【醜い日本の】中島義道22【禿げる!】

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521考える名無しさん
>>515
中学生だろうが、大人だろうが、人はそういう虚栄心から逃れることはできないんじゃないかな。

「哲学してる(または哲学っぽいことをしてる)自分は、普通の人たちとは違う」という感情は、
正直なところ、全く無いかと言えば、そうは言えないと思うんだ。
だけど、それを「俺は全くそんなことは思っていない!」と完全に否定するよりは、
多少なりとも自覚していることの方が、いくらか「まし」ではあるようには思う。

「働くことがイヤな人のための本」では、そうやって自分を特別視して、他者を見下す態度について、
秀逸な分析がなされていると思う。たとえば、以下のような箇所。

ある人々にとっては、人生の在る時期に数ヶ月あるいは数年引きこもることは、必要なことかもしれない。
しかし、それに馴れてくると、私自身よく知っているのだが、ずるさが黴のようにびっしり生い繁ってくる。
楽に生きる方法ばかり、自分が傷つかないで生きる方法ばかり、あわよくばうまく生きる方法ばかり考えるようになる。
精神は堕落する。はじめは真剣であった問いも、その鮮度が薄れ、ただの言葉だけとなる。
「だって、死んじまうんだよ」とか「才能の違いはどうしようもないんだ」という言葉を伝家の宝刀のように振り回して、安心することになる。
(中略)
仕事を拒否しつづけて、あげくのはてに「俺は悪人だ、だから救われる」という心情に近い思い込みに逃げる輩は
少なくないのではないか。自分でも気がつかないうちに、はじめ新鮮だった感覚も麻痺して、汗水たらして働いている
世の善人たちを見下し、仕事でリストラにあって自殺する男たちを笑い飛ばし、そしてそういう「小ささ」を抜け出している
自分のほうがえらいと居直ってしまうんだ。
こうした人々のからだからは、善人以上に猛烈な臭気が立ちのぼる。まわりの者は鼻をつまむしかないんだよ。
善人を裁いたその目で自分を裁くことを忘れ、善人以上にものが見えなくなって、彼らは転落していく。
怠惰と欺瞞という、彼らが最も嫌っていたはずの悪徳に向かって、まっさかさまに転落していく。
引きこもりが長引くとおうおうにしてこうなるんだ。だから、やはりどうにかしなければならない、と私は思う。

「働くことがイヤな人のための本」(新潮文庫)p.19-20
522521:2009/08/31(月) 21:57:58 0
虚栄心というか、次の引用でも出てくる、ルサンチマンといった方がより妥当かも知れない。
同書の46-48ページから。

『全国不登校新聞』から取材を受けたことがある。それまで、この新聞を私は知らなかったのだが、
全国に不登校者は10万人以上いると聞いているので、さもありなんと思った。
かつての不登校学生時代、こんな新聞があればまっさきに購入したであろう。
そして、たいへん慰められたような気がする。(中略)
だが、その新聞の内容にはアンビバレンツを感じた。違和感も大きかった。
あたかもなんの疑問も覚えずに学校に通っている生徒たちより不登校者のほうが偉いかのような記事が
紙面を覆っていたからである。不登校者を励ます意図はわかる。しかし、その内容は嘘である。(中略)
小学生以来、学校に愉快に通っている生徒が私は信じられなかった。学校という場そのものが自分に合わないと感じていた。
だが、私にしても長い時間をかけてわかってきたことなんだが、まわりの普通であろうとするゲームを刺すように
批判的に見ているそういう自分のほうがまともだと居直ったとたんに、その苦痛は何と言えばいいかその輝きを失う。
どこにでも見られるかじかんだ自己正当化、自己欺瞞、真実を直視しない卑怯な弱い態度に転じる。
強者に勝てないがゆえに、無理やり座標軸を逆転してしまうずるく巧みなやり方、ニーチェの言葉を使えばルサンチマンである。
そうではなく、もっと自然に考えればいいのだ。学校が楽しくてたまらない少年少女もいるであろう。
それはそれでいいのである。彼らがまちがっているわけでもなく、自覚が足りないわけでもなく、欺瞞的であるわけでもない。
彼らの中にも誠実でこころ優しい人もいるし、不登校児の中にも、不誠実で冷酷で傲慢な者もいる。
同じように、引きこもりの者がみんなどうしようもない落後者であるわけではない。
といって、彼らがみんな純粋で正しいわけでもない。私がとくに提言したいことは、怠惰な紋切り型の定式的な思考を警戒せよということだ。
「納得したい」という情緒い引きずられるなということだ。ものごとはひたすら細部を見なければならない。