http://www.asyura2.com/0406/bd37/msg/430.html ■柄谷 (略)その前に、僕がパララックス(視差)ということを考え出したキッカケについて話しておきたいと思います。
一九八○年代の初めに、僕は『形式化の諸問題』という論文を書きました。二十世紀のあらゆる知的領域は、芸術を含め
てすべて形式化としてある、だから形式化のもたらす問題としてそれらを包括的・根源的に考えようと思ったわけです。
デリダのディコンストラクションなんかだと、わりと限定された領域でやっていますけれども、僕はそれを全領域でやろ
うと思った。そこで数学基礎論をもってきた。つまり、ゲーデルのいう「決定不能性」をもとにして、形式化の問題を考
えようとしたわけですが、その結果として、病気になったのです。カント的にいえば「脳病」ですね。そのとき、たまた
ま坂部さんのカント論を読んだのです。
実は、そのころ、僕はスウェーデンボルグを読んでいたのです。読んでいたのみならず、実際にも、そういうサイキックた
ちに出会うようになったわけですね。その当時、それを僕は否定できなかった。今も否定しているわけではないのです。確
かにスウェーデンボルグみたいな人はいる。どうしてだかかわからないけど、とにかくいるのです。だから、僕は、坂部さ
んの『理性の不安』をたんに過去の話としてでなく読んだ。カントは本当に悩んだんだろうなと思いました。それ以降、
カントが非常に身近になったわけです。古い話じゃない、自分の経験からいってそうなのだ、と思うようになったわけです。
実際にはカン卜のことをやってなかったけれども、そのことがずっと頭にあって、『純粋理性批判』からではなくて『視霊者
の夢』から始めるべきだと考えていた。それは坂部さんの影響なんですよ。