1 :
考える名無しさん:
あたりまえですね!
意味も意義も同じ意味じゃねーか
意義のないスレだな・・・
じゃあ貴様がなにを奉じているか述べてみよ
意味のないスレですね
5 :
考える名無しさん:2009/10/03(土) 14:46:51 0
味・・・趣、味わい、味覚
義・・・道理
7 :
ぴかぁ〜:2009/10/03(土) 14:50:55 0
■ラカンのシニフィアン・マジック
ベイトソンの学習論
では、動物の次元の身体訓練=暗黙知とラカンの言語はいかに繋がるのだろうか。その一つ
の指標になるのが、ベイトソンの学習論である。
ゼロ学習・・・遺伝子、あるいは機械プログラム。インプットに対して同一反復にアウトプットを出
力する。学習で習得するものではない。ラカンでは現実界に相当するだろう。
学習T・・・繰り返し訓練することで体で覚える。あるいは条件反射。「暗黙知」はここに相当す
るだろう。ラカンでは人には不可能な、動物の想像界
学習U・・・コンテクストを学習することで、コンテクストの認識(状況判断)が可能になる。言語
を使いこなすことはここに相当するだろう。ラカンでは主体の領域(象徴界+想像界+現実界)
学習V・・・コンテクストを操作することを学習する。言語の高度な使い方。ラカンではない?大
文字の他者は大文字の他者はない?
経験論的方法と超越論的方法
言語を使うとは意味を伝達することである。意味は絶えずコンテクスト(文脈)に依存する。
だから人が言語を学習するとは単に意味を理解するのではなく、使い方を学ばなければな
らない。言語論でいえばコンテクストは存在しない。事後的に確認されるだけである。しか
しコンテクストがなければ意味は伝達されない。これが言語コミュニケーションの最大のな ぞである。
これを解決する方法が二つある。1つは学習Tによる経験論的な方法。要するにバッターが来
た玉を撃つように反復訓練の結果、反射的に会話は行われる。二つ目は超越論的な方法。共
有されているか関係なく、共有されたコンテクストなるものがあるように互いに錯覚し続ける。
会話が続けばいいわけだ。これら2つは切り離されたものではないだろう。深度の関係で、慣
れた軽い会話から慎重な会話まで、2つのバランスは配分される。そしてこれらはラカンとそれ
ほど違わない。シニフィアンの連鎖は二つの作用を持つよう考えられた巧妙な戦略である。
8 :
朝倉敏景:2009/10/03(土) 15:36:37 O
朝倉敏景が歩んだ道は決して険しくはないそれはそれは美しい桜の物語だった。東北では祝福もされた。それに比べ朝倉卍丸ときたらあのあと沖縄ときている。極楽とんぼ?
9 :
考える名無しさん:2009/10/03(土) 15:44:10 0
1朝倉義景=朝倉敏景 3朝倉?(卑弥呼) 4朝倉景健 5朝倉景紀
6朝倉景氏 7朝倉? 魚住 真柄 前波が幹部だろう。
木村拓也も渡部篤朗も道はいい。真柄もだいたいいい。」
10 :
考える名無しさん:2009/10/04(日) 20:22:16 O
やみ やみ やみ
フィンランド学習理論はエンゲストロームの「活動システム」論や「拡張しゆく学習(expanding learning)」論が
土台にあるようだ(『競争しなくても世界一 フィンランドの教育』福田誠治p.47より)。
簡単にいうと、知識をとりいれることを重視する旧ソ連のヴィゴツキーらの「内化理論」と違い、知識を社会的
に活用するなかで展開されるものととらえ、さらに活用する主体の能力を広げていくというものだ(マイケル・
ポラニーの暗黙知が参照され得る)。リテラシーという言葉があてはまる。
「内化理論」
主体
___
Aー|→Aー|→A
|___|
上記は従来のモデルだが、以下のようになる。
||
\/
「拡張しゆく学習(expanding learning)」
___
| B←|→B
| ↑ |
| ↓ |
A←|→A |
|___|
社会的脈略
上記の理論的発展は、
意味
↓
意義
ということにも通じると思う。
13 :
考える名無しさん:2010/01/13(水) 23:39:40 0
意義=質
意味=量
15 :
考える名無しさん:
意義=sinn
意味=bedeutung