛」を退けることこそを力説した哲学者だと思うけど。
森羅万象をキレイに説明すると称する体系には批判的だが、一つの物の見方を可能にする道具・機械としての体系の役割は否定していない。
ちなみにドゥルーズは自らエトナ火山に身を投げたエンペドクレスを評価していた。
「プラトン哲学でいう魂の翼に、エンペドクレスのサンダルが対立する。」
「プラトン哲学の羽ばたきに対する、前ソクラテス学派の斧の一撃。」
(『意味の論理学』第18セリーより)
「キャロルの全ページと引き換えであろうとも、アルトーの一ページさえ渡さない」
これは意味の論理学の引用ですか?って拾ってきたので聞いてみます。アルトー好きなんだなあと
意味の論理学の引用です
>>176 デビュー作で既にそのテーマに取り憑かれてたのか
ドゥルーズの思想が分かりやすく書かれていると聞いて記号と事件読んでますが
1ミリも分かりません、アンチオイディプスと千のプラトーの部分は本を読んでないのでもちろん分からないし
映画論もフーコーも分かりません、始めに読むべきではなかったですかね
檜垣立哉って、わかりやすく説明しようという気ゼロだろw
哲学のエッセンスの方はそうでもないが、ちくま新書で出した入門書はひどかった。
宇野邦一『ドゥルーズ・流動性の哲学』(講談社メチエ)がわかりやすくていいと思うが。
流動性の哲学×
流動の哲学○ でした
>>186 「解けない問いを生きる」は社会問題などとも照らし合わせて分かりやすく書いてあるいい本ですよ。
ほかにも、檜垣さんは西田幾多郎の生命の哲学についてもいい解説をしてました。参考になりましたよ。
弟子筋丸出しだな
>>184 俺も初めの頃読んで、かなり意味不明だったから気にするなw
ただし「口さがない批評家への手紙」は、哲学者がこういう語り口を用いるのか、と感慨深かった思い出がある。
元々ドゥルーズは一つ一つ丁寧に説明するタイプじゃないからな。いきなり概念に掴みかかってポンポン配置していくような語り口だから。
『プルーストとシーニュ』は詩的な中身で、右脳に浸透する感じで俺は割と読みやすかった。
初期の『差異について』や『経験論と主体性』も比較的入りやすいのでは。
あとは『批評と臨床』みたいな短いのが何本か収録されてるやつに当たるとか。
「シネマ」は、観ている映画と知らない映画とでは、ドゥルーズの言っている
ことの理解が格段に違うからなあ。観ていたら、お、面白い見方だなとか、さすがに
批評の力量はものすげえな、とか思うんだけど、知らない映画は、はあ、そうですか、
になってしまう。うー、近所でコンプリート上映会とか開催されないかなあ、無料で・笑
浅田彰の「逃走論」を読み返してみて、
騙されてたなと思った。
パラノが「定住」ならば
スキゾは「ノマド」のはずなのに
「逃走」に置き換えられている。
「ゲイになって逃走しろ」
なんて言っているのは、
あきれてものも言えない。
戦争機械というのを
あえて避けているのが
愚劣だ。
浅田の趣味は、ドゥルーズとは正反対だからな
どうもありがとう
記号と事件、口さがない批評家への手紙と哲学の章はほんの少しだけ分かる気がするのでそこを中心に読んでいます
あとは『対話』がいいんじゃないか
生の哲学者っていうイメージと反対に、ドゥルーズほど死と関係の深い哲学者も
あまりいないように思う
そんなことはない
ハイデガーみたいに死に向き合う態度とは正反対に見えるけど、
統辞法や有機体を解体するほどの力の現勢化、という分裂的な死や狂気とは関係が深いだろうね。
器官なき身体を一種の熱死と理解できなくもないが、
テクスト全体を通じて死は存在しない、と書いてある
ような気もする。
反復一般あるいは永劫回帰的反復
を「死の本能」と結びつけている
ので、「死」はドゥルーズには
不可欠なファクターだと思う。
しかし「死の本能」は脱性化した
中性的なエネルギーがそれを構成するので
エロスとタナトスの二元性は認めていない。
『記号と事件』が分からないくらいのレベルならいろいろ難しいかもしれないが、
最初は『スピノザ 実践の哲学』と『ニーチェ』(ちくま学芸文庫)から読むのがいいと思う。
ドゥルーズによる入門者向けのスピノザ論、ニーチェ論。
相対的に読みやすいし、そこでドゥルーズに対する何らかの肯定的な感情を受けることができれば、他のものを読み進めて行くときに役立つよ。
最初に、おもしろいとかすごいとかいう感情を得られなければ、『差異と反復』とか『千プラ』とか、あんな分厚いの読んでられないでしょう。
「無人島」や「狂人の二つの体制」も短い
感想をドゥルーズが書いているので、
腰を落ち着けて読むならいいのでは。
それにしてもドゥルーズを読むための課題図書多いですね。
有機的な哲学が好きでドゥルーズも代表作は目を通したものの、あっという間に内容を失念してしまいます。
バタイユを経由して今はヴェイユを読んでますが、
この人も根っこの話をしていて、ドゥルーズのリゾームと何かつながる所があるかもしれないと思っています。
リゾーム(根茎・地下茎)は、或る一点から枝分かれを繰り返す階層構造の樹や根と違って、
領域横断的に横へ伸びるものとして想定されているわけなんだが・・・
『千プラ』も、根づきなんかしたくないって調子で書かれてあるし。
ただ、根づくことや、樹(トゥリー)グラフで表されるような論理が何なのか理解したうえでリゾーム的思考にとりくんだほうが却って早道かも。
ドゥルージアンこそ『系統樹思考の世界』みたいな本を読んで予習したほうがいいかもな。
ドゥルーズは有機的な哲学ってわけではないと思う
それならホワイトヘッドが最強
『意味の論理学』に引用されている、ボルヘスの「八岐の園」とか、
「アリス」の、始まりも終わりも無いコーカスレースなんかも、
二者択一的に枝分かれしていく三段論法的論理を逸脱したリゾームだろうな。
>>206 有機的/非有機的なドゥルーズがありますよね。
ホワイトヘッド読んでみようかな。何がおすすめですか?
初心者は変にかっこつけずに素直に講談社選書メチエ「ホワイトヘッドの哲学」から入るのが賢明かと。
ドゥルーズの名も出てくるし。
最強ってw
ドゥルーズがホワイトヘッドについて(たしか『差異と反復』?の)脚注で
言及しているのは『過程と実在』のなかの一編(失念)と、著作集第4 巻
『自然という概念』。
(後者所収の「自然と思考」がおすすめだが入手困難かも。)
ホワイトヘッドの形而上学ほど無内容なものはない
論拠も挙げずに無内容と断じる2ちゃんのカキコほど無内容なものも無いなw
『襞』第6章
216 :
212:2010/07/31(土) 13:08:55 0
ドゥルーズがホワイトヘッドに言及しているには『差異と反復』と『襞』でした、、、
奥襞慕情
みなさんアドバイスありがとうございます。図書館で探してみようと思います。
「過程と実在」が話題なので
英語版を買ってみた。
和書だと10000円だが、
原書で1850円だった。
面倒だからわからないところを
図書館で借りてきて読もう
と思っている。
220 :
考える名無しさん:2010/08/04(水) 10:54:29 0
河出文庫 『千のプラトー(上)』 ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ \1,260 9/3
221 :
考える名無しさん:2010/08/04(水) 10:58:40 0
ちくま学芸文庫 『創造的進化』 アンリ・ベルクソン合田正人 \1,575 9/8
充実のラインナップ
223 :
考える名無しさん:2010/08/04(水) 13:52:18 0
流れ読まずにすいません
スピノザ論読んでいて思ったのですが、
「声」は 精神ですか?延長ですか?
>>223 >「声」は 精神ですか?延長ですか?
デカルトでもスピノザでも声は基本的には表象像ということになると思います。そこから想起さ
れた観念?も結局身体の変状における延長ということになると思います。
ただデカルトと違いスピノザは身体と精神が並行していますから十全な「声」が十全な「精神」
を呼び覚ますことは可能性としてありえます。
また表象は観念と身体が出会った場所に生じるものと解釈できますから、声(=表象)を精神の
様態(=ひとつの観念、つまり延長における様態)だと多少強引に捉えることも出来ます。
以下参考:
エチカ第二部定理一八備考より
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note2p18 例えばローマ人はポームム〔くだもの〕という言葉の思いから
ただちにある果実の思いへ移るであろう。この果実はあの発音された音声とは何の類似性もなく
また何の共通点もない。ただ同じ人間の身体がこの両者からしばしば刺激されただけにすぎない。
第一部付録後半部より
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note1f 耳を刺激するものを騒音、音響、ま たは諧音を発すると言う。(略) これらすべては、各人が事
物を脳髄の状態に従って判断し、あるいはむしろ表象力の受けた刺激を事物自体と見たことを十
分に示すものである。
追記:
預言者が神の声(=「真実の声」『神学政治論』第一章より)を聞いたとなるとまた話は別かも
知れません、、、
225 :
考える名無しさん:2010/08/04(水) 21:48:16 0
ありがとうございます ただ、門外漢で4回読んでも理解できませんでした
精神の様態・・・・・・肉体の様態
↑
声=このへんに生じる表象像
こんな理解でいいのでしょうか・・
素人としては、なんとなくベルクソンのイマージュを思い出しました
226 :
考える名無しさん:2010/08/04(水) 21:50:01 0
精神の様態・・・・・・・・・・・・肉体の様態
↑
声=このへんに生じる表象像
ポエムスレでやれ
器官なき身体はスピノザの実体の読みかえですか
ドゥルーズはスピノザの更新
ラカンはフロイトの更新
逆も可
スピノザの実体=器官なき身体=存在の一義性
ツッコミよろしく
>>223 スピノザ哲学で言えば、「声」は音響としては、延長の様態。
表象イメージとしては、思惟の様態または観念=精神。
声が音韻として認識される場合は、非十全な観念。だと思う。
なにUTELLかわからへん
234 :
考える名無しさん:2010/08/05(木) 22:41:11 0
声にも第一種ニ種三種と段階があるのでしょうか
ベルクソンのイマージュとの比較が気になりますが・・
スピノザは芸術に関心ないが、もうちょっと長生きしたら、ジャズにはまってサックスを買ってるかもしれない
河原で一人でレフトアローンを吹いているのが似合うかもしれない
>>234 適当な質問とかやめて欲しいですね。そんな思いつきの質問やサックスがどうのとか、
いう姿勢自体が、哲学とは何の関係も無い、ということもお分かりではないのでは、
何を齧ってもあまり有意義なことにはならないよ。
236 :
考える名無しさん:2010/08/05(木) 23:33:57 0
ここは2ch・・
さして頭のよくない勉強家か
アレだぞ〜俺達だって〜頭いいんだぞ〜
ドゥルーズ語りの司祭と将軍
>>231 その”=”は
様々の論旨
はっしょっていないか。
実体は=存在の一義性には
ならないyo
スピノザの実体はドゥルーズ用語ではなんぞや
神即自然
スピノザの実体=器官なき身体=差異の累乗=存在の一義性=対位法の対位法
器官なき身体はマルクスの資本をイメージしたほうが理解しやすい
統合なき群隊だから為替とか?
ドゥルーズが愛読した小説家を教えてください
>>244 対位法という概念がドゥルーズのどの
著作に出てくるか教えてください。
>>247 「内在ひとつの生」に出てくるのは
チャールズ・ディケンズ「互いの友」
だと思う。
クライスト、メルヴィル、キャロル、バトラー、マゾッホ、リラダン、ゾラ、ハーディ、
ヘンリー・ジェイムズ、ブリッセ、チェーホフ、プルースト、ジャリ、ベールイ、
ヴァージニア・ウルフ、ジョイス、カフカ、D・H・ロレンス、T・E・ロレンス、ラブクラフト、
ミラー、セリーヌ、フィッツジェラルド、レルネット=ホレーニア、ボルヘス、
ゴンブローヴィッチ、ベケット、ラウリー、バロウズ、ロブ=グリエ、トゥルニエ、
「フライデーあるいは太平洋の冥界」 M.トゥルニエ
トゥルニエはドゥルーズの高校の同級生。
>>242 >スピノザの実体はドゥルーズ用語では
厳密にはフロイトの用語になるが、エスは作動している、のエスだろう。
(実は作動の方が重要なタームだが、、、後述。)
スピノザの思惟と延長(二つの属性)は、器官なき身体と欲望する諸機械に
対応する。
要するに永遠の相のもとに、アンチノミーは揚棄されない。
ちなみに永劫回帰のニーチェはライプニッツ以上にスピノザからの影響を受
けている。
この場合、善悪の区別よりも(作動させる)力の方が重要だということだ。
ドゥルーズ哲学は大筋でスピノザの更新なのだろう
用語の厳密な対応表がほしいものです
実体 エスは作動している、のエス
思惟 器官なき身体
延長 欲望する諸機械
成立平面はスピノザ用語で言うと何なんでしょうか
メルヴィルの白鯨って実体の隠喩なのかな・・
夏
ドゥルーズの文脈からは
マルクスが何を言ったか
にかかわらず、
「欲望はそれ自身において、
いわば意識することなく、自分
の欲するものを欲することによって
革命的なのである」
としか言ってなくて、
ドゥルーズの革命論の基盤は
「欲望のアナキズム」に尽きるようだ。(p146)
もう下手なポエムやめてほしい。
>257
「欲望のアナキズム」ってまさにスピノザだし、にーせにも繋がる
>258
厳密さん、成立平面はスピノザ用語で言うと何?
存立平面=器官なき身体=実体じゃないの?
属性は抽象機械で、そのうちの思惟に対応するのは表現の形式で、延長は内容の形式?
様態はアレンジメント?
大雑把な対応関係はこんなもんだと理解してたけど、違う?
実体 エスは作動している、のエス
存立平面=器官なき身体=差異の累乗=存在の一義性=対位法の対位法
属性 抽象機械
人間が認識しうる属性
思惟 欲望する諸機械の観念 表現の形式 *様態=アレンジメント
延長 欲望する諸機械 内容の形式 *様態=アレンジメント
260の主張
存立平面=器官なき身体=実体
252の主張
思惟は器官なき身体に対応
どっちがコレクト?
「器官なき身体はすぐれてスピノザ的実体である。」
とどこかに書いてなかったか。
よって260が採用され、261がFAとなりました
ドゥルーズの哲学がスピノザのアップデートという観点から
D論の差異と反復を見直すと面白いし、付録論文があれというのもうなずける
優秀だな・・
ベルクソンの時間と自由は修論だったような・・org
>263
器官なき身体と「声」の問題はどう繋がるのか
唯一の声=ポリフォニーでいいのでしょうか
サックスの人でしょ。
何でポリフォニー?
声の意味は一義的でしょうに。
ヴァーチュアルな一義性はアクチュアルにはポリフォニーなのかなと
身体言語はスピノザではどういう位置づけなんだろ
ダンスとか舞踏とか
おまえ、じぶんで何言ってるかわかってないだろ。
>>266 解説しましょう。
>>264,
>>266は、要するに菊地成孔とスピノザ=ドゥルーズを
繋げたいんだよ。菊地成孔が近々出す「全集」のタイトルが「闘争のエチカ」。
これは元々柄谷と蓮実の対談本の題名だけど、この人はドゥルーズを齧っているから、
器官なき身体=スピノザ的内在的実体(AO,MP)と菊地のポリフォニーというかポリリズム論とを
繋ぎたいわけ。
はっきり言えば、「持続に於いて存在すると言われる様態=アクチュルなもの」は、
一般化または表象の哲学では、モノフォニックに語られる。しかしそれは虚偽である。覆いを取った実相は、
ポリフォニック/ポリリズミックである。つまり「個体」である一義的存在の強度的部分である様態は、
各々バラバラな声、リズムを刻んでいるが、総体としてはポリフォニック/ポリリズミックな調和なき調和を
奏でている、と言いたいわけ。
それならむしろドゥルーズのカント論、諸能力の超越論的行使にこじつけた方が
マシなんだけどね。菊地は「エチカ」つってんだから、そこまで頭が廻らない。
俺の感想では、この人はスピノザの「エチカ」には通じていない。「表現の問題」はなおさらだ。
だから、前に思いつきで質問するなって言ったんだけどね。
香山りかちゃんもドゥルーズかじってんだよなあヤレヤレ
現代思想追悼号に一筆書いている
香山リカのドゥルーズ追悼文(初出「現代思想」のち「テクノスタルジア」所収)は、
とか、図書新聞での追悼対談での発言は、本当に酷い。
この人はあくまで浅田彰に憧れて、80年代のサブカルチャーならびにその現場で
ちやほやされた若い頃の自分が好きなだけで、ドゥルーズのドの字も理解していない。
器官なき身体には目もなく手もなく足もなく云々に震え上がったなどと述べているが、
器官なき身体に目や手足があったら、逆に怖いわ!w
この人の書き物は、ドゥルーズとは正反対の不安に付け込むエセ心理学、それこそルサンチマンを
だって人間だからそれでいいのよ的に肯定する「癒し系」で、近年は若さを失ったこと=ちやほやされなく
なったことへの恨みを、若者にぶつけるような蒙昧な駄文を垂れ流して恥じることがない。
「ポケットに80年代がいっぱい」など、ドゥルーズがこんな自己愛とごっちゃになった回顧趣味と無縁であることは
言うまでもない。
あと、なぜ
>>234がサックス云々を持ち出して来たかと言えば、俺が
>>232で
「音響と音韻」という、菊地成孔が言語学から借用してきた用語を使用したからでしょう。
「ポリフォニー」はバフチン。
「声と現象」はデリダ、か。
ドゥルーズ本体ではないが。
>>271 こう考えると、世の中、多少は進歩していると言っていいのだろうか
身体言語はスピノザではどういう位置づけ
身振りって「運動イマージュ」
なんだよね。
シネマは分厚いし意味分からなかった 要は膨大な映画の分類なのか
スピノザではどういう位置づけなのかが気になります
運動としては身体の様態
イマージュとしては思考の観念?
お前の質問スレじゃない
夏休みの宿題があるのです
宿題質問まじうざい
>>276 >身体の様態
>思考の観念
それを言うなら、延長属性の様態としての身体、思惟属性の様態としての観念。
宿題だというなら、ドゥルーズやベルクソンと絡めるのは無理っぽいから、
スピノザ哲学の概要くらいにしておけば?
とりあえず、
1.論理的には、延長と思惟以外にも実体の属性は無限にある。
2.人間に認識できるのは、延長と思惟の属性のみである。
3.延長と思惟以外の属性の様態も、思惟の様態とのカップリングで「個体」を形成している。
4.しかし、これは、多世界解釈を許さない。あくまですべての様態は並行論的に一義的である。
5.なぜなら、全ての属性の様態は実体の「存在する力能」に、全ての属性の思惟の様態は実体の「思惟する力能」に拠っているからである。
って書いておけば、十分よくできましたを貰えるよ。
補足:当然、思惟の様態も思惟の様態とカップリングする(観念の観念)。
一般的には、スピノザ哲学は、思惟と延長の様態が「同じものの二つの表現」
として在る、という単純な心身並行論として認識されているけど、それは間違い。
図にすれば分かりやすいんだけど、実際は上記のように非常にぶっ飛んでいる。
この点に疑問があるなら、「スピノザ往復書簡集」の書簡六十五と六十六を参照のこと。
訂正:5.−全ての属性の様態とカップリングしている思惟の様態は−
>>283 リンク先見ました。あはは(笑)どういたしまして&こちらこそありがとう。
>>276 ベルグソンとスピノザ
というのはうまくかみ合わない。
なぜならベルグソンは
思惟と延長を基本的に
分割しないから。その点
をオミットしても実在的経験
をイマージュとして捕らえることは
できる。というのが
わたしの立場。
時間ください。
>>271 彰が毅のことを「ドゥルーズ読まずしてドゥルージアン」とか呼んじゃったのがそもそも悪いne!
諸能力の超越論的行使って言って思い浮かぶのは癲癇発作と金縛りくらいかな
ドラッグじゃないんでしょ
國分が連載する雑誌って何だろう
>>287 ベーコンみたいなペラッペラの絵、MOMAで観て呆れたけど、
ドゥルーズのおかげで株が上がった
だからポエム板でやれって
分析哲学じゃあるまいしw
ポエムとか言ったら、千のプラトーなんて全編ポエムじゃねえか
今は差異と反復の方が好きだ
>>292 数学できないので微分だとかリーマンのとこは字面追うだけでした
どなたかあの辺のところを易しく解説して頂けませんか
>>294 とりあえず、『ドゥルーズ/ガタリの現在』(平凡社)に収録されている
近藤和敬の論文「『差異と反復』における微分法の位置と役割」をお読みになれば
いいと思います。
296 :
横槍:2010/08/23(月) 03:37:57 0
>>293 分哲だってポエムじゃない
言ってみりゃ散文詩
>>295 ありがとうございます
amazonで調べてみたら724pもあるのですね恐ろしい
>>297 近藤和敬のところだけ
図書館でコピーでOK
>>298 自分も読んでみよ
哲学はもう発展の余地が残されていない、人文全体は衰退ジャンルという現実がある
専門家からみたら学部レベルでも、関心もつ人がいるだけ、いいんじゃないかな
香山みたいに、専門家っぽいポジションでポエム言うのは最悪だと思うけど
発展の余地がないとか
人文全体は衰退ジャンルとかいうけど
いわゆる理系選択する人がどんどん減って
理系の衰退の方が問題になってるんだよw
新聞読まない哲学バカは知らないんだろうけどw
近藤和敬のブログは勉強になる
302 :
考える名無しさん:2010/08/23(月) 19:37:21 0
苦笑
理系と比較して、理系のほうが悲惨なんだぞと言われても
>>300 それは衰退の種類が違うんじゃね
まだ未開拓地がどっさり残されてるのに人材が集まらないのと、人だけ多くても展望の見通しがないのと
論理的にがちがちの文章から、ポエムまで
一方の極から他方の極までの間に、書き方
の位置づけできるような。
柄谷曰く「詩的言語に頼るのは
最後の手段だ。」とも言う。
専門家の論文は、論理的に書くべきだとおもう。その結果が298だけどね。。
ここは2chだから、色んな人がいていいんではないの。
まあ、厳密さと遊び心を両立させるのはたやすくないということで。。
自分は教官に、論文にも洒落っ気やユーモアは必要だ、フーコーのラスメニーナスをみよ、なんて言われましたよ。
そういやハイデガーなんて、ポエムというか、ガイストな雰囲気で身を守ってないか。
つまりフーコーやハイデガークラスの厳密さがあるならば、許されるってことだな。
自分も生まれ変わって、ロジシャンでポエットでテクニシャンになりたいものです。
哲学と詩の関係はギリシアまで遡れるかな
正直言って、分析哲学系の哲学が素晴らしくて、大陸系の哲学がダメだというのは、
単純過ぎると思う。丁寧に論述を追っていった挙句が、こんな程度の(しかも曖昧な)
結論ですか、これじゃ哲学的洞察なんてもんじゃない、かえって哲学が衰退するよ、
って印象の分析系の哲学書って結構ある。結局は、才能の問題に帰結するとしか言い様がない。
ドゥルーズが肌に合わないなら、ドゥルーズ自身が言っている通り、自分に合う哲学者を見つけて、
その著者を信じ、真剣に学ぶのがいい。スピノザを専攻していた身からすれば、「表現の問題」は
掛値なしに凄い。
「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」−これだって、「詩」でしょう。
程度の差
下・・・凡才 自分 ポエムというより寝言 足りないのは知能 役割は客
中・・・秀才 研究者 中なのに自分を上だと思っている人がいたりする 役割は媒介者
-----------(超えられない壁)------------
本性の差
上・・・天才奇才 歴代のマジキチ 才能 役割はアイドル?
唯一知ってる分析哲学の人は、覗きとスカトロが本業だから、あまり良い印象をもっていない。
>>309 上野修「スピノザの世界」は秀逸で面白かった。
秀才だけどレベルを落とさず、凡才にも分かるように書いてくれている。
「表現の問題」は、読んでは挫折の繰り返し。また読んでみよ・・。
>>310 えっと、まず「エチカ」の特別版を自作してみる。
例えば、上段に「エチカ」本文、下段に引用諸定理・公理・定義・備考を
貼り付けた冊子を作る。それで、「表現の問題」も、同様に、上段に原注を
下段に「エチカ」等の指定箇所を貼り付けた冊子を作る。ルーズリーフで紙ベースで
作成してもいいし、データでもいい。(個人的には、ルーズリーフ等で冊子にすることを
お薦めします。書き込みがし易いから)
そして、こういった「武器」を徹底的に利用して、「エチカ」や「表現の問題」をお読みになれば、
必ず理解に於いて、効果が(おそらくは抜群の効果が)あると思います。
これは、精読と理解のための工夫の一例です。手間をかけても理解する価値がある、とお考えの書物があれば、
あなた独自の創意工夫を凝らして勉強なされば、その結果の「理解」はあなたのものです。
「理解すること」だけは、他人に代わってもらうことが出来ないのですから。
と言いつつ、私も繰り返し挑戦中です。(余計なことでしたら、申し訳ありませんでした)
>>311 同じような内容を2chのどこかでみたことがあり、自分には無理だわと思いつつも
記憶の隅っこには残ってました 作成用のために文庫を何冊も買うという内容でした
それほどの抜群の効果があるのならば、騙されたつもりでやってみようかな・・
以前はスピノザで修士とった先輩がいたのですが、謎の失踪をされてしまって
ブレーンなしで途方にくれておりまして
バラバラの辞書、大量のポケモンカード、タロットカードをつくるようなノリで、いいのかしらん
スキャナー付きプリンター買ったし、時間だけはあるし
スピノザ3年クッキング
材料
エチカ文庫2冊ずつ買い足し
表現も文庫でたら2冊ずつ買い足し
差異と反復も買い足し?
A4の紙を5色買う(5部を色分け)
作り方
上段 ボケ 1枚ごとにエチカの1定理+α貼る
下段 ツッコミ 対応するように表現and差異と反復から選んで貼る
これでいいのだろうか
なんか、ジオラマ作り思い出した
>>312 それです(笑)自分が作った頃は、まだ「エチカ」のハイパーテキストとかは
無かったので、岩波文庫を何冊もバラして、原稿を作りました。
早い話が、「エチカ」は、「証明」や「備考」で「第一部定理三により」等々の
参照指定が多数あるのですが、いちいちページをめくっていられない。だから、
上下二段にして、下段に参照箇所を貼ってしまおう、ということです。
勿論、ハイパーテキストのままで読む、というのもありだと思います。
今は、こういう素材もありますから、比較的楽に作れると思います。
ttp://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/
>>313 それでもいいですし、結局はその人が読みやすい方法なら何でもいいのですが。
参考まで、「エチカ」の場合。
1.岩波文庫の「エチカ」を数冊買ってくる。
2.A4のコピー用紙の上半分に、「エチカ」本文を機械的に貼っていく(これで2冊使う)
3.次に、「エチカ」本文で、参照指定されている箇所(公理・定義・定理・備考など)を全部カウントする。
4.そのカウント数の分だけ、参照指定箇所をコピーして切り取り、小型のクリアファイルに分別して入れておく。
5.A4コピー用紙の下半分に、上半分の本文の指定通りに、4.の短冊を貼っていく。
その際、必ず、上段の本文1ページの参照指定箇所を下段1ページには貼れなくなるので、その場合は、下半分だけ貼っていく。
6.以上で原稿が出来たら、コピー屋に行って、A4ルーズリーフ用紙(白紙)に両面コピーする。
7.第一部から第五部まで、カラーの仕切り紙を使って分けて、一冊のルーズリーフに綴じる。完成→読む。
ttp://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/ のような素材を同じ要領で使って、DTPソフトがあれば、同じものがもっときれいに簡単に作れます。
哲学板のほとんどのスレが潰されたり廃れたりしてるのにこのスレは元気ですね〜。
私もドゥルーズ好きなのでありがたいなあ。
>>317 ありがとうございます。
当面の目標は315と、コンビニでガリガリ君リッチチョコを買い占めることです。
なんだかドゥルーズスレが
スピノザスレになっているような。
肝心のことは
G・ドゥルーズの
「スピノザと表現の問題」
を読みこなすのが本題だと思うが。
>>320 そうだね。ただ、「スピノザと表現の問題」を読みこなすためには、
少なくとも「エチカ」には精通していなければ難しいと思う。
(できれば、「短論文」「知性改善論」「デカルトの哲学原理」「国家論」「神学政治論」「書簡集」まで)
ドゥルーズ自身が言っている通りで、「哲学史の規範に則って、最も真剣に研究した」その成果だからね。
ネットで「スピノザと表現の問題」を読むには偏差値90以上無いと無理、超難解等の言い回しが散見されたけど、
スピノザの著作に通じていたら、そこまで難解じゃないのに、と思う。
「スピノザとニーチェの重要な統一」がドゥルーズの課題だった面は強いから、
「差異と反復」以降の著作を読むにも、この二人をよく知ってることは必須。
少なくともスピノザは、著作の量で言えば、一番少ないから、入り口としてはいいと思うしね。
本当は、ベルクソン、カントも必須だけど。
でも、正直に言って、俺はライプニッツは全然分かってないから、
「襞」が全く理解不能。本当にちんぷんかんぷん。ちまちまと(苦笑)
ライプニッツを勉強してるけど、「単子論」だけ読んでも全く歯が立たないし、
著作が散逸的で膨大でしかも工作舎のは高いから、どうしていいのやら分からん(笑)
スピノザに関しては、ゲルーのコメンタリーを誰かが訳してほしい
「襞」は初心者にはお薦めできないって言ってたな
國分が襞嫌ってるんだよな
>>321 ベルクソンつまんないですよ 二源泉は、時間返せ思いました
気になってるのは唯一、延長と思惟の間=イマージュというはっちゃけた定義だけ・・
ただ、仏語だと全著作が一冊に収まっているのは、いいですね
ドゥルーズ理論って建築家が飛びついてる印象があるんですが、本当に読んでるのでしょうか
コロンビア大にあちゃーなモノをつくってる教授がいるようですが
それこそベルクソンなんて、薔薇の香りだの、白色光の比喩だのw
ニーチェにいたっては代表作がポエムという
328 :
考える名無しさん:2010/08/26(木) 20:05:11 0
ベルクソンの時間論はハイデガーなんぞよりは随分優れていると思った。
ハイデガーとヘーゲルは脳内で、いなかったことにしている。
プルーストの小説はベルクソンの時間論なんぞよりは随分優れていると思った。
ニーチェの聴き落とされる12番目の鐘はプルーストの小説よりは随分優れていると思った。
で、差異と反復に戻る。
>>323 押さえておくべきスピノザ研究は、ドゥルーズ、マシュレ、マトゥロン、ゲルー、上野修あたりでいいのですか?
福居純
ネグリの『野生のアノマリー』はドゥルーズも序文を書いているのでざっと目を通すべき。
初心者には柄谷行人『探究2』と 伝記として『スピノザの生涯と精神』を薦める。
(柄谷の論考は共通概念を否定しているからドゥルーズと真逆だが、見取り図としてはドゥルーズの議論を
踏まえているのでドゥルジアンにも役立つと思う。)
比較研究として『スピノザ 異端の系譜』 (イルミヤフ ヨベル)も個人的には面白かった。
安くすませたい人には清水書院の新書判『スピノザ』(この出版社の『ドゥルーズ』及び近作『ライプニッツ』も
いいと思う)を薦める。
本格的に研究したいならスピノザ協会のスピノザーナ定期購読が必須。
(柴田寿子『スピノザの政治思想 』が日本人が書いたスピノザ論では一番いいと思う。上野さんの『精神の眼〜』は
ホッブズ論としていい。)
それにしてもドゥルーズはいろんなものを自分の論考に取り入れていて(サド、ニーチェ、ベルグソンはもちろん
『プルーストとシーニュ』ではプルーストをも)まるでハウルの動く城のようだ。
崖の上のポニョの母親(グランマンマーレ)のような得体の知れなさもあるが、、、、、
>>332 以前、例会で尋ねたことがあるけど、ゲルーやマトゥロンの邦訳については、
皆さん消極的だった。「表現の問題」は、「売れっ子のドゥルーズだから、訳された」
という意見があった。クセジュの「スピノザ」は、モローが書いているから、
難しめだけど、いい本だと思う。柴田先生は、優しくてお綺麗で人格的にも学者としても素晴らしい方でしたね。
>>333 だから駄目なんだよ
秘境性を脱するチャンスは今しかない
福居純さんの『スピノザ『エチカ』の研究-『エチカ』読解入門』 (知泉書館)も
読んだけど、正直言って、ゲルーの『スピノザT、U』の邦訳があれば、殆ど意味の無い
本だと思った。協会の先生方には、重要文献の翻訳に関しては、正直あまり期待していない。
ヨベルもネグリも、結局は外部の人が頑張った訳だし。マシュレーなんかも訳されたらいいんだけどね。
>>335 それ定説になってるんですか?
あなたの説とは思えないんです。何人かから聞いたことがあります。
ということは福居パージ?
>>336 福井純さんに他意はありませんよ。
定説もなにも、自分で『スピノザ『エチカ』の研究-『エチカ』読解入門』を
読んだ個人的な感想に過ぎません。ただ、同書を読めば一目瞭然ですが、『エチカ』
第一部、第二部の解釈は、ゲルーを多く援用して面白いのに対して、(ゲルーが書かなかった)
第三部以降の福井さんの叙述は、『エチカ』の単なる祖述、に近いものになってしまっています。
似た意見の人がもしいらっしゃるのなら、それはこうした本書のありようが明白だからでしょう。
ベルクソンは、二源泉は俺も微妙な印象だが、『思想と動くもの』は『表現の問題』を読むのに多少使えるような。
「完全」「無限」「絶対」についての部分。
まぁ、ほとんどニーチェ主義者といっていいくらいな俺からすれば、スピノザとの統合など、蛭に血を吸われるようなものだw
どうせ突き合わせるならシェリングだな。
ハイデガーはスピノザ嫌いなんだっけ?
そういやデリダもスピノザは使ってないな
ハイデガーは『シェリング講義』で、
デリダは『Psyche』(未邦訳)で間接的にスピノザに言及しているだけだ。
ハイデガーの上記著作は(日本語訳もよく)名著だと思うが、スピノザに関
する言及はまったくフェアではない。
こうした事例を見るとドゥルーズの大きさがあらためてわかる。
(欲を言えばプルードンに言及して欲しかったが。)
個人的にはドゥルーズの功績として、溝口VS黒澤の不毛な派閥争いを終わらせ
たり、エイゼンシュテインやパゾリーニ再評価の嚆矢になったりした映画理論
上の功績を特記したい。
フーコーもスピノザ使ってないな
スピノザはリトマス試験紙かいな
ドゥルーズの芸術論ってやっぱ映画が中心なの?あれは芸術論というより、ただの分類なんだろうけど。
フーコーは病床でスピノザを読んでいたという話を伝え聞いたが、ソースが定かではない。
一般的に言って、
スピノザvs.カント
実在論vs.唯名論
といった構図は普遍論争以来続いており、(残念ながら?)いまでも有効だと思う。
ベルクソンがそういうのを、イマージュ=現実、で無効にしようとしたんでしょ。
そんなんあり?
物質と精神は連続してまっせとか、ベルクソンってインチキ治療士にみえることがある。
なんでドゥルーズが彼をとりあげたのか。ジャン・ルノワール的おフランスだから?
ツイッターにいる人?
>>344 ニーチェだとそのへんどうさばいてるのですか。
時期によって言ってること違うけど、あの人。嘘もバンバン言うし。
>>349 面白い人がいるなら、参加せずにその人だけ読むけど・・。
千葉さんはご遠慮します。
>>351 英語でもいいけど、おもしろい人がいれば書いておいてください
ニーチェは、「もし生命無きものと蟻しか存在しないとしたら、現存在の価値は蟻に依存している」つって、
感覚する存在者の主観による表象の他には、世界の表象は考え得ない、と。
かといって、主観的に捉えられている通りに世界が存在することを否定する根拠も無い、とも。
ベルクソン的イマージュ一元論に近いようにも思うけど、「真理とは生存に必要な錯覚である」的思考も持ち合わせてるニーチェの場合、
レヴィナスがベルクソンの『創造的進化』での無の批判に言及しつつも、空虚のリアリティを主張するのと似ている。
レヴィナスは絶対者を、思考を超えた超越性として思考し、「語りえないもの」について何とか語ろうとしていたわけだが、
ニーチェについても「<彼方>を響かせるための例外的な息吹」と呼んでいた。(「ヒューマニズムとアナーキー」)
>>353 ベルクソンでは無や悪は問題になっていないんですよね。。レヴィナスは自分は無視してます。
ニーチェって永劫回帰の薀蓄読んでも、観念論なのか実在論なのか、分からない。
すべては仮象の鬼踊りとか言っても、観念論者ではないし。ただスピノザと似てるとは思う。
狂って糞を食ったニーチェ君、ドゥルーズにはランボーの注釈と、とんでもないことを言われてましたよ。
>>344 スピノザはむろん、唯名論ですよね>構図
>>280 「スピ表」見てみたけど
それだけじゃとても
合格しないyo
実在論vs唯名論という図式自体が近代が遡及的に生み出したものだから
あえて今使うなら、かなり批判的に使わないとだめだと思うけどなあ
ゲルーは、分量的に、積極的に出したいって出版社は出ないような
359 :
280:2010/08/27(金) 21:45:13 0
>>356 この問題が主題的に取り上げられているのは、「スピノザと表現の問題」の
第何章ですか?
361 :
280:2010/08/27(金) 22:29:59 0
とお尋ねしても、おそらく回答は無いでしょうから、
>>280 >>281の
「スピノザと表現の問題」における典拠を以下に示し、一部を引用します。
この問題、即ち「存在論的平行論」と「認識論的平行論」の間の「齟齬」について、
ドゥルーズは、「スピノザと表現の問題」第U部第7章「二つの力と神の観念」で
主題的に取り上げ、徹底的に論じています。例えば以下の通り。
「認識論的な観点は次のように表わされる。すなわち、唯一にして同一の個体は、ある様態によって、
そしてその様態に対応する観念によって表現されるということである」
「しかしまた、存在論的な観点は、唯一にして同一の様態的変様が属性を異にするあらゆる様態によって
表現されると言うのである」
「チルンハウスは、困難が表現の体系の中心にあることを認め、それを最も強調した人である。
どのようにして二つの観点を調停するのか」>これが、
>>281で述べた「スピノザ往復書簡集」の書簡六十五。
(ここまで、引用は「スピノザと表現の問題」p.110)
「一方ではあらゆる属性は等しい。だがこのことは、存在し活動する力との関係によって理解されなければならない」
「他方で、この存在する力は絶対者の半分にすぎず、他のものはそれに等しい思惟する力である」
「思惟の属性がこの特権を楽しむのは、この第二の力との関係によってのみである」
「そこにはいかなる矛盾もなく、むしろ究極の事実があるように思われる」
(ここまで、引用は「スピノザと表現の問題」p.118)
なお、この問題、「人間は思惟と延長の属性しか認識できないこと」と「神は無限の属性を持つこと」
との整合性の問題については、ドゥルーズ「スピノザ−実践の哲学」平凡社ライブラリー版、第四章「エチカ」主要概念集の
*精神と身体(心身並行論)の項(p.132)にコンパクトに纏められているので、熟読をお薦めします。
一応これで説明責任は十分に果たしたと思いますが、あなたが冷やかしなら意味の無いことです。
しかし、その場合は、他のスピノザ−ドゥルーズの哲学に真摯な関心を持つ人のお役に立てれば幸いとすべきでしょう。
正直うんざりしてきたので、しばらくスレから離れます。
>>358唯名論以外の何ものでもないですよ、スピノザ的立場は。
唯名論といっても内実はいろいろあるのに
なんて大雑把なカテゴリーわけ
>>344 『ドゥルーズとガタリ−交差的評伝』333頁上段。
ジュディット・ルベルはこう言う。「ダニエル・ドゥフールが私に言ったことですが、
フーコーは死の床にスピノザを置いていたのです。彼はスピノザを再読しようとしていたのです」
ライプニッツはこれまで立場上唯名論とされてきたが、最近は実在論または両者の調停
者(概念論者?)とされる場合が多い。
スピノザも唯名論とされてきたが、個人的には発生論を内包しているので個人的
には実在論だと思う。
(プラトンを受け継いだ観念論者とされる場合、あながち否定できない部分もあるが、、、)
カント、ハイデガーはそれぞれアプリオリ&アポステリオリ、存在&実存という
タームで両者を体系内に収蔵したが、
なぜかスピノザのアプローチが排除または無視されてしまった。
(これは実はスピノザこそが高度に両者を同時に視野に入れていたからだと思う)
そこでドゥルーズの登場だが、今度は逆にカントやハイデガー、おまけにヘーゲル
を読まない美学的なドゥルジアン
ばかりを生んでしまった。
今は冷静にその揺り戻しをしている時期だと思う。
追記:
歴史上のヒンズー教と仏教の論争なども、ヤコーブ以来のスピノザvsカントの論争?
と相似だから、東洋思想(自分たちのこと)を考える際にもこの構図はいまだ有効だ。
また、フーコーはどんどんハイデガーを通過しつつもスピノザ寄りになっていったと
は思うが、これは政治学的にはマルクスとスピノザという別の系譜が浮上する問題だ
と思う。
>>364 「美学的」という形容詞を、そのまま蔑称に用いて恥じない姿勢を軽蔑する
>>365 ニーチェにおける生成変化では
同一性が成り立たないので、そもそも
「記号」と「対象」について
の議論は成り立たないと思う。
存在の一義性と永劫回帰は
第三種の認識の実践においてのみ存在であるようなもの
つまり存在者がシュミラクルになっちゃうときのみ存在
出来事じゃなくて、できごと?
>>366 美学ってさぁ・・・・いらんだろ?
大学の美学科の連中ってクラッシクヲタとか美術館めぐりとか
衛星放送で映画みまくってるヲタとか喫茶店で日がな一日本読んでる暇人とかさ
教官でも「これ○○の初版本でさ〜数百万かかったのよ」ふざけんなよ。
はっきりいって趣味人はウザイんだよ。
ましてその趣味でメシ食おうなんて不遜な野望抱えてる大学院生は氏んでくれよ。
ドゥルーズによれば、ニーチェとスピノザの偉大な同一性(イデンティテ)が見られることは、明白です。
共通点は、以下三つの論点において指摘されています。
第一に、意識批判=唯物論者としてのスピノザ―ニーチェ。
第二に、善悪批判=反道徳者としてのスピノザ―ニーチェ。
第三に、悲しみの批判=悦びを評価する無神論者としてのスピノザ―ニーチェ。
>>360 ドゥルーズは「ある意味で唯物論的だ」といった誉め方をしているのですよ。
精神と身体のどちらか一方に他方を暴力的に支配させたりしない、という感じですかね。
「心身平行」については、現代でも結構重要な問題じゃないかな。
思惟の諸様態あるいは延長の諸様態は無限に連鎖し、互いに限定しあっていて、
その中では最終的なものは存在しないという指摘が印象的。
人間精神の底知れなさ(善悪含めて)、その中での意志や理性のか弱さを教えている。
人間として普通に生きていくうえで、欠かせない認識じゃないかと思うよ。
「汎神論」については、この世に生きていくうえで欠かせない希望といった印象でした。
美学科は哲学科からみれば、厳密でなくユルイ感じがする。
でもあいつら美術史の知識もあるし、一長一短じゃない?
経験上、趣味人をウザがる哲学学生もしょせんは趣味人のことがおおい
近親憎悪
神即自然
永劫回帰&神は死んだ
ウパニシャッドあげ
「実体を様態の周りを回らせる(差異と反復)」がいまだに理解できません
存在の一義性って議論は
「神様は特別やねん」って背景がある場合に意味を持つ議論であって
そもそも神々しかいない日本で意味あるのかね
リゾームは天皇制
メンヘル板でやれ
>>378 諸様態という差異・多様性がまず先にあり、それらが多様性の波として共存すること=実体、てことでは?
先に実体という核があって、そのバリエーションとしての様態が実体の周りを回る、というのとは逆に。
>>380 リゾームは「…と…」の連鎖であって固定した形態から逃れるものだから、
三島由紀夫風に天皇を、あらゆる文化を無差別に内包するものみたいに考えたとしても、
天皇っていう一個の存在に収束させてる時点でリゾームじゃないだろう。
まあ、物事は全てリゾームじゃなきゃいかんのかどうかは別問題だが。
ドゥルーズ研究するならどこの大学がいい?
フランスの大学
哲学史の文脈の中で読むのがすっかり一般化したから
最初は古代、中世、近世のどれかやった方がいいんじゃないの?
それが理由で鈴木泉は学生がドゥルーズ専攻するのを禁止してるって前みたけど本当かな
大学では古典精読とカントやらされた
近代はマルクスニーチェヘーゲルくらいじゃない?
マイナーな学者はベルクソンとかとりあげるけど
フランス現代思想は趣味で読む感じ
卒論ならともかく修士以上で論文のテーマにする奴、勇気あるなとおもう
スピノザの、哲学科での扱いは、知らん
389 :
考える名無しさん:2010/08/30(月) 16:29:25 0
最初の一歩がドゥルーズって、バナナの皮踏むようなもんだろ
哲学なんか専攻した時点で地雷踏んでるんだから別にいいんじゃないすか
391 :
考える名無しさん:2010/08/30(月) 20:44:55 0
そりゃ文学部・人文科学じゃなくて、工学部に行きたかったさ
医学部とか法学部とまでは言わないから
・・でもスピノザ的にはあがいても無駄だと
文学部でもきちっとした
勉強して、やることを
やってればそう捨てたもんじゃないよ。
大雑把に言って、文系は理系よりも、実はハードルが高いんだけどね
工学はFランかつ学年最下位でも、一部上場に入社できると聞いたときは一瞬記憶が飛んだ
興味がある事を学びに行くべきで、就職を考えて大学行くのも不毛な話だ
とか高校時代は言ってたけど、もうちょい将来も考えておくべきだった
ばかだね〜。青臭いね〜。
396 :
考える名無しさん:2010/08/31(火) 14:13:31 0
千のプラトー文庫きた
千プラはSF
398 :
考える名無しさん:2010/08/31(火) 19:59:12 0
フランス思想史的には、ベルクソン>>フーコー>>>>ドゥルーズだな。
スピノザのエチカは岩波の畠中尚志訳と中公の工藤喜作、斎藤博訳のどちらが分かりやすいですか
どちらを選んでも問題ない翻訳ですか?
どっちも一長一短
ベルクソンは存命中はカリスマで、床屋で散髪する
ベルクソンの髪を拾いにくるグルーピーもいたそうな。
ベルクソン研究者曰く
ベルクソンは残らないらしい。
ベルクソンは所詮文学賞だから・・。
ノーベル賞に哲学賞がないので
文学賞をもらっただけ。フランス
では、哲学の欠かせない古典になってるよ。
なんで哲学賞ってないんだろうね?
現代における学問的地位は低いかもしれないけど、長い長い伝統はあるわけだし。
ノーベル賞が人類の為に多大な貢献をした人を表彰する賞だから
ドゥルーズねぇ・・・
差異と反復の邦訳
昔は訳注多すぎと思ったが今は逆に少なすぎると感じる
ドゥルーズにはSF新人賞を
ベルクソンって「お国モノ」のイメージ
ベルクソンって小林秀雄のおかげなのか日本では妙にポピュラーだよな
持続は、気とか事的世界観とかぶるんじゃ
千葉雅也さんは異端なの?
そんなベルクソンは時計を使っていた
>>409 意外と知られてないけど、小林秀雄はドゥルーズの『ベルクソンの哲学』にも
いち早く注目していたようだ。
「ドゥルーズという若い人がいてね、この人の『ベルクソニズム』という本はなかなかいい」
(河上徹太郎との対談、前田英樹の『小林秀雄』からの孫引き)
秀雄やるな
ポエム板でやるべきだよね
ベルクソンは元々数学の才能に長けていたらしいが、
そのせいで却って、数学的な認識の限界が気になったんだろうな。
ニーチェは「認識は数学であるか音楽であるかだ」つってたけど、ベルクソンは後者の方を選択したわけだ。
417 :
296:2010/09/03(金) 21:05:23 0
問題はつまり、ギリシア的身体の問題だね。
ニーチェ以来、ハイデガーを経て、ずっとそのことが問題となってる。
「存在の一義性」と言う時の「一義性」とは、つまりはこの身体のことに他ならない。
たとえば「認識」ということひとつ考えても、それは脳内(体内)の化学物質や
電気信号の電子的反応である一方で、それを受容する側の主観としては、
「世界」というひとつの「イマージュ(像)」として捉えられる。
存在するものは決定的にその「イマージュ(像)」から逃れ出ることはできないし、
その意味で、客観的なものとしての「世界」は、「イマージュ」同士の連鎖によって
存在してるものとしかイマージュ=受像することができない。
これは分析哲学の文脈から言えば、クワインの唱える「ホーリズム」の世界観と
極めて近いものがある。
諸様態の問題にしても、「僕―君―彼」(あるいは「あれ―これ―それ」)という
多義性がまずあり、物理学の「超ひも理論」に見られるように、それぞれの様態が
それぞれに振動(行動)することによって、関係性という「紐」のようなものが
出来上がってくんだと思う。
ベルグソンを比喩的に擁護すると、彼は音楽を演奏する以前に、実は
自前で「楽器」もつくっているのだ。
ドゥルーズはその『物質と記憶』でつくられた楽器に手直しをして、
現代的音楽が演奏可能だということを示した(『シネマ』『ミル・プ
ラトー』)。
ポエムにしても、音楽にしても、独自の音韻体系、独自の調律法があ
るのだから数学的ではない、、、とは言い切れないし、フロイトに対
するジャネ、マルクスに対するプルードンといった再評価が途上の巨
人たちに呼応するのはベルグソンのつくった一見時代遅れの手作りの
楽器の方だったりする、かも知れない、、と思う。
スピノザの『エチカ』の方が響きがいい楽器かも知れないが、、、、
ベルグソンつくった楽器と合奏させることも実は可能だ。
ウォホールとドゥルーズ
何が笑えるかって
ドルーズじゃなくてドゥルーズだからねw
千のプラトーが普通に本屋にあってビビった
月末だと思い込んでたよ
ドゥルーズに限らず哲学思想関係の本どんどん文庫化して欲しいね
通勤電車で『ミルプラトー』読むOLてのも中々いいもんじゃないか
>>415 ポエム言うけど、ベルクソンのフランス語なんて散文詩そのものの韻の踏み方じゃないか
語学の教材とも言えるが・・
ベルクソンのイマージュ論が、どうもしこりなんですが、
あれは記号論的にはどういう位置づけというか解釈になるのでしょう
パースのインデックスとは関係ない?
仏哲はぜんぶポエムです
>>423 私もベルグソンの原書
持ってますが、どこ本
のどの辺ですか。
ポエムで何がわるいんでしょう。マラルメを見なさい。ルバイヤートを見なさい。
「物質と記憶」は韻踏んでるよね。マテリアルとメモリアル。正確な発音知らないけど。ゴダールの「映画史」だかで引用されてた。
ベルクソンの文章は流麗なので、フランスの女優が朗読してるテープか何かが出てるってのをどっかで読んだような。
はぁ?
マティエール エ メモワール で全然踏んでないよ馬鹿
「創造的進化」が合田訳で筑摩から出るようなので、例の「映画的錯覚」の箇所がどう訳されているか確認せねば。
432 :
考える名無しさん:2010/09/06(月) 07:39:30 0
>>427 音読しましょう 母音の変化
つーかフランス語やるでしょう・・
433 :
考える名無しさん:2010/09/06(月) 07:42:24 0
Il restera l'étendue, l'étendue seulement.
>>428 だれも悪いなどと言っていない
ポエムはポエム板でやれと言っている
『カフカ』の新訳が出たらカフカ全集と一緒に買うんだ
437 :
考える名無しさん:2010/09/06(月) 11:58:55 0
ひとつの詩が暗誦されなければならないということは偶然ではないのだby差異と反復
439 :
考える名無しさん:2010/09/06(月) 16:38:48 0
歌以詠志 by曹操孟徳
半獣神合唱以詠根源的一者 by悲劇の誕生
>>417 大変面白い議論ですね
イマージュ論と一義性の話と身体論が繋がるとは思いもよりませんでした
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