全てが疑えることについて全く疑いの余地がないんだけど。
懐疑論を懐疑しろ。そしてそのやり方も懐疑しろ。
懐疑している間は懐疑論は確実なものとして成立していない。
感覚を根拠に理性を疑うのは本来の懐疑論ではない。
歴史的には、感覚を疑うのが本来の懐疑論。
懐疑論者は懐疑論を否定するために懐疑論を展開するんや!
ゲーデルが最大の懐疑論者
ゲンコツで否定する。
禅の公案ではよくある
「じゃあ一生疑っとけよ」
「疑いつつ、在る」(スピノザ)
10 :
1:2010/02/26(金) 00:09:22 0
>>2 仰る通り。でも現実に実行するにはかなりの苦しみを伴いそだね。
>>3 なるほど、歴史的にはそうか。じゃあ理性を疑う行為を何と呼ぼう?
>>4 否定に躍起になってはいけないと思うけどね。
>>5 アホたんにも分かるように詳しく。
>>6 真理だね。
>>7 園児にも分かるよう是非詳しく。
>>8 もちっと遊ぼうよ。
>>9 そうなんだよねー。全く不可思議。
「疑いつつ、在る。然るに・・・」と続けて考えたいものだ。
なんだ かまってちゃんスレか
7. philosophia critica caret ideis et imperfecta est Scepticismi forma.
7. 批判哲学は理念を欠くがゆえに懐疑論の不完全なる形式なり
(ヘーゲル)
否定できない。
聞き分ける。
14 :
考える名無しさん:2010/02/28(日) 06:02:05 0
54 :名無しチェケラッチョ♪:2006/11/01(水) 23:38:04 ID:???
唐突に北朝鮮にあてつけがましいことほざいて
「まともななこと」でもほざいたつもりになっってんじゃねぇぞ?豚w
そういうのを「脳内転換反論」って言うんだよwwwwww
「相手が言ったこと」を脳内で捏造し、それに反論して言い勝ったつもりになる・・・
俗に言う「話のすり替え」ってやつだわwwwwwww
キチガイの脳内世界垂れ流しでも「話のすり替え」で済まされるネットの世界m9。゚(゚^Д^゚)゚。プギャーーーッハッハーヒャヒャヒャヒャヒャヒャ
キチガイのオナニープレイスですなぁw
55 :名無しチェケラッチョ♪:2006/11/02(木) 06:51:20 ID:???
>>54 おいおいwwwww
ついに俺のマラの臭さに降参したガキまでご登場かよm9。゚(゚^Д^゚)゚。プギャーーーッハッハーヒャヒャヒャヒャヒャヒャ
よほど俺の釜堀一筋30年のマラへのルサウンチマンが尽きたようだなぁニヤニヤ
ま、もとから俺様のウンコのおおきさには対抗すらできていなかったわけだが( ´,_ゝ`)
( ´,_ゝ`)DION規制の嵐で書き込めなかったのもわからない馬鹿が必死でわろえたよw
俺が書き込まなくても俺の草マラの匂いにおびえて晶子晶子わめいていた馬鹿信者ワロスwwwww
56 :名無しチェケラッチョ♪:2006/11/03(金) 02:31:46 ID:???
SEXOの脳内妄想乙
57 :名無しチェケラッチョ♪ :2006/11/03(金) 02:36:00 ID:???
↑おのれはすっこんどれチンカスが
懐疑論的自演乙
懐疑論って何についての懐疑論かを言わないとだめだよ
独我論で余裕で否定可能
独我論は懐疑論の一種だよ
懐疑論は否定できない。世界のありとあらゆるものは疑える。
それは、世界に対して「私」は解釈することしか出来ないからや。
独我論的にしか世界に触れる方法が無い。だから肯定するしか無いんじゃね。
特に不都合も無いだろ
日本語でおk
どこかで疑うことをやめなければならない。
決意しなくても無意識のうちにやめてますから
23 :
再送:2010/03/18(木) 18:37:28 0
疑うという行為はエアコンで言うならサーモスタット機能のようなもの。
人体で言えば体温調節だ。
カントがやったように懐疑自体を方法論化すれば問題ない。
共同体においてはひとつの考えを絶対視しないで議論で決めることに対応
するから、民主主義の基盤となる(このスレのように)。
24 :
考える名無しさん:2010/03/18(木) 22:31:01 0
どこかで疑うことをやめる必要があるか?無い。
懐疑論を否定的にみるのは哲学的に徹底していないからだな。
なぜ否定する必要がある?その必然性も、論理的整合も無い。
疑ってばかりだと不安になる、それは哲学とは関係無い話だしな。
懐疑しているというわりには
だいたい日本語を書いてるね
ところどころ日本語になってないけど
懐疑論を否定する必要など無い。むしろ何故懐疑論の否定を必要とするのかを考えるのが哲学の面白い部分だ。
懐疑論が否定するのは真理かな?だから懐疑論は否、と考えるんじゃないかと思う。
むしろ真理は存在しない、と考えるのが哲学的に正しいんじゃないか。何故なら、懐疑論は否定出来ない。
ううん
どういう意味で「哲学的に正しい」と言っているのか分からないけど
少なくともそれは論理的飛躍
というか懐疑論をもって何かを結論付けることはできないよ
懐疑論者のわりには
自分の意見に自信をもっているんだねw
29 :
考える名無しさん:2010/03/19(金) 22:24:06 0
横尾渉 高浜さゆり
30 :
考える名無しさん:2010/03/19(金) 23:06:09 0
「静かにしろ」と大声で叫ぶようなものだ。
懐疑論が結論しているのは、「考える私」以外は全て疑いえるという事だろ?
そこをまず理解して欲しい。懐疑論、つまり全てを疑いえるという事が前提になってくる。
何かに結論を付ける事が出来ないからこそ真理もまた存在しない。全ては主観であり、
万物の法則やら唯一の絶対を定義できない。
人間には永遠に真理に到達することは出来ないと言うべきか。主観しか持ちえないからこその不可避
それは懐疑論というか独我論
33 :
考える名無しさん:2010/03/20(土) 15:12:53 0
@@@@@@@@
@@@@@@@@@@
/ /-===-、 i 理系BOYにはダラダラハゼ〜ってプーチャカピーかな?
/ \ 、ヽ ヽ こ ノノ 高尚な文系には一部では遙かに分かるんじゃよ?
/ ` ー-- '
/∵∴∵\ `ー--一'ノ/ヽ ノ7_,,, 、
/∴ (⌒、"⌒ソ⌒ヽ_( 〒 )ノ- 、`、 ( ィ⌒ -'"",う
∵∴ ~''(_)(_)(_)(_)ソ __ ヽノー-,イ^
∴∵ ヽ/`、_, ィ/ ┌|| 壱 ._|__ヽ∴/
∵∴/ ∴∵∴/ || || 万// 壱 / )/
∴∵∴∵∴∵/ || || // 万 / i
\∴∵∴∵ ノ ヽ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/ /
\__ / \___ ノ /
34 :
考える名無しさん:2010/03/20(土) 15:24:04 0
>>31 懐疑論が結論していることなんてないよ。
存在しているのは、なにかについての懐疑論。
その「なにか」はもともとは懐疑する必要のないものなので、
懐疑論は存在できる。
35 :
Res Killer:2010/03/20(土) 16:45:18 0
p→pを疑ってみよう
つまりp→pは間違いかもしれない。
よって「p→pは間違いかもしれない」も間違いかもしれない。
結局p→pを疑うと、p→pの真偽が定まらない。故にp→pを疑ってはならない。
ここに、懐疑論の限界を見る。
疑問
a→b∧b→c⇒a→c を疑うとどうなるか。
p∧¬p⇔φ を疑うとどうなるか?
36 :
考える名無しさん:2010/03/20(土) 17:30:29 0
例えば、
>>35のようなものは、そもそも、存在すらしていない。
37 :
Res Killer:2010/03/20(土) 17:45:32 0
疑うのは結構だが、証明できなきゃ駄目だぞ
38 :
考える名無しさん:2010/03/20(土) 21:17:18 0
疑ってなんかないよ。
存在してないから、存在してないと言っただけだよ。
39 :
Res Killer:2010/03/20(土) 22:34:20 0
別にいいが、同じ事を言われても、後悔するんじゃないぞ。
都合の悪い事物すべてを、無き物にしようとする人のエゴ。
そうして集団は極性化し、悲劇が繰り返されてきた。
>>1 >懐疑論をどうやって否定するの?
>全てが疑えることについて全く疑いの余地がないんだけど。
喩えば「一切は疑わしく相対的だ(A)」とやるとしても、その“同じ瞬間”にAを更に懐疑出来無い。
もちろん“次の瞬間”にAも怪しい、とはやれるが、“同じ瞬間に二重に”懐疑してるわけではない。
喩えば、「赤の視覚」(それが精神的錯乱の結果であろうが何だろうが)をしている同じ瞬間に、
「赤を“一切含まない”視覚」をすることは出来無いようなもの。
こうした特殊に限定した意味合いでならば、絶対的だと思う。
無限に懐疑し続けられる、というのは、懐疑が行為的で時間的だということが自明的に忘却されていて、
懐疑者が無時間的な高見から無限の相対化が可能だと誤解してる。
41 :
考える名無しさん:2010/03/20(土) 23:25:38 0
Res Killerとかいうハンドルつけて、なに逝ってんだか。
>懐疑論をどうやって否定するの?
「俺は懐疑なんかしてません」と言う
43 :
考える名無しさん:2010/05/07(金) 13:44:01 0
>懐疑論をどうやって否定するの?
「全部まるっとお見通しだ!」
真偽が定まらないから懐疑するなってのはどうよ。真偽が定まらないのが懐疑論じゃねえの。
無限に懐疑する必要も無い。本当が分からない、それで終わりだろう。
本当にこの世は存在するのか。本当に「あなた」は存在するのか。本当に「私」は存在するのか。
いくら考えても証明出来ない。懐疑は、解を証明出来ないから止まらない。
賢い人が発明した懐疑論には結構面白いのもあるけど、
>>1みたいな全面的懐疑論では単なる馬鹿の一つ覚えにしか見えない。
いくら正しくてもね、「物理学は絶対的真理ではない」とか中学生が言うようなもの。
46 :
考える名無しさん:2010/05/14(金) 22:31:21 0
懐疑論は思想では無い。もっと技術的なつまらない話だ。
真理は証明出来ないから、在ると言えない。これに尽きる。
中学生だろうが賢人だろうが、懐疑論に違いは無かろうよ。その次の段階なら違いが出るだろうが
A: ○○じゃないのか。
B: そうじゃないよ。何が言いたいのか。
A: 対象が○○だっただけ。私が言ってるんじゃない。
B: そうじゃないですよ。もう、良いですか。○○じゃないと判りました。
懐疑論者は懐疑論を否定するために懐疑論をするんだよ
懐疑論を懐疑するとかは、確かに馬鹿の一つ覚えみたいでつまらんな。
懐疑論は「無い」事を論じている。確かな物は無いとかな。掛け算で言えば0をかける感じだろうか。
1×0=0とか4×0=0。懐疑論を懐疑するってのは、0×0。懐疑論の否定にはならないだろう。
例えは適当だけど。
「確かな物は無い」と言いながら
自分の言ってることは「確かな」ことのように語るというのは面白いね
>>50 だから、そういう言い方が一番陳腐なんだよ。
0(懐疑)の反対は1では無い。0だ。
>「確かな物は無い」と言いながら
>自分の言ってることは「確かな」ことのように語るというのは面白いね
ここから導き出される答えは、確かな物が無いって事だろう。
面白いもクソも無い。0(確かな物は無い)×0(懐疑)=0だろ…。
確かなものはないということが確かなら、確かなものは1つ以上存在する。
確かなものはないということを確かということは不可能。
よって懐疑論は否定される。
懐疑論はアルゴリズム自体に欠陥がある。懐疑論は死そのもの。真の懐疑論者はしゃべることもできない。
>>52 ただの言葉遊びだろ…。0に対し、「0という数字が在る!!」と言ってるようなもんだ。
0は0。無い、という事を表現する言葉。それに対し、「0という数字がある」から
0では無いと言ってどうする。意味が無い。0が1を表現すると言ってるようなもんだ。
表現のルールを曲解するのは、単なる屁理屈って言うんだよ。
54 :
考える名無しさん:2010/05/15(土) 21:33:28 0
>真の懐疑論者はしゃべることもできない。
普遍的な事柄についての
一切の判断を差し控えるという哲学的立場だから、当然でしょうな。
>真の懐疑論者はしゃべることもできない。
懐疑論者は、別に一切の判断を差し控えるわけでは無いだろ…。
どこまで行っても、どこまで論理を積み上げても、それが真に正しいと判断出来ないだけだ。
何故一切の判断を差し控えるなんていう発想が出てくるのか?それは、懐疑論を否定する人が
真理に縋っているからだ。真理(唯一の解)無き議論に価値は無いという怯えが見える。
>>1の「全てが疑える」という命題は、端的に偽だと思う。
だって例えば「さあ1+2=3を疑いなさい」と言われても
一体何をどうすればいいのか、さっぱり分からないよ。
集団的発狂とか数概念の変化とかは別の話だろうし。
>>51 >だから、そういう言い方が一番陳腐なんだよ。
この陳腐さは「確か」なんだよね?
>>56 疑えるよ。
数学が矛盾を内包した論理であれば1+2=3も矛盾を抱えていることになる。
不完全性定理くらいは知ってるよな?
ちょっとスレ違いかもしれないけど、数学全体についてはともかく、
有限の自然数の加算だけに体系を限定すれば大丈夫じゃないの。
60 :
考える名無しさん:2010/05/16(日) 20:38:22 0
>>57 確かに「俺が」思った感想だ。んで、そもそも「あなた」にとって「俺」は本当に存在するの?
>51のレスは「あなた」が見た幻覚では無いと?誰がそれを証明すんの?
仮に友人と一緒に>51のレスを確認したとして、その友人が「あなた」の幻覚では無いという保証は?
懐疑論って分かってしまえばつまらん話だろ。在ることの証明が出来ない仕組みの話だから。
日本語でおk
大丈夫じゃないよ。
自然数の加算も(1+1=2だからという)公理を前提にして成立してるけど
その公理は本当に正しいのか?と疑うことは出来るよ。
63 :
考える名無しさん:2010/05/16(日) 21:03:05 0
>>1 僕ちゃんが否定するよ。
結論 生きてて楽しくも面白くもないだろう。
>>61 日本語だろ。読解力を鍛えろよ…。どこから分からないの?
>この陳腐さは「確か」なんだよね?
あれか、懐疑していって最後に残る疑え無い事は「考える私」って事か?
それは懐疑論を否定するものでは無いけど、良い考えだと思うよ。
65 :
Res Killer:2010/05/16(日) 21:18:47 0
>>44 そういう人は懐疑論に従って生きればいい。
私は本当の事が知りたいから懐疑論は否定する。
その論に従って生きる。
前者は淘汰されるから懐疑論否定論者だけが生き残る。
「すべては不確か」としながら
自分の主張の「確かさ」には懐疑をもたないレスには笑えるw
全面的懐疑って結果的に口先だけになるから嫌なんだよ。2chの存在を懐疑とか。
全面的に懐疑しないで「懐疑論」とか言ってもしょうがないでしょうw
69 :
考える名無しさん:2010/05/17(月) 13:35:50 0
確かなことは懐疑論はふんわりしているということだけだな。
70 :
考える名無しさん:2010/05/22(土) 02:38:00 0
びっくりした。いや、冗談抜きで、ゲーデルの不完全性定理をもって、数学は不確実だとか、
数学ではわからんことがある、人間の知には限界がある云々なんてのはドキュン丸出しだぞ。基礎論のテキスト嫁。
というかこの調子じゃ完全性定理すらしらないだろうね・・・。典型的な「知の欺瞞」。
こういう奴等のせいで社会学や哲学が叩かれるんだよなあ。
独我論の「強固な要塞に閉じ篭った狂人」なら、ともかく、懐疑論は、
オッカムの剃刀あたりの古典的な議論で決着しているのでは?
>>69 懐疑論が不確かなのでは無い。懐疑論の結果が不確かな物しか無いって事だろう。
>>70 そもそも全部自分の妄想じゃないか、って疑問を解く事は出来ない。
数学の理論も何もかも、自分の見た都合の良い夢では無いという証明は出来ない。
>>71 独我論と懐疑論はほぼ同じだと思うわ。オッカムの剃刀もまた、知覚の正しさを証明する事はできにゃい。
我々は狂って無いのか?という疑問に対して、狂った脳は絶対に正解に辿り着けない。
マシンは外部機関に頼らないと、自らの異常を認識できないとかなんとかあったな。
ラディカルな懐疑論者はそもそも懐疑論を言うことさえできないからね
このへんの事情は相対主義とおんなじ
74 :
Res Killer:2010/05/22(土) 14:18:59 0
>>72 >自分の見た都合の良い夢では無いという証明は出来ない
ばかか?それを否定するのが数学の証明だぞ
>>74 それはまだ懐疑するという事が分かって無いな。
夢と現実の違いは、自分自身で決めているに過ぎ無い。
では、その判断の正否は誰が保証するのか?
自分は狂っていないのだろうかという疑問に対し、狂った頭は答えを出せない。
人に聞いたところで、それさえも幻覚で無いと言う保証は無い。
客観は保証されていない。人間の構造上、原理的に無理だべ。
情報→感覚器(見る)→知覚→認識
客観は主観に包括される概念だべ。客観なる情報を、我々は見聞きして(つまり感覚器で受容して)
脳というプロセッサに情報が伝わり、認識する。脳で情報処理をする事を主観というのだから、
客観という概念は主観に隷属している。
我々が消えても数学の客観性は残るだろうか?という問いには、確認しようが無いと答えるほか無い。
私達は単に今まで見聞きした情報から、残るだろうという判断を下しているに過ぎない。
その判断が誤りでないという保証は無い。何故なら主観でしか無いからだ。
77 :
考える名無しさん:2010/05/23(日) 00:05:38 0
>情報→感覚器(見る)→知覚→認識
この構図からして客観を前提としてるだろうがw
>>72 ル る に ル の
杜 玖 椀 を ま し ま し ょ う 。
ト ン に り す よ 。
ま
じ
で
。
>>77 横レス失礼。
最低限の論理(君が言うところの客観の前提でけど)がなくては、懐疑論も独我論も論として成り立たないだろうに(w
80 :
77:2010/05/23(日) 06:03:54 0
だから懐疑論も独我論も最初からおかしいんだよ。
懐疑論など
「人智を越えた確かなものがあるはず」という「信仰(くだらんw)」の反動から発生する
倒錯的なマッチポンプにすぎん。
そういう立場の人は、懐疑論も独我論も、
あるときは正しく、また、あるときは間違いなんだろうな。
ようするにいい加減なんだな。
哲学板はニュー速など他の板よりは良いな。
なるべく論理的であろうという倫理というか姿勢がある。
他の板は論理的であることよりも、
どれだけセンセーショナルに相手の人格攻撃が出来るかで勝負してるとこがある。
過激な人格攻撃が出来ればそれで良いみたいな。
哲学に無縁の一般人にとっての真善美は、センセーショナルで情動的なもの、
ということなのだろう。
懐疑論が客観を否定しながら、客観を前提として成り立つ――という考え方は、
どうも途中で思考停止しているように感じる。
懐疑論の言わんとしている事は、「論理立って考えて行くと確かな物など無い」という事だべ。
あるいは独我論で言えば、考える私以外に確かなものなど無い、となるのかな。
論理の果てに、論理を保証するものが主観以外に無いという考え方。
主観であるから、客観性は絶対的に保証され得ないという事実。
懐疑論は確かに論理(客観性)によって組み立てられてる。が、それが懐疑論の言わんとしている事を
否定するものでは無い。この辺がよく分からない人がいるのかな。
84 :
77:2010/05/23(日) 06:55:01 0
「見るもの感じるもの全てが幻覚かもしれない」との境地は、
「幻覚ではない真実」を既に無自覚に導入している。
懐疑するための世界を自分で作って懐疑しているにすぎん。
幻覚が成立することそのものが真実であり、それ以外に真実など無い。
成立する“幻覚”が私の存続に有効であるか、意味を成すのか、が世界に問われる。
世界は、「この成立する感覚を根拠とする私の行為」に対して特定の挙動を示すように構成されている。
論理を保証するのが主観であるならば、その主観の正当性を保証するのは何かね?
神しか無いではないか?
神が主観以外であるなら、それは客観となるだろう。
それとも主観が神かw
>「見るもの感じるもの全てが幻覚かもしれない」との境地は、
>「幻覚ではない真実」を既に無自覚に導入している。
つまりまあ、幻覚と現実の違いを認識しているという事だけど、その判断もまた主観でしか無いんだよね。
主観であるから「私は幻覚と現実は違うと思っている」と言うことしか出来ない。
それは客観という概念からすれば、成立していないという事になるな。
>論理を保証するのが主観であるならば、その主観の正当性を保証するのは何かね?
なんで主観の正当性が保証されるなんて思ったんだ?永遠に保証されねーんじゃね?
我々は論理を積み上げる事は出来る。出来るが、何か確かな物に到達することは出来ない。
何故なら、積み上げた論理は容易に懐疑でき得るからだべ。
だからと言って論理を積み上げる事を止める必要も無い。ただ、特別な価値が無いと言うだけで。
86 :
77:2010/05/23(日) 07:36:28 0
>>85 >つまりまあ、幻覚と現実の違いを認識しているという事だけど・・
ちがうちがう。
懐疑論は貴方の言うところの「現実」を、幻覚と対置して要請してしまっている、ということですよ。
「これってやっぱり違うんじゃ?」との懐疑論の境地は「何かから違う」の「何か」を要請するマッチポンプなのです。
主観の正当性について、
貴方は「論理を保証するのは主観」と言ってるじゃないですか。
では、その主観ですが、なんですか主観とは?
主観により論理が保証されるのは無条件でしょうか?(つまり主観原理主義?)
それとも何かしらの「しっくり感」を根拠としていますか?
もしそうなら、そのしっくり感はどこから与えられているのです?
「主観により世界が思いのまま」でない限り、主観が第一原因とはなり得ないでしょう。
また、「到達することができない確かなもの」なんてのは、懐疑論が生み出した妄想です。
念のためですが、論理学の同一律や矛盾律は、さすがに絶対的真理ですよね。
いくら懐疑論者や相対主義者でも疑えないでしょう。
疑えると思っている人は、命題の意味を勘違いしているか、または気違い。
本当の懐疑論者は何もしゃべらない人だよ
でも他人にも教えて上げてくれって帝釈天がうるさいんだよ
90 :
考える名無しさん:2010/05/25(火) 00:22:58 0
懐疑論者は中途半端な真理追究派だ。だから否定する。
>>87 ううん
絶対的というのが絶対の真理という意味ならそれは否定するし少なくとも自分は疑える
というか絶対なものなんて絶対的に証明できないでしょ…
>>88 突き詰めるとそうなるよな。本当に懐疑していたら主張すらできなくなる
>>86 どうも勘違いしてるみたいだけど、「何か」とか関係無いでしょ。
今現実だと思っているものは、実はただの幻覚かもしれない、というのが懐疑。
本当の現実があって、今の現実は偽者…という話では無い。現実と幻覚の違いが証明出来ない事だべ。
むしろ、本物が無い、証明出来ないというのが懐疑じゃないかな。
論理を保証するのは主観だから、論理の正しさはいくらでも否定できるというお話。
「お前にとってはそうだな」という言葉で論理は否定できる。
何故なら、主観は「私はこう思った」という事でしか無いからな。論理もまた個人の解釈に過ぎない。
主観により世界が思い通り…というのはこの際全く関係無い。
地球が丸いとか、1+1=2を疑えないのは主観(私)である。主観が疑えない事実であると「認識」しているから
それは客観的であると解釈される。つまり、全ては私の思い込みである、という懐疑が生まれる余地がある。
客観とは、主観(思い込み)が否定できない結果ですかな。
主観によって観察された結果、どんな人でも同じ結果を再現できる、と解釈されるのが客観である。
では、観察行為に不手際があったとしたら?これが懐疑するという事。
1+1=2は疑えない(まあ高度な数学だとまた違うらしいが…)。
疑え無いから「正しい」と信じている。では、誰が疑え無いのか?私が、である。
「私」は1+1=2が、「私」の見ている世界で全くの整合性を持って働いている様々な事象を観察している。
それらの事象を総合してみても、誰もが1+1=2の世界で生きているように見える。よって「私」は疑え無い。
だがしかし、ここで懐疑する。「私」の観察は正しいのか?全ては…「私」の思い込みでは無いだろうか?
95 :
77:2010/05/26(水) 00:04:22 0
>>93 >どうも勘違いしてるみたいだけど・・・
こんなどーでもいい前置きはいらんのですw
要請されるのが「何か」では確かに不完全。
「確かな何か」「本当の何か」でなくてはならない。よく気がつかれました。さすがです。
そしてこの「確かな何か」は、懐疑論による妄想なのです。
>むしろ、本物が無い、証明出来ないというのが懐疑じゃないかな。
「本物が無い」のと「証明できない」のは全然違うでしょう。
本物が無い、と理解したなら証明など無意味。
証明できない、と考えるなら本物を空想して求めている(要請)。つまり懐疑論。
私が「マッチポンプ」だと云う意味が分かりませんかね?
貴方の心に成立する心象・表象(と勝手に解釈しているもの)が
客観世界の「確かな何か」(と勝手に解釈しているもの)に対応する、
との構図を勝手に仮定して、
「しかし、この心象はどこまでも心象でしかないよなあ」
と懐疑する。最初から懐疑のための懐疑なのですよ。
つづくかも。
96 :
77:2010/05/26(水) 00:44:38 0
補記
現実と幻覚の比較可能性は「もとからない」。
幻覚と比較可能であるのは、「正常な感覚」。
そこを混同するのが懐疑論なのかしら。。。
つづき。
>>94 つまるところ
1+1=2は疑えないが、それは「私」が疑えないだけ、
ということですかね?
「私の思い込みでは?」との境地は、
私を世界内の盲目の子羊として相対化させた構図を作り、
「思い込みではない確かなもの」を無自覚に(確信犯かもしれんがw)妄想しているのですよ。
私が疑えない1+1=2とやらを、いかなる能力者なら疑えるのです?
その能力者の能力を想定できますか?
貴方は本当に懐疑できているのですか。
ただ「懐疑できる」と“発話できる”だけなのではないですか。
※1+1=2が実際に数学的に疑えないかどうかは、別の問題としてあるようにも思うが
まあ、俺もよく知らんし。。。。誰か教えてたもれ。
通りすがりのもんですが
>>93氏はよくわかってらっしゃる。
>>77氏は根本的にわかっていないようですね。
そんなに二人の主張は相反してないと思うけど
正しさの基準、何を疑い得るのかという基準を仮定しているのか否かという点に誤解があるだけじゃないの?
99 :
77:2010/05/26(水) 20:31:55 0
>>98 くじらさん
貴方を見込んで、そのあたり少し整理してみてちょ。
俺の言ってることのどこがおかしいのか論駁してたもれ。
自分では気がつかないのだよ(つまり自分が全く正しいと思っている訳だがw)
俺の相手をしている「だべ」君は、無制限の懐疑が可能である、ところまで到達しているので、
いずれ「ならば無制限、無規定の懐疑など無意味だ。」との転覆を起こすだろう、と予想w
懐疑論、不可知論などはマッチポンプなのだ。
わざわざ、必然的に知り得ないように構成・配置される「知り得ない真理」を妄想しては
その懐疑可能性が哲学的な問題となり得るかのように錯覚する(錯覚は不正確かな。。)
しかし、ある懐疑が可能となるように主観内に構成される世界構造こそ、まず懐疑・解体してはどうかしら。
主観を「主観でしかない」と相対化できることは自明なのか?
>>95 証明が出来ないからこそ本物が無い、本物が何か決定出来ないんだと思うんですよ。
本物を求めるからこそ懐疑し、疑え無い何かを証明しようとするんでしょう。
個人的には、懐疑論の結論として「考える私」と「確かな物が無い」という2つの疑え無い物があると思います。
>私が疑えない1+1=2とやらを、いかなる能力者なら疑えるのです?
これは当然の話ですが、懐疑する能力が無ければ疑問は生じないですよね。
いかなる能力が必要かと言えば、懐疑する能力です。
言われてみれば、懐疑とは「正しいと思う事」に対してしか起こりえませんね。
「確かな物」が無いのが疑え無いというのは、疑うべき事象が残っていない、という事になると思います。
正しいと思う事が無ければ、疑う事も出来ない。言ってみれば当たり前の話ですね。海が無ければ波も無い、みたいな。
「考える私」に関しては、言うまでも無く主観的な話です。だからこちらも「私はそう思う」以上の事が言えません。
疑え無い何か=客観的事象だとすると、こちらもまた懐疑論を否定するものでは無いと思いますです。
大前提として、主観(不確かな物)と客観(確かな物)があると思います。
懐疑論が否定するのは客観(確かな物)という概念であり、そこら辺は>94が私としての意見になってます。
だから主観内の事は、あまり問題にならないんじゃないでしょうか。それはそもそも不確かな物でありますし。
懐疑する以前の問題というか。永遠に不変の心があるかどうか、というのはまた別の話じゃないですかね。
>>99 そのレスだけを読んで判断させてもらえば
「無意味であるか」「哲学的な問題点であるか」というのは相手の論点と異なっていると思う
向こうはただ「懐疑し得るか否か」というところを論点にしてるんじゃないかな?
懐疑論が自分が作った想定を自分で否定するマッチポンプ(あるいは他者の意見に基づく反論)でしかないことには論敵の人も同意してくれるんじゃないかな?
懐疑し得る主観に対置する懐疑し得ない客観、そういう相対化が自明であるか否かというのはやはり
「自明ではないが仮定している(自分はそう思う)」といえば済む問題なんじゃないだろうか
全てが主観的と悟りながらも絶対的な客観を想定するその仮定自体が不毛なものだ
主観に基づいた正しさの基準を求めるべきなのだ
と言いたいのは分かるけどね
>いずれ「ならば無制限、無規定の懐疑など無意味だ。」との転覆を起こすだろう、と予想w
おしい。懐疑の結果、人は確かな物を手に入れる事が出来なくなった。そこで価値の低落が起きる。
というのも、人は長らく「確かな物」に価値を置いてきたからだ。そして、その価値は懐疑論によって否定される。
そこで初めて無意味という言葉が出てくる。
懐疑も、考えることも、論理を積み立てる事も――無意味である。それは、真理に到達するという
観点からみて無意味であるという事だが、主観を排し、真理(客観、確かな物)に至る価値を信じてきた人々からすれば、
何もかもを否定されたような気分だろう。ただし、「考える私」、主観の価値が否定されたわけでは無い。
ちょっとインターネッツで調べたら、主観的真理やら客観的真理やら出てきたが、
主観的真理は言葉としておかしいと思う。主観という不確かな物(臆見・ドクサ)を排して至るのが真理じゃ無かったっけ?
アンコ入りアンコ無したい焼きみたいなネーミングだな。
104 :
77:2010/05/26(水) 22:37:34 0
ぐはは。
くじらさん、俺もせっかく77のステハン付けてるのだから、もっとこてんぱんに頼みますよ。
しかし貴方と絡むのはほとんど初めてだが、貴方のレスは何やら意味が分かり難いな。
俺の読解力の所為かしら。
だべ君、俺は実は真理はある、と思っている。
懐疑論が方法論として間違っている、と主張するわけだから、自然とそうなる。
どうやら貴方とは相容れないようだw
主観でしかない主観。「○○でしかない」と断じる以上、
貴方も主観を越えた存在を無自覚に仮定しているのかもしれない。
主観の由来は何かね?神かね?それとも主観が全てかね。
主観が全てなら、「主観でしかない」との言明も有効性を失うだろう。
私は唯物主義者なので、この主観が成立していることこそ、
世界が真理=超越的存在である証明であろう、と直感している。
直感だから、いわゆる全くの“主観”だがw
また週末
懐疑論者のくせに
ずいぶんと確信をもって語るんですねw
ああ、絶対的な真理を信じていて、その擁護のために懐疑主義を否定していたんですか
色々と勘違いしてました、すいません
理とは認識における観念的な形態ではなく存在と同義なんでしょうか?
超越的存在というのは何に対して超越的なんですか?
すいませんが主観の成立が世界=真理の証明になる理由がよく分かりませんでした
107 :
77:2010/05/27(木) 20:24:07 0
>>106 >絶対的な真理を信じていて、その擁護のために懐疑主義を否定していたんですか
ちがいます。懐疑論はその設定が無効である、と言っているのです。
真理を「信じる」なんてことはしませんよ。
真理は存在するとする方が妥当であろう、と考えているのです。
>理とは認識における観念的な形態ではなく存在と同義なんでしょうか?
「存在のありよう」と同義、とする方が良いように思いますが。
確かに「ありよう」と言ってみたところで、
「観念的な形態」として理解可能な言語により記述することはできないようには思われますが、
本当のところは分かりません。
しかし「存在」と同義ではあまりに身も蓋も無いような。。。どのように思われますか?
>超越的存在というのは何に対して超越的なんですか?
さあ、そこですわ。
私も気安く「超越的」などと口走ったわけですが。
なんでしょう超越的とは?
「理性に対して超越している」と言いたいところですが、理性とやらの輪郭がよく見えないのでね。
理性なんてのは、心の作用の一部に「なんちゃって名前」を付けてるだけでしょう。
それで万人が何となく分かった気になることができるのが不思議なところです。
さらに「お前の言うその<心>とは何かね?」なんて突っ込まれると、もうお手上げな訳です。
とりあえず貴方の質問に対しては、
「この成立する開闢世界に対して超越している」 としておきます。
しかし超越といいながら、
「その超越的存在は、この開闢世界と別存在ではない。」
というのが、私の大事にしているところです。
このラインを外すと容易にSF・オカルトに陥るように思うからです。
108 :
77:2010/05/27(木) 20:26:57 0
>主観の成立が世界=真理の証明になる理由がよく分かりませんでした
論理的な証明などできないわけですが、
「この主観」は、それが幻覚であろうとも、確かに成立しているわけです。
「この主観の成立」とはいかなる事態なのでしょう?以下の三つが想定可能でしょう。(どう思います?)
・神が主観を成立させている。
・主観そのものが神である。
・主観に先立つ動的秩序に由来して主観が形成される。
私は唯物主義者なので、主観に先立つ動的秩序がある、と考えるわけです。
これなくして主観が整合性を伴って成立すると考えるのは、私には不合理に思われます。
(どう思います?)
「真理」なる気味の悪い言葉をつい使いましたが、
世界の秩序一般を曖昧に指し示すのに便利であるように思ったのみで、
私には(真)理の輪郭など、大して見えてはおらんのです。
くじらさんの所見を、できればお訊きしたいところです。
>>105 確信しているからな。ただ、確信の正しさは証明できない。懐疑可能。
哲学はポエム、という人がいるが、哲学に限らずありとあらゆるものは、詩のようなものだと思います。
詩は文字の羅列に過ぎません。そこに価値があるか無いかを下すのは、主観(私)でしか無いです。
主観でしか無い、というのは、主観は不確かな物でしか無い、という意味です。
たまに出てくる正しい主観とは何かと考えました。それは主観と客観との一致でしょう。
だから、客観が否定されれば、正しい主観というのもまた成り立たないわけです。
真理を信じないのに、その存在が妥当である、というのはどうにも不徹底な気がします。
私としては、主観から見て真理(客観、確かな物)としか思えない事象がある、という現象学的な捉え方が好きです。
まあこの話は懐疑論では無くなってしまうので止めますが。
110 :
77:2010/05/27(木) 21:12:05 0
>>109 貴方もそこまで長文で自説を述べれるのだから、ステハンを推奨するよ♥
主観はともかく、貴方の脳内の「客観」の輪郭はよく分からん。
全ては主観でしかない、と宣う人の中での「客観」とは何ぞえ?
不徹底でもええじゃろ。徹底である方が気味が悪いわ。
思考実験に於ける条件の徹底・不徹底の話ではなさそうなので、
褒め言葉として受け取っておくw。
俺は現象学は知らん。科学は割りと好き。
寝る。
111 :
77:2010/05/27(木) 21:14:00 0
あちゃ
上げてしまった。
反論するということは
自説の真なる解釈の存在を暗示しているわけだろ
つまり懐疑論を実在論の中で主張していることになるというパラドクス
>>107 まず観念は観念としては存在するが、それ以上のものではないですよね?
理というのが要するに法則であり、法則というのがAはBゆえにCとなる、といった世界に対する認識の形態であるなら
理は認識の一種であり、観念であり、観念としてしか存在しないと思います
つまり真理が理の一種であるならば観念者の認識形態にその形態を限定されるんじゃないでしょうか
だから観念者の認識形態に限定された理を超越的(絶対的?)存在、あるいはその有り様とみなすのはおかしいのではないかと思います
ましてそれは主観では認識できず、想定しかし得ないものであるならば理と言いながら理ではなく、何が真なのかは示さない
実のところその存在が絶対的存在を証すわけでもない、無意味な概念の産物なんじゃないでしょうか
>>108 私は「主観に対して超越してるのかな?」と思いましたが難しいですね
その成立する開闢世界とは何によって成立してるんですか?
私も神に対しては懐疑的であって認識が発生するためには何らかの動因が必要であったと思いますが
動因とその動的秩序というのは同義なんでしょうか?
懐疑論が無効だというのはよく分からないです
懐疑論の効用は懐疑し得ないという思い込みを否定することだと思いますが
114 :
考える名無しさん:2010/05/29(土) 15:39:56 0
知らないんだ〜。
でも、事実。神の教えだから。
115 :
しゅらけん ◆YuItXftEEs :2010/05/29(土) 16:11:29 0
>>1 懐疑が前提になってないから、懐疑論に囚われる。
普段から全てが幻覚かもしれないと思っていれば
逆に、何を信じていくべきかを模索するようになって
そのプロセスを経て信じたものについては
懐疑することがなくなると思われる。
真実だから信じるのではなくて
信じたことが真実であるという転換が大切。
116 :
しゅらけん ◆YuItXftEEs :2010/05/29(土) 16:23:57 0
カオスヘッドというギャルゲーがあるけど
この作品では、ギガロマニアクッスと呼ばれる特異能力者達が
イメージした妄想を周囲の人間達に認知させることによって
それが真実になるというギミックを使用している。
空理空論であっても、それを皆が信じていれば
それは真実になるのであって、自分が一体何を信じるのか
何を信じさせたいのか、その意思決定を主体的に成していった上で
自分の信じるもので他人を染めたり、他人の信じてるものに染まっていったりすることで
自己の構築する世界観というものが洗練されてくるのだと思われる。
おばはんが後ろでそろそろ夢から覚めるころよと言ってるぞ
118 :
77:2010/05/29(土) 20:15:54 0
>>113 >「観念は観念として存在するが、観念以上のものではない。」
貴方の認識の全ては観念である、とすることができるので、
これは自明でありましょう。
そして、自明であるが故に大した意味がない。
翻って、世界は貴方の観念が全てでしょうか?
貴方は自らが時間的にも空間的にも有限であり不完全であることを自覚しておられるでしょう。
(そうでなければ懐疑などしないでしょう。)
貴方は「理」なるものを認識可能なものに限定してしまわれた(それがスタンダードなのかもしれませんが)。
観念を越える<理>などは理として認めない、ということですね。
そのような「存在」は「気」とでも呼べと。
ところで、貴方の言われる認識可能な「理」なるものとは何ですか?
「理」の成立は貴方の意志によるものでしょうか?
119 :
77:2010/05/29(土) 20:16:46 0
貴方の主観が有限であるとすれば、理は貴方の主観を越えるものでしょう。
なぜなら、貴方の主観と私の主観について、その同一性など担保されてはおりませんが、
貴方の理は私の理と記号を媒介に有効に連絡可能であり、その意味で一般化されています。
ここでまた「理」の成立について、「主観」の場合と類似の想定が可能でしょう。
・「理」は神により主観(一部として人類に共有可能であるように)に与えられる。
・「理」は神の一部であり、一つにして全である。
・「理」は「理」に先立つ動的秩序により由来して形成される。
「理」を成立させる<理>(あるいは<x>)を何と呼びましょうか?
くじらさんは、理ではご不満のようだし。「気」もちょっと・・。
これはしかし、認識可能な「理」とどこまでも対応させる必要があり、
私としては理以外であってはならない、と考えます。
そうやって(分けて)しまった瞬間に「水槽脳」のばかばかしさに陥るからです。
また、理とは法則である、言われましたが、私は法則とは秩序の一部だと考えます。
貴方の言われる「法則」がそのように因果律に縛られているものであるなら
事実として存在する世界内存在物の振る舞いが、その「法則」に拘束されることは自明ではないでしょう。
(なので私は非決定論者です。)
しかし秩序無しには世界も私も存立し得ない・・・・いや、これも自明でもないかな。。。
・・・しばらく断定は保留ということで。はっは
120 :
77:2010/05/29(土) 20:18:04 0
>動因
なんでしょうそれは?それが無意味な概念の産物でないためには、
貴方の論に従えば認識可能である必要がありますが
認識を発生させるための動因なるものについて、それが認識可能な何かであると思われますか?
また、動因が動的秩序と同義かどうかは全く分かりません。
だいたい、私も「動的秩序」とでもしか言いようがない故に、
言葉に思い託して貴方に丸投げしてるだけです。
動的秩序とは認識可能か?と問われれば、その可能性は限りなく無い、と思われますので、
動因なるものが認識可能なのであれば、同義ではないでしょう。
認識不可能な何かについて、それが同義かどうか、を問われることには違和感を感じますが、
問いを立てた貴方としては、もし私が「同義である」と答えたならば納得されたのでしょうか。。
121 :
77:2010/05/29(土) 20:19:15 0
>懐疑論が無効だというのはよく分からないです
時々考えるのですが、懐疑論とか不可知論は信仰と結びついているように思われます。
私がこのスレッドで初めて食いついたのは
>>76の「情報→感覚器(見る)→知覚→認識 」
なる書き込みですが、これは何であるかと考えれば、
「希望的神目線」
なのです。実際の神目線ではない。神は時空を超越しますので。
神から見た世界など人間には成立し得ない。(例えれば「コウモリになった人」ですか)
「確かな事実」とは「神目線」に於いて成立する何ものか、であるとするなら、
それは、いかなる空想によっても人間目線とは比較可能性を持たないでしょう。
いや、
本当は、神から見た世界など「もとからあり得ない」のです。
懐疑論(≒不可知論)それをあり得るかのごとく妄想し、
「それはしかし知り得ない」のだ、などと無駄な観念の浪費をしているのです。
事実として主観は確かに成立しており、この主観は。もとより神目線と比較する対象ではないでしょう。
懐疑論の設定が無効である、とはだいたいこのような内容ですが、どうですか?
122 :
77:2010/05/29(土) 20:44:48 0
なんか夢中で書きましたんで、
読み返してみますと句読点なんかの間違いがぎょーさんありますが、
そこは心の目でなんとか・・ごめんなさい。
123 :
77:2010/05/29(土) 21:17:51 0
ああ、ひとつ忘れてました。
>成立する開闢世界とは何によって成立してるんですか?
「この成立する開闢世界」は「この世界」によって「のみ」成立している、としか
今の私には言いようがありません。
開闢世界はどこまでも観念世界であると強弁可能ですし、実際そうです。
しかし、私がこの世界と「この指」が指す「場所」には観念でも主観でもない何かがある。
残念ながら、観念の力ではその事をいつまでも証明できない。
「ここ」とは個々人の観念に於ける「ここ」でしかない、と言われれば沈黙せざるを得ない。
しかし飯を喰う時、それは単なる観念や情報の集合体ではあり得ない。
画像と情報を喰って生きていけますか?
飯は、「飯そのもの」によってしか成立しない。
目の前にトラックが迫る。夢やバーチャルなら死なない。
しかし、「実際のトラック」なら死ぬ。
観念により、実際の世界が構築されるなどあり得ない。
(実際とか云うと、なんだ実際とは!とかになるので哲学板は面倒だw・・・
実在とかの方がいいのかしら?けど、もー好きにしてw)
>>112 まず現象学から説明した方が早いかな?現象学では、誰が見ても客観的である、という
従来の客観の概念は否定されている。その代わり、私から見て客観的であるとしか思えない、という
概念がある。
懐疑論者は話せないとか、何かを確信する事は出来ないというのは間違い。
「私」から見て懐疑論は客観的であるように思える。
しかし主観であるから絶対の(永遠の)保証は無い。つまり懐疑論は夢の中の話では無いとは言えないわけだ。
夢の中では空を飛ぶことが当たり前だったりするが、目が覚めた後も空を自由に飛べると思う人はいないだろう。
夢の中では空を飛ぶことを確信している。目が覚めた後では空を飛べないことを確信している。
125 :
考える名無しさん:2010/05/30(日) 07:49:55 0
>つまり懐疑論は夢の中の話では無いとは言えないわけだ
意味がわかりません
126 :
考える名無しさん:2010/05/30(日) 09:04:57 0
>>125 今は現実だと思っているこの生も、いつかは醒める夢なのかもしれない。
現実とは最も正しいと判断される確信に過ぎない。
夢と現実は違う、と誰もが疑いも無く信じているが、では夢と現実との違いとは何だろうか?
それは確信の違いでありゅ。より「正しい」と確信している方が現実。
夢は夢だろ、とか現実と夢は違うだろ、とか、その考えの源を考えていくと、根拠は無い事に気付く。
あるいは、自分がそう信じているだけに過ぎないと。「私」が客観的であると確信しているだけに過ぎないと。
しかし、それは主観であるから、「私」以外の何者かに保証されるものでは無い。
127 :
77:2010/05/30(日) 09:50:27 0
>>126 夢と現実は「事実として異なっている」のです。
確信の違いなどではありませんよ。
夢で崖から落ちたことはありませんか?
事実とは何か?例えば指を怪我したとしよう。ナイフで間違えて指を浅く切ってしまった。
その事象は視覚的にも痛覚的にも認識でき、また翌日も傷が残ってるなど、連続性を伴って認識される。
だから事実だと「確信」する。だが、視覚や痛覚、連続性とは主観による認識でしか無い。
ここがよく分からない人は、実在をまだ懐疑した事が無い人だろう。
だから、懐疑論だと観念で世界を作る事になるとか、ちょっと違う方向に思考が飛んでしまう。
事実や実在は証明できない。これが懐疑論ですよ。証明出来ないだけ。
>>127 別の言い方をしよう。
「あなたが現実だと思っていることは、実は夢である」という事は
何をどうやっても否定できない。
なぜならば、その否定の根拠となるものも
夢の一部である可能性があるからだ。
130 :
77:2010/05/30(日) 11:16:12 0
>>128 >「連続性を伴って認識される。」
貴方の「主観」に於いて、連続性は何によって担保されていますか。
131 :
77:2010/05/30(日) 11:22:21 0
>>129 現実が夢ではないことを否定できないなら
私にとって夢と現実の区別が「もとから無い」ということです。
「夢」なる言葉に意味があるのは、いかなることなのか。
「現実だと思っていることが夢」などと言う言明は、
全く無意味でありましょう。
「お前はこれが猫と思っているが、実は犬なのだ」と言っているのと同じであります。
132 :
77:2010/05/30(日) 11:36:47 0
ついでですが、
貴方は目を瞑って瞑想することもできるわけです。
目を瞑って想起される世界の中で歯ブラシの毛の本数を数えて見てください。
数えれましたか?そうしたら、もう一度数えてみてください。
本数は一致しましたか?
夢が現実と見紛うのは、夢がリアルだからではなく、
思考レベルの低下によるのです。
また、
貴方は、もとより実在を「知る」こともないのだから、
知らない実在を「懐疑」などする必要はないのです。
懐疑論は「知る」なる言葉への理解についての錯誤から生じているように思われます。
懐疑する対象など「もとから無い。」
「知る」とは行為ではなく、成立する状態に過ぎないのです。
ところが、「知る」なる言葉について、これを「神の力により主体が獲得する」と誤解(思考停止)するために、
懐疑論なる妖怪の発生する余地が生まれるのでしょう。
懐疑論、不可知論の設定は最初から無効なのです。
>>131 >私にとって夢と現実の区別が「もとから無い」ということです。
その通り。私もそれが言いたかった。
それを指して、
>>132 >貴方は、もとより実在を「知る」こともない
というのは正しいと思います。
ただ、
>知らない実在を「懐疑」などする必要はないのです。
という点については同意しかねます。
必要があるかどうかというのは、あなた/わたしが
それぞれの価値観において決めることであり、共通した真理には
なりえません。
ですが、(その必要の有無には関わらず)
知らない実在を「懐疑」することが可能である
という点は真理です。
どうも、懐疑という言葉を使わないだけであなたの主張は
懐疑論そのものだと思えます。
世の中にあるいずれのものについても「神の力により主体が獲得する」のは
不可能である、というのは貴方も同じように主張されていますよね。
あとは、その状態を「全てのものを懐疑する余地がある」と捉えるか、
「完全なる知に到達できないことを懐疑と呼ぶべきではない」と捉えるか
の違いだと思います。
>>130 ?
主観において連続性があると認識されているんだから、その保証は主観に決まってるじゃん。
「私」から見て連続しているように思えるって事だから。どうも保証って意味を「客観的な証明」と
すり替えて考えているような感じだな。
主観という確かで無いものが保証するって事は、保証される物もまた確かでは無いという事ですよ。
135 :
77:2010/05/30(日) 15:38:24 0
>>133 「必要」という言葉を不用意に用いたのはまずかったかしら。
価値観に話をスライドさせる意志は私にはありません。
・知らない実在について懐疑することは端的に無意味である。
と訂正します。
¥¥¥¥¥¥¥¥
私を懐疑論者に加える気ですかw
確かに「お前の言説は揺蕩っている」と以前に言われたことがあるが。はっは
私はね、
成立するこの主観、理性、理論、(とそれらによる科学等)について問われるのは
その有効性であり、そこに「真理の世界」との比較可能性など「もとから無い」、
と言いたいわけです。
確かに私も、主観の「ある種の不完全性」を認めるしかない。
しかしながら、「この現実は夢かもしれない」などという話は、
「この世界」との相関を断絶された「オカルト的真理世界」が無条件に想定される危険性が高く、
たとえ比喩にせよ、私には断じて認められないのです。
貴方は「水槽の中の脳」の可能性を否定できない、と考える人でしょうか。
私は、これは全くのナンセンスである、と考えるわけです。
136 :
77:2010/05/30(日) 15:45:53 0
ああ、あとですね、
>>私にとって夢と現実の区別が「もとから無い」ということです。
>その通り。私もそれが言いたかった。
勝手に私の意見のようにスライドさせないでくださいw
私は貴方の言説の無意味さを指摘しているのです。
夢と現実が主観により区別可能な中では、
「現実は夢かもしれない」などというのはナンセンスなのです。
137 :
77:2010/05/30(日) 16:06:37 0
>>134 客観的な証明など求めていませんよ。
貴方の主観により主観内にて連続性なるものを認められた主観的な指の傷については、
これまた主観により事実であると確信する、と
ここには、主観以外の何らの必然性も存在しません。
なので「だから事実である」の「だから」は不要であります。
全ては主観が決める。
あらゆる状況に対して主観による判断が無条件に、これまた主観に生じる、
ということですか。
138 :
77:2010/05/30(日) 16:38:45 0
・・・・いや、
よく考えると違いますね。
あらゆる判断が主観依存なので、
この指の傷を見た瞬間に主観はそれが事実であることを無条件に判断しますね。
そこに連続性とか不要ということですか。
これはおもしろいかも。
>全ては主観が決める。
これは、主観を自分でコントロール出来るって発想ですか?もちろん出来ませんよ。
主観とは意思とか想像とは違います。
140 :
77:2010/05/30(日) 17:44:20 0
>>139 いや、そのような発想は私にはありませんよ。
「決める」では貴方にとっては違和感があったようです。
なかなか日本語は難しいw
つまり、貴方の言いたいことは
「(意志からは独立する)主観に所与としての判断が成立する」
ということですよね。
私は貴方の発言の意図をそのように捉えていますが
齟齬があるようなら修正してください。
※しかし意志が主観と独立し得ますかね?・・まあ所詮は観念。どうとでもなるのか。
意志が意志であることも主観と言い切ることも可能ですからね。
>>135 >成立するこの主観、理性、理論、(とそれらによる科学等)について問われるのは
>その有効性であり、そこに「真理の世界」との比較可能性など「もとから無い」、
やっぱり表現の問題な気がする。
「真理世界」なんてものは無い。だから世界に「真」も「偽」も無い。
ということを主張したいんだよね?
(より正確には「観測範囲には」という但し書きが付くと思うけど)
142 :
77:2010/05/30(日) 19:55:15 0
>>141 私は
>>104で「真理はある」と云ってしまっている。
世界は私を越えるものであり、
私を成立させる為には世界に真理はある、とする方が妥当だと考える。
しかしながら、「主観に成立する世界」に対して比較(懐疑)可能な「真理の世界」の
想定は無意味だ、と云いたいわけです。。
個々の主観に成立する世界(観)はそこで完結し、そこで知り得るものは全て「知り得る」。
そこにおいて、目の前の犬が実は猫であるかもしれないかの如き懐疑は無意味でしょう。
翻って、主観は全世界の振る舞いを完全に記述可能か?それは恐らくできない。
世界を隈無く有効に「知る」には、我々の知性は有限であり精度不足でしょう。
・・・なかなか煮詰まったなw。
ところで、指の傷のくだりで貴方も感じたと思うが、
全てが主観であるなら、主観には構造・挙動・その法則が要請されるでしょう。
構造を持たない無規定の「主観」では、判断の成立を説明できないのでは?
主観の判断が完全にランダムに成立するなど、およそ馬鹿げているように思うが。
(ランダムも「あり」かもしれんが)
また遭ったら、そのうち、一緒にそのようなことも考えてみたいです。
>>112 そう。だから懐疑論者の「反論」はありえない。
144 :
考える名無しさん:2010/05/31(月) 04:36:03 0
懐疑論というのは
「懐疑できる余地が残されてしまうのだ」という論
それが理解できればよいのであって
客観を強く疑い続けたり、否定する必要もない
もちろん懐疑論を理解できている人も、普通は認識に従って生活している
ただ、「懐疑できる余地はのこされてしまうのだ」という事を理解しているだけ
145 :
考える名無しさん:2010/05/31(月) 07:58:26 0
のこされると思っているだけ
>>144 >「懐疑できる余地が残されてしまうのだ」という論
これまさに実在論だよw
「あらゆる言明は偽でありうる」という論と同じ
ざっと読んでみて、77さんの根本的な思い違いであると思ったのは、例えば
>>121の、
>本当は、神から見た世界など「もとからあり得ない」のです。
>懐疑論(≒不可知論)それをあり得るかのごとく妄想し、
>「それはしかし知り得ない」のだ、などと無駄な観念の浪費をしているのです。
そうではなくて、不可知論の代表者カントによれば、主観から独立な客観的実在というものが「あるのかないのか」自体が「不可知」なんです。
「ある」と言うこともできないし、「ない」と言うこともできない。
だから、そういうカントの不可知論から見れば、主観から独立な客観的実在があるとする唯物論は、
「形而上学」(あなたの言葉で言えば「妄想」?)の一つです。
>>108のあなたの想定がまさに形而上学的だと思います。
>私は唯物主義者なので、主観に先立つ動的秩序がある、と考えるわけです。
>これなくして主観が整合性を伴って成立すると考えるのは、私には不合理に思われます。
「主観に先立つ動的秩序がある、と考える」という表現自体が、ちょっと面白い表現です。
「主観に先立つ」(つまり主観から独立な)ものをどうやって「考える(つまり主観によって考える)」のか?
そんなことはどうあがいてもできない(つまりそれが不可知論)から、カントは「われ思う」にまでしか遡らないんです。
「夢」についても、同じようなことが言えると思います。
主観から独立な客観的実在は、「ある」とも「ない」とも言えないのだから、
この主観的な世界が「夢のようなもの」である可能性はあります。
「真理」についての77さんの書き込みは、どうもはっきりしない…
あなたが
>>107で「超越的」ということについて、はっきり書けなかったことにもそれが現れていると思う。
唯物論というのは、主観から独立な客観的実在(「真理の世界」)を認める考え方ですよね。
77さんはそのへんの書き方が曖昧だと思いました。
148 :
77:2010/05/31(月) 23:43:51 0
>>147 思い違いもなにも、私はカントの解釈などしておらんだろ。
カントなんぞ純粋理性批判すら三行と読んだこたないわw
カントカント言われても知らんわい。
お前さんにとって、カントの言ってることがそんなに正しいのかね?
私はね
いかなる実在があろうと(なかろうと)も、
それは成立する主観と比較可能であるようには想定できない、
と言っとるのだよ。
「この主観的な世界が夢のような可能性があります」なーんて貴方は無造作に言うが、
それは「夢」のいかなる性質を指して言っとるのかね?
「犬は猫のようは可能性があります」と同じくらい意味不明。神様でも分からんわw
真理とか、超越とかは成り行き上口走ったにすぎん。
そんなもん、はっきり書けたら宗教の教祖になっとるわw
149 :
77:2010/06/01(火) 00:11:07 0
>「主観に先立つ」(つまり主観から独立な)ものをどうやって「考える(つまり主観によって考える)」のか?
>そんなことはどうあがいてもできない(つまりそれが不可知論)から、カントは「われ思う」にまでしか遡らないんです。
私はね
主観に先立つものがあると考える方が妥当だと言っているだけだ。
それについて何らの規定もしていない。
「我思う」まで遡るのはカントの勝手だが、
結局「懐疑する私」の正当性を保証するために神を要請する。
それが妄想でなくて何だというのだ?
150 :
考える名無しさん:2010/06/01(火) 00:16:34 0
151 :
77:2010/06/01(火) 00:40:36 0
主観に先立つもの=動的秩序
ああ、やっぱり規定してるね。はは。
その刹那、無規定では不都合だと思ったんだろうね、僕ぁ。。
たしかに、「動」とも「秩序」とも比較可能な何ものでもないのだろうなぁ。
しかし「動的秩序」とでも云うしかなかったのだよ。
まさに超越的に理解してくれ給え。
かねw
153 :
144:2010/06/01(火) 05:48:36 0
>>149 >私はね
>主観に先立つものがあると考える方が妥当だと言っているだけだ。
これだと懐疑論を理解している立場ですよ
みんな、そう思ってますから(苦笑
しかし妥当だという事は、先立つものは無い という可能性を理解している立場です
ちょっとくだらない話をしますが
昔の人は、大地は動かず、太陽や月や星が動いているのだと思っていました
いわゆる天動説というやつです
そう見えるのだから仕方が無い
私も今でも、そう見えます(笑
「太陽が沈む」なんて言いますしね
でも今は、理屈から考えて、地球も回っているのだ という事を理解しているわけです
人類は、何でも疑って疑って、突き詰めて突き詰めて考えていって
今日の科学が築き上げられてきているわけですよね
あなたもまさか、素朴な認識にのみ従って、天動説を信じているわけではないでしょう(笑
妥協せず、論理的に突き詰めていくと
どうしても「全ての認識は疑いうる」 という感じになるのですよ
続く
154 :
144:2010/06/01(火) 05:50:42 0
続き
あなたがこれから眠るとしましょう
夢の中で、「2ちゃんのヤツらはバカだなぁ」
「この、目の前にあるボールペンが無いかもしれないなんてさ〜(爆笑)」
と笑い転げたとしましょう
で、そのボールペンは実在しますか?
ありませんよね? 夢の中ですから
しかし夢の中では、その実在を確信し、疑わないでしょう
人間の精神構造など、そんなもんです
人間は、錯覚する生き物です
催眠術にかかると、犬を見て猫だと思ったりもするようですよ(笑
「ナンセンスだから」 と、短絡的に結論付けずに
論理的に突き詰めるのが、まじめに哲学する姿勢ではないでしょうか
そうすると
独我論も哲学的ゾンビも、水槽脳も、世界5秒前創造説も
理屈的に否定しきれない事が理解できるはずです
誰しも、ナンセンスなのは、わかっているのですよ
でも論理的に否定しきる事ができない という事を理解している
だから「可能性がある事に対して、可能性はある」 と正直に言っている
という事です
可能性が否定しきれない立場にありながら
単に「ナンセンスだ!」とか
「私は信じる!」とか「信じない!」 とかいうのは、私的な希望にすぎず
論理性の無い信仰、単なる個人的な信念だと言えるでしょう
論理哲学ではありません
155 :
77:2010/06/01(火) 07:16:03 0
>144
私は闇雲に狂信的感情的に「懐疑論などナンセンス!」と云っている訳じゃないですよ。
また
私は天動説と地動説のどちらも「信じて」などいませんよ。
地動説の方が万有引力と一般力学を適用可能であり、より合理的なわけです。
「信じる!」とか「信じない!」とか、くだらんですよ。私は信仰などしないのです。
私がどこかでそのような「私的な希望」を吐露しましたか?
「正しさ」なんてものがあると「信仰する」から、おかしなことになるのでしょう。
貴方の云われる懐疑論〜独我論〜世界五秒前創造説に至るまで、
これらの“哲学問題(?)”は最初から「問題の設定にごまかしがある」のです。
例えば水槽脳であれば、
・水槽内の脳と頭蓋骨内の脳がダブルスタンダードで使用されている。
・唯物論的な「この頭蓋骨内の脳」の機能を用いて、その都合のよいところを、
「水槽内の脳」にスライドさせている。
「この頭蓋骨内の脳」は情報でも夢でもあり得ない。
もしそうなら、「水槽内の脳」の想定など、最初からナンセンス。(水槽内の脳も夢)
「水槽内の脳」も夢だとする無限後退を容認するなら、前提となる脳の機能など消散する。
156 :
77:2010/06/01(火) 07:19:57 0
夢については、
主観内に於いて、夢と現実とが区別可能であるのに、現実を夢にスライドさせる行為はナンセンスだ、
と云っているのです。
また、貴方の意図を忖度して、(この忖度できるところが不思議なところだがw)
「疑似神目線(造語ですが)」に於いて、現実が夢(みたいなもの)であったりする場合には、
貴方は夢の中で夢を見た記憶があるはずだ、とは思われませんか?
私にはそのような記憶はありませんが。
「人間の精神構造などそんなもん」と言い切った時点で、貴方は「疑似神目線」で
人間を一般化しています。
「人間は錯覚する生き物」とか「ある種の常識」に都合良く立脚し、
意識レベルを相対化させることで似非懐疑の正当性に説得力(?)を持たそうとしている。
実に気持ち悪い。
157 :
144:2010/06/01(火) 09:15:32 0
>>155 >私は闇雲に狂信的感情的に「懐疑論などナンセンス!」と云っている訳じゃないですよ。
>
>また
>私は天動説と地動説のどちらも「信じて」などいませんよ。
>
>「信じる!」とか「信じない!」とか、くだらんですよ。私は信仰などしないのです。
うむ
しかし、信仰しないはずの貴方が
ではなぜ「全ての事は懐疑できる」という単純な事を、そんなにムキになって否定するのですか?
158 :
144:2010/06/01(火) 09:43:14 0
>>155 >「正しさ」なんてものがあると「信仰する」から、おかしなことになるのでしょう。
これは一般的な懐疑論よりも、更に強い懐疑でありますし
『「正しさ」なんてものがあると「信仰する」から、おかしなことになる』
という信仰を主張されているように見えるのですが
では何故あなたは、物事を懐疑する事に対して、そんなに反対するのですか?
159 :
144:2010/06/01(火) 10:06:11 0
水槽脳については、頭蓋骨など関係ないですよ
科学的に考えれば
人間は外界の情報を得る場合
外界そのものを感じる事はできません
感覚器が発する電気信号を、脳で変換して感じているだけです
それ以外には無い
とするならば
感覚器ではなく、何らかの装置で意図的に電気信号を送ってやれば
我々は、その環境にいるとしか感じる事ができないはずである
という単純な理屈が成り立つでしょう
これを否定できますか? という事です
160 :
144:2010/06/01(火) 11:42:25 0
まあ、夢だというのは例えばの話にすぎませんが
>貴方は夢の中で夢を見た記憶があるはずだ、とは思われませんか?
>私にはそのような記憶はありませんが。
と、おそらく夢の中でも
それが夢だと気づかないまま私に言うでしょうね(笑
夢にこだわっているようなので
これまた例えばですが
我々は今、仕組まれた超リアルなオンラインゲームをしているのかも知れないじゃないですか
それを、どうやって否定できますか?(笑
>「人間の精神構造などそんなもん」と言い切った時点で、貴方は「疑似神目線」で
>人間を一般化しています。
>「人間は錯覚する生き物」とか「ある種の常識」に都合良く立脚し、
>意識レベルを相対化させることで似非懐疑の正当性に説得力(?)を持たそうとしている。
>実に気持ち悪い。
なんだかよくわかりませんが、私は単にいろいろな角度から考察を重ねていますし
わかりやすくと思って、いろいろな表現を使ったりします
ここでは、人間は錯覚したり思い込んだりする事が、あるのかないのか
それを言っているのです
しかし貴方は、私の表現の方に着目してしまって
話の筋道から外れてしまっています
感情的に「気持ち悪い」と言って話をすり替えているだけだけではありませんか?(苦笑
161 :
77:2010/06/01(火) 11:57:29 0
>>157>>158 ムキにならないとつまらんでしょ。
踊る阿呆を見て嗤えばよいのですよ。はっは
私はね、
その「全ての事は懐疑できる」とは、全ての事のいったい何を疑っとるんだ?
と、こだわっているのですよ。
それが神に保証された(かどうか不明だが)「正しさ」「確かさ」とかであるなら、
それはいかなる妄想によっても「想定不可能」です。
懐疑論はありもしない亡霊、蜃気楼を有り得るかの如きに設定した(疑似)問題であり、
そんなものは方法論としておかしいだろ、
と思う訳ですよ。
162 :
77:2010/06/01(火) 11:58:28 0
犬と猫の話ばかりしますけど、
犬の犬としての確かさとか、何ですかねそれは、と思うわけです。?
犬が犬であることを懐疑するとは何事か?
二人以上の人間(主観内では私と一人の他人)がこの犬を犬として認知すれば、
犬は犬として「成立する」。
この犬が犬でない可能性、とはいかなる事態を妄想しているのか?
神が「これは犬ではなく猫だ」、と言ったところで名前が変わるだけで、
「主観に成立したこいつ(元犬)」のありようには全く関係ない。
「この犬は実は5本足だ」と言われたとする。
なら、目の前の4本の足(との対応)はどうする気なんだ?
「足」と言ってしまったら、それはもう「現状成立しているこの足」以外ではない。
「いや、その足ではない」とか言いだしたらもう全くナンセンス。(いやいいですけどね)
4本の足に対応する5本の足が同時に存在する世界を想定するなど不可能。
足のダブルスタンダードによる倒錯的SF世界でしかない。
いったい、いかように懐疑してるのだ?
「これがこうでなくて、どうであり得ると思えるのだ?頭おかしいのか?ムキーっ!」
・・・ぐらいの感じですか。
まあ、冷静に省みれば、私がSFオカルト嫌いなのでムキなってるのでしょうw
163 :
77:2010/06/01(火) 12:05:51 0
>>159 感覚というのは、その人の行為の履歴に対応して成立するものでしょう。
つまり、自分で頬を殴れば痛いし、
目を瞑れば見えなくなる。
そのような環境と意思、行為との関係に於ける来歴とともにある。
その電気信号発生装置は、神経インパルスから私の行為を事前に計算して
錯誤のないように信号を作成するのですか??
空論でしょう。
164 :
77:2010/06/01(火) 12:19:15 0
>>160 >>貴方は夢の中で夢を見た記憶があるはずだ、とは思われませんか?
>>私にはそのような記憶はありませんが。
>と、おそらく夢の中でも
>それが夢だと気づかないまま私に言うでしょうね(笑
貴方が何が言いたいのかよく分からないのですが。
私が言いたいのはですね、今現在、現実と夢が区別できるこの現状があるわけです。
で、この現実が夢のようなもの、というのは意識世界の(無限の)階層構造のようなことを
考えてるのでしょ?(違うなら修正してください)
つまり、今は夢をみてるようなものかもしれない、というのでしょ?
そのようなことが可能であるなら、夢の中で夢を見る状況を想定できるわけです。
私は現実に、時間的に整合性のある夢、つまり寝ていた時に見ていたと判断できる夢
を見たことを知っている訳です。
私はその無限階層のどのレベルにいてもいいわけですが、なぜ、その夢しかないのか。
この階層構造に於いては、夢を見る夢を見る・・・自分を認知できるでしょう。
なぜできないのか?
と云いたいわけです。
165 :
77:2010/06/01(火) 12:23:43 0
>なんだかよくわかりませんが、私は単にいろいろな角度から考察を重ねていますし
>わかりやすくと思って、いろいろな表現を使ったりします
>ここでは、人間は錯覚したり思い込んだりする事が、あるのかないのか
>それを言っているのです
>しかし貴方は、私の表現の方に着目してしまって
>話の筋道から外れてしまっています
それはお互いさまでしょう。
貴方も、私的な希望がどうとか、短絡的とか、ムキになっている、とか
根拠もなくどーでもいいこと言っとるじゃん。
166 :
77:2010/06/01(火) 12:28:25 0
>仕組まれた超リアルなオンラインゲームをしているのかも知れないじゃないですか
仕組んだのは誰だとは訊きませんが、いかように仕組んであるのよ?
考えた上で、それが可能だと思うわけですか?
167 :
77:2010/06/01(火) 12:42:54 P
あと、「気持ち悪い」と言ったのは個人的な感覚の吐露であり、
私の感性の表明でもある。
貴方の思考を否定も攻撃もする気など無かったのですよ。
ごめんちょ。
168 :
144:2010/06/01(火) 13:12:29 0
>>161 >私はね、
>その「全ての事は懐疑できる」とは、全ての事のいったい何を疑っとるんだ?
>と、こだわっているのですよ。
べつに無意味に、積極的に疑わねばならぬ という事でもないですよ
「疑いうる」という論であり、それを理解できれば済むことです
>懐疑論はありもしない亡霊、蜃気楼を有り得るかの如きに設定した(疑似)問題であり、
>そんなものは方法論としておかしいだろ、
>と思う訳ですよ。
おそらく貴方は懐疑論を
「科学を否定する思想か宗教」みたいに考えているようですね
しかし、あくまでも論理的に突き詰めた場合の論理的な話です
なにも空想をでっちあげて主張するような、とんでもSF思想を推奨する論ではありませんよ(苦笑
169 :
144:2010/06/01(火) 13:13:28 0
>>163 >感覚というのは、その人の行為の履歴に対応して成立するものでしょう。
>つまり、自分で頬を殴れば痛いし、
>目を瞑れば見えなくなる。
>そのような環境と意思、行為との関係に於ける来歴とともにある。
いいえ違いますね
科学的に言えば
感覚というものは
感覚器から脳に送られた電気信号を脳内で変換したものです
>私の行為を事前に計算して
事前である必要はないでしょう
脳から手を右に動かす信号が出たなら
それと同時に、瞬時に全身の感覚器が送る信号と全く同じ信号を送れば
例えば右手が無くとも、右手を動かしていると錯覚する以外にないでしょう
まぁ技術的には、とても有り得るとは思えませんが
理屈としては、そういう事になります
170 :
144:2010/06/01(火) 13:45:50 0
>>164 あなたは夢の中で「夢の中で夢は見ないから、これは夢だ」と気づく事ができるわけですか?
通常は夢の中でも「夢の中では夢は見ないから、これは現実だ」と思うんじゃありませんか?
という事ですよ
>>165 >それはお互いさまでしょう。
>貴方も、私的な希望がどうとか、短絡的とか、ムキになっている、とか
>根拠もなくどーでもいいこと言っとるじゃん。
う〜む・・・
また、そこじゃないんですよね・・・
「ここでは、人間は錯覚したり思い込んだりする事が、あるのかないのか
それを言っているのです 」
議論の内容は、ここです
>>166 べつに可能とかそういうレベルの話じゃないんだけど
科学がいくら進歩しても、それは絶対に不可能だ と言える根拠もないでしょ
唯物論を信じているなら、物理的に精神をコントロールする事も、いずれ可能だと考えて妥当なんじゃないんですか?(笑
懐疑論者のくせに饒舌かつ確信に満ちてるんですねw
172 :
考える名無しさん:2010/06/01(火) 14:05:17 0
、--ニニ二´ ̄ヽ`ヽ、
ヽニニ二二ニニ(-、,、,ノ,`7
Z-―--,-/`. -_、 `Y) _, -‐-- 、 ___
`ヽ-l ミノ`'. i'U`' ,ノ , -'´ 、 ____ 、_ ` ‐、
lミ!'`i . ヽ _ /フ´ '-、ミli`´`、'' '―'’
.l' 、. ,ィ'ニア/´ , - l i 、 ヽ__..ノ
ノ ヽ、!=-'/_, -テ- 、_ __....... 'フ/ 、\`>ニ二=、_イ...ノ
_,ノl_〉,.... -‐フ´.`/'´ / `'''´ ゝミ_-シ//
_, -'´//l' `'l ./ .l / `''-ニ/
./ / /_,-l 〉_ノ| /-、_, - ' l _, - ' ´ ̄
/ / フ' l'./ .l .y 。`、 | __, - '´
/ .l .〈. |' l/ / l __, --' ´
.ノ l' l | / _,/,----、 ヽ , - '´
/ | | .|./ _/ ゝ_ _/
┌‐────┐ ./ 7'
│ ナルホド |o /
├───‐─┴────────────────────────
|裁判長!目標スレと同じ腐臭がします!
|以上をふまえて自演スレ認定いたしますっ!!!
└─────────────────────────────‐
173 :
144:2010/06/01(火) 14:16:46 0
>>171 懐疑論者って何? 誰?(爆笑
全てについて
一切、懐疑しない という人も珍しいと思うが(笑
まぁ
キミらのように、懐疑論を懐疑する ってうのは、これは何と言うのかな(笑
最高位のまねごとはやめた方がいいぞ>ラビたん
>>144 通りすがりのものですが、
理解できないひとにわからせようとしても無駄ですよ。
あなたはわかっている。やりとりをちょっとでも見ればすぐにわかることです。
176 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2010/06/01(火) 14:57:54 0
177 :
77:2010/06/01(火) 15:26:58 P
>最高位さん?
私のコテハンは抄録です。
よければ暇つぶしの相手になりましょう。
>>175 あたしはものわかりが悪いのでね。
しかし懐疑論など子供の麻疹みたいなもんだw
178 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2010/06/01(火) 15:56:43 0
>>177 144が、私ね
でも、そろそろ離席しなきゃなんで、また
179 :
77:2010/06/01(火) 15:57:09 P
>>168>>169 >おそらく貴方は懐疑論を
>「科学を否定する思想か宗教」みたいに考えているようですね
そんなこと考えてませんて。すごいプロファイルですね。
私とて論理的に考えた結果、無意味だと言っているのです。
>科学的に言えば・・・
神経組織の間を伝わるのは神経伝達物質としてのイオンでしょう。
(結局は電流が流れることになるのだが、)
電流により神経細胞を自由に制御できる可能性は「ない」でしょう。
電子計算機は電位差を情報単位としているが、
神経組織の場合、情報単位として何が働いているかどうかは不明。
やみくもにすべての原子配置なんかをを解析、制御しようとしても(できないけど)、
神経組織を構成する物質の持つ情報と同等の情報を電流・電圧により制御するなど原理的に不可能。
それは、物質は物質によってしか成立せず、情報の集合では構成できないから。
将来いつかはできるだろう、と夢は見る自由はあるわけですが。
>事前である必要はないでしょう ・・・
あ、これはそうですね。
通りすがりのものですが
お二人とも変わりませんねw
181 :
77:2010/06/01(火) 17:44:06 0
>>170 >「ここでは、人間は錯覚したり思い込んだりする事が、あるのかないのか
>それを言っているのです 」
>議論の内容は、ここです
もちろんあるでしょうが、
懐疑論とはそんな(錯覚、思い違い、の)話ですか?
ここが貴方の言いたいポイントでよろしいですか?
そして通りすがりさんも、この理解だということですね。
つまり「真理」という概念に意味がないのなら
「懐疑」という概念にも意味があり得ない、というようなことか。
んなことは無いんじゃない?
突然私が世界Aから「目が覚めて」、世界Bでベッドから起き上がったとしたら
その世界Bが「真理の世界」かどうかに関わらず、この世界Aは偽物の
世界だったってことになるよな。
懐疑する必要が無い、というのは、単に思考停止しているだけでしょう…。
懐疑論は、懐疑する事によって「確かなものが無い」という論であり、
それに対しどう思うのか、ってのが議論でしょう。考える必要も無い、というのは
単に考えるのやーめたって事でしょう。
「懐疑したく無いわ、だから懐疑論なんて成り立たない」
そう言われたら、お前は何を言ってるんだと言うしか。
それは否定というよりは拒否でしょう。
185 :
77:2010/06/01(火) 20:22:18 0
いや、あたくしもね、ようやく最近、哲学の用語集を買いましてね、
「懐疑論」の項目なんかを読んでみたわけです。
そうすると、まあいろいろ書いてある訳ですが、
一番上に書いてありますのは
「普遍的な真理を確実に捉えることは人間にとって不可能である」とする説。
なんて書いてあるわけです。
それで私は、
確実に捉えるって、何をもって捉えたことになるんじゃい?
捉えた「正しさ」「確かさ」とはどこにあるのと思って書いとるの?
・・・と感じて
ここで思うところをぶつけてみたんですが、
まあ錯覚を認めろぐらいの話なら興味はない。
186 :
考える名無しさん:2010/06/01(火) 20:23:11 0
>本当は、神から見た世界など「もとからあり得ない」のです。
>懐疑論(≒不可知論)それをあり得るかのごとく妄想し、
>「それはしかし知り得ない」のだ、などと無駄な観念の浪費をしているのです。
これは真理を否定する言葉ですが、その後に真理はあるのが妥当と言ったり、
77は矛盾しているわけです。そして疑う必要が無い、意味が無いとも言ったりしてますね。
共通してそうなのは、懐疑に対する「無駄」という考え方です。
「懐疑は無駄である。だから、その理由があるはずだ」というのが77の考えの原点では無いでしょうか。
だから言葉に矛盾が出るし、場当たりな発言になりがちになる。
>結局「懐疑する私」の正当性を保証するために神を要請する。
これは完全に見当違いですね。何故こういう考え方に終始するのかというと、
彼自体が神を否定したくないからでしょう。
>>185 >「普遍的な真理を確実に捉えることは人間にとって不可能である」とする説。
>確実に捉えるって、何をもって捉えたことになるんじゃい?
どっちも真理を捉えることは不可能という話でしょう…。
意味が分からないのは、それで懐疑論を否定している事になっていることです。
もしくは違うことを言いたいのかもしれませんが、結論がよく分からない。
188 :
77:2010/06/01(火) 20:37:51 0
神から見た世界とか想定不可能なのよ。
なので成立する主観に対しての比較可能性が無い、と言いたいのよ。
そこで真理を否定するところまではしていないのですよ。
懐疑が無駄なのではなく、懐疑論の設定が無効だ、と言っているのよ、あたしゃあ。
まあデリケートな話で、これ以上はごり押しせんよ。
好きにいじくれw
77の主張がとうも見えない。
私の理解では、77は懐疑論は成立しないという持論を持っているということになってますが、
まずそこは合ってますか?
合っているなら、その理由を1度、1から説明してみてもらえませんか?
190 :
77:2010/06/01(火) 20:41:45 0
>彼自体が神を否定したくないからでしょう。
おまいさんは、スピリチュアルカウンセラーか
>その理由を1度、1から説明してみてもらえませんか?
無理wwwwwwww
そろそろ働きます。内職だけど。
懐疑論の設定が成り立たないって反論がそもそもおかしいんですよ。
何故懐疑論があるのかというと、大概の人が真理や実在を有ると信じているからで、
それを否定するために懐疑論があるんですよ。
真理を否定するためにあるのに、真理が無いから成り立たないって発想はどこからくるのか。
真理が無けりゃ成り立つでしょ。否定になってないがな。
>>191 彼自身説明は無理って言ってるんだから直感で反論してるんじゃないの?
やけに「信じる」こととか「神による」とか言ってるし。
神から見た世界と真理を分ける理由も分からない。
それぞれ何を意味しているんだ?神から見た世界は無くて、真理は妥当というが
どっちも意味としては多分同じ物だろ…。真理は無いけど有ると言ってるようなものか。
結局、かなり最初の考え方で矛盾が出来ているんじゃないかと。
194 :
77:2010/06/01(火) 21:19:45 0
いや、神は世界を見たりはしないのだ。完全に無規定でしょう。
まあ神などいないのだが、何故か要請される。不思議じゃのう。
あと、我々が成立している以上、真理はあるとしかいいようがない。
195 :
77:2010/06/01(火) 21:33:42 0
成立する主観は知識の系として孤立しているのですよ。
主観の力により懐疑もできるわけだが、
それは主観として成立する内容に限られる。
唯物論的には、実在世界に於いて限定された存在(≒モノコトα)の
振る舞い(ほんとは無規定であるはずだが)により主観が成立するとするのだが、
この「ある存在の振る舞い」は存在の構成・来歴により規定を受けるだろう。
人間同士が有効に連絡可能であることも、唯物論と矛盾がない。
この成立する主観の全体は主観にとっては「世界そのもの」となってしまう。
ある主観にとって成立する「知り得ること」とは主観に属するので、
その意味で、主観世界の全ては知り得る。
成立しないものはもとから「知識ではない」
そこにおいて「主観は主観にすぎない、客観ではない。」
とか主張するのは、何かおかしいんじゃないの?と思ったわけさ。
客観とはなんぞね?それは想定可能な何ものかなのか?と
・・・俺もしつこいよな。はは。。。もうほんとにやめ。
懐疑論者のくせに感情的になるんですねw
>>195 らちがあかないな。。。 こちらからの質問形式にさせてもらおう。
「私の考える懐疑論」は以下のような論理で成り立っている。
1.我々は、自分が今いる世界が偽物ではないことを証明不可能である。
2.これは、今いる世界は偽物だと疑うことが可能だということである。
3.この世界が偽物だと疑えるということは、
この世界で自明である論理(1+1=2など)も偽物だと疑えるということである。
4.よって、全ての事柄は懐疑可能である。
さて、77氏はこれを間違っていると主張するかい?
そうした場合、このどの部分が、どのように間違っていると主張するんだい?
198 :
NAS6 ◆YbjyWDyXSc :2010/06/01(火) 23:23:34 0
>>1 ヤアヤア、遠からん者は音に聞け、近くばよって目にも見よ。
我こそは源頼光公が後裔、浅野弾正小弼長政なるぞ、
我と思わんものはいざ組まん、いざ組まん
199 :
77:2010/06/02(水) 00:19:03 0
>>197 もうええじゃろ。。。
哲学なんぞ、どうやったって埒があかないもんよ。
あーでもない、こーでもないと。
「偽物」であるとかないとか、それを判断する何らかの基準がいるだろう。
それが想定できないのであれば、もとから「回答の無い問い」だろう。
そしてそのような問いには意味がない、というのが私の立場ということか。
成立する主観にとって1+1=2が計算に有効であれば、
その時点で完結している。
1+1=2について想定され得る偽物性そのものが、もとからない。
数学は主に、理解可能に計算できるか、が問題なのだ。
理解できるかどうかは所与として理解が成立するかどうかに掛かっている。
そこにもはや理論は無い、が、真理はありそうだ(唯物論的な構造に於ける真理でしかないが)。
この世界との繋がりを飛び越えて、「あの世界」をぼんやり空想しても仕方ないとは思うが。
妄想する自由はあり、その自由性が懐疑論というなら、それもよかろう。
200 :
ポエム:2010/06/02(水) 00:23:30 0
似せ(偽)ではなく本物の世界とどのように違うのか。
疑わしい点を挙げないと、「疑える」ことにはならないよ。
妄想は好きにしてくれ。
201 :
NAS6 ◆YbjyWDyXSc :2010/06/02(水) 00:35:08 0
真理
TRUE or FALSE
まこと か うそ か
要するに自分の見たままを述べればいい
お金は作られたものしか買えないから自分で作るのならば必要ないんです
>>199 これはもう、まともに話をする気は無いという理解をせざるを得ませんね。
もう貴方の話には二度と付き合いません。
本当にありがとうございました。
203 :
考える名無しさん:2010/06/02(水) 01:09:35 0
証拠・根拠をまったく示せないのにあれこれ疑うのは「無闇なこと」
糸口が皆無なら結論を見いだせない事はすでに分っている
それが分っていて徒に思いをめぐらすのは妄想と呼ばれます
問題にならないことである
204 :
NAS6 ◆YbjyWDyXSc :2010/06/02(水) 01:23:29 0
普遍的な真理
排中律
命題
(B∧¬B)¬⊂A
AにBかつ非Bは含まれない
ベンズ(A(¬B(B)))はない
対偶
A⊂(B∨¬B)
Bか非BにAは含まれる
ベンズ(¬B(A)(B(A')))はあり
205 :
NAS6 ◆YbjyWDyXSc :2010/06/02(水) 01:32:58 0
ゆえに
A⊂(TRUE∨FALSE)
206 :
考える名無しさん:2010/06/02(水) 02:07:47 0
なんのための懐疑論?
207 :
NAS6 ◆YbjyWDyXSc :2010/06/02(水) 02:23:24 0
(A∨¬A)
↓
A⊂(TRUE∨FALSE)
↓
A⊂(B∨¬B)
↓
A⊂(B⊂(TRUE∨FALSE))
↓
A⊂(B⊂(C∨¬C))
0=φ
1=0+=φ∪{φ}={0}={φ}
2=1+=1∪{1}={0,1}={φ,{φ}}
3=2+=2∪{2}={0,1,2}={φ,{φ},{φ,{φ}}}
208 :
考える名無しさん:2010/06/02(水) 02:30:25 0
こんな糞みたいなものいらない
209 :
NAS6 ◆YbjyWDyXSc :2010/06/02(水) 02:42:30 0
0=φ
1=0+=φ∪{φ}={0}={φ}
2=1+=1∪{1}={0,1}={φ,{φ}}
3=2+=2∪{2}={0,1,2}={φ,{φ},{φ,{φ}}}
0=TRUE
1=0+=TRUE∪{TRUE}={TRUE}=FALSE
2=1+=1∪{1}={TRUE,{TRUE}}={TRUE,FALSE}
3=2+==2∪{2}={TRUE,{TRUE},{TRUE,{TRUE}}}={TRUE.FALSE,{TRUE,FALSE}}
代数なんだから記号なんてどんなんでも
210 :
NAS6 ◆YbjyWDyXSc :2010/06/02(水) 03:00:14 0
50%の確かさ
0=TRUE=50%TRUE
1=FALSE=50%TRUE
2={TRUE,FALSE}=50%TRUE
3={TRUE,FALSE,{TRUE,FALSE}}=50%TRUE
211 :
NAS6 ◆YbjyWDyXSc :2010/06/02(水) 03:04:39 0
バッカ科学は反証可能性だろ50%正しい
212 :
NAS6 ◆YbjyWDyXSc :2010/06/02(水) 04:52:52 0
半分正解=全回答
W=J/s
あれ?エネルギーも電力も表わされているんじゃん
P=VI=I^2R=V^2/R
W=∫A→BFtds=mvb^2/2-mva^2/2
あれれ?つうことは質量と電荷の関係が丸見えじゃないですか
トンデモの見分け方
・語尾が「〜じゃろ」「〜じゃ」など爺用語を用いる
>証拠・根拠をまったく示せないのにあれこれ疑うのは「無闇なこと」
>糸口が皆無なら結論を見いだせない事はすでに分っている
これが懐疑論の否定だとするならちゃんちゃらおかしい。
懐疑論は普遍的な客観性などを否定するものであって、
>糸口が皆無なら結論を見いだせない事はすでに分っている
これは懐疑論を後押しする言葉である。問題は、この言葉であたかも
懐疑論を否定出来ている錯覚に陥る人がいることだ。第一に懐疑論が何を論じているかを把握していない。
215 :
考える名無しさん:2010/06/02(水) 21:50:57 0
>懐疑論を否定出来ている錯覚に陥る人がいることだ。
>第一に懐疑論が何を論じているかを把握していない。
>>197の妄想に対する反論であって懐疑論にではない
キミの早とちりです
キミは「錯覚に陥る人がいる」と言っているわけで、
「偽物世界論」に同調しているわけではないよね
216 :
NAS6 ◆YbjyWDyXSc :2010/06/02(水) 22:30:27 0
V=[J/C]
I=dQ/dt=[C/s]
P=VI=[(J/C)/(C/s)]=[J/s]=[kgm^2/s^3]
E=(1/2)mv^2=[kgm^2/s^2]
W=dE/dt=[kgm^2/s^3]
P=W=dE/dt=d((1/2)mv^2)/dt=VI=d(VQ)/dt
F=(1/2)mv^2=QV=[J]=[kgm^2/s^3]=[CJ/C]
電荷に電子を置く相対性理論で1/2はなくなるらしい
F=mec^2=eV
電子質量me=9.1*10^-31[kg]
光速度c=3.0*10^8[m/s]
電子ボルトeV=1.6*10-19[J]=0.5[MeV]
F=mec^2=eV
F=9.1*10^-31*(3.0*10^8)^2=8.2*10^-14=1.6*10^-19V
V=8.2*10^-14/1.6*10^-19=5.1*10^5[eV]=0.5[MeV]
エネルギー=質量*速度^2=電荷*電圧
217 :
NAS6 ◆YbjyWDyXSc :2010/06/02(水) 23:02:12 0
このネタ釣れないのかなぁ?
懐疑論スレで怪しげな数式
馬鹿低能が頑張って議論するにはもってこいのスレではある
219 :
考える名無しさん:2010/06/02(水) 23:08:22 0
気にはしても、食らいつくほどの餌ではないっしょ
馬鹿が馬鹿なりに議論してると
馬鹿低脳にも及ばない蠅が集る
221 :
考える名無しさん:2010/06/02(水) 23:13:16 0
いいえ蝿についたウンコです
222 :
NAS6 ◆YbjyWDyXSc :2010/06/02(水) 23:49:43 0
エネルギー=質量*速度^2
アインシュタインの先生が頑張って計算したね
エネルギー=電荷*電圧
これはそうだね
で、質量*速度^2=電荷*電圧
なんで単純に等式が成り立つのか気になる
当然?おかしい?
>>222 懐疑論とただ単に馬鹿低能のコテが「疑いを懐いている」というのと
違うという事がよく分かる。
224 :
しゅらけん ◆YuItXftEEs :2010/06/03(木) 00:03:12 0
225 :
NAS6 ◆YbjyWDyXSc :2010/06/03(木) 00:26:57 0
それなら
鉄球質量m
鉄球速度v
鉄球電荷Q
鉄球電位V
F=(1/2)mv^2=QV
も成立するのかな?
>>225 ちょと気の利いた物理学の教科書にお前の求める答えはかいてあるぞ低能
227 :
NAS6 ◆YbjyWDyXSc :2010/06/03(木) 00:41:52 0
F=q(E+v×B)
かな?
物質と電荷の境がないね?
物質=電荷?
228 :
NAS6 ◆YbjyWDyXSc :2010/06/03(木) 01:05:53 0
ピカピカーッ
ポケモンゲットだぜーーー!!
>>227 なんか、一回すべったギャグの笑い所を自分で説明してるような寒さだな
230 :
NAS6 ◆YbjyWDyXSc :2010/06/03(木) 01:50:45 0
ここは2ちゃんねる
231 :
NAS6 ◆YbjyWDyXSc :2010/06/03(木) 02:30:02 0
>>215 そういう論法は面倒なんですよ。>197のレスに対する反論にもなってない。
それならば、その懐疑論の解釈はおかしい、というべきだろう。
疑うことが無闇とはどういう事か。これは懐疑論そのものに対する反論だろう。
それ以外の意味があるのか。しかし懐疑論への反論では無いと言う。
「私の主観は誤りが無い」という考え方なんだろうけど、それならそうはっきり言えば良い。
「私」が見る世界には誤りも無いし、全て真理に通ずる物であると。
なんでそこをストレートにレスしないのか不思議ですね。
233 :
197:2010/06/03(木) 22:46:03 0
>>203 コールされていたのに気付きませんで、すいません。
>証拠・根拠をまったく示せないのにあれこれ疑うのは「無闇なこと」
>糸口が皆無なら結論を見いだせない事はすでに分っている
>それが分っていて徒に思いをめぐらすのは妄想と呼ばれます
>問題にならないことである
確かにそれは「無闇なこと」 で「妄想」と呼ばれるもので「問題にならない」ことです。
ですがそれと「世界は偽物だと疑うことが可能」というのは
全く問題なく両立できます。
「馬鹿げた考えだが、完全な否定はできない」って話ですね。
ですから
>>203の意見を受け入れても、
>>197のロジックが成立するのに
なんら問題はありません。以上。
234 :
考える名無しさん:2010/06/04(金) 00:45:13 0
>その懐疑論の解釈はおかしい、というべきだろう。
懐疑論(あるいは懐疑主義)にたいする解釈の誤解があると指摘する前に
「根拠・理由が無く疑うのは、懐疑ではなく、妄想という」と指摘したかっただけだがな
>「世界は偽物だと疑うことが可能」
私的に疑うことは否定できない、てか否定しないよ。
235 :
考える名無しさん:2010/06/04(金) 01:37:09 0
1.「我々は」とある。つまり自分を含めて、人間一般ということか?
2.「世界が」とある。これは地球上の「人間社会」のことを示すのか?
3.「今いる」とある。以前いた世界について記憶しているということか?
4.「偽物」とある。本物に似せた作り物ということであろう。
誰かが何かしらの目的があって、自分に「本物っぽい世界」を見せているのだ。
5.「疑うことが可能」とはどういうことか?
「本物を知っているけど、どうも違う」という根拠のある疑いではなく、ただ漠然と
「そういうことってありうるかも」と妄想することは自分にもあるが、そういうことか?
6.「疑う」と「疑える」とは違うのだと思う。
「疑える」とは「このような可能性を他者に主張し得る」ということではないか。
「疑うのは勝手」だが「可能性を主張し得る」となれば、根拠・理由を示す必要がある。
でなければ否定できるかどうかの議論にならないのではないか。
7.議論するとなれば「主張する相手がいる」のでなければならない。
しかし、自分をのぞく世界中の存在が「偽物」であるなら、何も主張しえないだろう。
236 :
考える名無しさん:2010/06/04(金) 01:57:27 0
間違いであれなんであれ、「本物の世界」について知らないと
「偽物の世界ではないか」という懐疑には繋がらないんだよな
疑っても(いろいろな可能性を思い考えても)仕方がない(発展性がない)
まあ、「普遍性を見いだす」認識力には限界があるのだと考えれば、
おのずと懐疑主義になるのだろうが
237 :
考える名無しさん:2010/06/04(金) 17:50:20 0
>>233 実際、貴方が懐疑できているかどうかも証明できないわけで、
貴方のロジック(?)によれば
自分で懐疑できているかどうかも懐疑できるわけだから、
懐疑できていない可能性もある。
破綻してるじゃん。
7.0 懐疑論者は沈黙しなければならない
真偽懐疑論
正しい世界の判別はできないから間違った世界の判別はできない
正しい世界の判別はできないが世界が違うことは判別できる。正しい世界は判別できないので
どちらかが間違っていることになる。
「全ては懐疑できる。この質問も懐疑できる。」
これは破綻している。
↓
つまりこれは
「この質問」は正しくない可能性がある。
…
は正しくない可能性がある。
は正しくない可能性がある。
は正しくない可能性がある。
…
という質問文が成立しないと言っている。
その理由はなんだろう?
>1
そもそも否定する必要はない。
哲学は懐疑論を否定する必要が無い。
だから現代ではそれを否定する議論は普通哲学者は行なわないし
有能な哲学者はもっと有益と思われる議論をして
哲学の果実を引き出している。
まあ頭の悪い子のおしゃぶりみたいなスレですなここは
まあ、お前さんが言えるのはそれが精一杯だろうて。
>>242 反論できないなら書き込む必要もないでしょ
頭の悪い子だねえホントにw
>>243 君のレスには反論する内容なんかないし。
頭も悪そうなの丸出し。
245 :
考える名無しさん:2010/06/04(金) 23:24:52 0
哲学とは流行を追うファンションなのか...
>>245 いや少なくとも懐疑論なんかに
まともにとりあわない知性を持ち会わせているだけ
知的障害のある人の行動を真似しないのは
「ファッション」とは言わないでしょう
いや、君たちは好きなだけ議論を続けていいんですよ
どうぞ
248 :
考える名無しさん:2010/06/04(金) 23:41:47 0
>>246 それでも参加すればこその果実がある
「懐疑論」は御題、きっかけであればよいでしょう
哲学は自らよりえぐり出さねば何も引き出したことにはならないでしょう
横目で覗きながら鼻で笑ってみるだけではつまらないでしょう
知性に価値を置く時点で前時代的じゃね?
その考え方こそ、現代の哲学が叩き崩さねばならない古典である
頑迷で偏狭な古典は壊し、束縛からの解放へ向かうのが哲学の務めだヴぇ
>>249 いや価値なんかおいてないんですよw
ただ、頭がいい人はなぜかそんな議論をやってないっていうだけで…
私は知能が高い人も知的に障害がある人もどうように価値があると思いますよ
だからさあ思う様懐疑論に関して不毛な、いえ失礼しました。
極めて得有益な議論をお続けあれ…
例えば学問的な先端の議論と
知的障害者が自分の知力を振り絞って行なう作業所での作業と
両者に価値の違いは無い。
だからこのスレで懐疑論に関して皆さんが知恵を振り絞って議論する事は
全く価値のない事ではない。
頑張って議論して下さい
>>250 有益だの無益だの言ってる限り、前時代的だろ…
ガリレオを焼き殺そうとハッスルしてた古典主義者と同じ輩
254 :
235:2010/06/05(土) 00:31:53 0
「証明する」とはどういう事か。
証明を求めているのが誰で、誰に証明しなければならないのか。
自分への証明であるとすると、それは自分が納得するような証明であろう。
すると自分は「証明が成り立つ必要事項」を知っているのでなければならない。
「そもそもどうしたら納得のいく証明が成立するのかさえ分らない」のなら、
「証明はどうしても不能である」という自らの判断は矛盾しているのではないか。
255 :
235:2010/06/05(土) 00:56:44 0
補足
「ここは偽物の世界ではないか」という疑いが
何ら根拠のないものであればただの思いつきであろう。
「ただの思いつきではない」という証明もないのである。
身分であれ、数学の証明であれ、
およそのルールがあって「証明が成り立つ」。
ルールを見いだせなければ、そもそも「証明の試み」ができない。
「証明の試み」ができなければ、「証明は不能」という判断もない。
256 :
考える名無しさん:2010/06/05(土) 01:09:13 0
>>254 >>255 まあこんなこといってると自分が馬鹿だということを
一瞬忘れる事ができるよね
釣とかと同じ、いいストレス解消の趣味ですよ
257 :
考える名無しさん:2010/06/05(土) 01:17:07 0
>>256 「内面透視しちゃたもんね」のオカルト君ですか
そういうキミも自分が馬鹿だということを 一瞬忘れる事ができたかな
たがいに幸あれ
>>256 そりゃそうだよ
君は2chに何しに来てるの
259 :
考える名無しさん:2010/06/05(土) 01:25:20 0
>>258 そういう反応いいなぁ
「馬鹿だということを 一瞬忘れるため」という目的があらかじめ意識されていて
このようにいちいちレスしているのではないが、結果的に「バカな自分」を忘れてるよ
260 :
考える名無しさん:2010/06/05(土) 01:38:50 0
>>255 抄録さん、意味無くハンドル使い分けるのやめたら?
その考えもってるのはこのスレじゃ貴方だけなんだし。
262 :
考える名無しさん:2010/06/05(土) 01:44:37 0
263 :
考える名無しさん:2010/06/05(土) 01:46:44 0
>>258 まあゴルフだってプロには勝てっこないのに
ヘタクソがコースに出て棒でボールをひっぱたくわけだし、
頭悪いのが集まって
哲学者も議論しない事をこんな学問板とか気取って議論まがいの行為をする趣味はありかもね。
かまってちゃんか・・・
>>254 例えば人は真理の証明を求めている。「本当はこうである」、「正しいのはこうである」と。
明確な正しさを、客観的に証明された真理を必要としている。
しかし、そういった客観性は証明出来ない。つまり真理も無い。それだけの話だろう。
>「そもそもどうしたら納得のいく証明が成立するのかさえ分らない」のなら、
>「証明はどうしても不能である」という自らの判断は矛盾しているのではないか。
…素朴な疑問なんだが、証明が成立しないなら証明不能って事だろ?
将来的に証明方法が分かるかもしれないって事?懐疑論に関して言えば、そういう類の話じゃ無いぞ
懐疑論は否定するものではない
なぜなら姿勢、態度だから
「疑いたければどうぞどうぞ」という世界
これがリモホ。
「あそこに林檎がある」ってのを証明しようとしてる時に、
「林檎があるかどうかを証明する方法が分からない」ってなったら、
それはつまり証明出来ないって事だ。
「あそこに林檎があるかどうか分からない」ってなった時も、
やっぱり林檎があるって証明出来ない。
「私は林檎を掴み、食べている。証明出来ない事に意味は無い」って考え方なら、
それは主観に過ぎないと言える。誰がどうみても、普遍的な意味で林檎があるとは言えない。
問われる命題は林檎の存在の普遍性について。
そこを全く置き去りにして、疑う事に意味は無いと言われても、命題をちゃんと理解しろとしか言えんわな。
271 :
考える名無しさん:2010/06/05(土) 10:52:01 0
誰がどうみても、普遍的な意味で林檎があるとは言えない。
主観に過ぎないよ、という意見の一致はあるのか
>>271 意見の一致って何の意見の話だ?
客観的な証明が出来ないのに、普遍性を証明できるならその方法を言えばいいじゃない。
主観を理由にすれば、客観的な証明にはならないだろうし。
A、B、C、Dの4人が4人とも林檎があると言ったとする。
そこでAは林檎があると確信した。しかしよく考えて見れば、B、C、Dの言葉は
Aが聞いただけである。つまり、林檎があるという客観性を証明するには
Aの聞き間違いや妄想で無いと証明する必要がある。(B、C、Dの実在の証明)
その方法は無い。何故なら、原理的に客観的な証明が不可能な部分であるからだ。
つまり他者の実在を証明出来ないため、林檎があると客観的に説明できなくなる。
客観とは「誰の目から見ても」ある事で、自分の目から見ただけでは成り立たないからだ。
274 :
考える名無しさん:2010/06/05(土) 11:12:56 0
>証明が成立しないなら証明不能って事だろ?
何で? 飛躍し過ぎている。
証明の不成立は証明する必然性が無いということ。
その「普遍性」なるものがまた主観にすぎんのだよ。
普遍性なる概念を何故だか主観内で勝手に作り上げることができる。
そして「その普遍的な確かさは証明できない」とする。
主観内のマッチポンプなのだ。
「否定の意味を知らないのでは?」とツッコミを入れる前に、延々と書きたれても無意味と知るべし。
275の書き込みは水泡と化し消える。
無意味なことに充実感を得て、人は今、幸福であると錯覚する。
哲学徒にあるまじき、哲学徒にあるまじき徒労。
>>274 必然性ならあるだろ…。そう問われているんだから。
問われたことに対して、必然性が無いから答えないって言われても、
ああそうですかとしか答えられない。クイズで言えばパスしたって事ですよ
>その「普遍性」なるものがまた主観にすぎんのだよ。
これはまた別の話だろw
まずは、普遍性の証明ができるかどうか。普遍性がそもそも有るか無いかはその後だよ。
さらに言えば、普遍性がただの妄想だとしたところで、普遍性が無いという事には変わりは無い。
一体どこで悩んでいるんだ?
279 :
考える名無しさん:2010/06/05(土) 11:26:00 0
>「A、B、C、Dの4人が4人とも林檎があると言ったとする。 」
A、B、C、Dの4人というのは、仮に想定した人だね。
「Aは林檎があると確信した」というのも仮の話だ。
仮定の話に、証明など必要ないでしょ。
280 :
考える名無しさん:2010/06/05(土) 11:28:45 0
>必然性ならあるだろ…。そう問われているんだから。
問われているということは、間違いなく本当なのだな。
>>277 悩んでなんかいませんよ。
私の中ではほとんど結着が付いてるのだが、
他人様には納得されないだけです。
普遍性なる概念は、「主観に過ぎないもの」と規定された主観によっては
証明できないことが(無自覚に)前提とされている。
主観vs客観(≒普遍的な確かさ)なる恣意的な構図を作り上げた時点で、
「普遍的な確かさは(主観にすぎないものでは)証明できない」となるのは必然なのだ。
しゃべりかたが可愛いよね
なのだ。 とか、なかなか言わんよ。
284 :
考える名無しさん:2010/06/05(土) 11:59:55 0
自分(A)の他に、B、C、Dが居て、
4人とも林檎があると言った・・これは現実であり、嘘でもマボロシでもない。
自分(A)は、「林檎があると確信している」。
・・夢の中の自分が確信しているわけではない。
・・これは現実で嘘でもマボロシでもない。
自分(A)は、B、C、Dの言葉は 聞いただけなんだ、とは思わない。
自分は、「間違いや妄想では無い」と確信している。
それを証明することなど考えない。
誰かが「聞き間違いや妄想で無いと証明する必要がある。」と言う。
しかし、自分(A)は、「いまの問いは、自分の聞き間違いかもしれない」と疑い始める。
証明する事など考えない。
どうでもいいけど、スレ立てした
>>1が、ほぼ完璧に否定してるんじゃないのw
>>281 まあ客観は主観と相対する概念ですからね。懐疑論自体は、必然的なつまらない話ですよね。
>>284 >・・夢の中の自分が確信しているわけではない。
>・・これは現実で嘘でもマボロシでもない。
嘘でも幻でも無いと確信しているのはAだけです。つまり主観であり、それは普遍性を持てない。
問われてるのは客観的な事実かどうかですから、Aの主観のみでは答えにならないんですよ。
>誰かが「聞き間違いや妄想で無いと証明する必要がある。」と言う。
>しかし、自分(A)は、「いまの問いは、自分の聞き間違いかもしれない」と疑い始める。
>証明する事など考えない。
証明する必要があるというのは、つまり懐疑論の「客観的(普遍的)で確かな物があるか?」
という問いがあるからです。懐疑論という問いが無ければ、そりゃ証明しようとも思わないでしょう。
ここは懐疑論のスレですから、当たり前ですが懐疑論に対して答えなければいけないわけです。
287 :
考える名無しさん:2010/06/06(日) 12:55:00 0
>嘘でも幻でも無いと確信しているのはAだけです。
>Aの主観のみでは答えにならないんですよ。
何で答えにならないのかな。
確信は自分にとってすでに答えですが。
自分は誰にとっても「正解である答え」なんて求めてないんですよ。
だから、証明の必要はないのです。
>懐疑論のスレですから
俺は、懐疑論に反論しているのではなく
「すべてを疑えることに疑いの余地無し」ということに対して疑っているのですが。
>>287 文末の問いには俺も興味があるから私も書く。
287が主張したいことと完全に一致してるかどうかは知らんが、
私の疑問は、こうだ。
・懐疑論は「全ては疑いうる」という主張
・「全て」の中には「懐疑論は正しい」という命題も含む
↓
・「この質問も含めた全ては、は疑いうる」という命題を含んだ場合、
懐疑論は成立するか?
289 :
考える名無しさん:2010/06/06(日) 18:05:28 0
「問いがあるわけだから、証明しなければならないんだよ」
「問われているという君の確信は、主観にすぎないんだよ」
290 :
NAS6 ◆YbjyWDyXSc :2010/06/06(日) 21:21:37 0
信じる者は救われる
666
何をどのくらい信じているかだな。
俺は自分の勘を三分の一くらい信じている。
それと専門分野の権威の意見を三分の一くらい信じていて、
後の残りの三分の一は余白。
お前らは本当に頭が悪いな。
懐疑している主体が懐疑できているのかにも懐疑の余地があるんだよ。
だから、「真の懐疑論者は沈黙せねばならない」という命題も懐疑されるわけだから、
お前らがチンケな教科書で学んだ程度の意味での「結論」など出ないのだ。
294 :
NAS6 ◆YbjyWDyXSc :2010/06/06(日) 21:43:21 0
ガラテヤの手紙6.17
これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。
わたしはイエスの焼き印を身に受けているのです。
ヨハネの黙示録13.15
第二の獣は、獣の像に息を吹き込むことを許されて、獣の像がものを言うことさえできるようにし、
獣の像を拝もうとしないものがあれば、皆殺しにさせた。
また、小さな者にも大きな者にも、富める者にも貧しい者にも、自由な身分の者にも奴隷にも、
すべての者にその右手か額に刻印を押させた。そこで、この刻印とはあの獣の名、あるいはその名の数字である。
ここに知恵が必要である。賢い人は、獣の数字にどのような意味があるかを考えるがよい。
数字は人間を指している。そして、数字は六百六十六である。
うぉ、やべぇ。イエス様々ですよ。
295 :
NAS6 ◆YbjyWDyXSc :2010/06/06(日) 21:50:14 0
全知全能の主が見守ってくれるから大丈夫^^
296 :
NAS6 ◆YbjyWDyXSc :2010/06/06(日) 21:56:18 0
要するに神頼みだろっというつっこみどころ
297 :
NAS6 ◆YbjyWDyXSc :2010/06/06(日) 22:17:42 0
観察していると志村志村といわれているような感じです
298 :
NAS6 ◆YbjyWDyXSc :2010/06/06(日) 22:29:32 0
神頼み以外にどう説明するのか詳しく聞いてみたいものですなぁ?
>>NAS6
一人漫才止めろ
まー馬鹿コテが独演するような話題なんですよこれは
というか
おまいらポパーとか読まないの?
読んでどうなる
ポパーも読まないで懐疑論やってんのかよ┐(´ー`)┌
君がたまたまポパーを読んだだけ
そして他人の権威を背負ってるだけ
ポパーは量子論を我田引水している
ハイゼンベルグの論文も読んだこと無いのか
まで遡るのかね?
305 :
考える名無しさん:2010/06/07(月) 12:14:17 0
ピュロンとかデカルトとかヒュームとかポパーとか
会った事はないけどその存在を疑っていないよな
>>304 >ポパーは量子論を我田引水している
これを見ただけでもこいつはポパーを読んでないのがわかったよw
307 :
考える名無しさん:2010/06/07(月) 12:39:58 0
308 :
考える名無しさん:2010/06/07(月) 12:47:18 0
ポパーは量子力学を深くは理解していないようなことを同書で告白している
あれは我伝引水とかじゃなくて解釈の違い
ポパーは実在論者だから神はサイコロを振らないという立場
我伝引水とはなんだ
秘密のアイテムか
この本を読んだ(?)君も、言えるのはその程度か
ポパーの名前は印籠代わりか
誰も全ての本を読める訳じゃない
ポパーを読んで影響を受けたのなら、その己の思考を直接に示せばよい
それができなきゃ黙って本読んでればいい
311 :
NAS6 ◆YbjyWDyXSc :2010/06/07(月) 15:59:58 0
そこで、この刻印とはあの獣の名、あるいはその名の数字である。
ここに知恵が必要である。賢い人は、獣の数字にどのような意味があるかを考えるがよい。
数字は人間を指している。そして、数字は六百六十六である。
666→人間
悪魔→人間
しらばっくれても駄目なようです
NAS6→666
しらばっくれても駄目なようです
313 :
NAS6 ◆YbjyWDyXSc :2010/06/07(月) 20:21:00 0
欲張りから騙されてざまぁみろですよ
禁欲あるいは節制しましょうというお話だったのにね
ポパー派ってウィトゲンシュタインを馬鹿にしてるよな。
つまんないことだけど、ポパー派のそういうところが好き。
315 :
NAS6 ◆YbjyWDyXSc :2010/06/08(火) 18:34:52 0
統合失調だと毎日日曜です
うわーめちゃめちゃレスが進んでるな
まだ居てくれるのか分からないけど
>>118 >貴方の認識の全ては観念である、とすることができるので(中略)そして、自明であるが故に大した意味がない。
観念と存在との差違を想定しないならば、ですね
>観念を越える<理>などは理として認めない、ということですね。
> そのような「存在」は「気」とでも呼べと。
違います、意味が通じないという意味です
真理が観念的な理の一種でないのならばなぜ真理と存在が同義になるのかさえ意味が不明になります
つまり字面からの欺瞞にしかならなくなります
>ところで、貴方の言われる認識可能な「理」なるものとは何ですか?
AはBゆえにCとなる、といったような因果関係の想定に基づいた世界解釈ですかね
>「理」の成立は貴方の意志によるものでしょうか?
私の個人的な考え方としては人間の認識能力における機能によって成立しますね
>>119 主観の広義さで誤魔化しているように思われます
一般的であることと主観は別に矛盾しないでしょう
理を成立させるのは主観が理と判断するものでしょう
秩序がなくても秩序があると主観が錯誤すれば理は成立します
>>120 なぜ無意識になるのかがよく分かりません
私が言いたかったのは何ら秩序の欠如した動因、作用はするが作用に法則性はない動因を想定した場合
それがつまり世界秩序である、とするのは論理的飛躍だということです
>>121 はい、神のごとき絶対的視線などそもそもあり得ないのだからそれを否定して悦に浸っていても仕方ない、というのは分かります
しかし現実、神の視点で物事を語る人間は絶えないし、私やあなたですら油断すれば落ち込んでしまう視点ではありませんか?
だからそれを否定し、あなたが言うような非神的視点の土台を作り補強するために懐疑論は有効だと思いますが
77です。せっかくレスいただきましたんで、レスをお返ししておきます。
>>316>>317 私が、「真理が観念によっては捉えられないが、真理は存在のありようである」
とするのは、唯物論からの必然です。私は唯物主義者なのです。
つまり、
観念なるものが、肉体としてのその人に帰属し、
(一般化された)人は時間的、空間的に限定され、肉体が滅びれば主観は消滅する。
私が滅びても、世界は消滅などしない。
そして、そのように人を相対化(一般化)するのに十分な根拠もある。
これ(=唯物主義的態度)を前提とするならば、
主観なるものは、存在の(超越的な)ありようによって成立し、
これ(存在のありよう)を「真理」とするしかないでしょう。
貴方の言われるように、
「認識能力における機能から理が成立」し、
「理を成立させるのは主観が理と判断するもの」であって、
「秩序が無くても秩序があると主観が錯誤すれば理は成立する」のであれば、
それは、
その主観は“主観にとっての秩序”そのものを、
完全なる混沌(=無秩序)、あるいは「無」から作り出す性質がある、ということでしょう。
ならば主観とは神そのものとなってしまう。(厳密には独我論世界の神か。。)
私は唯物主義者なので、主観に神のごとき超万能性を認めることを由とはしないのです。
それは「主観(≒神)ありき」の話となってしまい、
「主観を解体することはできない」と開き直っているように、私には思われる。
いや、開き直るだけならいいが(私もほとんど諦めているので)、それこそが真理(また真理かw)だ、
と言わんばかりの観念論(と言っていいかは分からないが?)の態度には辟易するわけです。
>>318 >>120はですね、貴方の言われる「動因」なるものが無意味(≠無意識)ではない、
と貴方が思われるのは何故なのだろう、と単純に疑問に思った訳です。
「作用はするが法則性は無い」作用(=動因)とはいったい何か?
その動因は時間も空間も想定不要な何ものかなのか?
時間と空間を要請するなら、それはもはや無秩序ではないでしょう。
空間そのものが秩序を内包しているからです。
>>319 いや逆だと思います。懐疑論は神視点を妄想しているのですよ。
そうでなければ、「成立する主観としての世界」の「正しさ」を懐疑するのはどこか分裂している。
成立する主観としての世界について、(独断ですが)それを物理的な世界と想定するならば、
そこで意味のあるのは、その正しさではなく、精度であり、有効性であり、合理性である、
と考えるわけです。
>>321 あなたね、頭を使うことが苦手なら
肉体労働をするといいですよ。
神視点ってのがよく分からんな。
懐疑論が否定しているのは、目の前に見える物の確かさ。
確かな物など無いのでは無いか?という問いかけが懐疑論じゃないですか?
視点という意味なら、「私」の視点から見た世界の確かさを否定しているわけです。
ですから、世界の本質、本質的な部分という物もまた否定されているんですね。
つまり世界の本質である真理(あるいはイデア)など無い、という意味では神の否定ですね。
神と真理は同義ですから。あるいは、人の進化もまた神を前提とした考え方でしょう。
>>323 懐疑論はですね、恐らくその根底が唯物論なのです。
>>76で、「情報→感覚器(見る)→知覚→認識」
としてるでしょう?
この構図は唯物論を前提としているのです。
そうでなければ、感覚器とかいらないわけです。
「私」が直接に世界を知覚するとすればよいのです。
しかし、唯物論的な「感覚器」なんか介入させ、
脳は錯誤するもの、などという、これまた唯物論的な知見を拝借し、
「こんなふうに“間接的に”成立する認識なんかあてにならないな」
と直感している。これが懐疑論ではないでしょうか?
そして認識主体だけは物質(感覚器、脳など)からは超越し、脳内小人として放置されます。
これでは、どこまでいっても神を解体することなどできない。
この構図の中の「情報」とか、これは何でしょう?
これは客観として普遍的な存在として実在する、と懐疑論は考えているのでしょうか?
本当は、この「情報」なるものも、この懐疑論の想定する構図も、主観が作り上げた
恣意的、疑似唯物論的な観念です。脳が「いわゆる情報処理」をしていること自体が疑わしいのです。
唯物論的には、
主体が感覚器なる眼鏡を掛けて外界を見ている訳ではないです。
そうではなく、我々の主観そのものが、物質世界の特定の挙動により成立するものであり、
この成立する主観が知覚として把握している世界と、その構成要素、も主観内要素として成立するものです。
「確かなものなど無い」のではなく、主観に成立する知識に写像し得る何ものか、が外界には無いのです。
その有効性、精度は、成立する知識に応じて、我々が世界に働きかけることによってのみ確認可能であり、
その有効性が成立するなら、やはり世界には真理はある、とするしかない、と考えるわけです。
そこに神など不用なのあります。
>>324 そこで言う「唯物論」と、一般に認識される唯物論にはかなり大きさな差がある気がします。
霊気が肉に宿ったものが生命だ、という世界観でも感覚器というフィルタは
存在するけれど、一般的にはそれを唯物論とは言いません。
ぴったり当てはまる既存の単語が無い気がするので
造語を作って定義を書いた方が、いらぬ混乱を招かないと思います。
>>325 主観に成立する物質像は、科学の進歩とともに変容してきました。
オカルトを避ける為には、物質は物質として科学と対応させておく必要があり、
せっかくの進言ですが、造語を作ることはしません。
意識開闢の鍵が将来、(主観内の)物質世界に成立し得るかどうかは未知数です。
期待は薄いですが。
327 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2010/06/09(水) 08:29:31 0
信じること(宗教的信仰など)を疑うことは意味のないことである。
なぜなら、信じることの行為の中には、すでに疑うことが含まれているからである。
懐疑論が絶対的に否定できないように思われるのは、絶対的に真であると思われていることを懐疑しているから、
それは絶対的疑いになるからである。
信じることと疑うことは、相補的な行為で、シーソーゲームである。
疑う余地があるということは、信じることが出来る可能性を残していると言うことでもある。
懐疑論は、行為としては意味が無く、絶対的なものがない、ということを言っているという一点だけである。
わたしは唯物論を懐疑しません。
唯物論は絶対なのです。
っていうのなら哲学ではなく信仰でしかないな。
>>327 >懐疑論は、行為としては意味が無く、絶対的なものがない、ということを言っているという一点だけである。
この部分は違うと思いますね。懐疑論という行為が無意味というよりも、
懐疑論の導く先に価値の低落があるだけだと思います。
確かな物が無い、というのは、進むべき道もまた無いという事ですから。
絶対的な物とは、善い事が挙げられます。人を助ける事、発展する事、学問を志す事。
それらに絶対的な価値を求めた行為が、(神や真理を)信じるという行為でしょう。
懐疑論が否定するのは、絶対的な価値を求める行為、あるいはそれらに縋る行為でしょう。
330 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2010/06/09(水) 22:10:53 0
>>329 >絶対的な物とは、善い事が挙げられます。人を助ける事、発展する事、学問を志す事。
浅学なので、理論的裏付けが出来ませんが、僕の考える絶対的なものとは、全一的なもの、さとり、イエスなどの、
全ての源泉であるもののことを考えていました。絶対的価値を求めた行為が宗教の起源かどうかは分かりませんが、
個人というものに分かれている人間の、思考の果てにあるものが、一に向けての祈りであると考えたのです。
それを懐疑論が否定しようとしているような気がしたので、それがおかしいと思ったのです。
懐疑論は命題的態度だから否定する対象じゃないよ
カテゴリーミステイク
だね。
なんで勝手に敵を作って、勝手に藁人形と戦ってるんだろう。
333 :
考える名無しさん:2010/06/10(木) 17:45:50 0
命題的態度って、単なる信念だとでもw
え? そうじゃないとでも?
335 :
考える名無しさん:2010/06/10(木) 21:33:07 0
命題的態度を主張すれば
批判の対象になる場合がある
論だからね
>僕の考える絶対的なものとは、全一的なもの、さとり、イエスなどの、
>全ての源泉であるもののことを考えていました。
これは絶対的な価値を求める行為、あるいはそれらに縋る行為でしょう。
悟りとは何を悟る事ですか?何か唯一の答え(真理)があって、それに到達するという意味でしょうか?
そんなもんねーよ、何故なら…というのが懐疑論の考え方じゃないですかね。
そもそも、何故悟る必要があるんでしょうか。それは、悟る事に価値を置いているからでしょうが、
その価値とは何でしょうか。悟る事は「善い事」であるという意識が無ければ価値は生まれないでしょう。
そして、その価値を絶対的な、普遍的な物だと信じようとする行為。それを懐疑論は否定しているのではないでしょうか。
337 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2010/06/10(木) 21:50:02 0
>>336 懐疑論は命題的態度であるという話が出ましたが、懐疑論はツールとして使われるのみで、個人の信を否定する
事はまた複雑な手続きを踏む必要があるのではないでしょうか。なぜなら、人の信じるものとは、多岐にわたっているし、
疑えるから嘘であるということは言えないからです。私は絶対的なものと言うとき、宗教的態度を念頭に置いていますが、
懐疑論によって、キリストや釈迦の存在を否定したところでそれは意味のないことです。何故なら信じる人が多数いるからです。
質問にお答えしますと、悟りとは、私の考えていたものは、仏教の悟りで、ナムアミダブツの会得、今生での浄土を得ることです。
懐疑論は、学問的には価値がありますが、思想としては、個人の限られた生ということを考えると、あまり人を集めることは
出来ないでしょう。
338 :
NAS6 ◆YbjyWDyXSc :2010/06/10(木) 23:58:57 0
339 :
NAS6 ◆YbjyWDyXSc :2010/06/11(金) 00:13:39 0
340 :
考える名無しさん:2010/06/11(金) 00:40:58 0
ほら!お前ら!ちょっと頭いいやつに手も無く転がされて負けてんじゃねえよ!
懐疑論について今まで通り熱く語れ!
主観や量子論や科学論や唯物論や無意識を持ち出して熱く語れ!
馬鹿の意地を見せろ!
ほら!懐疑論をどうやって否定すんのおまえら!
341 :
考える名無しさん:2010/06/11(金) 00:44:39 0
懐疑論を完全に否定したら
馬鹿の分際でも
イグノーベル哲学症くらいは
もらえるかもよ
どこに頭のいいやつがw
343 :
NAS6 ◆YbjyWDyXSc :2010/06/11(金) 00:55:40 0
【不可知論】
意識に与えられる感覚的経験の背後にある実在は論証的には認識できないという説。
そういう実在を認める立場と、その有無も不確実とする立場がある。
可能にすることは禁欲あるいは節制ですってば
344 :
NAS6 ◆YbjyWDyXSc :2010/06/11(金) 00:58:39 0
欲望を叶える毎に不可能な事が増えていきます
345 :
考える名無しさん:2010/06/11(金) 01:00:35 0
ようし、馬鹿が不可知論を持ち出して来たぞ!
これで否定出来るのか?
さあ、馬鹿どもかかってこい!
346 :
NAS6 ◆YbjyWDyXSc :2010/06/11(金) 01:05:10 0
「禁欲あるいは節制」的結果で全て終了しました
347 :
考える名無しさん:2010/06/11(金) 01:09:39 0
馬鹿は勝手に終了宣言だ
さあどうする。
お前ら哲学板で今最も馬鹿の力の見せ所スレでだらしないぞ。
さあもっとナントカ論を持ち出して議論しろ。
馬鹿の意地の見せ所だぞ。
348 :
NAS6 ◆YbjyWDyXSc :2010/06/11(金) 01:13:12 0
意識に与えられる感覚的経験の背後にある実在
は
要するに禁欲あるいは節制だろ
自分の過去を思い出してみましょう
349 :
考える名無しさん:2010/06/11(金) 01:21:24 0
>>348 はい馬鹿から説教までされてしまった!
コレでお前らいいのか!
この馬鹿よりお前らは馬鹿か?
なんとか馬鹿なりの知識を総動員して
>>348をへこましたくはないのか!
この馬鹿はシカトしてもいい凹ます必要は無いという冷静な馬鹿でも
「懐疑論を否定する」という高峻な頂を征服してみたくは無いのか!
さあ馬鹿!行こう馬鹿!お前の必死のナントカ論で馬鹿ぶりを炸裂させてくれ!
>個人の信を否定する 事はまた複雑な手続きを踏む必要があるのではないでしょうか。
>なぜなら、人の信じるものとは、多岐にわたっているし、 疑えるから嘘であるということは言えないからです。
懐疑論は「確かな物など無いのでは無いだろうか?」という話ですから
個人の信じる対象もまた、確かでは無いと言って言るわけです。
人の信じるものは多岐に渡っていますが、等しく確かでは無い。その価値もまた普遍的ではありません。
浄土を得ることは在る人には至上の価値があるかもしれませんが、他の人には無価値でもあります。
信じる人が多数いる事と、その信じるものには価値が無いという事は、「指摘」という点で意味があります。
天動説を皆が信じていたとして、地動説を唱える事に意味が無いでしょうか?
価値が無いと見る人もいるでしょうし、価値を見る人もいるでしょう。
>存在を否定したところでそれは意味のないことです。
ここでは「意味が無い」という考え方もまた普遍的な価値を持ちません。
つまり、「意味が無い」と考えることが正しい事だ…善い考え方だ…という図式も成り立たないわけです。
351 :
NAS6 ◆YbjyWDyXSc :2010/06/11(金) 02:21:36 O
懐疑論の否定はお子様レベル
懐疑論で懐疑論を論議すれば良いだけのこと
352 :
NAS6 ◆YbjyWDyXSc :2010/06/11(金) 02:29:38 O
1.疑うというスタンスが正しい
1.で以て1.を肯定出来る?
353 :
NAS6 ◆YbjyWDyXSc :2010/06/11(金) 03:01:42 O
不可知論にしても
1.意識に与えられる感覚的経験の背後にある実在は論証的には認識出来ない
1.は意識に与えられる感覚的経験の背後にある実在ではないという事だよ
否定型の論理はどうすれば肯定出来るの?
2.欲求は叶えられないものだ
2.だと肯定しか出来ないよ
354 :
NAS6 ◆YbjyWDyXSc :2010/06/11(金) 03:08:32 O
1.欲求は叶えられない
1.を否定すると欲求は叶えられないし、
1.を肯定すると欲求は叶えられないよ
禅問答
355 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2010/06/11(金) 03:36:16 0
>>339 私が読んで自分にあったと思った宗教書は鈴木大拙「真宗入門」であります。この本には、浄土真宗という、仏教の
最も発展した形である(という意見を大拙は持つ)、親鸞の教えが説かれています。英語の講演の和訳という形
の本ですので、キリスト教的宗教の見方からもわかりやすく書かれています。一言で感想を述べると、アミダの慈悲
と無限の優しさが、説かれており、宗教的生活というものが、現世での救いとして妙好人などを例に挙げて述べられています。
この世を生きていくのに、アミダと親子関係を結び、死についても奇をてらうことなく浄土という観点から述べられています。
356 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2010/06/11(金) 03:53:35 0
>>350 人はいつもそれが確かであるから信じるわけではないのです。自分にとって必要があるからまた好ましいから
信じるわけだと思います。宗教的価値とは、普遍的である必要はなく、絶対的救済を説くのが宗教という訳でもないのです。
私が真宗を信じてみたいと思ったわけは、その敷居の低さにあります。信じてもいいし、信じなくても良い。個人の自由に
踏み込まないため、親のすることを見習うように自分のペースで自由に宗教的信仰を目指すことが出来ます。失敗
しても、それを非難されることはないのです。
懐疑論の限界と思われることは、例えば天動説と地動説の例で行けば、両方を疑うことは出来ないというところにあるのでは
ないでしょうか。どちらかの立場には立たねばならない。
普遍的な価値を持つものがないといったからといって、価値自体が無くなるわけではないと思います。結局スタンス、
パラダイムの多様性、人間同士の争いの調停、そういったことに対して、懐疑論は価値を持っているのではないかと
思いました。
357 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2010/06/11(金) 03:55:50 0
>>NAS6さんへ
講談社現代新書の、永井均著『これがニーチェだ』、を、読まれたことがあるかどうか分かりませんが、NAS6さんの
疑問に答えるようなことが書いてあったような気がして、一読をおすすめします。
358 :
NAS6 ◆YbjyWDyXSc :2010/06/11(金) 06:48:23 O
「信じない態度が正しい」を信じない態度が正しい
と普遍的命題にはなり得ない訳で
>>320 無秩序(完全なる、とすべき理由はない。一時的な秩序・部分的な秩序もあり得るのだから)
に秩序を錯覚することは秩序を作り出すこと、無から有を作り出すことと同義ではないでしょう
したがって「神そのものになってしまう」というのは論理的飛躍だと思います
個人的には観念論か否かと言う区別より観念的か否かという区別の方が意味を持つと思います
>>321 まずその点も上述の誤解を引いていまして
「主観の成立はそれに先立つ動的秩序が存在する証であり、動的秩序は唯物的超越的存在を証している」という論理だと勘違いしていました(勘違いですよね?)
だから超越的存在の証明になるような動的秩序を即想定するのは論理的飛躍ではないのか、ということを言いたかったわけです
その上で言ってしまえば動因には時空的なもの、物理的なもの、あるいはそれさえなくても十分だと思います
秩序という表現自体に欺瞞的なものがあるかと
逆になっていないと思います。というか論点が噛み合っていないと
神視点の想定は別に否定していません。神視点の想定に対する否定として懐疑論は意味を持つと言ったわけです
でなければ「成立する主観としての世界」を信仰に立脚しなければならなくなるでしょう?
>>359 「無秩序に秩序を錯覚する」とはいかなることです?
それが言葉の遊び以上のものであることを示してもらえませんか。
無秩序とは何か。
そこに錯覚され得る秩序とは何であり得るのか。
貴方の言われる文脈上、この「無秩序」は主観の外にあることになるでしょう。
その上で、「無秩序に秩序を錯覚する」なる言明に有効な内容など残っているのか。
何をどう錯覚し得るのか。
貴方の文脈上では、
実在(と敢えて呼びますが)の秩序、無秩序に関係なく、主観のための秩序を主観が決めることになる。
「錯覚」なる言葉が宙に浮いているでしょう。
「動的秩序」に欺瞞を感じる貴方の感性は私も理解できますよ。
まるで私が神の國を見てきたかごとき傲慢さを自分でも自覚しております。はっは
しかし、静的ではあり得ない。
また、無秩序でもあり得ない。
なので動的なる秩序とでも言うしかなかったのです。
そこに存在が見えているのに、沈黙するわけにもいかない。
しかし貴方の批判は全く甘受します。
>くじらさん
実は、完全なる無秩序を想定することは不可能です。
それは単に「言い捨てるだけ」になってしまう。
我々は何事かを想定する際に、空間を準備しないと思考できないのです。
しかし、空間を準備してしまうと、そこにおけるランダムには、既に対称性が付与されている。
そして三次元空間であれば、質点のランダムとは自由度が3に規定された対称性を持つ。
これはもはや「扱えるもの」であり、完全な無秩序とはならない。
無規定な「完全なる無秩序」はこれまた妄想となるのです。
「動因に時空的なものが無くても十分」なる言明に貴方がいかなる意味を込めたのか。
あるいは私に理解できないだけかもしれません。
懐疑論の論点が噛み合わないことついては、もうしょうがない。
結構な量のレスをしたつもりで、
私も自らの説明力の無さに呆然としますが、もう退散します。
私の方から貴方に論駁を懇願しておきながら、申し訳ない。
世界構造については、もう少し勉強して考えてみますんで、
そのうち機会があればお付き合い下さい。
>>356 >懐疑論の限界と思われることは、例えば天動説と地動説の例で行けば、両方を疑うことは出来ないというところにあるのでは
>ないでしょうか。
実は両方疑うことが出来ます。
>普遍的な価値を持つものがないといったからといって、価値自体が無くなるわけではないと思います。
これは全くその通りです。
>>356 なんか懐疑論が正しくないと思ってる奴らに共通する勘違いは
「真」と「偽」が1つずつしかないと考えてることだな。
「どちらかが当たり」なんて前提は無いのに、箱が2つあって
一方が当たりじゃないと判明したらもう一方は
自動的に当たりだって考えるようなもんだ。
天動説と地動説の例で行けば、両方とも誤りで
神が空の絵を一生懸命書き換えてるってのが真かもしれないじゃん。
まあ上の例はどっちかというと単なるあげあし取りなんだが、
懐疑論は世界そのものも疑うので、世界が正しくないかもしれないから
その中にある天動説と地動説の両方とも正しくない
……かもしれないと考えられる。
365 :
考える名無しさん:2010/06/12(土) 09:51:52 0
ちと笑えた
そもそも「懐疑論」の定義がわからん
367 :
考える名無しさん:2010/06/12(土) 10:23:10 0
「すべてを疑える」という懐疑論について
こうして考えている自分の存在を、はなから疑ってないし、
俺が言う「すべて」は、「自分が考えつくところのすべて」であるし、
「自分が考えつくところのすべて」をほとんど分らない人間もかなり居ると考えるし、
「自分が考えつくところのすべて以上のことを考えつく人」も沢山居ると考えているし、
ぶっちゃけ自分以外の他人様がまぼろしであれば、こうして考えた事を表明できないし、
つまり、自分以外の存在がないことにゃいかなる論も成立しないと考えているし、
「そうではないかな」なんて、同意を求める事も当然出来ないことだし、
「自分はちゃんと論理的に考えてるぞ」という思いは否定しがたいわけで、
「自分が考えつくすべて」に「・・ではない可能性」を
際限もなく考えても、疑えば疑うほど、自己論駁的になるんだな。
368 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2010/06/12(土) 10:56:24 0
>>363-364 これは素朴論というやつかもしれないが、天動説と地動説が両方間違いでも、神が書き換えているって言うような、
言ってみれば5分前世界創造説みたいな論でしょう。どれにしてみても、新たな概念の導入が必要となる、
つまり、世界が無だとは言えないところが懐疑論にとって致命的である、と思うんだけど。考えている自分と、
考えを貼り付ける対象の二つの「存在」は、絶対に疑えないという、自分と世界という話しなんだけど。
もう一度言うと、考えと概念は存在を否定できない。懐疑論が、子どもっぽい論だと思えると、そういう話しです。
369 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2010/06/12(土) 12:25:44 0
そうかいたけど、人間の五感は、ヒトの中枢へと集められた時点で、その人だけのものであり、他人に伝達する際は、
如何様にも言うことが出来る。むしろ、自分の感覚を正確に表現できること何て無いといえるだろう。したがって、
世にある説というものは、おおざっぱな枠の中で決まってくるものであって、その精確な解釈や伝達は不可能であると
言っていいと思う。モノの不動性と、主観の恣意性が、人間世界の基本であるように思える。疑いが生じる余地がある
ということは、それが真理でないことを示しているようにも思えるけど、疑い自体が正しい疑いであるか、ということに関して
また疑いの余地があるので、何を信じて良いのか分からないという懐疑論の正しさは、今のところ反駁できないように
思える。
ことばが意味するものすら定まらないんだから
「すべては疑わしいものでありつづける」という懐疑論は当然の主張
371 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2010/06/12(土) 12:48:04 0
論理自体は疑う余地のないものだ。枝葉末節にこだわらなければ、論理の共有は可能だ。そこで共有されて
伝わったこと自体は、ほんのわずかであり伝わったことで、真理であると言える。伝わったことの内容が真理かどうか
ということは、また別の話だ。
論破されないように都合良く懐疑論を解釈して逃げてるだけじゃん
373 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2010/06/12(土) 12:54:29 0
>>371 つまり、懐疑される全てのモノに対して、その枠組みの中に物事が存在すると考えれば、懐疑されることが無く
ある物は、真理である。たった二人だけにとっての真理でもそれは真理である。二人以外の者から見て、それが真理で
ないというのならば、人間の全てに共通する物を持ってきても、神から見ればそれは真理ではない。神という概念は
懐疑できるのであろうか。懐疑論の担保となるのが神ではないか。
374 :
考える名無しさん:2010/06/12(土) 13:48:36 0
ことばが意味するものすら定まらないんだから
「すべては疑わしいものでありつづける」という論は相手に伝わらないかも。
だから、こう考えているだけで、懐疑論は成立しないないかもw
>>372 むしろ逆だろ。論破しようとして都合良く懐疑論を解釈してないか?
懐疑論者は話すことも出来ないとか、たまに出てくる意味不明の結論はまさにそれだろう。
376 :
考える名無しさん:2010/06/12(土) 15:42:53 0
>>375 それなら、懐疑論は何を懐疑しているのか?
貴方の解釈を土台にしようではないか
さあ、言ってくれ
377 :
スモ:2010/06/12(土) 17:05:16 0
「じゃけじむんだきふじめぽぬ」
懐疑論者はこれを疑えるだろうか?
疑えない
なぜなら無意味だからだ
つまり、すべては疑えない
もし疑えるとすれば
それはなんらかの意味解釈を行うからだ
そしてそのことによって有意味であるとはどういうことか?
意味のあることは疑える
意味のないことは疑えない
論点は、疑うことの対象(設問)に意味が成立するのかどうか?だ
水槽脳にしても夢の話にしても、そういう観点で問いただす必要がある
懐疑論は意味論の問題であり、
つまるところ意味とはなんだ?であり、
そして論理は有効か無効か?であり、
結局「疑う」とはどういうことか?である
なんか論客が集まってきたな。はは
意外に内容のあるスレッドになったではないか。
喜べスレ主。
>
>>360 絶対的な法則の不在ですね
例えばそれが絶対的な類似や同一でなくとも主観はそれを錯覚できますよね?そういうことです
決める、という表現がやや欺瞞的だと思います
錯誤し判断するんです、無秩序の有り様が主観に依存しているわけではないし(認識の形態としては主観に依存するが)
主観は無秩序を主観的に解釈することで秩序を錯覚し得るのだから関係がないわけではないでしょう
>>362 いえ、それは哲学上の一つの錯覚ではないでしょうか?
例えば論理を考えるときいちいち空間を想定しますか?
私は以前、「人間は言語化したものしか想像し得ない」と大真面目に主張してる人に会ったことがありますがそれに近いものを感じます
空間が主観の錯覚として成立しているとすれば別に矛盾はしないでしょう
主観における機能的な限界はあっても、無秩序が主観に依存するものでなければ無秩序は存在し得るし、主観の限界を超えたものとして論理的に想定し得るでしょう
根本的に言って主観における想定の可能不可能性と存在の関係を不明瞭にしたまま論を進めていると思います
同様の論法を突き詰めていけば真理や唯物論的世界の否定にも繋がると思いますが
>>380 >くじらさん、
いわゆる錯視(ミュラーリヤ、ポッケンドルフの錯視など)には法則性があります。
主観の勝手な判断ではない。ましてや無秩序ではない。
「主観が無秩序を秩序として錯覚し得る」など、私には根拠の無い空論のように思われますが、
どのような錯覚を想定しているのです?
>論理を考えるときいちいち空間を想定しますか?
空間とは三次元空間に限らないのではないでしょうか。
「論理空間」と呼ばれる一連の形式があり、
その完備性などの問題もあるのではないですか。
(※まあ、私はよく知りませんので誰か教えてたもれ)
>空間が主観の錯覚として成立しているとすれば別に矛盾はしないでしょう 。
「空間が主観の錯覚として成立する」というのが、
・空間を成立させるための、主観に先立つ存在のありようが、「いわゆる空間」として実在しているわけではない。
という意味ならば、その通りかもしれない、と思いますが、
しかし
>>381でも示しました錯視の例のように、
「主観が無秩序から、錯覚によって、空間(なる秩序)を成立させている。」
とするのは、私には妥当な考えとは思われないのです。
>根本的に言って主観における想定の可能不可能性と存在の関係を不明瞭にしたまま論を進めていると思います
言われるとおりかと思います。そこが「根本的に」駄目と言われるなら仕方ない。
その批判を受け入れましょう。
しかし、貴方の言われるようなことを「明瞭に」示した科学者も哲学者も見たことがありません。
私にそれが可能なら、今からでも2chをやめて学者を目指しますよ。はっは
384 :
考える名無しさん:2010/06/13(日) 01:16:23 0
自らが錯覚して空間があるかのように見えるのではない。
空間は概念であり、何ものかの振る舞い、つまり
物体の運動であれ、自らの認識作業であれ、その変化・推移を
記述するために、空間という概念を導入する必要があるのだ。
「ほら、君の体を動かす空間を考えてご覧」と語りかけ、
相手が空間を概念化できれば、話がすすむということだろう。
これは、空間を考えている(想定している)のであり、
錯覚しているのではない。
385 :
考える名無しさん:2010/06/13(日) 03:27:44 0
懐疑論スレなのにクリプキのクリの字も出てこないところが
この板のレベルを物語っているな
386 :
考える名無しさん:2010/06/13(日) 05:01:43 0
パトナムのパもでてこんぞ
>>385-386 知ってる人が言えばいいじゃん…
その知識が正しいかどうか不安だから言わないんだろうけど
>>376 「確かな物(普遍的、客観的)など無いのでは無いか?」という問いかけ
>>384 認識論的(よく知らんけどw)にはそのように言い立てることができるのでしょう。
しかしそれは、
・「主観ありき」で考える際の「折り合い」「落としどころ」に過ぎない。
カント等は、あるいはそのように言ったかもしれません。
しかし私にはそのような(主観ありきの)説明によって、
それが世界理解の終点であるなどというのは、馬鹿にした話のように思われますね。
といって、対案があるわけでもないのだが。
390 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2010/06/14(月) 11:24:42 0
虚偽は言葉にあるのか事物にあるのか。
嘘自体である紡がれた言葉とは存在するのだろうか。
いや、そんなことをする暇人はいまい。
言葉自体に、虚実が存在するのは、それを指す対象に言及しているからだ。
人を騙すという行為は、人という存在に対して働きかけるから意味を持つのであり、その結果のみが問題となるのだ。
さらに、自然は裏切る。自分の予想したとおりに自然は振る舞うことはない。完璧な予想を立てられる人間など
いはしない。裏切った事物にならって、嘘の言葉が出来て、それが人間を騙すために応用されるのだ。
391 :
考える名無しさん:2010/06/14(月) 11:31:55 0
>「主観ありき」で考える際の・・・
その主観は、おのずとあり在り、自ら在るのではない。
意識的でありながら、どうして意識的にあるのか、自分でも必然性が見いだせない。
意図せずして何故在るのか、という懐疑から、客観が導かれるかどうかは分りません。
392 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2010/06/14(月) 11:53:29 0
懐疑論で言えば、懐疑している私だけは確かだ、ということが言われるが、その懐疑の内容について、
懐疑されているものの中に、主体が存在して懐疑している、という描像も描けるわけで、その懐疑自体が
確かに懐疑されているか、ということについては真偽が言えない。
つまり懐疑自体には意味が無く、私は存在するのだ、といっているに過ぎない。そこには物事の基礎となる
確かさなど、有りはしない。ただの駄弁に過ぎない。と思った。
393 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2010/06/14(月) 12:07:00 0
それでは、物事の基盤として考えられるものは何か。
それは、記憶である。
懐疑や、思惟といった概念には、対象や言葉といった、色々と付随する物が出てくるので、それのみによって基盤とすることが
出来ないのではないかと思うが、記憶という概念は、それ自体として存在し、そのカテゴリーに含まれる物は、
記憶のみであるので、組み合わせによって変化させられるということがない。したがって、記憶に信を置く哲学が、
より確かな哲学であると、デカルトチックに言ってみたい。
394 :
考える名無しさん:2010/06/14(月) 13:29:20 0
懐疑論をこの世界の人間全員が真っ向批判したら錯覚じゃなくなるのにね
395 :
考える名無しさん:2010/06/14(月) 13:31:50 0
そういうことがまず起こらないから懐疑論が通っちゃうわけか
396 :
考える名無しさん:2010/06/14(月) 16:56:41 0
どこまでも疑って行けば、
疑っている自分の存在も疑わなくてはならなくなる。
「錯覚かも」「夢かも」というような可能性を残しているので
自らの懐疑論が他者に知られていない可能性もあるわけで、
けっきょく「バカの壁」と同じ事です。
397 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2010/06/14(月) 17:20:03 0
立場を変えるが、懐疑自体に意味がないわけではない。信じることは、疑問を持ったことについて、それが動機になるのである。
したがって、全てを疑うことは、全てのことに対して信ずる余地を残す行動であるという、積極的意味がある。比喩的に言えば、
疑うことは空間を拡げる、自由に向けた行為である。つまりデカルトは、主体を最小限に確定して、世界の方に意味を与えるような、
論の設立の基盤を作ろうとしたのではないか。
>>394 いや無意味だろそれ。他者の存在が錯覚で無いという証明が出来ないし。
主観とは、客観の反語であって、普遍的でなく確かな物でも無いという前提がある。
だから、考える私や主観と言った物は、懐疑論の否定には繋がらないと思う。
399 :
考える名無しさん:2010/06/14(月) 22:15:55 0
>>398 いくら錯覚だっていってもこの世界中の人間全員が批判しているという事実は否めないでしょう
いくら懐疑論者が錯覚だっつっても、錯覚というものは客観に反映されるものであって、その判断する主体の第三者全員が批判しているんだから錯覚とは反映されない絶対的な事実である
懐疑とは自分以外の他者との相違が見られなければ懐疑はできない
懐疑論者は神などではない
懐疑な世界だからこそこの世に絶対的な存在があってはならない
この世界に存在する一つの主観的個体と分類される(物理的に言えば)
さらにこの世の存在自体が不確かであるというのなら、神の存在を否定する懐疑論そのものに矛盾が生じてしまうが意味わかる?
400 :
考える名無しさん:2010/06/14(月) 22:24:04 0
客観たる主観が全て錯覚だと懐疑できるのは、絶対的な存在が根底にあるから故であり、これまで絶対的な存在があったからこそ懐疑するだけの意義を保てたのだろう
懐疑論とは、所詮あくまで物事を懐疑的に見るための方法論に過ぎない
懐疑論を否定するということは確かなことが少なくとも1つ存在することを認めるということだ
その存在を証明すればいいだろ
402 :
考える名無しさん:2010/06/15(火) 02:15:29 0
この世界が存在するということが存在する
またはこの世界が存在しないということが存在する
上記に従って、
「この世界が錯覚であるということが存在するから故に存在しているといえる」
これはこの世界が確かに存在することの証明だよな?意味わかるか?
403 :
NAS6 ◆YbjyWDyXSc :2010/06/15(火) 05:00:03 0
コリントの信徒への手紙一15.20
しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。
死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。
つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。
ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、
次いで、世の終わりが来ます。そのときキリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、
父である神に国を引き渡されます。キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。
最後の敵として、死が滅ぼされます。「神は、すべてをその足の下に服従させた」からです。
すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。
神がすべてにおいてすべてとなられるためです。
404 :
NAS6 ◆YbjyWDyXSc :2010/06/15(火) 22:48:15 0
自己利益追及姿勢とはすなわち他人にとって残酷な態度です
ある人の取り分の分ある人が割を食う
よって金持ちとは不義の宝を蓄えているとしか言いようがありません
キリスト教の金銭欲を忌避する態度は正しいんです
誰かが儲けたら誰かが損をするだけのことです
生涯賃金によりその人の残酷さが量れます
>>399 >いくら錯覚だっていってもこの世界中の人間全員が批判しているという事実は否めないでしょう
錯覚した事柄は事実では無い。だからこそ錯覚なわけで。
>さらにこの世の存在自体が不確かであるというのなら、神の存在を否定する懐疑論そのものに矛盾が生じてしまうが意味わかる?
あなたにとってはそうなんでしょうか。論理性がよく分かりませんが
>客観たる主観
これは、主観は客観的に証明されているという話でしょうか?
主観とは「私」であり、「私」以外の「客観」が証明するとはどういうことか分かりますか?
主観が「これは客観的だ」と言っても、それは主観的な意見に過ぎません。
では、客観的な主観とはなんでしょうか?客観から証明された主観です。
客観が主観を証明する。この考え方には大きな落とし穴があります。客観とは誰なんでしょうか?
少なくとも「私」ではありません。「私」の外に、「普遍的な誰か」が居るという前提があって初めて成り立つ考え方です。
しかし、その前提はそもそも成り立ちません。何故なら、その前提を下した「私」は
普遍的な正しさを有さないからです。つまり、前提が間違っている可能性が常にあります。
これは、疑う余地が常にあると言い変えると懐疑論に立ち戻りますね。
406 :
NAS6 ◆YbjyWDyXSc :2010/06/15(火) 23:01:41 0
Q.
>主観が「これは客観的だ」と言っても、それは主観的な意見に過ぎません。
>では、客観的な主観とはなんでしょうか?客観から証明された主観です。
A.
誰かが儲けた分損している奴がいる
懐疑論は否定できないって。
指示の不確定性が成り立つかぎり。
408 :
考える名無しさん:2010/06/16(水) 02:05:46 0
神が懐疑しないことは正しいとしても
そのことが正しいとは誰もいえない
409 :
考える名無しさん:2010/06/17(木) 00:44:04 0
イノセントは疑いません。
410 :
考える名無しさん:2010/06/17(木) 01:08:18 0
馬鹿通どおしかみ合ってないようでかみ合っとるね
お互い馬鹿でよかった
懐疑論は無職・学生・ニートのための清涼剤みたいなもんだよ
社会に出たら一発で改宗するからw
懐疑論はコーラ
実在論は水
413 :
記憶喪失した男:2010/06/19(土) 09:14:18 0 BE:1551077647-2BP(791)
まず、懐疑論は正しい。
人の感覚器はすべて外界のそのままを映し出すことはできない。
すると、人の感じている世界は内面的に閉じた世界だということになる。
では、どうやって、懐疑論を否定するのか。
それは、睡眠である。
睡眠により意識がなくなったら、もし、夢ならすべて過去の世界は消え去ってしまうはず。
なのに、目が覚めると、意識が消える前と論理の通った世界が存在する。
よって、人の意識以外にも、感覚できない世界の根拠が存在することを知るのである。
錯覚というのは、客観的な事実と反する感覚、ということでいいの?
だとしたら、あることが錯覚と言えるんだとしたら、その時の感覚と反する
客観的事実がしっかりわかってる、ということになるのかねw
あるいは、もし客観的事実なんて全然分からないのだとしたら、あることが
錯覚であるなんてことも言えなくなるんじゃないかねw
415 :
唯意味論:2010/06/19(土) 12:37:10 0
抄録さんは、こんなところで論陣を張っていたのか。w
最高位が登場したのには驚かされましたね。
健在ぶりを示してくれました。
喪失君が述べるように「(何かが)存在する」ことまで疑うのは難しい。
なぜ「存在する」のか。
何が「存在する」のか。
どのように「存在する」のか、については仮説しかない。
>>414 >錯覚というのは、客観的な事実と反する感覚、ということでいいの?
違うと思う。錯覚とは、客観的であると「私が認識している」事実と反する感覚だろう。
大きな違いは、やはり主観と客観に対する認識だべ。「主観と客観がある」という考え方だと
>414のような考え方になる。しかし懐疑論では客観という概念は否定されている。
個人的には、客観とは主観の一部であって、相反する物では無いと思っている。
記憶氏も来たか
貴方の言説は合理的で、あまりオカルトに転ばないね。
何故にオカルト板の住人なのか。。。。
唯意味論さん、
思いがけず最高位氏を召還できましたばい。そこだけ褒めてたもれ。
気が向いたら意味ワールドでまた俺を悩ましてちょ。
419 :
考える名無しさん:2010/06/19(土) 19:33:43 0
2ちゃんの哲学板の悲しい悲しい「論客」達が集うスレ…
懐疑論を振り回せばなんか哲学科の教授もしてない
議論の盲点をつけると思った…
在野で学んだ事を今こそ発揮する時だ…
悲しい悲しい懐疑論…
>>417 なるほど
しかし、客観的であると私が認識している感覚と、そうでない感覚、という区別はあるの?
そんな区別がどうやってできるの?
何らかの、「これは客観的だ」と言えるものがある、ということになったりしないのかねw
>>420 >しかし、客観的であると私が認識している感覚と、そうでない感覚、という区別はあるの?
当然あるだろ。例えば夢。夢は客観的(現実)では無い、と誰もが認識しているはずだ。
どうやって区別しているのかという問題は、まあ現象学の話になるんじゃないかな。よく分からん。
>何らかの、「これは客観的だ」と言えるものがある、ということになったりしないのかねw
ならない。まず、主観は客観では無い。だから、客観性を証明するには主観を排する必要がある。
言い変えれば、主観で無いものが客観となる。ところが、常に想起の起点となるのは主観である。
だから客観性を証明する事は常に矛盾する。客観的で無い主観が証明しようとするからだ。
客観性を証明するには、主観では無い何か客観的な存在が必要となる。
例えば計器類が客観的だと思われているけど、それを確認するのも結局は主観(目)である。
我々は、単に「計器が客観的な数値を示している」という認識(主観)にそって行動しているに過ぎない。
>>421 ふむ、そんなら、例えば
・「『家の庭の地下10mに1億円の金塊が埋まってる』という夢」
・「『家の庭の地下10mに1億円の金塊が埋まってる』という妄想」
・「『家の庭の地下10mに1億円の金塊が埋まってる』という正しい記憶」
の区別をつけることはできるのかね
家の庭の金塊に関する客観的事実を何らかの形で確認しないで、これらの区別をつけることができるのかね
いや、できるのなら、万々歳でいいのかもしれんけど
その記憶に「正しい」という確信があるのなら、掘るに決まっている。
922 :「機械的唯物論」者:2010/06/06(日) 00:53:01 0
>>918 もう一度、確認しておきましょう。いいですか。
人間の脳が「物質」であることには、誰も異論がありません。
しかし、脳内には物質以外の「何か」がある(筈)と考える人が居ます。
・・それは願望思考・自己欺瞞という「観念論的誤謬」です。
人間の脳を構成する千億個の神経細胞は軸索を伸ばし、突端から
分泌する神経伝達物質で、他の神経細胞に情報を伝えるだけです。
勿論、脳内には核分裂のような原子核反応もありません。
分子生物学と生理学の対象分野「分子レベルの現象」が全てです。
要するに、宮台も大澤真幸も、オウム真理教にショック受けてるんです。
しかし、オウムとか、AKBの食い込み汚れパンツにショックなんて受けてどうすんの。
舞台の上で「今(オシッコが)出た」と言って、
舞台をやりながらオシッコをしてしまうことだってざら・・・ということです。
大澤なんて、顔が林家ぺーに酷似しています。
以上が「超・大統一理論」=量子論と相対性理論の統一後に残存し得る
『唯一の最終真理(思想)』の輪郭です。全宗教全観念論は徒労です。
本日は就寝させて戴きます。
確かに、「掘ればいい」のは間違いないんだが、しかし結構疲れるわなw
いや、本当に「掘ればいい」のか?
掘ってみて何もなければ、妄想あるいは間違った記憶だった、ということでいい(ように見える)
では、掘ってみて金塊が見つかった場合は、「正しい記憶」になるのかね?
私の記憶という主観的なものが正しいかどうか確かめようとして掘ったら、私が金塊を見ている感覚という
主観的なものが得られたわけだが、そんな主観的なもんで、主観的な記憶の正しさが
確認できたことになるのかね
426 :
考える名無しさん:2010/06/20(日) 04:21:05 0
「記憶に間違いはなかった」と確信したのに、
「はたして本当に確認出来たのか」という意識が生まれるのは、
その判断が露呈することによって生ずる事態を想定するからだろう。
>>425 普遍的な正しさが無い、というのも懐疑論の導くところのものです。
正しさの確認といいますが、絶対に正しい、という事を確認する事は出来ないのです。
何故なら、懐疑され得るから。>425の考え方とは、まさに懐疑ではないでしょうか。
客観性、普遍性といった物は無い、というのが懐疑論的な考え方だろうと思います。
では主観の正しさは誰が決めるのかと言うと、やはり主観以外には無いだろうと思います。
確認とは、主観にとって疑いが無い状態にする事であって、客観的な正しさを保証するわけでは無いです。
言葉の選び方が雑な人が多いね
429 :
考える名無しさん:2010/06/20(日) 09:55:40 0
自分だけのことなら、保証は発生しない。
実社会では「ホントにホントにそうか?絶対か?」と他人から念をおされる。
教えたり意見する事に責任が発生する、保証しなきゃなんねぇ、と思う。
だから、自分の判断や見解を表明する事に臆病になるんだぜ。
それで「記憶違いと言う事も、錯覚と言う可能性も、夢だったと言う可能性も」
とあらかじめ前置きしておいて、責任をできるだけ回避しようとするんだぜ。
「誰にとってもそうであるとは言えません。あくまでも個人的見解です。
それが許されないのなら、態度表明は差し控えさせていただきます」となるんだぜ。
主観の正しさを決めるのも主観であると、ふむふむ
そうすると元に戻って、錯覚とは、結局何だということになるのか
10m掘ったら金塊が見えた!と思って手を伸ばしたら、何もなかった
(あるいは黄色いゴミだった)
これは錯覚なのかね?
錯覚だとして、どういう説明になるのか
主観的に見えたことが、主観的に触ってみたことと違うから、見えたことのほうは錯覚だった?
しかし、触ってみたことのほうが錯覚で、見えたとおり金塊があったほうが、楽しいのだがねw
まあ楽しいかどうかはともかく、どっちが錯覚なのかは、どうやって決まるのかね
あるいは別の発想で、金塊が見えたことも、触ってみたら金塊がなかったことも、どちらも錯覚じゃないんだが、
実は触る直前に金塊が消滅してしまった、と
(そして、ちょっと目を閉じてまた見たら再登場して、また触ったら再消滅するのかもしれない)
そうでないと言えるのかね?
>>430 簡単な話で、その時どう思ったかですね。
主観にとって、それは金塊では無く黄色いゴミに見えたというお話。
色々(主観的に)確認してみても、やっぱり黄色いゴミにしか見えない。よって黄色いゴミでしたと。
どっちが錯覚なのか、それを普遍的な意味で確認する事は出来ないというのが懐疑論です。
ですから、客観的にどちらが錯覚か、と言う懐疑は永遠に解消されないわけです。
>430の疑問は「本当は」どうなのか、という考え方に思えるんですが、
そういう普遍的な本質もまた客観同様に否定されています。
432 :
考える名無しさん:2010/06/20(日) 12:02:21 0
相手や自分が困ると言う想定が無ければ、疑いに陥ることはない。
自分が主張する事で相手にされない事態になるのは困ることなので、
「言う・教える・主張する」ことに慎重にならざるをえないだけである。
「言える」という表現は、主張しても困ると事態にはならないという確信である。
確信したところで、それを主張しなければ、困ると言う事はないだろう。
それが間違いがない事の証明を求める必然性もないのである。
>>431 > 主観にとって、それは金塊では無く黄色いゴミに見えたというお話。
> 色々(主観的に)確認してみても、やっぱり黄色いゴミにしか見えない。よって黄色いゴミでしたと。
このへんを見ると、主観的な感覚でよく確認したものは正しい、という話のように見える
しかし、
> どっちが錯覚なのか、それを普遍的な意味で確認する事は出来ないというのが懐疑論です。
> ですから、客観的にどちらが錯覚か、と言う懐疑は永遠に解消されないわけです。
このへんを見ると、主観的な感覚では正しいかどうか確認できない、という話のようにも見える
ふむ?
まあ後者を取り上げて見ると、それでは、今度は正しい認識というものが全然あり得ない、
ということになってしまわないのかね?
いや、「そのとおり、それこそが懐疑論だ」ということかもしれないけど
しかし、では例えば、
「金塊に見えて、よく確認したら、黄色いゴミだった」
「金塊に見えて、よく確認したら、やっぱり金塊だった」
この二つは、どちらも同じように、正しい認識では全然ないのかね?
懐疑論者なのにずいぶん饒舌なんですね
自分の言葉には「懐疑」しないんでしょうかw
>>434 懐疑論に反対する奴ってこの手の勘違いしてるのが多いな。
懐疑論者は全ては疑いうる、という考えをもってるやつのことであって
全ては疑っているとは限らないよ。
説明されてもこの違いが理解できないなら、もう手の施しようがないけど。
>>433 その辺は語弊を招く表現だったと思います。
>主観的な感覚でよく確認したものは正しい
繰り返しますが、普遍的に正しいという事はありえないわけです。
主観が正しいと判断するかそうでないか。そこに深い意味も本質的な答えも無いんですよ。
>この二つは、どちらも同じように、正しい認識では全然ないのかね?
正しい認識、とは何に対して正しいのでしょうか?それを考えると、客観性や真理、本質という
言葉に行き着くと思います。客観や普遍性が無いのではないか?という考え方が懐疑論だと
思いますので、懐疑論から言えば正しい認識というものは成り立たないと思います。
だべ君は変化なしですね。。。
場当たり的に「懐疑可能である」と発話できるということは
その懐疑の刹那、懐疑可能性を担保する主観の能力に帰依している、ということでしょう。
もぐらたたきのように、いくらでも叩けるが、
しかし、いくら叩こうが、全体を破壊することはできない。
それはいかなることを意味するのか。
嘘くさい懐疑を成立させる、その作為的な構造を疑ってみてはどうか。
>>434 だよね。ここの懐疑論者は懐疑どころか確信に満ち満ちている
>>437 > 正しい認識、とは何に対して正しいのでしょうか?
それはもちろん、客観的なものごと
金塊の例でいえば、実際に金塊だったのか、あるいは実際には黄色いゴミだったのか、
という実際の事実
ともあれ、客観とかいうものはない(のではないかと疑える)というなら、正しい認識なんてものもない、
ということになって、それはそれで一貫しそうですな
どうも、よくわかりました
まあ、実際ほんとにそんなふうに疑って生活してるもんだろうか、とかいう疑問はなくはない
例えば、ドアを開けたらその先は廊下じゃなくて奈落の底になってるかもしれない
いやそれどころか、ドアを開けたらその先はちゃんと廊下に見えたのだが、でも踏み出したら
実は奈落の底かもしれない
(厳密には、踏み出す前は廊下に見えたのだが、踏み出した瞬間その見えはなくなって、
足が廊下に触る感触もなくて、下に落ちる感覚が続いて…となるかもしれない、とでもいうべきか)
懐疑論者は、普段そんな怖い生活を送ってるのかね
しかしそれには、生活と懐疑は関係ない、といえばいいのかね
>>440 多くの人が勘違いしてますが、懐疑論とは「疑い得る」という事を指摘しているのであって、
「常に疑うこと」を推奨しているわけでは無いのです。その事は>435さんも言われていますが。
繰り返しになりますが、客観や普遍性という概念の不備を指摘するのが懐疑論です。
ドアの先には何も無いかもしれない、そういった考え方を突き詰めると、生きる事の意味が無い、となります。
何故なら、今信じている世界は一瞬で消えてしまうのかもしれないのだから。
生きる事に意味はありませんし、運命的な価値もありません。しかしながら、主観的な価値はあります。
>客観とかいうものはない(のではないかと疑える)というなら、
客観が無いというよりも、懐疑され得るようでは客観という概念が成り立たないと言う事でしょう。
何故なら、客観とは常に正しいという概念であるからです。つまり、懐疑の余地が無いはずの概念ですので。
懐疑され無いはずの概念が懐疑可能である、それが懐疑論の展開じゃないでしょうか。
442 :
考える名無しさん:2010/06/20(日) 23:10:13 0
ィ";;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;゙t,
彡;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ヽ
イ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;r''ソ~ヾ:;;;;;;゙i,
t;;;;;;;リ~`゙ヾ、;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ノ i,;;;;;;!
゙i,;;;;t ヾ-‐''"~´_,,.ィ"゙ ヾ;;f^! / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
ト.;;;;;》 =ニー-彡ニ''"~´,,...,,. レ')l. < おまえたちはいったい何を言っているんだ
t゙ヾ;l __,, .. ,,_ ,.テ:ro=r''"゙ !.f'l. \____________
ヽ.ヽ ー=rtσフ= ; ('"^'=''′ リノ
,,.. -‐ゝ.>、 `゙゙゙゙´ ,' ヽ . : :! /
~´ : : : : : `ヽ:. ,rf :. . :.: j 、 . : : ト、.、
: : : : : : : : : : ヽ、 /. .゙ー:、_,.r'゙: :ヽ. : :/ ヽ\、
:f: r: : : : : : : : !丶 r-、=一=''チ^ ,/ !:: : :`丶、_
: /: : : : : : : : :! ヽ、 ゙ ''' ''¨´ / ,i: : : l!: : : : :`ヽ、
〃: :j: : : : : : : ゙i `ヽ、..,,__,, :ィ":: ,ノ:: : : : : : : : : : : :\
ノ: : : : : : : : : : :丶 : : ::::::::: : : : /: : : : : : : : : : : : : : : :\
>>441 >懐疑論とは「疑い得る」という事を指摘しているのであって、
それって素朴実在論であり、素朴心理学(つまり常識)ですよw
444 :
考える名無しさん:2010/06/21(月) 01:36:48 0
多くの人が勘違いしている=多くの人が馬鹿。
「多くの人が勘違いしている」と言う人←多くの人から見ると勘違いしているのはお前の方
↑
多くの人から見るとこいつが馬鹿。
445 :
唯意味論:2010/06/21(月) 13:48:09 0
>>443 そのとおり。ヒトにとって懐疑は当たり前の(常識的な)営為である。
けれども「ドアの先には廊下がある」というのは、疑うのが難しい。
不可疑、といってもいい。
この不可疑の確信は、私と他者の経験(の一致)からもたらされる。
ただし、私と彼らによって認定されたその事態を“客観的事実”と
断じることはできない。私と彼らは、確信を抱かせる一つの現象を
共有しているにすぎない、ともいえるからだ。
フッサールも素朴実在論なんだw
素朴に、つまり現象どおりに、言いかえれば見た目そのままに実在するものなどありません。
物理的対象だろうと現象だろうと
それを「疑いうる」ものとするかぎり
その人は実在論者だよ
何だかちょっと微妙な話になってきたような気がするのだがね
庭を掘ったら金塊のようなものが出て来た!しかし本当に金塊なのか?と疑ってみる、ここまではいいとして…
いろいろ調べて、他人(特に専門家)の意見も聞いて、確かに金塊らしい、そうなったら
実際に金塊だという正しい認識ができたと考える
(もし、また疑問が出たら、また調べてもいいが、よく調べれば正しい認識ができるということは前提)
まず、これが一つの考え方か
一方、それと別に、どんなによく確認しようが、そもそも客観と一致する正しい認識
なんてものはあり得ない、と考える
これも一つの考え方か
前者は、程度の問題はあるだろうが、まあ常識的な考え方の範囲内じゃないかね
このスレで話題になってる懐疑論は、そうではなくて、後者のような、そもそも
正しい認識なんてものはあり得ないという考え方なんじゃないのかね?
>>448 それでは自分の感じる全ては幻だとする立場も実在論になってしまうけど、
そうすると実在論ではない立場とはいったいどういう立場なんだい?
認識したものが全てであって、それ以外の物理的対象だの何だのは関係ない、という考え方が、
ひょっとして実在論的ではない考え方になるのかねえ
>>450 >それでは自分の感じる全ては幻だとする立場も実在論になってしまうけど、
「幻」と感じるということは「幻でないもの」の存在を認めてるわけだから実在論だよ
>そうすると実在論ではない立場とはいったいどういう立場なんだい?
実在論の最も簡単な定義は「『真である』と『真であると思う』を区別する立場」だよ
>>448 「疑い得る」とするならば実在を想定している。
その通りだー。はっは
まあ、私の理解なんかは貴方から見ればとんちんかんかもしれんので、
もう少し語ってください(懇願)。
懐疑君は、「全ては主観が判断する」と言いつつ「主観は疑い得る」とも言ってしまう。
これはダブルスタンダードなのでしょう。
黄金かゴミか、全てが主観まかせなのであれば、
懐疑の対象など無く、「懐疑」なる言葉が宙に浮いているでしょう。
456 :
考える名無しさん:2010/06/22(火) 00:00:52 0
悲しい馬鹿さん達がおどりはじめました。
>>454 どんな懐疑論でも「主観は実在する」
だから実在論だってことか?
458 :
考える名無しさん:2010/06/22(火) 00:04:00 0
459 :
考える名無しさん:2010/06/22(火) 00:52:35 0
>>458 悲しいコビトさんが
2ちゃんの木陰でそろって踊っております
200年前から変わらない音楽に乗って
♪主観存在実在論
♪対象認識普遍性
コビトさんは馬鹿なので200年前の音楽で
あいも変わらない踊りを踊るしか無いのです
あ〜ほ〜いほ〜いよどんじゃらほい
460 :
考える名無しさん:2010/06/22(火) 01:23:28 0
なんかこのスレには哲学板の論客コビトさんたちが
揃っているそうです
なんてちっちゃいんでしょう!コビトさんたちはw
踊っている姿がほとんど見えませんw
461 :
考える名無しさん:2010/06/22(火) 01:23:56 0
人間は生き物であり、素朴実在。
意識を失い、何も考えていなくても人間。
つねに主観主体たりえないのが人間。
さて、このへんから、懐疑してみませんか。
462 :
考える名無しさん:2010/06/22(火) 01:34:08 0
短期記憶を否定的にとらえてら(疑ったら)、
「こうして考えているわたし」が成立するはずもありません。
このへんからも、懐疑してみませんか。
463 :
考える名無しさん:2010/06/22(火) 02:33:56 0
>>461 >>462 コビト馬鹿さんから再びダンスのお誘いがありました!
さあ馬鹿なコビトさん達!またあの主観実在うんぬんのあいも変わらないダンスをはじめましょう!
盆踊りよりつまらない古いダンスですが
踊っているあなたたちコビト馬鹿さん達の必死の表情がちょっと面白い場合もあるかもですよ。
464 :
考える名無しさん:2010/06/22(火) 02:48:13 0
うかれているのではなく、
必死の表情が見えてしまうんだねw
まいったなぁ
小人と聞くと、某映画の
In heaven everything is fine♪
In heaven everything is fine♪
と歌う小人を思い出すな
あの描写のような異常な感覚が起ころうとも、「これは幻で本当は違うのではないか」とは
考えない、というのが実在論的でない考え方?w
何にしても、こういう場合、小人の姿が見えて声が聞こえる(話が一応理解できる)ならば
その人も仲間、同類だ、というのが当然のパターンですな
466 :
考える名無しさん:2010/06/22(火) 12:37:53 0
コビト馬鹿さんの懸命のお誘いにもかかわらず
一緒に古い踊りを踊るコビト馬鹿さんたちがなぜか去ってしまったようだ。
どうしたコビト馬鹿さんたち!
馬鹿がすることに条理はないと思うが
急にあの
♪主観存在実在論
♪対象認識普遍性
のあいも変わらぬ萎びた必死のダンスが消えると
馬鹿の馬鹿病がとうとう脳を食いつくして
死んだのかと寂寞の感も少しある。
まだ馬鹿病がそれほど進んでないなら
ほれ懐疑論否定の踊りを踊れよ。
468 :
考える名無しさん:2010/06/23(水) 02:49:34 0
暇爺w
469 :
考える名無しさん:2010/06/23(水) 03:02:00 0
さすがにコビト馬鹿さんちょっと怒っちゃった
コビトなので小さいし
馬鹿なので言葉少なだけど
哲学板の懐疑論者に限っていえば、ただ不毛だなぁと思うのみ・・・
別に否定する必要はない。
黙って通り過ぎるだけだな・・・w
右から左へ 受け流す〜
>「疑い得る」とするならば実在を想定している。
どうもこの辺りの解釈にズレがある気がします。
実在を想定する事と、実在が在る事は別問題です。
アイドルと付き合う事を想定する事は出来ますが、それがイコール現実になるわけではありません。
>懐疑君は、「全ては主観が判断する」と言いつつ「主観は疑い得る」とも言ってしまう。
>これはダブルスタンダードなのでしょう。
ちょっと意味が分かりません。ダブルスタンダートにはなっていないと思います。
主観と客観の概念から言えば、主観は曖昧なものです。ですから、疑い得る。
主観が判断する事と、それを疑い得る事の矛盾点は無いように思えます。
実在が無ければ錯覚が無いでしょうか?その考えは間違いであると思います。
メビウスの輪がありますが、あれには表も裏もありません。
しかし、主観から見て「表にしか見えない」部分があるわけです。その逆が裏、となります。
これは、ちょうど主観から見て客観的としか思えない事象と似ています。
主観から見て実在と思える部分がある。その逆を錯覚としてきたわけですが、
懐疑論の論点からいくと、「実在と見ていたが、厳密に言えば実在とも錯覚とも言えない」となります。
メビウスの輪に表も裏も無いように、実在と錯覚も明確に区分できないわけです。
実在は無くとも、実在であると思い込むことは出来ます。これは実に主観的な判断です。
その思い込みから、錯覚の判断もできるのです。そしてその判断は主観的故に疑い得るわけです。
解釈のずれが云々と言われるなら
ステハンぐらい付けてもらいたいですね。
まあ個人の自由ですけど。
貴方が「主観は曖昧なものである」とするのは
実際にどのような事態を想定しての話ですか?
>実在が無ければ錯覚が無いでしょうか
そんなことを言った覚えはないが。
錯覚には法則性がある、とは言ったように思うが。
私が特定のアイドルAと付き合う
私が一般のアイドルXと付き合う
私がアニメキャラのAと付き合う
私が山田ポポさんと付き合う
私が惑星XのY星人とつきあう
私が6次元の存在者Zと付き合う。
想定可能性は最後には無くなり、妄想となる。
「言葉だけの遊び」にすぎない。
(私の使う「妄想」は「空想」とは違い「想定不可能な言葉遊び」の意味です)
「懐疑の前提として実在を想定する」とはどのレベルであると思うのか?
その実在が妄想なら、「懐疑する余地」など妄想に帰するのではないのか。
477 :
考える名無しさん:2010/06/23(水) 23:03:25 0
1つの懐疑論。
論理的、数学的、物理的、道徳的、人道的、宗教的、歴史的・・・
人間はさまざまな考え方をし、それなりの正しさを見いだしてきたが、
あらゆる場面で適用できる万能の(絶対の)正しさを見いだせない。
「生まれ」の判定や「死」の判定さえ便宜上のものである。
いったいこれを行う事で発展するのか、後退してしまうのか、分らない。
論理的思考は、自らの気持ち・感情の非論理を解消することはできない。
人間たちが見いだす問題はあちらを立てればこちらが立たず。
つねに暫定的な、便宜上の決着をみるだけであり、
補正に補正を重ねるだけであるから、根本的な解決に至らない 。
自らの「知恵・認識力の乏しさ・愚かさ」を知ることになるが、
前進できない虚無性は否めないのであり、先に進みたい意識と裏腹である。
479 :
考える名無しさん:2010/06/23(水) 23:59:51 0
>>478よ
あれはな一般懐疑論なんだぜ
おまえのほうが、とちくるっとるよ
>貴方が「主観は曖昧なものである」とするのは
>実際にどのような事態を想定しての話ですか?
どのようなも何も、そもそも主観とは曖昧で確かで無い物、という前提があると思いますが…
主観と客観の概念とは、不確かな物と確かな物という違いでしょう。
>「懐疑の前提として実在を想定する」とはどのレベルであると思うのか?
>その実在が妄想なら、「懐疑する余地」など妄想に帰するのではないのか。
懐疑する上で実在の有無は関係無いという話なので、特に想定する必要はありません。
強いて言えば、主観から見て実在としか思えない事があるが、それは主観の思い込みである事を
否定しきれないので、実在が有るという事には繋がらないと言っておきましょうか。
懐疑論の論ずる、確かな物の否定において、懐疑する余地とは、客観と言う概念に対してあれば良いのです。
客観とは、普遍的で確かな物という概念ですので、懐疑される余地があるはずが無い物です。
しかし客観が懐疑する余地があるとすると、客観と言う概念には不備があったと言えます。
481 :
スモ:2010/06/24(木) 02:39:20 0
「日本がカメルーンに勝って、オランダに負けた」のは事実だ
その事実は疑えるが、事実そのものは疑えない(消せない)
私が経験したことは疑えない
その経験は疑えるが、経験そのものは疑えない
「日本が本田のゴールでカメルーンに勝利した」ことは真実だ(と私は信じている)
この内容を疑うことは可能だ
「本田がゴールを決めなかった」
「カメルーンとは対戦していない」
「2010年にW杯なんてない」
しかし、そんなふうに疑うのはどこのドイツだ?
おそらく、同じ(事実の)経験にコミットしていない他者がそれを可能にする
もちろん私はその「疑い」を理解できるけれども
私は「私の経験」を疑えないのだ
(経験を疑えないことは、私の経験が真実だと言えることにならない)
「本田がゴールした」事実を真実として証明することは容易ではない
「同じ経験」の多数決ではもちろん証明されない
いや・・・おそらく証明できない
482 :
スモ:2010/06/24(木) 02:40:01 0
ちがう、論点はここなのだ
>私はその「疑い」を理解できるけれども
私の経験することに何事かを言えるためには、私の経験しないことが要請されるということだ
だから、その「疑い」を認めることができる
私が今こうして思考して書いているときに、
例えば抄録氏が何をしてるかなどは知らない、経験できない
しかし、それは「事実」として起こっている
私はその「事実」を疑うことはできる、しかし、その何事かの「事実」は疑えない
「事実」は「わたし」だけでは生起しないのだ
そして「わたし」にとって生起する事は、
「わたし」にとって生起しない事が、生起していることを含むのである
「疑い」の源泉は、その>「わたし」にとって生起しない事、である
超転回になるが、
例えば「本田がゴールした」事実を真実として証明するためには
「本田がゴールした」以外の事実(すなわち経験の総体)が確認されることで完了される
写像なり、照応関係におけるような橋渡し的な方法では、その証明は真とならない
「事実」は一つしかない、一度しかないということは、比較は意味をなさない
系が一つであることの証明手段は、ボルヘスの地図を完成させることで確認するより方法がない
483 :
スモ:2010/06/24(木) 02:44:04 0
むしゃくしゃしてやった
推敲してない(やっても自信ない)
だんだんトンデモスレになってきたな
485 :
スモ:2010/06/24(木) 03:27:46 0
>この内容を疑うことは可能だ
>「本田がゴールを決めなかった」
>「カメルーンとは対戦していない」
>「2010年にW杯なんてない」
このあたりが安っぽい誤解を招きそうだけど、うまくいえない
水槽脳にしても夢にしても5分前世界創造説にしても
事実を疑っても、事実そのものは疑えてないんだよな
むしろ事実が前提されてる
「経験」は「主観」と似たようなものだけど
「事実」ってものから攻めようとしたときに「経験」が浮かんだ
ただ「主観」とか「客観」とか「実在」とか使いたくなかったともいえる
なんだろうな、疑えることと疑えていないことを考えていたのと、
どうやって「わたし」という部分から全体が把握(全体の保証)されるかがテーマかな
486 :
スモ:2010/06/24(木) 03:50:38 0
疑問に感じてることを簡潔にいえばこうだ、
「りんごは物ではない?」と言うとき
これは「疑い」として正当なのだろうか?
「問い」といわれれば違和感がない
じゃあ「問い」と「疑い」はどう違うんだ?
「疑い」は事実が前提されてる
「問い」は何も前提されない
ということか?
同じか?w
え?どうなんだ?
ダメだな、、、、狂ってきてる
487 :
スモ:2010/06/24(木) 03:54:15 0
ぐわっw
疑問・・・・
>>480 “貴方の中”で成立している構造は、まず
主観:曖昧で不確かなもの
客観:懐疑される余地のないもの
ですわね。
で、貴方は、貴方の主観内に成立する「客観“的”な観念A」について、
それは主観だから「不確か」である、と作為的に断定している訳です。
なんせ前提ですから。
この「客観的な観念A」は主観であり、懐疑され得る、とするわけですから、
これは、貴方の構造の中では、「客観」とはまったく別のものでしょう。
なぜなら客観とは懐疑される余地のないもの、としたので(貴方的には「前提」により)。
この構造では、客観があったとしても知り得ないだけ、となり
貴方の望むような「客観の概念の不備」なる結論は得られないでしょう。
>どのようなも何も、そもそも主観とは曖昧で確かで無い物、という前提があると思いますが…
主観とは成立する主観内現象の総体であり、
作為的な抽象概念とは違うでしょう。
貴方も自ら(に起こる現象)を内省することにより
「主観が判断する」等の発言があったのではないのですか。
それを「主観は不確かであることが前提である」とか、おかしいとは思いませんか。
主観が不確かであると判断する根拠は無かったのですか。
(無いってんならもーいいよw)
スモ氏
貴方は空気の薄いところまで登ってしまっとるね。
しかし不思議に貴方の思いは私にも理解できる
・・・ような気もする(気のせいだな)。
俺なんて推敲なんぞする気もない。
誤字脱字悪文の大安売り。
しかし気にしない。恥は書き捨て。ふっ
490 :
唯意味論:2010/06/24(木) 17:29:44 0
>>488 懐疑氏
>>480 のいう客観は(カントの)物自体とほぼ同義。
主観がそれに一致することはない、というのが彼の主張でしょう?
“客観”の概念を定義するのは可能でも、客観(実在)の全容を具体的に示す
ことはできない、と私なら述べるところ。
抄録さんの論旨で気がかりなのは、客観(実在)を強調したいあまり、
それに対峙する主観の絶対化に向かっているようにみえること。
しかし、実在の根底は幽霊の足のように不在かもしれません。
おっと、この比喩は逆か。こういうべきか。
主観はどこまで深く突き進んでも、ついに存在の基盤に“足”を
おろすことはできないかもしれない、と。
だれかが似たようなことを言っていたようにも…w
491 :
スモ:2010/06/24(木) 20:58:26 0
「りんごは甘い?」と疑うことは
例えば「りんごは辛い」を想定しなければいけない
「甘い」と「辛い」は同クラスの差異となる
しかし、
「りんごは甘い?」と問うことは
例えば「りんごは赤い」と答えることができる
この「甘い」と「赤い」は異クラスでの差異となる
「りんごは甘い?」と疑うことで、「りんごは赤い」と答えることはない
いやちがう、
>「りんごは甘い?」と問うことは
>例えば「りんごは赤い」と答えることができる
ここはおかしい
例えば「りんごは果物」と答えることが正しいか?
「甘い」と「果物」の場合は異クラスでの同定となる
「疑う」ことは平行のベクトルであり、
「問う」ことは垂直のベクトルである
強引にそんな比喩逃れで締めくくろうか?w
では、
「りんごは物質?」と疑うことはどういうことか?
「物質」と「観念」は同クラスの差異といえるだろうか?
それとも、
物質」と「観念」は異クラスの差異といえるのだろうか?
いやはや、異クラスでの同定であるとしようか?
「りんごは情報である」
「りんごは規則である」
そう答えることはいったいどのように捉えたらよいのだろうか?
ぜんぜんしっくりいかない・・・用語も論考の仕方もアバウトだなこれじゃあ
492 :
スモ:2010/06/24(木) 21:06:38 0
抄録さん
気のせいですよ
でもね、貴方がギャフン!!とするような理解をさせられないかなあ、と狙ってたりはしますけど
まあちょっと、というか私の頭じゃかなり足りません
(ぼくが正しくて貴方が間違っている、ということの意味ではありませんよ)
>>488 その解釈で合っています。しかしまさか主観と客観の概念で違いが出るとは思いませんでした。
主観が不確かであるという話なら、見間違い、聞き間違い、印象の違いなどがあげられると思います。
簡単な話をすれば、「この丼は美味しいと思っていたけどやっぱり不味かった」という事なんかがありますね。
普遍的に美味しいわけでは無い。しかしながら、不味いという判断もまた何時覆るか分からない曖昧なものです。
逆に言えば、主観が確かであるというならば、主観の反語として捉えられている客観とは何を指すのでしょうか?
広く一般的に言えば、主観的な意見は曖昧であるとされ、客観的な意見は正しいとされていると思います。
その常識を否定するのが懐疑論だと思います。
>客観があったとしても知り得ないだけ、となり
これは客観という概念からいけば不備となるでしょう。知り得ない物が確かにあるとは言えないわけですから。
494 :
スモ:2010/06/24(木) 21:28:52 0
経験するとは「わたし」が他者と関係することだ
りんごと出会うことで「りんご」を知るのではない
「わたし」と「りんご」との「関係」を知るということだ
わたしのりんごとの関係は、
誰かのりんごとの関係とは異なる
その対象は同じであって同じりんごを意味しない
私がその対象と出会ったとき、それを「ふじこ」と記した
誰かがそれを「みねこ」と記す
そして私と誰かは、「ふじこ」と「みねこ」を「りんご」として共通することにしたのだ(そのことの不思議)
しかし、それはあくまで規約であった
「ふじこ」と「みねこ」はちがう
けれどもそのことは風化してしまった
今では「ぶどう」と聞けば皆が共通する「それ」(ぶどう)があると思い込むようになった
「ぶどう」が在って、私と誰かが確認するのではない
私たちは「ことば」に囚われてしまったのだ
「ことば」は私たちから離れてしまった
私たちが「ことば」を操ってるのでなく、「ことば」が私たちを使役するようになったのである
でもでもそれはナンセンス・・・
「ぶどう」は在ったのだ
それですべて解決される
しかしもちろん・・・
ま だ ら ん よ !!
495 :
スモ:2010/06/24(木) 21:32:57 0
てか、
オレ続けていいのかしら、こんな混乱した頭で
明らかにトンデモの兆候がw
続きはご飯食べてから考える
この気分リミットはデンマーク戦が始まるまで
>>489唯意味論氏
んー
>>493 w
>スモ氏
!
スモ氏はとんでもじゃないと思う。
合理的、自覚的と思う。
貴方の思考を邪魔するのがもったいなくて突っ込めない。
しかし俺へのアンチテーゼの部分もあるようなので(自意識過剰か)
そこは詳しく訊きたいところだ。
ぎゃふんと言うかもしれん。
意味不明な議論してるな
498 :
スモ:2010/06/25(金) 03:28:21 0
難しい・・・
続きを考え始めた第一声のメモは「笑えるくらいに難しい」だった
今は素で考えながら「う〜ん」と唸ってる
テーマは簡単だ
「観念」だけでもってどうして「個・もの」を判別できるか?
「物質は観念(主観)に先立つ」または「観念は物質に依存する」
これをどう反論できるか?
または、観念における方向からどのように深く理解できるか?
なんでこんなまわりくどい設定して考えたりするんだろな?
オレもわかんねえや機械さん
でも無駄でない行為にしたいんだよ、たぶん
思考の跡をメモってるけど、
自分で少しでも「はっ!」と思えるような展開がない
だから今はPASSする
499 :
唯意味論:2010/06/25(金) 10:06:53 0
>>498 観念と物質にまつわる君の、その言表がおかしいのです。
物質とは“物質なる観念”あるいは“概念”の謂いです。
ヒトには現前の所与、すなわち現象しかない。
「観念が物質に依存する」のではなく、私(主観)が現象と相関していて、
それを表徴し、思惟し、差異化(意味づけ)しているだけである。
“物質”という観念も、そのようにして表出されたにすぎない。
物質の正体(その根源と由来)は、いぜんとして謎である。
「依存」という言葉をつかうなら、主観(私)と客観(現象)は相互依存している、
というしかない。が、存在(ある)は主客に先立っているはずである。
重要なのは世界を解釈することではなく世界を変革することである(K.マルクス)
501 :
スモ:2010/06/25(金) 19:34:21 0
>>499 わかるんだけどさ
>私(主観)が現象と相関していて、
>それを表徴し、思惟し、差異化(意味づけ)しているだけである。
それがどうして可能なのか?を問うてみたいのよ
なぜそれができるように「顕れる」のかを
>主観(私)と客観(現象)は相互依存している
>存在(ある)は主客に先立っているはずである
主客の相互依存している世界観から、主客に先立つ超越観が推考されるとして
その超越観から、その主客相互の世界観を推出できないと
その超越観とその世界観とはまったく関連されない(というか超越観なんて不要だ)
言い換えれば、
主客相互の世界観の土台に存在(ある)という超越観が推定されるようには両者は重ならない
昨日考えていたのはこういうことだ
もし神が、その超越観でもって世界を見るとき
どうやって個体(または規則、総じて世界内事象)を判別するようなことが可能か?と
もちろんそんなことする必要はないんだろうけどさw
意味とか概念とか、主客相互の世界における「ねじれ」による産出だとして
それが「そうなる」仕組みをどうやって、一元的だと推設してしまう超越観から導きだせる?
しかし一元的とはどういうことか?
無限であったり無規定であることは一元的ともいえる
そこからどうやって、有限や規定を、唯物的であったり観念的であったりを、存立させられる?
502 :
スモ:2010/06/25(金) 19:52:59 0
この超越観ってのは微妙だなあ
一元的に解釈しようとするところに、
何か大きな勘違いの陥穽になってるような気がする・・・
>>497 簡単に言えば、客観という概念が実は成り立たない、という話になると思う。
それがどうしたって話に思えるだろうけど、例えば価値の基準とは客観的な物に置かれている事が多い。
客観的な意見、客観的に正しい物を集めた学問、あるいは人類の普遍的な目標等々。
懐疑論からすれば、それらは全て特別な意味を持たない。
主観的な意見、例えばあの時食ったソバが美味かった、なんていう思いと等しい価値しか無い。
504 :
唯意味論:2010/06/25(金) 20:53:46 0
>>スモ君 鋭いですね。
酔っているので、明日、答えられる範囲でそうします。
なぜ可能か、ではなく、そうするしかない、ということです。
現に、そうしている。そのいみで、私が神でないことは明白。w
一元論は、疎外的産物。それは私が二元論だからです。
「客観的」とは回答を単一に固定することを言うのか
ある人が「このそばはうまい」と言ったとして
それは客観的に考察するに値しないのか、、、
回答を単一に固定できるような設問など一つたりとてあるのだろうか
いろいろと疑問ではある
506 :
スモ:2010/06/25(金) 22:57:34 0
唯物論を否定するためにはどうしたらいいか?
りんごは「辛い」のでなく「甘い」のならば、「辛い」は否定される
同じように、
りんごは「物質」ではなく「観念」だから、で否定されるのだろうか?
いやちがう、
りんごは「甘い」し、りんごは「赤い」と同じように
りんごは「物質」であり、りんごは「観念」であると答えるのが正しいのか?
いやいや、
りんごは「甘い」し、りんごは「果物」であるというように
りんごは「物質」であり、りんごは「観念」であると答えるとすれば
それは含意されることで唯物論の否定にはならない
以上のどれが、「物質」と「観念」の関係として正しいのか?
しかし、「りんごは甘い」から「りんごは辛い」は正しくないと判断する根拠はなんだ?
そのようにして、唯物論が正しく観念論が誤りであるとはどうやって判断できる?
「りんごは甘い」し「りんごは果物」であるように
物質と観念のどちらが先立つ(本質的or根源的)と問えるのだろうか?
しかし「りんごは甘い」ことを知ってるからこそ「りんごは果物」が導き出せるのであって
「りんごは果物」から「りんごは甘い」を導き出せるだろうか?
抄録氏は「りんごは書物」から「りんごは甘い」を導き出せない
だから、「りんごは書物」と想定することは宙に浮くし疑いにならないと指摘してきた
以上は今思いついたことのやっつけ、です
サカー見る
507 :
考える名無しさん:2010/06/25(金) 23:42:59 0
観念論は、人間と言う素朴実在を
観念的にどのように処理するのだろうか
人間と言う「観念」が先行するの
508 :
スモ:2010/06/26(土) 01:39:59 0
コートジボ残念…
結局、「りんごは甘い」からしか始められないのか
「りんごは果物」「りんごは書物」「りんごは絵画」・・・etc
そこから「りんごは果物」を選出できる理由は見つからない
それを決定できるのは「りんごは甘い」ということだけだ
しかしなぜ、「りんごは甘く」「りんごは果物」の関係が立ち現れるのか?
どうして「りんごは辛く」「りんごは書物」の関係としてではないのか?
そして「りんごは甘い」ことは本当に「りんごは甘い」のか?
「りんごは甘い」から始めて「りんごは甘い」を捨てたときに何が残るのか?
私は一体何を言ってるのかわからなくなってくる・・・
>人間と言う「観念」が先行するの
そこからいけそうかな・・・
うまくやれそうな気がしないでもないが
509 :
考える名無しさん:2010/06/26(土) 02:50:51 0
「りんご」は甘さがあり、栄養のある食べ物。
このようなことだけなら、それは目的や価値の記述なので、
観念(考えた主観的な事柄)と言うことになるのだろう。
しかし、重さや容積、形質の遺伝がある物体としての側面は、
人間存在にもそのような側面があることは否定できないので
「感じ、考え、判断しただけのもの」として処理できない。
世界を考えようとすればするほど、世界像にしかならないという・・
>>503懐疑さん。
貴方が「主観の不確かさ」として根拠とする、蕎麦の美味いまずいは、
>>40氏、及びスモ氏の一連の考察により反駁されていると思う。
>>510 ストレートに言ってしまうと、まったく意味の感じられ無いレスを持ち出されたなあと…。
二重の懐疑がどうこのうのと、意味の無い説に終始している>40ですが、
懐疑論の軸は普遍性の否定です。普遍性は主観には無いものですが、主観が普遍性を持つ、と言われたいのでしょうか?
>>511 私が「主観が不確かであることの根拠」を求めたのに対し、
貴方は、丼だか蕎麦だかが、昔は美味いと思ったが、今食うと美味くもない、
なる事態を例示され、
>>40は貴方の例えを無効化することに成功している。
貴方は「主観の不確かさ」を示す為に、別の根拠を提示する必要がある。
>懐疑氏
以下は
>>40の焼き直しでしかないのだが(ちょっと違うが)
「蕎麦Aが美味いと思っていたが、今食ってみると不味い」
貴方の主観内で「美味さ」と「不味さ」は“同時には”成立していない。
(まあ文芸的には「美味いが不味い」とか、何とでもへんちくりんな表現が可能だがw)
貴方の中に成立する「今食っている丼Aの貴方にとっての不味さ」は、
その不味さがどの程度であれ、完結している。
貴方の言う、美味い、不味いの違いは、時間差による状況の変化に置き換わり、
主観・感覚自体の判断の確かさ、不確かさとは別の話となる。
どうですか?
おお、ついでに思いつきました。
「全く同じように作った蕎麦ならば今も昔も同じ味がする場合に、
これが主観が確かであるということである。」
とするならば、これは客観を前提としている。
>>512 特に無効化されているとも思わないんですが…。意味が感じられないとはそういう意味です。
ソバが美味い、という確信と不味いという確信は同時に持ち得ない事が、主観が確かであるという
話には繋がらない気がしますが…。何故なら、ソバを食べたという事(時間)を懐疑できるからです。
>主観・感覚自体の判断の確かさ、不確かさとは別の話となる。
判断の確かさとは、何を基準にして確かだと言っているのでしょうか?
それが自己判断に因るものなら、結局曖昧なんだと思いますが…。
「私」から見てこう、としか言っていないわけですし。
というか
そんな例示するような話でもないと思うんだが懐疑論ってw
517 :
考える名無しさん:2010/06/26(土) 10:33:19 0
>何故なら、ソバを食べたという事(時間)を懐疑できるからです。
懐疑できるのは本人?
想定している懐疑論者?
>>515 >ソバが美味い、という確信と不味いという確信
蕎麦の美味さ不味さは確信するものではなく、
食べている貴方自身の主観(感覚と判断)に完全に依存して成立し、jそこで完結しています。
>ソバを食べたという事(時間)を懐疑できるからです
美味いとする感覚、判断が、この瞬間に成立し、その感覚を「同時には懐疑できない」のであれば、
全ての瞬間に於いて何らかの主観による判断が間違いなくなされているということです。
その上で、その記憶を懐疑可能であるのです。
>それが自己判断に因るものなら、結局曖昧なんだと思いますが…。
>「私」から見てこう、としか言っていないわけですし。
曖昧なのでは全くなく、貴方を離れては意味を成さないのです。
>判断の確かさとは、何を基準にして確かだと言っているのでしょうか?
何を基準に不確かだと言えるのか?ということです。
蕎麦の美味いまずいの話は「主観の不確かさ」の根拠になどならないのです。
そんなことを懐疑しているわりには
ちゃんと2ちゃんねる掲示板のスレッドにちゃんと投稿することはできてるんだね
520 :
考える名無しさん:2010/06/26(土) 11:07:57 0
もともと主観は不確かであるという前提で考えているのだから
不確かであるという確かな結論にしかならないのだよ?
521 :
唯意味論:2010/06/26(土) 12:08:28 0
>>518 レスの流れを無視して、これについてだけいえば、
「私がその蕎麦を美味しい、と感じた」のは疑いえない。
懐疑できるのは、そこにはない。
「私には美味しいと感じられたこの蕎麦(主観)だが、
はたして紗南もwそう感じているだろうか」という疑念である。
紗南は不味いと思っているかもしれないし、実際、紗南のみならず、
主観の数だけ感覚・判断(味覚)があるのではないか。
>>511 が述べる「主観には普遍性がない」とは、この謂いであろう。
ところで、俗に言う“客観”とは何か。
この(単独の)主観に感じられた、あるいは映じた、もしくは主体的に
構成した(対象の)像、またはその概念を指している。
こうしてみると、普遍性を担保しえない単独なる主観が字義どおりの
“実在(客観)”に的中するわけがなかろう。「○○屋の蕎麦は美味しい」
とされるは、そう感じる主観が多い(共同主観)という話である。
では、日本チームがデンマークに勝った、というのは懐疑しうるのか。w
>全ての瞬間に於いて何らかの主観による判断が間違いなくなされているということです。
主観による判断は不確かな物です。それはかなり基本中の基本だと思うんですが…。
主観が判断した、だからどうしたって話ですよ。UFOを見たと言って、誰がそれを信じるんですか?
問題は、客観という概念の不備です。
「私」が主観の判断を信じる、というのは、それと全く関係無い話です。
客観と言う概念と絡めて考えて下さいよ。主観の判断が疑え無い事が普遍性へと繋がるでしょうか?
普遍的にとは、誰が見ても疑え無い事です。主観という「私」では原理的に無理なんじゃないですかね。
>>521 > では、日本チームがデンマークに勝った、というのは懐疑しうるのか。w
文脈全く無視ですまんけど、こういう具体例のほうがわかりやすいのだがね
私がテレビで見た、多くの人がそれを見たと言っているのを聞いた、などなどのことがあったとして、
しかし実際の事実は本当にそうだったのか?
と、懐疑するのは、懐疑的な人ならまあ普通じゃないのかね?
(懐疑的な人なら、ね)
それがもし懐疑できないとしたら、目の前に見えているリンゴが、そのとおり目の前にある、ということだって、
懐疑できないんじゃないのかね
私はちゃんと見ているし、周りの人も「確かにそこにリンゴがあるね」と言っている、そうすると、
そこにリンゴがあるのは間違いない…と、もし言えるのであれば、懐疑論になんてならないのじゃないかね
テーマと全然違ったらすいません
524 :
考える名無しさん:2010/06/26(土) 12:37:02 0
>UFOを見たと言って、誰がそれを信じるんですか?
本人は信じても、誰もが信じるわけではないという確信がわたしにはあるんですよ?
>普遍的にとは、誰が見ても疑え無い事です。
誰が見ても疑え無い事は、どう考えてもない・・
ということは、確実にいえることなんです?
525 :
考える名無しさん:2010/06/26(土) 12:50:06 0
主観で疑うのですから、確かな懐疑などあるわけないでそ?
526 :
考える名無しさん:2010/06/26(土) 13:02:13 0
私に懐疑できるからって、誰もが懐疑できるわけないでしょ?
527 :
考える名無しさん:2010/06/26(土) 13:20:48 0
誰が考えたって、赤ん坊は疑う事を知らないでしょ?
528 :
スモ:2010/06/26(土) 13:24:43 0
お昼を蕎麦にしようかと思ったけれど、
「蕎麦を食べられない」かもしれないのでやめとこうかしらw
529 :
考える名無しさん:2010/06/26(土) 13:30:52 0
そーねー
漠然とした「できるかもしれない」「できないかもしれない」
という観念に支配されるってことは 殆ど誰にでも「あるかも知れない」w
「蕎麦を食べられないかもしれない」というのは、それだけでは、あまり的確な皮肉には
なっていない気がするのだがね
「急に私の具合が悪くなる」「急に近所の蕎麦屋の店員全員の具合が悪くなる」「急に近所の蕎麦屋全店が閉店する」
「急に私のところに隕石が落ちてくる」など、普通に考えられるか可能性がいろいろあるからねw
それとも、ここで話題になってるのは、そんなぼやっとした懐疑一般なのかね
だとしたら的外れですいません
531 :
考える名無しさん:2010/06/26(土) 13:43:35 0
個人個人の判断の食い違いは一般的にみられることだ
ということを信じて客観などないといってるんですよ?
532 :
スモ:2010/06/26(土) 14:01:36 0
やっぱり蕎麦にしました
どんべえの天ぷらそばです
でも、皆さん僕がどんべえの天ぷらそばを食べたことを疑うんですね
僕はどうしたら「どんべえの天ぷらそばを食べたこと」を皆さんに証明できるでしょう?
実は僕は北朝鮮人でして、搾取階級の金持ちだから南アフリカの現地にW杯を観に行ったんですよ
でね、北朝鮮はポルトガルに0−7で負けたんですけど、
国に戻ってみるとみんな北朝鮮がポルトガルに7−0で勝ったという言うんですよ
テレビやニュースを見ると北朝鮮が7−0で勝ったと報道されてるんです
そんなのおかしいと思った僕は日本の友人に確認したんですよ
するとその友人はT○Sのニュースで結果を知ったけど、
北朝鮮はグループリーグを2位で通過したフリップを見たよ、というのです
僕は本当は北朝鮮が0−7で負けた、ことが真実だとみんなに説得しようとするんだけど
みんな信じてくれないんですよ
多勢に無勢ですからね
ほんと困ってしまって、今では僕が現地で見たのが真実でなかったのかもと疑い始めてしまいました…
なんとなく面白く思いついたのでw
533 :
スモ:2010/06/26(土) 14:13:56 0
たぶんこの懐疑さんは強い懐疑で
>何を基準に不確かだと言えるのか?ということです。
>蕎麦の美味いまずいの話は「主観の不確かさ」の根拠になどならないのです。
そう言えることも懐疑できるでしょう?というパターンの懐疑ではないのかな
こういうことかな、
「1+1=2」は数学(論理)として確かだけど
そのことを判断するのも私しかないでしょう?
だから疑えるのです
というような
でもそうさせる普遍性ってのが怪しくもあるんだよな
普遍性の根拠がない
根拠がないことを根拠にして疑う
それは疑えるってことなのかい?と
今日はいつも以上に冴えてない気がするのでおかしかったらすいません
534 :
スモ:2010/06/26(土) 14:23:29 0
そういや、9・11で本当にペンタゴンに飛行機が突っ込んだのかしら?
535 :
スモ:2010/06/26(土) 14:29:50 0
やっぱ静観しとく
こういう気分のときはオレやめといたほうがいいんだよ
精緻な議論ができない
>>532 それはそれは大変でしたねw
そういうふうに自分の記憶といろんな他人の記憶、証拠などが食い違った場合にどうなるか、というと、
多分、多数決とか、偉い人が決めたことに従うとか、そういうことになるんじゃないかね
ちゃんと考えたわけじゃないけど
しかし、そのことと、見たことや聞いたことなどの主観的なものと実際の事実が一致するのかという懐疑は、
また別のような気がするのだがね
自分は北朝鮮が0-7で負けたのを見たが、周りの人はみな違うことを言っている
ここで、(多数決に逆らうのはめんどくさいし粛清されたら困るので適当に従う、とかいうのはまた別論として)
「そうか、自分が見たものと実際の事実は、全く違っていたのか?」と考えるのなら、まさに
懐疑の一つの実例じゃないかね
あるいは、周りの人達に、「北朝鮮が勝ったのは確かなのか?」と問うてみる
「当たり前だ、見たんだから」と答えるのか、それとも「見たんだが、しかし感覚と実際の事実が
一致しているといえるのか?」と疑い出すのか
このような議論は、また別にできそうな気がするのだがね
>>522 貴方の懐疑論は、
「主観は不確かで曖昧なもの」
を作為的に前提とすることで構成されている。
しかし主観が不確かである根拠を(主観の内部から)貴方が示し得ないならば、
その前提は崩れるでしょう。
なので、以下のように考えてみました。
・「主観内に成立する観念は、その刹那、主観内からは疑い得ない。」
また、
・「主観内に成立する観念Aが客観的と呼ばれる内容として成立し、
またそれを疑い得るという事態は、
主観を越えた関係性(≒経時、記憶、外部環境、との相関)が存在することにより
初めて達成される。」
どうですか?
客観的なる観念(主観)の成立には、懐疑から独立した存在が要請される。
世界にはやはり真理があるのですよ。はっは。
北朝鮮とポルトガルの試合があったことは疑える
もしかしたらなかったかもしれないからだ
北朝鮮とポルトガルの試合がなかったことは疑える
もしかしたらあったかもしれないからだ
では、北朝鮮とポルトガルの試合があったかなかったか、どちらかだということは疑えるだろうか
あったわけでもなかったわけでもない、ということがありえるだろうか
ある人にとって試合はあり、別の人にとっては試合がない
ある人は言う
「君は知らないだけで、本当は北朝鮮とポルトガルの試合はあったのだよ」
別の人は答える
「僕が知らない以上、僕にとって試合がないことは本当なのだよ
君は知っているため、君にとっては試合はあるが、
僕にとっては試合はない」
こんなものは、無知に開き直った独善的な態度ではないだろうか?
>>538 > 北朝鮮とポルトガルの試合があったことは疑える
> もしかしたらなかったかもしれないからだ
>
> 北朝鮮とポルトガルの試合がなかったことは疑える
> もしかしたらあったかもしれないからだ
>
> では、北朝鮮とポルトガルの試合があったかなかったか、どちらかだということは疑えるだろうか
ここを見ると、AまたはnotAは必ず真になる、みたいな、論理的真理(?)は疑えないのではないか、
というような話になって、なんだか面白いような気がするね
論理的真理とか数学的真理とかは、(よく知らないけど)いつでも誰にとっても正しいことになるのかね
そうすると、そういうものについての懐疑論は成り立たないことになるのかね?
(よく知らないけど、そうではないという話も聞いたことあるような気もするけどね)
540 :
スモ:2010/06/26(土) 22:06:06 0
>>537 >・「主観内に成立する観念Aが客観的と呼ばれる内容として成立し、
またそれを疑い得るという事態は、
主観を越えた関係性(≒経時、記憶、外部環境、との相関)が存在することにより
初めて達成される。」
ここがよくわからないなあ
>主観内に成立する観念Aが客観的と呼ばれる内容として成立し、
ここはわかる
>それを疑い得るという事態は、 主観を越えた関係性が存在することにより達成される
この「主観を超えた関係性」(≒経時、記憶、外部環境、との相関)を、
「客観世界の実在」として指してると思う(理解した)のですけど、
どうして疑い得ることの対象がそのように限定される?
>客観的なる観念(主観)の成立には、懐疑から独立した存在が要請される。
ここも掴みきれてないかもだけど、
懐疑から独立した存在(客観世界)があるから主観は確かなものである、
だから、懐疑される世界が存在すれば主観は成立しない、
ということでしょうか?
541 :
スモ:2010/06/26(土) 22:20:18 0
>根拠がないことを根拠にして疑う
>それは疑えるってことなのかい?と
ここが自分でもよくわかってないんだよな・・・
超越観(≒普遍性)の余地は・・・・あるように思える
でもそれをどう導き出せる?
唯意味さんのもわからないでもないが、おかしそうな不安がある
「北朝鮮とポルトガルの試合があった」ことを認める(人々の)根拠があるとして
それは、
「北朝鮮とポルトガルの試合がなかった」ことを認める(人々の)に適応されるだろうか?
「北朝鮮とポルトガルの試合があった」ことを認める根拠は、そうでない根拠の余地を生むのではないか?
う〜ん、おかしいような気もするが・・・
542 :
スモ:2010/06/26(土) 22:22:21 0
543 :
考える名無しさん:2010/06/26(土) 22:31:06 0
コビトホイホイだなこりゃw
544 :
スモ:2010/06/26(土) 22:33:24 0
確かに、無意味な観念体系から疑うことは成立しない
しかし、有意味な観念体系(主客相互の世界)は、そのこと自体限定されることによって、
有意味の境界の外側を要請されるのではないか?
545 :
スモ:2010/06/26(土) 22:35:25 0
>有意味の境界の外側を要請されるのではないか?
有意味な境界の外側が要請されるのではないか?
細かいけど
546 :
スモ:2010/06/26(土) 22:39:36 0
541はアナロジーとしてたぶん厳密じゃない
>>543 本当は存在しないかもしれない分際で、荒らしageを繰り返すことは出来るとは、なかなかやるじゃねーかw
でも、どうせ本当は存在しないんだろ?w
548 :
スモ:2010/06/27(日) 01:12:12 0
韓国惜しかったな
>この「主観を超えた関係性」(≒経時、記憶、外部環境、との相関)を、
>「客観世界の実在」として指してると思う(理解した)のですけど、
>どうして疑い得ることの対象がそのように限定される?
と、
>確かに、無意味な観念体系から疑うことは成立しない
>しかし、有意味な観念体系(主客相互の世界)は、そのこと自体限定されることによって、
>有意味の境界の外側を要請されるのではないか?
ここは正確に適応してる表現にはなってないな
>主観内に成立する観念Aが客観的と呼ばれる内容として成立し、
>またそれを疑い得るという事態は
ここがおかしいのかな
主観内における観念が成立するとき、客観的にも成立しているはずだ
その観念Aは疑える対象にならない
よって、それを疑い得るとはその「客観的」からはみ出してることにならないか?
549 :
スモ:2010/06/27(日) 01:13:56 0
いやいやまてまて、ちょっとおかしいぞ
550 :
唯意味論:2010/06/27(日) 01:17:53 0
>>539 論理的“真理”が成立するためには、ルール(規則)の完全性が前提になる。
その真/偽は、したがって規則に則ったゲーム上のそれである。
規則の不完全性が露呈すれば、その真/偽は根拠を失なうだろう。
サッカーの勝ち/負けも、おなじことがいえる。
サッカーに間接的ではあれ、参加するためには、それがゲームであることを
まず認め、そのルールを無条件に受け入れる必要がある。
そのかぎりでは、勝ち/負け/引き分けは成立する。
サッカーというゲームを認知するものにとって「北朝鮮とポルトガルの試合
はなかったのでは?」という懐疑は「もしかすれば、あれは夢だったのかも
しれない」とことだろうか。
が、これは確認を重ねることによって、どちらか(不可疑)に至るのでは?
もう一つ、スモ君のいう「北朝鮮では、7対0でポルトガルに勝利していた」
という話は“情報操作”の問題であり、今日的なテーマではあるが、情報が
開示されれば、北朝鮮の人々も負けを認めるのではないか。w
常識的だが、このあたりは、もう結論がでているのでは?
そろそろ、サッカーから私たちの“世界”に移ろう。
この世界がゲームなら、つまり規則に則っているのなら、抄録氏や機械氏の
いう“真理”はあるかも。
では、だれがこの壮大なwゲームを楽しんでいるのだろう?
551 :
スモ:2010/06/27(日) 01:27:13 0
私の主客相互の世界観で成立される観念体系は
その内において「疑い」は生じないはずだ
「疑い」が生じるのは誰かの主客相互の世界観によって、
その「ねじれ」が「疑い」の原因(源泉)となる
これだと先述の2つと適応しないか?
「超越観」を導く必要はない・・・
いや、正しい
「普遍性」や「超越観」とはなんだ?
それは私や誰かの世界観の総体じゃないか
そこからそんな概念が生まれるんだ
552 :
スモ:2010/06/27(日) 01:30:05 0
>>550 その「情報」は真実の謂いだろうけど
その根拠をどっから持ってくるんだ?
553 :
スモ:2010/06/27(日) 01:43:21 0
「私や誰かの世界観」=「普遍性」や「超越観」
とは簡単には言えないか
ただ、少なくとも左項が右項の源泉とはいえそうか
でもこれはあれか、
独我論なら「普遍性」や「超越観」は不要ってことか
だとすると、
なぜ、「非・独我論」(「普遍性」や「超越観」)があるといえる?
w
なんかまた戻ってきたぞ
今、自分が冴えてる気がしたがオレはおかしかったのか?
554 :
スモ:2010/06/27(日) 02:07:37 0
私は誰かを担保するために「普遍性」や「超越観」を持ち出すのか?
それはおかしい
しかし「普遍性」や「超越観」から「私の世界観」や「誰かの世界観」は導き出せないだろう?
私も抄録氏も唯意味氏もンドゥール氏も「存在する」はずだ
しかし「存在する」とはなんだ?
「私が存在する」とはなんだ?
私とスモ氏は位相において異なっっている
「わたし」がスモ氏も抄録氏も唯意味氏もンドゥール氏も見つめているということだ
しかし、このスモ氏における「わたし」はどうしても、抄録氏における「わたし」と接点をもたない
スモ氏における「わたし」と抄録氏における「わたし」は同じ本質だ
そう言いたくなる
しかし、そんなことを、どうやって、できるんだよ・・・・
でも、オレはいいとこまでいってる気がする
しかし(しかし、ばっかだなw)、これ以上進めるか?
555 :
スモ:2010/06/27(日) 02:16:00 0
なにをオレは独りよがりに飛ばしてんだ
このスレの主旨に戻そう
556 :
スモ:2010/06/27(日) 02:23:21 0
独我論者は疑う対象を見いだせるか?
557 :
考える名無しさん:2010/06/27(日) 04:11:23 0
「確実であるということ」と「誰もが疑いえないこと」は同じ事ではない。
「誰もが疑いえないこと」が分れば、それを論じても反論される余地がないだけだ。
逆に言えば、自らの判断を論じても反論されたくないので、確実さ・保証を求めるのだ。
「そういうことだ」「こうしても構わない」と自分が判断しただけでは何ら問題は生じない。
判断した事を行動に移す事で不具合や困った事が生じる可能性があるという事が「問題あり」なのだ。
>>540 いや、極度の寝不足でね。
このレスの時にも意識朦朧で、その時には全てが分かった気がしたが
ちょっと寝て起きると自分でも何を考えていたのかさっぱりで。はっはw
多分こういう事を考えていたのです。
懐疑する刹那には、その懐疑行為(能力)自体は主観に属し、懐疑できない(しない)。
また、懐疑とは本体的には妄想とは区別され、
ある客観的観念Aを懐疑する場合、想定可能かつ有意味な客観的観念B、C、・・・を仮想し、
いずれが合理的なのかを図る行為であろう、と。
しかし何をもって合理的なのか。
歴史的な事件と科学的な事象とは話が異なると思うが、
貴方の言いだしたサッカーの合の話に乗っかると、
サッカーの試合結果なる歴史的事件レベルの話を懐疑する場合、
懐疑する対象が、「事件の内容」なのか「事件そのものの有無」なのか、
いろいろ考えられてしまうが、大きな事件の内容は小さな事件の有無の集積に解体することがある程度可能でしょう。
なので、話を「あの試合の有無」に限定すると、これを懐疑する場合は通常、
あの試合が「あった」と「なかった」の間でどちらがより合理的なのかの思考が行われる。
このとき、試合そのものではなく、試合を含む「脈絡」の中で、「試合」なる事件のピースを
「はめ込む」か「はめ込まない」かでどちらが全体の脈絡が通じるかどうか、を思考する。
作為的に情報を統制する場合、作為的な行為は、それ自体が事件となる。
世界が事実(事件)の総体であり、、各事件は時空間的に有限に設定できる(とする)。
事件レベルに於けるこの世界の時空間の次元と尺度の枠組は決まっている(それ以外に想定できない)ので、
事件レベル(ミクロレベルでも宇宙レベルでもない)に於ける絶対(=必要十分)の情報収集力を想定し、
世界の連続性を考慮に入れれば、世界の全事件の脈絡の中に「ある事件」落とし込める可能性は、
「ある」か「ない」かのどちらかとなる。
懐疑とは、限られた情報の中で、主観が合理的な判断を求めている訳で、
主観そのものに確かさも不確かさも無い。
懐疑は主観の曖昧さを懐疑しているのではない。
そこにあるのは「情報の不足、能力の不足」である。
しかし脈絡を壊すことなく、世界の全ての事件をでっち上げることは可能ですと?
ふはは。
あと
目の前のリンゴがあるかどうか、なんて類の懐疑は俺にはナンセンスな話。
リンゴは「ここにこうしてある」という意味で、「必ず有る」
リンゴが無いとして、ここにあるリンゴをどうするつもりなのか。
リンゴが夢かもしれない?
夢と覚醒時を区別できる状況に於いて、覚醒時が夢であるなど馬鹿げている。
夢のダブルスタンダードである。
リンゴの実在性?
それを考える前に、生きる為に目の前のリンゴを食え。
「このリンゴ」は食えるが、表象とか質量とかエネルギーとか、そんな言葉は食えない。
物質は物質によってのみ成立し、実体性を伴う場合に「のみ」、物質の地位を得る。
しかし実体の正体は。。。。言えそうな言えそうにないような。
しかし間接的には(気付き程度だが)言及可能と思っている。
561 :
唯意味論:2010/06/27(日) 11:13:48 0
>>552 いや“真実”ではない。
それが文字どおりの真実である「根拠」など私は知らない。
真/偽や勝/敗は「規則に従って認定される」と述べているだけ。
規則がなければ、真偽や勝敗ゲームは成立しない、と言ってもよい。
この場合も、サッカーの勝ち/負けに関する決め事、情報の流通に
まつわる一定のルールが成立していないと、ゲームの勝ち/負けも、
伝聞の正/誤も決定不能に陥ってしまう。
規則は、人事ゲームに参加するものにとっては、スモ君が連呼する
超越性を帯びている。しかし、この規則は人為の産物であり、脆い。
なによりも、その正当性をその規則に従って証すことができない、
という致命傷を抱えている…。
561
決定不能(決定可能)、正当性
これらの概念が真理には不可欠であるという前提の上に君の意見は成立している
だが、その前提は果たしてどれだけ正しいのだろうか
560
君が今、リンゴと思って食べたものは“実は”リンゴじゃなかったんだよ
“実は”新種のナシなんだよ
答え方は二種類
「へー、そうなんだ、知識が増えた」
「聞く耳はない、これはリンゴさ」
539
AまたはnotA
このルールは排中律と呼ばれる
われわれが使用する常識的な論理(形式論理)は排中律を含むが
排中律を含まない論理体系(直観主義論理)もまた考えられる
まぁ、知ってるでしょうが
565 :
唯意味論:2010/06/27(日) 12:25:53 0
>>562 ちょっと、違う。
真/偽、正/誤、勝/敗を決定するには「規則」の成立が前提、と述べているだけ。
が、規則は人工の産物(フィクション)であり、規則そのものに正当性はない。
受け入れるか否か、である。
真偽や正誤や勝敗を決めることが無意味なら、ゲームに参加しなければいい。
文字どおりの単独者には、それも可能だろう。
>>563 「リンゴかナシか」も、差異の定義(決まり)によって結論づけられる。
リンゴでもなく、ナシでもない、という結論にいたることもありうる。
その場合、差異線は修正、変更される。
その文章は
真理が問題になっているはずなのに
いつのまにか規則の正当性に話題がうつっている
ならば、君は「真理」が「正当性」と深く関与することを示すべきだ
懐疑とは、何が間違っていて何が正解か、を考えることでしょう。
だから、刹那の懐疑とか、二重の懐疑が不可能とか、そういった事が問題になるとは思えない。
問題は、一意の答えが出せるかどうかでしょう。そしてその答えに、価値を与えていたのは客観性です。
懐疑論は、客観という概念が不成立であることを示し、客観が与えてきた価値を否定したわけです。
主観が懐疑に答えたとしても、客観が否定された以上それは一意の答えでは有り得ないです。曖昧な答えと言えます。
例えば普通の足し算では2+2=4になる、ということについても、一意の答えがないのかね?
(なんか、いろんな議論があるらしいけどね)
569 :
唯意味論:2010/06/27(日) 13:09:44 0
>>566 いや、私は真理について語っているわけではない。
真/偽や正/誤、あるいは勝/敗が成り立つ条件について述べているだけ。
条件つきでなければ「それらは決定できない」と言っているのである。
こう言ってもよい。
「条件(規則)にもとづき、真偽や正誤、勝敗は定まる」と。
ただし、その条件が「正当である」という根拠はない。
その条件(規則)を支えているのは(たぶん)“力”である。
真偽や正誤や勝敗は受け入れるか、それが否なら、
“力”によって規則を変えるしかない(のだろう)。
>>568 そうですね、無いです。2+2=4を成り立たせている規則が、
そもそも主観の思い込みに過ぎ無いのでは無いか?と懐疑できます。
主観では疑え無いからと言って、一意の答えになるとは限らないわけですし。
2+2=22もあれば
2+2=11もありえる
でも、それは「ふつうの足し算」ではない
「ふつうの足し算では2+2=4」が
トートロジーに変換できるような意味で解釈できるかもしれない
その場合も疑いうるのだろうか
クリプキの懐疑論は「どちらも無根拠なのになぜほとんどの人は特定の規則が採用するのか」を説明できない。
なぜクワス算ではなくプラス算を規則として採用されるのか。
それはクワス算がアドホックな仮定に依存した「後進的な研究プログラム」だからだよ。
× 規則が
○ 規則を
>>570 >2+2=4を成り立たせている規則が、
>そもそも主観の思い込みに過ぎ無いのでは無いか?と懐疑できます。
これは、具体的にどういう意味なのかね?
目の前にリンゴがあることを懐疑する場合だったら、目の前にリンゴがあるかどうかの実際の事実と、
リンゴがあるように見える感覚とは別だ、という考え方のもとに(普通はそう考えると思う)、
実際の事実と感覚とが本当に一致しているといえるのか?さらに一般的に、主観的な感覚しか手に入らないのに
客観的なものごとがあると本当にいえるのか?というように考えることが一応できそうな気がする
しかし、2+2=4を成り立たせる規則が主観の思い込みだ、というのは、どういう発想なのか
よくわからないのだがね
おそらく世界中の(普通の足し算を身に着けた)人が、「そんなことはない、確かに2+2=4だよ」と
言ってくれるだろうし、実際に計算したり物を数えたり(普通の状況で)したときに、
2+2=4ではない結果が出る(?)ことも、考えられないと思うのだがね
575 :
考える名無しさん:2010/06/27(日) 19:11:16 0
新しい発想を見いだしてしまうと 従前の発想が「思い込み」に思えてくるという
576 :
考える名無しさん:2010/06/27(日) 20:01:00 0
1として数えられるものはいろいろある
1リットル+1リットル=2リットル これは有効
コップ1杯の水+コップ1杯の水=バケツ1杯にもならない これも有効
1+1=2だけが有効なのではない 1+1=2は思い込み
というような理解でよろしいかw
577 :
考える名無しさん:2010/06/27(日) 20:32:01 0
1組の夫婦=2人、これは思い込み
人は右側通行、これも思い込み
>>574 私は570じゃないけど、答えよう。
>おそらく世界中の(普通の足し算を身に着けた)人が、「そんなことはない、確かに2+2=4だよ」と
>言ってくれるだろうし、実際に計算したり物を数えたり(普通の状況で)したときに、
>2+2=4ではない結果が出る(?)ことも、考えられないと思うのだがね
その考えの前提になってる「世界そのもの」が主観の思い込みなんじゃないかって話ね。
我々の宇宙では2乗すると2になる数字は1.41421356…ってのが必然だけれども、
別にこの数字になる理由はどこにもない。たまたまこの宇宙ではそうなってるってだけの話。
同じように2と2を足した数字が4になる必然は、論理学の成り立ちすら違う
別の宇宙で通用するとは限らない。
>>574 578さんの
>その考えの前提になってる「世界そのもの」が主観の思い込みなんじゃないかって話ね。
って事ですね。
夢の中では、ごく当たり前に空を飛べたりします。それは世界中の誰もが疑わない当たり前の事として。
空を飛べない結果というのも考えられません。
現実と夢の違いは何かと言えば、主観の判断でしかありません。主観が夢と現実を分けるのですが、
今ごく当たり前に現実だと認識している世界は、夢では無いと証明できるのでしょうか?
疑う事無く現実に決まってると言うのなら、何故夢の中では「空を飛ぶ事を疑え無い」のでしょうか?
逆に言えば、夢の中で空を飛ぶ事は疑えません。ではそれは現実でしょうか?
580 :
考える名無しさん:2010/06/27(日) 22:10:13 0
疑えるとか疑えないとか
考えている事は現実ですか 夢ですか
581 :
考える名無しさん:2010/06/27(日) 22:12:04 0
主観が夢と現実を分けるんだったら 証明の必要なしってことね
>>581 証明の必要無し、というのが何を指しているのかよく分からないな。
確かに証明する必要は無い。証明出来ないから。
そして、証明できないからこそ不確定であり、曖昧であり、空ろです。
583 :
抄録 ◆xOLbFG9QNU :2010/06/27(日) 22:44:37 P
>>579 >今ごく当たり前に現実だと認識している世界は、夢では無いと証明できるのでしょうか?
どんな証明をご希望か分からないが、
競馬にでも行って、全財産を賭けてみればいいんじゃないか?
584 :
考える名無しさん:2010/06/27(日) 22:52:04 0
>>582 証明出来ないから、証明する必要がない というのはおかしいね
誰に証明しようというの? 自分に?
すでに分っていながら、「証明」は求められるものなの?
585 :
考える名無しさん:2010/06/27(日) 23:17:51 0
夢では無いと証明できるのでしょうか?
と訊かれても
その問いは夢では無いと証明できない
哲学も「懐疑論」も、
自分がみている夢ではない、と証明することはできない
で、不毛ですよ と?
クリプキの懐疑論も知らないのか このスレの連中w
>>578、
>>579 ふむふむ、難しい話になってきたような気がするね
もう一度、自分の趣旨を、ちょっと表現を工夫して繰り返してみる
2+2=4を疑う理由は何なのか
自分の感覚と実際の事実とが一致しないと疑う理由はあるように思われる
(それらは別物で、実際に見間違いなどがあり得るから)
しかし、そのような理由が、2+2=4を疑う理由に同じように当てはまったりするのだろうか
2+2=4を疑うなら、何か別の理由が要るのではないか
とりあえず、こんなふうに言い張ってみたら、どうなるのだろうかね
「私が足し算に関して経験してきた事実が全て不確かだ、ということは認める。小学校の授業から
何から、それら全部が錯覚とか夢であったのかもしれない。
しかし、それが、2+2=4であることと何の関係があるのか?
実際、2+2=4にしかならないじゃないか。
むしろ、夢の中でも2+2=4を学べるということは、2+2=4は夢だろうが現実だろうが通用する、
確かな知識の一つということになるじゃないか(笑)」
(最後の一文は冗談です)
>>584 自分に証明するって言葉はおかしくないですか?証明って他人に対してする事じゃないですかね。
>>585 大体そんな感じじゃないでしょうか。
不毛、というのは何が不毛なのでしょうか?これは、懐疑論の次に考えることですが。
現実と夢の違いが無いのなら、それは不毛でしょうか?何故不毛なんでしょうか?何に対して不毛なのでしょうか。
それと
>>587で書いたこととは別に、
>>578 > 我々の宇宙では2乗すると2になる数字は1.41421356…ってのが必然だけれども、
> 別にこの数字になる理由はどこにもない。たまたまこの宇宙ではそうなってるってだけの話。
ここは、正直、全然わからないのだがね…
宇宙が違えばルート2がその数字じゃなくなるの?
>>586 クリプキのクの字も知らないが
説明してもらえれば突っ込むよ♥
>夢では無いと証明できるのでしょうか?
>と訊かれても
>その問いは夢では無いと証明できない
>哲学も「懐疑論」も、
>自分がみている夢ではない、と証明することはできない
>で、不毛ですよ と?
588の続きですがこの考え方は非常に助かります。とても説明しやすい。
この不毛という考え方は、西洋での進化論を忌避する態度によく似ています。
何故進化論を嫌うのか、と日本人なら誰でも思うでしょう。
恐らく、宗教の信徒にはそれが不毛だと感じらるんでしょう。
自分自身の価値を、生を否定されたように。懐疑論を不毛と見るのも、概ねそういう感情でしょう。
進化論は神を否定します。では、懐疑論は何を否定しているのでしょうか?どういう種類の価値を否定しているのでしょうか。
懐疑論が否定している価値とは
独善的な態度から脱するための謙虚さを確保する価値
または、寛容さをもち相手の意見に正しい可能性を確保する価値
これらの価値を否定している
懐疑論は寛容をもたない
すべての意見は不確実である以上
相手の意見の内容を吟味する必要はなく、問答無用に不確実だからだ
また、自己批判をする必要もない
なぜならば、あらゆる意見は原理的に恣意的である以上、
自分の見解を改めたところで、原理的に恣意性を払拭できないからだ
これらの価値観を懐疑論は否定している
593 :
考える名無しさん:2010/06/28(月) 00:29:21 0
懐疑主義(懐疑論)は、基本的原理や認識に対して、その普遍性・客観性を吟味し、
根拠のないあらゆる独断を排除しようとする主義である。
だそうだ。
しかし、根拠のないあらゆる独断を排除する思想は根拠なしに擁護されうる
ライプニツの充足理由律もそうだけど
充足理由律それ自体は十分な理由や根拠がなく成立している
ちょっと攻撃的すぎた
機械の攻撃的な態度はあいかわらずじゃな
ンドゥール氏の本気を初めて見た気がする。
>>578、
>>579のような話には、またちょっと別の疑問があったので、一応書いておこうかね
例えば2+2=4について、そのようなことを含んだ世界全体が主観の思い込みかもしれない
といったような理由で、不確かなものといえるとする
そうすると、2+2=4だけでなく、「懐疑」「主観」「思い込み」などの言葉の意味や使い方なんかも、
一緒くたに、不確かなことになるのじゃないかね
すると、いろんなことを「主観の思い込みとして懐疑する」ということをやってるつもりが、実は
全然違うことをやっているかもしれない、ということにはならないのかね
もし、実は客観的なものを盲信してました、なんてことになったら大変じゃないのかねw
「そうではない、自分がやっているのは間違いなく懐疑だ」あるいは少なくとも、「自分がやっているのは
客観的なものの盲信ではない、それだけは間違いない」と言えないと、困るような気がするのだがね
(困らない、という方向に行くのかもしれないけど)
598 :
考える名無しさん:2010/06/28(月) 02:49:20 0
>>588 >証明って他人に対してする事じゃないですかね。
夢か現実かは自ずと分る事。
相手に証明できて、初めて現実だと分るなんて言う事はない。
599 :
考える名無しさん:2010/06/28(月) 03:20:54 0
>>597 認識は不確かだ、思い込みだという自覚があれば、
さまざまな可能性を検証しようとする試み(懐疑)はしないよな。
たらたらと「夢かも知れない、錯覚かも知れない」と思いめぐらすだけ。
「疑える」「疑うだけの価値がある」というのはちゃんとした根拠を
見いだしてのことであり、「思い込みだけど、疑える」というのは嗤える。
さて、寝よ。
600 :
考える名無しさん:2010/06/28(月) 12:48:09 0
通りすがりのものですが、
>>579氏はわかってらっしゃいますね。
>>583みたいなことを言ってしまうということは
まったくわかってないということですよ。
>>592氏や
>>599氏もまったくわかってないようですね。
どうやら
>>579氏は孤軍奮闘しているようですな。
凡夫を導くことができますかな。
>>600 いらっしゃい通りすがりさん
あなたも少し加勢してさしあげれば?
それができればの話だけど
602 :
考える名無しさん:2010/06/28(月) 15:12:25 0
こいつ分っている こいつ分ってねぇ
私には分るんです
わたしは主観で
そのように分けているだけですけど
あ そう?
>>600 あーた、
>>579が
>>580で有効に論駁されていることに気が付かんのか。
>>579は、「夢では疑わない」と言ってしまってるのだから、
(これは夢かもと)疑っている今の自分は夢ではない、
と、(無自覚に)自己解決しとるのだよ。
まあ、俺が凡夫であることは否定せんが。じゃあ貴方は何だ?
>>602 あえて誰とは言わんが、あいかわらず切れてるな。
603
反駁なるものについて、いかなる反駁も認めない立場の人に、反駁を試みるは虚しくはなかろうか?
相手は、その反駁をまともに相手にする必要はない
「胡蝶の夢」のように、すべてが夢に過ぎないのならば、反駁や推論は無為な営みと映ることだろう
ンドゥールさん
そんな冷徹キャラとなってしもうて。。
あたくしはもう少し馬鹿みたいに踊りたいのだが。。
あまり夢中になるとおまんま食い上げなんで、
少し控えますばい。
哲学書とかほとんど読まない人が必死に書いてる感のあるスレですねw
607 :
考える名無しさん:2010/06/28(月) 19:47:28 0
哲学書とか必死に読んでもほとんど身に付かない人が感想だけ書いてる感のあるスレですねw
608 :
考える名無しさん:2010/06/28(月) 19:51:17 0
徹底的懐疑と懐疑論はちがうやろw
609 :
考える名無しさん:2010/06/28(月) 20:27:24 0
正義を守れて良かったねって
また、同一人物が連続カキコしたとしか思えないレスですねw
605
別に冷徹キャラにしているつもりはない
また、踊ろうが踊るまいがどちらでもいい
ただ、先のレスが反駁不可能に思えた次第
反駁とかそういった価値観の外にあるように思える
別に君に絡むつもりはあまりない
まぁ、「客観」概念が単一な回答を要求するとか、最終回答を要求するという誤解に批判を向けたいだけで
名無しの591とかに批判を投げかけている
俺は他人の議論に目を通すのが好きでね
時々、議論に加わりたい、ただそれだけだ
それ以上のキャラづくりとかの他意はない
609
守るべき正義なんて何もないのだろうか?
正義はいかなる場においても不要なのだろうか?、
例えば、裁判や司法の場においてさえ、正義は不要なのだろうか?
司法の場において不正を犯した人たちが「正義」の名を騙る
いかなる「正義」も認められないならば
彼らの不正を糾弾することもできないように思える
仮に「真理」が存在しないならば「虚偽」もなく
何らかの理論の誤りを指摘することはできないはずである
また、「正義」がないならば「不正」もなく
何らかの行為の不正を指摘することはできないはずである
しかしながら、「真理」や「正義」に否定的な意見は度々顕れる
それらの意見は、意見の内容と行為が相反しているため、一見、矛盾しているように見えるが
発言内に矛盾を抱えているわけではない
そこには検討すべき哲学問題があるように思える
俺が591や609に絡むのはそんな問題で議論を試みたいから
最近、このスレで書き込んでるのもそれだけ
んまあ・・・
お好きなように
ワシは去る。
614
いればいいのに
どうせ、君の長文のはじっこで軽く議論を小競り合うだけだから
君が書き込まなければ、名無しも書き込まないだろうし
名無しが書き込まなければ、俺も書き込みはせん
端から興味がないのだから
>>597 >そうすると、2+2=4だけでなく、「懐疑」「主観」「思い込み」などの言葉の意味や使い方なんかも、
>一緒くたに、不確かなことになるのじゃないかね
これは結構面白い意見ですね。これには十全に返答できる自信が無いですね。
確かに、今考える私自身(主観)が不確かな存在です。
>(困らない、という方向に行くのかもしれないけど)
そう言われると困らない気がしますね。何故なら、間違い無い事とは普遍的に一意の答えであり、
それは懐疑論の否定するところの物だからです。夢の中で駄弁ってるのが懐疑論なんじゃないですかね。
正しい考え(懐疑)で無いと困るだろう、とは何に対して困るのかと言えば、一意の答えを出せない事です。
懐疑論の論理は、おそらく答えでは無いんですよ。
答えが無いという問いかけ。答えがあるという考えに対する否定。答えの持つ価値の低落。
618 :
考える名無しさん:2010/06/29(火) 02:00:28 0
不確かとかいう表現だと、
計測器のように考えているのかと。
>>617 > 確かに、今考える私自身(主観)が不確かな存在です。
この一文をみると、趣旨がうまく伝わっていないような気もするので、改めて書いてみようかね
(正直、書いてみようとするだけで頭が痛くなるのだがねw)
「今考えている私自身(主観)が不確かな存在なのかもしれない」と私は考え、言葉で表現してみた…つもりだった
ここで、世界全体が主観の思い込みにすぎず不確かなものだから、言葉による表現の意味とか、
言葉に対応する考えなども、全面的に不確かだ、と仮定してみる
そうすると、まず「私自身が不確かな存在なのかもしれない」という言葉による表現は、実は、
私が確かな存在であることは間違いない、という意味だった、という可能性がないか
また、上の表現をした際に私が考えていたことも、実は、私が確かな存在であることは間違いない
という内容だった、という可能性はないか
そんな可能性があったら、客観的なものとか一意的な答えの存在を疑い、不確かだと考えていくことが
できないのではないか
>>619の続き
そうすると、「少なくとも一定の種類の言葉による表現(例えば「主観」「不確か」など)については、
その表現の意味も、それにより私が考える内容も、間違いない。」と言わなければならないのかもしれない
これに対し、「いや「間違いない。」と言う必要はない。「不確か」という表現について、実は
「確実だ」という意味だ、などという可能性があるとしても、ただ可能性があるというだけなら問題ない。
一意的な答えの存在が疑われれば、それで困らない。」という考え方があるかもしれない
さて、困らないだろうか
「ただ可能性があるだというだけ」という表現は、実は全面的に確実という意味で、「一意的な
答えが疑われれば」と考えたつもりが、実は一意的な答えを何ら疑わない、と考えてしまって…
というようなことにはならないのだろうか
「それでもとにかく、一意的な答えがあるということにはならない」と言えるかもしれない
しかし、そのような表現も考えも(以下略
こうなってくると、もはや「一意的な答えを疑う」なんてことも成り立たなくならないだろうか
>>620の続きをもうちょっとだけ
ひょっとしたら、さらに「とにかくしっちゃかめっちゃかでも構わない。もちろん「しっちゃかめっちゃか」の
意味が実は…となっても構わない。それで一意的な答えがあることになったりはしない。」
と言うのかもしれない
しかし、さらに「一意的な答えがあることになったりはしない。」とは実は…となる、というか、
このへんにくると、そもそも何を言ってるのか自分でもわからない
どうも、言葉の意味やそれによる考えの内容が全面的に不確かだ、というのは、さすがに無理っぽいのではないか
以上です
無駄に長くてすいません
しかし個人的には、どうやら確からしいことを一つ見つけたようも気もするね
明らかにできなさそうなことを無理に考えてみるのはよろしくない、ということだねw
622 :
唯意味論:2010/06/29(火) 10:06:36 0
真/偽は、規則によって差異線が引かれる。哲学上の真偽をめぐる論争は
規則の正当性を問うそれであり、畢竟、決着がつかない。1+1が幾つに
なるかは規則(条件)しだいだ。
善/悪も、規則(法)によって認定される。人殺しが悪とされるかどうかは
規則の適用いかんによる。ただし、その規則の正当/不当には根拠がない。
規則の正当/不当を定めるためには、その外部に別の規則を架すしかない…
>>617 >>619 この議論も「確か/不確か」の区別が明示されないままなされている。
初めに“ロゴス”が示されているわけではないので、まずそれを仮設する
ことから始めるしかない。何をもって“確か(不確か)”というのだろう?
623 :
考える名無しさん:2010/06/29(火) 11:05:21 0
624 :
考える名無しさん:2010/06/29(火) 11:14:19 0
「確か」というのはまず最初に「日本語」ですね?多分。「単語・言葉」ではある。
でも英語での「確か」という意味の単語と同じ意味なのだろうか?スワヒリ語では?
仮に全ての言語で「確か」という意味の単語が意味する「何か」が存在するにしても、
それを言語で説明するのは不可能かもしれない。なぜなら、「単語・言葉」というものは、
結局人間の作った物で、定義や意味などどうとでもできるからです。
というのはどうです。全然スレ読まないで言ったけどw
625 :
唯意味論:2010/06/29(火) 12:00:05 0
>>624 君の述べているのは「指示の不可測性」とかなんとかいうやつだろう?
それは前提である、というか、そこまで話がいっていないというか…w
問題にしているのは同一言語圏(この場合は日本語)における「確か」の意味。
むろん“確か”という記号自体に意味は内在していない。
そこで、とりあえず不確かとか曖昧といった対語群との相関によって、
それを仮定義せざるをえない。
確か/不確かを、どう決めますか。w
626 :
考える名無しさん:2010/06/29(火) 12:32:46 0
つまり、『日本語で「確か」という単語を使うなら、もうちょいその「確か」の
定義を提示してから議論しようぜ!』みたいな感じですかね?
これが、「不完全でもいいからとりあえず定義しようぜ!」って話なのか、
「『確か』の定義がどうのこうのなんて、くだらない」みたいな話なのか、
僕には良く分かりませんが。なんか変な事言ってたらすいませんw
624
「確か」
≒「確実さ」「蓋然性」
英語だと「probablity」
心理学的な信念の強度
「真理」
英語だと「truth」
こっちの定義で有名なのは「事実との一致」
「雨が降っている」という文章は、実際に雨が降っている時に真である
>>619 今の世界が夢で、懐疑が成り立たない世界が現実である可能性でしょうか?
まず確かめておきたいのは、そういう想像は夢と同じで不確かであるということです。
そして、この世界で懐疑が成り立つ限り、懐疑論は成り立つのです。
普遍的な物は無い、という事は、懐疑論自体も普遍的では無いです。
懐疑論が成り立たない世界こそが現実、という事も勿論ありえます。
しかし、主観が現実だと認識するこの世界においては、懐疑論が成り立つことに変わりはありません。
そして懐疑論が成り立つこの世界において、確かな物は無い、といったところでしょうか。
もう答え出てるのに何ウダウダ書いてんの
629
その答えだけは疑いようがない(批判しようがない)一意な答えってわけだw
631 :
考える名無しさん:2010/06/29(火) 20:51:45 0
自分が興味がないものは無意味でなければならない
>>628(
>>617と同一人物だろうと想像して)
> 今の世界が夢で、懐疑が成り立たない世界が現実である可能性でしょうか?
この一文をみると、何と言うか、また事実に関する話だと受け止められてしまっている気がするね
そうではなくて、
言 葉 の 意 味 が
全面的に不確かだというのは無理があるのではないか、ということを言ってみたかったのだがね
もうちょっと前の話にも戻ると(いちいちレスを特定しなくて恐縮だけど)、事実については、
感覚などの主観的なものしか手に入らないという理由で、客観的なものごとを確かめることができず、
全面的に不確かだ、と考えることもできるのかもしれない(できないかもしれないけど)
しかし、同じようなことを、言葉の意味などにまでそう簡単に当てはめることができるのか、
というようなことを言ってみたかったのだがね
あと、ついでに、これは余計な揚げ足取りみたいなものなのですまんけど、
>>628 > まず確かめておきたいのは、そういう想像は夢と同じで不確かであるということです。
> そして、この世界で懐疑が成り立つ限り、懐疑論は成り立つのです。
例えばこのようなことは、不確かであることはなく、確かなことなのかね?w
>>634 確かなことではない。
なぜならば、
それには因果律や真偽値の論理積の考え方が暗黙的に使われているけれど、
その暗黙的に使われている考え方すら不確かであるから。
636 :
考える名無しさん:2010/06/30(水) 01:12:34 0
>>628 「この世界が夢かもしれない」と主張(問い掛け)していたのに
この世界が現実であることを前提とする懐疑論なんですか?
637 :
考える名無しさん:2010/06/30(水) 02:08:36 0
たとえば皆さんが全く言葉・言語という物を知らないとしたら、
「確か」「曖昧」という言葉・概念自体を知らないという事で、
その区別ははたしてつくんでしょうか?
ただ、「確か」の意味するモノを言葉に頼らず、感覚的に認識できる可能性はありますが。
そして、恐らく言語を知らない多くの生物達は、
そういう世界観(確かも曖昧もクソも無い世界)に生きてるんでしょうか?
日本が負けたなんて夢だよな!
これは夢だ、これは夢だ、これは夢だ、、、
637
これは俺の勝手な意見だが、言葉のない生物には、曖昧も確かもクソもないだろう
サリバン先生が教育しない限りは
640 :
考える名無しさん:2010/06/30(水) 02:41:58 0
じゃあ、言語を扱える人間と、言語を扱えない生物達が、
同じ自然界・世界・宇宙に住んでいると仮定するとしたら。
言語を扱えない生物達の認識する「曖昧も確かもクソもない世界」
に言語を扱える人間も存在しているという事になるんでしょうか?
逆に言う事も出来ます。
言語を扱える人間が「確かも曖昧も確かに存在する世界」を認識してたとしたら、
言語を扱えない生物もその世界に存在しているという事になるんでしょうか?
なんかひどい屁理屈を言ってるような気がしてきたし、自分でも何を言いたいのか
わからなくなってきましたw
640
動物や獣には認識外の世界はない
幼少期のヘレン・ケラーにもなかったらしい
自分の感覚だけが世界
ヘレン・ケラーは川の水を手に感じながら
世界が冷たいのではなく、
waterという冷たく流れるものが世界に存在することを理解した
ということらしい
642 :
unicth:2010/06/30(水) 12:22:21 0
懐疑論を論じ「cogito,ergo sum」(これには「我思う、故にわれあり」という有名な訳がある)に到達した
デカルトだって最後は神の存在を肯定するしかなかった
例えば、そう思うこと自体があやつられていたり
この現実自体がすべて夢かもしれない
とか そんなアホらしいことを疑っているとキリがない
ヒトは何かを信じなければ生きることできない
違いますか?
これでも懐疑論を信じる奴がいるならば
それこそ神経を疑う行為だ
そして是非とも、反論のあるかた、
意見をいただきたい
642
デカルトは懐疑論者じゃなくて合理論者
デカルトが批判を試みたのが懐疑論
わたしは、疑うために疑うようなピュロンの懐疑論にも満足できなかった
644 :
unicth:2010/06/30(水) 12:50:12 0
確かに言い方に少々問題があったようだ
ただデカルトは懐疑論者だ
正確にはそのうちの方法的懐疑論だ
合理論ではあるが懐疑からの合理化といえる
私が言いたいのは全てを疑わんとするような懐疑からの合理化は出来ないということだ
644
方法的懐疑は懐疑論とは違う
デカルトの時代の懐疑論者で有名なのはヒューム
でも、ヒュームも「われおもうゆえにわれあり」は疑えないと認めてたはず
>>642 >ヒトは何かを信じなければ生きることできない
>違いますか?
「信じる」というと、話が面倒になりそうだ・・・
「信じる」ことと「知る」こと、「信仰」と「知」の区別が問題になってくる。
「疑い得ない」=「信じる」 ではないのではないか・・・?
逆に、疑わしいからこそ、信じるのではないか・・・?
だから多くの宗教者は、自らの疑念と常に戦っている。
647 :
unicth:2010/06/30(水) 13:08:05 0
642で書いたように神などにそう思わせられてる
すべて夢(自分で言ってて馬鹿らしいが)
などとも懐疑の立場なら疑えるから
キリがないということで不適(合理化出来ない)という意味だ
(そこにツッコまれるかもと思っていたが)
648 :
646:2010/06/30(水) 13:11:18 0
だからunicthさんの見方は、宗教者の意見のような感じがする。
哲学者なら、安易に「信じる」ことを極度に警戒する。
649 :
unicth:2010/06/30(水) 13:23:21 0
もちろん、私は哲学者ではない
ちなみに宗教者でもない
私が信じるというのは
「疑うとキリがない」=「しかたなく信じる」ということ
伝わりにくいと思うが他にいいものが考えついかないので
今はこういう言い方しかできない
650 :
646:2010/06/30(水) 13:26:37 0
>>649 >「疑うとキリがない」=「しかたなく信じる」ということ
「考える」ことが哲学だからねぇ・・・
その「考える」ということは、どちらかといえば、「信じる」よりも「疑う」に近いと思いますよ。
651 :
646:2010/06/30(水) 13:29:27 0
だから、哲学は「キリがない」ものです。
652 :
unicth:2010/06/30(水) 13:32:44 0
そして懐疑の立場なら
と 私は書いたはず
653 :
646:2010/06/30(水) 13:37:59 0
>>652 どこで「キリ」をつけるのか、またはつけないのか、は、それぞれの哲学者の考え方次第でしょうね。
また、「キリ」をつける場合は、「キリ」をつける根拠のようなものがないと駄目でしょうね。
654 :
考える名無しさん:2010/06/30(水) 15:47:45 0
「全てを疑ったらキリがないから、どうにかしよう」って考えるのも分かります。
が、実際、疑おうと思ったらなんでも疑えてしまうというのはあると思います。
問題は、「実際全てを疑えるにしても、それに意味あんの?役に立つの?」という話です。
僕の個人的な意見を言わせてもらうと、全てを疑う事は、役に立つと思います。
というのは、世の中、人間の予測、想像を遥かに凌ぐ出来事があると思うからです。
昔では、恐らく宇宙や丸い地球を想像する事すら出来なかった人が多かったでしょう。
今現在でも、私達に想像すら出来ないような何かがあるかもしれません。
厳密にいえば、未来の事だって何も分からないのだから、
「全てを疑う」くらいの姿勢でいて丁度いいんじゃないでしょうか?
「こんな事が起きるなんて想像も出来ていなかった!」と悔やんでる人
今も多いんじゃないかと思います。
究極的には個人個人の考え方の問題なんですが
デカルトどまりなのな このスレってw
656 :
考える名無しさん:2010/07/01(木) 00:03:28 0
なんか感想だけ言ってみたくなりましたよ?
657 :
考える名無しさん:2010/07/02(金) 11:06:37 O
あげ
なんでも疑おうとすれば疑うことはできるのかな
疑えないものはないのだろうか
疑っている時、疑っている何かがなにものかとして存在する
ということは疑えないのだろうか?
せっかくだからデカルトの話題を
しかたなく信じるってのは悪くない答えだと思います。
信じるに足る保証が無い事はもうどうしようもありませんし、だからと言って信じない理由にはならないのです。
目の前にある現象は妄想かもしれない。その可能性は常にあります。その可能性を受け止める事が肝要じゃないですかね。
懐疑論の持つ意味は、諸学の価値を支えてきた真理の否定にあると思います。
真理に縋り、神に縋り、価値ある何かを求め、妄信と異端者の排除へと走る行為。それは否定されるべきでしょう。
魔女狩りも学力による貴賎意識も、根幹は同じです。真理という虚像に縋る事の結末。それを克服できるのが懐疑論じゃないでしょうか。
660 :
考える名無しさん:2010/07/03(土) 01:35:19 O
他人の正しさを疑うことで自分を優位に保とうとする自己顕示欲が強い人ほど哲学者ってイメージ。
661 :
考える名無しさん:2010/07/03(土) 01:39:54 0
疑おうとすれば、疑えるぞ
考えられなくもないぞ
想像できなくもないぞ
662 :
考える名無しさん:2010/07/03(土) 01:44:52 O
その真理から懐疑論が生まれるという事は懐疑論の一部に少なくともその真理が根付いてるって事だよね?否定っていうのはそういうことを繰り返していくってことなんかな?
663 :
考える名無しさん:2010/07/03(土) 06:37:32 0
そもそも「疑う」というのはどういう状態か。
もしかしたら、実は根本的に生き物というものは、「疑う」という事が出来ない
ようになっているのかもしれない。
疑ったつもりが、別の決めつけに縛られる。そういうものかもしれませんよ?
言語を扱ってる事自体が、一種の決めつけとも考えられる
懐疑を懐疑してみろ懐疑論者めが
わざわざやるほどの事じゃないかもしれないが、一応やってみる
1.「あらゆるものごとは、人間の主観で捉えて把握しなければならない」
2.「人間の主観で捉えて把握したものは、全て不確かなものである」
3.→「ゆえに、あらゆるものごとは、不確かなものである」
このような論法を仮定してみる
これは問題あるだろうかね、ないだろうかね
どんなオチか予想できるネタですまんけど、1.の「あらゆるものごと」の一例として、
3.の結論を入れてみる
1.「「あらゆるものごとは、不確かなものである」ということは、人間の主観で捉えて把握しなければならない」
2.「「あらゆるものごとは、不確かなものである」ということは、人間の主観で捉えて把握したものであるから、
不確かなものである」
3.→「ゆえに、「あらゆるものごとは、不確かなものである」ということは、不確かなものである」
=あらゆるものごとの中には、確かなものも存在するかもしれない
あるいは、確かなものも存在する?
666 :
考える名無しさん:2010/07/03(土) 12:11:05 0
「人間の主観が不確かだとしたら、その「不確か」もまた不確かである、
という事もまた不確かである、という事も・・(以下無限ループ)」
って事になりません?
結局、ちゃんと疑えば、「分かるかもしれないけど、分からないかもしれない」
という結論に至るような気がするんですがw
667 :
唯意味論:2010/07/03(土) 13:05:47 0
>>665 その方法は一応、デカルトによって帰結しているのでは?
主観に把捉された対象は不確かである。すべて疑いうる。
が、疑う主観(主体)の存在までは、否定できない。
むろん、その存在も含めて、なおも疑いつづけることはできるが、
疑っている何かが「ある」ことまでは否定できない…
これ以外のキリのつけ方は、あるやなしや? ということだろう?
667
そこにはレトリックがありそうです
「疑えない」「確か」これらの概念に終始していたのに
突如として「否定できない」と別の表現を使う
ところで、否定できないからといって肯定していいのでしょうか?
否定できない→肯定
単純にこう考えていいのかも疑問です
そこには論理規則が前提とされている
その規則は批判できないだろうか?
否定の否定→肯定
とするには、何らかの前提が必要であるし
それに疑いの目を向けることはできるように思える
>>666 > 結局、ちゃんと疑えば、「分かるかもしれないけど、分からないかもしれない」
> という結論に至るような気がするんですがw
いや、もう一声、「分かるかもしれないけど、分からないかもしれない」ということも
分かるかもしれないけど分からないかもしれないことになって、もはや何のことか全然わからんわけですなw
>>667 >>665の話は、疑う主体とか何とかとは、直接の関係はないと思うのだがね
「全ては不確かだ」などの文章とかその意味とかをいじってみた、という話なので
671 :
考える名無しさん:2010/07/03(土) 21:05:52 0
コビト馬鹿さんたちのコビトな作業はなにか
コビトなりの地平に至るのでしょうか
見守りたいと思いますがコビト馬鹿さん達が哀れなほどコビト馬鹿すぎて
飽きてしまうのも事実です。
見守ってるわけじゃなくて
指くわえて見てるしかないのでしょ。
>>671 このような馬鹿はどうして存在するのかなあ
どうしても存在していると言わなければならないのかなあ
本当は存在しない、と言えたら楽しいのだけどなあ
でも残念、このような馬鹿でも、このような馬鹿だというだけで存在しないとは言えなさそうだなあ
674 :
考える名無しさん:2010/07/03(土) 21:33:35 0
>>672 >>673 コビト馬鹿さんたちが何か反応してるようですが
コビトのやってることなので小さすぎ私にはよく見えません。
コビト馬鹿くらいの小ささになると量子的な観測の限界などで
存在に懐疑的になるのかも知れません。
そんなことはずいぶん昔から議論されているのですが
コビト馬鹿さんたちは馬鹿なのでそんな事も学べないし
馬鹿なので自分たちなり辿り直さないと納得できないのでしょう。
辿り直すのに何十年かかるのかも分かりません。
なにしろコビトでおまけに馬鹿なのですから。
まあ懐疑論というのはこうしたコビト馬鹿さんたちの
遊戯場なのでしょうね。
675 :
考える名無しさん:2010/07/03(土) 21:42:20 0
ワタシこんな場でしか上目線で話せないよ?
>馬鹿なので自分たちなり辿り直さないと納得できないのでしょう。
辿り直す前に考えるでしょ。問題に気付くでしょ。
感覚の鈍い奴は哲学(の勉強)なんかやめて、
哲学者の写真入りのお札を神棚に飾って、一生拝んでれば満足でしょ。
677 :
考える名無しさん:2010/07/03(土) 22:12:38 0
物理学とかどうでもいいから
>>674 2chの普通のレスが小さすぎてわからない?
量子的な観測の何とやら?
馬鹿の書くことは全く理解できないなあ
679 :
考える名無しさん:2010/07/04(日) 08:16:00 0
まぁまぁ、そんなお互い裁き合おうとしなくたっていいじゃないですか。
別に裁き合ってもいいんですが、
「人間が皆同じ罪人だとしたら、罪人が罪人を裁くのってどうなの?」
ってのが、キリストの教えだと思うんですよ。
自分に全く罪が無いと思うんなら、
上の文章の「罪人」を「人間」「生物」に変えて考えてもらってもいいです。
僕も人の事言えないんで恐縮なんですがw
>ところで、否定できないからといって肯定していいのでしょうか?
これは、もちろん肯定してはいけませんよね。二元論では無いですから。
>665の論法から分かる事は、確かな物が無いという事です。
>>680 >>665の論法をそのまま単純に当てはめるとすれば、そこから分かるのは、
確かなものは無いということ(だけ)ではありません
確かなものは無いということも確かなものではなく、
確かなものは無いということも確かなものではないということも確かなものではなく、
確かなものは無いということも確かなものではないということも確かなものではないということも確かなものではなく…
ということです
(もちろん、それもまた確かなものではなく…)
確かなものは無いというはっきりした結論が出たりはしないと思われます
ここにうだうだ駄文を書いている奴らはニセ懐疑論者
真性懐疑論者は自らも疑うため沈黙せざるをえなくなる
>>682 あー、出たよ。
懐疑論者は世界を『疑わなければならない』という勘違いした馬鹿が。
彼らの頭の中では、「疑えると考える」と「疑う」が同一の意味を持つものとして
解釈されるみたいだな……。
684 :
考える名無しさん:2010/07/04(日) 14:17:19 0
誰もが疑い得ないこと=客観 として
「すべて人間の思い込みにすぎない」=人間が思い込む存在であることは、誰もが疑い得ないこと。
「主観が分けているだけ」=確かなことか不確かなことかは主観が決める。これも誰もが疑い得ないこと。
684
「確かなこと」を「客観」と定義した以上
確かなことと不確かなことを主観が決めれるはずがない
「主観とか客観とかは主観が決める」と発言しているに等しい
客観を「確かなもの」
主観を「不確かなもの」と定義するならば
あらゆる主観は「不確かなもの」となるはずだ
確かなものを主観が勝手に決めていいのは、最初の定義から外れている
686 :
考える名無しさん:2010/07/04(日) 15:14:05 0
「もうどーでもいいわ!」と真理を追究する事をやめる、
という選択肢もありますよ?みなさんw
「疑う、考える」というのもいいけど、
「何も考えない」というのもアリだと思います
>>681 いやはっきりしていると思いますが…
ああ、ちょっとニュアンスが違いますか。
確かな物にどうやっても辿り着けないですから、あるとは言えない。
つまり、客観は成り立っていると言えない。
したがって、客観を前提とする物全てに対して、
それらは成り立っているとは言いがたい、不確定な状態だと言えます。
688 :
考える名無しさん:2010/07/04(日) 15:38:29 0
「確かな物にどうにか辿り着ける可能性」は想像できますよ?
つまり、「客観が成り立つ可能性」自体はあり得る可能性はあるかもしれません
なんか訳わかんなくなってきたw
>>688 想像できる、というよりも、想像する以外に方法が無いと言うことでしょう。
つまりどうあっても確定する事ができないのです。永遠に。
永遠に、不確定な状態なのです。この世界が続く限り。
>>687 だから、例えば「確かなものにどうやっても辿り着けない」ことは、確かなことだと言えるのですか?
それも確かなことではないことにならないのですか?
691 :
考える名無しさん:2010/07/04(日) 16:12:07 0
さぁ〜「この世に存在するあらゆる方法という方法」を自分が知ってるとは思えないので、
分かりませんw
案外、地球上のどっかにひょっこり「真理」が座ってるかもしれませんよ?誰にも発見されずにw
例えば、「真理」というものが「想像」や「言葉」ではなく、
「芸術」、例えば音楽や絵画、映像で表現される可能性もあります。
692 :
考える名無しさん:2010/07/04(日) 16:12:48 0
思考停止は、既定路線w
>>691 ああ、確かなものにどうやっても辿り着けないということは確かなことだ、というのではなく、
あなたが今知っている範囲では辿り着けなさそうだ、くらいのことですか
それはまことに穏当な考え方ですね
694 :
考える名無しさん:2010/07/04(日) 17:56:13 0
「確かな物」というのは観念だから、自らのそれにしかない。
で、いいか?
>>690 そろそろ分かって欲しいのですが、
>だから、例えば「確かなものにどうやっても辿り着けない」ことは、確かなことだと言えるのですか?
これを考える事は重要では無いんですよ。何が問われているかを思い出して下さい。
問われているのは「確かな物」があるかどうかであって、上記の問いは全く無関係の問いと言えます。
>だから、例えば「確かなものにどうやっても辿り着けない」ことは、確かなことだと言えるのですか?
>それも確かなことではないことにならないのですか?
確かな物が無いという考えもまた不確実で、普遍性が無く、主観です。
しかし、だからと言ってそれが「確かな物」があるという回答にはなりません。
ですから、何故そこに執着するのか分からない、と言うのが感想です。
696 :
考える名無しさん:2010/07/04(日) 18:22:19 0
「確かな物」って
誰もが知り、誰もが信頼し、
誰もが絶対的な価値を認めるもの?
>>695 あなたは、「確かな物」という時に、(ちょうど「物」という表現になっていますが)
物体の存在などが確かかどうかだけを問題にしているということですか?
>>690のような文章の内容とか、あるいは(大袈裟になりますが)数学、論理学とかは
全然問題にしていないということですか?
そうであれば、
>>690のようなことが問われていないとか重要ではないと言われるのは了解できます
ただ、問題を物体に限定しているのだということは、混乱を避けるため明示してほしいですが
698 :
考える名無しさん:2010/07/04(日) 23:32:54 O
小さすぎてよく分かりませんが
コビト馬鹿さんたちが本当にこの話題が好きで
楽しげな雰囲気なのは何となく感じます。
懐疑論を否定しろというコビト馬鹿さんたちのお誘いに
今夜もコビト馬鹿さんたちが集まっておのおの馬鹿なりの
論理みたいな筋道を辿ってドンジャラホイと踊ります
>>698 小さすぎて分からないって、ひょっとして視力が極端に弱いのか?
あるいは、自分がブラウザの設定か何かを間違えているのに気付かないような馬鹿なのか?
しかしそれにしては、それなりの長さの馬鹿な文章をスムーズに書き込んでるのは不思議だ
(もちろん不可能とはいえないが)
この馬鹿はなかなかに理解困難な馬鹿だな
700 :
考える名無しさん:2010/07/05(月) 01:54:34 0
いやいや
>見守りたいと思いますが・・・飽きてしまうのも事実です。
と言いながら
のこのこ何度もやってくるボケたエロガッパです
701 :
考える名無しさん:2010/07/05(月) 06:16:28 0
ある人が言いました
「好奇心にも色々な種類がある。ひとつは欲の好奇心で、
これは我々を駆り立てて自分の得になりそうなことを知りたがらせる。
別の、傲慢の好奇心は、他の人の知らない事を知りたいという欲望からくる」
個人的には、それ以外にも、「確かなものを手に入れて安心したい」というのも
人々の知識欲の動機なんじゃないだろうかと思います。
そして、ある人にとっての求める「確かなもの」とは「確かなものは無い!」
という結論かもしれません。
皆さんはどうでしょうか?
知識欲の動機ねぇ
それは単に楽しいからだと思うよ
棋士が将棋をするのも、将棋が好きだからでしょう
「食うために将棋を指す」というのは違う気がする
イチローも、金のためにバットを振ってるわけではなかろう
イチローは虚しくならないのか
10割ヒットを打てるわけじゃないのに毎日、バットを振って、、
羽生は虚しくならないのか
必勝法なんてないのに、毎日将棋のことを考えて
羽生もイチローもそんなことを考えないんだろうなぁ
将棋は完全情報ゲームで有限の状態しか持たないから必勝法あるよ。
703
「実数は無限に到達しないのに無限に続く」に等しい
将棋のパターンを全部洗い出してから言えば?w
「いやいや、原理的にはある」と強弁するかな?w
もしかしたらあるかもしれないし、ないかもしれないね
俺は必勝法には興味がないから必勝法を探そうとはしないし
羽生もまたそうだろう
羽生の偉いところは、昔から悪手と言われていた手を実際に自分で指しながら
どれぐらい損かを自分で確認したところだと思うが
そんな羽生でも、悪手の中に必勝法が隠れている可能性を否定しないだろうね
また、だからこそ、必勝法は手に入らないわけです
悪手の先を検討することを人間はやらないわけだから
知識とは確定されたものが蓄積されていくのだろうか
そのような知識が蓄積されていく進歩的知識観は、とてもヘーゲル的に見える
しかし、人間が獲得してきた知識を見れば
原子論もデモクリトスが提唱しているし
地球が球だという考えも、アナクシマンドロスに提唱さてれいる
現在、正しいとされている知識も、太古に提唱されており、間違いだとされたこともある
現在の知識が太古の知識と比較して、「より正しい」とか「より確からしい」とか言うことができるだろうか
すべては永劫回帰かもしれない
人間の歴史において、確定された正しい知識などあるのだろうかね
さて、将棋の話題もするか
マルバツゲームには必勝法がある
これはマルバツゲームにおいて、可能な選択肢がすべて判明しており
負ける選択肢を選ばない以上は敗けを必ず回避できるからである
しかし、マルバツゲームで勝敗が決することはまったくないであろうか?
マルバツゲームをやったものならば分かるだろうが
1、2回は負けることもある
マルバツゲームはそのパターンが2、3パターンしかないため
一度負けたパターンを把握して二度と同じ負ける選択肢を選ばなければ、必ず敗けを回避できる
これをして「必勝法はある」と言う
ここで、わたしが強調したいのは、マルバツゲームの必勝法には「人間の知識」が不可分に結び付いている点だ
「人間が負けるパターンを把握する」ということが、マルバツゲームの必勝法には不可欠である
同様に、将棋の必勝法を獲得するには、将棋のあらゆる選択肢を把握することが不可欠である
それは人間には獲得できないかもしれない
その選択肢は人間が把握するには膨大な数だが、無限ではなく有限である以上
一つ一つ数え続ければ必ず終わりがくる
その意味で将棋には必勝法はあるのだろう
純然たる数学世界において将棋の必勝法は眠っている
数学世界の住人ならば、いつか将棋の必勝法を獲得できるかもしれない
そのことをわたしは否定する気はないw
懐疑論の否定のしかた
「こら!懐疑論! 肘ついて食べるのやめなさい!」
>>704-706 つまり1行でまとめると
将棋は完全情報ゲームで有限の状態しか持たないから必勝法あるよ。
ってことだな。
708
宇宙は有限でしょうか?無限でしょうか?
名作「ハチワンダイバー」は「この81マスの中に宇宙がある」ってセリフがありました
宇宙だって、全知全能な知性によって把握されたら、
そこには有限な情報しかなく未知はまったくないでしょう
これは懐疑論の話題とも深く関わります
僕は将棋の81マスの中に未知の存在を認めます
人間の知性には限界があり、それゆえ人間が抱える未知は無限であるという立場をとります
一つ一つの手順をつぶしていくだけでは到底到達できない未知
これが人間が抱える知識の根本的性質であり
将棋もまた、同様の性質を抱えると考えています
つまり、僕は「将棋には必勝法はない」と考えているわけです
必勝法とは「すべての把握」によってもたらされるものに過ぎません
原理的に、将棋の手順は有限なる数におさまるがゆえ、原理的にはすべてを把握することができるかもしれません
しかし、その数は無量大数を越えるような莫大な数であり、
人間には把握しきれない数であり、
例え有限であっても、人間には把握しきれないという意味で、無限に近い
僕は、将棋のすべての手順を把握することは人間には不可能であるため
将棋には必勝法はないと考えます
710 :
考える名無しさん:2010/07/06(火) 02:04:51 0
つまりひとことでまとめると
「私は馬鹿です」
ってことだな。
実は、もとの考えは決定論にも通じる
数学者ラプラスは全知全能な存在は宇宙のすべて(未来において起こること)も把握できると考えました
全知全能な存在は初期条件さえ与えれば、未来に起きるいかなることも算出できる
物理学は全知全能に暫近していく学問であるため
いずれ、すべてを把握できたら、未来に起きる出来事は計算によって算出できる
これが17世紀(だったはず)の数学者ラプラスが唱えた世界観であり
今でも形而上学的決定論として、一部の学者の信念に固く入り込んでいるものでもある
このような形而上学的決定論としての信念を確保しないと
学問における知識はその正当性を失ってしまうというわけだ
これは、人間の知識の正当化に全知全能なる理念を不可欠としている考え方だ
このような考え方もあるだろう
だが、わたしは、人間の知識には、まったく別の側面があるようにも思える
710
素晴らしい、その通りだ
わたしはバカだ
そしてそのことに胸を張っている
わたしは、間違いを犯せない賢人たちに憐れみの目を向けながら
バカとして知的関心のよるところに終始する
それはわたしのアイデンティティーに近いかもしれない
まあ実際の世界はラプラスの魔を邪魔するものがいろいろありそうだが、
哲学というの暗黙的に我々の住んでいるスケールの世界で通じる論理を元に
語られているものなので、私はその辺の「実際の極小の世界はどうなってるか〜」ってのは
哲学で論理を組み立てる際には無視してもいいと考えてる。
バタフライ効果は考慮すべきだけどね。
714 :
NAS6 ◆YbjyWDyXSc :2010/07/09(金) 08:39:04 0
結論
「神様ぁ、助けて〜」
懐疑しません 勝つまでは
716 :
唯意味論:2010/07/12(月) 09:35:16 0
参院選の敗北の責任は、むろん野党くずれの軽薄・菅首相にある。
が、戦術を捻りだしているのは仙石氏。策士、策に溺れた格好。
>>709 升目が決まっていて、規則が明確。したがって、その手順は有限。
ただ、あまりにも手数が莫大なので「人間には数え切れまい」と
いうのが君の見解らしいが、私は案外、手順は文字どおり「無限」
ではないか、とも思っている。
将棋にかぎらず、(スポーツを含めて)あらゆる競技は限定された
時空間のなかでルールに基づきなされている。が、必勝法のない
ものがほとんどである。そこでは無限の事態が生じうるからだ。
同じサッカーは起こりえない。同じ将棋も。
規則は無限を招来する…ほんとかね。ww
懐疑論を懐疑 → 実在論を擁護