1 :
kyrie ◆.RYdSpBfEI :
無意識を哲学する。
どうやんの?
思考の空の状態とは、無意識的に、単に思考がなされていない、
ということではない。ある思考の後、それに対する思考が在るとすれば、
それが反復にすぎなくとも、最初の思考への思考として、考えられるあらゆる思考が、
新たに考えられるべき思考の対象が現れない限り、存在論的には存在する、
といってよい。ただし、その思考への思考は、順番が決まっている限りで、
実際には可能性と呼ばれない。因果律中における確率の概念のごときものである。
当の思考を、そのまま斉合性として、当の思考が、それら後発の思考の表現するもの、
としていくらでも当の思考を解釈するが、その際解釈が拡大していって、
当の思考の解釈でありながら、それ自身別のさまざまな思考を示唆する斉合性である、
という場合が在る。そして当の最初の思考が、どんな斉合性にも還元できない時、
その思考は原初的であるので、そこから帰結すべき思考も順番に決まってくる。
なぜなら、あらゆる思考文において、その表現しているところが文とは別に存在する場合、
文の生成の視点からみると思考の順序性は任意に思えるが、文の表現している事柄は、
文が十分に論理的であるならば、原初的思考の帰結は多岐にわたっても、
帰結文の最短の思考された長さが、つまり原初的思考と帰結文との距離が帰結文に順序性を与えるのである。
原初的思考は導かれたものであるが、原初的思考がそこから帰結する当の思考は、
視像から辿って環境性をエポケーしていく。しかしエポケーの操作は、十分に思考的である以上、
視像に対する思考を排すれども、視像そのものはその限りでない。
つまり、思考の存在でなく、存在の思考を判断停止したので、存在自体は転覆されない。
kyrie氏にとって「存在」とは何かということに
興味があるね。
いつもキッパリと断定的物言いをなさいますが、
自信の中で何かひっかかってませんか?
>>4 存在は、そのものを言ったのではないよ。存在論的である現象に限って、
俺は存在という語を使う。なぜなら、反省は存在論的だ、というとき、
彼は存在を扱うが、確かなことはそれだけだから。
6 :
考える名無しさん:2009/07/27(月) 10:57:32 0
夢という現象について、それを精神分析学の立場と違う論を果敢に挑む俺カコイイ
夢における像の脈絡のなさにも関わらず、それを貫いている何かが存するのか。
像は、思考の表現した像である。つまり、反省的に捉えられた純粋像ではない。
そしてこの、あらゆる像が思考に依存しているから、思考そのものは反省できない。
なぜなら、像は常に在らねばならないし、しかもその像は、一度解釈された像であるので、
像の連続は、思考の表現の連続と同義であり、こうして、思考が逆に、その思考である像を
連続させるからである。つまり、像は思考され表現されたものだが、思考は、
像を解釈したもので、それに限る。
概念を解釈する思考は、夢の中で抽象化の作業がなされていないので、
存在しない。なぜなら、概念はイメージ化されるが、そのイメージ構図とある視像とが対応し、
当の概念を表現するのだ。その根拠はなにか。まず、像は、思考された表現であるに留まらず、
比喩としても機能する。
つまり、前者の場合、ある体系の存在周りがまるごと出現する。
なぜなら、その像は、そこに在るべきだ、という究極の理由を持たないからだ。
後者の場合、比喩とは、視像に対する思考の比喩ないし引用を言ったもので、
その像が、その像の存在周りを思考させる。この思考された表現としての像と、
思考を誘発するものとしての像とが、夢の像を形作るが、この二者の関係を見ていかなければならない。
>夢という現象について、それを精神分析学の立場と違う論を果敢に挑む俺カコイイ
日本語が不自由でした。
>>6 つまり、思考が自分自身の思考を考えるときを、反省状態と定義してる。
それの条件についてうだうだ書いている。
10 :
考える名無しさん:2009/07/27(月) 11:15:27 0
どれだけ高度なことやってるのかわかんないけど、フロイト・ニーチェ・デカルト・小林秀雄
とかの文章よりも難解だな
理解しようとする気が失せる・・・
その挙げられた哲学者・評論家・精神分析学者のどれをも、
私は否定します。
じゅんちってばかりでもいかんよ。
13 :
考える名無しさん:2009/07/27(月) 11:33:26 0
>>9 >思考が自分自身の思考を考えるとき
これは思考した後に、思考した内容について思考するということ?
それとも自分自身が思考している最中にそれについて思考するということ?
にゃんにゃん
∧ ∧
(・ω・)
>>13 それは、どちらもあてはまる。
前者は、普通の意味での反省だね。
後者は、その思考の実在性を証明できない。
証明できるとしたら、俺の考え出した「書き」理論によるしかない。
思考の最中に当の思考を思考することと、
思考の最中、当の思考である思考のこととは、ぜんぜん違う。
前者は、不可能だ、とウィトは言った。
後者は、トートロジーだ。
>>16 >思考の最中に当の思考を思考することと、
中略
>前者は、不可能だ、とウィトは言った。
これは確かに不可能だけど、
思考の最中に当の思考を観察することは出来るとゴータマさんは言った。
そして思考を観察した時点で思考が停止していることもわかる。
>>17 それは宗教的な体験ですらあるね。
思考を観察するかー。思考している自分を観察するのは文以外のなんらかの
観察記録媒体でなければならないね。
文は同時には読めないから。思考と言ったのは、何も心的発話のことを
指したわけじゃない。目の前の事件を処理するのに、発話を伴う思考はいらない。
これが、無意識の意識に対する関係の反対にある、これまた無意識である。
19 :
考える名無しさん:2009/07/30(木) 04:48:22 O
kyrieさ、
・意識とは何であるか
・無意識とは何であるか
・思考とは何であるか
くらいは議論の前提として出しておこうよ。
フロイト的な、又はニーチェ的なアプローチによっているとか、近代的な哲学を前提にしているとか、精神分析学を知らないと理解できないとか。
そういった、君が議論の前提としている知識を明らかにしてくれ。
20 :
考える名無しさん:2009/07/30(木) 07:54:37 0
>>19 べつにチラ裏だから定義はいらね^んじゃねー
。
まあ、確かにツッコミ慣れたものからしたら、定義が不明瞭な言葉を連ねて
る長文をよんでツッコモウって気にはならないのは確か。
はじめての頃はPIKARRRやkirieや機械や原則とかの駄文に目を通してもいたが。
無意識はランガージュによる原抑圧の産物
それ以上でもそれ以下でもない
22 :
考える名無しさん:2009/07/30(木) 17:07:23 O
意識というのはデカルトの言うような意味で理解していいのだろうか。
つまり、思考することが本質であるという意味での自我、所謂近代的自我を意識として扱って構わないのか。
または、フロイト的な自我、つまり無意識を超自我で抑圧した結果の自我を意識として扱うのか。
それ以外の自我を念頭に置いているのか。
それとも意識と自我は関係ないと言うのか。
また、無意識と意識とはいかなる関係にあるのか。
例えば意識の補集合が無意識なのか、無意識の部分集合が意識なのか、そもそも無意識や意識とはどの領域についての話なのか。
23 :
考える名無しさん:2009/07/30(木) 17:24:45 O
ああつまり無意識って何か言ってみなよってことなんだが。
ライプニッツあたりは微小表象とかそのへんで無意識の概念みたいなものを見てとることはできる気がする
デカルトは基本的に理性の話から神や信仰に向かうから、無意識とどう関わるかはよく分からん。
彼は科学者だしね。まあそんなこと言ったらライプニッツは数学者だが。
あとは、自我となると決定論が云々とかいう話が出るか。これは自由意思に関連することだけど。
そもそも意志とか意識とか自我とか、似ているけれど明らかに違うものたちを混同しないように注意深く議論を進めなければいけないね。
そこから時代を進めてニーチェ、フロイト、ユング、その他諸々まで話をするとなるとえらい労力だね。頑張って。
ユングなんかはえらいオカルトだから読んでるぶんには楽しいんだが真面目に話すとアレだし。
第二次性徴の脳内イメージを包括できないんですよ
25 :
是路:2009/07/31(金) 00:45:43 i
考えるについて考えるのは何故だろうと考えるのは何故だろうと考えると何故だろうを考える
何故だろうを考えると考えるについて考えているからだと考えられる
考えるについて考えているのは何故だろう
考えるについて考えたのは何故だろうと考える
考えるってなんだろうと考える
考えるについて考えたのは何故だろうと考える
考えるについて考えているのは何故だろう
何故だろうを考えると考えるについて考えているからだと考えられる
考えるについて考えるのは何故だろうと考えるのは何故だろうと考えると何故だろうを考える
26 :
考える名無しさん:2009/07/31(金) 20:04:02 0
夢という現象について、それを精神分析学の立場と違う論を果敢に挑む俺カコイイ
19世紀の人間か( ̄ー ̄?)
28 :
kyrie ◆.RYdSpBfEI :2009/08/04(火) 17:31:14 0
>>19 意識でないのが無意識だが、現代哲学でさえ意識の十全な射程を捉えてるとは
言いがたい。俺にとっての意識は、
「心的発話ならびに心的発話に対象どられ発話され得る思考」かな。
つまり、思考は必ずしも心的発話とは限らない。環境的な思考、社会学的な思考が
ある。なぜ道をまっすぐ進むのか…合理的であるから、と言う説明もあるが、
そこにへーゲル的、ナンシー的「掟」を見る。掟は精神的なものだが、その射程は
必ずしも無意識に還元されるものでなく、無意識から抽象可能ななにものかだ。
で、無意識の定義だけど、これは難しい。思考であって、心的発話され得ない思考、なのか?
29 :
kyrie ◆.RYdSpBfEI :2009/08/04(火) 17:34:07 0
>>22 ちょっと違うね。俺は心的発話され得る思考と、そうでない環境的思考を分ける。
たとえば木を見て、あれは木だ、とはいちいち言わないし、また正面にある障害物を
見て、心的発話して「目の前には邪魔する対象がある。ゆえに私は方向を転換する」
とは言わない。心的発話でない、ということだ。
これを意識のうちに含めるかどうかで異論がありそうだ。
30 :
kyrie ◆.RYdSpBfEI :2009/08/04(火) 17:36:26 0
>>23 フロイトやユングは、基本的に「無意識的行動には理由があるはず」からスタートするからね。
人間の心を、過剰なものとはみなしていない。
俺は人間の心理を、それが世界に対応する仕方以上の働きをしている、と考える。
ドゥルーズ・ガタリの概念形成論も視野に入れる。
意識化されない心的情報処理=無意識というなら、精神分析の無意識の定義と全く変わらないだろう。
kyrieの考えも特に目新しいものじゃないと思うが。
32 :
考える名無しさん:2009/08/05(水) 01:08:49 O
>>28 環境的な思考とか社会学的な思考っていうのはどういうことですか?
34 :
考える名無しさん:2009/08/05(水) 20:35:58 O
心的発話ってなに?
おならとかだろ。
ぶっブリっぷっぷっぷすぅ〜ぅ〜ブリリィっぷぅ〜ぅっ(心的発話)
もう心が臭いの。正直この臭いがたまりまへん。
38 :
考える名無しさん:2009/08/11(火) 03:58:02 O
ニーチェの思想に見る無意識の概念
「すべては解釈である」「権力への意志は解釈する」などの言葉に見られるように、
ニーチェを読むにあたって「解釈」というタームは極めて重要である。
「事実などない。すべては解釈である」という言葉を読むと、
解釈という行為を行う主体が想定されるだろう。
しかし解釈するのは「私」ではない。
解釈の背後に解釈者を想定するのが自然な発想かもしれないが、
必ずしも行為の裏に行為者が存在するわけではない。
また、対象についての解釈を逆に辿って解釈者の意識を規定するのも現実的ではない。
ここで覚えていてもらいたいのは、ニーチェはショーペンハウアーの影響を受けているということである。
ショーペンハウアーはカント研究者であり、世界に対する認識は多くをカント的認識論に負っている。
簡潔に表すならば、人は物自体を認識することが不可能であるという前提に基づいている。
そしてニーチェも同様である。
観念論的認識論の下地を、ニーチェは引き継いでいると言えるかもしれない。
39 :
考える名無しさん:2009/08/11(火) 04:48:18 O
「すべては解釈である」という言明はそういった事情のもとでなされている。
その上で「権力への意志は解釈する」という言明がなされるのだ。
「解釈」するのは「私」ではなく「権力への意志」である。
これは、「私(=自意識)」と「権力への意志」とは同一ではないと読むのが普通だろう。
権力への意志は肉体的であり、下半身的なものであると説明される。
つまりある意味で心身二元論的な区別が導入されるのだが、本質的なものではない。
「権力への意志」とは、精神的なだけのものではなく、生物的な外界認識の機構であるのだ。
40 :
考える名無しさん:2009/08/11(火) 05:26:36 O
ここでウィトゲンシュタイン的な見取り図を導入したい。
それは具体的には、外的世界Oの関数(=情報処理体)Hによる写像が内的世界Iである、という見取り図である。
外的世界Oは万人に共通であるが、関数Hならびに内的世界Iは個人間でかなりの差異がある。
哲学的問題はそれらの差異に起因するというのがウィトゲンシュタインの主張だろう。
ここで関数Hとは何かと言えば内的世界Iを写像するもの、つまり人間の情報処理機構であり、ニーチェ的に言えば解釈するもの、つまり権力への意志である。
また、内的世界Iとは、ニーチェ的に言うならば解釈である。
外的世界Oは物自体の世界に相当する。
よって、ニーチェ的にはウィトゲンシュタインの見取り図は「物自体の世界を権力への意志が解釈する」と読むことができる。
そもそもどちらもショーペンハウアーの影響下にあるのだから、ある程度似通っているのは当然なのだが。
ところで関数Hとは明らかに自我に限定されるものではない。自覚されない情報処理を含んでいる。
これはライプニッツの言う微小表象に相当するかもしれない。
そういった物まで含めて解釈するのが権力への意志であり、
自我は内的世界I(=解釈)の上に成り立つものと言えるだろう。
意識さえも解釈を前提とするものである
つまりニーチェの思想において見られる無意識の概念とは
もうめんどくさい。
あれよ。ニーチェとフロイトって似てるねって話。
41 :
考える名無しさん:2009/08/25(火) 13:07:04 O
kyrieはどうした?
>>40 乙。ヴィトゲンシュタインの哲学の重大な難点は、外的世界を一義に
決めてしまっていること、並びに内的世界をも一義に決めてしまっていること。
写像理論は、センスデータを解釈するまでが一区切りだが、内的なデータ、
解釈してしまったものがその後彼に及ぼす影響を考えない。、
この影響が、無意識だと思われる。完全に外部に開いた記述可能な人間をウィトは
想定しており、彼は外面の内面を、また内面の内面を考えない。
つまり、外面がいくら重複しているのか、を問わないまま、世界なるものが
一義的に在る、という反駁可能な仮定がある一方、また、内面が外面に接するものとしか
定義されていない。内面の内面が、無意識だと思われる。
43 :
ケルアック:2009/09/03(木) 14:12:03 0
44 :
ザ・スミス:2009/09/06(日) 03:09:46 0
カフカの無意識に挑むぜ
45 :
ザ・スミス:2009/09/06(日) 03:12:12 0
そのうちに
一昨日、埴谷の「死霊」に出て来る印象的なシーンの一つを想起している
時のこ とであった。それは、夜半主人公の三輪与志が知人の女、
それは確か自殺した 義姉の妹だったような記憶があるけど、その人の
元にある赤子が酷くぐずって、 彼女はそれをあやすようにするのだけれども、
与志はそれを制止して、 そのまま叫喚させておいて、次のようなことを
ポツリと言ったのであった。
「その泣きあげる声で、存在することの重みを知れ」みたいな台詞です。
そして、私がその小説のシーンを思い出しながら、存在することの重み、
すなわち意味や責任、使命というのは、至って判然とはしないながらも、
決して無いのではなく、それは一種の捉え難き霊のようなものとして
あるのではないか?と思っていたところ、私の部屋の外で突然、
赤ちゃんの泣き声が大きく聞こえてきて、私はそこにこの観点が正しい
のだというような了解項を現実世界の中ですぐに与えられたような気が
したのです。なぜなら、そこは赤ちゃんの声が頻繁に聞かれるような通り
では決して無かったから……。
まあ、だからこれは私の解釈ですよね。無意識と死(への欲動、タナトス)
というのはよく似ていると思います。ニーチェやヘルダーリンの発狂、
あるいは、三島の小児的全能観に溢れた自死などもそうで、やっぱり
フロイト的な無意識の措定というのは、そう簡単に捨象できるもの
ではない。欲動論としてのタナトスというのが、人間の基底を成すものの
一つと考えれば、世の中の多くの人達の破滅的な行為というのも容易に
理解され得るし、それは、すなわち緊張ゼロ状態、無機物への回帰−再帰
で十分なのでしょう。
メランコリアは自分へと向かう攻撃欲動であり、ここで示唆されているの
周囲や社会への告発としての要素であるという解釈も、割と受け入れやすい
ものであり、確かにリビドー還元論とか、一義的な心的現実の解釈という
のは恣意性を免れないけど、それでも安易に排除するようなものでもない
ように思われます。
そして、ラカンは「汝は汝の憎む者なり」という一種の捻れを伴った言説で
人間の現実というのを表象したのであるけど、まあ、本当にややこしいです
よね、人間の心的世界及び現実って……。
あ、そうだ遠藤周作の「闇のよぶ声」って、シンプルだけど結構、
面白いミステリーだった。傑作なんで、無意識に興味のある方は
おすすめかもね。
48 :
ザ・スミス:2009/09/09(水) 20:18:27 0
>>47 『闇のよぶ声』読んでみたいな 遠藤周作は興味あるし
感情や記憶すら、その拡張子を同期しないと知覚されないわけだよ。
意識の裏側には外在世界に劣らぬ混沌が認められよう。
50 :
考える名無しさん:2010/01/17(日) 00:41:38 0
リビドーって何であるの?
ある思考の解釈とは、カテゴライズされた把持Retentionによって、
つまり「思考の解釈」と特徴づけられたRetentionによって
(その際、観念的な諸カテゴリーの併存性がそれぞれ勝手にRetentionされるのだが)、
自ら述べようとすること(思考の定立)を予め解釈する。
解釈が、このRetention状態にあくまで保たれている限りでは、
そのどれを現前化的vergegenwartigtにするか。
今がRetentionへ向かって、今の経験を、諸Retentionへと分析可能な形にしながら、
それが定立的に分析されるであろうというRetentionを、
その当のRetensionへの観念的諸道具世界へと引き渡しつつ、
それらを介しつつ、自ら現在はそれをRetention的に解釈することをやめる。
ただRetentionへと形式的に向かう現在を、十分に具体性づけるのは、
今が具体的なのでなく、徐々に具体化へと降りてゆくRetentionへと現在へと直前している形式内容が
ゲシュタルト関係にあるときの、そのゲシュタルトの時間的延長性に依る。