■ ジル・ドゥルーズ Gilles Deleuze 7 ■
1 :
考える名無しさん :
2009/12/01(火) 06:15:04 0
681 :みすず書房近刊 [↓] :2009/11/17(火) 02:06:56 0 [PC] 2010年1月22日発行予定 アンチ・オイディプス草稿 [著者] ピエール=フェリックス・ガタリ [訳者] 國分功一郎 [訳者] 千葉雅也 A5判 タテ210mm×ヨコ148mm/480頁 定価 ---- ISBN 978-4-622-07514-1
『資本主義と分裂症』のポップでクレージーな箇所は主にガタリ担当と思っていたが、 『記号と事件』の「口さがない批評家への手紙」を読んで、ドゥルーズもポテンシャル高そうだなとw
その草稿はかなりブロークンな仏語だったらしく、千葉は翻訳するのが大変だったそうだ
新スレ落ちちゃってたのか
保全
國分+佐藤+千葉の鼎談「ドゥルーズの逆説的保守主義」が来年の『表象』に掲載ktkr
9 :
考える名無しさん :2009/12/07(月) 18:55:46 0
ドゥルーズが気になってる哲学初心者なんですが 彼のことなにも知りません、自己同一性を批判したのが差異と反復ですか? 自分はアイデンティティに対して批判的でニュートラルなことを大切だと思っているんですが ドゥルーズと関係ありませんか?
10 :
考える名無しさん :2009/12/08(火) 12:35:03 0
とりあえずreidar dueの解説書読め。良書だから。
11 :
考える名無しさん :2009/12/08(火) 14:50:40 0
>>9 『差異と反復』は自己同一性批判というより、同一性に依拠した論理(表象の体系)では捉えられない物を指摘し、
同一性に拠らない論理(イマージュなき思考)の可能性を追求した書物。
あとドゥルーズ(というよりポストモダン思想全般)はニュートラルという観念自体を疑う。
中立的なのは人間的なものとは無縁。
『経験論と主体性』は22歳の時に書いた論文が基らしいが、この中の結論、 「哲学は、私たちが行うことについての理論として構成されるべきであり、存在するものについての理論として構成されるべきではない」 これにはやはり「ハイデガーのバカ野郎」を聴きとるべきなんだろうか。 ところで、『意味の論理学』って以前の単行本しか持ってないんだが、文庫とどちらが読みやすいんだろう?
断然、文庫
14 :
考える名無しさん :2009/12/08(火) 18:06:38 0
>>13 完全に同意。それにしても何故小泉はネタ本しか書かないのか。
>>11 >あとドゥルーズ(というよりポストモダン思想全般)はニュートラルという観念自体を疑う。
おいおい
>>13 >>14 そうですか。じゃ、今度書店で見かけたら、詳細に立ち読んでみるかな。
>>15 >>11 の主張は知らないけど、千プラに「中間とは中庸ではない」と書かれてあった。
>>9 が言ってる「ニュートラル」は中間と中庸、どっちのニュアンスなのか、どっちでもないのか。
17 :
9 :2009/12/10(木) 01:45:36 0
>>16 哲学初心者なのでどう説明していいか分かりませんが、
昨日の自分と今日の自分ではまったくの同一の考えを持っているわけでは無いと思っていて
ランボーの言う「私は一人の他者である」という考えに惹かれているので、
ドゥルーズの「差異と反復」は表象=再現前化を批判して差異を肯定するものだと思っていたので
ドゥルーズはヘーゲルの絶対知に至る弁証法の、絶対知に至らない弁証法的なことをしているのかなと考えていました。
それが常に自分を疑問に伏すニュートラルな思想だと思ったのですが、
>>11 さんの言う感じではドゥルーズはそういう思想家ではないんですね。
どちらにしろ、近代哲学の創始者のデカルトやカントも知らないからいきなり現代思想は無謀すぎですよね?
>ランボーの言う「私は一人の他者である」という考え は、ドゥルーズが好きなフレーズ。カント哲学の真理の一つとして「差異と反復」でも 言及されている。 >昨日の自分と今日の自分ではまったくの同一の考えを持っているわけでは無い は、ドゥルーズの出発点たるヒュームとベルクソンの着想と考えていいかもしれない。 そもそも何故ドゥルーズや同時代の思想家は自己同一性という論理を疑問に付さなければならなかったのか? この問題設定を押さえておけば、「差異と反復」といきなり格闘してみても 決して無謀ではない・・・と思う。ただし院生や研究者じゃなければ、の話だが。
19 :
考える名無しさん :2009/12/10(木) 06:14:08 0
>>17 いきなり差異と反復読むよりまずはニーチェと哲学かミルプラ辺りから入るのが賢明だと思う。
あとカントもデカルトも知らなくて大丈夫だ。ドゥルーズはそういうレベルを超越していらっしゃる。
知ってても読み難さは多分あまり変わらない。ドゥルーズが持ち出してくるネタがほんの少し分からなくなるぐらいだ。
まともに、それこそすべてを理解してドゥルーズの著作を読もうと思えばドゥルーズが引いてくるものを何から何まで学ぶ必要があるが、
ドゥルーズはそんなことは望んでいない。
気に入ったらドスの評伝もぜひ。
敵も読まなきゃダメだよ。
初心者は、ドゥルーズ自身の初期であるヒューム論から入るのが一番いいと俺は思う。それと「差異について」かな。 何の予備知識もない人に「ドゥルーズの大体の感じをてっとり早く知りたい」と言われたら、「内在:ひとつの生」(遺稿)と「口さがない批評家への手紙」(笑)を薦めるな。 逆に難解なのは「意味の論理学」「スピノザと表現の問題」「襞」辺りか?
時間の無駄だからやめといたほうがいいよ まじで
ダラダラ上辺だけの虚言連ねてみたものの 病苦こそ真理なりと窓から飛び降りて反証した哀れなピエロか こいつの著作はゴミ屑
24 :
考える名無しさん :2009/12/10(木) 16:18:56 0
>>23 ハイデガーよりマシだw
まあ俺は文学として楽しんでるが。
まあせいぜい思想/哲学なんてそんなものさ。
何かを得たいと思うならポストモダン周辺の思想はローティとルーマンだけで十分。
それで何かを得たつもりになってる奴が一番哀れだが。
ルーマンはともかく、ローティはそういう位置づけになるもんなの?
俺はドゥルーズを読んで脳の配線がかなり組み換えられた感じがする。そういう意味では、確実に何かを得てはいるな。 それがいいのか悪いのかは知らんがw「概念」は自分で使ってみる事が出来る点で「文学」とは違う。 「新しい見方・聴き方としての知覚対象(ペルセプト)」 「新しい感じ方としての情動(アフェクト)」 「新しい考え方としての概念(コンセプト)」 この三位一体に共鳴するかしないか、つまり「強度が伝わるかどうか」だよ。「正しい理念ではなく、単なる理念だ」。 「概念は肉声ではない真の歌」とか「講義はロックコンサートのようなもの」とドゥルーズ先生も言ってるし。読みたきゃ読めばいいだけだ。
そこらへんの最晩年期は正直よくわからないな
28 :
考える名無しさん :2009/12/10(木) 18:38:49 0
そうだなあ。俺にもドゥルーズの作った機械はよく機能した。 しかしドゥルーズの言う意味でニーチェ的な生き方をしてる奴とか見るとドゥルーズを読むまで軽い思考の素晴らしさに気付けなかった自分は本当に愚鈍だ、と思ったりもする。 そいつがまた何にでも好奇心旺盛で賢かったりするんだよなあ。 で、今俺はドゥルーズから離れられないという罠にかかっているのだが、一生治りそうにないw
『差異について』を最初に読むべきだろう
30 :
考える名無しさん :2009/12/10(木) 19:12:55 0
久々に賑わってきたがスピ君は・・・いなさそうだな。
ハイデガースレみたく信者が隠語でオナニーしてないだけやはりドゥルーズのがマシだな
34 :
考える名無しさん :2009/12/10(木) 20:53:00 0
とりあえずドゥルーズに対する誹謗中傷を跳ね返し、その現代性を証明する創造的な博論を千葉が書くことを期待。
千葉が期待されすぎてるな
ドゥルーズ好きな人はどんな作家がすきなの
吉田戦車
38 :
考える名無しさん :2009/12/10(木) 21:39:14 0
勿論プルースト
立花種久
千葉は文体がレトリカルだから34の期待とは違う
クロード・シモン
42 :
考える名無しさん :2009/12/10(木) 23:35:11 0
しかしその一方で最近ゼロアカ論壇の人達と交流してたりするしまだまだ未知数なところもある。 博論終わったら何をしだすのだろうか?
小林康夫キャラ
『スピノザと表現の問題』の、「第三種の認識を通じて得た、我々自身の本質と結びついた能動的感情(=強度的部分)」が、我々の「死後行使される」という結論。
『襞』における、フェヒナーの『死後の生存』からの引用。この著書自体がまとう敬虔な世界観。
フェヒナーについてはW.ジェームズも肯定的に言及していたし、ベルクソンも心霊現象に関心を寄せていた。
『バフォメット』論での「強度的特異性としての霊」も、或いは比喩ではなく字義通りの意味で論じているのでは?(「霊による思考の吹き込み」についてはD.H.ロレンスも述べている)
>>8 のリンク先で小泉さんの「君たちには信仰心がたりない」という発言があるけど、信仰心篤い小泉さんはドゥルーズの宗教性についてどう解釈しているのか。
現代思想のフッサール特集で鈴木泉の論考が載ってるけどあれだけのために1900円払うべきかどうか悩む
>>46 鈴木泉論文のために1900円というとあれだが、
結構おもしろそうな翻訳が沢山載ってるし、
ちょっと無理して買っても元はとれると思ったけどな。
48 :
考える名無しさん :2009/12/12(土) 20:01:07 0
皆さんのお勧めのドゥルーズ関連文献は何かありますか?
49 :
考える名無しさん :2009/12/13(日) 10:46:01 0
そういや千葉は中島の「荘子」の書評を書いたらしいが あの本って荘子をガチでドゥルーズに引きつけて描いているのか それとも少し触れてるだけなのか?
いろいろながらくたをハウルの動く城のように連結して動かしたという 功績は大きいが、 無神論者である点が決定的にダメだ。 がらくたは所詮がらくたなのだ。 否定神学が20世紀の潮流だとしても、17世紀以前の哲学に還るべき 理由がここにある。 CSOはタオであり神である、くらいは言ってほしかった。
松岡正剛あたりの信者?
無神論ていっても、超越的な法則なり価値なりの根拠としての神に限っての話では?
>>8 で、小泉がドゥルーズの信仰について言っているね。
だからポエム板でやれってw
55 :
考える名無しさん :2009/12/14(月) 14:42:44 0
ドゥルーズをポエムだ文学だと批判するのはいいが、あなた方は哲学の今日的意義を何だと考えているのか? 少なくともドゥルーズは哲学が危機に陥っているという現状を踏まえてポエム化を敢行している。
56 :
考える名無しさん :2009/12/14(月) 21:50:50 0
千葉が31歳になったな。
ドゥルーズは位置的に中半端なんだよな
人間を語るなら少なくとも文学的にならざるを得ないね
千葉スレは分離して欲しい
人間なんて語っていないし。
こんなの読んでるよ死にたくなってくるよ
提供 ル・サンチマン™
63 :
考える名無しさん :2009/12/15(火) 14:43:44 0
このスレもレベル下がったな
◇ ミ ◇ ◇◇ / ̄| ◇◇ ◇◇ \ |__| ◇◇ 神国に仇をなすすべての邪悪よ滅び給え。 彡 O(,,゚Д゚) / ( P `O /彡#_|ミ\ </」_|凵_ゝ <中国終了のお知らせ> 中国は日本の属国になり下がりました。 中国で主席になるには、日本の天皇陛下に謁見を乞い、認証してもらわないといけなくなりました。 その為、習近平副主席は13日に日本の天皇陛下に認証してもらいにいくことになりました。 China has become a vassal nation of Japan. In order to be the leader of China, necessity of confirmation by the Japanese Emperor has been made clear. Therefore, Xi Jinping will be visiting Japan on the 13th to audience with the Emperor. 中國打算成為日本的附屬國 需要在成為國家主席之前對天皇謁見 同時對天皇陛下出了來主席的認可的必要 由於以上的理由,習近平副主席13日從天皇陛下領受主席的認證的
じゃ何でニュー速のネトウヨがあんなファビョってんだ
「ネトウヨ」はサヨクにしか見えない幻覚。
高天原に大天主太神 あまたの天使をつどへて永遠に神つまります 神ろぎ神ろみの御言もちて 神伊邪那岐尊 つくしのひむかのたちはなのをどのあはぎがはらに みそぎ祓ひたまふ時になりませる祓戸の大神たち もろもろの曲事罪 穢を 祓ひたまへ清めたまへと まをす事の由を 天津神 国津神 八百万の神たちともに 天の斑駒の耳ふり立てて聞こしめせと 恐み恐みも白す ◇ ミ ◇ ◇◇ / ̄| ◇◇ ◇◇ \ |__| ◇◇ 祓いたまへ 清めたまへ 彡 O(,,゚Д゚) / 浄化したまへ ( P `O 朝敵の小沢一郎に天の裁きをあたえたまへ /彡#_|ミ\ 小沢一郎の売国行為をとめたまへ </」_|凵_ゝ 恐み恐みも白す
もともとレベル低いじゃない。 たまに頭の良い人が自分なりの読解を示すけど、 あとは好きか嫌いか言っているだけ。
俺もモノ言えるくらいに読めるようになりたい。
おそらく書いてる本人も何が書きたいかわかってないと思う
「何が書きたいか分かっている」とはどういうことか。言語と意識の関係性と共に説明してほしい。
欲望の流れに逆らわないで書くこと
そうするとシュルレアリスム的自動筆記の方が哲学者よりも、自分の書きたいことを分かって書いていることになるんだろうか。
速くあれ! たとえその場を動かないときでも
75 :
考える名無しさん :2009/12/17(木) 03:02:38 0
ネルヴァルを理想に挙げていた
ttt_ceintureって何なの
そんなこと俺に聞くなよ
誰それ?
79 :
考える名無しさん :2009/12/17(木) 12:48:18 0
ツイッタを介して天才高校生hihumiとか千葉とかとつながってるみたいなんだが誰なんだろうな。
浅田スレにいた人じゃないか
浅田スレの論客はもうちょっと品があったと思うぜ
>>79 twitterやっている研究者って他に誰かいる?
ごめん。 フォローたどっていけば、いろいろいるね。 でも、twitterであれこれ読んでもあんま実りなさそうだ。
2ちゃんに人がいないあいだにみんな向こうにいった印象あるけど
>>74 千プラですね。
そういやデリダも、「私の頭に閃く全てを保存するほど早く書くこと」という理想を語っていた。(『言葉にのって』p.26)
かっけー
87 :
考える名無しさん :2009/12/17(木) 19:57:40 0
ドゥルーズのHP作ってる方いましたが初心者にも分かる解説みたいなの書いてくれません?
千葉もうざくなってきたよなw というかお前ら目立つ奴が全員嫌いだろw
90 :
考える名無しさん :2009/12/17(木) 20:46:47 0
>>76 の自己紹介リンクに100問100答があって、いちいち出題者に突っかかってるw
しかも思想書しか読んでないし視野が極狭っw
ケツの穴小さそう
まーこういうのばっかりですよね、思想好きが言うことは。そのくせ、ものすごい雑駁とした批判でしょ。趣味の好悪を提示すれば批評になる、みたいな悪癖にとりつかれている思想好きは、ほっとくしかないですよ。
92 :
考える名無しさん :2009/12/17(木) 20:53:45 O
一言われたら倍以上返すタイプだよな
94 :
考える名無しさん :2009/12/18(金) 02:38:28 0
串田?
ドゥルーズは停滞 ガタリは煽動家 デリダは完全な基地外
>>88 >>90 >>91 本人は高尚な議論してる俺SUGEE!なんだろうな
「哲学はコミュニケーションではない」んじゃなかったっけ
そこでドゥルーズを持ち出すのは違うと思うけど。
詩人としては一級だと思うよ
>>84 さっきはじめて千葉のtwitterをのぞいてみたけど、結構語っているね。
彼は2chものぞいてるようだが、「倒錯」って、このスレの話題じゃないよね?
100 :
考える名無しさん :2009/12/18(金) 13:43:54 0
景気が悪いと読み方も貧しくなるな。
>>98 ×詩人としては一級だと思うよ
◯死人としては一級だと思うよ
102 :
考える名無しさん :2009/12/19(土) 12:53:37 0
>>87 解説書買えよw
でも解説書読んだだけで読めるような代物でも無いのも事実か。
103 :
考える名無しさん :2009/12/19(土) 13:18:10 0
日本語で書かれたものだったらマイケル・ハートのやつかな。まともなのは。
104 :
考える名無しさん :2009/12/19(土) 14:29:42 0
>>98 ということは政治哲学者としても一級って事だな。
プラトニズムの批判者としてはなんとも光栄なことじゃないか。
書店に行ったら、月曜社から唐突に、ジョルジュ・アガンベンの『思考の潜勢力』 (高桑和巳 訳)が出ていてびっくりした。ドゥルーズ論「絶対的内在」(「現代思想」02年8月号に既訳有り) を含む、21本の論文と講演を収録した500頁の大冊。ウラゲツブログにも月曜社公式ウェブサイト にもまだ情報が上がっていないので、個人的には本当に不意討ち。プラトン・ハイデガー・ベンヤミンを主軸に アビ・ヴァールブルグ論、セガレン論、ヴァレリー論など、テーマは多岐多彩。巻末の人名索引を見るだけで眩暈がする。 目を通した範囲では、訳文は統一感があって、平明だと思う。お正月向けだね。
amazonでポチってきた。 そのドゥルーズ論、読みたかったんだよね。
元気を付けたいときは「リゾーム」よく読む
残念ながらアガンベンのドゥルーズ論はあんまり面白くないけどね
109 :
考える名無しさん :2009/12/20(日) 07:13:36 0
そう?俺はアガンベンのドゥルーズ追悼文「人間と犬をのぞいて」も「内在:ひとつの生」を 集中的に読解したドゥルーズ論「絶対的内在」もすごい好きだけど。アガンベンのいいところは、 語源学的な読みが板についているところだと思う。ま、好みはそれぞれだからね。
アガンベンの語源学ってハイデガーと同じで、かなり恣意的ですよ。 面白がっている分には良いけれど、あれを事実として受け取るのはきわめて危険です。 ギリシャ語やラテン語も、かなり自分に都合の良い無理な読みをするしね。
111 :
109 :2009/12/20(日) 09:32:04 0
>>110 なるほど。恣意的と言われれば恣意的かな、確かに。でも、仰る通りで、
「言葉と死」もそうなんだけど、面白いんだよね、アガンベンの語源学的読みは。
個人的には、面白いということは、思考を触発するないしは生産的なアイデアだと
いうことだから、ドゥルーズ的な立場に立てば、いいことだと思うな。
例えば、昔、白川静の文字学に対する藤堂明保の教条的な批判があったけど、
今の視点から見ると、白川静に軍配を挙げざるを得ないところがあってさ。
特定の時代の「学問的厳密さ」の規範は尊重すべきだと思う一方で、思考自体の
力能は、やっぱりそこからはみだして行くものだと思うので、非常に難しいね、バランス取るのが。
基本的に、「ドゥルーズを読む」ということは、同時に「学問的正統性/正当性」を盾にする権力から
身をずらすということにならないと読んだことにはならないのは確かなので、まあいわく言い難いところだね。
>>111 基本的には全くそれに同感なんだけど
アガンベンの問題は、ところどころで「自分のやっていることは歴史学(歴史的事実にかかわること)ではない」と言いながら
他方で、かなり恣意的な文献学的な話(たとえばbiosとzoeの歴史的には存在しない区別)を、事実であるかのように提示するところ。
特に、アガンベンを使う人間の間で、そのあたりの彼の話の与太話性が十分に意識されていないのは危険だと思うのよね。
>>112 「与太話性が十分に意識されていないのは危険」というのは、全くその通りですね。
ドゥルーズ(とガタリ)もそうなので、フーコーが「アンチ・オイディプス」を評して、
「知の権力から距離を取るために、自身たちの言説の正当性を切り崩すことすらいとわなかった」
と述べたことは、字義通りに受け止めるべきだと思う。例えば、ソーカルらの批判をスルーして、
「差異と反復」を「学問的に正確に解説する」という姿勢は、究極的には間違っている。
そうではなくて、「ドゥルーズの与太話性」を織り込んだかたちで、「与太話の力能」を開示する方向でないと、
絶対にドゥルーズの偽物が出来上がるだけなんだよね。イロニーやユーモアによってしか開示されない「真実」や
「本性の差異」に沿った「微分に関する異なった(ソーカルらからすれば間違った)概念の切り分け」が開示する
「真実」をこそ、ドゥルーズは語ったわけだから。少なくともそういう傾向性は強いからね。
>>105 >ドゥルーズ論「絶対的内在」(「現代思想」02年8月号に既訳有り)
これはドゥルーズ論というよりスピノザ論として重要。上記にあるようにあくまでエッセイとしてだが。
哲学は非合理的なものを組み込むことで存続しているが、文学と違ってその非合理性を明らか(検証可能)にする必要がある。
アガンベンは独仏英の文脈からズレているから一応エッセイでも価値がある。
(変な数学も使ってないからソーカルの批判の対象外だろう)
日本語のドゥルーズ論としては澤野『ロックする哲学』がいいと思ったが、その後の澤野を考えると
薦められないのが難点。
115 :
考える名無しさん :2009/12/24(木) 20:57:50 0
「哲学とは何か」の科学について論じてるところが意味不明なんだけど。
自分でも何書いてるかわかってないからな
117 :
考える名無しさん :2009/12/25(金) 04:39:43 0
フランスのエピステモロジー踏まえてるからでしょ? バシェラールとか
そうでもない
119 :
考える名無しさん :2009/12/25(金) 06:59:54 0
まあ知らんけど
ドゥルーズの科学論(笑)
121 :
考える名無しさん :2009/12/25(金) 20:22:08 0
>>118 ドゥルーズはオトマンとか読んでたんでしょ、だって?
ロトマンのこと?
この話題になると免罪符かのようにロトマン
124 :
考える名無しさん :2009/12/26(土) 20:12:53 0
イギリス金融界死亡?取締人がイギリスにとって死神か救世主になるのか?これが日本にとってプラスとなるかマイナスに なるかはまだ不明だ。イギリス人の豚箱になるのは確定だが、イギリスのグローバル企業(ユダヤ系とか)に どう影響する のかはまだ分からない。イラン大統領が言う小悪魔であるゴキブリはもう潰されたも同然か? (今日の覚書、集めてみました)経由の翻訳による情報。 Nicolas Sarkozy hails EU appointment to 'clamp down on City of London' (ニコラス・サルコジ:EUによる「シティ・オブ・ロンドン取締」人の指名を賞賛) By Andrew Hough Telegraph:02 Dec 2009 フランスのニコラス・サルコジ大統領は英国政府の経済危機対応へのあからさまに非難し、 EUの新金融担当委員の任命はシティ・オブ・ロンドンの行き過ぎを取り締まるための チャンス、と賞賛した。 サルコジ氏は、国際金融危機は英国と米国が好む「アングロ・サクソンのやりたい放題」 の責任だと非難し、その一方で、「金融資本主義の行き過ぎとは無縁」の欧州的思考を賞賛した。 しかしアリスター・ダーリン財務相は、ミシェル・バルニエ氏がシティを統治する規制に介入 することにきっぱりと警告を与え、EUによる外国の介入は「混乱」の原因となるだろうと述べた。 スピーチの中でサルコジ氏は、自分の元農業相を通じて英国の銀行と金融サービスを裁き、 支配するチャンスに満足していることを隠せなかった。 「50年ぶりに初めてフランス人の欧州担当委員が、金融サービス、そしてシティ(オブ・ロンドン) を含む域内市場を仕切る姿を見ることが、私にとってどのような意味を持つかお分かりか」と サルコジ氏はラ・セイン・シュ・メーユで語った。 「世界にはヨーロッパ・モデルの勝利を目にして欲しい。ヨーロッパ・モデルは金融資本主義の 行き過ぎとは一切無縁だ」
ガタリのカオスモーズに思いのほか感銘を受けたのでレジュメ作ろうかと思ったが、なんか要約を受け付けないようなところがあるね。ガタリの語り口には。 アマゾンのレビューで「未来の詩集」と評している人がいるが、同感だわ。
それをまとめてたドゥルーズはある意味凄い
げのすこ以外に良いガタリの解説書はないの?
『意味の論理学』、確かに新訳の方が読みやすいんだが、反面、小泉の訳文は何だか堅いな。 例えば、セリー22の末尾。 「化学の道を通って到達できるものはすべて、別の道を通っても接近可能であると思い付け……」。 身体の刺し傷を突然変異させるための表面への機銃掃射、おお、サイケデリア。(新訳) ≪化学的方法で達成できることは、すべてほかの方法でも達成できるのだということを考えよ。……≫ 身体を短刀で刺す代わりに、表層を機銃掃射する、おお、何という精神の快楽。(旧訳) あと、セリー4の庭師の歌の訳もなぁ。 ただ、「統合失調症」とかいう偽善的な訳語を採用してないのは感心した。『感覚の論理』は迎合してたからな。
別に偽善でもないだろ
「精神」が「分裂」するという字面よりマイルドだと思って改称を提案したんだろうけど、字面より病気そのものへの理解に努力しろという話だよ。 そうでないと、「統合」が「失調」するって字面もまた、現実以上にマイナスなイメージに採りつかれかねないんだし。第一、言葉狩り的で気に食わない。
131 :
考える名無しさん :2009/12/29(火) 02:20:43 0
>>121 あ、ごめん間違った…
>>123 まぁ科学の中に既に立場の対立があるからねぇ…
数学の論理実証主義・形式主義と直観主義の対立とか。
>>130 まったく同意!
「統合」という観念自体がドゥルーズ的ではない。 だからそれはマイルドさに迎合したというよりは、 ドゥルーズを読んでいないということだと思う。
>「統合」という観念自体がドゥルーズ的ではない。 そんな単純な理解じゃだめだ
134 :
考える名無しさん :2009/12/29(火) 15:49:47 0
>>132 まぁ意味の論理学とか読む限り、そう言いたくなる気持ちはわからんでもないね。
ドゥルーズ的な観点から言えば、むしろ「統合」を「失調」することにこそ、「真」があると
考えられるわけだけど、現実の世界はそうはなってない。
「統合失調症」なり「精神分裂病」なりの病名(診断名)を付託して社会的に抑圧することで
世界はむしろ反ドゥルーズ的な流れを形作ってると思うんだけど。
かといってじゃあ「精神分裂病」=「統合失調症」的な「症状」がそのまま手放しで
肯定されるかって言うと、ドゥルーズにおいてすら、そうは認識されてない。
批評と臨床でドゥルーズは「しかし、錯乱が臨床的状態に陥ってしまったら、言葉は
もはや何ものにも到達することはないし、人はもはや言葉を通して何一つ聴くことも
見ることもない――みずからの歴史と色彩と歌を失ってしまった夜のほかには。
つまり、文学とは健康であることなのだ。」と言ってる。
>>134 スピノザ=ドゥルーズ的な心身並行論でいくと、あらゆる物体=身体には
それらに対応する精神があるんだけど、とはいえ、人間にとっては他の人間の精神=思考が
最も豊かな愉しみとなる。蜘蛛の思惟なんて想像を絶する狂気でしょ、人間にとっては。
ドゥルーズは、この観点から、未聞の思考を切り拓いた作家たちを賞賛している。
問題は、危険ととなりあわせで、新しい思考を開示できるかどうか、ということだと思うな。
136 :
考える名無しさん :2009/12/29(火) 21:14:55 0
>>135 うん、その実践者が例えばアルトーでありヘンリー・ミラーであり
メルヴィル、カフカ、ロレンス、ルイス・キャロル、ベケット、そして
マゾッホだったんだろね。
もちろん、リラダンも忘れちゃいけないけど!
>>135 ,136
それからゲラシム・ルカも。
ところでアラン・バデュウの『ドゥルーズ 存在の喧騒』(河出書房新社)は読んだかな?
まとまったドゥルーズ論では一番好きなんだ。
あれクソだろ
>>137 ヘンリー・ミラーは個人的にすごく好きだな。水声社の選集、これからが楽しみだ。
ドゥルーズにとっては、やはりアルトーの存在が大きいね。アルトーは、なかなか分からないんだけど、俺には(笑)
バディウの『ドゥルーズ 存在の喧騒』は、さすが哲学者だけあって、読みは鋭利だし、
何より面白いね。「一者の存在論」にドゥルーズ哲学をまとめてしまうのは、実際微妙なんだけど、
スピノザ的実体=器官なき身体の観点からは、正直殆ど同意というか、賛意を示したくなる。気持ちとしては、ね。
だけど、「実体を様態の周りを回らせる(差異と反復)」というのは、スピノザ哲学ではあり得ないことなので、
ドゥルーズ独自の哲学の読解としては、簡略化していると言わざるを得ないのが、困る(笑)
バディウのドゥルーズ論に対する非難は、大抵が、モラルとしてどうよ?のレベルなのだけど、個人的にはそんな話はどうでもいい。
問題は、バディウの哲学だと、数学的正しさが、その哲学的正しさの担保になっている、ということ。
ドゥルーズは逆で、哲学的正しさの例証・例示としてしか、数学を援用していない。
根本的には、この真逆な姿勢が、『ドゥルーズ 存在の喧騒』にも顕わになっている、ということだと思う。
>>139 うん、おれが驚いたのはその「一者」ということばをポンとだしてきたところなんだ。
『倫理』も『世紀』も、たぶん意識的にジャーナリスティックな書き方をしているところもあるけれど、
アガンベンと比べると(比較しちゃあいけないんだろうけど)
このいいかたは大目に見てもらうとして、
圧倒的に存在としての勁さを感じる。
ハイデッガーはおいといてね。
そして、なにより真剣に対峙しようとしているのが心地よかった。
だから捨てたもんじゃないな、と。
それで、実をいうと「一者」という概念は目新しかったんだ。
ドゥルージアンとしてはね。(^_^)
ドゥルージアン(笑)
>>132 その「統合」を失うという意味ではむしろドゥルーズ的かもしれない。
ただ「失調」という言い方がドゥルーズ的でないというか。不謹慎な言い方だが、「分裂」と比べて、元気が無いw
レヴィナスは、超越論的統覚の挫折、破綻としての他者というようなことを言っている。
分裂病者が「電波」とか「盗聴」とかいう妄想の形で他者の侵入を訴えるのも、他者の他者性に自我が綻ばされたということなのかな。
内と外を隔てつつ接触させる表層の崩壊によって全てが身体化されるというのが『意味の論理学』の論理でもあった。
未聞の思考を切り拓いた作家たちっていうのは文字になっていなかった思考を文字にしたってことですか?
そうそう、『意味の論理学』といえば、他者論も含めてサルトルの影響が無視できないんだな。 「内在:ひとつの生」でもサルトルの『自我の超越』やフッサールの『デカルト的省察』に言及してたし、意外と現象学の遺産を継承した人なんだな。 サルトルは、他者の自我も一つの超越したものとして接近可能なものとして考え、実際にジュネを丸裸にしさえしたんだが、レヴィナスと逆の意味で分裂症的だったと言えるだろう。
>>143 その通り。スピノザもそうだけど、ドゥルーズの場合も「書かれたもの」から、
思考の運動、観念の軌跡を再起動させることができる、という立場。反時代的といえば
そうかもね。分析哲学系からは馬鹿にされるでしょ。それがどうしたと思うけどね。
146 :
140 :2009/12/30(水) 22:22:34 0
なんでこんなにつまらないレスのパレードなんだ。 おまえら人生と生と実地に引き比べたことがあるかい? いや引くことはないんだが、 おれはどんなにつまらなくても生きろと教えられたし、 概念がイメージでしかありえないとすると それは個人の責任だとすっぱいほど読んだんだがな。 人生は糞だが、生は手がつけられないほど繊細なんだ。 どっちもどっちだが、この世の外のことだけはドゥルーズとニーチェだけがいわなかったよ。
どうでもいいけど日本語でいいから
おまえは日本語を使えるのか?
・本人にしか分からない、何やら微妙な齟齬に対して過剰反応を起こし、周りを批難する。
・その批難の言葉の内容も、本人なりに何やら突っ込んで考えた諸々の事柄が反映しているようだが、他人に伝わるような表現になり得ていない。
・「どんなにつまらなくても生きろと教えられた」とか「すっぱいほど読んだ」とか、他人の最も与り知らない私的な経験を、説明抜きに引き合いに出して論拠にする。
>>146 のレスは、俺の知ってる分裂病者の症状に酷似している。あんまり「手がつけられないほど繊細」に考えすぎないことを勧める・・・。
本で読む分にはこうした病気は面白いが、直に対面させられたら怖いし不快だし困ったもんだよ。
すまなかった ROMることに徹するよ
151 :
考える名無しさん :2009/12/31(木) 10:58:06 0
そういやドゥルーズ自身は分裂病者を毛嫌いしてたな。
自分がうつ病だからか?
153 :
考える名無しさん :2009/12/31(木) 14:42:10 0
いや、単に臨床実体としてのそれが気持ち悪くて見るに堪えないものだったから よくあんなもの直視できるな、とガタリに言ったとか
出典示そうな
ドゥルーズはアルコール中毒だったらしいが、出典は忘れた。
ガタリは妻が元患者だったらしいが、彼の交友関係にまで介入してきて大変だったらしいな。
出典は『政治から記号まで』(俺の記憶が正しければ、だが)。そういえば
>>153 の話もこの本に出てきてたような気もする。
じゃあDGの本はほとんど「ネタ」として書かれたというわけだな
いや、病のもたらす心身の不均衡を創造性に昇華するという「大いなる健康」を称揚していたのであって、病そのものを称揚していた訳ではない、という話だろう。 クレッチュマーの『天才の心理学』なんかだと、稀少な天才においてのみ、病が価値創造的に働くという理屈だが、DGはもう少し、社会全体に「大いなる健康」が占める割合を高めたい、という感じなのかな。
さっき、たけしの番組で勝間和代と香山リカが討論してたが、何だか「資本主義と分裂症」という図式の最も卑小なレベルでの対決を見た感が。 資本の体制による一元化に適応し得なかった欲望の流れが、病的な形をとってしまうということ。 患者の怨念を背負ったかのような、憔悴した様子の香山の攻撃性に、ちょっとひいてしまったw
159 :
考える名無しさん :2010/01/02(土) 20:03:09 0
精神分析というのがどの程度妥当なのか素人の俺らには分からないからなぁ
香山がドゥルーズの追悼文書いてたとか今思うと信じられんものがある
香山リカのドゥルーズ追悼文(たしか「テクノスタルジア」所収)はなあ、 有名人をあげつらうのはどうかと思うけど、正直言って、何もドゥルーズの ことなんて分かっていなかったんだな、この人って感想しか無かった。 「(器官なき身体には)口もない。舌もない。歯もない。喉もない云々・・・」で 少女(香山)は震え上がったとか、坂本龍一の「美貌の青空」がどうのとか、 要はチヤホヤされた80’への個人的なノスタルジーが綴られているだけ。 分裂分析の時代は来なかった、とか。総じて過去に縛られた恨み節。 案の定、その後は、人の不安に付け込むたぐいの「心理学書」の乱発。 香山リカには端的にドゥルーズは「合わない」としか思えないな。
蓮實重彦にも浅田彰にも合ってなかったと思うんだ
163 :
考える名無しさん :2010/01/02(土) 23:11:09 0
小泉も合わないと思うんだがw
まあ、学者さん達は置いておいて、日本のポップ・カルチャーのなかで、 ドゥルーズ的だな、というか、明らかに読んで分かっているなって思ったのは、 「LIFE」「刹那」を作れた小沢健二だな。
きみらの評価をだれか当てにしているとでも?
香山の『インターネット・マザー』は、所謂メンヘル型の人間のしょうもなさを実例で示している点では笑って読めて面白いんだけど、ドゥルーズの引用は「言ってみたかっただけ」な感じだったな。
オザケンかぁ。パーフリ時代からニューアカの影響で逃亡がどうとか言ってたらしいけどね
なに ドゥルージアン(笑)はオザケンとか評価するわけ?
どちらがよりドゥルーズを「読めて」いたか、という意味では、 香山リカよりは小沢健二の方を評価するよ、俺は。 むろん絶対肯定命題として、だ(笑)
今の香山リカと今のオザケンはどっちも精彩を欠く
オザケンはねーわw 浅田もオザケンには最大級の冷笑を送ると思うw
ドゥルジアンが評価するのはボブ・ディラン
ここでゲソヲソの登場。
英語で何か捲し立ててるのかと思ったら実は日本語で捲し立ててたマキシマムザホルモン 日本語の音的体系それ自身における差異で日本語を破壊している所を、ドゥルージリアン(笑)として評価したい
175 :
考える名無しさん :2010/01/04(月) 22:12:12 0
>>174 まぁマキシマムザホルモンはね(笑)
つかドゥルージリアンじゃなく、ドゥルージアンでしょうが。
ドゥルージアンじゃなく君が笑われるよ、そんな語書いてたら(苦笑)
狙ったんだとしてもあまりにも面白くないし。
ドゥルージリアン(笑)
177 :
考える名無しさん :2010/01/04(月) 22:19:33 0
>>158 香山と勝間の茶番は、はっきり言って延々と続けられる3流メロドラマのようなモンで、
一種の「やおい」だよね(苦笑)
狙ってない。つい書いちまったんだよドゥルージリアン(笑)。スマン。
まずドゥルーズに謝りな
ドゥルージアン(笑)
フランス語では最後の音節をやや伸ばし気味に発音するので ドゥルーズは正しいだろう だがドゥルージアンはおかしいのではないか? ドゥルジアンとするべきなのではないか?
ドゥルジアン(笑)
ここ数年、 フーコー→ドゥルーズ→デリダとばかり読んでる。 あの時代はええねぇ。 それぞれに魅了されてる。
ああいうのらりくらりした文章が好きなんだね
ドゥルーズは嫌いじゃないが、 フランス現代思想って団塊左翼と完全合致するね、80年代のかおり。 金余ってた時代は何流行らせてもOKだった。 自分も学生時代騙された口で、それなりに読んだけど、 社会にでると、読んでる奴と一人も出会わなかった。名は聞いたことあるって程度。
それはそういう社会に出たからだろうな
187 :
考える名無しさん :2010/01/08(金) 14:10:10 0
だから日本は悪い場所なんだって
ドルーズの可能性はまさにこれから花開ひらくのですよ。それをご存じない。
>>186 君の勤務先に一人でもドゥルーズ読者居るか?
文系大学教員ですら全然いないんだけど。
周りにドゥルーズ読者がいるかどうかより、自身がドゥルーズの触発によって、
何かを感取したり、何かを思考したり、何らかの形で「新しいもの」に出遭えるかどうかの問題だ。
>>185 は、ドゥルーズを一緒に語り合う仲間が欲しいのか?
その種の「お友だち」ができるかどうかと、ドゥルーズの真価とはまた別問題だろう。
教室にいた犬とか、超重要だ
行列のできるラーメン屋
193 :
考える名無しさん :2010/01/08(金) 20:29:45 0
>>190 ニューアカブームが醜かったということ。
PARCO風広告が支配し、小難しいキャッチコピーが溢れてたけど、
本気で読んでた奴はいないんじゃないの。
すぐ後のバブル、軽薄ジュリアナ文化になった時の違和感は、忘れられんな。
ところでドゥルーズの可能性って何?端的に答えてみて。
英米の分析哲学からしたら、冗長ではぐらかし文羅列にしか見えんがな。
「分析哲学」という言葉はポストモダンを葬るための呪詛ですか?
195 :
考える名無しさん :2010/01/08(金) 21:00:26 0
俺は可能性は見いだせないんだが、 哲学とか関係なくドゥルーズがとにかく凄い奴だったという事はドスの評伝を読んで思い知った。
196 :
考える名無しさん :2010/01/08(金) 21:09:55 0
ドゥルーズにとって分析哲学は科学だから分野が違うw ドゥルーズ曰く「分析哲学は哲学の暗殺者」
197 :
考える名無しさん :2010/01/08(金) 21:13:07 0
でドゥルーズはどう凄いんでつか? 功績は?
君のほうこそ分析哲学がどうドゥルーズを殺せるのか教えてよ。
199 :
考える名無しさん :2010/01/08(金) 21:20:31 0
ニューアカもジュリアナも煽ったのは同じカスゴミ。 日本って節操ないね。
俺はニューアカブームとやらは世代的に全く関係ないので、そんな昔の話を持ち出されて恨み節を聞かされてもな。 ドゥルーズは、速度とか強度といった概念に基づいて、既存の枠組みから逃れた考え方(コンセプト)を生み出す仕事として哲学を位置づけた点に功績がある。 分析哲学的なそれを含む既存の哲学観では、何らかの論理体系の網を、事象の上から被せて覆うのが哲学ってイメージが強かった筈。 まぁ、リゾームとかノマドとか器官なき身体とか、要は全て同じようなことを言っているとも言えるが、 その「同じこと」で様々なことが言えるというのも、一つの「差異の反復」ではある。ドゥルーズ自身が言うように、彼は単純なこと、素朴芸術をやっていたわけだ。
つうか分析vsポストモダンっていう煽りも古臭くなってる。 まともな分析哲学者がそのうちドゥルーズを形而上学として評価するだろ だってアメリカの哲学科は建前上全員「分析哲学」だからw 世の中そんなもの
202 :
考える名無しさん :2010/01/08(金) 22:14:23 0
俺はただドゥルーズの人間性が凄いと思っただけ。 評伝読めば凄さが分かるよ。多くの人に影響与えてるし。あ、科学者には分からないか。 あとここにいる人の少なくとも半分ぐらいはドゥルーズの欠点は君よりも的確に分かっているだろうし ここに来るならとりあえずローティでも読んで分析哲学の呪縛から逃れてから来いw
評伝は俺も楽しくよんだけど、あれを根拠に敵を批判するのはやりすぎだと思う。
204 :
考える名無しさん :2010/01/08(金) 23:37:51 0
批判したつもりは無かったんだけどな。 でもドゥルーズ読んでゴミだと思った人は最後に評伝を読んでみるべきだとはマジで思う。 ただの道化師では無い事が一番よく分かる本だし。
哲学史家としてのドゥルーズは権威主義をひっくり返す戦略と知能をもっていた。 歴史的に大国を形成して来たのはそうした権威主義だから、分析哲学のようにもっ ともらしく大学の権威に依存するのではなく、ドゥルーズを読む者はあえて野暮っ たく言えばアナーキズムとしての体系を獲得することができた。 連帯というよりもマイノリティー同士が個性を保ったまま連結する術と言うか、、、、 彼のテクスト観は「ハウルの動く城」の様だ。 初心者には『記号と事件』を薦める。
206 :
考える名無しさん :2010/01/08(金) 23:56:11 0
っていうか最近の分析哲学ってどうなってるの
最近の分析哲学はメタフィジックスがアリなのでなんでもこいになってる
208 :
考える名無しさん :2010/01/09(土) 00:42:06 0
>>205 「記号と事件」はドゥルーズにしては易しいが、
それでもある程度分かってないと楽しめない公式ファンブック的な位置づけの本だと思うんだがw
俺の友達で「明快かつ縦横に語るドゥルーズ自身による入門」という宣伝文句を真に受けて買って、
読んだけど訳が分からなくてそれ以降ドゥルーズ読んでないっていう奴がいるw
まあそもそも彼の関心領域は社会学だったんだけど。
やっぱ初心者には「対話」だろ。
ドルーズじゃなくてドゥルーズだからね これだけでもう腹痛いw
>公式ファンブック すごく腑に落ちるw
>>205 「ハウルの動く城」ってのは、よく分かる。動くゴミ屋敷的なアナーキーさとかw
あと、城のドアがどこにでも通じてることとかね。
「序――リゾーム」にある「最良のリゾーム」、馬鈴薯=ジャガイモみたいなものだな。四方八方に茎が伸びる塊茎。強度の凝縮。
逆に「最悪のリゾーム」とされている「はまむぎ」って、フランス語で「やっかいな問題」とかいう意味なんだっけ?
確かレイモン・クノーの『はまむぎ』の訳者解説に書いてあった。
あぁそうだ、「どこにでも通じてる」ってのは「速度」でもあるな。 「ノマドとは、その場を動かない人々のこと」とドゥルーズが言ってたのも、「その場」自体が内包量の高いモナドみたいなものだからなのかな。 因みに、M.セールが数学好きなのも、数学によって問題が簡潔化されることによる「速度」への愛らしい。対談本で言っていた。
試合するんだ? 吉と出るか凶と出るか。 怪我人が出ませんように。
えっ?
ごめん。誤爆。 わざわざ誤爆と言うのも野暮かと思って放ってた。
ドゥルーズは猫を飼ってたらしいけど、避妊手術とかどうしてたのかな? 実家の猫と遊んでて疑問に思った。
217 :
考える名無しさん :2010/01/11(月) 22:14:29 0
どうでもいいことにしか思えないんだが
ペットに虚勢を押し付けるかどうかって、ペット飼っている人なら一度は悩む問題なんだよ。 哲学的な問題だと思うけどね。 ドゥルーズは犬猫嫌いを明言してたけど、家族が飼っているものを自分には関係ないとはできないでしょ。
雄しか飼ってなかったとか?
>>216 >実家の猫と遊んでて
なんか性的に遊んでいるんじゃないかと思った
千プラp.278にDG的動物との関係講座があるね。 「猫や犬を愛する者は、例外なく馬鹿者だ」。 「うちの猫」といった、家族的・オイディプス的動物はくだらないとのこと。
222 :
考える名無しさん :2010/01/12(火) 07:40:44 0
動物になること(笑)
223 :
考える名無しさん :2010/01/12(火) 16:16:47 0
224 :
考える名無しさん :2010/01/13(水) 06:46:27 0
ドゥルーズを正しく葬り去るためになさねばならぬこと 形而上学と分析哲学の裂け目に何を見出すか、言語と現実の間にあるものは何か 問題はここにあると思う
形而上学との間に裂け目がある分析哲学、っていつの時代の分析哲学よ
スピノザやフーコー、カントとか思想家の批評いがい 独自の思想で何残した? 簡潔に教えてくれ。
そういう聞き方している時点で叩く気満々だから別に読まなくていいんじゃね
>>227 仮に叩かれて反論できないようなものしか残してないの?
いや別に?でも『差異と反復』『意味の論理学』ガタリとの『アンチ・オイディプス』『千のプラトー』、 この四冊無視してる時点であれだろ
230 :
考える名無しさん :2010/01/13(水) 15:57:29 0
だから簡潔に述べてみろよw これからドゥルーズが再評価されるんだろ?
>>230 経験的事実に基かない超越論的領野を哲学的に理論化した。以上。
そのうち分析哲学者もドゥルーズに取り組むでそ
233 :
考える名無しさん :2010/01/13(水) 18:47:13 0
>>231 いわゆる「哲学」としての功績はそれに尽きるな。
そしてそれが取るに足りないと思うなら無視してよし。
徹底的に考えたいなら厳密に非正確(笑)なドゥルーズを読むべし。
234 :
考える名無しさん :2010/01/13(水) 19:00:02 0
>>231 独自の理論化なんかしてないだろ。
ライプニッツ、スピノザやベルクソン、ホワイトヘッドを繋ぎ合わせただけ。
235 :
考える名無しさん :2010/01/13(水) 19:01:06 0
>>230 が哲学を知らない人かも知れないので、
>>231 の内容をパラフレーズしておこうか。
・経験的事実に基かない超越論的領野を哲学的に理論化した。
=「現象」から遡行する必要の無い「理念」を哲学的に理論化した。
=「解」から仮構される「問題」では無いかたちで、「問い」を哲学的に理論化した。
=既存の「経験的事実−現象−解」に制約されない「新しいもの」の生成を肯定できる、
発生的な存在論を、「超越論的領野−理念−問題」の潜在性への移行を論証することによって、
哲学的に理論化した。
=真に発生的な存在論を哲学的に理論化した。
このことが、ドゥルーズ哲学の最大の業績。即ち、カントとフッサールには果たせなかった
哲学的プロジェクト(企図)を完成に導いた。ドゥルーズ以前に、この哲学的プロジェクトを
完成させた哲学者はいない。「=」でパラフレーズしたどの文言でも、お好きなものをお持ち帰り下さい。
236 :
考える名無しさん :2010/01/13(水) 19:07:04 0
>>230 はその種の否定神学的な語りは余計だと考えているのだろう。
237 :
235 :2010/01/13(水) 19:19:06 0
>>234 ,
>>236 本来なら、
>>231 の回答だけで十分なんだけど、念のために
>>235 でパラフレーズしたので、
これ以上の回答の必要を認めないな。東浩紀とか?変な解説本を読んでいないで、普通に
プラトンからデカルト、ヘーゲル、カント、フッサール、ハイデガーまで、原典を読んでみて、
それからドゥルーズを読んでみて下さい。よろしくさん。
238 :
考える名無しさん :2010/01/13(水) 19:47:29 0
>>237 つーか、オマエが解説書しか読んでないのモロバレだんだがw
239 :
235 :2010/01/13(水) 20:28:56 0
>>238 「だんだか」ですか(笑)
どの解説書ですか?書名を挙げてみて下さい。俺も知らないので、勉強になりそうです。
時間のムダですから、以降はROMらせてもらいます。有益な書き込みを期待していますよ!
質問なんですが経験的事実に基かない超越論的領野を哲学的に理論化したことで、どういうことが起こるんですか。 興味があるので具体的に教えてほしいです、哲学素人です
241 :
考える名無しさん :2010/01/13(水) 22:50:22 0
物凄く簡単に言うと、 見えない力がひしめき合っている複雑な世界を僕たちは単純化して見てる、って事が分かる。 ってこれだけじゃ普通の構造主義と区別付かないしあまり魅力が伝わらないなぁ…。 哲学に関して全くの素人というのならクレア・コールブックの入門書でも読んでみては。 あの本はDとD=Gを区別していないという点が罪深いが、かなり分り易い。
>>235 >経験的事実に基かない超越論的領野
これって、ただの観念論じゃねーの。
経験を前提としなきゃ超越論的ですらないよ。
こんなものは、カント以前の哲学だよ。
世界を単純化してみるのを疑いなおした現象学は現実の見方を疑ってるんだな〜と分かるんですが 見えない物を理論化してもただの独我論ということにはならないのですか
>>240 さんは、振り子時計ができるとか、ロケットが飛ぶとか、
量子コンピュータが作れる等の意味合いで、「理論化したことによって、
どういうことが起こるのか」と尋ねているのかな。
それとも、近代市民社会や社会主義国が誕生する等の意味合いで上の質問を
しているのかな。あるいは悟りが開ける、人生観が変わる等の意味合いで、
「どういうことが起こるのか」と訊いているのかな。
逆にその辺りを、つまり「何が」起こることを期待して問いを立てているのか、
ということを明確にしてくれないと、答えようがないんだよね。分かってもらえるかな。
ちなみに、
>>241 さんは正しいです。
どれも気になりますが 「理論化したことによって、 どういうことが起こるのか」 あるいは悟りが開ける、人生観が変わる等の意味合いで、 「どういうことが起こるのか」 に興味があります
そうなんだ
248 :
考える名無しさん :2010/01/14(木) 01:11:08 0
>>243 ,
>>244 ドゥルーズはニーチェとかベルグソンとかから影響受けて
精神分析も援用して意識以前を思考しようとしたようなアイロニストだから
カントとかフッサールのような種類の哲学から見て破綻してるように見えるのは自明。
そういうのをアイロニストとは呼ばない。それこそ言葉の誤用。
>>248 ドゥルーズがアイロニストとか
カント哲学からみて破綻してるとか、そんなので
ドゥルーズ理解した気でいるの?
意味の論理学でアイロニーとユーモアについて書いてるよ
252 :
考える名無しさん :2010/01/14(木) 01:53:36 0
「法に二次的な力しか認めまいとする運動」と言う意味では紛れも無いアイロニスト=サドだね。 でもドゥルーズってどっちかというとユーモア=マゾを強調してたりもするんだよなぁ。
>>243 失礼な書き方になるが、カントを(「純理」さえも)読んでいないでしょう。
問題はこうだ。
@カントにおける対象の規定は、直感の二形式(時−空)における所与としての
可感的なものの多様性〔経験〕に対して、悟性の一般概念(カテゴリー)〔概念〕を、
構想力の形式に従って適用することによってなされる。
A規定された諸対象の全体は、理性の統制的使用によって体系化される。
B理性それ自体の対象は、理念である。
C理念は、即自的には未規定なものとしてある。即ち経験と概念を超えている。
D従って、理性それ自体の対象である理念は、独断論あるいは形而上学として暴走する。
Eそれゆえ、理念は、上述の経験と概念に関連付けされるという制限のもとによってのみ、
その正当な使用を認められる。これがカントの理性批判であり、独断論と形而上学への批判である。
以上から明白なように、カントの超越論哲学の体系は、既存の事実(経験と概念)から、その事実を産出する
超越論的領野を「条件付けて」いる、セコハンの体系である。換言すれば、それは解(既存の事実)から、
問題(解を産出する条件)を規定しているので、真に超越論的な領野、即ち発生の観点に未だ到達していない。
254 :
253 :2010/01/14(木) 02:23:02 0
すでにフッサールがカントのこの限界を超えるために、多様体の理論を提起している。 要は、真に超越論的哲学を定立するためには、カントのように、解から問題を措定しておいて、 問題から解が導き出されるとする、上述の循環論法を批判する必要がどうしてもある。 従って、当然のこととして、問題は、解をモデルにしてはいけない。超越論的領野が、経験的なものに 「似て」いてはならない。問題=理念=超越論的領野は、いかなる現実もモデルとせず、純粋に潜在的な 多様体として定式化される必要がある。これを遂行したのが、ドゥルーズ哲学。 以上で、カント未読者もとりあえず「差異と反復」の入り口まではもってきたので、あとは「差異と反復」を読んで くれればいい。もちろん、読まなくともよい。
>>246 了解しました。前者については、カントのようにニュートン力学やユークリッド幾何学以降の
諸科学の展開に適用できない、という制限が解除されます。
後者については、あなたの今後の人生において、何が起こるか全く予測できないわけですが、
たとえ何が起きようと、それを肯定できるようになります。
そのストーリーは差異と反復を読んだのでわかるが、 本当にその通り?
257 :
253 :2010/01/14(木) 02:36:39 0
それは、誰にも聞けない種類の問いかけですね。僕が「その通りです」と 答えても、意味が無いでしょう。あなたが自分で理解、判断するしかないでしょう。 三角形の内角の和は二直角だと読んで知っているけど、本当?と訊いているのと同じだよ。
つまり、発生の観点についての批判的検討は進んでいるの?ということ。 フッサール研究者あたりが膨大なフッサリアーナを盾に反論しそうな気がする。
259 :
253 :2010/01/14(木) 02:57:14 0
付言しておけば、上述のカントの超越論的哲学のまとめと、その不備の指摘、 ならびにドゥルーズがそれに加えた修正の意義については、全て自分なりの カント、フッサール、ドゥルーズの原典理解を基に、即興的に書いたものなので、 「正しさ」の保証は出来ません。あくまで自分はこれが正しいと知解している、 というに過ぎない。というか、「正しさの保証」など哲学にはない。正解したことを 褒められたいなら、センター試験やTOEICや司法試験や税理士の試験を受ければいいと思う。
260 :
253 :2010/01/14(木) 03:05:50 0
>>258 申し訳ないが、同じ回答をするしかないです。それが自分の問題だとあなたが
思うなら、そしてそれを解明したいと思うのなら、あなたが自分で探求するしか
ないと思います。
アントナン・アルトーに多大な影響を受けたと聞きましたが、どの点に影響を受けたのでしょうか
援用(笑)
>>253 >既存の事実(経験と概念)から、その事実を産出する
>超越論的領野を「条件付けて」いる、セコハンの体系である。
>換言すれば、それは解(既存の事実)から、
>問題(解を産出する条件)を規定しているので、真に超越論的な領野、
>即ち発生の観点に未だ到達していない。
残念ながら、これはカント理解としても不正確だなぁ。
あなたの言う「事実」や「解」に当たるのは、カントでは「物自体」だよ。
「解(既存の事実)から、問題(解を産出する条件)を規定している」というが
理性(理念)は、感性(直観)と悟性(概念)からなる認識論的な体制のなかで制限を
うけるだけであって(その限りで「越権」を咎められる)、理性という能力そのものが
「規定」されるわけではない。
カントにおいて、諸能力の体制の生成は「演繹論」の問題だけど、これはいわば一挙に
与えられて理解されるのであって、一方で、感性を触発する可感的なものの多様体(現象
の基底)は、それ自体は問われ得ない「物自体」に追いやられるにとどまる。
他方で、理性の能力もまた「理念」を対象としてそれ自体は問われ得ない「叡知的なもの」
の次元にある。したがって、これは解から条件を規定している循環論法なのではなく、条件
づけるもの(諸能力の体制)が初めから制約されて有限であるということを意味している。
確かに、経験の可能性の条件たるそうした超越論的体制がどのように「発生」したかという
問題は残るが、カントにとってそういう問いえなさは、「物自体」とか「理念」とかという
仕方で人間の「有限性」を示すものなのであって、単純に解消しうるものでも解消すべきもの
でもない。
人間の能力を超越した経験の事実性や所与性にすら制約を受けずに「新しいもの」の生成を
全肯定できるとするような「超越論的領野」なんていうのはそもそも「超越論的」と呼ぶべき
ものではないし、ロマン主義者でも言わないような最悪の観念論や独我論に至るように見える。
ドゥルーズを読む際に参照すべきなのはハイデガー CsOとMDのアンチノミーこそが物自体だから カントを召還したい気持ちはわかるが筋違い 批判哲学に未来がないのはカント自身が晩年に自覚している。
265 :
253 :2010/01/14(木) 17:01:11 0
>>263 レスポンスありがとうございます。
>>253 の@−Eで要約してみたカント哲学の
素描については、あなたの書き込みの第二−第四段落と対照させてみた限り、
特に大きな見解の違いは認められないと思われます。
ご批判の焦点は、物自体の地位、悪循環の有無、ならびに人間の諸能力の有限性の
評価(これは、物自体の地位の問題とほぼ同義でしょうが)において、当方のカント
理解が誤っている、という点にあると理解しました。これらについて再考してみます。
>>263 の最後から二段落目は、永井均が『これがニーチェだ』なんかで同じようなことを言ってたな。
>>261 『意味の論理学』の「分裂病者と少女」を読めばいい。
俺なりに簡単に言ってしまうと、目があって手があって云々の器官組織の手前、
差異・強度の混淆としての身体、「器官なき身体」の概念に、強烈な影響を受けた。
内包空間に全ての強度が詰め込まれ循環するものとして、スピノザ的実体との近接性が言われたりもする。
『哲学とは何か』では、器官は過去と現在の感覚の同一性・再生を強制し、物と思惟の一致を保証する、
カオスから我々を守ってくれる「傘」と呼ばれている。つまり、この傘と闘う身体。
因みに、卑近な例で言うと、こないだ『アバター』って映画を3D・IMAXで観たんだが(言っとくけど、映画作品としては凡庸以下)、
俺らが普通に眼前の物を見ている「現実」が、「視差」という「差異」の効果に過ぎないことが実感できるw一見の価値はあるよ。
差異・強度は、経験(「超越論的経験」含む)をもたらすものだが、それ自体は経験されないもの。器官なき身体が「零度」と呼ばれるのも、その為。
ハイデガーの「ヒューマニズム」についてを持っているんですけど、これを理解するだけでもドゥルーズは読みやすくなると思いますか、それとも存在と時間(前期思索)じゃなきゃだめですか
>>264 >批判哲学に未来がないのはカント自身が晩年に自覚している。
どこで? 適当なこと言うなよ。
ドゥルーズ自身、カント晩年の『判断力批判』についてにこそ哲学の未来を見ているでしょ。
>>240 超越論的領野が云々という以前に、ドゥルーズが哲学をどう定義しているかを知った方がいいのかも。
例えば、概念による事物の裁断の仕方に新しい仕方を見つけることで、事物の意外な類似性や差異性を発見すること。
或いは、自由な人間の姿を描くこと。
「概念」は、哲学に興味があろうが無かろうが、常に既に、我々の思考や感情や知覚に関わっているもの。
哲学的な創造は、具体的に何かが起こるというより、具体的な経験に先立つ、世界に対する見方・態度を変えるのだと俺は思う。
横からだけど、晩年のカントって、いわゆる「オプス・ポストゥムム(遺稿)」のカントの話じゃないの? あれは解釈について、研究者の間でも意見が分かれてるから、このスレで結論出すのも難しいだろうけど
271 :
考える名無しさん :2010/01/15(金) 02:29:56 0
超越論言いたいだけだろ
272 :
253 :2010/01/15(金) 07:47:17 0
>ドゥルーズ自身、カント晩年の『判断力批判』についてにこそ哲学の未来を見ている
「哲学とは何か」の一節、晩年に訪れる恩寵・ひとときの猶予期間・自由の例として、
カントの「判断力批判」は、むしろ若い頃の枷を外した猛り狂った書物だ、とは
書いているけれど、「哲学の未来を見ていた」は言い過ぎ。
>>268 =
>>263 だとしたら、議論ではなくて、教義問答になりかねないなあ。。。
カントは偉大な哲学者ですね、で済む話だけど。
>>272 >「哲学の未来を見ていた」は言い過ぎ。
そうかね。
「カント哲学を要約しうる四つの詩的表現について」(『批評と臨床』所収)において
「あらゆる能力の錯乱せる行使、これこそ哲学の未来を定義することになるだろう」と、
『判断力批判』の大発見としてはっきりドゥルーズは記しているでしょ。
これはどうなるんだよ。
まぁしかし、カントに取り組む気がないのならスルーしてくれ。
263は、「神」がいるじゃんって話になるんじゃないの
275 :
253 :2010/01/15(金) 20:40:55 0
>>273 特に挑発的な物言いをしなくても、自分なりに考える積りですよ。
ただ、カントの護教論的な議論には意味がない、とは思う。
基本的に>>253-
>>254 で素描したラインは、ドゥルーズにおけるカントという問題を
考えるうえでは、大きく変化することはあり得ない。
「差異と反復:第四章 差異の総合的理念」を読めば、誤解の余地はない。
「カントは、発生の観点に達することなく、条件付けの観点にとどまっている」(単行本p.262下段)
というドゥルーズの指摘は、前後の文脈と併せて考えれば、決定的なのであって、カントが
「解」から「問題」を作成して、この「問題」からはこの「解」が出る、とやっていることは、
覆らない。ドゥルーズの観点から見ればね。
>これはどうなるんだよ。
と仰るが、逆にカント読みからしたら、「判断力批判」を「あらゆる能力の錯乱せる行使」を発見した
書と評価されて、納得できるのか、と問いたい。ドゥルーズ化されたカント、カントの仮面を被った
ドゥルーズの言であっても、カントを褒めていれば、それでいいの?って思うな。
それでいいなら、護教論的なのだろう、と判断するのが妥当でしょう。
>>275 私はドゥルーズを読むのにドゥルーズのカントの扱いを重視して
取り組んでる者だから君の尊大な物謂いにひっかかりを感じただけだよ。
63年の「カントの美学における発生の観念」を読めば、ドゥルーズはきちんと
『判断力批判』の崇高論と天才論のうちに「発生」の観点を見出しているし、
そのことは、実際『判断力批判』を読めば納得がいく。このことは、後年の
「あらゆる能力の錯乱せる行使」という文言となんら矛盾するものではない。
そうした観点を、『差異と反復』の枠組み全体からして例外的な論点として
退けるのは勝手だが、ドゥルーズがカントを単に敵とみなしていたのではなく、
むしろどのようにカントの可能性を読もうとしていたかをここで強調したから
といって、カント教の護教論だと断じるのはドゥルーズ読解としても全く生産的
なものではないだろう。
おそらくそのためだろう、君が>>253-
>>254 で素描したラインに、カントを
押し込めることで、そうした読解が、ドゥルーズの哲学を悪い意味で観念論化・
独我論化してしまうのではないかという私の
>>263 での疑念も変わらないままだ。
観念論っていう論難はへんじゃね?ドゥルーズの「自然」への態度がそれを退けるはず
278 :
253 :2010/01/16(土) 08:35:47 0
>>276 例えば、ドゥルーズ哲学の根本的アイデアは「経験論と主体性」で既に出揃っているのであり、
従って、ドゥルーズの全業績は、そのヒューム論で統一的に解釈できる、と主張する論者もいる。
むろん通常は、スピノザ−ニーチェ−ベルクソンがドゥルーズ哲学形成の主幹となるトリアーデだと
考えるのが妥当な線なので、こうした主張は単に奇を衒った解釈ゲームに過ぎない。
こうした読みを「生産的」と呼ぶのなら、ドゥルーズは実はヘーゲルに最も近いという解釈(ジジェク)
だって「生産的」だろう。個人的には、全くそうは思わないけどね。
「スピノザこそ哲学者の王であり、あらゆる哲学者はスピノザに近かったり、
遠かったりする使徒に過ぎない」(「哲学とは何か」)というドゥルーズの文言からすれば、
カントはスピノザの使徒ということになるけど、スピノザを研究対象とする自分でも、さすがに
そうは思わない。そもそも、ドゥルーズ独自の哲学的功績は何か?という問い(挑発)に答える
ために、
>>231 以降の書き込みをしたのであって、その限りではあなたも認めているように、
必要な回答は済んでいる。
279 :
253 :2010/01/16(土) 08:58:05 0
それで、あなたが「ドゥルーズがカントを単に敵とみなしていたのではなく、
むしろどのようにカントの可能性を読もうとしていたかをここで強調」するのは、
成程、「ドゥルーズのカントの扱いを重視して・ ドゥルーズを読む」あなたのスタンス
からすれば、妥当な問題意識であり、それは頑張って下さいと素直に思うよ。
仰る通りで、ドゥルーズがカントを「敵」とみなす、と言った場合、非常に多くの留保が
必要となる。「差異と反復」自体が、カントの体系の書き換え(しかし、決定的な)と、
書き換えたカントの体系を自身の哲学に組み込んでいるのだから、ヘーゲルとは全く位置価が
異なる。「カントの批判哲学」なんて、著者のことを知らなければ、カント研究者の書物だと
思うでしょう。カントに対して批判なんかしていないのだから。いい機会なので、カントを読み直してみます。
と、蛇足ながら、
>>271 さん。自分は高峰一愚訳の「純粋理性批判」(河出書房新社.2004年)を読んだので、
"transzendental"の訳語は「先験的」の方がぴったりくるんだけどね(笑)
補足:スピノザ−ニーチェ−ベルクソンがドゥルーズ哲学形成の主幹となるトリアーデ、 と言った場合、当然、ロトマン、シモンドンらが重要だ、という意見が出ることは否定できない。 補足2:個人的な経験則から言えば、デカルト、スピノザ、ヘーゲル、カント等の原典を直接読めば、 それぞれに実に驚嘆すべき・途方もない思考が展開されているので、Up to Dateでスタイリッシュな 新奇=珍奇な現代の批評本を読むよりずっと面白いのは確か。
281 :
253 :2010/01/16(土) 10:36:13 0
補足3:「最悪の意味で」とか「悪い意味で」といった空疎な修辞はさておき、 ドゥルーズ哲学を考える場合、例えば「観念論−唯物論」という対は、殆ど 意味が無い。ないしはドゥルーズが読めていない証拠だと個人的には思う。 そうではなくて「実在論−唯名論」の対で考えるべきでしょう。 一応スルーしてきたけど、触れておくべきかと思うので、最後に指摘しておきます。
「観念論」とか「独我論」とかいった批判は、 バディウの有名なドゥルーズ批判の亜種みたいなもんかと。 ま、あれも言い古されたsterotypeなドゥルーズ批判だけど。
>>276 の論難は、読んでいるか否かは別にして、國分功一郎による「カントの批判哲学」
訳者解説から、非難に都合の良い箇所だけを抜き出しているようなものだ。
「判断力批判」における「発生」と、「差異と反復」における「発生の観点」は、
概念の内包と水準が全く異なる。そこは國分功一郎の当該解説からも読み取り可能なのだが、
それは問うまい。なにしろ哲学は、自分で追思考するプロセスこそが重要なのだから、
>>276 が自身の問題意識でドゥルーズを読むこと自体は、本人にとっては有益なことだと思う。
284 :
253 :2010/01/16(土) 11:48:08 0
おっと、名前欄の番号が消えていた。
>>283 を書いたのは自分です。
ついでに訂正。変換ミス失礼。高峯一愚ですね。
パンフレットばやりのスレだな。 それとも観想ってやつかい? もうすこし面白く書けないものかな?
286 :
考える名無しさん :2010/01/17(日) 13:54:58 0
ドゥルーズとアーレントの思想的関係って、もう少しつめられないかな… どっちもドゥンス・スコトゥスやカントの『判断力批判』を重視してる点で 共通してるんだけど。
どっちも有名だからつなぎたいだけにしかみえないw
余白に書き込みしたり、図を書いたりしづらいから、文庫版の人文書嫌いだったんだけど、 『アンチ・オイディプス』をポケットに入れて、電車の中や出先で読むと結構面白い。 『千のプラトー』も早く文庫にならないかな。
289 :
考える名無しさん :2010/01/17(日) 15:11:06 0
小説としては面白い読み物だよね
小説にしては難しい読み物だけどねw 結局、諸概念の階層性くらいは把握していないと読めないから。
291 :
考える名無しさん :2010/01/17(日) 16:01:36 0
>>287 いや、問題意識っていう点で。
どっちもある種の民主社会主義を志向してると思うんだよ。
ドゥルーズ自身が「哲学に小説的技法を取り入れること」と言ってるからな。 小説も哲学も、「真理」ではなく、「何が起こるのか」「何が起こったか」を描く、とか。 「登場人物の代りに概念が、境遇と風景の代りに時間と空間がある」と。(『記号と事件』) 小説や映画といった虚構を哲学のモデルにし、真偽の基準の成立以前を問うたのがドゥルーズの特徴か。
>>291 全然違うと思うw
そりゃあ専政には反対だろうけどさ
>>292 なるほど、概念をキャラに見立てて読めばいいんだな。
「ラスボス器官なき身体、キタコレ」みたいな感じで。
295 :
考える名無しさん :2010/01/17(日) 19:46:24 0
小説としてならミル・プラトーのほうが好きだな
Logique du Sensも小説だって前書きで明言してるね
297 :
考える名無しさん :2010/01/18(月) 20:36:18 0
>>293 そうかなぁ…アーレントはパリ=コミューンやアメリカ独立戦争とその結果としての
合衆国憲法の精神を高く評価してるし、ドゥルーズだって評価するんじゃないの?
>>296 三島由紀夫は小説を「虚構と現実を容易に侵食するもの」だって言ってたね。
奇しくもドゥルーズと同じ1925年の生まれで、ともに自殺で終わっちゃうんだけど。
小説小説ってレスが続いてるが、 原語がバラバラな気がする。
roman fiction nouvelle これくらいか? conteやrecitは違うか。 まあ、ドゥルーズ自身が区別しとるからな。
>>288 単行本と比べて翻訳ってけっこう変わってる?
変わってるとしたらどちらが読みやすいと思う?
河出文庫の新しいのはほとんどチェックしてないんで、
なにか感想くれるとうれしいです。
301 :
考える名無しさん :2010/01/19(火) 00:12:37 0
>>288 「天プラ」もとい「千プラ」の文庫化、同意。
単行本も宇野さんなはずだからそのまんま文庫化できるはずなんだけどなぁ…
>>300 横レスだけど、俺は文庫のほうが読みやすい。
市倉さんは、いんだけど、半分何が何だかわからないまま訳してるからね。
ドゥルーズについての本を買う前に、 大学のリポジトリでドゥルーズの論文を読んで検討したいのですが、 誰か大学のリポジトリに収録されている中でおすすめを教えてくださいませんか
webでいろんな大学のが見れるじゃないですか、その中です
逆だろ。 まあ、何が逆かは自分で考えろ。
大学によってサブスクリプションが違うんだから どの雑誌が入ってるかは異なる 以上
だな
すいません、本当に高卒なのでわかりません 入門書から読めということでしょうか
対話か記号と事件でいいよ
>>300 市倉訳と一番違うのは、文体と〔〕による訳者の補記が殆ど無いこと。
市倉訳は読解の手助けという意味では親切な訳だけど、ああいう形式的な読みは
自分でマーキングしながらやるから面白いので、意外と有難迷惑だったりする。
文体は、後発組の強みで、変な言い方だけど、宇野訳の方が「ドゥルーズ=ガタリ」っぽい(気がする:笑)
原書と併せて両方持っていてもいいと思いますよ。結局、基本文法を勉強したら、あとは語彙の問題だから、
訳書があると仏和対訳で、ドゥルーズ=ガタリ語の習得はすごく楽なんですよね。
311 :
考える名無しさん :2010/01/21(木) 00:49:22 0
>>310 「ドゥルーズ=ガタリ語」って、うまい表現だね。
まさに「言語の内部に新しい言語を作」った感じだ。
607 名前: 考える名無しさん Mail: 投稿日: 2010/01/21(木) 00:36:41 [ 0 ]
千葉雅也はドゥルーズの研究者だけど、ドゥルーズの目指す普遍数学の志そのものは買える。
しかし、その方法がやはり杜撰といわれても仕方がないと思われる。
千葉雅也自身にその責任はないけどね。
小泉義之の志も同様にすばらしいと思うが、いかんせんドゥルーズと同様の誤りをしている。
特異点近傍の定性分析云々言ったって何も始まらないよ。
微分方程式を飼いならそうとするポアンカレって糾弾されてもなんだか。
そんなこといったら形態形成論のモデルなんでたてられやしないのではないの?
そこから決定論と構造安定性について批判したところでこれまたわけのわからない方向に議論が
暴走してしまう。小泉もドゥルーズも同様に微分可能多様体しか考えていないように思われること。
多様体だからお約束のベクトル場を出して微分的なもの(ここまではいいとして)、そこから潜在性へと直結させてしまう。
潜在的なものの顕在化の議論だってベクトル場からリーマン空間やらユークリッド空間に具体的な方程式がたち現われる
って話でしょう。
もう一つ。連続関数と微分可能性との関係をちゃんと理解しているのか少々疑問が残ること。
ほか色々突っ込みどころがある。ドゥルーズはシュワルツや佐藤幹夫を読んでいないわけだ。
彼の微分方程式論だって平凡な解説かあるいは明確な誤用にとどまっている。生命論として立論し、
なおかつ微分方程式論として展開したいというのであれば、きちんとトムの生物学とトポロジーに関して著した
1969年論文を直に読んだ方がいいに決まっている。
長くなってスンマセン。
哲学板なのに中沢新一スレがないなんて・・・
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1197700818/
中沢なんてストロースと岡本太郎のパクリ
314 :
考える名無しさん :2010/01/24(日) 00:37:01 0
>>312 俺の書いたことコピペされてたw
それはともかく、ドゥルーズの「経験論と主体性」にまともに対した論文を書いている
人います?ドゥルーズとヒュームの出会いって決定的に重要なことなのに、無視されてか、
あまり真剣に向き合おうとされていない気がするのは俺だけか?
あのヒューム論は憲法制定権力という憲法学のセンシティブな問題
に直結しているのに、お行儀よろしく「領域侵犯」しようとしない日本のドゥルージアン
ってどうなってんの?今時「棲み分け」なんて流行んないわけだし、法学部生としてガンガン
攻め込まれるのを待ってるんだけど。長谷部恭男とか石川健治とかとガチンコでやりあうとかあってもいい。
長谷部先生だったら徹底抗戦する構えできてるよ。石川先生がどうでるか見たいし。
ドゥルーズは「差異を生み出す反復」から「反復を生み出す差異」へ論点を移行させていったそうですが、それぞれどういうことか分かりません ご教授ください
316 :
考える名無しさん :2010/01/25(月) 00:24:16 0
書いた本人もわかってないからわからなくても大丈夫です
317 :
考える名無しさん :2010/01/25(月) 00:27:27 0
ガタリの『アンチ・オイディプス草稿』の邦訳が出版されるみたいですねえ。 ちょっと楽しみ。 でも、アンチ・オイディプス自体はあんまりよくわからんかったら、草稿読んでも わかんないだろうなあ。
318 :
考える名無しさん :2010/01/25(月) 06:46:28 0
反復は回想と区別され、ようするに生きることをいう。 過去を振り返る運動ではなく、現在から未来への運動を生きることを。 生活とはいわば衣服を着て脱いで風呂を浴びてパジャマ着て寝て、 目覚めて起き上がってパジャマを脱いで衣服を着て、、と同じことの 繰り返しなのだが、そういう運動全般が反復とか、生成の存在とか、いわれる。 そして同じことであっても、たとえば同じ「人が登場する」ということであっても、 そこには差異が生まれもする。人が変わることにより生まれ、また、同じ人であれ いろいろ差異が生まれもする。 生活している場合、反復の困難に目がいかない。そもそも新たに目覚めること自体や ある風、ある鳴き声に反応すること、感じること、快に不快に感じること自体、 難しい。そこには困難を飛び越える、ある発生があり、ある反復の発生があり、 発生の境位がある。その発生の境位(位階)=要素(エレメント)として、 差異を新たに思考することができるとする。
なにゆうてるかわからへん
320 :
考える名無しさん :2010/01/25(月) 10:00:03 0
ここは狂人しかいないから
>>315 >ドゥルーズは「差異を生み出す反復」から「反復を生み出す差異」へ論点を移行させていったそうですが、それぞれどういうことか分かりません
>ご教授ください
原初に同一性(=権力と同義)を措定する必要はなく、もともと差異が原差異としてあった
として考えた方が、一回限りの多様な生(=逆説的としての反復)は充実するであろう、と
いうことでは?
同一性の哲学に対して差異の哲学をドゥルーズは提示した訳だから(『差異と反復』の解説を
読んだ方がはやいかも)。
>>321 ありがとうございます
じっくり考えてみようとおもいます
323 :
考える名無しさん :2010/01/25(月) 22:11:08 0
なにいってるかわかりやすいのは駄目な子
哲学書は既存スタイルではもはや読まれなくなるから、 推理小説やSFみたいな文体じゃないとって自分で告白してたよね。 このスタイルは意図的な攪乱なんだろ。
325 :
考える名無しさん :2010/01/25(月) 23:58:24 0
その点でいうなら、『千のプラトー』はぶっ飛んでるというか明らかにアカデミズムの 論文の作法を完全に無視したスタイルになっていて、哲学専攻の人には読みやすいのかも しれないけど、法学を中心に勉強している者からすれば、あまりにも異様なスタイルなんで 読みにくいw。 『千のプラトー』は資本と国民国家の野合という問題を当然その射程に入れているのだろうけど、 領土化・再領土化・脱領土化というのも政治学的な枠組みで論じられるのではなく、地質学的な概念を 使用していわば自然史の中で論じちゃうってもんだから、それは法学・政治学的概念装置が役に立たない と考えているためなのか(おそらく小泉義之だったそう考えるんだろうけど)、それとも、敢えて法学・政治学的 カテゴリーに絡めとられないための戦略としてそうしているのか判断がつかない。 それと「n個の性」とかの議論になると、こりゃとてもじゃないけど法学:政治学的概念枠組では追いつかない。 それはわかる。 ただ、それと資本と国民国家の野合の歴史的分析とどう絡んでくるのかいまいちつかめない。 てか、n個の性を生きるのはバイセクシャルである、あるいはゲイやレズビアンであることをいっているわけではないにせよ、 例えば、ゲイないしバイが男とやるときにはタチもやればウケもやるリバであることなのか。 一回のセックスのときそれぞれウケをやりタチをやりというわけではなく、 タチ・ウケが入れ替わり立ち代りすることもあるので、タチの奴はタチ、ウケの奴はウケと固定化されている傾向が 一般的に強い中では、少なくとも「タチになる」「ウケになる」という変化を生きてるといっていいのか。 それともそれ自体をあたかも他と比べて貴重なものとして語りだすとたちまち特権化してしまうので、そういう言い方は ふさわしくないというべきなのか。そんな奴でも渋谷109-2のとあるショップ店員とやったとかいっていたりするわけで、 ある種レイシズムから逃れられていないのだから、結局は同じだよてことになるのか。 わけのわからんこと書いてしまったw
文学や詩の感覚で接すると楽しい。 取り上げる題材は好みだが、哲学としてはかなり怪しい。、
哲学者としての才能はないの?
328 :
考える名無しさん :2010/01/26(火) 00:16:56 0
ちなみに井上達夫の前でドゥルーズ出そうもんなら鉄拳制裁が待ってますw ちと大げさか。 リベラリストにとって最大の敵は保守主義じゃなくて「ポストモダン」的言説 みたいなんですね。長谷部恭男みたいにばりばりロールズじゃなくても、やはり ロールズに共感するところがあるような。したがってネグリもダメということなる。 ただしネグリがいう構成的権力は憲法制定権力を念頭においているのだから、憲法学と の直接的対質が期待されるところ。切り札としての人権、立憲主義をどこまで擁護できるか。
独自のスタイルがあるってことはそれだけで多大な才能だけどね。 でも中身はレトリック多用のハグラカシとしか読めん部分もある...。
というか それ以外の部分あるのか?
331 :
考える名無しさん :2010/01/26(火) 00:26:29 0
素直に読む限り、「men's egg」は肯定さるべき雑誌で「Soul Japan」や「小悪魔ageha」は 反動ということになってしまう。それでいいのか?いいかも。 メンナクはアゲハ派になるかもしれないが、メンスパはどう位置づけられるのか? まあどうでもいいことかもしれないが。間違いなくセンターGUYは肯定さるべき存在だと思う。
332 :
考える名無しさん :2010/01/26(火) 00:28:00 0
>>330 ないw
深読みしてる奴は、ソシュールが詩人にしたような誇大妄想に陥ってるってことw
333 :
考える名無しさん :2010/01/26(火) 00:49:45 0
読んで誇大妄想に陥ってくれたなら本人も喜びそう
それが罠なんだよw
なんで千葉雅也的な問題になってるんだよw
336 :
考える名無しさん :2010/01/26(火) 13:48:06 0
ドゥルーズが『襞ーライプニッツとバロック』を書いたとき、サーファーから「襞とは 俺達のことだ」という言葉をもらったとか言っていたそうな。 サーファー物理学者がリー群のE8(248次元)のモデル引っさげて素粒子論に殴りこみかけたぐらい だから、波と波の襞に生きるサーファーとの交通もなるほどと思う。 とすれば、ボディ・サスペンション愉しんでる者は文字通り「宙吊り」を生きてるわけだ。 スタジオで生で見たときの衝撃と興奮を思い出した。 というように、哲学は机上のみで生きられているわけではなく、個々の行為において生きられている。 ドゥルーズ哲学に対して反発と同時に魅力も感じるのはそこのところかな。かなり自分の実存に影響されてるが。
深読みする必要なんてなくて、そのまま読めばいいだけじゃないのか。 それでハグラカシとか誇大妄想と感じるかどうかはその人次第。 ドゥルーズ自身、「狂人」と呼ばれることをむしろ歓迎するような発言をしているし。 ハグラカシとか誇大妄想とか言う基準が、何らかの体制に取り込まれた価値観であるのなら、むしろ狂人でありたいというような。
>>314 ドゥルーズとヒュームについては、アンドレ・クレソンとの共著『ヒューム』(ちくま学芸文庫)の、長い解説に書かれてあったけど。
ロールズの名もチラッと出てくる。
339 :
考える名無しさん :2010/01/26(火) 20:14:04 0
>>325 松本潤一郎は萱野、酒井との対談で、ドゥルーズの思想を「フレキシビリティであるはずがない」って
言ってるね。それはどっちかというと、可塑性だと。
>>337 その発言はたぶん、ニーチェの、聖者であるよりは狂人でありたいっていう発言を
踏まえてるんだろね。
340 :
考える名無しさん :2010/01/26(火) 23:50:04 0
>>339 可塑性ですか。
フレキシビリティであることは、結局主体の固有性を維持させたまま、それにとって
偶有的なものに多少の変化を加えましょうって議論に終始しちゃうから、一方のものと
他方のものとの二元的な区別は無傷のままにとどまることにほかならない、という感じで
理解していいんですか?
この点、可塑性とはそういうフレキシビリティとは異なり、そうした主体なき融通無碍な運動
という感じをイメージすればいいんでしょうか?
ヘテロシェクシャル、ホモセクシャル、バイセクシャルも皆、二元的性的区分に囚われているという
意味では同根であるということかもしれない。
とすれば、最終的には個体化の次元での可塑性ってもんを考えなきゃどうしようもない、と。
てことは、社会学的言説ではどうしようもないということになりますよね。
ジェンダー論やら何やらの社会学的な性についての言説に正直飽き飽きしてたところ、
突っ込みだすと面白い話になるかも。
但し、直接法学政治学には反映させることが絶望的に難しいw
>>337 語彙適用の場が通常の哲学者とかけ離れすぎ、かといって厳密に定義された後に
論が展開されるわけでもなく、普通に読むことは不可能。
ドゥルーズは動物占いではコアラだったよ 疑い深く言い訳の天才それでいてロマンティストで現実的快楽主義者
344 :
考える名無しさん :2010/01/27(水) 00:50:14 0
>>338 どうも。
ただ、なんで日本のドゥルージアンはこうも行儀がいいんでしょうか?
社会科学(まあ法学は社会科学には含めるのには躊躇しますが。とくに法解釈学は
規範学なんで)との間の新たなサイエンスウォーズ(逆バージョンで)ともなれば面白いし。
奇妙な棲み分けのために刺激がないというか。
ドゥルーズと創造の哲学 この世界から抜け出て ピーター・ホルワード 著 松本 潤一郎 訳 201002刊/四六判/432頁 定価3570 円(本体3400 円) ISBN978-4-7917-6535-5 スラヴォイ・ジジェク、アラン・バディウといった錚々たる現代哲学の巨人に、その才能を激賞され、 次世代の現代哲学を牽引するであろう目される俊英ピーター・ホルワードの初邦訳が待望の刊行。 ベルグソン・ニーチェ・カント・スピノザ・ライプニッツ・ヒュームそしてフーコーといった哲学者たちを 独自の視点で読みなおした 「哲学史家」 ドゥルーズ。その影響は多様な分野におよび、 ドゥルーズをいかに解釈するかが現代の思想において重要な課題となっている。 本書は、ホルワードによって現代を理解し変革するために書かれた批評的なドゥルーズ論であり、 「哲学史家」 としてのドゥルーズの議論に終止符を打ち、新たに 「哲学者」 ドゥルーズが展開した 存在論にメスを入れるものである。
バタイユって思想的には反ファシストってことになってるけどよくみるとファシスト的な思考って本当?
>>349 そんなのファシストをどう理解するかによるだろ。
では、ファシストをどうみるとバタイユはファシスト的だと言えますか とても気になってます
>>351 ていうかなんでそんなこと気になってるの?
誰かが言ってたの?
はい
354 :
考える名無しさん :2010/01/27(水) 16:19:24 O
ドゥルーズの政治哲学はまだ誰も手をつけていないよな?
ところでガタリのアレ買った?
356 :
考える名無しさん :2010/01/27(水) 23:15:30 0
357 :
考える名無しさん :2010/01/27(水) 23:17:59 0
358 :
考える名無しさん :2010/01/27(水) 23:25:27 O
高いねぇ。
359 :
考える名無しさん :2010/01/27(水) 23:59:44 0
『アンチ・オイディプス草稿』(みすず書房)は、学生にとっちゃ高い買い物だよ。
デフレ傾向を反映して価格も安く設定して欲しかった。
あの値段じゃ大学生協書籍部では売れ筋ランキングには間違いなく入らんだろうなあ。
て、思いながら売れ筋の『もう一度読み直す山川世界史』と島田聡一郎『事例で学ぶ刑法』を購入w
原書だったらペーパーバックにされているかもしれないので、それを買えばいいだろうし、
英訳もあるだろうから、金欠ならそっちを買うことにするわ。
で、解説の部分は図書館でコピーすりゃいいし。
>>356 やっぱり向こうはそういう先行研究があるわけですね。
ドゥルーズが結構流行っているにもかかわらず肝心要のところ無視しちゃってるわけだ、
日本のドゥルーズ研究者は。初期からずーっとドゥルーズが関心を持ってきた、否、闘いつづけてきた
アリーナに出て同じく勝負する気概がなかったんでしょうかね。
ドゥルーズの日本への導入のされ方が蓮實重彦訳『マゾッホとサド』や蓮實重彦の『批評あるいは仮死の祭典』(正直、あのドゥルーズ論は凡庸
だったし、インタビューもことドゥルーズに対するものはあんまり面白くなかった。他方、バルトとの会話は
面白かったと思う。ジャン・ピエール・リシャール論は超意味不明だったw。てか修辞学的言辞でごまかしすぎだろ!)などにみられる
ように、正統派哲学史家・哲学者であるはずのドゥルーズがフランス文学系やら表象文化論系の人たちによってもたらされ、
それが以後のドゥルーズ「研究」に図らずも一定の方向性を与えてしまったことに起因するのか、それとも別の要因のためか。
蓮實の本はたいてい面白いことは認めるけど、松浦寿輝なんかの本もモロ蓮實の影響があるとはいえ、蓮實と同じで、ドゥルーズ哲学
の魅力が全然伝わってこない(この人の哲学が絡む論考は概して凡庸だと思う。大森批判も酷いし。真骨頂は「国体論」だったり、
「明治の表象空間」だと思う。これは本当に凄い!!)。
ちゃんと17世紀哲学をおさえた人によって導入されてた方がよかったんじゃないかなあ。
ドゥルーズ自身も、スピノザの研究者であり、ライプニッツの研究者であると言ってたわけだし。
360 :
考える名無しさん :2010/01/28(木) 00:40:40 0
言い忘れた。どうでもいいけど、小林康夫は本当に酷いよ。 大学入学して意気揚々って感じだったところ、教養教養ってまくし立てるこのおっさん(失礼、おっちゃんね) の「UP」連載の雑文に出くわして一気に冷めた。なにが「知のオデュッセイア」だよ! 胡散臭いことこの上ない。まず題名からしてキザったらしくて生理的に合わないw。 相手方は一流の学者だなと直感したけど、このおっちゃん自身はニセモノだな、と 感じ取ったもんねえ。 他専攻の先生方からもちらほら陰口聞こえるよ。俺もつい言っちゃったけどね。 どうでもいい話でした。
361 :
考える名無しさん :2010/01/28(木) 02:34:41 0
昔ドゥルーズ読んでた(いまもちょっと読んでる)生物系の学生なんだけど、 何個か質問があるんだ。 文脈も読まずに質問することで気分を害したらごめんなさい。 なにか心にティンと来た人は答えてくださればと思います。 ベルクソンもドゥルーズも、 未来を予見不可能だからイイ!みたいに言っているように聞こえるのがよく理解できない。 まず予見不能ってどういう意味で言ってるのかよくわからない。 量子力学的に位置と速度を同時に確定できないから原理的に未来予測は不可といっているのか。 未来予測は世界を単純化してでしかできないから絶対間違えるといいたいのか。 つぎに、予見不可能だと何がいいのか。 わからないからこそ希望があるといいたいのか。 自分たちの思考にひびわれを生じさせて新しい境地に導いてくれるといいたいのか。 ドゥルーズが出来事は現在を逃れると言って「チーズを切る」とかの動詞の例を挙げたりしてるのはわかる。 それを生物学者はどう使えばいいのか。 脳の活動でも見ながら認知科学っぽい手法を使って動詞について議論すればいいのか。 潜在的なもの=力とみなしていいのか。 無意識的領野だとか、超越論的領野だとか、 そういう風にいろいろ読めなくもなく見えるんだけど。 檜垣立哉の『ドゥルーズ入門』ってわかりやすいのか。 彼の本はいつもなかなか理解できないんだけど。
362 :
361 :2010/01/28(木) 02:38:17 0
>>360 相方って千葉雅也だっけ?
彼の現代思想の「トランスアディクション」は感激した。
363 :
361 :2010/01/28(木) 02:40:00 0
ごめん、アンチオイディプス草稿で國分と組んでたのとごっちゃにして覚えてた。 恥かいたwサーセンw
364 :
考える名無しさん :2010/01/28(木) 08:24:18 O
出来事は言葉の表層の次元で起こるんじゃないの?
>>361 ドゥルーズの書き物はポエムですから
科学的な言明として解釈するのは無意味ですよ
>>365 でもさあ、プラグマティズムの本を学生に読ませたりとかガタリとの共闘とか見てると、
実際に生のありかたを変える道具を発明するよう促してるところはあると思うんだ。
そう考えたときに、科学的な使い道ってないのかと考えるのは普通じゃない?
バディウの批判に似てる
法学系の法哲学や政治哲学は、たやすく反動化する。 若手の大屋雄裕などが典型。
>>365 科学的な言明とポエムの違いを教えてください。
ドゥルーズ&ガタリの概念創造は、詩的直観による面が強いとは思う。だが「ポエム」の一言で批判になり得るとは思えんな。 詩的言語との違いは、反復されるという事。一人の詩人が一つの直感を言い表わす特権的な言語とは違う、という事だろう。
>>369 その言明が事実についてのものか否か
それが誤りである場合を許容しているか否か
372 :
369 :2010/01/28(木) 20:46:09 0
>>370 詩人は直感を反復されない詩的言語で表現し、
哲学者は反復される概念を詩的直感で創造する。。。
ってことでしょうか?
詩人の直感と哲学者の詩的直感の違いがわかりません。
反復の有無しか違いが見えません。
>>371 科学的な言明についての考え方が、素朴過ぎます。
373 :
考える名無しさん :2010/01/28(木) 21:30:11 O
ドゥルーズを政治哲学として読み抜く日本のドゥルージアンがいないのはなぜか? 単純にドゥルーズが読めてないからじゃないか!
>>372 では、素朴じゃない「科学的な言明」の定義を、さあお書きなさい(鈴木健二調で)
376 :
考える名無しさん :2010/01/28(木) 21:56:55 O
いや、政治にしか関心なかったのがドゥルーズでしょ。
377 :
考える名無しさん :2010/01/28(木) 23:32:12 0
>>375 おいおい、どういう読み方しているんだ??
378 :
考える名無しさん :2010/01/28(木) 23:45:24 0
ドゥルーズは自身の哲学を政治哲学に貫かれていると言っていた。 事実、若きドゥルーズは制度や法をめぐる思考に突き動かされヒュームの研究に 没頭しもした。 『アンチ・オイディプス』は全体として政治哲学であると思う。 『千のプラトー』にしても然り。 しかし、其の政治哲学の内実は、いわば「政治の自然主義化」 というよりむしろ、フッサール的な意味とは異なる仕方での 「政治の超越論的還元」を行ったがゆえに、かえってその全体像も具体像も 見えなくなっているのが実情ではないか。 そうすると、ドゥルーズの反対を行くレヴィナスの政治哲学ないしは国家論を 参照することによって、それを対他的反照規定としてドゥルーズ政治哲学を 再措定するのが、迂遠ではあっても正しい方向ではないか。
379 :
考える名無しさん :2010/01/28(木) 23:47:37 0
絶対に現前することのない全き<他者>はその痕跡を他者のvisageに残して 過ぎ去った絶対過去。 さりとて、そうしたものとしての出会いを組織するのはまさにここにいる 世界内存在としての<われ>と<われ>のvisagesという痕跡。 だから、全き<他者>でありながら、世界内で共存する「他者」としての二重性が 共同の生の形式たる「政治的なるもの」の次元としての国家を要請する。 私は現前するはずのない<他者>の<他性>の痕跡たるvisageをそこにみる世界内存在 としての他者に対して無限の責任を負いつつ存在する。 それでは正義は存在できない。なぜなら無限責任を負う私は他者を裁くことができないから。 比較不能なものの「比較」を前提とする正義の基底性がここに発生することになるわけだ。 そこで開示される「政治的なるもの」の次元に共同の生の形式を付与するのが国家ということになる。 他者のcitoyenへのdevenir。他者との「関係なき関係」を、つまりは倫理を保障するのはまさに 国家であるという逆説が導かれる。粗っぽく言えばこういうストーリー。 実はこうしたレヴィナス国家論は、意外なことにその出自も沿革も意図する方向性も方法論も 異なるはずのロールズ的リベラリズムないしは現代立憲主義に驚くほど酷似している側面を 有することが明らかになる。 原ー暴力ははっきり言えば憲法制定権力のことなのだから、デリダと親和性があったても、 おそらくドゥルーズは断固このストーリーを拒否するだろう。ではなぜか?
>>379 >比較不能なものの「比較」を前提とする正義の基底性
「自我と全体性」の末尾や『貨幣の哲学』などでの貨幣論もその観点から論じられていた訳だけど…
その一方で、貨幣が「人間を買う」力を有してしまうことへの警戒も語っていた。
この貨幣に対する両義的な態度は、言語や法に対するそれにおいても同様だったように思う。
「マイモニデスの現代性」では、異教に対する一神教の優位、「イスラエルの狂気と信仰」としての「世界の外に出る能力」が言われ、
『存在の彼方へ』では、<語ること>と<語られたこと>関するウィトゲンシュタイン的とも言える緊張の上に、「懐疑論の回帰」が言われる。
デリダの「脱構築」も、こうしたユダヤ的思考を継承したものだと言える筈。
>倫理を保障するのはまさに 国家
、なんていう理屈をレヴィナスが述べていたとは言い難い。例えば『存在の彼方』の以下の部分。
「言説の断絶が克服されるのは、哲学と国家、哲学と医学の連合においてである。
論理に従わない対話者は監獄か精神病院に容れられかねない。
(略)だが、正当なる暴力はありうべき不正と境を接している。いや、抑圧的な正義はありうべき不正でもある」
デリダの音声中心主義批判とか、ベンヤミンの「暴力批判論」とか、
ユダヤ的思考はこの世の内なる何ものかを絶対視・偶像視することには飽く迄も抵抗するものだよ。
言い忘れ。 世界を超越するものとしての「他者」や「神」を飽く迄も擁護する思想は、 国家のようなものの絶対性は拒むとしても、別種の無限の負債を人間に負わせる、 という批判は、ニーチェを援用して、合田正人や柄谷行人も言っている。 「他者」も「神」も、「力」の概念で呑み込んでしまうニーチェ。 アルトーはゴッホ論でニーチェを、ゴッホに匹敵する哲学者と言っているけど、 この二人を称えるドゥルーズにしても、レヴィナス的な「責任」だとか「超越」なんか拒絶するだろうな。
も一つ思い出した。 ガタリとの『哲学とは何か』中の「哲学地理学」に、カントの『純理』からの引用で、 懐疑論者を、定住を嫌う遊牧民として語っている個所があるけど、これは、 ハイデガー的定住民の思考としての存在論への抵抗を試みるレヴィナスと接触する点だと言える。
延々とスレ違い。
ドゥルーズは過激な実在論者だと聞きました、世界の外に理念〔イデー〕を認めているんですよね。それはプルースト的な記憶と類似性があるように思うのですが、どうなんでしょうか
ドゥルーズの「理念〔イデー〕」で念頭に置かれてるのは何よりもカント
世界の外って言い方が間違い
>>385 カントの先天的な感性ですか?
>>386 世界の外ではなく、人間に備わっているんですか?
390 :
考える名無しさん :2010/01/29(金) 18:28:12 0
>>340 >但し、直接法学政治学には反映させることが絶望的に難しいw
大文字あるいは太字の「法学」「政治学」にはそうだろうけど、もっと井戸端レベルのそれには
容易に反映できるんじゃない?判例とかね。
ドゥルーズ=ガタリが言ってた「ミクロ政治学」ってのも、結局はそうした次元の話をしてるんだろうし、
現実に存在するヒトにとっても、実際に問題になるのはそうした井戸端レベルの問題だろうし。
それを積み上げてけば、何らかの新しい法学なり政治学が生成してくるんじゃない?
来ないかもしれないけど(笑)
>>344 「教養」がないんだろね、日本のドゥルージアンの側に。
ドゥルーズの「教養」の幅広さは、ドゥルージアンの間でもよく話題になるしね。
ドゥルージアン(笑)
392 :
考える名無しさん :2010/01/30(土) 00:01:11 0
>>380 ありがとうございます。ためになります。
「倫理を保障するのは国家である」という表現は拙いということですが、
確かに誤解を招いても仕方がない表現でした。
こちらが言わんとするところを説明します。
レヴィナスのいう<他者>の<他性>というべきは、『時間と他者』で言われているとおり、
「絶対的に新たなもの」として未知性のもとで把握され「生き生きとした現在」へと到来した
時にはもはや<他者>ではないという意味での「生き生きとした現在」に現前しないものとして
示される。すなわち、『全体性と無限』でいわれるとおり、<他者>は関係不可能なものとして
示されるほかない。
だが同時に、この<他者>の<他性>は、世界内の他者のvisageを介して、それを痕跡としてその
<彼方>に過ぎ去ったものとして、いわば「絶対過去」(一度も現前したことがないという意味での)
へと転化する。
等根源性を否定する絶対過去としての<他者>こそが私を私たらしめており、
<他者>への全面的責任(無限責任)を負う非対称的<関係>がl’un pour l’autreとしての
倫理性を基礎づけることになる。
これは応答可能性(responsabilite)(アクサンテギュつけてませんが)そのものである私、
signifiance,direの成立する次元である。
他方、<他者>に対して全面的な無限責任を負う私はこれを裁くことなどできないわけで、
そこでは正/不正の区別すら不可能になってしまう事態を招き寄せることの困難から基底的な
正義が要請される。正義が正義として意味を持つには、比較不能なものの比較が前提となり、
本来存在者であるはずのない<他者>は、その<他性>をvisageに痕跡として留め続ける世界内の
他者という存在者として扱われ、私はその「他者の他者」として同じく世界内の存在者として扱われる
(つまりcitoyenになる)。
<他者>は存在者ではないのだから、このような転化はありえないはずだが、
この不可能な「比較不能なものの比較」を可能ならしめるのが国家という「政治的なるもの」の次元
というわけである。
393 :
考える名無しさん :2010/01/30(土) 00:02:20 0
(392のつづき) 正義は国家なくしてありないのも、概念的にこの<他者>−他者の二重性(他者のhumanisme)に起因 する。他者との共存の形式たる国家は、あくまで共存の形式に他ならないわけだから、絶対性を帯びる ものではもちろんない。しかし同時に、本来<他者>であるはずのない世界内の存在者である他者は そのvisageに<他者>の痕跡をとどめているがゆえに、関係することのできない<他者>との<関係>が 可能になったといえるのではないか。 つまり、非現前の現前を可能にしているのは、畢竟、<他者>ではないはずのそれでいてそのvisageを 介するほかないところの他者であるということである。 世界内存在としての私と私という関係なくして<他者>の痕跡すらとも触れられないのだから、 世界内の存在者としての他者が<彼方>への「関係なき関係」を保障しているということは言えるだろう。 そうすると、その世界内存在である私と私、あるいは他者と他者の他者としての私といってもいが、 そうした存在者の共存形式なくしては結局<他者>との「関係なき関係」はありえないということになるだろう。 この「関係なき関係」は倫理であった。 とするなら、他者との共存のための生の形式としての国家は、こうした「われわれ」の関係を保障することを 通じて「事実」としての倫理の条件を提供しているといえはしまいか。 超越論的主観性とその外部から経験的主観性や超越論的相互主観性を基礎づけるはずが、逆に経験的なものが 超越論的なものを同じく規定しているという逆説。 国家による保障という表現はこうした事態を意味して使用したものです。
394 :
考える名無しさん :2010/01/30(土) 00:18:34 0
>>390 確かに。「ミクロ政治学」という視点で考えてみてもいいかもしれません。
但し、それが既存の政治学や法学の世界で受け入れられる余地を残しているかどうか、
漠然としたものであれ多少の共通了解があれば期待できようものの、残念ながらそうは
なっていないのが現状でしょうね。
さりとて、「棲み分け」をして互いに刺激を与えずにやりすごしている現状はやはりおかしいわけで、
法学なら法学、政治学なら政治学、あるいは狭義の哲学なら哲学といった共同体で暗黙の申し合わせに
お互い納得の風土を行き渡らせ、イメージのみを交換し合って頷きあっている状態は薄気味悪いし、何より
不快です。
正直、法学部共同体の中から出ることなくそのまま進んでいけばいいのか、あるいは思い切って表象文化論なり
相関社会科学なり何なりのまだ開かれているところ(?)に進んだほうがいいのか迷うところです。
もっとも最終的には日本政治思想史を通じた「政治的なるもの」を浮かび上がらせたいな、と。
ドゥルーズであれレヴィナスであれ、そのための道具というか準備運動って位置づけなんですけどねw
395 :
考える名無しさん :2010/01/30(土) 00:40:11 0
>>382 >ハイデガー的定住民の思考としての存在論への抵抗
これ面白い考察ができそうですよね。ただし、当然にその見通しなんて
全然たたないですが、今のところ。
フッサールも後年、「大地」云々といっていたような。例の「生活世界」のところで。
現象学自体がバリバリの定住民的思考ですからね。もっともフッサールとしては現象学を
単なる認識論、単なる存在論として位置づける見方には抵抗するでしょうけど。
ちなみに、現象学的な方法では正直糞の役にもたたんと思うし、さりとてチャン・デュク・タオみたいに
弁証法的唯物論だあ!ってな具合にいくわけでもなし、アドルノのように論理は存在ではなくプロセスにほかならず、
主観性であれ客観性であれ、そのいずれかに還元することができないものであるからこそ論理学の自己批判は弁証法に
至らざるを得ない、という帰結を受け入れるには躊躇するし。
>>394 今の東大法学部は、思想は英米系が主流だね。井上達夫にしろ長谷部恭男にしろ。
若手の大屋雄裕や安藤馨もそう。
ヨーロッパ系では、初めはシュミット研究していた和仁陽みたいな天才もいたが
今では見る影もない。
もし本格的にヨーロッパの思想を勉強したいなら、今はバリバリ独仏語をの勉強に
集中して、とりあえず大学院は、留学予備校みたいになってる駒場をステップに
すればいいと思うけど、いずれにせよさっさと留学したほうがいいと思うよ。
397 :
考える名無しさん :2010/01/30(土) 01:07:31 0
>>396 和仁陽の『教会・公法学・国家』は名著ですよね。
今は日本法制史を研究してますね。公共政策大学院でも講義か演習を持ってるんじゃ
ないかなあ。
井上達夫も長谷部恭男もベースはロールズですね。
石川健治はドイツ系で、津地鎮祭訴訟最高裁判決以降、政教分離訴訟での合憲性判断基準としての
機能している制度的保障論をシュミットの制度体保障論の誤解・曲解に基づくものとして論駁した
ことで有名で、なおかつ思想史にも明るい憲法学者です。
大屋雄裕に関しては、正直・・・?。評価できませんねえ。はっきりいって哲学的考察も甘いし、
言うなれば薄められた野矢茂樹って感じで。あれじゃ野矢茂樹がかわいそすぎるというか。優れた
哲学者なので、なおさら。
>>397 石川健治の存在を忘れてました。確かに、東大法学部のヨーロッパ系では
唯一の希望の星かも。
ただ、和仁にせよ、優秀な連中はみんなシュミットに行き着くんだな、これが。
いつまでスレ違いを続ける気なんだろう? 結局、「ドゥルーズ」を何かの「代表」だと思っちゃってるんだろうな。 そういう連中にとっては、スレ違いに見えないんだろう、 と考えないと、理解できない。
もしスレ違いじゃないっていうんなら、 他のあのスレとかあのスレとかでやらずに、 ここでやる理由を誰か説明してくれ。
確かに個人的な事柄について書くのはアレだと思うが、「政治哲学としてのドゥルーズ」は論じられて然るべきだよ。 それが嫌なら他に興味を引く議題を提出するべきだろう。 或る程度まではリゾーム状に話題が飛んでもいいだろうし。
402 :
考える名無しさん :2010/01/30(土) 08:13:23 O
修士から海外にいけばいいと思うよ。 駒場は開かれているがしかし研究レベルはお世辞にも高いとは言えない。 学部で独仏(できれば拉も)を修得できるのであれば 海外で学び戻ってくるというのも悪くない。
403 :
考える名無しさん :2010/01/30(土) 08:15:34 O
>>399 まともな政治思想・政治哲学のスレが2ちゃんに一つもないからこうなるのだと思う。
404 :
考える名無しさん :2010/01/30(土) 16:53:09 0
>>401 うん、ドゥルーズに囲いは似合わないし、柵を設けることはむしろ、
ドゥルーズがライプニッツについて語ったように、「恥ずべき」ことだと思うね。
で、「政治哲学としてのドゥルーズ」あるいは「法哲学としてのドゥルーズ」は、
・・・
既存の政治理論や法理論のあいだに、新たな逃走線を築くものであって、
既存の政治理論・法理論そのものでは決してないだろね。
そういうことを踏まえて考えていく必要があると思う、
少なくともドゥルーズに忠実であろうとするならば。
405 :
404 :2010/01/30(土) 16:55:17 0
>>404 の4行目の中点、ミスだから気にしないで。
406 :
考える名無しさん :2010/01/30(土) 17:11:49 O
ドゥルーズのいい入門書ってありますか?
407 :
考える名無しさん :2010/01/30(土) 21:01:05 0
>>406 入門書を読むのも良いと思うけど、スピノザについて
ある程度(のめりこむ必要はないが)知っておいた方が
良いと思うな。そうじゃないと必要以上に読みづらく感じるはず。
つまりドゥルーズの『スピノザ 実践の哲学』をまず読むべきだと。
409 :
考える名無しさん :2010/01/30(土) 21:22:49 0
>>408 いや、そうじゃなくて。。。。
スピノザの研究書(がしんどかったら、入門書でも)を
ざっと斜め読みして、こんな感じねというのをつかんで
おく感じ。エチカは横に置いておいて適宜参照。
あくまで土地勘を身につけるだけ。
実践の哲学は必読だろ
411 :
考える名無しさん :2010/01/30(土) 22:00:01 O
>>409 わかりました。
ありがとうございます!
スピノザには興味があって読んでいるので好都合です。
入門書を読まないのであればドゥルーズにはまず何から入ればいいんでしょう?
413 :
考える名無しさん :2010/01/31(日) 00:19:23 0
>>382 『哲学とは何か』をざっと読み返してみました。
「ハイデガー的定住民の思考としての存在論」ということにひっかかりを持ったので。
ていうか、『差異と反復』と『哲学とは何か』におけるハイデガー評価の差異を考えても
いいかなあと思って。
『哲学とは何か』では、「領土」と「大地」が区別されて論じられており、その上で、思考は
領土と大地の<間>で成立すると。大地は、脱領土化し同時にされるものである。大地そのものは
境界を持たない普遍であり、場所の特異化として領土が位置づけられる。その意味で大地は内在平面
であると考えるほかない。
ただ内在平面として把捉されている分にはいいものの、それが「どこにもない場所」としてある意味ユートピア化
されてしまうと、それが「高さ」のイメージとともに「超越」として捉えられかねない危惧が生じてしまうのではないか。
もちろん、ドゥルーズとしてはこのような「超越」は断じて認められないはず。
つまり内在平面としての大地、そして「どこにもない場所」としてユートピア化されているかに見える大地、
この関係をどう整理すればいいのか、迷ってます。
>>402 ありがとうございます。
ただ中島隆博の研究にも興味をひかれているので迷いますね。
>>413 143ページをよく読んでみてほしい。
バトラーの「Erewhon」は「No where」のアナグラムだという事が書かれてある箇所。
「Now here」、今ここ、という意味もある、という指摘がある点に注目。
ドゥルーズ的な「どこでもない」は、出来事の瞬間というか、空間化した時間に挟まれた合間を指していると思う。
『意味の論理学』で言えば、「切る」という出来事はナイフと肉の間・表面に生じるのであって、物としてのどちらに属するわけでもない。
革命は、何らかの体制を樹立することに意義があるというより、「今ここ」の革命的熱狂において物事を思考しうる自由の獲得に意義がある。
今確認してみたら、懐疑論者=遊牧民の引用がある150ページ辺りでちょうど法の話が出てきてるな。
黙約、慣習法としてのイギリス法。ドゥルーズが『記号と事件』で「実際の判例を読むべきだ」と言っているのも、
論理的・観念的体系としてではない、具体的な場における法を見る、つまり黙約・慣習の面に注目しているわけだ。
例えば、領土問題で両国間に争いのある領海(まさに法・国家の「間」)では、現場の漁師の間では、暗黙の了解やら慣習やらで事を処理しているそうな。
宮崎学の『法と掟』(解説は柄谷)なんてのも、国家ではなく「群れ」として方を思考するアウトローの流儀がドゥルーズ的じゃないかと思う。
↑ 訂正。「方を思考する」じゃなくて、「法を思考する」。 ついでに加筆すると、漁師やアウトローにとって海や法は脱領土化されている、 つまり、国家を前提とし根拠とする思考を離れているわけだけど、 何か国家を超越した高みから行なっているのではなく、個別的・具体的な状況に応ずる形で行なわれている。 参加者の情動、状況の流動性といったものが左右する、流れ、過程として、約束事なり法なりが思考されているんじゃないのかな。
>>416 話についていけないからって文句言うなよ。
代わりのテーマも出さないで文句だけ言うのは怠惰でしかない。
418 :
考える名無しさん :2010/01/31(日) 23:36:37 0
>>414 サミュエル・バトラーの<Ere-whon>とは、<No-where>のみならず<Now-here>をも
指し示しているとありますよね。
したがって、内在的ユートピアとは、<どこでもない場所>としての大地と、
<いま・ここ>としての領土を共立させる運動であり、その意味で絶対的脱領土化
として位置づけられる、と。
あらかじめ大地と領土があって、それらの間を移動することが領土化であったり
脱領土化であったりするわけではないというのは間違いない。
ただ、まだ完全に氷解できたとは言えない感じですかねえ、僕的には。
419 :
考える名無しさん :2010/01/31(日) 23:38:12 0
(つづき) アウトローと脱領土化を絡めていうならば、例えば網野喜彦が注目した「悪党」なんか がいい例かもしれませんね。海民を含めた非農業民たち、既存の権力機構の統治に完全には 服さない側面が多分に見られた(一種のアジールまで形成されていた)。 古来、「日本」列島からアジア大陸、そして果てはカムチャツカ半島付近まで交易がなされていた。 既存の統治権力の版図とは全く独立して異なる交通がなされていた、と。 近代以降、そのアジールの存在が許しがたい国民国家は「国民」として平準化させ、統治権力を 隅々にまでいきわたらせようとして、それがほぼ完成したかのように見えるものの、 その実「海民」「悪党」ほどの歴史的スケールを持つかはともかく、ものすごく卑近な例では 渋谷だったり六本木のクラブなんかはここでは言えない感じのことも結構やられてたりしたり(ある意味無法地帯w)、 しかも多国籍でアナーキーな状態になってる。 かなり前の映画「凶気の桜」で窪塚洋介率いるネオトージョーが暴れてた渋谷(その後結局既成右翼など「大人」の 力学に絡めとられていってしまう)とか、「池袋ウェストゲートパーク」でのカラーギャングのいた「ブクロ」(池袋) (実際は、ケツモチがいてどうしようもかく別のしがらみに拘束される)とかで、さざ波ではあっても平滑空間へと 変異した瞬間があったのかもしれない。 暴走族にとっての道路だって、単車でコール切りながら流してるときは道路交通法もへったくれもありませんからねえw。 旧車會で極く普通に道交法を守ってツーリングを楽しんでたにもかかわらず、同じ集団がナイトツーリング(ナイツー)とも なると、途端にある種暴走族化してしまうその瞬間は、同じ空間であるはずが全く別様な空間に変化してしまう。 「暴走天使」ってのもまんざら嘘じゃない。
420 :
パラレルワールド :2010/02/01(月) 00:20:46 0
馬鹿正直な言語的説明が加えられた時点で「脱領土」は「領土」に帰る。
421 :
考える名無しさん :2010/02/01(月) 01:01:59 0
>>420 それこそが「再領土化」。
だからそれを繰り返していくんだ、と。
422 :
考える名無しさん :2010/02/01(月) 01:06:33 0
オートポイエーシスとドゥルーズの関係について 触れてあるお薦め本はないかな? 論文でも可
河本英夫の本でも読んどけ
424 :
考える名無しさん :2010/02/01(月) 03:19:25 0
偉大なのはゲルマン系とチリ人なのだよ 高尚なゲルマンの文系とチリ人は 苧疾呼玖差亥苧饅湖にしゃぶりつきながら〜 うう旨過ぎwwwwwwwwwwwwwwww ヘラゲラ生と死を哲学するのだよwwwwwwwwwww // ̄ ̄ ̄ ̄\ . 彳丿; /,,,,,,,,\ u lヽ 入丿 -◎─◎- ;ヽミ. | u:.:: (●:.:.●) u:.::| フ〜! フ〜!! ちゃんと議論してこいよ。 | :∴) 3 (∴.:: | 黒ン簿の蛸踊り音楽なんてテクノに無関係なんだよ。 ノ ヽ、 ,___,. u . ノ、 ハァハァ! キモいロリコンには危機麒麟とヴィラロボスの魅力はわかるまい / ヽ:.___;;;;;;;;;;___.ノ ヽ / ,ィ -っ、. .ヽ | / 、__ う 人 ・ ,.y i | /  ̄ | | ヽ、__ノ ノ ノ | x 9 / | ヽ、_ _,ノ 彡イ シャシャシャシャシャ | (U) |
425 :
考える名無しさん :2010/02/01(月) 11:28:15 O
ドゥルーズは若者を惹き付ける。 その魅力とは?! ある種のドラッグなのかもしれない。 いわば合法的ドラッグでハイになり、性器を介さないエクスタシー。 精神のはりつめた勃起状態。 ディルドやパイブをアナルに突っ込んだ中での勃起。 ラッシュの効果でトコロテンまでいき、快楽が絶頂に達した状態。 忘我脱我の「独我論」。戴冠せるアナーキー。 身体中性器で何にでも「感じてしまう」そんな精神。
千プラの180ページではむしろオーガズムは邪魔だと書かれてあるが。 プラトーは、グラフの線が極限に達した状態が持続して高原の形を描くこと。 つまり「イク、イク」がずーっと続いている状態なんだな。 463ページに「丸は、平らでも尖ってもいない限界の情動」であり「中間」と書かれてあるのも同じこと。 ドゥルーズが「出来事」を「合間」の概念と結びつけるのもそのためだな。 独我論というのは、どうだろう?ウィト氏が『論哲』に書いているように、 独我論をつきつめていけば、自我は極小の点になり、独我論は実在論と一致する・・・ というような意味で、身体の強度が極限に達した状態では、身体そのものが自我を放逐してしまうような。 「麻薬によって形態と人称がことごとく失われるということ」(『千プラ』p.326)←ここで相撲の力士が引き合いに出されているのが面白いな。
427 :
考える名無しさん :2010/02/02(火) 00:08:59 0
>>425 プラトーは尖端ではないのだから、絶「頂」というのは相応しくないと思う。
むしろ、射精直前のガマン汁でまくりの状態が持続している感じかなあ。
あるいはエネマグラをアナルにぶち込んで前立腺をグリグリしている状態w
独我論というと多分ドゥルーズ読みには抵抗がある表現かもしれない。
敢えて言うなら「自我なき独我論」。『ミッシェル・トゥルニエと他者なき世界』。
他者なき世界なんだから自我もないわけで、だから独我論というのは拙い。
身体全部が性感帯で何にでもイっちゃうというのは同感。
でも現実は、ドゥルーズのテクスト読んでも勃起しないんだよなあw
といってもバタイユ読んでもたたないけど。
>>422 郡司・ペギオー・幸夫なんかどうです?
もっとも、郡司はオートポイエーシス批判だけど。
ドゥルーズをガンガン使ってるし。
『原生計算と存在論的観測ー生命と時間、そして原生』(東京大学出版会)
もっとも、俺はこの本の何分の一も理解できていない、と恥ずかしながら思う。
とにかく激ムズ。
『差異と反復』だって本当に理解できてる人って少ないと思うけど、それ並みにいや、
それ以上に理解者は少ないんじゃないかなあ。
だから、内部観測の問題を理解する準備作業として松野孝一郎の『プロトバイオロジー』や
『内部観測とは何か』を導入としたらどうでしょうか?
428 :
考える名無しさん :2010/02/02(火) 19:35:20 0
ミルプラの英訳のContinum Impactsの方を買ってみた。 邦訳版と違ってコンパクトなのがいい感じ。 毎日持ち歩こう。
429 :
考える名無しさん :2010/02/02(火) 22:27:06 0
>>427 >
>>422 >郡司・ペギオー・幸夫なんかどうです?
>もっとも、郡司はオートポイエーシス批判だけど。
>ドゥルーズをガンガン使ってるし。
>『原生計算と存在論的観測ー生命と時間、そして原生』(東京大学出版会)
>もっとも、俺はこの本の何分の一も理解できていない、と恥ずかしながら思う。
>とにかく激ムズ。
詳細なお答え、サンクス
郡司、さっそく読んでみます。
430 :
考える名無しさん :2010/02/02(火) 23:53:08 0
>>428 英訳がどんな風にされているか読んでみたい気もする。
原文でもドゥルーズのフランス語は簡潔な表現だから比較的すらすら読めるはずだけど、
邦訳と随分感じが違っているんで、英訳の場合もそうした違和感があるのかないのか。
むしろフランスの法学や政治学のテクストの方が、意外なことにドゥルーズどこか、デリダみたいに
やたらと文学的修辞が至るところに散りばめられていることがあるんで読みにくい。
ハイデガーのように日本語で読むとのドイツ語で読むのとでは全く別物のテクストになってしまう
ようなことまではないという点では、ドゥルーズのフランス語原典と英訳との間にはあまり差がないのかもしれませんね。
>>429 どうもです。
しかし、相当厄介な代物ですよw
ちゃんと圏論を勉強しなければ、正しいのか間違っているのかの判断も難しいですし。
俺は郡司の理論を理解しきるまでフォローできていません。
拡散反応系を持ち出して云々というところはドゥルーズも使えるのかもしれませんね。
ただ郡司の理論はまさにここにおいてオートポイエーシスを徹底批判する。分岐点になるところですからね。
431 :
考える名無しさん :2010/02/03(水) 00:33:26 0
付け加えるの忘れてた。 オートポイエーシスとは直接関係ないけど、生意気ながら言わせてもらうと、 ドゥルーズを読むには、やっぱりスピノザだと思うわけです。 ドゥルーズは17世紀哲学の研究者でもあったわけで、生涯それを捨ててはいない。 とはいえ、世界的に見てもデカルト研究はあまたあれど(フランスではデカルト研究の蓄積は 凄いもんがあるでしょう。ベイサードとかマリオンとか、ゲルーとか)、スピノザとなると日本でも それほど盛んに研究されているわけじゃない。デカルト研究者なんて物凄い多いし、水準も高いだろうし。 スピノチストとしてのドゥルーズ(てか徹頭徹尾手放しでスピノザを礼賛するスピノチストとしてのドゥルーズ)を 手放してはいかんだろうと思うわけです。生意気ながらそう思います。 じゃあ、お前は理解してるのかと言われれば、全くダメダメだと思いますけど。 ベルグソンからドゥルーズって人もいるけど、やっぱ17世紀からドゥルーズというのが王道じゃないか。 『思想』のバックナンバー図書館で見てたら、國分功一郎の「総合的方法の諸問題」という論文があって、これ、結構凄いです。 まさに王道を行ってるって感じ。ドゥルーズ理解にはかかせないかと。
432 :
考える名無しさん :2010/02/03(水) 02:11:38 0
この人パースとかジェームス、クワインに近いと思うんだけど、 本人からプラグマティズムへの言及ないよね。
後期の著作では結構言及してるよ
ドゥルーズなんてもう過去の人なのに随分人気あるんだね 2ちゃんに40、50代がいかに多いのかわかるな
>クワインに近い クワイン読んだことあります?www
フランスのあの世代が、直接的言及がない場合でも かなり分析哲学を意識していたことは、最近は常識に近いかもしれない
微分を使っているので訳が分かりません、数学大の苦手です
438 :
考える名無しさん :2010/02/03(水) 18:40:10 0
439 :
考える名無しさん :2010/02/03(水) 18:49:12 0
まだ「哲学史」は可能かもしれない。
デリダはクワインを翻訳したことがある
ベルクソンはジェームスを翻訳したことがある
443 :
考える名無しさん :2010/02/04(木) 00:06:47 0
>>434 そうかなあ。僕は20代なんすけど・・・。
もっとも、哲学科でも表象文化論分科でもなんでもないけど。
ブームになっていないし、他学部(特に法学部、経済学部)で関心ある奴意外にいますよ。
<政治的なるもの>とは何か、あるいはグローバル資本主義(まあ資本制はもともとグローバル化への
運動そのものであるわけだろうけど)の正体などを思考するにあたって、やっぱり哲学の知見は必要だし、
場合によっちゃ(特に政治学ないし政治哲学などは)美学にも触れざるを得ないわけで。
それはともかく、ドゥルーズって相当難しい。まあ、なんというかポン中とかじゃないと見えないんじゃないかって
ところもあるように思える。
『襞』もサーファーだったら理解が早いよ。だからギャレット・リージなんかが『襞』読んだら凄いことに
なるかもしれないw。
だからかもしれないけど、ことドゥルーズ哲学に関しては、教科書的な入門書の類を読んでも
違和感だらけ。桧垣立哉の『ドゥルーズ入門』なんかざっと目を通しても眠くなるだけだったし、
浅田彰の『構造と力』なんかも当時としては新鮮な輝きをもっていたのかもしれないが、小奇麗に整理された知識が書いて
あってもくだらないことこの上ない。干からびてる。
まだ『思想』に掲載された論文「アルチュセール派イデオロギー論の再検討」なんかは、これまたチャート式なんだろうけど、
まだ読んで面白かった。
「こいつやバイんじゃねーの?」と思えるぐらいラリッた奴の論文なんかに期待がもてるかも?
それぐらいドゥルーズは変。
444 :
考える名無しさん :2010/02/04(木) 00:19:42 0
>>434 むしろ20〜40代前半でしょ、多いのは。
50代なんて、2chどころか、パソコン扱うのも四苦八苦って人がほとんどじゃん(笑)
理系のPC通ならいざ知らず。
>>443 ドゥルーズが変なのは同意するけど、ドゥルーズの入門書として『構造と力』とか出してこられるのはどうも…
宇野さんの『ドゥルーズ 流動の哲学』なんかはどう?
445 :
考える名無しさん :2010/02/04(木) 00:34:23 0
>>444 浅田を出したのは、つい最近古本市でみっけて読んだもんだからw。
前期は完全に無視してますよね。桧垣って人の本に浅田、浅田と(やや否定的ニュアンスも
こめつつ、先駆的であったことだけは認めるかのような表現)書いてたもので。
宇野邦一の本ですか?講談社メチエかなんかの?
まだ読んでません。ただアルトーとかとの関係を見るのに参考になるのかもしれませんけど、
こと『差異と反復』とかを読むのに有益なことが書かれてるのかどうか・・・。
ともかく、断言はできないかもしれないけど、ことドゥルーズに関しては入門書ってのはどうなのかなあ、と
思います。お行儀のいい人のドゥルーズ論なんて読みたくないしw
446 :
考える名無しさん :2010/02/04(木) 01:26:09 0
>>445 >お行儀のいい人のドゥルーズ論なんて読みたくないしw
たしかにね。
『流動の哲学』は俺も今、1/5くらいの読みかけだけど、そういう意味では割といい入門書だと思うけどね。
文章は平易だけど、言ってることはドゥルーズの解説だから、当然ぶっ飛んでくる…ある意味では。
増してアルトーの研究者だしね(笑)
残念ながらまだ『差異と反復』に関する箇所までは読んでないから、有益かどうかまでは言えないけど、
目次とかちらちら断片的に読む限りは面白そうだよ。
読んだら書いて
ニューアカなんて30代すら知らないよw
>ニューアカなんて30代すら知らないよw 直接知らずとも、先代から風習が次がれているんだな。 日本の思想界の英米独より、おフランス偏重傾向は、 明らかにニューアカの功罪。
それ、講壇哲学のフランス軽視が原因。
451 :
考える名無しさん :2010/02/04(木) 16:08:40 0
フランス哲学は糞
454 :
考える名無しさん :2010/02/04(木) 21:14:30 0
日本では、向こうの一流学者の評判を取った本を翻訳することが、学者の仕事のようなものである。 そういう国だ。自分が作った理論(仮説)を、現実社会に投げ込んで、実験してみて、その成果を 厳密に測定する、というような態度などまったくない。ただひたすら、学者と自称する連中が、 「トーマス・クーンの「パラダイム」paradign 理論は、カール・ポパーの「反証可能性 (falsefiability フォールスファイアビリティ)とはちがう」「いや、似ている」というような議論をえんえんとやる。 そういう国だ。その程度の国だ。壮大な社会実験など、やらなくて済むし、やるだけの土俵もないし。 みんな、紙と鉛筆と自分の研究室、の3つしかない。それでも、企業サラリーマンとなって会社奴隷になって 働かされるよりは格段にまし、ということか。 日本では大学か公立の研究所に籍を置かなければ、知識人生活はおくれない。そうでなければ、貧乏な、在野の、 一匹オオカミの雑文業者でしかない。江戸時代の傘貼り浪人か、寺子屋の先生をやることに等しいのだ。私は ずっとこれをやった。そのかわり、国民の方は、学者と雑文家の差というか、社会的区別をあまり認めないから おもしろい。すぐれた文章家が、学者より高い尊敬を集める。その程度の国だ。 だから、司馬遼太郎を私は、そのうち、徹底的に、砲撃する。彼は文章がきわめてうまいというだけの人だ。 あの文章は、英語(ヨーロッパ語)には翻訳できない。だらだらと非論理的な話が果てしなく続くからだ。 副島隆彦「属国日本論を超えて」p40〜41
455 :
考える名無しさん :2010/02/04(木) 21:15:58 0
日本では、学問(サイエンス)というのは、欧米世界で評判を取った一流学者たちの仕事を、国内に紹介するというか、 泥棒というか、勝手に代理店を開くというか、華々しく輸入するというか、そういうことに過ぎない。これは今でもそうだ。 (中略) アメリカでは「この本を私は、翻訳して出版しました」というのは、絶対に学問業績にならないのだそうだ。履歴書の作品 欄に、書いてはないらない。「絶対に書くな」と何人かのアメリカ人の友人に、私は忠告された。「いや、そう言っても、 この本を訳すのは大変だったのだ。日本では、翻訳するだけでも大変な業績になる。翻訳書が1冊あるだけで、学者だ。と 威張ってるのがたくさんいる」と私が、反論しても、絶対に聞き入れてくれない「恥ずかしいことだから、 止めろ」としつこく言われた。翻訳は研究業績にはならないのだ。「それはインフォマート(現地人の情報提供者)の仕事で あって、学者の仕事とは、認められないのだ」と、強く言われた。 副島隆彦「属国日本論を超えて」P36〜40 日本では「政治思想」なるものはいつも断片的にバラバラに、前後の脈略なしに、適当に外側(欧米世界)から 翻訳文として押し寄せ、流れ込む。しかも、世界の知識人たちが理解している全体構図とは関係なしに自分勝手な 理解を国内に広める。そしてやがて棄て去り、次の新しいものにまた飛びつく。 「世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち」(副島隆彦 著 講談社)
456 :
考える名無しさん :2010/02/04(木) 21:16:47 0
人は人生の年月の中で、五年、十年単位で、自分の考えが変わってゆく。その変わってゆく自分を、しっかりと 記録しつづけることだ。あのときは、ああ考えて、ああ信じていたが、今では、このように変わって、こう 考えている、と書くこと。なるべく正直に書くことだ。自分に向かってきちんと文字で書いて確認してゆく 作業をすることである。それが、知識、思想、学問なのだ。人間は年を重ねるにつれて考えが変わってゆく 生き物だから、それでいい。それが成長するということなのだ。だから知識、思想、学問というのは、何か 新しい知識を西欧やアメリカから持ち込んで、自分勝手に改造、変造して日本語で適当に売りさばくこと、 なのではない。 今の私は、このように考えている。だから私は、吉本の、「転向とは、人間が成長してゆくことだ」と 書いた転向論としての吉本の思想観を、今でも受け継いでいることになる。 昔の吉本はやっぱり偉かった。 副島隆彦「日本の秘密」P122
457 :
考える名無しさん :2010/02/04(木) 21:17:31 0
私は、日本知識人として、己を失うまい、と心に決めている。己の立っているこの貧困なる知識の土俵が、 どんなに、東アジアの一種族としての劣悪なるものであるとしても、それは構わない、と腹を据えてきた。 しかし、嘘はつくまい、と念じきた。 この土俵と劣等な知識環境の中にあっても、知ったかぶりの高踏知識遊戯―即ち、やたらと気まじめぶった 学者の論文のこと。この知識環境で友人たちさえ読んでくれないような難解な文章を書くこと―はすまい、 決めてきた。日本の文科系の大学講師たちのほとんどは、アホである。 彼らの知識は外国に持ち出して、全く通用しない。言語の壁を横に置いたとしても。この書き方を、私は これからもやめない。どんなに嫌われようが、煙たがられようが、やめない。 副島隆彦「日本の秘密」P43
×フランス哲学は糞 ○フランス思想を推してるサブカル電波学者が糞
459 :
考える名無しさん :2010/02/04(木) 21:57:34 0
>>458 それは言えるね。
「学者」かどうかも微妙だけど。
千葉雅也とか佐々木中はどっち?
461 :
考える名無しさん :2010/02/04(木) 23:29:24 0
>>446 宇野邦一『ドゥルーズ 流動の哲学』を図書館で手にとってざっと読んでみました。
読みやすかったし、文章にもリズムがあって、しかも入門書としてよくまとまってました。
ただ逆に、ドゥルーズ哲学の荒々しさが隠れてしまっている(講談社メチエの性格上、
仕方がないのかもしれませんね)。
その上で、不満な点を数点指摘したいと思います。
まず第一に、初期ドゥルーズの紹介でベルグソンやニーチェ、そしてヒュームとの
関係に触れていましたが、ヒューム論に関しての紹介が薄すぎやしないか、という点です。
連合原理等について言及してはいますが、おざなりの説明でおわってしまっていますし、
何よりこのヒューム論が持っている国家論を含めた政治哲学的含意を見ていない。
ヒューム論の射程はそこまで延びているし、現にドゥルーズは「キリストからブルジョワジーへ」
という20歳頃の論文や『本能と制度』からでもわかるように、現代の法理論(とりわけその大元を
なす近代立憲主義の前提を供する社会契約論など)の諸前提に対する懐疑、法と行為の関係、
圧制と法との関係等についてマルクスを念頭におきつつ論考しているわけで、この問題意識は、
方法こそ異なれ、『アンチ・オイディプス』や『千のプラトー』につながっているだけではなく、
それこそ死ぬまで一貫している。だから、それについて言及がないのは不満が残ります。
462 :
考える名無しさん :2010/02/04(木) 23:31:48 0
(つづき) 二点目は、徹底的な唯物論者としてのドゥルーズ、徹底的なスピノチストとしてのドゥルーズを 描いてもらいたかった、ということです。 宇野自身は、ドゥルーズが筋金入りの自然主義者であり、唯物論者であることはもちろん承知しているはず。 しかもその自然たるや、「自然にやさしく」なんていわれる類の自然とは全くことなる自然ならざる自然に 触れてたと思うんですね(ここを手放したら、スピノザでも唯物論でも何でもありませんから)。 ドゥルーズでいう自然は、変な例ですが、身体改造それこそボディ・サスペンションやタトゥー、スカリフィケーションや インプラント、あるいはボディ・ピアスやスキンソーイング(かなりマニアックですがw)など、反―自然として蛇蝎の如く 異常視され嫌悪に基づいた言説が吐かれてきた行為ですら包含する概念でしょう(もっとも、今じゃどんどん拡張器つかって 0Gぐらいまでの極太ピアスつけたりスプリットタンしてる中高生なんかそこらじゅうにいますから、一概にはいえませんけどね)。 生成変化も、そうした唯物論の中で、別言すればスピノザの能産的自然においてのdevenir-animalそしてdevenir-imperceptableを 思考することでしか理解されないわけですから。 それらしきことはさらっと触れられているかに思えなくもないけど、明確に核心を突く叙述にはなっていない点も隔靴掻痒の感がします。
463 :
考える名無しさん :2010/02/04(木) 23:32:43 0
(つづき) じゃあ日本のドゥルージアンがそういう次元で見出される自然に触れたところでドゥルーズ哲学に定位し て思考しているのか?そこまではやっていないと言えるのではないかなあ。 せいぜい「怪物」がどうの、「愚鈍の残酷さ」がどうのこうのという蓮實重彦レベルかその亜流に とどまっている(もっとも、批評家としての蓮實重彦は好きですが。ただドゥルーズの読み方は凡庸じゃ ないかなと思うだけです)。 スピノザやドゥルーズが触れていた「自然」に向かって、いやそこから思考を駆動させていなければダメ なんじゃないかなと思います。その意味で、粗っぽさが目立つとはいえ、小泉義之の思考は、単に過激で あるというのではなく、大事なところをちゃんとおさえていると思うわけです。 政治哲学もそういうところからフィジックなものとジュリディックなものとの関係を見ていかねば、 と思います。 ドゥルーズの自然主義における自然は、決してフッサール現象学でエポケーされる自然主義的態度に おいて想定される自然でもないし、また生活世界Lebensweltのことでもじゃない。 廣松渉の対自的に捉えかえされた共同主観的存在構造でもない。 フッサールも廣松も偉い人ですが、その程度なら社会学的言説でも触れられているし、 そうした言説が事実、容易く反動化してしまう例をみているわけですから。 長々とスイマセン。
464 :
考える名無しさん :2010/02/05(金) 00:35:51 0
長く書いちゃったついでにw フランスの政治シーンでは、結構哲学者がガンガンやりあってるわけですよね。 大統領選挙だけじゃなくて、それこそEUをめぐっても。 いろんな場面で哲学が生きてる。絵画や音楽をめぐっても、政治シーンと決して無縁ではない。 ドゥルーズ哲学との接点も当然踏まえている(たとえそれが批判であっても)。 バリバールやランシエールのテクストは、その意味で刺激的なんですよね。 いずれも、ジュリアン・バンダ的知識人では到底及ばないところに踏み込んで政治と哲学について思考している。 たとえ、ドゥルーズと最終的に袂を分かつものであっても(日仏の堀茂樹は怒ってくるかもしんないけどw)、面白いものは 面白い。 浮世離れしたものの浮世への効果をちゃんと見据えているんだなあ。
なんかそういう語り口が好きなんだね ドゥルージアン(笑)の君たちはw
ナルシストの長文って恥かしいね(笑)
愚鈍(笑) 凡庸(笑) 言説(笑) 反動化(笑)
>>464 中国の反日教育とフランスの哲学教育(最近はダメになったらしいが)は教育方針が効果をあげた事例だ。
>>439 哲学史的見取り図としては、アガンベンの『思考の潜勢力』 La Potenza del pensiero
のラストに紹介されている図(既出)が参考になる。邦訳単行本では、雑誌掲載時(「絶対的内在」
『現代思想2002.8』)と違い、訂正されている。
超越 内在
カント スピノザ
| |
フッサール ニーチェ
\ / |
ハイデガー |
/ \ |
レヴィナス、デリダ フーコー、ドゥルーズ
個人的にはカントからドゥルーズを読むのが客観的に正しい位置づけになると考えている。
ただしその際に、カントがライプニッツから大きな影響を受けていることを忘れるべきではない。
ドゥルーズは上記図にあるように、スピノザ,ニーチェのライン(ニーチェとは直接つなが
り得る)だが、カントをライプニッツ的に読み直した際、ドゥルーズのライプニッツ(ハイデガー
の位置におけばよい)との近さがわかるはずだ。
>443
ちなみにドゥルーズ入門書は清水書院の『ドゥルーズ』か本人の『記号と事件』がいいと思う。
最近ドゥルーズに興味を持って 『襞』を手に取ってみたものの あまりに難解でわけがわからん と思っていた俺からしてみると 入門書云々の流れはありがたい
なにかどこかで「『襞』は後の方で読むべし」みたいなコトを聞いた覚えが
どこかで國分が襞と哲学とはなにかをdisってた
472 :
考える名無しさん :2010/02/06(土) 00:18:24 0
『襞』は難しいよ。あれこそポン中でもないとわかんないんじゃないかなあ。
ドラッグでもきめてエッチでもしながら読むとか・・・。
大江健三郎の『われらの時代』の冒頭みたいに、「セックスしながら形而上学に
ついて考える」。
>>468 哲学史の表街道から裏街道を見るという感じですね。
いかにドゥルーズが「変」であるかが見えやすくなると思います。
カント、フッサールという超越論哲学の系譜から、それに対するスピノザーニーチェードゥルーズの系譜。
もっとも、カントもフッサールも超越論哲学の系譜に位置づけられるとはいえ、フッサール現象学にいう
「内在ー超越」というのは、相当カントとは違ってると思うけど。
詳しくはないけど、フッサールの場合の「超越」というのは、超越論的還元を経て、対象がノエマ的意味として還元された
としてもなお「残る」(この言い方は微妙だけど)類の「超越」でしょう。ノエマ的意味であれ、それはヒュレーそのものでは
ないのだから「実的なもの(レエールなもの)」に対して「非実的なもの(イルレエールなもの)」だから「超越」である。
これは当然「リアルなもの」と「イデアールなもの」との違いではない。
473 :
考える名無しさん :2010/02/06(土) 00:56:05 0
ドゥルーズが考えていた自然と、後期のメルロ・ポンティが考えた「肉」と重なるのだろうか? もし「肉」がフッサールのいう「生活世界」と同意義であるならば、明らかに異なる。 しかし、メルロ・ポンティの「肉」が「生活世界」と同意義であるとも思えない。 だとするなら、そういう「肉」と自然とがどう重なりどう違ってくるのか?
「見えるものと見えないもの」なら、ドゥルーズが大の愛読書にしてたみたいだぞ
「潜在性の存在」として「肉」を定義するメルロ=ポンティの哲学とドゥルーズは相通ずるものがありそう。 「<見えるもの>と呼ばれるものは(略)<存在>の波に運ばれた一つの粒や微粒子だ」なんて、『襞』で知覚について書かれた箇所とよく似ている。 実際、『襞』でもメルロの引用がされている個所があったな。 メルロのセザンヌ論で語られている「自由」はまさに差異と反復。『プルーストとシーニュ』と併せて読むと良さ気な感じ。 「肉」と、W.ジェイムズの「純粋経験」の対照とかも気になる所。 ところで今、デリダの哲学コレージュのドキュメンタリー映画(『哲学への権利』)が監督共々全国を周ってるんだけど、 「デリダ派の牙城と言われるがそんなことはない」「ドゥルージアンが多数を占めたり、…」という分裂症的(?)なところとか、 「制度に異議を申し立てる制度」「留まることを許されない場」「非‐場所としてのユートピア」など、リゾームでノマドな実践のよう。
476 :
考える名無しさん :2010/02/07(日) 00:24:37 0
ボーボリアールじゃよ?
477 :
考える名無しさん :2010/02/07(日) 00:37:16 0
>>475 肉がレーベンズベルトと同意義ではないと思いますよね。
ただ、不勉強のせいか、特に現象学に不案内なところもあって、つめきれずに
いるところ。何となくですが、メルロ・ポンティは現象学から入って現象学を
突き抜けることができた、と。この辺は課題です。
『プルーストとシーニュ』は、特に植物の愛や同性愛などの愛のシーニュについて
語られているところがいい。両性具有性を持ってくることで、同性愛・異性愛という
区分を取っ払ったところで思考しているわけでしょう。セクシャリティをめぐる社会学的な
おしゃべりの域を完全に抜け出ている。セクシャル・マイノリティをめぐる考察って、たいてい
マイノリティであることがある意味特権化された語り方がなされたり、あるいはゲイやレズの人権を
認め合いましょうね、というマイルドなお話で終わったり、と正直うんざりさせられるのが多かった。
「マイナーになること」とは決して既存のマイノリティ集団に位置することに安んじることでも何でも
ないはずだから。
その映画はまだ未見です。三月に大学で上映会あるみたいなので暇があればみようかな、と。
でも、いい感じじゃないですか?ある種クラブみたいな感じで。バラバラに集まってまとまっているようで
まとまっていない、まとまっていないようでまとまっているw
哲学とは何かで肉について語ってるよ
ドゥルーズに飛びつく者は、基本的に左翼と相場が決まっている。 なぜなら、ドゥルーズは国家を否定する思想だから。 デリダも国家否定の哲学者であり、だからこそ左翼陣営から重宝される。 保守思想が日本では紹介されていない。オークショットやバーリン。 アラン・ブルームの研究者もいない。 ことに東大はそうである。特に駒場の思想系は左派が主流を占めている。
そこの三人とドゥルーズ・デリダは世代が違うだろ…
>>479 ドゥルーズに限らない、9割以上の大学上層部、教育機関の主要人物が
左翼だから、そこに将来寄生するヤマッ気を持った哲学徒は心情を曲げてでも
左に擦り寄るだろ。日本において
ハイデガーや京都学派がその功績に比してマスメディアに登場しないのも同じ理由。
ヌーボー・フィロゾーフたちの研究だと面白いね。
左翼にもいろいろある。 ドゥルーズ、デリダは左派だけどマルクス寄り。 アナキストではない。(柄谷はドゥルーズをアナキストと呼ぶがまったく違う。) 一部のアナキストは保守派とも整合性がある。 (例えばオークショットはOn human conductでプルードンを絶賛している。)
ただのフランス嫌いが左翼を批判しているつもりになってることが、日本ではおおすぎる
×フランス哲学は糞 ○フランス思想を推してるサブカル電波学者が糞
小泉義之は国家破壊論者だよ。 それに共感するのも同じく国家破壊論者で道徳破壊論者。 つまりこういうことだ。 ドゥルーズ研究は大学という権力から守られた場所で行われる。 東大がその最たる場所。 しかし、モラルを否定・破壊する主張は、モラルが守られた場所で行われる。 講義中に音楽を爆音で流しながら乱入してくる者はいない。 教壇に土足で登って踊りだす者もいない。 教室で薬物の売買が行われているわけでもない。 トイレで淫行に耽っている者もいない。 レイプがそこらでおきているわけでもない。 改造バイクが校門から侵入して傍若無人に荒らしまわることもない。 校内暴力があちこちでおきているわけでもない。 講義する者が暴行されることもない。 そんな守られた空間で国家批判・道徳批判が語られる。 語っている者も聞いている者も権力に守られ、そしてモラルを守りモラルに守られている。
ドゥルーズだって、「白痴的なエロティシズム」や「無根拠な暴力」を批難してるからな。
小泉さんのことは正直どうでもいいんだけど、デリダにしてもドゥルーズにしても、「国家を前提とする思考」を拒絶しているわけで、
「国家」や「法」そのものを否定しているかというと、必ずしもそうとは言えない面も感じるぞ。
>>486 はデリダやドゥルーズを何か、DMCのクラウザーさんかなんかと一緒にしているみたいだけどw
488 :
考える名無しさん :2010/02/07(日) 17:10:54 0
国家を否定するものが左翼という貧困な考え方はなんなんでしょう? 再配分はどこを介して行われるんですか?
ネトウヨは情報鵜呑みにしたりなんとなく左翼批判するから
490 :
考える名無しさん :2010/02/07(日) 17:27:48 0
>ネトウヨは情報鵜呑みにしたりなんとなく左翼批判するから 「ネトウヨ」とかキムチ用語盲信し使ってる時点で君がもっとも情報弱者(笑)
491 :
考える名無しさん :2010/02/07(日) 17:28:56 0
>>490 ところで、どうでもいいはなしだが
超賤キムチって、ドゥルーズを理解出来るのかね?
馬鹿サヨ系や金豚命の連中ならわかるのかな
童貞臭いスレですね?
自己愛臭いスレですね?
ハイデガーはかなり取り上げられてる方じゃないの
>>494 木田元の功績だが、
皮肉にも便乗寄生してきたサブカル似非学者の影響で最近は名が広まったかもね。
でも欧米に比べると、まだまだ扱い小さいと思うがな。
ハイデッガーってどれくらいすごいの
@@@@@@@@ @@@@@@@@@@ / /-===-、 i 理系BOYにはダラダラハゼ〜ってプーチャカピーかな? / \ 、ヽ ヽ こ ノノ 高尚な文系には一部では遙かに分かるんじゃよ? / ` ー-- ' /∵∴∵\ `ー--一'ノ/ヽ ノ7_,,, 、 /∴ (⌒、"⌒ソ⌒ヽ_( 〒 )ノ- 、`、 ( ィ⌒ -'"",う ∵∴ ~''(_)(_)(_)(_)ソ __ ヽノー-,イ^ ∴∵ ヽ/`、_, ィ/ ┌|| 壱 ._|__ヽ∴/ ∵∴/ ∴∵∴/ || || 万// 壱 / )/ ∴∵∴∵∴∵/ || || // 万 / i \∴∵∴∵ ノ ヽ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/ / \__ / \___ ノ /
498 :
考える名無しさん :2010/02/07(日) 23:40:40 0
スピノザ的自然≒ドゥルーズ的自然には善も悪もない。すなわち道徳などないよ。 ある意味冷めた目で世界を見ているから、唯物論的に道徳がでる余地などない。 ここははっきりしていると思う。 ドゥルーズにとっても、したがってスピノザにとっても、良いか悪いかはあるが、 それは道徳的善悪とは異なる。 教室で爆音流して大暴れするのも悪であると根拠付けることはできないし、 乱交しまくり、盛りあったりしても別に道徳的に悪いとは言えない。 それが最高の喜びを与えるものであるなら、ドンドンやりまくればいい。 問題は、それがその者の力能を真に発揮させているかどうかにかかっている。 スピノザは国家を否定してはいない。むしろ国家論を著してその肯定的側面を描写している。 が、それはホッブズ的な社会契約説に基づいて国家権力の正当性を主張するものではない。 スピノザは、「自然権の主権者への譲渡」など絶対に認めない。 また「万人の万人に対する闘争」状態という自然状態からの恐怖を逃れるために、理性による計算を 経て、信約を結び、主権を定立してそのもとに自然権を譲渡し服属するという一連のお話には乗っからない。 むしろ、国家を構成することがマルティチュードの力能を高めることができるという限りにおいて肯定されている。 したがって、力能を高める限りでの国家であるならばともかく、逆に言うならば、害悪をもたらす国家であるならば、 そのような国家は滅びた方が被害は軽微で済むということにも触れている。 それはともかく、ドゥルーズはアナキストではない、という方がいるけど、どうなんでしょう? もちろん単純なアナキストではないとは思うけど、やはり本質的にはアナキストではないかと思う。 そして俺としてはそれは肯定される。 アナキストとサンディカリストとは同じではないが、似た側面があり、そのサンディカリストがファシズム運動を担った ところもないわけではないので、ドゥルーズがともすればファシズムに近似していくのではないかとの疑念が提出される かもしれない。存在の一義性の主張がファシズムに近づく危険性も指摘されるかもしれない(事実、バディウはその疑念を 持ったみたい)、しかしそれはドゥルーズ的自然と「社会」とを混同した議論ではないか。 生存と生活の混同と同じく。
アルト−、『ヘリオガバルス または戴冠せるアナーキスト』p.53 「そして私がアナーキーと呼ぶのはこの一神論を指している。 すなわち、事物の気まぐれと多様性とを認めぬ全体の統一をアナーキーと私は呼ぶ」 「統一の感覚をもつ者は、事物の多様性の感覚、つまり、 事物を還元し破壊するために通らねばならぬ微細な無数の相の感覚をそなえている」 三島由紀夫が『文化防衛論』で「最深のエロティシズムは、一方では古代の神権政治に、 もう一方ではアナキズムに接着している」と言っていたのを思い出す。 ドゥルーズが好意的に論じていた、D.H.ロレンスの『黙示録』にも、ファシズム的な匂いはある。 だが、固定した「道徳」や「体制」ではなく、飽く迄も過程としての差異の関係性を見るのがドゥルーズ。 リゾームにもファシズムの危険性が孕まれていることは千プラで言われていたからな。 何らかの同一性の間の差異ではない、「それ自身における差異」は、「全ては差異である」という命題によって「存在の一義性」に導かれる。 ドゥルーズの他者概念がレヴィナスのそれのような超越性ではなく、「知覚の構造」として内在化されているのも、 レヴィナスのような「絶対的他者」は、個別的、具体的な差異を、超越的な他者性によって希薄化、無化する傾向があるからでは。 ガタリがデリダの「原-エクリチュール」をファシズムと断じるのも、それと同じ理屈ではなかろうかと。
アナルコ・キャピタリズムのD.フリードマンの本を以前チラッと読んでみたんだけど、 法も貨幣も市場原理による選択に委ねるとか、法の信用を民間警備会社の軍事力に委ねるとか、 グローバリズムの果ては逆説的にもP.クラストル的戦士の社会なのかと。 資本主義の分裂症的な傾向の極みとしての思想と言えるかもな。 「地域貨幣で地元を活性化」とか、そんな呑気な話ではないw
501 :
考える名無しさん :2010/02/08(月) 23:32:27 0
>>499 ドゥルーズ的アナキズムは、「聖なるアナーキー」なんだと思いますね。
もちろん、ここでいう「聖なる」とは何も超越的存在との距離と方向の意識に
基づいてある種のサブライムとして措定された存在者を前提にした表現ではありません。
国家権力からはじきだされた余計者的な存在(マイノリティでもある)の<群れ>が
ある種の自由空間であるアジールを形成しつつ、時として既存権力機構を脅かす<悪党>
として<人狼>として、すなわち<法―外>なものとして持っていたアナーキーな力の表現です。
戦争機械といってもいいかもしれない。
山賊、海賊、そしてヤクザもギャングもゾッキーだって戦争機械になりうると言えないわけでもない。
ただ、これは下手をすればファシズムを担う力にもなりうる危険性がある。
ヤクザや族の連中が時に右翼になり、天皇制を支える力として浮上することもないわけではない
(したがって、日本的農本主義を解体すれば天皇制の基盤が解体するので天皇制も解体するだろう
という見解は、根本的に誤りである。この力の所在を歴史的に究明したのが網野善彦の業績)。
近代国家はこの力を飼いならそうとしても飼いならすことは到底できない。
中上健次の小説に出てくる若い衆みたいな存在。
ドゥルーズもこの力に賭けていたんじゃないかと思いますね。
502 :
考える名無しさん :2010/02/08(月) 23:33:27 0
では、存在のアナーキーそのものを厳密に思考し記述することに成功したといえるか? 残念ながら『差異と反復』や『千のプラトー』はそこまでは成功しておらず、 道半ばで挫折したといえるんじゃないか。 具体的なことを主題にしているようで、問いただされていることは思い切り抽象的な 形式であるドゥルーズ哲学が、解析学や代数学にヒントを得つつ思考を紡ぎだそうと試みるのは、 17世紀哲学の研究者であることからも、それから現代の数学や自然科学の扱っている領域そして そのための洗練された概念を考えると、当然過ぎるほど当然。 しかし、必ずしもうまくいっていない。 ともすれば、グロタンディークあたりに協力を求めるよりほかないのかなあ、 なんて思わないわけではない(グロタンディークもアナキストですからね)。
ドゥルーズを読んでいるような奴は やはり日本語もおかしいな
504 :
考える名無しさん :2010/02/08(月) 23:40:44 0
>>500 グローバル資本主義を志向する傾向にある「自由主義」といっても色々ありますね。
法哲学上、いくつかにその立場が分類されており、例えばマレイ・ロスバードや
ミルトン・フリードマンの息子のデイヴィド・フリードマンなどは中でも極端な
アナルコ・キャピタリズムに位置します。
ノージックなどは最小国家論に、経済学でのオーストリア学派を形成していたフォン・ミーゼスや
ハイエクなどは古典的自由主義に、それぞれ位置づけられようかと思われます。
森村進なんかは古典的自由主義に属し、ノージックほどの最小国家論にまでもいきませんね。
日本で「小さな政府」と叫んでいる方々は、概して古典的自由主義の範疇に属します。
憲法学者ではさしあたり安念潤司あたりでしょうかねえ。法哲学者では井上達夫も若干近いかな。
対して「小泉改革は憲法違反である」との議論を展開する石川健治は真っ向これを否定するわけですが。
サッチャリズムやレーガノミクスと言われる経済的自由主義とナショナリズムを強化する保守主義
(実は、保守主義とは本来、ナショナリズムと対抗ないし緊張関係を持っていたことは江藤淳が指摘
していたということを何かで読んだことがあります。したがって、保守といってファナティックな
ナショナリズムを叫んでいる連中というのは実のところ、彼ら彼女らが保守の重鎮と呼ぶところの
江藤淳自身によっても間違いだとの烙印を押されたピエロということになる)との競合ないし野合も
日本では至極あいまいになっていますよね。愚にもつかない論者としては渡部昇一なんかは、この
経済的自由主義とナショナリズムとの野合的な主張を展開してるみたいですけどねw
ハイエクなんかを持ち出したりして。でも渡部のナショナリスティックな主張とハイエクの自生的秩序とは
全く相容れないんじゃないかと思ったりして。この辺は西山千明やら森嶋通夫らに批判されてましたね。
邪気か無邪気かはわかんないが、なんてw
505 :
考える名無しさん :2010/02/08(月) 23:42:05 0
では、資本主義が国家なくしてありうるのかどうか。 柄谷行人などは資本と国家は共犯関係であって、資本主義は国民国家に 対抗するものではないという。 『トランスクリティーク』も資本及び国家への対抗運動として書かれたものらしいけど、 あのテクストにそれだけの説得力があるかどうか正直あやしい。 それならまだ、中沢新一の『緑の資本論』の方がましのような気もしないではない。
>>499 >リゾームにもファシズムの危険性が孕まれていることは千プラで言われていたからな。
誰か、邦訳「千のプラトー」での該当箇所を指摘してくれれば有り難い。
普通に第一章よめば
あっそ。
でも、
>>499 の文章には、痺れたね。
509 :
考える名無しさん :2010/02/09(火) 00:40:55 0
お前の問題意識の対偶を叫べよ。 ファジスムで良いじゃないか?!
>>506 p.27のように、リゾームの中にも樹木や根が、或いはその逆も、という指摘もあるが、ノマド、器官なき身体、リゾームそのものにも危険がある。
第六のプラトー末尾には、ガン細胞的・ファシズム的な器官なき身体の生じる危険が指摘されている。
p.247で、ガンに冒された身体=ヒトラーのファシズムが、有機体的な全体主義=スターリンに対置されているのも興味深い。
「ヒットラーは、ドイツの幕僚をおさえるよりも、むしろ国民に対する影響力を掌握した」。
p.536ではヴィリリオを援用し、原潜による「いっそう不気味な新しいノマディズム」が語られている。
要はDGは、階層秩序的、樹形的な論理では把握できない現実を見よ!と言い、そこに自由を求めてもいるが、
地下茎的な論理もまた、そこに生命を与える強度が無ければ、よりミクロ・レベルで浸透する死の論理になり得るわけだ。
>>502 その不満は俺も感じるんだけど、千プラはあくまで理論の書、いや、数学や音楽の非意味性を志向した抽象機械ということじゃないのかな、とも。
数学も音楽も、純粋な「差異」を思考・感覚するもの。
チョムスキーを批判する時も、「抽象的だからではなく、充分に抽象的でないから」批判の対象にされているわけで。
以前ここで話題に出た、「経験的なものの模写として超越論的なものを定義する」ことへの批判と似た理屈かも知れない。
p.568に「おのおのの抽象機械は、一つの変化の『プラトー』」と言われているのも、質料的な素材や形態に固定されない極限、強度と微分への純化ということだろう。
511 :
446 :2010/02/09(火) 21:36:18 0
>>468 それは当たり前すぎて、敢えてあげなかったんだよね(^^;
>>501 >「聖なるアナーキー」
「戴冠せるアナーキー」と呼んでほしいね、むしろ(笑)
512 :
446 :2010/02/09(火) 22:04:59 0
>>461 レス遅れてごめんね、ちょっといろいろ立て込んでたもので。
たしかに、初期ドゥルーズに関する記述は淡白な面はあるかもね。
でも宇野さんとしては、『差異と反復』や『アンチ・オイディプス』について解説する部分で、
それについて触れるつもりだったんじゃない?
だから章タイトルが「ある哲学のはじまり」としてるんだと思うし、今ちょっとさらっと読んでみた限りじゃ
ヒュームやスピノザといった名前こそ出してないけど、そういったことは書いてるような気がしたけど。
ただまぁあくまで「ドゥルーズ哲学」の解説書だからね、政治哲学的なものに偏した書き方はしないだろね。
小泉さんは面白いとは思うよ。ランシエールも。
ただもう少し、政治哲学的な厳密性がほしいけどね、小泉さんには。
俺は、前にも少し書いたけど、ドゥルーズをアーレント的なものとの関連性で読み込めないかと思ってる。
アーレントはカントの『判断力批判』(『カント政治哲学の講義』)やドゥンス=スコトゥスを
高く評価してる(『精神の生活』)し、ドゥルーズの提起と極めて近い問題圏にいると思う。
もちろん、両者の差異も踏まえつつ、だけどね。
513 :
考える名無しさん :2010/02/10(水) 00:10:43 0
>>511 >「戴冠せるアナーキー」と呼んでほしいね、むしろ(笑)
これについては既に触れていたんで、ここで「聖なるアナーキー」と形容したのは、
カネッティの『群集と権力』とそこで引用されている「狼たちの時」のへフラーを念頭において表現した
ものですよ。だから<人狼>とも言っているわけで。
>>512 確かに若干触れてはいますね。この点、一応触れていると断りをいれているのですが、
やはり、紙幅の関係上、あるいは講談社メチエの編集方針上、あまり細かく叙述することが
できなかったのかもしれませんね。
ただ、ドゥルーズも言っているように、自身の哲学は政治哲学に貫かれているわけで(もちろん
ここでいう「政治」とは狭義の政治に限定されたものではないでしょうが)、どうしてもここんところが
足りないなあとの感想を抱かざるを得ない。
小泉義之に関しては、彼の批判の射程は政治経済学総体の批判であろうと思われます。
そうすると、おっしゃるとおり、政治哲学として既存の政治学・政治思想史等について
もっと踏み込んだ分析に基づいた批判が欲しいですね。少なくとも稲葉振一郎などに
突っ込まれない程度の分析が必要かと。でも小泉義之が目指す方向は、さすが哲学者というべきか、
根本的に大事なところで、ここを手放して欲しくはないです(『兵士デカルト』と『弔いの哲学』は
稀に見る大傑作だと思いますよ)。
問題提起して若い世代へバトンタッチすることに徹しているのかもしれませんね。
アーレントの方は、まだハイデガーのテクストの読み込みが進まないためにその本質を捉えられずに
います。結構、法学部にはアーレント好きが多いのですが、ハイデガー抜きで果たして理解できるのか
どうか。スコトゥス評価にしたって、ハイデガーのスコトゥス論をちゃんと分析してからかなあ、と(ここはドゥルーズと
関心を共有するところでしょう)。
ランシエールは好きなタイプの哲学者なんですよね。でも、中々進まないw
ドゥルーズのスコトゥス論のネタ本はジルソン
515 :
考える名無しさん :2010/02/10(水) 00:35:23 0
>>510 結局、「潜在性の存在論」をどう思考しきるか、そしてそれによって得られた
結果をどう明晰な表現にもたらすのか、という基本的なことに回帰されなければなら
ないのではないかと思われます。
この点、鈴木泉とかが研究しているようですが、まだ物足りない感じがしますね。
生意気言うようですがw
それにドゥルーズ研究でもいわゆる「若手」が出てきているので(といっても、俺から見たら「おじさん」
じゃないか!ということですがw)、ハードコアの部分をちゃんとやってくれる研究者が出てくるのか
期待してます。てか、本来なら10代、20代がもっと出て行かなければならんわけですけどね。
それはともかく、例えば「潜在性」ということに関して言うと、潜在性に開かれた単独者という存在様態は、
「無限速度」を有するとされる。この「無限速度」とは、極限を指して言われるものではなく、有限領域を設けた
としてもその外部が含みうる現実の様相を意味するわけでしょう。
では、この様相を抽象的・形式的に記述することができるのか、それともできないのか。ここまでくれば、
ドゥルーズがあまり思惟対象にしてこなった記述の問題あるいは観測と記述の問題に逢着するはずです。
存在(あるいは存在の一義性)をそれとして記述することと単独者の「この」性の記述を同時に果たすことがありうるのか、
という問題も当然出てくる。
また『差異と反復』でいう現実性は、現働態としての微分方程式である。こを媒介として理解される空間は、ドゥルーズの趣旨に徹すれば、
連続空間としてあらかじめ想定されていたわけではないはず。にもかかわらず、あたかも連続空間を想定しているかのように見えてしまう(説明の
不十分さに起因しているのか、それとも別の理由からか?)。
現働態としてある変化ないし変異は、「微分・差分」であって、空間は点と世界の接合面であるのみならず、
現働化する以前・以後の時間的変化の縮約をも意味してるはずだから。
さらにもっと突っ込みをいれなければならないところ、それも潜在性の存在論の中でもハードコアな部分について
再考すべきところはかなりあるように思います。
この点、突っ込みだすとドゥルーズの持ち出した道具では到底足りないんじゃないでしょうかねえ。
>>515 何か言いたいなら自分でブログでも立ち上げてそこで書けよ。
自己愛長文何度もうざいよw
517 :
考える名無しさん :2010/02/10(水) 00:49:53 0
>>516 スンマセン。
自称「鏡に映るナルシス」。
ついでに鏡に映る自分を見ながらたま〜にオナニーやってますから(これマジw)。
しばらくのご辛抱を。
別に内容のある長文はかまわないと思うが 常に >研究者が出てくるのか期待してます。 こういう他人まかせの話になるのは ドゥルーズ的じゃないなあと思う
昨今の文庫から入った若きドゥルジアンたちは、 カントもライプニッツも読まないでいきなりドゥルーズを読んでいるから、基本的な議論に ついて行けない。 ドゥルーズはライプニッツの論理学(潜在/可能性の区分を含む)を分析哲学に回収し ないで展開させ、スピノザの哲学をその幾何学(本当は幾何学=表現と言ってもいいく らいなのに)を無視して評価しているから話が余計わかりにくくなる。 本来はカントもドゥルーズも中世普遍論争(個体は普遍たり得るか?)あたりの枠組で 考えた方がわかりやすいし、時間を無駄にしないで済むのに、、、 ガタリとの共作や、ベルグソン論やシネマ1.2ではそうしたドゥルーズの非還元的態度 がプラスに働いているから上記の理由だけでドゥルーズを否定しようとは思わないが。
どうでもいい哲学者が好きなんだね
だからドゥルーズは哲学史家として超一流なんだよ。 (20世紀最大の哲学者はハイデガーでドゥルーズじゃないとしても)
>>515 文中の「逢着」は、「ほうちゃく」と読むみたいだけど、一般的な言葉じゃないだろ。
もう少しだけ、普通に書けよ。(もう、疲れたよ、パトラッシュ。。。)
確かに
>>515 の文章は読み辛いけど、ツッコミ所が難しい内容だからって、「逢着」ごときに突っ込むとは情けない。
524 :
512 :2010/02/10(水) 02:37:58 0
>>513 >カネッティの『群集と権力』とそこで引用されている「狼たちの時」のへフラーを念頭において表現した
>ものですよ
なるほど、それは気づかなかったわ、申し訳ない。『群集と権力』は未読だから。
>スコトゥス評価にしたって、ハイデガーのスコトゥス論をちゃんと分析してからかなあ、と
アーレントは『精神の生活』中の草稿(講義ノート)書いてからまもなくして死んじゃったからね。
でもその点でもドゥルーズと近いところがあると思うね、つまり、ある哲学の萌芽を用意して逝った、
というような…ちょっと詩的な言い回しに過ぎるかもしれないけど(苦笑)
ハイデガーと言えば、ブランショとの関連を考える必要があるね、ドゥルーズの場合は。
『明かしえぬ共同体』か…。
_.. -――- ._ ./ ,―――‐- ._` . /) ./ / / ``\ ///)ィ7T.フ厂 ̄`フi ‐-_ |〉. _人人人人人人人人人人人人人人_ /,.=゙''"/ フl/_×// |ハハl .ト、> 細かいことはいいんだよ!! < / i f ,.r='"-‐'つイ._T_i` .r≦lハ!|`` ^^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^ ̄ / / _,.-‐'~| |'弋..!ノ i'+!l | / ,i ,二ニ⊃l |' ' ' ,‐- ..__゙ー' .!l .| / ノ i l゙フ..,!l .ト、 l `,! .ハ.! ,イ「ト、 ,! ,!|.../_| |l: > .ヽ.. ィ <l l| / iトヾヽ_/ ィ"\. | | \ \ー'/ ./ ,,;:`:;'゙
526 :
考える名無しさん :2010/02/11(木) 00:10:47 0
>>524 アーレントに関しては、全く詳しくないんですが、例えば、通常の法学部における
西洋政治思想史なり政治原論などの講義では、教科書的に「公共性の復権」(もちろん、
ギリシアのポリスが念頭にある)もしくは「公共空間の創出」という文脈で語られ、
ハーバーマスとワンセットで紹介されるのがパターンになってます。
いわゆる「市民的公共性」を言祝ぐ言説としてですね。そこでは、現在で言うならば、
政党であったり、NPOであったりといった存在が、政治を可能にする一定の公的空間を
担う主体として評価されることになるでしょう。
間違っても山賊や海賊、ギャング、あるいは街宣車でがなりたてている右翼団体
(今日の靖国神社は街宣車が終結ですよ、多分)や「極左暴力集団」などは
予め排除されているw
そうしたアーレント的な思考の向かう先とドゥルーズの思考とは、一見相反するように見えるわけです。
もちろんアーレントのテクストを深く読み込んでいないので、いい加減なことは言えませんが。
だから、「ドゥルーズと近いところ」がどこに見出せるのか、もし可能なら随分面白いなと思いました。
527 :
考える名無しさん :2010/02/11(木) 00:25:23 0
>>519 それは一理あるかもしれませんね。
ドゥルーズのライプニッツの読み方は、特に可能世界論など強引に過ぎると思われる
ものがあります。
思い切った読み方をするのも大事ですが、この点では先行研究があるわけで、石黒ひでや
クリプキの可能世界の解釈をめぐる対立点であるとか、論理学でもストローソンや、ちょい
古いですがクーチュラの大部の研究書などの成果を踏まえた立論をしてもらいたいと思われます。
ルイスのみならずアダムズやペリーやバーワイズ、それにストルネイカーなどなど高水準の研究も
あるわけですから。
中世論理学についてはほとんど知らないので何とも・・・。
ただ、僕の拙い知識では、中世の様相理解に可能世界論が入る余地があるのか、ないのか、
よくわからんところがあります。
英米中心ですなw
529 :
考える名無しさん :2010/02/11(木) 00:38:26 0
>>528 ええ、英米中心の人選ですね。
ていうか、可能世界論に関して厳密な研究を積み重ねてきたのは、英米の哲学
であることは認めざるを得ないと思うわけです。事実、見るべき成果を着実に
残してますよね。
ところが、ドゥルーズのライプニッツ論、ことに可能世界についての解釈は、他者と
可能世界という風に絡ませておしまい、というレベルにとどまり、本当にそんな読み方
がライプニッツの論考から可能といえるのかどうか、まともに検討されていないのではない
でしょうか?例えば、石黒の解釈からしてドゥルーズ的な読みが可能であるのかどうか、
おそらくその前提からして相容れないのではなかと思います。
あるいはクリプキの解釈とはどうか、とか。この点、石黒とクリプキは決定的に対立している
わけです。彼女や彼の分析と交通させたとき、ドゥルーズの可能世界解釈がどれほどの射程を持っているのか、
持っていないのか。
でも石黒の本ってメタフィジックに関しては糞だぜ
フレーゲ以後の視点で切り刻んでるだけだし
532 :
524 :2010/02/11(木) 16:12:29 0
>>526 アーレントを一言でまとめんのは非常に難しいんだけども、あえて言うとすれば、
「非全体主義的な民主主義の可能性を考察した思想家」とでも言うかな。
アーレントはナチスとスターリンを同じ「全体主義」として批判するとともに、
アメリカ的な消費社会、大衆社会の批判もしてる。
アーレントとドゥルーズの、マルクスや暴力に対する見方には温度差があるけど、
これはひとつにはアーレントがマルクスの「労働」観を読み違えてることと、
彼女自身、ユダヤ系として第2次大戦中に実際に「暴力」にさらされてたことに
起因してると思う。
けど、そのアーレントも、60年代の公民権運動なんかと関連して「市民的不服従」を
擁護してるし、また彼女の言う「活動的生活」ってのは、
「人間はポリス(政治)的動物である」っていう、アリストテレスの言葉を
前提としたものだから、ドゥルーズとの相性はそれほど悪くないと思うけどね。
あと、アーレントがハーバーマスと決定的に違うのは、西欧伝統的な「教養」を
前提とはしていないところだね。
人間本性としての「理性」を核とした社会改善、つまり「理性中心主義」に、
彼女は懐疑的だよ。
ここは知ったかナルシストの醜体をニヤニヤ観察するスレです。
535 :
532 :2010/02/11(木) 17:24:38 0
>>533 ドゥルーズと「ナルシスト」は一番遠いけどね(笑)
「ナルシス」は「他」を想定しなきゃ成り立たないけど、ドゥルーズはそもそも
「他」というものを想定しないから。
「自/他」という2元論から一番遠い思想家だよ、ドゥルーズは。
536 :
考える名無しさん :2010/02/12(金) 00:43:17 0
>>532 そうですね。一見、ハーバーマスとアーレントとは似ていないわけではない。
それゆえ、例えば法学部の講義等ではワンセット(もちろん全く同じには見なしていませんが)
で紹介されることには全く理由がないということでもないでしょう。
が、やはり両者の相違点を強調すれば当然、その違いが決定的なポイントとして捉え返すことが
できる。
事実、アーレントには類似した概念があるとはいえ、ハーバーマスが想定する生活世界という概念も
ないですし、真理性や正当性、誠実性を公共的討議空間への参加者に対して倫理的態度として要求する
という前提もとらないように思われますね。
ハーバーマスのこうした倫理的態度の要求は、たとえそれが抗事実的なものとしての意味でしかないとしても、
リアルな社会との乖離が著しく、到底それ自体で使い物になるわけではない。
実際、そうしたことがマイノリティを間接的に排除していると指摘されているわけですからね。
もちろん、ハーバーマスはそうした批判を一定程度受け入れ「妥協」という概念をそこに持ち込むわけですが、
公共的討議空間で導かれた結論と「妥協」によって得られた事柄とは当然ステータスを異にしていると考えている。
その限りで、批判をかわしえているか極めて怪しい。
537 :
考える名無しさん :2010/02/12(金) 00:45:50 0
(536のつづき) 変な例ですが、暴力至上主義者みたいな狂気の悪ガキが登場する『テキサス・ナイトランダーズ』というノワールものの小説は、 「罪の意識」などかけらもなく自己の欲望にひたすら突き動かされて平気で殺しまくるわレイプしまくるわで。 その対立者としてリベラルな大学教員の無力が描かれているのですが、これなどハーバーマスの「妥協」の対象にすらはじめから想定されていない。 その少年の友人も影響されて(ニーチェかぶれもどきみたいな奴ですが)、自殺したその凶暴な少年を武勇伝を聞きながら勃起させて いる。あるいは、卑近なことでいうならば、『チャンプロード』や『実話ナックルズ』で出てくる少年院や少年犯罪の体験談だって、 ほとんど自慢話(全部がそうではないですが)として語られる。 荒井悠介の『ギャルとギャル男の文化人類学』で登場するイベサーの何人かは、世間を騒がせた犯罪をした経験のある者で、 それでもイベサーでの活動を通じて大学生活や専門学校の生活などを楽しんでいる。 それが倫理的にどうこういったって仕方がない。 問題は、彼ら彼女らだけに限らず、また直接的にそうした犯罪を犯したわけでもない者でもそれに共鳴したり、憧れたりする 数多の者の存在をも前提にした「妥協」はハーバーマスの眼中にはそもそもないというわけでしょう。 この点、ドゥルーズは市民的公共性を言祝ぐような真似はしませんよね。アーレントとはどうなのかわかりませんが、 少なくとも公共空間を成り立たしめる何らかの”共同性”はないと考えるのではないでしょうか。 そのドゥルーズと、必ずしも「理性中心主義」を採らないとされるアーレントの公共性の復権がどうつながってくるのか、 それこそスリリングなテクストの読みが求められるのかもしれませんね。 労働・仕事・活動のうち上記の彼ら彼女らの行動がどこに位置づけられるのか考えてみるのも面白いかもしれません。
538 :
考える名無しさん :2010/02/12(金) 00:46:09 0
@@@@@@@@ @@@@@@@@@@ / /-===-、 i 理系BOYにはダラダラハゼ〜ってプーチャカピーかな? / \ 、ヽ ヽ こ ノノ 高尚な文系には一部では遙かに分かるんじゃよ? / ` ー-- ' /∵∴∵\ `ー--一'ノ/ヽ ノ7_,,, 、 /∴ (⌒、"⌒ソ⌒ヽ_( 〒 )ノ- 、`、 ( ィ⌒ -'"",う ∵∴ ~''(_)(_)(_)(_)ソ __ ヽノー-,イ^ ∴∵ ヽ/`、_, ィ/ ┌|| 壱 ._|__ヽ∴/ ∵∴/ ∴∵∴/ || || 万// 壱 / )/ ∴∵∴∵∴∵/ || || // 万 / i \∴∵∴∵ ノ ヽ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/ / \__ / \___ ノ /
最近長文が多いな
自己顕示欲が長文を書かせる。→ナルシスト
長文は思考がまとまってない証だよ
自ら、簡潔かつ的確な問題提起をするんならともかく、 「長文ウザイ」みたいな文句をつけるだけの一言コメントってのも、どうかと思うが・・・。
中身スカスカの自己愛長文輩を放置するのはドゥルーズを貶めるものだよ。 吐き気する。
544 :
考える名無しさん :2010/02/13(土) 00:23:43 0
「自己愛長文輩」(そこまで書かれるほど別に恨み買ったわけでもないのに・・・)って 俺のこと?まあそういって怒り狂ってる人もどうせ同様に自己愛の塊なんだからお互い様って ところでしょ。 試験も終わったことだし、好きじゃない行政学も無事乗り切ったことだし、 早速「ご期待」に応えて長文といきましょうかw 「人間はポリス的動物である」とのアリストテレスの言葉に関して一言。 これ、政治学の講義で真っ先に紹介される言葉だけど、その意味するところは、結構深遠。 プラトンの対話編『ポリティア』で登場するトラシュマコスとの対比で考えてみると、例えば アーレントの政治思想の一端を覗き見るためのヒントが得られるのでは、と考えました。 というのも、現代の政治学のメジャーな理論的枠組みを提供したダールやイーストン、あるいはラズウェルら の政治概念の不十分さを指摘することにつながるから。 例えばダールは、「コントロール、影響、権力、権威をかなりの程度含む人間関係の持続的パターン」(『現代政治分析』) とし、イーストンは、「社会に対して行われる諸価値の権威的配分」として特徴づける。いずれも、政治イコール国家機構といった 制度論的枠組みで捉えるのではないものの、政治を権力現象と一体化するという基本的な枠組みを維持している限りで、一致している。 通常は、このような枠組みが政治概念を考えるうえでの基本ラインになっている。 対してアーレントは、政治概念と権力概念との一体化という呪縛から政治概念を解放させる方向に向かう。 そのための作業として提供された人間の活動形態についての「労働・仕事・行為」という区分けが持ち出される。 そして、政治を複数の主体の自由を前提とする高度な公的活動として捉え返し、「諸価値の権威的配分」という一般的な政治概念の把握の仕方に 異を唱える。 トラシュマコス的立場がここではダールやイーストンということになるかもしれない。 他方で、アリストテレス的立場がここでいうアーレントであるという仕方で理解するのが大雑把なながら便利だろう。 ここで法学部というか法解釈学お得意の折衷説を考えてみると面白い。
545 :
考える名無しさん :2010/02/13(土) 00:25:18 0
つまり、政治を権力現象と等値するリアリズム的見解は、そのリアリズムがかえってリアルとまでは言えない独断に過ぎない 可能性を見据えていない点で欠点があると解しつつ、同時に、アーレントのように政治的なるものの真髄を稀有の歴史現象に求める 立場をも極論として退けるという道。「どこにでもある政治」も「どこにもない政治」もいずれの立場をも退けること。 そこから見えてくる政治的意味空間。 若干教科書的整理になりましたが。 ドゥルーズは、トラシュマコス的立場もアリストテレス的立場もとらないんじゃないか、そう思います。 では、上記「折衷説」的な立場で考える仕方と共鳴するものがあるのかないのか。 そこんところは、詰めて考えてみるべきなのかもしれません。
546 :
532 :2010/02/13(土) 04:10:52 0
>>536-537 >>544-545 うん、折衷説、面白いね。
河出の『ドゥルーズ 没後10年、入門のために』の「狂人の二つの体制」についての解説で
國分浩一郎が書いてたことだけども、いわゆる「スカーフ問題」に関するドゥルーズの見解は
それに近いものがあるかもね。
ただアーレントにも、そうした面があると俺は思ってて、それはアーレントが
「パリ・コミューン」的な評議会制度を高く評価していたこと、「全体主義」を遍在するものと
見做していたこと、そして「アメリカ合衆国憲法の精神」を高く評価していたことが
それに当たるんじゃないかと思ってる。
『テキサス・ナイトランダーズ』ってのはタイトルしか聞いたことがないけども、
なんだかラリー・クラークの映画『ケン・パーク』を髣髴とさせるね。
あるいはハーモニー・コリンの『ガンモ』とか。
何というか・・・
>>543 よ、2ちゃんで何が起ころうが、その程度で貶められるようなドゥルーズか?と。批判自体に中身が無い。
ただ、中身スカスカでもいいから、なるべく分かり易くドゥルーズにリンクする方向で書いてほしいんだが
>>544-545 。
アメリカといえば、『批評と臨床』でD.H.ロレンスの『黙示録論』を論じた6章が随分予言的な内容。
8章や10章のアメリカ観と比較すると興味深い。「群島としてある世界の肯定」(p.174)
マッシモ・カッチャーリの『多島海(アーキペラゴ)』の邦訳はいつ出るんだろう。「近刊」と言われてからだいぶ経つけど。
私は長文せんせいたちのやりとりを 面白く伺っているひとりです。 評判わるいけれども、ま、いろんな人が見てにやにやしてるっていうことです
ちなみにドゥルーズの講義には野良猫なんかゲストも 参加していたようですから、 長文書き込みもさることながらゲスなヤジなんかも 当然あったでしょうね。いかにもドゥルーズらしいんでは。
いや、別に長文でもいいんだよ 反論可能性がある話なら
現時点まででいうと、反証可能性ある論述を 長文せんせいたちは行ってきましたね。 2ちゃんにしては、不用意な努力といったらいいかな。 ぜひ続けてもらいたいものですよ。
反証可能性と反論可能性(聞かない言葉だけど)は違うと思うんだ そしてドゥルーズは、哲学における議論に意味はないと言っていたと思うんだ
要するに言いっ放しなわけだ じゃあポエムだね ポエム板でやれよ
ドゥルーズ本人は偉大なポエマー。 ここの長文自己愛輩はただのカマってちゃんカス。
ドゥルーズがメインの長文なら問題ないが、 ここんとこずっと書き込み続けてる馬鹿は、 延々と関係ないおしゃべりを続けてる。 最後に無理矢理ドゥルーズの名前を出してきて、 だからドゥルーズスレに書き込む権利があります、 というつもりなのかね。 まあ、読まなくても眺めるだけで見分けが付くから、 読んでないけどw
基本的に「アーレント」をNGワードにしておくとOKだな。 ここはアーレントスレじゃないからな。
ちがうな。 アーレントをしてドゥルーズを語らしめてる のが長文先生の芸風なんだ。 読者はアーレントとドゥルーズの間に生まれる鬼子を 楽しんだらいいんですよ
NGワードは「法学部」だろw
マルチポスト乙
561 :
考える名無しさん :2010/02/14(日) 01:03:41 0
>>546 紹介いただいた國分功一郎の論文は未読ですわ。
今度、読んでみることにします。
「総合的方法の諸問題」といういい論文を書いてる優秀な人なので、期待してます。
國分功一郎といい千葉雅也といい、凄くいい研究してるんで、論文を読むようにしてるんですが。
この点は色々ブログで書きなぐることにして、「稀有の歴史現象」を「出来事」論から見たらどうなるか、
ちょい考えてみることにします。
ラリー・クラークのものは基本的に好きですよ。
長文自己愛輩(笑) ドゥルーズになったつもりちゃん(笑)
ドゥルーズになったつもりちゃん(笑) て 簡単に言うけど、 ほかならぬドゥルーズこそ、こういうこれこれになった つもりちゃん(笑)で何が悪いんだい(笑)の人ですから。 いうは簡単なれど、実践するには知識と愛がいる。
長文がうざいのは、自分の専攻分野を垂れ流すからだな。
いまだにドゥルーズだのフランス現代思想だの言ってるの 日本の40代以上だけでしょ
>>565 その件については既に反論が出ていただろ。
興味無いんならこんなスレ覗くなよw
>>565 今の若者に受けてるナウい哲学って何よ?
ドゥルーズは面白いけど仏蘭西現代思想はどうでもいいや
569 :
パラレルワールド :2010/02/14(日) 22:43:07 0
今どきの若者:今どき「ナウい」という言葉はあまり使われない。 若者は、あまり物を欲しがらない。消費文化を支えてきた「ナウ」モードは既に崩壊している。 にもかかわらず、今どきの若者は少子化傾向の中で親に大事に育てられてきたので「家畜化」が進んでいる。
ナウいって15年ぶりに聞いた
「なう」はツイッターでよく使われているようだが、平仮名がなんだか気色悪いw それにしても、ドゥルーズなら昨今の映画の3D志向をどう論じただろうか。
Deleuze 今アバター見てる なう 13:21 AM Feb 12th from movatwitter
「アバターなう」じゃないの? 「今」と「なう」の重複とか。 アルトーやベイコン(画家の方)は「直接神経に働きかける」表現を志向していたようだが、その意味では3Dは、 神経に直接「空間」を現出する表現として、ドゥルーズ的に何らかの位置づけをしたかもしれないな、などと勝手に妄想。
×長文がうざいのは、自分の専攻分野を垂れ流すからだな。 ○長文がうざいのは、中身ゼロの自己愛を垂れ流すからだな。
アルトーのヴァン・ゴッホamazonで買おうとしたら品切れになってた・・・ ドゥルーズ読む人はアルトーも好きなの?
>>574 本当に自己愛ならまだまし
わざわざ法がどうのうるさい上、専攻への帰属意識丸出しなのが醜い。
>>575 ちくま学芸の『ヴァン・ゴッホ』は確かに売り切れてるが、
「ヴァン・ゴッホ 社会による自殺者」なら河出の『神の裁きと訣別するため』にも収録されてるよ。
アルト−がニーチェを褒めてるのを見つけて、ニーチェ・フリークとしては嬉しかった。
578 :
546 :2010/02/16(火) 00:13:29 0
>>561 いやまぁ論文というより解題程度のものだけどね。
ラリー・クラーク好きならハーモニー・コリンも見てみたら?
『KIDS』も『ケン・パーク』もハーモニーが脚本書いてるし。
自演ウザイ
volって雑誌にズーラヴィクヴィリのドゥルーズ政治哲学への考察が乗ってるけど読んだ人いる? 結構前に発売した雑誌なんだけど。
>>580 読んだけど、糞訳過ぎて理解不能だった。こんな酷い訳文、久々に出会ったって感じだったぞ。
582 :
546 :2010/02/17(水) 01:10:15 0
>>561 『ドゥルーズ 流動の哲学』をニーチェのところまで読んできて、その内容を『ニーチェと哲学』や
アーレントの政治思想と参照させてみると、やっぱり「公共空間」=「力(強度)の差異」と関連してるように
思えてくるね。
それはJ.S.ミルが『自由論』で、「民主主義 Democracy」の質の問題を考えるために、「言論の自由」に
ついて考えていたこととも密接に関連してるように思える。
そしてこれは逆に言えば言論の弾圧=自由の排除という「全体主義」=「稀有の歴史現象」を
単に時代的な「出来事」ではない、ひとつの「反復」の可能性につなげてるような気がする。
ヒトラーとスターリンはそれぞれひとつの「差異」であり、同時に「反復」でありながら、
厳密には「同じもの(同一性)」ではありえない「差異」なんだ。
俺にはそう思えるな。
583 :
考える名無しさん :2010/02/17(水) 23:57:52 0
>>582 ともかく、アーレントの「公共空間」の内実をじっくり考えていかなければなりませんね。
おそらくドゥルーズは、公共性を言祝ぐ考えには決して賛同しないと思われます。
だから、仮にアーレントの「公共空間」が通常言われる「公共性」の謂いであるとするなら、
ドゥルーズとは方向性が真逆ということになってしまう。
逆に、アーレントの「公共空間」が、いわゆる「公共性」の謂いとは異なる意味を持つものであるなら、
その内実を見ていかねばならない。そう思います。
アーレントの「公共空間」と「善き生」とを結びつける考えに対しては、例えば長谷部恭男などは、立憲主義の
立場から、本来価値中立的(「善き生」とは関わらないという意味で)であるべき公共性のあり方を惑わすものである
として批判しています(かなり矮小化されたアーレント像に基づいているのかもしれませんが)。
この辺りは、ブログなども使って、思いつきを書き散らかしたいと思いますw(顔出ししちゃってるんで
ここでは出せませんが・・・)。
>>583 >おそらくドゥルーズは、公共性を言祝ぐ考えには決して賛同しないと思われます。
ドゥルーズがどこでそんなこと言ってるんだ???
>>584 「公共性」なるものに関して直接言及していたのかどうかは知らんが、
ルイス・ウルフソンが分裂症的に既成の言語を解体したのを論じたり、
ピエール・クラストルによる、国家を逃れる暴力と群れを論じたり、
果ては、器官の束縛に抗するアルトー的身体を称揚したり、
何らかの秩序に収束することを拒む姿勢は一貫しているからな。「公共性」もその例外ではないと思うんだが。
586 :
考える名無しさん :2010/02/19(金) 00:23:47 0
>>584 「条理空間」と「平滑空間」、「国家装置」と「戦争機械」などの諸概念を提供する
『千のプラトー』など読んでいくと、そう思ったわけです(もちろん「公共性」の意味をどう
捉えるかに大きく依存することですが)。
『哲学とは何か』の「ラディカルな経験主義」では、いかなる超越性によっても媒介されない「内在性の
平面の出来事=創造が指摘されており、これは、起源的な<どこにもない>と置き換えられ変容され偽装され
常に再創造される<いま・ここ>として発見される「ユートピア」は、脱領土化の文脈で語られる。
また、カネッティを参照しつつ、masseとmeuteを区別して、前者の論理的基盤として、大きな量、
構成員の分割可能性および一様性、集中状態、総体の社会性、階層性の方向付けの単一性、領土性または
領土化の組織であるとするのに対して、後者の論理的基盤としては、散逸状態、分解不能で可変的な距離、
様々な質的変容、残余または超過としての不等性、固定的な全体化や階層化の不可能性、様々な方向の
ブラウン運動的変動、脱領土化線の数々、諸々の粒子の放射などを挙げています。
587 :
考える名無しさん :2010/02/19(金) 00:25:27 0
さらに、『アンチ・オイディプス』において利潤と欲望を区別した上で、欲望について、一方で権力のアレンジメントに 捉え込まれ利潤と同一化される主体ないし個人を形成するが、他方で、それ自身のアレンジメントによってそこから流れ出る 運動でもある、と。 加えて『差異と反復』において、「定住的配分」に対する「ノマド的配分」は、「麻神の跳躍」であって、 puissanceの観点から思考される「存在論的ヒエラルキー」がある。 それは「諸存在のヒュブリスおよびアナーキー」に近いとしています。 ところで、通常「公共性」と言われる場合、一定の領域に参画する者が価値の多元性という事実を承認した上で、参画者同士が 主体として「自由かつ平等な市民」となって公正に協働するコミットメントのあり方ないしは性質であって、そのようなあり方ないし性質の 妥当性を受容する者ないしは受容しうると認められる者が形成する生活形式が見られる領域が公共空間である、と解されることが多かろうと 思われます。そこではいかなる生を「善き生」であると承認するかには関与しないが、少なくとも「善き生」の追求可能性が承認されうる領域で なければならないとのノルムを共有していなければな成立しない。その意味で、齟齬があるのではないかと思えたわけです。
>>586 、
>>587 ドゥルーズの概念群の羅列と、
ドゥルーズの概念群とは全く無関係の言葉での「公共性」の説明と、
この両者をただ単に前後に併置したからといって、
>おそらくドゥルーズは、公共性を言祝ぐ考えには決して賛同しないと思われます。
という主張の根拠を説明したとでも?
横レス失礼。
ガタリと共作後の、ドゥルーズのイデア論は、
>>588 の前半の批判に耐えうるものだろうか?
>>585 例外ではないと思っても、
その「公共性」とやらが「既成の言語」や「国家」や「器官」とどう絡むのか説明しないと、
何で例外ではないのか分からないよ。
ちなみドゥルーズは「アルトー的身体」を称揚したりしない。
「既成の言語の解体」や「国家を逃れる暴力と群れ」を称揚したりしないのと同じだ。
単純に「称揚」したり「言祝」いだり出来ないものだから。
称揚してるとしたら、アルトー的身体ではなく、アルトーの天才の方だろ。
>>586-
>>587 は、ちょっとお経みたいな字面で読むのが辛いよw
まー、『差異と反復』の最初のほうで「君と私は異なるが、対立し合う者ではない」という「美しき魂」に対して「ヌルいんだよ!」とツッコんでる感じなのは、
「あなたと私は他人同士だけど、何らかのコンセンサスに基づいてやってこうね」的な公共性などクソだと言っているようなもんかもな。
この点で、D.H.ロレンス論での「魂の獲得としての闘争」と相通ずるものがあるね。
『哲学とは何か』などで「コミュニケーション」とか「オピニオン」がクソ扱いされているのを思い出すべきだろう。
何らかの合意に基づいて手を取り合うのではなく、飽く迄も分離と分裂において生きられるコミュニティ。
「民衆とは社会的事象の解体であるとともに、それらの事象を法が囲い込むことのできない至高性[主権性]――
至高性とは、あくまで法の基礎でありながら法を締め出すものである――において社会的事象を再創出しようとする
頑なな執着ともいうべきものでもある」ブランショ『明かしえぬ共同体』
いや、ドゥルーズの思想には心身であれ世界であれ それを肯定し、その肯定をも肯定しきる肯定しかないとすれば、 広い意味で言祝ぐことしかない、 ともいいうる。
「言祝ぐ」という言い回しはほとんどの場合皮肉だろ
>>592 はぁ?
広い意味でとか言い出したら、何でもありで、議論にならねえだろ。
「公共性」でも何でも「言祝ぐ」ことになっちまうじゃねえか。
そう、だからドゥルーズの思想を扱いにくいといって 投げ出す人も多い。それはユダヤ主義をもアンチユダヤ主義をも 肯定しかねない、恐るべき肯定にあるのだから。 それは、「なんでも」肯定するアナーキーなんだ。 こういうドゥルーズの思想の力強さ、恐ろしさ、を把捉した上で なお肯定するのだよ、ドゥルー事案らは。 だからそれは偉大な哲学でありながら、予断を許さぬやばい物で あり続けてる。
596 :
594 :2010/02/19(金) 02:46:07 0
ああ、ろくに読んでない馬鹿を相手にしてしまったOrz
とか言いながら学会とかは否定してるよねw すべてを肯定はしてないよねw
ろくに読んでないのはおまえだろ。 まあいいけどさ。 学会は、ドゥルーズ本人じゃないから、 世俗的勢力の拘束を受ける。だから常識的なところへ収まる。
ドゥルーズの哲学については、 ドゥルーズのテクストにそう書いてある、いやない、 ドゥルーズのテクストはそう読むべきだ、いやそう読むべきではあっても そうは書いてない、といった議論はなお可能だよ。
たまにいるんだよな。
>>595 みたいに勘違いする奴が。
誰が言ってたんだっけ、肯定否定のレベルを混同している、だったか。
だからポエムと哲学は違いますよ ドゥルーズは前者
いや、だからそういう肯定否定のレベルなるものを
ドゥルーズのテクストに設定するのが世俗的権力、学会とか
批評家どもですよ。それはある程度妥当するというか常識のなす技であり、
テクストがすることではない。テクストはたんにあるだけであって、
とにかくドゥルーズという人がニーチェから肯定と肯定の肯定を受け取ったのは
間違いないことであり、肯定を記述しているわけ。
だから
>>595 のように世俗的権力のいう勘違いなるものがなされる余地が
ドゥルーズのテクストには間違いなくある。それはマルクスのテキスト、
レーニンのテクストなどなど歴史的に古典であるテクストにはあるわけ。
だから世俗的権力や批評家がまずはそういうありうべき誤解や勘違いを
払拭するために、あたかもテキスト内部に「肯定否定のレベル」なるものが
あるかのごとき設定を述べて評価を下すのだけど、
これってよくもわるくもあるテクストの時代ごとの常識への回収ですよ。
ポエムの力を哲学なるものに回収することであり、本来的に馴致し得ぬものを
馴致し馴致可能だとみなす振る舞いにほかならない。
じゃあそういう常識的振る舞いは悪いのかというと、ある意味必要なので
しょうがない。
604 :
考える名無しさん :2010/02/19(金) 16:12:17 0
「公共性」ってのは国家システムのアリバイみたいなもんだろ。
その通り。実際、公共性だなんだとアーレントの政治思想を研究している奴って 実は保守的なボンボンばっかり。 そもそもドゥルーズと並置する感覚が全く問題外なんだよ。 そんなことにすら気づけてないわけ。
>>602 は『ツァラトゥストラはかく語りき』を読んでね。
ニーチェの永劫回帰説は「最低のものでさえも肯定する」わけだが、
それに先だってニーチェ=ツァラトゥストラは、矮小な者どもの回帰への吐き気を覚えている。
「これが生だったのか、それならばもう一度!」と言えるのは、むしろこの吐き気、
より高貴な生を求める欲求によって翼を与えられてのこと。
この高貴さへの感覚を欠いた、永井均みたいな論理偏重の解釈者は、
>>595 みたいなことを「ニーチェ哲学の帰結」として恥ずかしげもなく述べたりするけどね。
ドゥルーズのクロソウスキー論なんかで、永劫回帰が「選別の教義」と呼ばれている理由を考えるべき。
より強度=内包量を獲得した分だけ肯定されるんだよ。怠惰なノータリンまで無条件で肯定するんじゃ、「美しき魂」と五十歩百歩。
>>606 については、
ドゥルーズによる「ニーチェと哲学」における
第一の肯定について学び直してもらいたい。
無条件の肯定のなかで肯定が肯定されるので、
いわれるような「怠惰なノータリンまで肯定する」肯定のなかで
おっしゃるような「「選別の教義」としての永劫回帰」として
肯定=破壊=創造の渦に巻き込まれるんですよ。
だから、繰り返すけれども、無条件で怠惰なノータリンまで肯定し
肯定しきる肯定こそがその偉大なる哲学の一つの帰結ですよ。
>>606 について付け加えると、
>「美しき魂」と五十歩百歩。
といわれれるけれど、そう、たかだかそんな哲学なんですよ。
だけれども、そんな哲学すらなかったのが戦後ですから。
ハイデガーの後、誰がいたのか?ドゥルーズしかいなかった。
だけど、たかだかそんな哲学にすぎないしくだらないとも言えるんで、
いわれるとおりではあるんですよ。
>ドゥルーズしかいなかった ww
ノータリンさえもが肯定されるのは、『差異と反復』で言えば「大海の一滴」としてであって、 要は、より包括的な強度の内に折り込まれたものとして肯定されているんだよ。 ノータリンであることが肯定されているのではなく、ノータリンさえも内包する強度が肯定されているんだよ。
まー、ノータリンがノータリンのまま肯定されたがるのも、自然の摂理というやつかもな・・・。
でも、せいぜいのところ大笑いはするけれども 別の哲学者の名前は挙げないのですね。 もちろん、挙げることもできるし、著作名だって挙げられる。 にもかかわらず、挙げないのですね。
>>610 でいいですよ。
結局、どんな言い方をしようが
「ノータリンさえもが肯定される」点が確認されたらそれでかまいませんよ
>>611 でいわれている
「自然の摂理というやつ」に関するドゥルーズによる記述は
どこにあるのでしょうか?
こんなスレで「ノータリンw」と言ってる奴もたいがいだよな まさにルサンチマンじゃないの
616 :
考える名無しさん :2010/02/20(土) 00:02:41 0
>>588 別に説明したなどとは思っていませんよ。言葉足らずであることは認めますけど。
「おそらく」「賛同すること」はないだろう、との見解に対して、「どこでいってるのか」
との応答があったから、テクストの文言から直接導き出せる文言解釈ないしは文理解釈とは違うものの、
その趣旨を斟酌しうるテクストを挙示することで、少なくとも「賛同すること」はしないだろうとの
考えを「おそらく」という断定を避ける表現を使って述べたまでのことです。
何もこれを以って説明ないし論証したなどとは主張していません。
それから、「公共性」ないし「公共空間」について触れるならば、
まず「公共性」のあるいは「公共空間」の概念が多義的であり論者によって
様々な意味で使用されている概念であることを断りつつ、しかし、世上(とりわけ
政治学や政治哲学などで一般的に承認されているだろう)「公共性」概念として
通用していると思われる意味内容を簡略に提示しないことには始まらない。
そこで、さしあたり行論の出発点として「比較」の対象になる概念の提出は不可欠である
と考えました。
「公共性」概念が多義的なるがゆえに、その概要について触れていなければ、今度は逆に
「公共性」概念の意味が何ら断られていないとの批判を招き寄せるだけですしね(笑)。
その上で無関係であるか関係あるかが論定されるべきであって、その逆ではない。
要するに、順番が反対だということです。
617 :
考える名無しさん :2010/02/20(土) 00:04:03 0
上記で触れた「公共性」ないしは「公共空間」の概念に基づくならば、 こうした空間は、一定のコード化がなされた空間でなければ成立しないことは 前に触れておきました。 すなわち「条理空間」あるいは少なくとも「平滑空間」とは言いがたい空間において 成立する空間でしょう。 早い話、「条理空間」とは、コード化された空間で、計測可能で、距離があり、個々人は 自己同一性と名を有する空間であるととりあえず整理できるかもしれません。 こうした「公共空間」の前提は、価値の多元性という事実を受容しつつ、各々の諸権利 ないし諸価値を主張し「善き生」を全うするために、諸価値・諸権利の矛盾・衝突を調整する 実質的公平の原理としての「公共の利益」(日本国憲法ではこれを「公共の福祉」というけれど) の制約に服することが公共空間の参画者相互に承認されている、ということです。 その意味で公共空間に参画するには、共通の「公民」になることが要求されている。 この「公民」たることにおいて、同質的なfraterniteが前提されている、ということなります。 そして、この同質的なfraterniteを持っているとドゥルーズが考えるか否かを思案すれば、 そのようなものを考えていたとはいえないのではないかと申し上げた次第です。 不十分な「説明」かもしれませんがw
618 :
考える名無しさん :2010/02/20(土) 00:06:17 0
君 意味わかって発言してんの?
哲学において討議は不毛であるというドゥルーズのテーゼが実証されるスレですね
620 :
考える名無しさん :2010/02/20(土) 00:08:42 0
みんな天才になりたいだけでしょ
621 :
考える名無しさん :2010/02/20(土) 01:08:06 0
今日語られている「公共性」が果たして、その条理空間的なものだろうかね?
いや、そもそもホッブス問題(つーかパラドックス)のころから、
自由な「市民的主体」が国家の前提としてあらかじめ存在し、
その合意をもって、国家は創設されると「語られて」きたわけだ。
>>617 さんの「公共性」の捉え方は、あなたが望ましいと考えるものと、
否定すべきものだという観点のどちらからも、うまくいくとは思えない。
>>617 ドゥルーズは空間の概念を条理と平滑に(とりあえず)分割してみせたわけだが、
「一般的な」公共(性)空間の概念が空間の全てならば、
その公共空間を条理空間と呼び変えても意味ないでしょう。
わざわざ「公共」などと言わなくても、全ての空間は条理空間である、
と言えば良いだけなので。
では、「一般的な」公共空間と共に空間の概念を分割する別の概念とは何か?
私的空間?
とりあえず「否公共的空間」とでも呼んでおくべきこの空間が、条理空間であったとしたら、
これまた、わざわざ公共空間を条理空間と呼び変えても意味ないでしょう。
結局全ては条理空間なのですから。
ということは、空間の概念を「公共性」と共に分割する別の概念があって、
なおかつそれが条理的とは異なる(つまり平滑的である)ということを「説明」しない限り、
わざわざ「公共性」などを持ち出しても無意味です。
単に空間は条理的か平滑的かと問えば良く、ドゥルーズの概念だけで事足ります。
>>622 の指摘は妥当と思う。
「公共」という言葉は、「場(ないしは情動?)を共有する」という程度の緩やかな意味でも使えるし
(ブランショの「明かしえぬ共同体」とか)、
「合意形成の場」といった、何らかの拘束力のある規律的空間を指す言葉としても使える。
>>617 の「公共性」=「条里空間」というのは、後者の意味で言われているんですよね。
例えば最近、北朝鮮で携帯電話の取り締まりが強化されたという報道があったけど、
携帯で情報を国外に発信していた人たちは、条里化の網をかわす、平滑化された公共空間に接続していたとも言える。
では、グーグルによる書籍のデータ化は、資本による条里化なのか、それとも文字情報を平滑空間へ解放する試みなのか。
電波やネットは、千プラで海や砂漠がそう呼ばれるのと同じような意味で「平滑空間」かも知れない。
だが、中国政府がネット検閲を行ない得るのも、ヴィリリオが原潜について指摘したような平滑性をハッカーが得たからではないか。
そうした意味では
>>590 の批判も理解できるし、アナーキーとファシズムの絡み合いについても考える必要がある。
>>613 の「結局、どんな言い方をしようが」といういい加減さが最初から含まれていたからこそ
ツッコミが入ったんだってことを分かってほしいよ。
ついでに言うと、ニーチェにはノータリンに対しては適当な道徳(奴隷道徳)を与えて、
飼い馴らすべきだという考えがあるから(「反道徳としての道徳」というマキャベリズム)、
ガタリがどこかで「ニーチェには陰謀の匂いがある」と、引用に難色を示したと述べているのも分からなくはない。
リオタールなんかもニーチェを左寄りに解釈しすぎに見えるしなぁ。
よかったね。ノータリンで。
626 :
582 :2010/02/21(日) 14:27:33 0
>>583 >おそらくドゥルーズは、公共性を言祝ぐ考えには決して賛同しないと思われます。
それはそうだろね。
ただアーレントの『人間の条件』や『革命について』での論旨から推し量ると、彼女の言う「公的空間」ってのは多分、
既成の政治空間、たとえば議会とかを称揚するようなものでは決してないと思うよ。
それはアメリカ独立革命やパリ・コミューン的な評議会制を高く評価する彼女の姿勢からも窺える。
ナチスやスターリンの敷くような圧政=全体主義には彼女は断固として反対するし、また私的領域をその討議のテーマとする
近代の政治空間にも彼女は批判的だよ。
彼女が「公共」と言うときのその意味は、いわゆる「公共事業」とかの言葉で使われるときの意味とはまったく逆と考えて
差し支えないと思う。
627 :
考える名無しさん :2010/02/21(日) 18:28:05 0
あげ!!
1ヶ月ぶりにスレに来て、流し読みしてたが、 「天プラ」が秀逸だと思った。 以上。
629 :
考える名無しさん :2010/02/22(月) 07:08:48 O
千のプラトーを三行で要約してくれ
欲望のまま生きろ しかし快楽を目指さない 男は射精してはいけない
ジャガイモのファシズム
千葉雅也の言う「生成変化」がよくわからん パクリを哲学するってことなのか? 中国の遊園地にいるドラえもんやミッキーは「別名への変態」なわけだが
千葉はそろそろスレ立てて欲しい
>>633 指示対象の同一性ってことを言いたいんだろうが、それだけだとよく分からないところもある
むしろホミ・バーバ的な擬態の可能性を誤読可能性として評価したいのかも、知らんけど
某若手ドゥルーズ研究者がブログで書いてたように、 自分も「出来事」という概念がずっと気にかかっていて、折に触れて考えてはいるんだが、 いっこうにもやが晴れてくれない。
ノヴァーリスの「理念的な出来事」の援用ということで概ね良いんじゃないかと俺は思ってる。 この概念を論理学的な議論(対象、意味、可能世界)や「超越論的経験」の概念とリンクさせた、という理解。
「〜概念の再検討」 とか好きだよね 仏独あたりの現代思想研究者w
だから1968年の反権力の挫折という状況が把握されていないと ドゥルーズ受容は無意味になる。 むろん、そうした社会状況だけに還元できないが。
ドゥルーズは直観から理論を作り上げるタイプだと思う。 だから理論だけ見ていると穴だらけのようにも見える。 ドゥルージアンの多くが批評をやるとダメダメなのはたぶんそのせいじゃないか。
ドゥルーズやガタリを語る人はなぜベイトソンにもっと言及しないんだろ。 差異の図表として土地(テリトリー)と区別された「地図」とか、「差異とは関係性であり、時空内に位置づけられない」とか、 差異=観念とか、バリ島人の生活様式の説明での「プラトー」概念とか、DGの元ネタと思しき記述が頻出するんだが。 しかもDGの文章よりはるかに読みやすい。ちょっとだけ専門的な新書程度。千プラの難解さに困ってる人はベイトソンを読んだ方がいいよ。 最近読んだんだけど、中沢さんの『幸福の無数の断片』の「東京のバタイユ化」でSMと唯物論を結びつける手際は実にアルトー/ドゥルーズ的。 俺は今、ボブ・フラナガンのパフォーマンスはドゥルーズ的に見てどうなのか考え中。。。
あからさますぎるからでわ?
645 :
考える名無しさん :2010/02/26(金) 17:35:17 0
水声社3月近刊 ステファヌ・ナドー/信友建志訳 『アンチ・オイディプスの使用マニュアル』 四六判 上製352頁、予価3800円+税 978-4-89176-760-0
『ドゥルーズと創造の哲学』ってどうなの?
648 :
考える名無しさん :2010/02/27(土) 00:05:04 0
>>641 ベイトソンはシステム論的に重要な人だから、DGに限らず、
そういった議論の時には必ず言及されなきゃいけない人だと思うよ。
彼の名前を出すかどうかはともかく、彼の考えたことには
たいていの人は触れてると思う。
>>646 昨日出たばかり?
ジジェクとバディウが絶賛のドゥルーズ本って、売り文句としては最悪だと思うんだがw
この人、哲学者というより作家だよね
>>649 そうだよね。読む前から基本ドゥルーズ貶し本だと宣伝しているようなもの。
でも読むけどね。的確吟味本>的確貶し本>盲目礼賛本>盲目貶し本だから。
ただ、訳者あとがきが凄い。ピーター・ホルワード 、ジジェク派を指して、
「あの連中」が「企んでる」呼ばわり、「悪意に満ちた本」呼ばわり。
何で翻訳したのか、分からない。大人の事情かな。
w
>>651 午前中にそれ買いに本屋に行って来たけど、後書き読んで買うのやめたところだわw
655 :
考える名無しさん :2010/02/27(土) 14:44:49 0
>>654 俺はそれまだ読んでないけど、「貶し本」でも読んで損はないんじゃないの?
「敵がどのように機能してるか」考えるためにも。
買うかどうかは別だろけどね。
>>655 後回しにはなるだろ
まず図書館を待つことにした
日本語になってるドゥルーズ本で一番いいのは実は バディウのだったりするからなあ。 仮に敵の書いた「貶し」が入っている本でも、 ドゥルーズ論としての価値が高ければそれでいい。
それは間違いで、バデュウ本人の哲学が気に入ってるだけだろ 存在と出来事の応用って感じだった
ヘーゲルの哲学史で他の哲学者を学ぶのと似たやばさ。
660 :
考える名無しさん :2010/02/27(土) 17:58:13 0
どうも最近の人の堕落(モンスターペアレントなど)はドゥルーズ一派、学者 たちの公共性軽視が生み出したものと思えてならない。 一応道徳性、公共性、思いやりは大事、人間には。
だったらジジェク系のほうがあやしい
662 :
考える名無しさん :2010/02/27(土) 18:03:14 0
>>660 うわぁ…酷いこじつけだなぁ。
ドゥルーズ的言説がそんなに浸透してりゃこんな世の中になっちゃいませんよw
モンスターペアレントなんてドゥルーズと対極にあるもんでしょうがw
クレームという否定性を行使するんだから。
663 :
考える名無しさん :2010/02/27(土) 18:59:31 0
でも、「公共性」批判とかって、結局、ふつうの道徳はダサイって こと言ってるじゃん。 でも、そういうことばかり言うから、ふつうの公共性さえない 堕落した世界になる・・・
>>660 前にも似たような書き込みがあったけど、一体どこの安直保守ジジイが書き込んでるんだ?
ドゥルーズ一派の中には 宇野邦一みたいな戦後民主主義との折衷型もいて、 バカも言ってるからなぁ
月曜社の近刊 10年3月下旬発売予定:ジャン・ヴァール『具体的なものへ――二十世紀哲学史試論』
667 :
考える名無しさん :2010/02/27(土) 19:40:28 0
ドゥルーズ=ブルジョワ妄想ばかってかんじがする。 所詮ブルジョワ大学教授だ・・・クレソールが指摘するように
668 :
考える名無しさん :2010/02/27(土) 20:01:42 0
>>663 そんなのは別にドゥルーズを出してくるまでもなく、大正期から言われてることでしょうが…
古くは「モボ・モガ」、「アプレゲール」、最近だと堀江とかあの手のIT起業家バッシングとか。
今だとコクボかな、道徳とかいうことでは。
メジャー(道徳)に対するオルタナティヴ(反道徳)なんてのはいつの時代もあるでしょ?
>>665 宇野さんがどこでそんな発言を?
「戦後民主主義」の社会がほんとの意味で自由だったのなんて、
せいぜい戦後5〜6年後ぐらいまでなんだけど…
そっから後は「逆コース」だし。
669 :
考える名無しさん :2010/02/27(土) 20:06:13 0
クレゾール?w
>>666 おお!!これは読みたかった。情報サンクス。
ドゥルーズがホワイトヘッドに興味持ったのはこの本がきっかけなんだったっけ、どうだっけ。
ヴァールは他の本で、サルトルの「嘔吐」を論じながらホワイトヘッドを引用したりしていて、面白いし、読み易くもあった。楽しみ。
月曜社といえば、カッチャーリの「多島海」待ってるんだけどな。
ホワイトヘッドは歯が立たないけど、ヴァールは何とかなりそうかな。どうだろ。
講談社選書メチエの『ホワイトヘッドの哲学』は、逆に歯応えが無さすぎるくらいに分かりやすいよ。 『襞』の引用もある。
673 :
考える名無しさん :2010/03/04(木) 22:03:16 0
アンオイ草稿あげ
デリダのドゥルーズ追悼文のなかで、二人の対談本を出そうと話していた、とあるけど、 これがなされなかったことは本当に残念。
675 :
考える名無しさん :2010/03/07(日) 10:22:10 0
宇野みたいな文学的読解は駆逐されたね。 ああいうのは、学者少ないころに通用するにすぎない感想文だね。 80年代の宇野の文章なんて、今に比べたら作文だね。
676 :
考える名無しさん :2010/03/07(日) 14:38:29 0
>>675 フランス文学崩れのドゥルーズ論者は総崩れかね?
宇野みたいな読み方が正しいんだよ なぜならドゥルーズは文学だから
678 :
考える名無しさん :2010/03/07(日) 19:30:44 O
ドゥルーズなんて哲学でもなんでもない
679 :
考える名無しさん :2010/03/07(日) 19:55:17 0
ただのナンセンス
680 :
考える名無しさん :2010/03/07(日) 20:33:09 0
>>677 なんだもかんでも「文学」にするのが
フランス系の悪い癖だね。
681 :
考える名無しさん :2010/03/07(日) 20:41:42 0
>>678-679 ドゥルーズの思想(試み)が、ナンセンスなら、哲学自体がナンセンスだろう?
じゃあ聞くが ドゥルーズが哲学的問題の何にどういう回答をしているというのだ?
‥…「私と同じようにやれ」と言う者からは、何も学ぶことはない。わたしたちに とっての唯一の教師は、わたしたちに対して「私と共にやりなさい」と言う‥… (『差異と反復』単行本p.49より)
別に文学でいいじゃない。
条件を条件付けられるものから規定するカントの哲学は不純だ
>>683
君のせいですっかりこのスレしずかになってしまったではないか。 まあいいけど。
688 :
考える名無しさん :2010/03/10(水) 21:54:51 0
>>677 文学、というか、人間の活動全般が、常に政治的なものをはらんでる限り、
ドゥルーズの哲学が「文学」であることを否定する要素はないよ。
アリストテレスは「人間は政治的動物である」と書いてる。
あらゆる活動が政治に関わってるんだよ。
それこそ、ドゥルーズとガタリが「ミクロ政治学」と名づけたものでもある。
ドゥルーズは、勿論ガタリとの共闘の影響もあるだろうが、 通常の統辞法を逸脱するような言表に注目している。 つまり、文法-論理の秩序をはみ出す欲望・情動の流れ。 既存の秩序からは狂気・無意味として排除される声を何とか聞こうとする試み、 それがドゥルーズにとっての「批評(クリティック)と臨床(クリニック)」なわけで、 文学的であることがそのまま政治的かつ哲学的でもあるということだ。
それって、言葉遊びが現実を変える力があるって子供っぽい妄想してるのと何がちがうの?
691 :
考える名無しさん :2010/03/11(木) 08:36:16 0
>>689 なんか現実離れしているねえ
統辞法を逸脱する言表ってさあ、力んでるけど
統辞法ひとつ満足知らない椰子に言われてもねえ
どっちでもいいけど、統辞法ってなんなのか教えてよ。
検索もできないブラウザ使ってるのか?
検索もできねー馬鹿だから、聞いてんだろ。 お前答えられないんだろ?
検索もできねー馬鹿なら ドゥルーズ読む意味ないと思うよw
やっぱ答えられないんだね。 自分では何もできないくせに人を馬鹿にするのはやめたほうがいいと思うよ。
697 :
688 :2010/03/11(木) 10:42:51 0
>>690 言葉に限らず、「遊び」が現実に新たな局面を齎してくることは結構普遍的にあるんだよ。
企業の新商品企画とか考えればわかると思うけど、例えばiモードは一種の「遊び」、
極めて単純な思い付きから生まれてるけど、それがここまで生活の中に普及して
ライフスタイルの変化を齎してる。
次元は違うけど、政治や文学にだってそういうことは言えて、実際歴史を見てみれば、
古代からの連綿と続くそうした(統治)技術の変化が歴史の変化を齎してる。
そのことは否定しようがない事実じゃない?
>>691 統辞法について、君が「満足に説明できる」と思ってるんなら、
思い上がりも甚だしいと思うよ。
チョムスキーなんかのような一流の言語学者でも、満足には説明しきれないから、
新しい言語理論ってのが生まれてくるんでしょ。
語用論、意味論、音韻論すべてにおいて、「言語」というものを完璧に説明できる
言語理論なんてのはまだないし、今後もたぶん、生まれる可能性はないよ。
われわれ人類はただ、一定の蓋然性にのみ頼って話をしてるだけで、
それが崩れないという保障はどこにもない。
698 :
考える名無しさん :2010/03/11(木) 12:20:31 0
>>692 文法のことだよ
日本語なら国文法、英語なら英文法とか言っているやつ
699 :
考える名無しさん :2010/03/11(木) 12:21:38 0
>>697 >チョムスキーなんかのような一流の言語学者でも、満足には説明しきれないから、
>新しい言語理論ってのが生まれてくるんでしょ。
チョム公を真に受けている時点でお前、馬鹿確定だなww
700 :
697 :2010/03/11(木) 13:12:09 0
>>699 別にチョムスキーじゃなくたって、ソシュールでもいいしブルームフィールドでもいい。
チョムスキーは言語学者の一例としてあげただけでね。
そういう固有名詞に過剰に反応してる時点で、君が「統辞法」を「満足」に
説明できる頭の持ち主じゃないことはよくわかったから、もういいよ、無理しなくても。
おれもこれ以上アホ相手にしてる時間はないし。
>>690 「現実を変える」云々以前に、「理性的」な言語秩序の外の「現実」もあるんだぞ、とドゥルーズは言いたかったんじゃないかと。
「きみたちの『現実』というやつを、きみはいったいどう処理するつもりなんだい?
卑屈なリアリズムなのさ、きみたちの現実は」(「口さがない批評家への手紙」)というわけで。
既存の言語秩序をそのままア・プリオリな理性として考えるのは、
>>686 の
>条件を条件付けられるものから規定するカントの哲学は不純だ
>>683 に言われているような種類の「不純」であると。
ドゥルーズ的な「現実」を踏まえた上で、何か変えられるものがあるかどうか考えようってのが、
DGの思考実験なんだろう。マルクスがプロレタリア的「現実」を踏まえた上での思考を要請したように。
マルクス以上にDGは、欲望する身体というもんを前面に押し出した唯物論であろうとしたんじゃないかと。
これまでの言語学が言語の「完璧に説明」できないから、今後もできないだろう だとか >われわれ人類はただ、一定の蓋然性にのみ頼って話をしてるだけで、 なんてつまらない不可知論は、ドゥルーズの理論とは何の関係もないね 単なるバカな文系の科学技術嫌いでしかない
703 :
考える名無しさん :2010/03/11(木) 22:26:08 0
>>われわれ人類はただ、一定の蓋然性にのみ頼って話をしてるだけで、 >なんてつまらない不可知論は、ドゥルーズの理論とは何の関係もないね > >単なるバカな文系の科学技術嫌いでしかない ドゥルーズとヒュームの関係知らないのかな? あとゲーデルの不完全性定理と? あれを論理学に応用すればどうなるか、わかるよね?
あくまでも自然数論を含む限定されたケースについてのゲーデルの成果を 比喩的に理論一般や自然科学全体に広げるホフスタッター・柄谷かぶれのバカが いまだにいたことに驚きです
「……(ゲーデルの)この定理は、数学だけに関係したものではなく…… 厳密で徹底的な記述をもったすべての体系についてのものなのです。」 ノイマン(『ゲーデルの世界』海鳴社60頁より)
706 :
考える名無しさん :2010/03/11(木) 23:35:32 0
>>700 >おれもこれ以上アホ相手にしてる時間はないし。
アホはお前だろ。
ばーか
707 :
考える名無しさん :2010/03/12(金) 00:03:22 0
>>704 おれが言うまでもなく
>>705 がノイマンを引いて的確に指摘してくれたようだね。
手間が省けたよ。
>>706 言うに事欠いてそれか(苦笑)
もっとスマートな言い方がないもんかねぇ…やれやれ。
そんなに批判したいなら、まずきちんと君の言語観を明らかにしてみて
くれないかな?
その妥当性如何によって、君を相手にするかどうか決めてあげるから。
今のとこ、君は君個人のストレスの捌け口を、こうした匿名の空間で
他人を罵倒することによって見出してるだけの、極めて幼稚な防衛機制を
行ってるだけにしか見えないけど(まぁそれが真実だろうけど)。
ドゥルーズ=ガタリ的に言えば、オイディプス三角に絡めとられた
悲しき欲望機械といったとこかな。
フォン・ノイマンの言葉は、授賞式での賛辞だったということを除くにしても、 ヒルベルトのプログラムが前提にあっての話なので、単純に一般化して受け取るべきでもないし ましてや、その講演が何かを証明しているとして受け取るようなものではないですよ。 ゲーデルの証明はゲーデル以降の発展もあるにせよ 今のところ「証明」されているのは「自然数論を含む帰納的に記述可能な公理系」についてのものであり また、ある公理系の無矛盾性が、その公理系で証明できないからと言って、 その公理系が「蓋然的」(どういう意味で使っているのかはっきりしませんが)であるというようなものでもありません。 どうせ全部蓋然的というような、イイカゲンな不可知論とは何の関係もない話です。
大陸哲学に厳密性なんかもとめるなよ 自然科学やれってこった
DGって観ると、(ましてD&Gってみるとなおさら) ドルチェ&ガッバーナを連想してしまうw はい、すいませんw ここに書き込むの初めてなもんで。 >701さん 『意味の論理学』の下巻の最初の方(永遠回帰再論)のとこで したがって、問題は、いかにして個体が、個体の形態を越えて、 また、一つの世界との統辞論的結合を越えて、 出来事の普遍的交流へ、言い換えるなら、論理学的矛盾の彼方 においてだけではなく、非論理的共立不可能性の彼方においても、 分離の総合の肯定へ到達できるのかを知るということになる。 って書いてあって、正確な意味は残念ながら僕にはわかんないですが この「分離の総合の肯定」 ってなんなんですかね・・宙にバラバラの器官が浮かんでるイメージを するんですが。なかなかむずかしいです
分離の総合の肯定とは、口語でいうと 二束わらじを履いてる状態および境遇の肯定。
>>711 それだと分離の「総合」にならなくね?
「個体の形態を越えて」ってところが意味なくならね?
各自バラバラな読解でいいんじゃない? ドゥルーズの意図に忠実になろうとするより自分がどう感じたかを大切にする方が良い読書と言えるし
書物は、予め用意された意味が入った箱ではなく、読者各自の興味に応じて意味が生産される機械だ、 みたいなことはドゥルーズ当人も言ってるけど、その彼も「口さがない批評家」には抗議文めいたものを返してるわけだし、 読者側から偏狭な、或いは歪んだ解釈によって「意味」を与えられるのは拒絶するんじゃないのかなー。分からんが。 「分離的総合」は、セリー24で提示された三つの総合の内、「或いは」という接続詞で表現されている総合。 ボルヘスの「八岐の園」みたいに、現実には両立不可能な「或いは」も、 「丸い四角」「谷の無い山」「猫が不在の猫笑い」みたいに、理屈からして矛盾しているものも肯定される、 つまりこれも「先験的なものを経験的なものの模写として考えない」ことの帰結というわけだよね。 では、肯定されているものは何かと言うと、「差異=強度」、 非物理的で形而上的な表面の効果としての「意味」「観念的な出来事」。 永劫回帰は、あり得たこと、起こり得ること、全ての肯定なわけで、 個体としての俺らを構成する差異そのものが肯定されるのであり、 個体としての俺らの同一性が肯定されるわけではない、だから永劫回帰は「選別の教義」と呼ばれるわけだ。 この「個体」を「物の状態」に置き換えてもいい。そうして「観念的な出来事」の普遍的な交流の方こそが肯定される。 『記号と事件』のインタビューでも、「私は出来事の概念について書くことに時を費やしてきましたが、それは私が事物の存在を信じていないからです」と。
自分はこう読んだ、ってとこまではどう言おうと個人の勝手だけど、 批評家が、哲学プロパーがこう読んだから自分も、とかあなたもそう読みなさいっていうのは意味がないと思うよ。
自分の読み方はドゥルーズの思想を理解してからだね
読み捨て感覚でかまわないってところで話が落ち着いたこともあったんだけどね 綿密な理解をすることが読書の快楽ならそうすれば良いんだし
718 :
考える名無しさん :2010/03/12(金) 18:34:11 0
>>708 言語体系あるいは統辞法はその「帰納的に記述可能な公理系」ではない、と?
だとすれば「統辞法」を「満足に説明できる」とするような
>>699 の論旨は
原理的なところからしておかしいよね?
(日本語では)主語+修飾語+述語といったような公理系があるからこそ、文章や
会話といったものが成り立つわけでしょうが。
レヴィ=ストロース以降の構造主義、ポスト構造主義は、ソシュール以降の言語学と
ブルバキ的な数学を結びつけて論じていて、それは例えばソーカルや分析哲学も
いまだ批判し得てはいない。
それを論破できるとでも言うなら、ぜひこの場でやってもらいたいもんだね。
蓋然性にしても、「自然数」っていう概念自体がまず蓋然的なものなわけだし。
「1」や「2」といった数は、われわれ人間が恣意的に、習慣として
そう規定付けてるわけでしょ?
>>709 ドゥルーズの哲学の根底にはイギリス経験論の完成者ヒュームの哲学が
深く関わってる。
そもそも最初のまとまった著作が『経験論と主体性』というヒューム論だ。
そんな基本的なことも知らんのか?
719 :
考える名無しさん :2010/03/12(金) 18:41:51 0
>>717 概念や本は使うもんだろ。
ドゥルーズ自身がそう言ってる。
ドゥルーズ哲学の曲解、誤用も、それが本当にドゥルーズの哲学かどうかはともかく、
言論行為としては否定すべきじゃない。
だからこそドゥルーズ哲学は諸刃の剣であり、単純な「自由」、無責任な「自由」というものを
拒むんだ。
言い換えれば再帰的なんだよ、ドゥルーズにとってはあらゆる思想が、ね。
ドゥルーズの狙いはそこにある。
「単純な「自由」、無責任な「自由」というものを 拒む」ものはあんたの価値観や偏見であって、 概念や書物、ましてやドゥルーズの狙いなぞではないでしょう。 ドゥルーズの狙いなんてものがすでにあんたの偏見じゃないか。
721 :
考える名無しさん :2010/03/12(金) 19:22:05 0
だからそういう反論が可能だからこそ「再帰的」と書いたんだよ。
個々人の感想がそっくり同じじゃないからと言って批判しあうこともないんじゃないかと思うけど。
723 :
考える名無しさん :2010/03/12(金) 19:24:12 0
いいかえればあらゆる見方が「偏見」なんだ
そもそも
>>719 にある、「だからこそドゥルーズ哲学は」
「単純な「自由」、無責任な「自由」というものを
拒む」ってのは、
何がいいたかったわけ?
「だからこそドゥルーズ哲学は」何を制限したいの?
725 :
考える名無しさん :2010/03/12(金) 19:36:38 0
>>724 一言で言えば、ドゥルーズ哲学の仕組みのこと。
ドゥルーズ哲学がどういう仕組みで機能しているか。
ドゥルーズ自身はそれを、「機械」の「連結」と表現してる。
ドゥルーズの哲学機械と、読者の解釈機械の連結だね。
さんきゅ。じゃあ質問を変えるわ。
そもそも
>>719 にある、「だからこそドゥルーズ哲学は」
「単純な「自由」、無責任な「自由」というものを
拒む」って主張は、
ドゥルーズの著作のどの部分、どの箇所を根拠に述べているの?
727 :
考える名無しさん :2010/03/12(金) 19:58:55 0
>>726 部分や箇所というより、ドゥルーズ哲学の総体がつまりそれを表してる。
スピノザの哲学とも、そういう意味で似ている。
さんきゅ。じゃあ質問を変えるわ。
そもそも
>>719 にある、「だからこそドゥルーズ哲学は」
「単純な「自由」、無責任な「自由」というものを
拒む」って主張における
「単純な「自由」、無責任な「自由」というもの」とは
具体的に言うとどんなものを想定してるわけ?
「適当に言ってみただけです」って言ってるやつをそこまで追及する必要はないだろ(笑)
730 :
考える名無しさん :2010/03/12(金) 20:12:04 0
>>728 責任なき自由、というかな。
給食費払わないモンスターペアレント、みたいな。
ただそれはドゥルーズがそう言ってるってよりは、ドゥルーズの哲学自体が
そういう構造=仕組みになってるんじゃないかってことね。
「適当に言ってみただけです」って言ってないじゃん。 仮に、 「適当に言ってみただけです」って言ってたとしても、 別に追及してもいいと思うんだ。 それでそいつがものすごくなったら、お互い、いいじゃん。
「だからこそドゥルーズ哲学は」「給食費払わないモンスターペアレント」を
「拒む」?
そもそも、「給食費払わないモンスターペアレント」という具体的想定が
>>719 の主張にどう関係する?
あるいは、
そもそも、「給食費払わないモンスターペアレント」という具体的想定が
>>719 の主張、とくに、「ドゥルーズ哲学の曲解、誤用」にどう関係する?
問題になっているのは、
「ドゥルーズ哲学の曲解、誤用」の肯定、の中身でしょう。
すべてを肯定するのか、それとも、ちがうのか。
ちがうとすれば、何が試金石として働き、何が「正しい」肯定の指標に
なりうるのか。またそうした主張の根拠になるテクスト箇所はあるのかどうか。
私には十分、
>>719 の主張は排外的であり、受け付けないのです。
横レスですが、 何でも自分の思ったとおりに書いてあったことにすればいいというんなら、 議論するまでもなく、本を読むまでもないのでね、いくらなんでも哲学以前でしょう ただ、ドゥルーズが他人の本を読む時は、優れた読解もある一方で強引な我田引水が鼻につくのも確かで、 そこらへんが彼の弱点かもとは思いますけど
なんでもかんでも「と俺は思う」って付けないといけないのも 窮屈だとは思うよ。言ってる人の意見なのは言うまでもないわけで。 ドゥルーズの我田引水も「と俺は俺理論に繋げて解釈している」 という語尾を省略している程度のことでしょ。
>>718 ヒュームがなんだって?
だれが英哲学が厳密だって言った
意味不明なレスすんな
永遠回帰の話題だったのに。。。
「分離的総合」の「分離的」の意味はわかったけど「総合」の意味がわかんない
認識がなりたつことか
741 :
考える名無しさん :2010/03/12(金) 21:42:13 0
「にぶや貴志」とかっていう気分だけの 文章を書き散らしていたアホは業界から駆逐されたの? 宇野だのにぶやだのあんなのよく読んでたと思う。 学生のレポートレベルだったな、あの時代は。
742 :
考える名無しさん :2010/03/12(金) 21:51:44 0
>>732 モンスターペアレント自体は別に
>>719 の主張と直接の関係は持たないよ。
「責任なき自由」ってことの喩えとして出したまでだから。
>>719 の文章の中でむしろこれと直接の関係を持つのは
>ドゥルーズ哲学の曲解、誤用
っつー部分だね。
同じ文中で「再帰的」と書いてることもよく考えてもらいたいんだけども、
これは言い換えれば「自己言及的」とも言える。
あらゆる思想、言説、言表は、発せられた瞬間に、すでにそれを発した主体自身について
言及してる。
それは一種の自己(主体自身)に関する言表でしょ?
ここでおれが書いたことにも、いろんな賛否両論が寄せられて、おれはそれを引き受けなければいけない。
一種の「応答義務」とでも呼べるものも、そこに生じてくる。
この応答の仕方に「議論」と「対話」のふたつがあって、ドゥルーズは後者を好んだ。
それだけのことだと思うけどね。
743 :
考える名無しさん :2010/03/12(金) 21:59:44 0
>>737 近代以降の自然科学がイギリス経験論をその理論的基礎に置いてるのを知らない人なんだね(笑)
「意味不明」なのは君が知識=教養ないからでしょ。
それも基礎的な。
>>741 自分の読解能力の無さを著者のせいにして逃げたがる40男。
君は会社でも自分の失敗を上司や同僚のせいにしてるんだろね(笑)
だから出世もできないし給料もあがらないんだよ。
>>739 したがって問題は」いかにして個体が」個体の形態を越えて、
また、一つの世界との統辞論的結合を越えて、
出来事の普遍的交流へ」言い換えるなら」論理学的矛盾の彼方
においてだけではなく」非論理的共立不可能性の彼方においても」
分離の総合の肯定へ到達できるのか」を知る」ということになる。
【読み解き】
問題は、Aを知ることである。
Aとは、いかにして固体がBに到達できるのか、である。
Bとは、出来事の普遍的交流=分離の総合の肯定、である。
Bの条件は、個体の形態を超えること。一つの世界との統辞論的結合を越えること。
論理学的矛盾の彼方にあること。非論理的共立不可能性の彼方にあること、である。
【補助線】出来事は、生成変化と同義である。
分離の総合は、離接的総合と同義である。
離接的総合とは、相互に異質な強度としての個体が、異質なままで共立し、しかも「全体的=総合的」には、一個の強度的個体として在ることである。
【理解の一例】重要な問題は、個体としての人間が、いかにして「自身の形態としての個体性」「人称(統辞論)」「論理学的矛盾」「論理的ではない共立不可能性の観念」などの障碍を越えて、
唯一(普遍的)なる生成変化の肯定、個体の強度的本質の肯定、唯一なる強度的個体の部分であることの肯定にたどり着けるか、を探究することである。
>>743 教養が無いのはお前
イギリス経験論はニュートンまでだ
アインシュタイン以降は哲学とはなんの関係もない
【理解の一例2】 重要な問題は、いかにして個体としての人間が、「自身の形態」「人称」 「矛盾」「共立は無いという誤謬」から脱して、非−人称的で強度的な 生成変化を肯定できるようになるか、である。個体の本質は強度量であり、 従って、個体は分割のされ方を変える度にその質あるいは本質を変える。 しかし、「全体」としてのこの世界は、1個の個体であり、各個体は相互に 異質なままで、その「全体=器官なき身体=スピノザ的実体=永劫回帰」に内包される。
>>742 の内容って、
ドゥルーズの著作でいうと
どの著作の邦訳のどこを参考にしてるわけ?
「責任なき自由」にせよ、「応答義務」にせよ
「再帰的」にせよ、「自己言及的」にせよ。
どーせ長文なら、典拠を示しつつ主張を展開してもらいたい。
748 :
考える名無しさん :2010/03/12(金) 23:30:45 0
>>745 現代物理学、特に量子力学なんてヒュームそのものじゃん。
「神はサイコロを振る」んだよ。
749 :
考える名無しさん :2010/03/12(金) 23:55:51 0
>>747 「したがって最善の社会とは、(中略)ただ行動に関してのみ規範への遵守をもとめるような、
そんな社会だろう。」(『スピノザ 実践の哲学』)
ドゥルーズが明確にそのことに言及してる箇所は確かに少ない。
けど、ドゥルーズの言表には常にそうした感覚が付き纏ってるよ。
>>719 でいうことが
>>742 などの説明を経過した上で
「ドゥルーズの哲学」は「単純な「自由」、無責任な「自由」というものを
拒む」として、その典拠が
>>749 における最善の社会像などに
みられるというけれど、あるいは、
「けど、ドゥルーズの言表には常にそうした感覚が付き纏ってる」というけれども、
どうだろうか。私にはまったくそうは思えないし、むしろ逆だね。
ドゥルーズの哲学はまったき無責任なる自由をこそ解放する、とすら
いいたいね。
http://www.mars.dti.ne.jp/~kells/Essay/spp.htmlから 転載したい。
■思惟の力能と社会
思惟の力能は、一国家や一社会の目的を超え、あらゆる環境の枠を越えている。
最善の社会とは、思惟の力能に服従の義務を負わせず、それを国家の規範に
従わせることを差し控えて、ただ行動に関してのみ規範への遵守を求めるような、
そんな社会だろう。
スピノザは、自身の目的(思惟の力能)と一国家や環境が目的としているもの
とを混同しなかった。思惟のうちに、あやまちはもちろん、
服従そのものからものがれてしまうような力を求め、善悪のかなたにある、
賞罰、功罪とは無縁のまったく無垢な生のイメージをかかげていた。
いいかえると、
>>719 の主張はあるいは
「ただ行動に関してのみ規範への遵守を求める」社会についてのものとして
ドゥルーズ哲学にふさわしいかもしれないけれど、では、
思惟とその力能に関してはどうだろうか。ふさわしいだろうか。
私はふさわしくないと思う。
しかしそもそも思惟それ自体と行動それ自体とがいかにして区別されるのか、
実はよく分からない。
問題は、「ドゥルーズの哲学」は「単純な「自由」、無責任な「自由」というものを
拒む」と
>>719 述べるときに、その「拒む」とされる対象とその限定、
思惟それ自体や行動それ自体といったなんらかの限定可能な対象があるとしてだ、
そのような対象は何か、です。
ドゥルーズと東が同じ言語で論争したら一瞬で東に葬り去られるんだろうな ドゥルーズはその程度
ドゥルーズにはガタリと組んだよこしまなジャーナリストであるドゥルーズA(経験論者) と、生粋のフランス人哲学者であるドゥルーズB(合理主義者)がいると考えた方がわかり やすい。 また、イギリス経験論はフレーゲが発見し活用した「ヒュームの原理」(事物の一対一 対応を基礎にした数学原理)を見ても明らかなように、厳密さを欠いているという わけではない。
非実在青少年ってドゥルーズ的virtualiteと関係ある?
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● ●●●●●●●●●●●●●●●●異世界●●●●●●●●●●●●●●●●● ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● これを見た人は確実に【異世界】になります。どこかに3回コピペすれば実現できます。 これは本当です。やらないと一年無駄になります。 ドゥルーズのアバター∞インフィニティー。
昨日だったかな、 分離的総合について質問したものです。 詳しい説明ありがとうございました。非常に勉強になります^^ おかげで、なんとなくイメージができたと思います。。 「君は僕と友達でもありえた」し、 あるいは 「君は僕と敵でもありえた」みたいなそういう理解で ちょっと進めてみます(すごい雑ですがw)。
しかし、ほんとに毎日ちょっとづつしか読み進められないw おもしろいのはすごいおもしろいんですけどw
>>739 正直、俺にもよく分からんがw、カントの「総合判断/分析判断」の線で考えれば、
主語となる概念そのものに内包されている述語を取り出す「分析判断」のように概念の限定性・同一性を前提とはせず、
結合的総合(「もし〜ならば〜だ」)や接合的総合(「〜そして〜」)のように、セリーを収束させもしない、
「〜或いは〜」であらゆる述語に開かれている総合が「分離的総合」ということじゃないかな。
世界を分析すれば「強度」、総合すれば「永劫回帰」という感じなのかな。
『意味の論理学』っていろんな分野から用語を取り入れてるから ドゥルーズがそれらをこねくり回してるのはわかるとしても もとの意味がどんなだったかわかんないと正確なところは難しいよね。
元の文献も読めばけっこうわかる
私は表層と深層の二元論を放棄した、と後でドゥルーズは言ってるけれど 話を少し整理すると、 ここではとりあえず、表層=言葉の上では共立可能で、深層=統辞論的には共立不可能ということではないかな カバン語やパラドックスがその例で、 たとえば、「湯気怒った」では、分離(共立不可能性)は湯気と怒ったことの間にあるのではなく、 湯気立って怒るか、それとも怒って湯気立つかの違いにある、と 湯気立って怒ると怒って湯気立つとの間に、個体としての違いがある で、問題は、「いかにして個体が、個体の形態を越えて、また、一つの世界との統辞論的結合を越えて、 出来事の普遍的交流へ、言いかえるなら、論理学的矛盾の彼方においてだけではなく、 非論理的共立不可能性の彼方においても、分離の総合の肯定へ到達できるのかを知るということになる。」 うーん、どういうことなんですか、これ?
なにUtellかわからへん
>>762 「U」ではなく、ドゥルちんが書いてんだ
ドゥルーズなんて解説書2冊ぐらい読んでおけば良いじゃない
おそろしく難解なミステリーをみんなで解いてるような 気がしてきたw もっともそこにQEDは決してやってこないだろうけど。
いきなりドゥルーズを読んでもわからないと思うので小泉義之『ドゥルーズの哲学』を読みたいんですが 入門書としていいですか?
そんなに…
>>761 俺は『意味の論理学』と格闘していた頃からかなり経ってるから、全体的な内容を正確に憶えている自信が無いんだが…、
「湯気立って怒るか、それとも怒って湯気立つかの違い」みたいな、時間的な前/後や、能動/受動の違いは、
「猫が不在の猫笑い」みたいな表現が為される言語的表層ではナンセンスとユーモアに於いて無化されており、
逆に、モノの混淆としての深層は、能動受動の作用しかない、と。その意味では「深層=統辞論」てのは…。
統語論的な秩序は、深層の混淆から浮上した表層の出来事を、表層のナンセンスから捕獲して、
有限的で現実的な人間的言語に取り込む為のシステムなんじゃないのかな。
で、「表層と深層の二元論を放棄した」理由は、表層で捉えられた差異としての出来事と、
深層(『差異と反復』では深さ=強度的空間(スパティウム)と呼ばれる)での、他のあらゆる強度との混淆として捉えられた差異、
この二つは結局「差異」を違う角度から捉えただけで、何か表層/深層の区別が実在するかのように論じる必要は無いと感じたからでは。
「襞」の概念は、まさに表面がそのまま褶曲して凹という深さを作ることで、表層/深層を同時に論じることを可能にした。
『襞』では、光と暗さの度合いとして、「存在の一義性」にまとめられている。
小泉と檜垣は後回しのほうがいい
>>768 おっと、そーだね、統辞論=深層ってのは単純すぎだったね
ところで、いきなり『襞』へ行く前に「分離の総合」についてなんだけど
いや、『襞』でもいいんだけど。。。なんかない?解説書で言ってるようなアプローチじゃないヤツ?
>>766 悪くはないと思う。
中身の正しさ云々よりも、そもそもなぜドゥルーズを読むのか、
そのモチベーションが大事だという当たり前といえば当たり前の
ことを実感させられる。
773 :
考える名無しさん :2010/03/18(木) 19:06:52 0
>>750-751 >しかしそもそも思惟それ自体と行動それ自体とがいかにして区別されるのか、
>実はよく分からない。
いや、そういう区別を成り立たせるものはおそらく、ないでしょ。
同じ『スピノザ 実践の哲学』のなかで、ドゥルーズはニーチェを引きながら
道徳(法)的善悪とエチカ(生態の倫理)的「いい/わるい」について論じてて、
ドゥルーズは(というかドゥルーズが称揚するスピノザは)後者に軍配を上げてる。
同じ犯罪でも、三億円事件は時としてポジティヴに捉えられることもあるのに、
地下鉄サリン事件なんかは全面的にネガティヴに捉えられる。
そういう感覚を、ドゥルーズは常に持ってたと思うよ。
>>773 >道徳(法)的善悪とエチカ(生態の倫理)的「いい/わるい」について論じてて、
ドゥルーズは(というかドゥルーズが称揚するスピノザは)後者に軍配を上げてる。
はいいとして、それが
思惟それ自体と行動それ自体との区別「を成り立たせるものはおそらく、ない」
の根拠になる?
ドゥルーズはニーチェを引きながらエチカ(生態の倫理)的「いい/わるい」に
軍配をあげてる、三億円事件と地下鉄サリン事件なんかの扱いの違いに
ついて、この道徳とエチカの区別は説明を与える、
ってのはいいとして、
いまなお、そもそも思惟それ自体と行動それ自体との区別の問題、
何が思惟であり何が行動であるかという問題は残ったままなんだ。
少なくともこの区別を揚棄する根拠はまだ示されてはいない。
>>773 で、
>そういう感覚を、ドゥルーズは常に持ってたと思うよ。
これがあなたの持論なのだが、
私はこの持論のよってたつ典拠をいまだに提示されてないのだが。
776 :
考える名無しさん :2010/03/18(木) 21:39:52 0
>>774-775 人のものを勝手に拝借するようで恐縮なんだけど、その根拠は俺よりも
>>768 さんが
的確に書いてるように思う。
思惟(認識)と行動ってのは、一般には対立物として捉えられるかもしれないけど、
「襞」っていう概念そのものが、これを明確に否定してる。
俺は残念ながら手元に『襞』がないから、引用できないんだけど。
つか基本的にドゥルーズの単行本は高いから、文庫か『スピノザ』みたいな新書?しか
買ってないんだ。
借りてざっとは読んだけどね、理解してるかどうかはともかく。
>>776 では、あなたの持論上、思惟それ自体と行動それ自体は区別不可能である、
「対立物」ではない、としましょう。
さらに、すでにいわれたことを確認しておきます。
>>773 >いや、そういう区別を成り立たせるものはおそらく、ないでしょ。
その上で、
>>750 で転載したドゥルーズの記述を読み直してみます。
最善の社会とは、思惟の力能に服従の義務を負わせず、それを国家の規範に
従わせることを差し控えて、ただ行動に関してのみ規範への遵守を求めるような、
そんな社会だろう。
この転載部分の「思惟」と「行動」とが区別不可能であるというわけですから、
最善の社会とは、思惟/行動の力能に服従の義務を負わせず、それを国家の規範に
従わせることを差し控えて、ただ行動/思惟に関してのみ規範への遵守を求めるような、
そんな社会だろう。
となるわけですね。では、これがはたしてドゥルーズの言い分だったのでしょうか?
この文章ははたして意味をなすのでしょうか。
ちなみに、私自身はあなたとのこれまでのやりとりがとても退屈です。
778 :
考える名無しさん :2010/03/18(木) 22:58:02 0
>>777 >最善の社会とは、思惟の力能に服従の義務を負わせず、それを国家の規範に
>従わせることを差し控えて、ただ行動に関してのみ規範への遵守を求めるような、
>そんな社会だろう。
悪いけどこれ、『スピノザ 実践の哲学』の文章を、意図的にか編集してるものだから。
『スピノザ 実践の哲学』にはこう書かれてる。
「したがって最善の社会とは、思惟の力能に服従の義務を負わせず、それを国家の規範に
従わせることは社会自身の利益のために差し控えて、ただ行動に関してのみ
規範への遵守をもとめるような、そんな社会だろう。」(『スピノザ 実践の哲学』p.13)
2行目「社会自身の利益のため」というのが抜けてるわけだけど、これがあるかないかで
意味は随分違ってくる。
つまりドゥルーズは、「社会自身の利益のため」にならない場合に限って、
「思惟/行動の力能」に「国家の規範に従わせることを」容認してるわけで、一般に知られてる
ドゥルーズ像=無際限なアナキストとは違う、ドゥルーズのある種保守的な面が
よく表れてる部分だと思う。
ちなみにドゥルーズはこれに続けてこう書いてる。
「思惟の自由が保たれ、その活力が失われないかぎり危険はなにもないが、それが奪われるような
ことになれば、他のどんな抑圧が起きてももはや不思議ではないし、またすでにそれは現実のものと
なってもいよう。どんな行動をとってもいまや有罪とされるおそれがあり、全生活が脅威に
さらされるからである。この哲学者(引用者注;スピノザのこと)が、民主主義の国家や自由主義的な
環境のうちに最も好ましい生存条件を見いだしていたことはまちがいない。だがどんな場合にも、
彼は自身の目的と一国家や環境が目的としているものとを混同しなかった。」
と書いてる。
779 :
778 :2010/03/18(木) 23:04:59 0
>>778-779 わるいけど、退屈だな。なんといっても従来と変わる事なき都合のいい解釈だしね。
できのわるい後出しじゃんけん大会。
>2行目「社会自身の利益のため」というのが抜けてるわけだけど、これがあるかないかで
意味は随分違ってくる。
つまりドゥルーズは、「社会自身の利益のため」にならない場合に限って、
「思惟/行動の力能」に「国家の規範に従わせることを」容認してるわけで、
ここはあなた自身による強引な解釈に留まっています。
なぜなら、そんなこと、引用部分では記載がないのですから。いいですか。
<ドゥルーズは、「社会自身の利益のため」にならない場合に限」り>
<「思惟/行動の力能」に「国家の規範に従わせることを」容認>する、などとは
記されていないのです。
この引用部分の冒頭は「したがって最善の社会とは」ですね。
スピノザ的な意味での最善な社会について述べた箇所であるわけです。
スピノザ委的な意味で非「最善な社会」については一言も述べていないのです。
ですから、おっしゃるような
>2行目「社会自身の利益のため」というのが抜けてるわけだけど、これがあるかないかで
>意味は随分違ってくる。
ことは起こりえないのです。それはあなたの錯覚や誤読であり、そもそも
最善の社会を論じた箇所である以上、あってもなくても同じことだからです。
なお、あなたの持論にいう、
「ドゥルーズは、「社会自身の利益のため」にならない場合に限って、
「思惟/行動の力能」に「国家の規範に従わせることを」容認してる」かどうかは
引用部分からは帰結をみませんね。論じられていませんから。
>>778-779 ちなみに、せっかく引用してくれた箇所、
「この哲学者(引用者注;スピノザのこと)が、民主主義の国家や自由主義的な
環境のうちに最も好ましい生存条件を見いだしていたことはまちがいない。だがどんな場合にも、
彼は自身の目的と一国家や環境が目的としているものとを混同しなかった。」
これをみると、スピノザは「民主主義の国家や自由主義的な環境」では
どちらかといえば満足せずにあくまで己の目的とする状態や環境を求めたらしいし
またそのような方向をドゥルーズ自身も支持しているかもしれないね。
とするなら、そのような方向がはたして、おっしゃる意味で
「一般に知られてるドゥルーズ像=無際限なアナキストとは違う、
ドゥルーズのある種保守的な面」を帰結し強化するかどうか、問題だね。
782 :
考える名無しさん :2010/03/19(金) 01:31:31 0
>>780-781 「言表は目に見えるものでなく、しかも隠されてはいない。」
これはフーコーが『地の考古学』で書いてるもので、ドゥルーズが『フーコー』で引用してるものでもある。
書かれていないことが、すなわち論じられてないってことにはならないってことだね。
>>781 に関して言えば、
>>778 の引用箇所に続く部分を引けばこうなる。
「彼は思惟のうちに、あやまちはもちろん服従そのものからものがれてしまうような力をもとめ、善悪のかなたにある、
賞罰・功罪とは無縁のまったく無垢な生のイメージをかかげていたからである。その暮らす国家、出入りする環境は
さまざまに異なっても、哲学者は、いわば隠者として、影として、漂泊者として、家具付き下宿の間借り人として、
そこに生きているにすぎない。だから、スピノザがユダヤ的な<閉鎖的>環境に訣別して、キリスト教リベラル、デカルト主義、
デ・ウィット兄弟支持の新興ブルジョアジー……等々の自由主義的な開放的環境にはいっていったなどという考え方は
捨てなければならないのだ。どこに行こうと、彼はただおのれ自身とその尋常ならざる目的とが寛大に許容されることを
もとめ、公算はともあれ、ただひたすらそれを要求したにすぎないからである。その寛容さの度合いによって彼は、
ある社会がどれほど民主主義に堪え、真理に堪えうるかを、あるいは逆にどれほどの危険がひとびとすべてを脅かしているかを、
判断したのだった。」(『スピノザ 実践の哲学』p.13-14)
ここで書かれてることはつまり、「思惟/行動の力能」の「自由」を求める「哲学者」は常に、どんな体制においても、「隠者」であり、
「影」であり、「漂泊者」であり、「家具付き下宿の間借り人」だってこと。
言い換えれば「完璧な体制」というものはないんだから、「哲学者」はその中で強度の度合いを測ること、それこそが社会の中で
生きる最善の方法であり、民主主義、自由主義社会こそ、それを可能にする最善の社会なんだってことだね。
これでもまだ強引な解釈だと言える?「退屈だ」って言える?
783 :
考える名無しさん :2010/03/19(金) 01:34:15 0
>>782 訂正
>これはフーコーが『地の考古学』で書いてるもので
→ これはフーコーが『知の考古学』で書いてるもので
フーコーとドゥルーズよりデリダとドゥルーズのほうが近かったんじゃないかと最近よく思う。
785 :
考える名無しさん :2010/03/19(金) 01:47:33 0
どういう点で?
なんか自演に見えてきた。
>>782 長文ごくろーさん。まずいいたいことがある。
>これでもまだ強引な解釈だと言える?「退屈だ」って言える?
あのねー、ある哲学史、ある思想史理解において、いちち、
おれの反応気にすることなんか、ない。もう全然ないの。
理解において大事なことは、これ以上明瞭な論拠はないだろう、
こんなものを示されたら誰だってこの命題を支持するほかないだろ、っていう
明白で明瞭な根拠(典拠)を元に、すなわち隠された解釈のうちにではなく
テクスト文字列をもとでに、論理明晰に解明すること、何かまだ知られぬ
対象ではなく何故か未だ誰も主張せぬ対象を白日の下にさらす、その試みです。
そう思うので、あなたの論述にはどこまでも興味がないのです。
まあ、でもつきあっていうなら、
>ここで書かれてることはつまり、「思惟/行動の力能」の「自由」を求める「哲学者」は常に、どんな体制においても、「隠者」であり、
>「影」であり、「漂泊者」であり、「家具付き下宿の間借り人」だってこと。
あなたの持論におけるカギ括弧つきの概念が具体的には何に当たるのか、
また具体的には何に当たり何を排除してくるのか、結局はよくわからないわけ、おれには。
同様に、以前のところ、
>>しかしそもそも思惟それ自体と行動それ自体とがいかにして区別されるのか、
>>実はよく分からない。
>いや、そういう区別を成り立たせるものはおそらく、ないでしょ。
ここでもまた思惟それ自体と行動それ自体の区別を認めていず、あるいは
そうした区別に関する具体的な肉付けにかんする議論をせずにいるので、
何が何だかわからないわけ。
あなたが引用した箇所についてあなたが理解しているものを、
おれは知らないし興味もない。ただ、あなたがこれこれがドゥルーズの意図だと
いう限りで、おれはそのような意図の所在、典拠としてはどこになるの?
と尋ねてきたまでだね。
ただ、あなたがこれこれがドゥルーズの意図だと いう限りで、おれはそのような意図の所在、典拠としてはどこになるの? と尋ねてきたまでだね。 だけど、あなたは明瞭で単純なテクストを提示する どころか、まるで宝探しのように、潜れども潜れども見つかるのは ここをみよ!なる地図ばかりで、次から次へと新たな宝探しが開始されるだけ。 宝は先送りされ、永遠に手にできないようになってるわけだ。 だからおれとしては最終的には「あんたのゲームからは降りてるよ」というだけ。 ただまあつきあいだから、つきあってるっていう。
しらんがなー
どうでもいいことだね
>>776 で引かれている
>>768 ですが・・・
ここまでの議論、一応ROMってたんだけど、何だか錯綜してきたので、ちゃんと追いきれてないかもw
「思惟」という語にどこまでの意味合いが込められているのかとか・・・。
『襞』p.122では、家で仕事をするかキャバレーに行くかという躊躇いを例にとり、いずれの選択肢も、別個の「対象」というよりは、
可能な知覚(居酒屋の匂いや音、ページをめくる音や静寂etc.)を伴う方向づけ、「持続の一定の瞬間に魂全体を表現する行為」である、と。
『経験論と主体性』の末尾には「哲学は我々が行なうことに関する理論であるべきであり、存在するものに関する理論であるべきではない」とあるし、
第五章の末尾には、「理論的(観想的)主体は存在しないし存在し得ない」「実践的主体の他の主体は存在しない」とも書かれてある。
ただ、『襞』の例にしても、ドゥルーズがキャバレーに行くのと、誰か別の人が行くのとは違うし、ドゥルーズが翌日に行ったとしたら、行動としては大差なくとも、
その瞬間における「魂全体の表現」としての意味は違ってくるだろう。
「襞」の概念そのものにしても、魂/身体・物質の区別はあるし、この二つがまた、現勢化/潜在的、実在化/可能的、に分かたれる。
勿論、襞の折り込みと折り開きという点では一元論化されているけれど、上記の区別は区別として、決して無視されてはならないはず。
『内在:ひとつの生……』では、ディケンズの小説から、瀕死の卑劣漢の中に、彼を救おうとする人々の同情と優しさが侵入してくる場面が例にとられている。
男が息を吹き返すと、人々はまた離れてしまい、男も元の嫌われ者に戻ってしまう。ここでは、潜在的なものの流れと現実化との差異が、感傷的に描かれていると言える。
自分で書いてて何だか分かんなくなってきたがw、内在面とか潜在的なるものの領域を「思惟」と呼ぶなら、「行動」との区別は為されるべきだろう。
それにしても、『実践の哲学』からの引用にある「社会自身の利益のため」の「社会」って、 体制としての社会や国家というより、共同的存在としての人間、の意味合いが強い気がするのは俺だけか? 確か『本能と制度』で、専制的な体制は、行動への禁止としての法を多くし、 逆に民主制は、法を少なく、行動の肯定としての制度を多くする、とか書かれてあった。 また『キリストからブルジョワジーへ』では、ブルジョワの内的生活が、自分の居住空間での内部的生活とつなげられていて、 ニーチェ的、ノマド的な「家具付き下宿の間借り人」との対照性を感じたな。 この短い論文(21歳だかで書いたらしい)の末尾には、ルソーの『社会契約論』の「一般意志」には「神」のあらゆる特性が含まれている、と。 ブルジョワ的民主制ではない、「分離的総合」としての民主制をいかに実践するか、が、ドゥルーズの当初からの問いだったわけだ。
795 :
考える名無しさん :2010/03/20(土) 18:48:01 0
日本では、学問(サイエンス)というのは、欧米世界で評判を取った一流学者たちの仕事を、国内に紹介するというか、 泥棒というか、勝手に代理店を開くというか、華々しく輸入するというか、そういうことに過ぎない。これは今でもそうだ。 (中略) アメリカでは「この本を私は、翻訳して出版しました」というのは、絶対に学問業績にならないのだそうだ。履歴書の作品 欄に、書いてはないらない。「絶対に書くな」と何人かのアメリカ人の友人に、私は忠告された。「いや、そう言っても、 この本を訳すのは大変だったのだ。日本では、翻訳するだけでも大変な業績になる。翻訳書が1冊あるだけで、学者だ。と 威張ってるのがたくさんいる」と私が、反論しても、絶対に聞き入れてくれない「恥ずかしいことだから、 止めろ」としつこく言われた。翻訳は研究業績にはならないのだ。「それはインフォマート(現地人の情報提供者)の仕事で あって、学者の仕事とは、認められないのだ」と、強く言われた。 副島隆彦「属国日本論を超えて」P36〜40
796 :
考える名無しさん :2010/03/20(土) 18:48:47 0
日本では「政治思想」なるものはいつも断片的にバラバラに、前後の脈略なしに、適当に外側(欧米世界)から 翻訳文として押し寄せ、流れ込む。しかも、世界の知識人たちが理解している全体構図とは関係なしに自分勝手な 理解を国内に広める。そしてやがて棄て去り、次の新しいものにまた飛びつく。 「世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち」(副島隆彦 著 講談社)
補足。仕事をするかキャバレーか、と「思惟」することは既に魂における「現勢化」であり、 内在面とか潜在的なるものの領域が既に折り開かれていると言える。 で、「ただ行動に関してのみ規範への遵守をもとめる」ことでも、間接的に規範の影響が思惟に及ぶか、 ということが問われているのだとしたら、それは「規範への遵守」が超越的な道徳として要請されているならば、ということになるかと。 「思惟の力能」に服従を求めず、寛容の度合い、民主主義、真理にどれほど社会が耐え得るか、を、思惟の力能の側からドゥルーズは問うている。 ということは、ドゥルーズに「保守的」な面が仮にあるとしても、それはスピノザの禁欲について言っているように、それ自体が目的ではない。
論理哲学を排除したドゥルーズ本人にも原因があるのだが、潜在性と可能性の区別がついていないから混乱する。 潜在性は実念論的(本質的)概念で、可能性は唯名論的(実存的)概念。 ドゥルーズは判例研究を奨励したり、経験論者を発掘したり、サルトル(「実存は本質に先立つ」)を復権させたり、 唯名論における様相をフィールドにしているから誤解されるが、実は実念論者(本質論者)だ。 彼は例えば、イデアのような本質が深層で、実存(というより実在)が表層だ、というような二元論をとらないが (ここはデリダと同じ)、それでも、潜在性(=本質)は可能性のレベルで差異として表れるのだ。 ソレルのいう暴力と権力の違いと言ってもいいかも知れない(戦争機械などは前者になる)。 スコトゥスと一緒で個別性の限界に本質が表れると言えばさらにわかりやすいかも知れない???。 この点でドゥルーズがハイデッガーのような(閉じた)存在論に陥るのを回避しているのはさすがとしか言いようがない。
なにゆーてるかわからへん
800 :
考える名無しさん :2010/03/21(日) 20:23:18 0
私は、日本知識人として、己を失うまい、と心に決めている。己の立っているこの貧困なる知識の土俵が、 どんなに、東アジアの一種族としての劣悪なるものであるとしても、それは構わない、と腹を据えてきた。 しかし、嘘はつくまい、と念じきた。 この土俵と劣等な知識環境の中にあっても、知ったかぶりの高踏知識遊戯―即ち、やたらと気まじめぶった 学者の論文のこと。この知識環境で友人たちさえ読んでくれないような難解な文章を書くこと―はすまい、 決めてきた。日本の文科系の大学講師たちのほとんどは、アホである。 彼らの知識は外国に持ち出して、全く通用しない。言語の壁を横に置いたとしても。この書き方を、私は これからもやめない。どんなに嫌われようが、煙たがられようが、やめない。 副島隆彦「日本の秘密」P43
801 :
考える名無しさん :2010/03/21(日) 20:24:00 0
(副島隆彦の学問道場「今日のぼやき」[2000.3.6]より引用) 宮台真司(みやだいしんじ)君や、その他のまだ、ポストモダンを 言っている人たちがいるようですが、残念ながら、 もう世界規模では捨てられた思想です。今の 37歳ぐらいから上の人間が、感染している病気です。 東なんとか君の本など、どうせ何をいいたいのか、なにを、かいているのか、わけがわかりませんから、ご心配なく。 はじめから、この人たちは「読者にわけが分かるようには」書きません。 「 大正デモクラシー」のころの(ロシア・ボルシェビキ革命の世界的、影響です)からの「新カント学派」の影響で、 とにかく訳(わけ)が分からないように書く。読者より自分の方が頭がよいように思わせるように書く。 これが、この手の人たちの本性です。愚劣きわまりない伝統であり、日本知識人の劣勢遺伝子のかたまりです。 室町・鎌倉期の五山(ござん)の僧侶たちも、こうだったのでしょう。 かれらは、仏教の坊主(僧)だったのに、 何と朱子学(南宋学、儒学)の本をよんで、分かった振りをしていた、おもしろい人たちでした。 これと、今のおフランス思想かぶれの残党たちは、よく似ています。 じつは、フランスでも一番頭のいいのは、ドゴール主義者(ゴーリスト)の政治知識人たちです。ゴーリストたちは、 フーコーらのような、人文(じんぶん)主義の衒学(げんがく)趣味ではなく、本気で「どうやったら自分たちは アメリカの支配から脱出できるのか」を国家戦略研究所に集まって、研究しつづけているのです。 日本人のような、東アジアのモンゴリアン・インディアンには、フーコーぐらいが、文化輸出するのに、丁度いい、と、 考えていたのです。フーコー自身が、来日したとき、「ク、ク、ク」とわらいながら、そういうことを、吐いています。 (引用おわり)
802 :
考える名無しさん :2010/03/21(日) 20:25:14 0
訳の分からない気取りで、わざと難解そうな文章を書く人は、どうせみんなから捨てられる。 このことは、肝に銘じておいたほうがよい。自分の仲間うちからも捨てられる。 日本の知識 業界は、長く1920年代からの、昭和初期の新カント学派と呼ばれる、「ドイツ哲学の学者達」の 悪弊に始まって、やたらと難解な文章を書くことが、偉い事だとだという巨大な思い違いをしている。 この病気は今でもなかなか治らない。本当は自分の頭が良く無いだけのくせに、そのことが周りに バレたくないばっかりに、やたらと、袖象語と、ドイツ式観念語 (本当は禅用語を無理やり当てはめただけ。観念とか本質とか根本とか意識とか。約500語) を使いたがる。 読んでいる方はいやになる。 だから、最後には捨てる。 私は、そういう、本来学者になるべきではないのに、学者になっている人たちの、どうしようもない 下手くそで、難解なだけの論文を、30代のこと付き合いでたくさん読んだから、 このことが、よく分かる。エリート銀行員か、官僚にでもなれば良かったのに。 こんなに自分に向かないことで苦しんで、しかも、こんな下手な誰も説得できないような文章を、 苦しみながら書いてると、あとあと大変だろうな。どうせ誰も読んで分かることは無いのだから。 50歳ぐらいで自分に絶望するのではないか、と、ひそかに、同情した学者の卵たちを私は たくさん見かけた。 当たり前のことを、はっきりと書くことができない。 やたらとこねくり回して、それが 「するどい批評になっていなければいけない」と、勝手に思い込む。 副島隆彦「属国日本論を超えて」P35〜36
803 :
考える名無しさん :2010/03/21(日) 20:25:54 0
今日のぼやき「722」
http://www.snsi-j.jp/boyakif/wd200601.html#1101 副島隆彦の言うことは信じられない、などど逃げ回ることができなくしてやろうと思います。すくなくとも
私たちのまわり(周囲)にまとわりついて、私たちから知識、情報の泥棒をしに来ている薄汚い連中の脳に、
大きな真実のばい菌(ウイルス、virus ヴァイラス)を注入してやろうと思います。発病まで何年かかかる
でしょうが、それでも、私たちが見舞う真実爆弾は、「現実はこのままであり、受け入れるしか仕方がない
ものだ論者」どもの脳を侵蝕してゆくでしょう。ざまあみろ、ということです。
(中略)
過去150年間の、日本の政治知識人たちの、能力の低劣と、思わせぶりの嘘八百理解と、意味不明文をあり
がたがって、それで、「自分は、これでも、日本では政治知識人だ」と思いこめた、土人のまじない師たちの
哀れな姿の問題を、何とか、継承して、表に出して、そして、「少しでも克服する」ではなくて、本当に、
大幅前進させなければならない。これは、私の決意だ。私の人生に遺された重要な、コトバ研究の分野の仕事だ。
(中略)
急いで、弟子たちに、『政治思想の本の真実読み破りと、なめらか訳の技術の伝授』をやってしまいたい。
そうすれば、以後は、私の弟子たちが、すぐれた翻訳をやって、むずかしいがしかし定評のある外国書を
日本人知識層が、嘘つきではなく、知ったかぶりではなく、いいかっこしいではない、西欧の最先端思想
を自分だけ知っている、分かっている風の、だましの思想の嘘輸入がなくなる。これを、なんとしても、
はやく実現しなければ、いけない。
804 :
考える名無しさん :2010/03/21(日) 20:42:05 0
[569] 以下の一連の投稿文に、私の考えを書きます。 投稿者:副島隆彦 投稿日:2007/05/31(Thu) 05:30:06 私たちは、「研究者」などで食べて、生きているのではありません。そういう気取りが、今後、 どれぐらい、学問道場を、重苦しくするか、と思いまして、こういう、日本国での学問の やりかたの基本の点は、決して、大きく間違わないように、私が、徹底的に今のうちから、 目を光らせようとおもいます。 大事なことは、日々、読書して、そして、それが楽しくて、発見があって、「ああ、そうだったのか」 「なるほどなあ」と、驚く喜びに満ちていることです。それ以外の学問は邪道だ。自分たちだけ 偉いお坊様だと気取って、哀れなことに信じ込んだ、天台密教のクソ坊主たち、新カント学を 名乗って、アホダラ経の、自分たちにも意味不明のことを書き続けた、東大のクソ学者たちの やったことだ。 私たちは、あの悲惨な轍(てつ)は、絶対に踏まない。
805 :
考える名無しさん :2010/03/22(月) 20:12:24 0
>>797 >>776 です。勝手に引用しちゃって申し訳ない(謝)
>ドゥルーズに「保守的」な面が仮にあるとしても、それはスピノザの禁欲について言っているように、それ自体が目的ではない。
自分もそのことを、逆の形で言いたかったのです。
禁欲⇔快楽っていう一般的な対義語に従って言えば、ドゥルーズの言説は快楽的な言説(モンスターペアレントのような)を
予め排除してしまってる。
「快楽」に対するドゥルーズの否定的態度は改めて書くまでもないと思いますが、「ドゥルーズこそ放恣な自由を奨励してる」という、
ある種の言説に対する自分の違和感を、一連のレスでは言いたかったのです。
でもそれは あんたの持論とその限界であり、ドゥルーズの持論とその限界、ではない。 ドゥルーズは自由、放縦なる自由を肯定し、その肯定の肯定も肯定する。 肯定の肯定の結果のなかに破壊的なもの、壊滅的なものがあれば それがドゥルーズ的な否定、ドゥルーズの肯定する否定の中身。 否定は、肯定の後、肯定とその肯定の後にだけ、生まれる。 肯定の制限、肯定対象の規定とその範囲としての否定、 肯定対象の選別としての否定は、ドゥルーズにはない。 すべては肯定され、もしその結果すべてが灰に帰すなら、それが、 そしてそれだけが否定。 麻薬の使用に服用制限とその定めがあればそれで十分ではないし 全くの禁止というものもなく、ただ麻薬は麻薬それ自身しか反復しないことが 問題だと述べている。 革命も肯定されている。革命しなければならない、たとえ裏切りがあるにせよ、と。 ドゥルーズはその限り、モンスターペアレントのようなものを予め排除するどころが そういった予期や予期せぬ諸々を内包する対象をすべて肯定し その結果を排除することなく肯定し肯定しきる。悲惨さをも肯定しきる。 「哲学は攻撃的である」「哲学の役割は人を悲しませることだ」という喜劇的笑いとともに。
むずかしうてついていけへんで
では、ドゥルーズ自身はそういった肯定を生きたか? 生きてない。ドゥルーズ自身はたんにブルジョア家庭を生きただけ。 ブルジョア道徳をよく守り頑固に振る舞ったに過ぎない。保守的な常識家にすぎぬ。 しかし、彼の哲学はそういう彼の社会的振る舞いを超出するものだった。 それは、「うそつきだ」と怒るべきなのか、それとも「哲学の天才だった」と笑うべきなのか、 それはまあ、両方ともにその通りだろう。
むずかしいものなんかない。 ドゥルーズはなんでも笑って受け入れる器であるような哲学を書いてしまった。 なんでも灰に帰す器=大量破壊兵器=何でも輝く魔法の手となるような哲学を。 彼の哲学は、対象を、悲惨さのただ中にあって鈍く輝かせる。 では、ドゥルーズ自身はそのような哲学を生きたかというと生きてない。 常識的な取捨選択をブルジョア的に生きただけ。ずるいといえばずるい。 けれども、彼の他には彼のような哲学を記述できなかったのもまた事実。 ずるいやつの一握りとして、ただのずるいヤツで終わることができず ずるいだけのやつから落ちこぼれてしまい、偉大な哲学をものする変なヤツがいた。 それはいいことだったんじゃないのかな。
810 :
考える名無しさん :2010/03/22(月) 21:09:06 0
ずるいもなにも彼は哲学者だったわけで。。。 「なんでも笑って受け入れる器であるような哲学」ってそんな風なこと書いたっけ?
どこ吹く風だな。
812 :
考える名無しさん :2010/03/22(月) 21:15:44 0
>>806 ,
>>808-809 う〜ん…なんか「口さがない批評家への手紙」でドゥルーズ自身が否定してることを延々と書いてるような…
快楽の実現はドゥルーズの哲学ではむしろ禁忌なのでは?
快楽が実現する一歩手前の「プラト−」でこそ、ドゥルーズ哲学は生きるはず。
813 :
考える名無しさん :2010/03/22(月) 22:21:11 0
>>806 ,
>>808-809 の自己陶酔的な熱の入りようには正直鼻白まされるな・・・。
「モンスターペアレントのようなもの」ってのは結局どういうものなんだろう。
他人の迷惑など想像もできず、自分の一方的な欲求ばかり主張する輩、という意味なら、ドゥルーズがそんなもん肯定してますかね。
「モンスターペアレントのようなもの」がそのまんま現勢化、実在化することを肯定しているとは思わんな。
あらゆる差異=強度を内包した潜勢的なものとして肯定するというなら分かるが。
『差異と反復』(単行本p.365)によると、「強度量の倫理には、二つの原理しかない――すなわち、最低のものすら肯定するということ、
(過度に)繰り広げられないということ」。モンペア的なものを肯定しろという言いようは、前者の倫理にしか目が行ってない。
続けてドゥルーズは、「たとえば、子どもが、知っているかぎりの汚い言葉をすべて口にしたとき、わたしたちは、言わば父親になってその子どもを咎めるはずである。
それというのも、たんにその行為が悪かったからというだけではなく、その子どもがすべてを一回で言い尽くしたからであり、またその子どもが、
永遠回帰の精妙なる巻き込まれた材料のために、何ひとつ何の剰余も残さなかったからである」。
この「子ども」に「モンスターペアレント」を、「汚い言葉」には「理不尽な要求」という言葉でも当てはめて読めばいいだろう。
ドゥルーズはニヒリストてして死んでいったんでしょうか?
>>805 「放恣な自由」という言葉で一般に想像されるようなものをドゥルーズが肯定していないというのは分かる。
スピノザが「自由」という概念をどう語っていたか考えたらいいだろうね。
「放恣な自由」ってのは、『エチカ』で悪い例として挙げられていた、幼児や酒飲みの主張する「自由」だろうから。
そのような子供を咎めることがはたして否定なのか。 咎めることは子供とその野蛮な振る舞いとを肯定しその肯定をも肯定することの 結果として行われるものではないのか。 子供にその振る舞いの撤回を要求することはせず、咎める。 だいたい、子供がその知る限りのキタナイ言葉をすべて口にするのは すごいことじゃないか。同様に、モンスターペアレントだってすごい。 これを子供として扱う父親として振る舞い、咎めるのもすごいことじゃないか。 咎めることそれ自体がその対象を存在として認め肯定しなくては成立しないのだから 咎めることにはその攻撃性の対象の肯定が含まれている。
ドゥルーズの哲学には否定がない。肯定の結果からする攻撃はあっても、 否定はない。欠如や撤回や排除がない。常識や良識とは異なる道行きがある。 それはふるいではない。
>>816 はなんか潜在性/現勢化の区別や、可能性/実在化の区別に無頓着な書きようが気になるな。
「咎める」のは、実在化した子供の言動を否定してはいるだろうけど、汚い言葉が表現している欲望そのものは否定していない(「最低のものすら肯定」)。
だが、『差異と反復』の用語で言えば、「着衣の反復」として肯定する道を、この子供は壊してしまったわけで、それへの咎め立て・否定もしている。
「モンスターペアレントだってすごい」ってのは何を凄いと言ってるのかよく分からんな。
モンスターペアレントは「理不尽な要求」をすることで、自身の欲望を機械的に、裸の反復をしているだけでしょうが。
例えばAさんは、或る言動を繰り返す奴をSATSUGAIしてやりたいという欲望に駆られたとする。Aはそいつを、誰に見つかることもなく簡単に殺れるとする。
モンペア的な発想なら、勿論即座に殺ってしまうことになるわけだが、「可能的な世界の表現としての他者」が折り込んでいる差異・強度の否定であるから、
それは「最低のものすら肯定」する強度量の倫理には則さない。
では、「SATSUGAI!」というAの欲望を否定するのか。いや、「SATSUGAI!」をそのまま現実化するのではなく、違う形で反復することができる。
そのことで、「SATSUGAI!」という感情体験として現実化した強度を、「それ自身における差異」として、情動としてのニュアンスそのものを変化させつつ反復することにもなる。
クラウザーさん的な意味でのSATSUGAIなら、 じゃんじゃんやっても問題ないんじゃね
だから、ああいうふうにドス黒く熱唱するのも「着衣の反復」の一つのやり方ってワケですよ。
しかしまあ散文詩の多いスレですね
cam4のアラートあったらいいのにね
823 :
考える名無しさん :2010/03/24(水) 23:20:18 0
(副島隆彦の学問道場「今日のぼやき」[2000.3.6]より引用) 宮台真司(みやだいしんじ)君や、その他のまだ、ポストモダンを 言っている人たちがいるようですが、残念ながら、 もう世界規模では捨てられた思想です。今の 37歳ぐらいから上の人間が、感染している病気です。 東なんとか君の本など、どうせ何をいいたいのか、なにを、かいているのか、わけがわかりませんから、ご心配なく。 はじめから、この人たちは「読者にわけが分かるようには」書きません。 「 大正デモクラシー」のころの(ロシア・ボルシェビキ革命の世界的、影響です)からの「新カント学派」の影響で、 とにかく訳(わけ)が分からないように書く。読者より自分の方が頭がよいように思わせるように書く。 これが、この手の人たちの本性です。愚劣きわまりない伝統であり、日本知識人の劣勢遺伝子のかたまりです。 室町・鎌倉期の五山(ござん)の僧侶たちも、こうだったのでしょう。 かれらは、仏教の坊主(僧)だったのに、 何と朱子学(南宋学、儒学)の本をよんで、分かった振りをしていた、おもしろい人たちでした。 これと、今のおフランス思想かぶれの残党たちは、よく似ています。 じつは、フランスでも一番頭のいいのは、ドゴール主義者(ゴーリスト)の政治知識人たちです。ゴーリストたちは、 フーコーらのような、人文(じんぶん)主義の衒学(げんがく)趣味ではなく、本気で「どうやったら自分たちは アメリカの支配から脱出できるのか」を国家戦略研究所に集まって、研究しつづけているのです。 日本人のような、東アジアのモンゴリアン・インディアンには、フーコーぐらいが、文化輸出するのに、丁度いい、と、 考えていたのです。フーコー自身が、来日したとき、「ク、ク、ク」とわらいながら、そういうことを、吐いています。 (引用おわり)
両者を、というか、広い意味でドゥルーズと分析系の哲学をどう絡ませるかについてアイデアを練っていて、仮説がいくつかあるのだが、それは博論がなんらかの形で公表されるまでのお楽しみということで秘密。 約13時間前 webから
>>824 はやくドルーズ(←めんどくさくて小さいウを打てない)と分析系哲学とを絡ませてくれよ
Twitterやってるドゥルージアン(千葉以外で)誰かいる?
ドゥルーズの著作にある「肯定」って、ひょっとして原語は「positive」なんだろうか。 モンスターペアレント君は「肯定」を「是認」「推奨」みたいなニュアンスで語っているが、 「positive」には「実証的」「現実の,実在の」「確かな」といった意味もあるからな。 仏語の出来る人に教えていただけると有り難いんだが・・・。特に『ニーチェと哲学』。 フォイエルバッハはヘーゲル的「否定の否定」に対して、媒介無き直接性としての「肯定」を打ち出したが、 ドゥルーズがニーチェを論じながら「肯定の肯定」を言うのは、それを踏まえてじゃないのかと。『ニーチェと哲学』はまだ読破してないけど。
affirmation
あ、そうですかwどうも。 だが「affirmation」にも「確認」みたいな意味もあるし、 モンスターペアレント的言動を是認しているのではなく、 モンスターペアレント的欲望の存在を現実として捉える・・・的なニュアンスでいこう。 というか、「無意識」の捉え方としてそれが妥当だろうと思う。
ごちゃごちゃ書く前に原語で確認しろよ… 英語引用ならwebにも転がってる
佐々木中ってこんなルックスだったのか。
835 :
考える名無しさん :2010/03/28(日) 22:04:52 0
この数十年間で日本の政治思想・評論業界は孤絶し、かなり立ち遅れてしまった。ドイツとフランスの 古色蒼然たる百年前、二百年前の政治思想の本を。訳も分からないまま読み続けてるのが現状だ。 全くヒドいものだの一語につきる。 日本の八十年代の言論を圧倒したフランスの構造主義の大家ミシェル・フーコのような、現代もの でも、かなり癖のある思想・哲学なのであって、本当はフーコや、ジル・ドゥールズらの思想は 「人文」である。文学あるいは文化研究なのだ。政治権力なるものを生まで扱う学問ではない。 現在のフランスやドイツの本当の最高の知識人たちとは「どうやったら、自分たちが、アメリカ の支配から脱却できる」を本気で考えている人々だ。日本知識人は文化研究しかできない人々だ。 副島隆彦「日本の秘密」 P148~149 これ以外に下等学問としての 「人文」というのがある。この人文というのはヒューマニティーズの 日本語訳である。 ヒューマニティーズとは「人間、および記録された文学に関わること」という 意味である。 簡単に言えば現在で言う文学(部)のことである。他に歴史学があり、その内容は 古文書や石碑の文の解説などを行う。これらは、学問としては下等学問である。 これとサイエンス(学問)の区別をつけなければならない。これが日本人にはできていない。 すべてごちゃまぜなのが日本の大学制度である。国家的学問犯罪と呼んでもいい。 大欠陥学問観と呼んでもいい。日本の大学は、世界基準では高等学校程度であろう。 このヒューマニティーズとサイエンスの区別がついてる日本知識人がほとんど いない。すべてごちゃまぜである。 副島隆彦「ハリウッド映画で読む世界覇権国アメリカ(上)」P324
836 :
考える名無しさん :2010/03/29(月) 09:55:50 0
>>835 副島ってただの馬鹿だろ。
そりゃ、あの頭じゃ、粗雑な政治評論は読めても
哲学は無理だよな。ただ、日本のフランス文学系輸入業者は
現実世界から離れたお花畑でお遊戯をしているだけ、という
批判は甘受せざるを得ないだろうな。
ただし、これは輸入業者の責任だよ。
837 :
考える名無しさん :2010/03/29(月) 11:30:54 0
日本では、戦後、学者・知識人が圧倒的な数で、「科学的社会主義」などという、ソビエト帝国型の考えに 集団で脳を犯されたので、「科学的」といえば「社会主義(共産主義)のことだと信じ込んで、この 「科学的社会主義」という宗教を日本国民に、各種高級学問の振りをして押し付けた。それを商売として やったのが、岩波書店である。だから日本国民の方が、すっかりイヤ気がして、「科学」というコトバを 使わなくなった。なぜなら使ってみても、ちっとも「科学的」ではないからだ。「君の考えは科学的だね」 と友人に言ってみると、まるで、馬鹿丸出しで、「一体、オマエは何が言いたいんだ」と、相手から嘲笑 されるからである。ソビエト教の信者以外の世界では通用しない。だから、日本人の「科学」不振は物凄く 深い。そこで、私が、「哲学は科学じゃないんだよ」というと、日本人はケゲンな顔をする。何を言って いるのか分からない。哲学というのは、日本では「文学部哲学科」だから「文学」のお友達で、これは、 絶対に「文科系」だよ、となる。そうではない。哲学は、科学の一種とは違う。神学の一族なのだ。 Philosophy is not a science! アメリカ人やイギリス人の大卒の人に尋ねてみるとよい。彼らは、必ずこう言う。例外はない。 こんなことも知らないで日本人は、「自分達も欧米人に負けない高等学問をやっている国民なのだ」と 思いこんでいる。日本の大学生が、学制(カリキュラム)として大学で受けている講義は学問などでは ない。あれは「土人のコトバ遊び」だ。 副島隆彦「決然たる政治学への道」P171〜177
838 :
考える名無しさん :2010/03/29(月) 11:33:39 0
>>836 副島の批判をそのとおりだと認めてるのに馬鹿扱いかい?
それは筋が通らんぞ。
あるいは言葉が足らんぞ。
もう何年も貼り続けられているコピペに反応するなよw 嬉しそうに、また貼りに来たじゃないか。
840 :
考える名無しさん :2010/03/29(月) 15:47:00 0
つーかもう貼らないでもらえるかな?
貼ってる人は福島以上のバカだろ。何しろ機械的にコピペするしか能が無いんだから。自分の言葉で批判なり何なりする程度の頭も働かないんだろう。 もはやコピペの内容云々よりも、長文でスレを埋めて物理的にスレの進行を阻害しようっていう、まったくもってノータリンな行動と化しているw 要は、自分の頭で理解できない理論の話で盛り上がってる連中がいるのが許せないっていう、幼稚なかまってちゃんなんだよ。 小谷野敦みたいなルサンチマンの塊りだな・・・。
佐藤優が副島との対談で丁重に接していたので副島への評価を個人的に変えた。 アメリカ時事に関してはかなり貴重な研究を副島はしている。 (例えば副島の研究社辞書への批判等は専門家からは馬鹿にされたが教育的見地からは実はかなり的を射ている。) ただし、それ以外はあまり見るべき物はない。 活用できる部分を活用すればいいのだ。 トンデモ本でもいい。 あらゆるテクストを欲望する機械として連結させて作動させること。 ドゥルジアンならそうするだろう。 副島は日本のアルトーなのだ(パラノイアだから本当はシュレーバーに相当するのだが)。
843 :
考える名無しさん :2010/03/30(火) 14:21:10 0
副島ってやつはよく知らないんだけど、とりあえず資本主義システムを「アメリカ」と同一視、 もしくは区別がついてなくて、それに反発してるってのはコピペからもわかるね。 「幼稚」ってのはこういうやつのことを言うんだろな。 まぁ、「反米」っていう欲望、オイディプス的な去勢を夢見ることは自由だけど、それじゃあ 強度の深層には辿り着けないよね。
佐藤優は好きなんだけど、ただこの人、『国家の品格』なんかも真面目な顔して(文面からの推測だけどw)
取り上げたりする心の広さのある人だからなw元外交官だから、人に対してオープンなのかもね・・・。
因みに、佐藤さんがよく引用するんで気になってた『神皇正統記』、来月上旬に復刊予定みたいだね。
ttp://www.fukkan.com/fk/VoteDetail?no=38972 ドゥルーズ的に言えば、佐藤さんの超越性への志向とか、「国家、神、マルクス」と三つとはいえ「絶対」を認めたり、
やはりパラノ的ということになるだろうな。分裂的にパラノ的?
845 :
考える名無しさん :2010/03/30(火) 17:49:33 0
というか、謙虚なんだよ、たぶん。 神皇正統記か…北畠親房だよね。 南北朝正閏問題のときにいろいろと引っ張り出されたっていう…。 ドゥルーズは超越論的なものは認めても超越そのものは認めないはずだろから、 分裂的というよりは明らかにパラノイア的なんじゃないかな、佐藤優は。 よくわからんけど。
河出文庫は鉛筆と相性悪いな
書き込むの?
ちくま文庫は、さらっと線が引けて、なかなか良い感じ。
>>849 東が言及している國分のドゥルーズ論って、どこに掲載されてたやつ?
サンクス。面白いね。
さっぱりわからんど
自分、『意味の論理学』の論理を追うことはできるんだけど、 いまいち重要性や面白さが分からない。 どういう視点で読むもんなの?
ドゥルーズ解釈をめぐって論争w ほんとどうでもいい争いだんw
読んでいるこっちも面倒くさい気分になるよな。
浅田と東についての論争だな。
活火山の下の新訳が出てるじゃないか
知らなかったけど、ドゥルーズがどこかで言及してたの? 意味の論理学の磁気と火山の火山?
「磁器と火山」で、フィッツジェラルドと共に取り上げられているね。 アルコリスム。
「表象」っていつ出るんだっけ?
863 :
考える名無しさん :2010/04/05(月) 17:44:40 0
>>849 最後のほう、福嶋の「ゲイだかクィアだか」って表現を巡って、千葉が噛み付いてるとこ、
結局ゲイもクィアも、主体化の問題にかかわってくることだよね。
「私とは誰で、誰のものなのか?」っていう。
ぶっ飛んだ設問のようにも捉えられるかもしれないけども、これって臓器移植や性転換手術、
あるいは安楽死の問題が現実のものになってる現代社会じゃ、結構切実な問題だよね。
宇野邦一さんが『ドゥルーズ 流動の哲学』の、ドゥルーズ=ガタリ『千のプラトー』の一章
「道徳の地質学」について書いた部分で、「結局は現代を生きる人間の「道徳」を見つめようとしている」
と書いてたけど、ドゥルーズのそうした側面を、福嶋は軽視してるのかもね。
襞に恥垢が
865 :
考える名無しさん :2010/04/05(月) 22:29:28 0
5月「批評と臨床」 河出文庫化
河出やるなぁー
ミルプラ文庫化まだぁ?
河出って偉いね
御三家の中ではドゥルーズ読者が一番恵まれている。
>>855 例えばセリー16の「ひとつの色を持つ事は、緑である事より一般的なわけではない」のような、
一般−特殊の階層秩序を排し、「特異性」の概念を前面に押し出すという発想。
哲学の至上価値とされてきた「真理」ではなく、真−偽の前提となる「意味」の概念の重要性の指摘。
論理学のパラドックスを、単に自己完結的に論理学の枠内で考えるのではなく、
言語と身体という具体的な素材・物質に即して論じた事。
(デリダも意識の問題を、音声や文字という素材・物質に即して論じていたから、軌を一にする面もあるだろうな。)
↑
あくまで俺的気面白さと重要性。
フィッツジェラルド「崩壊」の借用とか、最も出来事に相応しい出来事=戦争とか、 ドゥルーズの残酷な側面がよく出てるところかな ちょうとベトナム戦争期の著作なんだよね、あれ
そういや、河出さんが色々文庫化してくれるのはありがたいんだが、 『ドゥルーズ初期 若き哲学者が作った教科書』みたいに入手困難なやつを出してほしい。 版元の夏目書房自体が業務停止に陥っちゃってるみたいだから・・・。
>>874 アホか。
そんなもん出すようになったら河出がまた傾く。
『ドゥルーズ初期』は読みやすいし、ひとつひとつが短いから入門篇にいいんだが。 ドゥルーズがいちばん若い頃の文章も載ってるし。
結局この人なにが言いたいの?
ヘーゲル嫌い
↑何で?
いやドゥルーズがね
要するにあの喘息持ちは哲学史からヘーゲルを村八分にしたいだけだったんちゃうんかと。 なんでそうしたかったのかは知らん。ニーチェの意思を勝手に受け継いだんじゃないの? ま、確かにヘーゲルを切り捨てるとオリジナリティーは出るよね。 バタイユもラカンもヘーゲルの亜流と言えば言えるし。
ヘーゲル嫌いの理由は「無人島」所収のインタビューでちょっと触れられてる
顔恐いじゃんヘーゲル
884 :
考える名無しさん :2010/04/09(金) 02:22:37 0
>>881 木田元の『反哲学史』読めばいいじゃん。
ニーチェどころか後期シェリング以降の哲学はみんな、ヘーゲル哲学への反逆だよ。
ドゥルーズもその流れの中にある。
ヘーゲルを否定したってヘーゲルの掌の上だよ。 否定したら弁証法になっちゃうからなw
そこは超人の否定で。
887 :
考える名無しさん :2010/04/09(金) 20:09:23 0
885はジジェク
ヘーゲルぎらいなのはいいんだけど、ちゃんと批判できてるの? 少なくともマルクス位は頑張ってもらわないと怒るよ。
『ニーチェと哲学』では、ヘーゲルからさらにマルクスも批判されているね。 ヘーゲル的止揚が理念に向かっていくのに対し、永劫回帰は目的も究極状態も持たないから、肯定性しかないってことか。 だが、「超人」概念には、より権力量を有するものが他を制して束ねる意味合いも強いから、 ドゥルーズが、「真の民主主義」とでも言いそうな肯定性ともまた違うような気もする。
永劫回帰は単一ではなく複数の力である、というところが ヘーゲル批判に直結するのだろう、、、、 ヘーゲルはちゃんと読まれてないから批判する前に読み直す 必要があるとは思うが。
ヘーゲルとカントは全集でも借りて、 1回しっかり全部読まなきゃなとは思うんだけど、膨大すぎて尻込みする
892 :
考える名無しさん :2010/04/11(日) 05:08:53 0
ヘーゲル、カントは読み込んでもメリットないよ。これからは。
ドゥルーズ自身がカントを読み込んでるんだが・・・。それを読むことも「これからは」メリットないのかね。 というか、哲学におけるメリットってなんだろう。
「とりあえずは」カントなら三批判 ヘーゲルなら精神現象学と大論理学と哲学史でいいべ?
法哲学だろ。もっともツッコめそうなのはこれだ。
896 :
考える名無しさん :2010/04/11(日) 14:35:53 0
なんでもいんじゃないの? 「こうしなきゃダメだ!」みたいな、変な義務感、押し付けは要らないと思うよ。 各人が各人の思った方法でやればいいでしょ。 誰かが誰かに触発されれば自然に真似るだろし。 他人を説得するより自分を説得することを考えたほうがいいような気がする…。
897 :
考える名無しさん :2010/04/11(日) 14:42:39 0
読み込むと読むは違うわけで、もちろんドゥルーズ読みこむんだったらカントはもちろんのこと ヘーゲルも読んどくのは当たり前でしょ。 あの時代のフランスでどれだけドイツ観念論が読まれてたとか 彼らの歴史研究と同じようなやり方であの時代を考えてみてもいい。 でもそのラインであーだーこーだやってても、 ドゥルーズ研究は一向に進まないんじゃないかなってこと。 哲学史家ならべつにいいよ。 というかおそらくヘーゲルでさえドゥルーズとの関係で なにか目新しいようなことを論じることはできるでしょう。 ドゥルーズは哲学史はコラージュでしかありえないっていってたしね。 だからドゥルーズからいくつもの線を引くことができるでしょう。 でもそれでなに?どうなんの?って感じなんだよね。 ほんとにドゥルーズいかすんだったら そこでしこしこやってていいのかなと思うんだけど。
898 :
考える名無しさん :2010/04/11(日) 15:23:33 0
私は、フランシス・フクヤマの本を読んでいて、これだけは、書き留めておきたくなったなあ、 ということがある。それはネイティビズム対ビヘイビアリズムの巨大な対決ということだ。 ネイティビズム「固有主義あるいは生来主義」とビヘイビアリズム「(アメリカ)行動(科学)主義」 の対決ということだ。 このネイティビズムとビヘイビアリズムの対決は近代(現代)学問500年の、成否を決するぐらいの大きな 大決だ。このことを日本の知識人のほとんどが知らない。 このネイティビズム対ビヘイビアリズムの対立というのが西洋学問で、一番大きな対立図式だ、ということを、 日本の知識人でしっているのは、私の他に、この国に何人いるだろうか。 (中略) 私は日本の知識人で、世界基準だと考える優れた学者には、すでに弟子入りしている。 だからそれ以外は、みんな、アホ扱いすることになる。本当にそう思っている。 私は好き嫌いの感情で動かされる人間ではない。世界水準に達して優れている学者と、 そうでないもの、は、はっきりと点数がつくぐらいに区別がつく人間だ。 (中略) ネイティビズム対ビヘイビアリズムの対立、というきわめて簡単な図式が分かると、 もしかしたら私の読者でも、一気に、ひらめくように、この世界がどのようになっていて、 どのように人間(人類)は考えてきたのか、とか、この近代500年の西洋学問(サイエンス)の 全体像が、ハッと分かるかもしれない。 副島隆彦「属国日本論を超えて」P51〜52
899 :
考える名無しさん :2010/04/11(日) 15:23:57 0
>>897 >ドゥルーズ読みこむんだったらカントはもちろんのこと
>ヘーゲルも読んどくのは当たり前でしょ。
そうかなぁ?必ずしも、そういう必然性もないと思うけど…。
ドゥルーズが書いたことの中に、ヘーゲルやカントは既にあると思うし、
ドゥルーズが書いてないことも含めて、それは既にヘーゲルやカントなんじゃないかなぁ?
逆に言えばヘーゲルやカントといった固有名詞で「哲学」を語ることには何の意味もない。
ドゥルーズもそうだけど、すべては3次元のリゾーム状に連なった鎖の中にあって、
クラインの壷的な記号の連鎖として認識できるんじゃないかなぁ?
アンチ・オイディプスの使用マニュアルはどうかね? 買い?
ここの住人ってずいぶんドゥルーズに熱心だけど大学の研究員かなにかなの? それとも一般人でファンなの?
ポエマーです
903 :
考える名無しさん :2010/04/11(日) 16:10:55 0
>>899 だから読み込むと読むは違うと書いたじゃん。
べつにどちらが優れた読みだとも言ってないよ。
ただドゥルーズを研究する云々以前に、カントとヘーゲルはある程度は読んどいた方がいいだろ。
いきなり「カントの批判哲学」読んでもわかるかな?
そういうよみは抑圧、権威的だとでも?
1、ドゥルーズの思想自体ほぼ無意味。
2、無意味から意味が発生する
>>901 俺は普通の会社経営者(技術系)。ミルプラとかときどき読んでる。
ドゥルーズ好きかと聞かれるとまあ好きといえば好き。
信者とかドゥルージアンかといわれるとそれほどでもない。
907 :
考える名無しさん :2010/04/11(日) 18:22:56 0
>>903 オレはいきなり読んでるけどね、『カントの批判哲学』。
ある程度、哲学関連の本(解説書とか)読んできた人ならわかるだろうし、
ドゥルーズ読む人なんてそんな人でしょ?
偏見かも知れんけど(苦笑)
まぁ違いは分かっといたほうがいいってのは一理あるとは思うけど。
カントの批判哲学は解説読めばよく分かるw
おれはドゥルーズはニューアカ経由で軽く読んだ程度だったのでそろそろ本腰入れて読むか と思ったところだ。でも哲学の基礎がなってないのでまずはギリシア哲学から読みはじめた。
910 :
考える名無しさん :2010/04/11(日) 19:19:44 0
>>908 あの解説に出てきた「歴史」の問題、個人的にはなんとなく、
『シネマ1・2』とつながってくるような気がするな…
運動イメージ、時間イメージに。
うまく説明できんけど。
ドゥルーズを使って一つでも何かを説明できただろうか
宮崎駿のアニメに出てくる「ハウルの動く城」のように次々とガラクタが連動していく快感が
ドゥルーズの魅力だろう。
ガタリのテクストなんてドゥルーズがいなければ文字通りガラクタに過ぎなかった(失礼!)。
その点、ティンゲリーのオブジェから受け取る印象に近い。
(既出:
http://www.youtube.com/watch?v=hsfvsBxVxbk )
ただし、マルクス主義や精神分析が支配的だった中でそれらは画期的だったが、
web時代には彼の世界観はある種の前提になってしまったと思う。
そこでそれらを一般化させないように読み込む立場と離れる立場の両方が考えられる。
ドゥルーズ自身は読者にむしろ彼から離れる立場を推奨しているような気がしてならない。
web時代に当たり前になっただと? だったら哲学もしらない素人に前提にされてしまう哲学者っていったい
914 :
考える名無しさん :2010/04/12(月) 03:36:54 0
>>912 「リゾーム」ってことだけでしょ。
言っとくけどドゥルーズの世界観(概念・イマージュ)はそれだけじゃないからね。
欲望する諸機械、器官なき身体、戦争機械、襞、差異、反復、平滑平面、存立平面、
リトルネロ、来るべき民衆、強度、脱領土化/再領土化、横断性、マイナー(文学)、
ノマド(ノマディズム)、スキゾ(分裂)分析…
これらの概念=問いをウェブが解決したかって言うと、ほとんど手付かずのままだよね。
特に戦争機械、来るべき民衆、脱領土化/再領土化、マイナー(文学)、ノマド、
スキゾ分析の辺りは、ウェブ空間でこそ問題にされなければいけないことだし、
襞に至っては未だ既存のテクノロジーの文脈では語りえない面を多分に持っている。
「ドゥルーズが終わった」なんてのは結局、何にも考えたくない人たちが
言ってることなんじゃない?
915 :
考える名無しさん :2010/04/12(月) 10:22:06 0
916 :
考える名無しさん :2010/04/12(月) 17:21:41 0
襞はプリでしょう。 プリは皺で、その皺によって、意味が現れる。 キャンバスに絵を描くように、意味がトレから現れる。 意味の発生する点が零度のエクリチュールな訳だよね。 だから、襞は、欲望の意味の発生に関するタームだということの ようだね。
917 :
考える名無しさん :2010/04/12(月) 19:47:00 O
哲学板は他はムチャクチャやけど、ここはええ感じやね
よく2ちゃんで哲学議論しようという気になるよね
2chじゃなきゃ恥ずかしくてできない
920 :
考える名無しさん :2010/04/12(月) 22:11:10 O
むしろリアルで哲学議論やってるヤツのがキモい
哲学カフェとかあるじゃん
922 :
考える名無しさん :2010/04/12(月) 22:22:34 O
阪大主催の哲学カフェ行ってみたけどキモいやつばっかだったよ
『ドゥルーズと創造の哲学 この世界を抜け出て』 ピーター・ホルワード は実際のところ、どうなんでしょ? ドゥルーズに批判的ではあっても、ドゥルーズ理解に役立つようなものなら、是非読んでみたい。 バディウやジジェクのような腹立たしいものは勘弁だけど。
腹立たしいっぽいよな
925 :
考える名無しさん :2010/04/12(月) 22:50:43 O
( ´∀`)y-~~ いいえ、黒を通り越した闇です
926 :
考える名無しさん :2010/04/12(月) 22:51:30 0
千葉氏によると ところでピーター・ホルワード『ドゥルーズと創造の哲学』は良書で、 〈連続的な差異化プロセスに駆動される一元論的な内在的存在論〉 という考えを神秘主義にも近づけつつうまく評価しているが、 いかにもバディウらが「これこそドゥルーズ!」と喜びそうな解釈で、 僕の求めるドゥルーズ像とは全然違う。
千葉さんとやらはどんなドゥルーズがお望み?
ツィッターで直接本人に聞くがよい
929 :
考える名無しさん :2010/04/13(火) 21:53:06 0
皆読書会とかに参加して読んでるの? それとも自力?
>>929 自力。
っていうか
>>901 もそうだけど、なんでそんなことが気になるの?
専門家でも研究者でもないのに自力で読んでるのは自分だけと思ってるとか?
>>897 ドゥルーズのほかにヘーゲルもカントも読め。
というのでへーゲル「大論理学」を序文半ば
まで読んでみた。
へーゲルは観念論にありがちな論理学の展開
をしていて観念(概念的差異)の体系を全体的に
展開しなければ学としての成果は得られない
とする。これが待ち受けているのは観念の
袋小路である様に思います。
ドゥルーズの哲学は実在的経験から
概念的差異ではない<イデー>と
しての差異を問題的なものとし、
そこから思考の開始がある、とするので
ドゥルーズには解の発散を含めて
問題的なものについての考え方はは、経験に対して
<開かれた>性格があると思います。
ヘーゲル的に言えば概念的差異でないのは単なる差別。 比較する視点を持たないもの。よって問題とすることもできない。 さらに実在的経験てなんですか。素朴に捉えていいの?
ネットで拾える、お薦めの英語論文とかないでしょうか?
934 :
185 :2010/04/14(水) 17:28:38 0
ヘーゲルは歴史性の中に差異の概念を持ち込んでいるだけで、 それを、絶対値という目的論的なものにしている。 所謂、到達点があるという意味で、ドゥルーズやデリダのような無意味な 差異の戯れを言っているのではないので、、ヘーゲルは批判的にみるべき でしょう。ドルーズの差異は器官なき身体として読むべしでしょう。
デリダの場合は、ガタリがファシズム呼ばわりしたのも分からなくはないというか、 ユダヤ的な偶像崇拝禁止を文字や音声に適用しているような印象がある。ドゥルーズと違って、執拗に相手の片言隻句を批判するよね。 俺はヘーゲルはまだちゃんと読めてないから、へんなこと言ってたらスマンが、 あらゆる差異が肯定→否定→止揚を経て概念に包摂されていくのがドゥルーズと相反するんだろう。 ドゥルーズの、概念的差異ではない差異の概念は、概念が概念として思考され得る条件にまで遡行したもの。 例えば「人間」という概念がそれとして認識されるためには、「人間」以外のものとの差異が動員されるわけだが、 それらの差異のいくつかは、他の動物や物体、或いは人工知能なんかとも共通するものであったりもする。 結局、それらの差異の関係‐比が概念であるわけで、 概念的差異という「差異」が下位の差異を包摂するのではなく、その逆。 「諸概念はそれらの一貫性を他から受け取らねばならないのだ」(『差異と反復』p.15)。
補足。ドゥルーズが、諸差異の海としての存在の一義性を言うのも、 ジョフロワ・サンティレールの「あらゆる動物に共通する構造的プラン」という発想に共感するのも、 概念は差異の海における関係‐比であって、概念だけで独立しているように考えるのは観念論だ、という見方からだろう。
>>932 「差異(schiedenheit)はむしろ事柄(Sache)の限界であり、事柄が終わるところに在る。
言い換えると差異は事柄ではないものである。」( 精神の現象学 河出P169)
とヘーゲルは述べており、ドゥルーズと根本的な立場を異にする。
ドゥルーズにおいては差異は差異化=微分化のイデーを表わす。
ヘーゲルは反省による媒介を介して、相互に媒介しあう概念の体系を
完璧な形態で示そうとする。
一方ドゥルーズにおいてはそのことは、まさに当の有機的=表象代理現前を
構築することとして批判されるものなのである。
ドゥルーズによれば「差異が反省概念であることをやめ
現実的に実在的な概念をとり戻すのは、その差異が、
たとえばもろもろの類似物のセリーにおける
連続性の断絶や類比的な諸構造の間の越えがたい
裂け目といった、カタストロフを指し示すことでしかないのである。
差異は反省的であることをやめれば、かならずカタストロフ的になる。」(66p)
実在的経験は、いうなれば所与の経験的なものから来る思考に対する
暴力的出会いによって概念創造を行うのである。
938 :
考える名無しさん :2010/04/14(水) 23:07:30 0
>>933 >ネットで拾える、お薦めの英語論文とかないでしょうか?
誰か答えてあげてください。
939 :
考える名無しさん :2010/04/15(木) 00:50:51 0
誰か大阪大学シンポジウムレポートよろしく
940 :
考える名無しさん :2010/04/15(木) 11:37:29 0
まあそういうことでしょう。 だから、ヘーゲルを読む人は、ドゥルーズ的な差異の戯れに寄り添っていく 事はできない。ヘーゲルは発展的形而上学と言ったほうが良いようだね。 現在は動くということは、動態的であるから、ヘーゲルも、現在の時間的変化を 肯定してはいるのであるが、最後に、絶対点を持ち込む事で、 神の絶対視点を肯定しているところが、ドゥルーズとは全く違うんだろう。 ドウルーズには目的論や形而上学=神からの逃走しかないんだよ。
まず差異というのは基本的な思考だが、ヘーゲルの場合はそこに行くまでの 論理があります。これは論理学の記述。 自分の理解では、つまり全部が違うものという状態では差異というのは 一般化していない。それが認識されるのはそれ自身の中に自己の否定を 見る時。それによって初めて差異という認識が可能になる。 概念的差異という言葉は、よって、それ自身というものを自覚した状態での 差異と理解し、概念的差異でないものが如何に可能なのかと質問。 そして話がどうやら実存的、あるいは歴史的とか神とかになってるが、 そういうのは少なくとも差異を扱う限りヘーゲル批判になっていないので 答えようがない。
そしてなぜヘーゲルが発展や進展と言うかといえば、 以前に考えたことは、同じことを考えてもしかたがない。 よって考えたことはちゃんと保存(止揚)しておかなければなら ないからです。
943 :
考える名無しさん :2010/04/15(木) 17:17:55 0
定立―反定立―総合の事でしょう。 そして、ヘーゲルには、全てが、内部(自我)しかない訳でしょう。 自分の中に(あるいは歴史の中に)相矛盾するもものが共存し どこかの時点で反転するってことでしょう。 そうすると、他我は無視されているとも言えるよね。 あるいは他の歴史についても、その影響は全く考慮されていない 事になる。このところは以前からも指摘されているところだけど。
944 :
考える名無しさん :2010/04/15(木) 17:34:57 0
アウフヘーベンばかり言ってもしょうがないでしょう。 そこのところが、ドゥルーズやデリダに批判されてるのだよ。 止揚ではなく、無意味な差異(差異の戯れ)ということになるんだけどね。 この違いは、国の経済発展段階の差として認識するほうがいいかも しれないね。ヘーゲルのように貧しい時代は発展することを意識する。 しかし、ある程度発展した社会では、ポスト構造主義のように前進よりも、 差異化によって、人間が触発されると考えるのだよ。だから、家電製品 の性能には差がないが、いろいろな装飾品や、たくさんの機能を一緒につけて 差異化を計っているわけでしょう。そのようにつけた機能も、個別に 買うことができるわけで、商品の提供の仕方による、差異化にすぎない ということかな。ちなみに、アメリカはもうへ―ゲルのいう絶対知 の地点に到達したという分析を聞いたことがあるけどね。その時点で、 差異はなくなるのか無意味な差異の戯れは残るのかってのが、 コジェヴとバタイユの見方の違いと紹介するのがアガンベンなわけでしょう。
>>941 ドゥルーズ読みの私が、ヘーゲルの専門家の
方に太刀打ちできないですが、
941さんにお聞きしたいのですが、
ヘーゲルにおいて「規定(作用)」と「否定性」
との間の関係と違いを、教えてください。
>>945 >ヘーゲルにおいて「規定(作用)」と「否定性」
>との間の関係と違い
941さんではないですが横レスさせていただくと、
「規定は否定である」というスピノザの言葉をヘーゲルは援用しますが(哲学史その他)、
肯定と否定が同時に可能であるという意味(論理的ではない)に意図的に曲解している節があります。
ヘーゲルのアウフヘーベンの第二段階では肯定と否定が同時に存在し、それが第三段階へ
の契機になりますが、これは差異の哲学を信奉する立場からは二重の過ちになります。
まず、個体または差異を否定することにおいて、さらにはその痕跡を残さないこと
においてです。
ヘーゲルの論理自体はアウフヘーベンではないと言う擁護の仕方がありますが、コジューヴ、
ジジェクのそうした意見は論理学的には倒錯しているような気もします。
ドゥルーズの差異の極限においてその能動的側面を見ると言うスコトゥス譲りの理論も
少し弱いと考えられるのは、その極限に実在的および科学的根拠がない(あるいは常に疑似科学に
よりその根拠を想定する必要がある)からです。
ですからモナドに、窓というよりいわば「複式簿記」をもつことであらゆる差異に対応する(差異は
数値化され痕跡を持つ)、ということにしないと、ヘーゲルの「論理学的自殺」(byボルツァーノ)
には対峙できないと考えます。
>>946 スピノザを継承するドゥルーズは、
「規定性」に「否定性」を認めることになり
ましょうか。
差異哲学が拒絶するのは「すべての規定は否定である」ということだ。 無限な表象=再現前化に関する一般的な二者択一、すなわち、未規定なもの、 無差異的なもの、未異化=未分化のものか、或いは、すでに「否定として規定」され、 否定的なものを巻き込み包み込んでいるものとしての差異か、といった 二者択一が拒絶されるのである(まさにそうした拒絶からして、ライプニッツ における限定という否定的なものか、或いは、ヘーゲルにおける対立という 否定的なものか、といった特殊な二者択一も拒絶されることになる)。
949 :
考える名無しさん :2010/04/16(金) 14:05:56 O
誰も阪大のシンポジウム行ってないのかよ 使えねーな2ちゃんねらー
950 :
考える名無しさん :2010/04/16(金) 17:37:15 0
でも、無限の差異はポスト構造主義者には肯定されているのでは? ただ差異を主体に回収するから問題な訳だよ。 差異の否定ではなく、主体化の否定なだろう?
951 :
考える名無しさん :2010/04/16(金) 17:40:53 0
「すべての規定は否定である」とするスピノザのとらえ方にしても それは、肯定=規定が、正否を質す認識論だからだよ。 認識は、規制であり、強制であり、去勢だからだよ。
『アンチ・オイディプスの使用マニュアル』は誰も買っとらんの?
>>951 そうした留保なきスピノザ主義は、
実在的区別において、
残酷のマイナー幾何学を展開するのですね。
「諸概念が「ドラマ」との関係において、
かつある種の「残酷」の諸方途に
よって行使されるのである。」
(差異と反復p13)
いみわからんw
否定というより限定と言うべきだが、、、 論理学的(唯名論的)否定=false/trueは実在論的な無限と矛盾しない。 そして、 限定された無限としての、アルトーのグロテスクな実在を露にするような演劇(=人生の実演)こそが 論理学(false/true,『意味の論理学』で言えばルイス・キャロルのそれ)の可能性を越える、 ということだろうが、 単なる経験論の賞揚の方が誤解を生まなくていいと思う(とはいえ学問的に症例と判例にこだわった わけだから一貫してはいる)。
956 :
考える名無しさん :2010/04/18(日) 16:39:51 0
>「すべての規定は否定である」 ヘーゲル的な意味でのこの言葉が意味するところはつまり、「机」と「椅子」は同時に存在できない、 ということになるような気がするんだが、現実にはそんなことはありえないよなぁ… ドゥルーズからすればだから、ヘーゲルこそ非現実的な思考をしてるとか思えないんだろなぁ。 と、俺は思う。
957 :
考える名無しさん :2010/04/18(日) 16:53:41 0
「すべての規定は否定」と言うのは、規定=肯定は否定の否定に なるからだよ。つまり、肯定も否定もある規定になり、 規定は、全体としての生の流れからの逸脱になるということだろう。 欲望の流れの切断なのである。こういう風にいえば、より、ドゥルーズ 的だろう。また、この切断を逃れるために、ニーチェは「然り」を繰り返し ポーは大ガラスで「またとない」を繰り返したんだよ。 肯定は、否定の否定として、概念を紡ぐ。概念は正否によって 欲望の流動する人を縛る=去勢する。この事によって、ヘーゲルは 批判されるのである。
958 :
考える名無しさん :2010/04/18(日) 17:21:28 0
>>957 フーコーが引き合いに出してたので有名なマグリットの絵があるよね?
『これはパイプではない』っていう。
あれでしょ、要するに?
そもそものの始まりは 「差異の理念は概念的な差異に還元される ことはない」(差異と反復 序論) であったので。
960 :
考える名無しさん :2010/04/19(月) 17:53:45 0
つまり、差異とは、欲望の流動のことであり、概念を差異化することではない という事? つまり、還元する場合には、多様な経験がそぎ落とされ、概念化するからね。 概念は主体前提ににしているという事で、批判される。
もう自演はいいです。
自演と反復
なんだか伸びてると思ったら自演か
どうせだからこのまま自演で1000までもっていきなよ
961〜964も、かなりしつこい。 同一人物か…
具体例を挙げてくれ
>>960 差異が<理念(イデア)>として
問題的なものとなって現われてきて、
構築されるとしたら
それに対して「概念」が
創造されるというのが、
「差異と反復」で言われること
だと思う。
アンチのほうをまだ
あまり読んでないので、
欲望論のほうは、
わからない。
自演するなら文体変えろよ
だって、957の発言からすると、欲望論 というか、「アンチ」の文脈では、 認識の「肯定」と「否定」が「エロス」と「タナトス」 の力能との関わりになってしまうような。 それが示唆されているとしたら「器官なき身体」 まで把握してない俺が、降りるのは 仕方ないじゃん。
971 :
考える名無しさん :2010/04/21(水) 01:44:28 0
>>970 「器官なき身体」って要するに、「タブラ・ラサ」の集団・モノ版みたいなものだよね。
個人の「タブラ・ラサ」を含むって意味では、その発展版とも言える。
だからこそ欲望する諸機械は絶えず生産しつつ破壊するんだろし。
資本主義機械はそれを内部に吸収し、同時にその原理に規定されている。
つまり、「作っては壊し、作っては壊し…」。その繰り返しだよね。
べつにドゥルーズなんて持ち出さなくてもいくらでも説明できるじゃん
どういう立場からドゥルーズスレに粘着しているの?
974 :
考える名無しさん :2010/04/21(水) 22:31:36 0
>>972 まあ、それを言ったらおしまいだって。
しょせんドゥルーズなんてそんなもの
「襞」を読んでると現代中国が頭に思い浮かぶ
今の中国はバロックなの?
>>972 それならドゥルーズ的な意味において
「器官なき身体」について述べて下さいよ。
979 :
考える名無しさん :2010/04/22(木) 20:22:59 0
>>974 「所詮」なんて言い出したら、そもそも哲学を語るのに哲学者の名前は必要ないでしょ。
物理学だって物理学者の名前出して語る必要なんて全然ないのと同じで。
そういう慣習があるからそういう語り方をしてるだけだよね。
>>977 いや、入り口のイメージとして近いかな、と。
結局、何もないところ(あるいは全部あるところ)にいろいろと「登録」してくわけだからね。
ドゥルーズ自身は卵の分割(受精から胚に至る過程)とかによく例えてたよね。
概念として違うのは重々承知。
自演って誰かが言ってからレスが減ったね
981 :
考える名無しさん :2010/04/22(木) 22:51:14 0
それだけ「まじめ」なんじゃない?(笑) 逆に言えば自分の目で見て自分の頭で考えない、他人の言葉を鵜呑みにする馬鹿が多いってことだな。 おれみたいに「内在」をきちんと理解してればそんなことは起こらないのに。
自演しているのはお前だろ。 と、もうスレも終わるし無駄レス叩いてみる。
983 :
考える名無しさん :2010/04/22(木) 23:13:09 0
>>982 おれそんな暇じゃないから(笑)
つか自演だろうがなんだろうが、実のある議論ができるならそれでいいでしょ。
「自演」ってことになんでそんなこだわんのか逆に気になるね。
スキゾ分析したくなる、そういうパラノは(笑)
どこに実があったの?
ageてるやつは全部文体一緒だしな。
>>984 ドゥルーズの「哲学とは何か」で
『「概念」を用いて仕事をすること』
とあるので、その概念規定で、「規定性」
と「否定性」の関係は、どうなるのか
聞きたかっただけ。誰も答えてくれなかった。
へーゲリアンの人のレスもなかったから。
987 :
考える名無しさん :2010/04/23(金) 00:29:26 0
>>984 逆に、何で実がないと思ったの?
>>985 文体なんていくらでも模倣ができるし、反対に変えることもできる。
そんなもん、基準になんないよ。
ちなみにおれは誰の模倣もしてないし、気分で書いてるだけだけどね。
>>986 だからそれが「机」と「椅子」じゃないの?っておれは書いたんだけどね。
「机」の存在が「椅子」の存在を否定するわけじゃないでしょ?
そもそも「存在」をある種の一元性(超越性)に還元することに、
ドゥルーズは猛烈に反対してるんじゃないの?
ドゥルーズ関連の本をずっと読んできて、おれはそう感じるけどね。
というより、ドゥルーズは、数学でいうところの多様体を念頭においている。 座標を前提とした思考に対してのアンチ的な意味合いでさ。 ドゥルーズの数学概念は、ソーカルらによって批判されたわけだけれど、 ドゥルーズが何をいわんとしていたか、を知る意味では、やはりそこから 入る道もあるし、今となっては重要になっている。 そもそもドゥルーズ哲学の源泉は、ハイデガーなんかよりベルグソンだからね。 ベルグソン―ドゥルーズのラインの数理哲学ってすでに分析哲学が覇権を握った 今となっては見る向きもないんだろうけど、実は結構面白い。
>>976 17世紀ヨーロッパ同様、未曾有の大混乱を体現しているって点でね
ネオバロック=資本主義
ネオバロックが資本主義ってどういうこと?
>>975 >
>「襞」を読んでると現代中国が頭に思い浮かぶ
ライプニッツは易の二進法以外にも中国の「理」を(西欧の神と相似だとして)論じていて、
情報源であるキリスト教宣教者達を含めればかなり具体的に当時の中国と繋がっていた。
だから、ネオバロック=資本主義の比喩は正しいかも知れないが、現代の中国を見た時、
潜在的な(経済大国ではない)文化大国としての(今とはまったく別のあり得たかも知れない)
中国を思い浮かべてしまう。
実際毛沢東はアナキズムの影響を受けていて、このあたりが歴史的に抹殺もしくは隠蔽されている。
>>988 >
>ベルグソン―ドゥルーズのラインの数理哲学ってすでに分析哲学が覇権を握った
>今となっては見る向きもないんだろうけど、実は結構面白い。
ベルグソンの『物質と記憶』のなかの図が、ミンコフスキー時空と似ていることに気がついて
驚いたことがある。
ドゥルーズが『襞』のなかで評価するホワイトヘッドは、歴史的にはポアンカレ予想とも絡だ
りしていて、ラッセルとはまた別の理論的な可能性を感じさせる。
>ライプニッツは易の二進法以外にも中国の「理」を(西欧の神と相似だとして)論じていて 詳しく。 どの本が情報源? ライプニッツっていろいろやっているよね。
今のスレの流れを見ていると、押井守監督『イノセンス』の択捉経済特区を思い浮かべてしまうな。 「チャイニーズ・ゴシック」というコンセプトでデザインされたらしいが、国家主権が曖昧なせいで多国籍企業や犯罪者の巣窟と化しているというバロック的折り込まれ状態。
こんなの哲学でもなんでもない ポエム板でやれ
じゃあアンタがちゃんと哲学なことをやってくれよw ピーピーねだったら誰かがクチバシに餌を放り込んでくれるかのように、ひとに文句言ってばっかな奴多すぎだよ。
千葉ってだめじゃね?
誰か次スレ立てろ。俺は哲学科でもないしフランス語もできないからその資格なし。
表象04買ってきた
1000
1001 :
1001 :
Over 1000 Thread このスレッドは1000を超えました。 もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。