◆決定論:脳は物質だから意識は必然に過ぎない158◆

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>>226 >くるぶしさん
んーそうですね。。。後半について先にいいますと、
主体なるものを「幻想」とするには「思惟する私」を物理現象として合理的に説明する必要があります。
しかし「観測」とか「計算」とか「認識」とか「理解」とかを「純物理的内容」に分解→還元できないのです(実に残念です)。
ですから、主体、つまり「私」がもたらす「(理解)能力」は「前提としてとにかくある」として、
その能力により切り取られた外部(と呼ばれる)世界についてまず語ろう、とするわけです。
その上で、この「私の能力」すらも、「私以外を構成する世界内存在」との相対的な比較が可能な「何ものか」であろうから、
この「観測主体=私」も何らかの物理現象の必然的帰結であろう、と結論することに対して、
それを「十分に信じてもいいであろう」とするのか、あるいは「いやだめだ」とするのか、なる問題も また生じるわけでしょう。
簡単にいいますと、「主体」なしには因果も予測も計算もくそもない、ということです。
もちろん混沌では「あり得ない」わけですが、混沌ではない因果(なるもの)を切り取る能力は、因果的唯物系から超越しており、
「まるで自発的である」とする以外に、因果的唯物世界には置き場所がないのです。
それゆえ、くるぶしさんの言うような、いかなる予見をも逆転する自由意志の存在を許可する真空点が生じるように思います。

そこで、前半に戻って、
つまり、先ず、宇宙全体を考えるのではなく、少数の素粒子レベルでのシンプルな予想が完全に可能ならば、
宇宙全体についても(その予想は不可能でも)その変化は決定的と言ってもよいのではないか?
・・・と云うことです。