kyrieの哲学講義♪二講義目

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1kyrie@鬱病 ◆.RYdSpBfEI
過去スレ
kyrieの哲学講義♪【中級・上級者向け】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1238248664/
2kyrie@鬱病 ◆.RYdSpBfEI :2009/09/04(金) 18:09:06 0
今読んでいる本
三島由紀夫:春の雪
the oxford handbook of aesthetics
クワイン:ことばと対象
ドゥルーズ・ガタリ:哲学とはなにか
伊藤雄二:微分積分学
3考える名無しさん:2009/09/04(金) 18:19:33 0
哲学やるなら圏論かじっとくと良いと思う
あと、ベイズ統計学。
21世紀は統計の時代だ
4kyrie@鬱病 ◆.RYdSpBfEI :2009/09/05(土) 00:52:35 0
次の講義は、学問的思索の射程について。

>>3

今は微分積分で一杯一杯だお。
5考える名無しさん:2009/09/05(土) 01:04:09 0
だいたいなあ、初心者のお前が何で【中級・上級者向け】をやれるんだ。
【入門編】で逝け。
6考える名無しさん:2009/09/05(土) 13:40:19 0
>982-984 :kyrie@うつ病
やっぱり、意味不明なところが多すぎ。これでは院試は受からないだろうなあ。
意味不明になっている理由は、大きく分けて2つ。
1. 文章の書き方がおかしい。
2. 哲学用語の使い方がだめ。(哲学用語は、哲学史を踏まえて使わないとだめです。)

まず1について。
推敲してますか? たぶんしていないだろう。
推敲すれば普通はこんな意味不明な文にはならない。例えばこれ。ほとんど意味不明です。

>つまり、彼(現象)に対する態度形成を促す当の現象が、そう呼ばれる。
>人間は自由ではないが、自由の経験はできる。詳しくは話さないが、
>仮に自由になったとき、つまり一そのものとして、諸現象から超越的態度を
>とっているとき、つまり諸現象がすでにそのようには呼ばれず、一なる主観を
>刺激せず、主観を意味論的に曲げる前に現象を解釈してしまうという「思考」という現象に、
>主観が立ち現われる一切を任せ、かつそれができるとき、思考そのものが現象している、
>といえます。

主述関係も、指示語も、言葉遣いも、すべてが曖昧すぎる。
例えば

「そう呼ばれる」「そのようには呼ばれず」の「そう」「そのように」は何を指しているのか。
もし「現象」を指しているのならば、「現象と呼ばれる」と書けばいい。そうすれば誤解が生じる余地もない。

「主観を意味論的に曲げる」・・・意味不明。
推敲して、もっといい表現がないかどうかを考えるのも、哲学のうちだよ。

「現象を解釈してしまう」の主語が不明。

「解釈してしまうという『思考』という現象」・・・推敲すれば、「という〜という」なんていう書き方がおかしいことに気づくはず。
                        しかも前の「という」は、語の使い方そのものがおかしいようだ。
7考える名無しさん:2009/09/05(土) 13:42:21 0
次は2について。
>982
>あらゆる存在者は現象にすぎない、というところから私の哲学は始まります。

「現象にすぎない」という書き方からは、「現象」-「物自体」というカントの哲学が想起されるのだけれども、
あなたの文章には「物自体」に相当するものについての説明がない。「物自体」はあるのかないのか?
もし「現象」以外のものがないとすれば、なぜ「〜にすぎない」という言い方をするのか?

また、あなたは

>存在者と存在とは、内包―外延関係にある

>現実が存在に関して相対的である以上

と、「存在者」と「存在」、「現実」と「存在」を対概念として使っている。
「存在者」=「現象」であるとすれば、「存在」や「現実」は、「現象」とどういう関係にあるのか?
そういう説明が全然ないから、「あらゆる存在者は現象にすぎない」という言葉そのものも、意味不明になってしまっている。


(ついでに言えば、「存在者と存在とは、内包―外延関係にある」や「現実が存在に関して相対的である以上」
という言葉も意味不明。内包=「ある概念に含まれる意味・内容」、外延=「ある概念に対応する事物ないしその集合」
とすれば、ここでは何が「ある概念」に相当するのか?)
8考える名無しさん:2009/09/05(土) 13:44:16 0
>983
「超越論的自我」と「視点」との違いが説明できていないから、>983も意味不明になっている。
カントによればそのような「視点」こそが「超越論的自我」(=統覚)なのだから。

また、そこでメルロ=ポンティに触れるのならば、
彼の立場が、経験論(模写説)と、観念論(構成説)との両方を批判する立場だったことを踏まえて書かないとだめでしょう。

>このデカルト→カント→フッサール→メルロ=ポンティの流れを初めて意識した。

なんて書いても、その流れがどういう流れであるのかを説明しなければ、何も言っていないのと同じ。


(ついでに言えば、「初めて意識した」の主語が不明。 主語はメルロ=ポンティ? それともあなた?)
9考える名無しさん:2009/09/05(土) 13:45:28 0
>984
>その展開に、弁証法があってもいいが、それは本質的でない。

弁証法は本質的でないとあなたが思う根拠が書かれていない。

カントからヘーゲルへの哲学史の流れを理解するためには、
カントの「弁証論」からヘーゲルの「弁証法」への転回を理解する必要がある。

カントは『純粋理性批判』の「弁証論」で、人間理性が迷い込む四つのアンチノミー(二律背反)について書いた。
そして彼は、このアンチノミーという矛盾を解決するために、「物自体」というものを考え出した。

しかしヘーゲルの哲学においては、矛盾対立は、そもそも「解決」されるべきものではない。
矛盾こそが真実である、とヘーゲルは考えた。それが「弁証法」。
矛盾対立するものは、相互に媒介し合って、もっと大きな流れの契機をなしている。
その大きな流れを、ヘーゲルは「絶対精神」と呼んだ。
10考える名無しさん:2009/09/05(土) 13:47:17 0
>精神性は私を若干含み、超越性はそうでない。

あなたは「超越」という語を、どういう意味で使っているの?
批判的に使っているのか、それとも肯定的に使っているのか、それすら読み取れない。

「超越」のように、いろんな哲学者によっていろんな意味で使われた語を用いる場合は、
自分がどういう意味でその語を用いているのかをはっきりさせて書かないと、それだけで、文章全体が意味不明になってしまう。

例えば、カントの哲学は「超越論的」観念論であって、そこでは「超越的」という語は、批判的に使われる場合が多い。
ハイデガーの用法はそれとは違っていて、存在者を越えて存在に向かうことが「超越」だから、「超越」は肯定的に使われる。
11kyrie@鬱病 ◆.RYdSpBfEI :2009/09/05(土) 19:32:45 0
意外としぶといなw
まあ暇なときレス返すよ。
12考える名無しさん:2009/09/05(土) 19:37:19 0
あかんなこいつ
13kyrie@鬱病 ◆.RYdSpBfEI :2009/09/05(土) 19:59:21 0
典型的アカデミズムの一端を見た気がするよ。
院試に向けては、こういう哲学史に忠実な哲学をやったほうがいいんだろう、ということは
分かるが、それに余り拘泥するのも疑問だね。
まあレスはちゃんと返すよ。
14考える名無しさん:2009/09/05(土) 20:52:56 0
哲学である以上、言い回しや用語の使用法を手厳しく批判することは大切かも知れないが、
この人はこの部分で何を言わんとしているのかを、ぼんやりとでもイメージする力はもっと大事。

正確な哲学用語の使用は大切だが、それは今後あなたがじっくり勉強して行けばいいこと。
一番大切なものは、今あなたの頭の中にある、“あなたなりの用語理解に基づく”オリジナルなアイデア・発想。これを潰されることなく育てていくことね。
15考える名無しさん:2009/09/05(土) 20:59:08 0
だったらなおさら借り物の言葉をツギハギにしてはいけないと思うけれど。
16考える名無しさん:2009/09/05(土) 23:27:17 0
>>14
それは違うな。
推敲!推敲!とかいって哲学おたくのオッサンが採点してるけど、これは既に「オリジナルなアイデア」を潰しにかかってるてことだろ。
このスレは「俺様の壮大な釣り」だってことに気がつけザコ
17考える名無しさん:2009/09/06(日) 00:45:19 0
>>13
ヘッポコPの日ゲイなんだから
夢なんか見ないで
日大に逝け
ちなみに日大はむかし
ポン大と言われていた(笑)ウハハ
あるいは日本大学株式会社か(笑)ゲハハ
マスプロ大学バンザイ
18考える名無しさん:2009/09/06(日) 01:21:09 0
19考える名無しさん:2009/09/06(日) 10:37:51 O
アカデミズムかもしれんが、言ってることは至極真っ当だよ。
哲学の院にいくってことは、とりもなおさずアカデミズムにどっぷり浸るってことだからさ。
ところでkyrieは、何故言葉が通じるのか、なんて真面目に考えたことがないのだろうね。
もし一度でも考えたことがあるなら、あんな壊滅的な文章なんか書かないだろうし。
重要なのは議論の帰結ではなくて議論の論証過程だよ。
論証過程を追体験することが議論を理解するってことだ。
追体験させやすくするためのツールが哲学史的用語ね。
君が哲学史的に一般的でない語用法で記述している以上、コミュニケーションにおいてハンディキャップを背負っているも同然なのだよ。
わかる?
君は異言語を使ってるの。
まあ、極論すれば一人一人が違う言語を喋ってて、それがたまたま通じてるだけなんだろうけど。
でも普通の人は、自覚の有無はさておき、他人と似通った言葉を使うようにするのだよ。
言葉が通用する利点って結構でかいからね。
君はまあ、あれだ。
「他人と違う自分カコイイ!!」っていう見栄からなのか、自分の言葉を一般に合わせたくないみたいだが。
不毛だよ、それ。
20考える名無しさん:2009/09/06(日) 10:48:50 O
ああ、念のために言っておくと>>6-10は私じゃない。
向こうはきっと私なんかより余程かしこい。
この前投稿時間がかぶって迷惑もかけたしね。
私のはただの茶々入れだが、向こうは真っ当なアドバイスなのだから聞き流すのはもったいないよ。
kyrie、君が本当に哲学やりたいんならね。
オリジナルな発想・アイデアが潰される、なんてのは明らかな妄言だしね。
もし発想が潰されるような思いつき程度のものなら、むしろ堅持すべきじゃないし。
21kyrie@鬱病 ◆.RYdSpBfEI :2009/09/06(日) 14:35:36 0
そうだね、俺は今アドバイスを受けてる立場だね。
感謝するべきだな。。
ちょっと態度が横柄すぎた。あちらは真摯に対応してくれてるのに、
煽った自分を恥ずかしく思う。今日中にはレス返すよ。
22考える名無しさん:2009/09/06(日) 19:44:49 0
君に必要なのは哲学じゃなくて精神病院だってことを読み取って欲しい
23考える名無しさん:2009/09/06(日) 21:12:03 O
アイデアを潰さないように気をつけて勉強するのではなく、どんなに勉強しても潰されないアイデアを見つけるために勉強するのだよ
24考える名無しさん:2009/09/06(日) 21:29:47 O
>>6-10
全くスレと関係ないけど、もしカントに詳しいなら、ちょっと質問したいことがあるんですが、良いですか?


ついでに現象とか超越論とかを、kyrieはカントじゃなくてフッサールの文脈で使ってるんじゃない?
25kyrie@鬱病 ◆.RYdSpBfEI :2009/09/06(日) 22:45:35 0
ごめん今日中にレスすると言ったが、明日にさせてください。
ちょっと忙しい…
26考える名無しさん:2009/09/06(日) 22:50:01 0
無理するな
もう死んでいいよ
27考える名無しさん:2009/09/07(月) 12:09:54 0
>>21
そもそも大学院に進む人たちが勉強しているのは
「証明論、計算論、高階論理、様相論理、時相論理」など数理哲学。
港の本屋に陳列されているハイデガーやヘーゲルやデイヴィドソンを読んで、それを哲学と呼んで喜んでいるような低能は
独学でやっていたほうがいい。
28考える名無しさん:2009/09/07(月) 12:20:00 0
最低限その辺を理解と数学の素養がないとクリプキやルイスは読めないしな
29考える名無しさん:2009/09/07(月) 12:22:16 0
おまえも死んでいいw
30考える名無しさん:2009/09/07(月) 12:48:12 0
哲学板はゲーデルとカントールで精一杯。
それすら理解しているか怪しい。
31考える名無しさん:2009/09/07(月) 14:16:32 0
「不明瞭さは無能が逃げ込む避難所である。
 法外な難解さは、自分を賢く見せたい虚栄心から生じる。
 素人扱いされるのを覚悟して、仲間言葉を避け簡潔に書きなさい。」


ジョン・サール
32考える名無しさん:2009/09/07(月) 15:21:41 O
>>30
お前、数学どころか数学史も勉強したことないだろw
33考える名無しさん:2009/09/07(月) 15:32:12 0
>>27
アメリカはそんな感じらしいね
数学科に認識論が加わったのがアメリカの哲学科で文系じゃない
34考える名無しさん:2009/09/08(火) 12:25:13 0
何でこんなカスコテのスレが続いてんだ?
この板はやつらはよっぽどニートしてんだなw
35kyrie@鬱病 ◆.RYdSpBfEI :2009/09/08(火) 20:24:45 0
>>27

それ日本の話?大学院試で数学を使うところはないみたいだけど、
記号論理学だけは大学中にマスターしたい。
まだ時間はあるから。俺のテーマは、「論理記号を使ったテーゼが、本当に
語りたいことを表現できているかどうか」、「式間の関係に入り込む余地の在る自明性の克服」
だよ。

>>33
マジか、日本の哲学科も数学必須にしたほうがいいな、
水をあけられそうだ…
と日本と文系哲学の将来に憂いてしまう。
36kyrie@鬱病 ◆.RYdSpBfEI :2009/09/08(火) 20:35:00 0
>>7

レスが遅れて申し訳ない。

>「現象にすぎない」という書き方からは、「現象」-「物自体」というカントの哲学が想起されるのだけれども、
>あなたの文章には「物自体」に相当するものについての説明がない。「物自体」はあるのかないのか?
>もし「現象」以外のものがないとすれば、なぜ「〜にすぎない」という言い方をするのか?

これは、物自体という観念自体が、現象に過ぎない、ということを意味してたんだ。
物―現象という構図も、物を現象として借定しなければ生まれない、と考えた。
説明不足ですみません。

>と、「存在者」と「存在」、「現実」と「存在」を対概念として使っている。
>「存在者」=「現象」であるとすれば、「存在」や「現実」は、「現象」とどういう関係にあるのか?
>そういう説明が全然ないから、「あらゆる存在者は現象にすぎない」という言葉そのものも、意味不明になってしまっている。

そういう風に取られてしまったのなら、やっぱりぽれの文章が悪かった。
存在そのものは現象とは対立し、また存在そのものに現象自体が含まれる一方、
現象に存在そのものも含まれる。それだから、全ての事象を現象だけで説明する仕方と、
存在だけで説明する仕方が在って、俺は時間そのものが、とても他のあらゆる存在と呼ばれるものと同義に
「存在」として扱われることに難を感じるから、全ては現象だ、と言いたかったのです。
存在の定式は、「抽象的なイメージ上に位置をもつ」と定義できそう。
すると、ベルグソンの持続は、時間をイメージ化したものだが、それは俺にとっては受け入れがたい。
37kyrie@鬱病 ◆.RYdSpBfEI :2009/09/08(火) 20:43:21 0
>>8

視点は、自我がなくても、在るものだと思ってる。というのは、
超越論的自我は、現象学的還元以前の世界から超越しているわけで、
その以前の世界を観察するわけだけど、視点は、ある存在(現象)が見られうる、と
考え得るものには常に生じているのだから。
超越論的自我の自己反省は、以前の還元前の世界を、超越するという行為から
努力して自我を切り離す。というのは、自己反省は、内面を観照することだとしたら、
以前の世界から超越している必要があるからで、努力が必要だと言うのは、
こう現象している己を世界から超越させるのに、複数の心的操作(記号操作。)を
要するから。これでもやっぱり分かりづらい文章になってる?
38kyrie@鬱病 ◆.RYdSpBfEI :2009/09/08(火) 20:48:10 0
>>9

これは素直に勉強なる。
ちょっと古典を疎かにしすぎたみたい。
俺が捉える弁証法とは、物事(俺の言う現象)には、常に否定されるべき面と
肯定されるべき面が混在していて、そのどちらの立場からも超越する、そして、
肯定的に扱われていたものがこの超越した立場からみて、なぜそれが肯定的に
扱われていたのかを問い、なぜ否定されないのかを問い、もってその現象に対する
肯定的・否定的態度を保留して、その保留された態度から帰納的に、分析的にそのものの
本質を問うこと。
これはヘーゲルの定義とは全然違うかも知れないね。
39考える名無しさん:2009/09/08(火) 20:54:48 0
もうどうでもいい。
糖質の戯言はあきたから3行で書いてくれない?
40考える名無しさん:2009/09/08(火) 22:18:47 0
哲学を志す以上、その人なりの哲学の<萌芽>というものは必ずある
それが潰されてしまったら、その人は哲学ではなく他の道に進むであろう

いかにドラスティックな批判であれ、やはりその人独自の<萌芽>を育てるという観点からでなければならない
さもなくば、単なる意地悪・潰しという「2ちゃんメンタリティー」に堕すのである
41考える名無しさん:2009/09/08(火) 22:33:47 0
どんどん潰されて潰しがきく人になってください
哲学なんてやってるのは所詮はキチガイの戯言と同じと相場が決まってますよ?
42考える名無しさん:2009/09/08(火) 22:46:04 0
確かに潰されて「他の道に進む」方が幸せになる可能性は高いかもなww
ただ自分の中に才能の芽がいくつもあればの話だがなww
43考える名無しさん:2009/09/09(水) 16:13:54 O
ってかkyrieはヘーゲルにしろベルグソンにしろ、フッサールにしろ、読んだことあるの?
カントに至っては解説書すら読んだことないんじゃない?

質問者から「物自体」について問われてるけど、分からないなら分からないって言えばいいじゃん。実際、君が今論じてるのは現象学的(+α?)な問題設定の上での事柄でしょ? 別に物自体を想定する必要はないんじゃない? 無理矢理答えようとするからグダグダになってる。
44考える名無しさん:2009/09/09(水) 17:18:04 O
あるわけないだろバカ
45考える名無しさん:2009/09/09(水) 18:37:53 0

kyrieは確実にニートへの道を邁進しておるな

哲学書をなんも読んどらんではないか

pikarrrの正統な後継者になる日も近い
46考える名無しさん:2009/09/09(水) 18:40:42 0
哲学専攻しても仕事なんてねーよ
47考える名無しさん:2009/09/10(木) 01:36:39 0
>>45
なんか弱虫なケンシンロウみたいw
48考える名無しさん:2009/09/12(土) 19:09:58 O
ところでkyrieは物理学などの諸科学をどう捉えているのだろう。
kyrieの唱える文言の上には如何なる科学も成り立たない気がするんだが。
49考える名無しさん:2009/09/13(日) 01:52:17 0
ファイアアーベントみたいに病院や医学を批判しておいて
自分が病気になると病院や医学のお世話になるんだろうな
50考える名無しさん:2009/09/13(日) 01:55:25 0
逆に聞きたいんだが、哲学専攻したらどういう仕事ができるの?
51考える名無しさん:2009/09/13(日) 02:00:01 0
仕事に就けなくなる
52:2009/09/13(日) 02:12:45 O
口中溶解除
53考える名無しさん:2009/09/13(日) 02:22:19 0
>>50
知り合いの哲学科の人はみんなITをやってる。
論理学をITに活かすぐらいしか行き場がないらしい。
54考える名無しさん:2009/09/13(日) 02:46:06 0
ITってのは専門卒(高卒)のITと、情報科卒業のITの2つあるんだが、
多分君が言うITは携帯用アプリとか作るITドカタのほうだろう

確かにOOPとかは実際のところ数学なんか必要ないし抽象度が高いし哲学適正があるやつの方がいいかもな。
55考える名無しさん:2009/09/13(日) 03:29:25 0
そうそう
ITドカタをやってるって言ってた。
56考える名無しさん:2009/09/13(日) 03:36:06 0
論理的に人生を組み立てた結果がそれか。
そう長く続けられる仕事でもなかろうに
57kyrie@鬱病 ◆.RYdSpBfEI :2009/09/13(日) 04:14:12 0
>>48

物理学は物自体の相互関係という存在論的前提のうえにたつ…というつもりは
毛頭ない。
存在論的、前学問的な諸世界の了解(常識)があって、その了解を分析して得られるテーゼを
学問的と呼ぶ。
予め在る得る真理を、分析的に明らかにすることが学問である、とする俺は人間原理 に
立っているのかも知れない。ただし予め在る、というのは、真理に対して人間が
発見するものが相対的である、ということを前提する。それでも、理念的な真理の
存在を認めていて、ここにもウィトの写像理論を俺は援用している。
58考える名無しさん:2009/09/13(日) 16:15:58 O
ごめんよくわからん。
どこに写像理論を援用したらそうなるの?
kyrieのいうところの写像理論を説明してほしい。
59考える名無しさん:2009/09/13(日) 20:32:20 O
日本語に翻訳してみる!

>物理学は物自体の相互関係という存在論的前提のうえにたつ…というつもりは毛頭ない。

物理学について、形而上学的な前提は無意味である。
つまり物理学そのものの、アプリオリな必然性は存在しない。

>存在論的、前学問的な諸世界の了解(常識)があって、

しかし、学問が空虚といいたいわけではない。
学問は日常生活から抽象されてきたものである。
だから学問はアプリオリに成立するのではないが、
日常的な了解を基礎にして成立する。
たとえば「林檎は植物である」、「林檎は落下する」みたいに、
学問以前に、事態は成立している(事態とはウィトゲンシュタインの用語で、命題のことだ)。
それらの事態は一般に人々の間で
了解されているだろう。

>その了解を分析して得られるテーゼを 学問的と呼ぶ。

「植物とは林檎、蜜柑、梨……」と分析することで、植物の学が成立する。
また「林檎が落ちるのは、引力のせい」と分析することで物理学が、成立する。

>予め在る得る真理を、分析的に明らかにすることが学問である、

真理自体は人間の認識とは無関係に、世界の側に実在している。
人間は分析を繰り返すことによってしか、真理に達し得ない。
なぜなら「人間にとっての」世界は事態=了解の集合なので、
その事態の解明を通じてしか、学問を形成しえないのだから。
60考える名無しさん:2009/09/13(日) 20:34:01 O
>とする俺は人間原理 に 立っているのかも知れない。



>ただし予め在る、というのは、真理に対して人間が 発見するものが相対的である、ということを前提する。

ゆえに「人間にとって」真理は相対的なものに留まる。
なぜなら、人々の諸了解は絶対的必然的なものではないからだ。
だから真理は相対的なものである。
ただし、理念的たりうる。

>それでも、理念的な真理の存在を認めていて、ここにもウィトの写像理論を俺は援用している。

ところで日常的な了解を事態とみなす点で、
ウィトゲンシュタインの写像理論が援用されている。
つまり言語の分析を的確に行うことで、
真なる命題へと近づける。
61考える名無しさん:2009/09/13(日) 20:40:24 0
暇だね
62考える名無しさん:2009/09/13(日) 20:43:02 O
食後の暇潰しさ。
63考える名無しさん:2009/09/13(日) 20:54:48 O
>>59-60
乙!
なるほどなるほど。
でもウィトの写像理論って観念論的認識論じゃないか。
ということは、kyrieは物自体と現象の対比の構図を採用してるってこと?
64フラーレン:2009/09/13(日) 20:57:18 O
あっとま
65考える名無しさん:2009/09/13(日) 20:58:00 O
でも上の方で採用してないって言ってなかったっけ。
あとは本人に直接聞くしかないさ。
66考える名無しさん:2009/09/15(火) 15:26:45 O
kyrieは多分写像理論をきちんと理解できていないんだろうと思う。だから言語ゲームを上手に行えないんじゃないかな。
だから、kyrieが援用しているその「写像理論」について説明してほしいわけなんのだが。
援用っていうのは、その理論が成り立つ前提条件まで含めてなされなければ意味を持たないわけだし、であるならばkyrieの現在の主張と整合性がとれないように見える。
67考える名無しさん:2009/09/15(火) 16:29:25 0
クワインを読んでるのに明瞭さ、単純さ、わかり易さとか一切気にしないのは何故?
詳しくないけどクワインって分かり易さの重要性を主張した人じゃないんですか?
68考える名無しさん :2009/09/15(火) 16:36:14 0
>>67
kyrieは日芸の3年生
哲学はド素人なんだから無理ですw
69考える名無しさん:2009/09/15(火) 18:55:52 O
とりあえず、言葉の意味について考えてみましょう。
まず、言葉が意味を持つというのは現実的ではありません。
言葉というのはツールにすぎず、外的世界に属するものだからです。
外的世界にあるものが単体で意味を持つというのは観念論的には正しくないですね。意味は外的世界の写像に対して見いだされるものですから。
ということで、物理的になされた言葉、つまり話されたり書かれたりした言葉には意味などないわけです。
それらは外的世界に属するものであり、言葉とは任意の発話者の内的世界から任意の聞き手の内的世界へと直接働きかける機能を持ったツールではないのです。
よって、言葉が意味を持つということが現実的でないということが言えるわけです。

続きはなんかめんどいからやめよう。
70考える名無しさん:2009/09/15(火) 20:13:11 0
>>36-38 :kyrie@鬱病
哲学史の勉強をしていると書いてあったけど、その成果はあまり見られないなあ。
あと一年で院試は難しそうだ。本気で受けるつもりなのかなあ?

>これは、物自体という観念自体が、現象に過ぎない、ということを意味してたんだ。
>物―現象という構図も、物を現象として借定しなければ生まれない、と考えた。

「物自体」を「物」と言い換えてしまっている。「物自体」という哲学用語を知らないのかな・・・

>存在そのものは現象とは対立し、また存在そのものに現象自体が含まれる一方、
>現象に存在そのものも含まれる。

これでは、「存在」と「現象」という語で、あなたがどういう事柄を考えているのか、全く分かりません。

哲学史的にいうと・・・

「現象」は、一般に「現われ」を意味していて、
その「現われ」の背後に「本体」があると考えたのがプラトン(イデア論)。
カントもこの考え方を継承していて、「現象」の背後にある経験できない対象を「物自体」「本体」と呼んだ。
フッサールの現象学では、そのような「現象の背後」については判断を停止する。

しかしフッサールは、デカルト-カントによって確立された近代主観性の立場と、それによって変質した「現象」の意味を継承している。
主観が客観に従うのではなく、逆に客観が主観に従う、というカントのコペルニクス的転回によって、「現象」の意味も変質していて、
だからカント-フッサールにおける「現象」は、「主観」(意識)によって構成される「客観」(対象)という意味を帯びている。

そのようなカント-フッサールの意識中心主義、主客対立の立場とその「現象」概念を批判したのがハイデガーで、
ハイデガーによれば、「現われ」としての「現象」は、元来、そのように「意識」に結びついたものではなく、
「存在」そのものが「現われ」てくることが「現象」の本来の意味であるとされる。
71考える名無しさん:2009/09/15(火) 20:14:16 0
>俺は時間そのものが、とても他のあらゆる存在と呼ばれるものと同義に
>「存在」として扱われることに難を感じるから、全ては現象だ、と言いたかったのです。

「時間」には、カント-フッサール的意味での「現象」(意識によって構成される対象)としては捉えきれない側面がある。
(カントの哲学では、時間は「現象」でも「物自体」でもない「直観形式」とされている。)
「時間」は、意識によって構成される対象などではなく、本来、「意識」と「時間」とは分けられないものである
(いわば「意識」そのものが「時間」の流れに乗っている)と考えたのがハイデガーであり、ベルクソンです。

(後期フッサールの生活世界論は、そのようなハイデガーやベルクソンの考え方に近づいている。
 構成する「意識」と構成される「対象」という図式では捉えきれない、「存在(=時間)」の次元が問題になってきたと言える。
 つまり「意識」に対する「対象」(主観に対する客観)は、いわば「図」であって、
 その「図」を可能にする「地(=地平)」が問題化してきたと言える。)

>すると、ベルグソンの持続は、時間をイメージ化したものだが、それは俺にとっては受け入れがたい。

ベルグソンは「イメージ(イマージュ)」という概念について、それは「『物』と『表象』との中間にある存在」であると書いていて、
「持続」については、「直観の理論の前に持続の理論がある。前者は後者から出る。」と書いている。
だから、ベルグソンの「イマージュ」や「持続」という概念は、「観念」と「物質」、あるいは「意識」と「対象」とが分かれる以前の、
もっと大きな流れを示そうとしていると言えます。(その意味では、>>9で書いたヘーゲルの弁証法の考え方に似ている。)
(前にあなたが書いたメルロ=ポンティの身体論も、主観性と客観性が分かれる以前の原初的なものを問題にしている点は同じ。)
72考える名無しさん:2009/09/15(火) 20:15:56 0
>視点は、自我がなくても、在るものだと思ってる。というのは、
>超越論的自我は、現象学的還元以前の世界から超越しているわけで、
>その以前の世界を観察するわけだけど、視点は、ある存在(現象)が見られうる、と
>考え得るものには常に生じているのだから。

これも、意味がわからない。
カントもフッサールも、「経験的自我」と「超越論的自我」とを分けているけど、
「その以前の世界を観察する」のは、「超越論的自我」ではなくて「経験的自我」でしょう。

「視点」が何を意味しているのかも、やはり分からない。
それは「超越論的自我」(フッサールの「自我極」)との違いが分からない。
7369:2009/09/15(火) 23:17:27 O
気が向いたので続き。

言葉が意味を持つというのが現実的ではないというお話は先程しましたが、では意味はどこにあるのでしょう。
これも先程書いたのですが、意味は「見いだされる」のです。
意味は、その意味を見いだした個人の中にしか存在しないと言えます。
意味の違いは認識価値の違い。もっと正確に言うならば、意味と意義との差なのですが、ここではつぶして「意味」としてしまいます。
意義と意味との違いについては、フレーゲの用いた区別を援用しています。詳しくは明けの明星、宵の明星の議論を参考にして下さい。
その個人の中にしか存在しないというのは、内的世界は地続きではないということです。
ライプニッツに言わせれば、「モナドには窓が無い」といったところでしょうか。
ですから、言葉の意味はその人に固有なものなのです。
一人一人が全く別の言語を喋っていると言っても過言ではないくらい、個人間で意味は異なるわけです。
ところで、人はあまりに多くの物事を推測で済ませてしまいます。
推測に使用されるツールは、言語です。
そして、ここが肝要な部分ですが、日本語という単一の言語が存在するという迷信が強固にあります。
自分の喋っている言語と他人の喋っている言語とは同じものである、と。
だから自分の行っていることは理解されて当然だ、と。
「話せばわかる」なんてのは真っ赤な嘘なわけです。
話したってわからないのですよ。
内的世界は個々に独立してるんですから。
内的世界が近い構造をしている場合は、話が通じやすいでしょう。
全く違う構造をしていたら、通じにくいです。
異言語間の通じなさって、そういうところに起因するのでしょう。
逆に、生活を共にするような関係の人同士は似通った内的世界が構築されるでしょうから、話が通じやすいかもしれません。
74考える名無しさん:2009/09/15(火) 23:39:17 O
ここまで書いてかなり用語の用法が適当なことに気づきました。あまり偉そうなことは言えませんね。

さて、ここからは有用性のお話です。
上で見たように、個人間で「世界」はかなり異なっています。
ではなぜ言葉を用いて意志疎通めいたことが出来るのかと言うと、きっとそこに「了解」があるからなのだろうと思います。
一昔前に「私の見ている赤とあなたの見ている赤は違うかもしれない」なんていうパズルが流行りましたね。
クオリアがどうとか。別に違ってたからといって何が困るわけでなし。
赤という言葉で然々の情報処理が行われれば何も問題は無いのです。
逆に、情報処理に不都合が起きては困る。
「弁証法」という単語で別々の内容を思い浮かべる、つまり別々の情報処理をしているようでは対話にならない。
然々の言葉には然々の処理が対応する、という「了解」があると、対話は無用なストレスを感じることなく行えます。
kyrie君はまだそういう「了解」に不馴れなようです。
その了解とは何かと言うと、この場合は哲学史的知識だったわけですが。

まだ途中ですが、携帯電話は長文を打つ気力がもちません。このあたりでやめます。
それでは、勉強頑張って下さいね。
75考える名無しさん:2009/09/16(水) 01:23:41 0
>>73
横レス失礼。

>>73の「意味」についての説明は、文章の流れから言って、
フレーゲ流の意義(Sin)の説明のように読めますが、だとしたら不適切でしょう。
フレーゲの意義は表象とは異なり、
「記号の意義は多くの人々の共有財産となり得るものであり、
したがって個々の人間の心の部分でもなければ様態でもない。」
と述べられていますから。
76考える名無しさん:2009/09/16(水) 01:59:55 O
>>75
あら、そうでしたか。
すみません。今は確認のしようがないのですが、私の知識も甚だあやしいものですからきっと早とちりしていたのでしょう。読み返してみると飛躍があります。確かに不適切ですね。
これらの行を削ってしまうか、もう少し説明を付け足すかして修正するべきなのでしょうが。
手間の問題でこのままにしておきます。
SinnとBedeutungとの区別はもっとデリケートに扱わなければいけませんね。
失礼しました。
77考える名無しさん:2009/09/17(木) 09:42:54 0
>フレーゲ流の意義(Sin)の説明のように読めますが、だとしたら不適切でしょう。

かっこわるい…
78考える名無しさん:2009/09/17(木) 12:58:35 O
>>1はもういないの?
79記憶喪失した男:2009/09/17(木) 20:59:45 0 BE:3545318988-2BP(0)
キリエ、おまいはおれの弟子入りを断わった。
だから、対等の論客だ。
まず、あらゆる科学理論は近似にすぎない、ということを理解しろ。
そこから、人の認識はすべて近似にすぎないことに気づけ。
その結論は、物理実体は決して触れることがなく存在し、
現実とは、人の感覚器の見る情報体である。と知れ。

これは二十一歳におれがすでに気づいていたことだ。
キリエ、おまえ、おれに出遅れてるぞ。
80kyrie ◆.RYdSpBfEI :2009/09/18(金) 22:17:19 O
ごめんなさい旅行行ってました汗
アクセス禁止中なんでレスは連休明けにします
81考える名無しさん:2009/09/18(金) 22:27:06 0
>>79
何熱くなってんの?w
このおっさんww
82考える名無しさん:2009/09/18(金) 22:34:01 0
>>80
大学院受験生がノンキなもんだ
院は無理だなw
83考える名無しさん:2009/09/18(金) 22:54:36 0
>>82
ていうか、オッサン、乙
84kyrie@うつ病 ◆.RYdSpBfEI :2009/09/24(木) 18:01:25 0
>「現象」は、一般に「現われ」を意味していて、
>その「現われ」の背後に「本体」があると考えたのがプラトン(イデア論)。
>カントもこの考え方を継承していて、「現象」の背後にある経験できない対象を「物自体」「本体」と呼んだ。
>フッサールの現象学では、そのような「現象の背後」については判断を停止する。

明快だね。俺の言う現象は、物自体に対する現れとしての現象でない。
物自体が持続する、という言い回しだけで、その各持続の瞬間に対して現れていて、物自体が
安住する瞬間は有り得ず、従って物自体というものがあり得ない、というのが俺の主張。
プラトンの意味でのイデアは、物自体があり、それに対する主観の像がある、しかしその中間に
その二つを結びつけるべき哲学が欠けている、というのを俺の彼に対する反論とする。
また、カントに対しては、内観の形式たる時間が、時間の形式たる内観、つまり
内観に依らずしては時間は捉えられない、ということを見逃している、と反論する。
フッサールに対しては、すべてを現象に還元したのちは、自我さえも現象となるが、
その自我にも関わらず現象を考える超越論的自我がある、とする、説明順序に反対する。
つまり、まず諸現象をエポケーした自我をすらエポケーするのは超越論的自我なのだが、
超越論的自我なるものが、エポケー以前に存在したか、という考察を怠ったことに対して、
また現象たる自我を考える超越論的自我が、次第にエポケーされた側である自我と同一視されている節に
対して、それに反対する。彼のいう超越論的自我状態は、こう俺の言葉に還元される。
つまり、日常の世界に分析的に関わっている思惟が、分析を数学的に推し進めるべき
機会をもったのなら、世界を内観の方向に分析する、あるいは物理の方向に分析する。
生きるということは、綜合的であり、分析的な状態たる反省状態は、時間を推し進めない。
それにも関らず時間が進んでいる、と主張するのは、時間と自我が完全に並行する、
「書き」状態に人間は在るからだ、と主張する。
「書き」については貴方はまるで理解できていないから、今度説明する。
85kyrie@うつ病 ◆.RYdSpBfEI :2009/09/24(木) 18:08:45 0

>「時間」には、カント-フッサール的意味での「現象」(意識によって構成される対象)としては捉えきれない側面がある。
>(カントの哲学では、時間は「現象」でも「物自体」でもない「直観形式」とされている。)
>「時間」は、意識によって構成される対象などではなく、本来、「意識」と「時間」とは分けられないものである
>(いわば「意識」そのものが「時間」の流れに乗っている)と考えたのがハイデガーであり、ベルクソンです。

時間は、物自体でも現象でもない。同意。時間は、分析的に物事を深く理解しようとしたときに、
現れる、次の瞬間への保留であり、生そのものを世界に対させる、つまり生を綜合するときに、初めて
意味をもつ概念である、というのが俺の主張。

>ベルグソンは「イメージ(イマージュ)」という概念について、それは「『物』と『表象』との中間にある存在」であると書いていて、
>「持続」については、「直観の理論の前に持続の理論がある。前者は後者から出る。」と書いている。
>だから、ベルグソンの「イマージュ」や「持続」という概念は、「観念」と「物質」、あるいは「意識」と「対象」とが分かれる以前の、
>もっと大きな流れを示そうとしていると言えます。

これには大反対。俺のいうイメージは、ベルグソンのいうイマージュでなく、もっと一般的な用語。
ベルグソンの言うイマージュは、物自体なき感覚なき、ある空虚な世界なき世界に対する漠然とした意識だ、
ということが「物質と記憶」から読み取れるはず。さらにこの意識は、志向性を持ってないし、
対象ももっていない。何も言わないし、何も聞かない。この人工的な原初状態をイマージュと
呼んだので、彼の論文全体が、非常に脆くなている。そして、俺の言うイメージは、
単純に「像」と読んでもらって構わない。すると、ベルグソンの持続は、
進行を伴ったニュアンスの変化である、と彼ははっきり書いている。
86kyrie@うつ病 ◆.RYdSpBfEI :2009/09/24(木) 18:16:46 0
>>72
 >視点は、自我がなくても、在るものだと思ってる。というのは、
 >超越論的自我は、現象学的還元以前の世界から超越しているわけで、
 >その以前の世界を観察するわけだけど、視点は、ある存在(現象)が見られうる、と
 >考え得るものには常に生じているのだから。

>これも、意味がわからない。
>カントもフッサールも、「経験的自我」と「超越論的自我」とを分けているけど、
>「その以前の世界を観察する」のは、「超越論的自我」ではなくて「経験的自我」でしょう。

それ以前の世界を観察するのは、超越論的自我でない、と貴方は主張した。
すると過去を考えるのはなに?超越論的状態にある自我は、還元した現象を純粋記述していくの
だけれど、その場所はどこ?そして現象はどこにある?教科書的な知識じゃ解けない問題を
貴方に差し向ける。もっとも、これらは「書き」理論で明確に説明されるのだけれど。後述。

>「視点」が何を意味しているのかも、やはり分からない。
>それは「超越論的自我」(フッサールの「自我極」)との違いが分からない

当然だろうね。哲学史的な知識じゃ追いつかない、現代的な話をしているのだから。
噛み砕いて言うと、「見られうる」というステータスは、現象、物自体という別を超えて
あるのだ、ということ。また、これに類比して貴方の絶対に理解できないことを付記すると、
「対象周りにある間」というステータスは、ある現象なり物自体なりが、論理的関係に
入るためにそれ自体で、関係無き関係(デリダチックに。)、すなわち関係を前提した関係のない状態と
いう意味をもっている。視点は、それが見られうる、というだけで、存在する。
また、「間」は、それが関係をもちうる、というだけで存在する。
87kyrie@うつ病 ◆.RYdSpBfEI :2009/09/24(木) 18:20:16 0
>>79

創作板ではスルーしてごめん><
あのp作品を読んでくれてありがとう。アドヴァイスは真摯に受け止めるよ。
で、それだけ言われても…
もっと詳しく言ってよ。
科学理論は、何に対して近似しているの?物自体の世界?
88考える名無しさん:2009/09/24(木) 19:30:18 O
ねーねーkyrie、>>63についてはどうなの?
89考える名無しさん:2009/09/24(木) 20:50:08 O
とりあえず>>58が気になるんだけど答えないの?

ってか哲学史と哲学の問題が混在してて不毛すぎ。
君はアカデミズムを嫌ってるみたいだけど、
今話してる内容は学部の
講義レベルのことじゃん。
アカデミズム以前だよ。
物自体が云々とかイマージュが云々とかってのは、
>>70の主観的意見が述べられているわけじゃなく、
哲学史の通念としての事柄が語られてるだけでしょ。
なのに君は哲学の話をしてる気になってる。
更に、相手が教科書的な受け答えしかしないのを見て、
自分の哲学を理解されないと歎く。
君がやってるのは、林檎を指差して
「俺はこれを蜜柑と何付ける。」といった揚句、
「あいつは蜜柑の味を知らない」みたいな二重に
捻れた論説だよ。

哲学者を批判したいなら、用語は正しく使ってよ。
哲学したいなら、昔の哲学者を持ち出すなよ。
90記憶喪失した男:2009/09/24(木) 20:57:46 0 BE:2215824285-2BP(0)
>>87
プトレマイオスの天動説は、かなり正しく惑星の軌道を予測できた。
ニュートンの大原理は、かなり正しく惑星の軌道を予測できた。
しかし、それらはどれもまちがっており、
現在、アインシュタインの相対性理論が最も精度の高い惑星軌道計算だとされている。
しかし、誰もが承知の通り、相対性原理でも、まだ水星の軌道の計算とのズレを修正できない。
つまり、相対性理論も、真理の近似式にすぎないということだ。
91考える名無しさん:2009/09/24(木) 20:57:47 O
>物自体が持続する
なんで物自体は持続するの?少なくともカントは持続を現象だとして、物自体には帰してないよ?どういうニュアンスで物自体、持続って語を使ってるの?

>という言い回し
誰の言い回し?過去のレスで誰か使ってたっけ?

>その各持続の瞬間に対して現れていて、
何が現れてるの?

>従って物自体というものがあり得ない
なぜ?

>プラトンの意味でのイデアは、物自体があり
プラトンは真「実在」として、
非現実界にイデアを措定し、
現象と区別した。で、イデアに
合致することが真理基準だった。
カントはプラトンの枠組みを
継承しつつも、現象=「実在」に
組み替えた。「真」という超越
概念の基準は、現象側にあり、
物自体の側にはない。
ゆえにプラトンと物自体は関係ない。
と思うけどどうさ?

>しかしその中間にその二つを結びつけるべき哲学が欠けている
分有を巡るプラトン及びギリシア・中世の涙ぐましい努力は哲学とは呼べないの?

>カントに対しては、内観の形式たる時間が、時間の形式たる内観、
純粋内観のこと? 単なる内観≠形式だよ?
92考える名無しさん:2009/09/24(木) 21:00:22 O
>内観に依らずしては時間は捉えられない、ということを見逃している
カントは見逃してはいないよ。
全ての認識は経験でもって始まる(序論)。
実質つまり内観に依らなきゃ時間は捉えられない。
カントの何を批判したいの?

>超越論的自我なるものが、エポケー以前に存在した
「以前」に存在したなんて述べてる箇所あったっけ?
>俺のいうイメージは、ベルグソンのいうイマージュでなく、もっと一般的な用語。
上でベルグソンのイマージュを
批判してた件について語ってい
るのであって、君の「イメージ」
について言及してるんじゃないんじゃないの?

>ベルグソンの言うイマージュは、物自体なき感覚なき、ある空虚な世界なき世界に対する漠然とした意識だ
志向性はないけど強度があるから、漠然としたものではないんじゃない?
「漠然」として退ける根拠は何?

>この人工的な原初状態をイマージュと呼んだ
もしかしてイマージュ=持続だと思ってるの?

>当然だろうね。哲学史的な知識じゃ追いつかない、現代的な話をしているのだから。
じゃあ頼むから、過去の哲学者の名前を持ち出さないでください。
特にカント。君は何も感じてないかも知れないけど、
君のカントに関する言及は、ラノベしか読んでない
のに文学を語る中学生のように滑稽です。

>これに類比して貴方の絶対に理解できないことを付記すると、
まず君は相手の言葉を理解してる?さっきから、論点がズレズレで、答えるべきとこを答えず、自分の言いたいことだけを書いてない?
93考える名無しさん:2009/09/24(木) 21:05:20 O
インド料理のサンクスへようこそ
94考える名無しさん:2009/09/24(木) 21:11:11 O
まさかひとやって無いよね
95考える名無しさん:2009/09/25(金) 00:57:19 0
日芸って
ほんまにアホやね
kyrieはフリーター向きやと思う
96kyrie@うつ病 ◆.RYdSpBfEI :2009/09/25(金) 12:00:12 0
>>92

そんなに興奮しないでよ。
煽りあいはごめんだから、俺が先に煽ったことを謝って、以後はまた俺の講義に戻るよ。
至らない部分を指摘してくれてありがとう。自分の哲学史の弱さを指摘してくれたことを感謝します。

>>88
忘れてたわけじゃないんだからね

>>89

>哲学者を批判したいなら、用語は正しく使ってよ。
>哲学したいなら、昔の哲学者を持ち出すなよ。

哲学をするにあたって、昔の哲学者を利用しないことはできないよ。
日本人は、欧米から輸入された現代性を加工するべきだが、それを加工するには、
当の加工が、その現代性から導かれるところの論証を、その現代性へ導いたところの論証から
汲む必要があるという意味で、西洋哲学の大まかな流れは必須。でも、
いちいちの用語に拘泥しなくとも、その思想を掴めば十分だと思ってる。
院試ではそうもいかないけどさ。俺には少なくとも、欧米の現代思想を加工するだけの
下地は出来上がってる、と思ってる。

>>90

貴方は単純すぎ。つまり、ある一義的な真理があって、科学はそれに近似していく
と主張するだけなら、トーマス・クーンのパラダイムと同じ主張じゃん。
どうしてニュートンやアインシュタインが、何かに近付いていると言える?
その何かが、存在するなどとは証明できないし、何か正しいものが一義にあるなんて
そもそも科学が近似にすぎないのならば(つまり何かに近付いている、という感触があるのならば)
科学は近似をいずれは超える。越えるべき対象がjはっきりしているから。、
未来永劫にわたって科学が近似に過ぎない、という主張を、単に過去の事例から
憶測しているだけ。
9792:2009/09/25(金) 12:17:48 O
誰と勘違いしてるの?
98記憶喪失した男:2009/09/26(土) 07:19:44 0
>>96 
おれの主張した>>90は、不確定性原理のハイゼンベルグの哲学だ。
惑星の軌道計算結果と、観測結果は、>>90のように進歩していく。
つまり、どんな科学も正確な数値を出すことはできず、
利便性によって利用されるだけだということだ。

ここから、おれは不可知論を自らの哲学としている。
99考える名無しさん:2009/09/26(土) 15:12:58 0
>>96
>貴方は単純すぎ。つまり、ある一義的な真理があって、科学はそれに近似していく
>と主張するだけなら、トーマス・クーンのパラダイムと同じ主張じゃん。

はあ?
パラダイムはシフトするんだよ。
ほんとにおまえは、哲学をなんにも知らないやつだな。
100考える名無しさん:2009/09/26(土) 15:25:40 0
ほれ。 Yahoo!百科事典で勉強しとけw

共約不可能性
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%85%B1%E7%B4%84%E4%B8%8D%E5%8F%AF%E8%83%BD%E6%80%A7/
『旧パラダイムから新パラダイムへの転換が科学革命であるが、
新旧両パラダイムは根本的な前提やものの見方において
大きく異なるために相互に共約不可能であり、それゆえ異なった
パラダイムに属する二つの理論を共通の客観的事実に基づいて比較し、
どちらがより正しいかを一義的に決定する確定した手続きは存在しない。』
101考える名無しさん:2009/09/26(土) 17:18:04 O
そんな教科書的な答え方じゃ駄目だよ!
きっと教科書よりも深い洞察があるんだよ!
哲学の下地が出来てる霧が、そんな高校生的なこと解らないわけないじゃないか!
102皇帝 ◆FATE//aBz2 :2009/09/27(日) 02:01:51 O
Kyrieさん
もう音楽やんないんすか??


ttp://schiphol.2ch.net/test/read.cgi/offreg/1249922032/
↑のスレで世界目指すバンドメンバーを探してます!!


スレタイはこんなんすけど,
今は一癖も二癖もある変態で募ってバンド結成しようとしています


是非その鋭い洞察力と芸術性を生かしていただきたい!!!
103考える名無しさん:2009/09/27(日) 02:09:09 0
104kyrie@うつ病 ◆.RYdSpBfEI :2009/09/28(月) 09:29:41 0
>>102

遊びに行ったよ〜
105考える名無しさん:2009/09/28(月) 18:36:09 O
>>104
ねえ、写像理論はどうなったの?
106考える名無しさん:2009/09/28(月) 20:52:41 0
753 名前:kyrie@鬱病 ◆.RYdSpBfEI [] 投稿日:2009/09/28(月) 16:16:08 ID:ud9MR+81
現代音楽とクラシックなら任せろっ
俺はとある現代音楽作曲家に作曲のレッスン受けてるからな

バンド名、候補を挙げとくよ
「White Sick」(白い病気)
「Degital Marder」(デジタル殺人鬼)
「Complex Knife」(複雑な刃物)
「Natural Sex」(中性)

あー思いつかない!
やっぱり英語とかフランス語とかのほうがいいのかな??



756 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2009/09/28(月) 18:29:56 ID:mAQpehFv
>>753
>「Degital Marder」(デジタル殺人鬼)
Degitalじゃなく、Digitalだね。その手のバンドでスペルミスは致命傷。。
盛り上がってていいね。
107考える名無しさん:2009/09/29(火) 00:17:57 O
マーダー?
108考える名無しさん:2009/09/29(火) 01:03:11 0
>>106
sickは形容詞。名詞ならsicknessとか。死に至る病はSickness unto deathだ。
marderはmurderの間違い
中性って言うんならandrogynousとか、もうちょっとオシャレっぽいのにしたら?

こういう類いのミスはコピペされてバカにされるかもしれないよ。
英語のレベルが哲学的思考力と相関しているとはいわんが、最低限の「教養」は疑われないように。
109考える名無しさん:2009/09/29(火) 12:26:15 O
なんだ、サヴェージティーの話か。
110kyrie@うつ病 ◆.RYdSpBfEI :2009/09/29(火) 14:58:03 0
>>59

>物理学について、形而上学的な前提は無意味である。
>つまり物理学そのものの、アプリオリな必然性は存在しない。

いやいや。物理学に対する古典的な批判として、「物理学は存在論的な
前提を踏まえていない」というものがあるけど、僕はそんなナイーブなことを
言おうとは思わない、ということ。

>しかし、学問が空虚といいたいわけではない。
>学問は日常生活から抽象されてきたものである。
>だから学問はアプリオリに成立するのではないが、
>日常的な了解を基礎にして成立する。
>たとえば「林檎は植物である」、「林檎は落下する」みたいに、
>学問以前に、事態は成立している(事態とはウィトゲンシュタインの用語で、命題のことだ)。
>それらの事態は一般に人々の間で
>了解されているだろう。

うーん、どうも違うんだよな…人間は常に日常的であることはできない。
日常的であるとは、学問的でないこと、とい定義すると、現象の
推移をただ追っているだけの状態も、日常的である、とされる。
つまり、現象を解釈しつつ、その現象の解釈で、意識の全体が構成されている、
というとき、俺はその状態を「日常的」と呼ぶ。
しかし、外的にしろ内的にしろ、現象の推移をただ追うことができるのは、
全知者か赤子しかいない。
 つまり、人間は現象の解釈に心的発話を用いることで、
常に現象の現在性を追うことはできず、過去や未来の現象を解釈しているのが
普通だ。現在起こっている現象を正確に追うことは、一方で過去の現象を
解釈し、一方で未来の現象を推測している中途に、それでも現在を生きているという
現在への存在による服従、現在への盲目、としてしか、定義されない。
現在を心的発話することは、現在を解釈しなければならず、よって現在を
追うことができない、といううことだ。
111kyrie@うつ病 ◆.RYdSpBfEI :2009/09/29(火) 15:02:22 0
>真理自体は人間の認識とは無関係に、世界の側に実在している。
>人間は分析を繰り返すことによってしか、真理に達し得ない。
>なぜなら「人間にとっての」世界は事態=了解の集合なので、
>その事態の解明を通じてしか、学問を形成しえないのだから。

大体あってる。でも、もうその考えは捨て去った。
人間が了解群を得られるだけの現象群があって、その相互の関係に、俺は写像理論を
用いる。世界の側に真理はあるかどうかは保留され、今持っている常識的知識間の
連続を、分析することが、学問的。つまり、常識は、それ自体で現在を追う現象であるが、
それを分析することは、現在性を追わず、かつて常識であった自分の状態の現在性を、
分析することで、自ら常識でなくなり、これが学問の始まりである。
 ただ、学問がなぜ分枝しるのか、はっきりした答えはもっていない。
そして、得られる真理が理念的である、ということは、結局真理関数の値に対して、
これは真これは偽と言っているだけなので、関数である人間の知覚は、物自体には
到達しない、という意味で、写像理論を援用している。
112kyrie@うつ病 ◆.RYdSpBfEI :2009/09/29(火) 15:03:56 0
>>108

訂正ありがとう。恥ずかしい><
113記憶喪失した男:2009/09/29(火) 15:57:05 0
みんな、すごく感動的な過去ログを見つけたよ。
おれは泣いた。
http://1yoshi.zero-city.com/html/dousitegora.htm
114考える名無しさん:2009/09/30(水) 09:44:14 O
おー。以前よりも文章が分かりやすくなってきたねー。

>いやいや。物理学に対する古典的な批判として、「物理学は存在論的な
前提を踏まえていない」というものがあるけど

マッハとかの議論の文脈?


>日常的であるとは、学問的でないこと、と定義する

ということは、フッサール現象学的な意味での
「日常的」とは異なる定義、ってことでオッケー?


>つまり、現象を解釈しつつ、その現象の解釈で、意識の全体が構成されている

「意識の全体」は現在的意識の全体? それとも個人史的生の全体?

>一方で過去の現象を解釈し、
一方で未来の現象を推測している中途に、
それでも現在を生きているという
現在への存在による服従、現在への盲目、としてしか、定義されない。

「過去の現象を解釈」というのは、
経験的意識において不断に解釈し
つつ現在を生きるってこと? 
それとも意識の内省において
解釈作用が発動するって意味?
115考える名無しさん:2009/09/30(水) 09:45:31 O
>そして、得られる真理が理念的である、ということは、結局真理関数の値に対して、
これは真これは偽と言っているだけなので、関数である人間の知覚は、物自体には
到達しない、という意味で、写像理論を援用している。

うーんやっぱよくわかんない……。
さしあたり、『論考』的存在論を採用するなら、
先程の「日常性」の構造解明の妥当性は、何が担保するの?
確かウィトは、意識とかの内面性を、言語的アナロジーとして斥けざるをえなかったよね?
写像理論を用いて、かつ解釈-推測の描写をナンセンスから
掬い上げるための説明が欲しい。
116考える名無しさん:2009/09/30(水) 13:58:13 O
知覚が物自体に到達しないっていうのは具体的にどういうこと?
少なくとも、知覚(関数)の入力側は物自体の世界にあるはずじゃない? 出力側は内的世界だと思うけど。
到達できないのは知覚でなくて認識でないかい?
あと、「現象群」と「了解群」の出自がよく分からない。
とりあえず、それらの群は数学的な意味ではないよね。
どういった手続きを経てそれらの群が形成されるのか興味があるので答えちゃくれないだろうか。
117kyrie@うつ病 ◆.RYdSpBfEI :2009/09/30(水) 16:14:24 0
>マッハとかの議論の文脈?

マッハは詳しくないけど、科学を存在論的に否定するのは、ドイツ観念論から
ベルグソン、現象学に共通した傾向じゃない?
現象学なんて、科学に対する形而上学の最後の足掻きだったし。
ハイデガーが、存在と時間で「相対性理論は前提からして間違っている」と
いうようなことを書いてるけど、必死だよねw

>ということは、フッサール現象学的な意味での
「日常的」とは異なる定義、ってことでオッケー?

オッケーb

>「意識の全体」は現在的意識の全体? それとも個人史的生の全体?

意識が現在、推移していって、対象を時間とともに解釈していく過程そのものが、
意識の全体かな。つまり現在的意識ではあるんだけど、それを定義するとなると、
「現在」なる言葉を俺の哲学では使えないから(常に現在が、生の先端にある様を、
どんな紙媒体やコンピュータを用いて記述しても効力を持ち続けるだけの、定義を「書き」に
よらないではできないから)、さしあたり「過程」という表現に頼らざるをえない。
この過程とは、現在、どんな紙媒体によって記述されても過程であり続ける、概念である。
つまり、過程そのものであることで、過程を対象として考えて、もって過程の持続を切断して、
そうして得られた「瞬間」を考える、ということを、俺は防ぐように、現在を定義しなければならない。

118kyrie@うつ病 ◆.RYdSpBfEI :2009/09/30(水) 16:23:02 0
>「過去の現象を解釈」というのは、
>経験的意識において不断に解釈し
>つつ現在を生きるってこと? 
>それとも意識の内省において
>解釈作用が発動するって意味?

意識は内省以前に、解釈作用を発動している、と考える。
この現在における意識のなかで、なにかを解釈することは、もちろん
経験を解釈することではあるけれど、経験の解釈は必ずしも現在的意識に必須ではない。
というのも、ある対象があって、それを解釈するとき、経験をエポケーした
存在論的な解釈、というものが有り得るからで、このとき、経験はエポケーの対象だから、
存在はするけれども、存在をまるごとエポケーしたのならば、経験の「解釈」は切り捨てられるんじゃないだろうか。
119kyrie@うつ病 ◆.RYdSpBfEI :2009/09/30(水) 16:24:07 0
ごめん、残りは明日レスする。。


120考える名無しさん:2009/09/30(水) 21:35:35 0
>>117
>マッハは詳しくないけど、科学を存在論的に否定するのは、ドイツ観念論から
>ベルグソン、現象学に共通した傾向じゃない?
>現象学なんて、科学に対する形而上学の最後の足掻きだったし。
>ハイデガーが、存在と時間で「相対性理論は前提からして間違っている」と
>いうようなことを書いてるけど、必死だよねw

谷さんの『これが現象学だ』に乗っかって、視覚に即して言えば、
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Ernst_Mach_Inner_perspective.jpg
こうした「マッハ的光景」からは出られない。
といっても、この領域は「出られるが如く誤解すること」、「出ているかの如くに顕れること」、
即ち、「超越すること」をその本質としている。
例えば、立方体の知覚の場合、諸側面しか感覚されていないが、
それらを超越して立方体が知覚される。
この領域を無視して、超越したままに話を進めることは、無根拠で砂上の楼閣。

↑は、あくまで谷さんに乗っかったものに過ぎない。個人的には分かり易かった。
しかし、フッサールをしっかり読んでる人から見て正しいかは良く分からない。
121考える名無しさん:2009/10/05(月) 14:53:30 0
>>110-120
自演乙カレーですkyrieさん
122考える名無しさん:2009/10/05(月) 15:10:46 0
これを自演と思う頓珍漢もいるんだなw
123考える名無しさん:2009/10/05(月) 15:13:06 0
>>114-115は、日本語が書ける人だよw
124kyrie@うつ病 ◆.RYdSpBfEI :2009/10/05(月) 16:22:55 0
>うーんやっぱよくわかんない……。
>さしあたり、『論考』的存在論を採用するなら、
>先程の「日常性」の構造解明の妥当性は、何が担保するの?
>確かウィトは、意識とかの内面性を、言語的アナロジーとして斥けざるをえなかったよね?
>写像理論を用いて、かつ解釈-推測の描写をナンセンスから
>掬い上げるための説明が欲しい。

内面性をウィトは言語間のアナロジー(類比)として斥けたってこと?
俺は、日常性を、物自体の世界でも完全な観念世界でもない性質として
定義している。また、意識をウィトのように、即文だとはみなさない。
文(俺の言う心的発話)は、確かに意識を説明するための唯一の手段。
でも、意識を説明しないとき、意識が文であるとは言えない。
意識が文でないとき、意識は証明できないから、意識が文であるときに
文でない意識状態を説明することで、時間的ギャップを埋める、と、
ウィトの主張を発展させられる。
なんか答えになってなかったらごめん。

>知覚が物自体に到達しないっていうのは具体的にどういうこと?
>少なくとも、知覚(関数)の入力側は物自体の世界にあるはずじゃない? 出力側は内的世界だと思うけど。
>到達できないのは知覚でなくて認識でないかい?

関数の入力元が物自体の世界にある、とは言えない。ただ、関数の値が
与えられて、そこから推して、入力があるはずだ、というだけ。というと、
わざわざ知覚理論に関数を用いること自体ナンセンスなんだけど、
たとえば、関数は一重なのか、という問題がある。入力が、さらなる関数の
出力であって…という無限の手続きがない、とは決して言えない。
ウィトは、入力―関数―知覚というわかりやすい構図をとっているけど、
さらに入力が関数であり、その入力が関数である、という可能性については言及していない。
125考える名無しさん:2009/10/05(月) 16:47:50 0
>>122
残念だけどだいたいの人は自演だなと思ってニヤニヤ見てると思うYO
126考える名無しさん:2009/10/05(月) 17:24:48 0
>>125
それだと、kyrieは、日本語が不自由な振りをしているが、
実は、かなり聡明な奴だということになるww
127考える名無しさん:2009/10/05(月) 19:25:08 O
>>124
君は二つの異なる主張をしている。
・ある関数の入力がある関数の出力であり、その関係が無限に続く場合がある。
という主張と
・ある関数の入力が関数である場合がある。
という主張だ。
前者は知覚が合成関数である可能性を示唆するものであり、後者は知覚が高階論理であると主張するものであるように思われる。
困ったね。
前者に関しては、たとえ無限個の関数が合成されていようとも、関数である以上は入力と出力を持つということが言える。だから、知覚が関数であると言う場合には入力と出力の存在が保証されている。
また後者の場合だけど、確かに高階論理では関数を変項に取る(つまり関数の入力を関数にする)ことができる。でも、その操作の結果出力されるのは関数であり値ではないよね。論理学やってんなら分かると思うけど。
だから、返答としては的外れだよ。
もしくは、高階論理で無限に入れ子構造が続くということが言いたいのかもしれない。
メタ論理のさらにメタのそのまたさらにメタ……みたいに。
まあ想定するのは自由だよ。
ただし、センスデータが存在しており、かつそのデータ(値)が知覚という関数によって与えられたならば、その値に対する入力の存在は一意でなくとも保証されるべき。
で、そこまでは確実に言えるし、逆に考えるとそこまでしか言えない。
何故かって、入力の存在は保証されるけどその入力がどんな領域に存在するかまでは言えない。
だから返答として望ましかったのは、入力(元)があるのはどんな領域だと思われるかについてであって、入力があるかないかなんて話はしていない。
ついでだから、上に加えて現象群と了解群についても回答を求む。
128考える名無しさん:2009/10/05(月) 19:38:50 0
>>126
なんでそうなるんだよ。>>106-108見て常識的に流れを見ろよw
てかお前もkyrieなんじゃねーの?w
129考える名無しさん:2009/10/05(月) 19:51:54 0
久々の良スレだな
130考える名無しさん:2009/10/05(月) 22:47:06 0

良スレだと思うけど、非常に閉鎖的かつ原理主義者的な修道院内部じみた
スレであるように観えます。この内容だと、一般人には全く理解されないと
思うし、そういう高踏派を気取って敷居を故意に高くして、己の優越性を
誇示するのであれば、それは井の中の蛙的な振る舞い、勘違いにも等しい
と思います。つまり、もうちょっと社会的なイシューなり、日常的な
出来事なり経験との接点を持って、己の哲学なり意見を提示した方が、
そのメッセージが伝播しやすいと思います。

晦渋なものに知性(神)を幻覚したのは、暇を持て余していた年長世代の
よくしていたことであると思うし、この多メディア時代の現代で、そういう
戦略が有効なのかな?という素朴な疑問があります。ただ、この版では
十分に通用する方途ではあるけど、世間的には、まあ無理でしょうね。
現象学を扱っていたサルトルでさえ、アンガージュマンという形で世界を
賑わしたのだから、あなた達も(二人ぐらい?)何かそういう
「この社会をどういう風に哲学的に指導していく?」みたいな観点が
少しくらいはあってもいいと思われます。

テクスト解釈だけをいつまでも延々とやっているのは、学生(世間的には
使えない学者)としてはいいのかも知れないけど、哲学のテクストなんて
誤読(議論、あるいは疑似共同体を作る敵対や祝詞)に誘うような戦略を
持ってわざと難解に書かれている点があるのだから、それのみにベタに
原理主義的に拘泥している人達というのには、私的には疑問符を感じて
しまいます。まあ、本人達はすごい話でもしている気分なのだろうけど、
それが脳内だけでの錯覚にならないことを祈るのみです。
ただスレの進み具合は、このペースが最適。良スレは、ゆっくりと伸びて
いくもの。くだらないスレ(物語)に限って、無意味にハイペースで
伸びていくものだから(笑 


131考える名無しさん:2009/10/05(月) 23:51:41 0
>自演
とりあえずおれ=>>120は、kyrie氏じゃないよ。
132考える名無しさん:2009/10/06(火) 00:11:01 0
俺は感動してるよ。
さっき初めて社会学板に言ったら腐ったように荒れてた。2007年とか2002に立ったスレが
ずっと現役で残ってたり。アンチ宮台スレが1/3くらいあったり。
で、初めて哲学板に来たら、全然荒れてない。これは荒れてるのうちに入らない
関係ねーけどそう思った以上。
133考える名無しさん:2009/10/06(火) 00:14:40 0
言語学板にいけばもっと感動するよ
昔に立ってたデイヴィドソンスレとか英語でやり取りしていたし
高度すぎてついていけなかった
134考える名無しさん:2009/10/06(火) 00:24:12 0
ウィトゲンシュタインスレで「ヴィ」なのか「ウィ」なのか
ウィーン発音がどうこうと哲学板とは全く違う方法に進んでて笑ったwwさすが言語学ww
135考える名無しさん:2009/10/06(火) 07:28:22 O
>マッハは詳しくない
ごめん勘違いしてた。
>>110
>「物理学は存在論的な前提を踏まえていない」
を「存在論的な前提は必要ない」って意味だと思ってた。

>科学を存在論的に否定
存在論的に批判や再構築、ではなく?

>ドイツ観念論からベルグソン、現象学に共通した傾向
一括りには言えないと思う。ドイツ観念論は科学というよりは、自然哲学という枠組みの中での話だし。ベルグソンは理性中心主義に嫌気が差してたから、非理性的な方面へ向かったし。逆に現象学は理性によって、科学の基盤を再構築しようとしたし。みんな動機や立場が違う。

>「相対性理論は前提からして間違っている」
そんな箇所あったっけ?

>意識が現在、推移していって、対象を時間とともに解釈していく過程そのものが、意識の全体
これはとりあえず、直線的・客観的な時間を否定しているという抑えで良い?
つまり「現在とは直線上の先端」ではない。現在という「瞬間」そのものを捉えることは不可能である、みたいな。

>経験をエポケーした存在論的な解釈
ここで使っている「存在論的」は、フッサールの、超越論的と同じ意味でオッケー?

>存在をまるごとエポケー
イメージできない。どゆこと?

>言語間のアナロジー(類比)
デカルトを批判してなかったっけ?
136考える名無しさん:2009/10/06(火) 07:36:31 O
>なんか答えになってなかったらごめん。
質問が悪かったなー。まず前提条件として、
俺は君の話を次のように解釈している。

>人間が了解群を得られるだけの現象群があって、その相互の関係に、俺は写像理論を用いる。
つまり写像関係にあるのは言葉-事実ではなく、了解群-現象群。でもって、

>存在論的、前学問的な諸世界の了解(常識)があって、その了解を分析して得られるテーゼを学問的と呼ぶ。
了解群というのは、この箇所での了解(常識)と同じ意味だと考えて良いのかな?
まぁ面倒くさいから、了解群=「前学問的な常識」と仮定して話を進めていくよ。
すると了解群(常識)というのは、本質的には分析不可能なものだ。
なぜなら「常識は、それ自体で現在を追う現象であるが、
それを分析することは、現在性を追わず、かつて常識であった
自分の状態の現在性を、分析することで、自ら常識でなくな」(>>111)るような、
連続的な代物だから。つまり了解=常識は、反省的には完璧に捉えることができない。
さてウィトの写像理論で事実の側に対応するのは言葉であったから、
完璧な分析は可能だった。でも君の理論によると、現象群と対応する
のは了解群だから、分析してしまうと、その了解=常識の連続性を断
ち切ることになってしまう。その意味で、十全な真理には達しえないし、
ウィトのやり方では限界がある。そこで「意識が文であるときに文でない意識状態を説明する」(>>124)
ことでウィトを批判的に乗り越えようとする。ウィトゲンシュタインは、
「文でない意識状態」を黙殺した。「文でない意識状態」は言葉-事実に
おける写像関係では捉えきれないものだから。でも君は了解群-現象群の写像を
利用するから、その「文でない意識状態」にコミットできる。
どうやってやるかというと……って部分はまだ明示されてないよね?
137考える名無しさん:2009/10/06(火) 07:42:00 O
まぁ大体こんな風に解釈している。以下で的外れなことを言っていたら、
上の解釈の方を正してくれた方が意思の疎通がスムーズでしょう。
でもってココからが本題なわけだ。

君の理論では真理は理念に留まるとされる。その意味で「これは真これは偽」(>>111)という
判断は確かに積極的な真理基準にはなりえない。現象群に対応する了解群は、
分析によって判定された真偽とは無関係だ。しかし、真偽が判定「可能」な以上、
真偽の2項対立は存在する。つまり命題を真か偽かに振り分けることができる
(その判定が正しいか否かを問わずに)。であるなら、その際真偽は何によって
区別されるのか、という問題が出てくる。区別するためにはまず第一に「了解群
と現象群とが写像形式を共有していること」が必要となる。
両者が何かしらの共通性をもたないなら、単なる懐疑論に陥ってしまう。
次に「了解群と現象群とを比較すれば、真偽の判定を下せる」ことが必要である。
形式を共有している以上、比較が可能でなければならない。だから真偽というよりも、
了解群と現象群とが似ているか似ていないか。あるいは対応しているかしていないか。
そういった判定が下され得る。ここでたとえばエポケーが実行されたり、あるいは
非対応が判明したりしても、この「相似」や「対応」という道具がなければ、
判断や言明そのものが不可能になり、やはり懐疑論に陥ってしまう。
138考える名無しさん:2009/10/06(火) 07:44:15 O
さて以上の点が是認されるなら、ついでウィトゲンシュタインの「ナンセンス」の
概念も導入されなければならない。つまり、いかなる現象群とも形式を共有して
いない了解群、そしてそれゆえに比較が不可能で真偽判定が下せない了解群が存在する。
いわゆる「語りえないもの」だ。君が写像理論を援用する以上、ナンセンスな命題が
存在することが帰結する。その上で哲学的言明が行われる。である以上、君の諸命題、
たとえば「日常性」、「解釈」、「意識」といった用語を用いた諸命題が、
ナンセンスな命題ではないことをハッキリさせなければならない。つまり真偽判定
(それが正当であろうとなかろうと)を適応可能でなければならない。でもって、
写像論理を援用するのであれば、有意味な命題とナンセンスな命題の峻別を扱う
『論考』での議論全体を相手取らなければならない。と思うわけだけれども、
いかがなものか。


長々と書いといてなんだけど、ようするに君の理論は言葉遊びと何が違うの、
って話。厭味とか煽りとか悪意じゃないよ。
139kyrie@うつ病 ◆.RYdSpBfEI :2009/10/09(金) 10:59:16 0
>>127

>・ある関数の入力がある関数の出力であり、その関係が無限に続く場合がある。
>という主張と
>・ある関数の入力が関数である場合がある。
>という主張だ。

たしかに、俺はその二つを混同していた。だから言い直す。
@関数は、別の関数の値を入力し、得られた値を別の関数に入力する。これが基本。
Aだけど、関数は関数を入力する場合もある。それは、入力関数の値に
関わらず、入力関数から出力関数が帰結する場合。この入力関数はもちろん
それ自体で入力・出力をもっているから、@のケースを無限に適用可能。
Aの場合、出力関数―入力関数はそれぞれ一義でなくとも構わないから、
無数の関数が入力にまわり、また関数として出力される、と想像できる。
この関数を入力にとるという関数は、更に入力に回ることも、ひるがえって
出力に回ることもできる。後者の場合、関数fは入力される関数群を任意に変更でき、
にも拘らずfは変わらない、という可能性も指摘できる。もちろんfはgに変わるかもしれない。
その場合、fがgに変わる関数が存在するが、それも一義には決まらない。
140kyrie@うつ病 ◆.RYdSpBfEI :2009/10/09(金) 11:31:39 0
>君の理論では真理は理念に留まるとされる。その意味で「これは真これは偽」(>>111)という
>判断は確かに積極的な真理基準にはなりえない。現象群に対応する了解群は、
>分析によって判定された真偽とは無関係だ。しかし、真偽が判定「可能」な以上、
>真偽の2項対立は存在する。つまり命題を真か偽かに振り分けることができる
>(その判定が正しいか否かを問わずに)
>であるなら、その際真偽は何によって
>区別されるのか、という問題が出てくる。区別するためにはまず第一に「了解群
>と現象群とが写像形式を共有していること」が必要となる。

 了解群は、真偽をもたないよ。真偽を分析しようとするとたん、
了解でなくなってしまうものとして、定義されているのだから。
了解群は、現象群から帰納されたものではない。
了解が生まれるのは、既に写像形式によって、現象群が解釈の必要がないまでに
ことばで表現され、言葉をこえた体系、つまり全ての現象に対してそれを言葉に置換し得る、
という日常的了解的な体系が作られる時だ。
 以後、どんな日常的像(センスデータ)にあっても、彼はそれを写像形式を経て言葉に直す、という
作業をとらない。そうではなくて、言葉や像の束が在るという体系に
不可分に織り込まれた、了解だけの体系に照らす。この最後の体系は、
像と言葉との連関を、象徴性と具体性によって結び付けている。
具体的連関が、センスデータによる整合性によって保たれているのが覚醒時。
そうでないのが睡眠時、と理解している。
141kyrie@うつ病 ◆.RYdSpBfEI :2009/10/09(金) 11:34:11 0
あー答えになってねえeeeeeEEE!!
ごめんなさい、もうちょっと勉強する。。
>>138さんは親切だな。
もうちょっとで納得しそうになった。
俺はウィトのナンセンスとも戦うし、西洋の伝統とも戦わねばならない。
142記憶喪失した男:2009/10/09(金) 16:14:39 0
キリエ、おれは次の小説は「難しい愛の問題」について書こうと思う。
正義について書いた小説は一次落ちだ。

実は、最近、YAHOO知恵袋で、恋愛相談にのってるんだ。
三分の一ぐらいでベストアンサーかな。
143考える名無しさん:2009/10/09(金) 18:22:29 0
>>142
お前、哲学素養ないから出てこなくていいよ
144考える名無しさん:2009/10/09(金) 20:27:53 O
>>139
意味がわからない。
私は入力のあるであろう領域について質問したのに、何故そんな答えになるのかな?
そもそも、関数の入力が別の関数の出力である必要なんか無いよ。
ある関数の入力は任意の関数の出力であってもよい、っていうだけ。
関数ってつまり写像です。
集合論のモデルを思い浮かべてくれればいいよ。
要素として関数を取ってもいい。
でも、あくまで関数に対しては関数が返されるわけでしょう。
値に関しては値が返されるの。
センスデータが関数だと言うのなら入力も関数だろうし、センスデータが値だというのなら入力も値だよ。
君はセンスデータは関数だと言いたいの?
145記憶喪失した男:2009/10/11(日) 20:03:12 0
>>143 議論するか?
何でも来い。
146考える名無しさん:2009/10/11(日) 20:16:30 0
【哲学的魔法剣】オントロジーエターナルフォースブリザード零式ソード〜効果ドラえもんに余裕で勝てる〜。
147考える名無しさん:2009/10/12(月) 13:08:31 O
愛とか正義みたいな価値観なんて結局人それぞれでしょ。
でも人は「人それぞれ」に堪えられないから寄り合うのだよ。
そうやって寄り合って出来上がった「愛や正義」なんて語りえないものなんだから、哲学なんかの出る幕は無いよね。
そういうのは社会学とか心理学とか文学の仕事じゃない?
148kyrie@うつ病 ◆.RYdSpBfEI :2009/10/12(月) 13:27:02 0
>記憶喪失

残念だったね…まあお互い創作のほうでも切磋琢磨できるといいね。
その一時落ちの作品、読んでみたい。

>>144

>そもそも、関数の入力が別の関数の出力である必要なんか無いよ。

そうは思わない。関数に値が入力される、という出来事は、関数によって
引き起こされたはずだ。そして、関数は一義的に出力はしない。
関数が一義的でないわけは、関数が関数に分析的に含まれ、
関数の定義中の要素をなしている無限数の関数があるであろうから。
この言い方が気に入らないのなら、少なくとも人智によっては
ある関数の定義に際して、値が内部で変換される連続性を、十全には
とらえられないから。
149kyrie@うつ病 ◆.RYdSpBfEI :2009/10/12(月) 13:30:29 0
そもそも関数は、入力時と出力時という、輪郭をもつのを基本としているが、
あくまで世界を関数で説明するのならば(その必要はないと思うが)、
ある関数の輪郭の多義性、内包―外延関係の多義性を、その定義に含めなければ
ならない。
これは難しいことだ。
150考える名無しさん:2009/10/12(月) 14:00:15 0
>>149
krrie=死に舞い氏ですよね?
はてなのほうはもうやらないのですか?
151考える名無しさん:2009/10/12(月) 14:10:19 0
セルオートマトンっぽいですね
152考える名無しさん:2009/10/12(月) 14:16:08 0
会話が通じていないっぽいです
153考える名無しさん:2009/10/12(月) 14:17:11 0
NAS6と話が通じそうな人w
154考える名無しさん:2009/10/12(月) 14:47:16 O
関数の話について。

・関数云々というのは単なる比喩? それとも本質的に類似してると見なすの?
・入力されるのは外部のセンスデータのみ? それとも意識に取り込まれたデータを更に別の関数に入力……みたいな話?
つまり知覚のみに係わる関数なのか、思惟一般の関数なのか。
155考える名無しさん:2009/10/14(水) 01:28:25 O
             _,,..r'''""~~`''ー-.、
            ,,.r,:-‐'''"""~~`ヽ、:;:;:\
           r"r          ゝ、:;:ヽ
   r‐-、   ,...,, |;;;;|       ,,.-‐-:、 ヾ;:;ゝ
   :i!  i!  |: : i! ヾ| r'"~~` :;: ::;",,-‐‐-  `r'^! 
    !  i!.  |  ;| l|  ''"~~   、      i' |     イェ〜イ
     i! ヽ |  | |    ,.:'"   、ヽ、   !,ノ
    ゝ  `-!  :| i!  .:;: '~~ー~~'" ゙ヾ : : ::|
   r'"~`ヾ、   i! i!   ,,-ェェI二エフフ : : :::ノ~|`T    女子高生見てるー?
  ,.ゝ、  r'""`ヽ、i! `:、   ー - '" :: : :/ ,/         
  !、  `ヽ、ー、   ヽ‐''"`ヾ、.....,,,,_,,,,.-‐'",..-'"
   | \ i:" )     |   ~`'''ー---―''"~
156考える名無しさん:2009/10/15(木) 23:31:01 O
プラグマティズムで学問やっちゃいかんよね
日常生活はアカデミズムじゃやってけないように、学問はプラグマティズムじゃやってけない
プラグマティズムは「役に立つ」という極めて恣意的な視点に沿って思考が展開されている事を忘れてはならない
恣意性に満ちた論説は学問として扱うべきや否や
およそ語りえる事柄については明晰に語りえる。語りえない事柄については云々。と言うなぁ
ところで語りえる事柄って具体的になんのことかね?
157記憶喪失した男:2009/10/16(金) 19:43:45 0
イエローモンキーのYOUTUBE始めました。

143 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/10/16(金) 18:37:39 ID:NLjp9dJH0
おかげでうpできた。

イエローモンキーで「ジャム」
http://www.youtube.com/watch?v=Saf-QGvnBtE

イエローモンキーで「スパーク」
http://www.youtube.com/user/tuorua#p/a/u/0/W0SiocfLED4

イエローモンキーで「太陽が燃えている」
http://www.youtube.com/user/tuorua#p/a/u/0/jyjBz9jjZzU

山嵐で「跳」
http://www.youtube.com/user/tuorua#p/u/0/M3YiBORNbeM


144 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/10/16(金) 18:40:02 ID:NLjp9dJH0
山嵐で「ブラックホール」
http://www.youtube.com/watch?v=mC-JEcOzYF4

イエローモンキーで「花吹雪」
http://www.youtube.com/watch?v=B2a0GvUS45Y
158考える名無しさん:2009/10/19(月) 01:34:54 O
主よ憐れみたまえ、と。

さて、キリエ エレイゾンはさておくとして、kyrieは知覚をどういったものと考えているのだろう。
無限というけれど、人のやることに無限なんて無いわけだ。
無限は十全に想定可能なものではあるが、現実の話をすれば無限なんてものは実在する人間が具体的に扱えるものではないよね。
馬鹿馬鹿しさを象徴したやりとりならルイスキャロルのアキレスと亀のやりとりが有名だし。
ああ、亀は亀でも陸亀だな。とするとアキレスはニセウミガメと同門か。違っても似たようなものだな。
タートルとトータスの違いだね。
つまりつまりで申し訳ないが、つまり人間は具体的には有限しか扱えないのよ。
じゃあなんで無限なんて概念があるかって言えば、あれって「然々の手続きを何度でも繰り返してよい」って了解してるからであってね。
想定するのは構わないということなわけですよ。
だから過去未来が嫌いなkyrieが無限を持ち出すとしたら、なかなか愉快だね。
無限とは、あくまでも虚構に過ぎないのだし。
人間の知覚はあくまでも有限な世界にあるものよ。
そもそも無限であることは何の反証にもならないしね。
情報処理の過程における一部分を切り出してそこを云々することが意味なのだし。完結していない一過程を取り出して意味を云々するのは不毛よな。意味とは全体に対する部分にこそ与えられるべきものだから。
全体すら定まらないうちに部分の意味なんか定まるわけないし。
分析できないからね。
意味は後から与えられるもの。部分が前もって意味を持つように見えるなら、それは未来が過去の繰り返しと思っているから。
これくらいのことならkyrieも同意してくれるのじゃないかと思うのだが。
159記憶喪失した男:2009/10/19(月) 15:39:47 0
>>148 「ただのスーパークラゲだ」だよ。まだ読んでなかったのか?
http://ncode.syosetu.com/n8742h/
160考える名無しさん:2009/10/19(月) 16:20:24 0
>>159
その駄文は何?
正義を語るなら、最低でもヘーゲルやムーアやロールズは読んだんだよね?
161記憶喪失した男:2009/10/20(火) 05:46:32 0
>>160 読まないよ。
どこにそんな古臭いものを根拠に正義を語るやつがいるかよ。
ロールズってのは、正義は、大衆目的とかの三要素がそろって初めて正義といえるとか
いったやつだろ。そんなのあまり参考にならないよ。
162考える名無しさん:2009/10/20(火) 06:20:29 0
お前、頭悪いなぁ
もうkyrieに付きまとうのやめたほうが良いよ
163記憶喪失した男:2009/10/20(火) 07:22:57 0
キリエは、才能のある人物なので協力してやりたいのだ。
「津波」の
作品の感想を書いたのもの、おれだ。
164やみ:2009/10/20(火) 07:36:56 0
柔ちゃんのテーマ曲しょこたん歌ってね
165考える名無しさん:2009/10/20(火) 13:09:20 O
これは小説というよりお伽噺だね。
明確に語り手と登場人物が存在し、語り手の都合に沿って話が展開する。
少なくとも私は、愚かで下手な語り手を評価しない。
だからこの小説も評価しない。
物語について酷く無知だ。
「棒になった男」の男のように棒だ。もとい不幸だ。
そうだ、きっと不幸について書いたらいいよ。
無知な語り手は、愛や正義ではなく悪や不幸について語るのが似合いだから。
166飛べないカラス ◆iqsNLRsdWk :2009/10/20(火) 13:58:44 0
意識とは何だろう、と考えてみる。
過去を参照する記憶と現在を捉える感覚と未来をも予想出来る思考
この3つを相互に流れる情報から意識があると主張できる自己が組み立てられると
考えています。
ただ何かを思い浮かべただけでは意識ではなくそれは無意識であり、意識となるには
想起していることを記憶しそれを参照することによって可能になる。
参照する過程を通るため意識はそれ自身を見ているのではなく過去の自身の記憶から
自己を見てとっている。このため自己の意識を認識するには記憶が正しいことは
前提となるのだが自己のすべての記憶そのものが正しい真実なのかを判断する方法は
無い。だがそれでも記憶から記録として書き記すことで少しでも客観性が高くなり、
自分の考えを記録し読み返すことで客観的世界の時間の中にまさに自己の意識が
存在すると認識できる。
167考える名無しさん:2009/10/20(火) 19:39:25 O
だからどうしたの?
168kyrie@うつ病 ◆.RYdSpBfEI :2009/10/21(水) 12:01:50 0
>>158

知覚が無限かどうかなんて、わからない。人の行うことは無限だ。
すなわち、ある行為をどこまでも緻密に分析できる。
あなたは人間が有限である、という了解にたっている。
ウィトや俺は、あくまで知覚の話をしているので、人間の話をしているのではない。
むしろ人間の実存の話をするのなら、現象学的解釈から無限なんてものは
いくらでも出てくると思うが。

>飛べないカラス

久ぶりだね。で、悪いけど、貴方の論はナイーブすぐる。。
自己の意識を客観視したいなら、俺の「書き」理論を用いるほかないよ。

>記憶喪失

応援ありがとう。もうトリップつけてよ
169考える名無しさん:2009/10/21(水) 13:37:22 O
>>168
知覚とは、具体的にどんなものを指しているの?
人の行うことじゃないの?
無限とは、どんな概念のことを言っているの?
「とってもおおきいかず」ということじゃないよ?
人の知覚が無限なら、全ての自然数を実際に数え上げることも可能なように思えるのだけれど、そんなことは無理だよね。
人の行うことがどういった意味で無限なのか、教えてくれない?
確かに無限は人の作り出したものだけれど、あくまで概念を作り出したのであって、実体を作り出したわけじゃ無いし。
有限の時間に縛られている以上、この世界は基本的に有限だと思うのだけれど。
どうか?
170やみ:2009/10/21(水) 13:49:58 0
行くんなら池袋にもんく言いにいけすぐわかる
丸の内線改札あるだろ
171:2009/10/21(水) 14:10:47 0
さいごあたいがいれば大丈夫だ
172考える名無しさん:2009/10/21(水) 14:22:06 O
>>168
少なくともウィトにとって、分析は有限回だよー。
5.32 全ての真理関数は、要素命題に対して真理操作を
有限回繰り返し適用することによって得られる。


ってか、話がgdgdになってきたから、ここらへんで仕切り直した方が良くない?
あまりに多くの単語が不明瞭な使われ方をしているから、
霧と他の人の間にコンセンサスなんて生まれないよー。
必要最低限の定義を為すか、テーマをしぼろーぜー。
1738f 83 95 bd :2009/10/21(水) 19:40:03 0
>>166-168
hatarake niiiiiiiiiiiiiiit
174kyrie@うつ病 ◆.RYdSpBfEI :2009/10/23(金) 16:18:20 0
>>169

ヘーゲルの感覚的確信、ベルグソンのイマージュなどは、
人以前に定義される。
人の行為の無限性は、ゼノンのパラドックスを応用したもの。

>>172

うん、ウィトは真理関数を一つしか想定してなかったみたいだね。
じゃあ仕切りなおそうか。
目下の問題は、独我論の克服。
175考える名無しさん:2009/10/23(金) 22:43:53 O
>>174 
仕切り直したところすまないが、どのゼノンのパラドクスをどんなふうに応用したかが重要なのに、そこを説明しなかったら話にならないでしょ。
飛ぶ矢のパラドクスか、アキレスと亀のパラドクスなのか、それとも他のか。
それを具体的にどう応用すれば人の行為の無限性に言及できるのか。
そこまで説明してくれないと、分かりません。
上記に加え、無限の概念についても説明して下さい。

で、独我論を克服するんだっけ。
それならまずは独我論を定義しようか。
あとは、どんな条件をクリアすれば独我論を克服したことになるのかも定めたら分かりやすいね。
君が定めないと話が始まらないから、早めに頼むね。
176考える名無しさん:2009/10/24(土) 08:22:14 0
中々見応えがあるスレだね
177考える名無しさん:2009/10/24(土) 09:45:55 0
見応え・・・
見どころ、笑いどころは、どのへん?w
178考える名無しさん:2009/10/24(土) 09:51:09 0
「ヤマ(山場)無し」―(や)、「オチ無し」―(お)、「意味無し」―(い)
を繋いでそう呼ばれるようになったとされる。」という意味だそうです。
179kyrie@鬱病 ◆.RYdSpBfEI :2009/10/24(土) 22:49:28 0
a
180kyrie@鬱病 ◆.RYdSpBfEI :2009/10/24(土) 23:06:18 0
>>174

俺が援用したのは、飛ぶ矢のパラドックスだよ。
各瞬間は無限に分割される。今私が知覚している対象を、私がいる状況に照らして
位置づける、という行為は綜合的。
反対に、私がいる状況に無関心で、目下の対象のイデアールな性質を考えることは
分析的。
しかし、知覚自体は、他の対象に移るべき契機を、自らのうちにもっていない。
なぜなら、新しいセンスデータを待っているうちは、今ある思考上の存在を
分析するか、異なる概念同士を綜合して体系づけるしかないから。
しかし、異なる概念同士の綜合とは、決定論をとるのなら、彼が得るべき体系の
構築という分析的行為に過ぎないのではないか。
数学が決定的で一義的なら、数学の諸証明は分析的だ。簡単な和の計算でさえもね。

で、飛ぶ矢のいちいちの位置に至ることが意味するのは、飛ぶ矢が絶対に
次の空間的位置に至らない、つまり空間的に綜合的でない、ということだ。
知覚も同じで、対象を知覚する場合、もちろん私がいる全情景からその対象を
分析したのだし、知覚した対象を思惟する場合、もちろん当の対象を分析している。
結局、対象を変えること=綜合は、知覚によってはなされえない知覚とはべつの
営みだ、ということ。

181考える名無しさん:2009/10/25(日) 17:24:51 0
全情景というのが外と内のシンプルな二元論に思える。外にないから内なるものか。。
182考える名無しさん :2009/10/25(日) 17:49:36 0
飛ぶ矢のパラドックスか
瞬間はとらえられないだろ
マクタガートは時間は存在しないと結論づけた
ただし内観的にだけれどね
超越者的視点ではない
183考える名無しさん:2009/10/25(日) 18:07:09 0
一瞬という作られた時間と真実の時間、
又は止まると動くの恣意的な概念の矛盾で解決。
これを知覚の話に当てはめると、単純な現象学ですね。
184考える名無しさん:2009/10/25(日) 18:44:50 O
>>181->>183
日本語でおk

>>175
あとどうして独我論を乗り越えなきゃいけないのか
っていう問題設定も欲しいと思うー。
個人的には別に乗り越える必要性を感じないんよね。
185考える名無しさん :2009/10/25(日) 19:07:50 0
>>184
お前、かなり馬鹿だなw
186考える名無しさん:2009/10/25(日) 19:29:39 O
たぶんねー。
上のレスが何言ってるか解らないのだもの。
187考える名無しさん :2009/10/25(日) 20:24:10 0
>>186
そういうのを、馬鹿たれって言うんだよw
188考える名無しさん:2009/10/26(月) 11:41:51 O
>>180>>175への返答だとすると、色々と不備がある。
とりあえず、知覚と無限をそれぞれ定義してほしい。
ちなみに飛ぶ矢に関しては、「しかじかの距離を矢が移動したという知覚結果を任意の回数分析してよい」という命題と「矢が移動するためには物理的に無限回のステップを踏まなければならない」という命題を混同しているだけなのではないかと思うね。
後者は明らかに偽だ。
だって矢は実際に動いたのだから。
前者に関しても、無限とは程遠い。
というか、普通に設問が間違ってるんじゃないかと思う。
前提が間違っているということです。
もしくは推論過程に難あり。
189考える名無しさん:2009/10/27(火) 16:11:34 O
飛ぶ矢のパラドクスは、人間は無限回の情報処理を実際に完結させることは不可能だってことが前提にあるよね。
その前提に立てば、分析という行為を情報処理の一種と見るのならば、分析は有限回でなければならない。
つまり、ある知覚に分析を任意の回数加えることはできる。しかし、無限回の分析を完遂することは実際には不可能だということ。
「分析は何回でもやっていい」と、「実際に無限回の分析をする」とは全然違うよって話です。
そもそも無限って「終わりがない」ってことなんだから、無限回の行為を終わらせるなんていうのは明らかに矛盾してるよね。
ちなみに、2の平方根はきっと小数点以下が無限に続くのだけど、その実際の値を求めなくても計算に支障は無いわけです。
ルート2にルート2を掛けるとき、2の平方根の値が求められていないから計算できない、なんて言わないでしょう。約1,4の二乗だから約1,96だ、なんてことも言わないでしょう。
計算に関して言えば、「平方したら2になる数」という概念が大事なのであって、実際の値はそんなに大事じゃないです。
だから、思考(=概念操作)においては値よりもその値をどのように出したかという概念の方が重視されるわけですよ。
計算は途中の式が大切ですって言われたでしょう。
だから飛ぶ矢のパラドクスに関して言えば、大事なのは分析が無限に続けられることじゃなくて思考をどのように操作するのが健全かってことだとおもう。
つまりkyrieの解釈は誤解または曲解だよって言いたいだけなのに過剰に言葉を費やした気がする。
190考える名無しさん:2009/10/27(火) 19:19:50 O
>>164
そうだね。問題設定がなきゃいけない。
うっかりしてました。
となると、kyrieに書いてほしいのは

・独我論とは何か
・なぜ独我論は克服されなければいけないか

・どうすれば独我論を克服したことになるか

の三点か。
私も個人的には独我論を克服する必要性は感じないな。
だからこそkyrieがどう考えているか興味がある。
191考える名無しさん:2009/10/27(火) 23:20:09 O
>>190
安価ワロタw
192190:2009/10/28(水) 09:52:07 O
おっと。
わかると思うけど、>>164じゃなくて>>184でした。
193kyrie@うつ病 ◆.RYdSpBfEI :2009/10/28(水) 15:28:41 0
>>181

そう言われると困惑するな。二元論をとらないのなら、一元論をとれと?
あくまで知覚の話について二元論をとっているので、
物理的な一元論に関しては話すことがない。

>>182

瞬間しか捉えられない、の間違いでは?あなたは一自我でありながら、
反省的主体でありながら、矢の現在性を追えますか?無理でしょ。

>>183

真実の時間というのが、そもそも理念に過ぎません。
真実の時間があるというのなら、それを証明してください。
194kyrie@うつ病 ◆.RYdSpBfEI :2009/10/28(水) 15:43:27 0
>>188

俺が援用したのは、後者のほうだよ。そしてそれは明らかに偽だとは
思わない。
というのは、矢が実際に移動した、という主張は、経験的であるし、
「矢が無限回のステップを踏まねばならない」ことは、矢が止まることを
意味しない。矢は、無限小動く。矢のパラドクスは、実際動いた、という素朴な
観察によって反駁されはしない。
直観によって、矢を飛ばしてみると、その直観の持続の間、確かに矢は移動する。
その場合、俺はこういう。すなわち、
「矢と矢の直観は、無限小の距離を埋めているのであり、今、無限小の時間の集合を経て、
矢がしかじかの位置にあるということは、矢を対象とする意識が無限小のステップを踏んだのだ」
と。したがって、矢の実際の移動を意識によって客観視することはできない。
矢と同様、意識の持続も無限に分割されるのだから。
195記憶喪失した男:2009/10/28(水) 17:08:24 0
今、いちばん注目の日本音楽家はSOUL'D OUTだよね
beチェック
1 名前:記憶喪失した男 2009/10/28(水) 16:51:01
「SOUL’D OUT」のシングルコレクション2009を聞いてる。
http://www.youtube.com/watch?v=Bhgm5qIWePc
196考える名無しさん:2009/10/28(水) 20:51:50 0
矢が止まるとかじゃなくて、「瞬間」というフレームで考えている限りは矢は、
始点Aから所定の位置B点に永遠に到達しないことに論理的な錯誤があって、
時間というものが本質的には瞬間の束でありながら、それを「非瞬間」として
矢の動きに還元する様態(真実の時間=反省的に与えられるものではなく、
アプリオリな形式として付与されているもの)が主客の二元的構成の前に
、知覚がセンスデータと置き換えられる前に、「原野」として在る。そこに、
物理的な諸存在や、自他の区分の根拠さえもが含まれているということ。
197考える名無しさん :2009/10/28(水) 21:02:04 0
>>194
>矢と同様、意識の持続も無限に分割されるのだから。

意識の持続性は科学的に証明されていませんが?
198考える名無しさん:2009/10/29(木) 23:07:02 O
無限小とかいう概念にはすでに時間の流れが含まれてるよね。
対して、飛ぶ矢のパラドクスの場合は時間の流れを持たない「瞬間」という概念な訳で、違う概念で話をしたら食い違うのは当たり前だよね。
kyrieは運動の一部分を切り出そうとしている。
でも飛ぶ矢のパラドクスは切片としての瞬間を扱うのですよね。
どこかで聞いたような話をすれば、kyrieは羊羮から一人前切り出して、厚みを持った羊羮の一切れとして云々している。飛ぶ矢のパラドクスは、羊羮を切ってその切り口を云々している。
羊羮の切り口はいくら集めても羊羮にならないですね。
同様に、飛んでいる矢の瞬間をいくら集めても飛んでいる矢にはならないわけです。
切り口に厚みなんて無いから。
つまり、切り口は面、言ってしまえば二次元ですから。
厚みを持ちようがない。
ちなみに羊羮の一切れがどんなに薄っぺらくても、そこには無限の切り口が存在しますね。切り口は任意に何度でも取ってよいのだから。
kyrieは無限についてもう少し勉強したらいいよ。
もしくはkyrieの言う無限を定義してから話を始めた方がいいよ。
199考える名無しさん:2009/10/30(金) 09:09:36 O
「止まる矢」という物理的な発想ではなくて「止まっている矢」という認識性
「止まり」ながら「動いている」という存在的な質の違いを確認し、
認識を深めてから次の話と思うけど、まったりしすぎなので、
「独我論」は同時並行で話できないものかなぁ。

なぜかアクセス規制中
200記憶喪失した男:2009/10/30(金) 12:36:38 0
キリエ、おまいの作品からインスパイアされたアイデアを使って超短編小説書いた。
このアイデアは自由に使わせてもらうし、おまいが使っても良い。
http://ssstory.net/ssstory/story_day/index.php?search_data=20091029211101135&page_num=1&anthorogy_name=
201考える名無しさん:2009/10/30(金) 15:05:54 O
スレ主すらどん引きしてる件。
202考える名無しさん:2009/10/30(金) 19:42:51 O
なんか、この話も何かに成り損なってるな。
成り損ないは悲惨だね。
完全下位互換だしね。
203考える名無しさん:2009/11/01(日) 00:35:19 O
語りえないものについては沈黙しなければならないとは言うけれど、語りえないものって具体的には何かな。
というか、何なら語りえるのだろう。
204シベリアよりのお手紙:2009/11/01(日) 21:42:23 0
「旧約聖書外典「薬園の記述」」をキリエは興味もたないのか?
おれとして、キリスト教世界観の中核をえぐったつもりだが。
キリエの感想が聞きたい。
http://ssstory.net/ssstory/story_day/index.php?search_data=20091029211101135&page_num=1&anthology_name=&poetname=&count=40
205考える名無しさん:2009/11/01(日) 21:54:23 O

「検証不可能な命題には真偽はない、ゆえに形而上学は無意味である」

とカルナップは「語りえぬものには沈黙しなければならない」を上のように解釈している

「ウィトは論理実証主義ではない!だからその解釈は間違いだ!」
という異論は多いけど、飯田隆が言うように
ウィトと『論理哲学論考』は神格視されすぎだ

少なくとも論考期のウィトは論理実証主義者であり
現代では初学者以外に支持されることはない
206考える名無しさん:2009/11/03(火) 12:56:10 O
カルナップの解釈は、前半部分は妥当だと思う。
後半まで言えるかは、個人的には保留したいかな。
でもまあ、概ねそういうことだよね。
ウィトの主張をガチガチの論理実証主義に染め上げるのはやりすぎかもしれないけれど。
207考える名無しさん:2009/11/04(水) 16:24:49 O
家庭の幸福は諸悪の元
208考える名無しさん:2009/11/05(木) 17:20:18 O
kyrie、独我論についてはまだなの?
209考える名無しさん:2009/11/05(木) 17:23:40 O
規制されて書き込めないんじゃない?
210考える名無しさん:2009/11/06(金) 12:50:16 O
じゃあ暫くkyrieは来ないのかな
話題がないねぇ
211考える名無しさん:2009/11/06(金) 13:04:28 O
現在、西村博之くんの、「2ちゃんねるはなぜ潰れないのか?」
をパラ読みしているところ。

凄く勉強になるし、かなり「頭の柔らかい人」だなという印象だ。


情報系の畑の人間の著作を読むのは初めてといっていい経験だが、新たな視点が加わった

充実感を感じるね
212kyrie@歌舞伎町ホスト ◆.RYdSpBfEI :2009/11/07(土) 13:38:25 0
やっと学校から書き込み!

>>196

時間をアプリオリな真実の時間として捉えるのは間違ってると思うよ。
それがもし在るとしたら、確かに主客二元論は真実の時間に還元吸収されるね。
でも原野という現象学的用語は古臭いよ。

>>198

飛ぶ矢は時間の流れをもっているよ。というのは、矢が運動しているのは
明らかだが、運動=位置の移動では必ずしもない思うからだ。
運動は、なぜかはわからないけど、万物の様相の究極還元態だ。
上のレスに沿うと、真実の時間は想像でしかない。そして運動は、
ある対象が運動したのを知覚したから、という理由で運動物となるのではない。
そこには理念性が含まれる。運動物を運動物とみなすのは、
当の対象が運動した一部始終を観察する必要はなく、
自分が当の運動に立ち会った、という面と、運動が自分に立ち会った、という面を
整合的な解釈の結果である。
 で、矢の運動は、完全に直観に還元された今、その運動に思い及ばす私の時間と
並行はしない。したがって、矢の無限運動は直観する私、分析する私、と、
私がそこにおいて綜合的に生きているセンスデータの束と記憶表象の網と並行しない。
なぜなら、こう記述している直観の現在性を、矢で記述するには、無限運動は適さず、
無限運動は直観不可能だから、平行線の怪しい自明性と同様に、運動をいちいちほかの
内在時間に対応させることができない。それを並行不可能とするのは、
コギトにおいて意識の統一が初めてなされ、それ以外の時間の同一性はコギト状態、
「書き」状態において以外は証明できない、と考えるからだ。
ちょっと言いたいことが支離滅裂でごめん。
213kyrie@歌舞伎町ホスト ◆.RYdSpBfEI :2009/11/07(土) 13:43:40 0
>>200

もう宗教ネタは書かないことに決めた。
小説新人賞でやっちゃいけないのが、学校ネタと宗教ネタとSFネタなんだって。

>>208

もうちょっとまって。

てかこの板にクワインのスレある?無かったら建てたい。
「ことばと対象」は、デリダの「触覚」とともに、現代哲学の二大巨頭だと思う。
214考える名無しさん:2009/11/07(土) 14:50:55 O
>>213
それはないでしょ?
全体論のような統一的な理論は数学においてすらありえない
また存在論もパトナムが批判しているし
経験主義の二つのドグマにしても
カントが結論付けたように「アプリオリはナンセンスだとしても必要なナンセンスだ」
現にアプリオリが自然科学のゲームで有効に機能している以上、アプリオリの概念を葬ることはできない

そして膨大な信念集合を調整することは生理的に不可能だとスティチなどが批判する通り

クワインの考案で今でも意義があるのは「自然化された認識論」ぐらいでしょう
215考える名無しさん:2009/11/08(日) 22:14:10 O
独我論の話が始まるまでの暇潰しに。

飛ぶ矢のパラドクスは、そもそも運動を否定するわけだよね。
また、「静止」というのも運動の一様相であるわけだ。
つまり、飛ぶ矢のパラドクスにおいては静止すら不可能になる。
飛ぶ矢のパラドクスは、運動という概念を否定するのだよ。
何故そんな結論になるかと言えば、前提となる命題同士が矛盾するように作られているから。
矛盾からはいかなる命題でも帰結してもよいというのは、論理学の初歩だよね。
不条理則ね。
もっと常識的な話をすると、まともじゃない議論なんだから結論の真偽なんかどうでもいいってことかな。
というわけで、飛ぶ矢のパラドクスの結論は無意味です。
で、同様のことは議論一般に言えるわけですよね。
だから、証明する時には前提を一つ一つ確かめて慎重に推論を重ねなければいけない。
しかじかの前提が与えられたとき、世界はどのようであるか、というのはウィトゲンシュタイン的発想だ。
古典論理は、いくつかの前提が与えられたら、世界はこうなる、ということが言える。
古典論理はより強い主張をしているわけだよ。
強すぎる気もするけれど。
それはさておき、議論に際しては自己の主張(結論)が無意味でないことを明らかにした方がいい。
前提についてきちんと明らかにした方がいい。すくなくとも議論している者同士で同意が得られる程度には。
およそ語り得るものについては明晰に語り得る、語りえないものについては云々、というわけであるし。
結論が無意味な議論は不毛だからね。
それでもそういう議論をするからには、自分が不毛な行為をしていると自覚した方がいい。
そんなわけで、飛ぶ矢のパラドクスは不毛な議論だったわけだ。
216考える名無しさん:2009/11/08(日) 22:24:03 O
不毛って言い過ぎですね。
まあ語彙が貧弱というのもあるのですが。
無意味という言葉を使うのに抵抗があるのですよ。
なんというか、むだな推論の結果であるという意味を持つ気がして。
意味とか難しいですよね。
考え始めるとなんでも大体難しい気がしますが。
217考える名無しさん:2009/11/13(金) 12:20:51 0
ごめん。鼻くそほじってたw
218kyrie@鬱 ◆.RYdSpBfEI :2009/11/13(金) 13:46:49 0
>>215

静止を運動の一様相とするのは、静止から運動を見たのでなく、運動から静止を
みた、という点で恣意的。飛ぶ矢は現代においても解決されていないパラドクスであるから、
不毛ではなかったと思うんだ。
219kyrie@鬱 ◆.RYdSpBfEI :2009/11/13(金) 13:48:52 0
試み:現象学と分析哲学の融合

実在論は、感覚的刺激と、その原因証拠との同一性を要求される。
刺激の原因証拠は、文の連関を抑え、その刺激が実在性の根拠となっているうちは、
すべての反コギト(我他を思う)がその人の存在を支えるという意味で、
刺激の原因証拠こそ彼を存在させている、といえる。
つまり、ある刺激(とみなせる一意的な刺激)は、刺激全体性と違い、
彼の対象である。彼が何かについて志向的、傾向的であるならば、
その原因証拠を完全に内的な連関とすることは、コギト状態に在るときだけ可能である。
コギト状態にないとき、「他で彼が在る」という原因証拠は、反省的には掴めない。
が、反省的であることの原因証拠、つまりコギトと、外向的であることの証拠、
反コギトは、一方が在るのならば他方が在る、という論理で、併存可能であはある。
しかし、反コギト状態は彼の存在である以上、完全に彼の存在であるコギト状態においても
捉えられるべきで、そうなって初めてその態度の実在性が証明される。
コギト状態にあって、センスデータを扱うことは、彼の志向性であり、
その志向性がコギトによって実在づけられているうちは、
その注目すべきデータは根拠であるコギト状態から見て、明証的である。
また、反コギト状態において、その明証的であったデータ(内外を問わない)は
反コギトにあっても明証性を失わない。
なぜなら、コギトとデータとの対応性こそが明証的であったのだが、
そうは言っても、データは「我考えられた」のだし、
データが「我」が{任意のデータ}「を思う」のだとしても、
証明されるのは思っている我と、我の思っている対象、つまりデータであるからだ。
データ部分を空白にして、志向状態という地平に訴えても、無駄であろう。
そう考えることは、現代におけるコギトと、デカルトのコギトとが完全に同一であるという、
不可能な説を煽るのと一緒である。
220考える名無しさん:2009/11/14(土) 10:08:21 0
そのまま「ぴかぁ〜」の道を突っ走るのであった・・・・
221考える名無しさん:2009/11/14(土) 19:08:32 O
>>218
その指摘は、何なら恣意的でないのかと言う話にならないかな。
ちなみに、そこが否定されても議論の肝には影響しないよ。
肝腎なのは「飛ぶ矢のパラドクスは運動という概念を否定する」ということであって、「静止が運動の一様態であるかどうか」は別にどうでもいい。
というか、飛ぶ矢の一瞬を切り取っても矢は静止なんかしてないからね。
飛ぶ矢の場合は、短い時間とはいえ時間の流れが含まれる以上運動はしているはずだし。
静止とか運動とかどういう意味で使っているかで議論の流れが全然違ってしまう。
前提が色々とあやふやすぎて、真っ当な議論をするだけの下地が整ってない。
おまけに結論がよく分からんし。
だから不毛だと言ったのだけど。
222考える名無しさん:2009/11/14(土) 19:13:15 O
>>219
いちいち質問するのも邪魔くさいので、とりあえず単語ごとに注釈つけてくれ。
223考える名無しさん:2009/11/18(水) 09:33:23 O
とりあえず、実在論を定義しなよ
あと、君の言う「分析哲学」と「現象学」がどのようなものかを明らかにしてほしい
明らかにするってどういうことか分かる?
具体的にどういうことかを他人が分かるように説明することだよ
224kyrie@鬱 ◆.RYdSpBfEI :2009/11/18(水) 16:40:52 0

クワインスレを立ててみた
http://academy6.2ch.net/philo
225kyrie@鬱 ◆.RYdSpBfEI :2009/11/18(水) 16:45:41 0
>>221

飛ぶ矢の一瞬を切り取っても静止しているなんで言ってないぞ?
パラドクスが運動の否定である、とするのは、やはり矢の移動距離を
分割して、その当の分割に名前を付けただけであって、当の分割そのものを
言ったものではないよね。

>>223

実在論:センスデータとそれを扱う表象とデータの元である物理的対象が
正確に一致するという、理想的な論理。

でいいでしょ。これはクワインの主張を俺なりに解釈した結果であるけど。
226kyrie@鬱 ◆.RYdSpBfEI :2009/11/18(水) 16:49:54 0
俺の分析哲学の定義は、俺が得られうる最低限の所与、つまりセンスデータを
実在するものとして扱い、それの言語化は言語哲学だし、それの存在論は分析的な存在論だ。
それの表象論はこころの哲学。
227考える名無しさん:2009/11/18(水) 22:56:35 O
「文の連関を抑える」ってどういうこと?
228kyrie ◆.RYdSpBfEI :2009/11/19(木) 10:03:17 0
>>227

文の連関には射程があるということだ。その連関の射程は、
常にセンスデータを解釈しなければならないという認知上の限界によって、
文の連関を永遠には追うことはできない。
229考える名無しさん:2009/11/19(木) 11:48:56 O
その調子でいこう
反コギトとはどのようなこと?
コギト状態とはどういった状態を指すの?
230kyrie ◆.RYdSpBfEI :2009/11/19(木) 16:55:51 0
反コギトとは、刺激のデータが私の存在を実在論的に物理的対象と結びつけるとき、
私の存在が物理的対象に依存する、その状態をいう。
コギト状態とは超越論的自我である状態。つまり判断停止している私の状態。
231考える名無しさん:2009/11/20(金) 15:47:35 O
私の存在というとき、どのような「私」が想定されているの?
232考える名無しさん:2009/11/24(火) 06:28:51 O
kyrieが書いてるのは哲学の論説じゃなくて詩だよ

哲学用語を書き並べただけの表現行為に過ぎないね

結局何が言いたいのか自分でもよくわかってない癖に

自分表現行為にただ酔ってるだけだろうな
233考える名無しさん:2009/11/24(火) 10:48:06 0
その通りだね。
ネットで簡単に自己表現できてしまうのも、良し悪し・・・
234考える名無しさん:2009/11/24(火) 12:29:08 O
ヘーゲル以前は古いって言ってる奴が院哲学科に進学するなんて無茶だろw
235ガチ天才まし:2009/11/24(火) 17:50:04 O

“ガチ天才による講義”

(´・ω・`)ノ ≡“http://c.2ch.net/test/-/war/1225690216/75”〜"ガチ天才"〜 (みんな〜!!?)^>^
236kyrie@躁病 ◆.RYdSpBfEI :2009/11/27(金) 00:54:19 O
>>232-233

それは、貴方達の理解が足りないだけ。。貴方達が愚かであるという、
文の連関を感覚的所与を認識していない証拠。


>>234

ヘーゲルは俺によって、既に論駁されている…。それどころか、
俺は今までの哲学者たち、すべてを論駁できる。。


>>234

こんな奴、俺の哲学に比べたら大したことないな…。この板を含めて、
俺を論駁できる奴は2ちゃんねるに存在しないからな。。
237kyrie@躁病 ◆.RYdSpBfEI :2009/11/27(金) 00:56:46 O
訂正
×→文の連関を感覚的所与を認識していない証拠。
○→文の連関による感覚的所与と反コギトとの一致を、
認識できていない証拠。
238kyrie@鬱 ◆Debha1lQgc :2009/11/27(金) 11:03:06 0
躁病君、君は俺を騙ろうとしても無理だよ。
哲学の素養がないもん。

>>232

どの辺が詩だと感じたの?>>230みたいな丁寧な解説でも理解できなかったの?
自分が理解できないものを詩だとみなすのは、すっぱい葡萄はなんとやらだな。
239考える名無しさん :2009/11/27(金) 11:28:18 0
>>238
オマエこういうスレは違反なんだから
いい加減にしろよな
240考える名無しさん:2009/11/27(金) 12:34:55 O
>>238
哲学の素養がないのはどっちだw
241231:2009/11/28(土) 00:00:20 O
一応返答してほしいのだが
242考える名無しさん:2009/11/28(土) 08:49:47 O
>反コギトとは、刺激のデータが私の存在を実在論的に物理的対象と結びつけるとき、私の存在が物理的対象に依存する、その状態をいう。
>コギト状態とは超越論的自我である状態。つまり判断停止している私の状態。

という定義づけからして意味不明。


>超越論的自我である状態と
>判断停止している私の状態。
を「つまり」で結んでる意図は何?意味わかってやってる?

そもそも、「コギト」という用語を何か哲学という「分野」の専門用語のような使い方をしてるけど、
「cogito」の語義を掴んで使用してるのか?
さもなけりゃ、分析哲学どころか、意味不明な多義語を頻繁に用いるだけのポモ厨に過ぎないよな?

で、言うんだろ?
「貴方は馬鹿だから。」「俺の哲学を理解していないだけ。」ってな。
243kyrie@鬱 ◆Debha1lQgc :2009/11/28(土) 10:40:56 0
>>231
亀レス申し訳ない
「私」は、単に俺のこと。われわれというには、俺の哲学は自分の直観に
頼りすぎているから、古典的独我論を引きずってるだけ。

>>242

うーん、貴方がどうして理解不能なのかが、まずわからない。
超越論的自我は、普通の意味での自我すらエポケーして、
なお残る思考主体を自我から超越した自我として、言ったもの。
だから、超越論的自我=判断停止している私の状態となるのは自然じゃない??
244考える名無しさん:2009/11/28(土) 12:15:08 O
>超越論的自我は、普通の意味での自我すらエポケーして、
>なお残る思考主体を自我から超越した自我として、言ったもの。
>だから、超越論的自我=判断停止している私の状態となるのは自然じゃない??


kyrieはどうも混同しているように見えるが、「超越的」と「超越論的」の区別を理解してないだろう。。
こんなんじゃ大学院なんか到底受からないぞ。
245kyrie@鬱 ◆Debha1lQgc :2009/12/01(火) 17:59:12 0
混同はしてないよ。
246考える名無しさん:2009/12/02(水) 07:37:49 0
247考える名無しさん:2009/12/02(水) 08:01:19 O
>>245
だったら

>超越論的自我は、……自我から超越した自我として、言ったもの。

こうはならないはず


超越論的≠超越した でないことも知らないなんて
カントを理解してない証拠
248247:2009/12/02(水) 08:02:43 O
訂正
超越論的≠超越した でないことも知らないなんて


超越論的≠超越した ということも知らないなんて
249kyrie@鬱 ◆Debha1lQgc :2009/12/02(水) 12:09:25 0
カントの意味での超越論的は、直観内容でなく、直観の形式そのものを問題にする
すること、と理解している。
でも俺の言ってるのはフッサール的意味であって、超越論的とは自己を
エポケーしている当の状態そのものを論じる態度。
単にエポケーするだけなら、超越的でも通じていまうんだな。あるいは
忘我と区別して、準超越論的といったほが明解かもね。
250めんへ:2009/12/02(水) 13:52:18 O
山川
251考える名無しさん:2009/12/02(水) 17:27:43 O
>カントの意味での超越論的は、直観内容でなく、直観の形式そのものを問題にする
ちがうよー。直観形式そのものが問題となるのは外延量のとき。弁証論では確かに形式の問題が取り沙汰されるけど。
カントが超越論的な仕方で主眼にしたいのは、むしろその内容。

きりーの思想の内実はともあれ、文章が詩的なものに傾いている印象は受けるよ。
だから皆、定義云々とかを聞くんだよ。

ところで、酉バレしたの?
252考える名無しさん:2009/12/03(木) 06:31:36 0
253考える名無しさん:2009/12/04(金) 09:33:01 0
254kyrie@鬱 ◆Debha1lQgc :2009/12/05(土) 10:47:12 0
>>251

ん?なんか俺の理解とは違うな。
超越論的な状態というのは、直観そのものを対象とするときであって、
日常の直観形式たる時間と空間に暗に支配されている状態とは一線を画す。
超越論的な状態であるがゆえに、直観の形式が時空だ云々といえるわけで、
つまり直観の形式そのものを問題にしているんじゃないの?

酉バレましたw
超わかりやすい酉だったんだよね、、
255考える名無しさん:2009/12/05(土) 18:00:36 O
概ねあってるとも言えるし、全く間違ってるとも言えます。
要は、きりーの用語の使い方が独特だから、文意が曖昧なんよね。
たとえば「超越論的な状態」とか「直観そのもの」とか。


>超越論的な状態

・超越論的な理性使用の対象は、概念であって直観ではないです。
・概念が超越論的な仕方でかかわる対象は、直観です。
・純粋直観を対象と出来るのは、外延量です。
・量以外の純粋悟性概念が対象と出来るのは、直観の内容、すなわち現象です。
・超越論的な状態を、単なる経験的認識から区別された客観的認識と解するなら、
きりーの言い方でも大きく外れているわけではない気はする。

>直観そのものを対象とする

・直観そのもの(多様なもの?)を対象とするのは構想力です。
それは超越論的でも経験的でもありえます。
・表象としての直観は概念および図式の対象です。
・超越論的な論究が目指すのは諸表象の綜合の解明です。
直観そのものにはかかわることができません。
・空間の超越論的論究は論術方法の一種です。

>日常の直観形式たる時間と空間に暗に支配されている状態
・時間と空間は、「形式」であるなら、超越論的だろうと経験的だろうと一定の秩序をもたらします。
・しかし形式的直観と見なすなら……ここらは勉強不足です。

>超越論的な状態であるがゆえに、直観の形式が時空だ云々といえる
・直観を認識から分離するのは確かに超越論的な方法のためです。
しかしその場合の意味での超越論的状態は、上で挙げた客観的認識とは異なる状態です。
256考える名無しさん:2009/12/05(土) 18:04:46 O
書いてて思ったけど、もしかして現象学の意味での「超越論的な状態」?
257考える名無しさん:2009/12/05(土) 21:38:00 0
258kyrie@鬱 ◆Debha1lQgc :2009/12/10(木) 11:52:34 0

>超越論的な理性使用の対象は、概念であって直観ではないです。

カントがどう言ったかはともかく、概念すらその表象は、直観の形式に縛られていると
考えるのだけど、どうかな?概念を認知する(認知という語がカント的でないので、また指摘されそうだけどw)
のに、俺は直観使用が必要かな、と思ったんだけど。概念の認知が、直観に還元されるのと、
概念の認知に直観が必要条件なのとはもちろん違うわけで、
カントは、内観が時間的表象に還元されるのと、内観に時間という形式が必要、ということを混同しているように思う。
259誕生:2009/12/10(木) 12:29:49 O
260考える名無しさん:2009/12/10(木) 13:41:44 0
>>258
「純粋悟性概念(カテゴリー)」って知ってる?

261kyrie@鬱 ◆Debha1lQgc :2009/12/10(木) 17:41:55 0
もちろん知ってるけど??
262考える名無しさん:2009/12/11(金) 05:21:42 O
>概念すらその表象は、直観の形式に縛られていると考えるのだけど、どうかな?

表象の起源(材料)だけに関して言えば、その通りだと思うし、カントも首肯するはず。
でももしカントがどう言ったかを考えるなら、>>260だよ。


>直観使用

「直観使用」というのは、
直観を素材として使用すること? 
それとも直観を能力として使用すること?


>カントは、内観が時間的表象に還元されるのと、内観に時間という形式が必要、ということを混同しているように思う。

その点は考えれば考えるほど面白い点だと思います。
混同していない、と個人的には解釈してる。
一般的にどうなのかは知らないけど。
面倒なんで、B160注参照。
そもそもカントにとって「直観の形式」というもの自体は、ある意味で空想物にすぎないんよね。
原理論付録の「無の表」の箇所でカント自身が言ってる。
263考える名無しさん:2009/12/11(金) 13:57:11 0
264考える名無しさん:2009/12/12(土) 11:20:53 0
>>263
「丁寧な解説」はうけた
そもそも「コギト状態」とか「超越論的自我である状態」とかいう言い方からして・・・
哲学科の授業で「コギト状態」なんて言ったら、みんな ( ゚д゚)ポカーン でしょ
265考える名無しさん:2009/12/12(土) 17:45:43 O
「なんとなくわかる」とか「なんとなく通じる」じゃだめなんだよね
結果オーライでやっちゃいけない話なんだし
kyrieはもう少し他人に分かってもらえるようにものを書く訓練をしなよ
君のやってることが哲学だと言い張るのならば、すなわち君は学問をやっていると言い張っているのだよ
理解されない学問に価値は無いよ?
266考える名無しさん:2009/12/12(土) 19:29:34 O
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1259658053/
8:kyrie@鬱◆Debha1lQgc :2009/12/07(月) 19:08:41 0 [http://music.geocities.jp/karolszymanowski2000/main.html]
>>7

頑張れ〜^^
俺はやっと一万字に到達。
参考文献はクワイン、デイヴィッドソン、デリダ、リュック=ナンシーから、
ヘーゲルカントデカルトまで多岐に及ぶ。
267考える名無しさん:2009/12/13(日) 09:53:12 0
>>266
何万字書いても、今の書き方じゃあ
読んでもらえるのは最初の800字ぐらい、と思う。
まじめな教授なら3000字ぐらいは読むかもしれない。
それ以上は無理だろう。
こういう文章を一万字以上読めっていうのは、拷問だよ。
心にも、体にも、よくない。
268考える名無しさん:2009/12/14(月) 18:57:29 O
なんか数学の証明問題とか苦手そうだよね。
いきなり意味不明なこと書いてみたりして。
定説ですか?
バルキスの定理ですか?
邪気眼ですか?
そもそも証明って何か知ってるのかな?
269kyrie@鬱 ◆Debha1lQgc :2009/12/17(木) 12:35:11 0
>>267

だいぶ書き方を変えたよ^^読みやすくなったと思う…
結局25000字に落ち着いた。
時間とはなにか、を完全に解明した、と信じる。
なぜ時間は過去から未来へと流れるのか…という問題を真正面から取り上げ、
みごと唯一無二の答えに行き着いた。
270考える名無しさん:2009/12/17(木) 12:43:28 O
また酉バレしたの?
271kyrie@鬱 ◆Debha1lQgc :2009/12/21(月) 15:51:20 0
なんで?本人だよ。
卒論がもし通ったらここに晒すよ。
文章もかなり平易にした。
272考える名無しさん:2009/12/21(月) 16:24:18 0
>>269
>なぜ時間は過去から未来へと流れるのか…という問題を真正面から取り上げ、みごと唯一無二の答えに行き着いた

それ是非にも読まして欲しいが、どうすればいい?
273考える名無しさん:2009/12/21(月) 17:46:48 0
>>268
そういう君は「そもそも証明とは何か」知ってるのかな?w
274考える名無しさん:2009/12/21(月) 18:14:29 0
>>269
>みごと唯一無二の答えに行き着いた。

これはマジなのか、ギャグなのか…w
275考える名無しさん:2009/12/21(月) 23:24:16 O
>>273
ああ、そういうめんどくさい話じゃない。
例えば、(P→(Q→P))が定理であることを証明する方法をkyrieが知ってるのかってこと。
何をどうすればその命題を証明したことになるのかをkyrieが理解してるのかっていうこと。
議論の組み立てられなさを見るに、非常にあやしいと思うのだが。
276考える名無しさん:2010/01/02(土) 07:37:54 0
>>1は糖質なんですか?
277kyrie@鬱 ◆Debha1lQgc :2010/01/07(木) 10:46:35 0
>>272

今年中にはうpするよ。

>>274

マジです。教授陣も驚くだろうな〜
一介の学生が、教授である自分には想像もできない深遠な真理に
到達していることを目の当たりにし、まるでモーツァルトの譜面を落としたサリエリのごとく
感動、羨望と嫉妬とで頭が真っ白になる…そんな妄想にニヤける。

>>276

糖質と診断されたこともあるが、典型的な鬱病だよ。まず社会には出れないね。
純一コースまっしぐらだ。
278純一 ◆QzuB1xeuck :2010/01/27(水) 19:58:44 0
よう、頑張ってるか〜?
俺は自分のスレに戻るぞ〜?

じゃあな。
279考える名無しさん:2010/01/28(木) 11:17:10 O
色々話が中途半端なまま放り出されてるけど、kyrieは忙しいのかな?
280kyrie ◆Debha1lQgc :2010/01/28(木) 23:08:06 0
>>278

なにしに来たんだよw

>>279

院のための勉強で忙しいが、こんなものを書いてみた

「悟り」とはなにかを哲学的に考察
http://16428.l-3-l.me/1264685648/
281純一 ◆QzuB1xeuck :2010/01/29(金) 00:37:13 0
挨拶しに来ただけ、kyrieが来いってしつこいもんでね。

それはともかく、東スレの村上哲也ってのが
kyrieと凄いキャラが被るんだけど、自分でどう思う?
282ベジ ◆aIbOoUFmYEmg :2010/01/29(金) 06:53:25 O
>>281
>東スレの村上哲也ってのが
>kyrieと凄いキャラが被るんだけど、自分でどう思う?


え、えぇえええ!!?

村上とその方は無関係です…。

被るのかな…?
283純一 ◆QzuB1xeuck :2010/01/29(金) 14:12:04 0
ああ、お前は村上と結婚するって話だったな〜

幸せにな。
284ベジ ◆aIbOoUFmYEmg :2010/01/29(金) 16:47:19 O
なんじゃそりゃ
285考える名無しさん:2010/01/29(金) 19:49:11 O
ポケモンだもんねえ
そうなるよな
286考える名無しさん:2010/01/29(金) 22:39:23 O
>>280
読んできた。
客観状態の悟りというのは、仏教の空のような考え方だな。
俺は空に対しても同じ疑問があるのだが、
客観状態で悟りを体験しても、時空0故に自覚も記憶もできないのだから、
「オレ、客観状態の悟り体験した」
というのは明らかにウソツキだよな。
かといって「オレ、状況の変化から察するに、さきほど客観状態の悟りを体験した筈だ」
というのも、納得しがたい。
なぜなら、確かに時空0になったならば、そこから再び意識が生じる筈がないからだ。

仏教の方では、たいがいの一切の概念(自我、苦しみ、時空、有無etc)を「あり得ないもの」としていて、
ゆらぎを持った「空」なるものが世界の唯一の本質である的な発想だ。
ゆらぎはいわゆる縁起に相当し、縁起は空と類義と捉える。
ここまでだといいんだが、彼等が「空」を悟ることを良しとしているのが矛盾。
一切は空ならば、悟ろうが悟るまいが一切は空なのだから、悟りなどど
うでも良いとすべき。

だんだん独り言になって来たのでこのへんで。
特に深い意図はない。
287考える名無しさん:2010/01/30(土) 12:54:55 0
>>286
>彼等が「空」を悟ることを良しとしているのが矛盾。
>一切は空ならば、悟ろうが悟るまいが一切は空なのだから、悟りなどど
>うでも良いとすべき。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000269/files/1543_24303.html
【「およそ一切の万物は、すべて皆『空なる状態』にあるのだ。『五蘊(うん)』もない、『十二処(しょ)』もない、
『十八界』もない、『十二因縁』もない、『四諦(たい)』もないと、聞いてみれば、なるほど『一切は空だ』ということがわかる
。しかも、その空なりと悟ることが、般若の智慧を体得したことだ、と思って、すぐに私どもは、その智慧に囚われてしまうのだ。
しかし、元来そんな智慧というものも、もとよりあろうはずがないのだ。いや智慧ばかりではない。そういう体験(さとり)を得たならば、
何かきっと『所得』がある、いやありがたい利益や功徳(くどく)でもあろうなどと、思う人があるかも知れぬが、それも結局はないのだ」
というのが、「無レ智亦無レ得」ということです。
こうなると、皆さんは、いわゆる迷宮に入って、何がなんだか、さっぱりわからなくなってしまうことでしょう。しかし、ここに、
かえってまたいうにいわれぬ妙味があるのです。いったい仏教の理想は、「迷いを転じて悟り開く」ことです。
煩悩(ぼんのう)を断じて菩提(ぼだい)を得ることです。つまり凡夫(ひと)が仏陀(ほとけ)になることです。
にもかかわらず、迷いもない、悟りもない、煩悩もなければ、菩提もない。ということは、「いったいどんな理由(わけ)だ」
という「疑問」が必ず湧いてくると思います。だが、ここでとくとお考えを願いたいことは、万物は因縁より生じたものだということです。
そして「因縁生」のものである限り、皆ことごとく相対的なものだということです。】

「色即是空 空即是色」。
仏教には、「色即是空」という「空」に向かう否定的方向性(「執着するな」という面が強調される)と、
「空即是色」(色や形のあるままに、諸々のものは真実である)という肯定的方向性があって、
その二面性自体が、理性的には「矛盾」に見えるんだよね。
288考える名無しさん:2010/01/30(土) 16:01:53 O
キリエの梵我一如的な志向は一貫してるよな、仏教哲学の伝統で見れば意外にしっくりくる。

悟りが重要に読まれるのはカタルシスの経験なんじゃないかなって悟ったわ。
289286:2010/01/30(土) 16:13:46 O
>>287
言いたいことは解る。
とても解り易いね。
それに従えば、教えは常に相対的であり、常に「色」次元にあることで理屈は合う。
このことは、「空」次元や「色」次元が、(悟りという名の)境界線を境に行き来できるものではなく、別次元だという仮説を導くことになる。
空次元と色次元で示され得る対象から、色次元を放棄することが悟りであると解釈するしかあるまい。
こうなると、死ぬより他にない。
意識の再生を前提とした眠りや禅では不完全だ。
涅槃ともなれば、空次元すら放棄するというのだから、空や色ではない第三の次元を発見していると解釈される。
290考える名無しさん:2010/01/30(土) 19:23:30 O
仏教の眼目は「ブッダと同じように考える」のか「ブッダと同じことを考える」のか。
そして、縁起ってそんなに大事なのか。
291考える名無しさん:2010/01/30(土) 19:44:52 O
重労働して思ったこと
趣味はオナニー・・・ヤメタほうがいい
292考える名無しさん:2010/03/02(火) 21:33:59 0
test
293考える名無しさん:2010/03/02(火) 21:34:46 0
二月に一切書き込み無いのな
294kyrie ◆Debha1lQgc :2010/03/03(水) 17:19:55 0
二月は忙しかった
ところで最近、ゼノンの静止する矢を論破した
295考える名無しさん:2010/03/04(木) 09:11:06 O
よかったねっ
296考える名無しさん:2010/03/04(木) 09:16:54 0
>>294
矢は静止しないよ。
物理学で考えれば明白な事実。
それよりキリ坊は大学院はどうなった?
297kyrie ◆Debha1lQgc :2010/03/05(金) 17:25:11 0
>>296

矢は静止しないが、物理学を援用したとして、どうして矢が静止しないことを
証明できる?
俺は完全に哲学的に証明したよ。
大学院は、来年だよ。今年は学費を稼ぐフリーターの一年。
298考える名無しさん:2010/03/06(土) 16:09:07 O
かんぜんに糖と同じ位置づけになってる
299考える名無しさん:2010/03/06(土) 16:11:07 O
竹内須山
300考える名無しさん:2010/03/06(土) 16:13:11 O
そんなのは証明できるだろ。NHKのピタゴラスイッチの原理でだいたい物理は思った通りなんだから
301考える名無しさん:2010/03/06(土) 21:55:08 O
世界は哲学的にできてないんだよwww
ここまでのバカは久しぶり
302kyrie ◆Debha1lQgc :2010/03/07(日) 08:24:50 0
>>300

そもそもこのパラドックスが物理的でない。
物理学の運動の概念を、さらに幾何学に抽象化したパラドックスなのだから、
物理学で証明できるはずがない

>>301

なんで哲学板にいるの?
303考える名無しさん:2010/03/07(日) 09:13:44 0
>>302
まあ色んな方法で証明できるだろうな
−論理学及び物理学における論証のガイドライン−
動く「物体」は「連続して」動いているから運動を止めない限り静止させることはできない
だから現実世界の現象においては動く「物体」は静止した状態にはならない
それは時間を静止させることができないことと等しい

以上のことに沿って論証なり物理学の運動方程式など用いればいいだけの話
簡単なことだw
304考える名無しさん:2010/03/07(日) 10:41:26 0
>>303
そうそう、運動の持続する連続性を証明すればいいんだよね。
305記憶喪失した男:2010/03/07(日) 18:10:09 0
ゼノンの矢のパラドクスは、
無限の概念を導入すると、新しい要素が誕生するということで、
おれは論破したつもりになっていた。
306kyrie ◆Debha1lQgc :2010/03/07(日) 23:17:20 0
>>303

その運動の連続性に、多寡があるのだよ。
ゼノンの矢は、運動しているが、運動の様は一様でない。
運動の連続性が恣意的に減ぜられていって、ついには0に到る、というのが
ゼノンの論。
矢が「静止している」という表現に難があって、本当は「運動はしているが、進まない」
と言うべきだ。
また、運動の連続性というが、連続性を捉えているまさにそのときに、捉える者、つまり観察者が、
少しでも変化しているのならば、自分が変化しているのか矢の位置が変化しているのかの
判断が相対的になって論じることすらできない
307考える名無しさん:2010/03/07(日) 23:27:29 0
>>306
>矢が「静止している」という表現に難があって、本当は「運動はしているが、進まない」と言うべきだ。

いや、進んでいるんだよ大体ね「0秒」というのは実際問題として無いわけ
0.0000000000000000000000000000…1秒というように、現象的時間は進む
時間が必ず進むということは運動しているものは必ず先に移動している
それが連続性の概念であり、C・S・パースなんかも言っていることと通ずる
308kyrie ◆Debha1lQgc :2010/03/08(月) 06:40:57 0
>>307

矢は、時間を表現している。矢は、時間の象徴だ。
矢が半分の距離まで到達した、ということは、矢の運動分時間が進んだ、ということ。
しかし、矢の移動距離は、無限に分割される。
当然、矢の運動に象徴された時間も、無限に分割される。
だから、時間は永遠に分割され続ける。だから、時間は進まない。
矢の運動と時間の進行は同義であり、「時間が進んでいるから矢は進む」
などという単純な論理は成り立たない。

これを否定したいでしょう?単なる日常の帰納から、「時間は進む」ことを確信しているなら、
時間が進むことを演繹的に証明しなければならない。
で、それができないからこそ、ラッセルもベルグソンもゼノンのパラドックスの論破に
失敗したわけ。

でも俺は、卒論で時間が進むことを証明したよ。哲学的にね。
309考える名無しさん:2010/03/08(月) 08:58:09 0
>>308
ゼノンのパラドックスの場合は論理学的な論証は極めて難しい
だからこそ、数学を当然含む物理学からの方から追い込む必要がある
キリエがどういう卒論を書いたか見れないが、間違いなく穴があるよ
つまり論理学で説明できない概念がいくつも出てくるはずだからだ
だから俺がキリエの論文を見ればすぐに、「なんでこの部分は証明無しに
真であるとして論じているのか?」という突っ込みがいくつも出来るはずだ
要するにゼノンのパラドックスにはあらかじめ「論証できない」制限が付与
されているということ
だからラッセル等々の学者も論理学だけでは説明しきれなかった
要するにキリエの論証は間違っているということだ
でなければPDFででも公開して見れるようにしてくれ
ダイジェスト版でもいいよ
日芸の卒論なら別に間違っているからといって卒業できないということもないだろうw
310考える名無しさん:2010/03/08(月) 09:15:28 0
>>308
それからキリエが>308で書いていることは「微分」なんだ「微分」というのは漸近線があって
その漸近線までは到達しない
キリエは【「時間は進む」ことを】哲学的に証明したといっているが、そういうやり方ならば
「時間が進まない」ということと「時間が後退する」ということの可能性も否定しなければならない
つまりね、非常に極端過ぎる言い方になるが、あらゆる「哲学的証明」というのは、残念ながら論破
できるんだよ。
何故か?、「言語的展開」はその言語が持つ意味の曖昧性から逃げることはできないからなんだよw
311考える名無しさん:2010/03/08(月) 10:26:33 0
「無限」なるものが「存在」するというのは妄想だよ
312考える名無しさん:2010/03/08(月) 11:45:20 O
キリエ、大丈夫? なんか支離滅裂だよ?
313考える名無しさん:2010/03/08(月) 15:47:27 0
拘置所から久々に出所しました。またよろしく。
314考える名無しさん:2010/03/09(火) 06:18:07 0
だからkyrieは論理学やった方がいいって言ったのに
315kyrie ◆Debha1lQgc :2010/03/10(水) 23:53:08 0
>>309

貴方の方も、「論理的にゼノンのパラドックスが解けないのはなぜか」の必然性を
示してよ。
俺の証明は、論理学的な概念だけを使っているから、「証明なしに真である」部分はないよ。
それに俺は、なぜ時間は逆に進まないか、なぜ時間は後退しないか、も証明できる。
いまちょっと忙しくて貼れないが、
今月末あたり位に証明うpする
316考える名無しさん:2010/03/11(木) 00:50:43 0
>>315
それらしいことは書いてあるだろう、よく読めよな
「ゼノンのパラドックスが解けい理由」は「一種の自己言及型」なのさ「問題設定が問題」ということ
正しい推論→正しい推論→正しい結論、とくるのが理想なんだろうが
正しい推論→正しい推論→矛盾した結論、となるのがパラドックス
まあこの程度は解るだろうからいいか
「ゼノンのパラドックス」はすべて「現象(行為)の途中」の話なんだよ、実はね
まず、「二文法」も運動の途中という中で考えろという設定
「アキレスと亀」もアキレスが亀に追いつく直前の話
「飛んでいる矢は止まっている」もとび続けて射ることを無視して運動を「微分」し
到達しない地点A(架空の地点)に到達する前の話でこれも運動の途中の設定

>俺は、なぜ時間は逆に進まないか、なぜ時間は後退しないか、も証明できる。

それこそ無理だろ、俺に言わせれば時間は逆方向に進むし、静止もする、ということが
観測された瞬間にたとえキリエの凡庸な論理で証明したとしても、現実がそうなんだから
仕方ない…ということになる
論証は「事実」にはかなわないわけだよ
俺の言っていることは「パラドックス」と言われるものの、論証不可能性をごく一部だけ
紹介したに過ぎないけれど、論証者がどの位置に自分を置くかで答えは変わるし、変わって
当たり前なわけさ
まあ、このスペースでは説明しきれないけれども、「問題設定に問題がある」ことに気づか
ない限り、こういう問題の本質的な問いは理解できないと思うよ
317考える名無しさん:2010/03/11(木) 00:53:55 0
>>316
あうまん、俺も繰り返している(笑)
3行目ね、訂正、以下

正しい「前提」→正しい推論→正しい結論、とくるのが理想なんだろうが
正しい「前提」→正しい推論→矛盾した結論、となるのがパラドックス
318考える名無しさん:2010/03/11(木) 01:28:53 0
>>315
>>316-317
キリエごめんね、ちょっとねえ飲み過ぎてもうヘベレケ状態♪
俺のレスは誤字脱字がひどいねまったく
最後に大酔っぱらいから一言
「論証」にケチをつけようと思えばいくらでもつけられるということは忘れない方がいい
だから無闇に「完全に」「完璧に」「証明した」「証明出来る」ということは言わない
方がいいよ
たぶん、うpしたら、みんなから「全然ダメ」「どこが証明になっているんだよお」とか
いっぱい言われるはず
でもってキリエが「そんなことはない俺は完璧だと思っている」と言っても、みんなを納得させられ
なければ、それは「論証」に成功していないことになるんだよ
老婆心ながらね…おやすみ
319考える名無しさん:2010/03/12(金) 18:07:56 0
>>269
ジョン・マクタガートやその考え方を進めた入不二は
「…よって、時間は存在しない」という結論だよね。
郡司ペギオ幸夫は『時間の正体』の中でやはりマクタガートを中心に考えている。
ホワイトヘッドはどうだったっけか、似たようなもんだったかな。
320kyrie ◆Debha1lQgc :2010/03/23(火) 06:59:45 0
哲学史を本格的に勉強し始めた。

世界の全体性がある。というのも、プロティノスに従えば、完全充実体は何かを産まなければならないから、
この世界が産まれたものだとすれば、数をもたない完全充実体の存在は肯定される。
この存在こそ、神に等しいものであり、世界の起源である。
そして、この世界は、完全充実体の分析結果ではない。完全充実体は分析できず、その産出した世界は、等しく完全に充実していなければ
ならない。そして世界は、「いつ」生まれたものでもないことが、帰結される。「いつ」は、時間全体性の分析であるからだ。
そして時間全体性は、世界全体性の分析である。分析されるものは、完全には充実していない。ゆえに完全充実体は、人間がそこに在る
要素が分析的である、という帰納から、存在を否定される。こうして帰納と演繹とが食い違うが、そのそもそもの理由とは、
「イデア」の存在の肯定である。
完全に帰納的に己を状態づけようと思うのなら、コギトを導いた演繹では足りない。
なぜなら、人間は傾性であり、コギトによって導かれるべき帰納は、人間存在の帰納をいくらか無視した、理念性であり、
それは完全な帰納には至らない、デカルトの誤謬であるだから。
一方、カントの帰納、すなわち直観形式としての時空の借定は、直観そのものが超越論的に捉えられたとき、還元的に時空的である、
というものだ。しかし、人間存在がさまざまな分析の中途である、というそもそものカントの時代に知られていなかった事実を
持ち出すまでもなく、直観の形式とは、今ある光景を、人間存在という確固とした傾性でありながら、徐々に一般化していく過程で、
飽和してしまった、人間の純粋傾性への微分結果である。あるいは、直観の形式という概念を得ること自体は、自然から超越している
状態、すなわち自我の歴史的形成、自我という概念の歴史に依っている。感覚と自我との分離が決定的になったことが背景として挙げられる。
この机上の感覚と自我の分離が、自我というイデアを観想する、という幻想をカントに着想せしめ、世界が実際に時空的である、
という帰納から、さらに反省し、直観の射程を厳密に取り決め、もの自体の世界、ドイツ観念論、を生みせしめた。


321kyrie ◆Debha1lQgc :2010/03/23(火) 07:00:26 0

ところで、世界が何のために在るのか、という素朴な疑問に、因果律を用いて反駁する傾向がある。ここに、
人間存在を因果律から捉えた場合と、人間存在のベクトル性を基礎にした場合との食い違いがみられる。後者の場合は、俺、kyrieの
オリジナルの理論で、卒論にも書いた。教授陣は全く理解してなかったがw
しかし、人間存在は、因果律だけでは捉えられない、と断言できる。なぜなら、人間を、各要素におけるある値である、とするなら、
人間を人間たらしめる各要素の結合は、ニーチェを待つまでもなく固いものだ。それだから、直接に因果的な要素の変化は、
別の要素を要素分析的には因果的でなく、変える。

ようするに完全充実体は存在しない、ギリシア哲学の意味での神の証明は自己矛盾している。
322考える名無しさん:2010/03/23(火) 07:07:13 0
>俺、kyrieのオリジナルの理論で、卒論にも書いた。教授陣は全く理解してなかったがw

そりゃそうだろ
お前の論理展開にもまして、論文執筆技術がなっていないからだ
論理学を真面目に地道に勉強し直せボケw
323考える名無しさん:2010/03/23(火) 08:18:24 0
結論 哲学を語る人は詭弁の披露をしてすべっている
324考える名無しさん:2010/03/23(火) 10:58:05 0
kyrieの文章は手で書いている。
文章は頭で書かないと駄目でっせkyrieくん♪


325記憶喪失した男:2010/03/23(火) 17:21:31 0
うっひゃあ、難しすぎるぜ。
考えるのが好きなおれは参加するよ。
邪魔かもしれないけど、よろしく。
326記憶喪失した男:2010/03/23(火) 17:42:07 0
うっひゃあ、わからないことだらけだよ。

>完全充実体は何かを産まなければならないから、
>この世界が産まれたものだとすれば、数をもたない完全充実体の存在は肯定される。

ここがまずわからない。完全充実体は数学を超越する存在なのだろう。
なぜなら、数学は、人類の認識の一形態にすぎないからだ。
だから、完全充実体は、数学を超越しているはずだ。
だから、そこから生まれた世界は、数学で表わせない存在であると結論づけれるだろう。

で、あってる?

>そして、この世界は、完全充実体の分析結果ではない。
>完全充実体は分析できず、その産出した世界は、等しく完全に充実していなければ
>ならない。

ここもわからない。完全充実体というのは世界の根元で、
人類の認識からあふれ出た存在だから、分析できないってことかな。

>そして世界は、「いつ」生まれたものでもないことが、帰結される。
>「いつ」は、時間全体性の分析であるからだ。

これは、世界充実体から生まれた分析不能な存在は、分析不能だから、
いつを認識できないってことかな?
時間が物質を計測不能なのは、不確定性原理からも確かだよね。
327記憶喪失した男:2010/03/23(火) 17:55:52 0
>そして時間全体性は、世界全体性の分析である。
>分析されるものは、完全には充実していない。
>ゆえに完全充実体は、人間がそこに在る
>要素が分析的である、という帰納から、存在を否定される。

時間全体性が世界全体性の分析であり、分析されるものは完全ではないため、
時間は完全充実体ではない、ということがいいたいのかな。
つまり、時間を世界の起源に規定することの否定かな。

>なぜなら、人間は傾性であり、コギトによって導かれるべき帰納は、
>人間存在の帰納をいくらか無視した、理念性であり、
>それは完全な帰納には至らない、デカルトの誤謬であるだから。

これには反対だ。傾性とは、偏りのある存在という意味だろうか?
コギトによって導かれる帰納は、意識の存在証明であり、
決して、デカルトの誤謬だとは思わない。

>カントの帰納、すなわち直観形式としての時空の借定は、

これって、あらゆる人の認識は不完全なものであるということだよね。
だから、カントにとっては、あらゆるものが証明不可能であるということになるよね。
328記憶喪失した男:2010/03/23(火) 18:00:02 0
>ようするに完全充実体は存在しない、

つまり、プラトンの否定により、哲学史を全否定するのですね。
気持ちはわかります。
ですが、すると、現代における哲学を自分で全部構築する必要に迫られますが。
329考える名無しさん:2010/03/23(火) 20:29:22 0
キリエちゃんには、苫米地英人博士が似合ってると思うわ。
彼、音楽とかもやってるしw 哲学も仏教も詳しいし。自称・天才だし。
会って話してくるといいよ。胡散臭いけど、なかなか面白い人よw
330無限∞虚無 ◆FATE//aBz2 :2010/04/08(木) 03:30:17 O
こういう利用の仕方はあまりしたくありませんが,kyrieが今潰れてるので了承願い.


現在,kyrieと組んでるバンドですが,現在メンバー(Vo,Gt,Ba)が足りなくて困ってます.

作品を出すのに期限が迫ってきているので,もしよかったら音源あるのでお願いします.


もし興味がございましたら↓までメールください
[email protected]
331考える名無しさん:2010/04/15(木) 23:24:55 O
レスが滞ってるので議題を。
音楽において、芸術的であるとはどういう事をさすのか?
芸術的であるという事に普遍性はあるのか?
332Kyrie@鬱病 ◆Debha1lQgc :2010/04/18(日) 12:55:59 O
今アク禁中にて携帯から簡単に。
芸術性とは、各芸術形式が好き勝手に社会的役割を演じていた時代から、ある存在や様態の分析的表現を目指す、その目指される存在への意識が芽生えた時から、その存在と作品を照らして定められるようになった。
333考える名無しさん:2010/04/19(月) 12:10:57 O
おお、生きていたんか。キリエって今、院浪中?
334考える名無しさん:2010/04/19(月) 19:17:33 0

     _人人人人人人人人人人人人人人人_
     >     わりとどうでもいい      <
      ̄^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^^Y^ ̄

               ヘ(^o^)ヘ 
                  |∧   
                 /
335考える名無しさん:2010/04/19(月) 20:19:16 0
>>331
>音楽において、芸術的であるとはどういう事をさすのか?
>芸術的であるという事に普遍性はあるのか?

普遍性なんて、ないだろうね。「芸術」なんていう括りは、ないと思う。

たとえばバッハの音楽を考えてみると、大きく分けて
受難曲やカンタータなどの宗教曲と、それ以外の非宗教曲がある。
宗教曲は、まさにバッハが神に向けて書いた「神のための」音楽。

その一方でバッハは、学生の楽団たちと毎週コーヒー店で、演奏を楽しんでいた。
ヴァイオリン協奏曲などを聴くと、その楽しさ、演奏する喜びが伝わってきます。
これは「楽しむ」音楽。

そのどちらについても、「芸術」と呼ぶ必要は、私は全く感じません。
336kyrie ◆Debha1lQgc :2010/04/26(月) 13:58:33 0
>>335が全然芸術をわかっていないことが分かった。
第一に、バッハは宗教音楽を多数書いているが、それはカトリック教会から
与えられた正式な「仕事」としての収入源でしかなく、「神のために書いた」
曲は、のちにバッハがプロテスタントに改宗してから敢えてカトリックの
形式で書いた「ロ短調ミサ」しかない。
これ、基本的な音楽史ね。
337kyrie ◆Debha1lQgc :2010/04/26(月) 14:21:09 0
>>332

そうだよ。
東大に過去問取りに行ってきた。ギリシャ語とかあってびびりまくり
338考える名無しさん:2010/04/26(月) 14:32:12 0
>>336
>与えられた正式な「仕事」としての収入源でしかなく

貴方は「仕事」をしたことがありますか?
仕事というのは、たんなる「収入源」を意味するのではありません。
仕事がたんなる「収入源」であるような人は、不幸な人だと思います。

もちろん、バッハはそのような人ではないと私は思いますが・・・


それから、貴方の音楽知識も・・・
貴方が何で調べたのか知りませんが、バッハがトーマスカントルを務めた「聖トーマス教会」は、もともとプロテスタントの教会ですよ。
339考える名無しさん:2010/04/26(月) 14:52:41 0
それから、宗教についても、貴方の理解はおかしいですね。
トーマスカントルとしての任務を務めることは、「神のために」仕事をするということです。
貴方の珍説によると、バッハには信仰がなかったということになりますが、それはないと思います。
340考える名無しさん:2010/04/26(月) 16:21:33 0
キリエ先生は たまに書きこむとこのざまだ  (´・ω・`)
341考える名無しさん:2010/04/28(水) 19:57:10 0

     _人人人人人人人人人人人人人人人_
     >     わりとどうでもいい      <
      ̄^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^^Y^ ̄

               ヘ(^o^)ヘ 
                  |∧   
                 /
342kyrie ◆Debha1lQgc :2010/04/30(金) 09:23:12 0
うん、なんか俺の理解が間違ってたみたいだ。正しくは、バッハはプロテスタントで、
トーマス教会のためにカンカータを書いていた。だがカトリックの形式であるミサ曲を書くことは、
バッハがプロテスタントであることからは考えられなかった。それを敢えてやっちゃったのが、
「ロ短調ミサ」。今まで教会の職務ために音楽を書き続けていたバッハが、
己の属する教義と関係なくミサ曲を書いた。これが、歴史的事件。

で、君の珍説によると、教会に務めることがイコール信仰がある、ということになる。
だから、バッハに信仰があったかなかったかどうかなんて、どちらも珍説の域をでない。
だがロ短調ミサという歴史的事件のみが、当時のバッハに信仰があったことを証しづけている。
343考える名無しさん:2010/04/30(金) 09:29:20 0
キリエは連休なんか予定あるの?
344kyrie ◆Debha1lQgc :2010/04/30(金) 10:06:02 0
彼女とディズニーランドに行きます^^その帰りにラブホ行くけど、
俺、遅漏だから、今回も射精しないままホテル代だけ消えていくんだろうな…orz
345考える名無しさん:2010/04/30(金) 10:20:39 0

「排外主義的愛国主義者には低学歴か低所得が多い」というのは、本文にもございます通り、実証的なデータ分析の結果です。
分析手順は、実際に博士論文を読んでいただきたく思います。
(中略)
本旨は、論壇誌を読む読まないに関係なく、各国に共通して、「拝外主義的愛国主義者には、低所得か低学歴が多い」という一点にあります。
(中略)
私の在職する大学で博士号を取得した田辺俊介君の博士論文『ナショナル・アイデンティティの概念構造の国際比較』(2005)が、
ISSP(国際社会調査プログラム)の1995年データを統計解析しています。
それによるなら、排外的愛国主義にコミットするのは、日本に限らず、低所得ないし低学歴層に偏ります。
要は『諸君』『正論』などの言説の享受者は、リベラルな論壇誌のそれより、低所得か低学歴だということです。

346考える名無しさん:2010/04/30(金) 10:29:36 0
http://kyrie555666.blog61.fc2.com/blog-entry-4.html

だれか↑を翻訳してくれ。なんかkyrieの衒学趣味が加速している。
347考える名無しさん:2010/04/30(金) 10:48:32 P
なんで鬱なのに彼女とラブホ行く元気あるの?
348考える名無しさん:2010/04/30(金) 12:38:50 0
>>342
>今まで教会の職務ために音楽を書き続けていたバッハが、
>己の属する教義と関係なくミサ曲を書いた。これが、歴史的事件。

貴方は知らないかもしれないけれど、ロ短調ミサの大部分はカンタータから転用したものなんですよ。
ロ短調ミサのためにバッハが新たに作曲したのは、ほんの一部です。
悪く言えば、カンタータの寄せ集めなんです。
一例をあげれば、カンタータ12番の第二曲は、ほとんどそのままロ短調ミサに使われています。
http://www.youtube.com/watch?v=jXap5fB-hvA&feature=related

ちなみに、「ロ短調ミサ」というまとまった作品は存在していないという学説もあります。
フリードリヒ・スメントによれば、四つの独立した作品の集合体が、俗に「ロ短調ミサ」と呼ばれているに過ぎないという。
つまり、バッハが「ロ短調ミサ」という纏まった曲を作曲したのかどうかさえ、はっきりしていないんですよ。

>で、君の珍説によると、教会に務めることがイコール信仰がある、ということになる。

いや。そんなことを私は書いていない…

「珍説」というのは、珍しい意見のことですよ。
バッハがルター派の敬虔な信者であったことはよく知られています。
信仰に関する手紙なども残っているわけだから、その信憑性は高いと思う。
バッハが信仰を持っていなかったなんていう意見を、私は聞いたことがありません。
だから「珍説(=珍しい意見)」と書いたわけ。
349考える名無しさん:2010/04/30(金) 13:28:42 0
それから、「カンカータ」は、たんなる入力ミスだと思ったけれど、
貴方が「カンタータ」を知らなかった可能性もあると思われてきたので、参考までに…

教会カンタータは、質量ともに、「敬虔な信者」であるバッハの作品の中心になっています。
http://www.aoyama.ac.jp/agunews_archiv/vol_24/top_4.html
『バッハはバロック音楽の巨匠。ドイツ・プロテスタント、ルター派教会の熱心な信者で、
ルター派教会音楽の珠玉を残しました。その代表作が200曲を超える彼の教会カンタータ。』
350考える名無しさん:2010/04/30(金) 15:49:23 0
ブサイクな彼女とラブホ逝く金あるなら、ラブホキャンセルしてカンタータ集くらい揃えておけ

Amazon.co.jp: Sacred Masterpieces / Cantatas: J.S. Bach, John Eliot Gardiner: 音楽
http://www.amazon.co.jp/dp/B003647BUE
351考える名無しさん:2010/05/01(土) 01:51:22 0
テクノの本質をあげるとすれば、

・テクノとは革新的である
・テクノとは実用的である
・テクノとは美的である
・テクノとは理解しやすいものである
・テクノとは出しゃばらない
・テクノとは誠実である
・テクノとは恒久的である
・テクノとは細部にいたるまで必然性がある
・テクノとは環境にやさしい
・テクノとは最低限のものである
・テクノとは杜玖椀である
・テクノとは堵愚慧螺の弟嘉痲螺を崇めるものである

スナインコッコスマナラコッサーラ長老やその直系の子孫たるラルフ&フローリアンを聞いてみるといい。
テクノの特徴はもちろん、ハウス、アンビエント、エレクトロの要素が既に確立され、
後のシーンを賑わすアーチストたちは、単にこの作品のコピーか焼き直しに過ぎないと言うことがわかるはずだ。
デトロイトテクノは上の条件のうち、せいぜい2〜3個程度しか満たしていない。
このことからもわかるように、テクノの元祖はデトロイトテクノだと連呼するのは、
まがい物の壷を本物と信じて疑わない、新興宗教の信者たちといっても過言ではないのである。
この圧倒的な真実を感じ取ることができない奴は、テクノ、ハウスシーンを語るには、
残念ながら、余りにも不適格としか言わざるを得ない。

予断ながら、長老の功績を認めない人間が左翼に圧倒的に多いということを指摘しておこう。
352考える名無しさん:2010/05/01(土) 13:06:20 0
>>350
ガーディナーですか。
私が今一番好きなのはBCJ。
http://www.hmv.co.jp/product/detail.asp?sku=3645416
あとは、ヘレヴェッヘ。
モダン楽器での演奏なら、やはりリヒターか…
http://www.hmv.co.jp/product/detail/2622683

それにしてもCDが安くなっている。
レオンハルト&アーノンクールのカンタータ全集は19,990円。
19,990÷60で・・・一枚あたり約333円。

一枚ずつ買い揃えている途中で
激安のBOXセットが出て、くやしがっている人が多数いる模様。
(私もその一人…)
353kyrie@鬱病 ◆Debha1lQgc :2010/05/06(木) 12:27:04 0
>ロ短調ミサの大部分はカンタータから転用したものなんですよ

もちろん知ってるよ。だから、バッハはわざざわミサ曲を書く動機が
なかったんだよ。
教会カンタータは、仕事のためだし、そこに信仰心があったとしても、
それは想像にすぎない。だがミサ曲を作曲したのは、完全にバッハの
信仰心に原因が求められる。シュトックハウゼンも言っている通りです。
354考える名無しさん:2010/05/06(木) 12:36:50 0
カンタータ全集買ったか?w
355考える名無しさん:2010/05/07(金) 09:43:12 0
キリエはあんまり頭良くないね。
356考える名無しさん:2010/05/07(金) 11:40:11 0
院に行くぐらいだから頭はいい方なんだけど躁鬱だから思考が偏ってる
357kyrie ◆Debha1lQgc :2010/05/07(金) 15:42:32 0
ロ短調ミサは音楽史上の「事件」なんだよ。この基本的認識がなってない。
358考える名無しさん:2010/05/08(土) 09:40:30 0
>>356
どこの大学院に入れると思う?w 
359kyrie@鬱病 ◆Debha1lQgc :2010/05/12(水) 14:23:36 0
まあ最低でも首都大、学習院あたりじゃない?
それにしても今哲学史と仏語と英語猛勉強してるが、今までの何も哲学史的知識の
なかった自分が恥ずかしい。
今、フランス語でドゥルーズ読んでます。一日2ページしか進まないが…
360kyrie@鬱病 ◆Debha1lQgc :2010/05/12(水) 15:36:20 0
数理哲学スレ
http://science6.2ch.net/test/read.cgi/math/1264923190/

このスレがおもしろすぐるww
361考える名無しさん:2010/05/12(水) 15:51:09 O
楽して稼ごう何て考えてんじゃねえぞ
362考える名無しさん:2010/05/13(木) 16:57:13 0
>>360
おまえぼこぼこにされてるじゃないか。
363kyrie@鬱病 ◆Debha1lQgc :2010/05/14(金) 13:26:02 0
ぼこぼこにはされてるが、俺への叩きが哲学への無知まるだしで笑えるんですよ。
まあ俺は数学の無知丸出しだけど、別に自分が無知だとわかってて敢えて
数学板に乗りこんだんだから、全然痛くもかゆくもないわけです。
364考える名無しさん:2010/05/14(金) 13:42:20 0
キリエ最近暇なの?
365考える名無しさん:2010/05/14(金) 18:13:44 0
おまえが無知なのは数学だけじゃないだろが。
366考える名無しさん:2010/05/14(金) 20:19:31 0
>>363
そのスレの君の書き込み自体も哲学への無知まるだしだがな
367kyrie@鬱病 ◆Debha1lQgc :2010/05/18(火) 14:31:37 0
>>364

暇じゃないです;;
5時間院のために勉強して、3時間を作曲とピアノの練習にあて、あとは
数学を勉強してます。

>>365>>366

まあ、そうですね。アカデミックな哲学史は、まだ勉強してる最中です。
368考える名無しさん:2010/05/30(日) 02:28:29 0
>>367
哲学史はこれで勉強しなさい

http://www.amazon.co.jp/dp/0415325056/

天才による鳥瞰図
369kyrie@鬱病 ◆Debha1lQgc :2010/05/31(月) 18:04:52 0
ラッセルね。確かに天才だが、偏りのない哲学史を学ぶには?がつくかな。
時間があったら読みたいが、今は岩波の哲学史を読んでる。
やっと古代思想から現代思想までいった〜
370考える名無しさん:2010/05/31(月) 23:11:55 0
>>369
そういう言葉の端々から哲学的素養の無さがわかるぞ霧ちゃん。>偏りの無い哲学史
371kyrie@鬱病 ◆Debha1lQgc :2010/06/01(火) 13:01:18 0
偏りのない哲学史なんてない、と言いたいのですね、わかります。
でもラッセルが哲学史的には十分偏ってることを知っていれば、
もっと偏りのない見地からの哲学史を読みたいと思うのは自然でしょう
372考える名無しさん:2010/06/03(木) 09:22:16 0
>>371
哲学と哲学史の関係を考えたことは無いのかきみは
373考える名無しさん:2010/06/04(金) 18:14:05 0
kyrieのいう偏りのない哲学史って、ヴィンデルバントか?
374考える名無しさん:2010/06/04(金) 18:24:05 0
キリエが精子出ないのは役立たずの能無し遺伝子のせいだよ♪
375ユビー ◆6wmx.B3qBE :2010/06/05(土) 10:43:43 0
あれだな、kyrie君もメルツバウとかジルドゥルーズとか
誰だって一度は間違えることだし、恥ずかしいことだったと知ることができるだろうから、
アイドルとかヴィジュアル系バンドにはまるのはいいんだけどね。まぁ、固定ハンドルとしては残念だよね。
ガンダムオタと同じレベル。
24歳なのが気がかりだね。
僕がアイドルやヴィジュアル系バンドから卒業したのは16歳のころだった。はまっていたのは中学生の時代だったよ。
376kyrie@鬱病 ◆Debha1lQgc :2010/06/05(土) 12:36:45 0
>>275

日本語で
377考える名無しさん:2010/06/05(土) 12:56:47 O
Kyrieって24歳なの?
378考える名無しさん:2010/06/05(土) 12:56:49 0
kyrieよ
哲学なんか趣味にしといて
音楽やアートのクリエイターになりたまえ
379kyrie@鬱病 ◆Debha1lQgc :2010/06/07(月) 15:24:37 0
フッサールとハイデガーの時間論を応用した↓

ある思考の解釈とは、カテゴライズされた把持Retentionによって、
つまり「思考の解釈」と特徴づけられたRetentionによって
(その際、観念的な諸カテゴリーの併存性がそれぞれ勝手にRetentionされるのだが)、
自ら述べようとすること(思考の定立)を予め解釈する。
解釈が、このRetention状態にあくまで保たれている限りでは、
そのどれを現前化的vergegenwartigtにするか。
今がRetentionへ向かって、今の経験を、諸Retentionへと分析可能な形にしながら、
それが定立的に分析されるであろうというRetentionを、
その当のRetensionへの観念的諸道具世界へと引き渡しつつ、
それらを介しつつ、自ら現在はそれをRetention的に解釈することをやめる。
ただRetentionへと形式的に向かう現在を、十分に具体性づけるのは、
今が具体的なのでなく、徐々に具体化へと降りてゆくRetentionへと現在へと直前している形式内容が
ゲシュタルト関係にあるときの、そのゲシュタルトの時間的延長性に依る。

質問受け付けます。
380kyrie@鬱病 ◆Debha1lQgc :2010/06/07(月) 15:26:25 0
>>377

そうだよ、6月2日に24歳になったよ。周囲がどんどん社会人になっていくなか、
モラトリアム&パラサイトな自分に危機感

>>378

とりあえず院に行って、音楽か小説かで成功したい。。
381考える名無しさん:2010/06/07(月) 15:44:19 0
コンプと夢の板挟みか苦労するな。。。
382考える名無しさん:2010/06/07(月) 17:09:43 O
今音楽に割いている時間を一旦全て哲学に向けるくらいに熱中できないのなら、院に行ってまで哲学を学ぶ必要なんか無いと思うよ。
実際院に行ったら音楽なんかやってる暇無いだろうし、成功するまでのモラトリアム期間を延長したいだけなら別の手段を選んだ方がいい。
本当に音楽無しの状態に耐えられないならば、院に行かない方がkyrieのためだ。
全て忘れて一つの物事に熱中するのは大切だし、その過程の持つ意味は大きいよ。
あちらこちらに浮気し続けるようなら、何物も満足に成し遂げられないだろうし。
物事を創造するのと哲学をするのとは全然違うことなんだよ。創造と分析は違う。
もしクリエイターになりたいなら、自分の欲求を整理した方がいい。
383考える名無しさん:2010/06/07(月) 18:47:47 0
音楽しながら哲学した方が視野が広がっていいぞ絶対

音楽も聴かずに哲学に打ち込めとかあほかね
384考える名無しさん:2010/06/07(月) 19:41:56 0
>>379
なんか廣松渉みたいな変てこりんな記述法だなあ
そんなんじゃダメだね
385考える名無しさん:2010/06/08(火) 10:27:07 0
みんなキリエにきびしいね
386考える名無しさん:2010/06/08(火) 12:40:21 O
やってることが哲学じゃなくて単なる自己表現だもの。
概説書レベルの知識もないのに、
気に入った言葉をテキトーに使って、自分に酔ったり。
調子が良いときに、スレ建てたり、現状報告したり。
自分に都合の悪いレスには答えないし。
質問しても、論点ズラしたり、逃げたりした上、
馬鹿ばっかみたいな発言繰り返すし。
387考える名無しさん:2010/06/08(火) 12:53:13 0
このコミュ力のなさだと自称リア充現状報告も嘘かもしれないけどね。
388kyrie@鬱病 ◆Debha1lQgc :2010/06/09(水) 14:22:00 0
>>382

アドヴァイスありがとう。一つのものに熱中すべきなんだろうが、俺はいろんな分野に
中途半端に手を染めてしまって、どれも捨て去るには惜しいまでにはなったんだよ。
あと、哲学と創造とは違うものだとは思わない。
創造行為自体は分析的でないが、各創造された断片を芸術形式のうちにまとめ上げるのは
分析的な行為だ。それに俺は、音楽を哲学的に考えてきた。
美学者としてなら、音楽と哲学の両立はなんら不自然でないでしょう?

>>386

概説書レベルの知識はあるよ?それに言葉を適当には使っていない。>>379
どこに適当な使用があるのか、指摘して欲しい。まあ自分に酔ってるのは認めるし、
たぶん貴方数理哲学スレで俺のカント観を批判した人だと思うけど、レス返してないのは
申し訳なく思ってる。

>>387

いつリア充報告なんかしたっけ?^^;
389考える名無しさん:2010/06/09(水) 20:58:49 0
>>379
現象学は知らないので、評価はできないのだが、日本語で気になる点がある。

> (その際、観念的な諸カテゴリーの併存性がそれぞれ勝手にRetentionされるのだが)、

日本語の「把持」には「する」とつけられるけど、Retentionは名詞でしかないから、
「Retentionされる」と書くのはマズいんじゃないの。
zurückhaltenだかbehaltenだかを含む表現を使わないといけないのでは。
現象学者が何というかは知らないけど。

> 今がRetentionへ向かって、今の経験を、諸Retentionへと分析可能な形にしながら、

最初の「Retentionへ向かって」はどこにかかる連用修飾語なのか。

> 具体性づける

こういう日本語はあるのか。
390考える名無しさん:2010/06/09(水) 21:12:30 0
>>388
数人に追求されて俺はリア充だ!って前にかいてたよ^^
まあリア充かどうかなんて言った者勝ちだよね〜
391考える名無しさん:2010/06/10(木) 02:05:25 O
まず、Retentionによって「予め」解釈するってどういうこと? Protentionではなく?
vergegenwa(e)rtigtという過去分詞を現前「化」的って訳したのはなぜ? 文脈によって訳され方が異なる語だけど、ドイツ語を併記する以上、そこに意味はあるんでしょ?

観念的道具世界ってなに?道具世界は「観念的」な仕方をし得るの? だとしたらその根拠は?

ゲシュタルトはフッサール的な意味での? メルロ=ポンティ的な意味での?

応用というけど何をどう応用して、何を為したの?

あと、用語の使い方が、全て無規定。
解釈、カテゴリー、観念、経験、分析、現在、形式、具体、直前、形式内容。
どれひとつ精確な意味が判らない。コンセンサスのとりようがない。
突っ込んだらキリがないから省略。
日本語も変。主述が一致していない。
392kyrie@鬱病 ◆Debha1lQgc :2010/06/11(金) 10:35:20 0
>>389

ごめん、ドイツ語を粋がって使った俺が悪かったwww
ただ俺はretentionをドイツ語の単語としてでなく、日本語の哲学用語として
あくまで使っているから、それは脳内補完できるだろう。

>>391

ハイデガーの言っているのとはまったく異なるが、
ある対象の客観性に至るまでに、その対象が属している指示関係の
閉じた道具世界を複数個指摘でき得るわけです。道具世界の指示連関が
一つしかない保証はないし、しかも複数個道具世界があるとしたら、
それらの間の射程や関係性が問題になる。対象が客観性に至るまでに
そのような道具世界を介するならば、道具世界は客観性以前の観念的道具世界だ、ということになります。

ゲシュタルトは、心理学用語として使いました。だが「染みに対する地」という意味で、
メルロ=ポンティ的な意味に近いでしょう。

応用というのは、両者の時間論を俺なりに発展させたことを言っています。

用語の使い方はすべて哲学史に忠実な積りですよ。貴方が意味がわからない
というのは、俺の用語の使い方の問題だけにあるのではなく、
言っている内容の意味が(必ずしも俺のはアカデミックな哲学ではないから)
分からないのでしょう。だから、用語はそのまま貴方の哲学史的理解に基づいて
意味を取っていただければ、後は内容のほうが応用的だから(ハイデガー、フッサール
哲学を知っているだけでは理解できません)、よく考えれば自ずと意味は
分かってくるはず。ただし敢えて衒学趣味に走った俺も相当悪質です。
もっと分かりやすい記述をこころがけます。あと似非ドイツ語は控えます^^;
393考える名無しさん:2010/06/11(金) 15:07:05 0
難しい表現は専門家相手に論文でやればいい
しかしここでは出来るだけ簡潔かつ解りやすく書こうなw
394考える名無しさん:2010/06/11(金) 17:56:06 0
kyrieのは、衒学的なせいでわかりにくいんじゃなくて、
日本語が崩壊してる。

>>392
いちど「ゲシュタルト」の説明をしてみてほしいな。
院試とかで用語説明くらい出題されるだろうし、試験のつもりで。
ゲシュタルト自体は哲学というより心理学の問題だろうけど。
395佃煮マニア:2010/06/11(金) 18:01:09 0
ゲシュタルト=疑う事なく信じ続けて来た環境への知識でしょ。
396考える名無しさん:2010/06/11(金) 19:21:26 0

【ゲシュタルト】
全体的な概念における「形態」のこと
397考える名無しさん:2010/06/12(土) 00:06:28 O
>用語の使い方はすべて哲学史に忠実な積りですよ。

哲学史的にみて、カテゴリーや観念や分析や形式といった用語の使い方が、
語り手によって異なる。「哲学史」に忠実って言うけど、用語の使い方は
通史的な一意性をもたない
(それはアカデミックな哲学がやってるほど厳密な意味ではなく)。
だからきちんと明確にしたもらわないと、正確な意味が解らない。
また哲学史は哲学とは違う。哲学史的理解に基づいて考えるなら、
やっぱり上の文はおかしい。なぜなら、フッサールやハイデガーが用いている用語を、
貴方がどう解釈しているかが不明瞭だから。
また哲学的見地から上の文章に言及することも難しい。
なぜなら、「概念の厳密さ」と「文章の目的性」のいずれもが欠けているから。
概念が厳密に規定されているなら、限りなく言葉遊びに近い議論も、有意義。
ロジックの精巧さで議論できるから。また文章の目的性が明瞭なら、
ロジックが曖昧でも有意義。たとえばニーチェやドゥルーズの文章は
厳密なロジックを用いているとは言い難いが、言いたいことは明瞭だし、
何に応用できるかが割とハッキリしている。
貴方の文章にはどちらも欠けている。ゆえに、問題意識を共有できない。
398考える名無しさん:2010/06/12(土) 00:11:15 O
というか、大学で哲学の講義や演習出たことないの? 哲学史のことは知っていても、哲学のことを知らない印象を受ける。
煽りとかじゃなくて本当に疑問なんだけど。
399考える名無しさん:2010/06/12(土) 16:41:49 0
クリエイターも哲学者も不安定なのは確か。
なぜ24にもなってそんな夢を見てるんだろう。
キリエ哀れ
400考える名無しさん:2010/06/13(日) 20:10:06 O
kyrieの文章は哲学的な立場の主張じゃなくて、俺はこれだけ知ってるんだぜっていう自己顕示だからな。
そうじゃなければ自分で「衒学的」なんて言えもしないだろう。
401考える名無しさん:2010/06/16(水) 01:42:46 O
kyrieは「アカデミック」な哲学を嫌いなようだけど、
アカデミックな哲学がどんなことをしているのか知っているのかい?
まさかイメージだけで語っているだけじゃないよね?
402kyrie@鬱病 ◆Debha1lQgc :2010/06/22(火) 13:44:44 0

>哲学史的にみて、カテゴリーや観念や分析や形式といった用語の使い方が、
>語り手によって異なる。「哲学史」に忠実って言うけど、用語の使い方は
>通史的な一意性をもたない

それは、人間は一意的でないから人間について語ることはナンセンスだ、と
言ってるのと一緒。実在としての普遍も実在としてのイデアも存在しないが、
ある概念の一意性に限りなく近似する哲学史的用語を斉合的に把握すべき。
それが哲学史を学ぶということでしょう?

また僕の文章は一貫した目的性をもってますよ。なぜ時間は進むのか?
これに尽きます。
403考える名無しさん:2010/06/22(火) 14:13:04 0
kyrie時間論をぜひ聞いて見たいもんだね。
ベルクソンなんかとだいたい似たような感じ?
時間は考えると不思議で面白いけど、結局は分からんというのがわしの結論w
404kyrie@鬱病 ◆Debha1lQgc :2010/06/22(火) 14:34:46 0
>>403

ベルグソンの持続の概念は、時間が進む一つの仮説を提出しています。
それは客観的時間、内在的時間という現象学的区別を超え、
また時間の無限分割可能性というゼノンのパラドックスを超え、
「必ず時間は進む」ということを主張してはいますが、その原理に関しては
まったく明らかでありません。

私の時間論は、フッサール・ハイデガー的な主観的時間進行の原理と、
ゼノンを論破することによる客観的時間進行の証明とを、結びつける企てといっていいでしょう。
405M.Heidegger:2010/06/23(水) 01:57:15 0
404
>私の時間論は、フッサール・ハイデガー的な主観的時間進行の原理と、

「主観的時間進行の原理」とは・・・w
時間は存在だと、あれほど言っただろうw
哲学史の勉強、一からやり直し。
406考える名無しさん:2010/06/23(水) 06:36:14 0
はは。
「時間は進む」っていう表現からして、なんとなく笑える。
小学生じゃあるまいし。
407考える名無しさん:2010/06/23(水) 14:46:06 0
僕はベルクソンプロパーであるが故に時間は進まない派です。
408考える名無しさん:2010/06/24(木) 01:58:19 0
>>402
>>397では、そんな複雑なことをいってるんじゃなくて、
ただ単に人によって言葉の使い方はちがうから、
複数の人が微妙に別の意味で使っている語を、
誰のものかわからないくらい、
意図的に混ぜこぜにしたような文章は避けましょう、
ということじゃないのか。
409kyrie@鬱病 ◆Debha1lQgc :2010/06/24(木) 13:30:38 0
なぜ時間は進むのか!【反論・質問・炎上歓迎】↓
http://kyrie555666.blog61.fc2.com/blog-entry-10.html

ということです。

>>405

「投企」は時間を進める原理ですよね。それに情態的な時間は、少なくとも
客観的時間じゃないですよ。

>>408

そうだとしても、人によって使い方の違う語を、通史的な意義のもとに
近似させた意味をもつものとして私は使っているので、>>397の批判は私にとって
謂れのないことです。
410考える名無しさん:2010/06/24(木) 18:19:46 0
>とりあえず院に行って、音楽か小説かで成功したい。。

とりあえず病院に逝けば
411考える名無しさん:2010/06/25(金) 09:03:11 0
>>409
>「投企」は時間を進める原理ですよね。

ハイデガーがそんなことを言ってる?

まぁ言ってるわけないなぁ・・・
412考える名無しさん:2010/06/25(金) 09:14:10 0
>>409
>少なくとも客観的時間じゃないですよ。
>>404
>私の時間論は、フッサール・ハイデガー的な主観的時間進行の原理と、
>ゼノンを論破することによる客観的時間進行の証明とを、結びつける企てといっていいでしょう。


主観-客観という枠組みで考えていたらダメだろうね・・・
ハイデガーもフッサールも、そういう近代的枠組みを超えたところで考えていますよ。
413佃煮マニア:2010/06/25(金) 18:33:50 0
音楽と小説で成功してる川上未映子は、日大哲学科出身ですが、
どの哲学者の思想もなぞる事なく自分の言語で語っていますよ。
414考える名無しさん:2010/06/26(土) 12:34:47 0
>>413
>どの哲学者の思想もなぞる事なく自分の言語で語っていますよ。

きちんと「なぞる」ことができることも大事。
キリエはそれもできないから、からかわれる。

哲学だって芸術だって何だってそうだと思うけど、
はじめの頃は、先人のものを模倣する段階が必要なのでは・・・
415kyrie@鬱病 ◆Debha1lQgc :2010/06/26(土) 13:04:42 0
>>411=412=414

自分自身を先立たせるという、ダイナミズムの必然性が「投企」によって
説かれているのです。

フッサールは普通に客観性をエポケーにより否定した立場で超越論的主観を
語っていますが?

ハイデガーにおいては、確かに主観―客観という枠組みを離れ、
在り方そのものが語られていますね。
ですが、ハイデガーは時間について語っています。
時間的に存在する存在者、という彼の基本姿勢は、時間についての
従来的、すなわち過去―現在―未来という構造を踏襲しています。
被投性や道具世界など、彼独自のタームは多くありますが、
時間という了解的なものについて、彼はそれまでの伝統の延長で語っています。
ハイデガーは、時間の概念を従来的に捉えていた。
「彼自身に先立って」「既に在ることとして」「現にあること」、この時間的な
存在こそ、現存在だと定義されるならば、確かに現存在は時間に基づいた存在であり、
その意味で主客という枠組みをそもそも前提していないのでしょう。
現存在はハイデガーになる新しい存在者として定義されていた。
しかし、道具世界への配慮などという記述を見るとき、彼のいう「現存在」に
「人間性」が浸食してるのを見逃さないものがいるでしょうか?
416考える名無しさん:2010/06/27(日) 11:40:10 0
>>415
昨年からあまり進歩が見られないな・・・

>フッサールは普通に客観性をエポケーにより否定した立場で超越論的主観を
>語っていますが?

そのことと時間の問題は別の問題であって、その「超越論的主観」と「時間」とが、どういう関係にあるのかが問題の中心になります。

>しかし、道具世界への配慮などという記述を見るとき、彼のいう「現存在」に
>「人間性」が浸食してるのを見逃さないものがいるでしょうか?

だから、どうしたの・・・?
もしそういう観点からハイデガーに触れるのなら、少なくとも、時間にも本来性と非本来性があることに触れなければダメでしょうね。
(どっちみち「主観的時間進行の原理」は見当違いですが・・・)

昨年このスレに書いたのを張っときます。(>>71

「時間」には、カント-フッサール的意味での「現象」(意識によって構成される対象)としては捉えきれない側面がある。
(カントの哲学では、時間は「現象」でも「物自体」でもない「直観形式」とされている。)
「時間」は、意識によって構成される対象などではなく、本来、「意識」と「時間」とは分けられないものである
(いわば「意識」そのものが「時間」の流れに乗っている)と考えたのがハイデガーであり、ベルクソンです。
(後期フッサールの生活世界論は、そのようなハイデガーやベルクソンの考え方に近づいている。
 構成する「意識」と構成される「対象」という図式では捉えきれない、「存在(=時間)」の次元が問題になってきたと言える。
 つまり「意識」に対する「対象」(主観に対する客観)は、いわば「図」であって、
 その「図」を可能にする「地(=地平)」が問題化してきたと言える。)
417考える名無しさん:2010/07/01(木) 21:03:35 0
なるほ
418kyrie@鬱病 ◆Debha1lQgc :2010/07/02(金) 15:14:11 0
>そのことと時間の問題は別の問題であって、その「超越論的主観」と「時間」とが、どういう関係にあるのかが問題の中心になります。

で、貴方はそれ以上語らないんですね。予持、把持、現前化、定立作用による時間説明は、
超越論的主観に還元した後での話ですよ。
フッサールの時間論は、現れる表象が超越論的主観にとってどういう意味をもつか、によって
それら表象をカテゴライズする。しかし、カテゴライズではやはり時間のダイナミズムを得られない。
超越論的主観が、現在を含んだ時間の厚みを常に保証されているからこそ、フッサール的時間は進むのです。

419kyrie@鬱病 ◆Debha1lQgc :2010/07/02(金) 15:25:59 0
意識と時間との不可分性は、何もベルグソンやハイデガーに限った特徴ではありません。
20世紀初頭の哲学の潮流として、ソシュールが言語を差異の体系としたとき、
ホワイトヘッドが存在は出来事の反復するパターンだとし、
つまり対象間の関係を基として考えたのです。
同時に、ゲシュタルト心理学が発達し、
ベルグソンが意識と時間とを不可分な持続に還元した。
ここに現代人が捕らわれているパラダイムは明らかです。
カント的意味の対象―意識でなく、関係の間を考えること、あるいは関係間という
差別をなくすこと。有機化、ゲシュタルト化。

>つまり「意識」に対する「対象」(主観に対する客観)は、いわば「図」であって、
 その「図」を可能にする「地(=地平)」が問題化してきたと言える。)

この見地は理解できますが、ベルグソンは当てはまらないですよ。
ベルグソンにとって、図(染み)と地とは不可分だからです。図に対する地平、という関係は
ベルグソンには見られません。
420考える名無しさん:2010/07/03(土) 13:55:54 0
>>418-419
全体的に、何が言いたいのかわからない文章だ・・・

現代文の参考書によく『筆者の言いたいことをつかめ』みたいなことが書いてあるでしょう。
自分が文章を書く時もそれと同じで、『言いたいこと』をはっきりさせて書かないとダメですよ。
卒論でも院試の小論文でも同じ。
それを読んだ採点者に『で結局この人は何が言いたいんだろう・・・』と思われたらおしまいです。

さて、キリエの時間論は・・・
>>404
>私の時間論は、フッサール・ハイデガー的な主観的時間進行の原理と、
>ゼノンを論破することによる客観的時間進行の証明とを、結びつける企てといっていいでしょう。

主観的時間と客観的時間の結合ということらしいのですが・・・
ハイデガーも後期フッサールもベルグソンも、主観-客観という枠組を超えたところで考えているのだから、
主観的時間と客観的時間の結合という問題設定がそもそもおかしいだろう、というのが私の意見でした。

キリエ時間論のキーワードは、「時間」そして「主観」と「客観」ですね。

>>418
>超越論的主観が、現在を含んだ時間の厚みを常に保証されているからこそ、フッサール的時間は進むのです。

日本語がおかしくない?
「時間の厚みを」→「時間の厚みによって」に変えるか、または、
「保証されている」→「保証している」に変えれば、意味が通じると思いますが、
どちらに変えるかによって意味がぜんぜん違うので、コメントしようがないですね。
(もし前者ならば、「主観的時間進行の原理」という考えを変更しているように思われます。)
421考える名無しさん:2010/07/03(土) 13:58:52 0
>>419
>ここに現代人が捕らわれているパラダイムは明らかです。
>カント的意味の対象―意識でなく、関係の間を考えること、あるいは関係間という
>差別をなくすこと。有機化、ゲシュタルト化。

これも何を言いたいのかわからない。
「関係」を重視する考え方というのは確かにありますが(日本では例えば廣松渉)、それがキリエ時間論とどう関係するのか・・・
「捕らわれている」という言葉遣いから察するに、おそらくキリエ時間論はそのパラダイムに対して批判的なのだろう。
そういう考え方を、どう乗り超えていくのか・・・? そこを書いてくださいよ・・・


>ベルグソンにとって、図(染み)と地とは不可分だからです。図に対する地平、という関係は
>ベルグソンには見られません。

これはたんに私が書いたことを理解していないだけだと思う。
(再掲します)
>構成する「意識」と構成される「対象」という図式では捉えきれない、「存在(=時間)」の次元が問題になってきたと言える。
>つまり「意識」に対する「対象」(主観に対する客観)は、いわば「図」であって、
>その「図」を可能にする「地(=地平)」が問題化してきたと言える。)

これは、わかりやすく言えば『「存在(=時間)」を対象化(客観化)することはできない』ということです。
ベルグソンの考え方もこれと同じで、「持続」は客観化し得ないものです。
ベルグソンによれば、時間は客観化されると空間的時間になってしまいます。
422考える名無しさん:2010/07/03(土) 15:03:48 0
>>419
意識と時間との不可分性について論じ始めたのに、
どうして対象間関係の話なるの?
どういう風に繋がるの?
423kyrie@鬱病 ◆Debha1lQgc :2010/07/05(月) 14:39:35 0
test
424kyrie@鬱病 ◆Debha1lQgc :2010/07/05(月) 15:11:11 0
>>418

時間が厚みをもっていることは、現在が点的であり、従って(点は前には進まないから)
時間が進まない、という常識に反する事態への解決を図ったため、生まれた考えです。
ベルグソンが時間を厚みを持った一般的持続と解するならば、フッサールは厚みを有限なものとして、
反プラトニズム的に考えました。

厚みの先端は予持と把持であり、把持は純粋自我への現象の現前性を、
客観的時間の「今」と同期します。
純粋自我は、時間の流れを流れとして意識するために、時間の流れに乗っている現象群から超越している必要があります。
だから、客観的時間に対して、フッサールの時間説明は「主観的」です。

厚みのある今の幅が持続し得るのは、過去の現前化つまり定立、によっては時間は進まないので、今の持続が定立に常に先立っているからです。
その原理は、つまり厚みのある今が常に定立化に先立っていることを保証する原理は、「把持」という主観的原理です。
425kyrie@鬱病 ◆Debha1lQgc :2010/07/05(月) 15:14:11 0
>>422

科学的・数学的時間観に反撥した哲学者、ベルグソンやハイデガーは、
対象間関係の強調→対象間関係の否定という潮流に則ったものであることを
言いたかったのです。
426記憶喪失した男:2010/07/06(火) 12:52:08 0
おーい、キリエ。ブログに反論書いたけど、見た?
おいら、今、アク禁だから、ブログで論争するべよ。
おいらに哲学というものを教えておくれ。

ちなみに、音楽に関しては、キリエ、おまい、詩を書いて歌え。
ただのクラシックに需要は少ない。ノイズもしかり。歌を歌うんだ。
427考える名無しさん:2010/07/06(火) 16:10:31 0
>>424
>客観的時間に対して、フッサールの時間説明は「主観的」です。

そういう書き方をしても、貴方が何を「主観的」と考え、何を「客観的」と考えているのかは、不明ですね。
したがって、主観的時間と客観的時間とを結びつけるという貴方の考えも、それがどういうことなのか、全く不明なままです。

点的時間については多くの人が書いていることなので、書く必要はないと思います。
(たとえば大森荘蔵は『時は流れず』の中で、点的時間は人間によって製作された「線型時間」の中に
打ち込まれた点にすぎず、その錯誤と矛盾は人間が作製した「線型時間」にあるとしています。)

問題の中心は「主観」と「客観」ですね。

現象学があくまでも「現われ」にとどまることを、貴方は「主観的」と言っているのであれば、
その場合の「客観」とは、いったい何のことなのか・・・
それは、カントの用語でいえば、「物自体」のことなのか・・・
だとすると、主観的時間と客観的時間を結びつけるという貴方の考えは、
現象と物自体とを結合するということなのか・・・
そしてもし貴方が、「主観」とは関係のないものを「客観」と言っているのだとすれば、
人間はその「客観」をどうやって「知る」ことができるのか・・・
それを「知った」瞬間に、それは「主観的」なものになっているのではないのか・・・
などなどの疑問が生じます。
428考える名無しさん:2010/07/06(火) 16:13:00 0
ハイデガーもフッサールもベルグソンも、主観-客観という枠組みを超えたところで考えている、ということは何度か書きました。
そのことは、フッサールとベルグソンの両者に大きな影響を与えたジェームズの「純粋経験」論にもよく現われています。
「純粋経験」(フッサールでいえば「生き生きした現在」)は、主観的でも客観的でもない
(西田幾多郎の言葉で言えば「主客未分」の)直接的事実(唯一の実在)であり、
それに対して反省が加えられることによって、はじめて、「主観的」なものと「客観的」なものとが、派生的に成立します。

このことは、近代的主観-客観概念を確立したデカルト〜カントにおいても同じなのです。
はじめに「客観」があって、それを「主観」が見る、というようなことでは全然なくて、
「主観」と「客観」(主観に対してあるもの)とは、同時に「成立」します。
つまりはじめにあるのは、主観でも客観でもないものです。

『時は流れず』の大森荘蔵も、次のように書いています。
「能動-受動の構図は『見えている』という状況の中にはない。あるのはただ、眼を開きあるいは閉じ、
ある方向を向いて『ここに居る』私を包んで風景が『見えている』、ということだけなのである。
この、風景が見えているという状況には、その風景を『見る』見物人としての私、つまり認識主観としての
私なるものはいないのである。見るものと見られるものという、主観-客観の構図はここにない。」

だから、主観的なものと客観的なものとを結びつけるという貴方の考えは、考え方が逆だと思いますよ。
はじめにあるのは、主観と客観に分かれる以前の「純粋経験」(生き生きした現在)でしょう。
429kyrie@鬱病 ◆Debha1lQgc :2010/07/14(水) 10:44:32 0
ハイデガーの存在論からのコペルニクス的転回を試みた↓

http://kyrie555666.blog61.fc2.com/blog-entry-12.html
430kyrie@鬱病 ◆Debha1lQgc :2010/07/14(水) 11:08:17 0
>>427

じゃあ易しく言いますよ?
フッサールが時間に「厚み」を与えたのはなぜですか?
私が客観的時間と言っているのは、等質的な、一切の現象にとらわれず、
現象を成り立たせている場としての時間です。これはいいですよね?
まあ現象を成り立たせている、というと時間自体に実在性があるかのような
物言いであり、現象が時間の様態である、とも解されかねませんが、
それは別の議論だとして、とにかく客観的な現象の形式としての時間です。

フッサールは、ごく初期に、2から20までくらいの数を「本来的な数」としました。
これはなぜですか?それは、人間、いやフッサールの直観にとって、
純粋な数列とは表象不可能であり、せいぜい2から20までの直観的把握が、
無限に連なる自然数の系列の以前にあり、「本来的である」、としたのです。
典型的な反プラトニズムですよね?

この議論が時間にも生かされます。始まりも終わりももたないような等質的な時間を
否定し、人間、いやフッサールが、実際に把握可能な時間の厚みだけを、
本来的な時間としたのです。その構造は、彼による、つまり主観による予持、
によって時間がこれからも把持されうる、という保証を与え、把持によって
現前性をとらえ、この現前、つまり今において、今というこの点においてのみ、
イデア的なすなわち客観的な時間との同期が可能になる、というより
客観的時間を考えることがそもそも可能になるのです。ところで、フッサールは、
客観的時間を把持することはできません。フッサールは、現前化作用によってしか、
客観的・物理的時間を表象できません。だから、客観的時間は、フッサールの
把持に常に遅れています。
ハイデガーは、予持を認識論の範囲から死へと存在論的な範囲に拡大させました。
431考える名無しさん:2010/07/15(木) 22:57:44 0
なんで「時間」の話なのに
マクタガートが出てこないんだ?
432考える名無しさん:2010/07/15(木) 23:11:14 0
>>430
こんな感じでレポート書いてきたら教授も困るだろうな〜
433考える名無しさん:2010/07/16(金) 14:04:06 0
>>429
一行目から日本語がとてもおかしいと思われたので、読む気になれなかった・・・

>>430
>フッサールが時間に「厚み」を与えたのはなぜですか?

数学的「点」のような時間が人間による制作物(観念あるいは虚構)であることは、容易に想像できるでしょう。
そのことについては、大森荘蔵が、「ヨウカンの切り口にはヨウカンはない」と、おもしろい書き方をしていました。

「点とは実は線の切り口であるように、点時刻とは持続の『切り口』であって、『部分』や『要素』ではないのである。
だから、持続は点時刻が集まってできているものではない。物、例えばヨウカンの切り口にはヨウカンはない。だから
切り口をいくら集めても一片のヨウカンもできない。」

>私が客観的時間と言っているのは、・・・
>・・・客観的な現象の形式としての時間です。

「形式」というのは、カントの時間論ですが・・・
>430の最後のほうに、「客観的・物理的時間」と書いてあるので、おそらく貴方が言おうとしたのは物理学的時間のことなのでしょう・・・

しかし物理学的時間は、フッサールが「自然的態度」における時間として括弧に入れ、ベルグソンが「空間的時間」として批判し、
大森荘蔵が「線型時間」として批判した時間です。
つまり彼らが派生的で二次的なものであると考えた時間です。

だから貴方が「主観的時間」と「客観的時間」と言っているものは、大森荘蔵の言葉でいえば「経験の時間」と「制作された時間」です。
ところが貴方はそのような「制作された時間」を、〈はじめにあるもの〉として前提してしまっているように思われます。
彼らによって派生的と考えられているものを〈はじめにあるもの〉として前提し、そして「フッサールは、客観的時間を把持することはできません」
などと言うのは、思考が混乱していると思います。

(また、フッサールにおける客観性は、間主観性によって構成されるものなので、「客観的」という用語の使い方も混乱していると思います)
434考える名無しさん:2010/07/16(金) 14:06:25 0
それから、貴方は「客観的」を「イデア的」と言いかえており、また、フッサールの考え方は「反プラトニズム的」であるとしています。
しかし、イデア論(「美それ自体」が個々の美しいものとは別に存在するという考え方)におけるイデアは、「客観的」というより「普遍的」なものです。
そして、イデアに対するものは、「主観」ではなく、「個物」です。

したがって、貴方が書こうとしていることは、おそらく、『主観と客観』の問題ではなく、
中世の普遍論争で主題的に論じられた『個と普遍』の問題に近いと思います。

さっき書いた「経験の時間」と「制作された時間」においても、「経験の時間」は《個》を尊重する立場、
「制作された時間」は《普遍》を尊重する立場である、と一応言えると思います。
「経験の時間」においては、個としての「私」にとっての「今、此処」において、具体的な個物が経験されます。
それに対して「制作された時間」つまり線と点で表された物理学的時間は、観念的(イデア的)なものです。

実際、自然科学が扱うのは、「個物」ではなく、「普遍」なのです。
自然科学は「現にあるもの」を語るのではなく、いわば「あるべきこと」を語ります。

例えば、現に流れているリアルな水には、いろんな混ざり物があります。
純粋なH2Oがあるのは実験室の中ぐらいでしょう。
つまり、リアルな水(個物)ではなく、水の理想型(普遍)がH2Oです。

そのように、自然科学は、リアルな自然を語るのではなく、いわば地図のようなものを描きます。
具体的なものを抽象化し、記号と数とで表すことによって、科学的「客観性」が得られます。
(フッサールの間主観性と同じく、科学的「客観性」も「主観」によって支えられています。そのことを示そうとしたのがカントの『純粋理性批判』です。
自然科学における「客観性」とは、一言でいえば、「そのように説明できる」ということです。)

しかし、少なくとも時間に関しては、フッサール、ベルグソン、大森荘蔵(その他大勢)は、「物理学的時間」の「客観性」は《眉唾もの》だと考えているわけです。
435記憶喪失した男:2010/07/17(土) 20:41:25 0 BE:775539427-2BP(791)
>>433-434
何、この人、すごい。
哲学板で五指に入る賢いレスを読んだ気分だ。

そうか、切り口は時間ではないのか。
確かに、人が外界を感覚する時には、厚みがあると思う。
賢いね。
で、時間に厚みがあるってか?
時間が客観的には存在しないとか?
それって、ちょっと変じゃない?
人を包む物体が変化していることを主観と呼ぶのか、客観と呼ぶのか、知らないけどさ。
普通、客観って呼ぶんじゃないかな?
436考える名無しさん:2010/07/17(土) 20:44:15 0
よくキリエの介護やってるね〜ほんと感心するわ
437考える名無しさん:2010/07/18(日) 07:57:42 0
>>430
「客観的・主観的時間」なんてあるの???
「客観的時間」というのは「物理学的時間」ということ?

『時間の正体』郡司ペギオ-幸雄・著に出てくる、ジョン・マクタガートは「時間は存在しない」と
結論づけているが…。
438kyrie@鬱病 ◆Debha1lQgc :2010/07/18(日) 22:10:27 0
>>433

>数学的「点」のような時間が人間による制作物(観念あるいは虚構)であることは、容易に想像できるでしょう。

数学的「点」が人間による制作物であることが想像できる?証明はできないんですか?
そして、貴方は点の否定から厚みをフッサールが説いたと言いたいようですが、それは違います。
なぜ厚みが必要なのか……時間が進むこと、時間のダイナミクスをエリクチュールにおいて実現しようとしたからです。

>「形式」というのは、カントの時間論ですが・・・

貴方はカントの時間論を理解しているのですか?カントの時間は直観の形式ですよ。
もちろんそれは分っているのでしょうが、私の定義した時間は、「客観的な現象の形式」としての時間で、物理的時間を定義しようとしたのです。
で、それは私による便宜的定義に過ぎないのに、貴方は「私が客観的時間を前提している」というのですか?
私はホワイトヘッドのぃうように、物理学的時間のパラダイムに捕われています。それを明るみに出し、その上でフッサールなりベルグソンなり
ホワイトヘッドなりが物理的時間を批判したとき、その前提の批判を介しているわけです。
ベルグソンが否定したのは、もちろん物理学的時間です。で、貴方はベルグソンが物理学的時間の否定に際して
「製作された時間」を前提していないなどと言うつもりですか?混乱しているのは貴方ですよ?
439kyrie@鬱病 ◆Debha1lQgc :2010/07/18(日) 22:21:27 0
>>434

貴方は反プラトニズムを理解していませんね。フッサールやマッハの時代において、
イデア論とは単に古代のそれの批判では済まなくなっているのですよ。
フッサールが本来的な数を持ち出したとき、念頭にあったのは「直観」による明証性です。
自然数論は、ある程度までは主観的・直観的に把握できるが、無限に続くとなると、
直観内容からの帰納という操作を経る。直観的に把握できる自然数と、帰納的推論によってしか
その存在を知られない自然数とは、違うものである。ここにあるのは、主観と、主観から帰納した
二次的な推論との、断絶です。

>「経験の時間」においては、個としての「私」にとっての「今、此処」において、具体的な個物が経験されます。

これが主観的と言わずしてなんでしょうか?
440kyrie@鬱病 ◆Debha1lQgc :2010/07/18(日) 22:29:44 0
>>437

私は、学問の歴史のなかで客観的と呼べる時間と主観的と呼べる時間論を展開してきた人たちを分類し、纏めただけです。
「客観的時間」は、ゼノンの矢のパラドックスの表象に還元されうる、無限に分割可能な時間を想定してます。
物理学的時間は、私は詳しくありませんが時間のダイナミクスを説明し切れていないように思います。

441考える名無しさん:2010/07/18(日) 22:56:08 0
>>440
「時間とは何か」ということが一番重要な問題であるわけだから、それについての自己考察がないと
あまり意味がないように思うけれど。
これまでの「時間論」のまとめなら、新書だけセレクトしても何冊も出てくるでしょう。
べつにkirye君が文字制限のあり過ぎるレスでまとめる必要はないし。
442考える名無しさん:2010/07/22(木) 15:19:44 0
>>435
>人を包む物体が変化していることを主観と呼ぶのか、客観と呼ぶのか、知らないけどさ。
>普通、客観って呼ぶんじゃないかな?

現代の哲学者の多くは、主観-客観という構図を前提とせず、むしろ回避しようとするので、「主観」とか「客観」とはあまり呼ばないでしょう。

>428で引用した大森荘蔵の言葉を再掲します。
「能動-受動の構図は『見えている』という状況の中にはない。あるのはただ、眼を開きあるいは閉じ、
ある方向を向いて『ここに居る』私を包んで風景が『見えている』、ということだけなのである。
この、風景が見えているという状況には、その風景を『見る』見物人としての私、つまり認識主観としての
私なるものはいないのである。見るものと見られるものという、主観-客観の構図はここにない。」

つまり、「見えている」ということが最も根源的な事態なのであって、そこにおいては、「見るもの(主観)」と「見られるもの(客観)」とは分かれていないということです。
ジェームズや西田幾多郎の「純粋経験」論も、「事象そのものへ」立ち戻る現象学も、それと同じように、「主観」と「客観」とが分かれる以前のところを考えています。
(キリエ先生は、そのように主観と客観とが分かれる以前の根源的な事柄と考えられているものを、また「主観」と言っているようですが・・・)

「主観」と「客観」とに分けて、その二項対立を固定的なものと見るところから、いろんな問題が生じてきたと思います。
現代の思想においては、そのように「分ける」ことそれ自体に問題点があるのではないかという考え方が広まってきたのだと思います。
「分ける」ということは、そもそもそこに共通の根があるから分けられるのだから、分けられたものを固定的にとらえないで、
分かれる以前のところを、『動き』としてとらえる。大雑把に言えば、そういう考え方だと思います。

(おそらくキリエ先生は主観-客観の問題をよくわかっていないと思われるので、以下、哲学史的なことをもう少し詳しく書きます。)
443考える名無しさん:2010/07/22(木) 15:21:16 0
「見るもの(主観)」と「見られるもの(客観)」という構図は、はじめからあったのではなくて、デカルトの時代に歴史的に確立されたものです。
その点で、デカルトがあの有名な「我思う故に我在り」によって、あらゆる懐疑に耐え得る「心(精神)」としての「主観」を確立したことは、大きな意味をもちます。
精神としての「主観」が確立されるのと同時に、精神とは無関係で数量的に規定可能な「物質」という領域が「客観」として立てられ、
それによって、「物質」の学としての物理学が始まりました。
(「物質」としての近代的な「自然」も、はじめからあったのではなく、その時代に「生まれた」ものです。
例えば古代ギリシャの「自然」は、精神が内在しているものであって、近代的な「自然」とはかなり異なるものです。)

そのようにして近代的「自然」が、数量的に規定可能な「物質」となったことについて、
ハイデガーは、『世界像の時代』において、
近代は「主観」としての人間が「客観」としての世界を計算可能なものとして計量化して支配しようとした時代だった、と近代批判をしています。

このような近代的「自然」(客観)が成立した背景には、今では評判の悪いデカルトの物心二元論という『読み込み』があり、
また、数学的認識を真の認識と考えて世界を計量化したデカルトやガリレイの数学的『読み込み』があったわけです。
(さらに、自然を「支配」しようとしたというハイデガーの指摘を考えると、そこにはキリスト教的な『読み込み』もあったと思われます。)
(「客観」というのは、そのように、「主観」による『読み込み』によって成立することを明らかにしたのがカントであって、
そのあたりが、主観-客観の問題で一番大事なところだと思われますが、長くなるので省略します。)
444考える名無しさん:2010/07/22(木) 15:23:29 0
そのような『読み込み』があることが忘却されて、自然科学においては、数量的に規定可能な物質の世界が、確固とした「客観世界」として前提されていたのではないでしょうか。
しかし19世紀後半から、ニュートン物理学の世界像に代表されるその「客観世界」が、科学そのものの内部で崩れかけてきました。

「事象そのものへ」立ち戻ろうとする現象学は、そのような状況(科学の危機)の中で生まれたものです。
フッサールの考えを継承したメルロ=ポンティは『知覚の現象学』の中でこう書いています。
「我々はもはや、知覚とは端初における科学だとは言わないで、逆に古典的科学とは、おのれの起源を忘れて
みずからを完結したものと思い込んでいる知覚のことだと言おう。したがって、最初の哲学的行為とは、
客観的世界の手前にある生きられる世界にまで立ち戻ることだ、ということになるだろう。」

ここで「生きられる世界」と言われているのが、はじめに書いた『「主観」と「客観」とが分かれる以前のところ』です。
その「生きられる世界」において、人間は、「主観」として、「客観」の『外』に立つのではなく、
「世界-内-存在」として、『世界-内』に住みます。
(「世界-内-存在」は、フッサールからヒントを得て、人間の在り方としてハイデガーが用いた語ですが、メルロ=ポンティやサルトルにも継承されました。)

ハイデガーは次のように書いています。
「人間が存在の真理を委ねられるのは、人間が主観としての自己を克服した時、したがって、存在者をもはや客観として表象しなくなった時である。」

したがって、このような現代思想の流れから、記憶喪失した男さんの問題【人を包む物体が変化していることを主観と呼ぶのか、客観と呼ぶのか】
に答えるならば、「どちらとも呼ばない」となります。
445考える名無しさん:2010/07/22(木) 15:25:54 0
>>438
>そして、貴方は点の否定から厚みをフッサールが説いたと言いたいようですが、それは違います。

「点の否定から」ということではなく、
数学的「点」のような時間においては、「意識がある」とも言えないだろうし、そこには「生きられる世界」はありません。
したがって、時間的継続は、そもそも現象学が成り立つための前提だと思います。
ジェームズも、純粋経験が成り立つためには時間的継続がなければならないと言っています。
このことは、フッサールとジェームズが、意識の在り方を「意識流」つまり「流れ」としてとらえていることを考えても、明らかだと思います。

>私はホワイトヘッドのぃうように、物理学的時間のパラダイムに捕われています。それを明るみに出し、その上でフッサールなりベルグソンなり
>ホワイトヘッドなりが物理的時間を批判したとき、その前提の批判を介しているわけです。

ちゃんとした日本語になっていないと思います。意味がわかりません。
446考える名無しさん:2010/07/22(木) 15:27:48 0
>>439
>貴方は反プラトニズムを理解していませんね。フッサールやマッハの時代において、
>イデア論とは単に古代のそれの批判では済まなくなっているのですよ。

ここも意味がよくわかりませんでしたが・・・

フッサールは『ヨーロッパ諸学の危機』で次のように書いています。

「『数学および数学的自然科学』という理念の衣、あるいはそれに代わる記号の衣、つまり記号的数学的理論の衣が、
『客観的で現実的な真の』自然として、科学者にとっても教養人にとっても、生活世界の代理をなし、
それを覆い隠すことになる。理念の衣は、われわれに、本来一つの方法でしかないものを、真の存在と考えさせるのだ。」

これは、上で書いた「自然の計量化」ということです。
ここで対立的に書かれているのは、「生活世界」(個)と、記号的数学的な「理念の衣」(普遍)です。
そしてフッサールの考えは、数学化された近代的「自然」から、「生きられる世界」へ立ち戻らなければならないということです。

これは「個と普遍」の問題であって、>434で私が書いたことと、ほとんど重なっていると思います。
(再掲します)
>自然科学が扱うのは、「個物」ではなく、「普遍」なのです。
>自然科学は「現にあるもの」を語るのではなく、いわば「あるべきこと」を語ります。
>例えば、現に流れているリアルな水には、いろんな混ざり物があります。
>純粋なH2Oがあるのは実験室の中ぐらいでしょう。
>つまり、リアルな水(個物)ではなく、水の理想型(普遍)がH2Oです。
>そのように、自然科学は、リアルな自然を語るのではなく、いわば地図のようなものを描きます。
447考える名無しさん:2010/07/22(木) 15:29:02 0
>>「経験の時間」においては、個としての「私」にとっての「今、此処」において、具体的な個物が経験されます。

>これが主観的と言わずしてなんでしょうか?

それを「主観的」と言ってしまうと、現代の実存的思想のほとんどは「主観的」ということになってしまいますが、それは違うでしょう。
例えば上に書いたように、ハイデガーも、メルロ=ポンティも、サルトルも、人間存在の在り方を「世界-内-存在」としていることを考えてみるだけでも、
それが「主観」的であるという言い方がおかしいことがわかると思います。

「私」に関わるから「主観的」だ、などという単純なことではなくて、
これは、「私」と「世界」とがどのように関わっているのかを考えなければならない問題です。
448kyrie@鬱病 ◆Debha1lQgc :2010/07/22(木) 17:56:49 0
>>442

主客二元論は、現代哲学が克服を努めてきたパラダイムです。

>現代の哲学者の多くは、主観-客観という構図を前提とせず、むしろ回避しようとするので、「主観」とか「客観」とはあまり呼ばないでしょう。

これはその通り。ですが、回避しようとすることは主客二元論の否定の上にに成り立つものですよね。

>つまり、「見えている」ということが最も根源的な事態なのであって、

こんなのを得意になって引用して、盲信すらしているようでは…
貴方は、まるで現代の哲学者が、主客二元論以前の領域とやらを、
主客二元論に依拠せず考えてるとでも言いたいようです。
デカルト以来の主客二元論は、現代までしぶとく根付いたパラダイムだとなぜ分らない?
実際、現象学における超越論的自我は、客観の否定ですよ。
あるいは、主客二元論に依拠しつつ、この構図の否定を持続する努力、その努力の中で
意識現象を記述する学問です。現象学は、主客二元論「以前」でなく、「以後」なのです。
449kyrie@鬱病 ◆Debha1lQgc :2010/07/22(木) 18:08:08 0
>>445

数学点において「意識がある」と言えないのはなぜですか?深く考えてみたことがありますか?
それは単に常識的な了解から、無批判的に信じられていませんか?

なぜ貴方は、数学的点のような時間において「意識が在る」とは言えないということの証拠に、
他の哲学者を持ってくるのですか?フッサールやジェームズが言ったから、「明らか」なのですか?
フッサールの時間論を理解していますか?
貴方の言っていることは逆ですよ。フッサールは、数学的自然数列にダイナミクスを与えたのです。
エポケーが実際可能で、意識の現象が記述の対象として立ち現れる。
この現象学的態度なしに、つまり「点は流れない」という単なる了解以上の問題意識なしに、
貴方はフッサールの時間論に踏み込めません。
現象学的態度における、意識の現象のダイナミズムを、フッサールは厳密に記述しました。
把持、予持、現前化です。それ以上のこと、超越論的主観を離れた現象については彼は時間進行の
説明を放棄しています。ですから、貴方のような読者が典型的に使う時間と、
フッサールや僕が用いる時間概念を混同しないでください。

450kyrie@鬱病 ◆Debha1lQgc :2010/07/22(木) 18:19:00 0
私たちは意識を直観的に「持続している」ものと考えて疑うことをしません。
なぜデリダが、エリクチュールを問題にしたか。
エリクチュール内に流れる時間に対して、当の記述をする哲学者のもつ時間は
相対的です。つまり、文章を書くというそれだけで、文章というものに固有な時間進行に
私たちは依拠しています。
あらゆる反省的な現象は、時間進行している。ですが、それはそのものの時間進行であるので、
いくら写像を介しても、理解されやすい形に直されたそのものの時間進行です。
私たちは、私たちのためにわざわざ対象がその進行を同期してくれたところの、対象的時間に、
自己を対応させているだけです。
私たちは、自分自身の時間を、「自分自身が反省して自分自身を捉えるところの形式」において、
それとは別個の形式、つまり「自分自身が自分自身を記述するところの形式」における、
その形式の固有の「時間進行の原理」に依拠して、自分自身を時間的に捉えます。
自分自身は、自分自身という形式のなかでの現象に対する、いちいちの意識であり、
つまり自分自身は反省においてすら形式に頼る以上、「自分自身は自分自身に相対的だ」
という結論が導かれます。
451考える名無しさん:2010/07/23(金) 16:52:29 0
>>450
連投している割には「時間とは何か」ということについて全く自分の意見を述べてはいないけれど
フッサールの現象学は『分析哲学の起源(ダメット)』という認識を一方ではされているから

『真理という謎』M・ダメット著
『同一性・変化・時間』野矢茂樹 著
『時間は実在するか』入不二基義 著

あたりを読んでみると、最新の考え方がわかるんじゃないかな
でも、ここらへんを読んでいないとすると、時間論なんか語れないと思うんだけど?
452考える名無しさん:2010/07/23(金) 17:51:54 0
キリエの論は自分の都合のいい方に逃げてる
453kyrie@鬱病 ◆Debha1lQgc :2010/07/24(土) 10:33:21 0
>>451

>>450は全面的に俺の意見だよ。

>>452

kwsk

俺は都合のいいほうに逃げてるつもりはない。
454考える名無しさん:2010/07/24(土) 12:48:04 0
>>453
違うよ
「時間とは何か」ということについてちゃんと説明していないでしょう?
455考える名無しさん:2010/07/26(月) 17:37:49 0
>キリエの論は自分の都合のいい方に逃げてる

それ以前に「論」になっていない。
この調子では、いつまでかかっても首都大、学習院には入れないなぁ。

>>448
>実際、現象学における超越論的自我は、客観の否定ですよ。

客観の存在を基礎付けるから「超越論的」と言うの。

>>449
>現象学的態度における、意識の現象のダイナミズムを、フッサールは厳密に記述しました。
>把持、予持、現前化です。

術語を羅列するだけではだめだよ。

>>438
>なぜデリダが、エリクチュールを問題にしたか。

しかも羅列してある術語が間違っている。>>438でも「エリクチュール」になっているよ。
話の脈絡も判らないし。
456佃煮マニア:2010/07/26(月) 18:53:01 0
エクリチュールをエリクチュールと表記する間違いは私もしていましたよ。
457考える名無しさん:2010/07/26(月) 21:22:31 0
>>455
>それ以前に「論」になっていない。

キリエのへんな日本語は、彼の病気と関係あると思う。
ニーチェスレにいた病気の早君と似たところがある。
458考える名無しさん:2010/07/26(月) 21:30:59 0
早も躁鬱病だお
459kyrie@鬱病 ◆Debha1lQgc :2010/07/28(水) 10:46:47 0
>>455

どこが論になっていないかも示せずに、中傷するだけではまるで説得力がないよ。
エリクチュールは、間違ってた。フランス語のエクリールから来ていると少しでも考えていれば…
申し訳ない。
話の脈絡がわからない貴方に、私の論が論でない、と看破できるとは思えない。

>客観の存在を基礎付けるから「超越論的」と言うの。

カントがもの自体を基礎づけたことがありましたか?カントが基礎づけたのは、
純粋悟性概念の権利、したがってカント自身の純粋悟性概念が人間一般に
アプリオリにあてはまることですよ。
460考える名無しさん:2010/07/28(水) 22:38:03 0
>>459
カントの物自体とは他者だという解釈がある。これは、カントが『実践理性批判』で物自体を
「道徳」のレベルで捉えようとしていることからも、妥当かと思う。
つまり、物自体(=他者)を完全に捉えることはできない、ということになり、
ここにおいて主客二元論という認識論的哲学は他者に対する倫理学に移行すると思う。
霧はん、どうでしょう・・・・


461考える名無しさん:2010/07/28(水) 22:57:46 0
>>448
>現象学は、主客二元論「以前」ではなく、「以後」なのです。
世界の限界はその人の言語の限界ですよね。そうすると、主観もそれぞれ世界の限界が違う。
「私とは私の世界」なので、それぞれの私の認識は一致しないのでは?
現象学はそれを無理やり一致させようとするファシズムの哲学ですね。

462考える名無しさん:2010/07/29(木) 03:00:19 0
ここの住人はお人好しが多いな。
kyrieに構ってやればやるほど、当人はどんどんリアルから遠ざかっていくっていうのに
463考える名無しさん:2010/07/29(木) 09:59:34 0
>>459
>>客観の存在を基礎付けるから「超越論的」と言うの。

>カントがもの自体を基礎づけたことがありましたか?カントが基礎づけたのは、
>純粋悟性概念の権利、したがってカント自身の純粋悟性概念が人間一般に
>アプリオリにあてはまることですよ。


物自体??

客観と物自体はちがう。
主観によって構成されたものが客観だよ。
だから客観は物自体じゃなくて現象。

ほんとうに哲学史の勉強してるの?
かなり基本的なことだと思うよ。
464記憶喪失した男:2010/07/29(木) 22:44:35 0 BE:830934353-2BP(791)
>>463
おい!
客観が主観の一種だなんて、おかしなこと書いていばってんな。
客観は、物自体のが近いだろ。
465考える名無しさん:2010/07/29(木) 22:45:06 0
>>463
>主観によって構成されたものが客観だよ
実際に構成されて出来上がった客観の具体例は?
そんな客観なんてそもそも存在しないよ。


466考える名無しさん:2010/07/29(木) 22:56:31 0
>>463
あえていうなら、ジョン・ロックの「1次性質」が客観世界で、「2次性質」が主観世界
ではないか・・・・・
またはカントの総合的命題が客観で、分析的命題が主観・・・・



467記憶喪失した男:2010/07/29(木) 23:21:26 0 BE:4487044199-2BP(791)
おまいらは、
人の感覚器は外界を正確に感知することはできない、
ということをよく理解しておけ。
人の受け取る情報は客観より確実に歪んでいるんだ。
468塩なめくじ ◆P.1kwWtwlwvG :2010/07/30(金) 01:03:14 0
哲学教えてクダサイ(ー人ー)
469考える名無しさん:2010/07/30(金) 11:03:49 0
>>464
>>465
君たちも哲学を知らないんだな。
主観は客観をそのまま認識するんではなくて、
主観が客観を構成するんだよ。
それがカントのコペルニクス的転回。
国語辞典にさえのってるよ。

コペルニクス的転回
〔哲〕カントがその「純粋理性批判」の認識論において、主観が客観
   に従うのではなく、逆に客観が主観に従い、主観が客観を可能にする
   と考えたことを、天動説から地動説へのコペルニクスの転回にたとえ
   て自ら称した語。(広辞苑)

主観によって可能にされた客観が物自体であるわけがないだろう?
470考える名無しさん:2010/07/30(金) 11:27:33 0
これなんかは判りやすいかも知れない。
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%AE%A2%E8%A6%B3/

哲学を知らない人は客観は(3)の意味だと思っているんだろうが
デカルト、カント以降、(3)の意味の客観を信じる哲学者は滅多にいないだろう。
471記憶喪失した男:2010/07/30(金) 14:33:38 0 BE:997121636-2BP(791)
>>470
おれは素朴実在論者だから、(3)の意味だよ。

(1)や(2)は、論破してやるよ。
カントのコペルニクス的転回なんて、へでもねえよ。
472考える名無しさん:2010/07/30(金) 16:04:37 0
神秘的主客合一体験をしないと絶対解決しないと断言できる。
473時計測ってるヤシ死ね:2010/07/30(金) 17:43:34 0
880 :考える名無しさん:2010/07/30(金) 16:37:45 0
就職ないよ


881 :考える名無しさん:2010/07/30(金) 17:42:42 0
だいたい詰まんねぇんだよ
474考える名無しさん:2010/07/30(金) 20:54:58 0
>>469
>主観が客観を構成するんだよ。
感性界(現象界)での主観の申し合せを「客観」とカントが呼んだの?カントのどの著書
に主観が客観を構成すると書いてあるの?現象は客観じゃないよ。
カントは客観(物自体)は捉えれないといっているんだよ。だからカントにおいては
主客の一致はない。

475kyrie@鬱病 ◆Debha1lQgc :2010/07/31(土) 10:25:57 0
心脳問題を鮮やかに解決して見せた↓

http://kyrie555666.blog61.fc2.com/
476考える名無しさん:2010/07/31(土) 14:49:58 0
>>474
常識です。
http://web.sc.itc.keio.ac.jp/~funatoka/pavlov/object.html
唯物論では、意識に依存せず、これから独立に存在する物質世界をいうが、
観念論では、対象世界ではあるが、それは意識から独立してはおらず、
主観の側にとらえられて存在するもの、つまり意識の内容をさしている。
477考える名無しさん:2010/07/31(土) 17:46:27 0
>>471
>(1)や(2)は、論破してやるよ。
>カントのコペルニクス的転回なんて、へでもねえよ。

そういう話じゃないw
話の発端はキリエの>>459
カントの文脈上でどうなのかという話。

>>474はキリエじゃないの?w
>カントのどの著書に主観が客観を構成すると書いてあるの?
>現象は客観じゃないよ。

「現象」=「客観」だよ。
枚挙にいとまがないが例えば
「現象において、覚知のこのような必然的規則の条件を含むところのものが客観なのである。」
(純粋理性批判、B236)
「我々が認識を持つことができるのは、単に物が感性的直観の客観である場合、
すなわち現象としてのみであることは、この批判の分析論の部門で証明されるであろう。」
(純粋理性批判、第二版序)

なおカントは物自体のことを「超越論的客観」と呼んでいると思われる箇所はあるが
「物自体」=「超越論的客観」ではない。
478考える名無しさん:2010/07/31(土) 17:49:06 0
卒論を晒すスレを読んだ。
院試むけのキリエの論文は、序文を見ただけでも、かなりまずそうだよ。
ハイデガーは存在そのものを問おうとしたが、レヴィナスはそうじゃない。
だから「他者」や「倫理」がレヴィナスの中心問題となったんだ。

イポスターズ(実詞化)によって非人称の存在(イリヤ)が破られ、
そこに「私」の意識が出現する。
そこから「他者」の問題がでてくる。
「私たちが求めてきたのは実詞の出現そのものなのだ。」
とレヴィナスは書いている。
479474:2010/07/31(土) 21:03:58 0
>>477
自分はキリエじゃない。
君が紹介しているカントの純粋理性批判第2版序文に次のようにある。

「我々の批判は、客観を二通りの意味に解することを教える、即ち第一には現象
としての客観であり、また第二には物自体の客観である。〜中略〜
しかし私は、物自体としての『心』を、思弁的理性によって(まして経験的
観測によっては)認識することができない。」

君のいう主観が構成する客観は、経験的観測にとって認識できる感性界の現象
のことで、主客の一致の問題でいう客観じゃない。(カントが現象は客観だと言って
いることは認めるが・・・)
カント哲学の力点は経験が支配する感性界ではなく、可想界での認識不能、例えば
真理とか神とかいうものに対し理性では答えが出せないことの強調にある。
可想界では、主観は客観を構成なんてできない。



480考える名無しさん:2010/08/01(日) 15:07:21 0
>>479
>自分はキリエじゃない。

それは失礼。

>君のいう主観が構成する客観は、経験的観測にとって認識できる感性界の現象
>のことで、主客の一致の問題でいう客観じゃない。(カントが現象は客観だと言って
>いることは認めるが・・・)

あなたは、現象が客観だということを知らなかった時から「主客の一致はない」と言っていたんだから、
現象が客観だとわかった今は、客観=物自体という固定観念を捨てて、はじめから考え直してみる必要がある。

「主客の一致」というのは「認識」に関わる問題です。
しかしカントの物自体は、そもそも認識主観の対象(客観)にはなり得ないものだ。
その点ですでに物自体は、カントにおける認識主観とその対象、つまり、
「主観-客観」問題からは、はみ出しているものなんですよ。

(「客観」と訳される‘Object’は「対象」をも意味しており、
例えば>477の2つ目の引用の「客観」は「対象」としたほうがわかりやすい)

「認識主観」と「現象」と「物自体」との三者の関係を考えてみると、
まず、「認識主観」の対象(客観)として、「現象」がある。
そして、その「現象」を可能にするものとして、つまり現象の対象物(客観)として、「物自体」がある。
そういう意味で「物自体」は「超越論的客観」とされる。
しかし今問題になっているのは「主観-客観」の「客観」なんだから、それは「現象」であることになる。
481考える名無しさん:2010/08/01(日) 15:08:29 0
この関係(物自体は認識主観の対象ではなく、現象の対象であるという関係)
が書かれているところを一つ引用しておくね。

「現象はわれわれにじかに与えられることのできる唯一の対象であり、現象の中でじかに対象にかかわるものは、
直観と呼ばれる。ところでこうした現象は物自体ではなく、それがさらにみずからの対象をもつような表象にすぎない。
それゆえその対象はもはやわれわれによって直観されることはできず、したがって非経験的つまり
超越論的な対象Xと名づけられるようなものなのである。」(A109)

この文の「それがさらにみずからの対象をもつ」の「それ」は「現象」を指しているから、
「超越論的な対象X」は「現象」の対象であることになる。


そういうわけで、というか、それ以前に、というか・・・
カントにおける「主観-客観」の「客観」が「現象」であることは、やはり哲学史の基本事項だと思う。
よく知られた哲学辞典から2つ引用しておくね。

『岩波哲学・思想辞典』の「主観」の項から
「デカルトによってここまで準備を整えられていれば、そのsubjectumを認識機能の「主観」、しかも
それ自体は世界を超越していながらその世界の存在を基礎づけるという意味で「超越論的」な「主観」と
読みかえ、それによって認識(表象)されるかぎりでの「客観」だけを存在者と認める〈主観-客観関係〉の
構図を描くには、ほんの一歩を進めればよい。その一歩を踏み出したのがカントなのである。
しかしカントにあっては、認識主観とその客観である〈現象〉の背後に、この〈主観-客観関係〉には
吸収されえない不可知な〈物自体〉が残されていた。」

『平凡社哲学辞典』の「客観」の項から
「主観-客観を対立概念として明確につくりあげたのはカントである。カントはいわゆる
コペルニクス的転回によって、客観を主観に依拠せしめ、客観はその概念において
直観の多様が統一されるところのものとして規定した。」
482474:2010/08/01(日) 17:50:30 0
>>480>>481
>カントの物自体は、そもそも認識主観の対象(客観)にはなりえないものだ。
>物自体が認識の対象ではなく、現象の対象であるという関係
客観とは対象(object)だよね。カントの『純粋理性批判』第二序文から引用する。

「我々が認識しえるのは、物自体としての対象ではなく、感性的直感の対象
としての物、換言すれば、現象としての物だけである。〜中略〜
我々はこの同じ対象を、たとえ物自体として認識できないにせよ、しかし少なくとも
これを物自体として考えることはできねばならないという考えは、依然として
留保されている。さもないと現象として現われる当のもの(物自体)が存在しないのに、
現象が可能であるという不合理が生じる」

このカントの文を見てもわかるように、現象とは物自体の表象にすぎない。つまり
「客観」(object)の表象が現象で、「客観」の本質は物自体ということになる。
物自体が「そもそも主観の認識の対象にならない」というのと「主観により認識できない」
というのは違う。君のいう物自体が主観の対象ではなく現象の対象である関係ってどういう意味?
物自体も、認識できないが考えることのできる主観の対象(客観)だよ。カントがそう言っているよ。




483考える名無しさん:2010/08/01(日) 18:01:05 O
キリエ哲学で大成するのは無理だ。諦めろ。特に理論で生き残ろうなんておまえは東大生か?
484考える名無しさん:2010/08/01(日) 18:02:05 0
>>475
Zelazo, P. D., Moscovitch, M., & Thompson, E. (Eds.). (2007).
The Cambridge handbook of consciousness.
Cambridge, England: Cambridge University Press.
これはよさそうな本だった。
485474:2010/08/01(日) 21:01:33 0
>>480>>481
僕は哲学辞典を持ってないので、竹田青詞の解説本から引用する。

「人間が認識し得るのはいわば<物自体>(本質、客観としての世界)の制限され
た一部分だが、この制限のされ方は人間が先験的に持っている認識の装置の
共通性によって同じである。だから「現象」として現われた世界(経験世界)
のありようは、必ず一定の法則によってとらえられるからだ。こうしてカント
は、人間の認識が制限されていることを認めることによって、世界を<本質の世界>(可想界)
と<現象の世界>(経験界)に分け隔て、客観的認識は、経験世界においては可能
だと説いたのである。」
『現代思想の冒険』第3章より引用

君がいう主観が客観を構成するというのは経験界での話か、
または、カント以降の哲学者が「物自体」を消去した哲学史の話。
物自体(客観)も認識の対象であるが、認識できないもので、つまり
カントの力点は人間の制限された認識の強調にある。君がいうように
そもそも「物自体」を認識しないのではない。そうでないとカントが
「物自体」を想定する意味がわからない。




486kyrie@鬱病 ◆Debha1lQgc :2010/08/02(月) 09:22:35 0
まあ要するに、カントはそれまで客観的とされてきたものが実は悟性の立法に過ぎないんだよ、
と論じたんでしょ。俺が客観ということばで意図したのは、カントが発見したもの自体の
世界であって、カント自身はあらゆるアポステリオリな認識は(もちろん客観含め)悟性による、と言っている。
俺はカントの意味合いで客観と言ったのでなく、カントの超越論的な観念性全体を
主観的だ、と誤って表し、もの自体の世界を客観的だ、といった。
つまり俺が悪かった。すまそ。
487kyrie@鬱病 ◆Debha1lQgc :2010/08/02(月) 09:27:44 0
>>478

なんであれだけでまずそうとか判断するの?俺は他者論なんか扱わないよ。
レヴィナスにおいて見出せる存在論を扱う。イポターズによって、「私」の
意識が現れるなんて書いてあった?
イポターズによって実存者が現れるんでしょ。
俺はレヴィナス全体を扱うのではなく、レヴィナスのイポターズの分析だけを
主題にしたから、とりあえず他者とかどうでもいい。
匿名のイリヤというのは、ヘーゲルの発想であり、遡ればあらゆる表象から
属性を除いていくと空間の形式が残るとするカントに行き着くよね。
実存者
488考える名無しさん:2010/08/02(月) 18:37:56 0
>>482 :474
>物自体が「そもそも主観の認識の対象にならない」というのと「主観により認識できない」
>というのは違う。

>物自体も、認識できないが考えることのできる主観の対象(客観)だよ。

昨日書いたように、物自体は「そもそも主観の認識の対象にならない」。
なぜなら、カントの哲学において、認識はあくまでも「感性」と「悟性」との協同によって生まれるのだから。

そのことを示す有名な言葉に「内容のない思惟は空虚であり、概念のない直観は盲目である」というのがあります。

「感性がなければわれわれにはどんな対象も与えられないし、悟性がなければ何一つ思考されないだろう。
内容を伴わない思考は空虚であり、概念を伴わない直観は盲目なのである。・・・悟性は何も直観できないし、
感官は何も思考することができない。両者が一体になることでしか、認識は生まれないのである。」(B75)

昨日引用した哲学辞典に、カントが「主観-客観」関係を確立したことが書かれていましたが、カントが確立した
「主観-客観」とは、上のように、「感性」と「悟性」との協同によって生まれる「認識」における「主観-客観」です。

そしてそのような「客観」(つまり「現象」)だけが、「客観性」つまり「普遍妥当性」を持ちます。
(現象に関しては、時間空間という直観形式とカテゴリーという悟性概念とを適用することによって、先天的総合判断が成り立つ。)

それに対して、「現象」を超え出て、「物自体」の中に迷い込んでしまえば、
そこでは直観は成立せず、悟性だけが空回りして勝手な推論をしてしまうので、誤謬推論が生まれます。
それが、上の「内容を伴わない思考は空虚」ということです。


>>486 :kyrie@鬱病
>カント自身はあらゆるアポステリオリな認識は(もちろん客観含め)悟性による、と言っている。

〈悟性による〉じゃなくて、〈「感性」と「悟性」との協同によって生まれる〉。
489474:2010/08/03(火) 00:42:44 0
>>488
>物自体は「そもそも認識の対象とならない」
>「内容を伴わない思考は空虚」
君のカント理解は「カント主義」だね。『論考』の初期ヴィトゲンシュタインの「語りえぬもの
については沈黙せねばならない」というのといっしょで、物自体=語りえぬもの
という理解だと思う。
カントは物自体を道徳レベルで捉えていたので、カントの物自体は、後期ウィトの『哲学探究』での
「異なる言語ゲーム」に当たる。「他者」といってもよい。「他者」や「異なる言語ゲーム」
は主観では捉えることができないから、道徳というか実践理性のレベルで考えるということだと
思う。そうでないと定言命法などのカントの実践の記述を理解できない。
君は、どうして「物自体」の話が「道徳」の話に飛んでしまうのか考えたことがあるの?
490考える名無しさん:2010/08/03(火) 19:11:19 0
>>489
>君のカント理解は「カント主義」だね。『論考』の初期ヴィトゲンシュタインの「語りえぬもの
>については沈黙せねばならない」というのといっしょで、物自体=語りえぬもの
>という理解だと思う。

今はカントによって確立された「主観-客観」関係、つまり「認識」の話なので、
当然そういう話の流れになると思います。

カントが、認識は「感性」と「悟性」との協同によって成立するとしたことは、
哲学史的には、ロックなどの経験論と、デカルトなどの合理論とを統合したということを意味します。
それによって、デカルトやスピノザの「知的直観」を退け、神とか霊魂とかの超越的なものを認識(理論理性)から閉め出すことによって、
カントは客観的(学問的)な「認識」の基礎を固めようとした、ということになると思います。


>君は、どうして「物自体」の話が「道徳」の話に飛んでしまうのか考えたことがあるの?

カントが「現象」と「物自体」とを分けたことは、彼が理論理性と実践理性とを分けたことに対応しています。
理論理性と実践理性とを峻別したということは、単純に言えば、科学(学問)と宗教(道徳)とを峻別したということです。
(実際それによって、科学は宗教的権威から解放され、それがその後の科学の発展に大きく寄与したと思う。)

このことは、『純粋理性批判』のアンチノミー論によく現れています。
カントの4つのアンチノミーでは、定立の側はキリスト教(ライプニッツ)の主張を表しており、
反定立の側は科学(ニュートン)の主張を表しています。
そして、互いに矛盾する命題がともに成り立ってしまうアンチノミーを、カントは、
現象と物自体とを分けることによって解決しようとしたわけですね。

道徳については特に第3アンチノミーの「自由」が問題になります。
実践理性において、道徳律に従う意志は自律的な意志でなければならないから、道徳の基礎には「自由」がなければならない。
そこから、理論理性に対する「実践理性の優位」というカントの主張がでてきます。
491考える名無しさん:2010/08/03(火) 19:14:26 0
カントを離れて考えれば、「現象」と「物自体」、「理論理性」と「実践理性」とを分けることによるアンチノミーの解決が
真に解決になっているかどうかは疑問であるし、そもそも、「現象」と「物自体」、「理論理性」と「実践理性」とを
はっきりと「分ける」ことができるのかどうかも、甚だ疑問です。

>>442に書いたように、カント以降の哲学では、そのように「分ける」こと自体に問題があると考えられるようになってきたと思います。
つまり「分ける」というのは、そこに共通の根があるから分けられるのであるから、その共通の根としての
「事柄そのもの」に、もっと密着して考えようとする思想の流れが哲学の中心になったと思います。
事柄そのものを二つに分けて、分けたものの間の区別にこだわるような思考を「抽象的悟性」の立場と呼んだヘーゲルは、
そのような流れをつくった一人でしょう。
492474:2010/08/03(火) 20:22:22 0
>>491
>理論理性と実践理性とを峻別したことは、単純にいえば科学(学問)と宗教(道徳)を峻別したことです。
>>481
>物自体は認識主観の対象ではなく、現象の対象であるという関係
宗教や道徳が「物自体」として理論理性で捉えることができず、実践理性で捉えなければならない
ことは、君も認めているね。
では、この理論理性(主観認識)で捉えれず、実践理性で捉える「物自体」が「現象の対象」であるとは
一体どういうこと?そこが一番、何のことかわからない。
「物自体」は理論理性(主観)で認識できず、主体により実践理性で捉えるものだよ。
493474:2010/08/03(火) 21:06:21 0
>>481
>物自体は認識主観の対象ではなく、現象の対象であるという関係。
もっとくだけた言い方をすると、理屈(理論)じゃなく、やってみないと(実践してみないと)
わからない世界(物自体)が、現象(主観が構成した客観世界)の対象とは、どういう意味?
494474:2010/08/03(火) 21:25:32 0
>>490
>当然そういう話の流れになると思います。
だから、「物自体」は「語りえぬもの」ではない。やってみないと(実践してみないと)
わからないものだよ。
495考える名無しさん:2010/08/04(水) 18:40:32 0
>>492
>では、この理論理性(主観認識)で捉えれず、実践理性で捉える「物自体」が「現象の対象」であるとは
>一体どういうこと?そこが一番、何のことかわからない。

それについては、>>481でカント自身の文章を引用しました。
原文は見ていませんが、「対象」と訳されているのは‘Gegenstand’でしょう。
‘Gegenstand’は文字通りには「対立して立つ」という意味で、つまり二項対立関係にあるということです。
「主観」と「客観(現象)」が二項対立関係にあり、そして、「現象」と「物自体」が二項対立関係にある。
だから、「主観」と「物自体」は、直接的な二項対立関係にはないことになります。
図示すれば

          「物自体」
            ↑
            ↓
「認識主観」 ←→ 「現象」
 【人間】     【世界】

なお、このように【世界】を二重化する考え方は、後にラスクによって「二世界説」と名づけられ、
現代思想(特にニーチェ)によって激しく批判されました。

また、人間と世界とが、このように‘Gegenstand’として「対立して立つ」在り方を特に批判したのがハイデガーです。
ハイデガーによれば人間は、「主観」として「客観」の『外』に立つのではなく、 「世界-内-存在」として『世界-内』に住みます。


>宗教や道徳が「物自体」として理論理性で捉えることができず、実践理性で捉えなければならない
>ことは、君も認めているね。

認めていません。
「認識」できないのに、「捉える」ことはできる、と言うのは、どうしても無理があります。
その無理は、>>491に書いたように、はっきり「分ける」ことができないものを分けてしまったことから生じた無理だと思います。
496474:2010/08/04(水) 19:33:00 0
>>495
>「認識」できないのに「捉える」ことはできる、と言うのはどうしても無理があります。
「理屈じゃわかんないけど、やってみたらわかった」って話は、日常生活にたくさんある
と思うけどね。僕は、カントはそんなに難しいことをいっていないと思う。
これ以上、議論しても立場の違い(ウィトVSハイデガー)でしかないような気がするので、
これで書き込みをやめるね。



497kyrie@鬱病 ◆Debha1lQgc :2010/08/21(土) 23:13:30 0
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498kyrie@鬱病 ◆Debha1lQgc