>>515 中学生だろうが、大人だろうが、人はそういう虚栄心から逃れることはできないんじゃないかな。
「哲学してる(または哲学っぽいことをしてる)自分は、普通の人たちとは違う」という感情は、
正直なところ、全く無いかと言えば、そうは言えないと思うんだ。
だけど、それを「俺は全くそんなことは思っていない!」と完全に否定するよりは、
多少なりとも自覚していることの方が、いくらか「まし」ではあるようには思う。
「働くことがイヤな人のための本」では、そうやって自分を特別視して、他者を見下す態度について、
秀逸な分析がなされていると思う。たとえば、以下のような箇所。
ある人々にとっては、人生の在る時期に数ヶ月あるいは数年引きこもることは、必要なことかもしれない。
しかし、それに馴れてくると、私自身よく知っているのだが、ずるさが黴のようにびっしり生い繁ってくる。
楽に生きる方法ばかり、自分が傷つかないで生きる方法ばかり、あわよくばうまく生きる方法ばかり考えるようになる。
精神は堕落する。はじめは真剣であった問いも、その鮮度が薄れ、ただの言葉だけとなる。
「だって、死んじまうんだよ」とか「才能の違いはどうしようもないんだ」という言葉を伝家の宝刀のように振り回して、安心することになる。
(中略)
仕事を拒否しつづけて、あげくのはてに「俺は悪人だ、だから救われる」という心情に近い思い込みに逃げる輩は
少なくないのではないか。自分でも気がつかないうちに、はじめ新鮮だった感覚も麻痺して、汗水たらして働いている
世の善人たちを見下し、仕事でリストラにあって自殺する男たちを笑い飛ばし、そしてそういう「小ささ」を抜け出している
自分のほうがえらいと居直ってしまうんだ。
こうした人々のからだからは、善人以上に猛烈な臭気が立ちのぼる。まわりの者は鼻をつまむしかないんだよ。
善人を裁いたその目で自分を裁くことを忘れ、善人以上にものが見えなくなって、彼らは転落していく。
怠惰と欺瞞という、彼らが最も嫌っていたはずの悪徳に向かって、まっさかさまに転落していく。
引きこもりが長引くとおうおうにしてこうなるんだ。だから、やはりどうにかしなければならない、と私は思う。
「働くことがイヤな人のための本」(新潮文庫)p.19-20