935 :
mumumu:2009/10/04(日) 22:05:22 0
あ、あの。
セックスて別に誰とやってもいいと前まで思ったんです。
ただ最近ひどく不愉快なんですよね。
なんでかっていうと、
好きな人が知らない誰かとセックスをしていると思うとすごく胸が苦しいんです。
私にとってセックスは愛の印だったんですよね。
だから、セックスを奔放に(安易に)する人が減るといいと思うわけです。
殺してもいいのかもしれません。
だけど、私、どんな目にあっても生きていたいから今生きているんだろうと思います。
そんな私を殺さないで欲しいから、私も殺しません。
よく考えない人を守る。それが法律だなと思います。
あんたはバタイユを読め。
セックスと死を結びつけるのは、性と言う点で優れた洞察だ。
だが、世俗的だ。ニーチェの軽蔑するものの思想の内にある。
ところで命題、人殺しはなぜいけないのか
逆に問う。なぜ人を殺すのか。殺さないまでも、望むのか。
938 :
mumumu:2009/10/04(日) 23:27:40 0
>>936 読みます。
私が人を殺したいと思ったことは今まで2回あります。
理由は相手の理解し得ない行為に憎しみを感じました。
悲しいことですが、私の一番の望みは彼らの都合が悪いことでした。
彼らを愛おしく思っていたので、最初は自分が死ねばこの憎しみもなくなるのだろうと思いました。
私を殺さないだけではなく、私は愛おしい人を殺されたくない。
別に知らん人が死んでもなんとも思わない。
レイプ魔の幸せがレイプで。レイプされた人が、その行為に対して不幸せになったら。
レイプされた人はレイプ魔を殺してもおかしいことはない。
それが人を殺す理由。
何故いけないか。
レイプ魔をこよなく愛す人がいるかもしれないから。
その愛す人は、レイプ魔が石打ちの刑にあっても生きていて欲しいから。
つまりはレイプ魔が死ぬのに耐え切れないから。
>>934 こいつはなんでこのスレにいるんだ? てか誰だ?
>>938 違うね。
殺しは自我に巣食う。君が殺せば、それによって君の中の君も同時に死す。
レイプ魔を愛する人なんて、どうでもいいことでしょう。
それは理性の導いた、打算的な結論に過ぎない。
答えは出てるように思える。君がレイプ魔を殺すとき、君はその内に性的興奮と
それが密接に関わってる事を体感する。
憎しみは自我にも何ももたらさない。
相手が死したところで、苦悩が増えるだけだろう。
殺せば、あなたには恐らく絶望が。身を浸食するだろう。
ヘッセのシッダールタも読んでみてください。
942 :
mumumu:2009/10/05(月) 00:16:17 0
愛おしい人を殺されたことで憎しみを感じたので、
混同してしまったのかもしれません。
殺す絶望については考えたことがありませんでした。
ただ殺したとしても、私は殺していないと自分に言い聞かせて絶望から逃げるでしょうね。
正直、その絶望を避けることができず。
絶望から現在私は逃げているのかもしれません。
別に私がレイプされたのではありませんが、
性的な話が好きで、興奮の対象となることは確かです。
読んでみます。
943 :
考える名無しさん:2009/10/05(月) 00:28:32 O
絶望から逃げることなんてできない。
944 :
mumumu:2009/10/05(月) 00:32:31 0
>>943 分かりづらいです。もっと分かりやすく教えてはもらえないでしょうか。
こんな見え透いた自演連発して落とさなきゃいられないようだったら、
最初から完全放置宣言なんぞしなきゃいいのにな。
ヴェテはどこまでもみっともないな。
.
947 :
考える名無しさん:2009/10/05(月) 21:27:08 0
ヴェテって誰だ?
948 :
mumumu:2009/10/07(水) 19:48:53 0
>>941 ヘッセのシッダールタを読みました。
ありがとう。
ほんと往生際悪いっすねw
950 :
考える名無しさん:2009/10/08(木) 12:37:50 0
>何故、人を殺してはいけないのか?
だれも人を殺してはいけないと言ってないだろw
殺したらどうなるかがあるだけだ
>>950 法律とか政治家とかマスゴミとか教員連中が言ってるよ
952 :
考える名無しさん:2009/10/08(木) 14:43:36 0
>>1 なぜお前を殺しちゃいけないの?
教えてよ。
953 :
考える名無しさん:2009/10/08(木) 14:58:54 O
報復されるから
954 :
考える名無しさん:2009/10/08(木) 15:15:24 0
>>951 >法律とか政治家とかマスゴミとか教員連中が言ってるよ
ほほぉ〜、どの法律にどんな文言で書いてあるんだ?
なんという政治家がいつどこで言った?
どのマスゴミがどの記事でそう書いてる?
どの学校のなんという教員が言ってるんだ?
書いてみ?
955 :
考える名無しさん:2009/10/08(木) 15:42:32 0
そうだな
何処にも無い問いを、まるで何処にでもあるかのごとく
スレタイに持ってくるやり方はひとを馬鹿にしてるし頭悪すぎだろ
956 :
考える名無しさん:2009/10/08(木) 18:12:28 0
>何故、人を殺してはいけないのか?
反倫理的であるこの問いは、「〜はいけない」という前提の上に約束ごとにしてるに過ぎない。しかし、
殺したらどうなる云々の「黙認」や「容認」や「許容」でき得ることにもならない。
元ヴェテしつこすぎwほんとキモいな
958 :
考える名無しさん:2009/10/08(木) 18:21:25 0
959 :
まし:2009/10/08(木) 19:31:16 O
960 :
考える名無しさん:2009/10/13(火) 18:19:28 0
私が存在する理由がないからといって、私が消えるわけではないように
「人を殺してはいけない」に対して根拠がないからといって、「人を殺してはいけない」という倫理が消えるわけではない。
「神が世界をつくったのだから、全てのものには目的や理由がある」
だから「人を殺してはいけない」ことにも目的や理由があるはず!!と問わずにいられないのは西洋哲学の悪い癖で
ハイデガーには、そうした西洋哲学や目的論の悪い癖がありますよ、とレヴィナスは批判している(うろ覚え)
961 :
考える名無しさん:2009/10/13(火) 18:20:21 0
「私が存在する理由」とかも分析的に様々な答えは出せますけど、全てこじ付けです。
サルトルが主張したように、理由よりも私が存在することから理由探しがスタートするように
「人を殺してはいけない」という倫理がまず前提にあって、そこからスタートして根拠を探すわけでしょう。
× A だから 「人を殺してはいけない」
○ 「人を殺してはいけない」 なぜなら A だからである。
倫理はこうした形になるよ!とレヴィナスは指摘するが私には決定的だと思う。
962 :
考える名無しさん:2009/10/13(火) 18:21:03 0
「存在は本質に先立つ」
私が存在する理由より私が存在していることが先立つというサルトルの科白のように
「人を殺してはいけない」は「なぜ人を殺してはいけないのか?」に先立つそうです。
963 :
考える名無しさん:2009/10/13(火) 20:32:19 0
先立つて何?
964 :
考える名無しさん:2009/10/13(火) 23:28:20 0
先に死ぬこと!
>>962 そうなの? その問いが立つには「殺人」がそのまた先にあったという事
になるよね。
それから失念しがちなのが「殺人」の「人」の定義。
違うスレにも書いたけど
この世界にアプリオリに規定される「価値観」はない。
なぜなら「価値観」そのものがアポステリオリであるから。
価値観とは言葉の問題である。ならば、言葉の問題になるものは同時因果的に存在する。
全と一、善と悪。こういったものは全て同時因果的に存在するということである。
何故、同時因果となるかというと、言葉の絶対性質的にAを規定すればnonAが存在してしまうから
結局のところ、A,B(=nonA)が存在してしまう。
だが、その存在はもともとは共相依性概念の表象であるから、個人の言葉によって左右される。
また自我の数だけ左右されると同時にそこに時空(時と場所)の問題も絡んでくる。戦争の例などが有名である。
故に、一概には何が良い。何が悪いとは言えない。なぜならば物事の背後は空(絶対無)であるから。
絶対無とは絶対有でもある。枠内の枠外。枠外の枠内。偶然の必然。必然の偶然。
この絶対無と絶対有の弁証法的一般者(共相依性概念、空)を分けるのが言葉である。
ここでいう言葉とは純粋にロゴスとしてではなく論理空間である。
言葉とは極大性を持つからこそ、論理空間の全てを表現できる。故に、言葉≒論理空間といえる。
純粋にロゴス(人間"のみ"が持つ神性)と表現しない理由は動物にも論理空間は存在するから。
ロゴスという表現はキリスト教的価値観の色合いが強くなる故、あえて論理空間とする。
続く
967 :
考える名無しさん:2009/10/18(日) 00:11:47 0
簡潔に言ってしまえば、言葉以前の世界(絶対有にして絶対無の純アプリオリの世界)では何者も何かを規定しない。
故に人を殺してはいけない理由はない、生きている理由も存在しなければ、生きなきゃいけない理由も存在しない。
ミクロの世界(量子論的)では音も色も熱も存在しない。感性は存在しない。なぜならば、ミクロとは感性の成分そのものだから。
感性とはマクロの存在でしか存在しえない。認識もしかり。人間、生物はマクロの世界に存在する。
故に、エントロピー(無秩序さ)が極小の存在であると言える。だからこそ秩序に価値観を求める。
認識とはマクロ的存在の自己と非自己の関係性にしか存在しえない。唯心論、唯物論を超えた唯識論である。
自分の認識そのものは否定できない。故に自我の数だけ認識(=論理空間=自我)が存在する。
確かにアプリオリにはしてはならないことはない。
だが、人間はマクロの世界に生きている故に、マクロ的価値観(社会的道徳、社会的倫理)を求めるのは正常である。
故にアプリオリ的に殺人を悪だと(人をころしてはいけないと)考えることは正しい。
最根本的に「いけない」という理由はない。けれども人間として生きてきた以上「いけない」と考えるのは正常である。
また、自我は多様である。故に、自己の決断は何者も規制できない。故に、人を殺してもよい。
しかし、人を殺した時点で人間としては異常である(と言える)。
968 :
考える名無しさん:2009/10/26(月) 02:30:10 0
おわり
終わらない
970 :
考える名無しさん:2009/10/26(月) 11:55:51 O
柔らかいおっぱい
どうせ胸は変わらんだろ
972 :
考える名無しさん:2009/10/26(月) 22:55:50 0
この世界にアプリオリに規定される「価値観」はない。
なぜなら「価値観」そのものがアポステリオリであるから。
価値観とは言葉の問題である。ならば、言葉の問題になるものは同時因果的に存在する。
全と一、善と悪。こういったものは全て同時因果的に存在するということである。
何故、同時因果となるかというと、言葉の絶対性質的にAを規定すればnonAが存在してしまうから
結局のところ、A,B(=nonA)が存在してしまう。
だが、その存在はもともとは共相依性概念の表象であるから、個人の言葉によって左右される。
また自我の数だけ左右されると同時にそこに時空(時と場所)の問題も絡んでくる。戦争の例などが有名である。
故に、一概には何が良い。何が悪いとは言えない。なぜならば物事の背後は空(絶対無)であるから。
絶対無とは絶対有でもある。枠内の枠外。枠外の枠内。偶然の必然。必然の偶然。
この絶対無と絶対有の弁証法的一般者(共相依性概念、空)を分けるのが言葉である。
ここでいう言葉とは純粋にロゴスとしてではなく論理空間である。
言葉とは極大性を持つからこそ、論理空間の全てを表現できる。故に、言葉≒論理空間といえる。
純粋にロゴス(人間"のみ"が持つ神性)と表現しない理由は動物にも論理空間は存在するから。
ロゴスという表現はキリスト教的価値観の色合いが強くなる故、あえて論理空間とする。
続く
逆に
「人を殺してよい場合とはどういう場合か」
のほうが話が面白くなると思う
正当防衛ですよ
見てたでしょ?
975 :
考える名無しさん:2009/11/05(木) 21:09:46 0
ヒント:正当とはなにか?
>>973 ある人を殺さないとそれより多くの人が死ぬことが明らかな場合
977 :
考える名無しさん:2009/11/06(金) 20:55:19 0
格ゲー五神(提唱者ヌキ)
ウメハラ、ヌキ、ハイタニ、ときど、sako
格ゲー器用系七英雄(提唱者ときど)
sako、にが、ロン毛、RX、ふーど、コモダブランカ、金デヴ
格ゲー女神
ちむちむ、杏野はるな
イエスキリストのファンが多いから
なぜ人を殺してはいけないのか
人を殺してよいことにすると殺し合いが増えて社会が存続しなくなるから
終了
なぜ社会を存続させなければいけないのか。
遺伝子がそうさせるのさ